ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: カルト批判(20190626~)

 
  楽山の心無い芝居
 
 「鬼滅の刃」と「スピリチュアリズム」
 2021年02月28日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の精神年齢の低さが表れています。
 
「鬼滅の刃」を通読してみた。その基本設定は予想以上にスピリチュアリズムと重なるところが多かった。
 
「鬼滅の刃」 → スピリチュアリズム の流れで、宗教・信仰を語って現実離れしてきた楽山を信用しないでください。人生を趣味で片づけようとする者です。
 
たとえば、この辺り。
人は生まれ変わる。
人は単身で生まれ変わるのでなく、ソウルメイトがいる。
 
生まれ変わりとは、既に、話が超常のことになっています。一方、楽山は、心・精神の生まれ変わりであるところの、魂の奇跡を、何も考えることが出来ません。そういう記事を書けない楽山です。
 
利他的な生き方の推奨。
感謝の大切さ。
 
どこでも聞かれる当たり前の倫理・道徳です。これで、楽山は何を確認するのでしょうか。総て、楽山が裏切って、悪用してきたことです。楽山の白々しさに、背筋が寒くなります。
 
>非難、難詰では、人は変わらない。怒り、自己正当化を生むばかり。
 
批判を非難していますが、反省しない者は、何を言われても変わらず悪と偽善に走る、ということが、まさに、楽山を通して実証されてきたのです。
 
楽山のような偽善者は、「自己正当化」のように、自分が言われたこと、言われそうなことを、わざと書いてきます。何度も書いてきます。
 
この記事も、今までの記事も、楽山の自己正当化→誇大化が動機であります。それだけを言ってきたようなものです。楽山は、人のことなどには、何の関心もない男だと判断しています。きれいごとを並べれば、人は騙されてくれると思って、舐めきっているのでしょう。
 
良心を持たない者は、やさしい言葉でも、批判でも、変わらないでしょう。だから、誰も近づかないようにと、私は批判を書いて、資料としてゆくしかありません。
 
人は、やさしさ(愛)によってこそ変わる。
圧倒的な善意(愛)には誰も抗うことはできない。
 
優しさ芝居で、人の優しさを利用して、悪意と偽善を企んできたのが、楽山です。圧倒的な愛について、楽山が語るのは、犯罪人がニヤニヤ笑いながら説教をするようなものです。
 
(ネットより)
難詰(読み)ナンキツ
[名](スル)手きびしく非難すること。きびしく問いつめること。「不注意を難詰する」
 
自らの罪を悔い、反省をはじめると、守護する霊の姿を見、その声を聞くようになる。
 
自らの罪を悔いず、反省もせず、霊が分かるっぽい気でいるのが、楽山であります。とうとう幻聴も始まったのでしょうか。善には善の種が、信仰には信仰の種が必要です。切っ掛けとなる体験のことですが、楽山には、自らを偉く見せるような、でっち上げの体験と、だまし言葉があるだけなのです。
 
>悪いことをすれば天国には行けず、地獄に行くことになる。
 
よく言われる通念的な話です。単に悪といえば浅い話になってしまうことを、楽山は弁えていないのです。何も学んでいないことが表れています。
 
>地獄は強要されるのでなく、自ら納得して行く。
 
説明もなく何を言っているのでしょう。楽山には、何も学ぶ気もないことが、楽山の気安い高慢な妄想的言語に表れています。このような言葉だけで、何かを表したような気分になる楽山です。この思い上がりには、逆に言葉自体がけがされてゆくでしょう。あらゆる努力を怠って、人も言葉も、鼻先で笑っている者の言だと思います。
 
主人公は決して自分を見失わない。権威、権力、恐怖…などには屈せず、自らの内なる声に従う。
個性尊重。自分らしさを保ち、かつ他人の個性も認める。
愛に飢え、貪欲な鬼は、口が強調された姿となる。その姿はその心によって決まる。
その他いろいろ。
 
楽山は、プラスを言いマイナスを言い、断定していないから責任はないなどと言う、元々、自分を持っていない人です。自分の代わりに、欲望の自我の企みで書いています。
 
楽山の自分らしさは、今までのところ、無反省・無責任・無理解・無神経・偽善者・嘘吐き・詭弁屋・無視・不感不応、など、・・でしかなかったのです。このような自我は、人を傷つけるだけです。保たれてはたまりません。悔いないなら、一刻も早く、何も言えないほど縮んでください。
 
スピリチュアリズム的な世界観は極めて特殊でもなく、多方面に広まってもいるので、「鬼滅の刃」のなかにスピリチュアリズム的なところがあっても別段不思議はないのではあるが、なにはともあれ、スピリチュアリズムに共感する人であれば、血飛沫が飛ぶようなアクションは大の苦手というのでもない限りは、本作に感動できるにちがいないと思う。
 
アニメとスピリチュアリズムを同一視する楽山は、結局、そのレベルでしか宗教と信仰を語れないのです。楽山は、哲学・思想・宗教・信仰を全く理解できないからです。それで、楽山は、執拗に、同一視したいのでしょうが、既に、ボロボロの理路・妄想・自己中・自己愛が表れてきたのであり、一切の弁解はボロ布のようなものであり、今さら、何も成り立ちません。
 
主人公のやさしさに触れて、鬼が自らの罪を自覚し、見失っていた自己を取り戻し、改心していく場面はもちろん、このやさしさは鬼のみならず、仲間たちをも良い方に変えてゆくところは本当に素晴らしく、
 
こういうところにしか褒め言葉を当てられない楽山です。触れて、自覚し、取り戻し、改心していく、これらは、すべて、楽山にはできないために、楽山が嘘と詭弁で裏切ってきたことなのです。
 
まさに、今、この記事も、そういう嘘であります。真実を追求しているつもりの、楽山という、いい大人が褒めまくって書いていますが、楽山は、ホラーアニメに依存しているのでしょうか。
 
真実を追求している本当の大人なら、趣味以上に書くことではないのです。
 
「愛こそはすべて」ということがよく分かるようになっているし、スピリチュアリズム的な考え方はあちこちに散りばめられているし、スピリチュアルなことに関心のある人にはお勧めの作品である。
 
「愛こそすべて」が分かるなら、今までの楽山は、なかったはずです。大袈裟な豪語をすれば、信用されるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山が自分で言って、逆に、楽山の行状がそれを否定し、楽山の言葉が、まさに、楽山自身を責めている記事であります。楽山に、何かを「お勧め」などする資格はないです。
 
楽山の見当違いの妄想世界から、お勧めされては、実に迷惑です。ほんとうに、台詞の白々しさが、ひどい。楽山のようにだけは、ならないでください。
 
 
どんづまり、地獄

どんづまりの地獄
 
 
(2021年03月01日、同日一部修正)
 
 
  楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·35分
おススメ書籍、ちょこっと読みました。 
悪魔が嫌うことは、
・正直(嘘はつかない)
・勤勉(コツコツ努力する)
・明朗活発(明るく積極的)
 」
とのことですね。
書籍後半では、謙虚、無執着、恨まないなども挙げられてた。
これらは総裁も出来てないし、言うは易し行うは難しだと思いました。😊
午後4:40 · 2021年2月28日·Twitter Web App
 
楽山は、平気で、数えきれない嘘を吐いてきました。
人間関係のベースとなる普通に正直であることを、まず、楽山は守る気がないのです。
楽山には、傲慢で、霊が分かるっぽい自我への異常な執着、そして、その体質ゆえに誰からも信頼されないことに対する人間と社会に対する根深い怨念があるのだろうと推測しています。
 
楽山は、努力が大嫌いです。霊が分かるっぽい?霊能者気取りだから、人の言うことを聞いて考えることを全くしないのです。すなわち、無反省・無理解・無責任・無神経です。
 
楽山が嘘を吐いて平気なのは、陰険であり、決して明るくはないです。
楽山は性悪で、陰気に悪と偽善を企み実行してきました。
楽山は、鈍麻・鈍感・不感不応だから、不都合を無視するのです。
 
楽山は、嘘を言うは易し、正直も、最小限の善も、行うは難し~しないよ・・なのです。
 
前に、楽山は、親族に、仏様が喜んでいると言ったら笑われたことがあり、親族が仏様の気持ちが分からないっぽすぎるのには驚いた、というようなことを書いていました。
 
楽山が、仏様と言っているのは、仏像、仏壇のことでしょうか、仏陀のことでしょうか、ご先祖様のことでしょうか、いずれにしても、こういう小児期の異常感覚に、今も支配されて、霊能者気取りになっているのでしょうか。
 
もし、楽山が、超常の存在の気持ちが分かる本物の霊能者なら、嘘と詭弁にまみれた今までの有り様は、むしろ、ありえないわけです。即ち、嘘で出来ている楽山は、霊能者どころか人間として成り立っていません。
 
楽山を、信用しないでください。相手にしないでください。楽山に関わらないでください。近づかないでください。お願いします。約2年間、私は、そう言い続けています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
集団リンチの様相を呈していたのも酷いけど、
政治家なら、自分の発言の一部を切り取られ、非難されることがあるのは承知しているはずなのに、この罠にはまる政治家があとを絶たないのも酷いですね。
こういう無防備さ、不用心さの原因を探る論考も掲載されてるのだろうか。
午後5:31 · 2021年2月28日·Twitter Web App
 
楽山は、自分の発言が批判されているのは承知のはずなのに、無視し続けているのは酷い話です。
 
こういう楽山の、無視による防備と、影響を考えず、反省することもなく、責任を負うこともないという原因は、楽山の自己愛性の体質にあるのでしょう。
 
楽山は、嘘で飾れば、白々しさが表れ、苦言を呈すれば、自分が当てはまる、という無間地獄の様相です。それでも、自覚がなく、平気を装うのが、体質的異常者なのです。
 
 
 面白いドラマ、アニメ
 (『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』、『ゆるキャン△』など)
 2021-02-28 楽山日記(a)
 
『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』は、第一回では学芸会的過ぎると思ったのだが、つい第二回も見てしまい、それ以降すっかりハマってしまった(笑)。毎回、泣かされ、笑わされている。
『ゆるキャン△』はタイトルだけは知っていたが、第一回を見てすぐハマった。アニメもおもしろい。こういう雰囲気はすきだ。
『進撃の巨人』も盛り上がっているし、面白いドラマ、アニメがたくさんあってうれしいぞ。
 
批判されている最中に、批判されていることに無頓着でいられる。無視して、ドラマやアニメの趣味の記事を平気で書いていられる。しかも、びくともしないぞとでも言っているような余裕ありげの「(笑)」「うれしいぞ」という文言を付けてくる。これが、楽山という人です。問題を何も感じないのです。
 
 
(2021年03月01日、同日追加)
 
  
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  楽山のネトウヨ
 
 『国民の歴史』西尾幹二著
 2021年02月27日 楽山日記(LD)
 
 
ネトウヨ楽山の登場です。著者は、東大文学部卒の、右翼の思想家です。有名人といってよいでしょう。生きている有名人の本の引用、ネトウヨなら無断でしていいのでしょうか。
 
*心に残った箇所
『国民の歴史』は、新しい歴史教科書をつくる会がよく話題にされていた頃に一度通読したきりで、今はもう巻頭の写真をみて円空はすごいと思ったことくらいしか記憶に残っていないので、ひさしぶりに読み返してみた。通史というより、歴史エッセイ集のような体裁なので、どこから読み始めてもよいのはありがたい。宗教絡みでは二点ほど心に残った箇所があったので、ここにメモしておく。
 
読みやすさを強調し、「メモしておく」、というのは、だから、自分は、ちゃんと読んだ、読めた、ということを言いたい楽山のやり方です。実際には、理路と読解の両方に欠陥があります。
 
*聖なるもの
まず一つは、「GODを「神」と訳した間違い」にある「大樹の下にただずむのは私も好きだが、ときに言いしれぬ、ぞっとする恐ろしさを覚えることがある」(平成11年 p.387)という文章だ。この感覚は自分にもある。大樹はもちろん、海山川岩石にも同様の感じを受けることはある。
著者によれば、「この「ぞっとする恐ろしさ」が、他でもない、ルードルフ・オットーの有名な「聖なるもの」の定義に属する。「戦慄すべきもの」あるいは「薄気味わるいもの」あるいは「妖怪的なもの」の感覚から聖なるものの領域の気配がはじまるというのである」(p.387)とのことである。オットーの『聖なるもの』は読もう読もうと思いつつも読んでいなかったのではあるが、こういう話を聞くとますます読みたくなってくる。
 
嘘を吐いている楽山には、神に「ぞっとする恐ろしさ」が強いのだろうと思ったら、楽山の思うつぼです。「戦慄すべきもの」ならば、今までのような、自己中で妄想的な安易さで神を否定することはないでしょう。
 
また、有名人の言葉を借りているだけであり、実際は「薄気味悪いもの」とも感じていないのが楽山です。楽山は、都合の悪い感情は切り捨てて、快感だけを貪ってきたことが、今までの筆致に表れています。
 
*キリスト教の敗北
もう一つは、「キリスト教の敗北」についてである。著者によれば、ザビエルは日本での布教活動においては、民衆にむかってキリスト教を知らずに死んだ祖父母らは救われないと「断固厳しい断定をし」(p.396)たのだったが、近年の「第二回ヴァチカン公会議」では「世界の情勢にあわせて世俗化の傾向を強め、異なる宗教との妥協と調和を図る方向へ教義を改訂した」(p.395)としており、これは「キリスト教の敗北」だというのである。これに対してはドイツ人から「あなたの方が私たちよりもずっとキリスト教徒だ」と評され、大笑いになったそうだ。
 
楽山は、キリスト教の勝利、神の勝利が分かるのでしょうか。何も分からないと思います。であれば、キリスト教の敗北も分からないはずです。信仰について何も知らないくせに、またしても、身の程知らずを露呈する楽山です。
 
異教との調和は、どういう異教かにもよるでしょう。自分が舐める飴ばかり漁っている楽山の手に負えるような問題ではないのです。すべて、ケースバイケースです。それを、一般的に語ろうとして、「キリスト教の敗北」と言っている楽山は、大笑いではなく、最初から、愚昧を自ら表しているようなものです。
 
(ネットより)
愚昧(ぐまい):おろかで道理に暗いこと。
 
著者の宗教観は、「こうした原理主義的な自己への明確な規定は、宗教の本来の性格からしてあたりまえのことであり、すべてを曖昧にする寛容さのほうがむしろ例外である。非寛容は宗教の特性ですらある」(p.395)というものらしいので、上のような結論になるのも当然ではある。
 
どういうキリスト教を見ているのでしょう。個人の心の中の宗教は、信仰としてしか生きていないものです。それは、結局、他者には分からないもので、神との秘密でもあります。
 
宗教の組織的なことを歴史的に見て、それで宗教を語ったつもりの人は、信仰に触れていないのだから、何が当然なのか、分からないはずです。
 
一部の愚昧な楽山のような者だけが、自らの惨憺たる敗北の履歴には気づかずに、「キリスト教の敗北」などと軽軽に言ってしまうのです。
 
*宗教と人情
ちなみに自分はどんな宗教観をもっているかといえば、下のような文章に感動するクチである。
ああ、そん時近藤先生に、
「多喜二は天国にいるべか」
 って聞いたら、
「あのね、お母さん。聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』という言葉があるんですよ。チマさんからも聞いていますが、多喜二さんはずいぶんたくさんの貧しい人に、いろいろ親切にして上げたそうですよね。『小さき者』というのは、貧しい人ということですね。名もない貧しい人に親切にすることは、イエスさまに親切にすることなんですよ。多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」
 うれしかったなあ。多喜二に会える。多喜二に会える。うれしかったなあ。
(『母』三浦綾子著、角川書店〈角川文庫〉、平成21年、p.214)
 」
これは小林多喜二の母が、洗礼を受けておらずキリスト信者ではない多喜二は天国に行けたかを心配したところ、親切な人なら信者でなくても天国にいないわけがないといってもらって慰められるという場面だけども、自分にはこれこそ宗教の役割であるように思われる。ただここでは「多喜二さんは天国にいる」と言い切らず、「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」と若干含みを持たせてるところは、著者の微妙な立ち位置が想像されるのではあるが。
 
「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」は、人間としての明確な肯定だと思います。楽山は、情緒面の欠陥から、含みを持たせていると受け取っています。
 
激励することが大切な場面でしょうから、日頃の楽山のような雑な言い方はせず、自分はどう思うかを、ちゃんと言い表しています。楽山は、何を言っているのでしょう。
 
(ネットより)
含みを持たせる
読み方:ふくみをもたせる
直接には言い表されてはいないが、表現の中に秘められた意味合いを持っている様子。
 
宗教と人としての情緒が完全に重なっていれば上のような問題は生じないのだろうけれども、そういうことはまずないのだから、情緒豊かな人ほど宗教を信じようとする場合は、宗教と人情のどちらをとるかという問題から逃れることはできず、やっかいである。この点、多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだと思う。
 
宗教と人情という2つの言葉による、楽山の、楽山のための、楽山だけの、独り遊びです。いつも楽山がやっていることです。楽山の言葉に、感動の要素が一切ないのは、このような理路の自己中心による破たんがあるからです。
 
その破たんした言葉で、無宗教を賢明だと言っていますが、これは、そのまま、自分は賢明な人だと自慢しているのだから、背筋が寒くなるのです。こういう婉曲に、だまされないでください。
 
「宗教と人情のどちらをとるか」「多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだ」・・頭がおかしいとしか思えません。よほど、戒律的、妄想的な、カルトだけを、宗教だと思っているようです。馬脚をあらわすとは、このこと。
 
キリスト信仰の情は、聖書からの、キリストご自身の深い共感に反応して発達します。
 
宗教と人情が重なっていないと言っています。違うのだそうです。それを最も如実に感じるのは、楽山においてであります。
 
景色と水が違うと言っているような的外れです。必ずしも背反しないものを、重なっているものを、崩壊した理路で分けて、どっちだと聞いているようなものです。
 
なぜなら、楽山においては、宗教は超常の怪奇物語に過ぎず、また、楽山には、人としての情がないからです。宗教も、情も、理路も、まるで知らない楽山だからでしょう。
 
当然、楽山の書くものに、そういう冷血と的外れは表れてくるのです。言葉は、楽山には、喧嘩のときに投げる石以上ではないのでしょう。
 
今日も、鬼畜の所業をやめない楽山です。人としての情のない男が、情を語ろうとして、自ら仕掛けた罠につかまってしまう例でしょう。楽山の言は、質の悪い独り言、楽山だけに返ってゆきます。
 
人生の、いろいろなシーンで、雫のように表れてくる真実の欠片を、ことごとく見逃してきたところの、いつもながらの楽山らしい棘だけで出来ている筆致でした。
 
深い情緒は、神への恐れから敬虔の必然として生まれてきます。
 
神を恐れないところからは豪語と虚偽と悪口が生まれてきます。
 
 
非常の沼

非情の沼
 
 
(2021年02月28日、同日一部修正)
 
 
楽山のリツイートです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·22時間
冷たい言葉は、相手の心だけでなく自分自身の心も冷たくし、温かい言葉は、相手の心だけでなく自分自身の心も温めます。心を冷やさないように、温かな心でぐっすり眠れるように、冷たい言葉を避け、温かい言葉を選んで話しまょう。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:32 · 2021年2月26日·Twitter Web App
 
記事の流れの中では冷血が明らかであるのに、場面場面に、丁寧語で、温もりを捏造する者もいます。
 
そういう者に温かい言葉を使うと、ますます、つけあがり、温もりを装うでしょう。そのような温もり芝居だけの、自分納得だけの世界に住んでいる者がいるのだから、暖かい言葉を使いましょう、という説教は、現実の中で、あまりに単純で、あまりに通念的な説教として記録されることになるのです。
 
今回、まさに、そういう者が、このツイートを引用しています。
 
 
(2021年02月28日)
 
 
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  楽山の偽り
 
 2021年02月25日
 楽山の「幸福とは何だろう?ブログ」
 大川裕太氏のこと(宏洋と広報チャンネル)
  抜粋して批判
 
 
楽山は、自説ではなくて批判なら、自分が書いてもいいだろうと思うのでしょうか。評論家気取り全開といっていい筆致です。誰に対する批判であれ、自己愛の身勝手さで書いている楽山には、批判する資格はないと思います。
 
楽山の、約2年半の履歴が、言論者~批判者としての楽山を否定しています。
 
「あるまい」「なかろうか」「難しいだろう」「有効な教訓だと思う」というようなアドバイス的な書き方をしている楽山は、反省もせず、責任も負わずに書いてくる人です。
 
楽山は、誰の忠告も、誰も批判も、受け取らず、聞かず、無視して、書いているということを忘れてはいけません。むしろ、このような受け狙いの丁寧語をボンヤリ言語と呼んで警戒しています。バランスがとれているように見せかける柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 
*双方の動画を見て思ったこと
広報チャンネルの「確証がないのに変なタイトルをつけて名誉棄損してる」という主張は正論だと思う。タイトルの最後に「?」をつけておけば、確たる証拠もなしに何を言ってもいいというわけでもあるまい。
 
確証もなく、根拠もなく、初歩的な理解もなく、確たる証拠もなしに、キリスト教の悪口を、印象操作と詭弁で広めようとしてきた厚顔無恥の楽山は、誰に対しても、アドバイスできるような人ではありません。楽山が使う批判の言葉は、楽山に返ってゆきます。
 
ただ広報チャンネルは、本人でもないのに女性問題はないと断言して大丈夫なのだろうか。こういうことは秘め事であって他人には分からぬことであろうし、断言は本人にしかできないのではなかろうか。
 
もちろん本人でもないし、信者でもないのに、神はいないと、刷り込もうとしてきたのが楽山です。いい加減に信じるのが望ましい宗教というようなことを言ってきたこともあり、全くの無理解で、著しく宗教と信仰の的を外したクレームで、いちゃもんをつけてきたのが楽山です。楽山の無知のシリーズには、批判を当てるしかありません。楽山は、あらゆる問題を無視する人です。
 
教団内の自由恋愛については、宏洋氏の話に驚きはない。大川隆法の結婚相手は一度目も二度目も信者職員だ。その子供たちも、宏洋氏以外はみな、HSの信者や職員と結婚してる。このことからすると、大川家の面々は、信者職員を恋愛および結婚の対象としては見ていないと言い切ることは難しいだろう。
 
「信者職員を恋愛および結婚の対象としては見て」はいけないと、楽山は言いたいのでしょうか。そう見ているのが事実なのに、見ていないと言うことが間違いだと言っているのでしょうか。
 
楽山は、平気で嘘を吐いて、せいぜい、st問題とか言って、おとしめの言葉を返してくることしかできない人です。そういう体質しか持っていないと判断しています。付き合えば、いつか、逆らって苦言を呈したときに、ひどい目に遭います。
 
恐ろしい自分信仰を、バランスが取れていると思い込んで、さらに、責任逃れのために、批判して、のちに、賛同めいたことを言う、というような、いい加減さで、ごまかしているネットの猥雑なワームの一人だと判断しています。
 
批判に答えることなく、批判を受け取ることもなく、ふつうを装って、書いてくる楽山の、目的は、今も不明ですが、楽山については、主張も、結局、不明であります。
 
楽山は、子供のときからの霊が分かるっぽい自覚から、宗教を離れて自分の言に従うことを欲しているようですから、既に、カルト教祖気取りなのかもしれません。カルトの犠牲者ではないと思います。
 
今言っていることの責任を、いっさい負う気がない、ということだけは忘れないでほしいと思います。まともに反応できる心がないのです。過去には、心理学の話を、霊の話にすり替えて、成り立たない非合理の妄想を、分かったふうに、吹聴していました。
 
古い話ではあるが、フライデー騒動のときに、支部で「マスコミはお金と異性問題を攻めてくるから注意してください」という指導があったことを今でもよく覚えているけれども、こういうスキャンダルを聞くと、これは今でも有効な教訓だと思う。
 
楽山が、批判を無視して書いてくることを心に留めて、注意してください。楽山は、大きなスキャンダルと萌芽として、準備状態なのかもしれませんし、上から物を言う立場に快感を感じているだけなのかもしれません。
 
楽山の言は、スキャンダルではなく、一途に災いであり、不祥事なのです。楽山からは有益な教訓は出てきません。益を奪うものであって、益を与えられるものではないのです。
 
楽山は、柔和なインテリ気取りで書いてきますが、真実の追求に必要な節操も理路も弁えておらず、情感も共感も持ち得ない病質者です。
 
ボンヤリ言語と呼んでいる婉曲表現の丁寧語と、トホホ言語と呼んでいる謙譲・反省芝居で、まともに見せかけてきます。楽山において、バランスは、書く動機において、既に、壊れています。
 
こういう楽山の見かけの腰の低さは、詐欺師の勧誘に似ているとともに、インチキ占い師や、インチキ商売の勧誘に、よく見られるものであります。さらに狡猾かもしれません。
 
こちらとしては、もはや、無理解と無責任だけをネチネチ返してきて過剰な疲労しか与えない楽山に対しては、直接のコメントの遣り取りをする愚を避けて、専ら批判記事をブログに書くことにして、偽善者の資料としてゆくつもりです。
 
 
偽りの柔和芝居

偽りの柔和芝居
 
 
(2021年02月26日)
 
 
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  楽山の上から目線
 
 2021年02月21日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 信仰と現実(ツイート保存)
 抜粋して批判。
 
 
性懲りもなく、次から次に、何かを書いてくる楽山は、そのたびに、恥ずかしい悪名のHNをさらすことになっています。
 
上から目線で、アドバイスふうに、刷り込んでくる楽山は、自己愛・自己中による人格破綻の進行する様を表しているに過ぎません。
 
よく知りもしないHSについて、私は、とやかく言うつもりはありませんが、宗教を知るだけの器を持たないのに、信仰について何も分かっていないのに、的外れのまま、資格も視野もなく、とやかく言ってくる楽山に対しては、批判を貼りつけるしかありません。
 
*内面
想像するに、上のような状況にある時の信者の内面は、次のようになっている。
信仰心旺盛のとき…「HSの教えは本物だ。人にはみな仏性があるのだから、この教えが本物であることは分かるはずだ。たとえアンチであっても、この教えを知ったら改心しないではいられないだろう」と奇跡の改心を信じている。または「自分はアンチを折伏する使命がある」と宗教的使命感に燃えている。
現実主義、合理主義に変わるとき…HSの教えを説いても、アンチから反論されるばかりで、立て板に水という状態がつづくと、HSの教えの万能性への信頼は薄れ、奇跡の改心を信じなくなり、「アンチと不毛な議論をしていても仕方がない。自分の話を聞く人にだけ話そう。救える者から救ってゆこう」という現実主義、合理主義的な路線に転換する。
 
楽山が言っている「立て板に水」とは、どういう意味でしょう。
 
(ネットより)
立て板に水(たていたにみず): よどみなく、すらすらと話すことのたとえ。
 
「反論されるばかりで、立て板に水という状態がつづくと、HSの教えの万能性への信頼は薄れ」という表現で、意味が通じるでしょうか。切りがない徒労、無駄に時が過ぎる、という意味を言いたいのでしょうか。辞書くらい引いたらどうでしょう。
 
楽山の、"横板に雨垂れ" のような記事です。言うたびに疑問と誤謬だらけの表現と内容の、楽山の言葉が詰まってゆくようで、先が見えません。
 
楽山にとって、旺盛な信仰は、現実主義や合理主義と対立するものなのでしょうか。むしろ、楽山の宗教観が、現実や合理から乖離していることを表しています。前に書いたと思いますが、楽山は、信仰を、非現実で、非合理の、夢・幻・お伽噺として見ていることが表れています。
 
信仰は、この世を生きるためにあるものですから、楽山の信仰話が、いかに甚だしい先入観と偏見で出来ているかが分かります。すなわち、こういう楽山のような人の話を真に受けていると、信仰者は、現実離れしてゆく非合理のために、堂々巡りとなり、無駄に疲れるということを表しています。
 
人間は、現実の中で生きているわけですから、現実離れしたり、合理を考えなくなったりすることは、即、生きることが困難になることではないでしょうか。そうなっているのが、楽山なのです。
 
なお、信仰というものは、人が正確に伝えられるものではありません。楽山は、深みのない教条主義的な宗教観か、夢物語の奇跡信仰という概念しか持たないので、教えを伝える奇跡の改心という魔法を信じることを信仰だと思い込んでいます。いたずらに混乱させる楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、安易な概念から、軽口をたたいて、分析して整理したつもりになります。信仰に必須であるところの心の深みがなく、共感性を持ち得ないからです。
 
楽山は、誰の心配もしていません。聞く人を自分より劣った者と見なして、上から眺めることを楽しんでいるだけです。相手にしないでください。
 
ただし自分の説法能力、感化力の乏しさは反省しない。自分の言葉を受け入れぬアンチはけしからんと、すべてアンチが悪いとする。
 
楽山の言に、説得力が見られたことは、一度もありません。楽山は、嘘と詭弁で誘導することを、説法能力とか感化力とか思っているのでしょうか。楽山のそれは、だますことです。
 
楽山は、自分の言葉を受け入れない者や否定したり批判したりする者は、けしからんと反論や批判をする代わりに、話にならないと無視しますが、いちばん話にならないのは、楽山その人であります。
 
言っておきますが、楽山は、すべての不祥事を人のせいにします。楽山は、非を認めたことがありません。楽山が、今まで、言ってきた「反省」「トホホ」「共感」などの謙譲言葉~芝居は、言葉だけで、全く内実がありません。
 
アンチに関わってきては退散することを繰り返す信者は、この二つの心理状況を行ったり来たりしてるのだろう。
 
楽山の、自らを一度も省みることなく、他者を上から目線で眺めて、批評家気取りで意見する、という姿勢と態度は、そのまま、本当の先生は自分だと言っているのと同じです。
 
「信者は、行ったり来たりしている」・・ここに最大級の軽蔑が表れていることを見逃してはいけません。楽山には、思いやりや共感という高等感情がないので、気遣いが出来ないのです。丁寧語を使っても、性根は、とても冷酷です。
 
*信仰の敗北
ちなみに私は無宗教なので、信仰によって考えるより、現実主義、合理主義寄りの考え方をしている。奇跡の改心は絶対に無いとは思わないが、人は基本変わらないものであろうし、人を変えようとしても仕方がない。
 
楽山は、自己愛性の人格の異常です。宗教を理解していませんが、自分のお粗末な頭と心だけを絶対化して宗教・思想を語ります。霊が分かるっぽい?自覚があり、ホラー趣味と同レベルで宗教を語り、現実主義とも合理主義とも交点すらありません。
 
「奇跡の改心」について「絶対に無いとは思わないが」と言っている楽山の頭の中にある "奇跡" は、魔法みたいな奇跡だと思います。その前提で、「絶対に無いとは思わないが」と奇跡には否定的であることは、心の奇跡を否定する先入観につながります。心というものを知らない者の言であります。
 
「人は基本変わらないものであろうし、人を変えようとしても仕方がない」と言っている楽山は、自分で言っている通り、通念と先入観の絶望的奴隷として訂正不能に陥っています。ゆえに、そのことは、学習不能となって、信仰の敗北というより、楽山だけの絶望的敗北となっているのです。
 
>私はこういう考え方なので、
 
楽山の考え方は、あってはならない考え方です。現状が、うまくいっていないことを自覚することは、進歩し成長するために必須なのですが、楽山には、この自覚がないのです。
 
KENTO氏がアンチから距離を取ろうとするのは理解できる。特定の信仰を他人に押し付けようとするのも、押し付けられるのも迷惑なことであるし、そういうことから離れるのはよいことだ。でも信仰者がこういう考え方をするようになるということは、ある意味、信仰の敗北ではあろうし、このことはきちんと自覚してほしく思う。
 
信仰は、まず、「押し付け」られるようなものではありません。楽山は、押し付けていないつもりのようですが、代わりに、嘘と詭弁で刷り込んできます。「とても迷惑なこと」です。
 
押し付けはよくないと明確に書くべきところを「そういうことから離れるのはよいことだ」と書けば、宗教から離れる印象になります。乱暴な理路と筆致です。
 
「信仰の敗北」「このことは自覚してほしく思う」・・楽山は、信仰について、その望ましい在り方も、勝利も敗北もを理解しておらず、信仰を感受できてもいないのに、さも分かってるふうに言ってくる、ということを忘れないでほしいと思います。
 
繰り返しますが、押しつけはよくないと言う楽山は、嘘と詭弁で、だましてくるのです。自分を大切にしてください。決して、楽山を、相手にしてはいけません。楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 
 
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(2021年02月22日)
 
 
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  楽山のカルト性
 
 
カルト批判に見せかけて、無反省・無責任・無理解・無神経に、放言して、評論家気取りで、自己愛を満たそうとしてきたカルト思想宣伝者、楽山のツイートとリツイートですが、なりを潜めたかと思えば、またしても、人の書いたものを、今度は他者のツイートを利用して、自己正当化を図ろうとしています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
フォローありがとうございます。
「朱に交われば赤くなる」など、ことわざには、経験的には一理あるものが多いですね。
午前10:07 · 2021年2月20日·Twitter Web App
 
楽山は、犠牲者となってゆく人を募集しているのでしょうか。
 
(ネットより)
朱に交われば赤くなる:
朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。語源については、中国のことわざ「近墨必緇、近朱必赤」に由来するものとされる。
https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%B1%E3%81%AB%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%B0%E8%B5%A4%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B
 
ことわざについて、上のような感想しか書けないのでしょうか。「善悪どちらにも感化される」ということを、楽山は書かず、「一理あるものが多いですね」という平板な感想を書いて済ましています。一理もないことわざがあるのでしょうか。
 
楽山のような偽善者に関わると、疲労し、頷き、受け入れて、悪と偽善に感化され、楽山と似たような、無反省・無責任な、社交だけで、実質は、鈍麻した無神経の、傍らに人亡きがごとき無法者になってゆくという場合もあるということです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
返信先: 
@Algorab_MAIKA
さん
フランスがカルト対策にあたり信教の自由との狭間でカルトの定義という壁にぶつかった時、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口としました。これはカルト問題に関わるうえで基本的な論理だと思います。(続)
午後8:34 · 2021年2月16日·Twitter Web App
 
有害極まりない自己愛性パーソナリティ障害の楽山の、性根を表すものとして注目するべきことであります。今までの、他者が書いた本を自己正当化に悪用するだけでなく、他者の、しかも、アンチカルトのツイートさえも悪用してくるという根性腐れの卑怯な楽山であります。
 
信教の自由が保証されているために、カルトに対しては、その宗教的内容の是非よりも、“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問うことを突破口にするという考え方のようです。しかし、ここには、大きな欠陥があります。これは、強制捜査や逮捕の基準に過ぎません。
 
言い換えると、犯罪行為に及んだら捕まえる、という、当たり前のことを言っているに過ぎないからです。前に、私の記事に書いたことですが、犯罪行為に及ぶ一日前はカルトではなかったのですか・・否・・という大きな疑問があります。前にも書いたことです。楽山は、何も受け取らない病質者だから、また、同じことを、他者のツイート引用リツイートで言ってきます。
 
つまり、こういう考え方の欠陥は、カルトに対するに、法的強制力に頼ることしか考えていない、ということなのです。カルトに対して、強制的にやめさせようとする構えだけでいるから、こういう考え方になってしまいます。
 
カルトに酷い目に遭わされるということは、どういうことでしょう。犯罪を犯すようになるから、というのは、かなりカルトに、のめりこんでいる場合であります。マインドコントロール・洗脳、そして、迷惑行為は、既に、犯罪以前に起こり始めています。
 
大事なことは、犯罪以前において、私たちには言論があると言うことです。即ち、カルトの勧誘が取り締まれなくても、信じたら酷いことになる信条だと思ったら、信じてはいけないカルトだと思ったら、批判することができるということです。しかも、その批判を敷衍することも出来るということです。
 
上のツイッターを載せている楽山(こも楽山)こそは、HS批判を装いながら、自身の妄想的心霊理解を、HSへの批判の反発力を利用して広めようとする軟派カルトなのです。
 
楽山は、人の言うことを聞かず、受け取らず、無視して、分かりもしないキリスト教の悪口をブログに書き、かつ、クリスチャン芝居をして、反対と賛同の両方を書いたことをもって、断定していないから責任問題は発生しないなどと言って、幼稚で勝手な、成り立たない屁理屈で、好きなように宗教をいじくって遊んでいる異常人格であります。
 
楽山の武器は、ボンヤリ言語、即ち、肯定も否定もせずに責任逃れをして、丁寧語で、宗教を、特にキリスト教を、侮辱して悦に入るような、婉曲否定と、トホホ言語、即ち、同情をひくための、反省、トホホ、共感、などという、自分に欠損しているものの言葉だけを書いて、柔和を装う偽善者の手練手管を振り回しているのです。
 
今回も、楽山の、オレが言ったのではないから責任はないじゃろ・・という企みが見え見えであります。何かに賛同したら、賛同した責任が生じます。楽山が、既存の宗教を揶揄し否定しておきながら、その責任を負わず、遊びのように自分を高めることだけを熱望しないではおれない人格破綻者であるならば、決して、その言を受け入れてはいけない、という実例であります。
 
楽山は、訂正不能の自己愛という病魔によって、非を認めない無反省、曖昧に書きながら丁寧語の遠回しな刷り込みをしてきて、かつ、責任を負いません。
 
また、楽山の履歴として、児童心理学を心霊の話にすり替える無理解を表し、奇跡の理路を書いたつもりで何の説得力もない自己矛盾と理解力の欠乏を表し、恐らく深い情緒や思いやりを感じ得ない情性からの他者が傷つくのを楽しんでいる心性を表し、何よりも、自身の欠点を、全く認めようとしないで、不都合を人のせいにする他罰性を表す、等々によって特徴づけられることが、ここ2年ほどの批判で明らかになっています。
 
今後も、他者の意見を引用して、自分の都合に合わせて悪用することがあるでしょう。楽山、こも楽山、というHNを覚えてください。誘われて応じたら、応じた分だけ、言いようのない疲労をもたらされることになる楽山はサイコパス的人格です。批判に見せかけたカルト思想宣伝者なのです。
 
誘われて非常に疲れる、ということが起こったら、HNは違っても、楽山が関わっている可能性を、考えるべきだと思います。楽山は、いかなる言論の中心にも端っこにも辺縁にもいてはならない特定疲労性病原です。
 
楽山は、右翼思想を礼賛する者であり、他者の精神を破壊するようなカルト的思想~妄想を刷り込んできますが、本質は、幼稚な自己満足と自己愛による霊能者気取りであります。やり口が、集団のカルトよりも、卑怯で、汚いということです。ブログを書かないときは、何事か、その他のメディア、例えば、ツイッターで、企んで書いてきます。
 
非常に傍迷惑で嫌気がさすことは、上記のツイートを書いた人が、楽山本人である可能性を考えなければならなくなることです。楽山が、犯罪に及ばない限りカルトとは言えない、という同じようなことを書いていたからです。楽山は、策士であり、詐欺師であり、嘘吐きであり、詭弁屋であります。
 
楽山には良心がないと思いますが、同時に、楽山は、他者の良心を破壊する病原です。良心と宗教と信仰と思想に対して、何らかの根深い怨念があるだろうと思われます。書けば書くほど正体がばれるのに、今になっても、まだ、誰かを騙すつもりでいるのしょうか。怖いことです。
 
 
 2021年02月20日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 霊的真相とは?(ツイート保存)
  抜粋して批判。
 
最も凶悪な者というのは、悪ばかり語るのではなく、悪と善を、真と偽を、混ぜて言ってくるから厄介、というのを聞いたことがあります。楽山という詭弁屋は、まさに、そのようです。
 
HSに限らず、概して宗教というものは、苦難困難に対して何らかの宗教的な意味づけをすることで乗り越えようとするものではあろうが、HSのいう霊的真相はその中でも極めて特殊、極端に過ぎるし、ここはもう少し穏当、理性的なものに改めた方がいいのではないかと思う。
 
楽山は、他者の苦難困難に乗じて、何らかの詭弁的な意味づけをして、相手を追いつめ、疲労させてきます。そして、何か言われて揶揄の返しも出来ないときは、無視してゆきます。当然、相手は、実に甚だしく消耗し、疲労します。それをいつも狙っているのが、楽山であります。楽山には、人間に相応しい理性はないと思います。
 
楽山の霊的真相は、自己愛による自己満悦・我執絶対の妄想です。それは、よく読まないと明らかにならないというのが、楽山の、ボンヤリ言語、そして、トホホ言語です。体質的に身につけたそれらの偽善の悪意は、人格レベルで固定されて、何を言っても訂正不能です。楽山の悪と偽善の害は、人格を含めて、全否定して、相手にしないことでしか、防ぎようがないのです。
 
 
また騙すつもりか

また騙すつもりか
 
 
(2021年02月21日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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