ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 詩のようなもの

 
  詩と信仰3
 
詩のようなもの2つ、宗教詩2つ+。
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
悲しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
哀しい歌が今も好きです
 
(2002年07月12日、HPにアップ)
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
(1997年3月19日、HPにアップ)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
信仰告白より
不信仰告白のほうが
嘘が少ないからだ
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
信仰の危うさは、信仰者の成長を進めるためです。危うい時には、強く思い込むことではなく、人間として深く考えることが勧められているのです。
 
 (伝道の書、口語訳)7:14
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 (伝道7:14、旧約聖書)
 
 
 
信仰には、詳しい知識・知性・知能などの特別のインテリジェンスが必要ということはありません。信仰に必要なのは、人間らしい心です。それだけが必要です。人間らしい心というのは、信仰者であってもなくても、成長可能な心ということです。
 
何かを訂正不能にした人間離れした心では、一生かかっても、理解ではなく、誤解しか生じません。訂正不能が続けば、曲解になり、妄想またはカルトに至るでしょう。カルト化したキリスト信仰を見ることは、実に、稀ではないのです。
 
 
今まで、何度も書いてきたように、キリスト信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになった人が、キリストと父なる神に、生きる希望を寄せることであります。
 
したがって、神の完全性の辻褄など、分かりもしないことを、楽山のように、この世の先入観的な辻褄合わせで神を否定する屁理屈の輩などは、最初から、全く信頼するに足りないのであります。
 
 
大事なことなので、繰り返しですが、書いておきます。
 
信仰者になって、先入観だらけになってしまうようではいけません。信仰は、人間として完成するためにではなく、人間として少しでも成長するためにあります。
 
 キリストに愛される心の貧しさとは、先入観がないことです。
 キリストに憎まれる精神の貧困とは、先入観しかないことです。
 
 
大切なことは ひとつ

大切なことは ひとつ
 
 
(2021年)
(2022年03月19日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、先入観と偏見しか持たないことが、この3年数か月、変わることなく表れてきました。反省は、今後のこととしても常に必要ですが、楽山が反省することは期待できません。楽山は、浅い笑いと根深い怨念だけになっています。
 
 
 
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  昔書いた詩
 
昔載せた、さらに昔の、詩のようなもの
 
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  きっと夜の部屋
 
換えたばかりの蛍光灯
これでパッカパッカと黒ずんだ
口を開けたり閉じたりを
当分は見なくてすむのだが
昼間より明るいわけはなく
後ずさりの気配の後
スイッチ切って
ドアを閉めた途端
闇という闇は押し寄せて
大きな大きな目を開けて
この夜は一体だれのもの
きっと朝までにらめっこ
 
 
  挨拶したので
 
「やあ」
「おう」と
手を上げたまではよかったが
そのときパリッと欠けてしまったので
とりあえず型だけ取って帰った
大きくも小さくもない
部屋のすみで
ほこりをかぶって
ひびわれたそいつの
名前をまだ思い出せないでいる
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
落ちつづけてる奴がいる
 
 
  まずい味噌汁のんで
 
足元をすくわれたと思って
ポンと辞表を置いて
「くそくらえ」とでも言ってから
帰ってきた腐った脳みその
脳だけ置き忘れてきたので
俺の椅子に誰かがすわり
俺の机に知らない本が積まれ
ガヤガヤと会話が音になり始める
今朝を日常だと思ってしまう
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
許せるだろうか
許されるだろうか
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
 
  神という存在
 
神は、
存在であり本質であり真理であるが、
存在者(≒概念化できる既知のもの、譬えれば、見えるもの)ではない。
 
神は他のものを必要としないという意味では
自立存在のような気もしますが
そういう存在だとしても、人の立場で考えるとき、
神は、人にとっては、
人が関わられることの中でしか、
その一部さえ、知り得ない御方であり、
神からの、人との関係で、自らを顕す御方であって、
人から論理的に、こういうものだというふうには、
神との関係も存在も、概念のようには、
説明することは出来ないと思っています。
説明できたら、それは神ではなく存在者に過ぎないのです、
 
神から顕されたことによって
人は、人の言葉で、ある程度は神について語れるが、
人の言葉で神を語り尽くすことは出来ないと思っています。
そしてその追究されるべき未知の最大値「ある程度」が
人にとっては、とても大事であり不可欠ともなりうるような気がします。
 
 
 
天上の知恵

天上の知恵
 
(2022年02月13日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、どんどん恥ずかしい人になってゆきます。楽山が何か書けば、そこに、楽山の履歴として体質として、悪意、芝居、自慢、自己中、嘘、詭弁、などが、必ず表れてくるのです。それを、その人の筆致と呼んでいます。書き癖と言ってもよいでしょう。筆致は、その人の人生を表すことになります。
 
責任を負うこと・・「難しいんだよなあ」・・人間なら、責任を負うのは当たり前のことなのです。「人間の性なんでしょうかね」・・違います。まともな人間ならしないことを楽山はしているのです。人間一般ではなく、自分の失敗は自分の責任です。
 
 
 
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  昔々書いた詩のようなもの
 
 
  祈り・実感を
 
もうしばらく傍(そば)に
いて下さいませんか
さびしい
と声に出してしまいそうですから
しかも調子外れの怒号のように
すでに出しているのです
 
でも声帯は震えているものの
咽喉(のど)の吸い殻の
泡沫を振動させて
歯間を開閉しているだけなのです
 
いつも傍にいて下さる
と教えられるだけでなく
すべての体液が覚えるほどに
染(し)み込ませることが出来たなら
ずぶ濡れになった厚紙の五感のために
五臓六腑に満々と
湛(たた)えられた廃液のために
動きの取れなくなった五体も
眠りすぎた疲労も
声なき吠(ほ)え面も
澄んだ自虐のうちに
然(しか)りは然り
否(いな)は否
と捌(さば)き捨てて
液体へ気体へ
霧散・昇天お許しを
流れるままに乞いゆきましたものを
 
(1999年06月21日)
 
 
  問いの小道
 
ある日
問いは
どこかの小道を
歩いていました
きれいな花や
しぼんでゆく花びらや
ささえている茎や
はぐくんでいる土にも
ときめいたけれど
切り取ったり根こそぎ
摘んでしまっては
わるいからと
めぼしいものを見つけては
クレヨンでスケッチ
クエスチョンでマーク
したりしたり
していました
 
家に持って帰って
スケッチを並べて
あいだをひらひら
舞う蝶には
なれないから
いつかスケッチを見ながら
スケッチブックをふくらませて
なつかしい小道を
目の前にありありと
うかべることができたら
そのときは生きてもいー
死でもいーと
ため息をつきました
 
とぼしいビジョンをかかえて
ため息はまた
すこしやせた問いになって
どこかの小道を
歩いていくのでした
問いは問いを生み
どこまでも問いのまま
いつか問いのまま
問われる先に
名前のないお墓が
明るく陽を浴びて
小道の花々に
隠されていくことを
願うばかりでした
おこってくれー
かくれないでくれー
 
(1997年4月1日)
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が
繰り返す明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
(96年、またはそれ以前)
 
 
  夢の予告
 
目の前に丸い太い
ぶ厚い重い輪が
ぎらぎら毒々しく光る
これは経験から明らかに
(夢の中で経験が生きる?)
持病の偏頭痛の前兆だ
 
というところで目が覚めた
視野の中心から広がる
いびつな三角形の閃輝暗点
今度は紛れもなく経験から
偏頭痛の前兆だ
 
急いで頭痛薬を飲む
起きてしばらくすると
頭の左半分に軽い頭重感
痛みというほどではない
薬は効いている
 
夢が予告した?
網膜と神経に生じた異変を
浅い眠りの
夢の乱れた思考が
取り込んで表現したのか
肉体に対する警告
とても稀な
夢と現実の接触
 
(2006年03月29日)
 
 
  生死の拠りどころ
 
生きることが
死ぬことよりも怖くなるときでも
そうではないときでも
いちばん怖いものは
死ではない だから
いちばん大切なものは
生ではない
生よりも大切なことがある
だからといって それは
死でもない
それは生きることの
拠(よ)りどころとしているもの
と それに関わるすべてのもの
例えば信仰について
例えば詩のようなものを
書いている時間は
生よりも大切だ だから
その時間に事切れても
たとえ未完のまま息絶えても
その死ではなく
その生でもなく
その結実でもなく
その時間は
永らえるためにでも
けっして惜しんではならない
生よりも大切な命の時間だ
 
(2006年03月08日)
 
 
  静けさ
 
心静かに
静かな夜に眠れない
心静かに・・・
 
それは
暇人にも追い詰められるような
瑣事や心配事は
いろいろあるのだけれど
眠れない夜に
不安がいっぱい周りで騒いでいるけれど
負えない荷物に潰れてしまいそうなのに
重さは別のところにあって
ぽつんと独りの
しかも眠れない夜にあるのだ
 
もう将来と呼べるものもないのに
自らの死と
肉親の死に狼狽することしか
待ってはいないのに
やけっぱちでも投げやりでもなく
あきらめでも達観でもなく
とても無さそうな時と所に
眠れない夜
苛立ちとは別に
経過してゆくのだ
 
(2007年06月01日)
 
瑣事(さじ)
さ‐じ【×些事/×瑣事】 の解説
取るに足らないつまらないこと。ささいなこと。小事。「―にこだわる」
 
 
真実 孤独

真実 孤独
 
 
(2021年11月12日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
·4時間
こんな話は、はじめて聞いた。
星と三日月サラディンに会いたい
@saladin4733
以前聞いたことある話
ブラジル人の現地信者でもの凄い伝道成果を上げた人が日本に来た。
日本の信者は彼ほど伝道実績がなく、彼を褒め称えた。
最初は謙虚だった彼は
「なんだ日本の信者は主のもとに生まれたから素晴らしいと思ったがたいしたことはない」
と慢心し、ブラジルに帰って教祖になった。
午後0:04 · 2021年11月10日
 」
午前6:20 · 2021年11月11日
 
「はじめて聞いた」話を、楽山は、議論に耐えるセンスがないために、キリスト教への悪口として無節操に書いてきます。どこでも、宗教には、曲解する人々は当然いるわけですが、楽山が面白がって書いてくるのは、生産性がなく陰湿な反キリストそして偽善者だからです。
 
理路も情緒も整わないために、検証とか考察とかが全くできない楽山ですから、悪口を言って溜飲を下げたいだけで、結果として、卑しい性根を表して、どこまでも、どこまでも、とても原始的な自己愛性人格障害という自分を、自分で証明しているのです。どうか関わらないでください。
 
楽山のような、羞恥心も罪悪感もない反キリスト・反宗教は、自分の言ったことに責任を負わないし負えない卑怯者で、他者の忠告を無視し、一方では、他者の話を食い物にします。そういう醜態を繰り返すほどに分別がないのは、楽山には、まともな自分という人格の尊厳がないからでしょう。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。ほとんど、ワームと言っていいくらいです。
 
 
 
 
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  渇き、悲鳴、再録2
  
    終わりに楽山ツイッター批判
 
  渇き
 
 
カラコロチリンと
グラスの中の氷が奏でるように
乾ききった手に雫を運んで
顔も見ないままに
私たちは狭い風穴を共にした
 
噛み合わないシナプスで
血液の味を免疫に高めるのに
静止画の乾いた表面で
動画のピクセルを節約する拙筆が
支離を閉じようと短絡し
取り残された玩具の
ヒョレアの座標を集めては
籠る狂気の微睡む限界を超えようと
やたら草色や肉色を集めようとした
 
命の懐に絆を確かめようと
幾つもの唖然と沈黙を
塗っては乾かしてみるけれども
ほどよく設えた春の夜に
少なくともそう呼んだ時間に
スリットを抜ける光の誤差を
罅割れそうな器に
語らうように
魂の欠片をよそっていた
 
ここだけの反乱は抵抗にもなり得ないで
青白い光子の掠め去る暗闇に
ひとつひとつの屈折を
グラスの濡れた咽喉の非対称が描くものに
私たちは息を潜めるしかない
 
 
(2016年03月21日、同日一部修正)
(2020年02月29日、さらに一部修正)
 
奏でる(かなでる)
雫(しずく、滴)
風穴(かざあな、ふうけつ)
玩具(がんぐ、おもちゃ)
ヒョレア=舞踏病
籠る(こもる)
微睡む(まどろむ)
懐(ふところ)
絆(きずな)
設える(しつらえる)
罅割れる(ひびわれる)
欠片(かけら)
掠める(かすめる)
咽喉(のど、いんこう)
潜める(ひそめる)
 
 
 
  悲鳴
 
 
いつからか
私の目の前には
いつも悲鳴が鳴り響いているようだ
 
それは通り過ぎるときに
刃物のように何かを
切り裂いてゆくようなのだが
紙のように何か
切り裂かれているようでもある
 
飛び散るものが音も声も
さらに引き裂いてゆくようで
 
耳を塞いでも聞こえてきて
眼を閉じても見えてくるのに
一度も正体を見せないのだ
 
私はそこに
自分の泣き顔を
置いてみたくなることがあったけれど
それは一度も
乗せてはくれない
 
とても冷たくて
なのに
血のように熱して
しぶきのように
閉塞の壁にぶち当たっては
そこから行方知れずなのだ
 
夕焼けだろうか
それは一度も
消息など告げてはいないのだったが
 
いつの日からか
曲線の
細くふるえて
声が声であることを否みながら
この世で最も激しく
沈黙のように打ち消しあって
 
私は耳を塞いで
首を激しく振りながら
なぜか大きく口を開けようとしている
 
 
叫び

叫び(さけび)
 
 
(2017年10月18日)
(2019年10月17日、一部修正)
(2020年11月08日、若干修正して再録)
 
(2021年11月10日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
「>なにか行動を起こす上では、なにか「目的・目標」があるはずだと。その事です。」
話はズレるかもしれませんが、この考え方はやばい臭いがします。
「人生には目的がある」「あなたには尊い使命がある」という教えに染まりすぎです。
午前7:13 · 2021年11月9日
 
楽山には「人生には目的がある」が、やばい臭いだそうです。楽山は、目的もなく生きているのでしょうか。夢~妄想で、身にそぐわない教祖願望を望んでも、叶えられそうにないからでしょうか。人をだましてばかりで、本当の自分を見失っているからでしょうか。
 
「あなたには尊い使命がある」・・「染まりすぎ」なのではなく、楽山のように、無反省、無責任、無学習では、望むこと自体が、おこがましいのです。楽山は、病質によって、書いても書いても、人を目覚めさせるどころか、人の役には立たず、迷惑ばかり掛けているのです。
 
楽山は、短く呟いても、自己愛性人格障害の我欲によって、中身が自己中になるだけでなく、言葉遣いも成長せずに、雑になり、弾力性も創造性も、欠けてゆくのでしょう。短文に詰め込もうとして、勢いだけになり、ズレた書き方になっています。
 
短い文章さえ、言葉が全か無の雑な短絡になり、教えや使命を信じるな・・みたいな姑息になって、質の問題を、「染まりすぎ」などという程度の問題にして、まとめてしまいます。言葉を使うのが面倒になると、焦点が定まらなくなります。
 
「染まりすぎ」と言って、"染まる" ということについて、肯定してしまい、豪語の一面性や欠点を暴けなくなっています。楽山のように、言葉を疎かにして、訂正不能に生きていると、言葉がメインなのに、乱暴な短絡表現が増えてゆくという例になります。
 
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
こういう理想の背景には、メサイアコンプレックスというものがあるともいいます。
自己肯定感の乏しい人が、人のために尽くすことで、自分には存在価値があると確認、満足しようとする心理らしい。
午前6:56 · 2021年11月9日
 
「(ネットより)
 
 メサイアコンプレックス、メシアコンプレックス:
 
救世主妄想とも呼ばれる。個人が救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である[1]。狭義には誇大妄想的な願望を持つ宗教家などに見られる心理状態を指すが、広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める。
 
自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。
 
このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。
 
そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である[2]。 
 
メサイアコンプレックス
 」
 
まさに、楽山の、教祖願望に、よく当てはまることです。人のことを言って、あるいは、人に言ってるつもりで、自分を表してしまう例でしょう。楽山の実際は、人に迷惑ばかり掛けているのです。自分が上という意識で、批評したり、アドバイスすることのマニアになっているのが、楽山です。
 
楽山の批評やアドバイスを真に受けてはいけません。人に意見していますと見せかけているだけです。自己満足の部屋から、無責任に、何の役にも立たないことを言ってみても、他者の立場に立って考えたり、自己を見つめることがないので、独り笑って籠の中をうろついているだけなのです。
 
楽山の本質は、自己肯定が成り立たない人生であり、その分、嘘吐きのカルト教祖と変わりがないのです。誰も聞いていなくても、上から見下ろして、ああだこうだと言うが、実は、ああでもないこうでもない戯れ言であり、聞いている仮想の聴衆を想定するだけで満悦するのでしょう。
 
読んでみると、自己愛性人格障害のエゴのために、まとまらない自己中の独り言でしかありません。短い文章がそうだから、長い記事になると、詭弁と自己正当化だけが支離滅裂に、胡散臭さを放つだけの、それこそ、自己満足からのお邪魔虫に過ぎないのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。楽山は、人間であり続けることが、ずっと出来ないままなのです。
 
 
 
 
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  時と風2
 
 
時は風のようなものだ
 
あの日の時と
今の時と
それほど変わりはない
 
同じような時が日々の必要を告げる
 
あの日の風と
今の風と
それほど変わりはない
 
同じような風を頬に受けている
 
私たちの変わりようといったらどうだろう
 
時は風のようなものだ
 
流れてゆくようで
流している
 
流れてゆくのは私たちのほうだ
 
 
私たちは時ではない
私たちは風ではない
 
時も風も空しさを感じない
感じるのは私たちだ
 
私たちは
時に乗じて風のように進むのではない
 
時にも風にも限りはないが
私たちには限りがあって
 
時にも風にも変わりはないが
私たちは変わりがあって
 
必要に応じて
受けたものを返してゆく
 
感じるから返してゆく
 
 
※ 
 
あの日の時も風も知らないのに
まるで比べるかのように
未知の終わりに向かって変わり続ける自分
 
そういう悲哀に共感できる人は信仰に向いている。
 
一方で、そういう共感を全く持ち得ない者がいて、反信仰しか語れなくなっているが、そういう者が、なぜ、生まれて、存在しているのか、という疑問は、神がいるのに、なぜ、悪があるのか、という疑問とともに、神の大きな懐に秘められているのです。
 
 
(2019年04月)
 
(2020年04月25日、修正)
(2021年05月20日、加筆して再録)
 
 
 (伝道の書、口語訳)1:14
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
 (伝道1:14、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
2:25
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 
2:26
神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道2:25-26、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
4:15
わたしは日の下に歩むすべての民が、かのわらべのように王に代って立つのを見た。 
4:16
すべての民は果てしがない。彼はそのすべての民を導いた。しかし後に来る者は彼を喜ばない。たしかに、これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道4:15-16、旧約聖書)
 
信仰を持ち、日々、何かを努めるとしても、私たちは、時が経てば、寿命が尽きていなくなる存在。「風を捕えるようである」≒ 私が読んだ聖書の訳「風を追うようなものだ」、つまり、私たちは空しい存在だ。この地上の世界は、限りある私たち人間にとって、空しく思えてならない。
 
そのことを強調しながら、伝道者が伝えるのは、2:25にあるところの、神を離れては楽しめない、≒ 神がおられるからこそ楽しめる、という教訓的な讃美になっている。
 
地上の人の生き様が、いかに空しいかを説きながら、神のもとで楽しむことを説いている。いわゆる神への、逆説の讃美歌となっている伝道の書。私は、そういう伝道の書が好きです。
 
 
(2020年05月02日)
 
 
※ 近況
 
母は、4月30日、肺炎で入院しました。入院は、介護施設に入ってから3回目、今年2回目です。入院手続きとともに、ドクターからの説明あり、熱も下がって、肺炎は治りはするが、繰り返す可能性、急変もあり得る、そういうときの延命処置をするかどうか、など、要するに、"いつでも死にうるから覚悟せよ"的な説明を受けました。頷くしかない。
 
母は97歳、尿路感染と肺炎を繰り返せば、でこぼこのダウンスロープは、だいたい分かる。
 
入院手続きの話と、書類が、保証人、支払い、小物の申込書、日常の洗濯物、タオルなど、わぁ、私に聞かれても分からないことも多くて、私は、お世辞にも、まめな孝行息子ではないので、介護施設に連絡を取って、病院に電話して決めてほしい旨お願いして、前回、ハンコを忘れたので、今回は持っていって、書類は病院で書いて済ませて帰ってきました。
 
母はコロナの肺炎ではないようですが、慎重さが求められており、面会は出来ませんでした。今は元気だそうです。
 
(2020年05月01日の近況)
 
母は、腰の骨を折って、整形外科入院。そこで認知症が明らかになって、小規模多機能介護施設入所。肺炎や尿路感染で内科入院。そして、リハビリのために老健施設入所、そして、先月、有料老人ホーム入所となって今に至ります。面会もコロナ禍の影響で少なく、ときに必要な物を持っていって帰って来るという程度でした。
 
コロナについては、検査も、ワクチンも、未だです。親子共々、年が寄って、世間のことからは関心も離れてゆく感じになっています。どっちが先に・・・なんてことも考えますが、分からないことだらけで、神にお任せするしかないのです。せめて、日々の暮らしに、心が荒れませんように。拝。
 
(2021年05月20日、現在の近況)
 
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
(90年代か)
 
 
時と風

時と風
 
 
 
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