ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 理念・断片

 
  生存権
 
 
政治は何のためにあるのでしょう、この国の仕組みは何のためにあるのでしょう、法制度は何のためにあるのでしょう、警察は何のためにあるのでしょう、自衛力は何のためでしょう、あらゆる種まきと収穫は何のためにあるのでしょう、詐欺ではない正当な商業は何のためにあるのでしょう、あらゆる土木や建設の工事は何のためにあるのでしょう、あえて自然を壊し流通をよくすることがあるのは何のためでしょう、あらゆる楽しみは何のためにあるのでしょう、総ての医療は何のためにあるのでしょう、総てのお金は何のためにあるのでしょう、総ての勇気と価値ある働きは何のためにあるのでしょう、
 
生存権のためです。
 
日本国憲法第25条第1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 
私たち国民が生きるためです、生存するためです、私たちは動物ではないのだから目的と生き甲斐をもって生きるためです。決して一部の人々だけが笑って生きるためではなく、もれなく国民全員が活気をもって生きるためなのです。その権利こそが、生存権、と考えるべきなのです。
 
総ての理念と政策は、直接間接に、生存権を守る方向に向かっていなければなりません。その方向性において是非を判断するべきであります。
 
生存権は、国家の唯一の正当な成立条件だと思います。
 
 
 生存権について(2)
 
 
国家は国民の生存権を守るために存在し、
そのためのみに存在する。
 
生存権を守ろうとしない国家なら、
愛する必要はない。
愛国心は元々国が間違っているときに、
それを批判する精神を含む。
 
生存権とは:
 (1)生物学的生存権
 (2)存在権:尊厳を持って生きる権利
 (3)生活権:生き甲斐・目的などを持って生きる権利
 「尊厳」「生き甲斐」「目的」などは個人によって違うので
国家が直接与えられるものではない。
国家が守るべきものは(1)~(3)を可能にするために必要な
経済的また制度的基盤である。
 
生存権が、上記の(1)~(3)であり、
 (2)と(3)のように個人によって多様であるのだから、
 独裁政治の「逆らわなければ食わしてやる」といったものは、
 言うまでもないが、生存権を守ることにはならない。
 
生存権について前に書き込んだこと:
 「生存権を守れずして何が国家か
 と前に書きました。私は
 この権利に特にこだわっています。
 生存権:(1)生物学的生存権
 (2)存在権:尊厳を持って生きる権利
 (3)生活権:目的や生き甲斐を持って
  生きられる権利
理想としてではなく実際に
生存権を守れるか
という観点から具体的に考えてみると、
ある程度、様々な主義主張の
無理や嘘も見えてくるような気もします。
 
国家は組織だから
生き甲斐を直接与えることは出来ない。
しかし(1)~(3)の土台を作ることが
国家というものの根本ではないのか。
自由・人権・内政・外交あらゆるものが
生存権に関わっており、
生存権が前提である。私は
国というものの根本を
そこから考えてるべきだろう。
 
実現のためには国民、特に富裕者の大半が
その意欲を持っていなければなければならないが、
結果として、たとい無駄であっても、
その精神性を問うてみる政治家は現れないのかと、
一縷の、そして恐らく最後の、人類への期待を
この国と人間の世界に託してみたいわけであります。
 
金持ちの中にも社会に貢献したいという
気持ちを持っている人はいるだろうと思う。
もしいなければ話は終わりである。
 
でも金持ちの中には貧乏人と直接
関わりたくない人がいるだろうと思う。
卑しい人で変に依存されたら困るとか・・・だろうか。
卑しいから貧乏になるのか、
貧乏だから卑しくなるのか・・・
恐らく、私は、後者が多いだろうと思うし、それよりも
貧乏でも卑しくない人が多いと思っている。
 
一部を持って全体を判断してはいけない。
 
この国をどうしたいですか :
桁外れの金持ちと底なしの貧乏人が同居していて
心のすさんだ人が多くなり
自殺と人殺しが多くて治安も悪くなって
身を守るために自警団が必要になりそうな国ですか。
全体を改善するためには
大義のためには
弱者の犠牲は止むを得ないと考える国ですか。
 
貧富の差は、必ず生じるのだから
目指すべきなのは、
貧乏人がいなくなる社会ではなく、
貧乏人が元気でいられる社会です。
 
幸福になるための最低限の土台として
先ず衣食住とお金と
相談できる人間関係のある社会を
実現する方向性を持ち、
そのために具体的に努力している国と社会です。
 
 
 生存権について(3)
 
 
私たち人間の命は、一人一人、皆、この地上のどこかに、できちゃったものです。また、私たちは、一人一人、荒野に山頂に海の上に産み落とされるのではなく、大方、人間の集まりのコミュニティまたは人間社会の中に産み落とされます。
 
人々の中に生まれた私たちは、当然、人々から役に立つ人材として期待されます。生まれた子が望む前に、生まれたところの周りが役に立ってほしいと望むのならば、人々、すなわち、取り巻く社会は、生まれた一人一人を生存させる義務を負い、生まれた人は生存する権利を有する、と考えるべきでしょう。それが、生存権だと考えてみます。つまり、たとえ誰かのうっかりで、自分の意志ではなく生まれてきた私たちであったとしても、もれなく、生きる権利があるということです。
 
生存権を有するということは、人間の世界で生存して何らかの役割を期待されていることだから、それが具体的に何であるのか分からないあいだから、生きる権利とともに、生きて役に立とうとするための、また、役に立つために成長するための努力は義務でもあるでしょう。それは、法律で定められる以前から、自覚する必要としてあるのだろうと思います。
  
生存権というと、かわいそうな人がいるからお恵みを施して極貧の人たちも生きながらえるようにしてあげましょう、という、憐れみを施す慈善事業、そして国の中心ではない周辺事業と同じように結び付ける考え方のような傾向を感じます。はたして、生存ということは、もれなく一人一人全部なのに、まるでその気のある人がやればいい、という特別の憐れみのように、こぼれ落ちそうな周辺に置かれていてよいのでしょうか。中心ではないのでしょうか。
 
私たちは、生まれたくて生まれたわけではありません。まったく、他者の、すなわち、親の望みのみに従って、確率的に生まれてきたのです。このように、人間の命の始まりは、自分のためではなく、親のためにあるのです。それを尊いものとして、自分のために、人間世界のために、育てるのが生存権を守ることであります。したがって、そこには、生きる価値も、また、生きるには必要な糧も、含まれて、生存権なのです。
  
ですから、すべての政(まつりごと)の基本を、生存権に置くべきだと主張したいのです。すべての政策というものを考えてみると、外交も、経済も、防衛も、あらゆる法律も、そのために考えるのは、交渉するのは、何のためかということを考えると、結局、国民の生存権、さらに広げて、この国に今住んでいる人々の生存権に、結局、深く関わっていて、それ以上ではない、ということを申し上げたいのです。
  
すべての政策というものが、統計や数や理屈ではなく、生存権、即ち、私たちを含む全ての人が、健康で文化的な最低限度またはそれ以上の生活を営むためには、という視点でとらえない限り、成立しているとは言えない。つまり、結論を、金額ではなく、統計の数でもなく、法制度でもなく、論理的整合性のみでもなく、これで、人間が人間らしい生き方ができるか、という観点から改めて見てみる、ということを言いたいのです。
  
むしろ、法制度およびあらゆる政策は、そこを踏んでいないと、自己正当化の言い逃れや詭弁や、人間離れしたもの、さらにはもっと怖い勘定に変わってゆくでしょう。そこから生えてくるのは、人間感情の特に罪悪感の鈍麻、命の軽視、猟奇的犯罪、反社会的無差別の宗教じみた犯罪、そして戦争、などになってゆくでしょう。
  
思想の理屈倒れや、論理や統計の辻褄合わせや数合わせや、大事な人間的条件の見逃しや、人間無視の短絡や、ときに発せられるところの人間とは思えない暴言などを、予防して、かつ、政治の言葉を実のあるものにするために必要なのが、人間に本源的に与えられたところの、生存権であろうと思っています。生まれてきたからには、生きましょう、生きられる社会を作りましょう、その時その時の事柄について、どうでしょう、人間が、生きてゆくことが、無視されていないでしょうか、という問いを前提にするべきだと思います。
  
生存権:
 1.生物学的生存権:最低限の衣食住。
 2.存在権:尊厳をもって存在し生きられる権利。尊いと見なされる扱いを受ける権利。
 3.生活権;生き甲斐、あるいは、目的、などを持って意味のある生き方のできる権利。
と書いたことがあります。
 
上のほうにも書いたと思いますが、尊厳、生き甲斐、目的、といったようなことは、政治が法制度と財源をもって直接に与えられるものではありません。政治の目的は、そのような理念の実現を可能にする法的経済的基盤を提供することにあります。実際には、生存を与えることのできる力は、心ある人間関係における人間力しかない思います。大人になっても継続して勉強が必要になります。あらゆる人間の活動は法制度の条文に留まることなく、人間ならば・・というところまで、視野を持っておく必要があります。
  
 国家は国民の生存権を守るために存在し、
 そのためのみに存在する。
 
 
(2017年11月22日、あるいは、それ以前)
 
 
(2019年09月15日、修正加筆して一つの記事にしてます)
 
 
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  反原発
 
 
原発は
天災のみならず
ミサイルでも撃ち込まれれば
放射能をまき散らし
一基で一つの県が住めなくなる可能性もあるような
天災と人災の亡国の標的。
 
日本は地震と火山の多い地盤の不安定な国です。
原発には最も不向きな国だと思いますが、
今も海沿いの目立つところに堂々と並んでいます。
 
例えば総ての原発が爆発したら
日本に人の住める場所はなくなります。
 
総ての原発が事故なんてありえない
という弁明は成り立ちません。
何故なら原発1か所の事故だけで大惨事であり
前途の目途が立たなくなっているからです。
 
1mSv/日は、1年被爆すれば365mSv、
3年で1000mSvを超えます。
 
低い線量の定量的事実やデータをあげて
問題ないと言う人を警戒してください。
事実は恣意的に選択されているかもしれません。
 
事実は決して客観的ではありません。
常に選択されているものなのです。
 
無視されているのは
1.時間軸による累積線量と、
2.時に明らかになってきた高線量、例えば
 事故当初の、高線量でヘリが近づけないとか、
 最近の、汚染水が漏れて1億ベクレル、等々・・
 
放射能は
致死量を浴びるか
測って計器で見ないと分かりません。
 
且つ、水、空気、あらゆる媒体によって運ばれます。
どこに高い線量が現れるか分かりません。
 
測って高い線量と分かったとき既に被爆している
という性質を持ちます。
 
放射能は半減期以上の速度で減ることはありません。
 
政権は保証のない安全を宣伝して
放射能のリスク~危険を世界中に売り込んで
拡散しようとしているように思えてなりません。
 
 
(2014年05月05日、同日一部修正)
(2019年05月07日、修正)
 
今の子供たちが大人になった日、さらにその次の世代、
さらに・・、・・、・・のことを考えてほしいと思います。
 
 
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  コメントに書いたのですが、それだけでは足りないと思うので、
  私のコメントを記事にしておきます。
 
 
政治の:
 
あれが不起訴なら、国民は沈黙の羊になれ、無抵抗の奴隷になれ、ということになる。いったい何のために法治国家があるのか。
 
多くの国民は、今の平和と今の社会が、このまま正常に続くことを、なんとなく信じているのかもしれません。役人にも、そういう人が多くいるのかもしれません。
 
しかし、今、起こっていることは、戦後においては、前代未聞のことです。これほど次から次に罪と不正が隠蔽されたことはないのです。官庁も一役買っているとしか思えません。その中心にいて、影響を及ぼしている政権の長たる者が率先してやっているからです。
 
戦前から終戦までの政治のように、肌身に感じて初めて慌てる、ということが、またこの戦後70年以上経って、繰り返されるのでしょうか。
 
それこそ、奇兵隊のように、草莽決起でもして、戦争しろとは言わないが、デモと啓蒙活動によってABs排斥運動を起こさないと、どうにもならないかもしれない、という段階だと思います。
 
いくらなんでも、ひどい成り行きに、知識不足を承知で書いております。
前の前の記事も宜しく。
 
 
(2018年06月03日、同日一部修正)
  
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  aberration
    weblo英和辞典
https://ejje.weblio.jp/content/aberration
 
 
政治家は専門職ではない。
政治学者は専門職だが政治家は専門職ではない。
国民みんなに対して説明責任を負っているからだ。
 
 
   (私の過去のコメントから一部修正)
 
ABs「真摯に反省して二度とこういうことが起こらないように責任を果たしてゆく」
 「真摯に反省」は前にも聞いた。そして、隠蔽や、白々しい辻褄合わせや、詭弁など、その後の行為が、それを裏切ってきた。二度とこういうことが起こらないようにするには、こういうことが起こった中心にいるABSが辞める以外にないと思います。
 
 彼のスピーチは、上のような、本来重い言葉を、思い切りぺらぺらした軽い意味にしてしまいます。それが彼の体質だと思います。アタアタした口調だけではなく、時々ヘラヘラ笑うことだけではなく、彼の行為の経過と結果において、彼の生き方の薄っぺらさを表してきたと思います。この期に及んで、まだ政権の座にしがみつこうとすることも、その表れだと思います。
 
2018/6/2(土) 午後 5:54st5402jp
 
 Stop ABerration !
 
2018/6/2(土) 午後 6:10st5402jp
 
 ABsは、人生をゲームだと思っている類の人ではないか。だから、瞬間瞬間を、懸命に生きるのではなく、無視すれば時間は過ぎるという、恐ろしく自己中心の世界に住んでいるような気がしてならない。ABsに常識を求めるのは危険だと思う。常識があれば、今までの歴代の総理がそうであったように、もう辞めてる。
 
2018/6/2(土) 午後 6:14st5402jp
 
記事とは関係ない政治の:
 ABsが外国の首脳に語ることと、国民に語ることは、ほぼ同じような美辞麗句だ。外国の首脳はリップサービスを受け取りながら、中身がないことを承知だからほとんど問題にしない。日本国民は、無視できない数の人が、良さそうな感じだからと真に受けて票を入れるのだろう。
 
2018/6/1(金) 午後 0:55[ st5402jp ]
 
>民間の学園が既にコメントを出しており、
 
そのコメントが大問題であり、その責任を問うべきだと言っている。解決するべき大問題なのに、既に解決したかのように見せかけようとする無意味な詭弁。
 
 >政府としてそれに対してコメントする立場にない。
 
 政府は、コメントどころか、それを正す立場である。全く批判を受けての理路になっていない。
 
 >大事なことは、プロセスが公正、公平であったかどうか
 
 まさにそのために議論している。プロセスが、一貫して、公正でも公平でもないから、国会で議論している。答弁者は、成り立たない理路しか言わない。
 
2018/5/31(木) 午前 1:11[ st5402jp ]
 
 
 (その他の過去コメントなど、日時省略)
 
誰かに言われたのではなく、嘘でもなく、
 記憶がないと言うなら、大事なことについて記憶を喪失する責任を問われるべきです。
誰かに言われたのではなく、嘘でもなく、
 書類をなくしたのなら、歴史の資料となる大事な書類をなくした責任を問われるべきです。
 
反省して意見を修正して、訂正を表明するのではなく、権力側のよいように、事実を書き換える体質は、戦争中に猛威を振るった、という話をテレビで何度も見ましたが、今は、そのメディアが、権力に尻尾を振る時代になってしまっているのです。過去の怖い時代は、国民が肌身に感じる災いを結果としてもたらしました。今度はどうなるんでしょう。
 
彼の、追従するような意見には笑顔を見せて、批判的な質問には、冷静に答えるのではなく、打って変わったような、陰険な不快の表情か、へらへら笑って反応する、という単純に短絡した原始的な感情的な反応だけの性質を見るべきでしょう。
 
今の若い世代は、その親世代も戦争体験がありません。美味しい文句をそのまま、ノリで真に受ける傾向があるような気がします。そういう人間の体質を見抜けない若い世代がABSを支持して選挙で投票して支えているようです。戦後、今まで無かったほどに、とても危険なことが起こっているのです。胡散臭さへの免疫を持たないのです。
 
ABSの、失言を失言と認めたうえではなく議事録まで修正してしまうところが怖いです(例えば、立法府の長(誤)→行政府の長(正))。都合の悪いところを隠蔽偽装する体質が現れています。
 
カ池とカ計は、普通ならメディに出るか追いかけられて、発言や行動が報道されるはず。それが全くないのは、そうさせない者がいるから。最低限の良識の通用しない人がいて、これやるとマズい、ということに気づかないから、平気でブロックするのか、表れているのは、本当なら出てくるはずの人と情報が、出てこないという異常です。
 
現在、不祥事の中でも極めて不自然な状況を招いている。職責に対する弁えと覚悟があるとは思えない。だから、責任を全うしてもらいたいなどと、他人事のように言っている。責任、不祥事、悪、犯罪行為、というものを、無条件に自分から除外して、自分が責められるのは不当だと今でも思い込んでいるのだろうか。
 
戦争体験もなく戦争体験話も聞いていない若い世代はクールに無関心で、結局、肌身に感じるまで気づかないだろう。しかし気がつけば、右政権教育勅語大和魂なんてのに親和性もゼロだから、いつまでも黙っていないだろうし、その弾け方は、右も左も免疫なく生存権というよりサバイバルで暴れる。ある意味一番怖い世代か義理人情抜きで殺しまくる時代か。嘆くべきは、ソノトキ、ワタシタチノセダイハ、ウゴカズ、ハカノナカ、ツチノシタ・・
 
官僚は奉仕と保身をする人たちです。難局を招いたのは、他でもない、ABSです。この人中心に、ABSのためにと、怒らせちゃ怖いからと、今問題になっていることがすべて動いてきたとしか思えないでしょう。
 
チビタコという番組で、じ民党の、Y本一大きい滑稽議員は、この難局を乗り切れるのはABsしかいないと、強く弁護した。このことを忘れてはいけない。
今後の選挙で、あの人は、あの時に、あれほど、まるでスーパースターであるかのようにABsを弁護し、べた褒めした、ということを、選挙のたびごとに忘れずに言わなければいけないと思います。彼にとって、一生ついて回る経歴になるのです。AB弁護キャリア議員の代表のような人です。
 
メディアは大丈夫なのか。
まだ削除されずにあったもの・・
https://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/st5402jp
政権を直接批判すると削除されることがあると
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10152447800
あるブログが、突如なくなったことについての
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10158646215
 
言ってること一つ一つが詭弁にしかなり得ないようなことばかりだと思います。目の前の言葉に弁明の体裁だけを繕おうとする醜態だと思います。国会が駄目なら、国民運動以外にないと思います。国会での批判は、ABsの答弁を見ていると無意味ではないか。右も左もなく、100万人が東京に集まるくらいでないと・・言い過ぎだろうか・・。 
 
 
私は、おもにキリスト教の信仰についてブログを書いている者ですが、
前に、「その名は不思議」ブログの、shalom氏を批判していたときに、何度か、そのシャローム氏について、ABSの体質に似ている、そっくりだと書いたことがあります。
それが、私が、シャローム氏の、自己中心の無罪妄想の悪質カルト的教条主義と権威主義の偽善を批判する動機の最たるところでした。
 
今回は、宗教や信仰とは別の分野の記事になっていますが、人間とその産物を語る上では、別とは言えないところがあるような気もします。私などが予想さえしなかった、戦後から今までになかったような怖い時代が来ています。
 
わが神、わが神、
仰ぎ、乞い、願わくは、
どうか、この国をお守りください。
強き御手によって邪悪を懲らしめ、
この国と国民をお守りください。
無力な私をどうかお赦しください。
私と私の病んでいる母と兄をお守りください。
平和を愛するすべての人々をお守りください。
この祈り、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げいたします。アーメン
 
 
(2018年06月03日、同日一部修正)
(2018年06月16日、一部修正)
 
 
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以前、このブログの始めのほうに書いたことではありますが、
宗教から生まれた思想というわけでもなく、個人として、
夢を見ている甘ちゃんと言われるのは覚悟の上で、また書いておきたいのです。

 
 
  生存の叫び
 
 
国家は
国民の生存権を守るためにある。
 
 福祉が大事なのは分かってますけど・・
 
福祉も生活保護も必要ですが
それをもって
生存権国家と言うのではありません。
 
 他に何があるっていうんです?
 
自衛隊を持つのは何のためですか。
警察があるのは何のためですか。
法制度を整えるのは何のためですか。
 
国民の生存権を守るためです。
 
 治安ということですか
 
さらには
経済の仕組みを整えるのは生存権のためです。
国が治安を必要とするのは生存権のためです。
役所があるのは生存権のためです。
愛国心を学ぶのは生存権のためです。
外交に苦労するのは生存権のためです。
総て国民の生存権のためです。
 
生存権を守ることは
あらゆる政策の正当性の唯一の根拠です。
 
政府が
国を統治し
治安を維持し
国民に法律を守らせるのは
ただ国民の生存権を守るためです。
 
広く生存権には
1.生物学的生存権:生存権
2.尊厳としての生存権:存在権
3.社会生活のための生存権:生活権
があります。2と3は個性に関わります。
 
国民の
あらゆる自由と権利はそこにあります。
あらゆる責任と義務はそこにあります。
政府の
あらゆる責任と義務はそこにあります。
 
結果は出てみなければ分かりません。
経過においては説得力が物を言うでしょう。
 
少なくとも最悪ではなく
機会ごとの最善を目指すことになります。
 
ただ
最も大切な力はコミュニティの人間力です。
それを法制度が支えるべきだと言っています。
 
あらゆる法制度を生かすのは人間力です。
 
あらゆる法制度を殺すのは非人間力です。
 
人間は
かなり貧乏でも
良好な人間関係があれば生きるでしょう。
 
自分に関わってくれる人間と人間性が
あると思えない時
人間は生きていけなくなるでしょう。
 
貧乏人がいなくなる世界ではなく
貧乏人が元気でいられる世界を目指すべきです。
 
ここでは
結果がどうこうと言うことよりも
経過として努力の方向がそこにあり
あらゆる反省の理由がそこにあると言っています。
 
 
国家は
国民の生存権を守るためにあり
そのためのみに存在する。
 
国家は
国民の生存権を守るために統治し
それ以外の最終目標を持ってはならない。
 
そのためにのみ
国民は定められた法制度に従う義務を負う。
 
いかなる場合も
国民の生存権はその経過においても
実行においても思想においても
妨げられてはならない。
 
 
(2018年03月09日、同日一部修正)
 
 
 
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