この記事のタイトルは書くためのモチーフに過ぎないようです・・
ポストモダン?
ポストモダンという言葉を時々聞くけれど
正直言って私には
インテリの芸術か文学かの用語だろう、
ポストと言うのだから
その前にモダンがあったのだろう
くらいにしか感じない縁の遠い言葉ですが・・
改めてウィキペディアを引いてみると
少しばかり興味があるというか
考える糧にはなるのではないかと
以下に引用してみます
ウィキペディアより抜粋:
ポストモダン(英: Postmodern)とは、
「モダン(近代)の次」という意味であり、
モダニズム(近代主義)がその成立の条件を失った
(と思われた)時代のこと。
ポストモダニズム (Postmodernism) とは、
そのような時代を背景として成立した、
モダニズムを批判する文化上の運動のこと。
主に哲学・思想・文学・建築の分野で用いられる語。
・・・
建築においては、
装飾を排して「禁欲的な四角い箱」とも評される機能主義・近代合理主義
に基づくモダニズム建築に対する反動として現れた。
多様性、装飾性、折衷性、過剰性などを特徴とする建築のことで、
1980年代はポスト・モダンの時代であると盛んにいわれ、
それらの手法を顕著に具現し内・外観を特徴づけられて多くが建設された。
・・・
近代文学は
無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性
などの特徴を持つ。
これに対し、
ポストモダン文学は
物語の矛盾を肯定的に含んだり
(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)、
時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、
大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。
以上、引用終わり
この中で
観念的な言葉はあまりピンと来ないのですが、
1.建築の「禁欲的な四角い箱」がモダニズム、
2.矛盾について「物語は常に矛盾を含むもの」
といった姿勢がポストモダン、
という考え方に若干の親近感を抱く・・
というか
私が書いているブログの記事の
テーマとしての
キリスト信仰と
思想一般について感じることが多い
と言っておこう。
といっても、
もちろん分かっているわけではないが、
人間が本当に感じている事実の
人間のあるべき理想の姿を語る口への
それ、ちがうだろう・・
という反発が感じられるからだ。
であるけれど
ポストモダンも結局
あるべき姿という理想か妄執へ向かって
進もうとして行き悩んでいるような気もするのだが・・(?)
スピーチというものは大方
いかに相手が間違っていて
自分がいかに正しいかを説いているようだ。
そこには
間違える人間同士の共感
というものは全く感じられない。
ひたすら自分の絶対正義を語る・・
キリスト教の教えもまた
正しさの根拠を神という絶対者に帰して
教えを守るのが正しい信仰
ということを語っていることが多い。
・・当然禁欲的になる
というより欲望や
人間が本来持っているものは
すべて悪ということになりかねない・・
絶対正義など誰も知らないはずなのに・・。
そこには
人間が本当に感じているところから離れ、
常に正義に身を置いている理想の自分を語る姿の
正しさへの固執があることにうんざりしてしまう。
また「禁欲的な四角い箱」と呼ぶに
ふさわしい聖職者がいるという実感がある。
もちろん悪こそ正義と言っているのではない。
悪を避けられる自分を
前提として言っているから気に入らない。
そうして悪から自分をやすやすと除外してしまうのだ。
悪である自分を救うのにはどうすればよいのですか
に対して
悪でなくなるようにしなさい
という安易な答えになってしまっているか
なりがちな姿勢を生むだろう。
間違いの許容度は
責任が重くなればなるほど無に近くなるので
一言も間違っていないと
他者の全面否定と自らの絶対正義に走るのである。
盛りのついた馬同士のような戦いを見てしまう。
(英雄、色を好むとはこの辺からか・・余談、失礼)
そういうあり方が却って
宗教でも思想でも
人間離れした訂正不能の間違いを生んでいる
ような気がしてならない。
このような論争を見ていると
物質文明つまり技術の進歩からは
取り残されたような精神文明と人文科学分野ですが
それでも人類の精神には
多くの足跡と進歩があると思います。
物質文明により巨大な力を持った人類は
その力を使うにあたって
精神を磨いていなければならないはずです。
滅亡へ向かう爆発力を持ってしまっているのに
いつまでも負けない喧嘩根性で
事を運んではいけないはずです。
そういう時代にあって
もはや一人の英雄やヒーローやリーダーに頼って
判断を委ねる従来のやり方では乗り切れないと思います。
すべてを任せてよい完全無欠?の登場に期待して過ごして
片付けていた時代は過ぎ去りました。
欠点を持つ人間同士が
欠点を持っていることを認め合い
欠点を持っているという共感のもとで
欠点を補い合う時代にならなければ
巨大な力の発揮へ
一旦舵を切ってしまうと取り返しのつかなくなりそうな
この時代を乗り切ることは出来ないでしょう。
そのための骨組みが
これまた不完全ながら
民主主義だと思っています。
民主主義の骨組みはあっても
民主主義が実現した国は未だ一国もないと思っています。
欠点を隠し長所ばかりを強調して
幸福追求を促す当然の正義を代表するような
悟りの境地のような笑顔を警戒してください。
自らの欠点と悪から出発しなければ
偽善に走るだけで
最悪を避けることすら出来ないと思います。
信仰者の立場から言うと
キリストの教えが
罪なき人は一人もいない
という教えに収束する
と何度も書いてきたのもほぼ同じことです。
(2015年09月10日)
ポストモダンの話からは
ずいぶん外れたような気もしますが・・
ポストモダン?
ポストモダンという言葉を時々聞くけれど
正直言って私には
インテリの芸術か文学かの用語だろう、
ポストと言うのだから
その前にモダンがあったのだろう
くらいにしか感じない縁の遠い言葉ですが・・
改めてウィキペディアを引いてみると
少しばかり興味があるというか
考える糧にはなるのではないかと
以下に引用してみます
ウィキペディアより抜粋:
ポストモダン(英: Postmodern)とは、
「モダン(近代)の次」という意味であり、
モダニズム(近代主義)がその成立の条件を失った
(と思われた)時代のこと。
ポストモダニズム (Postmodernism) とは、
そのような時代を背景として成立した、
モダニズムを批判する文化上の運動のこと。
主に哲学・思想・文学・建築の分野で用いられる語。
・・・
建築においては、
装飾を排して「禁欲的な四角い箱」とも評される機能主義・近代合理主義
に基づくモダニズム建築に対する反動として現れた。
多様性、装飾性、折衷性、過剰性などを特徴とする建築のことで、
1980年代はポスト・モダンの時代であると盛んにいわれ、
それらの手法を顕著に具現し内・外観を特徴づけられて多くが建設された。
・・・
近代文学は
無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性
などの特徴を持つ。
これに対し、
ポストモダン文学は
物語の矛盾を肯定的に含んだり
(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)、
時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、
大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。
以上、引用終わり
この中で
観念的な言葉はあまりピンと来ないのですが、
1.建築の「禁欲的な四角い箱」がモダニズム、
2.矛盾について「物語は常に矛盾を含むもの」
といった姿勢がポストモダン、
という考え方に若干の親近感を抱く・・
というか
私が書いているブログの記事の
テーマとしての
キリスト信仰と
思想一般について感じることが多い
と言っておこう。
といっても、
もちろん分かっているわけではないが、
人間が本当に感じている事実の
人間のあるべき理想の姿を語る口への
それ、ちがうだろう・・
という反発が感じられるからだ。
であるけれど
ポストモダンも結局
あるべき姿という理想か妄執へ向かって
進もうとして行き悩んでいるような気もするのだが・・(?)
スピーチというものは大方
いかに相手が間違っていて
自分がいかに正しいかを説いているようだ。
そこには
間違える人間同士の共感
というものは全く感じられない。
ひたすら自分の絶対正義を語る・・
キリスト教の教えもまた
正しさの根拠を神という絶対者に帰して
教えを守るのが正しい信仰
ということを語っていることが多い。
・・当然禁欲的になる
というより欲望や
人間が本来持っているものは
すべて悪ということになりかねない・・
絶対正義など誰も知らないはずなのに・・。
そこには
人間が本当に感じているところから離れ、
常に正義に身を置いている理想の自分を語る姿の
正しさへの固執があることにうんざりしてしまう。
また「禁欲的な四角い箱」と呼ぶに
ふさわしい聖職者がいるという実感がある。
もちろん悪こそ正義と言っているのではない。
悪を避けられる自分を
前提として言っているから気に入らない。
そうして悪から自分をやすやすと除外してしまうのだ。
悪である自分を救うのにはどうすればよいのですか
に対して
悪でなくなるようにしなさい
という安易な答えになってしまっているか
なりがちな姿勢を生むだろう。
間違いの許容度は
責任が重くなればなるほど無に近くなるので
一言も間違っていないと
他者の全面否定と自らの絶対正義に走るのである。
盛りのついた馬同士のような戦いを見てしまう。
(英雄、色を好むとはこの辺からか・・余談、失礼)
そういうあり方が却って
宗教でも思想でも
人間離れした訂正不能の間違いを生んでいる
ような気がしてならない。
このような論争を見ていると
物質文明つまり技術の進歩からは
取り残されたような精神文明と人文科学分野ですが
それでも人類の精神には
多くの足跡と進歩があると思います。
物質文明により巨大な力を持った人類は
その力を使うにあたって
精神を磨いていなければならないはずです。
滅亡へ向かう爆発力を持ってしまっているのに
いつまでも負けない喧嘩根性で
事を運んではいけないはずです。
そういう時代にあって
もはや一人の英雄やヒーローやリーダーに頼って
判断を委ねる従来のやり方では乗り切れないと思います。
すべてを任せてよい完全無欠?の登場に期待して過ごして
片付けていた時代は過ぎ去りました。
欠点を持つ人間同士が
欠点を持っていることを認め合い
欠点を持っているという共感のもとで
欠点を補い合う時代にならなければ
巨大な力の発揮へ
一旦舵を切ってしまうと取り返しのつかなくなりそうな
この時代を乗り切ることは出来ないでしょう。
そのための骨組みが
これまた不完全ながら
民主主義だと思っています。
民主主義の骨組みはあっても
民主主義が実現した国は未だ一国もないと思っています。
欠点を隠し長所ばかりを強調して
幸福追求を促す当然の正義を代表するような
悟りの境地のような笑顔を警戒してください。
自らの欠点と悪から出発しなければ
偽善に走るだけで
最悪を避けることすら出来ないと思います。
信仰者の立場から言うと
キリストの教えが
罪なき人は一人もいない
という教えに収束する
と何度も書いてきたのもほぼ同じことです。
(2015年09月10日)
ポストモダンの話からは
ずいぶん外れたような気もしますが・・