ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 詩のようなもの


  渇き、悲鳴、再録3
  
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
  渇き
 
 
カラコロチリンと
グラスの中の氷が奏でるように
乾ききった手に雫を運んで
顔も見ないままに
私たちは狭い風穴を共にした
 
噛み合わないシナプスで
血液の味を免疫に高めるのに
静止画の乾いた表面で
動画のピクセルを節約する拙筆が
支離を閉じようと短絡し
取り残された玩具の
ヒョレアの座標を集めては
籠る狂気の微睡む限界を超えようと
やたら草色や肉色を集めようとした
 
命の懐に絆を確かめようと
幾つもの唖然と沈黙を
塗っては乾かしてみるけれども
ほどよく設えた春の夜に
少なくともそう呼んだ時間に
スリットを抜ける光の誤差を
罅割れそうな器に
語らうように
魂の欠片をよそっていた
 
ここだけの反乱は抵抗にもなり得ないで
青白い光子の掠め去る暗闇に
ひとつひとつの屈折を
グラスの濡れた咽喉の非対称が描くものに
私たちは息を潜めるしかない
 
 
※ 漢字の勉強しました。
 
奏でる(かなでる)
雫(しずく、滴)
風穴(かざあな、ふうけつ)
玩具(がんぐ、おもちゃ)
ヒョレア=舞踏病
籠る(こもる)
微睡む(まどろむ)
懐(ふところ)
絆(きずな)
設える(しつらえる)
罅割れる(ひびわれる)
欠片(かけら)
掠める(かすめる)
咽喉(のど、いんこう)
潜める(ひそめる)
 
 
 
  うばわれて
 
てんは にぶつを あたえず
てんは いちぶつを あたえて
てんは いちぶつを うばっていく
むねんの こころ いかばかり
ないても
いかっても
もどってこない
 
てんは かえりみて あわれみ
なごりのようなものを のこす
 
きづいた ひとだけが
きずを しり
いやされる ことを しる
うばわれて
うばわれて
なにも なくなっていく
ときの なかで
ふりそそぐ ものを うけられる
 
 
 
  悲鳴
 
 
いつからか
私の目の前には
いつも悲鳴が鳴り響いているようだ
 
それは通り過ぎるときに
刃物のように何かを
切り裂いてゆくようなのだが
紙のように何か
切り裂かれているようでもある
 
飛び散るものが音も声も
さらに引き裂いてゆくようで
 
耳を塞いでも聞こえてきて
眼を閉じても見えてくるのに
一度も正体を見せないのだ
 
私はそこに
自分の泣き顔を
置いてみたくなることがあったけれど
それは一度も
乗せてはくれない
 
とても冷たくて
なのに
血のように熱して
しぶきのように
閉塞の壁にぶち当たっては
そこから行方知れずなのだ
 
夕焼けだろうか
それは一度も
消息など告げてはいないのだったが
 
いつの日からか
曲線の
細くふるえて
声が声であることを否みながら
この世で最も激しく
沈黙のように打ち消しあって
 
私は耳を塞いで
首を激しく振りながら
なぜか大きく口を開けようとしている
 
 
仰ぐ 叫び

仰ぐ 叫び
 
 
(2017年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年11月11日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
「>なにか行動を起こす上では、なにか「目的・目標」があるはずだと。その事です。」
話はズレるかもしれませんが、この考え方はやばい臭いがします。
「人生には目的がある」「あなたには尊い使命がある」という教えに染まりすぎです。
午前7:13 · 2021年11月9日
 
楽山には「人生には目的がある」が、やばい臭いだそうです。楽山は、目的もなく生きているのでしょうか。夢~妄想で、身にそぐわない教祖願望を望んでも、叶えられそうにないからでしょうか。人をだましてばかりで、本当の自分を見失っているからでしょうか。
 
「あなたには尊い使命がある」・・「染まりすぎ」なのではなく、楽山のように、無反省、無責任、無学習では、望むこと自体が、おこがましいのです。楽山は、病質によって、書いても書いても、人を目覚めさせるどころか、人の役には立たず、迷惑ばかり掛けているのです。
 
楽山は、短く呟いても、自己愛性人格障害の我欲によって、中身が自己中になるだけでなく、言葉遣いも成長せずに、雑になり、弾力性も創造性も、欠けてゆくのでしょう。短文に詰め込もうとして、勢いだけになり、ズレた書き方になっています。
 
短い文章さえ、言葉が全か無の雑な短絡になり、教えや使命を信じるな・・みたいな姑息になって、質の問題を、「染まりすぎ」などという程度の問題にして、まとめてしまいます。言葉を使うのが面倒になると、焦点が定まらなくなります。
 
「染まりすぎ」と言って、"染まる" ということについて、肯定してしまい、豪語の一面性や欠点を暴けなくなっています。楽山のように、言葉を疎かにして、訂正不能に生きていると、言葉がメインなのに、乱暴な短絡表現が増えてゆくという例になります。
 
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
こういう理想の背景には、メサイアコンプレックスというものがあるともいいます。
自己肯定感の乏しい人が、人のために尽くすことで、自分には存在価値があると確認、満足しようとする心理らしい。
午前6:56 · 2021年11月9日
 
「(ネットより)
 
 メサイアコンプレックス、メシアコンプレックス:
 
救世主妄想とも呼ばれる。個人が救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である[1]。狭義には誇大妄想的な願望を持つ宗教家などに見られる心理状態を指すが、広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める。
 
自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。
 
このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。
 
そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である[2]。 
 
メサイアコンプレックス
 」
 
まさに、楽山の、教祖願望に、よく当てはまることです。人のことを言って、あるいは、人に言ってるつもりで、自分を表してしまう例でしょう。楽山の実際は、人に迷惑ばかり掛けているのです。自分が上という意識で、批評したり、アドバイスすることのマニアになっているのが、楽山です。
 
楽山の批評やアドバイスを真に受けてはいけません。人に意見していますと見せかけているだけです。自己満足の部屋から、無責任に、何の役にも立たないことを言ってみても、他者の立場に立って考えたり、自己を見つめることがないので、独り笑って籠の中をうろついているだけなのです。
 
楽山の本質は、自己肯定が成り立たない人生であり、その分、嘘吐きのカルト教祖と変わりがないのです。誰も聞いていなくても、上から見下ろして、ああだこうだと言うが、実は、ああでもないこうでもない戯れ言であり、聞いている仮想の聴衆を想定するだけで満悦するのでしょう。
 
読んでみると、自己愛性人格障害のエゴのために、まとまらない自己中の独り言でしかありません。短い文章がそうだから、長い記事になると、詭弁と自己正当化だけが支離滅裂に、胡散臭さを放つだけの、それこそ、自己満足からのお邪魔虫に過ぎないのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント欄、抜粋再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。楽山は、人間として生きることが、ずっと出来ないままなのです。
 
 
 
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  昔ポエム
 
 
  御国への希望
 
来世に寄せる望みは儚(はかな)い
見えない何かは やはり見えない
天国は見えない
地獄は見たくもない
今度生まれてくるときは・・・
この世には生まれてきたくない
しかし
召されて死んで
御国に至る希望に生きる
ほかにない それでよい
死後の世界など分からない
御国がどんなところか
知らない しかし
希望は抱(いだ)かれるとき
常に現在形である
 
 
 
  エゼキエル書 (抜粋)
 
わたしは生きている
わたしは悪人の死を喜ばない
むしろ悪人が
その道を離れて生きるのを喜ぶ
 
義人の義は
彼が罪を犯すときには彼を救わない
わたしが義人に
彼は必ず生きると言っても
もし彼が
自分の義を頼んで罪を犯すなら
彼の総ての義は覚えられない
 
と主は言われる
 
正しいと思ってすることも
それが自分の義か
主の義であるか
を考えることは大切である
それを考えれば答えは
「わからない」 よって
もし自分の義に過ぎないのならば
主の義に導いてください
もし罪を犯したのならば
お赦しください という
祈りに至るから
 
私は主の羊
主の牧場(まきば)の羊
心安らかに荒野(あらの)に住み
森の中に眠りたい
 
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている
 
拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
 
  黒い土
 
やっと見つけた黒い土を
しばらく見つめたのち
手に掬(すく)って
握りすぎて指の間からこぼれないように
持って帰って鉢(はち)に入れた
何も植えずに毎日水をかけた
ときどきは目を閉じて触ってもみた
日光に明るく照らされて土
寒い季節が終わる頃
知らない小さな芽を出してきた
未熟な緑
切り取らず
切り取られず
踏み付けず
踏み付けられず今度は
たくましく生きられたらと
語りかけた芽の下に
古い友人が眠っている
 
 
 
  こぴぺ
 
つめたくなでられる
ネガになる
みやすい
やすやすと
きえる
あらわれる
けされる
はられる
もどせる
としをとらない
でんし
おぼえる
わすれる
としをとる
ひと
ネガになる
もどせない
きかない もう・・・
フリーズ
 
 
 
 (抜粋)
 
 とても小さくて
 どこへ行ったのだろう
 とても小さくて心細そうだったのだけれど
 傷心のうちに隠れて見えないのだろうか
 闇の中に潜んでいるのか
 遠くからの光に吸い込まれたのだろうか
 光の中に散乱したのだろうか
 大きさも重さもない点の存在が
 広く広く果てもない波動に同期して
 焦点に向かって終息したというのか
 それとも収束と発散を
 宇宙と木陰を
 高慢と心貧しさを
 一筋の清らかな
 直線でも曲線でもなく
 時空とも呼べないところへ
 透き通ったまま通り抜けて行ったのだろうか
 水とも火とも
 あれは〇○○と
 名付けられる前に
 
 
希望は いつも 現在形

希望は いつも 現在形
 
 
(2022年07月03日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が出来ないことを「自分もそんな風です」などと、誰でもそうみたいに一般化できるでしょうか。否です。折に触れて反省、ときに謝罪は、人間らしさです。できないのは人間として異常なのです。それを「難しいんだよなあ」「人間の性」で済ませるのは、さらに異常~病気なのです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は、アンチを論破したら粘着されたと言うけど、現実はこうでしょ。
① 棒氏はアンチに噛みつくも、返り討ちにあってアカ削除
② 新アカつくってアンチに噛みつくも、またもや返り討ちにあってアカ削除
③ ②を繰り返す。
論破されて粘着してるのは、アンチでなく、棒氏の方だよ。
 
楽山は、誰を論破したわけでもなく、しかも、いちゃもんを宗教批判に見せかけながら、ネットに粘着しています。化かし合いを楽しんでいるのです。良心を傷つけることを楽しんでいるのです。浮いてきた垢として、一日も早く、削除されるべきは、楽山の嘘と詭弁です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は相変わらずだね。
年齢など、議題とは関係ない話に論点をずらしたり、慇懃無礼なやりかたで侮辱したり、アンチを論破したと嘘をついたり、粘着されてると被害者コスプレしたり…。
 
論点をずらして迷路に誘導して酷い疲労を与えたり、丁寧語や世辞で、慇懃無礼な言い方で、侮辱したり、平気で嘘を吐いたり、粘着されてると被害者面をしたりしてきたのが楽山です。そして節操もなく発作的に長い長い記事を書いたり、泡を吹くように、だらだら引用したりするのが楽山です。
 
楽山は、何の根拠もなくネットに寄生して、何の貢献もせず、人をディスってきたり、さらに、こちらが根拠をあげて批判しても、あざ笑って無視してきました。もはや、楽山の顔は、ひょっとこのように、人間らしさを失って、冥界のコメディアンならぬ受けない経読みの独り言師なのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは典型的な棒四季論法ですね。
棒氏は、自分にとって都合の悪い話題になると、
そんなことには無関心なポーズをとり、
上から目線で適当にあしらうようなことを言い、
早々に話を打ち切ろうとします。
 
楽山は、自分に都合の悪い話題になると、何事もないかのように無視し、「上から目線で」「あしらう」ようなことを言い、勝手に、話を打ち切ったつもりです。しかも、その後、批判者を粘着ストーカー呼ばわりして雑言を言いまくっておいて、何事もなかったような顔をします。楽山ブーメラン全開です。
 
 
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
正直に反省と学習

正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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  詩と信仰3
 
詩のようなもの2つ、宗教詩2つ+。
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
悲しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
哀しい歌が今も好きです
 
(2002年07月12日、HPにアップ)
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
(1997年3月19日、HPにアップ)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
信仰告白より
不信仰告白のほうが
嘘が少ないからだ
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
信仰の危うさは、信仰者の成長を進めるためです。危うい時には、強く思い込むことではなく、人間として深く考えることが勧められているのです。
 
 (伝道の書、口語訳)7:14
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 (伝道7:14、旧約聖書)
 
 
 
信仰には、詳しい知識・知性・知能などの特別のインテリジェンスが必要ということはありません。信仰に必要なのは、人間らしい心です。それだけが必要です。人間らしい心というのは、信仰者であってもなくても、成長可能な心ということです。
 
何かを訂正不能にした人間離れした心では、一生かかっても、理解ではなく、誤解しか生じません。訂正不能が続けば、曲解になり、妄想またはカルトに至るでしょう。カルト化したキリスト信仰を見ることは、実に、稀ではないのです。
 
 
今まで、何度も書いてきたように、キリスト信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになった人が、キリストと父なる神に、生きる希望を寄せることであります。
 
したがって、神の完全性の辻褄など、分かりもしないことを、楽山のように、この世の先入観的な辻褄合わせで神を否定する屁理屈の輩などは、最初から、全く信頼するに足りないのであります。
 
 
大事なことなので、繰り返しですが、書いておきます。
 
信仰者になって、先入観だらけになってしまうようではいけません。信仰は、人間として完成するためにではなく、人間として少しでも成長するためにあります。
 
 キリストに愛される心の貧しさとは、先入観がないことです。
 キリストに憎まれる精神の貧困とは、先入観しかないことです。
 
 
大切なことは ひとつ

大切なことは ひとつ
 
 
(2021年)
(2022年03月19日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、先入観と偏見しか持たないことが、この3年数か月、変わることなく表れてきました。反省は、今後のこととしても常に必要ですが、楽山が反省することは期待できません。楽山は、浅い笑いと根深い怨念だけになっています。
 
 
 
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  昔書いた詩
 
昔載せた、さらに昔の、詩のようなもの
 
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  きっと夜の部屋
 
換えたばかりの蛍光灯
これでパッカパッカと黒ずんだ
口を開けたり閉じたりを
当分は見なくてすむのだが
昼間より明るいわけはなく
後ずさりの気配の後
スイッチ切って
ドアを閉めた途端
闇という闇は押し寄せて
大きな大きな目を開けて
この夜は一体だれのもの
きっと朝までにらめっこ
 
 
  挨拶したので
 
「やあ」
「おう」と
手を上げたまではよかったが
そのときパリッと欠けてしまったので
とりあえず型だけ取って帰った
大きくも小さくもない
部屋のすみで
ほこりをかぶって
ひびわれたそいつの
名前をまだ思い出せないでいる
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
落ちつづけてる奴がいる
 
 
  まずい味噌汁のんで
 
足元をすくわれたと思って
ポンと辞表を置いて
「くそくらえ」とでも言ってから
帰ってきた腐った脳みその
脳だけ置き忘れてきたので
俺の椅子に誰かがすわり
俺の机に知らない本が積まれ
ガヤガヤと会話が音になり始める
今朝を日常だと思ってしまう
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
許せるだろうか
許されるだろうか
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
 
  神という存在
 
神は、
存在であり本質であり真理であるが、
存在者(≒概念化できる既知のもの、譬えれば、見えるもの)ではない。
 
神は他のものを必要としないという意味では
自立存在のような気もしますが
そういう存在だとしても、人の立場で考えるとき、
神は、人にとっては、
人が関わられることの中でしか、
その一部さえ、知り得ない御方であり、
神からの、人との関係で、自らを顕す御方であって、
人から論理的に、こういうものだというふうには、
神との関係も存在も、概念のようには、
説明することは出来ないと思っています。
説明できたら、それは神ではなく存在者に過ぎないのです、
 
神から顕されたことによって
人は、人の言葉で、ある程度は神について語れるが、
人の言葉で神を語り尽くすことは出来ないと思っています。
そしてその追究されるべき未知の最大値「ある程度」が
人にとっては、とても大事であり不可欠ともなりうるような気がします。
 
 
 
天上の知恵

天上の知恵
 
(2022年02月13日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、どんどん恥ずかしい人になってゆきます。楽山が何か書けば、そこに、楽山の履歴として体質として、悪意、芝居、自慢、自己中、嘘、詭弁、などが、必ず表れてくるのです。それを、その人の筆致と呼んでいます。書き癖と言ってもよいでしょう。筆致は、その人の人生を表すことになります。
 
責任を負うこと・・「難しいんだよなあ」・・人間なら、責任を負うのは当たり前のことなのです。「人間の性なんでしょうかね」・・違います。まともな人間ならしないことを楽山はしているのです。人間一般ではなく、自分の失敗は自分の責任です。
 
 
 
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