ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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  凶暴な詭弁3
 
 『憎悪の宗教 ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」』定方晟著
 憎悪の宗教―ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」
 楽山日記(LD) 2020年04月12日 (再録+)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、獣性を抑制できなくなってきています。"聖なる憎悪"というのを肯定しているようです。神の怒りがどうであるかは、神に任されることです。私たちは、ただ、できることをしている姿を、神に捧げて、神の前でだけは正直に、祈るだけです。それが信仰だと思います。
 
 
タイトルから宗教批判の本だろうと見当をつけて読んでみたのだが、やはりその通りの本だった。この点、看板に偽りなしといえる。
 
これを、わざわざ書くというのは、強調でしょう。ようやくこの記事において、キリスト教への憎悪からの批判が楽山の本質であり本音であることが表れています。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の本性がむき出しになっているのです。
 
すなわち、今までの丁寧語やボンヤリ言語は、総て、作為の、うわべだけの、騙しの、刷り込みの、嘘っぱちであることを、楽山本人が認めたことになります。つまり、この記事によって、悪と敵意のモードに入っています。
 
今まで、反省という言葉は使っても、前後関係で反省が表れたことが一度もなく、一途にキリスト教とキリスト信仰を、子供だましの、実に軽く幼稚な筆致をもって、おとしめようとする意図だということを、楽山が表しているのです。それで、公共の場でも通用すると思っているのです。
 
このように、自己正当化の、訂正不能の、さらに、上から目線の、学者という他者の名による無責任筆致が、今まで、何の説得力も持たなかったのは、ナルシスト~サイコパスの、なんでも人のせいにするという、罪悪感と羞恥心の欠如、言い換えれば、良心の欠如によるのです。
 
 
自分の理解するところでは著者の主張はおよそ次のようなものである。聖書には、嫉妬、呪詛、復讐、虐殺などを肯定するかのような記述があふれており、その影響を受けた信者たちは歴史上、虐殺や破壊行為を行ってきた、キリスト教は表向きは愛を説いてはいるが、その裏には憎悪を隠している、聖書に基づく一神教は暴力的で危険な宗教であり、仏教の方がよほど平和的であり思想的にも深いものがある云々。
 
先ず、この記事は、さらに、この楽山ブログの宗教に関する記事は、楽山の、キリスト教への憎悪から、書かれていること。さらに他者の口を利用して、キリスト教を悪者にしようという意図が、今回は、はっきり表れています。
 
楽山自身の、嘘、偽り、詭弁、刷り込み、などについて、何の反省もしないで、楽山は、不遇だったから、そして、批判されたから、憎悪し、他者の口を借りて批判してくる、無根拠に貶(おとし)めてくる、という、この事実から、自己中という不都合を総て人のせいにする等々。
 
今まで私が書いてきたことが実現しているわけです。楽山はホラーです。楽山は、キリスト者から批判されて、おのれを振り返る反省も節操もなく、私のせいにし、神のせいにし、また、キリスト教のせいにし、しかも今までのように詭弁を手段としてボンヤリ言語で書いてきました。
 
そして、ごまかすことをやめたのか、と思ったら、このあと、また、理路にならない理屈を、引用元についても述べて、既に、助けを借りている引用元をなじり、結局、中立で正しいのは自分だけ、ということを出してくる卑怯さなのです。
 
敵と味方であろうとなかろうと、いちばん嫌で、いちばん関わりたくなく、いちばん、どんなに批判しても足りないと思うのは、"卑怯者"であります。楽山というナルシストが、いかに、悪意に満ちているか、そして、いかに、自分を飾らないではおれないか、ということが表れています。
 
 
自分には、こういう著者の主張にはなるほどと思えるところと、違和感を感ずるところが二つずつあった。
まず納得できたところとしては、一神教と復讐の関係についてだ。前々からハリウッド映画などを見ていて、復讐ものがやたらと多いことを不思議に思っていたのだけれども、著者の主張からすると、どうやらこれには宗教が関係しているらしい。
 
楽山は、キリスト教を、映画の復讐劇で語ろうとしています。復讐は神に任せよ、とは言われていますが、それは、神の裁きに任せよ、ということを言っているのです。神の名によって復讐するのは、信仰でも宗教でもありません。
 
まるで、人情の、刃傷の、殺し合いの、かたき討ちのような、憎悪vs憎悪に、神聖の裁きを持ち出した時点で、楽山は、アウトなのです。このように、楽山が、いかに、神を、自分より劣った人格のように見ているか、という証拠で在り、悪魔性なのです。
 
全知全能、完全絶対、永遠不変、という神を、人間には不可知という想定では気が済まず、楽山は、自分の、甚だ、みすぼらしい人間無理解と宗教曲解を、神に当てはめてくるのですから、キリスト者としては、たまったものではありません。
 
楽山は、神を手のひらに置きたがるほどの、思い上がりと欲望の人、なのに、思考の貧困者なのです。勘違いを、勘違いであげつらい、勘違いと気づかず、満悦して、人の言うことを聞かないものだから、さらに、勘違いで勘違いを深く深く、直腸指診のように、臭く掘ってゆくのでしょう。
 
 
邦画では復讐ものといえば忠臣蔵が有名だけれども、その他はあまりないように思うし、仮にあったとしても、復讐は空しいだとか、恨み心では恨みは解けぬという方向に進みがちだ。
 
忠臣蔵をあげてきました。忠臣蔵は、たくさんの映画とドラマになっていますが、復讐を美化するだけでしょうか。復讐劇は、現代劇もありますし、多くの復讐劇は、そこに考えるべき人間の課題を提供しているのであります。
 
しかし、ヒーロー気取りで、そういう広い視野を持たない楽山は、人間が考えるべき課題を、卑しい反宗教のための食材にしているだけで、まるで考えていません。アドラー教に従ったつもりで、自分の課題ではないと思っているのでしょうか。
 
 
でもハリウッド映画など欧米の映画には復讐ものは多いし、和解、許しの方向に向かうことも殆どなく、主人公が復讐を成し遂げることで観客は爽快感を得る筋書きになっているものばかりだ。主人公が仇に向かって「地獄に堕ちろ」と暴言を吐くことも珍しくない。この差の背景に復讐を是とする宗教があるというのは、よく納得できる話だ。
 
楽山には、敵に向かって「地獄に落ちろ」というのは、ただの暴言でしょうか。復讐を果たさないとしても、人間は、公の裁きが十分に働かない場合には、敵に対する怒りと憎しみが増大するということに、それは正しくないと言うだけの評価をして、満悦するのです。
 
このように、単純な道徳であっさり否定して、何の共感も表現せず、言い得たと思う楽山なのです。深い意味を考えず、深い情感を感じない、こういうのを、一面的思考というのでしょう。しかも、それを、宗教と神に当てはめるのだから、楽山の理解は、単純すぎて拙劣すぎて、恐怖なのです。
 
 
もう一つ、なるほどと思えたのは、ユダについての話だ。著者によると、『ユダの弁護人』(イェンス著、ヨルダン社)という物語では、ユダは神に対してもっとも敬虔で従順であったがゆえに、イエスを裏切るという他の誰にも果たせないほどの大きな使命を与えられ、この使命を果たし神の計画を実現させて殉教したのだから聖人とすべきだという主張がなされているらしい。
これは冗談なのか、本気なのか判然としないが、すべては神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然ではあるだろう。
 
だまされないでください。責任逃れに「冗談なのか、本気なのか判然としない」と書いていながら、「当然ではあるだろう」と結論している楽山です。楽山は、こういう汚い書き方をします。楽山の悪意の闇は、こういうところから明らかになってきました。

ユダが敬虔で従順であったということが聖書に書いてあるのでしょうか。書いてあるなら引用するべきでしょう。既に、楽山が、聖書を、まるで読み取っていないことが明らかになっています。
 
またしても、知恵の足りない、勉強も足りない、そのくせ思い上がる楽山は、ユダを英雄化したいようです。ユダが、金にこだわる男であったことは聖書に書いてあるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:3
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。 
12:4-5
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。 
12:6
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
 (ヨハネ書12:3-6、新約聖書)
 
楽山が「神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然」と書いています。反キリストの本性を隠さなくなったということです。楽山は、ユダが大好きな、キリスト教に対する破壊者であるという私の判断が証明されています。
 
ユダについて、同情できるのは、ただ一点、キリストを売って死に至らしめたことを、後悔していることです。ここが、いわば、性格としては、ユダと楽山の違いです。ユダは後悔する人、楽山は、他者を無視して、後悔しない人。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、裏切った後、悔いて、自殺しました。楽山は、ユダを利用して、キリストを、今殺しているようなものです。宗教に関しての楽山の殺意は、ユダに勝るとも劣らない悪魔性に貫かれているようです。楽山のこの記事を見ていると、ユダがかわいそうに思えてきます。
 
 
ユダであっても救われるという話は、『ライ麦畑でつかまえて』で読んだことはあり一理あると思ったのだったが、ユダは殉教者であり、聖人だという主張には驚かされるが、こういう主張は本当に興味深いものだと思う。ちなみに著者は仏教における提婆達多の評価と、キリスト教におけるユダの評価とを比べて、仏教の優位性を説いているが、このようなユダの解釈が出現したことで、キリスト教もようやく仏教のレベルに近づいてきたかのように書いている。
 
聖書を逆説的に解釈する、というのは、ゆくゆく参考になるかもしれない一つの解釈のあり方です。しかし、楽山は、悪意で受け取り、キリスト教を侮辱しているに過ぎません。何の成長も期待できない人格のむごたらしさを、楽山が体現しています。
 
そして、キリスト教が仏教レベルに近づいてきたかのよう・・と言っています。楽山の破壊された理路において、キリスト教も仏教も、同じ尺度で単純に測れると思っている時点で、アウトです。楽山は、結局、自分を高めたいだけの男ですから、仏教の方々も、気をつけたほうがよいと思います。
 
楽山のお気楽宗教品評会は、総ての、真面目な宗教人の敵です。何も分からないくせに、鼻ヒクヒク高々に得意がって見栄を張ってきただけの自己愛性人格障害者です。
 
どうか、楽山という、この果てしない自己絶対化の、ごまかし詐欺師と、このハンドルネームを忘れないでください。最後まで実名が分からないことに、楽山はしがみつくでしょうから。
 
 
次に本書のなかで違和感があった部分について書いてみると、まず一つは著者は仏教を理想化しすぎているのではないかということだ。歴史を振り返れば、仏教は公権力と深く関係したり、僧兵を抱えていたり、一揆とも関わっていたのであろうし、昨今でも仏教系のカルト教団が問題となっているだろうし、この点からすれば仏教は著者が言うほど平和的であるとは言えないように思う。また著者の聖書解釈は、その記述を最大限に悪い方向に解釈し、現代の基準によって批判を加えるという形になっているようだ。
 
何でも、単方向にしか考えられず、今度は、仏教をおとしめています。結局、自分が、いちばん柔和で中立だという教祖願望の表れです。とても、醜く卑怯なインチキ教祖になるでしょう。どこまでも腐った根性だけが噴き出してくる楽山です。
 
褒めた後で、仏教を理想化しすぎ、と言っています。楽山は、自分はバランスが取れていて、偏りがない、と思われたいのです。褒めたり、批判したりが、同居しているのが、楽山です。つまり、こういう人の主張は、信頼するに値しないということです。
 
こういう筆致は、暫定的な結論さえ出せない、つまり、まとまった主張を持たない、という経過になってきたのでしょう。いい加減さが目立ってきて相手にされない者が、自分だけ、通ると思っているナルシストの誇大妄想の偽りがここにあります。
 
反キリストのシャロームが、身勝手信じ込みの醜い妄想的確信によって、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、人だけがするべき悔い改めを、神が与えたらする、と言って悔い改めないのを、楽山は、無条件で支持しています。
 
シャロームと楽山は、ともに凶暴な、反キリスト、反宗教です。なお、キリスト教系カルトというのは、キリスト教を曲解して出来ています。同じように、仏教系カルトは、仏教の曲解か悪用なのでしょう。両方とも、理解できないばかりでなく、反省もせずに、曲解して、否定しているのが楽山です。
 
宗教とカルト、両者は全然違うのですが、楽山は、カルトの問題があることを、仏教が平和的でないことの根拠の一つとしているところ、見逃さないでください。勝手に決めて、表面的で、ゴシップ的で、一方、本質に入ることなく、万事、いい加減な、怠慢な、詭弁屋の、楽山です。
 
 
でも本来は聖書に限らず、古典聖典を理解しようとするときは、それが書かれた当時の状況を勘案し、かつその記述がどのように解釈され、実践されてきたかを考慮せずしては、正当な批判は行い難いのではなかろうか。
 
正当に反している典型が、凶暴なナルシスト、それこそ、楽山なのです。決して、気を許してはいけません。誰にとっても、出会うことが、そのまま、不幸としか言いようのない男です。楽山に同調することは、田舎の香水(肥溜め)に浸かるようなものです。偽善者のサイコパス、楽山、論外の大嘘です。
 
 
著者の聖書解釈と批判はこの辺りについてはやや説得力を欠くところが無くもないし、巻末の寸劇は風刺、皮肉というより、ヘイトに傾いているのは残念に思う。
 
ここでも、分かるように、楽山は、まるで、自分を中立の高みに置いて批評する気分で書くのです。引用しておきながら、「説得力を欠」いて「ヘイトに傾いている」「残念」などと、中立を装います。だから、神をも恐れず、自分を高めて、堕ちてゆく落差を自分で作ってゆくのです。
 
いちばん「説得力を欠」いているのは、詭弁屋の楽山です。ベースには、人間と社会へのヘイト、即ち、憎しみと怨念があると思います。誰の役にも立たず、無機能、かつ、有害な、インテリ気取りです。
 
実際には、このことから、自分の言い分の根拠にした後は用はない、とでも言うような、他者を使い捨てと見ている楽山の自己中と底知れない悪意の魂胆が見え隠れしているわけです。
 
楽山は、自分だけは、キリスト教よりも、仏教よりも、中立だから出来がよいとでも言いたげな、自慢と慢心があることを見逃さないでください。楽山は、中立ではなく、どこにも、よって立つ所がない人なのです。楽山ブログは、自慰行為に過ぎません。
 
そして、このような魂胆を見るたびに、私は、楽山に対して、一片の同情の余地もない病質者であることを再確認するという経過となっています。
 
自己修正不能の楽山とシャロームが反面教師として残す教訓は、人間が自分を絶対化すると、このような思慮と情緒の人格破壊が進むということです。ここが、自己愛性人格障害という病と、単純に自慢したがる性格特徴だけの人との、決定的な違いです。言うまでもなく、楽山は前者です。
 
楽山とシャロームについては、同一人物の成りすましも、疑うべきかもしれません。
 
単純に自慢好きなだけの人というのは、自慢するけれど、自分のせいで大きなトラブルが起きたりすると、打って変わって、驚いて、慌てて反省もするでしょう。それと楽山は全然違います。
 
そういう、がっかりして、後悔して、反省して、というのが、全くないのが自己愛性人格障害です。そして、彼らは、柔和を装います。うわべの丁寧語を真に受けないでください。
 
ひどくなれば、人を傷つけ、殺しても、罪悪感が湧かず、むしろ、笑っていられる人格です。犯罪行為に及べば、警察の仕事になります。それ以前に、できることは、批判だけなのです。
 
言論の義務としての双方向を守らない者に、言論の権利はありません。言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、ケダモノ根性の荒らしです。したがって、楽山には、言論の権利も自由もありません。楽山は、そういう乱暴者として既に資料になっています。それだけです。
 
 
凶暴な偽善者

凶暴な偽善者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月19日、再録+加筆)
 
 
 
  偶像イズム
 
イズムがあふれている
思想ならばいい
倫理でもよかろう
人には考える自由があるのだから
人の知恵であることを知る限りは
それゆえ間違うこともあると
知っている限りは
 
主イエスを慕い
我が主と呼びながら
腹の中にある
偶像の腐敗を
まだ消化しきれずにいる
 
それに気づいていながら
まだ気づかないもののために
私は癒しと恵みを受けながら
主を裏切り続けている
 
思い上がってはいけない
主の御名をみだりに唱えてはならない
 
信仰が
限りある人の知恵と知識を振り回し
神の御名の下に命令を掲げるとき
その信仰は
思い込みか偶像である
 
本質的なところでは
信仰は
○○イズムになるような
イデオロギーでも教条ではない
 
多くの宗教人が信仰の名の下に
そして間違うことのない絶対者の名の下に
間違っている
 
 
弟子たちは
ゆくゆく誰が一番偉くなるか
などと議論していたらしいが
 
主は人の罪を贖うために
その生涯の結末もご存知であった
 
総て承知の上で
地上に来られたのである
 
罪深い人間を救うために
精神と肉体と命の全てを捧げるために
人間に最高の共感を表すために
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
 (マタイ26:38-39、新約聖書)
 
そして、私たちは、次のような有り様なのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)26:40
それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 
 (マタイ26:40、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)13:14
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
 (マタイ13:14、新約聖書)
 
そして、次のような罪を犯しています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
新共同訳において「女」を「人の妻」と書き換えました。この罪は偽善であります。
 
神レベルの教えであり、人が守れない不完全からの罪深さ、つまり、既に、あなたがたは罪人なのだ・・という原罪の自覚からの神への恐れと信仰の義という不可欠なテーマを表しています。それを、不倫はいけないですよね・・という言い古された安い道徳におとしめてしまった軽薄な誤訳であります。
 
 
 
神を恐れず、虐殺の果てに、なお、反省せず、改めず、正義めいた嘘を吐き続けている偽善の指導者、また、それを支持している偽善の宗教指導者が、露者にもいるようです。あれだけ殺しておきながら、政治信条?とか語れるのは、罪悪感の欠如であり、到底、人間とは思えません。
 
 ※ 
 ロシアは、ウラジミルВладимир・プーチン、ウクライナは、ウォロディミル/ウラジーミルВолодимир/Влади мир・ゼレンスキーで、名前のほう、ほぼ?同じみたいで、以前の記事で、裏地見る・・と皮肉ったのは、プーチンのほうでしたが、不適切でした。失礼いたしました。
 
被害者にお構いなく、加害者が、自己正当化の妄想と詭弁と嘘を言い続けている有り様は、楽山と、とても似ています。もはや、人間とも信仰者とも思えない人々が、さらなる災いを及ぼして、人間の最も醜いさまを表しています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
聖書が教える義の欠片も、理解せず、守ったこともなく、正しい解釈への思考をすべて捨て去って、だましと嫌がらせに人生の大部分を費やしてきた楽山は、人であり続けることが出来ず、ダークサイドに堕ちて、白々しい嘘で自分を飾り、物を言えば悪臭に塗れている自分を表してゆきます。
 
 
 
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  また逃げている楽山
 
 「まだ追いかけて批判してた」を見た。
 2021年11月20日 楽山日記(LD)
 
 
緊急速報的に、楽山と付き合うと、災難に巻き込まれるという事件です。人の迷惑を省みない楽山の悪あがきです。ずるずる人を巻き込んでくる楽山です。根腐れの特徴です。
 
何も理解せずに書いてくる。悪いことは総て相手のせいにする。平気で他人を巻き込む。こういう人には、本当の友達はいません。ネットの他人も、本を書く有名人も、利用する対象なのです。楽山には、決して関わらないでください。
 
*謝罪
マリアさんが、こんな記事を書いていた。
・まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋
https://magtaranomaria.blog.fc2.com/blog-entry-8539.html
 」(この記事の後半で批判)
これはstさんのことだろうか。もしそうなら、stさんは私の前記事を見て、マリアさんのところに行ったのかもしれない。迷惑かけて、すみません。
 
楽山らしく、行ったのかもしれないと、邪推している。今日は、自称マグダラも批判します。嫌なHNを思い出させてくれる楽山です。巻き込みたいのでしょうか。卑劣。
 
*同感
それはそうと、マリアさんは当該記事で、stさんに関してはスルーもやむなしとしているようだ。前の記事と合わせると、無視はよくないが、やむをえず、そうしなければならない場合もあるということかな…。
それなら私も同感である。こういっては何だけど、stさんの批判記事は曲解、投影、邪推ばかりだ(1、2、3)。申し訳ないが、そんな無駄話に付き合っている暇はないのだから仕方がない。
 
自称マグダラは、ご無沙汰でした。スルーで結構です。楽山は、こちらを、スルーと称して、無視し続けていますが、書いてくることが、いちいち、偏見と妄想と自己満なので、批判し続ける以外ないのです。
 
*コメント欄
マリアさんの記事を読んで思い出したが、ヤフー時代のstさんは、他ブログのコメント欄に押しかけて暴れてたのだった。
 
「暴れてた」は、楽山らしい悪口の汚い決めつけです。ヤフー時代の楽山(自由)は、今と同様、卑怯者でした。そして、書くには書くが、批判を無視して弁明しない自己愛性人格障害の体質が、バレてきたのです。
 
これは楽山ブログでも同様で、しょっちゅう押しかけてきてはシャローム批判を書きなぐっていた。
 
「押しかけて」「書きなぐって」・・印象操作です。楽山は、実質的に、視野は暗く、悪口だけで反応して、あとは理解できずに無視し、幼稚な戯れ言の言語しか持たず、それをもって、宗教や神を語るので、今も批判対象であります。
 
やがては楽山も批判対象となった。シャロームさんはstさんの傍若無人な振る舞いを注意してたが、stさんはこれに従うことはなかった。私の方からも、stさんは十回レベルの連投が連発してたので、せめて連投は五回程度にしてほしいと頼んだこともあったが駄目だった。
 
私は、約10年間、シャロームの、牧師はおろかキリスト者とも思えない傍若無人の発言を批判してきたのです。罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える、・・この発言は、決定的でした。それを書くように誘導している、シャロームの友か成りすましの楽山です。
 
ところが、ある日stさんは、私との議論中、突然「あなたは怖ろしい人だ」というようなことをいって逃げて行き、それ以降、楽山ブログのコメ欄には来なくなったのだった。
私の発言のどれかがstさんの急所に刺さったのだとすれば申し訳ないことをしたと思う。
 
サスペンスの主人公になりたいのでしょうか。楽山には、挙動不審のため、通行人も無理です。コメント欄に書かないのは、じっくり記事に書いたほうがミスが少なくてよいと思ったから。何せ、楽山は、揚げ足取りしかできないので。
 
「stさんの急所に刺さったのだとすれば申し訳ないことをしたと思う」・・楽山に、こういう誠意など無いことが分かっていますから、また、楽山は嘘を積み重ねたことになります。神は、全てを見ておられます。そこが、信仰の節操があるかないか、ということです。
 
*継続中
マリアさんの記事によれば、どうやらstさんの「楽山」監視活動は継続中のようだ。
 
まるで、初めて知ったかのような書き方をしているが、生きているあいだ、異常人格に対しては、監視が必要です。
 
恥ずかしながら、私は議論した相手から粘着されるのはこれで三人目である。いや数え方によっては四人目ともいえるかな…。
 
批判するほうが悪いという印象を刷り込むために、「粘着」と言っていますが、批判されて、何も答えず、記事を書き続けるほうが、よほど粘着なのです。何も答えることなく書き続ける・・これは、ふつう出来ないことです。真実と言論への感受性がないのだろうと思います。
 
これは私の言葉がキツくて恨みを買ったのと、粘着質な人を相手にしてしまったためなのだろうが、この点はよくよく反省しなければならないなと思う。
 
すごいですね。ここで、「反省」とか書いています。反省するなら、3年分の記事を読んで既に反省しているはずです。だまされないでください。楽山は、こういう嘘を平気で吐く人です。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山を、決して自由にさせてはいけません。要監視の危険人物です。
 
 
 マグダラのマリアの部屋
 まだ追いかけて批判してた
 2021年11月18日 (木) 
 
 
自称マグダラを一言でいえば、"ヒステリックなばあちゃん" ということです。しかし、ばあちゃんではないかもしれないし、女でもないかもしれないし、自称ヨシュアと同一かもしれないし、楽山と仲がいいなら、楽山の成りすましかもしれない、など、考えることはいっぱいあります。
 
信仰に命懸け・・みたいな、信仰自慢を吹いていました。こういう態度が、敬虔に反するとは、考えないようです。自称ヨシュアは、教えを守って完全になる行為義認が信仰と思っており、信仰義認など関係ない人です。マグダラのマリアの名を名乗っても、傲慢しか見えては来ません。
 
まだ追いかけて批判してた。苦笑
私の別ブログの方に、履歴がついて
ブログ名が前のヤフー時代と同じだから、
別ブログに、来たのがわかったのだけれど、
 
追いかけるなら、このように記事を書いて、正面から批判するわけです。楽山が引用していたから批判しました。自称マグダラが書いたから、今、批判しているということです。逆らうと、豹変して、凄まじい決めつけと、激しい罵詈雑言を、返してくるのが特徴です。
 
粘着する、相手を変えて、
まだ延々と追いかけて粘着してた。
 
批判を続けるのは、楽山などが、キリスト信仰について、真逆の、あるいは、支離滅裂のことを書き続けているからです。シャローム、自称ヨシュア、そして、自称マグダラ、などもです。批判を続けることを、根拠もなく、自称マグダラも、楽山も、「粘着」と呼んでいます。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDによる思い込みだけの自己正当化に粘着して、記事を書き続けているのは、楽山です。この男を、好きなようにさせてはいけません。批判できる人は、いつまでも、批判を続けないといけません。それが、今は、私だけという現状です。
 
反応しないより、少しでも反応するとか、
記事を書いてるから批判しやすいと思ってるのか、、
 
自称マグダラのメチャクチャな爆発反応でしたから、こちらも、退きました。楽山が引用していなければ、批判することはなかったでしょう。また、こういう記事を書かなければ、ここで批判することはなかったでしょう。
 
相手を鞍替え後も同じように粘着してて、
お気の毒に、、。
 
悪口のあとに「お気の毒に」・・相変わらず、軽蔑の偽善の言葉。焼石ぶりです。あの時は、あれで正しかったと思えます。
 
面倒なのに目をつけられて、。
ヤフーブログ時代に、、
私も、コメント欄でめっちゃ批判されたけれど、
 
悪口以外、何のレスもなく、「ぷぷぷ」「けろっと」・・が、呆れるほど、印象として残っている。
 
自分の場所で言えと、、
出禁を言い渡したり追い返したり、
それでも駄目で、記録はとって、
削除しして、を繰り返してたけれど、。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。
 
だったら、書いてくるなということです。
 
もう3年くらい過去のコメントコピったりして
粘着してて、よく続くなーと、粘着状態を見て呆れた。
 
呆れたなら、書いてくるなということです。こちらを粘着と言うなら、そちらの書き方は、カンシャクです。破裂したときの、罵詈雑言と喚きは、さすがに閉口しました。
 
批判するのが生き甲斐?人生の生きる張り合い?
何も他にすることないのかなぁ。
 
ヒステリックが生き甲斐?、人生の生きる張り合い?、なぜ、楽山を助けている?、キリストの教えから遠く離れたところで自己中で、破裂してくるの自称マグダラ。普段の優しい世辞の筆致とは、かけ離れた豹変・・なぜ、ここで、記事を書くのか。
 
生きてる眼の前の人と関わるのも出来ずに、
パソコンの前のネットの人を批判し続ける。
 
ネットのほうが、荒れていますから、目の前で、偽善者の好きなようにさせてはいけないと、ずっと、批判しているのです。ネットでは、リアルよりも、平気で書いているからです。楽山がそうです。だから、リアルに「関わることも出来ずに」とか、ネットで書いてくるのは、悪口になります。
 
昔、ヤフーブログで、クリスチャン潰ししてた人。
 
偽クリスチャンは、潰したかったけど、現に、自称マグダラ、まだ、いるではないか。さらに、楽山というサイコパスまで、まだ、書くつもりでいるわけです。早く潰れてほしいです。この人には、信仰はおろか、人道もありません。
 
クリスチャンらしき人に食いついて
揚げ足取って、言いがかりつけて
批判して、言い負かして信仰心を失わそうとするのが趣味?
 
クリスチャンらしからぬ自称クリスチャンを批判してきました。揚げ足で出来ているような、浮ついた言で、真となる信仰者らしさが皆無なのです。説得力も皆無なのです。自称マグダラもです。
 
本人は正しいことしてると思い込んでるから、やめない。
自分の信仰観を押し付けて
同調する人には穏やかだけれど
そうでない場合は、噛みつく。
 
クリスチャンは、正しいと判断して実行しても、正しさは神のものです。癇癪玉は、理路を破裂させてゆくでしょう。私は、誰に対しても、そちらのような見せかけの穏やかさではなく、真剣な気持ちです。傲慢な自称マグダラは、心貧しい敬虔を福音とする信仰とは、真逆です。
 
自称マグダラもだが、さらに楽山は狡猾さを併せ持ち、それを無視し、あざ笑うような記事を平気で書くから、批判を続けるしかない。楽山が、上の記事を書かずリンクを貼らなかったら、前のことですから、この記事の、この後半部分は、書かなかったかもしれません。
 
一度噛みつくと、すっぽんみたいに離れない。
噛みつかれた人は、大変ですわー。
 
自称マグダラとは離れていましたが、楽山は弁明できないものだから、自称マグダラを焚きつけています。だから、思い出して「ぷぷぷ」「けろっと」など、わけのわからない怒り方をする人と書きました。
 
自称マグダラは、つながりが長く深いのか、よほど楽山の味方をしたいらしい。わざわざ楽山の狙い通り、火をつけてくるとは・・。やはり楽山の成りすましなのだろうか。ネットを混乱させて、版図を広げようとする者たちを、決して認めてはいけないのです。
 
シャロームと楽山と自称マグダラと自称ヨシュアには、何らかのつながりがあるようです。今も活動している楽山と自称マグダラには、決して関わらないでください。決して近づかないでください。キリスト信仰とは、関係ない~カルト~反キリストのインチキです。
 
 
※ 
 
結局、楽山関係は、ネットが、HNが、いかに信用できないかを、インチキブログやツイッターや、インチキ宗教や、インチキ思想や、インチキ読書の、白々しい実例をもって、伝えているという経過になっています。まとめると、インチキ情報で、ネットが生んだ負の遺産となっている楽山です。
 
 
厚顔の悪性新生物

厚顔の悪性新生物
 
 
(2021年11月22日)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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