ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: キリスト信仰と批判

 
  神と人と言葉3
 
 
私が、"理路" という言葉を使い、"論理" という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や納得や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽牧師は、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、偽牧師のように都合のよい神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
その凶悪な偽キリスト教のカルトは、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。カルトらしい受け取り方でした。
 
しかし、"土の器" は、人間にとって、比喩以上の意味を持ち得ません。金の器のように輝くわけでもなく、地味で、かつ、壊れやすい、土の器 ・・人間の心を表しているように感じました。
 
ゆえに、信仰は、心に与えられ、心以外のところにはありません。このように、心の無いカルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心が働くところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全な真理である神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるからという都合のいい話を、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。苦難の時に、最も耐えがたいのは、どこにも寄る辺のない絶対孤独であります。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を想い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神の同伴のもとで、生から死への悲しみを耐え忍ぶことに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。
 
絶対孤独からの解放が信仰です。
 
つまり、神を想う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、その神?は、人を救える神ではない、ということです。そういう捏造の神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を想う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性、即ち、罪深さによるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか分かるような能力は人にはないのです。超常を引き寄せたいという欲望は、空想と欲望の産物であるカルトの特徴です。
 
そういう、欲望が空けた隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自己顕示欲からの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりとモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、相対的で不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもないのです。
 
信仰は、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあります。何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの共感の愛であり、キリストへ共感のの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
 
※ 記事とは関係ない、ある日の愚痴です・・
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より気分を滅入らせる、うす笑いの圧力の、冷たい顔と声のまま固まって動かない、典型的に鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
書類かかえて、他にないような説明をし、あとは電話で数回、電話しましたか、行きましたか、行ってないですか、明日は行きますか、行きましたか、入院は来週末までです、抑揚のない声の調子、ケースワーカーの説明じゃない、口答えできない事務の声、いつか、ぶん殴りたいと感じる対応、それで相談の仕事してるつもりか、・・なのに何も言えない、・・雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
 
前にも引用しましたが、
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
 
神と人の言葉

神と人の言葉
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月29日、再録+加筆)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
と言えるだけ仕合せというもの
まだ生きているということだ
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
  置き忘れ

君の気持ちを置き忘れ
君の面影を置き忘れ
あの言葉を置き忘れ置き忘れたことに気づいても
取りに行けないものが多すぎて
長い長い
永い永い
知らない町に住んでいた
上手な明日をこねようとして
下手な朝をこぼして
昼から夕へころんで
みずぼらしい夜に流れていった
思えばあっという間だったと
言うそばから歩きだすウソ
恐らくは余命の尽きるまで
人には失せた他人の首に過ぎなく
おろおろと探している
頭のないその頭
見なかったはずだと背を向けて
数えきれない影も声も
物忘れの箱に
無理に押し込めようとして
きしんだ老化
置き忘れられて久しく
まだ育ってもいないのに
窓をそめてゆく光のなかで
またひとつ
そこなわれてゆく夕暮れ時
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実たち
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった無数の貝殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  神を恐れる心4
 
   記事「神を恐れる」を修正加筆して再録
 
 
信仰の弁えは、神を恐れる心から生まれます。
神は漠然としているのではありません。
漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
人の知恵では "決めつけられない" 御方ということです。
 
聖書の記述から作ったイメージも人のわざに過ぎません。
漠然とした神のイメージもまた正しくありません。
神は、人において規定されるようなお方ではありません。
私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
神は、決して人の見識の対象とはなりません。
私たちは、祈り願い、告白する立場でしかありません。
 
私たちの言葉は、一語は一つの意味だけでしょうか、違います。多義を持つ言葉があり、かつ、人によって受け取り方が違い、かつ、時によって受け取り方が違うのです。神の言葉は絶対ですが、それを読み取る私たちの言葉は、決して絶対ではないのです。感動は、次からは、感動した記憶になります。
 
キリストが父と呼び、私たちが信じる神は、私たちが知らないだけであって、漠然とした神などではありません。漠然としているのは私たち人間のほうです。だから、様々なことに、神の存在でさえも、言葉で、条件を付けたがります。
 
不変の神に比べて、移り気で変わりやすく、不安定で偏りやすいのは、私たち人間のほうなのです。ゆえに、私たち人間から見た神が、多様になってしまうのです。それを救うのは、教理の正しさではなく、神に対して不完全な罪人であること認めて、正直に祈ることだけです。
 
私たちは神について想い考えますが、それは、不正確な想像という罪を承知で、想い考えるに当たってそうするしかないからであって、信仰の内実において神を対象化してはいけません。神は、人の想いと思考などという有限が向かう所に対象として並んでいるような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神のイメージや概念を信じ込むことではなく
神についての
人の見識の絶対性を否定することです。
神についての
人の思いを相対的とすることです。
そして
キリストからの共感を知り
キリストに共感することです。
 
神の御心は変わることはありませんが、神について人が思うことは、そのときの思いに過ぎません。だから祈りのうちに、さらなる導きを待つしかないのです。キリストの同伴が、その生き方を支えることが信仰生活を成してゆきます。
 
神と人の契約とは、赦しと救いの約束であり、人が人らしく、神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ無効になることはありません。ときに思い上がっても、のちに悔いて、正直に祈るなら、寛容な神は、赦しをもって関係を回復してくださるでしょう。救いに手遅れはないからです。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは、自分が神と同等だと言うに等しく、人が神の前に故意に隠したり飾ったり偽ったりすることは、自分が神を騙せると思うに等しく、いずれも人が、神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
 
それは、神に対する反逆であり、ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。つまり、神と人の契約を破棄するのは、まさに、人の側でのみ起こることなのです。神が、救いの約束を破棄されることはありません。
 
繰り返しますが、あるとき傲慢であっても、そのあと悔い改めて、神を恐れるに相応しい信仰になれば、神の側は破棄していないのだから、この上ない神の寛容によって、救いの約束は恵みとして復活し有効であり続けます。
 
人を愛し救い、人に命の恵みを与える神が、あらゆる生殺与奪の全能を持つ神であり、私を含め、人間なんぞが、うっかり友だちのように、近いなどと思ってはいけないことに気づき、神を恐れること、それが信仰の節操の始まりです。馴れ合いは、神に対しては成り立たないということです。
 
神は、人間の俎上や机上に乗る御方ではありません。恐るべき神を知り、聖書から、キリストに愛され癒やされることに気づき、キリストを愛するようになること、それが信仰の情熱の始まりです。信仰は、人にとって、超越的に現実離れして神がかるような、超常のものではありません。
 
神という永遠不変は、人が、超常を知らないこと、いたらないことを、隅から隅までご存知ですから、超常を知らなくても理解と共感が可能な人間として正直な信仰を、超常と地上の間の仲保者として、キリストを遣わすことで与えられたのです。
 
神は理解する対象ではありません。
希望として信じ仰ぐ対象です。
何よりも正直な祈りを捧げる対象です。
 
神に対して、人の真・善・美・義は完全にはなりません。
人は、真も善も美も義も努めることが必要ですが、完全に到達することはありません。
 
したがって、
真も善も美も義も、
人の努力目標にはなっても、
人の信仰の芯にはなりえません。
これらは道徳か目標に過ぎません。
完全に守れる人はいません。
 
神に対して
通用する唯一の言動は
正直な祈りだけです。
人が救われるための必要十分条件です。
だから、信仰はシンプルなのです。
 
 
恐るべき神 共感の救い主

恐るべき神 共感の救い主
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月28日、再録+加筆)
 
 
 
 愛の実態
 
愛は寛容ではない
情け深くない
妬(ねた)む
高ぶる誇る
不作法をする
自分の利益を求める
苛立(いらだ)つ
恨みを抱(いだ)く
不義を喜び真理を喜ばない
すべてを忍ばない
すべてを信じない
すべてを望まない
すべてを耐えない
 
とうに「愛」の理想は
人の実態において死んだが
ここにおいて
いまだ「愛」は死んでいない。
 
守れる者が一人もいないので
神の寛容が用意されるからである。
 
※ 以上は、以下の聖句を否定肯定を逆にしたものです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることである。信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということである。
 
本質的なところでは、信仰に、信条はない。
 
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように片方の合意がなくなれば消えてしまうというものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしても、キリストがその絆(きずな)で捉えて離しません。
 
何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるといったような部分に結び付けられているからではないでしょうか。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しかし言葉に尽くせるものではありません。 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-30、新約聖書)
 
いつからか私は信仰について、糧(かて)と干物を区別したくて、心に響くものと響かない美辞麗句を区別したくて、理屈で考えることを控えるようになった。
 
思いで納得しなければ何も語ることのできない人の性(さが)、この矛盾を孕(はら)みながら、総てが既に知られている所から、日々の糧は与えられている
 
 
 
  祈り・フリー
 
過ごし
見過ごし
死に損なってゆく一日一日に
意味も喜びも見出せずにいますが
長年の柵(しがらみ)からは
フリーになりました
フリーです
自由です
自由契約です
要するに無職です
ワァーォ
過去の罪は消えないとしても
少し肩の荷が下りた気分があります
と同時にカウントダウンが始まりました
(数年後の経済状態
 を考えるのだけは…やめよう)
主よ、あなたが成就し
実践された愛するという使命も果たせないまま
じっと黙って心臓が止まるのを
待つだけの人生になりそうです
自殺は、どう考えても
御心に適(かな)っているとは思えないから
できるだけしないように努めますが
自力では運べません
運んでください できれば
許されるものなら
気の遠くなるところへ
肉の遠くなるところへ
何もかも無意味だったから
元々意味も名前も持たない遠くへ
遠くへ…
 
 
  時を探すとき
 
水は流れるとき
樋(とい)を探すだろうか
火は燃えるとき
炉を探すだろうか
風は吹くとき
崖を避けるだろうか
山は爆発するとき
焼かれることを恐れるだろうか
 
いつのことだったろう
山が燃えていた
街が燃えていた
海が燃えていた
 
人は喋(しゃべ)るとき
相手を探す
相手を見つけて喋る
相手が自分のときは独り言
時々か屡々(しばしば)
いかなる相手も見つけずに
独り言を喋っていた
 
誰に向かってでもなく
吐息を漏らすとき
 
相手はいない
探しもしない
ただほんの一瞬
吐息のない過去を見ている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」・・楽山の安易な言い訳のようですが、誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵はサイコパスです。サイコパスは、いたるところに、少ないが含まれています。罪悪感が無く、自己中心で、反省も後悔もせず、しんみり悲しむという深い情感と共感がなく、笑いと怒りに支配されている亡者のような存在です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者時代に似た経験がありました。
HS信者仲間に、邪教とされる宗教の本を読んでることをいったら、「よくそんな波動の悪い本を読めるなあ…」云々と。
邪教とされる宗教信者と知り合ったから、その人に伝道するために、まず相手の信仰を知ろうという動機だったけど、理解してもらえませんでした。
 
楽山自身が邪教だと思います。アンチではなく、むしろ教祖願望があるのではないかと思っています。「まず相手の信仰を知ろう」・・楽山は、正当な、いかなる宗教も信仰も知りえません。信仰の心が無いからです。代わりに、自分信仰としての自尊過大が、楽山の病質です。自分信仰は反信仰です。
 
 
 
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  超常と日常3
 
 
聖書に書いてある超常現象、つまり、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活について、信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。何故なら、超常現象の奇跡を信じても、そういう奇跡は、少なくとも、人間には理解できないことであり、かつ、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで、もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから、超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。神の超常は
神に任されることです。
 
さらに、人が超常にこだわることは、日常を疎かにすることです。
 
 
物や肉体の奇跡は、神のみのわざです。神のみに任されることです。人が自分の都合で、神のわざを信じ込むのは、神のわざを決めつけることであり、不遜というものです。
 
一方、心の奇跡は悔い改めであり、神と人との関係において起こることです。心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。人に分かる奇跡は心の奇跡です。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を信じますと言っても、信じると何が起きるというのでしょう。処女のまま妊娠しますか。何か超常現象を起こせるようになりますか。死んでも肉体が蘇りますか。誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。信じたら超常の奇跡が起こると言われても、実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。病気になってもすぐ治るのでは、病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
 
超常に執着することで生じる鈍感さは、日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。超常の奇跡に頼ってしまえば、人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから、奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは、神の御心に任されていることです。
 
信仰は、信じれば奇跡が起こるという交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は、怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような、
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると、もっと考えるべき日常のこと、人間としての節操や、愛と共感そして真実の追求など、人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが超常現象を信じることは、思考と感情をゆがめてゆくのです。大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら驚きを持って見るでしょう。それで命が助かったら感謝もするでしょう。しかし、それはその時の驚きと感謝以上にはなりません。そういう奇跡で人は成長しません。私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
奇跡に頼って
過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
その上にあぐらをかいて、
もはや人間とすら思えない状態になっています。
この人のどこが救われた人なのでしょう。
滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は、超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。私たちは、私たちに与えられている良きもの、つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において、それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、キリストに対して正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
聖書において
教条と戒律主義に陥った者たちは
儀式の形式を守ることで
良心の実質を疎かにして
守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
選ばれた者という自覚に思い上がり
そしてキリストを殺す者となり
神の怒りを買いました。
 
信仰は共感の可能な心によってのみ受け取られ、悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、神のごとくであることを求めない敬虔によって、代わりに人間らしい心を与えられ、育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるためには、神の完全との違いを弁えていくしかないのです。
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、自らを神聖としないために、気をつけるべきことであります。
 
また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れが生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
誰が、自分の言動の影響を果てまで追えるでしょう。それは、神のみがなさることです。ゆえに、全知全能と言われています。それを知らない者が、愚かしくも、神の辻褄?をいじくって、なぜ悲劇を救わないのか、神はいない、などと言っているだけなのです。
 
神の辻褄を、神でない人間は、決して負えません。
ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても理解することはなく、
神の前に、ただ、正直な告白以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのです。
 
神についての、不可知論は、大方、無神論です。可知論は、大方、理屈倒れの半端な哲学です。信仰を理屈で語るのは、大方、邪道です。神学や哲学の知識を誇る者を警戒してください。私たち信仰者は、キリストの愛と共感が忘れられなくて、キリストへの愛と共感に生きる者であります。
 
人の辻褄さえ、ろくに語れない者が、どうして神の辻褄を語れるでしょう。インテリ気取りの坊ちゃん哲学など、俎上にも、机上にも、乗る価値はないのです。神もキリストも、幼稚な概念でしか語れない半端者~病人を相手にしないでください。
 
 
超常と日常

超常と日常
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月21日、再録+加筆)
 
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭く細く長い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
証明がないからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
温もりに包まれるという希望を
 
 
 
 大川隆法の直筆原稿
 2021年07月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 ブログ記事でも
 ツイッターでも
 宣伝しています。
 
 
楽山の因業は、何を言われても、何事もなかったかのように無視して書いてくることです。書くことの恥ずかしさを検証するだけの良心がないことを表しています。こういう人が捏造する偏見によって、宗教と信仰は、健康で文化的で賢明な伝道を妨げられることになります。
 
そのように、嘘と詭弁で、真実を妨げることで、楽山のような者は、かえって、悦に入る輩なのです。その卑しさと、幼稚さと、あざとさと、白々しさと、狡猾さと、卑怯さと、無反省、無神経、無責任、無理解のために、継続的に批判しなければならなくなります。
 
 
*直筆原稿のコピー発見
蔵書の整理をしていたら、大川隆法の直筆原稿のコピーを見つけた。90~91年頃、支部で頂いたものである。
『ユートピアの原理』まえがき(省略)
*三原則
内容を確認してみると、論点はおよそ三つだ。
大きな危機が迫っていると脅す
大川隆法を信じれば救われると希望を示す
「救世のために伝道をせよ!」と使命感を煽る
 
まるで、偉人の直筆資料が見つかった!・・かのように書いていますが、何が言いたいのでしょう。かっこいい・・とでも言いたいのでしょうか。愛しているのでしょうか。楽山の記事本文が貧弱です。存命の教祖の原稿が、どう重要性を持つと言うのでしょうか。
 
 
*相変わらず
こうしてみると、「大きな危機」の中身についてはその時々によって、世紀末の天変地異、北のミサイル、中国の覇権主義などと変化はしていても、上の三原則は今も昔も変わっていないのがよく分かる。
 
褒めているのでしょうか。言いたいことが見えてきません。宣伝するほど価値のある情報とも思えません。教祖の言うことは、あちこちに出ているでしょうし、直筆原稿の写真(省略)は、多く、偉人ならば価値があるのでしょうが、楽山は、何を、はしゃいでいるのでしょう。
 
 
*反省
聞くところによれば、最近の信者は笛吹けど踊らずとばかりに、大川隆法総裁が危機をうったえても、使命感を煽っても動かない人が増えているそうだけども、会員時代の自分はまだ若くて世間知らずだったので、上のような文章には簡単に感動してしまうクチであった。この点は本当に失敗だったし、いくら反省してもしたりないくらいである。…とほほ。
 
楽山は、ORの文章に感動してしまうそうです。それを失敗だったと書いています。「反省」は嘘だと思います。恥ずかしいだけでしょう。「とほほ」は大嘘だと思います。楽山の言葉の中で、いちばん信用性のない言葉です。しばしば書いてきた「反省」「とほほ」などは、もはや、楽山の嘘の典型です。
 
反省、とほほ、については、嘘であると、今まで何度も書いてきましたが、それでも、平気で書いてくるところが、楽山の病質であり、自覚がないか、または、嫌がられることを重ねるサディストぶりを証明するだけです。根腐れの進行であり、文章が、ますます無明の世界に行きつつあるようです。
 
楽山は、「感動し」たことはないと思います。ふるえるだけの心を持っていないと思います。「感動してしまうクチ」・・楽山は、「感動」と言ってしまう口だけの人です。楽山にとって、感動とは、自分の意見に空想の辻褄が合うということでしょう。
 
「失敗だったし」「反省してもしたりない」・・反省は振り返ることですが、楽山は、ますます、嘘に凝り固まる人です。失敗の認識もないでしょうし、反省もしていないと思います。だから、「とほほ」という、ふつう、文章には書かない台詞でごまかすのです。
 
楽山は、何度批判されても、なお、自分は整っていると言い張りたくて、図々しく不躾な文章を書いてきます。浅ましい言葉だと全く気づかずに、言えばいいと思うだけで、また書くわけですから、そのたびに、不自然な言葉遣いを含めて違和感だらけだと知れてゆくことになるのです。
 
 
 
  遭遇
 
前にも言ったような
がデジャブではなく
物忘れの繰り言になるとき
言うのをやめる
ことを覚えるだろうか
 
記憶を
とりわけ記銘(きめい)を失うことは
日常をそっくり
超常の異土に変えてしまうが
 
経過の道のりが
日常であるか超常であるかは
経過させるものに任されており
 
足元から世界までをジャメブの
底知れぬ不安と不穏に落とし入れる喪失も
 
遭遇から終焉に至るまで
出会(でくわ)す有象無象と有情非情によっては
穢土(えど)から冥土(めいど)への旅も
安堵から浄土までの邂逅(かいこう)である
 
 
  超常現象
 
リンゴが落ちる
引力の法則に従って
しかし引力の法則が
明日も成り立つことを
今日のうちに証明できる人はいない
 
物理現象には法則があり
それはあらゆる時空において成立する
という証明できない前提の上に
物理学が成り立つように
 
リンゴが明日は逆さまに落ちる
と思う人がいないように
明日は必ずやってくる
 
法則の成立しない時空が部分的に
あるともないとも証明できないように
明日の中に自らが含まれることは
常に超常だ
 
 
  秘密と定め
 
二十年後殺人鬼になる幼児は
やはり幼気(いたいけ)であどけないだろう
鵜飼いの鵜(う)は
呑むことを許されないのに
食うために生きているように
養鶏場には首が並び
忙(せわ)しく騒がしく急(せ)くように
卵と肉
食われるために生きている
知られた秘密が
もはや秘密ではないように
羽ばたくペンギンは
水中を飛ぶ
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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   知るべきこと3
 
 
旧約から、神と人の関係、という信仰の節操を学び
新約から、キリストの共感、という信仰の愛を学ぶ
 
旧約聖書から
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神のあり方を表す言葉を受け取ることは
それを理解することではなく
(人間に理解できることではない)
神と人の決定的な違いを
創造主と被造物の決定的な違いを
あくまで人の側において学ぶことである。
 
神に対しては
人のいかなる自信も自慢も通用しない。
人のいかなる知性も感性も
そして、いかなる偉業と呼ばれるものも通用しない。
神に対して人が捧げて届くのは
正直のみである。
 
それ以外は通用しないことを学ぶ。
これを信仰の節操と呼ぶ。
 
新約聖書から
救い主イエス・キリストの神性を学ぶことは
それを理解することではなく
(人間に物や肉体の奇跡は理解できない)
またそれが自分に起こると信じることでもなく
(自分に神の行為を結び付けるのは人の傲慢である)
神性が人間性の低みに身をおろした
ということを
あくまで人の側において
人間性に相応しい理解をすることである。
 
すなわち
キリストの洞察力と共感力を知り
またキリストの同伴の恵みを知ることは
信仰の愛を知ることである。
 
信仰の愛を支えとして
信仰の節操を弁えながら
耐え忍んで生きるのがキリスト者の道である。
 
 
 
神は、聖書より、全知全能、絶対完全、永遠不変、と心得るべき御方です。
人は、直観的に、また、聖書より、全知でもなく全能でもなく、絶対でもなく完全でもなく、永遠でもなく不変でもない存在、と心得るべき存在です。
 
神の意志と行為を決めつけて
奇跡による救いを信じるのは
神への冒涜であり偶像崇拝である。
 
信仰は、唯一、
神と人の違いを弁える節操において
厳しいと知るべきである。
 
神は友達ではない。
神は優しいおじさんでもお爺さんでもない。
偉い御方にとどまる存在ではない。
 
絶対の正義に人間は耐えられない。
ということは
神はご自身のような正しさを人に求めてはいない。
 
神を信じるという信仰は
同時に
神の前に偽りが通用しない
ということを学ぶことである。
 
つまりそれが
神を恐れるということ。
 
神は
その初めから終わりまで
在って在る者であり
人知を超えた理由とあり方で
創造主であり万物を統べる御方である。
 
 (出エジプト記、口語訳)
3:13
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:13-14、旧約聖書)
 
キリストは権威ある仲保者である。
神と人の間をとりなす御方である。
ゆえに人間に共感し
その苦しみを負われた御方であり
命を惜しまぬ愛を
罪深い人間のために捧げた御方である。
 
贖罪の教理を知っても
キリストの愛を知らなければ信仰ではない。
 
キリストの共感に答えて
キリストに共感するのが信仰である。
つまり
キリストの愛に答えて
キリストを愛するのが信仰である。
 
贖罪の教理によって
いつも赦されるから無罪であるかのように振る舞うのは
神への直接の背きである。
 
信仰は
いつも喜びだけを与えるわけではない。
信仰は
むしろ悲しみを通して成長するために与えられている。
 
いつも喜んでいるように振る舞うのは
迫害が迫る時代と違って
現代においては、大方、嘘であり
神の前に嘘は通用しない。
 
そのようなあり方は
祈りの体裁だけを整えることであり
それによって信仰は少しも整うことはない。
 
信仰は
神の言葉だからと
聖書の文言だけにこだわることではない。
それは教条主義に陥る。
 
信仰は
聖書を興味本位に読むことではない。
黙示されていることを知ろうとするのは
信仰ではなく興味に過ぎない。
 
聖書は暗号の謎解きのために書かれてはいない。
信仰が難しい謎解きを必要とするなら
いったい誰が救われると言うのか。
 
聖書は人間のために
信仰を伝えるためにのみ書かれている。
 
信仰者を信仰にとどめるのは
キリストの愛に答える信仰者の愛であり
それゆえ人が道を外れても
神の全能もキリストの愛も滅びることはないのだから
正直に告白して赦される道は
神の側から断ち切られることはない。
 
偽善者と背教者は
悔いることがないゆえに救われないのであって
 
神が人を見捨てることはないのである。
 
神の愛は節操のみにおいて
この上なく厳しく
キリストのもとに帰る恵みにおいては
この上なく寛容である。
 
 
寛容な神の前に、私たちは、讃美よりも、正直な祈りをするべきです。
 
讃美している気分に依存したり陶酔したり、あるいは、讃美しなければという強迫性で、讃美するべきではありません。
 
讃美すればするほど信仰が深くなるということはありません。讃美に実感がこもっていなければ、その罪をも、神は全て見抜かれるのです。
 
神への恐れをもって、主イエスキリストの御名を通して、祈るのですから、正直であることだけを必要かつ十分な条件とするべきです。
 
 
 
シャローム:
批判している途上で、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、キリスト信仰とは正反対の信条をあらわにした。これ以後、反キリストと見なしている。
世辞と侮辱を、同じコメントに書いて、不自然さを覚えない不感不応の、偽善者であり、サイコパスと見なしている。
 
易坊:
シャロームとともに、私の、当時のヤフーブログを荒らして、50~100コメ超の遣り取りを強いてきたカルト的荒らし。サイコパスとしか思えない。
 
楽山:
楽山は、無宗教を気取りながら、ときに、反キリストの記事を書き、キリスト教をおとしめてくる。また、一方では、キリスト教的な文言を書いてきたりもするので、主張が一定しないが、唯物論や進化論を用いて、神信仰を否定するのは、やはり、反キリストとしか思えない。
 
楽山の、訂正不能、自己愛性の人格障害、学習不能、無反省、などによって、サイコパスと見なしている。楽山は、自己中カルトのアドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた。それは、楽山の自己中カルトとして、今も、様々な詭弁を弄して、続いている。
 
シャローム、楽山、易坊については、一人による成りすましの疑いもある。
 
 
自称マグダラと自称ヨシュア:
 
この二人は、最近、ご無沙汰である。ヨシュアは、戒めを守って完全になれるのです、などと豪語して、私が批判していると、しばしば、私の個人情報を出してきて、発狂するかのように、私のことを、ダメ人間、精神病などと罵り、罵詈雑言を並べた。
 
自称マグダラも、同様に、批判すると、別人のように、攻撃的になるが、プププ、ケロッ、などと、奇妙な台詞を吐きながら罵る。俗的な意味で、ヒステリックである。
この二人についても、一人の成りすましを疑っている。
 
 
アドラー心理学:
 
私は、カルトだと思うので、アドラー教と呼んでいる。気に入らないことは無視しましょう、あるいは、私の課題ではありませんと無視することを、誘い文句として勧めているので、"日本人アホ化計画" を企てているカルトだろうかと思ってとして批判しています。楽山は、その宣伝をしていました。
 
"無視" がもたらすものは、学習がないために、成長しなくなることで、恐らく、人の気持ちの分からない、知性と感性が鈍麻した、ぼうっとした鈍い人格に帰結するのだろうと思います。
 
以上の者たちは、私が死んだ後も、生き続ける者たちです、巻き込まれることのないように気を付けてください。
 
 
個人の人生の最終的な闘いと、人類の歴史の最終的な闘いは、人の世界の現象としては、恐らく、普通の良心と、サイコパスとの闘いになるでしょう。人類の敵は、国家でも民族でもなく、サイコパスです。
 
 
信仰の節操とは 神と人の違いを弁えること

信仰の節操とは
神と人の違いを弁えること
 
 
(2020年)
(2022年07月17日、再録+加筆)
 
 
 
  行く今
 
在るといえば在り
過ぎるといえば過ぎる
今が行く
私の狭い視野の前を
あらゆる笑顔と泣き顔の前を
乾いた挨拶のような会話の前を
唾を飛ばして弁明する形相の前を
唾液を垂らして反芻する牧場の牛の前を
忘れられた崖の途中で風に揺れる草の前を
風の砂浜の砂の一粒の前を
潮風の中の見えない水滴の前を
深海の底を這う魚の退化した眼の前を
光届かない宇宙の一点を
そして全ての
前を後ろを中を外を
今が行く
何もかも古くし
新しくすることなど構いもせずに
何もかも滅ぼし
産み出すことなど考えもせずに
今が行く
 
 
  雑事快感

バイクの鼓動を感じながらの
楽しい数時間のライディングは
山の変わりやすい空模様を見ながら
雨雲から逃げまわっている
 
パンとチーズと水だけの日が続けば
幕の内弁当と缶ジュースだけでも
この上ないような御馳走だ
冷蔵庫の中を食料で満たせば
知性をどこかに置いて
烏滸(おこ)がましくも雑食は
幸福に似た満腹を
食べる前から感じている
 
いずれ失せてゆくものに
豊かさや心地よさを求める習癖を
身につけてしまうのは
意味を求めてしまうことを
ときにタブーとしながらも
いずれ失せてゆく意味の身を
なぞろうとする裏切りの
日常的雑事模様眺めの逃避行だ
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  気分
 
いつから厭(いや)になった
世捨て人の気分でも
この世のお世話になって生きている
世俗を離れた気分でも
俗は欲と一緒についてまわる
いつから嫌(いや)になった
勝つことができなくなって
自分自身にさえ負けてばかりだから
惜しみなく勝ちは譲る気分でも
勝ち負けそのものが分からなくなった
いつから柔(やわ)になった
善し悪しも弁(わきま)えず
まさに今そういう気分
いつから今になった
ずっと気分だよ
今以外に何かあったか
 
 
  弱気の塊
 
弱気の固まり?
弱気は固くなれないから
弱気の垂れ・流れ
垂れ流しの趣(おもむ)くままに
川を下る
 
下る傾向は持っている
くよくよと辿(たど)ることはあっても
決して上ることはない
石を積む子供らはいるか
積んで崩れた石だけで
子供らのいない河原はあるか
コロイドでもヘドロでも
海へ出て拡散して
海の塩になれるだろうか
 
時間の量子と波動のように
弁別も理解もできない川下へ
樹木は動かず
枝は揺れず
草は靡(なび)かず
波は風を呼ばない
波は寄せるが
水は水としての形を持たない
その水よりも弱く
在って在り続けよ
水は命を育(はぐく)み
ときに命を奪う
一滴の水にさえ
寿命は勝てないのだ
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。
これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  理由2
 
 
私は、宗教と信仰を、自分が、生きられるか生きられないか、という考え方をするしかない人です。上手く生きるかどうかは、二の次です。ご利益などは、私の思いにおいては、圏外です。
 
しかし、巷の宗教、特にカルトの話を聞くと、上手に生きる、楽しく生きる、完全になる、何らかの利益を得る、満足する、というものばかりのようです。
 
上手には生きられません、楽しいばかりではありません、人間は不完全です、ご利益など、満足など、無理です、というふうにしか見えないのが、私が見る世界です。自分の心を見れば、悔いることや、嫌なことのほうが、より多く、思い出されるからです。内にも外にも。
 
それを耐えて生きるには、生き甲斐というより、むしろ、生きる理由が必要です。なぜ、悲しかったり苦しかったりの人生を、生きることに耐えなければいけないのでしょうと、仰ぐところに、私の場合、神、そして、キリストがいる、という成り行きであります。
 
そのことを無視することは出来ません。そこに、現実と、信仰の、交差点があります。
 
 
  非合理と合理
 
 
人にとって神は
そして信仰は元々非合理である。
人の理解と把握には限界があるからだ。
 
神の合理を人は理解できない。
 
人知は
神を信じる信仰という非合理と
人の合理を区別するために与えられている。
 
恐ろしいのは
信仰という非合理を
人の合理に結びつけることだ。
 
非合理について
人の合理で確信しうることは何もないのに
非合理が合理に
神の思いが人の思いに
合一すると思い込むところから
神の名のもとに信仰は変質して
訂正不能の確信=妄想に堕ちてゆく。
 
人の信仰という非合理の自覚は
祈りをもたらし
それを必要とする人を救いうるが
 
人の確信という合理化された非合理は
人を、いわれなき罪と報いに定める。
 
 
  器
 
信仰に必要なのは
復興ではなく改革である。
 
大昔のような
一途なだけの信仰の復興というのではなく
原初の信仰として
人間を弁える信仰への改革である。
 
信仰を、人知によって語りうるものだけを受け取り
人知によって語れないことを神に任せる人の器への改革であり
 
それは解釈信仰や奇跡信仰や史実信仰などの
人知によって神を語る人知信仰からの脱却である。
 
人知を超えることが出来ない人間は
生きている間は神を仰ぐのであって
人の意志を
絶対の神の意志と一致させることは出来ない
ということを知ることが信仰である。
 
信仰の成長とは
決めつけを避けて成長を期し
神へ祈ることを知る「人に帰る」ことである。
人間の温もりと潤いを失いかけた心に
人間らしさを
神の支配の意識によって
キリストの共感と愛によって取り戻すのが信仰である。
 
 さもなければ
 信仰に熱心であればあるほど
 信じれば信じるほど
 人の器は
 土の器?から神の器を目指すことになり
 土の器に秘められた人の信仰は
 神の器に背くだろう
 そういう人知信仰が破壊してゆくのは
 土の器にあるべき真の信仰に他ならないのである
 
善き信仰は
自らの土の器とその中身を
神によって鍛えられ
神のもとで育てられることを喜ぶだろう。
 
 
理由なき慢心

理由なき慢心
 
 
(2011,16、19,20)
(2022年07月12日、再録+加筆)
 
 
 
  自殺について
(「自殺は最大の罪」とは
 「自殺者は最大の罪人」の意ではない
  これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
  死者を呪うための言葉ではない)
 
自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない
 
 (神が生ける者の神であるように
  罪も許しもまた生ける者のためにあるのなら
  最大といわれる自殺の罪が
  果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)
 
もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる
 
人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる
 
 (基督は確かに生きよと言われるだろう
  だが その理由によって生きている人間は
  思ったほど多くはあるまい)
 
死ぬ ということは
もう出会わないということ
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない
 
残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない
 
 (もともと基督など信じていなかったのだ
  ということにすれば辻褄は合う
  だがどうしても合わないものがある)
 
自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
生きたかったと
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 (※
 
 キリストを愛する信仰者は
 顔を背けることが、
 信仰を捨てることではないと知っています。
 既に 何度
 顔を背けてきたかを知っているからです。)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
理由を考えるということが出来ないのが自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴でしょう。自己愛が訂正不能の前提となっているからです。だから、反省も、訂正も、考えず、満悦して何でも言えるほど図々しいのでしょう。自分に反するものは、最初に削除しているのです。
 
 
 
楽山の害毒:今までに表れてきたこと。
 
人格:
1. 自己愛が強く自己中である。
2. 自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
3. 平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
4. 深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
5. 後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
6. 罪悪感、羞恥心が見られない。
7. アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
議論:
8. 議論や交流が、整わない、できないし、する気がない。
9. 相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
13.人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
14.真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
15.ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
16.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
17.しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
18.「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらない。
宗教:
19.反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
20.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
21.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
22.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。
これらの詳細については、新しい情報があれば、加筆し、毎回、載せるようにするつもりです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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