ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: キリスト信仰と批判

 
  存在について
 
 
私たちが存在し、存在していることを自覚しているのは、いかなる科学的、または、哲学的プロセスを経ていても、全て、私たち人間の五感を通して得られたことを基(もと)にしています。つまり、五感のない存在は、何も認知しえず認識しえないという厳然たる事実があります。
 
私たち人間は、五感を通して、それを得ており、それ以外を得てはいません。そこから感受し、思考によって、この世界の有り様を考え、認知します。実際にあるかどうかが、五感で感じるかどうかになります。私たちは、全能者、あるいは、時空の摂理が設定した舞台で踊る踊り子なのでしょう。
 
 
肉体の復活を実際に起こったのだと信じしまうと、それは驚くべき超常の奇跡だから、信仰の中心になり、日常の出来事や、心よりも優先されやすくなります。そうすると、自分にも奇跡が起こることを信じることが中心になるでしょう。
 
私たちは、超常の奇跡が起こるから信じたのでしょうか、否です。キリストの愛と共感に惹かれて信仰者になったのです。それなのに、分かりもしない魔法のような奇跡が起こることを信仰の中心に置いてよいのでしょうか、否です。
 
驚くべき超常の奇跡については、・・起こったかもしれないし、起こればよいけど、分からないですと答えるべきなのです。神のものは、神に帰するべきであって、私たち人間が、あったなかったを決めるべきではないということです。
 
奇跡を信じます・・という告白において、私たち人間にとっては、物や肉体の超常奇跡ではなく、心に起こって生き方を変えた魂の奇跡こそ、信仰の中心にあるべきなのです。超常の奇跡に依存するのはカルトのやることです。
 
 
聖書によって、神を知り、キリストを知ることは、人が自らの不完全さ罪深さを知ることと同値であります。誰が、神の意志と摂理と行為を知り得るでしょう。つまり、人が知り得るのは、そこまでなのです。あとは、神にお任せするしかないことです。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
ここを勘違いすることで、批判をしなくなり、そのことが、キリスト教内外に、おびただしいカルトを野放しにしてきました。批判という非暴力の手段さえも捨てたなら、残るのは、キリスト教をネタにしたカルトの天国です。
 
暴力ではなく愛に生きることを伝えている聖句の勘違いによる批判禁止は、多大な災いを、忍びやかに、もたらしています。キリスト者を総じて軟弱にし、権威主義を容認し、さらに、カルトをも容認しているのです。これは、背教の罪~偽善であります。
 
キリスト者とキリスト教組織の中に、キリスト教的キレイごとによって、悪を許し、偽善を許し、悪意の者たちを野放しにしている者がいます。嘘吐きがいます。詭弁屋がいます。ペテン師もいるでしょう。聖書からの「柔和」と「博愛」に見せかけて、好きなように悪用しています。
 
 
「女」を「人の妻」と書き換えて "情欲の聖句" を "不倫をしないように" という道徳律に変えた者は、信仰の知恵足らず~偽善者です。「神を恐れよ」を「神を畏れなさい」に書き換えた者も同様です。神という存在は、それだけでは脅威であり恐怖であり、畏敬で済むような御方ではありません。
 
神は、やさしいだけではなく、全知全能・絶対完全・永遠不変の、裁きの主であります。神への恐れを忘れたら、信仰はありません。神の愛だけを語って、神への恐れを語らない者は、ゆくゆく、安穏病の、陳旧性偽善者となります。
 
 
批判が出来ない、批判は苦手、批判する気がないと言う人は、批判する必要はありません。能力には適性が伴います。しかし、聖句を引用して批判禁忌が正しいと言う人は、怠け者の偽善者です。そういう者に従うようになれば、"できること" さえ、しなくなるでしょう。
 
 
存在

存在
 
 
(2022年06月12日)
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  絶望から生まれて
 
絶望から生まれてきたものがある
やさしそうな
さびしげな顔をしている
それでいて うすい笑みをうかべている
肩の力が抜けてゆく
 
 私は眠っているのか
 夢を見ているのか
 
何か言いたそうに
こちらを見ている
 
 私の体は動かない
 夜明けは遠い
 
光は遠いのに
そこにいて
静けさでまわりを包む
存在
 
 存在は不安
 不安は友だち
 君は誰?
 
答えず
話しもしない
ある深夜気づく
そのとき
もう誰もいない
 
 ひとり思いがまわっている
 君が私を
 支えてきたのですか
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく

私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  いつのまにか
 
時計がいつのまにか止まっていた
人がいつのまにか死んでいた
そのあっけなさ
唐突さ
忘れることの幸い
忘れないことの不幸
両方味わうのが
尾を引くという鈍さなのだ
その鈍さの表面を
滑らせ
変えられるのは
時間だとは限るまい
長くもなれば短くもなり
味わおうとして
匂いさえかげず
ましてやつかむことも
追うこともできず
五感でとらえきれないまま
意識するときだけ
その人の記憶の中
その人の形で
存在する時間
 
時計がいつのまにか止まっていた
時計で計れない長さを
人はいつのまにか生きてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、共感する心が無いために、表面的な辻褄合わせだけで、実感もなく、神をいないと言い、信仰を否定してきます。反省しないために、人の意見を受け取らず、いつまでも、自分の妄想を繰り返してきます。批判されても、反論する理路も自己中に凝り固まるしかないのです。
 
前から言っていることですが、人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵は、サイコパスです。人格障害の中のサイコパス(精神病質、反社会性人格障害)こそが、他害性を常に持っている犯罪予備群です。そこには必ず自己愛性が含まれます。病的ナルシストこそサイコパスなのです。
 
 
 
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  信仰と固定(再)3
 
 
人間が、神と関わることは、祈りであり、それが全てであります。
 
神が、人間と関わるのは、人間には、知る由もないことであります。
 
人間は、神の全能を知って、神の味方になるのではなく、神を恐れるべきなのです。
 
神を理解すること、神の意志を受け取ること、神の御心を行うこと、これらは、努力目標ではあっても、出来ると思ってはいけないことです。
 
人間が、その身の程を弁えず、神の御心を知って行っているという立場に立とうとすると、神のためにと勘違いして、やたら讃美しまくるようになります。発言がカルトに似て一方向になり、視野と思考が狭小化して、自由な思考が妨げられ同じ言葉が多くなり、声だけが大きくなります。
 
 
信じられることは、信じるようになることは、人間性で理解できて、人間性で共感できることです。それらが心を動かすからです。信仰を固定することは、動こうとする心を止めることであり、祈りによって折々に与えられる癒しよりも、固定して成長しない凝固と思考停止を願う反信仰であります。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが、人間が、神とキリストから受け取ることが出来るのは、人間の知性の範囲で理解できることであり、人間の感性の範囲で共感できることです。つまり、人間として、心の奇跡は、しんみりと受け取れますが、物や肉体の奇跡は信じ込んではいけないことです。
 
物や肉体の奇跡は、神のわざであり、人間の生き方とは異なるからです。人間を超えた物事を理解できるのは、人間を超えた存在になることですが、地上の人間である限り、人間を超えることはありません。その弁えが信仰の節操です。神を恐れるという言い方もします。
 
神や聖霊が教えてくれたからだ、と言うならば、超えた存在ではない人間に、教えたのが神や聖霊だと、どうして分かるというのでしょう。恐らく、大方は、その人の自己顕示欲だと思います。
 
そこにおいて人間は、神を恐れているか否か、神の前に敬虔であるか否かが表れてきます。神聖を知らない私たち人間が、神聖が教えたと言い張るのは傲慢です。神聖を振り回す人は、自らを神聖とする信仰自慢と人間離れの自分信仰です。
 
物や肉体の奇跡そのものを信じることは、人間を、人間らしい心の成長から遠ざけ、超常の超人願望に結びつける、という危険な方向を持つからです。人間が理解できて、感動できて、信仰になるのは、生きている人間の心を動かす言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは、ご利益信仰に過ぎません。物や肉体の奇跡は、人知を超える神を恐れるためにあり、恐れるべきことであり、神にお任せするしかないことです。人知を超えている奇跡を、人知が理解することは出来ないのです。そういう奇跡は、人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする。このことは、限りある人間の能力を思えば当然であります。物や肉体の奇跡は最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは、奇跡で救われた人が、なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか、キリストが、なぜ、その人を憐れんだか、という、心の奇跡または魂の奇跡、それこそ軌跡、すなわち、人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては、物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。物や肉体の奇跡で救われると信じるのは、まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように、石がパンになる=物への奇跡、この世の栄華によって悪魔を崇拝=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて、人を騙しているのがこの世界です。もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:3
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 
4:4
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 
 (マタイ4:3-4、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:8-9
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 
4:10
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
 (マタイ4:8-10、新約聖書)
 
 
知性と感性は、特別な才能ではありません。神が人に与えた賜物として、人間ならば誰でも持っているもので、その中に不完全ながら、思慮が含まれ、理路と分別が含まれ、良心と共感が含まれ、温もりと潤いが含まれ、かつ、成長しています。
 
人は、その賜物によって、聖書を理解し、信仰に至ります。人間の信仰理解は、完全な理解ではなく、心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。聖書から、そして、体験から、神とキリストに出会い、共感し、聖三位は、信仰の対象であって、敬って友だちのように仲良くする対象ではありません。信仰は、動かし気づかせるのであって、固定することではありません。
 
信仰は、固定した安穏ではなく、成長する共感なのです。信仰者は、訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも、去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。そこに不変の境地はありません。共感と学びと成長を促す道があります。
 
神を知ることは、人間が自らの罪深く不完全なる身の程を知ることです。キリストを知ることは、人間が、キリストからの共感の尊さを知り、自らが生きて共感を伝えることの尊さを知ることです。信仰は、超常が、超常ではない人間に共感することを知った人間が、そこに生き方を見い出してゆく道です。
 
 
※ 
 
神は、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変の存在です。
人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、不完全、永遠ではなく限りがある、変わりやすい存在です。
つまり、神を知ることは、人間が自らを知ることです。神を信じることは、人間が神を恐れ、自らを弁えて生きることです。
 
神ならぬものを信じてしまうと、神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。心について考えない者が受け取るのは、手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり、あるいは知っていると自慢するために他なりません。
 
それゆえに、そういう者は、理解も共感もなく自己中心に、やたら讃美しまくって、奇跡の必然を自己暗示して、信じ仰ぐ希望ではなく、思い込み信じ込む固定観念となり、心を訂正不能にして、柔軟性と共感を失ってゆくでしょう。
 
このような信じ方が、思い込み信じ込むカルトの信仰?であり、自分で神を決めつけてしまう信仰です。そうなると、まず自分の人間性を破壊し、次には関わる人に作用して、他者の人間性をも破壊してゆきます。それは人間離れの心性を固定して、信仰のカルト化が始まってゆくプロセスなのです。
 
 
思い込み信仰

思い込み信仰
 
 
(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年06月06日、再録+加筆)
 
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
 
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
 
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
思いも塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
 
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  わかったと
 
信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
 
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
 
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
 
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
 
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を
残したままにしておこう
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Megmix43
@hamayokomegumi
「幸福の科学を下支えするカルチャーは「努力・精進」です。」と建て前では「努力・精進」を謳っておきながら、「英会話ペラペラ祈願」とか「強力ダイエット祈願」とか「突然秀才になるための祈願」とか自助努力を否定する祈願ばかりなのは何故だろう?しかも成就率は金額に比例ww
午前8:21 · 2021年5月24日·Twitter Web App
https://twitter.com/hamayokomegumi/status/1396607209417547778
 
ツイート元ではなく、ずっと、楽山を批判しています。「努力・精進」をしなかったし、する気もないのが楽山です。ゆえに、霊とか、超常とか、自分の浅薄な結論で宗教を語っても、そこから進歩する生産性がありません。不都合を総て無視して、自己愛の自己満悦に浸る異常者だと思います。
 
そして、都合のよい文言を探しているだけなのに読書家気取りで、例えば「心の理論」という心理学を、心霊に結び付けて、霊が分かるっぽい自覚を語り、自分を霊能者や学者と同列に並べて、自己満足しているだけなのです。これだけ孤独な慢心に陶酔し続ける人は、正常だとは思えません。
 
楽山には、決して、関わらないでください。詭弁で、混乱させて、相手が疲れるのを、楽しむサディスト的な人格であり、まともに受け取っていると、こちらの、理路と感性が鈍麻してゆきます。この約2年半の間、楽山を読んできて、何か良いことの糧(かて)になったことは一度もありません。
 
※ 
 
人間は、何か分からないことに出会って、悩み苦しみますが、その袋小路や堂々巡りから、分からない自分、限界のある自分、不完全な自分を、自覚するときに、そのことを、正直に祈る相手を得ることは、恵みとなり救いとなりうるでしょう。
 
信仰は、超能力が身についたり、矛盾のない神聖の仕組みが分かったから信じることではありません。そういう思想は、むしろ、信仰とは逆で、思い上がりの原因になるだけでしょう。ゆえに、神聖が分からない・・ということは、信仰の動機にこそなれ、決して、信仰の否定にはならないのです。
 
楽山は、この点において、正反対の先入観を訂正不能に持っているために、神がいるなら悪を退治しないのはおかしいじゃろ・・などと言って、神を否定できた気分になるのです。この幼稚さは、思考力と感受性を育て損なって、異なる意見や批判を無視してきたからでしょう。
 
さらに、楽山は、信仰の代わりに、何か救いになることを提示できるかと言えば、何も用意してはいないのです。楽山の言ってることは、神義論・弁神論でもなく、もはや、論でさえなく、宗教嫌い以上に、自身の高慢からの、詭弁説教であり、病的ナルシストの症状に過ぎません。
 
極端なことを言えば、楽山の、元々の本来の人格が見えません。時々に、様々な、芝居、装い、偽装、詭弁、嘘、成りすまし・・を演じているのでしょう。本音というものがなく、虚偽の人格だけが豊富なのかもしれません。私は、楽山が表してきた偽りを批判していることになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の文章は、真剣味がない、新しいものがない、深みがない、だるい、独創性がない、良さそうに思えても洞察がない、読む前と呼んだ後で広がるものがない、しばしば詭弁であり、幼稚な短絡であり、印象操作であり、刷り込みであります。
 
楽山に疑問を投げても何も返ってこず、楽山は、同じことを繰り返してきます。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、共感がないからです。議論は進まず、訂正不能の楽山の言に惑わされていると、人格も、響きを失い、鈍く乾いてゆきます。
 
 
 
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  矢印の人々3
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは、都合のよい出来事を奇跡に結びつける。「何度、奇跡に救われたことでしょう」「私たちは、いつのときも安らかです」・・怪しい宣伝文句になってゆきます。カルトに顕著ですが、キリスト教にも、そういう傾向を持つ人がいるようです。
 
自分に都合の悪い出来事、悲惨な死や自殺については、語ることが背教であるかのように、無かったこととして口を閉ざし、記憶から消してしまうかもしれません。考えても結論は出にくいけれど、本来、最も重要な人生の課題なのです。
 
ひどい偽善者になると、強烈なベクトルを持っていて、いつも自分の味方をする神への信仰になり、違うベクトルに対しては、びくともせずに、逆に、へし折って悔いることがありません。
 
そして優しさのつもりで、気に入らない人に対して、冷ややかに「彼は少し冷静さを欠いたようです」というような、慇懃無礼な冷酷さだけが目立つことがあります。
 
言い古された言葉を並べただけで、納得し陶酔するような、彼らがこしらえた感謝のレセプターは、人間的感性のレセプターを押し潰すほど強力な条件反射になっているでしょう。人間同士の共感のない讃美には、救いの共感も生まれません。
 
いつどこで起こる災いも不幸も、自分と同じ信仰を持たないからだという因果律を当てはめて、ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続けるでしょう。いつどこで起こす災いも不幸も、不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって、すべて信仰の名の下に隠して、彼らは結束し増殖するのです。
 
彼らの強さによって、何度、正直な人間性は潰されてゆくことでしょう。彼らは、実に、まるで肉欲のように、いつも単方向のベクトルを突出させ、固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくるのです。
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
優しい言葉や、丁寧な言葉を書いて、理路や文脈に隠された悪意を隠している者がいます。いたわりの言葉は嘘で、へりくだりは芝居です。じわじわと恣意の狭小な思想を刷り込んできます。そういう人の言は、思想も体験も、実感がなく、月並みで、単調で、感動を与えないのが、特徴です。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さず、いつも余裕ありげに振る舞い、悟りの境地を得ているふうの、うわべだけの偽信仰者や偽伝道者たちの穏やかでない正気も狂気も、私は書いてゆくしかないようです。そういう人は、正直な助言をせず、正直な祈りをしない人たちです。
 
 
思い込みの単方向

思い込みの単方向
 
 
(2011年)
(2019年)
(2021年)
(2022年06月05日、再録+加筆)
 
 
 
  存在について
 
私たちが存在し、存在していることを自覚しているのは、いかなる科学的、または、哲学的プロセスを経ていても、全て、私たち人間の五感を通して得られたことを元にしています。つまり、五感のない存在は、何も認知しえず認識しえないという厳然たる事実があります。
 
私たち人間は、五感を通して、自他の存在を受け取っており、それ以外を得てはいません。そこから感受し、思考によって、この世界の有り様を考え、認識しようとします。私たちは、全能者、あるいは、時空の摂理が設定した舞台で踊る踊り子なのでしょう。
 
 
 奇跡について
 
肉体の復活を実際に起こったのだと信じしまうと、それは驚くべき超常の奇跡だから、信仰の中心になり、日常の出来事や、心よりも優先されやすくなります。そうすると、自分にも奇跡が起こることを信じることが中心になるでしょう。
 
私たちは、超常の奇跡が起こるから信じたのでしょうか、否です。キリストの愛と共感に惹かれて信仰者になったのです。それなのに、分かりもしない魔法のような奇跡が起こることを信仰の中心に置いてよいのでしょうか、否です。
 
驚くべき超常の奇跡については、・・起こったかもしれないし、起こればよいけど、"分からない" ですと答えるべきなのです。神のものは、神に任せるべきであって、私たち人間が、あったなかったを決めるべきではないということです。超常の奇跡に依存するのはカルトのやることです。
 
私たち一人一人の、奇跡を信じます・・という告白において、私たち人間にとっては、物や肉体の超常奇跡ではなく、人間としての心に起こって、共感できるゆえに生きる縁(よすが)となる魂の奇跡こそ、信仰の中心にあるべきなのです。
 
 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない
と幾度も心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなくて
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 
 
  酸素
 
酸素が必要だ
 
目は開いている
呼吸が止まった
 
わずかに声帯を震わせて
圧迫された息が解放される
 
 0・一秒いや0・0一秒
 気道の中に閉じ込められた空気は
 誰にも見えない闇の中
 誰にも見えない方向に
 壁を打ち破ろうとした力
 熱の加速
 神経が電撃となり
 筋が一挙に統制され
 収縮したことは確かだが
 
呼吸が再開した
収縮を繰り返す筋肉
目は開いている
動いている
眩しい視線と
光が天に走る中
呼気のように汗が吹き出す
さらに激しく取り込まれる空気
 
酸素が必要だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
不感不応の単方向の意見を繰り返してゆくと、その間、無思考になり、修正不能になり、それを、常識であるかのように、繰り返して、自ら、考えない人生をアピールしてゆくことになります。単方向の、単一次元の、何の面白みもない頭から、平気で、ぬるりと、つんのめってくる見苦しさです。
 
 
 
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  人の復活3
 
 
死人が蘇る話よりも、先に考えるべきことがあります。信仰はその原初から、神との関係への人生の依拠であり、生きる理由の依存でもあります。自立した信仰などありえず、信仰は紛れもなく、神に人が依存し、かなり甘えることに他なりません。
 
語弊があるなら、神のみに依り頼むことと言ってもいいでしょう。神に依存し甘えるとは、祈りにおいて神に対して、人は既に、かなりの無礼を働いているということです。私たちの信仰は、100%を目指すことは出来ません。
 
100%を目指せば目指すほど、思い込みを強くして、偶像信仰になってゆくでしょう。何故なら私たち人間は、一人の人間である他者さえ完全には理解できないでいるのです。ならば、神の全知全能・完全絶対・永遠不変など、理解できるようもありません。
 
私たちの信仰は本質的に、決して100%を目指すものではありません。神はそれをご存知のうえで、福音を賜ったと思うべきであります。すなわち不可知の神への依存は、人間としての地上の人の世での自立を促すものです。
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 
信仰のいちばん大事なところは決して難しくはありません。しかし、そこを間違えれば、おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはあるのです。
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書)
 
見ないで信じるということは、今信じていることを固定することではありません。信仰を固定しようとすることは、動かなければ成長しない人間の、成長すらも拒む姿であり、それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目の信仰?であり、偽善者やカルトの信じ方なのです。
 
信仰は、不明を呑みこんで信じ込むことではないのです。信仰において信じるということは神を理解することではなく、100%を目指すことでもありません。救いの成就が目に見えなくても、信仰は、一生の付き合いとなるほどの賜物を心に受けて起こることです。
 
だから、見ないで信じたと、人がことさら自慢すれば、不感不応の慢心からの信仰自慢に他なりません。それは信仰ではありません。今の人間は、当たり前に、見ないで信じるしかないからです。
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は、賜物が必要なほど不完全な自分を知っているということです。境地自慢のように信仰をひけらかすことはしてはいけません。
 
それでも人間の信仰は不完全であります。それは人間が不完全だからに他なりません。だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ません。
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である。
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるのは、それ以上に尊いものを他に知らないという讃美であります。
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に、「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくありません。
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはありません。
 何故なら神の前で
 人は決して大袈裟にはなれないからです。
 
 
人の言葉で読み書きされている聖書が、様々なカルトに悪用されている事実を見ても、聖書に心を揺さぶられたことがなく、心に受けたものがないまま、讃美と信じ込みが信仰だというのは間違っています。
 
祈り以上に、人が真の神を相手にすることは出来ないと思うべきです。そんな能力は人にはなく、真の神が人に及ぶのであって、真の神に人知はどこまでも及ぶことがないのです。
 
ならば信仰は否定されるでしょうか。人は神を信じてはいけないのでしょうか。否です。思い込み信じ込む信仰はないということです。信仰は、いつも疑いといっしょなのが、人間です。
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
いかなる言葉も整わず
たとい偶像と言われ
背教と言われようと
 
たとい土の器から涎のように
だらだらと引きずる醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
 
捧げるべき何ものもなく
飾るべき何ものも持たず
祈り願い
最後は叫ぶ以外にない必死の必要なら
それはやはり信仰である。
 
信仰に保険は効かない。
信じられないときに信じることを捨てられない
という不可避の必要があるだけである。
 
昔、キリスト者が、支配することを捨てて、殉教を貫いたのは
信じることを捨てるよりは、召されることを選んだからだろう。
 
すなわち決して飾りではなく
論理でも手続きでも仕組みでもなく
信仰の必要性は
神の正しさを知ることよりも先に
人が信仰を必要とするからである。
 
その人の側の必要性がない間は
信仰の入り口にいるのだから
信仰者は求道者と同じである。
 
いったい、この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても同じことだ
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である。
 
私たち信仰者は
まさに、すがりつく糸として、キリストを知ったのである。
私たちの信仰は高々そのような程度のものである。
 
そこには、いかなる復讐心も、憎しみもなく、
頽(くずお)れる自らの倒れる方向を与えられる。
 
信仰するということは、
他の、いかなるものにも代えがたい絆(きずな)を求め
それを知ることである。
 
信仰は
神の意志を理解することからではなく
人の必要性から始まっている。
 
人が神の正しさを知ったからと信じ込めば
偶像信仰になってゆくだろう。
 
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである。
 
他にない
という
人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったと言うべきではない。
 
そこでは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである。
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への思いの境界に立つときまでに
自らが信仰と思っているものを省みるべきである。
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない。
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏(かたよ)り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかない時があり
任せる相手がいることを信じるのが信仰である。
 
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である。
 
土の器は強くはない。
むしろ脆くて壊れやすい。
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないからである。
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ。
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は癒えることがない。
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ。
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能なわが身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである。
 
手足は萎えて
目はかすみ
耳は遠くなり
口は著しく無駄に思えるときも
生きるために必要とするならば
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとっての復活である。
 
それは喜びに満ちているとは限らない。
勘違いしないでほしいのは
失望~絶望で明確な生きる望みを失っていても
それでも御心を想って生きてゆくとき
そこに溢れるほどの喜びがあるとは限らないが
最後まで希望の縁(よすが)はあるということ。
 
救われたのだから喜びにあふれて讃美するはずだと
信仰に生きることを理不尽に限定して
疲れる作業にしてはいけない。
 
神様に縁付いたのだからと
ようやく衰えを受け容れて
生きることだけで精いっぱいであるなら
讃美など出来ない信仰生活もあるだろう。
 
 (詩篇、口語訳)
119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
119:124
あなたのいつくしみにしたがって、しもべをあしらい、
あなたの定めを教えてください。
 (詩篇119:123-124、旧約聖書)
 
 
復活と不滅

復活と不滅
 
 
(2011年)(2019年)
(2019年)(2020年)
(2022年06月01日、再録+加筆)
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
萎える(なえる)
 
 
 
  迷える信徒
 
隙間のない信仰を
我が魂をして
誠の愛を知らしめたまえ
 
手紙を書きながら
信徒は不意に顔を上げて
はたと筆を止めた
主よ、私が泣いたときから
主は復活の主になられたのです
私は残された生涯を信仰に捧げ
焼かれるためにこの身を渡したとしても
 それが私にできるでしょうか・・・
主よ、あなたは幾度十字架につかれるのでしょう
 
つまずきそうな頭を振って
湧いてくる涙を振って
彼は再び筆を執った
迷える仲間たちのために
 
隙間のない信仰を
育てるためには
隙間だらけの信仰を
何で満たせばよいのか
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
  次元
 
乏しくて乏しくて
しまいに欠けてしまって
目で見ているもののまわりに何もない
目で見ているものさえなくなって
古い何かがよぎる
色彩のような
香りのような
 
紙にX軸・Y軸・Z軸を描いてごらん
そう、それが三次元の座標軸だ
その紙に鉛筆を立てて
そう、これが四次元さ
(それを写真に撮ってまた棒を立てる
五次元、・・・、N次元?)
 
0と1が明滅していた
ことの始まり
色彩が妙にきれいだ
平面から立体へ(芸術へ)
それに時間という次元を考え出して加えている
それでも乏しくて乏しくて
しまいに欠けて
古い何かがよぎる
未来が今を思い出している?
色彩が
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
信仰がもたらす共感も、愛も、癒しも、救いも、絆(きずな)も、何も知らず、史実と幼稚な辻褄で、鈍い情緒的感性だけをもって、キリスト信仰を否定する者がいます。書いていることは、読むに堪えないことばかりで、それこそ、思うようにならない生を、悔い改める代わりに、神のせいにしているのです。
 
 
 
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  信仰者の感謝2
 
 
感謝だけでは
信仰は語れない
 
感謝する人の
善い話と
感謝しない人の
善くない話だけでは
信仰は語れない
 
感謝できないこともある人の心
 
人の心に触れ
人の心を通して
人の心を考えなければ
神の下にある人の信仰は語れない
 
悲しみから仰ぎ祈り求めるところから
信仰は始まるのではないのか
 
救われたという体験によって
すべてが感謝に変わって
そのままの感謝が一生続くだろうか
 
幾つも幾つも躓(つまず)きの石があり
何度も何度も躓いては
跪(ひざまず)く
その危うさを知っても
なお信じることに帰るしかないのだ
 
信仰者の感謝は
安定ではない
安定を装うことでもない
 
傷だらけの人として
帰るところに
待たれているという信仰ではないのか
 
 
祈るとき
既に総ては見抜かれている
それが全能の神のほうを向くということです。
 
悲しい心を見抜いておられる神に
人が無理して感謝の祈りを捧げるならば
神は、どう思われるだろう。
 
正直であるかどうか
それだけを見ておられる神に
正直な祈りを待っておられる神に
嘘の感謝をして
神は、悲しい人を救うだろうか。
 
信仰とは
救いのATMではないのだから
神の仕組みではなく交流なのだから
人が生きているなら
生きた祈りをするべきでしょう。
 
悲しいなら悲しいと
苦しいなら苦しいと
神などいないと思ったなら
そう思ったと。
 
本当にいないと思っているなら祈ったりしないはずです。
 
神などいないと思うのは、
祈る心が正直であるなら
神などいない
という"叫び"であることが伝わるだろう。
苦悩の叫びは、最も正直である。
 
神は正直な叫びであることをご存知である。
 
立派な祈りなど存在しない。
 
人が立派でないことを
神は既にご存知である。
 
神の前に
正直以外は通用しない
と言ったのはこのことであります。
 
 
感謝と讃美だらけの
嘘っぱちの祈りをする者を知っています。
神を信じてなどおらず
神を侮(あなど)り、恐れない者です。
人格そのものが嘘っぱちになっていました。
 
 
明暗

明暗
 
 
(2011年)(2019年)(2020年)
(2022年05月31日、再録+加筆)
 
 
 
  陰から光へ 2
 
 
愛を知りたければ
愛のない世界の有り様を知ることだ。
 
憎しみ、恨み、嘲り、罵り、
そして言葉と肉体の罠と暴力の世界
 
すべて経験していなくても
弁えるべき知識として考えることだ。
 
真善美を知りたいときも
同様である。
 
陰性を知ることで
その対極を想起することが必要だ。
 
陽性ばかりを見て
良かったと言っても
人間にとって
陽性の見聞きが与えるものは
飾り言葉になりやすく
弱く浅く薄くなりやすい。
 
それは恐らく
気持ちの良さを優先するからだろう。
 
キリストの愛を受け取った人々は
マイナスの世界を知っていた人々。
 
陰を知るゆえに光に反応できるのです。
 
 
キリストの
物や肉体の奇跡に彩(いろど)られた愛を知っても
真似ができるわけではない。
 
いい話の
夢が叶う物語が
実話でもフィクションでも
真似をして叶うとは限らない。
 
 
真善美と愛を裏切る偽善者の話を見苦しいと分かるためには
真善美と愛を少し知っているだけでなく
偽悪醜を知る必要がある。
 
反キリストのカルトと偽善者の存在を知ることは
彼らがなぜそう呼ばれるのかを知ることで
そうならないための道を暗示するだろう。
 
カルトの偽善者は愛を知らない。
彼らは都合の良さを漁(あさ)っているだけだ。
 
彼らに頷かない姿勢を学ぶなら
それだけで良き訪れといえよう。
 
真善美を描くときには
必ず悪役が登場する。
 
現実もそうである。
それも逆説的に福音の一部とも言えよう。
 
多く勘違いされて
美談ばかりを語ろうとするなら
 
美談を罠として利用する者を見逃してしまう。
 
愛を知りたければ
カルトに感染しないための予防注射として
愛のない世界の存在を知ることだ。
 
そうすれば
美辞麗句で飾った話など出来なくなるだろう。
 
 
罪人である人間は
真善美の信仰を知ったつもりで
真善美という言葉によって
真善美らしい外套を身につけるが
それで真善美が伝わることはない。
 
真善美の字面だけなら
真善美は私たちを裏切るからだ。
 
聖書もまた
信仰を心から讃(たた)える者だけでなく
信仰を讃えながら曲げる者が出てくることで
理解を深めることが出来る。
 
愛のないさまを見るとき
愛のある様を対極に思い描いている。
 
人は愛のないところを知って
初めて愛を求める。
 
キリストが見抜いた最も大きな罪であるところの、善の仮面をつけた偽善は、いつも"光"の芝居をするので、その陰の部分を知らない限り、あたかも光のように見えて、社交の世辞が斜光となって、人を欺き続けるだろう。
 
陰に潜む凶悪な偽善を見抜くために、陰を知ることが必要である。和(なご)みを装う笑顔の裏に、あざ笑いを見抜くだけの感性が必要である。その答えは聖書に、偽善と闘ったキリストの生き様にあります。
 
光だけを見ようとしても
陰のない光は何も見えないのと同じだろう。
 
光は
陰のあることを知らせて
光と自覚される。
 
私たちは陰影の中に生きている。
 
 
(2022年05月31日、再録)
 
頷く(うなずく)
彩る(いろどる)
 
 
 
  赤の明暗
 
雪に目を見張る少女
頬の赤み
 
白い中へ飛び込んでゆく
横面ひっぱたかれて腫れ上がった顔
頬の赤み
黒ずんで逃げ出してゆく
 
どちらも痛みを忘れる驚き
危うく帰らぬ人
 
 
  影絵
 
思い出そうとする
あったようで
あったとは思えない日々について
出会った人々の顔について
名前を抜きにして
明暗を分けることの出来ない影について
あまりよかったとは思えない
数々の自分の顔について
 
影絵を見るように
そこにあったと思い込む
生き生きと影が集う物語に
思わず友を呼ぶ
 
急にうすくぼやけて広がる低みに
一つの影が退場する
そして影絵の裏側で
舞台裏のしゃがんだ汗ばんだ顔の後ろで
折れ曲がった
顔のない
ぶら下がりのゆらゆらが
もう笑いもせず泣きもせず
役割を終えて手を離れ
いま平坦に横たわる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰にも感謝できず、不遇への復讐のような憂さ晴らしばかりをしてきた楽山は、感謝の心を忘れ、明るいところを嫌い、深い隠蔽の澱(おり)のような溜まり場に棲んで、そこに悪意を溜めて、嘘と詭弁に明け暮れながら、人間の条件である良心を、次から次に捨ててきたのでしょう。
 
 
 
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