ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: キリスト信仰と批判

 
  正直とは嘘とは
 
 
私は、何度も
神の前でだけは
精いっぱい正直な祈りを捧げることを
救われる条件と書きました。
 
ひょっとして
神の前で正直でも
人の前で嘘を吐くのはいいのか
と思う人もいるのではないかと思いますが
 
人間というものを
全体像として
全人格として
総合的に見てほしいのです。
 
神の前で
精いっぱい正直であろうとするほどの
信仰を持つ人が
人の前で
ここなら、いいやとばかり
平気で白々しい嘘を吐けるでしょうか。
 
つまり
神の前で本気で正直でありたい人は
人の前でも
あまりに白々しい嘘は吐けなくなる
ということが考え方の前提です。
 
人に嘘を吐いたことのない人は
恐らく、いないと思います。
 
その中でも
人の前で、あまりに白々しい嘘を吐く者は、
人の前で正直とは真逆である者は、
神の前でも
正直な告白を続けることはできず
嘘を吐くしかなくなるということでもあります。
そこに信仰は成り立ち得ないと思います。
 
そして神の前と人の前の
どちらも平気で嘘吐きであるなら
もはや、信仰どころか、
故意の嘘つきであり
意図した詐欺か陰謀みたいなものであるのか
体質的には虚言癖としか思えないのです。
 
 
(ネットより、長めに引用します)
虚言癖:
虚言癖とは、どうしても嘘をついてしまう性質を意味しています。 通常、嘘をつく場合には、何か大きな理由があったり、嘘をついたらどうなるかまで考えて嘘をつくことが多いです。 たいていは必要に駆られて仕方なく嘘をつくものですが、虚言癖の場合は違います。 嘘をつくことが癖になってしまっているのです。
やっかいな虚言癖を引き起こしてしまう原因:
虚言癖をつく人の多くは、自分を現実よりも大きく見せたいと考えています。その心理の原因としては以下のようなことが考えられるでしょう。
1.プライドが高く、虚栄心を満たしたい
プライドが高いため、できない自分をなかなか受け入れることができません。自分より周りの方が幸せそうに見えたり、周囲の人からバカにされたりすることを極端に嫌います。そのため、嘘をついてでも虚栄心を満たそうとするのです。
2.劣等感が強く、自信がない
プライドが高いことと矛盾するように思えるかもしれませんが、根本的なところでは劣等感が強い人の方が虚言癖になりやすいです。自分に自信がないため、よりよい自分を想像して嘘をついてしまいます。過去に何か大きなトラウマがある人も多いです。
3.努力ができない
普通であれば、できない自分を努力で克服していくものですが、虚言癖の人はこれができません。人からは認められたいけれど、努力や苦労は嫌いなので、手っ取り早く嘘をついてしまうのです。
4.隠したいことがある
隠したいことや大きな秘密を抱えている人も、嘘をつきやすいです。はじめは、その秘密を守るために嘘をついていたはずが、嘘に嘘を重ねていくうちに虚言癖の傾向がでてきます。このタイプは、嘘に自覚的である場合もあります。
5.周りに構ってほしい
虚言癖の人は、「周りに認めてほしい」という気持ちを人よりも強く持っています。目立ちたい、羨ましがられたい考えている、かまってちゃんであるとも言えるでしょう。孤独を感じていたり、寂しさを埋めるために嘘をつく人も多く、幼少期の親子関係などに起因しているケースもあります。"
https://tabi-labo.com/217641/lie-human-ppl
 
 
私が出会った嘘ばかり吐く人は、キリスト者、そして、元牧師と言っていました。
しかし、突っ込んで聞くと、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、
などという、キリスト信仰とは真逆の妄想的なことを言い出して、大嘘が発覚します。
 
その人の特徴は、
 
1.指摘に対して、
「邪推と妄想はstさんの専売特許。
 stさんの信頼を失っても、わたしに失うものは全くありません。」
といったことを書いて、自身の優位性を主張してきます。
ここで自らの優位性を指摘して何になるんだろうと思うところです。
当然のことですが、その根拠を全く指摘できません。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12519287991.html
 
2.無根拠など理路の欠落を指摘すると
「そっくりそのままお返しします」などと言ってきます。
しかも、根拠を全く書いたことがありません。
私は、根拠を、約8年間書き続けてきたつもりです。
彼は、書くたびに、
それが無根拠の新たな根拠となり、嘘も積み重なるのです。
 
3.自分が言われそうなことを逆にこちらに当てはめてきます。
「被虐待児が長じて虐待する側になる」
私は、彼に、私の幼小児期のこと、一言も話していません。普通に愛されて育ちました。
「(ある)カルトに似ている」
私は、そのカルトのことを知りません。
どこが似ているかと問えば彼は黙るしかないのです。私の信仰を知ろうとしないから、どこがどう・・ということが言えないのです。
 
彼は、返せなくなると、いつも、黙り込みます。そして、しばらく経つと、何事も無かったかのように、丁寧語の挨拶から、また、書き始めるのです。過去の不都合を総て無視して。
 
「(自身に)依存しているから、かまってもらえないくて、批判をしてくる」
悪口を言うにも自分を高めてくる人です。彼は、人格依存されるような、いかなる魅力も皆無です。批判しているのは、真逆のキリスト信仰を教えられては困るからです。既に、批判は、批判記事があることをもって、読者が、彼に近づくことを少しでも減らすために書いていたということです。彼自身は、全く、遣り取りが成り立たない、話が通じない、話にならないので、彼をどうかしようとか、変えようとかは、全く思っていない段階です。
 
4.ごまかすための丁寧語
書き出しは、いつも、挨拶から始まります。
挨拶など交わす間柄ではないのに、自分は、できた人格だからとでも思って、アピールしたいのでしょうか、状況に全くそぐわない挨拶や丁寧語を入れてきます。動じないよ、とでも言いたいのでしょうか。そういう言い方が、過去には、功を奏したのでしょう。どんなときでも通用すると思っているようです。状況に合わない丁寧語は、気色悪いだけだという大人の感性をを持たないようです。
恐らく、信仰の敬虔を、丁寧語を使えば、実行したことになるとでも思っているのでしょう。
 
5.さらに妄想
私が何かに乗っ取られてトラウマか何かで批判ばかりしているという、ホラーのような話を何度もしてきます。この話ばかりは、私には、どこから出てきたのか了解不能です。悪意からですが、上記の宗教と信仰についてのことに加えて、妄想性を疑う大きな根拠になっています。
 
今、偽善者で、嘘吐きの妄想家である彼は、ヤフーブログ終了とともに所在不明です。
しかし、偽伝道をやめるとは思えないので、ときどき、検索しています。見つかりにくいように、ブログタイトルもHNも変えてくるでしょう。ヤフーブログでも、タイトルは3つ目で、2回変えた人です。その都度、何らかのトラブルがあったのでしょう。私とのトラブルも含まれていると思います。総て作為の悪意からで反省もせず罪悪感も感じない怖い人です。こういう人がいる、という私の経験からの学習でもあります。
 
 
キリスト信仰は、行為義認ではなく、信仰義認による救いです。
ここを理解できない宗教は、カルトだと思います。
 
そして、信仰義認は、
少なくとも、神の前での、精いっぱい正直な告白をすることが悔い改めであり、
はっきり言って、そのことだけが、人が、神に対してできる唯一の信仰告白であります。
 
善い行いは、本当に善であるかどうか、人には、
最後まで影響を追いかけて、証明することが出来ない性質である以上、
 
その折々の正直さのみが、救いの条件であると考えるしかない
という
現時点での、私の主張であります。
 
自らの自由意志で信仰を選んだ人間、すなわち、信仰者に
努めて出来ることは、正直な祈りだけだろうと思うからです。
 
前にも、私は、この結論的な考え方は書いていますが、
ただ、私としての今の判断に過ぎず、訂正不能ではなく、
もっと良い考え方があれば、私は修正する可能性を残しているつもりです。
 
 
(2019年10月17日、同日一部修正)
 
 
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   基督の歌+5:基督像
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
私は、家は日蓮宗だったので、教会に行くには、それなりの切っ掛けが必要でした。高校のとき、聖書を無料でもらえるらしいということを聞いて、下宿仲間と一緒に、最初尋ねたのは、カトリックの教会でした。
 
その時、私に同伴していたのは、聖書は聖なる書っていうくらいだから何か良いことが書いてあるんだろう、という先入観。そういう安い切っ掛けだったのです。
 
カトリックの教会は目立つところにあり、大きくて、このポエムの礼拝堂と階段は、その教会のイメージです。不正確かもしれません。基督像は想像で、むしろ心の中のイメージかもしれません。
 
そのカトリックの教会では、ギデオン協会というところで、伝道の一環として聖書を無料でくれるところとがあり、そのためには、プロテスタントの教会のほうに行くように言われて、次に訪ねたのが、日本基督教団のモダンなデザインの小さな教会でした。そこで日英対訳の新約聖書をもらったのが最初で、毎週ではなかったけど、教会に通うようになり、卒業を控えた頃、洗礼を受けました。
 
最初は、讃美歌に惹かれました。そして、その教会の聖書研究会に、ときどき参加しているうちに、孤独からの解放、他者からの解放、などを学んで、結局、洗礼を受けたのは、いっしょに行った下宿仲間の高校生の中で、私だけでした。ちなみに、洗礼は、滴礼でした。
 
「ユダヤの王」と言うのは聖書の話。「わが救い主」と言うのは現代の私たちの話です。私たちは、ひょっとすると、讃美するたびに、熱く紅潮して、のぼせ上がって、かえって、背いているのかもしれません。私たちは、信仰に、自分の欲求や夢や願望をくっつけているかもしれません。
 
それらを捨てなければ救われない、というのではありません。それらは、信仰とは別であるが、それでも、それらをくっつけてしまいがちなのが、人間の罪性だという自覚こそが必要だということです。
 
若い頃の信仰も、年取ってからの信仰も、似たようなところはあるでしょうが、後者のほうが、より理屈っぽくなっているかもしれません。
 
最終の4つの段落は、一応、憧れというか、讃美的に書いたつもりです。少年の面影をキリスト像が見下ろしているというのは、訪れた少年が去っても、キリストは、忘れることはないというイメージです。
 
そうして、巷(ちまた)に戻ってゆく少年には、長い長い人生が、そして信仰生活が待っています。去って行った少年は、まだ、自分を信じているところがあるでしょう。少年は、キリストの心を洞察できていませんが、
 
キリストは、少年の心を、既に洞察して、温かい愛と共感の眼差しで、見ておられるのです。
 
おしまい
 
 
(2019年10月15日)
 
基督の歌(序+6篇)は、一応、これで終わりです。
 
 
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   基督の歌+4
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
死というものを、生きている間、人は決して実感できないし、分からない、ということがあり、それゆえ、一人の人生の終わりに際して、自他において、様々な思いのすれ違いが起きているだろうと思います。
 
信仰者において、そのすれ違いを乗り越えるのは、最終2行の、キリストの同伴であり、そのとき精いっぱいの正直さが、たとえ罪深くて嘆くことになっても、祈りに答えるキリストからの赦しと癒しとして与えられるものです。
 
キリストだけは、臨終の人に、最後まで、そして、御国まで、寄り添えるからです。
 
 
   衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
信仰者は、ときに気張って、ろくでもない言い張りをします。そこには、信仰を、キリストを愛するがゆえに、守ろうとする気持ちの、呆れるほどの、空回りもあり得ます。
 
言うに事欠いて、それでも意地で硬直して、さらに何か言おうとすること、また、逆に、ベタな教理と聖書の言葉を聞かされること、この両方の似たような経験があります。
 
聖句か教理を語ればいい、正しいのだからと、無遠慮になって、うまくいかなくて、あとは神に任せると言って、一仕事した気でいるのは、必要な努力と分別を欠いた高慢でしょう。
 
まだ元気な人の、元気な説教が、役に立たず、自らの思いも役に立たない時があるでしょう。
 
そして、衰弱している人にとって、その空回りは、かなり、迷惑となることがありえます。
 
若い時と、弱い時、また、年取った時で、具体的な比較は一般的には、なかなか困難ですが、信仰は、罪と、悔い改めと、立ち直りによって、成長します。それを拒否し否定するのは、偽善者かカルトです。彼らは、実に、一気に救われ、幸福になれるのですという気安さにしがみついているのです。
 
しかし、長い年月を生きてきた人間には、余計なものがこびりついていたりもしますし、避けられない金属疲労のようなものもあるだろうと思います。そこで、聖書の言葉だけを並べて、言い得たと思うような得意顔に出くわせば、・・相当に、うんざりするでしょう。
 
金属疲労は、長く生きてきた人間には必ずあるもので、共通なのです。しんみりしたいときに、深く沈んで、しみじみと考え込むときに、事情を知らない人の讃美や教理は、実に、うっとうしく、また、パリピ的な言葉の飾りは御免なのです。
 
そういうときに、説教をして、説得をして、励まそう、などと考えるより、
大切なことは、共感することに他なりません。
 
キリストは、頭ごなしに救いの教条を語ったりはしませんでした。それはパリサイ人の偽善の技でしたから。
 
キリストは、誰よりも、個人を事情と状況を、洞察し、共感できる御方です。
 
神でもキリストでもない私たちに出来るのは、人間らしい共感しかありません。
それが出来るようになるためには、弱く、衰えて、少しは、グレてさえいるような感じの人に対して、その人独自の経験に対する敬意を学ぶことかもしれません。
 
それは、結局、神の完全とは違うところの、人間の不完全という罪性の自覚に収束するしかないのです。不完全ゆえに全知ではないことを弁えるならば、自分の及ばない経験をしているであろう他者に、キリスト教用語を並べて済ませることは出来ないはずです。難しいと思ったら、難しいと言う勇気も必要になるでしょう。つまり、罪の告白と同様の、経験と共感と敬虔が必要になります。弱みを見せることも必要なときがあるでしょう。・・弱いのですから。
 
そういうことを弁え、努力して、説教でも説得でもなく、相手を知りたいという意欲で聞く姿勢、すなわち、傾聴することから始めることが、人から人への、慰めと激励の、信仰者らしいあり方だろうと思います。
 
※ 
何を言っても、聖書と、教理と、讃美言葉で、ごまかす人の中には、反キリストの偽善者もいますから、注意し警戒してください。実に、信仰とは真逆の妄想的な固定観念を持ちながら、聖書語や丁寧語を並べて信仰?を唱え、人を惑わすことを生き甲斐としている者がいるのが、私たちが生きている現実世界なのです。
 
 
(2019年10月14日)
 
 
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   基督の歌+3自殺
  
    自殺について
     (「自殺は最大の罪」とは
     「自殺者は最大の罪人」の意ではない
     これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
     死者を呪うための言葉ではない)
 
自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない
 
 (神が生ける者の神であるように
  罪も許しもまた生ける者のためにあるのなら
  最大といわれる自殺の罪が
  果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)
 
もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる
 
人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる
 
 (基督は確かに生きよと言われるだろう
  だが その理由によって生きている人間は
  思ったほど多くはあるまい)
 
自ら死ぬ ということは
もう出会わないと言うに近く
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない
 
残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない
 
 (もともと基督など信じていなかったのだ
  ということにすれば辻褄は合う
  だがどうしても合わないものがある)
 
自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
生きたかったと
 
 
「彼は天国へは行けない、自殺したから」という台詞を見たのは、外国の映画かドラマでした。
 
キリスト者でも、自殺する人はいます。まず、そのことを事実として冷静に受け取って考えることが必要です。私たちとしては、何によって、この地上に命を持ち、この世に繋がっているか、考える機会とするしかありません。
 
「彼は天国へは行けない、自殺したから」という言葉には、彼は自殺したから天国に行けない、ということだけでなく、自分は自殺していないから天国に行ける、という信仰の比較と、自分の優位性が含まれていることを忘れてはいけません。映画においては、表すべき別の意味や目的があったかもしれませんが、一般に、信仰の弁えにおいて禁句であります。
 
自殺は、ある日、突然、ある人が、存在を拒んで、あらゆる関わりを断って、この世からいなくなることです。原因は、推測するべきこともあるでしょうが、その人がどうなる、などと言うことを考えても仕方のないことです。私たちは、それを知るとき、なお、地上に生きているのです。
 
既遂の自殺者には、この世から差し伸べる手も足もありません。全面的に、神に任されているのです。できることは、自殺に至る苦しみを思いやり、神の愛と寛容によって、その人が救われるように祈ることだけでしょう。
 
自殺する人は、最低限の生きる条件が満たされないと思ったのかもしれません。そして、それは贅沢な条件ではなかったかもしれません。でも、中には、自殺する人は、殆ど、生物学的に、衝動的に、自殺する場合もあるようです。
 
心理的に追い詰められて自殺する場合、何らかの引き金になるようなことがあるのかもしれません。希死念慮が続いているときに、冷たい言葉や処遇が、重ねて向けられるとき、希死念慮から自殺念慮に、さらに自殺衝動から自殺企図に変わるのかもしれません。自殺が、間接的に、他者からの言葉や処遇による他殺のようなものになっている場合もあると思いますが、多くの場合、その詳細は分からないままのようです。
 
ということは、逆を考えると、温かい言葉や、今日一日分の、物質的、かつ、精神的な支えがあれば、多くの自殺念慮は、防げるのかもしれません。自殺は、誰も自分に関わらない、また、誰にも自分が関わりが無い、という、絶対孤独から生まれてきます。
 
絶対孤独からの解放は、キリスト信仰の大きな恵みですが、それだけでなく、崖っぷちにおいて、心ある他者の介入によっても、解放される余地があるということでもあります。
思い出した聖句と、私の意見としての説明ですが、
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
信仰は、神と人との関係です。しかし、キリストは、神の国について、私たちのただ中にあると言っています。ただ中、とは、心の中のような気もしますが、もう一つ、信仰が、神と人の関係であるなら、人と人の関係に表れることもある、という意味かもしれません。
 
だから、私たちは、自他の窮地において、私たちの信仰は、神の国を、垣間見たり、垣間見せたりすることがあるのかもしれません。キリストは、超常の天国ばかり夢見るのではなく、「あなたがたのただ中にあるのだ」という言葉で、神の国を、むしろ、人と人のの関係の中に表すことを、求めておられるように思えます。
 
キリストご自身が、誰よりも、人間ひとりひとりと、心を通わせる御方だからです。
 
キリストのようには、いかなくても、やさしさを装う偽善者の社交の丁寧語ではなく、人間として、本当の心から溢れてくるような行いと言葉を、人として学び、磨いてゆくことが、いっそう必要だということなのでしょう。
 
 
(2019年10月13日)
 
 
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  基督の歌+2
 
 
私は、昔から、キリスト信仰を考えるときに、体のいい言葉を並べることに、半端に抵抗がありました。感謝の言葉は使うことがありますが、特に讃美のための讃美と言うのは苦手です。
 
そして、私が現代のパリサイ人として、約8年間批判して、ヤフー終了とともに、所在不明になっている偽善者のブログの言葉が、
「神のみことばである聖書にはイエスキリストを信じる者は生ける神の宮であり(新約・第1コリント3章16節)、また讃美もまた生ける神の住まい(旧約・詩篇22篇3節)と記されています。生ける神の臨在と愛はわたしたちの神への讃美によってあらわされるのです。さあ、いっしょに讃美をしませんか?」です。
12月には消えてしまいますが、
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/guest.html
讃美をするなと言いたいわけではないが、讃美しておけばいいだろ、という安易さで、やたら讃美しまくり、一方で、罪を認めず悔い改めもしない偽善者がいるのです。大嘘吐きです。
 
前から言っているように、信仰の言葉として、最も大事なのは、正直さであります。見かけの讃美言葉に騙されるのはいやです。
 
そういうことで、自分の本音と呼べる、かなり過激な言葉を用いて書いたのが、「基督の歌」:序+6篇です。これでもかと信仰に不都合なことを書いて、自分に問うてみるのです。
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
形而上の供え物というのは、頭の理屈だけの教条主義的な信仰?のことです。乞食にくれた残飯とは、薄っぺらな人の善行、受難に耐えんとする信仰は、被害者意識に走りやすい信仰?、旗がなびく、というのは、似た者同士が集まって、お仲間意識に凝り固まることです。カルトでは、よく見られることです。キリスト信仰においては、あってはいけないことです。
 
 
  不信仰告白
      (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
神の全知全能は、全面的に神のみに任される大いなる力であり、決して私たち人間の手には負えず、また、その神に対して、神の力に対して、私たちがとるべき姿勢は、恐れを知ること以外ではありません。
 
一本の髪の毛を火にかざすと、チリチリっと、あっという間に燃え尽きてなくなります。私たちは、神に対して、そのように小さい存在だということです。
 
私が近づきたいのは、人生の同伴者である主イエス・キリストだけです。
私が、神に祈りを捧げることが出来るのは、主イエス・キリストの執り成しがあってのことです。
 
神は、キリストの執り成しによらなければ、決して、やさしい父ではありません。罪は、救い主イエス・キリストの名によって、正直に、悔い改める罪の告白をしなければ、赦されることはありません。
 
偽善者シャローム shalom は、罪は、悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言っていました。
 
偽善者シャロームは、次には、悔い改めは、神が与えると言って、人に言われる筋合いはないかのように、悔い改めないことを正当化しました。
 
これは、悔い改めたとも、悔い改めるとも、言えないのは、神が与えないからだ、という言い逃れです。しかし、とんでもない、信仰の始めと、信仰生活において、神が悔い改めに導いていないのは、神が、その人に何も与えていない証拠にしかならないのです。
 
その者のお仲間、楽山は、白々しくも、それですっきり解決したと言い、キリスト信仰について何も知らないことを露呈しました。
 
偽善者は、罪には、いつも、さいなまれている、と言いました。罪を気にすると、罪がいじめてくるかのような、まるで、被害者であるかのような言い方です。
 
私は、生きるのに向かない、宗教に向かない、神の国に向かない、私は神を知らない、神を理解などしていない、私は、神の前では、主に執り成しを願うところの、水の泡のごとく無力な存在であるということを言いたいのです。
 
私たち人間そして信仰者は、不完全で弱く、水の泡のように現れ、水の泡のように地上から消えてゆく存在です。
 
私たち人間そして信仰者は、命さえも惜しまない救い主イエス・キリストを慕うゆえに、創造主であり全知全能の神を、神、そして、父よ、と呼んで、仕えることが出来るのです。
 
 
(2019年10月12日、同日一部修正)
 
 
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