ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: キリスト信仰と批判

 
  信仰と固定 (再)
 
 
人間が信じられることは
人間が信じるようになることは
人間性で理解できて
人間性で共感できることです。
それらが心を動かすからです。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが
神とキリストを理解できるのは
人間の知性で理解できることであり
人間の感性で共感できることです。
 
したがって
物や肉体の奇跡そのものを信じることは出来ないはずです。
理解も共感も出来ないからです。
 
人間が理解できる信仰になるのは
生きている人間の心を動かす生きている言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは
ご利益信仰に過ぎません。
 
物や肉体の奇跡は
神にお任せするしかありません。
 
人知を超えている奇跡を
人知が理解することは出来ないのです。
それは人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする
このことは
限りある人間の能力を思えば当然であります。
 
物や肉体の奇跡は
最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは
奇跡で救われた人が
なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか
キリストが、なぜ、その人を憐れんだか
という
心の奇跡または魂の奇跡
それこそ軌跡、すなわち
人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては
物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。
 
物や肉体の奇跡で救われると信じるのは
まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように
石がパンになる=物への奇跡
飛び降りても死なないかどうか試す=奇跡の実現で神を試みる
この世の栄華によって悪魔を崇拝
=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて
人を騙しているのがこの世界です。
もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
知性と感性とは特別な才能のことではありません。
神が人に与えた賜物として
人間ならば誰でも持っているもので
その中に不完全ながら
思慮が含まれ
理路と分別が含まれ
良心と共感が含まれ
温もりと潤いが含まれ
かつ、生まれています。
 
その賜物によって
聖書を理解し、信仰に至ります。
 
人間の信仰理解は
完全な理解ではなく
心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。
聖書から経験から
神とキリストに気づかせ
人を動かす神聖は聖霊と呼ばれますが
 
動かし気づかせるのであって、固定するのではありません。
 
信仰者は
訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも
去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。
 
そこに不変の境地はありません。
 
成長を促す道があります。
 
 
※ 
 
神ならぬものを信じてしまうと
神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。
 
心について考えない者が受け取るのは
手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり
あるいは知っていると自慢するためであり
 
それゆえに理解も共感もなく自己中心に
やたら讃美しまくって
奇跡の必然を自己暗示して
自分か他者の心を固定してゆくのです。
 
このような信じ方が
思い込み信じ込む信仰?であり
自分で神を決めつけてしまう信仰です。
 
そうなると、まず自分の人間性を破壊し
次には関わる人に作用して
他者の人間性を破壊してゆきます。
そうして人間離れの心性を固定してゆくのです。
 
 
(2019年05月14日)
(2020年05月25日、修正再録)
 
拘泥(こうでい)=こだわること
 
 
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  共同幻想
 
前に書いたことですが、
 
 
ほぼ恒常的で、ほぼ秩序立っていて、ほぼ双方向の感覚であれば、
人間は、それを感覚に過ぎないとは思わず、幻想だとも思わず、
実在だと思い込む。
 
つまり、実世界は、そのような感覚世界と、つまり、ある意味、共同幻想と、同値である。
 
 」
 
これは、別に、私が考えた新説でもなんでもなくて、高等なことでも難しいことでもありません。共同幻想であることと、実世界であることとは、感覚と心を与えられているだけの人間にとって、同じことだという意味です。
 
つまり、上のことは、この世の現象に実体がなく、神が、神秘の摂理として整った共同幻想を与えるのだと仮定しても、私たちは、地上で実在と同じように暮らしている、ということを意味しています。
 
例えば、仏教では、人間の存在に実体がない、という話があったような気がします。違っているかもしれませんが、空(くう)の思想とかには惹かれるものがあって、聖書では、伝道の書に、似たことを感じていました。存在を否定するものではないのです。
 
そして、このことは、科学によっても、否定することは出来ないことなのです。科学は、どのように現象が起こっているかを追求する学問であり、なぜ現象が起こるかという原因を追求することは出来ません。現象からの帰納によって法則を見出し、事件や観察によって矛盾しなければ、正しい法則だ、という追求の仕方で、世の中を便利にしてきました。
 
科学が追えないし負えないこととして、法則で総てを説明できる世界なのか、ということと、一つの法則は、宇宙の果てでも成り立つか、果てしない過去と未来においても成り立つか、ということです。科学には歴史があり、その始まりはだいたい分かっており、その終わりは人類が存続する間に限られているので、総てを明らかにすることはないでしょう。
 
科学を根拠として、神はいないと言うのは、科学教の信仰?ということになります。
 
したがって、共同幻想ではないことを、科学が証明することは出来ないのです。
 
さて、超常や人間を離れたことの嫌いな信仰者である私が、このような共同幻想の話をするのはなぜかというと、人間が共同幻想を作り出すことは不可能であり、共同幻想を造っているのは何らかの摂理ということになりますが、もし、神が共同幻想の造り主であるならば、・・ということを考えてみたいのです。神と人の違いは、ふつう思われているより、はるかに大きいということです。
 
共同幻想の考えからは、私たちには今持っているつもりの肉体という実体はなく、存在という形無きものだけがあるとして、神が、心と感覚だけを与えていて、ある程度、調和できるような、上の3条件のような世界を、共同幻想として与えているということになります。
 
キリスト信仰の神が、人格的側面を持っているのは聖書から明らかですし、それゆえに、人間に共感できる神です。しかしながら、神は、同時に、宇宙と世界の仕組みと秩序を支配する全能者でもあります。ここでは、宇宙をも支配する神であるなら、私たちが、ふだん思っている人格的な神のイメージにとどまらない摂理としての神の存在も考えてみようというわけです。
 
そうすると、私たち人間が、何らかの意識をもっていたとしても、その神に直接会えるでしょうか、否である、という話なのです。形無き私たちは、神の与えた共同幻想の仕組みについての摂理を目にしたり理解するなどということは出来ないからです。
 
実際そうであってもなくても、キリストの父なる愛の神を想っていても、神の絶対的存在ということを、本気で考えている人は、意外に少ないような気がします。
 
神は、人間の手の届かない次元におられ、そこから、私たちの次元に様々のものを与えることのできる全能の存在であることに変わりはないのです。つまり、人間が、神が神がと、口酸っぱく言えるような、お父さま的な存在だけではなく、果てしない次元を超える存在でもあるということです。
 
つまり、神は、上の共同幻想があってもなくても、私たち人間の、限られた超常ではない認識に、入りようのない存在だと言うことです。万物の摂理を支配する御方は、私たちに、導きという作用を及ぼしても、私たちと、決定的な違いがあることを認識してほしいというのが私の意図です。
 
共同幻想の考えから言えば、幻想を作り出している神に、存在の、それこそ点に過ぎないような、いや、形無きがごとき私たちが、地上において、幻想の仕組みなど知りようがなく、その造り主になど、会えるはずもないと言うことです。
 
もし、仮に、天国で、美しい楽園を与えられ、神に会えたとしたら、神が、天国という幻想と同値の世界を、恵みとして、与えて下さっていることになりますし、地上での私たちの心に与えられる恵みもまた、とても手の届かないところから与えられるものであるということになります。
 
私はそれで十分です。それ以上の責任を負うことは、むしろ、恐ろしいくらいです。それ以上の能力の自覚?は、滅びゆくカルトの持ち物です。
 
神の持つ人格性は、聖書から、神が人間に共感できる性質であることが私たちに分かるということですが、例えば、人間にはとても手の届かないところからの、恵みと赦しと癒やしと救いと導き、神にとっては、たとえるなら、指先を少し動かすだけで足りる、というほどの全能なのです。
 
それで十分なのに、人間は、神をイメージするときに、どうしても、人格をイメージしてしまいます。それで、人格的側面が際立って言われていることは、ある意味、災いをもたらしています。
 
人は、神聖を見たがります。理解したがります。そして、悪いことに、人よりも知っていると言いたがるのです。その典型が、聖書のパリサイ人であり、現代では、キリスト教内外にたむろしているカルトであります。私の焦点が見えてきたと思います。
 
神は、超常も、地上も、摂理として支配する御方です。私たちは、せいぜい日常の、限られた時空を、不完全に知って、そこで、不完全に、動いたり、何かを動かしたりしているだけの存在です。
 
共同幻想であろうとなかろうと、私たちは、神の支配下で生きています、いくらでも言い替えが出来るでしょう、神の掌中で生きています、いつも神に俯瞰され且つ詳細に見られています、神に全てを見られています、つまり、神の前で生きているのです。
 
その上で、神は、赦されることと赦されないことを明白に裁く存在です。聖書から、恵み、愛し、寛容であるとともに、同様に聖書から、戒め、懲らしめることがある、ということを忘れてはいけません。
 
そして、神は、祈りという秘密の小部屋を、すなわち、そのための小さい時空を、人のために、いつも用意して待っておられるのです。
 
私は、それで必要十分なのです。信仰に何が必要十分かは、前にも述べたように、精いっぱい正直な祈りであります。
 
神が、あたかも、身近にいるアドバイザーを兼ねたお味方であるかのように見るのは、また、人についてのことを疎かにして、神の意志と行為を、自身の信仰の知識で説明できると思って、そればかり追求しようとするのは、神の人格的イメージが勝ってしまった信仰?の、人間という被造物としての身の程を忘れた姿勢だと思います。
 
神は、神は、云々と、知ったかぶりで名指しして人間の言葉の粗野な断定の対象とすることなど、決して出来ない存在が、私たち信仰者の、信じ仰ぐ神であります。
 
人格的唯一神は、人格だけではない総ての摂理を支配する全能者です。人は、神の人格性も、全能性も、完全に理解することはありません。
 
私の言っている共同幻想は、神が、人によって限定されないことを示すための仮の理路であります。くれぐれも、逆に、自らの作りだした幻想の確信?に、また他者の作り出した幻想の決めつけに、取り込まれないようにしてください。
 
想い描くところに神はいない(シモーヌ・ベーユだったか?)。この意味は、神が、人間の理屈や想像のイメージなど、何の役にも立たないところから、人間の必要に答えて、その恵みと、甘いだけではない導きを与える御方だということでしょう。
 
私たち信仰者が、聖書を読んでいた信仰の原初において、今までにないような共感と慈しみを体験しているために、いかなる状況でも、祈らないではいられないということです。
 
そこには、共同幻想などという考えはないのですが、いや、幻想だろうが、目に見えない実在であろうが、目に見える総ての物や人や現象よりも、衝撃的に、瑞々しく受け取ってしまうものがあるからなのです。
 
それが、人の心を揺さぶり、解放し、動かすから、信仰者が誕生するのです。
 
つまり、共同幻想という考え方は、一見、総てが空しく思えますが、そういう共同幻想の世界であったと仮定しても、人に共感する神の、支配の内にいることが、心の幸いとなるでしょう。
 
神が人に共同幻想を与えているとしても、人が見るのは、神が幻想を与える姿でも理路でもなく、人の感覚によるものだけですから、証明などは出来ません。あくまで、人の想像と思考の、神についての限界のようなものでしょう。
 
しかしながら、考えることが好きな人や、考えてしまう人にとっては、人間の自由な想像力の飛躍として、現実の目に見える世界に慣れてしまった善と愛の思想から、もはや、生死を超えた生命の、被造物と呼ばれる人間の感覚に対する神の摂理の支配を想うとき、それまでよりも、はるかに大きな次元の絶対者の存在を想像することで、はるかに大きな愛の支配する世界に気づくヒントにはなると思っています。
 
神という存在、そして、神秘というものの、人には決して到達しえない秘密をもって、人は、神に対して、今まで以上に、人という存在の小ささを、不完全さを、その決定的な違いを、知るべきだという目的のための記事でもあります。その自覚こそが、信仰者に人としての敬虔を生み出すのです。
 
 
(2020年05月20日、同日一部修正)
 
俯瞰(ふかん)=高い所から見下ろし眺めること
 
 
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  涯(はて)の恵み (再)
 
 
私が、いちばん嫌になる伝道~説教の形式がある。
 
これこれを信じますか。
 
この質問形式は、
信じたら信仰者、
信じなかったら非信仰者、
ということを意識するようだ。
 
嫌なのは、
「これこれ」が超常の言葉で溢れていること。
 
超常は
誰にも分らないことだ。
 
何を分かって問うのだろう。
 
さらに超常の言葉を重ねるなら
付き合うことは徒労だ。
 
そこで、何やら、皮肉や、当てつけを言い始める人は
信仰者であることを大いに疑う。
 
 
聖三位の意志と行為という超常について
分かると言う人は信用できない。
 
分かると言う人は
分かっているから考えないし、
 
さらには
神の導きがあり信仰があるのだから
人がとやかく考えることはよろしくない
などという思考停止の
おしまいの方向に行きやすい。
 
分からないという人は付き合いたい。
私も分かってなどいないと共感できるからだ。
 
全知全能の前に
何も分かってはいない人間であると
弁えることが信仰の節操である。
 
神聖について分からないと言うことが
神の前に敬虔であるということだ。
 
分かっていると言う者は魂が砕かれていない。
むしろ完全になりたがって
教条主義かパリサイ人の傲慢に近づいている。
神に義とされることが既遂の前提にさえなっている。
 
神に義とされることは
罪を赦されることと同値である。
これを信仰の義という。
人がその罪深さを告白して
精いっぱい正直でなければあり得ないこと。
 
もとより人に神の義はないが、
完全になりたがるところには信仰の義もない。
 
カルトにしばしば見られる経過だが、
舞い上がって完全になりたがる分
罪の自覚は薄れてゆく。
 
 
人は人について
ある程度分かることがある。
信仰の議論は人事については成り立つ。
ゆえに
"神事を分かると言う傲慢"についても
傲慢は人の持ち物だから
ある程度は批判的に物が言えるだろう。
 
 
時空は果てしないのに
人間の時空の知識と理解が
そこに及ぶことはない。
 
人間には生涯の涯(はて)という限りがあるから
人間は時間と世界の果てしなさに決して勝てない。
 
時空の限られた人間だからこそ
神の前でだけは
精いっぱい正直でありたい。
 
それが出来ないのは
慢心~傲慢によるか、
あるいは気分か何かの変調によって
神聖に救われているのではなく
神聖と一体になった陶酔気分にいるからだ。
 
神聖の立場を欲しがってはいけない。
そこへ気持ちがゆくとき
今は小さい気持ちでも
ゆくゆく
恐ろしいカルトへの誘惑が待っているのだ。
折々に自戒するべきである。
 
 
私たちが信じ仰ぐところの
主なる神は
神の存在と教えと御心について
人の、分かっている、見える、守っている、
という慢心を嫌うと思います。
 
神について信仰について
時空の限られた人間が
それらを
分かった例(ためし)は無いからです。
 
では、どうやって
人は救われるのでしょう。
 
神について信仰について
時空の限られた人間が
本気で祈るのであれば
"悔い改めても無駄だ"というほど
神が不寛容であった例はないと思います。
 
いかなる時も
神のほうから人を見限ることはないのです。
そのしるしがキリストであることは言うまでもありません。
 
神は
人と人の世界の総てをご存知の上で
常に忍耐強く寛容に
人が正直に告白してくるのを待っておられると思います。
 
いつでもどこでも
一時はサタンのように悪くなっても
赤子のように幼稚に泣いても
神は
私たちのために
道を用意してくださいます。
 
いつでもどこでも私たちが迷っても
キリストの愛とキリストへの想いに立ち返り
信仰の道に戻れるように。
 
 
 
私は、カルトとしか思えない者を批判しています。
カルトは嘘と偽善を吹聴することを好む偽善者であります。
 
 カルトに対して
 問題にしていないみたいに
 笑うだけで何もしないのは偽善です。
 できることをしないで漫然としているのは偽善です。
 
 そしてこのように私たちは
 しばしば偽善さえも行なっています。
 罪なき人は一人もいないということです。
 
 そして、そこは、カルトの狙い目なのです。
 超然とすることは、ある意味、放置することであります。
 
 カルトは神聖または絶対が分かるという主張です。
 
 もしそうでなければカルトではなく別の宗教ということです。
 
 カルトは人が持っている完全欲を誘います。
 人は完全になりたいがために
 カルトから教祖を絶対肯定するように
 洗脳~マインドコントロールされてゆきます。
 
 カルトを誤りとするべき理由は、
 カルトの主張は広まれば反社会的になりうること
 そして、カルトの人間に傲慢を見ることはあっても
 世辞や辻褄合わせを聞くことはあっても
 敬虔を見ることがない、つまり、ろくな人間がいないという事実です。
 
批判する自信や能力や適性がないと思う信仰者は
批判をする必要はありませんが、
カルト批判を否定しないでください。
 
さらに、影響を受けやすいかもしれないので、
そういうカルト的なサイトに近づかないでください。
 
カルト批判は、ある意味、獣道を行くことです。
カルトは、そこにいて、そこしか歩けないからです。
つまり、カルトは、人間性を失ったケダモノへの堕落だと思います。
 
 
(2019年05月14日、同日一部修正)
 
(2020年05月18日、一部修正再録)
 
涯(はて)
吹聴(ふいちょう)
狙い目(ねらいめ)
おこなう(行う、(行なう))
 https://uranaru.jp/topic/1033015
獣道(けものみち)
 
 
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  二項
 
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/107263.html
 少し修正して再録
 
 
嬉しいと思える恵みは
同時に試練だ
喜びのために思い上がらないようにと
 
試練としか思えない悲しみは
同時に恵みだ
生死を超える神だけの民になるため
 
失望は新たな願いを生む
 
絶望は否応なく希望を生じる
その希望が次々に消えてゆくとき
絶望は強く迫ってくるので
人は成り行きを思い
運びを思わざるを得ないだろう
そのとき信仰は
少なくとも絶対孤独から人を救う。
 
恵みと試練
希望と絶望
 
相反するような二つはともに
神と人の間で
御心と人の心が奏でる調和とも言える
 
しかしその調和と一致を
人はごく一部しか理解できない
 
その調和は人が保つのではない
 
人は自分自身についてさえ
存在のバランスを保ち得ない
 
だから人は不変ではありえない
 
 
存在のバランスと調和は
常に神のもとにあり
人が完全な調和に到達するとしても
恐らく人の終末か世の終末においてのみであり
だから人は生きている間
自らの存在について
調和やバランスを保つことは出来ず
自らの意思によらなくても
変わってゆくしかないのだろう
 
反対に見えるものが
同時に存在して矛盾し対立し破壊することのないように
対立している二項は
神によってのみ調和するのだろう
 
そこにおいて人の言葉の見なしは空しくなるだろう
 
人は自ら調和を目指すことはあるが
人は自ら調和を完成することはない
 
人間の尊い言葉の一期一会と
神への正直な一所懸命の捧げものを通して
地上の命では見ることの出来ない憧れは
人が地上では知りえない神の世界において
秩序と慈愛の一致として
対立する二項の調和した存在の
一つの表現形式に過ぎなくなるのだろう
 
そこにおいてのみ
人は存在の根源に帰って
神と人は一つの生命になるのだろう
 
 
(2016年01月05日、同日一部修正)
 
 
私たちが、刺激を受けて動揺するのは、
私たちに常識と良心があるからです。
 
ある変な牧師の説教が
カルト妄想者によって引用されていました。
信仰を死体に喩えて、ビクともしないと。
まるで呪いのようです。
 
偽善カルトは何を言われてもビクともしません。
まさに、生きた人間の活性がどこにもなく、
死体のように、ビクともしないのです。
 
 
メモ的に:
 
ほぼ恒常的で、ほぼ秩序立っていて、ほぼ双方向の感覚であれば、
人間は、それを感覚に過ぎないとは思わず、幻想だとも思わず、
実在だと思い込む。
 
つまり、実世界は、そのような感覚世界と、つまり、ある意味、共同幻想と、同値である。
 
 
(2020年05月15日、加筆修正して再投稿、同日一部修正)
 
奏でる(かなでる)
嬉しい(うれしい)
否応なく(いやおうなく)
一期一会(いちごいちえ)
憧れ(あこがれ)
 
 
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  キリストの心
 
 
キリストは、救われる人々に対して
物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。
 
こんなことが出来るから従え
という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは
神の権威をもって語ったかもしれない。
物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。
 
キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
私の経験から、言葉だけの敬虔芝居は、実に醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。
 
そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうに言葉を仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、正しいから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
(2020年05月12日)
 
 
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