ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 理念・断片

一息つきます。再録です。今日と明日。
 
  他人・水・氷(再録)
 
 
  他人と自分
 
いろいろな能力それぞれに
とても優れた人がいる
うらやましい
その能力を持ちたいか
持ちたい
その人になりたいか
なりたくはない
 
疑うことを知らないような
信仰厚き人がいる
その信仰を持ちたいか
その人になりたいか
どちらも即座に
おぞましいことのように
気持ち悪いことのように
なりたくない
 
能力は人が生かすもの
人格は生きる人そのもの
信仰は人を生かすもの
 
他人がどうであれ
自分がどうであれ
他人になりたいか
 
なりたくなどないのである
 
(2010年12月30日)
 
 
  水の生き物
 
ガラスの内側でも
川の流れでも
お前は水
流れても淀んでも
腐っても
お前は水
コップに注いで
これから飲もうとする
イオンに洗われるか
細菌に吐かれるか
渇きを癒すか
下痢を来たすか
何も告げずに
今宵かすかな光に
揺らめいて屈折する
お前の前に
何も知らずに
受けるしかない
屈折した水の生き物
 
(1998年1月4日)
 
 
  氷たち
 
氷は自らを溶かしながら滑る
滑らせる
切れ味を試すように
溶けて役に立つ氷
溶けずに邪魔になる氷
人を悩ませる氷
人を殺す氷
美しい雪景の下に凍った人が眠る
人を殺さない氷
誰も悩ませない氷
邪魔にもならない氷
溶けても溶けなくても役に立たない氷
味のない氷
切れるものが何処にあろうか
自らを削ること以外に術(すべ)を持たない
氷は自らを溶かしながら滑る
滑った果てに消えてなくなるまで
注がれる眼差しもない僅(わず)かの
水を残しながら
水を干しながら
 
(1999年12月25日)
 
 
  冬の悲鳴
 
ひええっ
と細い木が立っていた
寒風に吹かれて
幹は揺れ
枝は震えながら
花も実も葉も落ちて痩せ細った裸のように
でも萎えてはいなかった
裸でもなかった
枝は天空のあらゆる方向を指していたし
幹は樹皮に覆われ揺れながらも
真っ直ぐ上に向かって立っていた
すでに春の訪れを知っているかのように
強(したた)かに芽吹きの準備をしているのだろう
とても冷たい風の強い日だった
気が立っているのか萎えているのか結局
ひええっ
だけが私のものだった
 
(2000年02月07日)
 
 
正義

正義?
 
 
(2020年12月31日、再録)
 
 
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  戦争の時代
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡で生まれた日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。そして、父と母は、中国の青島(チンタオ)で出会ったそうです。つまり、そういうことが可能になる時代に私の親は生きていました。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代、および、それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。
 
 
そして、平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているのではないかと思うことがあります。その若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように見ていた部分もありました。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画などと同じような、アクションの視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマンまで、裕次郎や、若大将の時代でもあり、1950~60年代です。私は、怪獣映画が大好きでした。
 
75年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。75年というのは、平均寿命より短いわけです。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと言えるでしょうか。
 
歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言われます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
美辞麗句を、やさしい顔で語るだけの政治家はいないでしょうか。
 
皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙運動のスピーチでした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃということだったのでしょう。
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。
 
美しい、正しい、ということが、目標ではなく、無条件の前提になってはいないでしょうか。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。
 
世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、そして、世界では、戦争が実際に起こっています。外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。
 
気づいておられるでしょうか。世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、以前より多くなってきています。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとでごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは徐々に進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
(2020年09月02日)
(2020年10月28日、一部修正)
 
 
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  会うということ
 
 
精神科の面接は "対決" とも呼ばれるくらい
自分の全人格の全神経を注いでも足りないくらいの
相対性に満ちています。
 
何々検査で異常値ですからあなたは統合失調症です
などという診断の成り立たない分野です。
自然科学で語れないところの多い分野です。
 
つまり、医学・医療の中で、
今も、面接が主要な診断の手段になっていて、
いちばん人文科学のお世話になっている
という、未発達の分野だということです。
 
精神医学が検査で分かるようになるか、
あり得ないとまでは言いません。
しかし、精神病が全部
検査で診断し薬で治る病気になる
と言い切れるかと言えば、ノーでしょう。
 
医学は、人体を基盤に発達してきました。
しかし、その中で精神医学は、
心という途方もない個人の秘密を探ってきたのです。
 
好きな詩があります。不正確かもしれませんが、
 
 病院には肉体の秘密がない
 
 したがって精神はますます多くを秘密にする
 
  (谷川俊太郎)
 
詩の入門書で見つけて感動した作品の一部です。
分かります。病院という場所は、
白っぽくて冷たくて、温もりも潤いもなくて、
自分の秘密を守りたくなる場所なのです。
 
私は適性もなく、自らの避けようのない必然から、
精神科を目指して医学部を受験した者です。
 
少なくとも
「好きなんよ」という博多弁?で、
面接の興味だけで、殆ど遊び心で、
未熟な医学生が面接すれば、
依存されて、痛い目に遭うだけなのです。
 
ただでさえ精神科の患者さんが抱えている秘密について
つまり病的な自我と思考について
率直に聞くということは素人には不可能なのです。
そして、一般に、やってはいけないことに分類されることです。
 
前にも書きましたが、乏しい私の体験からは、
精神科の患者さんに対しては、
"好意的な、よそよそしさ" を持つことが大切です。
 
つまり
別人格であるという意識と自覚と恐れと尊重が必要です。
だから最初は普通の敬語でなければいけません。
「なあんね」といったような砕けた聞き方は
親しみを込めたつもりでも、
馴染んでいないなら、雑であり、
相手を下に見ている乱暴な物言いです。
 
特に精神科に来る研修医の中には
精神的に劣った人を診てあげる
という上からの先入観が働いている場合があります。
そこが対等にならないと前には進めません。
 
精神科は、研修医にとって、医者にとって、過ごしやすい診療科です。
間違いが、はっきりデータとして出てこないからです。
全部、患者のせいにしても成り立つような未発達ぶりなのです。
ですから、なおのこと遊び半分で来てもらっては困るのです。
 
精神科の面接は
特殊な学問の知識、専門の知識と技とか、
そういったものが必要だから難しいと主張する向きには
なんだか怪しい高慢を感じます。
 
精神科医になった医師には、
少し変わった、半分病気のような、私のような者もいますが、
精神科医の適性は、それは、優劣ではなく、選抜でもなく、
ふつうの良心のある医学生であればよいのです。
 
精神科医の資格と適性は、高名な精神科医が決めることではありません。
誰も未だ、精神科医はこうでないといけない、とか言える段階にありません。
患者が精神科医と与え合う影響によって、
個別に決まってくるとしか言いようがないことです。
 
精神科医の適性について
自らの信念めいた決めつけを当ててくる医者は
それだけで、その医者こそが、不適性と言ってよいでしょう。
 
未だ自然科学たりえない未開の分野に
おのれの自我の思い込みを当てはめているからです。
 
そういう人間は、気取り屋で、気障で、
"ひらめきとしてね" などと平気で自慢を言ってきますし、
 
また、都合が悪くなると、
いつのまにか、いなくなったり、
踏切で素知らぬ顔をして空を見回して
知らぬふりをすることができる人であり、
 
精神科のみならず医者としての
さらには人間としての適性を疑うことになるのです。
 
"一期一会" という言葉は
一生に一度だけ会うというほどの誠意が必要だという意味らしいです。
その誠意がない人には
一生に一度も会わないことが幸いだと感じることもあります。
 
特殊な場合として
特殊な人格を持った医者と
特殊な人格を持った患者は
それぞれ医学部講師と医学生となっても
まるでカルト教祖とカルト信者のような関係が
持続することがあるようです。
そのことが、その二人以外の人に影響するなら
これ以上の災いはないのです。
 
出会うということの
恵みの不思議だけでなく
罪悪の不可解を思わざるを得ません。
 
 
近況:
 
母が入所している老健施設に行きました。今日の用事が何だったかを忘れそうなほど、暑くてぼうっとしたまま、受付から事務の人に教えられて、古い書類の切れ端と思っていたものの中に必要な本物があって、ありゃ・・という感じで、結局、入所手続きが済みました。
 
既に保健証は市役所で再発行してもらっていましたが、介護保険証と限度額認定証は、再発行してもらわなくてよかったのでした。再発行申請のための書類は、必要なかった。書類手続きは、昔から苦手でしたが、老化による健忘が加わって、自分独りで、空回りして、難渋していました。
 
あと、母のためのTシャツを持ってきてくださいと、前回、言われていて、そう言われても、家にあって、私に分かるのは、私用に買っておいた男性用Tシャツしか見当たらないので、それを2枚持っていって渡しておきました。
 
途中コンビニで、アイスを10個ほど買って、帰って来てすぐ、3個ほど、ガブガブ、サクサク、と食べました。週5日の宅配弁当があるのに、ついでに、パンとサンドイッチも買って置いてあります。母が施設にいるのに、今週は少しのんびりできるかな・・などと思っているのは甘いわけで、若い頃からの、ものぐさもいいとこです。
 
この成り行き、何とかしてくだせぇ・・と、神様に、母と私のこと、今後のこと、祈りました。拝。
 
 
(2020年08月18日)
 
 
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  理解?
 
 
文系・理系を問わず
理解というのは
心の解放感です
新しい方向へ広がることです
つまり始まることであって
決して完了することではありません
 
芸術でも学問でも
私の下手な数学でも
人間関係でも風景でも
ポエムでも同じです
 
論理でも情緒でも
理屈が合うのでも
無条件の感受でもよいのですが
 
解放感のないところには
何かが合ったのだと
完成したのだと
思い込もうとしている圧力を
自分に強いている自分がいるだけです
 
ただ厄介なことに
そういうとき
合ったのだから
合うのだからと
同じ圧力を
人にもかけてしまうことがあって
 
人は人間にがっかりして
ポエムも理路も腐ってしまうのですが
 
まさにそこから
反省できるかどうかが
いかなる理解も
先入観として貼りつくものになるか
さらに深い理解へ進めるかが
分かれてゆくでしょう。
 
理解はゴールではなく
完全ではなく保証ではなく
理解は通過点であり
欠くことのできない道しるべなのです
 
砕けるほどの失敗からでも
ポエムは泣きながら身をよじり
理路はときに転倒し仰天して
さらなる理解が
産声をあげてくることもあるのです
 
 
(2011年04月28日)
(2020年03月29日、修正再録)
 
 
  理解は成長する
 
 
先日、三平方の定理を再録しました。
高校の時か習った定理ですが
証明方法は30~100あるとも言われています。
 
直角三角形に
3つの正方形を加えた図から証明しようと
昔、考えてはみたのですが
数学が得意ではなく下手の横好きで考えても
証明できなくて諦めていました。
 
別の方法で証明しても解放感はそれなりで
 
合同、相似、平行、面積の公式などを用いて
3つの正方形を加えた図から証明して
理解を新たにしたのは
ずっと後のことです。
 
もちろん数学だけでなく
人文科学においても
人間関係においても
人物や思想の評価においても
信仰においても
理解は成長する
という性質を持っていると思います。
 
理解を固定して
分かった以上揺るがないものにしようと
固定する方向へ向かってしまうと
成長はなくなります。
理解も成長しなくなります。
 
何故なら
固定されたものは
理解そのものではなく
言葉の辻褄の暗記に過ぎないからです。
言葉と感動は、いずれ乖離してゆきます。
 
自然科学と人文科学があるように
理解は、理路だけではなく
直観や直感を多く含みます。
さらに
本当に理解したときには
いかなる分野であろうと
解放感という情緒的反応を伴います。
理解と辻褄合わせとの決定的な違いです。
 
理解は成長します。
それを阻むのは自分で固定してしまうことです。
人間は完全には分かっていない
という自覚の大切さを思います。
あらゆることにおいて
分からない自覚こそが成長を促します。
 
 
 神聖を分かった自覚で
 神の名のもとに
 自分で理解を言葉で固定して
 成長しなくなって
 何を言っても
 上から見下ろす態度で
 同じことしか言えなくなった者がいて
 間違いを認めず
 不都合をみな人のせいにします。
 
 
(2020年03月31日)
 
 
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  生存権
 
 
政治は何のためにあるのでしょう、この国の仕組みは何のためにあるのでしょう、法制度は何のためにあるのでしょう、警察は何のためにあるのでしょう、自衛力は何のためでしょう、あらゆる種まきと収穫は何のためにあるのでしょう、詐欺ではない正当な商業は何のためにあるのでしょう、あらゆる土木や建設の工事は何のためにあるのでしょう、あえて自然を壊し流通をよくすることがあるのは何のためでしょう、あらゆる楽しみは何のためにあるのでしょう、総ての医療は何のためにあるのでしょう、総てのお金は何のためにあるのでしょう、総ての勇気と価値ある働きは何のためにあるのでしょう、
 
生存権のためです。
 
日本国憲法第25条第1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 
私たち国民が生きるためです、生存するためです、私たちは動物ではないのだから目的と生き甲斐をもって生きるためです。決して一部の人々だけが笑って生きるためではなく、もれなく国民全員が活気をもって生きるためなのです。その権利こそが、生存権、と考えるべきなのです。
 
総ての理念と政策は、直接間接に、生存権を守る方向に向かっていなければなりません。その方向性において是非を判断するべきであります。
 
生存権は、国家の唯一の正当な成立条件だと思います。
 
 
 生存権について(2)
 
 
国家は国民の生存権を守るために存在し、
そのためのみに存在する。
 
生存権を守ろうとしない国家なら、
愛する必要はない。
愛国心は元々国が間違っているときに、
それを批判する精神を含む。
 
生存権とは:
 (1)生物学的生存権
 (2)存在権:尊厳を持って生きる権利
 (3)生活権:生き甲斐・目的などを持って生きる権利
 「尊厳」「生き甲斐」「目的」などは個人によって違うので
国家が直接与えられるものではない。
国家が守るべきものは(1)~(3)を可能にするために必要な
経済的また制度的基盤である。
 
生存権が、上記の(1)~(3)であり、
 (2)と(3)のように個人によって多様であるのだから、
 独裁政治の「逆らわなければ食わしてやる」といったものは、
 言うまでもないが、生存権を守ることにはならない。
 
生存権について前に書き込んだこと:
 「生存権を守れずして何が国家か
 と前に書きました。私は
 この権利に特にこだわっています。
 生存権:(1)生物学的生存権
 (2)存在権:尊厳を持って生きる権利
 (3)生活権:目的や生き甲斐を持って
  生きられる権利
理想としてではなく実際に
生存権を守れるか
という観点から具体的に考えてみると、
ある程度、様々な主義主張の
無理や嘘も見えてくるような気もします。
 
国家は組織だから
生き甲斐を直接与えることは出来ない。
しかし(1)~(3)の土台を作ることが
国家というものの根本ではないのか。
自由・人権・内政・外交あらゆるものが
生存権に関わっており、
生存権が前提である。私は
国というものの根本を
そこから考えてるべきだろう。
 
実現のためには国民、特に富裕者の大半が
その意欲を持っていなければなければならないが、
結果として、たとい無駄であっても、
その精神性を問うてみる政治家は現れないのかと、
一縷の、そして恐らく最後の、人類への期待を
この国と人間の世界に託してみたいわけであります。
 
金持ちの中にも社会に貢献したいという
気持ちを持っている人はいるだろうと思う。
もしいなければ話は終わりである。
 
でも金持ちの中には貧乏人と直接
関わりたくない人がいるだろうと思う。
卑しい人で変に依存されたら困るとか・・・だろうか。
卑しいから貧乏になるのか、
貧乏だから卑しくなるのか・・・
恐らく、私は、後者が多いだろうと思うし、それよりも
貧乏でも卑しくない人が多いと思っている。
 
一部を持って全体を判断してはいけない。
 
この国をどうしたいですか :
桁外れの金持ちと底なしの貧乏人が同居していて
心のすさんだ人が多くなり
自殺と人殺しが多くて治安も悪くなって
身を守るために自警団が必要になりそうな国ですか。
全体を改善するためには
大義のためには
弱者の犠牲は止むを得ないと考える国ですか。
 
貧富の差は、必ず生じるのだから
目指すべきなのは、
貧乏人がいなくなる社会ではなく、
貧乏人が元気でいられる社会です。
 
幸福になるための最低限の土台として
先ず衣食住とお金と
相談できる人間関係のある社会を
実現する方向性を持ち、
そのために具体的に努力している国と社会です。
 
 
 生存権について(3)
 
 
私たち人間の命は、一人一人、皆、この地上のどこかに、できちゃったものです。また、私たちは、一人一人、荒野に山頂に海の上に産み落とされるのではなく、大方、人間の集まりのコミュニティまたは人間社会の中に産み落とされます。
 
人々の中に生まれた私たちは、当然、人々から役に立つ人材として期待されます。生まれた子が望む前に、生まれたところの周りが役に立ってほしいと望むのならば、人々、すなわち、取り巻く社会は、生まれた一人一人を生存させる義務を負い、生まれた人は生存する権利を有する、と考えるべきでしょう。それが、生存権だと考えてみます。つまり、たとえ誰かのうっかりで、自分の意志ではなく生まれてきた私たちであったとしても、もれなく、生きる権利があるということです。
 
生存権を有するということは、人間の世界で生存して何らかの役割を期待されていることだから、それが具体的に何であるのか分からないあいだから、生きる権利とともに、生きて役に立とうとするための、また、役に立つために成長するための努力は義務でもあるでしょう。それは、法律で定められる以前から、自覚する必要としてあるのだろうと思います。
  
生存権というと、かわいそうな人がいるからお恵みを施して極貧の人たちも生きながらえるようにしてあげましょう、という、憐れみを施す慈善事業、そして国の中心ではない周辺事業と同じように結び付ける考え方のような傾向を感じます。はたして、生存ということは、もれなく一人一人全部なのに、まるでその気のある人がやればいい、という特別の憐れみのように、こぼれ落ちそうな周辺に置かれていてよいのでしょうか。中心ではないのでしょうか。
 
私たちは、生まれたくて生まれたわけではありません。まったく、他者の、すなわち、親の望みのみに従って、確率的に生まれてきたのです。このように、人間の命の始まりは、自分のためではなく、親のためにあるのです。それを尊いものとして、自分のために、人間世界のために、育てるのが生存権を守ることであります。したがって、そこには、生きる価値も、また、生きるには必要な糧も、含まれて、生存権なのです。
  
ですから、すべての政(まつりごと)の基本を、生存権に置くべきだと主張したいのです。すべての政策というものを考えてみると、外交も、経済も、防衛も、あらゆる法律も、そのために考えるのは、交渉するのは、何のためかということを考えると、結局、国民の生存権、さらに広げて、この国に今住んでいる人々の生存権に、結局、深く関わっていて、それ以上ではない、ということを申し上げたいのです。
  
すべての政策というものが、統計や数や理屈ではなく、生存権、即ち、私たちを含む全ての人が、健康で文化的な最低限度またはそれ以上の生活を営むためには、という視点でとらえない限り、成立しているとは言えない。つまり、結論を、金額ではなく、統計の数でもなく、法制度でもなく、論理的整合性のみでもなく、これで、人間が人間らしい生き方ができるか、という観点から改めて見てみる、ということを言いたいのです。
  
むしろ、法制度およびあらゆる政策は、そこを踏んでいないと、自己正当化の言い逃れや詭弁や、人間離れしたもの、さらにはもっと怖い勘定に変わってゆくでしょう。そこから生えてくるのは、人間感情の特に罪悪感の鈍麻、命の軽視、猟奇的犯罪、反社会的無差別の宗教じみた犯罪、そして戦争、などになってゆくでしょう。
  
思想の理屈倒れや、論理や統計の辻褄合わせや数合わせや、大事な人間的条件の見逃しや、人間無視の短絡や、ときに発せられるところの人間とは思えない暴言などを、予防して、かつ、政治の言葉を実のあるものにするために必要なのが、人間に本源的に与えられたところの、生存権であろうと思っています。生まれてきたからには、生きましょう、生きられる社会を作りましょう、その時その時の事柄について、どうでしょう、人間が、生きてゆくことが、無視されていないでしょうか、という問いを前提にするべきだと思います。
  
生存権:
 1.生物学的生存権:最低限の衣食住。
 2.存在権:尊厳をもって存在し生きられる権利。尊いと見なされる扱いを受ける権利。
 3.生活権;生き甲斐、あるいは、目的、などを持って意味のある生き方のできる権利。
と書いたことがあります。
 
上のほうにも書いたと思いますが、尊厳、生き甲斐、目的、といったようなことは、政治が法制度と財源をもって直接に与えられるものではありません。政治の目的は、そのような理念の実現を可能にする法的経済的基盤を提供することにあります。実際には、生存を与えることのできる力は、心ある人間関係における人間力しかない思います。大人になっても継続して勉強が必要になります。あらゆる人間の活動は法制度の条文に留まることなく、人間ならば・・というところまで、視野を持っておく必要があります。
  
 国家は国民の生存権を守るために存在し、
 そのためのみに存在する。
 
 
(2017年11月22日、あるいは、それ以前)
 
 
(2019年09月15日、修正加筆して一つの記事にしてます)
 
 
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