ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 詩と宗教・信仰


  二つの聖句
 
 
キリスト信仰は、行為義認ではなく、信仰義認です。そして、信仰とは、神の前に、すなわち、祈りにおいて、精いっぱい、正直であることです。それが、救われる必要十分条件です。・・というようなことを、私は言ってきました。
 
キリスト信仰を、安い道徳に貶めないために、おさらいになりますが、大切な2つの聖句について。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:39
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40-42
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:39-43、新約聖書)
 
聖書の中にも、行いを重視する聖句はあります。しかし、行いは、信仰の中心ではありません。十字架上の犯罪人は、何か善行を施したから救われたのでしょうか、否です。これから肉体が死ぬという時、恐らく地上では最後の、そして、唯一の、正直な告白のみによって救われたのです。
 
次は、教えを守ってきたという自信のある金持ちの青年の聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
「よいかたはただひとりだけ」なのです。いかなる人の善行も、神に比べれば、遠く及ばないのです。善なるは、ただ御一方、神のみであります。言うまでもないことです。なぜ、人は、神の善までを欲望し、敬虔を忘れて自慢したがり、完全などという大それたものを欲しがるのでしょう。
 
キリストは、青年に尋ねられて、まず、戒めを守ることを告げるのですが、そのあとの、マタイ19:20の青年の言葉「みな守ってきました」という言葉に対しては、ただ単に、謙遜せよ、という意味で戒められているのではありません。
 
人は、神の前で、決して、分かっている、守っている、見える、と言うことは出来ないのです。これらは、完全なる神聖だけに通用する言葉だからです。
 
その証拠に、21節では、キリストは、青年の不備を見抜いているかのように、「完全になりたいと思うなら」と言って、青年が守れない教えを告げました。
 
青年は、悲しみながら立ち去りました。ここは大事なことです。青年のその後は書かれていないと思いますが、パリサイ人のように否定されたわけではありません。
 
パリサイ人のように、批判されるとキリストを殺そうと企む者たちは、悲しむことがなく、怒りと憎しみを返すしかなかったということです。
 
青年は、パリサイ人とは違います。なんとなくですが、キリストの、悲しみながら去る青年の、信仰の成長を期待しているような温かい眼差しを感じます。ここで、短い引用ですが、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
この聖句を、完全になりたいと思うなら、これを守れるか、と考えてみると、この心の中の姦淫の罪を犯さない者は、すなわち、完全な者は、罪なき者は、一人もいない、ということが分かってくるでしょう。そういう教えとして受け取らないと、この聖句は、できるだけ守ればいいですよ、という安い道徳に堕してしまいます。
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、受け取る私たちは人間の言葉しか知らないのです。受け取るたびに誤解しているのかもしれません。ゆえに、解釈そして解説が必要になります。
 
人間の真実として、あるいは、むしろ救いとして、文字通りではなく、妄想でもなく、真実として響くものを追求する歩みに、そして、人間の成長に、少なくとも終末まで、終わりはないのです。
 
いつも、分かったような顔で、得々と語る偽善者に注意してください。
 
 
(2020年01月19日、同日一部修正)
 
 
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  アドラー教について(11)
 
   2019-11-05  
  【永久保存版】いじめる心理、いじめられる心理とは
  https://www.adlersalon.com/entry/2019/11/05/150559
 
 
いじめ問題について、様々なケースがありそうなところを、いじめはなくならないという前提、いじめは本能の問題、優越性の追求から劣等感となり、いじめは八つ当たり、いじめられるのは劣等感の不幸アピール、などと短絡して、不健全な努力と言っていますが、その前に、十把一絡げに書くこと自体に問題があると思います。
 

アドラー心理学サロン(ポジティブ心理学サロン)です。
今回はいじめをテーマに、いじめの対策についてお話しさせて頂きます。
きっかけは、フォロワー様から先日に下記のようなメールを頂いたことです。
---メールの内容---
フォローさせていただいてます!
表題のとおり、いじめに役立つのでは?と思い連絡しました。
いじめる側の心理、いじめられた時の対処法
これを各学校などで活用できるような資料を作成、配布、または公演など出来ないでしょうか?
特にいじめる側の心理を子どものうちから周知すると、いじめる子どもの問題解決にもなり、いじめられる側が悪いという風潮がなくなると思います!
不満を攻撃するのではなく、自分を大切に自立していきやすい世の中になるといいですね。
思いつきですが、ご検討いただけたら幸いです!
暑いですがお身体にお気をつけください
---

 
私が注目するのは「いじめられる側が悪いという風潮」というところです。そういう風潮があるのなら、大問題でしょう。それも、いじめではないかと。
 

結論から申し上げますと、いじめは無くすよりもエスカレートさせないようにするしかないと考えています。

 
ブログ主は、いじめをなくすよりエスカレートさせないようにする、という方向に向かっています。ちょいとネガティブに傾いています。実践において、なくならないということなら分かりますが。
 

なぜなら、いじめをすることも、いじめられることも人間の本能に関わることであり「いじめ」そのものを否定することは人間を否定することに繋がってしまうからです。

 
いじめ問題は、個々をなくす、防ぐ、そして、ゴールは、全部なくすべきことでしょう。なのに「「いじめ」そのものを否定することは人間を否定することに繋がって」と言っています。人間の悪はなくならないという前提なのでしょうか。悪がなくなると、人間否定なのでしょうか。
 
ネガティブに沈没していると思います。
 
性悪説の受容でしょうか。ダークサイドは、人間成立の条件なのでしょうか。その上での対策ということなら、悪い奴は悪い奴、一生変わらん、という考えのベースがありそうなことを言っています。ブログ主は、何のために、いじめについて書いているのでしょう。
 

「いじめをすることも、いじめられることも人間の本能って言うと、人間はいじめたり、いじめられることを楽しんでいるとでも言うのか⁉︎」と批判を受けそうなので、詳しく解説します。
いじめをすることにも、いじめられることにも根本的な原因は劣等感の取り扱い方にあります。
アドラー心理学では人は今よりも良い状態を求める「優越性の追求」という性質があるとしています。
今持っているものよりももっと良いものが欲しい、今持っているよりも多くを手に入れたい、こうした欲求が人間に劣等感を感じさせます。

 
劣等感が、加害・被害ともいじめの原因で、より多くを手に入れたいという欲求が、さらに深い原因だと言いたいのでしょうか。いじめは、欲望のせいだと言っています。
 
いじめられる子の欲求は、苛めないでほしいことではないのでしょうか。
 
優越性の追求をするから、苛められるのでしょうか。アドラー教が扱える問題に、強引に方向づけしてはいないでしょうか。そういう問題ではないと思います。
 

満たされない自分の欲求を満たす為に、人間は現実の自分と向かい合って健全に努力するタイプと、現実の自分を否定して不健全に努力するタイプに大別されます。
健全に努力ができる人は、例えば勉強や仕事に打ち込んでより良い成績や成果を残そうとします。
しかし、不健全な努力をしてしまう人は、自分がダメな理由は家庭環境や周りの人達に恵まれなかったからだと不幸自慢をしたり、他人に八つ当たりをして自分は悪くないと自分を正当化してしまいます。

 
努力を、健全と不健全に分けて、いじめは、不健全な努力の結果、不幸自慢、または、八つ当たりと自己正当化が原因だと言っています。
 
苛められる人は、不幸自慢をしているのでしょうか。どういう自慢でしょうか。大いに疑問です。
 
まず、苛められる側と、苛める側を、同じ原因で説明しようとするというのは、どういう理解なのでしょう。被害と加害が、同一の原因だというのでしょうか。
 
アドラー教で、無理やり、ドカンと、一気に、説明して、いい気持ちになりたい欲求で書いている感があります。信じ込むと、全部、信条に当てはめて、上から説教を垂れるカルトに似ています。
 

そうすることで努力できない、結果を出せない自分は仕方がないのだと周囲にアピールして、特別な存在であろうとしてしまうのです。

 
いじめる側には、例えば、人格障害とか、教育の問題とかも考えるべきでしょうに、アドラー教で全部説明できるという信じ込みの固定観念があるようです。
 

非行に走り、言うことを聞かず、権力に逆らう自分はカッコいいと思い込んでいる不良少年が良い例です。
このように不健全な努力をしては自分の価値を高めようとすることを「安直な優越性の追求」と呼びます。

 
「安直な優越性の追求」・・卓見などというものではないですね。優越性の追求自体が、教育問題となるでしょう。
 

早い話がいじめをする人間は他人に八つ当たりをすることで憂さ晴らしをして自分を正当化しており、いじめられる人間は不幸アピールをして自分は可哀想だから仕方ないんだと他人に訴えています。

 
いじめられる人間は、不幸アピールをしているのでしょうか。自分はかわいそうだから仕方ないんだと訴えているのでしょうか。一部の例があったとしても、一部で全部は語れないですね。殆ど、暴言です。
 

世の中で発生するいじめは、この両者から始まって時に健全な努力をしている人間にまで飛び火してきます。

 
よほど、いじめられる人も、いじめる人も、アドラー教は邪魔なようです。
 

お互いが自分を正当化する為に、無意識のうちに求め合っているに等しいとも言えます。

 
いじめられる子が、いじめる子を、刺激するところがある、という一部の現象があっても、さて、求め合って、いじめは起こっているのでしょうか。なぜ、社会問題になるのでしょう。ひょっとして、ブログ主は、いじめる子も、いじめられる子も、嫌いなのではないでしょうか。それとも、めんどくさいと言いたいのでしょうか。
 

いじめる側もいじめられる側も、率直に言うと人の気持ちが理解できていません。
八つ当たりされた人は何の罪も無い被害者ですし、不幸自慢された人はその分あなたに気を遣わなくてはならなくなりますので負担を感じています。

 
ブログ主は、いじめる側と、いじめられる側の、どちらも、気持ちを理解できていないと思います。
 

いじめられる方にも問題があるという話をあなたも聞いたことがあると思いますが、間違ってはいないのです。

 
と言いながら、
 

ただ、圧倒的に悪いのはいじめをした方なのは確かなことです。暴力を振るわれて傷付いた方が悪いなんて話はまかり通りません。

 
いじめられる子と、いじめる子とを、同じ原因でくくってきたブログ主の話も通らないと思います。
 
あんまり思い切って書いてものだから、絆創膏を貼るように、言い訳しているのでしょう。
 

もちろんいじめの形態は一様ではなく、その他の物事と同じように例外はあります。
何の落ち度もないのにいじめを受けていた人もおりますので、いじめられている人を責めるような意図ではありませんことをご了承下さい。

 
だったら、上のようなことは、書かないことです。何の説明にもなっていません。だいたい、いじめ問題について語れると思うブログ主に問題があるのでしょう。了承してはいけません。
 
今までも似たようなことがありました。豪語して、自己中だと批判されて、自己中ではないと答えるだけで、訂正も、弁明もしていないと思います。批判を言葉の上で否定しただけでは反論になりません。
 

前置きが長くなりましたが、劣等感を不健全に穴埋めしようとする人によって、いじめが発生してしまうのです。

 
白々しく、また、元に戻って、自分の結論を繰り返しています。ここ数行は、やはり、自分は分かったうえで教えを垂れるんだから文句を言うな、という、予防線だったのでしょう。狡い策略的な詭弁であり、一般性も整合性もないと思います。
 

劣等感の扱い方が原因なので、大なり小なりどんな場所であっても「いじめ」もしくは近いことは起きてしまいます。
どこからをいじめと思うのかは人によって解釈がかなり乖離するので、具体的な定義は難しいので「やられた側が傷付くがどうか」を基準とするならどこにでもいじめは存在すると言えます。

 
安心して、話を、お得意のアドラー教へ誘導しています。
 

つまり、メールでいじめを無くす活動をして欲しいとのリクエストを頂きましたが、いじめそのものを無くすことは不可能です。

 
はっきり言えることは、不可能と思っている人には、明らかに不可能なのです。
 

いじめを減らすことは道徳の授業を増やしたり、厳しく教師や上司が監視して罰することで可能ですが、根本的には無くなることはありません。
前述の通り、むしろいじめをエスカレートさせない仕組みを整えることが大切です。
対策は千差万別ですが、不健全な努力をしないで健全に努力できるように勇気づけをする機会や制度を設けたり、いじめを見て見ぬふりをすることも、いじめに加担していることと同じであるということを継続的に指導するなどです。

 
そして、結論として、いじめはなくならないと念を押し、あとは、既に、多くの人によって、考えられていることだと思います。ブログ主は、ささっと、済ませていまいました。
 

人間の性質を否定するよりは、むしろ受け入れて問題が起きる前提で対策を講じた方が効果は高いと考えられます。

 
受け入れて問題が起きる前提での新しい対策を何も語りえていないブログ主です。
 
子どものいじめは、先ず、当事者が言って来ても来なくても、決して見逃さないことが大切だと思います。次には、チクったと、あとの仕返しをゆるさないことが大切なのでしょう。
 
子どものいじめであれば、自然に年長になれば収まることもあるかもしれませんが、教育による説諭と、さらには、ときに医療が必要になることもあるでしょう。目を背けないことです。注目し、連携することです。重要な人格異常が含まれている可能性もあります。
 
いじめはなくならないと言って、自説自慢のネタにするようなことをしてはいけません。
 
 
(2019年01月17日)
 
 
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  アドラー教について(10)
 
    2019-11-11  
   【読まなきゃ損❗️】人を傷付けたら、必ず自分に返ってきます❗️
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/11/11/233008
 
 
分析が分析にならず、説明が説明にならず、結局、豪語に終始しています。
私が批判したネット上のカルトとの関連で、考えてみます。
 

アドラー心理学サロンです。
人の悪口を言ったり、嫉妬したり、けなしたり、責めたりする虚しくて浅ましいことを考えること自体が、その対象となる相手よりも自分自身を強く傷付けています。

 
悪口、嫉妬、けなす、責める、といったことからは、まず、批判を除外する必要があります。批判は、ときに悪口と見なされて、特に信仰者において、間違って戒められています。その結果、批判されにくいことをいいことに、カルトが蔓延る要因になっているのです。
 
人間の不完全性を考えれば、真実の追求に、批判、反省を通して、修正、そして、共感、といったものは、不可欠の要素なのです。
 

「悪口を言ったり、他人を傷付けたり、陥れるような人には必ずその報いがある」
こんな話を、あなたも一度や二度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
まさにその通りなのです。

 
批判を悪口としか受け取らない者は、理解力不足を批判者のせいにしますから、学習と成長による理解力の成長がなくなります。これは、カルトの大きな害毒でもあります。カルトは、文句を言わず鵜呑みにすることを要求するからです。
 

青臭い正義を振りかざすつもりも、非現実的な道徳的、宗教的な主張をするつもりも一切ありませんが、心理学的に実証されている事実なのです。
なぜかと言いますと、自分の思考や行動、言動は、望むと望まざるとに関わらず、自分の潜在意識に深くインプットされていくからです。
潜在意識というのは、無意識的に自分の行動に影響を与えて自分という存在を作り上げている意識のことであり、自分が自覚している顕在意識とは区別されます。

 
潜在意識は、簡単にとらえがたいもので、ゆえに、潜在意識というのです。無意識とも書いてあります。あくまで一般論に過ぎないことを忘れてはいけません。
 

先ずは、潜在意識と顕在意識の違いについて紹介させていただます。
潜在意識は無意識と同義語で、生命を維持する活動である呼吸や食事、睡眠などの習慣は潜在意識レベルで行われている活動となります。

 
これで、潜在意識を語ったことにはなりません。潜在意識が働いているのは生命維持の活動だけではありません。何と浅い理解なのでしょう。問題となるのは、意識せずに、信じ込んでいたり、刷り込まれたりする思想内容なのです。
 

顕在意識は自分で自覚ができている意識のことを表しており、「今日は早めに寝よう!」などと意識して行う活動は顕在意識によるものです。

 
意識を、潜在も顕在も、日常活動だけで述べるのは、片落ちというものです。
 

アドラー心理学では、無意識と意識を包括する全体としての"私"を取り扱うので、潜在意識の話をするのは少し変なのですが(笑) 大切なお話ですので潜在意識の機能面については解説をさせて頂きました。

 
今までのブログ主の記事において、無意識と意識を包括するといった大きなテーマについて、述べた文章も、それにつながる文章もなかったのです。
 

無意識的に当たり前のように行なっている生命活動を司る潜在意識は、前述の通り普段話している言葉や日常生活レベルでやっていること、ぼんやりと少しでも考えることに非常に敏感に感化されてしまいます。

 
ブログ主が言っている日常の生命活動は、潜在してもらわないと、いちいち意識していたのでは、不便でしょうがないことです。
 
問題となるのは、日常生活レベルの生命活動ではなく、当たり前のように思い込んで信じ込んでいる様々なことです。カルトは、そこを目的として擦りこんでゆくからです。
 

例えば、いじめをしている学生がいたとして、その人達は暴力を振るったり、人の嫌がることをしたりとネガティブなことばかりを考えては、積極的に行動に移しています。
こうした人達は、相手よりも自分自身を傷付けている可能性がかなり高いのです。
なぜなら、潜在意識は暴言を吐いた時の言葉の主語や、暴力を振るった加害者と被害者を区別できないからです。

 
区別できないでしょうか。大方、区別していると思います。いじめをする者たちが潜在意識で暴力をふるっているとでも言うのでしょうか。
 
これは、ちょっと、ひどい勘違いです。働いているのは、大方、悪意の攻撃性です。
 
過去のトラウマや、刷り込まれた差別意識や、自身の性格的な易怒性などという自覚されないものが、潜在意識から働いているのでしょう。
 
暴言の主語とか、加害者と被害者を区別できない、などということで表現できるものではないと思います。文脈も表現も安易すぎます。
 

つまり、知らず知らずのうちに、他人に八つ当たりをして憂さ晴らしをしているように見えて、自分の自尊心を痛め付けては潜在意識に「自分の愚かさ、惨めさ」を大量にインプットしているからです。

 
もう一度言います。暴言の主語とか、加害者と被害者を区別できない、などということで表現できるものではないですから、トラウマ、刷り込み、先入観、固定観念、性格、人格障害、などを掘り下げることが必要になります。
 
そういう暴力的な者は、「自分の愚かさ、惨めさ」をインプットしてはいないと思います。むしろ、インプットし損なっている常習者でしょう。
 
ブログ主は、安易に、感心されるような気取った言葉を並べて、言い得たつもりになっているだけのように思われます。潜在意識は、苦手の人のようです。
 

他人から言われたことは、自分には影響はあっても最終的にどう思われようと、何を言われようと、どんな気持ちでどんな行動を取るのかは自分で決めることができます。

 
潜在意識について、安易に済ませて、文脈が繋がっていないと思いますが、ここで、ブログ主が、いつも言っているアドラー教の"課題の分離"の話に持っていくようです。強引~無理やりです。
 

しかし、自分でやったことは、自分の生命活動を司る程に強烈なエネルギーである潜在意識によって、ネガティブな思考、行動、言動をひたすらに引き起こしては、同じ部類の人種を引き寄せてしまうのです。

 
ブログ主は、潜在意識が働く生命活動について日常の活動のことを言っていたのですが、そのエネルギーが、ネガティブな活動を彦起こすと述べています。日常活動が、暴力や暴言を引き起こすでしょうか。この辺になると、言ってる理路が、かなり、いい加減で、捏造に近いと思われます。
 
>つまり、すべては科学的に自分に返ってきてしまうのです!
>断言します!
 
そして、科学的に・・!と言っています。どこが科学的なのでしょう。何か証明しえたかのように、のぼせ上がっていますが、まるで、オウムの麻原彰晃のごとく、座して宙に浮いているかのようなブログ主です。実際には、ブログ主の豪語は、いたるところで、墜落しています。
 

いじめや嫌がらせをするような人達は、今後ますますネガティブさに磨きをかけて、まともな人間と関わることができないまま、落ちぶれ同士で傷を舐め合うだけの人生を送ることになります。

 
カルトも同じです。実に、かばい合い、傷をなめ合い、とんでもない信条を、共に唱え合っているのです。カルトの結びつきは、カルトの性質上、無条件で、無反省に、無修正に、無謬を主張するので、成長することがなく、同じような顔で、同じような舌で、舐め合う以外ないのです。
 

どこかで反省して、「他人のせいにしていないで自分のことは自分でやろう。自分が傷付けた人達には深く陳謝し、勇気を持って自分の人生を生きよう!」とまで思えないとまともな人生は送れません。
人の悪口を言ったり、他人に嫉妬してあることないことデマを広めては嫌がらせをしたり、他人のあら探しをしては、欠点を見つけ出してグチグチと文句を付けるような人に幸せな人は1人たりともいません!

 
元々、カルトは、根拠のないデマから始まっています。攻撃されると、根拠もなく、自分が言われそうなことを、相手に向けるという常套手段を持っているようです。・・似てる・・
 

そういえ人達は調子に乗っているように見えるだけで、一時の落ちぶれ同士の馴れ合いで自分を安心させているだけ。
言わば、他人を傷付けることは自分の心のリストカットのようなものですね。麻薬にも近い危険な行為なのです。

 
「落ちぶれ同士の馴れ合い」「自分の心のリストカット」「麻薬にも近い危険な行為」、殆ど、これが、悪口でしょう。体験からの発言でしょうか。先に述べたことは信頼できそうにないし、根拠を説明しえていないと思います。
 
やはり、安易に短絡して豪語することの弊害を、今回もあらわにしています。ブログ主は、理路を整えることが苦手か、めんどくさがり屋のようです。
 

悪口を言うような人、悪口仲間同士でも信頼し合えていません。「次は自分の番かな?…怖いからもっと弱そうな奴の悪口を自分から言っておこう!」といった具体で永遠に落ち着けることはありません。

 
カルト同士の場合も、信頼関係とは言い難く、無条件の主従と仲間であるにすぎないようです。救いを豪語しながら、少数の者たちの物質的または非物質的利益によって成り立っている結社または集団と言うべきでしょう。
 

幸せに満たされた人生を生きている人に、嫌いな人に執着して暴言を吐いたり、嫉妬するような人は1人もいません!

 
当たり前です。ただし、幸せに満たされた人生を生きている人、というのは、そうはいません。多くは、好きな一方で納得~満足し、不快な片方を耐えているのです。アドラー教もその傾向が強いので、自己中という批判があるのは当然の成り行きです。
 
不快が、心を病むほどであれば、精神の健康のために、割り切ることが必要ですが、不快と感じたら全部無視するという者たちがいて、まるで記憶障害のように、批判を無視して、同じことだけを繰り返し言い張り続けています。とぼけと、ふざけが、病気になったような者がいます。他の人間らしい思考と情緒の精神機能を捨ててしまっているのです。
 

普段から、自分を大切にして自分の思う悪いことはせず、自分が良いと思うことをしよう。

 
これは、当たり前のことです。
 

そうすればあなたは自分の潜在意識を豊かに保つことができて、どんな逆境にも挫けない勇気を得ることができ、自尊心を高く保って満たされない思いをすることはありません。

 
教祖的な空約束です。責任を負う気のないものの美辞麗句で飾った、保証のないことを保証するような豪語です。ブログ主は、潜在意識の豊かさを知らないと思います。何故なら、潜在意識の豊かさを知っている者はいないと思うからです。潜在意識なのに、どうして豊かだと分かるのでしょう。ブログ主が、言葉や、豪語することについて、恐れを知らないからでしょう。
 

常に自分の思考、言葉、行動はポジティブになっているところを想像するだけで、何だか幸せな気分になりませんか?
この状態になれれば、幸せで楽しく、自分の意志で前向きに人生を生きる人達の縁にも恵まれます。
自分の潜在意識を裕福にしてあげよう!

 
こういう暗示や豪語を受けて、アゲアゲやノリノリになってしまうと、自己中心の多幸症や躁病の陶酔気分を疑われることになるでしょう。
 
「何だか幸せな気分」が潜在意識が裕福かどうか分からないと思います。ただの一時的な気分に過ぎないこともあります。潜在意識は意識されません。だから、恐れもあり、また、深い思考も生まれるのです。潜在意識は、「裕福にしてあげよう!」などと言って、扱えるものではありません。
 
 
(2019年01月16日、同日一部修正)
 
 
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  破壊だけの無思慮
 
   アドラー教について(8)
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5216668.html#comments
   についたコメント。記事では、私のコメントを一部編集しています。
 
 
名無しのシャロームが、また、悪口のためだけのコメントを書いてきました。キリスト者そして元牧師に成りすましても、罪を認めず、悔い改めもしない、というカルト教祖シャロームは、恐らく、この名無しの荒らしが元々の本性なのでしょう。丁寧語に騙されないようにしてください。
 

1. st5402さん こんばんは 未だ名無しです。
 2020年01月13日 18:20
ひさしぶりですね!

 
久しぶり、と言っていることから、投稿者は、以前から嫌がらせコメントを書いてきたシャロームであろうと思われます。2chじゃあるまいし、名無しとか、今さら、ふざけた書き方で、また荒らしに来たようです。
 
シャロームは、アドラー教(ネットのアドラー心理学)にもかかわっているのでしょうか。
 

「アドラ心理学サロンです。
それは間違っている!などと言い、あなたの意見を否定して、自分の意見を主張して押し付けてくる人はよくおります。
どうすれば良いのか分からなくてなり、納得いかないまま従ってしまった方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?
 今回は、自分が正しいとしたことを主張し、あなたを「操作」または「支配」しようとしてくる人への対処方法を解説します。」
・・・・
 ということに対して

「正義ではなく、自分勝手な押し付けに対することなら、分かりますが、正義という言葉を使うことで、倫理や道徳一般に、言葉だけで適用されるという誤解を生むでしょう。」
 」
といういつものst5402さんのすばらしい訓戒、教示ですが・・・
アドラー心理学からの提言は
st5402さんの正義感や批判にも当てはまりますが、ご自分には当てはまらないということでしょうが・・・

 
言ってることが滅裂です。まるで、あなたシャロームは、理解していません。
 
正義というのは、一般的には追求するべきテーマとしておおまかな概念があります。
 
おおまかな概念ですから、さまざまな意見が当然あるということです。
 
シャロームは、恐らく、コメントの、「自分が正しいとしたことを主張し、「操作」または「支配」しようとしてくる人」が、私だと言いたいようです。
 
これは、シャロームが、今までずっとしてきたやり方と同じで、私に対して、根拠なく、悪を当てつけるやり方です。そういう理路は通らないことを何度も言ってきたのですが、知恵のないシャロームは、まるで理解せずに、一つ覚えで繰り返してくるのです。
 

そうであればスルーすればいいだけですが、そこは黙ってスルー出来ないわけがご自分にあるだけで、一般化したり、自分以外の他者の課題にしたりしても何の意味もありませんね。

 
正義というのは一般的な言葉でもあるということを、まるで理解していないシャロームです。スルーするしないというのは、判断した言論者によって違います。言ってることが、散乱して、根拠にも説明にもなっていないシャロームです。これが、文句言いたいだけという原始反応なのです。
 
何の意味もないのは、あなたの言っている詭弁です。いい加減に、荒らすのをやめなさい。
 

自分にとって必要な課題だと気づける人や自分自身の課題にできるひとだけに意味が与えられるのですからご心配無用でしょうね。
小さな親切、大きな迷惑。余計なお節介でした!
新しい年も早1月13日!
令和2年もまたお元気でお過ごしください!
名無しの猫かぶり

 
アドラー教は、あなたの妄想と同じように、公開文書に書いています。読者を限定していません。ということは、言論の責任があるわけですから、批判は当然のごとくあって不思議はないのです。
 
あなたシャロームが、わけのわからない滅裂文章で、いじくって、悪口に使うのこそ、大きな迷惑なのです。あなたは、言論の妨害者、信仰の敵、自分の部屋だけで鼻を鳴らしておればよいのです。誰も関わることのないように、卑怯者はネットを去りなさい。
 
シャロームあなたは、何も分かっていないでしょう。何が「必要な課題」なのか。分離するべきそれぞれの"課題"ではなく、アドラー教の主張として書かれているわけです。自分か他者か誰の課題かを問題にしているのがアドラー教です。
 
宿題じゃあるまいし、主題でもあるまいし、まるで中身が既に分かっているような「必要な課題」などという、いい加減で大雑把な書き方をして、同じ言葉だけ真似て書いて、言論しているように見せかけるシャロームの、引っ掛けるためだけの悪意の詭弁を、まともに相手にしてはいけません。
 
シャロームは理路も分別も持たないことが、約9年の批判によって明らかになっています。罪悪感を持たず、恥も知らない、シャロームは、言葉面がちょっとばかり都合がよかったら悪口に利用してきます。こういう理路の破壊者の話には、決して乗ってはいけません。
 
名無しの卑怯な荒らし、シャローム、言論の責任を一切負わないあなたに、コメントを書く権利はありません。あなたは、何も理解していません。原始反応で、無知と無恥を気にもしないで書いてくるのが、あなたのシャロームの常套手段です。あなたの理路のない悪口や妄想など、いずれ、誰からも相手にされなくなるでしょう。
 
シャロームは、自分が、いかに低劣なことしか書けないか、いかに的を外しているか、全く自覚もなく学習もしない妄想家です。にもかかわらず、一人前のつもりで書いてくる無反省によって、読む者の思考を混乱させ、疲弊させることだけが目的の、言論の妨害者です。本能性の攻撃者であり、殆どケダモノに近い心性なので、一般の読者は、決して相手にしてはいけません。
 
「名無しの猫かぶり」
実に荒らしらしい、真剣味のないコメントであることを、シャロームが、自分の言葉で表しています。ふざけることしか出来なくなっているのです。ゆえに、真面目に返答することは無意味になります。こうは、なりたくないものです。
 
シャロームは、言葉についても、自分で説明する気はないようです。説明せずに、知っているぞ、と自慢したいのでしょう。ですから、私たちは、折に触れて、検索などして、勉強したほうがよいと思います。
 
(ネットより)
猫かぶり:本性を表に出さないようにしておとなしく殊勝なふうを装うさま、猫を被るさま、などの意味の表現。
https://www.weblio.jp/content/%E7%8C%AB%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%82%8A
 
恥を知らず自分が見せてきた醜ささえも感じないで、尊大な態度だけ持っているシャロームは、おらびながら崖に向かって走る悪霊の豚の群れのようなものなのです。
 
私は、シャロームの言を、偽善者、反キリスト、自分信仰、ナルシシスト、サイコパス、自己中心、誇大妄想家などの、典型的で顕著な実例として、記録にとどめているだけです。
 

8. st5402さん こんばんは 未だ名無しです。
 2020年01月14日 09:58
>>6

「あなたの理路のない悪口や妄想など、いずれ、誰からも相手にされなくなるでしょう。」
 」
だからst5402さんの批判記事にこれまでも、これからも私のようにst5402さんに依存し、忘れられたくないのでコメントするだけで、賢明な人はだれもコメントせずに誰も相手にしようとせずに、素通りしているとは考えられないのですね?
名無しの猫かぶり

 
文脈が不明です。何を言いたいのでしょう。あなたシャローム名無しが、私に依存しているのでしょうか。誰も相手にしてくれないから、ここに書くのでしょうか。みにくい。
 
あなたシャローム名無しの猫かぶりは、あなた自身が思っているより、はるかに恥ずかしい有り様をさらしています。書くたびに、主張が悪口になり、嫌がらせが明らかになるからです。
 
賢明な人は誰もコメント書かないと言いたいのでしょうか。ここには、書かないでしょう。あなたシャローム名無しが、荒らしていますから。見ただけで書く気にならないでしょう。
 
あなたシャローム名無しは、意地悪な加害者で、荒らしで、犯人で、偽善者で、人間らしい知恵のない、何も分からない人です。あなたが書けば書くほど笑えば笑うほど、ますます酷くなります。
 
あなたシャローム名無しのように、まとまらないままのコメントを、むやみに入れてくる人は他にはいません。あなたシャローム名無し以外の人は、常識があるからです。
 
誰からも相手にされなくなるのは、あなたシャローム名無しであり、私は、元々相手にしてくれるからなどという理由で記事を書いているのではありません。私の中に書く動機と必要が明確にあるから書くのです。荒らしという凶悪な反キリストが相手だからです。みじめです。
 
あなたシャローム名無しは、書く動機が不純なのですね。いつでも、他者と自分を比べて、賢明だとか、相手にするしないとかを、気にしながら書いているのでしょうか。他者に依存し他者を気にしすぎることを自他未分化というのです。
 
それで、あなたシャローム名無しの猫かぶりは、自分が嫌われていることにも気づかず、文脈になっていないことも平気で、いかに恥ずかしいことをしているかもお構いなく、普通に見せかけても崩れている文章を推敲もせず、石打のようにデタラメに言葉を投げてしまうのでしょう。猫かぶりは、本性丸出しです。
 
あなたシャローム"名無しの猫かぶり"は、それでも、まだ、性懲りもなく、書くつもりなのでしょうか。前にも言ったとおり、悲惨な有り様が進行しています。本能だけの原始反応だから、コメントがどんな内容でも恥ずかしさを覚えないのでしょう。あなたの筆致そのものが、あなたがこれからも堕ちてゆく末路らしくなってゆきます。
 
 
(2020年01月15日)
(2020年01月18日、一部修正)
 
 
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  アドラー教について(9)
 
   2019-12-08  
  【永久保存版】あなたを待つ不幸のどん底を回避する方法は…
  https://www.adlersalon.com/entry/2019/12/08/093454
 
 
嫌らしいカルトの誘い文句です。奇を衒(てら)って、無責任に保証し、保証には内実がありません。
 

あなたが大切だと思っている人達は必ずあなたを裏切って、あなたの不幸のどん底に突き落とします。
そうなることを、私が保証します。
あなたが今、幸せだと思ってることも、本当はあなたを苦しめて不幸にすることなのですよ。
これからあなたは、ある時を皮切りにして、不幸に生きる時間の方が人生の大半を占めることになります。

 
根拠を示さず、逆説的なことを言い、不安を煽っています。
 

でも大丈夫、この記事を読めば、あなたは人生の大半の時間を損することもなく、読んでない人より遥かに大きな時間を節約できて、すぐに幸せになれることでしょう。

 
そして、万事解決の安請け合いです。ネットでは、責任の取りようがないことを利用しています。
 

むしろ、本記事を読まなければ、あなたは決して幸せにはなれない気がしてなりません。
起きた出来事そのものには、「幸福」も「不幸」も無い。つまり、どんなことが自分の身に降りかかってこようと、それをどう自分が解釈するのか次第なのです。

 
しかし、誰が見ても不幸ということがあります。その中には、カルトに囚われることによる不幸も含まれます。異常に偏った考えに縛られてゆくでしょう。
 
アドラー教の陥りやすい欠点は、言葉をそのまま受け取って、自己中、学習不能、訂正不能、そして、人格の鈍麻から破壊につながります。
 

あなたの思っている「不幸」の実体とは、その不幸な出来事そのものではなく、世間で不幸だとされていることであり、つまり、他人が作り出した定義なのです。

 
こういう解釈次第という考え方は、不幸の実体をというものを、その多様な出来事そのものではなく、カルトが自らの思想に合わせて単純に作り出した定義なのです。
 

自分の外側にある他人や環境は、何一つ自分の思い通りになることはありません。

 
むちゃくちゃな言い過ぎです。人間嫌いの言葉です。極端に走ると気持ちがいいのでしょうか。
 
何一つ自分の思い通りにならないなら、人間は生きてゆけません。少しは思うとおりになるところがあり、そこを見つけることで人間は生きています。
 

もちろん、他人の考え方を変えてもらおうとしたり、世の中にある何かを変えようとする努力はできますが、最終的に変わるのか変わらないのかは本人次第なのです。

 
当たり前のことです。当たり前と、極端と、走り回っているようです。
 

外側にあるものに対して、「自分には合わない」とか、嫌いだの不幸だの嘆くことはそれこそ傲慢というものです。

 
誰もが、自分に合うところを求めているわけですが、どこが傲慢なのでしょう。
 

何であなたごときの為に、他人が合わせてあげないといけないのです?神様とか王様にでもなったつもり何ですか?という話になってしまいます。

 
何でアドラー教ブログ主ごときに、他人が合わせてあげないといけないのです?神様とか王様にでもなったつもりなんですか?という話になっています。
 

「あの人がこんなだから」や、「あの人が迷惑だから」なんて言って「やめて下さい」と伝えたりするくらいならまだしも、文句ばかり言って自分の不幸を嘆くのはおかしなことです。

 
要するに、ブログ主が言いたいのは、人のせいにばかりして、不幸を嘆くだけになるのは、おかしなことだということでしょうか。いつまでも、くよくよすることは、確かに、不幸なことです。
 
人に対しては、冷静に、その言動を見ることが必要です。その上で、どこが、おかしいかを指摘するのは、おかしくもなんともなくて、批判と言います。批判する意志がないならば、自分がどうすればよいかを、冷静に考えるべきでしょう。
 

「自分のこと以外は、自分には変えられない」こう割り切ることは、どこか諦めているような感じがする人もいるのではないでしょうか?
これは諦めではなく、割り切りです。

 
この記事では、課題の分離、という印籠を出さないのですね。易しい言い方を心掛けているのでしょうか。まだ、自分のことと他者のことを、いつも、はっきり分離できると思っているようです。
 
課題達成に、他者が必要な場合、他者の課題達成に、自分が必要な場合、自分も加わりたい場合、区別できないことを、まだ知らないのでしょうか。
 

他人が作り出した不幸の定義を、自分のものにまでしなくていいのです。自分には自分なりの幸せと不幸があるのです。

 
当たり前のことです。上のこととは、つながらないように思われます。
 
他者のことで、思い煩わないことが必要なのです。
 
他者は他者と、いつも割り切って、気にしないでいると、いつのまにか、冷たい人という評判が立っているかもしれません。
 
不幸を感じるのは、心ですから、心の無い理屈や命題は、心を乾燥させ、冷たくします。心に血がにじむと、ピリピリして、声を荒げて断定豪語したり、怒鳴ったりします。
 

病気になってしまい、余命があと僅かだと宣告されたとしましょう。この時、不幸を嘆いて恨み節を呟きながらこの世を去るのか、最後の最後まで、今の自分にあることに感謝して笑顔でこの世を去るのかは自分で選択できることなのです。

 
驚くべき発言です。アドラー教によって、不治の病も笑顔で過ごせるのだそうです。ますます、学問というより、宗教らしくなっています。そのようなことは、机上の理屈で考えて結論の出ることではないのです。
 

世間で言われている「良し悪し」、「幸福と不幸」の定義に従わなくてもいいのです。自分がどう思うのか、自分がどんな人間なのかは自分で決める自分の課題であり、他人の課題ではありません。

 
自分で決める自分の課題は、自分がどんな人間なのかではなく、自分がどんな人間になりたいのか、ということです。豪語癖が、また、短絡しています。
 
自分がどんな人間なのか、ということこそ、自分には分かりにくく、分からないまま生きていることが多く、他者の意見が他者の意見が大切になることでしょう。
 

「他人に好かれる私」ではなく「自分が好きな私」になりましょう。

 
これは、自己愛を促す言葉になります。自己愛は、行きすぎると、自己中心になります。このように、誤解と曲解を招きやすい言葉を、気安く発する傾向が、アドラー教にはあります。
 

この世界は何一つとして、誰かを幸せにしたり、不幸にしたりする為に存在しているものはありません。
常に世界はあるがままに存在しているだけです。

 
世界に住む私たち人間には、様々な思惑があるのです。他者が無関係である場合は、極めて少ないでしょう。常に他者に気を使えというのではないが、全く無関係に暮らすことは出来ないのです。
 

なので、自分の外側に幸せを求めるのではなく、自分の中で幸せだと思えること、満足できることを全力で取り組んでいくことが重要です。

 
内向きを勧めています。そこに他者はいないのか、そこに他者はいるのか、どこでも、いるほうが多いでしょう。
 

その取り組みの過程自体が自分を幸せにしてくれますし、どんな結果が出てもそれは次に何をしようかと考える楽しみでしかないのですから。

 
いったい、どんな、自己の世界を想定しているのでしょう。どんな結果が出ても楽しみになるなら、相談する必要もないのです。自分がどうあれ、相談者は楽しんでいないから、相談するわけです。自分は分かっている感を出しているに過ぎないでしょう。
 

それでもどうしても人の目が気になって、自分の気持ちに素直になれない人へ
自分の外側にあるものに幸せを見つけようとすること自体は悪いことではないと思いますし、どうしても人は人の目を気にしたり、自分の外側にあるものに期待をしてしまいます。
ただ、どうしても自分の外側にあるものは、そう都合良くはならないので、期待を裏切られてしまい、失望感と絶望感に苛まれてしまうことになります。

 
これは、すなわち、他者に依存してはいけないということです。
 
この依存について言っておきたいのは、何の魅力もない人が、自分に依存していると言って、気に入らない相手を病人に仕立て上げることがあるので、そういう相手と分かったら近づかないように、また、自分がそう言ってしまう人にならないように、注意してください。
 

なので、可能な限りは自分の外側にあるものに過度な期待をしないで、他人に影響されないで自分らしく生きることが大切なのです。

 
ここで、当たり前のことを言っていますが、他人の影響も必要な場合があり、影響を受け過ぎないように、ということです。ブログ主の話というのは、可能な限り、という、当たり前の結論になることが多く、つまり、目の覚めるような良いこと、とは言えないと思います。
 

だからこそ、人の目が気になる自分を否定するのではなく、人の目は気になるものであることを受け入れて気にしないようにしましょう。
こちらの考え方であれば、誰かに期待してしまうことを防ぐこともできます。

 
おやおや、人目は気になるものであることを受け容れて気にしない、・・矛盾律になっています。
 

人の目を気にしたり、他人に期待してしまう心理は、人間が自分の身を守る為に持っている防衛本能のようなものであり、どんな人でも人の目はそれなりに気になるものですし、人に勝手な期待をしてしまうものです。

 
先ほど述べた、依存につながるものだと思います。他者への、寄りかかりです。寄りかかられたほうは、荷が増えることになります。
 
依存は、自立していない人に起こりやすいのですが、依存、依存と、他者に言う者も、自立していない可能性があります。もしくは、酷いエゴイスト・・最も悲惨なのは、自分が近づけておいて、突っぱねるタイプです。無責任と自己中が甚だしい人格です。
 

ただ、自分の思い通りにならなかった時に、他人は思い通りにはならないから仕方ないんだと、自分を納得させられるように思考を切り替えるようにすればいいのです。

 
諦めの境地を語るのでしょうか。諦めるかどうかは、個人によって、段階によって、違うでしょう。諦めて、思考を切り替えるのは、すればいい、という簡単なことではなく、メインのテーマにもなりそうなことです。ときどき、空しい大ナタを、さりげなく振ってくるブログ主です。
 

人としての性質そのものを否定してしまうと、自己嫌悪になってしまったり、過度に人の目を気にしないことばかり意識して本来の自分ではやらないような奇行に走ってしまう危険性もあります。

 
どういう意味で言っているのでしょう。人としての性質そのものを変えるかのようなことを説教してきたのではないでしょうか。それは、とても難しいことです。
 
また、過度に、という言葉で、その否定を言い訳にしているようです。気にするなと言って、過度に気にしなくなるとマズい、と言って、また、次には、気にするな、と言うつもりでしょうか。一貫性もなく右往左往している理路です。豪語することの空しさを思わせます。
 
アドラー教の作用か副作用が出てきているのではないでしょうか。なんだか、ブログ主の迷いのようなものを感じます。アドラー教を豪語してもぱっとせず、誤解も多くて、結局は、豪語に値するものが乏しいということではないのでしょうか。
 

自分をありのまま受け入れて、自分なりの幸福感を得られる生き方をしていけばいいのです。

 
こうなれば、という理想を結論にしています。結論に至る説明が、著しく不足しています。
 
 
(2019年01月14日、同日一部修正)
 
 
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(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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