ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 詩と宗教・信仰

 
  楽山の反宗教
 
 『アメリカの宗教右派』飯山雅史著
 2020年08月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25812949.html
 
 
楽山の反宗教思想は、まず、宗教の本質を全く理解していないのに、宗教を客観的に見ている自分を気取ることから始まり、それが、楽山のスタンスになっています。そういう卑怯な立ち位置は、どこにも正当に存在しないのです。悪意の産物だからです。
 
この本は、アメリカの宗教事情に興味があったので、タイトルにひかれて読んでみたのだが、序盤ではアメリカの宗教史のような体裁で、長老派、バプチスト、メソジストなど各教派の成り立ちや社会的歴史的な立ち位置について語られている。
また過去の大きな出来事としては、20世紀初頭に進化論などの近代科学や高等批評という聖書分析とどう向き合うかという議論がなされ、それらを受け入れる主流派(多数派、近代主義者)と、あくまで聖書の言葉をそのまま読もうとする原理主義派、両者の中間に位置する福音派にわかれた(プロテスタントの大分裂)のだという。
 
宗教は、思想となり、イデオロギーとなって、多くの弊害を生んできました。しかし、それは、人間の不完全性から生まれた罪の性質であり、宗教そのものの意義を損なうものではありません。
 
人間には、不完全であるゆえに、罪の性質を常に持っています。そこから、様々な過ちを犯します。しかしながら、それゆえにこそ、逆に、赦しと救いにつながる宗教と信仰が必要になるのです。
 
その罪の性質を、自らに少しも認めようとせず、ゆえに、何の共感も無く、悪い材料だけを持ってきて宗教をおとしめているのが、楽山であります。聖書においても、心無い者は、悪魔としての役割しか持ってはいなかったのであります。
 
そういう悪意だけの役割を、自己愛という魔物を原動力にして、実践しているのが、楽山その人であり、善に見せかけた悪意の存在、まさに、聖書にあるところの偽善者なのです。
 
千年王国については、主流派や福音派はキリストの再臨は千年王国の後だとする後千年王国説の立場をとり、人々の努力によって千年王国は達成可能とするなど楽観的だが、原理主義派はキリストの再臨は千年王国より前だという前千年王国説の立場をとり、人々の努力によっては千年王国は実現できず、人々は「ただ、悔い改めてキリストの審判を待つしかない」(p.61)として悲観的傾向が強いという。
 
悪意だけの楽山が批判をしようとすると、人間的な欠陥が表れてきます。すなわち、人間離れと現実離れの話しか言えないということです。誰が、千年王国と再臨があるから信仰をもつ、などという幼稚な動機でキリスト者になるでしょう。
 
それぞれが、現実の悲しみから、救いと癒しを求めているのであって、楽山の空想話などは、たとえば、靴の端にゴミが付いているからお前は悪者だ、と言っているようなものです。
 
ゴミと靴と人格を、いっしょにしているのです。そして、一方で、楽山は、自らのゴミにも罪にも不完全性にも、全く気づかない、という、病的ナルシストなのです。
 
人の言うことを全く無視して、我欲のために、ねじけて腐った根性で、読書家と批評家を気取っている楽山は、理解力と共感力の欠如からマイナスに向かって、何をやってもうまくいかないという現実の当然の悲観的傾向から、怨念の固まりになっているだけのルサンチマン(負け犬根性)として、宗教と信仰を、訂正不能の我執によって貶めているだけなのです。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3 
 
ルサンチマンは、多く、カルトのベースとなる心性です。そして、努力せずに、一気に、偉い人~悟った人~バランスのとれた人~ひとかどの人物のつもりで自慢したがる下種の根性です。
 
中盤以降は宗教と政治のかかわりについての記述が増え、宗教右派は1960年代の行き過ぎたリベラル傾向に対する反発から活動を活発化させ、政治的影響力を強めたものの、近年はピークは過ぎてやや停滞気味になっているとしている。本書は2008年の出版なので、この部分は現在でもそのまま受け取ってよいかどうかは慎重であらねばならぬが、さて著者の見解は妥当だったというべきかどうか…。
 
楽山は、宗教と信仰そのものの本質について、まるで語る言葉を持っていないために、超常のことゆえに誰も否定できない想像~空想話か、このような、政治との関係をもって、うわべの現象だけを論(あげつら)って、宗教を批判しているつもりになるのでしょう。
 
本質を知らずに、ここでは政治の話をして、悪口だけを刷り込んで、広めようとしてくる楽山には、反宗教・反キリストの、悪意だけの、いちゃもん屋という評価しかありません。何度も、何度も、人の顔に、首筋に、鼻くそをつけてくるような汚らしさは、嫌悪感と疲労をもたらします。
 
ひょっとしたら、それが目的かもしれません。もはや、人間としての、一人一人に大切な、好ましいプライドや、正常な尊厳など、欠片もないのでしょうか。悪い噂だけを言いふらして、おとしめて自己満悦するサディストぶりが表れています。
 
宗教の政治への影響には、色濃く、人間の不完全であるゆえの罪性が表れてきます。しかも、それは一部の極端な例です。いちゃもんの材料にはなっても、批判の根拠にはなりません。
 
楽山の言に、いつも欠けているのが、そういう、物事の、"本質への洞察" なのです。これがないところには、いかなる批判も成り立たず、ただただ、程度の低い悪口にしかなりません。
 
一部であり、極端な例ですから、信仰が間違いということではありません。間違いは、いつも、人が犯すものです。その典型としては、偽善という最悪のものを、楽山その人が、今、表しているのです。
 
アメリカの宗教事情というと、中絶反対のために婦人科医を殺害しただとか、レイプによる妊娠であっても中絶を禁ずる法律がつくられただとか、進化論を学校で教えるのに反対する人々がいるなど、驚かされるニュースが多いし、よく分からないところがあるのだが、本書を読んでその背景がいくらか見えてきたようでありがたい。引き続き同一テーマの書籍を読んでみたいと思う。
 
こういう人間とは思えない蛮行に走るのが、一部でない場合があります。それが、宗教ではなく、カルトである場合です。
 
そして、体質的に、批判されて返せないものだから、執念深く、いちゃもんだけを、的外れにつけてくる楽山は、カルト的煽動者と言えるでしょう。どういうカルトなのか、いつまでも、失禁のように続く無反応の記事が、いずれ、それを表してゆくでしょう。
 
楽山は、宗教にこだわると、こんなことになるんだよ、という、悪い例だけを挙げて、いかにも煽動家らしく、煽っています。しかし、一方で、キリスト教をほめる話も書いてきました。
 
この相反する2つのことから、楽山の言は、信頼度ゼロとなり、ほめる、けなす、どちらも嘘であり、残っているのは、過大な自尊からの我執の衝動的な発露でしかないと分かるのです。
 
信仰者の罪は、いつも、人が、教えの本質を曲解して、犯すものです。
 
一部の極端な例を、宗教の本質であるかのように、こわいですね、とばかり言いふらす下種の根性が、分別を欠いた、楽山の生業なのです。
 
宗教と信仰のもたらす良きものを、その本質を、楽山は、いっさい知りません。知りえないものだから、いわれなき復讐のように、汚物を投げては、どんなもんだいと、いい気になっています。この見苦しさを、無反省で、高等感情のない、楽山本人だけは、感じないのでしょう。
 
楽山の言うことを、その一面においても、いっさい信頼してはいけません。楽山は、空っぽの本質の、醜い性根の炎症性の皮として、詭弁と誘導だけは卑怯な方法を知っているのです。決して、関わらないように、近づかないように、警戒してください。
 
 
(2020年08月09日)
 
 
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  イデオロギー
 
 
論理は
心の面倒を見ない。
 
イデオロギーは
心の安全を保証しない。
 
だから
右も左もイデオロギーは
悲劇をもたらしてきた。
 
宗教も
思想・論理・イデオロギーと化してしまえば
同様だろう。
 
文字で固定されたものは
ときに
心を変形させる。
 
思想、宗教、政治、総てにおいて。
 
しかし
ときには
言葉によって表されたものが
心を解放することがある。
 
そのとき
心は
様々な表現と
様々な伝え方を生み出すだろう。
 
心が真理になったからではなく
心が目覚めてアクティブになるからだ。
 
心の努力は
惜しむべきではない。
 
 
(ネットより)「
 
イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。観念形態、思想形態とも呼ばれる。
 
通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
 
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
 
 」引用終わり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE%E3%83%BC
 
 
文字で表された言葉は、いつも、決して固定されない本質を暗示している。
 
歌は、悲しいかな、ときに、心を伝え、動かして、流れ、去ってゆく。
 
目を通して見せるものや
耳を通して聴かせるものは
心を動かし
常に記憶されることを希望している。
 
知情意が不可分であるように
思想と記憶は不可分である。
 
 
全知・全能・絶対・完全・永遠・不変、これらは、
神の性質を表しているが、人が神を理解するための言葉ではない。
神に比べれば、はるかに不完全な人間自身を理解するための言葉である。
 
神の全知全能を人が理解することはない。
神の全知全能は人が自らの罪性を理解するために語られる。
 
人間が何を受け取れるかを考えるべきである。
勘違いしてはいけない。
神の全知全能という言葉は
人が全知全能そして神聖を得るためではなく
人が全知全能ではないことを知るために存在する。
 
 
神と人の敵、楽山とシャロームを、十分に警戒して、近づかないようにしてください。
 
 
(2020年08月08日)
 
 
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  楽山の手口
 
 『神道からみた この国の心』樋口清之、井沢元彦著
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25779731.html
 
 
中身のない記事で、楽山は、確認したつもりになります。それが楽山の手口なのでしょう。
 
これは神道および日本についての対談をまとめた本であり、前に読んだことがあるものだが、内容はすっかり忘れてしまったので今回あらためて読み返してみた。特に印象に残ったのは次の箇所だった。
まず一つは、井沢元彦と樋口清之の会話は、井沢元彦が「逆説の日本史」などで書いている自説を披露し、それに対して樋口清之は慎重な態度で感想を述べるという型が多いことだ。このあたりは小説家と学者のちがいが明確にあらわれていて面白い。
 
知恵が足りないために説明できない者が、自己顕示欲を満たそうとして取る手段は、いっさい、説明をしない、ということです。有名人の名前だけをあげて、「面白い」、と言い、自分が、このレベルのことが分かるインテリなんです、というアピールをしてくるのです。
 
どういう「ちがいが明確に表れ」ているのでしょう。何も書いていない。アイデアもセンスもない楽山には、何も書けない、ということが既にバレています。
 
二つ目は日本では信仰を統合、統括しないという話だ。たとえば火山の神、灯火の神、炊事の神などは個別に拝むが、火の神として一つにまとめたりはしないという。なぜかといえば「そんなことをしたら、ゼロになってしまいますから。すべてのものを統括したものというのは、実は、あるものであってないものなんです。ないものになっては困る」(p.40 樋口)ということであり、「火の神として一つにしたら、目の前の竈や灯火から、神様がいなくなってしまう」(p.40 井沢)からだという。
 
「信仰を統合、統括しない」・・また、楽山の自己中の話し方です。楽山は、書き方を正確に、みたいなことを、前に言っていましたが、ここでの主語は誰なのでしょう。事実でしょうか、当為でしょうか。さらに、人間が主語になれるでしょうか、否です。神が・・ということなら、今度は、神を決めつけていることになります。
 
自分は思想宗教の統合だとか、体系化だとかにはさほど関心はなく、そういうことはあまり性に合わない方なのだが、どうもこれは日本的な宗教感覚と無縁ではなさそうだ。
 
関心がなく性に合わないなら、なぜ、書くのでしょう。「日本的宗教感覚と無縁ではなさそう」などと、分かっているかのように、説明もしないで書くときの災いの気持ちがいいのでしょうか。用語を出して、説明しない、理解してもらおうとしない、これは、自分は分かっている、と言いたいだけの自己顕示欲なのです。
 
実際は、何も説明など出来ない楽山です。実に迷惑です。楽山は、疲労物質であり、即ち、エナジーバンパイアだということです。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12501594073.html
 
三つ目は、皇族には知らないことを恥ずかしいとする考え方がないという話である。樋口清之は皇族のある方に講義をしたときに、その方は知らないことがあっても恥ずかしがる素振りを少しもみせなかったので、不思議に思ってその理由を問うてみたところ、皇族では「負けても知らなくても、悔しいとか恥ずかしいとは思わないのが、普通」(p.122 樋口)らしいことが分かったのだという。 
 
楽山は、負けたり知らなかったりすることが恥ずかしいのでしょう。知っている、分かっている、と思わせる詭弁と嘘だけを、ずっと書き続けています。ことごとく批判されているのに、無視して書き続ければ、説明をしなくても、刷り込みのように、いつのまにか、自分も、有名人と肩を並べるインテリ評論家だと見てくれるじゃろ、とでも思っているのでしょうか。浅ましい。
 
この話はずっと記憶に残っていたものの、何の本で読んだのかは忘れてしまって、さっぱり思い出せずにいたのであるが、どうやら本書で読んだものだったらしい。長年のもやもやが解決できてよかった。こういうことがあると、やはり本は一度読んでおしまいにするのではなく、時々は読み返してみるものだとつくづく思う。神道のことは今回の再読でもやっぱりよく分からなかったのではあるが、それでもこの点について確認できたのは本当によかった。
 
そして、説明も根拠も書かないまま、ほめています。「長年のもやもやが解決できてよかった」「確認できたのは本当によかった」・・自分はインテリだと確認できてヨカッタさんなのです。完全に読者を無視している自慢だけの記事となっています。これだけ、有名人の名前を出して、何も説明せずに、自分を高めようとする人も、珍しいでしょう。恥というものを知らないからです。
 
 
 幸福の科学とスピリチュアリズム
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25780112.html
 
 
浅薄な知識と、不感不応と、自己顕示の自慢という、楽山の腐った手口が、明らかになっています。
 
*共通点と相違点
「霊界からのメッセージ」氏のツイートを読んでいて思い出したのだが、幸福の科学(HS)も初期の頃は、スピリチュアリズム色が濃厚だったのだった。
サンポール氏の記事で、初期の教えを確認してみると、やっぱりそのようになっている。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 『旧版・日蓮聖人の霊言』~幸福の科学・初期の教え
とはいえ、両者には大きな相違点もある。たとえば、スピリチュアリズムの方では、霊人の名前でなく、その教えの内容こそが重要なものになっていて、だからこそアメリカ先住民の無名の霊が、地上の欧米社会に向けてメッセージを送るという形になっていたりもするのだが、大川隆法による霊言の方はといえば、歴史上の偉人賢人など、有名人の名を冠したものばかりなのだ。この点については両者は正反対だといえる。
 
有名人?の名を冠しても、検証不能な超常のお告げですから、正反対かどうか分かるのでしょうか。あるいは、HSの傲慢を言っているのでしょうか。ならば、なぜ、HS批判として、そういう書き方をしないのでしょうか。自分を高めるのが目的だからなのです。
 
楽山は、字面だけで、一気に霊や超常に飛びたいだけなので、どちらも大好きなのでしょう。わざわざ字面だけ、難しい言葉を使ったり、複雑な言い方をして、自らの心霊主義を高めているだけなのです。楽山は、何の説明も出来ないカルトだから、説明不要の世界を2つ並べて違いが分かるふうを装っています。
 
もしかしたらHS側は、その理由として霊媒の能力を問題にするかもしれない。スピリチュアリズムの霊媒たちは、霊的な認識力が充分でなかったために、霊言をする霊人の正体をつかみきれず、その名前も分からなかったが、大川隆法総裁は偉大な霊能者であって、霊的な認識力に優れ、霊言をする霊人がどのような存在であるかがはっきり分かるのだと。
 
霊媒という説明できない霊の話ばかりになっています。比較しているつもりなのでしょうか。正体をつかみきれるのでしょうか。超人?の呆れる話になって、楽山は饒舌になっています。中身、信頼度、説得力は、一貫してゼロです。
 
でも百歩譲ってそれが事実だとしても、白人社会において有色人種の霊がメッセージを送るというシルバー・バーチの霊言と、日本社会において多くから尊敬されている偉人賢人の霊がメッセージを送るというHSの霊言とでは、その背景にある理念はまったく異なるということに変わりはない。
 
「百歩譲って事実だと」するそうです。そして、霊言の「背景にある理念」が、国によって、「まったく異なる」と言っています。何を根拠に?どう異なる?というのでしょう。文化が違うから、違うの当たり前じゃろ、とでも言うのでしょうか、どちらも、根拠のないことだから、最初から最後まで、何も説明できはしないのです。空疎すぎます。
 
こういう楽山のような者を受け容れて、一生、泡を吹き、地団駄を踏み続け、踊らされる人生になってよいわけはありません。楽山は、裸のインテリ気取り、王様気取り、ゆえに、決して関わり合いになってはいけません。人生は、思いのほか、短いのですから。
 
一方は被差別者による霊言であり、もう一方は権威者による霊言であるというちがいは、その背景にある意図、理念、精神がまったく異なることを示しているのであって、霊媒の能力の問題で済まされることではないのだ。
 
被差別者というのは、霊能者だから差別されたということでしょう。権威者というのは、だまし続けているということでしょう。真偽を語らないということは、信じているのでしょうか、楽山は、どう済ませるつもりでしょうか。うさんくさくて、鼻が曲がりそうです。
 
*教えの改変
サンポール氏は、HSの初期の教えを紹介した後で、それがどのように改変されたかも記事にまとめてくれている。「法子の部屋」氏の記事の転載とのことなので、資料をまとめてくれた「法子の部屋」氏にも感謝したい。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 続 『旧版・日蓮聖人の霊言』 ~ 『法子の部屋』はんによる検証
 」
この記事を見れば、誰にも一目瞭然だろうが、『旧版・日蓮聖人の霊言』から削除されたのは、宗教とは距離をおき、権威主義や偶像崇拝、他力信仰などには陥らず、内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指すというスピリチュアリズム的な部分ばかりである。これらの教えは、教祖を崇拝し、教団の勢力拡大を目指す他力推奨型の宗教という現在の教団にとってはよほど都合が悪かったのだろう。
 
「内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指す」・・さらに、うさんくさい話になってゆきます。超常ヒーロー~評論家気取りの楽山は、できそうにもない誇大的なことを自らに当てはめて、疲労と人格破壊を自他に与えるところの、エナジーバンパイアになっているだけなのです。
 
「方便の時代は終わった」の目的については、建前上は信者らが混乱しないように、教義を整理し、エル・カンターレ信仰に一本化したということになっていたかと思うが、結局のところ、その実態は教団運営に不都合なスピリチュアリズム的な教えとの決別であったのだ。このとき、スピリチュアリズム的な教えに賛同していた初期会員たちの中から多くの脱会者が出たというのも相応の理由があってのことだったのだ。
 
楽山が、なぜ、このようなことを書くかといえば、自分も、霊が分かるっぽいスピリチュアルだから、HSとは違うから、正しいんじゃ、と言いたいだけなのです。方便にならない嘘で企む楽山です。
 
霊が分かる証拠を、まるで持っていない楽山が、自分で選んで、スピリチュアルを弁護するのは、スピリチュアルにとっても迷惑な話になってゆくでしょう。
 
実際には、楽山は、すでに現実を遠く離れて、超常の霊の世界に逃げていることが、この記事にも表れています。楽山は、今まで書いてきたように、自己愛性によって、自己正当化、自己顕示して、自らを、賽の河原の石積みのように、結局は、壊しているだけなのです。
 
*まとめ
自分のイメージとしては、HSはスピリチュアリズムの要素が濃いと思っていたのだが、今回あらためて確認してみると、どうやらそれは間違いであって両者はまったくの別物であると結論付けざるを得ないようだ。
端的にいえば、初期HSはスピリチュアリズムと似た教えを説いており、同系統の運動に見えるところもあったが、実際にはその根本の精神はまったく異なっており、それだからHSは時が経つにつれて、スピリチュアリズム的な教えから離れ、典型的な教祖崇拝型の新興宗教という形におさまったということである。
スピリチュアリズムから離れた視点から見れば、HSは霊性進化論の一種ということであり、スピリチュアリズムの流れの中にあるように見えもするが、スピリチュアリズムの本流から見た場合は、HSは支流も支流であって、かなり道を逸れたものにすぎないのである。
 
楽山が、HSを教祖崇拝型の新興宗教と見なし、スピリチュアリズムを本流としていることを忘れないでください。私が言いたいのは、楽山は、スピリチュアルとして、何か深い洞察を書いたことは、一度もないということです。
 
この楽山が、前に、キリスト教について、ひやかし、いちゃもん、一方で、ほめ言葉など、でたらめなことを書いてきたのです。それが全部、嘘っぱちだったということを、記事は示しているのです。
 
*判断ミス
恥ずかしながら、自分はHS会員だったころ、日本のスピリチュアリズム界の大御所らが、HSに合流してこないことがどうにも納得できず、不思議でもあったのだった。なぜそういう人たちはHSの霊言を信じないのだろうかと。
でも当時の記憶を掘り起こしてみれば、自分もはじめにHSの霊言集を見つけた時は、即、バツ判定したのだった。「これは偽物だ。偉人賢人や、神の名を名乗る霊に本物がいるわけもない」「本を売るために、有名人の名前を利用するなんて酷い奴だ」といった具合である。
 
もはや、現実世界よりも、まとまりのないスピリチュアルの世界に、埋没したがる楽山なのです。浅はかな、楽山の底が、見え見えになっています。
 
でもそれにもかかわらず、後になって迂闊にも霊言集を手に取って読んでしまい、スピリチュアリズム的な箇所を見つけ、共感し、いいことが書いてあると判断し、ハマってしまったのだった。いわば、自ら進んで、木を見て森を見ない状態になってしまったのだ。霊言本のタイトルを見て偽物だと判断したときは、木を見ずとも森を見て正しく判断できていたのだが、その中身を読んでからは木を見て森を見ないようになり判断を間違えてしまった。
 
読解力と説明力のない楽山が、霊言集であれ、スピリチュアルであれ、「いいことが書いてある」、と言うのは、既に、楽山が、現実離れ、人間離れしている証拠です。
 
現実の心も、木も、森も、見ることのできないために、一気に、心霊の安易さに飛びついた楽山の、「間違えてしまった」というのは大嘘で、実際は、自己愛から、間違いに気づいた自分を高めようとしている、ということを見逃してはいけません。何を書いても、自己正当化につなげるのが、そして、それを暗示しないではおれないのが、半端な知能を持つ病的ナルシストなのです。
 
有名人の名を冠した「××の霊言」という本があった場合、ふつうの人なら、うさん臭さを感じて見向きもしないだろう。でも自分は心霊的な方面について生半可な知識と興味があったがゆえに、そのような本を読みふけってしまい、ハマってしまったわけである。自分のことながら、まったく愚かにも程があるというものだ。
 
いちばん、胡散臭いのは、楽山です。愚かさに気づくんですアピールをしながら、スピリチュアルを自分に当てはめようとしてきた楽山であることを見逃してはいけません。
 
何も、何ひとつも、楽山から、よいものは生まれません。今まで、自己正当化以外何もない、そういう記事だけだったからです。数々の、だまし言葉を経て、今は、超常大好き、現実大嫌いを、隠さなくなってきた楽山です。その話ばかりです。
 
*第一印象を忘れないこと
巷では、「よく知りもしないくせに知ってるようなことを言うな」という考え方があるし、HS信者もこれと同様に、批判者に対して「HSを批判するなら、HSの本をすべて読破してからにすべきだ」と言ったりするけれども、どうも自分の上のような経験からすると、宗教に関しては、少々の知識があるよりも、さほどの知識も興味もない一般人の方がよほど正確に判断できていることが多いようだ。
 
楽山の字面の知識よりも、大切なのは心であります。しかし、楽山は、心にだけは、見向きもしないで、霊という超常に執拗にこだわり、中身のない言を並べてきました。「一般人の方がよほど正確に判断できていることが多い」と言うなら、楽山には、黙っていなさいと言いたいのです。
 
少々理屈を言えば、宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは、その教えの中には多少はマインド・コントロール的な要素が含まれているものであるし、もしその教えを学んだ後で判断するとすれば、それは若干のマインド・コントロールを受けた上でのものになってしまい、本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがあるということだ。
 
本来の宗教にマインドコントロールは含まれていてはいけません。それは洗脳ですから、カルトの特徴なのです。いかなる宗教もカルトも洗脳・マインドコントロールが含まれることがありますが、それは、全くの不祥事なのです。
 
またしても、楽山は、偽善カルトだけあって、含まれているのが当たり前のような、いい加減なことを言っています。マインドコントロールを狙っているのは、まさに、楽山です。
 
考える宗教と、思考停止のカルトを一緒にして、「宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは」「多少はマインド・コントロール的な要素が含まれている」と言っている楽山の言は、全くの悪意の詭弁であります。
 
「若干のマインド・コントロールを受けた上でのもの」「本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがある」などと言って、宗教をカルトと同様に見て、巻き添えにしたがる楽山こそが、最も危険なカルト煽動者なのです。
 
ゆえに、楽山は、言論の世界から、一日も早く消えてほしい邪悪なエナジーバンパイアです。
 
物事を判断する際には、その中身をよく調べ、吟味した後にすべきだという考え方もあれば、第一印象などの直観こそが大事だという考え方もあり、そのどちらが正しい判断方法であるのかはそう易々とは決められないのではあるが、それでもやはりこの件に関しては、自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであったとつくづく思う。
 
「易々とは決められない」と言いながら、「自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであった」というほうを勧めてくる楽山の狡猾な刷り込みの詭弁にだまされないでください。底まで腐っている楽山だからこそ、出てくる悪質な誘導です。
 
人ははじめは奇異なものに感じたものであっても、じきに慣れるものであるし、宗教もこれと同じではじめは気味が悪いと思っても、じきに慣れてしまい何ともなくなってしまったりもするものだ。だからこそ、その宗教をはじめて知った時に、どう感じたのかは大切であるし、これこそが本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れないということが大事なのだ。
 
宗教は慣れるものではありません。反省し祈り学習し成長するものです。今までも、繰り返された楽山の宗教蔑視と、おとしめの詭弁であります。根腐れの遠吠えです。
 
「はじめて知った時に、どう感じたのか」が大切で、それが「本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れない」という楽山の破滅の様式です。その通り、破滅しつつあるわけです。そうではなく、その後の学習によって、深まってゆくのが宗教と信仰です。
 
カルト的な詭弁以外のことを、楽山は、何も言えなくなっています。
 
 
(2020年08月07日)
 
 
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  楽山の仲間
  
 名無しの荒らし実はシャロームのコメント
 2020年07月25日
 私の記事「楽山の三文芝居」コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/6645741.html#comments
 
 
楽山が、性懲りもなくカルト誘導の記事を書いてきたので、載せるのが延び延びになっていましたが、私の楽山批判の記事「楽山の三文芝居」(ライブドアブログ)のほうに、久しぶりに、卑怯な荒らし、"名無しの猫"、実は、シャローム shalom がコメントを書いてきました。
 
楽山の援護のつもりでしょうか。前にもあり、筆致から、10年前から批判しているシャローム shalom です。
 
ヤフーブログが終了して、今は、シャロームのブログは、所在不明です。ゆえに、無遠慮に書いてくるのでしょう。このように、楽山には、似たような仲間がいます。ひょっとしたら、一人による成りすましかもしれません。楽山とシャロームは、こういうこともするような、孤独な惨めフレンドです。
 
「 
 
1. いまも名無しの猫です
2020年07月25日 11:29
おはようございます! 名無しの猫です
 
お久しぶりで懐かしいですね!お元気?そうでなによりです。
今年の梅雨は全九州どこでも大雨災害で大変でしたが、
諫早はどうでしたか?お母さんはいかがですか?
 
「楽山の言うような、単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」
 
楽山さんの記事を読んで、「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられると思いますよ。」きっとコメントもあると思います。
でもstさんのように熱心に読んで、丁寧な批評してくださる方はほかにいないかもしれませんね?
stさんの楽山さんに対する批判記事を読み
「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられるでしょうか?
「単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」
 
stさんに楽山さん批判というライフ・ワークを与えておられる
自由な楽山さんに感謝ですね!
 
今も元気な名無しの猫より
不自由なstさんへ
 
 」
 
名前を書きなさい。卑怯者め。でなければ、引っ込んでいなさい。
 
シャロームの、白々しい筆致として、挨拶や世辞と、皮肉・当てつけの悪口を、同じコメントに書いてくる特徴があります。
 
「懐かしいですね」と「不自由なstさんへ」にも表れています。褒め言葉は世辞もある、悪口は本音でないと書かない、ということから、悪意の当てつけである後者が本音であることは言うまでもありません。
 
前にも、同じような指摘をしたのに、読んでいないのか、理解できないのか、もはや、シャロームは、くずれた日本語を、隠そうともしなくなりました。
 
シャロームは、楽山と同様に、丁寧語とは裏腹に、常識・良識のない人で、偽キリスト者、反キリストです。引用の形式も、いい加減ですし、結論だけの悪口です。シャロームと楽山は、まともに応答してはいけない人です。
 
シャロームは丁寧語を使うので、批判していた頃、別の人が、私に、"失礼なことを言ってはいけない" とコメントに書いて注意してくることもありました。全く、本音とは別の、世辞や社交の言葉で、だまされている人が、結構いるということです。
 
このような荒らしが、楽山の仲間なのです。同一人物の、キャラを変えた成りすましも疑っています。
 
stさんの楽山さんに対する批判記事を読み
「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられるでしょうか?
「単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」
 
元気を与えることが目的ではなく、真実追求の希望を疲労させてくる楽山の記事を批判することが目的です。そんなことも分からないで、言葉で引っ掛けて、いい気になっているのでしょうか。
 
成りすましも疑うほどですから、シャロームの信頼度もゼロです。まともな話し合いなど、通用しない邪悪な偽善者であり、楽山よりもずっと前から、反キリストと判断している人です。
 
stさんに楽山さん批判というライフ・ワークを与えておられる
自由な楽山さんに感謝ですね!
 
誰が感謝するのでしょうか。勝手に「ですね」口調で、押し付けてくる傲慢が、ずっと前からの、シャロームの特徴です。それに、批判がライフワークではありませんし、ライフワークというものを、私は意識してはいません。できることをしているだけです。
 
前から言ってきたのですが、理解力のないシャロームは、同じような世辞~偽善の言葉しか使えないのでしょう。
 
今も元気な名無しの猫より
不自由なstさんへ
 
シャロームが元気であることは、何よりの災いであります。このことは、そのまま、シャロームが、おのれの不自由、空元気、致命的な欠陥、罪、偽善、無反省、厚顔無恥、等々に気づかないでいることを表しています。つまり、病識の欠如なのです。
 
私は、高齢でもあり、いろいろな点で、不自由を、無力を、罪を、意識し自覚し、祈りと反省の日々を送っています。
 
それら一切を持ちえないシャロームという荒らしが、元気でいることは、災いです。
 
このような、偽善者シャロームが、キリスト者、そして、元牧師を自称していましたが、それが嘘であることは、既に明らかになっています。
 
 
キリスト信仰は、キリストの名によって祈るところの、神に対する正直さだけによって、人生の成り行きにかかわらず、父なる神の定めるところの真実において、担保されています。
 
 
その信仰を、真っ向から、裏切り続けているのが、シャロームであり、その仲間が、楽山と易坊です。そして、シャロームと楽山は、性懲りもなく、反キリストぶりを、何度も何度も、あからさまに表してくるのです。反省機能が欠如すると、こうなります。
 
いつまで、どこまで、卑怯者は、吐き気を催すような、汚らしい穴ぐらから吠えてくるのでしょう。決して近づいてはいけません。
 
以下は、シャロームに対するルーチンです。
 
 
《シャロームの背教》
これからも、しばしば載せることになるでしょう。
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
 
シャロームの2つの発言は、悔い改めなくてもいい、悔い改めは必要、という矛盾を来たしています。さらに、悔い改めなくていい、というのは、キリスト信仰とは、真逆であります。さらに、悔い改めを神が与える、というのは、自分はしなくてもいい、という詭弁です。メチャクチャなのです。
 
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
 
さらに、シャロームの言には、さらなる自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということになるのです。
 
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神に対して、正直に罪を告白し祈ることです。
 
すでに、シャロームの信仰が偽物であることは、証明されているのです。
 
シャロームは、神に対して偽っており、神に真摯に正直に祈ったことなど一度もないと思います。
 
神に対して、嘘を吐く者は、人に対しては、さらに白々しい嘘を、平気で吐くのです。
 
シャロームとその信条に、無条件で賛同し、互いにお仲間として、お味方となっているのが、楽山であります。もはや、いかなる反省も、学習も、関係改善も、期待できない二人は、偽善者、反キリスト、反信仰の、手遅れ患者なのでしょう。
 
彼らの書いたものを見ていると、彼らの真実に向けた憎悪(ぞうお)は増悪(ぞうあく)するのだろうと思います。
 
 
(2020年08月06日)
 
 
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  楽山の誘導
 
 真理を語りつくした宗教は存在しないということ
 2020年08月02日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25740063.html
 
 
楽山が、人間を、いかに知らないか、ということが表れています。幼稚なことばかり書いてきて、人の言うことは聞かないのです。誰も、楽山を、批判する以外、相手にしてはいけないと思います。
 
最近、内村鑑三の「宗教座談」で、神は聖書より大きいとしているのを読んで、思わず膝を打ってしまったのだったが、次のツイートを見ると、スピリチュアルな方面でも同じような考え方をあるらしい。
 
神を信じていない楽山が言っています。聖書も曲解している楽山が言っています。膝を打つというのは、感心したときのジェスチャーですが、その根拠が、楽山にはありません。何もかも、自分の妄想と一致するかどうかで判断しているだけだと思います。どこまで思い上がれば気が済むのでしょう。
 
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏造されております。
 」
ちなみに、自分がこの問題に興味を持ったのは、某宗教の信者と信者の論争を観戦していたときだった。この時、ある信者が「あなたが言っていることは教義にありますか。どこにも説かれていないのではありませんか。そんなものは真理ではなく、あなたの妄想にすぎません」という主旨で相手を批判しており、自分はこれに対して、いやいや教義に無いからといって真理ではないとは限らないだろうと思ったのだった。
 
そもそも、人が、真理の総てを知ることは出来ません。人間の知りうる時空が限られているからであり、人の心ひとつも総て知り得るものではない、ということが分かっているなら、当たり前のことなのです。
 
真理を尽くしたのが完全な宗教などと言う先入観の世迷言で宗教を語ろうというのは、自己愛に慢心した楽山のような自分信仰の狂信者が捏造し吹聴したがっているだけであります。
 
神は全き真理なのでしょう、されど、人は不完全なので、神の真理を知りません。しかし、人が生きるためには、ひとかけらの真実があればよいのです。
 
教義や教理を信仰してしまうと、説教で語られる言葉や聖書の言葉しか使わなくなる可能性があります。これは、神が与えた自由意志に反することなのです。大事なことは、聖書を読んで、何を受けとたかということです。
 
「教義に無いからといって真理ではないとは限らない」と楽山が言うのは、自分が真理だと言いたがる無知で無恥の楽山の言うことを正当化するために他ならず、言い張るためのエネルギーにしたいからに他なりません。
 
楽山の言うことは、まず、知性の常識と情緒の直感的良心に反しています。楽山が、良心と常識を持っていないまま、恣意的に、詭弁で誘導し刷り込もうとすることを、だますために語る言葉を、決して信用しないでください。
 
「教義にないことは、教義ではありません。教義でないものを、教義であるかのように言うのは止めてください。教義と個人的な感想や意見は、きちんと区別して言ってください」と言うならまだ分かる。でも、「教義にないことは真理ではありません。あなたの妄想にすぎません」というのは、ずいぶん、ヘンテコな話なのだ。
 
それ以上に、ヘンテコなのは、教義を知らない楽山が、教義云々を語ることです。妄想かどうかは、それを、もし多くの人が信じたら反社会的にさえなるだろうと推測されることであって、楽山の言っている自己愛と自己中の無反省こそが、それに当てはまります。
 
楽山は、教義も、聖書も、人間の良心に基づくことがないために、少しも理解できていないことが、今までの記事と、過去のコメントから、明らかになってきたのです。
 
信仰というのは、それを与えらる機会を得たときには、そもそもその人に与えられたところの、良き人でありたい、という良心によって判断されてゆきます。最初から、聖書の正しさを先天的に持っているわけではないという自明の理から始まるのであります。
 
したがって、信仰は、人間の良心を促し、人間の悪意を減らしてゆく方向に行くのは言うまでもないことなのです。何か特別の神の啓示でもあって、良心を蹴散らして信仰に向かう、などということは、カルトならあり得ますが、正しい信仰にはあり得ないことです。
 
こういう場面を見ていると、宗教信者は、唯物論者に向かって、「この世がすべてではありません。この世を超えた世界があるのです。そのことを知ってください」と言ったりもするけれども、これは宗教信者にも言えることであって、宗教信者の方も、宗教で説いていることがすべてではなく、宗教を超えた世界があることを知らなければならないのではないかと思う。
 
宗教についての話を含めて、自己愛によってゆがめてしまい、自前の字面の屁理屈しか言えなくなっているのが、楽山です。それは、自己愛と自己中による無反省と訂正不能によって起こっています。楽山ほど、前もって、警戒を要する人は、ガチガチのカルトを除けば、珍しいのです。
 
カルト、および、カルト的な人は、陶酔気分で、誇大妄想を語ることがあります。現実を弁えず、思い込んで信じ込んでいる人は、考えることも、共感することも、自ら止めてしまうことがあり、そのために、現実離れや人間離れを起こしてゆくのでしょう。キリスト教内部においても、この問題は、決して小さいことではないのです。
 
楽山は、今は多くを隠しているようですが、大方、それに当てはまると思います。人心を操作しようと企み、先入観のように吹き込み、平気で嘘を吐き、詭弁を弄する、という今までの経過に表れています。楽山は、現実を考えることが出来ず、人間に共感することが出来ないのです。
 
宗教にハマってしまうと、宗教で説かれていることこそが真理であって、それに反することや、説かれていないことについては真理ではないという短絡的な思考に陥ってしまうこともあるが、ここはぜひとも注意したいところである。
 
自分信仰の自己愛に嵌ってしまうと、他者の意見を無視して、反省をしなくなるので、学習と成長がなくなります。楽山がしているような、自分に都合の良いことばかりを漁って積み重ねることは学習でも成長でもありません。
 
一方では、他者の意見や思想や宗教を侮辱し、あるいは、軽く見なして、何を言われても無視して、悪に悪を、欺瞞に欺瞞を、偽善に偽善を、悔いることもなく、重ねてゆくようになります。
 
一年以上批判してきて、楽山の言から、何らかの納得を得られたことは、一度もありません。だまし誘導する意図だけが、気色悪く伝わってきます。
 
あまりに酷い記事が続くので、最近ですが、楽山批判の記事のタイトルにも「楽山の・・」というように、"楽山" という名前を出して、責任者が誰かを明示するようにしています。
 
しかし、それが分かるのは、ある程度、批判者が詭弁と誘導について学習している場合であって、カルトや誘導に対する免疫や抵抗力や批判力に自信が無くて影響を受けやすい人は、楽山の言うことに対しては、決して相手にしない、という方針のほうがよいと思います。
 
楽山に関わって、良いことは何もないと思います。影響を受けてしまうと、知性も感性も鈍くなり、楽山と同じように他者を無視するようになり、自分の言いたいことだけをアワアワと繰り返すようになるでしょう。楽山のボンヤリ言語やトホホ言語に似た言い逃れをするようになる可能性も大です。
 
人間は、真実の追求を志すならば、修正可能で学習可能な心性を持ち、他者の言ったことも、そのまま受け入れるのではなく、自分の学習経過と結果である知性と感性によって処理して、総ての人が信じたらどうなるかを考えて、生かすか、保留するか、否定命題とするかを、自分で判断してゆく必要があるということです。
 
 
(2020年08月05日)
 
 
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