ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: カルト批判(20190626~)

 
  とほほ?
 
 「第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月23日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24881454.html
 
 
楽山の言葉は、決して、素直に読んではいけない、というのが、今までの私の学習の経過と結果であり、今回も、その楽山の言の災いが表れています。
 
素直に受け入れでもしたら、人格は無視と怠慢と破壊の方向にしか向かず、注意していても、楽山に盲従してゆくことになり、本来の、知性と感性の学習も、その結果としての成長も、できなくなるでしょう。
 
『ヨブ記講演』の第二講を読了。その内容を自分なりの言葉で要約、メモしておきたい。
 
メモではなく、楽山の観念的で訂正不能の先入観と偏見という思想の悪い要素、および、楽山発の、キリスト教への飽くなき嫌悪が、ボンヤリ言語の裏に固定された曲解に表れています。
 
このように、重大なテーマについて、劣悪な発言をしておきながら、気軽な、メモ、などという言い方をして、責任逃れをしてきます。楽山の、"自分なりの言葉"は、総じて悪意の詭弁であります。
 
・その名がヨブであったかどうかは別として、ヨブのような人物は実在していたのであろうし、著者もまたヨブのような経験をしたのであろう。ヨブはもちろん著者にも敬意を払うべきである。
 
内村鑑三を、聖書の登場人物であるヨブと並べて、同じような経験をした、と書いているところに、楽山が、いかに、聖書を軽く見ているかが表れています。
 
・一章一節においてヨブを全き人としているのは、「人より見ての完全であって、神より見ての完全ではな」く、この場合の完全の基準は、人それぞれであり、古のユダヤでは日本より相当に高い基準で判断されていた。
(ちなみに、ヨブ1-8では、神はヨブを表して、「全くかつ直く」(『ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫)としている。新共同訳では「無垢な正しい人」となっている)
 
 (ヨブ記、口語訳)1:1
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 
 (ヨブ記1:1、旧約聖書)
 
神の完全と同等の完全を身につけた人間は一人もいません。
 
人の肉体を持っておられたイエス・キリストの完全は、神聖なる三位の御一方ということを表しています。
 
楽山は、人より見ての完全どころか、訂正不能の完全と慢心の立場から、批評家気取りで、今回も、ヨブと神を語ってゆくのでしょう。その文章が、拙劣を極めても、不感不応の楽山は気にしないほどの、哀れな無反省の心性を持っているのです。
 
・サタンは神の許可を得て災厄をおこしている。この世の出来事はすべて神の意思によらないものはなく、またすべては何らかの意味を持ち、益となる。(ロマ8-28)
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
まるで、いつも、サタンは、神の許可を得て災厄を起こしているかのような書き方です。楽山は、恣意的に、サタンも、神も、字面だけの観念で語って、おとしめられると思うゆえに、単純な文脈を捏造しています。
 
聖書の記事から、神とサタンの関係を安易に決めつけてはなりません。
 
 (ヨブ記、口語訳)2:6
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
 (ヨブ記2:6、旧約聖書)
 
ここでは、サタンが、ヨブに加える災いには、命を奪うことを禁止する条件が付いています。人の命を造り、それを奪うのは、神のみの特権であります。
 
勝手に意味付けをしたうえで、楽山は、神の許可を得ているならば、なぜ、不幸が起こるのか・・みたいな、いちゃもんに結び付けたいのでしょう。
 
こういう幼稚な発想を、前に、して、また、今も、しようとしている楽山は、神を恐れず、神?を自らの観念の中において、何とか貶めようとしてきたのです。
 
私たちは言うべきなのです。神とサタンの関係については、人知を超えた領域ゆえ、人には理解できないことだと。
 
勝手の神とサタンのストーリーを決めつけてはならないし、特に、楽山のように安っぽい理路をもって文脈を作ってはならないということを学ぶべきです。
 
楽山は、聖書と信仰について、こういうことだけはしてはいけないよ、という、反面教師としての役割を果たしてきたのです。つまり、ここで、サタンの役割を続けているのは、楽山その人であります。一日も早く、退いてほしいわけです。
 
・ヨブの妻は自ら棄教し、夫にもそれをすすめたが、夫人の中には財産の一部を失っただけでそのようなことをする者もいる。ヨブの妻は財産も子も失い、夫が不治の病にかかるまで耐えたのだから彼女を責めることはできぬ。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:7-8
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 
2:9
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 
2:10
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
 (ヨブ記2:7-10、旧約聖書)
 
「神をのろって死になさい」と言った妻を、正当化することも出来ません。しかし、神を呪っている楽山は、味方したいようです。
 
誰か、この妻を責めたのでしょうか。大仰に「責めることは出来ぬ」という楽山には、誰も、この妻を、責めることは出来ぬと言って庇(かば)うことも出来ぬ、とでも言っておきましょう。
 
楽山は、裁き主であるかのように、赦したいようですが、人の罪の裁きは、神に任せられます。こういうところに、上から物を言う楽山の恣意は、顔を出してきます。
 
・多くの人々がヨブを見捨てたが、三人の友はそうではなかった。真の友はありがたい存在である。ヨブはこの三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかったであろう。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:12
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 
2:13
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
 (ヨブ記2:12-13、旧約聖書)
 
楽山は、ヨブ記の主題を外したいのでしょうか。人の説得が、結局は、ヨブに通じなかったというのが、ヨブ記の大きな主題であります。
 
楽山は、また、読み違いで、涙をこらえきれないヨブを、勝手に書いて、ヨブ記をメロドラマにしたいようです。浅はかな同情心で、信仰は語れない、ということを、楽山が明らかにしています。
 
ヨブ記を初めて読んだときは、サタンが神の許可を得て災厄をおこすというのは、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎると感じたものだったが、この世に起きることは、よき事はもちろん、そうでない事もすべて神の意思によるということを表現しているのであるならば合点が行く。「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」(ヨブ2-10 関根正雄訳)という言葉もこの流れにあるのだろう。
 
本当に読んで理解したのなら、「神をのろって死になさい」と言った妻の味方をする、というような、今までの高慢な発言は無かったはずです。あるいは、今までの記事の流れと、今回の記事の文脈から、ここでの、神の意志について、合点が行く、という、楽山の言は、嘘だということです。
 
すべてに意味があるという考え方については、近頃は目的論的な思考には共感できなくなってきているので抵抗があるのだが、でも自分の身の回りに起きた事、起きるであろう事は受け入れないわけにはいかないだろうし、そのためには結局さいごにはこの思考に頼るしかなかろうとは思う。
 
総てに意味がある、ということが、頼れる思考になるでしょうか、意味が、目的が、いちいち、納得できるように、分かるでしょうか、否です。
 
信仰者においても、起こってくることに対しては、悩み、悲しみ、迷い、ときに疑い、祈りのうちに、できることをしてゆく歩みなのです。
 
楽山が、ボンヤリ言語で言いたいのは、神と聖書への肯定ではなく、自分の思考への依存と自慢なのです。嫌らしい詭弁の印象操作でもあります。だまされないでください。
 
ヨブやその妻の心情について、内村鑑三の理解、同情は心にしみるものがある。氏は人の心が分かる優しい人のようだ。こういう人を見ると、自分はいまだに他人に厳しく、裁き癖が治ってないと反省させられる。とほほ。
 
反省しているなら、修正による主張の変化と成長があるはずです。修正しないでいいと言うのなら、反論か弁明があるはずです。それら、正常な言論は、楽山から、一度も見られたことがありません。
 
今までの記事で、好きなようにキリスト教と神への呪いのような悪口を執拗に書いておきながら、今回の記事で、そのまま、裁き癖が治ってないと反省している言葉、これこそ、嘘っぱちのボンヤリ言語の詭弁以外ではありません。
 
この記事だけを見ても、神をのろって死になさいと言ったヨブの妻の味方をしたり、一方で、神の意志に合点が行くと言ったり、支離滅裂になっています。自分を高める以外に、一貫した思想など、楽山は、何も持っていないと思います。そして、最後は、"とほほ"・・?
 
「とほほ」なら、書くな、と言いたい。楽山は、人を痛めつけることに快感を感じるサディストのように、滅裂な文章を書いてもニヤニヤ笑っていると思います。寒気がします。ホラーです。場合によっては、とても危険です。決して近づかないようにしてください。
 
 
(2020年05月24日、同日一部修正)
 
 
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  学習障害(LD)
 
 
楽山日記(LD)の、LDは、学習障害 learning disability のことなのでしょうか。学習障害を前提としないで、今まで私が見て、批判してきた楽山のブログには、楽山の障害を思わせることも多々ありました。虚言、無反省、学習不能、理路と共感性の障害、深みのない情緒障害、などです。
 
楽山は、この障害の名 "LD" を出して何が言いたいのでしょう。自分は学習障害だから、同情しろ、好きなように言わせろ、とでも言いたいのでしょうか。学習障害者は何をしてもよいのでしょうか。
 
例えば、嘘を吐く、幼稚な屁理屈や、先入観的な通念的な観念から、評論家気取りで、的外れの主張をしてくる、などについては、公共において、真に受けると害となるのは当然であり、その都度、ブレーキをかけることが必要になるでしょう。
 
かといって、ネットでは、強制的な手段はないのですから、不当な理路や、情緒の偏りに対しては、批判をすることは、必然であり、かつ、必要であるということです。
 
 
(ネットより)
 
学習障害(がくしゅうしょうがい、Learning Disability, LD)は、単一の障害ではなくさまざまな状態が含まれる。医学、心理学、教育学の分野にまたがって研究が進められ、それぞれで若干概念が異なっている。バランス感覚を欠き、身体の協調運動の困難を合わせ持つ子も多いため、リハビリテーション医学の分野でも研究が行われている。
 
種類には、読解(ディスレクシア)、数学(ディスカルキュリア)、書き取り(ディスグラフィア)などがある[2]。
 
日本では旧文部省が1999年、学習障害を定義している。
 
「学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指すものである。学習障害は、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚障害、聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない。」
また、アメリカ合衆国の連邦合同委員会が出した定義もよく知られている。
 
「学習障害とは、聞き、話し、書き、推理する能力、算数の能力を取得したりするのが著しく困難な、さまざまな問題群の呼び名である。そのような問題は、生まれつきの中枢神経の働きの障害によるものと考えられる。 学習障害は、他のハンディキャップ(たとえば、感覚の障害、精神遅滞、社会性や情緒の障害など)や不適切な環境(文化的な違い、望ましくない教育など)からも生じるが、そのようなハンディキャップや環境から直接生じるものではない。」
— (1981年 学習障害に関する連邦合同委員会報告)
 
 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E9%9A%9C%E5%AE%B3
 
 
Wikiなど、あちこちに、上のようなことが書いてあるから、楽山は、ネットの学術系のサイトを、ほとんど引用しないのでしょうか。そして、自分で本を選んで、都合の良い話を見つけようとしてきたのでしょうか。
 
単一な障害ではなく様々な状態が含まれる、ということは、同情に値するものから、楽山のように、同情してたら、どこまでも慢心して、批判したら、やはり、どこまでも慢心して、つけあがる人もいるということでしょう。
 
また、生まれつきの中枢神経の働きの障害、ということからは、薬物治療や、支持的な精神療法では、無効であったり、改善できない場合もあるということでしょう。
 
楽山が、学習障害であるならば、今までの、こちらが何を言っても、自分の主張だけを言い張り続けて、かつ、ときには、誘導的な、嘘を吐いたり、私がボンヤリ言語と呼んだところの、婉曲的表現で印象操作したり、刷り込もうとしたりの、白々しい詭弁が表れることもあり、つまり、学習障害の人には、悪意だけの迷惑な人もいるということかもしれません。
 
とてもじゃないが、ネットという公共の場で、宗教や思想などの真実追求がテーマの場合には、そういう幼稚なことばかり言い張るような人は、むしろ、こちらに障害を与えているようなものです。したがって、それなりの批判を向けることは、避けられないことだと思います。
 
学習障害の人が、学習障害を自覚しているならば、もっと謙虚になっていいはずだと思いますが、様々な状態があるということですから、そううまくはいかないのだろうと推察しますが、特に、楽山の場合は、恣意的な思い込みに誘導する言説が随所にみられるため、真実の追求においては、迷惑は迷惑と、邪魔は邪魔と、理路も情緒も、なっていないなら、なっていないと、はっきり言うこと、すなわち批判は、必然であり、必要だと判断しています。
 
 
(2020年05月23日)
 
 
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  批判の節操
 
 神を批判してはいけないのか?
 2014年12月06日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512429.html
 楽山日記(LD)
 
 
「楽山日記」で検索したところ、上の記事が見つかりました。私が楽山を批判する前の記事だと思います。恐らく、ずっと前から、キリスト教を侮辱してきたのでしょう。そうしながら、クリスチャン芝居もしてきたのです。見逃してはならないところがあるので、書いておきます。
 
*神を批判してはいけないのか?
宗教を信じている人の中には、「神を批判してはいけない!」という人がいる。本当にそうだろうか。この点について、自分の思うところを書いてみたい。
 
批判は自由です。しかし、楽山は批判をしたことはありません。楽山は、こちらの言い分を全く受け取ることなく、勝手に書いているだけなので、これは、批判ではなく、嫌がらせか悪口に過ぎません。そういうことを書く者には、言うまでもなく、批判をする資格はないのです。
 
*あるクリスチャンの言葉
このテーマについて考えるとき、いつも思い出すのは、あるクリスチャンの言葉だ。彼(クリスチャン)は、キリスト教批判に対して、次のような趣旨の話をしていた。
「批判者だった人が、熱心な信仰者に変わることは珍しくありません。批判というのは、見方を変えれば、それだけ関心があるということなのでしょう。これは無関心よりはずっといいことです」
これはなかなか含蓄ある言葉だと思う。
 
楽山が批判者であれば、信仰者に変わる可能性はあるのでしょう。しかし、楽山は、上に述べたように、きわめて卑怯な誹謗中傷の者です。2014年のこの記事に書いた"含蓄"?、楽山は、全く生かせておらず、気にもしていないということが表れているのです。
 
*批判してはいけない神とは?
「神を批判してはいけない」というときの神とは、どのような神のことだろうか? それには次の三種があるように思う。
A.宗教教義(神の教え?)
B.教祖(生き神様)
C.宗教教義で定められているわけでもなく、教祖でもない神(各人が持っている神のイメージ)
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。批判の節操を守らない者に、批判する資格はないと言っています。
 
また、批判されたときには、当然、批判された側は、批判返し、すなわち、反論または弁明の権利を有します。
 
*Aについて
宗教教義というものは、人による神解釈ではあっても、神そのものではないだろう。神の意思を、人に分かる形に翻訳、解釈したものが宗教教義なのではないか。
そうであれば、「神(宗教教義)を批判してはいけない」というのは、ようするに「自分の信じる神解釈を批判してはいけない」ということにすぎないように思える。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。何といっても、楽山は、私の批判に対して、一度も、真っ当な批判も反論も弁明もしたことがありません。
 
*Bについて
これも上と同じだろう。「神(教祖)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じる教祖を批判してはいけない」といっているだけだろう。
*Cについて
これも上と同じ。「神(自分のイメージする神)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じている神のイメージを批判してはいけない」ということだろう。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。楽山に対しては、楽山の、極めて狭小で、成長のない先入観の視野にあるものをキリスト教と呼び、神と呼んでいることが明らかになっています。つまり、そこで、字面を追っただけの悪口に過ぎないので、キリスト教もキリスト信仰も全く理解しておらず、幼稚すぎるから、批判になっていない、という判断です。
 
*信仰を傷つけないでほしい
以上をまとめると、「神を批判してはいけない」というのは、ようするに「私の信じる神(教義、教祖等)を批判してはいけない」ということのようである。もっと直截的な言い方をすれば、「自分の信仰を傷つけないでほしい」とも、「俺の信じる神に文句いうな!」とも言えるかもしれない。
 
まさしく、楽山こそ、俺の言うことに文句言うな!、という動機から、今まで、一見、丁寧に見せかけるところの「なくもない」「否定できない」前には「かなあ」「というか」といったボンヤリ言語による、誘導、印象操作、刷り込み、などと言う詭弁を弄してきたのです。
 
*他人の信仰に対する配慮
他人の信仰に配慮することは、とても大切なことではある。
ただ人はそれぞれ異なる信仰を持っているものだ。そのために自分の信仰に正直になることが、他人の信仰を批判することに通じることもありえる。
この場合は、どうすればよいか。自分の信仰を率直に表明してもいいのか。それとも他人の信仰を傷つけないために、自分の信仰を抑えるべきか。
これについては、万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ。
 
全くの勘違いです。自分の信仰を語るのに、正直でないことは、偽りを言うことです。せいぜい、感情的な表現を、できるだけ控えることが出来るかどうかでしょう。根拠があれば、それを理解しない相手に対して、厳しくもなるわけです。
 
字面だけを追っているから、正直であることを、利便性や社交と同じように扱って、上のような、抑えるべきか、難しい、などという、的外れの理路になるのです。
 
*動機
次に、「神を批判してはいけない」という言葉を発する動機を考えてみると、次の三つがありそうだ。
1.天罰をおそれて
2.神の使いをおそれて
3.反作用をおそれて
*1について
神を批判する人に天罰がくだることを心配して、「神を批判してはいけない」というのは親切なことではある。
ただこれは、「神は慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力は持たないだろう。
 
神は、愛の神であると同時に、戒め懲らしめる神でもあることが、聖書には書かれています。批判と悪口を混同している楽山は「神を批判してはいけない」という書き方をしていますが、祈りにおいては正直であることが必要であります。
 
楽山は、先ず神を決めつけるのが信仰?という見なしで決めつけて、そこにおいてのみ、文句を言ってきます。基本的に逆であります。
 
祈りは、批判ではなく、ましてや、悪口でもなく、疑っているなら、疑っていると、疑問を訴えることは、正直な気持ちの祈りとしてありうることです。キリスト者は、神と社交のお友達になるわけではないからです。
 
ただ、その時、信仰者なら、神を恐れて、ふるえることはあるでしょう。それは反省を促すかもしれません。少なくとも、信仰は信じることで完全になることではないので、知ったかぶりで上から批評を語る楽山の手に負えるものではないということです。
 
*2について
神は天罰をくださなくても、その下にいるものたちが罰をあてることを心配して、「神を批判してはいけない」というのも親切なことだ。
ただこれも、「神はもちろん、高級霊も慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力を持たないだろう。
また、このように神や高級霊はどこまでも慈悲深い存在だと信じている人からすれば、「天罰」云々と言う人たちは、「慈悲深い神や高級霊と、祟り神や地獄霊との違いが解らない人たちだ」と見えるかもしれない。
 
このような先入観と偏見での場合分けは、信仰にとって、何の意味もなく、何の役にも立ちません。何もかも一面的です。その見方で、人間の種類を気安く分けてしまうから、話になりません。
 
*3について
神や高級霊が天罰を下さなくても、神や高級霊を悪しざまにいえば心の法則によって反作用があることを心配して、「神を批判してはいけない」という人もいるかもしれない。
これは一理あるように思えるけれども、批判者の心を動かすのは難しそうである。批判者は神を批判しているつもりはなく、「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっているだけだ」という考えを持っているだろうから。
 
そういう心の法則を信仰に通用させてしまうのも幼稚だと思います。
 
私は、批判ではないものを批判ではないと言い、理解ではないものを理解ではないと言い、おかしい楽山の頭と心を、おかしいと言っているだけです。
 
楽山の語る神が神ではないと言うのは、聖書の伝えていることを楽山が何も受け取っていないからです。楽山が、自己愛によって、人間らしい心を捨ててしまったために、受け取るだけの器を持っていないということです。
 
*もう一つの動機
以上、利他的動機について書いてみたけれども、もしかすると利己的動機についても考えられるかもしれない。たとえば、「神を批判してはいけない」という言葉の裏には、神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心がある可能性も考えられる。
 
楽山の、自分は分かるんだという強迫性だと思います。邪推とも言えるでしょう。つついてもしょうのないところを、楽山は、執拗に、つついているだけです。心ない者が言葉の字面だけにこだわると、いかに本質から逸れてしまうかという例でしょう。
 
「信仰を守る」といえば聞こえはいいが、実際は「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドにしがみついているにすぎないこともあるものだ。また「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されているだけのこともある。
このようにプライドや恐怖心から、「神を批判してはいけない」と言うこともあるかもしれない。
 
それは、まさに、楽山の自我の空想=固定観念について言えることなのです。キリスト信仰においては、悔い改めと祈りが生活になります。プライドにしがみつくことが信仰だと思っているのでしょうか。それは、楽山と同じように勘違いしている者がいるという、それだけのことです。
 
楽山は、観念の奴隷だと思います。だから、字面にしがみついているのです。"「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されている"のは、信仰ではないのです。
 
つまり、楽山は、間違った信仰を論って、キリスト教とキリスト信仰を貶めたいだけなのでしょう。
 
*動機の見分け方
「神を批判してはいけない」という発言の根底に、思いやりがあるか、利己心があるかは、その発言者の態度を見ればおおよその見当はつきそうではある。
 
楽山が、記事を書く根底には、心の利己心、つまり、自己愛と自己中心しかないと思います。そこから見下ろす視線で書いている限り、神も信仰も理解することはないでしょう。
 
ただ人というものは、心中が愛だけの人も、利己心だけの人もいないだろうし、激怒の裏に深い愛情があったり、穏やかさの下に冷酷さがあったりすることもあり、ややこしいところもあるから注意が必要だけど。
 
愛、利己心、激怒、愛情、穏やかさ、冷酷さ、と書いた後で、ややこしいと書くだけで済ませられるのが、楽山の自己愛と自己中の自己満足です。
 
*神を批判することは可能なのか?
ちなみに私は、神とは超越した存在であると思っている。人には人知を超えた神を認識することはできず、したがって神を賛美することも、批判することもできないのだろうと。
 
またまた、超越という難しい言葉を、存在に付けて、言い得たつもりの楽山です。人は神を賛美することが出来ないのでしょうか、否です。
 
おそらく、人にできるのは、真実の神についてでなく、自分または他人がこしらえた神像についてああだ、こうだと論評することくらいなのだろう。
 
驚きました。まさに、楽山がしていることです。
 
人が、神についてできるのは、聖書の話と、信仰者の考え方と、人が信仰によってどう変わったか、という人の側の変化の話です。
 
どうか、楽山のような、偽者の神像の話を、それが肯定でも否定でも、真に受けることのないように、また、感情を乱されることのないように、決して、楽山に近づかないでください。
 
*信仰と自由
ところで、「神を批判してはいけない」という人たちを見ていて思ったのだが、人はどのような神を信じるかによって、自由が広がったり、狭まったりするようである。
考えてみれば、人格を持ち、感情に突き動かされながら裁きを下す神(生き神様、人格神等)を信じるよりも、人格を持たず、感情もない自然法則のようなものを神と信じた方が、神の機嫌を損ねることをおそれる必要はなくなり、自由になるのは当たり前なのだけれど……。
 
楽山は、ここで、自らの気分的で気晴らしにしかならないような、自然への信仰?を、勧めてきます。自然の機嫌を損ねることはないそうです。津波や雪崩のことをどう考えているのでしょう、偉大だと仰いでいられるのでしょうか。楽山の、いい加減な字面の工作が壊れてゆきます。
 
*信仰それぞれ
世の中には、狭いところがすきな人もいれば、広いところがすきな人もいるものだ。他人から束縛されることを喜ぶ人もいれば、喜ばない人もいる。そうであれば、人に干渉する神を信じる人もいれば、人に干渉しない神を信じる人もいるのが当然だ。
これはどちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではなく、個性のちがいということだろうし、そうであれば、人はそれぞれ自分に合った信仰を持てばそれでいいのだろうと思う。
 
狭い、広い、束縛、悦ぶ、人それぞれと同じように、人に干渉する神、干渉しない神、を並べて語るのは、いずれも通念的観念だけを追った字面の工作に過ぎません。そのことの、優劣があるとかないとか、どうして、いつも飴玉を舐めているような楽山に分かるでしょう。
 
このように、いろいろ言った後で、自分に合った信仰を持てばいいと、趣味の話の次元に貶めてくるのが、楽山の迷惑極まりないボンヤリ言語なのです。
 
*人によって、神のイメージが異なる理由
結局、人は自分の姿を神に見ているのかもしれない。もしそうだとすると、「神を批判してはいけない」というのも、「神を批判してもいい」というのも、自分の姿を神に投影しているにすぎないのだろう。
 
そして、自分の姿を神に見ているのかもしれない、自分の姿を神に投影している、などと言ってきます。色々書いた後で、これが、楽山の軽蔑と、悪意の企みなのです。
 
信仰者は、自分に、うんざりした人が、救いを求めてくることが多いのです。自己愛性人格障害者である楽山には、全く理解できないことなのでしょう。
 
*最後に
こう考えると、人に人格や個性がある限り、自他が同じ神のイメージを共有することは不可能であり、また無益であるように思えてくる。
真実の神が存在するかどうかはわからない。けれども少なくとも、人が語る神、または人が認識する神は、人から独立した客観的な存在ではなさそうではある。
こういったことを了解する人が増えれば、信仰の押し付けのようなことは減り、人々はより自由になることができるだろうなあと思う。
 
神のイメージと、神は、明らかに違います。前者は、人がいだくものですから、神への恐れによって、決めつけないことが必要です。それを、混同して、神を否定してくるのが楽山です。
 
人は、神の意志と行為を決めつけることが出来ません。しかし、通念的観念を字面に当てはめているだけの低劣な楽山には、神について、否定についても肯定についても、一言も信頼に足る言葉を語ることはないでしょう。
 
2014年の、この記事と、最近言っていることと、楽山は、全く変わりがないように思えます。
 
信仰の押し付けはカルトがやっていることです。信仰の貶めは楽山がやっていることです。信仰を持たなければ自由なのでしょうか。それで自由だったら、聖書も、宗教も、信仰も、生まれる必要はなかったのです。本末転倒の楽山です。
 
宗教について信仰について、その起源も必要性も理解していない怠慢な楽山は、今も、同じような、安物のイメージで宗教と信仰を語っています。無反省の訂正不能の、言論と頭のボンヤリ言語の弊害は、まるで、蜘蛛の巣が首に巻き付いたときのような不快感をもたらします。
 
楽山の言うような、飾りの信仰?なら、楽山の言うように、いい加減に理解して、いい加減に信じてもいいのでしょう。何も良い方向に変える力のない信仰?だからです。
 
信仰は、現象としても、人が、それを必要としたから、伝えられて、広まっているのです。
 
楽山やシャロームなどの易坊類に典型的ですが、宗教には曲解やカルト化という弊害はありますが、今も、信仰を必要とする人々がいるのです。
 
楽山は、善に見せかけて、無理解と悪意から、ひどい侮辱の言いがかりを、笑いながらしているとしか思えない平気さで、今も続けているサディストです。
 
 
(2020年05月22日、同日一部修正)
 
字面(じづら)
論う(あげつらう)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
雪崩(なだれ)
 
 
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  不治の悪意
 
 『まんが 弁護士が教えるウソを見抜く方法』深澤諭史著
 2020年05月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24844902.html
 
 
楽山という嘘吐きは、嘘についての本を悪用して、自己正当化を図ってきます。まるで、自分は批判する側だと言いたげです。知能の殆どを自分を高めるための嘘と詭弁に使ってきたために、正常な冷静な処し方が分からなくなっているようです。
 
それで、どこまでも、策に溺れ、汚い誘導だけの闇の手段ばかりを使い、それこそ、煤(すす)の灰色~黒~真っ黒に向かっています。
 
タイトルから、嘘をつく人の心理を分析してあれこれ理屈を言うのではなく、もっと実際的なことが書いてありそうだったので読んでみた。結果は当たり。はじめは興味があるところだけ読めばいいと思っていたのだが、いつのまにか全体を通読してしまっていた。以下に、記憶にとどめておきたいと思った箇所のメモと感想を書いておきたい。
 
楽山は、嘘吐きなのに、嘘についての記事に感想を書くのだそうです。前提に、今まで文章に表れてきたところの、嫌らしい詭弁、心霊についての妄想、意味の狭小化、そして無反省があることを知っておいてください。こういうことをすれば、さらに根深い虚言になります。
 
・テストで正しい答えを書けなかったとき、それは間違いとは言っても、嘘とは言わない。嘘と間違いはちがう。嘘とは「記憶と違うことを言うこと」である。
(嘘と間違いのちがいについて、テストのたとえ話は分かり易い)
 
教育的な愛情があれば、「それはウソ!」で、いいのです。情感を理解できず、愛情を持っていないから、言葉で決めつけるのが、楽山です。自らの字面だけの理屈の奴隷になっている楽山を見てください。
 
・100パーセントの嘘も、100パーセントの真実もない。
(事実と認識の間には必ずいくらかのズレがあるだろうことを思えば、この言はよく納得できる)
 
だからといって、楽山のボンヤリ言語のように、いい加減でいい、ということにはならないです。さっそく自己正当化を、婉曲的に、刷り込んできます。いつもそうです。人の口を借りて、正当化してきます。
 
人は、正しいと思うから発言します。間違っていたら、あとで反省します。この反省機能が欠落しているのが、楽山です。だから、字面にこだわるのです。
 
このように、楽山が、本を引用して自己正当化をするときには、逆に、楽山の無理解が浮き彫りになってくるのです。どんどん、裸の王様、嘘の読書家、詭弁家、の楽山です。自分に都合の良い本を漁っては、書いてくるのは、今までと同じです。
 
・詐欺は権威づけから始まる。
(マルチ商法では、滅多に会えない偉い人と会えるだの、権威がある人物から評価されているだのいって勧誘するらしいが、これはカルト宗教も同じだ。教祖は仏陀の生まれ変わりで、今しか会えない等はよく使われる話だ)
 
楽山は、本によって、他者の口を利用して、権威づけをしてきます。こういう人が言うのだもの、有名人だもの、と言って刷り込み、楽山の、気に入らないことを無視する、という、カルト相当の自己中に誘導するのでしょう。
 
自分発信だと、何が言いたいのか滅裂なので、人の言葉+自身の滅裂=ボンヤリ言語、として書いてきます。書かない選択がないのは、癒えることのない自己愛性によるからです。
 
・嘘つきは質問と答えが一致しない。
(これもカルト宗教ではよくある。疑問点について質問しても、質問ははぐらかされ、その答えはもらえないというのはよくあるパターンだ)
 
楽山は、クリスチャン芝居を書いてきたり、反キリストの記事を書いたり、しかも、何の反省も訂正もなくやってくるので、議論や言論におけるその時点での暫定的な答えさえ生まれません。どうか、楽山には、近づかないでください。恐ろしく疲労を与えるだけの男です。
 
・証拠に欠ければ裁判では負ける。裁判は「真実を見つけるための場所」ではなく、「判決を出すことで紛争に決着をつけるための場所」である。
(判決で事実とみなしたことと、本当の事実とは必ずしも一致しないらしい。「100パーセントの嘘も、100パーセントの真実もない」は、裁判所にもあてはまる)
 
とうとう、裁判所まで持ち出してきます。裁判所だからといって完全無謬ではない、ということを、だから楽山も間違っていいんだ、いい加減でいいんだ、嘘吐いてもいいんだ、という方向へ誘導する刷り込みです。
 
こういう楽山のような人には、実際、私は、全否定100%、信頼度0%、と思っていますし書いてきました。そういうレッドカードを付けておきたい楽山です。
 
・相手に喋らせることで嘘を明らかにする。
(語るに落ちるというやつか…)
 
自分の言われそうなことを、自分から言って、自分をそこから除外する印象を与える詭弁です。つまり、楽山の、記事という口から、嘘と詭弁が明らかになってきました。
 
・相手を追い詰めてはいけない。
(これは相手を余計に頑なにしてしまうことになりがちだし、窮鼠猫を噛むということもありえる。恨まれ、後々まで付きまとわれてもおもしろくない。注意が必要)
 
楽山が書くたびに、批判をして、追いつめられるなら、追い詰めなくてはなりません。楽山は、シャロームと同様の、不感不応の無視の権化だから、つまり、非人間だから、平気なのです。
 
だから、楽山に対してではなく、一般読者に対して広めるために、楽山の嘘と詭弁と悪意と病理を書いてゆきます。つまり、私は、ここに近づくな、という、警鐘そして警報としての批判記事を書いています。
 
私のブログと、楽山のブログがあるあいだ、リンクとHNは有効でしょう。
 
楽山が追いつめない人なら、当然、反省を書くはずです。反省を書かず、このようなことを書くのは、いつも、自分が上で、教える立場だというナルシシズムによるからです。
 
自分が何を言っているのか、相手が何を言っているのか、恐らく、何も分かっておらず、何も分かろうともしていないからでしょう。
 
・面白い話には嘘がある。
(フェイクニュースはスピリチュアル系に多い。前世、生まれ変わり、ソウルメイト、縁生の弟子、心霊体験、宇宙人、霊言、チャネリング、幽体離脱など、この手の話は眉に唾つけて聞いた方がよさそうだ)
この他にもメモしておきたい論点はあるのだが、とりあえず今回はここまで。
 
スピリチュアル系など、眉唾だと書いていますが、"心霊が分かるっぽい"自覚で、発達心理学を心霊の話にすり替え、循環論法の矛盾で奇跡を語ってきたのは、楽山です。よくこんなことが言えると思います。
それぞれに対する私の批判記事は次の通り。
「心の理論」:幼稚な勘違い
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
「奇跡について?」:詭弁の嫌らしい詭弁
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12562025912.html
これらは、楽山の理路の拙劣さと詭弁が明らかなので、リンクしておきます。
 
既に、ペテンだとバレているのです。それでも、書いてくるのは、楽山の根っからの悪意か、楽山が異常人格か、ということしか考えられません。
毎回、おかしなことばかり、詭弁ばかり、書いてくる、良心のない楽山の記事ですから、私の批判が、どんどん、シンプルになってきました。
 
最近の楽山の記事を見ていると、わざわざ楽山に当てはまりそうなことを書いています。その楽山の意図というより企みは、これらのことをする他者がいます、自分は客観的に見ているほうです、という印象を吹き込みたいのでしょう。これは印象操作による刷り込みです。
 
つまり、知恵というものを、真実追求には使えず、どこまでも、騙す方向に使うほどに、病根の深さが表れているのです。最大級の軽蔑とともに、全否定を当てるべき、楽山に対して、警報は、鳴り止みません。
 
 
(2020年05月21日、同日一部修正)
 
窮鼠(きゅうそ)
眉唾(まゆつば)
騙す(だます)
 
 
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  サディスト
    楽山日記(LD)
 
 『ヨブ記講演』内村鑑三著
 2020年05月17日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24815757.html
 
 
全く反省というものが出来ず、悲しむという感情を持たず、弁明や反論の代わりに、相手を煩わせるだけの目的で、何かをしてくる、この場合、何かを書いてくる者がいます。それをサディストと呼びます。あざ笑うように良心を疲労させることだけを目的とする悪意の体質であります。
 
相変わらず、批判に対して何も反応しない楽山は、キリスト教関連らしい記事を2つ書いてきました。意味のある中身は殆どありません。
 
笑って楽しむのがよい、というようなことを前に言っていたオチャラケの楽山が、また、真顔の批評家気取りで、本を読んで、何かを書いたとしても、もはや、その目的は、嫌がらせと見栄以外にないのです。
 
こういうサディストの心性は、一般に、人を、だまし、傷つけて、うまくいったと思うと、自分が上だと妄想で確認して、それを悦びとしています。高ずれば、殺人的にもなり得る性質です。
 
自己愛と自己中心のために、自分で自分の人格を破壊しているので、視野も思考も概念把握も、猫の額になって、しかも、そこで、確信し、慢心し、固定しているのです。成長に必要な不全感や罪悪感、反省力と学習意欲を、慢心によって、さらに、酔って、気づかないまま潰してきたのでしょう。
 
内村鑑三の『ヨブ記講演』はいつか読もうと思いつつ積読状態が続いていたのだが、今日はようやく開いてみることができた。内村鑑三の文章は難しいイメージがあったのだが、本書は講演録であるためか思っていたよりずっと読みやすくてうれしい。適度に段落分けしてあるのもありがたい。
 
聖書を理解していない反キリスト楽山が、内村鑑三を読むことに、何か意味があるのでしょうか。また、愚にもつかぬ嫌がらせの悪口か、でなければ、舌打ちにしか値しない駄文になるだけでしょう。
 
ヨブ記は、聖書の中でも、解釈が難しく、それこそ、反キリストのネタとして垂涎の的となりやすい聖書の記事ですから、本をダシに使っても、楽山のような、怠慢で、意地だけが強いサディストが正常に正当に読み解くことは不可能だと思います。
 
まずは「第一講 ヨブ記はいかなる書であるか」を読み終わったが、このまま読みっぱなしにするとすぐに忘れてしまうので、ここに内容をメモしておく。
・ヨブ記…発端1、2章、絶頂19章、終尾42章。
・旧約…はじめ17書(歴史)、おわり17書(預言)、中間5書 ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌(心霊的教訓)。
・新約…はじめより使徒行伝まで(歴史)、おわりの黙示録(預言)、中間の書翰(霊的実験の提唱、教理の解明、教訓)。
・ヨブは異邦人…聖書はイスラエルの人々に限らず、普遍的人類的経典であることの証。ヨブは、ウズの地(異邦の地)に住む。
・ヨブ記は文学書としても思想書としても読むことは可能だが、信仰によってこそ了解できる。
・ヨブは神より解答を与えられていないが、それで満足、歓喜している。神との出会いがありさえすれば、明確な解答がなくともそうなる。
 
楽山が、ケチをつける順序のように書いています。一人の成りすましが疑われているところの、楽山やシャロームなどの易坊類として、忘れてしまいそうなら、メモなどせず、しかも、そのメモを、わざとらしく記事に書いたりせず、忘れて、何も書かないことです。
 
趣味で、宗教と宗教人をけがし、何も残らない廃墟の人格で書かれる記事は、存在するだけ、迷惑というものです。しかし、サディストは、それが、生き甲斐なのでしょう。
 
以前、ヨブ記を通読したときは、最後に明確なこたえがなくて肩透かしを食った気分になったのを覚えているが、内村鑑三の言葉を読んで、こたえがないことにいくらか合点が行った。その存在を感じさえすれば、何の言葉がなくとも、癒され感涙にむせび幸福感に包み込まれるという感覚は分からなくもないので…。
 
ヨブ記を読んで、肩透かしを食らった、と言っています。何も読んでいないのと同じです。悲しみの情がない人が読むと、そういう感想になるのか、と思うだけです。
 
ヨブ記は、ある意味、悲劇であり、疑いに結び付く場合もあり、深く信仰について、神について、考えさせられるところなのですが、楽山は、大仰な「癒され感涙にむせび幸福感に包み込まれるという感覚」と強い感情の言葉を書きながら、それは「分からなくもないので…」と曖昧に書くのは、情緒的表現として矛盾しています。
 
こういうところに、既に、情緒面での楽山の欠陥が表れているのです。また、楽山は、白々しい嘘を吐いています。
 
 
 人の運命は決まっている?(詩篇138 [139])
 2020年05月17日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24815564.html
 
詩篇を読んでいたら、運命論と読める箇所があった。
あなたのみ眼はわが生涯を見渡され
それらはみなあなたの書に記され、
わが日々はわたしが見る前に形造られた。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.339)
 
詩篇の箇所を書いていません。ますます、意地が悪くなっています。ここから、また、楽山の邪推で出来ているような文章が続いています。
 
 (詩篇、口語訳)139:16
あなたの目は、
まだできあがらないわたしのからだを見られた。
わたしのためにつくられたわがよわいの日の
まだ一日もなかったとき、
その日はことごとくあなたの書にしるされた。
 (詩篇139:16、旧約聖書)
 
神の全能を讃える詩のようですが、楽山は、この個所を全く受け取っているとは思えない記事を続けています。思考障害でしょうか、症状でしょうか、嫌がらせでしょうか。
 
139章には次のようなことも書いてあります。「あなた」は神のことだと思います。
 
 (詩篇、口語訳)
139:20
彼らは敵意をもってあなたをあなどり、
あなたに逆らって高ぶり、悪を行う人々です。
139:21
主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、
あなたに逆らって起り立つ者を
いとうではありませんか。
139:22
わたしは全く彼らを憎み、
彼らをわたしの敵と思います。
 (詩篇139:20-22、旧約聖書)
 
以前、聖書入門というような本で、聖書はさまざまな文書を集めたものなので、そこからはどのような思想でも導き出すことが可能だという文章を読んだことがある。これが正しい見解だとすれば、聖書の中に運命論と解釈できる箇所があったとしても驚くべきことではないし、それをもってこれこそが聖書の基本的な立場だと結論づけることはできないことになるだろう。
 
信仰は運命論ではありません。生きた人間と生ける神との関係です。このように、謙虚さの欠片もなく、気安く、結論してしまうのが、楽山の悪意に満ちた短絡思路なのです。
 
ひとつひとつの言葉さえ、いつも安易に間違った方向へ意味付けして固定してしまって、何も分かってなどいないのですが、反省と学習の意欲も能力もないために、分かっていない自分に気づかなくなっています。
 
「どのような思想でも導きだすことが可能」というのは、かなり大袈裟で、楽山は、恐らく、大袈裟なまま受け取っているのでしょう。以前からですが、字面通りというか、字面だけしか受け取れない楽山の情けない立場ですから、聖書を語ることなど出来ません。
 
でももし神は全知全能であるとするならば、神は将来何がどうなるかはすでに知っているのだろうし、何を起こして何を起こさないかということをあらかじめ予定していたとしても不思議はないと思える。とすると運命論、決定論、予定説などの細かい定義は一旦脇に置いておくとして、聖書は大雑把にいえば運命論的な立場にあるとしてもそれほど見当違いではないだろうし、その解釈に理があると仮定すればこの後に残る問題は、各人がこれを受け入れるか受け入れないかということだけになる。
 
将来何がどうなるかは知っている、ということが、楽山に分かるとは思えません。全能ということを、恐れをもって受け取ることが出来ない楽山は、極めて浅く、安い概念の通路しか持っていないことが、既に、明らかとなっており、そこにおいても、しばしば、とんでもない曲解と詭弁で、いい気になってきたのです。
 
そういう楽山の、恐ろしく気安い言い分として、聖書を"運命論という小箱"に入れてしまう貧困さは、救いようのないものであり、楽山その人のように、その幼稚さで思考が止まることを意味しているだけなのです。
 
そういう思想の立場などないところから、受け入れるかどうかだけ、などと言ってくる楽山の、聖書を楽山の発展性のない小箱のオモチャにしてしまう堕落した言葉に影響されないでください。それこそ、楽山は、大切なものだけは著しく的を外して、何が分からないのか分からなくなっている人です。
 
ちなみに自分はどちらかといえば前者寄りの立場ではある。以前は運命論には抵抗感があって嫌いだったが、近頃はそういったことにはこだわらない、気にしない方向に進みつつある。なぜそうなったかといえば、それにはおよそ二つの理由がある。まず一つは環境と遺伝は、自分が想像していた以上に人間の思考行動に対して影響力があることを知ったことであり、もう一つはヨブ記を読んでから因果応報という考え方と距離ができたためである。
 
「どちらかといえば」などという言い方で信仰を語ることは決してできません。徹底的に理解がないために、いい加減な言い方しか出来なくなっている楽山です。遺伝でしょうか、環境でしょうか、悪意でしょうか、そのうち、身近なことについても、何も気づかなくなるでしょう。
 
環境と遺伝、因果応報、など、重すぎるテーマを、ちょろっと書いて、言い得たつもりになるのも、楽山の筆致なのでしょう。まことに、読むたびに、身の毛の弥立つような、闇と病のワールドです。
 
善行は報われ悪行は裁かれるという期待から離れて、善行は報われなくとも悪行は裁かれなくとも自分の生き方は変わらない、自分は自分の良心に正直でいるように努めよう、それだけで充分だと思い始めたら自然と運命論に対する反発は薄れてきたのである。
 
また、楽山は、白々しい嘘を吐いています。今までのことから、楽山は、良心に正直、ということから最も遠く、むしろ、良心も正直も踏みにじって、嘘偽りで、もてあそんできたのです。
 
自分が運命論を認め難かったのは、因果応報という御利益信仰のためだったのだろう。他の人のことは分からないが、自分の場合は因果応報の世界の外側を知ることで、運命に納得することができるようになってきたといえる。
 
"因果応報の外側を知る"、どうやって知ったつもりになっているのでしょう。怖い発言です。また、"他の人のことは分からない"となどと言って、今までの、自己中、無反省、無恥、を正当化できるものではありません。自己中は、他者を思いやれない分、必ず、他者を傷つけてゆきます。
 
人は関係の中で生きています。原因があれば結果があり、他者は、楽山に、接近、交流、しかし結局、否定という判断をして、楽山の今の関係性が出来ているのです。その現状に至った運命に納得できるなどというのは、病的に異常な楽山の因業からの自画自賛でしかありません。
 
話はガラリと変わるが、上記の「あなたの書」というのは、まるでアーカーシャの記録について言っているようだ。こういう話の元ネタは古典聖典にあるのだろうから、聖書にアーカーシャの記録について書いているらしき箇所があっても不思議はないのではあるが、生まれつき根がトンデモ好きにできている自分は、こういう発見があるとついわくわくしてしまうのだから恥ずかしい限りだ。こういう悪癖はなおしたいのだが、なかなか難しいのだから残念である。とほほ。
 
(ネットより)
アカシックレコード(英: akashic records)は、元始からのすべての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶の概念で[1][2]、アーカーシャあるいはアストラル光[注釈 1]に過去のあらゆる出来事の痕跡が永久に刻まれているという考えに基づいている[6]。宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報がたくわえられているという記録層[7]を意味することが多い。
アカシックレコードが存在する科学的根拠はない[9]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89
 
何ごとも人間の心で受け取ることのできない者が、このような、何でも手っ取り早く分かる話に乗りやすいのは、古今東西、よくあることです。
 
楽山は、飛びついて「わくわくしてしまう」と言っています。「恥ずかしい限り」「悪癖はなおしたいのだが」「とほほ」なら、書かなければよいのです。今日も、楽山の記事は、悪意ある当てつけでオチャラケのようです。
 
楽山は、いつも、努力せずに自慢したいため、こういうところをヌルヌル滑ってゆく、という表れでしょう。そして、自己愛と妄想と曲解で、低劣な戯言を、何を言われても、ねちねち書いてくる根無し草です。
 
1年以上批判されて、何も返せないのに、この軽さが、楽山の人格を特徴づけてきたのです。迷惑だし、求道者にとって有害なだけですから、一日も早く消えてほしいブログだと思っています。
 
しかし、こういう人は、空っぽの自尊から腹を立てて復讐でもするかのように、意地になって、また空っぽの記事を書いて、煩わせ、疲労させてくるのです。
 
言い換えれば、自他の存在を大事にする尊厳としてのプライドなど、全く持っていないのでしょう。だから、いかに人間としての格が落ちても気にせずに、刹那的な感情で、その場しのぎの言葉を吐き出し、それで一人前のつもりで、何事も無かったかのように、平気で、人を大事にしない自尊としての高慢なプライドを持ち続けていられる、などということが出来てしまうのでしょう。
 
これらのことが、楽山やシャロームなどの易坊類を、人間性の欠如した疲労物質と呼び、原始反応と呼んでいる理由であります。
 
 
(2020年05月19日)
 
 
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