ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: カルト批判(20190626~)

 
  無知と無恥 (補足記事)
 
 
シャロームの言は、信仰に根差していないと判断しています。シャロームという人は、本当に、詭弁と言い逃れと騙しと罵りの小細工だけを覚えてきた人なんだと実感しています。
 
そういう者を批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また、ボロ布のような作りごとを並べて書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。
 
シャロームを、キリスト教についてただ頑固なだけの人だと思ってはいけません。彼は、そんな微笑ましい人物ではありません。権力を持たないのが、せめてもの幸い、と言ってよい人です。
 
底知れない不感不応で、訂正不能の妄想をもって、人を、騙し貶める者です。どうか、生きながらにして滅びる落とし穴からの獣道を、誰も、シャロームとともに歩むことのありませぬように、祈っています。
 
まず「嘘と世辞と侮辱(4)」において
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12542381051.html
 
(シャローム)

イエスさまは言われました。
 「私は平安をあなたがたに残していく。
わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。」
 (ヨハネによる福音書14章27節)
st5402さん あなたはイエスさまがどのような状況で
弟子たちに語られたのかをご存知ですか。
イエスさまが私が与えると言われた平安はありますか。

 
(記事に私が引用)
14:29
今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
  (ヨハネ書14:29、新約聖書)
 
私は、次のように書きました。
 
「聖句の中の、事が起った時、というのが、キリストの死と復活なのか、終末なのか、私は知りません。しかし、それが、シャロームのような偽善者を喜ばせるものでないことだけは知っています。」
 
そして
「嘘と世辞と侮辱(5)」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12543556446.html
に表れたシャロームの侮辱を、もう一度、書いておきます。
 
(シャローム)

答えは「聖句の中の、事が起った時、というのが、キリストの死と復活なのか、終末なのか、私は知りません。」でしたね。
stさんの答え・・・
それは私は福音がわかりません.、知りませんという告白の言葉です。

 
ここぞとばかり、シャロームは、私の無知を、あざけるわけですが
 
信仰において、無知は罪ではありません。学習すればよいことです。
ここで、無知だと告白したと喜ぶシャロームの言は、実に醜いのです。
 
さらに、知らないことがあるからといって、
福音を知らない、という結論は、どこからも出てきません。
一から十まで間違っているシャロームであります。
 
シャロームが、自ら、いかに、自分の知識をひけらかし、それで、人をおとしめて喜ぶ人間であるかということを示しているのです。
 
ここにおいて、既に、シャロームが、恥知らず、すなわち、いかに無恥であることが表れています。
 
キリスト信仰は、無知を理由に、救われないような信仰ではありません。
 
しかし、キリスト信仰においては、
無恥の者は、敬虔のない者として、自ら救いを拒む者ということにになるのです。
 
シャロームに対して、私は、次のように、答えています。
 
「知らないなら、知らないと言います。私は、聖書に精通している者ではない。
私は、空っぽに満たされているあなたシャロームと違って、人間だから。」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12543556446.html
 
このように、知らないということ、すなわち、無知を、神の前で、隠さずに言うことが、信仰者の節操となります。
 
そうして、知ってるつもりのシャロームの答えはどうでしょう。
 

ヨハネ書14:28-29のイエスさまの言葉も十字架の苦難と死を前にしてのイエスさまの言葉なのです。

 
答えとして、何か、詳細な情報でも知っているのかと思ったら、
 
「どのような状況で弟子たちに語られたのか」と問いながら、
シャロームの答えは、
「十字架の苦難と死を前にしてのイエスさまの言葉」と言っています。
 
そんなこと、キリスト者なら、誰でも知っていることなのです。
 
私「私が上のヨハネ書の聖句について、いつのことか、はっきりとは知らないと正直に言ったら、私が知らないことを罵りながら、あなたの言うところの答えが、十字架を前にして、ということなら、キリストの使命が十字架ですから、公生涯全部が当てはまるでしょう。」
 
ただ、十字架を前にして、というのが、実際に、十字架を眼で見ていたかというと、
キリストが十字架につけられるとき、弟子は、大方、逃げていました。
 
一番弟子のペテロさえも、十字架の主イエスを前にして、鶏が三度鳴いて、ペテロが泣く、という話にあるように、逃げました。そして、自らの裏切りを悔いて、泣きました。
 
したがって、十字架に付いた時には、弟子に語ることは出来ません。十字架を目で見ていたということではなく、もっと前の、十字架の苦難と死を前にして、キリストが、十字架を、既に、考え、知っていた時ということになります。これは、キリストの公生涯の全部なのです。
 
私「それくらいのことなら、当たり前のことです。人をバカにして、言うほどのことでしょうか。あなたシャロームは、おとしめる目的だけで、実に、くだらないことを言っています。あなたが知ったかぶりで言う時って、本当に災いですね。」
 
さらに、キリストを裏切った張本人であるユダさえ、
裏切ったことを悔いて、キリストの復活を知らないまま自殺しました。
なのに、シャロームは、悔いることがありません。
 
さて、シャロームは、十字架を前にして、という、誰でも知っているような、曖昧な答えしか用意していないのに、いつなのか、はっきりとは知らない私を、福音を知らない、という言葉を吐いて、おとしめているのです。シャロームは、人をあざ笑って快感を得る人なのでしょう。
 
つまり、シャロームの偽信仰は想像を絶するものがあるということです。
 
誰でも知っている、十字架を前にして、ということしか語れないシャロームが、こういうことで、人を侮辱して、しかも、キリスト信仰者であることとは何の関係もない、無知を、あざ笑っていることが、即、シャロームの無恥を表しているのです。
 
シャロームはどういう人物でしょうか。キリスト者の弁えを何も持っていない、そして、相手に、不十分なところがあれば、それを利用して、あざけり、それによって、自らの優越を誇る人であることを、彼は自ら表しているのです。
 
このような、シャロームの性質は、キリスト者にはありません。ないだけではなく、このような性質、すなわち、他者をおとしめて自らの知識を誇るなど、キリスト者にあってはならないことです。
 
キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。
 
シャロームのように、丁寧語で敬虔を表したつもりで、聖書の半端な知識で、聖書の先生を自負して、他者を嘲笑う者などは、キリスト者の風上にも置けない者であることが、はっきりと表れているのです。胡散臭さが特徴のシャロームなのです。
 
(ネットより)
風上にも置けない:
風上に嫌なニオイを放つものがあると、その臭いが風下にどんどん溜まってしまい、非常に臭くなってしまうのです。 つまり、「風上にも置けない」は「風上の悪臭は風下に向かってやってくる。。(つまり、風下にいる人はたまったものではない)」という科学的な根拠から来ています。
https://biz.trans-suite.jp/20717
 
だから、私は、書きましたし、いつでも言います。
私「知らないなら、知らないと言います。私は、聖書に精通している者ではない。
私は、空っぽに満たされているあなたシャロームと違って、人間だから。」
 
どうか、シャロームのような、偽者の、現代のパリサイ人の、偽善者の、恥を知らない愚か者を、ひとときでも、ほんの一部でも、信用することのないように気をつけてください。
 
シャロームは、人に関われば、人を疲れさせて、滅びに導き、自分を高める材料にすることしか出来ない者です。そのことで、シャロームは、逆に、自らを滅びに定めています。
 
あらゆるキリスト信仰とは真逆の偽善者であり、自己中心の自己絶対の妄想家です。
キリスト者と分かち合えることなど、何一つ持っていない人、それがシャロームです。
 

パウロの弱さ自覚はst5402さんのような弱さの偽装ではないでしょう。パウロの弱さ自覚は自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚であって、人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚ではないのです。 

 
シャロームは、私について、単純に、批判しているから弱さが無い、偽装だ、という短絡した判断を言っています。私は、シャロームに対して、弱さゆえに受け容れて破滅するなんてことのないように、言うべきことをはっきり言うわけです。信仰を偽装という言葉で裁くシャロームは、信仰を舐め切っているだけなのです。
 
「人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚」さえ持っていないし、弱さということが信仰に持つ深みも理解もしていないシャロームは、
 
やたら重たい言葉、全人格、全存在、などという大仰なだけの言葉で飾って「自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚」だと豪語して、
 
神の前に、自分はこんなにも重大だと思っていると見せかけようとしますが、この飾り言葉に騙されるような神ではないのです。
 
またしても、弱さ、という、誰でも理解できる言葉を、超常神秘の大仰で難しい言葉に変えて、自分は分かってる感を出したいようですが、みずぼらしいかぎりです。言葉が伝わった先を考えず、自分で発するだけで自己満足してきた結果が、これなのです。
 
信仰は、大袈裟な言い方をすればいい、というものではないのです。中身が空っぽの人ほど、飾りたがるという表れです。
 
このように、シャロームは、しばしば、造語的な大袈裟な言い方をしますが、その結果は、いつも、自ら性根の卑しさを露呈するだけなのです。
 
 
キリスト教は万民救済を目的としています。しかし、誰でも気安く救われるわけではなく、信仰には最低限必要な節操とか弁えというものがあります。シャロームと付き合って、批判して、分かることがあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書)
 
この聖句を、私は、最近、若い頃に比べると、経験から、少し広がった印象で見ています。
 
救われる人間は、悲しみを知っている。そこから罪の自覚と反省と悔い改めが生まれる。
 
救われない人間は、悲しみを知らない。快楽原則の快においては、愛想笑いか、ゲラゲラ笑うか、あざ笑うかであり、不快においては、不機嫌、怒り、憎しみ、恨み、といった陰性の攻撃的な感情だけで、他者のせいにして反省せず、それゆえ罪を自覚できない。
 
 
シャロームの、わざとらしさなのですが、シャロームは、コメントを、ライブドアのほうに書いてきます。そして、そこで、私のライブドアブログを見る人が少なく、仲間がいないこと、コメントを書くのは自分つまりシャロームだけ、ということを書いて、私をおとしめ、仲間のいるシャローム自身を高めようとするのです。
 
シャロームは、アクセスやコメントの数で、ブログの価値が決められると思っているのでしょうか。それで、おとしめられると思っているという程度の低さを一度ならず表してきました。けなせば相手にダメージを与えたと満悦するのでしょうか。とてもじゃないが宗教や信仰を語れる人物ではないことを、自ら露呈してきて、なお平気でいられるのです。
 
シャロームは、約8年間の批判によって、素っ裸になっているのです。本人が何も感じないで、嫌がらせを書いてくるだけの孔だらけの空しい軽石のようなものになっています。
 
まことに、自尊だけからの信仰?と言うのは、社交の世辞に、言葉だけの感謝と讃美?をまぶしているだけの説得力のない受け狙いであり、一般の人が、時間を費やして読む価値は全くないものであって、さらに、丁寧語に騙される危険があるのでは、百害あって一利ないものです。
 
だから、シャロームに対しては、全部、罵詈雑言だけ返してもいいようなものです。しかし、そうすると、私のブログが、内容のない空しく汚いことばだらけの印象になるので、できるだけ控えて、冷静に書こうとしています。完全にではありません。
 
理路を全く理解せず、読んでもいないだろうと思われるシャロームに対して、本音を掘り返すために、時々、罵詈雑言や、特に辛辣な比喩を、書いています。理路を理解しない以上、世辞や丁寧語だけでは、ここの引用にもあるように、気持ちの悪い世辞を返してくるだけだからです。
 
そして、出来た記事を読んでほしいのは、理解力のないシャロームではなく、一般の読者であり、シャロームに近づいてはいけないことを広める目的であることは、言うまでもありません。
 
 
それと、このように、いくら批判しても、対象の悪と背教を良くするのが不可能という場合でも、悪い例は、その者が全く知らない正反対の対極に、良い例、即ち、福音を表している、ということがあります。それを知るために、なお、批判には意味があります。
 
すなわち、憎むべき最悪の悪であるところの偽善は、いつも、その対極に、愛すべき真実を暗示するという役割だけはあるようなのです。
 
 
(2019年11月15日)
 
 
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  無記名投稿?
 
   虫のように迷惑
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4148123.html?1573610668#comment-6
   コメント欄
 
 
私の記事に、シャロームのコメントです。楽山の応援でしょうか。無記名ですが、読んでいるうちに、シャロームだと分かります。シャロームの、丁寧語と、根拠なく強がる言い方との、アンバランスが見えてきます。シャロームの強がりは、みな、訂正不能の自己中と傲慢から来ています。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月13日 08:49
「人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、安易に比較していると思います。こういうのを、決めつけと言うのです。」


人間の意見は一致しない…だから議論のあるところ・・・は結構ですが、議論の結果、必ず一致するわけでもありません。人間は有限で、相対的で死すべき存在ですから、人間の意見はすべて限界があり、相対的、むなしく消え去るものです。聖書には人の言葉は過ぎ去ると書かれています。だから、引用し、比較することは当然でしょう。

 
どなたですか。妙に丁寧に書いていますが、シャロームですか。
コメント者の名前を書いてください。
 
記事の引用部分は、キリスト教組織内部のことを書いているのですが、それはいいとしても、
必ず一致するわけでもない、有限、相対的、ということと、むなしく消え去るもの、ということとは一致しません。
 
「聖書には人の言葉は過ぎ去る」とは、どこに書かれていますか。文脈は、正しく把握しているのでしょうか。また、一面的な意味で使っていませんか。
 
「引用し、比較することは当然でしょう」の意味と意図が不明ですが。
 
いずれにしても、ならば、だからこそ、聞く耳を逸らしてはいけない、ということです。
 

それを決めつけと決めつけるなら、st5402さん、あなたが他者を批判し書いていることはすべて決めつけになりませんか。

 
決めつける、ということは、訂正不能にする、ということです。記事に書いたことですが、断定表現にも「と思う」は付いてくるわけですから、私のほうは修正可能です。ただ、私が意見を修正するだけの説得力のある記事とコメントの文章が無ければ、修正のしようがないわけです。
 

わたしには人間としての理路、人間らしい心があるから、私が書いている批判は正しい批判だと決めつけ、他者の人格否定、誹謗、中傷で満ちていますが、そういうのを自家撞着というのです。

 
(ネットより)
「自家撞着」という四字熟語の意味は、自分自身(あるいは同じ人)の言ってることや行っていることの辻褄が合っていない様を表している言葉です。
https://driver-times.com/driver_work/driver_biz/1057650
 
自家撞着の意味が間違っていると思います。撞着は突きあたる、つまり矛盾のことで、そういう意味なら、矛盾を指摘しないといけません。執着と勘違いしていませんか。
 
言いがかりの詭弁ですね。
楽山とシャロームの言に、人間としての理路も、人間らしい心も、感じないならば、それを、どうして、正しいと言えるか、ということを考えれば、明らかであり、批判することは、正しい、と言うより、必然であります。
 
「他者の人格否定、誹謗、中傷で満ちています」などと言われても、根拠があってのことです。人格が異常ならば、人格も批判対象になります。
 
楽山とシャロームは、状況に、まるでそぐわないような丁寧語で、人を、おとしめてきます。そういうのを、殴られるより悪い、という言い方をします。丁寧に書けば礼儀に適うとは限らないのです。経験からの学習を怠ってきた結果でしょう。
 

あなたはその天才か?それともミイラ取りがミイラになったということでしょう。

 
丁寧語が、崩れてきました。
上に書いたことは、天才でなくても、当然、分かるはずです。何を言っているのですか。
 

あなたほどではないと思いたいのですが、言い過ぎでしょうか。
朝から申し訳ありません。失礼しました。

 
乱暴な言葉 + 謝罪の言葉、あなたの言は、一貫性がありません。
 
楽山の言は、根拠が無く、訂正不能で、説得力もなく、子供が通念的なことから思いついたようなもので、大人が信仰に当てはめるには深みのない固定観念です。
 
シャロームの言は、根拠が無く、訂正不能で、説得力もなく、神聖を自らに結び付けており、ずっと変わらないから決めつけであり、すこぶる異常であり、妄想です。
 
上のコメント者のボックスに shalom と書くようにしてください。
無記名の場合、また、卑怯者という形容が強化されるでしょう。
それと言葉に注意を払ってください。結局、全部、記事にしていますので。
 
 

8. st5402さん おはようございます
 2019年11月13日 11:44
「私自身が、バランスのとれた中立で柔和なキリスト者でありたいとは思っていないから」


賢明なあなたにはわかるでしょう。
アドラー心理学によれば、公平にあなたにも、私にも、
ほっときなさいということだと思いますが・・・。
コメントするのは私だけですから。

 
いつも強がり、上から物を言うあなたシャロームは、やはり愚かです。
それに、私が批判しているアドラー教を持ち出すとは。
 
ほっときなさい、・・誰の言葉でしょう、今、あなたが言っているだけです。命令形は笑止です。
ほっとくかどうか、これは私の課題です。アドラー教、分かってないですね。
 
それに、私は、誰にも、ほっときなさいとは言っていないわけですし。
 

「私は、今回も、罵詈雑言を挿んで書いていますが、」とのことですが、いつものことだと誰もが分かっていますよ。

 
だから、今回も、と言っています。やっぱり、人の話、聞いていないですか。
 

「それと言葉に注意を払ってください。結局、全部、記事にしていますので。」
いいですね。言葉に注意を払う、お互いに。
恥はわがものですから、
どうぞ全部記事にしてください。
shalom!

 
こういう言い方が、強がり、さらに、脅し文句みたい、とか考えないですね、あなたは。
 
私は、言葉に注意を払った結果です。丁寧語で書けば、あなたは、世辞を返して、何も気にせずに無視できるからです。それが、あなたシャロームの生き方だと分かっています。
 
恥も罪も認めたことのないあなたシャロームが、恥はわがもの・・とは、恥も気にせず無視できるのならば、それは、恥知らず、または、無恥と言うのです。
 
これからも、あなたシャロームは、自己中心、無視、無理解、無反省、無知と無恥、神聖妄想を、惜しみなく漏らしてゆくでしょう。
 
 
ここに表れているのは、言い換えれば、正直な人や、キリスト者は、自己中心ではない、無視はしない、理解に努める、反省する、神聖を自分に引き寄せた冒涜などしない、ということです。
 
 
改めて補足

アドラー心理学によれば、公平にあなたにも、私にも、
ほっときなさいということだと思いますが・・・。

 
アドラー教は、課題の分離ということを言っています。公平に・・ということとは違うでしょう。
むしろ、アドラー教で、今、問題となっているのは、自己中と受け取られやすいということです。
 
シャロームは、課題の分離ではなく、課題を統一したかのように、アドラー教より上の立場から、公平に、と言っています。これは、至上の神の目線なのです。これは、神と人との未分化、というより、未熟または無恥であり、シャロームの、自己の破綻をもたらしています。こういうことが随所に表れてくるのが、神聖引き寄せシャローム教カルトの特徴です。
 
 
(2019年11月14日、同日一部修正)
 
 
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  虫のように迷惑
 
    2019年11月12日
   『神は妄想か?』の感想つづき
   http://mn266z.blog.jp/archives/22036873.html
   楽山日記(仮)
 
 
心で聖書の言葉を受け取ることの出来ない楽山は、またしても、反信仰、反キリスト教の記事を、辻褄をいじって書いてきます。こういうところからは、信仰は生まれないという記事です。楽山は、神を、自らの視野の中に収めようと、いじくっているだけです。感性の直観がないのでしょう。
 

マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)

 
「人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要がある」というのは全く通常ではありません。これは、人に気に入られようとする処世などの話です。それで神を語ることは出来ません。楽山は、嫌らしい俗物の話を、神との関係である信仰に持ちこんで、信仰をけがしています。
 
人間には、心に感じるということがあるのが通常ですが、楽山には、その感性がないために、神への信仰につながる何ものも持つことが出来ないのでしょう。
 

この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。

 
この引用は信頼度ゼロの楽山によるものですが、本当でしょうか。そもそも、カトリックで意見は統一されているでしょうか、プロテスタントで意見は統一されているでしょうか。人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、安易に比較していると思います。こういうのを、決めつけと言うのです。
 

ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。

 
楽山の浅知恵が、また曲解を広めようとしています。
「信仰を持っていると言う者がいても」、信仰を持っているとは限らないわけです。最悪の例が、シャロームであります。彼は、もはや、悪魔のほうに近い悪意の存在と化しています。
 
信仰の義というものは、本当の真実の信仰があれば、信仰者らしい行いが伴うはず、ということが前提であります。そこを考えることの出来ない楽山が、信仰と、行いを、言葉だけで勝手に独立させ分離して、またしても、混乱を招くような嫌がらせをしています。甚だ迷惑です。
 
楽山こそ、クリスチャン芝居をしたり、否定したり、好きなように妄(みだ)りに書いて、人を迷わせる者となっている反キリストの偽善者であります。シャロームより分かりにくい分、質(たち)が悪いかもしれません。
 

最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、

 
楽山は「信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべし」と、小学校の道徳のような安っぽいことを言っていますが、そのことさえ全く守らず、嫌がらせばかりしてきたのが、楽山とシャロームなのです。
 
それに、人間が信仰を持つ、ということを、全然、理解していないから、さらに日々善い行いをする、などと、行いを別のものとして、書き加えるのです。
 

現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。

 
理屈だけで考えるのは楽山の壊れた理路であり、楽山は、心で感じ取れないから言っているのです。
 
ですから、申し上げます。理屈の辻褄だけを追ってはいけません。信仰のみ、という言葉について、人間を考えてください。真の信仰を与えられた人間は、どう行動しますか。あれは信仰だから別とばかり、悪いことをするでしょうか、否です。
 
楽山の低劣な詭弁に、決して誰も関わることのないように、
主イエス・キリストの御名によって祈ります。拝。
 

たとえば神は絶対であれば、人の行いによってその判断が変わるはずもなく、もし人の行いによって救う救わないの判断が変わるのであれば、神の判断は人に依存していることであって絶対ではないことになってしまうだろうし、

 
楽山は、神を、おのれの堕落した頭の中に、安いイメージの存在として描き、神の不変をもてあそんでいます。神は、人の知恵で、ましてや、楽山などの浅知恵で測れる御方ではありません。
 
神は、全知全能ですから、既に、総てを承知の上で、人の成り行きを定めているわけです。神は、人に依存しているのではありません。来るべき人が来て、ご自身の前に正直な告白を捧げるのを待つ、という有り方を選んでおられるとも思います。
 
しかし、神は、神は、・・の辻褄だけで考えていると、楽山のように意地汚い罠に陥るだけでしょう。そう、罠に堕ちているのは、楽山なのです。でき損ないの思路で、いちゃもんだけを、繰り返している、その口は、神の敵たる何者かに寄ってゆくようになるのでしょう。もはや、その代行者のようです。
 

それに神の愛が無限であればその愛は人の行いによって左右されるような小さなものではなかろうし、だいち人は先天的な資質、環境などが整ってこそ…もっといえば神による支援、導きがあってこそ善行が為せるのであって、

 
神の無限を、いつも無限の愛だけを注いでくる、というような楽山の気安い神?実験室からの暴言です。恐らく、楽山やシャロームは、神の愛のひとかけらも知らないままで終わるのではないかと思います。
 
神と人は、双方向です。人が祈り、神が導きますが、それは人に、いつも分かるようなものではありません。全知全能の総てを知りえないからこそ、信仰者は、その存在と可能性を唯一の希望として生きるのです。
 

人が独力で善行を為せるし、それによって自分で自分を救えるというのはいささか傲慢にすぎるように思えなくもない。そんな風にいろいろと考えると、行いによって救われるというのは何かちょっと違う。

 
知る限りでは、独力で何の善行も為しえていないばかりか、人を惑わすような臭い言葉ばかり、婉曲的に書いて、人を、怒らせて、快感を覚える楽山です。ベースの感情は、不機嫌と嘲笑いで、シャロームと同様だと思います。
 

神様を信じるのも大事ですが、行いにも気をつけましょう、善い行いをするように努めましょうというのであれば了解できるけれども、行いによって救われる、行いがなければ救われないというところまで行ったら行き過ぎだろう。個人的には知行合一的な考え方には魅力を感じないこともないけれども、それを人に可能とし、自分だけでなく他人にも義務づけるかのような発想は無茶だと思う。

 
またですが、楽山は、小学校の道徳のような、甘くて易しく優しい言い方をしないと分からないようです。しかし、小学校レベルの言い方は、大人は、むしろ、不十分だから、しなくなったのです。
 
楽山は、小学校レベルにとどまっているのでしょうか、だったら、ここに書いたりせず、小学校に行くべきです。それとも、さらに親身になって、ほおずりでもしてほしいのでしょうか。
 

ついでに恥ずかしながらもう少し自分語りをすると、自分は元々は宗教の教えは実践しなくては意味がないという考え方をしていた。その頃は、ヤコブの手紙にすごく共感したのだった。上に提示した「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)という言葉など。

 
同じことを繰り返す厄介となっている楽山は、宗教の教えを実践したことがあるとは、到底、思えません。現に、くだらない軽口で、邪魔ばかりしているからです。
 

でもその後、自分には実践は無理じゃないかと感じるようになった。三浦綾子のエッセーで、聖書の一節を徹底的に実践してみることを推奨しているものがあって、自分なりにそれっぽいことにチャレンジしようとしたものの全然だめで、自分の至らなさを実感してからは、今度はパウロの言葉に感動するようになったのだった。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3.20)など。

 
皆、楽山の信仰?実験室での、リトマス試験紙だけのように安い思考実験だと思います。楽山の今までの文脈から、良心と呼べるものを感じたことがありません。くだらない軽口で、邪魔ばかりしているからです。
 
教えを実践しようと努める信仰者は、自分の至らないことを知っているので、このような軽口は叩きません。体験談ではなく、ヘラヘラ笑って見せびらかす自己顕示欲だけを感じます。
 

ただ自分は無宗教なので、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)という考え方はよく分からない。宗教を信じて、それゆえに自分は救われたと実感して歓喜している人はいるし、自分もそういう感覚を味わったことは無くもないので信仰によって救われるというのは分かるようにも思うが、信仰のみによってしか救われない、信仰が無ければ救われないという風になるとちょっと分からなくなる。

 
無宗教が、何故、知ったかぶりをして、聖書や本の言葉などを書いてくるのでしょう。分からないなら、求めるべきであり、信仰者の言うことを聞くべきであり、文句を言える段階ではない。
 
楽山の、いつもの到達点である、ああでもないこうでもない、結論がまるで出てこない、というボンヤリ言語の話になってきました。楽山が、「そういう感覚」というのは、恐らく、カルトやカルト的な人に見られるところの、冷たいのに押しだけ強い薄笑いの悟り顔のことでしょう。既に、楽山の書く文章に表れているのです。とても気持ちの悪い筆致として。
 

上にちらと書いたように、神が絶対ならその判断は人の行いのみならずその思いにも影響を受けることは無かろうし、その愛が無限であるならその人の能力を超えて到底実行できないようなことを救いの条件として設定したりはしないだろうと思うので…。なんといったらいいか、大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じがする。神を信じるほど宗教は信じられなくなるというのはおかしな理屈のようでもあるけれども、自分はどうもそうなってしまうようだ。

 
また、神?実験室の話です。神と人は双方向というのは、何度も書いてきたことですが、楽山は、人の意見などどうでもいい人なので、全く学習効果がありません。書くことと教えることだけに、満悦するというのは、シャロームと同じです。ゆえに、成りすましを疑っています。
 
決めつけはよくない、という記事も書いた楽山が、神を決めつけています。
 
上の「大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じ」
 
このお粗末な宗教観・信仰観は何なのでしょう。
 
キリスト信仰に、取引のような条件はありません。神との契約は、信じて頼む契約です。神の前に、祈りにおいて、正直でさえあれば、信仰は、成立します。信仰をねたんで、自らの不全を認めない楽山の、これは、埒(らち)もない攻撃であります。
 
楽山は、自分が一番偉大だと思っているから、神に嫉妬でもしているのでしょうか。そして、神が偉大であれば、ではなく、神を偉大とすればするほど無宗教になる、と言っています。どうして、人が、ましてや、楽山が、神を偉大とするかどうかを決めるのでしょう。神を、楽山の机上で扱えるオモチャにしてしまう、これが、楽山の恐ろしい決めつけです。
 
「感じ」と書いていますが、だまされないようにしてください。ひどいことを言っているのを、曖昧な言い回しでごまかしながら、やんわり、ぼんやり、その邪悪な決めつけの印象を吹き込もうとしているのです。
 
恐らく、楽山には、思想など、何もないのだろうと思います。楽山は、何物にも染まらないと自慢したいのでしょう、しかし、最も悪い者に、染まってきたようです。
 
人に出来ないことを、神は、人に、救いの条件として設定しているでしょうか。偉大→無宗教、信じる→信じられなくなる、おかしな理屈、と結び付けてくる楽山は、これからも、おかしな理屈しか言わない小学生であり、しかも、宗教の敵、キリストの敵、総ての真面目に生きている人の敵です。
 
楽山は、それこそ、井戸端でしゃべる噂話レベルのような、小便臭いこと以外、何も書いてきませんでした。難しい本や、有名人の名前は、自己顕示のために利用しているだけだと思います。反宗教、そして、反キリスト、嘲って笑うゲーム感覚、というシャロームと同じ有り様になっています。
 
楽山は、人を、怒らせて、悦ぶ、そういう面だけが、目立ってきました。それ?らしくなったということでしょうか。
 
 
私は、今回も、罵詈雑言を挿んで書いていますが、私自身が、バランスのとれた中立で柔和なキリスト者でありたいとは思っていないから、このような、ゴミ虫のようにネットに巣食うヒトを相手にしているのだろうと思います。良心を虫食むのが大好きなゴミ虫です。
 
私がバランスが取れた中立で柔和なキリスト者でありたくないというのは、相手が、バランスを保って批判することが全く通用しない、彼ら、ゴミ虫だからです。
 
ネットで罵詈雑言ばかり言っている人は、ひどいと分かる分だけ、まだマシなのです。
 
つまり、何より、バランスが取れて中立で柔和だと見せかけて人を騙すのが、彼らゴミ虫だからです。ゴミ虫は、ごみ溜めによく見かけられ、新鮮な死肉や、寄ってくる他の虫などを食べます。
 
楽山やシャロームなどのカルトは、もし権力を得たなら何人でも人を害するでしょう。ゆえに、社会悪だと判断しています。ゆえに、多くの人に、広く知らせる必要があります。そこに、批判の必要性が生まれます。
 
彼らには現実での無知によって、どうしようもない欲求不満があると思います。そのための深い怨念によって、深く潜入して、暗くて見えにくいところに侵入して、邪悪を潜ませて卵を産みたがっている者たちです。そのために、反動のように高く舞い上がる尊大さによって、限りなく、否応もなく、自らを、無恥に導いてゆくのです。
 
 
(2019年11月13日)
 
 
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  謙譲の裏側
 
   『神は妄想か?』マクグラス
   http://mn266z.blog.jp/archives/21988124.html
   楽山日記(仮)2019年11月09日
 
 
神を否定する人を批判する人のことを書いて、そののち、後半では、やんわり逆説をもって、神を否定している楽山です。相変わらず卑怯な筆致です。シャロームが、私のブログにコメントを書いているときに、私が、それを批判している間に、楽山は、よく記事を書いてくるようです。
 
楽山は(仮)の付いたもう一つのブログで、有名人らしい引用元のキリスト教批判に対する批判の本の作者を利用して、それを、ボンヤリ言語で、ちょろっと支持して、ちょろっと弁護して、ボンヤリ言語で、結局は、キリスト教とキリスト信仰に対して、いちゃもんを付けてくるのです。こういう筆致が、前からの特徴です。
 
しかし、その疑惑は、今までも楽山が書いてきたような、幼稚で、辻褄だけを追い、聖書を、恐らくどんな書物も文章も、心で読むことのできない者の宿命を表しています。誰にでも、普通にあるところの良心や共感性がないために、辻褄合わせでしか読めない楽山の体質が表れているのです。
 

本書は、ドーキンスの『神は妄想である』を批判するものだけど、以前何回かチラ見し、今度また少し読んでみた。はじめて見たときは、ドーキンスの「神は妄想であって、存在しない」という主張に、真っ向から勝負を挑み、「神は妄想ではなく、存在する」と反論しているのにちがいないと期待していたので、ドーキンス批判に終始していて、神の存在証明を目指しているようではないと分かったときは肩透かしされた感じがしてズッコケてしまったのではあるが、ドーキンス批判の書と割り切って読めばけっこうおもしろい本である。

 
妄想と言うのは、1.非合理であること、2.訂正不能であること、3.異常な確信に満ちていること、という3つが必要ですが、
1については、神の存在は、非合理ではなく、証明不可能であること、
2については、信仰者は、この地上に置いて訂正不能であってはならず成長可能を期するべきこと、
3については、2ゆえに、信仰者は、不明のことを言葉だけ鵜呑みにして、いるんです!と確信することではなく、人間として受け取れることを支えとして生きること、
ということをもって、妄想ではないことを、私は主張します。
 
神は、人間による証明や、人間の理屈の対象になることはありません。しかし、聖書には、人間が共感をもって受け取れることがいっぱい書いてあります。それを、受け取ることが信仰です。
 
ただ、この文章によって、完全に否定される信仰?があります。それは、他でもなく、楽山のお仲間であるシャロームの信仰です。シャロームは、非合理を平気で唱え、しかもその超常と神聖を自らに当てはめています。異常な確信に満ちて、訂正不能で、人の言うことを、あざ笑い、まるで聞かないカルトの典型的思想というより妄想となっています。楽山のこの文章は、図らずも、皮肉なことに、他でもなく、楽山の友だちであるシャロームを完全否定しているのであります。
 

まず著者は、ドーキンスは自説に好都合なことは針小棒大に拡大したり、特殊例を一般化して吹聴していながら、都合の悪いことは黙殺し、神学の理解は浅く、宗教に無知であるにもかかわらず断言、決めつけが多く、科学者であるはずなのに科学的な思考を捨て去っていてあまりに独善的にすぎるなどと、具体的な証拠と論理を示しつつ、ドーキンスの難点を指摘していてなかなかの説得力がある。

 
ドーキンスの欠点を言っているようですが、総て、シャロームに当てはまることです。楽山は、お仲間シャロームを全否定しています。
 
針小棒大に拡大:シャロームの誇大妄想と奔逸、だらだら書き。
 
特殊例を一般化して吹聴:自分の病気が治ったことを神?の恵みといって、以後、神?がずっと守ってくれると信じているようです。どんでん返しの奇跡で救われると表現していました。シャロームの信仰には、戒める神も、懲らしめる神も、いません。
 
都合の悪いことは黙殺:シャロームはコメントを都合の良いように賛同は承認し、批判は削除したり承認せずにコメント欄をとても醜いものにしたりなど、全く恣意的に捜査してきました。過去にはコメント欄を閉鎖していた時期もあります。コメント欄は、シャロームにとって、自分を飾り自分を讃美するためのツールに過ぎなかったのです。
 
神学の理解は浅く、宗教に無知:シャロームは、聖書を読んでいないと思います。読んでいても理解しておらず、自家製の解釈で妄想に利用しているだけであることが、今までずっと表れてきました。
 
断言、決めつけ:シャロームは根拠に神の啓示と聖霊を上げて、議論の対象ではないと言っています。つまり、何も議論する気はなく、彼の中だけで、決めつけて断言してきたのです。
 
科学的な思考を捨て去っていてあまりに独善的:以上より、独善的なカルトであるのがシャロームです。
 
全条件に合致するシャロームが、楽山によって、ボロクソに、完全否定されました。シャロームのカルト性が、楽山によって、明らかとなっています。
 

さらにはドーキンスはあまりにも極端で攻撃的で独断的な言辞が多い無神論原理主義者のようになっているために、本来ならドーキンスを支持するだろう無神論者である科学者たちが、最も熱心な批判者になっている例が少なくないとか、ドーキンス批判の急先鋒になっているはずの知的設計者運動を支持し反進化論の立場にある者が、ドーキンスのおかげで無神論に距離をおく者が増えるのを期待できると皮肉交じりの感謝の言葉を述べている例を挙げたりもしている。

 
私は、反進化論者ではありません。また、進化論者でもありません。私は、「・・論」や「・・学」は、参考にはしても、メインには語りません。私は、心で共感できる信仰を語ることを求める目標としています。
 
このように、ドーキンスと同様に、シャロームは、お仲間からも疎外される運命を持っていることを、楽山が明らかにしています。
 

いやはや、これではドーキンスも形無しである。ただ著者の主張を読んでいると、著者のイエス観、キリスト教理解にはやや首を傾げてしまうところも無くもない。たとえば著者は「ナザレのイエスは誰に対しても暴力を振るわなかった。彼は暴力を受ける対象にはなったが、暴力を行う行為者にはならなかった」(p.96)と書いているけれども、聖書ではそのようには語っておらず、イエスは神殿で屋台などを打ち壊し、商人らを追い出したとしているだろう。これは明らかな暴力であり、実力行使だと思うのだが、著者はそうではないという解釈なのだろうか。

 
暴力:(ネットより)
乱暴にふるう力。無法な力。
https://www.google.co.jp/search?sxsrf=ACYBGNQkw4Y7xsQpkyVjuvpeQ3gA5M5T5w%3A1573461012800&ei=FBzJXc2-MJTU-QbR8bjoBA&q=%E6%9A%B4%E5%8A%9B&oq=%E6%9A%B4%E5%8A%9B&gs_l=psy-ab.3..35i39j0i4i37l7.8529.9699..10281...0.2..0.132.832.0j7......0....1..gws-wiz.......0i71j0i131j0j0i4i30j0i30j0i4i30i23j0i30i23j35i304i39j0i13.nU1O4tI4OrM&ved=0ahUKEwjNmPGF3-HlAhUUat4KHdE4Dk0Q4dUDCAo&uact=5#spf=1573461023671
他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、心理的虐待やモラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B
 
つまり、暴力は、みだりに強制力を奮うことです。
 
まことに、以下に書いていることを読むと、楽山は、このような幼稚な誤解~曲解なのか、と呆れるところです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
21:12
それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13
そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
 (マタイ21:12-13、新約聖書)
 
神殿の堕落を憂えてのことです。妄りでないことは明らかです。楽山は、恐らく、静かで動じない悟りの無表情な基督?を思い描いているのでしょうか。とんだピント外れであります。こういう情ないような、いちゃもんを言ってくるのが、楽山の特徴なのです。
 
キリストは、信じて寄る辺とする人にとって、神の子という神聖と、人として生きた人間性を、併せ持っている御方です。鋭い感性と豊かな感情をも持っておられたことが聖書には書かれています。だから、人々の不幸にも寄り添える御方です。両方が表れています。だから、怒っても、泣いても、それに基づく行動があっても、何ら不思議はないのです。
 
そして、この聖句は、キリストが、神殿をつかさどる者たちの恨みを買うことになる、という意味では、重要なのです。
 
形式だけの形式を、打ち崩す、という使命に沿っている、ということを、全く考えない楽山は、ひどい暴言者です。上のWikiに書いてあるように、言論における精神的暴力というものです。
 

またイエスは別のところでは、いちじくの木を呪って枯らしたり、母親に親孝行とは言えないような発言をしたり、その他にもかなり厳しい発言も少なくないし、こういったエピソードからするとイエスは非暴力主義者の側面はあるにしても、必ずしもそれだけの存在ではなく、もっと深みがあり、そう簡単に「〇〇はしなかった」「××と考えていた」というように決めつけることはできない存在だったように思えるが、著者はどのように考えているのだろうか。

 
人間的感情を併せ持っているキリストが、神の権威をもってイチジクの木を呪ってはいけないのでしょうか。イチジクの木を枯らしてはいけないのでしょうか。そのあと弟子たちに説教したことを知らないのでしょうか。また、厳しい発言は当然の使命であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:46
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。 12:47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48
イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。 12:49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50
天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
 (マタイ12-46、新約聖書)
 
地上の親族よりも、使命を重んじるキリストの発言と教えです。キリストが、楽山の基準に合わせる必要は、どこにもないのですが、楽山は、どういう意味かを知らないで、「母親に親孝行とは言えない」と言っています。楽山は、キリストに、楽山が分かるような小学校の先生が語るような道徳を求めているようです。あるいは、刷り込みのための、いちゃもんでしょうか、汚いと思います。
 
楽山は、何を、いちゃもん吹っ掛けているのでしょう。程度が低すぎます。ずっとそうです。
 
そして、楽山は、「もっと深みがあり、決めつけることは出来ない存在」と言っています。誰が、決めつけているのでしょう。また、決めつけと決めつけ、決めつけはいけないと決めつけている楽山なのです。まだ、この矛盾律に囚われているようです。それでも真摯な態度なら、もっとマシなことが言えるはずですが、楽山の言は、読むに堪えないことばかりでした。
 
これも楽山の特徴なのですが、語尾の、否定肯定以外の、書き方にこだわります。それで、毀滅化かどうかを判断するようです。間違っています。語尾ではなく、文脈、さらには、それまでの発言の流れを考えるべきです。
 
こういうこだわりは、楽山に顕著ですが、語尾を優しそうに書けば、優しさを伝えたと思い込むのでしょう。シャロームは丁寧語で侮辱してきます。やさしい言い方も、「殴られるより悪いことがある」というのは、三島由紀夫原作の映画「午後の曳航」の中の台詞ですが、これを、楽山とシャロームには、しばしば、というより、毎回、感じています。実に気持ち悪いです。
 

著者の立場からすると護教的になってしまうのは致し方ないとしても、この辺りを読むと、自説に不都合なことは無視し、都合の良いことは膨らまして語るというのはドーキンスに限ったことではなく、著者についても言えないことでもないような気がしないでもない。

 
前の、シャロームの言である、悔い改めは神が与える、つまり、だから今は悔い改めないで待つ、みたいなことでしょうが、悔い改めないことを指摘されたことに対して思い付きで作った詭弁です。悔い改めは、先ず、信仰の入り口ですることです。悔い改めないのは、信仰を理解しておらず、キリスト者ではない証拠なのです。
 
そういう、悔い改めないことの言い逃れの詭弁を、楽山は、詭弁と見抜けないのか、好都合だと思ったのか、考えずに、お仲間だから、賛同したのです。これこそ、不都合を無視して、好都合を膨らます、という楽山の行為なのです。自分で書いて、書いたものに斬られる、という、詭弁家の出口のない地獄への洞穴へ、楽山は入っているようです。
 

というか、こういうことがまるで当てはまらない人なんていないのではなかろうか。他人を批判したら、自己紹介になってしまったというのはそう珍しくないことではあるし、自分も気をつけなくてはならないことではあるけど

 
みんな罪深く、みんな同罪、という、理屈を、ここで持ってきた楽山ですが、上のほうに楽山が引用した「特殊例を一般化して吹聴」しています。みんな罪深いが、特定の場合の特定の罪については、個別にしか語れないわけです。
 
誰に向かって言っているのでしょう。他者一般を罪に定め、自分については正当化してやわらげるために、みんな同罪というほうに持っていきたいのでしょう。共感の押し売りとも言えるでしょう。
 
「他人を批判したら、自己紹介になってしまった」が、私への当てつけだとしたら、ボンヤリ言語が、どれほど強い悪意によって語られるかという証拠でしょう。前から、こういう婉曲的な言い方が目立ってきたことが、仮に、楽山が、自分のことですよ、という言い訳をしたとしても、信用できない理由です。既に、楽山の信頼度は、地に堕ちています。
 
自分も気をつけなくてはならない、と言うなら、キリスト教については書かないことです。前にも、同じような謙譲言葉を書いていますが、この記事で、こういう無遠慮な有り様なら、今までの謙譲は嘘だったということになるでしょう。
 
「自分も気をつけなくてはならないことではあるけど」・・取って付けたような、わざと曖昧にしか言わない、ボンヤリ言語、言葉だけ柔和に見せかける楽山、前からです。
 
 
私は、はっきり批判しますが、決めつけたわけではありませんし、修正可能です。しかし、決めつけだったということを分からせるような、修正する気にさせるような、新しい理解による弁明や反論を、今まで、楽山もシャロームも、何一つして返してこなかったということです。返ってくるのは、いつも、それこそ妄想や決めつけの、いちゃもんだけなのです。
 
 
(2019年11月12日)
 
 
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  嘘と世辞と侮辱(7)
 
   嘘と世辞と侮辱(6):コメント欄
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   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
   コメントを編集して記事にしています。
 
 
また、シャロームがライブドアの私のブログにコメントを書いてきました。ことあるごとに、超常カルトのシャロームは、信仰の総てを超常の業(わざ)として書いてきますが、シャロームの教理?は、自己正当化のために、出まかせに捏造されたものなので、まるで辻褄が合わず、理解不能なことばかりです。
 
その中身は、幼稚で、思慮がなく、罪悪感も、節操もない、まるで成り立たない造語的な思い付きに過ぎません。シャロームの教えと摂理を、人が信じることは、本質的にできない、ということが、シャロームには分からないのです。シャロームは、信仰を、心で受け取るということが分からないからです。
 
シャロームは、むしろ、人が理解しないことをもって、自らの優越を自慢したいだけです。どうか、相手にしないでください。批判を始めて、もう8年になりますから、既に、底が知れているので、檻の中の動物を見るような視線でいいと思っています。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:30
(私のコメントを引用)
「弱さを誇ろう、というのは、逆説ですから、このまま、弱いんだぞと自慢するのは笑えない冗句で、弱くあることや弱さの自覚が、少なくとも強くあることや強さの自覚よりも、とても貴いのだということを、パウロは言っているのだろうと思います。」
とのことですが・・・
パウロの弱さ自覚はst5402さんのような弱さの偽装ではないでしょう。パウロの弱さ自覚は自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚であって、人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚ではないのです。

 
まず、弱さの自覚が全くないために、聖句をあげて空しく強がっているあなたシャロームに、弱さを語る資格はありません。ここにおいても、まだ、恥を知らないようだ。
 
言ってることが滅裂です。人間自らの弱さの自覚として「神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚」という大仰な飾りが、罪を認めないあなたシャロームの強がり豪語の、著しい的外れの証拠なのです。
 
使徒パウロの名をあげて褒めることで、人をおとしめようとしているシャロームです。それで、あなたシャロームの信仰が、まともになることはありません。
 
使徒であり預言者であるパウロを持ち上げて、まるで、ごまをすっているかのようです。あなたは、一人のキリスト者であることさえ、罪を認めず悔い改めないことで、否定しているのですから、それで、あなたと、あなたの評価が、マシになることは、一切ないのです。
 
あなたシャロームが「人間は誰でも弱い」ということを、甘く甘く受け取って、信仰者として全く実感を持っていないことが明らかです。信仰者の弱さは、神の前での弱さです。神の前に弱いからこそ、その自覚に生きることが、神の前に生きることです。
 
あなたシャロームは、またしても、それこそ安い言説を飾っては、また、尊い自覚を欠如していることを表しています。
 

だれもが負っていながらその弱さの自覚を失っているのは人と比べていてはわからず、だれでもみんな弱いというほかないのです。

 
愚かです。自分は弱い、不完全だ、ということは、人間ならば誰でも分かることです。それ以上に、さらに理解を深めることもありますが、それは、人生と、人間と、特に自分と、信仰の理解を深めることでもあります。努力しないシャロームには分からないので、神のせいにでもしたいのでしょう。
 
人間が自分は弱いという自覚を持つことを軽視しています。そして、聖人とも言われるパウロの弱さを持ち上げて、シャロームは、弱さを自覚するのではなく、総てのキリスト者という人間を軽視して思い上がっているのです。教祖シャロームは、地に落ちた雑巾です。触れると魂が汚れます。
 

そのために傷つけあったり、裁きあったり、傷をなめ合ったり、慰め合ったり、正当化しながら、生きていくほかないのです。それが私たちの弱さの自覚の実態でしょう。

 
「私たち」に、弱さではなく、人をおとしめる傲慢を、今まで、ずっと表してきたあなたシャロームは、信仰における弱さを自覚する人に含まれていません。あなたシャロームは、独り舞い上がって、聖書と聖三位を、ないがしろにしてきました。
 
あなたシャロームの愚かさは、今回も、聖書が分かるかのような、言い分があるかのような、身勝手な筆致に表れています。それは、とても、醜いことです。
 
あなたシャロームは、罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていいと言ったときに、すでにキリスト者ではなく偽者者であることが明らかとなっているのです。そうして、今も悔い改めてなどいないことが、このコメントの醜い言い訳によって、また、教えようとする態度によって、明らかになりました。
 
それゆえ、何を語っても、キリスト信仰について信頼できる言説を語ることはないのです。人をおとしめる、あなたの傲慢は、神によって、おとしめられる時を待つばかりなのです。
 

2. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:33
パウロ書いている弱さとはイエス・キリストの十字架のみじめな死の姿に自らのみじめな死の姿との出会いによってのみ与えられる自覚なのです。その自覚をとうして、神があらわしてくださる神の御業を強さと述べているのです。

(「とうして」は、恐らく「通して(とおして)」でしょう。)
 
シャロームは分からないようです。キリスト者の弱さの自覚は、パウロの言うところの弱さの自覚であること。キリスト者の救いは、パウロの言うところの救いであること、すなわち、成し遂げたことの違いはあっても、弱さにおいて、そして、救われることにおいて、使徒パウロと私たちの間に変わりはないのです。でなければ、パウロが、人々に多く語ることはないはずです。
 
そして、ご存知のように、パウロ、すなわち、パリサイ人であったサウロもまた、キリストによって救われて使徒パウロになったからです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:6
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 (ローマ6:6-8、新約聖書)
 
信仰者は、罪の奴隷とならない。何故なら、祈りと悔い改めの道が与えられているからです。
 
それを、シャロームは、罪を悔い改めなくてよい自分に結び付けるという自己中心の人間離れの妄想にしています。シャロームは、ずっと、万事、このような解釈です。悔い改めなくなったらどうなるだろう、怖い、ということを感じることも考えることも出来ないのです。
 
神の御業(みわざ)の強さは、何故表されるのか、人が弱いからにほかなりません。それを、あなたシャロームは、おのれの奇跡信仰によって、シャロームの神?を飾ることによって、自らの、どうしようもない弱さを、またしても否定して強がっているのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:10
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
 (ローマ6:10-11、新約聖書)
 
罪に死ぬことは、罪が無くなることではありません。罪の奴隷とならないことです。キリストにあって神のしもべとして生きることであります。それが、信仰による悔い改めの道です。
 
ずいぶん前に、罪に死んだことを、死体に喩えて、蹴っても叩いてもビクともしないと、信仰に喩えた人の記事を、シャロームが引用していました。信仰を死体に喩えるのは乱暴すぎます。
 
しかし、まさに、シャロームの信仰は、死体のようなものです。だから、何を言われても、シャロームは、受け取らないし、気にもしないわけです。言い換えれば、シャロームと議論することは、亡霊を相手にするようなものです。
 
これが、信仰の忍耐強さと全く違うところの、異常なシャロームの不感不応です。つまり、シャロームが、びくともしないのは、忍耐強さなどではなく、何を言われても、何も感じないで、自分の言いたいことだけを書いて、人をなじることを快感としているからです。
 
ゆえに、シャロームは、こちらにとっては、疲労物質のしての機能以外、何も持ち得ないのです。そう書いたのに、まだ、書いてくるのも、その性質が為せるわざなのです。殆ど相手にはしていませんが、書いてきたことを、いちいち否定しないことには、信仰の記事にならないので、批判コメントと批判記事を書いています。
 

ですから、
 「主が言われた、「私の恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、気rストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。だから・・・私は弱い時にこそ、私は強いからである。」と書いているのです。

>2.の6段の「気rストの力」は「キリストの力」の誤りです。<
 
あなたが、かつて「超常現象です(笑)」と言って、自らに起こった奇跡を語って、それを、恐れもなく根拠にしたように、あなたシャロームの神?は、いつでもあなたを奇跡で守る神?であり、パウロの信仰と伝道と殉教に表れる神ではありません。
 
パウロをネタにして、またしても、自分を高めようとしているあなたシャロームは、弱さ、低さ、罪深さという信仰の気付きを、何も知らないことが、書くたびに表れています。これからもそうでしょう。
 

ローマ人への手紙5~7、8章14節にもパウロはそのような自分の生々しい実体験を通して自分のみじめな死の姿について述べながら、またそのような自分を死のからだからイエス・キリストのよみがえりの命に生きる者としてくださったこと、それはイエスの死と、よみがえりと聖霊による神の恵み、たまものとして与えてくださったとイエス・キリストの父なる神に感謝しているのです。

 
ひと言で言えば、パウロには、人間としての豊かな心があったということです。だから、本当の恵みを受け取り得たのでしょう。パウロの言説には、まだ、私には、分からないでいることもありますが、少なくとも、シャロームの妄想で理解できることは何もないのです。
 
このように、神の恵みばかりを、豪語してくる、あなたシャロームの言説は、あなたにとって都合の良い恵みが、あなたにだけは来ないことをもって、泣くしかないのでしょう。
 
何故かと言えば、神の恵みが、罪深いキリスト者に、キリスト信仰ゆえに注がれるときにも、弱さを自覚しないあなたシャロームは、それが恵みだとは気づかないからです。
 

3. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:34
st5402さんはイエス・キリストは処女マリアから生まれ、罪なき神の御子イエス・キリストの死による罪のあがない、死からよみがえり、聖霊の働き、によって私たちのこの死のからだに成就してくださった神の恵み、救いを信じておられますか。これがすべての人に与えられた神の救いの福音なのですが信じておられますか。

 
私には、分からないことがいっぱいあります。人間だからです。実感のないことについて、信じているのは、あなたシャロームと同じ思いこみから信じ込みに至った教条主義に過ぎません。だから、私は、あなたシャロームを、カルトと呼んでいるのです。
 
人間は、超常の神聖の仕組みを、知識としては教理と聖書から得ていますし、それを、いつかは理解する時が来る、という希望として持つことはあっても、それを分かったかのように信じるというのは、シャロームのような傲慢な妄想家であることを表します。
 
あなたシャロームは、その超常を豪語して、自分は分かっている、そして、それによって、私を裁こうとしている、という醜いさまを、神の前に晒している自分の姿に、まだ、気づかないのか。
 
あなたの教条を披露しても無駄です。どうして、他者の信仰ばかり書いて、自らを見ないのでしょう。そういう者に、信仰の成長はなく、成長しない信仰?は、どれだけ多く言葉を放っても、臭みをまき散らす不潔な糞尿のごときものです。
 

信仰義認とはどういうことかを理解するためには、自分の本当の弱さの自覚、自分の死の姿の自覚が不可欠ですが、それは神が与えてくださる神の恵みの賜物としてのみ与えられるというのです。

 
あなたシャロームの、弱さの自覚、死の姿の自覚、いずれも、妄想です。人間の心に響くことを、わざわざ、超常の出し物に置き換えて、どこにも響かないものにして、神の恵みの賜物を、あなたの都合に合わせて、それこそ、自らを超常になぞられる、忌まわしきカルト信条です。
 
死の姿の自覚など、生きている人間に出来るはずはないのです。そのことは、全知全能の神は、既に、ご存じなのです。安い思い付きで、人を惑わすのは、あなたシャロームの常道ですね。
 
あなたシャロームは、今まで、ずっと、超人になるかのような現実離れの妄想教理を吹聴しては、神とキリストと聖霊と、信仰と信仰者を、けがしてきただけなのです。
 

パリサイ人は罪を悔い改めていることを、いつも人の面前で灰をかぶって、衣を裂いて自分が罪人であることを人の前にあらわし、自分を義としていました。
それは弱さや罪の偽装の姿でした。ですから人を裁き、人を罪に定めることを神の代行人のように行っていたのです。
それが神を見失った生まれながらの私たちの姿です。
パウロもその一人でした。

 
パリサイ人は、悔い改めない人々です。だから、あなたシャロームと同じように、教条主義によって、心を失い、守っている、分かっている、という偽善に走ったのです。
 
パリサイ人は、弱さの姿ではありません。シャロームは、そおっと、都合よいように、言葉を忍ばせてくる卑怯者なので、注意してください。
 
「それは弱さや罪の偽装の姿でした」の「弱さや罪」の自覚は信仰につながりますが、「偽装の姿」はパリサイ人とシャロームのの偽善そのものです。シャロームは、それを並べて、パリサイ人は弱かったから偽装した、という憐れみの印象を刷り込もうとしています。とんでもない人です。
 
ずっと前に、シャロームは、苦し紛れに、偽善も罪だから、悔い改めなくても赦される、などと言っていました。偽善は、故意に欺くことで、人を騙す悪意の行為です。それを憐れんで信仰など成り立つわけはないのです。
 
今、神の代行人のように、人を裁こうとしているのは、私を問いただして、問い詰めようとする、あなたシャロームに他なりません。まさに、前から言っていましたが、あなたシャロームは、現代のパリサイ人です。教条を振り回し、全く心に信仰を受け取っていないことが明らかです。
 
パウロは、元パリサイ人サウロ、そして、悔い改めて、使徒パウロとなった人です。
そこを「パウロもその一人でした」で、あとを書かない作為の愚かさ。
 
シャロームの卑怯と愚かが表れています。シャロームが、そういう人だと分かってからは、こういうのを見ても、バカか、と思うだけです。
 
シャロームは、体質としては現代のパリサイ人、そして、罪を認めず、悔い改めず、自家製の妄想教条のゴタクを並べている裸の王様です。
 

しかし、感謝すべきかななのです。
shalom!

 
今までの、そして、今回のコメントから、申し上げます。
 
あなたシャロームの感謝と讃美は、厠(かわや)に堕ちてゆきます。
 
あなたシャロームの説教を聞くことは、信仰者にとって、大きな災いです。
 
今回、私が書いたようなことは、今までの8年間に、何度も言ってきたことです。そして、シャロームの弁明も反論も成り立ったことはないのです。にもかかわらず、また、性懲りもなく書いてくるのは、嫌がらせ以外の何物でもないでしょう。決して誰もシャロームに関わらないでください。
 
 
(2019年11月11日、同日一部修正)
(2019年11月12日、一部修正)
 
 
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