今更あざとい
 
 『人生に悩んだから「聖書」に相談してみた』MARO(マロ)著
 2023年01月12日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
楽山には、ウイルスを使った疑いがあります。楽山に作れるとは思えないが、怪しいサイトから仕入れることは可能でしょう。もしそうだとすれば犯罪者ということになります。そこまでやってしまうというのは意外でした。根っからの悪ということでしょうか。
 
ウイルス攻撃が続いています。恥ずかしいという感情を持たないようです。楽山は、約4年も、批判に不感不応で、かつ、罪悪感がないようです。さらに、批判されながら弁明も説明もせずに無視して、なおも騙せると高を括って、平気で書き続けるのも異常です。
 
今まで、散々キリスト教を貶しておいて、ここで褒めればプラスマイナス=ゼロが成り立つと思っているのが大人になり損なった楽山です。謝罪も訂正もないまま、キリスト教を褒めてやった、これでチャラだとでも言いたいのでしょうか。むしろ、批判を続ける動機になります。嘘だからです。
 
 
*はじめに
 聖書の分かりやすい解説本はないかと探していたら、本書を見つけたので読んでみた。マロ氏の著作なら、面白くて、ためになるに違いないと思ったので。
 
「面白くて、ためになる」ことを全く書いたことのない楽山です。楽山は、聖書の解説を読んでも何も分からないと思います。聖書は、謙虚な良心に響く書物です。自己愛性パーソナリティ障害NPDが受け取れるようなことは何も書かれていません。ためになることを全て捨ててきたのが楽山です。
 
 
*教会
結果はと言うと、期待通り…いや期待以上だった。くすっと笑えるところ、心がほんのり温かくなるところ、聖書について「なるほど」と思える話が多々あった。
 
「くすっと笑える」「ほんのり温かくなる」「なるほど」・・全部、嘘です。何を笑ったのでしょう。なぜ暖かくなったのでしょう。何を理解したと言うのでしょう。何も書けない楽山です。自己愛しか持たない者が真善美を気取ると、こういう醜態になります。
 
 
二、三の例を挙げるとすると、まず一つは教会に関する記述である。教会は「すべての人に開かれている場所」であり、「クリスチャンではない人でも、つらいときは逃げ込んでいい」(p.22)のだという。また教会は行く場所というより、「「帰る」場所、すなわちホーム」(p.32)であるという。こういう話を聞くと、教会を身近に感じるし、その優しさは心にしみるものがある。
 
偽善者もサイコパスも、教会に逃げ込むことはないでしょう。こう書けばええじゃろと思って書いても、悪の本性が、それを裏切るのです。三文芝居は浮いてしまいます。本性は表れてしまい、隠すことは出来ないのです。なんて白々しい、そして、わざとらしいのでしょう。表現の心がありません。
 
 
*「いいこと図鑑」と「良書の証」
もう一つは、「いいこと図鑑」のすすめである。どうしても悪いことにばかりに注意が向いてしまう場合は、意識的にいいことを見つけ、日記に書き留め、自分だけのいいこと図鑑をつくろうというのである。いいこと図鑑、または、いいこと日記というのは想像するだけで気分が明るくなるし、いいアイディアだと思う。
 
楽山は、いいことを理解したことも書いたこともあません。この記事も悪だくみしか表れていません。浅く、白々しくて、軽すぎる筆致は、読むに耐えず、痒くなりそうです。楽山にあるのは、欺きの手引きだけでしょう。文脈を無視した飾りは言葉は浮いてきます。まともに書いた文章ではありません。
 
 
三つ目は、眠くなる本は良書の証だという話である。その理由はといえば…悪い演奏では寝ていられないが、良い演奏ではうとうとすることができる。同様に、おかしなことが書いてある本は不快でとても眠ることはできず、むしろ目が冴えてしまうことさえあろうが、いい本を読めば心は安らぎ、すやすやと眠ることになる。
 
楽山は、眠くなった状態で何を読み取ったというのでしょう。うとうとしながら何を理解したというのでしょう。楽山は、うとうとするのが理解だと言っています。楽山に無視を教えたのは読書だったようです。読めば読むほど集中するのが良書です。楽山は読書してないと思います。異常性の証拠になります。
 
 
したがって「有史以来、おそらく世界でもっとも多くの人を眠りに落とし込んでいる本であろう聖書は、世界でもっとも良い本である」(p.49)のだそうな。こういう風が吹けば桶屋が儲かる式の理屈は、実に愉快である。
 
正気でしょうか。楽山の悪意と無教養が漏れ出しています。しかも「風が吹けば桶屋が儲かる」という喩えを読書に当てはめています。楽山は、本を読むことを、眠くなることに喩えて、かつ、よく眠れるから良いと言っているのです。愉快だそうです。人格障害の、すごいズレ方です。
 
 
*「試練」と「誘惑」
四つ目は、聖書の言葉についての話であるが、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」(コリントⅠ 10:13)の「試練」は、ギリシア語では「誘惑」という意味もある言葉であり、本来は「越えられない困難はない」ではなく、「越えられない誘惑はない」と訳すのが本当であるという。だから越えられない試練は現実にありえるのだから、そういうときは、自分だけで苦しまずに神様を頼っていいのだと…。
 
どこの誰の説なのでしょうか、楽山は、書いていません。神の与える試練は、悪魔の誘惑を伴うこともあるのでしょう。「自分だけで苦しまずに神様を頼っていい」・・今さら、どの口が言わせるのでしょう?楽山は無神教カルトです。好きなようにキリスト教を貶めてきました。
 
 
この部分は長年、違和感があったところなのだが、この説明を読んで真夏に水浴した後のようなさっぱりした気分になることができて有り難い。やっぱりマロ氏の著作は面白くて、ためになる本である。
 
今さらのきれいごと、「真夏に水浴した後のような」・・鈍い比喩ですが、「越えられない試練は現実にありえる」・・信仰のない楽山は、できることもしないで言っています。また、信仰者の忍耐を甘く見ている楽山です。「面白くて、ためになる本」・・べた褒めの世辞しか言えない。
 
 
嘘の世辞の卑怯

嘘の世辞の卑怯
 
 
(2023年01月14日)
 
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、ウイルスを使った疑いがあります。楽山に作れるとは思えないが、怪しいサイトから仕入れることは可能でしょう。もしそうだとすれば、犯罪者ということになります。そこまでやってしまうというのはい意外でした。根っからの悪ということでしょうか。
 
 
 
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