ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 詩と宗教・信仰

 
  楽山の大好物3
 
   『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著
   2021年01月09日 楽山日記(LD)
     を改めて批判。
 
 
(ネットより)
浅野 順一(あさの じゅんいち、1899年12月12日 ‐ 1981年6月10日)は、日本の牧師、神学者(旧約聖書学)。青山学院大学名誉教授、キリスト教功労者。
 
(ネットより)
『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。
 
楽山は、キリスト教の功労者と言われている神学者・伝道者を引用していますが、楽山が書いていることは、キリスト信仰に沿うものではありません。キリスト教も一枚岩ではない、というところを、楽山は、大好物のように、しゃぶりたいのです。そういう侮辱が、良心を持たない楽山の生き甲斐なのです。
 
 
*良書
ヨブ記のことを知りたいと思い本書を読んでみた。文章は分かり易く、時折、余談としてヨブ記に関連した興味深い話が紹介されているところが有り難い。おかげで初学者の自分でも、最後まで退屈することなく楽しく読めた。
 
ヨブ記は、痛々しく信仰と試練と救いを深く考えさせられるのですが、楽山は、趣味のように「楽しく読めた」と書いています。楽しく読めるテーマでしょうか。楽山が、いかに宗教と聖書を軽く見ているか、いかに悲劇に共感できないかが表れている記事です。サディストの感想です。
 
そもそも、分かる・理解するということの深みが、楽山に見られたことはありません。そういう内容の文章を書けたこともないのです。キリスト教については、さらに、幼稚な先入観と偏見と詭弁による攻撃が明らかになっています。
 
したがって、今回も、楽山にとって興味深いのは、ストーリーを表面的になぞって、分かったつもりで自慢し、批判したつもりで、否定のイメージを刷り込むことに他なりません。読書は、楽山にとって、そのためのネタ探し以上ではありません。
 
初学者の姿勢とは全然かけ離れた高慢によって、楽山は、キリスト教と神を、見下してきました。初めてだろうが、熟練だろうが、楽山のように無反省・無責任の態度を改めないでは、荒らしに過ぎず、決して学ぶ者にも教える者にもなれないのです。
 
 
「あとがき」によると、本書はNHKの古典講座という番組のために語ったものに筆を加えたものだそうで、平易で読みやすい文章になっているのはこのためかもしれぬ。
次に本書のなかで、特に印象に残った箇所についてメモしておきたい。
 
楽山は、平易だからではなく、安易に受け取って読みやすいなどと言っているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。聖書の深みに、無反省・無責任のまま、到達することはありません。楽山のような心の無い者に、聖書から与えられる良きものはないのです。
 
 
*サタン
まず一つ目は、三人の友人たちとサタンとの関わりについてである。
サタンはこの敗北以後再びその姿をヨブ記の中に現わさない。三章以下のヨブの友人との論争においても、四二章後半の物語においてもその顔をのぞかせていない。これはサタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.36)
 」
前の記事で、三人の友人たちとサタンとの関わりについて、wikiの記述をひきつつ書いたのだが、本書では「サタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう」とさらに踏み込んだ解釈がされているのには驚いた。
 
引用元著者は、サタンが友人に姿を変えていると言いますが、悪魔と、人と、神の区別が、あっさり、つくものでしょうか。安易な短絡です。サタンの仕業にして、私たち人間に、何が得られるというのでしょう。教理的に語ればよいというものではなく、人間のテーマとして考えるべきです。
 
「サタンが友人にその姿を変えている」・・このことを、ホラーのように捉えている楽山です。状況によってはサタンのようになりうるのが人間です。楽山は何も分からないのです。私たちが学ぶべきは、私たちが陰気な悪意と攻撃性詭弁の偽善者になれるということです。楽山の有り様が典型です。
 
楽山にとっては、ヨブの友人が悪魔だということにしたほうが面白いのでしょう。この友人は、私たちなのです。そして、ヨブも、私たちなのです。そうでなければ、読む意味がありません。楽山は、ヨブを誘惑する悪魔性の典型として、信仰を攻撃する悪魔性の典型として、猿真似の記事を書いています。
 
何でも他人事として眺めて批評家気取りで独り言を公開して、一歩も踏み込むことのできない無反省・無責任の楽山が、ヨブ記を読んでも、無理解が表れるだけです。楽山は、キリスト信仰に対して、初心者を怠惰な反キリストへと誘(いざな)う悪魔性を発揮しているのです。
 
 
ヨブの信仰は度重なる艱難にも揺らぐことはなく、
 
ヨブは、甚だ揺らぎます。ゆえに、自己正当化に走りました。楽山は、いったい、何を読んでいるのでしょう。また、言葉面だけ、都合のよいところを拾っているだけのようです。やさしさや丁寧に見せかけて、ネガティブな印象を吹き込んでゆく企みに乗らないでください。
 
 
サタンは敗北して姿を見せなくなるが、その後はヨブの友人の姿をして再登場し、ヨブを誘惑しているのではないかというのだ。
 
こういう筋書きのほうが、楽山のような超常ホラー好きの半端者には、面白いのでしょう。本も、聖書も、読めば、至るところで、短絡して、決めつけてきたのです。そして、考えもせずに、評価として書いてくる厚顔であります。自分で聖書を読めていないから、他者の言に頼るのです。
 
ヨブの友人たちは、建前を言い本質を語れない、信仰と救いの本質を語れない、という、私たち人間の限界を示しています。悪魔と言えば、私たちも悪魔性を持っているのです。信仰者が、悪魔ではない善人というのは大間違いです。悪魔性があるから罪を犯すことを弁えるべきでしょう。
 
 
サタンともなれば立派な説教をし、真理を語ることができるので、
 
サタンは、悪意しかないので、立派な説教など出来ません。ましてや、真理を語ることなど論外です。ゆえに、サタンは、楽山と同じように、真理や幸福に見せかけて、だますだけです。楽山は、何を言っているのでしょう。楽山は、サタンが、大好きなのでしょうか。よく似ています。
 
 
傍目には正しい人のように見えて、そう簡単にはサタンだと見破れなくなるともいうが、これもその一例であるといえそうだ。
 
その悪質な典型が楽山です。サタンの餌食になるのは、楽山と、楽山にだまされた人たちです。注意してください。楽山も「簡単にはサタンだと見破れなくなる」存在です。そして「立派な説教をし」ているつもり、「真理を語ることができる」つもりなのです。実際は、良いことを何も語れない楽山です。
 
 
また本書では、ヨブに神を呪って死ぬことをすすめた妻についても次の指摘している。
ヨブとその一家が今までたびたび述べてきたような大きな不幸に出会い、そのいわば巻き添えを食った妻の言葉としては至極もっともなことである。このような彼女の言い分は妻の仮面を被ぶったサタンの言葉と称してもよい。そればかりでなく後に登場する三人の友人のいうところもまた突き詰めればヨブに対するサタンの誘いの言葉だと見ることができよう。
(同上、p.34)
 」
こういう見方は、ヨブの妻や三人の友人たちには酷なものではあるが、ヨブ記の設定からすれば一理ある見方ではあるだろう。
 
どうも引用元の学者は、悪いことを、皆、サタンが憑りついたせいにしているようです。無理な護教に思えます。私たちは、悪意を、人間の性質の一部として持っているのです。ゆえに、原罪と言うのです。そこで悔い改めるかどうかで、悪と、信仰が、分かれるということです。
 
人間は、しばしば、夢中になって議論しているとき、真実の追求という姿勢から、勝ちを得ることに没入してしまうことがあります。その時、人間に見られるのは、希望ではなく情熱でもなく、怒気であります。これを常時持っているのが、悪魔なのです。それを楽しんでいるのが楽山です。
 
やはり、楽山が引用するだけあって、引用には、まるで、何でも悪者と見たら悪魔にしてしまうような、楽山と似たような短絡があります。このように、自分で善悪を超常の存在まで決めつける人は、楽山のように、自分を省みることができなくなる恐れがあるので、要注意です。
 
もう一度言いますが、何でも、悪い人をサタンにしてゆくのは不適切です。何故なら、私たちも、当然、著者も、サタンと似たような、悪意の人になりうる罪性を持っているからです。サタンは、悪しき誘惑の源として機能するのでしょう。そこに、どっぷり浸(つ)かっているのが楽山であります。
 
完璧な善悪の裁きは、神の専権であります。信仰者は、判断して行動し、反省して正直に祈ります。その姿勢を失ったら、楽山のような無反省・無責任・無節操・無理解・無知と無恥の者になるだけです。楽山の、その有り様は、もはや、惨劇であります。
 
 
*エレミヤ
二つ目は、エレミヤについてである。
本書では、エレミヤとヨブの共通項を繰り返し指摘しているが、たとえば、エレミヤ書、ヨブ記のうちで、本書で論じられている部分を貼ってみるとこうなる。
正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い
裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え
欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
(エレミヤ12-1)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
私は黙していられない。
(エレミヤ4-19)
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
(ヨブ13-3)
 」
この部分は通して読んでも違和感がないし、両者に共通するものがあるという指摘はもっともである。
それにしても聖書を読むと、人は神に対して頭を垂れて従うだけでなく、強く自己主張をする場面があって驚かされることがあるが、それができるヨブも、エレミヤも、とてつもない勇者であるといえるのではあるまいか。
 
楽山は「勇者」などと言っていますが、信用しないでください。楽山は、キリストも聖書も、否定している男です。小馬鹿にする台詞に過ぎません。信仰者は、神に対して正直であり、正直な祈りを心掛けます。その正直さを、全く持たないのが、楽山です。
 
いつもの、神とキリストをおとしめる楽山の常套手段です。楽山は、以前から、悲劇が起こるのは、神がいない証拠だと言ってきた人です。神に文句を言い、人が神に評価を下してよいという口実を捏造しています。楽山は、自分が幸福いっぱいに過ごせるのでなければ、神を認めない自己中の病者です。
 
エレミアは、神の言葉を伝える預言者です。ヨブは、勇者ではありません。また、ヨブは、楽山のような反キリストの悪意ある偽善者ではなく、結局、神の他には寄る辺のない正直な人間です。ヨブ記の最後に、ヨブは、そのことを知るのです。楽山からは、無知と無恥が表れるだけです。
 
 
*ヨブの強情さ
三つ目は、ヨブは強情であったが、それによって救われたという指摘である。
スイスの著名な神学者カール・バルトは「神に対するヨブの強情さ」ということを語っているということである。彼は友人に対して頑固であるばかりでなく、神に対しても強情である。しかしそのような強情こそ最後に彼を導いて救いに至らしめたものであろう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.101)
 」
 
神に対しても強情であったというより、不当な扱いをされたと思ったら、そのことを正直に、神に言う人なのです。神は応えて、ヨブは叱られました。ヨブを救いに導いたのは、強情ではなく、神であります。楽山は、生まれ育った時点で、人間になり損なった人なので、何も分かっていないのです。
 
楽山の詭弁は、学者の言から、楽山の都合のよいところだけを拾って載せてくるところにあり、楽山が賛同するときには、楽山の欲望の狙いによって選択され、ねじ曲げられ、糊塗されて、反信仰を、刷り込んでゆく手段となります。楽山は、正直でない分、ヨブより悪魔のほうに似ています。
 
 
自分は、ヨブは自己に正直であり、嘘をつくことはできなかったので、納得できないことは納得できないと言うしかなかった、納得できていないのに納得したふりをして黙ることはできなかった、それだからこそ、求めよ、さらば与えられんという如く、神を見ることができ、救われたと考えているので、これを「強情」とするのにはいささか抵抗はあるのだが、まあ三人の友人たちの側から見たら間違いなくヨブは強情に見えたであろうことは了解できるし、この表現にヨブへの親愛の情、ユーモアも含まれているように感じられるところは好ましく感じる。
 
そう言っている楽山は、甚だしい詐欺師的な嘘吐きであり、詭弁屋であります。そのことは、記事の文章に自ずと表れるゆえに、また、自分の言っていることに斬られている楽山です。聖書は、ユーモアではなく信仰の話であります。楽山は、「了解」しているのではなく、曲解しているのです。
 
「ヨブへの親愛の情、ユーモア」ではなく、真剣に言い合っているのです。実に、ピント外れの感想です。何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものを読んでいないと思います。いい加減な軽口で褒めるところにも、楽山の、おふざけで宗教に反応する読み方→生き方が滲み出ているということです。
 
こういう破綻は、出てしまうものなのです。真剣味も、真面目さも、納得も、感動も、嘘の芝居でしか表せない楽山の、穴だらけのバケツです。何度も、不可避的に、楽山は、まともなつもりで、実は、自分で自分を切り刻んで滑ってゆくだけの笑止の存在に過ぎないのです。
 
 
*アダムとエバ
四つ目は、「神の責任」についてである。
アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべきヘビの誘惑に敗れ、そこから彼らの不幸が生れた。ヨブの場合であっても、ヨブを試みることをサタンにゆるしたのは神である。もしこの時神がそれを許さなかったならばヨブはなお幸福な生活を一生続け得たであろう。彼が不幸に陥ったということは彼の責任ではなく、むしろ神の責任である。それにもかかわらず、彼はその不幸のために苦しまねばならなかった。そこにヨブ記が我々に示す大きな問題がある。
(同上、p.167)
 」
 
いつから、この著者は、神の責任を問う立場に立ったのでしょう。神の責任だけを書いて、人の罪と救いにつなげることがないなら、キリスト者の書いたものとは思えません。どうして、幸も不幸も命も死も、神の手の中にある・・というような書き方をしないのでしょう。
 
当然ながら、神は、いちいち、試練について、こうだからね、心配しないで・・みたいな説明はしないのです。人には、苦難の時、不幸の時、死する時が、必ず訪れます。そういう地上を造られたからです。キリスト教は、ご利益宗教ではありません。厳しい現実を生きる支えであります。
 
ゆえに、肉体の生も死も超えたところから、クレームだけではない、正直な祈りを待っておられるのです。楽山のようにはならないでください。人の話も、自分の言っていることも、まるで分らないまま、自己満悦する自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。
 
神が悪いみたいに書いていますが、人間の罪の性質を表すための聖書の話なのです。ヨブに与えられた不幸は、試練であり、むしろ、ヨブ記という地上の話の中で、最後に報われるのは、神に救う意志があり、ヨブが耐えたからであります。
 
ヨブに起こるような不幸も、そして、幸いも、悲しむという感情を持たない楽山のように、あげつらって自己満足の沼に嵌ってゆく反キリストにならないように、この楽山の記事という惨劇があるとも言えるでしょう。楽山を相手にしてはいけません。
 
結局、楽山の狙いは、神の責任、神の責任、自分の不遇も神の責任と、言い張りたいのです。神の責任と言って、何か解決するのでしょうか。神はいないという自分信仰が救われるでしょうか、否です。ゆえに、楽山は、人をおとしめるだけで、何の救いももたらさない反キリストになってきたのです。
 
 
これは神義論に関わる問題なので、ほとんど解決不可能であるように思うけれども、だからこそ考えないではいられないのだからおかしなものである。この問題に興味がない人にとっては、どーでもいいことなのだろうけれども、自分はまだ関心を失ってはいないので、もう少し追いかけてみたいと思う。
 
神義論ではなく、神は与え、また、取りたもう、という神の全能と、人間の弱さと限界についての大きなテーマの、ヨブ記なのです。神義、即ち、神の正しさを、地上で、人が理解することはないでしょう。信仰者は、キリストの共感に捉えられ、共にいたいから、祈り続けています。
 
敵意と悪意ある楽山が、知性も感性もなく、人間としての共感もなく、単純に、神はこんなに残酷だぞ・・という先入観を刷り込もうとしています。実に、良心のない、罪悪感のない、問題の大きさを感じ取れない、ボンヤリ鈍感の楽山らしい引用と記事です。
 
ヨブの悲劇は大きいですが、悲劇というのは誰にでも起こり得るものです。その時、人は、信仰者は、どう考えるかという重要な問題を投げかけています。理解も感受も拙劣な楽山のような者が、いちゃもんの材料にするような軽薄な話ではないのです。楽山は、何の解答もヒントも救いも用意していません。
 
著者は、思い上がった人物なのでしょうか、それとも、楽山の引用の仕方がおかしいのでしょうか、幸福を世俗的基準で決めつけて、さらに、ヨブの不幸が神の責任と言っています。人間の中で、神の責任を問える者などいません。神が試練として与えたとしか言えない話です。
 
人が、神の責任を問う、などということは、神を恐れない者の発言です。人は、不当だと思う成り行きについて、なぜ、どうして・・と、正直に祈る他はないのです。そこに、人の作る辻褄など、全く成り立つ余地はないのです。人が、神と、同格に、責任問題を語れるという傲慢の所業であります。
 
聖職者であろうと、神学者であろうと、功労者であろうと、全面的に信頼して鵜呑みにしてはいけないという例になるでしょう。神の責任を問いながら、併せるべき神の愛を説いていません。楽山が、都合のよい一部だけを引用しているのかもしれません。楽山が、よくやることです。
 
著者は、楽山に飛びつかれ、気に入られて、吸い尽くされそうな人物です。しかし、護教主義でもない私には、この神学者を弁護する義務はありません。悲劇からのサディズムもマゾヒズムも、人間には、いつ起こっても不思議はないだろうが、欠片ほどの信仰が残るかどうかという話です。
 
ヨブ記は、神と人の関係のうち、神の全能の権威が、試練と救いによって、人に及ぶことを表している話です。楽山は、自らの罪悪について考えず反省もせず、いつまでも聖書を理解できない反キリストだから、他者を悪用してでも、けなすだけでしょうが、信仰者は、深く理解するべきところです。
 
記事全体としては、楽山というサタンのような者が近くにいて、追従と誘惑によって、道を外れる犠牲者がいるのではないかということを強く暗示しています。神義論に関わることではなく、どこまでも、楽山という悪意の者の謀(はかりごと)を暗示するだけの記事を、楽山が書いているわけです。。
 
楽山は、学者までも、真実追求ではなく、自我の欲望に従って、都合のよいところだけを漁って拾って、使いまくります。楽山の底知れない闇が、また犠牲者を求めています。信仰について、何一つ理解していないのが、楽山です。決して関わらないでください。近づかないでください。お願いします。
 
 
悲劇と信仰・・

悲劇と信仰
 
 
(2022年)
(2023年01月31日、再録+加筆)
 
 
 
  偶像
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
 
むかし通って
洗礼を受けたのは
プロテスタントの教会だから
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛るイメージの戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
 
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
信仰者に対する無神論者の批判は「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない。単に、「自分の主張が真であると主張したいのなら客観的根拠を提出しなさい。それができないのなら、根拠の無いものを真実であると語るべきでない」と言っているにすぎない。基本的なモラルの問題なのだ
 
真実は、事実と違って、心を、共感をもって揺り動かす原動力であります。神について「客観的根拠」などと言っている時点でアウトなのです。何も分かっていないのに、思い上がりだけで、上から目線で、ケチだけを付けてくる楽山は、恐らく、一生涯、何の幸いも知らずに終わるのでしょう。
 
心の問題に「客観的根拠」などはありません。上の考え方は、楽山と同じように、とても幼稚です。神は、人にとって、論や証明の対象にはなりません。信仰は、神と、神を必要とする個人との関係です。神を客観的に見るには、神以上の次元が必要ですが、それを持っている人間はいないのです。
 
無神論などと言って論になる学問は、正当には存在しません。神を信じるに至る体験もない非信仰者や背教者に、とやかく言えることではありません。神は、人の論では語れません。楽山は、インテリぶりたいがための屁理屈を集めたものを無神論と呼んで、気晴らししたいようです。
 
神の問題は、決して「基本的なモラルの問題」ではありません。そう見せかけて、客観的根拠があるはず、答えるのが当然、答えられないなら、神はいない、と誘導するための詭弁です。こういう成り立たない組み立てで、怖い話にしてゆくのは、勝ちを欲しがる偽善者の手段です。
 
神が存在する客観的根拠は、人の側にはありません。希望に対する感受性のない無神論者は、引っ掛け論法として、この疑問を、いつまでも、ぶつけてくるでしょう。しかし、神がいないという客観的根拠もないということです。無神教カルトには永遠に根拠など無いのです。
 
サイコパスが跋扈(ばっこ)するような地上を生きるために神を必要とする人には、証明も根拠も要らないのです。楽山のような無神教カルトだけが、根拠、根拠と、問うてくるのは、無神論者には、神もなく、正義もなく、生きる根拠も欲望以外にはないので、自らの不幸の憂さ晴らしに過ぎません。
 
思うとおりにならないと怒り出したり、恨みを募らせるのは、サイコパスの特徴です。しんみりと反省するような悲しみの高等感情がないからです。サイコパスに理路はありません。嘘と詭弁と誘導だけです。楽山がその例となっています。楽山に、真っ当な理路はありません。実感がないからです。
 
神の存在は、史実によっても、論理によっても、証明できません。信じた人の心の変化に表れることです。絶望から希望へ、死から命へ、無思考から思考へ、闇から光へ、氷結から温もりと潤いへ・・この変化は、楽山などの無神教カルトには、起こらなかったし、これからも起こることはないでしょう。
 
楽山などの反キリストを無神教カルトと呼んでいます。高ぶりだけがあって、根拠、根拠と、同じことを言ってきます。カルトの豪語に似ています。証明できないから、平気で言って、追いつめたつもりなのでしょう。神は人の論理にはなりません。ということは、無神論も論理にはならないのです。
 
「「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない」「客観的根拠を提出しなさい」に、決して乗ってはいけません。無神教カルトは、根拠と史実の証明しか考えられないのです。それで、信仰を、神の存在を、示せるでしょうか、否です。客観的根拠があれば信じる必要はないのです。
 
論理的に、または、史実において、神は存在する根拠はこれだ、などという説明で、神を信じることはないのです。全くプロセスが違います。無神教徒は、心で受け取ることができないので、信仰を感じずに、決まり文句のように、神はいない、いるなら根拠を示せと、意味もなく問い続けるのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても誤っても何も気にしない楽山です。嘘で欺き詭弁で保身しデタラメを刷り込んできます。訂正も反省もせず、人間性を、ネチネチと否定し続けます。それを誰にでもあることのように「人間の性」で済ませようとするに至っては、もはや、サディストの、人でなしとしか言いようがないのです。
 
サイコパス、自己愛性または反社会性人格障害、精神病質と呼ばれる異常人格は、好都合に笑い、不都合に怒る、という単純な原始反応で生きています。悲哀への共感がなく、反省せず、責任を負わず、人の言うことを無視し、悲しむことがなく、悔いることがなく、ゆえに、犯罪に結びつきやすいのです。
 
 
 
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  楽山=無神教カルト
   (過去記事を再録+加筆)
 
 
楽山が引用してきた無神論は、「神の不在は証明できない」に対して「神の存在は証明できない」ことをもって「神が存在する根拠を示せ」と言い、「根拠が無いから神は存在しない」という結論のようです。しかし、神が存在する根拠があるなら証明されたのだから、信じる必要はないのです。
 
人間に存在の根拠を示すことが出来たり、人間の論理で証明できるような、安っぽい捏造の神?は、巷にも、そして、キリスト教内部にも、溢れているような気がしますが、それは、キリスト教とキリスト信仰の神ではなく、カルトの神?であります。つまり、心のない楽山の曲解上の神?なのです。
 
さらに、神を、人の論理で扱えると思うこと自体、人の傲慢であり、その時点で、無神論は、論理の破綻をきたしています。不完全な人が、完全な神を、理屈で扱い、その在か不在かを語るなら、それは、捏造した神?であって、どちらを証明しても、聖書に表された神とは全く違うものです。
 
無神論は、成り立ちませんが、同様に、有神論も、成り立ちません。神の存在を証明することなど出来ません。人の論理で、神は存在したり、しなかったりする御方ではありません。つまり、信じる人にとってだけ、神に対する信仰は、希望が個人に与えられることです。信仰の邪魔をしないでください。
 
タイトルに、無神教カルトと書いたのは、神はいないという乱暴な信念を持つ集団ということです。その間違った思い込みは、カルトに負けないくらい、憎しみを伴って強く確信されているようです。無神教カルトは、論とは言えず、楽山の怨念を表していると思います。
 
そして、無神教カルトは、理屈のようなことを言ってきますが、人の理屈で語ることが、そもそも、神については成り立たないので、苦し紛れに、聖書を、ベースから取り違えて、曲解した結果なのです。加えて、楽山の記事から察するに、その曲解の程度は、カルトに劣らないほど頑迷~悪質です。
 
無神教徒が、神を否定するなら、神に代わる救いを提示する責任がありますが、いくら理屈を整えたとしても、信仰に代わるような福音にはなりません。辻褄合わせをしても、癒しにも、慰めにも、救いにも、愛にも、共感に、至ることはないでしょう。彼らによって誰も救われることはないのです。
 
 
信仰の根拠は、論理や史実の整合性にあるのではなく、共感と癒しとにあります。つまり、理屈ではありません。人間に、人間らしい温もりと潤いを与えるのが信仰です。キリスト信仰者は、神という存在が整っているから信じるのではありません。神の整合性を人は知りません。
 
信じるに足るものなど、この地上に在るとは思えなくなった人にとって、聖書の、キリストからの共感に、人としてキリストへの共感に至ったから信じる、という言い方になります。聖書から、キリストが、洞察力と共感性に溢れた御方であることを知って、信仰に至るのです。
 
旧約聖書の神の業(わざ)や、新約聖書のキリストの奇跡のうち、物や肉体への奇跡は、超常現象であり、超常を、人の日常が理解するのは、理解の実感が伴わないので不可能です、物や肉体の奇跡は、信仰に直接つながる実感を表してはいません。現代、次々に起こっているとも思えません。
 
ゆえに、聖書に書いてある超常の奇跡については、"分からない" と答えるほかはないのです。分かるのは、人間性によって受け取ることの出来るもの、つまり、人間として共感できることだけです。超常は人間には分からないことであり、神を恐れよ・・という信仰のベースであります。
 
物や肉体の奇跡によって信じ込むのは、非現実を信じ込むことになり、陶酔気分から、ありがたや宗教になって、現実を疎かにする危険があります。分からないことは、神に向かっても、人に向かっても、分からないというのが正直なのです。それで信仰を捨てるなら、元々信仰だったのかが疑問です。
 
キリストによって与えられる癒しと慰めは、現実にあって、避け所として、祈りの時と場を与えます。それは、自動的に続くものではなく、折々の祈りによって、絶対孤独からの解放として与えられるものです。祈りを受け取る神は、聖書の神であり、全知全能・絶対完全・永遠不変と信じるゆえの祈りです。
 
神の属性である全知全能・絶対完全・永遠不変は、どれも、人には手に負えないものばかりです。しかし、手に負えないことがあると知ることで、人間としての不完全、即ち、罪の性質を知ることになるので、神の怒りや裁きの話と同様に、信仰の弁えとして大事なことです。
 
 
砕かれて信仰 固まってカルト

砕かれて信仰 固まってカルト
 
 
(2022年01月27日)
(2023年01月30日、再録+加筆)
 
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
   (キリスト以外の
    神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
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1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無神教徒になる人には、キリスト教の先入観に対する反発があるのかもしれません。あるいは、クリスチャンの家庭環境からの誤った押し付けに対する反発もあるのかもしれませんが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、反省力や罪悪感が育たないこともあるでしょう。
 
あざ笑いと怒りに生きる病質には、悔い改める、ということが、理解できないのかもしれません。ゆえに、嘘を吐き、詭弁を弄し、それが通用すると、万能感が生まれ、芝居をするようになり、不祥事にも「反省。とほほ」などと言って、気安い嘘の手当てが通用すると勘違いするのでしょう。
 
 
 
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  失敗と悲しみ2
 
 
後半は、昔書いた詩のようなものですが、数々の失敗を抱えて、歩いてきた悲しみの道の、さらに先に、ようやく成長の意志と足跡があり、小動物に喩えたくなるくらいの不完全で罪深い人間がいて、召される日までを過ごしているのです。
 
「フットプリント(足跡)」という詩があって、キリストが自分を背負ってくれて、足跡が一人分になったという感謝と讃美の詩ですが、それが、自分の小ささや弱さ ≒ 罪深く不完全な自分という自覚がない者によって、自己正当化の根拠として悪用されるということを知るべきでしょう。
 
実際に、この「フットプリント」を載せて、悦に入っていた最悪の偽牧師の偽善者がいます。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」と言って、馬脚をあらわしました。全く悔いることがなく反省しない自己中でした。
 
私は、フットプリントのような気持ちよくなる詩よりも、罪深さの自覚を促すような悲しみの詩のほうが好きです。感謝と讃美につながる詩よりも、人間の罪を何かに喩える詩のほうが好きです。人間が成長するのは、悲しみのうちに、思いを深め、考えるときだからです。
 
 
 
  二人の背教者(創作、一部加筆)
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々は戸惑った。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。
 
他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が狼狽しつまずいた。あるとき、裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
「あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。
 
それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。しかしあなたは誰もが知るところで公然と「神はいない」と言った。ゆえに、誰もが知るところで公然と批判されるのは当然のことなのだ。
 
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。
 
あなたが、彼らに会い説得し、彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い、信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。」
 
 
 
  悲しみの大切さ
 
良心の表れとしての悲しみを感じないのがサイコパスです。その代わりに、悪意の感情として、怒ったり、笑ったりします。
 
悲しみなんて笑い飛ばそうなどということが言われることもありますが、悲しみは、ないほうがよいものではなく、人間が成長するために、いちばん大切な感情です。自分を見つめる最大の機会なのです。
 
悲しい時にこそ、人間は、悔いたり、反省したり、過去も現在も未来も、もっとも純粋な気持ちで、考えることができるのです。キリスト信仰者にとっては、必然的に、考え、祈る時なのです。
 
悲しいとき、涙も出ない呆然とした時が過ぎて、涙が止まらないほど泣く時を過ぎて、涙がじんわり浮かぶ時が訪れたら、しんみり、悲しみ、じっくり、考えてください。悲しい時は、成長の機会なのです。
 
 
かなしみは成長の機会 悲しみを学習する

かなしみは成長の機会 悲しみを学習する
 
 
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月29日、再録+加筆)
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
 
  航海のあと
 
どだい長い航海など
できそうにないような
今にも沈みそうな船に乗り
ちっぽけな癒しの心を懐に
小さな港から船出する前に
わかっていたはずでした
 
よく聞こえない聴診器に文句をつける前に
よく聞き取れない耳を
聞いたまま口をあけっぱなしの頭を
打ち砕くべきだった
 
船が傾いているのを
人が引き止めるのも聞かずに
海が傾いている
と言ったときには遅かったのです
 
船の残骸といっしょに
小さい島にいます
小さいものにばかり縁があるらしい
小さい懐には濡れて乾いた
小さく縮んで恐らく
他の人にはわからない微かな匂い
まだ残っています
 
悪いことばかりじゃなかったよな
と次から次に
波が笑顔に見えることがあります
 
島には地平がなくて
毎日消えてしまう足跡の
浜を除けば島の輪郭は
どこから見ても海に落ちているのでした
 
最初船出したときから
いつ海の深い水底へ
引き込まれてもいいつもりでした
覚悟が観念に変わっただけです
 
でもどうしてでしょう
波の穏やかな日にときどき
急に真顔になって
水平線を睨みつけているのは
 
 
 
  黒く細い道
 
昔どこまで続いているのか分からない
黒く細い道があった
どこか人里離れたところへ
向かっているようだった
幾度か足を踏み入れそうになった
 
しかし早々とその道へ
行ってしまった人を見送りながら
その余りの正直さを
脳ミソが沸騰するほど憎んだので
狡くなってやろうと無謀にも
抗うことに決めた
 
明るく広い道を選んだつもりだった
でも本当は人里離れた所で
絵でも描いていたい暗く細い体は
場違いな明るさに
外側から腐ってゆく脳ミソを抱えて
漸く手に入れた紙切れに乗って
随分と長い間
違う感じの人々の場を奪っていた
 
今になって
あの黒く細い道を行くと体は
内側から腐ってゆく脳ミソを
抱えることになるのだろうか
 
でも黒い道から這い上がって
元の道に戻る人もいるし
光差す土色の丘へ
登ろうとする人々もいるし
 
あの沸騰もなくて最初から
細い道を辿れば
いずれ落ち着ける場所があって
今頃は何ものにも縛られることなく
誰も見ない絵を描いて
のんびり過ごしていただろうか
などといろいろ
首を引っ張ってみたり
髪を引っ張り上げてみたりするのだが
似たようなものだ
今は人々の場を離れて
明るくもないが黒くもない
道とも呼べそうにない
広さも長さも測れない所を
白髪が増えてゆくから多分
進行しているのだろう
 
いつかあの道とまた交わるだろうか
今度は正直に歩けるだろうか
腐る腐らないは道によるのではない
道は踏まれる所に出来るものだ
 
 
 
  祈り・実感を
 
もうしばらく傍(そば)に
いて下さいませんか
 
さびしい
と声に出してしまいそうですから
しかも調子外れの怒号のように
すでに出しているのです
 
でも声帯は震えているものの
咽喉(のど)の吸い殻の
泡沫を振動させて
歯間を開閉しているだけなのです
 
いつも傍にいて下さる
と教えられるだけでなく
すべての体液が覚えるほどに
染(し)み込ませることが出来たなら
 
ずぶ濡れになった厚紙の五感のために
五臓六腑に満々と
湛(たた)えられた廃液のために
動きの取れなくなった五体も
眠りすぎた疲労も
声なき吠(ほ)え面も
澄んだ自虐のうちに
然(しか)りは然り
否(いな)は否
と捌(さば)き捨てて
液体へ気体へ
 
霧散・昇天お許しを
流れるままに乞いゆきましたものを
 
 
 
  歌えない傷
 
モチーフモチーフと
擦り合わせる空白だけは持っている
 
涸れた乾いた干割れたと
よく効く軟膏を欲しがって
塗られたがる傷だけは持っている
 
すこぶる順調です
歌えないことをモチーフに
空白を合わせて塗り固めて
設(しつら)えた線路は
白い海に向かっていて
レールは汽車を乗せ
汽車には傷が乗り
傷は何も乗せていませんから
 
 
 
  土竜の太陽
 
土竜(モグラ)は穴を掘る
何の必要か穴を掘る
土竜は平気で土をかぶる
日常たいてい土の中
だから目なんか目じゃない
目なんかなくても夢を見る
 
曇天の下の下から
太陽の夢を見る
土竜の太陽は眩しくない
眩しさは疾うに捨てたのだ
直向きに只管に
土竜は土竜の太陽を探す
土を盛り上げ掘り進む
潜り込んで掘り進む
 
人間は眩しさを求めて穴を掘る
土竜は眩しさを捨てて穴を掘る
 
わざわざ重労働なんてこともない
土竜は穴を掘る必要がない
死んだところが墓穴だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。しかし、心を持たず無反省と無理解のまま言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
 
 
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  楽山の限りない悪意2
 
 『あさっての風』三浦綾子著
 2022年01月15日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、書く衝動を抑えられないようです。楽山の書いたものは、誰かを救うことも誰かの糧になることもないのですが、楽山は、書ける人、物を言える人を、気取ってきます。これほど無反省で無分別の醜態は、病質でしか説明できません。
 
 
*概要
これは三浦綾子のエッセイ集である。キリスト教の信仰について書かれている箇所もあるが、副題に「あなたと共に考える人生論」とあるように、おおむね人生について語られており、善く生きようとする人であれば、宗教の別に関わりなく、誰もが興味を持って読めるものになっている。
 
誰とも、独りでも、考えることをしない楽山です。楽山は、学習できず、偏見と先入観しかありません。その結論から、嘘と詭弁を書いて騙してきます。誰もが読める本も、楽山だけは、曲解して、自分の都合に合わせてゆくのです。楽山には、興味をもって読めるなどと人に勧める資格はありません。
 
 
自分の場合も本書を読んで、さまざまなことを考えさせられたのではあるが、ここではそのうちの三点ほどメモしておきたい。
まず一つは、日記についてである。自分は三浦綾子の本に触発されて日記を書くようになって二十年以上は経つのであるが、迂闊ながら、その本のタイトルを長らく失念したままだった。
 
楽山は、いったい何歳なのでしょう。20歳の若者に成りすましたり、学者に成りすましたり、今度は、「日記を書くようになって二十年以上」だそうです。プロの詐欺師ぶりです。そうやって楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が不治であることを示すことになるのです。
 
 
でも今回それが本書であることが分かった。自分は、本書に収録されている「日記のない青春への疑問」を読んで、日記を書き始めたのだった。このことを確認できたのは再読の御利益かな。
 
嘘だと思います。そのような正当な動機は、悲しみを知っている心からしか生まれません。楽山は、まさに、それを失っているのです。動機を確認して、それを「御利益」などと言っていることが、傍証になるでしょう。楽山は、大方、言ったことのどこかに、偏向した世界の用語を漏らします。
 
 
*夢
もう一つは、神秘体験についてである。著者の夢には色や匂いがあるそうだ。いつか硫黄山の夢を見たときは、目覚めた後の室内も硫黄臭かったという。また睡眠の前後には種々の幻覚が見えるともいう。不思議な話だ。
 
楽山は、著者の信仰を、夢や幻の神秘体験の超常信仰でしか語れないようです。有名人に対しても、貶(おとし)めを制御しない楽山が、他者一般に、中庸であるわけがありません。今となっては、自己中からの狂気に近い悪意で、他者を決めつけ、おとしめてくるので、決して、関わってはいけません。
 
 
そういえば著者のエッセイで、虫の知らせについて書いたものを読んだ記憶がある。ある冬の夜、凍結を防ぐために水道の蛇口を開きっぱなしにしてたら、なぜか突然水が止まり、少ししてまた水が流れ出したときがあり、同時間にさる方が亡くなっていたのが後で分かったというような話だったかと…。著者はオカルト的なことはあまり書かない方だとは思うが、不思議なことがあるということまでは否定はしないということなのだろう。
 
著者が「あまり書かない」神秘体験を、楽山は取り上げて、信仰は超常を思い込むことだというイメージの先入観でしょうか。不思議なことも、ときに起こり得るでしょう。しかし、楽山のように、有名人さえ論ってネタにしてきた無遠慮は珍しいでしょう。
 
もはや、ただの意見発表とは違います。真実を追求する人々を滅ぼしたいという衝動です。ルサンチマン、という、不遇に対する憎しみの発露なのでしょう。こういうことを、ずっと、続けておれば、自らの知性も感性も、自らの悪意によって食い尽くされてゆく宿命でしょうか。
 
 
*人生論
三つ目は著者の人生論には大いに賛成できるということである。宗教観、信仰観については、自分はキリスト教徒ではないこともあってか必ずしも賛成できることばかりではないのではあるが、人はいかに生きるべきかということについては素直に肯けることばかりである。この点、自分にとって本書は人生について様々なことを教えてくれる、とてもよい本である。
 
楽山は、誰からも、真っ当な影響など受けることはありません。他者の意見から有意義なものを受容する精神が既に壊れています。楽山は、自己愛性人格障害のフィルターを通してしか見ないのです。楽山を、決して信頼してはいけません。楽山の丁寧語の嘘と詭弁に、だまされないでください。
 
楽山は、どこからも評価されないゴミ溜めから単方向に排泄してきます。詭弁は、詭弁臭を、嘘は、言葉の腐敗臭を、悪意は、悪臭を放つようになってゆくということです。こちらは、楽山から出てくる悪意の文章を、どこが臭いか、どこが悪意か、その都度、指摘して書いてゆくだけです。
 
楽山は、人を傷つけて悔いない体質的異常者です。他者を下に見て満悦する人です。「人それぞれ」「自分を貫く」「意見を言ってはいけないのですか」と言っていましたが、すべて詭弁です。だまされないでください。3つの言葉は、責任感のある人間についてであり、異常者に当てはまることはないのです。
 
 
闇の眼は歪む

闇の眼は歪む
 
 
(2022年01月)
(2023年01月28日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己愛性人格障害者は、世辞や嘘が習慣になっていますが、素直さ正直などは一切ありません。どんな卑怯なことをしても罪悪感を感じません。策略だけで、だまして生きています。楽山は、他者を平気で無視できる心性なので、自らの無知と無恥に気づかないのです。悲しみを知らないからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
  呼べない名前
 
残された光の中を
危うく滑り込んできた
いくら見つめても 夕焼け
見つめ返してくれるはずもないのに
またここへ来て今更のように
呼べないものを呼んでいる
他に誰がいよう
めぐる日は明日を教えず
生きている今の一瞬 と
思う時すでに過去なのだ
 
過ぎ去ったお伽話が呼ぶ
砂のめぐりも絶えて
何処の静脈を流れる
知られぬまま古びた血よ
 
また帰る日もないものを
人はまた呼ぶであろう
暗闇の前の熱い血の光に
ひととき心を染めて
呼べない名前を
たそかれ と
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
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  固定観念3
    加筆して再録。
 
 
楽山の文章から平板な宗教概念しか受け取っていないことを指摘しても、宗教や信仰を知っているような固定観念からの見なしを語る癖をやめない楽山です。楽山の本質は、無宗教ではなく、反信仰・反キリストだと思います。
 
信仰は自分を空しくすることですが、楽山は、他者も、思想と宗教と信仰をも、自己中心に、自己の下に置いて、上から見ている姿勢と態度しか表れてきませんでした。
 
楽山の、もう一つの大きな罪は、楽山というHNです。"楽山" は、中国の観光名所であり、多くのサイトやブロガーが、HNや記事に利用しています。さらに、
楽山が、多くの善良な "楽山" の中に、紛れ込んでいること自体が、狡猾な悪意だということです。
 
 
  ふりだしに戻る(抜粋)
  2019-12-30NEW !
 
 
思想宗教は、青年期以降にいろいろ凝ったり、かぶれたりもしたが、結局はもとの無宗教に戻ってしまった。自分にはやはり特定の思想宗教によって定められた教義や価値観に則って考え、行動することはできない。
 
宗教は信仰のためにありますが、信仰は、教義や価値観に従って考えたり行動したりすることではありません。メニューの中から、気に入った思想内容を選んで信じ込むのが信仰だと思い込んでいて、いつも、自己中心の思想からしか見ない楽山のような人には、届くことのないものです。
 
 
一巡した後で、元に戻ったというのは、そう珍しくはない話だけども、どうも自分もあらゆる面でそうなっているらしい。元に戻ったというところだけをみると、それまでのことは無駄であり、徒労にすぎなかったようにも思えてくるが、ずっと同じところにいたのと、いろいろなところを巡って還ってきたのとでは、大分ちがうだろうし、経験という点では益があったと思いたい。
 
「あらゆる面で」「元に戻った」なら、楽山には、成長がないということです。その原因は、体質的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による無反省と無学習ということになります。実際、楽山には、そのような、嘘と詭弁の証拠だけが明らかになってきました。
 
楽山の一巡は、いろいろなところを巡って、自らの固定観念という基準で、気に入った商品はありませんでした、というような受け取り方ですから、信仰とは、また思想としても、物見遊山の散歩をしてきたに過ぎず、どう告白されても、意味はないと思います。楽山は一歩も進んでいないのです。
 
楽山は、信仰とは関係のないところを堂々巡りしているだけなのです。そのような態度では、救いにも恵みにも気づくことはありません。そのことに、まるで気づかずに、我執によって、ペンを控えることをしないのが、楽山の高慢の表れです。そういう人には信仰は生まれません。
 
 
 
  罪の意識を利用して、人を操る?
  2019-12-30NEW !
 
 
加藤諦三さんの本はあんまり読んだことはないが、ツイッターに流れてくる言葉を読んでると、なるほどと思えるものは多い。たとえば、これとか。
(加藤諦三bot @心理学@katotaizobot )
相手の言うことに逆らったり、抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう時には、相手は要注意人物である。多くの人は罪の意識から相手の言いなりになる。そこが相手の付け目なのである。
 
楽山には罪悪感はないと思います。今まで見たことがありません。そういう人こそ、要注意人物であります。それはサイコパスの性質だからです。4年批判してきて、もはや、楽山は、ネットの言論のレベルにも、いてはならない人だと思います。
 
「抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう」なら、まず、自分の理非を考えるべきですが、楽山は、ダイレクトに、「相手は要注意人物である」と言っています。これこそが、楽山が、自己正当化の妄想者である証拠です。いつも人のせいにする人です。
 
つまり、要注意人物の楽山が、要注意人物を指定して批判しているのです。
 
キリスト信仰では、罪の意識は、神に対して持つものです。楽山のような、人をだます詭弁屋に罪の意識を持ってしまうと隷属しかなくなります。決して、楽山を、まともに聞いてはいけません。
 
 
こういうことは考えたことはなかったけど、過去を振り返ってみれば、「これを断ったら可哀想かな。冷たすぎるかな…」とか、「前にも断ってるし、そう何回も断るなんてできない」なんて考えてしまって、断りたいのに断れないという困った状況になったことはあった。
 
困った状況になるのは、楽山が相手の意見を平気で無視する自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害で、受け取って考えて必要なら反論か弁明をするということが全くできない無反省だからです。楽山は恐ろしく自己中で残酷な病質者で、騙すために丁寧語を使う人格障害者です。
 
 
上のツイートのような見方を知ってみると、それこそが相手の狙いだったのだろうか。考えてみれば、そういう時の相手はやっかいな人が多かった。申し訳ないけどできないと断ると、怒って噛みついてきたりとか…。
 
「怒って噛みついてきたり」・・楽山こそが、被害者意識しかない欠格者であります。むしろ楽山の特徴です。これは、だますための芝居です。楽山の自己中、自己正当化、不祥事は全て人のせいにするという病質の表れです。どんどん白々しさが明らかになってゆきます。
 
「冷たすぎるかな…」・・「かな」ではなく、楽山は、共感からの思いやりのない冷たい人です。それを隠すために、「かな」とか「断るなんてできない」と書いて、思いやりのあるふりをして、そのあと「やっかいな人」と書き、相手を「怒って噛みついてきたりとか」などと、結局、否定するやり方です。
 
宗教を、ホラー映画の超常や、世辞や社交の関係でしか考えない楽山です。真実の追求という大きなテーマにおいては、しっかり受け取り、真剣に返すことが大事になりますが、楽山は、趣味や道楽としてしか見ていないのです。その上での理屈遊びなので、何も実はないということです。
 
楽山は、人を思いやることができない人です。約3年間の言説に見られたのは、どこまでも自分基準で物事を訂正不能に決めつける狭量だけです。楽山こそが「やっかいな人」なのです。
 
「可哀想かな」「何回も断るなんてできない」なんて、真っ赤な嘘の芝居です。「断りたいのに断れない」・・いいえ、気に入らないことは、総て平気で無視する人です。
 
楽山は、自分が無反省かつ無責任であることを指摘されて弁明できないために、相手を、いじめっ子のような立場に、おとしめて否定し、被害者面をして同情を引くために書いている詭弁の悪口に過ぎません。こちらが言いたいことを、逆に、先に、こちらに向けて言い逃れとするペテン師なのです。
 
 
なんだか、そういう狙いで圧迫してきていたのだとすると、断ることに引け目を感じていたことがバカみたいだ。よし、今度からは、断る時には余計なことは考えず、きっぱり断ることにしよう。
 
このように、楽山の結論は、断ること、無視すること、聞かないこと、否定することに、全く、引け目を感じない自己正当化になっています。何か言われると、肝心なところは無視して、まわりくどく、相手をおとしめてくるのが、楽山の常道ですから、相手にしないでほしいと思います。
 
断るか否かの前に、上に書いたような、思想を、まるで品物でも選ぶような態度なら、宗教も信仰も語る資格はないということです。楽山には、知らない、分からない、という謙虚ということに相応しい自覚が、まるでありません。まさに、無反省の自己中の高慢が特徴です。
 
楽山のように、宗教・思想・政治・人生というような大きなテーマについて、勝手なことを書いて、責任は負わない、反省はしない、ということでは、いかなる話し合いも交流も言論も成り立ちません。
 
否定を書いて、あとで肯定のようなことを書き、どちらとも断定していないから責任問題は発生しない、などと言っていたのが楽山です。楽山に対しては、非常識で病的な精神から病的疲労を与えるだけの病原として批判して楽山の情報を積み上げ、相手にしてはいけないことを広めるしかないのです。
 
宗教・思想は、思い付きで辻褄合わせ・噂話・世辞・悪口を語ればいいようなテーマではないのです。未熟ならば、その自覚を持っていなければならないところで、恐ろしく未熟なのに知ってるふうを装い、誰よりも高慢な決めつけを当ててくるのが、楽山です。
 
 
蛇足ながら、メタリカのドキュメンタリーを見てたら、ジェイムズ・ヘッドフィールドが歌うことをきっぱり拒否する場面があったのだった。自分は喉が痛い、もう限界だ、だからこれ以上歌うことは御免こうむると。
自分はどうも根がどこまでも優柔不断でお人好しにできているようで、取り付く島もないほどきっぱりした拒絶は気が引けるのではあるが、今度からはジェイムズ・ヘッドフィールドになったつもりで、断るべきことは断ることにしたい。
 
まず、ミュージシャンが歌うのをやめることをあげて、楽山が反省せず責任を負わないことを、、同次元で語ることは出来ません。信仰を知らないのに信仰を語るという酷い詭弁の偽善者が楽山です。楽山は、書けば、的を外してばかりです。楽山は、人が悪いどころではなく、明らかに害毒です。
 
楽山は、はっきりした意見を持てない人です。楽山は、決してお人好しではなく、悪意の因業の病質者です。信仰を、軽く扱って書いて、おとしめて、気持ちよくなりたいだけなのです。楽山に出会うことは、不幸そして不運ですが、受け入れると、精神の疲労から自分の人格を損なう恐れがあります。
 
 
 
  宗教の押しつけ
  2019-12-30NEW !
 
 
・海外「日本人はキリスト教徒的なのに…」 カトリック司教が語る日本での布教の難しさが話題に|パンドラの憂鬱
コメント欄を読むと、宗教の押しつけに対する嫌悪感はすごい。一神教もイメージはよくないようだ。
信者側からすると、私はこれで救われたという思いや、これこそ正しい宗教だという確信が強いほど、布教活動に熱心になるのだろうけど、一般人からすると、熱心に宗教をすすめられるほど、たとえそれが善意によるものであったとしても、押しつけと感じて迷惑するのだろうから、布教活動にまつわる問題はややこしい。
 
押し付けの代わりに印象操作による誘導を、善意の代わりに嘘と詭弁を、生業としているのが楽山です。もはや、いかなる許容もしてはいけない人だと思います。人格障害者の楽山を、人格として付き合うことが禁忌なのです。
 
「一神教もイメージはよくないようだ」・・これは、明らかに、キリスト教などの一神教の悪いイメージを刷り込む印象操作です。楽山が身に着けてきたことは、真実追求への深い思考ではなく、嘘と詭弁だけの誘導だということが、明らかになってきた約4年間でした。
 
楽山は、いつものように、反宗教・反信仰の宣伝に専念して印象操作をしています。楽山は、一般人ではなく、宗教と信仰に強い偏見を隠し持っている無神教カルトなので、一般にとっても、特別に、特殊に、有害だと思います。まともに交流も議論も出来ない人で、関わってはいけない人です。
 
一部の刷り込み屋の詭弁をもって、信仰全体を否定することはできません。批判には、信仰を、ある程度、人間として常識的に理解しておくことが必要ですが、楽山は、宗教・信仰に、ケチを付けようと、悪い例だけを漁っているのでしょう。自己愛を満足させることだけを本能としている体質です。
 
 
実際のところは、信仰観は人それぞれであってそれを一つにまとめ上げることは不可能であろうし、もし仮に唯一の正しい信仰があったとしても、人がそこに辿り着くには各人に定められた時があり、その時が来るまでは周囲がいくらやきもきしたところでどうにもならず、その時を早く招き寄せようと焦って働きかけても相手の心を頑なにするばかりでかえってその時を遠のかせることになりがちでもあり、結局は周囲にできることはその時が来るまで見守り続けることくらいしかないのだから仕方がない。
 
楽山が「仕方ない」で言い逃れしようとも、隅から隅まで、詭弁のペンキを糊塗してくる楽山は、生きている間、批判の対象にしかならず、交流の対象にしてはいけない人であり、楽山が寄ってくるなら、きっぱり遠ざけるしかありません。それは、楽山に誰も近づかないように批判を公表することです。
 
楽山は、浅はかな曲解で悪口を言ってきます。これからも、宗教と信仰に、楽山のような病質者が介入して余計なことを触れ回ることでしょう。楽山は、混乱と疲労を人に与えますが、理解もヒントも与えることはありません。いつも嘘っぱちで、社会人のふりをしても楽山は反社会です。
 
信仰観?、楽山の場合、訂正不能の信条ですから、反信仰観であります。しかも、安っぽくて深みのないものです。楽山は、自己満悦感に生きているので、事実と言葉の選択も歪んできます。そのベースから、宗教も信仰も、余計なおもちゃと見なしているだけなのです。
 
宗教の強制は、硬派カルトの特徴です。真実の宗教と信仰は、強制など出来ないことを本質とします。楽山などの丁寧語を使う無神教軟派カルトは、自己肯定の妄想的信条を持っており、楽山の文章には、いつも、表れています。ほのめかして婉曲的に誘導することを手段としているのです。
 
アドラー教にならって、自己中を広めている楽山は、カルトを批判しているように言っていますが、楽山のやり方は、ボンヤリ言語によって、"一般に・・ですよね" 的な印象を植え付けようとしているのでしょう。こういうやり方をしてくるのが、軟派カルトの特徴なのです。
 
高圧ではなく、空約束でもなく、印象を吹き込み、刷り込んできます。この記事も、はっきり言わずに婉曲的な書き方をしています。これは、楽山のような無神教カルトに特徴的で、言論において陰湿で卑怯なやり口ということになります。ジメジメした陰気で、地を這う目立たない害虫です。
 
楽山に「見守り続ける」などというスタンスはないと思います。共感からの思いやりがないからです。楽山が何か書くたびに、楽山の冷酷な恣意から何ごとかを吹き込んでくるわけですから、楽山に見守られることは、人格の隷属と破壊を意味します。背筋が寒くなります。
 
 
こういう考え方は、心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者には受け入れがたいことだろうけど、自分はかつてとある新興宗教に凝り、伝道活動をした経験からすると上のようなパターンは多かったし、
 
「心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者」・・こういう大袈裟な書き方は、揶揄でしかありません。対象が見苦しいことを強調する書き方です。信仰熱心は、沸騰ではありません。楽山は、実に、質の悪い男だと思います。楽山は沸騰しますが、厚い信仰は沸騰しません。
 
このように、楽山が、硬派カルトを批判しながら、自身の軟派カルトの刷り込みをしたり、クリスチャン芝居をしたり、批判されても書こうという執念深さを思うと、楽山は、とんでもない企みを持っている確信犯、あるいは、パーソナリティ障害の不治と判断せざるを得ないのです。
 
 
そのせいか宗教とは距離ができた今は、宗教を信じている時に必要なことは、人を裁いたり、善導しようとお節介をすることより、まずは自分を律しつつ、相手を信じて待つことではないかとつくづく思うようになった次第である。ちなみにこれは、宗教の布教活動だけでなく、その反対のカルト信者に対する脱マイコン活動についても言えることだと思う。
 
楽山が、自分を律するなら、楽山は、去るしかないのですが、楽山は、無反省・無責任ですから、他者に対しても、誠意があるような三文芝居をするだけです。しかし、本当の真摯な態度を持ちません。だから「信じて待つ」などということは、最初からできない人です。嘘ばかりです。
 
宗教を信じることが、害であるかのような誘導をしています。宗教・信仰は、いい加減でよい、という刷り込みをして、無信仰~反信仰を刷り込んでゆくのが楽山です。ゆえに、決して信頼せず、批判しないのであれば相手にしないでください。
 
少なくとも、キリスト信仰においては、神の前の祈りの正直さにおいて、いい加減であってはいけないのです。そこを、楽山は、カルトしか知らないくせに悪い例だけを挙げて、宗教全体を踏みにじっています。これはカルト批判ではありません。双方向の批判を、決めつけの悪口におとしめる企みです。
 
自分を律するということが自己愛の強い楽山にはできないのだと思います。そして、硬派の高圧的態度ではなく、遠回しに、自分は一般人ですよ、という立場で、すりこみ、吹き込んで、ほのめかして、印象操作~マインドコントロールしてゆくのが、軟派カルト楽山の手口のようです。
 
 
こってり固定観念

こってり固定観念
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月27日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】「伝道のためなら嘘が正当化されてしまう」「組織のためなら人権侵害や公共の福祉を破壊しても許される」「組織やリーダーを疑うことが許されない」といった点が当てはまるなら、それは健全な信仰ではなく、カルト信者の思考です。「信仰深さ」は「無批判になること」ではありません。
2023年1月25日
 
賛同したのなら、また、楽山へのブーメランです。平気で嘘を吐き、悪意で疲れさせて退かせるという人権侵害に近く、反論を無視して、雑言で返し、自分を疑うことを学んでいない、それは健全な精神ではなく、無神教カルトの思考です。まさに「信仰深さ」は「無批判になること」ではありません。
 
 
 
  歌えない傷
 
モチーフモチーフと
擦り合わせる空白だけは持っている
涸れた乾いた干割れたと
よく効く軟膏を欲しがって
塗られたがる傷だけは持っている
すこぶる順調です
歌えないことをモチーフに
空白を合わせて塗り固めて
設(しつら)えた線路は
白い海に向かっていて
レールは汽車を乗せ
汽車には傷が乗り
傷は何も乗せていませんから
 
 
  色褪(あ)せる死
 
よほど悲惨な死に方は別として
近づいてくる当たり前の死
年を取れば取るほどに
死は近づいてくるのだが
年を取れば取るほどに
死は悲しまれなくなり
死の色合いは薄れてゆく
よほど特殊な事情は別として
同世代の高齢者が
畳の上で死んだとき
号泣(ごうきゅう)する友人は少ない
先に逝っちまったか
次は自分か
そのうち自分も
みたいな共有される平板の上を
ひとりひとりの褪色(たいしょく)が包んでゆく
年を経れば経るほどに
誰もが忘れる頃
ある日ふと
いないんだった
もういないんだ
な・・・
どこかの深い深い洞穴(どうけつ)から
短すぎて呼べない季節のように
少しだけ身に迫る
冷気の蒼(あお)い風のひととき
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いつまでも訂正不能の自己愛に執着して、人の意見を聞かない、そして、考えない、それで通用すると思っているのは、もはや、妄想の無自覚の信念とでも言うべきものです。経験から学ばず、子供の頭のまま、宗教と信仰に、とやかく言っても、迷惑~有害なだけで、何も収穫などないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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