楽山の児戯性
 
 『竒談の時代』百目鬼恭三郎著 2020年05月16日
 楽山日記(LD)への批判記事を再録+
 
 
楽山は、今までの心霊や超常の話を、子供の空想話を出して、ごまかそうとしています。見苦しい言い訳ですが、楽山は、それで済むと思ってしまう人なのでしょう。恥とか罪とかを知る正常な心が無いからでしょうか。
 
本書は日本の古い書物にある不思議な話を分類、整理、紹介したものである。頁を繰ってみると、死後の世界や生まれ変わりについての項目があったので、とりあえずその部分だけ読んでみたのではあるが、どうも結論としては、著者の書きぶりからゆくと、それらはみな事実であるというよりも、生きている人々の作り話ということになりそうだ。こういってしまうと何やら身もふたもない話だが、どうもそれが現実であるらしい。
 
「古い書物にある不思議な話」について「作り話ということになりそうだ」と書いていますが、前の記事で「生まれ変わりを信じることができれば便利なんだよなあと思う。」などと言ったのは、楽山です。また、霊が分かるっぽい立場から、たくさんの記事を書いてきたのも楽山です。
 
心理学の「心の理論」という話を、霊が分かるっぽい話にしたのも楽山です。心理学は、心理について語るのであって、霊について語りません。
 
奇跡について、行き詰まりの循環論法を書いておきながら、分かったかのような筆致を捏造して、成り立たないデタラメを、もっともらしく見せているのも楽山です。
 
楽山と楽山の話こそ、「身もふたもない」のです。
 
(ネットより)
身(み)も蓋(ふた)もな・い の解説
言葉が露骨すぎて、潤いも含みもない。にべもない。「そう言っては―・い」
 
低次元の超常理解で、キリスト教とキリスト信仰と、一般に、宗教を、否定したり、深く信じないほうがよい、などという、わけのわからない信じ方に、おとしめようとしたのも楽山です。
 
自分が間違っていたことを認めて訂正するのではなく、違うことを書くのは、その場その場で、自分の都合の良いように、いい加減に書いてきた、ということを認めたことになります。
 
まず死後の世界の話については、その形成過程をみると、人々の疑問に答える形で拡充されて行っており、はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっているようだし、生まれ変わりについては眼前の不条理を我慢し、やりすごすために、前世の因業という話をこしらえ、それが広まったということのようだ。
 
「はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっている」のは、前からの、楽山の筆致、というより、日常的な、詭弁の営みのようなものです。もちろん、ペテンの営みです。
 
ですから、今ここで、戒める側にいるかのように、逆のことを言っていることは、楽山が、まとまった思想を持たず、いい加減な人物で、平気で嘘を吐き、その誤りを認めて謝罪~訂正することなく、別のことや、逆のことを、また平気で言うような人であることを表しているのです。
 
しかも、自らの不全や欠陥を、他者のせいにして、自分はそれを指摘しているかのような書き方をすること自体が、楽山という人が、言論というものに対して、非を認めることのできない卑怯者であり、自己中であり、無反省であり、信頼できない人であることを表しています。
 
こうしてみると不思議な話は信じ込むのでなく、自分の生活をよくするための方便として聞くか、エンターテイメントとして割り切るのが無難のようだ。
 
言ってみれば、楽山は、ずっと、人を惑わし、だますことを、エンターテインメント(娯楽)としているのです。そして、楽山には、身勝手で、邪悪な、ふざけたライアーゲームの娯楽しか生き甲斐がないのでしょう。関わる者にとっては、大迷惑~犯罪に結びつくものです。
 
今まで、学者気取りで、批評家気取りで、楽山の書いてきたことを、今さら、エンターテインメントだと言えば、それはそのまま、楽山は、遊びで、キリスト教とキリスト信仰をけなし、遊びで宗教や心霊について、ねちねち書いてきたということです。思想の芯となるものが何もないのです。
 
ちなみに余談ながら、自分の周囲にも前世を記憶する子供たちのようなエピソードはある。あくまでも知人の話ではあるが、彼は幼かった頃、生まれる前のことを知っていると言っていて、両親からそんなことがあるわけがないと笑われると、決まってこう答えたそうだ。
「ぼく、お母さんのお腹の中にいるとき、おへそから外を見てたんだもん。だから、みんな知ってるんだもん」
彼は今はもう幼かった頃の自分がそんな荒唐無稽なことを言っていたことはすっかり忘れてしまっているのだが、両親はいまだにこれを笑いの種にするので閉口しているとのことである。
 
楽山の幼児期のことでしょうか。のちに親から聞いた話みたいなことでしょうか。それで、楽山は、ずっと、自分は特別だ、霊の世界が分かるんだ、と思うようになったのでしょうか。霊が分かるっぽい自覚を語っていた楽山です。
 
そうでないなら、楽山が、今、このように書くのは、今まで書いてきたことなんか、オチャラケですよ、と言っているようなものであり、そのことは、楽山が、いかに、お気楽に、嘘を吐く人であるかを表しています。
 
ふつう、そういう人は、叱られて、書くことを禁止されるか、自ら控えるものですが、楽山には、その気がなく、何とか、冗談として乗り切れると考えているわけだから、あきれます。
 
惑わされないためには、読者が、近づかないようにするしかない、という結論になるでしょう。楽山は、嘘を吐いても、罪悪感も羞恥心も感じない人だということです。
 
想像するに、こういうことは子供なりのユーモアで言っていたことであろうし、それならば生まれ変わりがどうこうと真面目に受け取る必要もなく、このご両親のように朗らかに笑って楽しむくらいが丁度いいのだろうと思う。
 
楽山は、ユーモアだから、笑って楽しむのがいいと言っています。子供の話ならば、それでいいのでしょう。楽山は、子供でしょうか。いいえ、楽山は、大人として、実に長い間、宗教や心霊や超常のことを書いてきました。
 
楽山は、真剣味もなく、霊や超常のことを話して、否定も反省も訂正もしていないということです。オカルト趣味、ホラー好み、そして、宗教を、魔法の世界としてしか語ってこなかった楽山の小学校レベルの興味に付き合うことだけは、どうか、しないでください。
 
すでに、うんざりするくらい、読書家気取りで、本の、都合の良い文言を引用して、大きなテーマについて、空想~妄想話を書いてきて、今さら、子供の話を結び付ける詭弁で逃げようとすることによって、ますます、楽山の悪意が明らかになっています。
 
楽山は、底知れない悪意の人、そして、病識のない異常人格です。
 
 
独り遊び

独り遊び
 
 
(2020年05月17日)
(2021年05月19日、再録+)
 
 
 
  しみる夜
 
ぬるい夜
ぬるい湯に
爛れるばかりの
阿片の夢に
流れ出しては崩れていく
この顔を直接
一生見ることはない至福よ
何のために
どのようにあり
あるいはあったのか
過去は現存しない
死んだ果実の名残を求めて
臆病な浸出が
皮肉な川を渡り
また一つ色褪せて
薄くなった肌をなぞっては
しみる
痛みから
否応もなく
犠牲になって
消えてゆく
それが現存する
唯一の夜
 
(90年代か。70年代から、
 学生でも、職を得ても、なお、
 堂々巡りの思考に浸かっていました。
 詩という形式は、感情を記録するのに有用です。)
 
 
 
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