ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: キリスト信仰と批判

 
 原初から2
 
  2012年02月24日の記事
  「原初から」を修正再録
  http://st5402jp.livedoor.blog/archives/105626.html
 
 
原初の信仰が生まれるとき
それは復活の類似体験である
と言えば、かなり語弊があるかもしれません。
復活=死人が蘇る
という先入観があるからです。
 
キリストの復活と違って
ここで信仰における復活というのは
それまでとは違った生の体験として
人を解放するということです。
 
原初体験は
自由意思による神のみへの服従の決意へと導きます。
つまり
神への服従が
人の世の様々な執着からの解放だということです。
 
勘違いしてほしくないのは
人の世を無視するということではないということです
無視は何ももたらしません。
 
人の世の悩み苦しみを避けられなくても
それに耐えて生きるための信仰であります。
 
つまり神への服従というのは
襲い来る不幸に
いつまでも泣いて過ごすか
信仰によって生きてゆこうとするかなのです。
 
しかし本当に自由意思かというと
そうとも言えない神秘の部分があります。
不思議な御縁ということです。
 
原初体験は出会いであり
縁付くことであり
絆されることであり
これらは
ある種の受身の直感~直観であり
芸術の享受にも似るが
恋愛や結婚にも似ている。
 
具体的に言うと
イエス・キリストを好きになることです。
 
むしろ享受しながら
そこから何を目指すことになるか
という自由意思の問題ともなります。
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか
自分の確信で自分を縛り付けてゆくか
自己陶酔に陥るか
これらは目に美しく耳に心地よい偶像に
人間がバランスと調和を自分で塗り固めることであり
人間の作為は
原初の面影すらないところへ向かうでしょう。
 
信仰は
自由と服従のバランスではなく
思いわずらいからの自由と
人間らしさへの一途な希求であります。
 
ゆえに信仰においては
自らを省みて祈り告白することなしに安らぎはなく
 
よって常に信仰はその原初から
自他による思いこみや固定観念を
吹き込まれたり糊塗されたりすることを
拒否し続けることになるでしょう。
 
神からの束縛すなわち信仰は
個人によって境遇や弁える詳細が違ってくるために
こうせよという一つの言葉で確定できるものではないと思います。
 
ただ、キリスト信仰は、祈りの信仰であるために
祈りだけは必須ということになるでしょう。
そして、人から神への唯一の音信である祈りだけは
嘘と飾りは通用せず
ただ一途に正直でなければ成り立たないのです。
 
完全な信仰などあり得ません。
 
信仰とは
人間の不完全を
神によって赦されて義とされることです。
 
 
     原初2
             原初
 
 
(2012年02月)
(2020年10月29日、修正再録)
 
 
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踏む、堕落、信じる (旧作+信仰)
 
 
(批判の速報)
楽山は、「鬼滅の刃」と「幸福の科学」(2)(3)を書いてきました。「馬型宇宙人」とか出てきたり、死んだ後の地獄霊救済とか書いていて呆れますが、楽山自身の意見は、ずいぶん少なくなって、荒唐無稽の超常に遊んでいる感じです。どんどん少なくなって、無反省で無責任で無神経な楽山が、何も言わなくなることを心から願っています。
 
 
   踏む
 
踏まれた虫は
踏まれて無視されるが
 
踏まれたという怒気の記憶が
踏んだ足の裏に跡を残す
 
無形の返し技
 
取るに足らぬ者が
街を行けば
 
一歩一歩に別の世界を踏み
 
故郷から
 
足取りも覚束ない異土の住人になってゆく
 
見知らぬ街に
いつもの顔は
いつもの顔か
 
足下は
なじみの故郷でしょうか
 
そうして
目覚めればいつも仰天している
 
日常はいつも前人未踏である
 
 
(2016年08月16日)
(2019年10月20日、一部修正)
(2020年10月24日、一部修正)
 
故郷(ふるさと、こきょう)
異土(いど)
仰天(ぎょうてん)
足下(あしもと)
前人未踏(ぜんじんみとう)
 
 
  堕落
 
苦し紛れの眼力に
辻褄合わせの関数になるくらいなら
言葉など壊してしまいたい
 
 最初に捨てた季節
 
身に受けた水分が
潤いにならないのなら
排泄だけが気象を変えるのか
 
 最初に泣いた砂
 
動いていることさえ否定して
歪んだ凹凸を笑みと言うのなら
剥がしても潰しても顔ではない
 
 最初に折れた距離
 
堕落は草花の痛覚に息をする野原で。
 
 
(2016年07月??日、同日一部修正)
 
覚束ない(おぼつかない)
眼力(がんりき)
歪む(ゆがむ、(ひずむ))
凹凸(おうとつ)凸凹(でこぼこ)
剥がす(はがす)
潰す(つぶす)
 
 
  信じること
 
宗教は一対一の説明をしたがるが、
信仰は辛うじて多義と不全を磨こうと思う
 
信仰は信じることではない
好きになること
生きる縁になってほしいこと
 
自分を見捨てないで見ていてくださること
祈りの正直さだけが通用すること
 
宗教はいつも説明したがるが
信仰は辛うじて不完全に受け取り
不完全に悲しみ
不完全に喜び
不完全に導きを知る
 
不完全は完全の真似をしたがるが
完全はそれでも不完全を愛するという
 
 
  神学とは
 
神学というのは神を知る学問ではありません。
神という不可知の絶対者の存在から人間を知る学問です。
 
私たちに必要なのは人間を知ることであり
超常は神に任せよということです。
 
神学の名のもとに神と超常ばかり語るのは
学問ではなく
ついでに言ってみた趣味の想像でしかありません。
 
聖書は神の存在を語りますが
神の意志と行為がわかる本ではありません。
 
勘違いしないでほしいのです。
聖書が語るのは
一途に
いかなる人が神から義を得たか
いかなる人がキリストに癒され救われたか
という
あくまで
善悪併せ持っている人間についての
人間に必要な
人間の
大きなそして深いテーマなのです。
 
 
ちなみに私は神学を勉強したことはありません。というのも、ネットに出ている神学の記事を見て、人間に関係のある話には興味を覚えますが、神がどうこう聖霊がどうこう・・というだけのような話には、私は、まるで感受性がなく、共感を感じることが無かったからです。私は、あくまで人間と人間の持ちうる信仰について知りたいし語りたいのです。
 
宗教と信仰を語り伝える相手は学者ではなく、あくまで一般の人々ですから、信仰の糧にならない神学は無意味です。
 
 
ふむかおちるか

踏むか堕ちるか
 
 
(2019年10月23日、過去作、修正、再録)
 
(2020年10月27日、旧作一部修正加筆して再投稿)
 
辻褄(つじつま)
縁(よすが)
 
 
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(再録+です。)
 
 
  信じるとは2
 
 
信じるとは
思いこむことではない
 
 思い込めば
 その人の頑なさに固まる
 その人の
 であり
 そこに神聖は排除されている
 
 私たちが自由意志をもって
 ときに神聖から顔を背けてしまうことは
 古今の人間の有り様が証明している
 
 排除を、また、排除から
 いちいち神聖は防がない、守らない
 自由な人として育つためだ
 
 都合の良いほうにばかり正当化してはいけない
 
仰ぐとは
いつも上を見ていることではない
 
 上を見たら下は見えない
 
 上ばかり見ていると上気して
 足ではなく足下をすくわれる
 
 上には届かない大きなものがあり
 下には届いてほしい小さなものがある
 
 思い上がり
 のぼせるという罪は
 
 上にあるのではなく
 上だけしか見ない人にある
 
言葉の微笑を
あざ笑いに変えないように
 
言葉の悲しみを
憎しみに変えないように
 
信じ仰ぐ心は
悲しみと癒しの微笑を知っています
 
 
信仰は、言葉で読んだり教えられたことではなく、そこから感じ取り、考える世界です。言葉だけ覚えても、心が動かなければ、人間は、新しくはなりません。大切なのは心の学習です。
 
聖書が神の言葉でも、読む私たちが持っているのは人の言葉です。つまり、不完全なのです。
 
言葉で習って、それを覚えて、思い込み信じ込むならば、人間の不完全性によって、言葉の意味の狭小化に支配されることになります。忘れないようにと言葉を覚えて、そのせいで、大事なことを忘れてしまうこともあるということです。
 
人間の言葉は、個人の心の中で、一つでありながら、時とともに、様々な意味を持ってゆきます。言葉を覚えても、そのことによって、心を疎かにすれば、信仰は、揺るがないどころか、思い込み信仰?のカルトと同じようなものになりうるということを考えてほしいと思います。
 
だから、キリスト信仰は、一気に悟りに至るような境地ではなく、折に触れて、自らを省みて、正直に祈り、新たな思考と感受性を経て、成長するべく、育(はぐく)んでゆくものなのです。精いっぱい、正直に祈ることが糧となって、それを助けるでしょう。
 
訪れた悲しみは、新しい心の成長を期待されて、神に、その時の人間の言葉をもって捧げられるためにあります。人間の関わるもの、特に信仰は、悲しみのうちに、最も多くの生きる糧を与えてくれるでしょう。
 
信仰は、不変の平安の境地ではなく、祈りとともに学習して成長する道であります。
 
 
悲しみの向こうに
悲しみの向こうに
 
 
(2019年10月21日)
(2020年10月21日、加筆して再録))
 
 
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  正直とは嘘とは2
 
    去年の記事を加筆して再録します。
    
    今は所在不明の、シャローム shalom に対する批判です。
    「」は、偽キリスト者で偽牧師のシャロームの発言ですが、
    
    記事は、大方、楽山にも当てはまりそうです。
 
 
私は、何度も、神の前でだけは精いっぱい正直な祈りを捧げることを救われる条件と書いてきました。
 
ひょっとして、神の前で正直でも、人の前で嘘を吐くのはいいのかと思う人もいるのではないかと思いますが、人間というものを全体像として全人格として総合的に見てほしいのです。
 
神の前で精いっぱい正直であろうとするほどの信仰を持つ人が、人の前で、ここならいいやとばかり、平気で白々しい嘘を吐けるでしょうか。
 
もし神の前で正直でありながら人の前で嘘が吐けるなら、極めて奇妙な信条を持つカルトか、神の前でも、実は正直でなく嘘を吐いているということでしょう。
 
つまり、神の前で本気で正直でありたい人は、人の前でも、あまりに白々しい嘘は吐けなくなるということが考え方の前提です。
 
人に嘘を吐いたことのない人は、恐らく、いないと思います。
 
その中でも、人の前で、あまりに白々しい嘘を吐く者は、人の前で正直とは真逆である者は、神の前でも、正直な告白を続けることはできず、嘘を吐くしかなくなるということでもあります。そこに信仰は成り立ち得ないと思います。
 
そして神の前と人の前の、どちらも平気で嘘吐きであるなら、もはや、信仰どころか、故意の嘘つきであり、意図した詐欺か陰謀みたいなものであるのか、体質的には虚言癖としか思えないのです。
 
 
(ネットより、長めに引用します)
虚言癖:
虚言癖とは、どうしても嘘をついてしまう性質を意味しています。 通常、嘘をつく場合には、何か大きな理由があったり、嘘をついたらどうなるかまで考えて嘘をつくことが多いです。 たいていは必要に駆られて仕方なく嘘をつくものですが、虚言癖の場合は違います。 嘘をつくことが癖になってしまっているのです。
やっかいな虚言癖を引き起こしてしまう原因:
虚言癖をつく人の多くは、自分を現実よりも大きく見せたいと考えています。その心理の原因としては以下のようなことが考えられるでしょう。
1.プライドが高く、虚栄心を満たしたい
プライドが高いため、できない自分をなかなか受け入れることができません。自分より周りの方が幸せそうに見えたり、周囲の人からバカにされたりすることを極端に嫌います。そのため、嘘をついてでも虚栄心を満たそうとするのです。
2.劣等感が強く、自信がない
プライドが高いことと矛盾するように思えるかもしれませんが、根本的なところでは劣等感が強い人の方が虚言癖になりやすいです。自分に自信がないため、よりよい自分を想像して嘘をついてしまいます。過去に何か大きなトラウマがある人も多いです。
3.努力ができない
普通であれば、できない自分を努力で克服していくものですが、虚言癖の人はこれができません。人からは認められたいけれど、努力や苦労は嫌いなので、手っ取り早く嘘をついてしまうのです。
4.隠したいことがある
隠したいことや大きな秘密を抱えている人も、嘘をつきやすいです。はじめは、その秘密を守るために嘘をついていたはずが、嘘に嘘を重ねていくうちに虚言癖の傾向がでてきます。このタイプは、嘘に自覚的である場合もあります。
5.周りに構ってほしい
虚言癖の人は、「周りに認めてほしい」という気持ちを人よりも強く持っています。目立ちたい、羨ましがられたい考えている、かまってちゃんであるとも言えるでしょう。孤独を感じていたり、寂しさを埋めるために嘘をつく人も多く、幼少期の親子関係などに起因しているケースもあります。"
https://tabi-labo.com/217641/lie-human-ppl
 
特に、1,3,4、などは、多く見られると思います。2,5、については、注意深く見れば分かるかもしれませんが、隠していることも多いと思います。
 
 
私が出会った嘘ばかり吐く人は、キリスト者、そして、元牧師と言っていました。しかし、突っ込んで聞くと、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などという、キリスト信仰とは真逆の妄想的なことを言い出して、大嘘が発覚します。
 
その人の特徴は、
 
1.指摘に対して、
 
「邪推と妄想はstさんの専売特許。stさんの信頼を失っても、わたしに失うものは全くありません。」といったことを書いて、自身の優位性を主張してきます。
 
ここで自らの優位性を指摘して何になるんだろうと思うところです。当然のことですが、その根拠を全く指摘できません。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12519287991.html
 
2.無根拠など理路の欠落を指摘すると
 
「そっくりそのままお返しします」などと言ってきます。しかも、根拠を全く書いたことがありません。
 
私は、批判の根拠を、約8年間書き続けてきたつもりです。彼は、書くたびに、それが無根拠であることの新たな根拠となり、嘘も積み重なるのです。
 
3.自分が言われそうなことを逆にこちらに当てはめてきます。
 
「被虐待児が長じて虐待する側になる」
 
私は、彼に、私の幼小児期のこと、一言も話していません。普通に愛されて育ちました。
 
「(ある)カルトに似ている」
 
私は、そのカルトのことを知りません。どこが似ているかと問えば彼は黙るしかないのです。私の信仰を知ろうとしないから、どこがどう・・ということが言えないのです。
 
彼は、返せなくなると、いつも、黙り込みます。そして、しばらく経つと、何事も無かったかのように、丁寧語の挨拶から、また、書き始めるのです。過去の不都合を総て無視して。
 
「自分に依存しているから、かまってもらえないくて、批判をしてくる」
 
悪口を言うにも自分を高めてくる人です。彼は、人格依存されるような、いかなる魅力も皆無です。
 
批判しているのは、真逆のキリスト信仰を教えられては困るからです。既に、批判は、批判記事があることをもって、読者が、彼に近づくことを少しでも減らすために書いていたということです。
 
彼自身は、全く、遣り取りが成り立たない、話が通じない、話にならないので、彼をどうかしようとか、変えようとかは、全く思っていない段階です。
 
4.ごまかすための丁寧語
 
書き出しは、いつも、挨拶から始まります。
 
挨拶など交わす間柄ではないのに、自分は、できた人格だからとでも思って、アピールしたいのでしょうか、状況に全くそぐわない挨拶や丁寧語を入れてきます。動じないよ、とでも言いたいのでしょうか。そういう言い方が、過去には、功を奏したのでしょう。
 
丁寧語の挨拶が、どんなときでも通用すると思っているようです。状況に合わない丁寧語は、気色悪いだけだという大人の感性をを持たないようです。また、恐らく、信仰の敬虔を、丁寧語を使えば、実行したことになるとでも思っているのでしょう。
 
しかも、その時のコメント蘭に、けなし言葉も一緒に入れてくることがあります。世辞としての丁寧語の挨拶と、けなし言葉と、どちらが本音であるかと言えば、後者の、けなし言葉であることは、言うまでもありません。直観的に分かることです。
 
5.さらに妄想
 
私が何かに乗っ取られてトラウマか何かで批判ばかりしているという、ホラーのような話を何度もしてきます。
 
この話ばかりは、私には、どこから出てきたのか了解不能です。悪意からの言い方ですが、上記の宗教と信仰についてのことに加えて、妄想性を疑う大きな根拠になっています。
 
今、偽善者で、嘘吐きの妄想家である彼は、ヤフーブログ終了とともに所在不明です。しかし、偽伝道をやめるとは思えないので、ときどき、検索しています。見つかりにくいように、ブログタイトルもHNも変えてくるでしょう。
 
ヤフーブログでも、タイトルは3つ目で、つまり、2回タイトルを変えています。その都度、何らかのトラブルがあったのかもしれません。私とのトラブルも含まれていると思います。世の中には、反省もせず罪悪感も感じない怖い人です。こういう人がいる、という私の経験からの学習でもあります。
 
 
キリスト信仰は、行為義認ではなく、信仰義認による救いです。ここを理解できない宗教は、カルトだと思います。
 
そして、信仰義認は、少なくとも、神の前での、精いっぱい正直な告白をすることが悔い改めであり、はっきり言って、そのことだけが、人が、神に対してできる唯一の音信、即ち、信仰告白であります。
 
善い行いは、本当に善であるかどうか、人には、最後まで影響を追いかけて、証明することが出来ない性質である以上、その折々の正直さのみが、救いの条件であると考えるしかない、という、現時点での、私の主張であります。
 
自らの自由意志で信仰を選んだ人間、すなわち、信仰者が、神に対して、努めて出来ることは、正直な祈りだけだろうと思うからです。
 
前にも、私は、この結論的な考え方は書いていますが、ただ、私としての今の判断に過ぎず、訂正不能ではなく、もっと良い考え方があれば、私は修正する可能性を残しているつもりです。
 
 
丁寧な暴言2
丁寧な暴言2
 なぐられるより悪いことがある(三島由紀夫)
 
 
(2019年10月17日、同日一部修正)
(2020年10月20日、加筆して再録)
 
 
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  心の問題2
 
   過去記事を修正加筆して再録します。
 
 
一応、シンプルな喩えなのですが、
信仰に限らなくてもいいようなところもあると思います。
 
蟻が紙の上を這っているとする。
蟻には紙の上の世界しか見えない。
 
蟻の能力はそこまでで
飛んだり跳ねたりもしないと仮定して
 
信仰が心の問題だというのは
このような場合にも少なくとも二通りの蟻がいるということ。
 
ある蟻Aは、
ずいぶん旅してきたが、どこを見ても神はいない。
神などどこにもいない、神など信じるなんて馬鹿げていると思う。
 
しかし別の蟻Bは、
ずいぶん旅してきたが、どこを見ても神はいない。
でも自分の見ている世界以外に
自分には分からないような
もっともっと広い世界があるのかもしれない。
自分には分からないけど、そこに神はいるのかもしれない。
そこから私を見ていて下さったら、
私が道を外れないように守ってくださったらなぁ・・と思う。
 
蟻Aは、
自分の狭い了見が世界だと思っている。
自分が把握しているだけの世界が全てだと思っている。
その狭い世界だけで、判断している。
自分の、知らない、分からない、見ることの出来ない世界を
考えることさえしないために
可能性としても希望としても
何かを受け取る必要を感じない。
 
つまり自分の能力を超えた存在を認められないのである。
これは、総ての自分信仰に共通する視野の狭小である。
 
蟻Bは、知らない世界があることを認めていて、
その世界へのあこがれを持てるのは
自分の世界と自分の存在の小ささを認めているからだ。
 
以上のことを、
科学めいた仮説のたとえ話だと思ったり
信仰と何の関係があるのだと思う人もいるかもしれないが、
 
これは、絶対と呼べる存在に対して
自分がいかに小さいかを
理屈よりも人生経験で学んでいる人でないと
実感にはならないということです。
 
前に書いたことがあります。
 
 人間の視野は
 その狭さを実感するとき最も広く
 その広さを人と比べて自慢するとき最も狭い。
 
つまり自分の外に別の視野を認められるかどうかであり、
感じたり知ったりすることの
出来ないことがある自分を知っているかということです。
 
信仰に必要なのは、優れた知性でも感性でもありません。
信仰に必要なのは、自らの知性と感性が不完全であるという自覚です。
それは同時に、全能の神に対して、人間であることの条件でもあるのです。
 
そして、聖書を読むと、神は人をご自身に似せて造り自由意志を与えたと書いてあり、神の民として人を愛することが書いてあり、神は、人を、そして人間であることを、大切に思っておられ、それゆえにこそ、人は、自分の個性である知性と感性を大事にするのが信仰です。
 
こう表せば、このことが論理的推測ではなく、感情的言い張りでもなく、人生経験と書いたように、全人格的な経験に、特に "心貧しい" としか言えないような不完全さの気づきに基づいていることが理解できるでしょう。こういう考えは世界観だけではなく、あらゆる人間関係に影響する問題なのです。
 
多くのブログを見ていて、学問、芸術、のみならず、生活と言葉について、ときどき、いいな、と思う感じ方に巡り合うことがあります。
 
小さいがゆえに、小さいことに気づく、小さいことに心が届く、ということがあり、そこには、人間の最も興味深く、最も愛すべき要素があると感じます。あやかりたいと、いつも、思うところであります。
 
信仰は、知っている者が、知らない者に教える、という関係ではなく、総てを知ってはいない、知らない世界や知らないことがある、という自覚と共感であります。
 
その自覚が、全知全能に対する恐れと弁えになり、
その共感が、不全なる人間同士の愛のベースになるからです。
 
 
 しかしながら
 悪の存在などの辻褄だけを考えて
 神がいるならおかしいじゃないかみたいなことを言って
 さも、知識人であるかのように慢心する者は、
 自分を至上とする観念の奴隷となっていて、
 自分が通念的に理解できるもの以外の存在を認めようとしないことが多いのです。
 だから、その者は、実際は、普通ではなく、
 精神の貧困なベースの上にあぐらをかいているのでしょう。
 
(※ 聖書の「心貧しい」、と、心や精神の貧困を、混同しないようにしてください。
 心貧しい、というのは、余計な先入観がないということです。
 精神の貧困というのは、余計な先入観しかないということです。)
 
 見えるものであるか、または、証明されるものでないと、信じないというのは、
 それこそ変な話なのです。
 見えるものや、証明されるものは、信じる必要はないのですから。
 
 また一方で
 何の理由も切っ掛けもなく、夢物語を信じるというのも、おかしな話なのです。
 信じるに至る動機がないで信じ込んでしまうなら、その人の世界は
 現実離れしてゆき、人間離れしてゆき、おとぎ話になってゆきます。
 おとぎ話では、現実を生きられません。
 さらに、超能力や霊やホラーの話になることもあります。
 これらは、自分信仰やカルトの入り口なのです。
 
 信仰の話のプロセスを間違えると、不可知の共有や不完全の共感に至らず、
 逆に文句を言い、否定的な考えを無遠慮に広めようとするのです。
 ときとして宗教への関心や興味がカルト発生の素地にもなりうるということです。
 
 共感をはじめとして、思いやり、恥ずかしさ、罪悪感、などを持てないような
 人間的な情緒面に問題のある人に多いと思います。
 
 
信仰は、神とキリストを対象として考えて、矛盾がなく辻褄が合うとか、都合がよいとか、何でも叶えられるからとか、超常とか夢とかも自由だからとか、文化的な趣味みたいに、好みで信じるものではありません。
 
信仰に至る、ということは、必ず、何かを恵まれているという体験から起こります。そして、その賜物は、とても、人間的なもので、冷たくなく、涸れることもない、泉のようなものです。
 
それは、現実に生きて、耐えられないときの、癒しや救いの言葉、孤独からの解放、温もりと潤い、など、言葉では尽くせない体験があり、既に恵みをいただいているから、信仰から離れることなどしないし、人間から離れることもないのです。
 
神からの恵みは、一人の人間にとって、いつも溢れているわけではありません。分からなくなることもあるでしょう。希望は、持ちましょうと言って持てるものでもないですから、困ったときは、余計なことをあれこれ考えずに、何よりも、その日一日を生きて、過ごしてください。
 
喜びの時も悲しみの時もそのまま人に居座ることはなく、必ず過ぎてゆきます。全部、すっきり嫌なことがなくなるわけではなくても、残った問題については、また改めて、考える機会があるでしょう。
 
信仰者においては、折に触れて、気取りもなく、飾りもなく、護教の強迫さえもなく、
(護教の強迫症は、神経症的であると同時に、信仰自慢にもなってしまいます)
 
疑問も、悲しみも苦しみも、ただ正直に、神様に告白して祈ることが、何より大切なことです。
 
 
      喜びも悲しみも
                  喜びも悲しみも
 
 
(2019年09月30日)
(2020年10月19日、一部修正加筆して再録)
 
 
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