ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 理念・断片

 
  戦争の時代2
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。そして、年を取りました。それはもう、すっかり老人になりました。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡で生まれたそうです。日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。
 
そして、父と母は、ともに、今のJTBの前身の、前身の、・・中国の青島(チンタオ)の交通公社に勤めていて出会ったそうです。つまり、そういうことが可能になる時代に私の親は生きていました。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代~それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。
 
 
そして、平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているのではないか・・という若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように、特に映画など、見ていたところもありました。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画などと同じような、アクションの視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマンまで、裕次郎や、若大将の時代でもあり、1950~60年代です。私は、ゴジラなど怪獣映画が大好きでした。
 
75年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。75年というのは、平均寿命より短いわけです。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと誰が言えるでしょうか。
 
歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言われます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
美辞麗句を、やさしい顔で語るだけの政治家はいないでしょうか。
 
皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙演説でした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃということだったのでしょう。ジージツ、ジージツ、・・
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。
 
美しい、正しい、ということが、目標ではなく、無条件の前提になってはいないでしょうか。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、世界では、戦争が実際に起こっています。
 
外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、相変わらず多いのです。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとで、だましたり、ごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは知らないうちに進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか

きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか
 
 
(2020年09月02日)
(2020年10月28日、一部修正)
(2021年09月14日、再録+)
 
 
 
  未来電子国家
 
アイドルは要らなくなるだろう
顔・形はもちろん声だって
コンピューターで作れるようになる
しかもユーザーはソフトウェアを使って
さらに自分の好みに変えられる
人の感情の特性を分析して
ムードいっぱいのメロディの
作曲さえできるようになる
 
悪者たちは重要人物の情報を
写真や映像から手に入れて
実際にスキャンする以上に
本物に近似した虚像を作る
ある日突然
大国の大統領が
とんでもないスピーチを始める
電子クーデターの始まり
電子犯罪の進化だ
 
パソコンはなくなるだろう
通信速度が今の電話回線の
数百~千倍になれば
今のハードディスクと同じくらいだ
カードかボードのような端末だけになって
家の中では壁がスクリーン
テレビとディスプレイモニターを兼ねる
声やいろんな入力の仕方で
オンラインでリアルタイムで
出力されたり手に入ったりする
でもその恩恵にあずかれる人の方が
だんだん少なくなったら
しまいに戦争か?
電子と原始
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
(90年代~?)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·10時間
帯を見て期待して読んだけど、『三四郎』を感じさせるのは、与次郎的なキャラがいることくらい。
全体の雰囲気は、書き手の自己陶酔、自意識過剰、気取りが、文章の表面ににじみ出ていて、延々、他人の自慢話を聞かされている気分にさせられる。→
午後7:57 · 2021年9月11日
 
ORの小説のことです。批判目的ではなく、「帯を見て期待して」読んだそうです。紹介文で持ち上げて、落とすやり方でしょうか。楽山の立場は、何でしょう、立場とかあるんでしょうか。アンチHSではなかったようです。人をあざむく者というのは、怖いです。
 
自己陶酔、自意識過剰、気取り、これは、自己愛性人格障害である楽山の特徴です。楽山は、アンチどころか、ORにあこがれていたのではないかと思います。HSの幹部になりたかったのではないでしょうか。いや、自分が教組になりたくて、妬んでいるのでしょうか。
 
ちなみに、私は、楽山を批判するようになってからは、楽山の記事を「期待して」読んだことはなく、「期待して読んだ」と書いたこともないです。楽山は、人の心に、すぐには気づかないような、汚いシミをつけてゆく人です。正体を知ってからは、クズだと思っています。
 
楽山が自認しているキャラは、バランスのとれた人物、アンチカルト、常識あるアドバイザー、宗教に通じている人、・・というところでしょうか。これらを、全部、否定形にすると、楽山の本性が浮き彫りになります。偏見・非常識・無恥・無知・無反省・無責任が、大根役者の楽山なのです。
 
 
 
 
 
 信仰について、2年前の記事より断片
 
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。
 
そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること。
 
そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
 
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一息つきます。再録です。今日と明日。
 
  他人・水・氷(再録)
 
 
  他人と自分
 
いろいろな能力それぞれに
とても優れた人がいる
うらやましい
その能力を持ちたいか
持ちたい
その人になりたいか
なりたくはない
 
疑うことを知らないような
信仰厚き人がいる
その信仰を持ちたいか
その人になりたいか
どちらも即座に
おぞましいことのように
気持ち悪いことのように
なりたくない
 
能力は人が生かすもの
人格は生きる人そのもの
信仰は人を生かすもの
 
他人がどうであれ
自分がどうであれ
他人になりたいか
 
なりたくなどないのである
 
(2010年12月30日)
 
 
  水の生き物
 
ガラスの内側でも
川の流れでも
お前は水
流れても淀んでも
腐っても
お前は水
コップに注いで
これから飲もうとする
イオンに洗われるか
細菌に吐かれるか
渇きを癒すか
下痢を来たすか
何も告げずに
今宵かすかな光に
揺らめいて屈折する
お前の前に
何も知らずに
受けるしかない
屈折した水の生き物
 
(1998年1月4日)
 
 
  氷たち
 
氷は自らを溶かしながら滑る
滑らせる
切れ味を試すように
溶けて役に立つ氷
溶けずに邪魔になる氷
人を悩ませる氷
人を殺す氷
美しい雪景の下に凍った人が眠る
人を殺さない氷
誰も悩ませない氷
邪魔にもならない氷
溶けても溶けなくても役に立たない氷
味のない氷
切れるものが何処にあろうか
自らを削ること以外に術(すべ)を持たない
氷は自らを溶かしながら滑る
滑った果てに消えてなくなるまで
注がれる眼差しもない僅(わず)かの
水を残しながら
水を干しながら
 
(1999年12月25日)
 
 
  冬の悲鳴
 
ひええっ
と細い木が立っていた
寒風に吹かれて
幹は揺れ
枝は震えながら
花も実も葉も落ちて痩せ細った裸のように
でも萎えてはいなかった
裸でもなかった
枝は天空のあらゆる方向を指していたし
幹は樹皮に覆われ揺れながらも
真っ直ぐ上に向かって立っていた
すでに春の訪れを知っているかのように
強(したた)かに芽吹きの準備をしているのだろう
とても冷たい風の強い日だった
気が立っているのか萎えているのか結局
ひええっ
だけが私のものだった
 
(2000年02月07日)
 
 
正義

正義?
 
 
(2020年12月31日、再録)
 
 
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  戦争の時代
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡で生まれた日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。そして、父と母は、中国の青島(チンタオ)で出会ったそうです。つまり、そういうことが可能になる時代に私の親は生きていました。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代、および、それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。
 
 
そして、平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているのではないかと思うことがあります。その若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように見ていた部分もありました。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画などと同じような、アクションの視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマンまで、裕次郎や、若大将の時代でもあり、1950~60年代です。私は、怪獣映画が大好きでした。
 
75年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。75年というのは、平均寿命より短いわけです。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと言えるでしょうか。
 
歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言われます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
美辞麗句を、やさしい顔で語るだけの政治家はいないでしょうか。
 
皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙運動のスピーチでした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃということだったのでしょう。
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。
 
美しい、正しい、ということが、目標ではなく、無条件の前提になってはいないでしょうか。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。
 
世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、そして、世界では、戦争が実際に起こっています。外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。
 
気づいておられるでしょうか。世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、以前より多くなってきています。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとでごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは徐々に進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
(2020年09月02日)
(2020年10月28日、一部修正)
 
 
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  会うということ
 
 
精神科の面接は "対決" とも呼ばれるくらい
自分の全人格の全神経を注いでも足りないくらいの
相対性に満ちています。
 
何々検査で異常値ですからあなたは統合失調症です
などという診断の成り立たない分野です。
自然科学で語れないところの多い分野です。
 
つまり、医学・医療の中で、
今も、面接が主要な診断の手段になっていて、
いちばん人文科学のお世話になっている
という、未発達の分野だということです。
 
精神医学が検査で分かるようになるか、
あり得ないとまでは言いません。
しかし、精神病が全部
検査で診断し薬で治る病気になる
と言い切れるかと言えば、ノーでしょう。
 
医学は、人体を基盤に発達してきました。
しかし、その中で精神医学は、
心という途方もない個人の秘密を探ってきたのです。
 
好きな詩があります。不正確かもしれませんが、
 
 病院には肉体の秘密がない
 
 したがって精神はますます多くを秘密にする
 
  (谷川俊太郎)
 
詩の入門書で見つけて感動した作品の一部です。
分かります。病院という場所は、
白っぽくて冷たくて、温もりも潤いもなくて、
自分の秘密を守りたくなる場所なのです。
 
私は適性もなく、自らの避けようのない必然から、
精神科を目指して医学部を受験した者です。
 
少なくとも
「好きなんよ」という博多弁?で、
面接の興味だけで、殆ど遊び心で、
未熟な医学生が面接すれば、
依存されて、痛い目に遭うだけなのです。
 
ただでさえ精神科の患者さんが抱えている秘密について
つまり病的な自我と思考について
率直に聞くということは素人には不可能なのです。
そして、一般に、やってはいけないことに分類されることです。
 
前にも書きましたが、乏しい私の体験からは、
精神科の患者さんに対しては、
"好意的な、よそよそしさ" を持つことが大切です。
 
つまり
別人格であるという意識と自覚と恐れと尊重が必要です。
だから最初は普通の敬語でなければいけません。
「なあんね」といったような砕けた聞き方は
親しみを込めたつもりでも、
馴染んでいないなら、雑であり、
相手を下に見ている乱暴な物言いです。
 
特に精神科に来る研修医の中には
精神的に劣った人を診てあげる
という上からの先入観が働いている場合があります。
そこが対等にならないと前には進めません。
 
精神科は、研修医にとって、医者にとって、過ごしやすい診療科です。
間違いが、はっきりデータとして出てこないからです。
全部、患者のせいにしても成り立つような未発達ぶりなのです。
ですから、なおのこと遊び半分で来てもらっては困るのです。
 
精神科の面接は
特殊な学問の知識、専門の知識と技とか、
そういったものが必要だから難しいと主張する向きには
なんだか怪しい高慢を感じます。
 
精神科医になった医師には、
少し変わった、半分病気のような、私のような者もいますが、
精神科医の適性は、それは、優劣ではなく、選抜でもなく、
ふつうの良心のある医学生であればよいのです。
 
精神科医の資格と適性は、高名な精神科医が決めることではありません。
誰も未だ、精神科医はこうでないといけない、とか言える段階にありません。
患者が精神科医と与え合う影響によって、
個別に決まってくるとしか言いようがないことです。
 
精神科医の適性について
自らの信念めいた決めつけを当ててくる医者は
それだけで、その医者こそが、不適性と言ってよいでしょう。
 
未だ自然科学たりえない未開の分野に
おのれの自我の思い込みを当てはめているからです。
 
そういう人間は、気取り屋で、気障で、
"ひらめきとしてね" などと平気で自慢を言ってきますし、
 
また、都合が悪くなると、
いつのまにか、いなくなったり、
踏切で素知らぬ顔をして空を見回して
知らぬふりをすることができる人であり、
 
精神科のみならず医者としての
さらには人間としての適性を疑うことになるのです。
 
"一期一会" という言葉は
一生に一度だけ会うというほどの誠意が必要だという意味らしいです。
その誠意がない人には
一生に一度も会わないことが幸いだと感じることもあります。
 
特殊な場合として
特殊な人格を持った医者と
特殊な人格を持った患者は
それぞれ医学部講師と医学生となっても
まるでカルト教祖とカルト信者のような関係が
持続することがあるようです。
そのことが、その二人以外の人に影響するなら
これ以上の災いはないのです。
 
出会うということの
恵みの不思議だけでなく
罪悪の不可解を思わざるを得ません。
 
 
近況:
 
母が入所している老健施設に行きました。今日の用事が何だったかを忘れそうなほど、暑くてぼうっとしたまま、受付から事務の人に教えられて、古い書類の切れ端と思っていたものの中に必要な本物があって、ありゃ・・という感じで、結局、入所手続きが済みました。
 
既に保健証は市役所で再発行してもらっていましたが、介護保険証と限度額認定証は、再発行してもらわなくてよかったのでした。再発行申請のための書類は、必要なかった。書類手続きは、昔から苦手でしたが、老化による健忘が加わって、自分独りで、空回りして、難渋していました。
 
あと、母のためのTシャツを持ってきてくださいと、前回、言われていて、そう言われても、家にあって、私に分かるのは、私用に買っておいた男性用Tシャツしか見当たらないので、それを2枚持っていって渡しておきました。
 
途中コンビニで、アイスを10個ほど買って、帰って来てすぐ、3個ほど、ガブガブ、サクサク、と食べました。週5日の宅配弁当があるのに、ついでに、パンとサンドイッチも買って置いてあります。母が施設にいるのに、今週は少しのんびりできるかな・・などと思っているのは甘いわけで、若い頃からの、ものぐさもいいとこです。
 
この成り行き、何とかしてくだせぇ・・と、神様に、母と私のこと、今後のこと、祈りました。拝。
 
 
(2020年08月18日)
 
 
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  理解?
 
 
文系・理系を問わず
理解というのは
心の解放感です
新しい方向へ広がることです
つまり始まることであって
決して完了することではありません
 
芸術でも学問でも
私の下手な数学でも
人間関係でも風景でも
ポエムでも同じです
 
論理でも情緒でも
理屈が合うのでも
無条件の感受でもよいのですが
 
解放感のないところには
何かが合ったのだと
完成したのだと
思い込もうとしている圧力を
自分に強いている自分がいるだけです
 
ただ厄介なことに
そういうとき
合ったのだから
合うのだからと
同じ圧力を
人にもかけてしまうことがあって
 
人は人間にがっかりして
ポエムも理路も腐ってしまうのですが
 
まさにそこから
反省できるかどうかが
いかなる理解も
先入観として貼りつくものになるか
さらに深い理解へ進めるかが
分かれてゆくでしょう。
 
理解はゴールではなく
完全ではなく保証ではなく
理解は通過点であり
欠くことのできない道しるべなのです
 
砕けるほどの失敗からでも
ポエムは泣きながら身をよじり
理路はときに転倒し仰天して
さらなる理解が
産声をあげてくることもあるのです
 
 
(2011年04月28日)
(2020年03月29日、修正再録)
 
 
  理解は成長する
 
 
先日、三平方の定理を再録しました。
高校の時か習った定理ですが
証明方法は30~100あるとも言われています。
 
直角三角形に
3つの正方形を加えた図から証明しようと
昔、考えてはみたのですが
数学が得意ではなく下手の横好きで考えても
証明できなくて諦めていました。
 
別の方法で証明しても解放感はそれなりで
 
合同、相似、平行、面積の公式などを用いて
3つの正方形を加えた図から証明して
理解を新たにしたのは
ずっと後のことです。
 
もちろん数学だけでなく
人文科学においても
人間関係においても
人物や思想の評価においても
信仰においても
理解は成長する
という性質を持っていると思います。
 
理解を固定して
分かった以上揺るがないものにしようと
固定する方向へ向かってしまうと
成長はなくなります。
理解も成長しなくなります。
 
何故なら
固定されたものは
理解そのものではなく
言葉の辻褄の暗記に過ぎないからです。
言葉と感動は、いずれ乖離してゆきます。
 
自然科学と人文科学があるように
理解は、理路だけではなく
直観や直感を多く含みます。
さらに
本当に理解したときには
いかなる分野であろうと
解放感という情緒的反応を伴います。
理解と辻褄合わせとの決定的な違いです。
 
理解は成長します。
それを阻むのは自分で固定してしまうことです。
人間は完全には分かっていない
という自覚の大切さを思います。
あらゆることにおいて
分からない自覚こそが成長を促します。
 
 
 神聖を分かった自覚で
 神の名のもとに
 自分で理解を言葉で固定して
 成長しなくなって
 何を言っても
 上から見下ろす態度で
 同じことしか言えなくなった者がいて
 間違いを認めず
 不都合をみな人のせいにします。
 
 
(2020年03月31日)
 
 
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