ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の欠格の証明3
 
 自分の良心の命ずるままに(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月03日 楽山日記()
  を改めて批判。
 
 
いつもながら、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの白々しい詭弁で自己正当化しようとする楽山の醜さです。
 
*自分の良心
これは心に沁みる言葉だ。
「人間が自由意志が行使できるといっても、獲得した知識に相当した範囲においてだけということになります」と教師が述べると、 
「おっしゃる通りです。でも私はいつもこう申し上げております───自分の良心の命ずるままに行動しなさい、と」
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.73)
 」
良心と一口に言っても、「良心の自由」といわれるように、人それぞれちがっているものである。ある人の良心による判断と、別の人の良心による判断とが食い違っていてもおかしくない。
シルバー・バーチはこれをよしとしているらしい。だから、「良心」ではなく、「自分の良心」に従うべきことを説いているのだろう。
 
"人それぞれ" で正当化するのと同じような詭弁を、また持ち出してきました。最低限の共通点というところを楽山は考えることができないようです。自分勝手を正当化する凄まじい欺瞞です。楽山の良心は嘘と詭弁を書かせるのでしょうか。それは、楽山には良心などないということです。
 
例えば、だましてはいけない、嘘を吐かない、傷つけてはいけない、悪いことをしたら反省する、などなど、誰でも考えるでしょう。楽山には、それがないのです。だますことしか考えていない楽山の、恐ろしい自己正当化です。今後も、こういうことはあるでしょう。
 
楽山は、ただ、自分の好きなように、言いたいがために、したいがために、公共において、最低限の人道を、ここで、否定しているのです。しかも、人間にとって大切な、「良心」 という言葉を愚弄して自己正当化する詭弁です。言葉面の悪用で正当化する企み、見事に嘘っぱちの証明です。
 
楽山の、共有部分を否定した「自分の良心」 は、楽山の、自己中心に他ならないということです。「良心」を、あざ笑っており、凶悪としか言いようがありません。楽山の精神の崩壊と破綻が見えています。それこそ良心と良識で判断せず、字面をもてあそぶだけの凶暴な慢性症状です。
 
 
従うべきは、どこかにある万人共通の「良心」ではなく、それぞれの内にある「自分の良心」なのだ。教師の言葉も併せて解釈するなら、「自分の良心」とは、自分の知りうる範囲内にあるもっとも正しき心のことともいえるだろう。ひらたく言えば、自分にとっての最善を尽くすこと。
 
つまり、楽山にとって、「良心」は「どこかにある」ものであり、楽山は持っていないことを自白しているのです。すなわち、楽山の「自分の知りうる範囲内にあるもっとも正しき心」の中には、人間として共通する良心はないということです。楽山は平気で悪を尽くしている証拠です。
 
自分は普通とは違うんですアピールになっています。確かに、楽山は、普通とは違います。楽山は、共感できる良心を持たない、自分勝手な、自己中心、自分信仰、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であることを、自分で証明しています。
 
 
ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』には、あれをやったから英雄だとか、これをやったから英雄だというのではなく、自分の為し得る限りを為した者こそが英雄であるという言葉があったが、シルバー・バーチの「自分の良心の命ずるままに行動しなさい」という言葉は、これと同じことを言っているようだ。
 
英雄の話ではなく、誰もが持っているし、持っていなければいけないところの良心の話なのに、とても白々しいすり替えによる詭弁です。「自分の為し得る限りを為した者こそが英雄」でしょうか。良心の無い楽山の、何をしてもいい、という解釈なのです。
 
例えば、自分のなしうる限りの悪を為した者は英雄ではありません。ただの凶悪犯です。楽山は、良不良、善悪、といった価値判断を、捨てているようです。そうなると、判断ではなく、欲望です。楽山の人格崩壊が始まっています、というより、人格崩壊があらわになっています。
 
なぜ、こんなことを、楽山は、平気で言えるのでしょう。他でもない、楽山には、一人前の良心が育っていないからなのです。当たり前に身についているはずの無条件の良心が、楽山にはないのです。これは、約2年半の批判の経過を踏まえて、あえて申し上げています。
 
だから、ふつうなら良心から直観的に把握して判別できることが、楽山には、出来ないのです。それで、言葉の字面という極めて狭い概念を悪用して、当たり前に除外するべき悪を除外できないまま、辻褄を表面的に合わせたつもりになって、自己正当化の詭弁そして失言に至っています。
 
楽山は、言論者として欠格であることを、自ら証明しています。このような種類の欠格者は、さらに目立った行動化に至る場合が心配で、例えば、病的ナルシスト、サイコパス、人格破綻者、異常人格、変質者、などと呼ばれますが、少ないが、社会の中に紛れ込んでいると思います。
 
今回のようなことは、恐らく、さらに進行する可能性が大です。実際には、良心がなく、良心をあざ笑う楽山に、どうか、関わることのないように、楽山には、決して近づかないでください。
 
良心の最も大事な性質は、自己中心を戒めることです。それができず、しようともせず、その意味さえ理解しないで、結局、人類共通の大切な意味を持つ "良心" という言葉を、もてあそんで、偽造し偽装し、詭弁を弄する楽山は、もはや、人間の悪い見本でしかありません。
 
楽山が「反省」と書いても、反省していると思えないのは、「とほほ」というような安い言葉を添えて見せたり、その前と後で理路の実質に何も変わりがないこと、全体に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしく、後悔と訂正が見られないことによって、明らかとなってきました。
 
 
良心を偽装

良心を偽装
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月15日、再録+加筆)
 
 
 
人は無人島にでも住まないかぎり、しがらみというものから自由にはなれないでしょう。しかし人生の父として母として自分を取り巻き支配するしがらみを選ぶことはできるかもしれません。楽山に近づかないでください。
 
よいしがらみに出会った人は幸いですが、善いしがらみか悪いしがらみかを区別するのはたやすいことではないと思います。そして始めは善いしがらみでも悪くなっていくことだってあるでしょう。それを利用する者さえいるのです。それが楽山です。
 
大切なことは自分が良心を持った人間・人格であることを常に自覚して内省することでしょう。いかなるしがらみの中にいても人間離れしないことを深く強く心に刻み付けておくことでしょう。良心がなければ、反省しませんし、罪悪感を感じません。・・楽山に起こっていることです。
 
良心がないのは、人間離れしているからです。人間離れした親は人間離れした子を育てます。人間離れしたしがらみは人間離れした命令を下し隷属を要求します。
 
そして良心のある光の子はその純粋性のゆえにしばしば誰よりも先にその犠牲になるのです。
 
 (テサロニケ人への手紙、口語訳)
5:2
あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 
5:3
人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 
5:4
しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 
5:5
あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
5:6
だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 
5:7
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
 (1テサロニケ5:2-7、新約聖書)
 
楽山の詭弁は、良心という言葉を、自分の良心じゃから、自分で決めてええじゃろ・・という破綻した理路で、逆方向に変質させ、大好きな、何でもありの、非人間の、笑って人を傷つける、しかも、自覚しないままの、ウヘヘ世界に変えてしまう、まさに、悪魔の言葉です。
 
 
 
  肉声が伝える等々
 
肉声は文字と違って
同じ内容でも
声の高低・調子・表情・タイミング
などにより或(あ)る種の感情
悪意・好意・無関心
無関係でありたい気持ち
などを伝える
 
言っている人は気付かなくても
言われている人も気付かなくても
必ず流れている
 
ときには内容より
含まれた感情の方が重たいことがある
そして中にはその時に
あるいは後で思い出されて
脆弱(ぜいじゃく)な胸を打ったり刺したりする
 
当然敏感~鈍感な胸があり
耳があり口がある
鈍感な口は
内容以外に伝わるものがあることなど
知りも気付きもしない平気さで
日々悪意や好意を振り撒(ま)いている
 
 
  (抜粋)
 
緑と水に恵まれた国は
海に限られた土の上で
それ以上に人と文明にあふれ
緑と水を汚してゆく
それゆえ自らの狭い領域を守ろうとしながら崩れ
つまずく者たちにとって川ではない
結びつきのうすい人々の流れ、緑ではないそのざわめき
人波は嵐のように彼らをおびやかし
怒りと災いがふりかかる中、乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる
 
 
  山の屍(しかばね)
 
君が登ってくる途中で
不用意に蹴って
転げ落ちた小さい岩を
元の場所に戻してきたまえ
 
振り返って見るがいい
今はポッカリくぼみになって
周囲にちらほら花が咲いている
 
(君が転がした岩の上にも
小さなつぼみが開こうとしていた)
 
そこから遠くないところに
山の屍もあるのだが
それは見ない方がよい
 
君はしばらくの間
下りて行って
岩を戻してくるのだ
 
そうすれば屍も安心して
責めを負い罪を悔い
裁きを受けて消え失せるだろう
 
君がそうするまで
君は山頂を目指してはならない
君がそうしないで
頂に立って見渡すなら
答えるのは絶景ではなく絶壁だ
山という名の地獄だ
何故なら山の屍は
あらゆる暗がりから
君を見ているのだから
(消せるものなら消してみよ)
 
何人(なんびと)も自分が踏みつけたもの
踏みしめた道をなおざりにして
置き去りにして
悔いなく先へは進めないはずだ
 
君は今
前も上も望んではならない
後ろの小さな岩が先だ
 
戻せないなら
せめて告白することだ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
恥を忍んで告白すると、実は自分も某宗教から出禁を食らったことあります…(笑)
HS信者だった頃、死後に地獄に堕ちるだろう邪教信者を救わねばならぬという使命感で、HS伝道のために某宗教に突撃し、追い返されました。とほほ。顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
午後9:49 · 2021年9月7日
 
楽山は、どの宗教からも、どの世界からも、言論においては、出禁であります。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、その言動、百害あって一利ないからです。「死後に地獄に堕ちるだろう邪教信者を救わねばならぬ」・・楽山こそが、邪教であり、自己愛妄想患者であります。
 
いつもの、同情してくだされアピールの「とほほ」もはや、誰も、だまされてはいけません。小さく出れば憐れんでくれるじゃろ・・という企みです。一方で「(笑)」・・憐れみには値しません。楽山は、どの宗教からも、追い返される人です。
 
サイコパス楽山の凄みは、何を書き、何を書かれても、高等感情の鈍麻によって何も感じずにいられることです。「とほほ」・・決まり文句の嘘です。泣きではなく、ふざけた笑いです。罪悪感、羞恥心、自責の念など、良心の所産であるこれらを何ひとつ持っていない恥知らずです。
 
楽山が、元HS信者と言うのは本当でしょうか。楽山にあるのは我欲だけです。使命感などありません。宗教に嵌っても、それは、自己顕示と支配欲を満たすためだと思います。ゆえに、どの宗教からも追い返されるのは必然です。今後、楽山も、楽山の顔文字も、見なくて済みますように。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、恐ろしいほどの秘密があると思います。楽山は、平気で、嘘を吐き、詭弁で、悪を正当化する人だということが、この記事で明らかになっています。それで、人生何十年かを行き、幸福が得られるとでも思っているのでしょうか、否、一生を隠蔽魔として過ごすことになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の欠格の証明2
 
 自分の良心の命ずるままに(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月03日 楽山日記()
  を改めて批判。
 
 
いつもながら、白々しい詭弁で自己正当化しようとする楽山の醜さ。
 
*自分の良心
これは心に沁みる言葉だ。
「人間が自由意志が行使できるといっても、獲得した知識に相当した範囲においてだけということになります」と教師が述べると、 
「おっしゃる通りです。でも私はいつもこう申し上げております───自分の良心の命ずるままに行動しなさい、と」
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.73)
 」
良心と一口に言っても、「良心の自由」といわれるように、人それぞれちがっているものである。ある人の良心による判断と、別の人の良心による判断とが食い違っていてもおかしくない。
シルバー・バーチはこれをよしとしているらしい。だから、「良心」ではなく、「自分の良心」に従うべきことを説いているのだろう。
 
"人それぞれ" で正当化するのと同じような詭弁を、また持ち出してきました。最低限の共通点というところを楽山は考えることができないようです。自分勝手を正当化する自己愛性人格障害の凄まじい欺瞞です。
 
例えば、だましてはいけない、嘘を吐かない、傷つけてはいけない、悪いことをしたら反省する、などなど、誰でも考えるでしょう。楽山には、それがないのです。だますことしか考えていない楽山の、恐ろしい自己正当化です。今後も、こういうことはあるでしょう。
 
楽山は、ただ、自分の好きなように、言いたいがために、したいがために、公共において、最低限の人道を、ここで、否定しているのです。しかも、人間にとって大切な、「良心」 という言葉を愚弄して自己正当化する詭弁です。
 
楽山の、共有部分を否定した「自分の良心」 は、楽山の、自己中心に他ならないということです。「良心」を、あざ笑っており、凶悪としか言いようがありません。楽山の精神の崩壊と破綻が見えています。それこそ良心と良識で判断せず、字面をもてあそぶだけの慢性症状です。
 
従うべきは、どこかにある万人共通の「良心」ではなく、それぞれの内にある「自分の良心」なのだ。教師の言葉も併せて解釈するなら、「自分の良心」とは、自分の知りうる範囲内にあるもっとも正しき心のことともいえるだろう。ひらたく言えば、自分にとっての最善を尽くすこと。
 
つまり、楽山にとって、「良心」は、「どこかにある」ものであり、楽山は持っていないことを自白しているのです。すなわち、楽山の「自分の知りうる範囲内にあるもっとも正しき心」の中には、人間として共通する良心はないということです。
 
自分は普通とは違うんですアピールになっています。確かに、楽山は、普通とは違います。楽山は、共感できる良心を持たない、自分勝手な、自己中心、自分信仰、自己愛性人格障害であることを、自分で証明しています。
 
ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』には、あれをやったから英雄だとか、これをやったから英雄だというのではなく、自分の為し得る限りを為した者こそが英雄であるという言葉があったが、シルバー・バーチの「自分の良心の命ずるままに行動しなさい」という言葉は、これと同じことを言っているようだ。
 
英雄の話ではなく、誰もが持っているし、持っていなければいけないところの良心の話なのに、とても白々しいすり替えによる詭弁です。「自分の為し得る限りを為した者こそが英雄」でしょうか。楽山は、これを、何をしてもいい、という解釈なのです。
 
例えば、自分のなしうる限りの悪を為した者は英雄ではありません。ただの凶悪犯です。楽山は、良不良、善悪、といった価値判断を、捨てているようです。そうなると、判断ではなく、欲望です。楽山の人格崩壊が始まっています、というより、人格崩壊があらわになっています。
 
なぜ、こんなことを、楽山は、平気で言えるのでしょう。他でもない、楽山には、一人前の良心が育っていないからなのです。当たり前に使える無条件の良心が、楽山にはないのです。これは、約2年半の批判の経過を踏まえて申し上げています。
 
だから、ふつうなら良心から直観的に把握して判別できることが、楽山には、出来ないのです。それで、言葉の字面という極めて狭い概念だけで、当たり前に除外するべき悪を除外できないまま、辻褄を表面的に合わせたつもりになって、自己正当化の失言に至っています。
 
楽山は、言論者として欠格であることを、自ら証明しています。このような種類の欠格者は、さらに目立った行動化に至る場合が心配で、例えば、病的ナルシスト、サイコパス、人格破綻者、異常人格、変質者、などと呼ばれますが、通常は、社会の中に紛れ込んでいると思います。
 
今回のようなことは、恐らく、さらに進行する可能性が大です。実際には、良心がなく、良心をあざ笑う楽山に、どうか、関わることのないように、楽山には、決して近づかないでください。
 
良心の最も大事な性質は、自己中心を戒めることです。人類共通の大切な意味を持つ "良心" という言葉を、もてあそんで、詭弁を弄する楽山は、もはや、人類の敵です。
 
 
良心のない車窓から

良心のない車窓から
 
 
(2020年09月08日)
(2021年09月09日、再録+加筆)
 
 
 
人は無人島にでも住まないかぎり、しがらみというものから自由にはなれないでしょう。しかし人生の父として母として自分を取り巻き支配するしがらみを選ぶことはできるかもしれません。楽山に近づかないでください。
 
よいしがらみに出会った人は幸いですが、善いしがらみか悪いしがらみかを区別するのはたやすいことではないと思います。そして始めは善いしがらみでも悪くなっていくことだってあるでしょう。それを利用する者さえいるのです。それが楽山です。
 
大切なことは自分が良心を持った人間・人格であることを常に自覚して内省することでしょう。いかなるしがらみの中にいても人間離れしないことを深く強く心に刻み付けておくことでしょう。良心がなければ、反省しませんし、罪悪感を感じません。・・楽山に起こっていることです。
 
良心がないのは、人間離れしているからです。人間離れした親は人間離れした子を育てます。人間離れしたしがらみは人間離れした命令を下し隷属を要求します。
 
そして良心のある光の子はその純粋性のゆえにしばしば誰よりも先にその犠牲になるのです。
 
 (テサロニケ人への手紙、口語訳)
5:2
あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 
5:3
人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 
5:4
しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 
5:5
あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
5:6
だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 
5:7
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
 (1テサロニケ5:2-7、新約聖書)
 
楽山の詭弁は、良心という言葉を、自分の良心じゃから、自分で決めてええじゃろ・・という破綻した理路で、逆方向に変質させ、大好きな、何でもありの、非人間の、笑って人を傷つける、しかも、自覚しないままの、ウヘヘの世界に変えてしまう、まさに、悪魔の言葉です。
 
 
 
  肉声が伝える等々
 
肉声は文字と違って
同じ内容でも
声の高低・調子・表情・タイミング
などにより或(あ)る種の感情
悪意・好意・無関心
無関係でありたい気持ち
などを伝える
 
言っている人は気付かなくても
言われている人も気付かなくても
必ず流れている
 
ときには内容より
含まれた感情の方が重たいことがある
そして中にはその時に
あるいは後で思い出されて
脆弱(ぜいじゃく)な胸を打ったり刺したりする
 
当然敏感~鈍感な胸があり
耳があり口がある
鈍感な口は
内容以外に伝わるものがあることなど
知りも気付きもしない平気さで
日々悪意や好意を振り撒(ま)いている
 
(昔々の作・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
恥を忍んで告白すると、実は自分も某宗教から出禁を食らったことあります…(笑)
HS信者だった頃、死後に地獄に堕ちるだろう邪教信者を救わねばならぬという使命感で、HS伝道のために某宗教に突撃し、追い返されました。とほほ。顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
午後9:49 · 2021年9月7日
 
楽山は、どの宗教からも、どの世界からも、言論においては、出禁であります。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、その言動、百害あって一利ないからです。「死後に地獄に堕ちるだろう邪教信者を救わねばならぬ」・・楽山こそが、邪教であり、自己愛妄想患者であります。
 
いつもの、同情してくだされアピールの「とほほ」もはや、誰も、だまされてはいけません。小さく出れば憐れんでくれるじゃろ・・という企みです。一方で「(笑)」・・憐れみには値しません。楽山は、どの宗教からも、追い返される人です。
 
サイコパス楽山の凄みは、何を書き、何を書かれても、高等感情の鈍麻によって何も感じずにいられることです。「とほほ」・・決まり文句の嘘です。泣きではなく、ふざけた笑いです。罪悪感、羞恥心、自責の念など、良心の所産であるこれらを何ひとつ持っていない恥知らずです。
 
楽山が、元HS信者と言うのは本当でしょうか。楽山にあるのは我欲だけです。使命感などありません。宗教に嵌っても、それは、自己顕示と支配欲を満たすためだと思います。ゆえに、どの宗教からも追い返されるのは必然です。今後、楽山も、楽山の顔文字も、見なくて済みますように。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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