ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 詩と宗教・信仰

 
  超常と日常
 
 
聖書に書いてある超常現象
つまり
処女懐妊
物や肉体の奇跡
肉体の復活について
信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。
 
何故なら
超常現象の奇跡を信じても
そういう奇跡は、
少なくとも、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで
もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから
超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。
 
 
物や肉体の奇跡は
神のみのわざです。
神のみに任されることです。
人が自分の都合で
神のわざを信じ込むのは
不遜というものです。
 
心の奇跡は悔い改めであり
神と人との関係において起こることです。
心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を
信じますと言っても、
信じると何が起きるというのでしょう。
 
処女のまま妊娠しますか、
何か超常現象を起こせるようになりますか、
死んでも肉体が蘇りますか、
誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。
むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。
地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。
その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。
信じたら超常の奇跡が起こると言われても
実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。
病気になってもすぐ治るのでは
病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
超常に執着することで生じる鈍感さは
日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。
 
奇跡に頼ってしまえば
人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから
奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは
神の御心に任されていることです。
 
信仰は
信じれば奇跡が起こる
という交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は
怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると
もっと考えるべき日常のこと
人間としての節操や
愛と共感そして真実の追求など
人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが
超常現象を信じることは
思考と感情をゆがめてゆくのです。
大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら
驚きを持ってみるでしょう。
それで命が助かったら感謝もするでしょう。
しかし、驚きと感謝以上にはなりません。
私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
 奇跡に頼って
 過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
 その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
 理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
 ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
 その上にあぐらをかいて、
 もはや人間とすら思えない状態になっています。
 この人のどこが救われた人なのでしょう。
 滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は
超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。
 
 
私たちは、私たちに与えられている良きもの、
つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において
それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。
多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、
キリストに正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。
彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
 聖書において
 教条と戒律主義に陥った者たちは
 儀式の形式を守ることで
 良心の実質を疎かにして
 守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
 彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
 選ばれた者という自覚に思い上がり
 そしてキリストを殺す者となり
 神の怒りを買いました。
 
信仰は
共感の可能な心によってのみ受け取られ
悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。
どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、
神のごとくであることを求めない敬虔によって、
代わりに人間らしい心を与えられ、
育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるには、
徹底して、神の完全との違いを明らかにして弁えていくしかないのです。
 
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れの傾向が生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても、神の前に、何よりも、正直な告白であること以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのであります。
 
 
(2020年07月06日)
 
 
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  楽山の批判者気取り
 
 『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈1〉霊感ってなに?』
 香山リカ、中塚圭骸共著
 2020年07月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25397054.html
 
 
また、楽山は、書いてきました。自身の病理に気づかないか、否定できない者の、宿命のようです。またしても、批判に答えず、批判を無視して、我が道を行くつもりで、自らの破滅に、他者を巻き込もうとしています。それは、人間の道ではありません。獣道(けものみち)なのです。
 
身勝手放題の主張を続ける我執と思い込みの強さが病理であります。
 
先ず、楽山とは、社交の世辞以外、真っ当な話し合いも議論も成立しない、にもかかわらず、楽山自身は、論客のつもりでいる、ということを、この一年余りで実感したことを申し上げておきます。
 
その場その場で、読者が安心するような言葉を用意して、楽山ブログは、待っているのです。それが、軟派カルトと私が名付けた悪質なカルトであり、HSのような硬派カルトよりも、いっそう凶悪なのです。良心を、疲労させ、無力化し、食い尽くすカルトだと思います。
 
本書には、中学生の姉と小学生の弟を主人公にした四つの物語が収録されている。いずれの物語も姉弟がひょんなことからオーラ、カルマ、前世、呪いといったことを信じ込んでしまい、大きなトラブルに発展しそうになるが、賢明な叔父がそれらは科学的根拠のないデタラメにすぎず、信じたり、惑わされたりしてはいけないことを説き、事を収めるという展開になっており、テーマは明確である。要は「スピリチュアルには騙されるな!」ということ。
 
自ら、仏様が喜んでいたと親族に言って笑われ、親族のことを、霊が分からないっぽいのに驚いた、と書いていた楽山の、霊が分かるっぽいスピリチュアル気取りが、何の良心の呵責もなく、「スピリチュアルには騙されるな!」ということについて書いています。どこまでも、反省をせず、何事も不都合は他人事としてしか受け取らない体質、楽山の記事です。呆れます。
「心の理論」:幼稚な勘違い
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 
お話として見た場合、これら四編の物語は、テーマも展開も単純であり、ありふれたものではあるが、それだけに自分にとっては耳に痛く、切ないものがある。恥ずかしながら自分は、過去に新興宗教にハマってしまったことがあるのだ。
 
楽山にとっては、カルトや、オカルトの問題が、単純で、ありふれたものなのでしょうか。楽山が、カルトに嵌っていたのは、過去のことでしょうか。上の、霊が分かるっぽい話は、子供の時らしいですが、それは間違っていたと書いた記事もコメントも見たことがありません。
 
一方で、神がいるならなぜ悪があるのか、と言った幼稚なクレームを、神を遠ざけたいように刷り込みを書いて、小理屈で神を否定できる自覚でいるところを見ると、楽山の中には、結局、自分は霊が分かるっぽいが、今ある宗教は嘘っぱち、という信条で出来ているように思われます。教祖願望でもあるのではないかと思う次第です。
 
カルトは、よくないが、自分の言っていることはカルトではないですよ、と言いたいのでしょう。こういう、物が分かっているふうを装うところに、楽山の恐怖を感じないではおれないのです。
 
楽山の自意識と自信には、全く根拠がありませんが、楽山自身は、恐ろしく、頑固で、無節操です。こういう人が、宗教を語り出すのは、怖いことです。
 
それは、楽山の持ち物が、過剰な自己愛であり、さらに、ただの自慢話ではなく、策略ばかり考えて、不都合を無視し続けられて、無反省で、訂正不能なのは、異常人格だということです。
 
しかも周囲の人から「カルトは止めた方がいい」と注意されても聞き入れないどころか、そういう人たちのことを霊性が低いので、この宗教が本物であることが分からないのだと見下していたのだった。物語の主人公である姉弟は、叔父の注意を素直に聞いているが、自分はそれができなかったわけである。
 
ここでは、「カルトは止めた方がいい」と言いながら、HSの影響を今も完全に否定していませんし、脱会したというのも、嘘かもしれないし、以前から、何か別の、軟派カルトの宣伝者である可能性も、考えざるを得ない楽山なのです。
 
軟派カルトと私が言うのは、誰が見ても、上から教えを垂れるような硬派カルトと違って、一見、物わかりがいい体を装い、常識を説くかのように、刷り込み、印象操作をしてゆくカルトのことです。楽山の、そういう嫌らしさが文章に表れていることを今まで書いてきたつもりです。
 
楽山の、ボンヤリ言語と私が呼んでいる言い方で、なんとなく否定せず、いつのまにか、記憶に当たり前のように残ってゆく、という、ほのめかしと暗示の、マインドコントロールのやり方です。
 
よく考えてみると、楽山の言っていることには、中身がなく、何の役にも立たず、何の説得力もないことを、これからも書いてゆくつもりです。この楽山には、誰も近づいてはいけないと思います。
 
カルトというものは、大抵の場合、一般目線でみればひと目でデタラメ、おかしい、あやしいと分かるくらいバカバカしいものである。
 
だから、楽山は、一般目線で見れば、ひと目では、デタラメ、おかしい、怪しい、ということが、分からないような、一見、常識的で、賢そうな言い方、暗示、刷り込み、印象操作を、手段として、書いていると思われます。
 
楽山自身は、霊が分かるが、既存の宗教は嘘、という、主張ではないかと思っています。だとすれば、楽山という人間もどきには、底知れぬ悪意があるわけで、そのことを、ずっと書いてきました。
 
しかも、楽山の、反省することが一切なく、何を言われても無視したまま、訂正不能で、手を変え品を変え、吹き込もうとしてくる欲動には、人間に大切な、例えば、良心が、欠けている可能性が高いのです。ケダモノの根性が、うわべ、常識的な字面を並べる、という、楽山を、決して信用してはいけないと思います。
 
でも自分の経験からすると、何かの拍子にそれが分からなくなってしまい、傍から見れば明らかな嘘であり、デタラメであるにもかかわらず、「本当かも…」と思ってしまうことがあるのだ。そして次には、「これこそ真実だ。自分はこの真実と出会うために生まれてきたのだ」と涙を流して感動するようになり、ここまでくるともう周囲の注意に耳を傾けるのは難しくなる。
 
このように、カルト被害者を装い、カルト批判をするのも、楽山の特徴です。一方では、楽山は、キリスト教についても、クリスチャン芝居をしたり、対話形式の独り芝居を書いたり、低次元の、いちゃもんをつけたりと、話にならないインチキな男です。
 
信頼度ゼロ、ということを楽山に向けて書いたのは、もうずいぶん前のことです。どうか、この無頓着で無感情の詭弁法師に、気を付けてください。近寄らないのが、いちばんです。
 
楽山の、情緒的な言葉、悲しい、涙が出る、反省、とほほ、などというのは、トホホ言語と呼んで、楽山という感情鈍麻のごまかし方と見なしています。獣道に棲む凶悪なカルトが、牙を隠して、だまそうとしている、と思っていたほうがよいのです。
 
本書の姉弟は、「本当かも…」という程度か、それを少し過ぎたあたりで、叔父の注意を聞いて引き返せているが、もし「これが真実だ!」と強い確信を持つ段階にまで進んでいたら、おそらくは自分のようにそう簡単には引き返せず、やっかいなことになっていただろう。病気は早期発見、早期治療が大事だというけれども、これはカルト問題についてもいえることなのだ。
 
いかにも、カルト反対のメッセージに見える書き方ですが、楽山は、カルトからも、オカルトからも、解放されてはいませんし、解放させてもいません。むしろ、自分のほうが、うまくやれると、ひそかに思って、この記事のような誘い文句を書いてくるのだと思います。
 
一年余り、今まで、一度も、弁明できないまま、批判に答えて前言を否定し反省したことがないのが証拠です。ゆえに、最初から分かってるんです、という主張に、今さらのように書き替えても、無駄なのです。
 
これからも、恐るべき無視の悪意と執拗さで、やさしい?言葉を向けてくるでしょう。
 
スピリチュアルなことを信じつつも、幸せに暮らしている人はたくさんいるし、それからすればスピリチュアルは必ずしも悪ではなく、不幸を生むものでもないのだろう。でも場合によっては、カルトの入口であることもあるし、ここは注意が必要であると思う。
 
スピリチュアルをも悪用して、他者の思慮と感性を、そして幸せを、壊してゆく楽山です。そして、必ずしも悪ではないと、不幸を生むものでもないと、自らの霊能者気取りによって、人々に向けて、カルトに警鐘を鳴らしながら、一方では、自分というカルトに慣らしてゆく楽山です。
 
良心的なスピリチュアルと、楽山のような悪意と策略に満ちたスピリチュアル気取り、霊能者気取りは、違います。
 
楽山は、自らを弁護するために、スピリチュアルの存在を擁護しながら、一方で、常識人気取りを示すために、読書家気取り、インテリ気取り、学者気取りで、刷り込んできます。
 
実際には、理路も感性も、話にならないほど低劣で、批判に弁明も反論も出来ないまま、我欲と我執に生きて、言い張ってくるだけの楽山です。
 
言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。
 
 
(2020年07月05日)
 
 
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  楽山の嘘
 
 『大学4年間の宗教学が10時間でざっと学べる』島薗進著
 2020年07月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25363963.html
 
 
やはり、楽山は、書いてきます。書かずにおれない自己愛と自己中と、物事や事態を感じ取れない体質だからでしょう。何故なら、その体質のうちに、他者無視という絶対自己中心の体質を持っているからでしょう。
 
しかし、それゆえに、楽山は、修正なき反省は成り立たない、という例として、自らをさらしてゆくことになります。反省がなく学習がなく、成長しない成り行きで、同じことを言い続ける一方通行を歩み続ける楽山です。
 
本書ではいわゆる世界宗教や日本の宗教史、近現代における宗教の置かれた状況、課題などについて解説されている。概論的なものなので個々の問題についてはあまり深く掘り下げてはいないが、特定の宗教だけではなく、宗教全体を把握するには読みやすくてよい本だ。文章だけでなく、図、イラストも多用されているので、記憶にも残りやすい。
ちなみに自分は本書を読んで、宗教に関する知識の不足を実感させられた。本書で説明されているのは、宗教の基礎の基礎であろうに、それさえ知らないことばかりだというのには凹まないではいられない。とほほ。
 
私が、偽の反省として名付けた、トホホ言語です。弱みを見せたように見せかける楽山の印象操作です。
 
何故なら、今までの、得意げな、自慢げな、キリスト教否定の言は、間違っていたこと総ての反省と修正の言なしには、いかなる立派なことを言ったつもりでも、嘘臭くて、成り立たないからです。
 
つまり、このような楽山の言い逃れの詭弁は今に始まったことではなく、自分は最初から心構えが出来ている人、という印象を、後付けで吹き込もうとする操作になります。
 
今さら、反省めいた発言だけしても、長い無反省の履歴が否定しているのです。その場その場で、都合の良い方向に持っていこうとする楽山の自己正当化が、刹那的で、臭いだけなのです。
 
仮にですが、真摯な態度の修正の言があると認められた場合には、これからの言において、嘘と矛盾がないかどうかを厳重に確認してゆくことになります。
 
でもおかげで学習意欲を掻き立てられたのはよかった。自分は年を取って知識欲は減退し、向学心も枯れてしまった気はしていたのだが、そういうわけでもなかったようだ。これはうれしい発見ではある。
とりあえずは、前々から気づいていたことではあるが、本書を読んで自分は神道など日本の宗教についての知識が足りないことがよく分かったので、その方面を意識的に調べてみるつもり。
 
人の言うことを無視してきた前歴と、著名人らしい人の言葉から都合の良い言葉を自己正当化に利用してきた前歴は、消えようもなく、楽山の性根の狡さを物語ります。
 
今さら、「宗教に関する知識の不足を実感」「学習意欲を掻き立てられ」などと書いてくるのは、楽山が、反省もするし学習意欲もある自分、という方向に印象付けるためなのです。それは、今までの経過が、否定しているのです。
 
人間の性根つまり体質は、そんなに軽く改めることは出来ないだろうと思います。つまり、楽山は、これから何を主張するにしても、言いたい放題というわけにはいかなくなるということです。前後関係を気にしない楽山は、それも、気にしないでしょうけれど。
 
仮にですが、楽山の今までの偽善を前提にすれば、真摯な態度の修正の言があると認められた場合には、これからの楽山の言において、嘘や軽々しい発言や矛盾がないかどうかを、さらに厳重に確認してゆくことになります。
 
自分を作為的に美化することは、自分の首を絞めることです。
 
修正なき反省のきれいごとは通用しないのだから、楽山は、反省・学習が嘘ならば、どんどん、荷が重くなってゆく、ということです。
 
嘘の前提の上に、真実を積むことは出来ないのです。
 
 
 知的正直さについて(『嘘をつくなかれ』大川隆法著)
 2020年07月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25364037.html
 
 
楽山は、HSを批判していたようですが、大川隆法の本を出してきました。それで、途中で、閉じてしまったと書いていますが、批判するのかと思ったら、そうでもないようです。その段階で、記事を書いて公開するには不十分だとは思わないのでしょうか。
 
つまり、楽山にとって、宗教とは、その程度のものだということでしょう。万事において、いい加減で、自分勝手な楽山です。
 
以前から、白々しい嘘を吐いてきた楽山です。挑発的なことを言って、疲労させ、イライラさせるだけが目的で、結局、笑いたいのでしょうか。
 
学習障害というより、学習する気がない、勉強大嫌い、都合の良い言葉だけ漁っている、我執だけが物凄いために、書くことを止めない、だまし方を、次から次に練ってくる、それが楽山だと、思っています。1年余り、記事を読み、批判した経験からです。
 
先日、大型書店に立ち寄ったついでに、アンチHS界隈で話題になっていた『嘘をつくなかれ』をチラ見してみたら、知的正直についての説明で、試験でカンニングしてはいけないとか、問題集の回答をみてはいけないとか、基礎からきちんと勉強しようとか、そういう学校の勉強法のことばかり説明されていたので驚いた。
 
正直さに、知的も情的もないと思います。難しいことはありません。楽山に対しては、ただ、嘘を吐くなかれ、ということだけです。つまり、楽山は、自ら賛同した意見を、自ら裏切ってきた、ということです。
 
楽山は、平気で嘘を吐いてきたのに、当然の勉強と学習について、何を、驚いているのでしょう。その正直さを、楽山は、一度も、身につけたことがありません。
 
もっと、楽山にとって都合の良い、自分に従え、自分を尊べ、自分だけが頼り、他者を無視しろ、他者にかまうな、というような内容を期待していたのでしょうか。
 
自分は、知的正直とは、自分の心に正直になり、分かるものは分かる、分からないものは分からないとすればよいのであり、分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふりをする必要はないということだと思っていた。
 
正直とは、自分の言いたい放題ではないということです。
 
書いていることとは逆に、楽山は、分からないものを分からないと言わずに、分かっている前提で語り、かつ、人の意見も批判も受け取らずに、ごまかしのボンヤリ言語と詭弁で、我欲の自己顕示だけを書き続けています。
 
「分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふり」をしてきたのは、まさに、楽山その人であります。
 
短絡した理路、部分で全体を語る、全体のおおまかなことを個別に当てはめる、意味の似て非なる言葉を混同して自己正当化をする、などが、楽山の履歴として残っています。
 
その証拠に、楽山は、批判に対して、一度も、反論も弁明も成り立ったことがありません。それで、同じことを、文章の形だけ変えて、繰り返すしかなくなっているのです。
 
こういう人の言うことを真に受けていると、真実は、うすぼんやりとした霧の中に隠れてしまい、否定も肯定もせずに、感動なしに、なんとなく受け取ることになります。それが、楽山特有のボンヤリ言語による、意識されにくいところの、人格破壊なのです。
 
たとえ世間的にはどんなに高く評価されており、名著とされているものであっても、その良さが分からなかったら分からないとし、世間的にはさして注目されていない雑書の類であっても自分は価値があると思うなら価値があるとするなど。
 
分からないと言わずに、極めて拙劣な知識と思考で、表面的に肯定するか、逆に否定してきたのが、楽山です。しかも、その前提になっているのは、楽山の頭の中の皮相な概念であり、とても、根拠になどならないことです。
 
例えば、神がいるなら悪があるのはおかしいと、楽山は言いますが、神への信仰は、むしろ、楽山のような悪と偽善に苦しめられたところから、救いとして生まれてゆくのです。
 
でも本書では知的正直について語りながらも、こういうことには触れられず、学校の勉強の話ばかり…。これには唖然としてしまい本書を読み続けることができず中途で閉じてしまったのであるが、はたして本書の後半では勉強法だけでなく、自分の気持ちを偽らないことについても説明されているのだろうか。どうだろう。いずれ再チャレして、どうなっているか確かめるつもりではあるが、大川隆法と自分とでは、渡部昇一の『知的生活の方法』という同じ本を読んでも、その理解にはこれだけ違いがあるというのは面白いことだなと思う。
 
結局、HS批判にも何にもならない記事を書いたということです。何も、まとまらない、これが、楽山の、思想?なのでしょう。
 
楽山は、恐らく、勉強が大嫌いなのでしょう。殆ど根拠もなく「自分の気持ちを偽らないこと」を、他者の意見を無視して我を張ることに置き換えて、宗教についても何も本質を知らずに、訂正不能に妄想的に確信して書いてきたのです。
 
その分、人を無視してきました。人に嘘を吐いてきました。人に詭弁とボンヤリ言語で刷り込みをしてきました。楽山が言っていることは、自分の身勝手な自尊過大に従って人を無視することでしかありません。
 
根っから、虚偽であり、嘘であり、罪悪感がなく、だます者であるからこそ、詭弁の誘導を一年以上してきて、一年以上批判されてきて、なお、今も、平気で、書き続けることが出来るのです。恥ずかしいという感情がないのです。
 
言葉を裏切る者は、結局、言葉に裏切られるのです。
 
 
(2020年07月04日)
 
 
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  楽山の詭弁と正当化
 
 『実践 快老生活』渡部昇一著
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25322747.html
 
 
今回は、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 
*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。
 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が批評しているようなのは、実に見苦しいです。
 
*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。
 
通念的な理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、栄養を摂取する人間を語れません。気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は嘘以外何もないのではないかと思われます。そして、自分の体調だけでなく、心の調整が狂っているために、大方の人を詭弁で陥れることだけに専念しているようです。
 
論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。
 
楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところに従って、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。
 
ゆえに、楽山にとって幸いなことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山の欲せざるところが、詭弁の記事を書けなくすることだけのようでもあります。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、大人げなく、へへん!、このやろう!、ちくしょう!、くらいは言っていそうです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
http://kotowaza-allguide.com/ka/kairyokuranshinwokatarazu.html
 
楽山は、道に背いたことだけを、理性で説明がつかないようなことだけを、知ったかぶりで語ってきました。また、怪しげな、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語を弄してきたのです。
 
そうして、今回も、楽山の記事が、楽山を斬っている有り様です。
 
*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。
 
正直ということに、知性が必要でしょうか。無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の利己主義により、自己中だけを通して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。
 
楽山は、個人主義を、我欲の恣意と、混同しています。
 
読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。
 
我執により我欲だけで言動している者は、楽山のように、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。また、自己正当化の詭弁を弄しています。
 
自分は自分という独立心は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、悍ましいことに、楽山は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もないのです。
 
今度は、独立心を、我欲・我執の自己中と、混同しています。
 
*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。
 
楽山の言う、簡単に天国に行ける宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天国であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。
 
今度は、シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。
 
たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。
 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純に悪、明快に暴露された詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さの皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、"何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、悪意だけを熱して" 生きることと、混同しています。
 
こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。
 
真っ当な宗教は、伝道者に、霊が分かるっぽいなどということを要求することはありませんし、ふつうの感受性があればよいのです。また、自己顕示欲だけの者には、縁がありません。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。
 
ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡(サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。
 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また悪意ある揶揄の的でもあります。
 
楽山は、シンプルを、安易と、履き違えています。
 
人間性の底が浅いと、こうなります。ゆえに、楽山が、救いなど、本気で求めていないことが分かってくるのです。
 
*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。
 
批判を受け取らず、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。涙の代わりに、冷や汗を散らして、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを、混同して賛同しています。
 
このように、楽山の理路は、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、詭弁でもあり、恐らく、楽山の作為だろうと思われます。
 
渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。
 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であり、底流にある怒気と欺瞞こそがその悪意の主因なのでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病者の言い逃れによって続いている地獄であります。
 
この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。
 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。
 
いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか考えない楽山であります。楽山は、生まれつきかどうか知らないが、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、実に、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山日記なのです。
 
また、妄想的に勘違いして、見倣いたいと言っているのは、恐怖としか言いようがありません。しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのようなドコモだましの嘘吐きチェーンメッセージの根性を、隠しようもなくなってきたのかもしれません。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、悪用して、自己満悦しています。言葉を、ことごとく勘違い、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりで、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。しかも、シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。良い言葉を、良い意味にだけ受け取る社交の人々は、簡単に、だまされてゆくでしょう。
 
楽山の卑怯さや詭弁や嘘が、今回、実に、分かりやすいものになって表れています。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。
 
 
(2020年07月03日)
 
 
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  楽山の右翼思想
 
 『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』佐藤優著
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25310781.html
 
 
楽山は、A級戦犯となった大川周明の記事を載せています。これが、楽山の奥底に隠してきた本音だったのでしょうか。ここまで予想は出来ませんでした。
 
政治の記事を出してきた楽山は、軍国青年だったのでしょうか。
 
(ネットより抜粋)
 
 「
 
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の思想家[1]。東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。
 
1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した[2]。
 
東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴されたことで著名となった。しかし梅毒による精神障害と診断され、裁かれなかった。なお、晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究で著名。
 
 
大学時代は先賢古聖を思索する中で頓挫・懊悩し、救いをキリストに求めた。キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。
やがてキリスト教会の物質を偏軽する道徳の虚偽に憤り、社会制度の根本的改造を必要とし「マルクスを仰いで吾師とした」[4]。さらにプラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」。
 
貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
 
満州国の建国を支持して在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。
 
戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。
 
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。
 
大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。
 
東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。この間、公職追放となる[10]。
 
 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E
 
 
大川周明については、もう大分前に某リサイクルショップで『米英東亜侵略史』を見つけて読み、「つくる会」の歴史観と同じだと思ったのと、東京裁判での奇行くらいしか知らないので、もう少し知識を仕入れておきたいと思い、本書を読んでみた。
そんな自分が本書の中で特に心に残ったのは以下のことだ。
まず一つ目は、大川周明が語った『米英東亜侵略史』は事実に基づいていたためにアメリカを激怒させたという話。これについて著者は「大川周明という知識人に対してアメリカが激怒したことを筆者は誇りに思う」(p.90 単行本2006年)としている。たしかに対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。
 
楽山のような、理非を弁えず、人間らしい情緒を持たず、未熟なまま大人になったような人物が、政治思想を語るのは、非常に危険であります。極端に走ってゆく傾向があるからです。周囲の誰もブレーキを掛けなかったのでしょうか。
 
楽山は、対立している批判者を、そして、すべての他者を、無視し続ける男です。そして、全く、交流、話し合い、議論のできない人です。
 
「対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。」などと、よく言えると思います。完全に他者を舐めているのが楽山です。
 
二つ目は大川周明が東京裁判に呼び戻されなかったのは、「大川は腹の底から法廷をバカにして」いるようであり、「いたずら心で法廷を喜劇の場にしてしまうことをアメリカは恐れたのではないか」(p.97)という見方である。
 
大川周明は、知能の高い人のようですが、先勝国であるアメリカが、この人を恐れるのでしょうか。
 
自分としては大川は裁判から逃げたいがために、人の頭をピシャリと叩き、正気を失ったふりをしたのだろうと推測していたが、氏が優れた論客であり、あの場でふざけてみせる図太さがあるならば、たしかに東京裁判を喜劇に変えることは出来たであろうし、アメリカがそれを警戒した可能性もなきにしもあらず。
 
東京裁判を喜劇に変えるのではなく、独りで喜劇を演じることになったのではないでしょうか。梅毒による精神障害と書いてあるようですが。アメリカは、それを警戒するでしょうか。
 
三つ目は大川が『日本二千六百年史』において源頼朝や足利尊氏に一定の評価を与えたところ、蓑田胸喜から天皇機関説の疑いをかけられ、修正を余儀なくされたという話だ。この批判は筋は通ってはいるのだろうが、あまりに窮屈すぎて笑いをこらえるのには苦労する。でもこの批判を受け入れる形で当該書籍が修正されたとすると、当然ながら当時は笑いごとでは済まされなかったということなのだろう。
 
どう笑いごとでなかったのか、説明がありません。ブログ読者への説得力など、楽山には、どうでもいいのでしょう。自己愛で、完成しているつもりだからです。
 
四つ目は上と関連するが、蓑田胸喜は自己を復古主義者と規定していたかもしれないが、実際には「典型的な近代主義者」であり、「自らが生きる時代の視座をもって日本の歴史の諸事実をつなぎあわせ、単一の価値観で貫かれた歴史を提示する手法は、典型的な近代ロマン主義である」(p.272)という指摘だ。
 
楽山も、ボクは偉い!、という単一の価値観のようです。
 
またこれに対して大川周明の場合は、「前近代的な復古主義(プレモダン)であると同時に、近代の限界を超克したポストモダン思想の両義性をもつ」のだという。
これは何やら難しい話ではあるが、自分は後者の方が好みだ。話は少々変わるが、たとえば宗教について考察する場合、信仰、唯心論、有神論という方向からだけではなく、それとは反対の懐疑論、唯物論、無神論という方向からも考えたい性質なので。
 
楽山の、論、というのが、どの方向であれ、話にならないことを、私は、今までの批判記事に書いてきたつもりです。今回の記事で、危険が増し加わったと思います。これが、自己愛のために知性にも感性にも縁のない、楽山、という暴力的で節操のないサイコパス的人格の思想~妄想です。
 
対立する命題から考えるというのは、思考において当然のことです。しかし、心が無ければ、いっさいは空しく、危険なだけなのです。そこに、楽山の暴力的思考への傾倒が生まれています。
 
つらつらと、とりとめのないことを書き連ねてしまったが、本書を読んだことで、自分は大川周明について、さほどの知識もないままに、偏見を持ち、不当に低く見ていたということがよく分かった。やはり知識が増えるとそれだけ視野は広がるようだ。読書の大切さが身に染みる。大川周明についてはもうちょっと調べてみたいと思う。
 
楽山は、宗教が嫌いな、右翼青年だったのかもしれません。
 
知識が増えて視野が広がる、と言っています。失ってゆくものに、失われてゆくものに、全く無関心な楽山です。悲しみに共感できる心がないために、悲劇を想起できないのでしょう。
 
私は、右も左も詳しくはありません。しかし、国家主義・軍国主義が支配した日本に、日本だけで300万人の犠牲を出した戦争があったという事実は、誰も否定はできないでしょう。
 
楽山には、決して近づかないでください。思っていたとおり、楽山は、危険です。
 
 
大川周明:
(ネット百科事典マイペディアの解説より)
 「
右翼国粋主義運動の理論的指導者。山形県生れ。東京帝大でインド哲学を学ぶ。1919年北一輝らと猶存社,1924年行地社を結成。啓蒙活動を行う一方,軍部桜会の将校と接近。三月事件,十月事件に関係し,五・一五事件で検挙。釈放後は法政大学教授を務め,《米英東亜侵略史》などを刊行。第2次大戦後,A級戦犯に指名されたが,東京裁判の公判中精神障害を起こし釈放。著書に《日本文明史》,コーランの翻訳がある。
 」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E-17853
 
 
虚偽と詭弁と偽善の文章に対する厳しい批判とは、対象の文章を見たとたんに生じる不快感と怒りを、コントロールしてクールダウンして、冷徹な理路と比喩に置き換えてゆく作業を理想としています。うまくいってるかどうかは、また、別ですが。
 
 
(2020年07月02日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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