ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:その他人文科学

この記事のタイトルは書くためのモチーフに過ぎないようです・・
 
 
  ポストモダン?
 
 
ポストモダンという言葉を時々聞くけれど
正直言って私には
インテリの芸術か文学かの用語だろう、
ポストと言うのだから
その前にモダンがあったのだろう
くらいにしか感じない縁の遠い言葉ですが・・
 
改めてウィキペディアを引いてみると
少しばかり興味があるというか
考える糧にはなるのではないかと
以下に引用してみます
 
 
ウィキペディアより抜粋:
 
ポストモダン(英: Postmodern)とは、
「モダン(近代)の次」という意味であり、
モダニズム(近代主義)がその成立の条件を失った
(と思われた)時代のこと。
ポストモダニズム (Postmodernism) とは、
そのような時代を背景として成立した、
モダニズムを批判する文化上の運動のこと。
主に哲学・思想・文学・建築の分野で用いられる語。
 ・・・
建築においては、
装飾を排して「禁欲的な四角い箱」とも評される機能主義・近代合理主義
に基づくモダニズム建築に対する反動として現れた。
多様性、装飾性、折衷性、過剰性などを特徴とする建築のことで、
1980年代はポスト・モダンの時代であると盛んにいわれ、
それらの手法を顕著に具現し内・外観を特徴づけられて多くが建設された。
 ・・・
近代文学は
無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性
などの特徴を持つ。
これに対し、
ポストモダン文学は
物語の矛盾を肯定的に含んだり
(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)、
時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、
大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。
 
以上、引用終わり
 
 
この中で
観念的な言葉はあまりピンと来ないのですが、
1.建築の「禁欲的な四角い箱」がモダニズム、
2.矛盾について「物語は常に矛盾を含むもの」
  といった姿勢がポストモダン、
という考え方に若干の親近感を抱く・・
 
というか
私が書いているブログの記事の
テーマとしての
キリスト信仰と
思想一般について感じることが多い
と言っておこう。
といっても、
もちろん分かっているわけではないが、
 
人間が本当に感じている事実の
人間のあるべき理想の姿を語る口への
それ、ちがうだろう・・
という反発が感じられるからだ。
 
であるけれど
ポストモダンも結局
あるべき姿という理想か妄執へ向かって
進もうとして行き悩んでいるような気もするのだが・・(?)
 
 
スピーチというものは大方
いかに相手が間違っていて
自分がいかに正しいかを説いているようだ。
そこには
間違える人間同士の共感
というものは全く感じられない。
ひたすら自分の絶対正義を語る・・
 
キリスト教の教えもまた
正しさの根拠を神という絶対者に帰して
教えを守るのが正しい信仰
ということを語っていることが多い。
・・当然禁欲的になる
  というより欲望や
  人間が本来持っているものは
  すべて悪ということになりかねない・・
 
絶対正義など誰も知らないはずなのに・・。
 
そこには
人間が本当に感じているところから離れ、
常に正義に身を置いている理想の自分を語る姿の
正しさへの固執があることにうんざりしてしまう。
 
また「禁欲的な四角い箱」と呼ぶに
ふさわしい聖職者がいるという実感がある。
 
もちろん悪こそ正義と言っているのではない。
 
悪を避けられる自分を
前提として言っているから気に入らない。
 
そうして悪から自分をやすやすと除外してしまうのだ。
 
悪である自分を救うのにはどうすればよいのですか
に対して
悪でなくなるようにしなさい
という安易な答えになってしまっているか
なりがちな姿勢を生むだろう。
 
間違いの許容度は
責任が重くなればなるほど無に近くなるので
一言も間違っていないと
他者の全面否定と自らの絶対正義に走るのである。
 
盛りのついた馬同士のような戦いを見てしまう。
(英雄、色を好むとはこの辺からか・・余談、失礼)
 
そういうあり方が却って
宗教でも思想でも
人間離れした訂正不能の間違いを生んでいる
ような気がしてならない。
 
 
このような論争を見ていると
物質文明つまり技術の進歩からは
取り残されたような精神文明と人文科学分野ですが
 
それでも人類の精神には
多くの足跡と進歩があると思います。
 
物質文明により巨大な力を持った人類は
その力を使うにあたって
精神を磨いていなければならないはずです。
滅亡へ向かう爆発力を持ってしまっているのに
いつまでも負けない喧嘩根性で
事を運んではいけないはずです。
 
そういう時代にあって
もはや一人の英雄やヒーローやリーダーに頼って
判断を委ねる従来のやり方では乗り切れないと思います。
すべてを任せてよい完全無欠?の登場に期待して過ごして
片付けていた時代は過ぎ去りました。
 
欠点を持つ人間同士が
欠点を持っていることを認め合い
欠点を持っているという共感のもとで
欠点を補い合う時代にならなければ
巨大な力の発揮へ
一旦舵を切ってしまうと取り返しのつかなくなりそうな
この時代を乗り切ることは出来ないでしょう。
 
そのための骨組みが
これまた不完全ながら
民主主義だと思っています。
 
民主主義の骨組みはあっても
民主主義が実現した国は未だ一国もないと思っています。
 
欠点を隠し長所ばかりを強調して
幸福追求を促す当然の正義を代表するような
悟りの境地のような笑顔を警戒してください。
 
自らの欠点と悪から出発しなければ
偽善に走るだけで
最悪を避けることすら出来ないと思います。
 
 
信仰者の立場から言うと
キリストの教えが
罪なき人は一人もいない
という教えに収束する
と何度も書いてきたのもほぼ同じことです。
 
 
(2015年09月10日)
 
ポストモダンの話からは
ずいぶん外れたような気もしますが・・
 
 
 
 
 

 
  立場
 
 
私は右も左も分かりません
と言ってしまうと身も蓋もないですが
どちらも詳しく勉強したことがないのは事実です
 
したがって右とか左とか
自分の立場を明らかにすることは困難です
 
むしろ「自分は右(または左)」と
はっきり言って自覚してしまうのは
偏った学習か柵(しがらみ)によって
思想が一方向に固まってゆくのではないか
と感じるのは
思想家も政治家も何だか
昔の「御恩と奉公」で成り立っている
ような気がしてならないことがあるからでしょう
 
その点において
政党政治はいかがなものか
・・と疑問を呈しておきます
 
そのせいか、むしろ
市民一人ひとりの覚醒を促してゆくような
市民政治・・などという言葉を思っていますが・・
 
 ※市民
 ・・国政に参加する地位にある国民。公民。
 広く、公共性の形成に自律的・自発的に参加する人々。(広辞苑)
 
つまり政治家は
国民に説明責任を負うのだから
思想その他の専門職としては成り立たず
政治家こそ
修正可能をもって
自由市民の先頭近くを
活発に動いている心と体を志すべきだ
と考えてみたりします
 
この修正可能の精神は政治だけでなく
この地上に生きているすべての思い、
またそこから生まれた思想と宗教において
同様であろうと強く推測します
 
一人の思い込みと思い上がりは
反対によらないならば
恐らく結果としての事実によって滅してゆくでしょう
 
がっかりすることをこの稿の終わりに言うのですが
私の中に思い込みや思い上がりがないとは決して言えず
私のこういう考え方は恐らく失望に終わるでしょう
 
しかし失望の積み重ねは必ずしも絶望ではありません
何故なら失望は絶望に至る前に
一人の失望が他者の希望の種として残るために
何倍もの反省を積み重ねるからです
 
 
(2015年08月10日)
 
 
 
 

 
  法
 
 
法というのは言葉で表されます
どんなに厳密な言葉を使ったとしても
それが常に一つの意味を表すということはありません
 
かくして恣意的な解釈によって
自分の意を通そうという動きが生まれてくるのですが
 
しかし同時に
法は最低限の道徳を成文化しているに過ぎない
ということをわきまえる人々によって
法の精神という言語外までを含めた真実の当為に
言葉即ち言論によって限りなく近似しよう
という表現と主張があり得るのです
 
言葉が絶対ではないから
言葉に挑む勇気と意志が必要になります
 
一般という言葉で括られる私たちは
難しい学問も難しい政治の駆け引きも知りませんが
難解な専門用語を
易しくはないが日常語の理解の範囲内に
還元しようと努める人々を尊重しながら
 
難解な用語を一見易しそうな例え話にして
短絡を勧める者には
逆に決して易しくないことを示してゆくしかないのです
 
この言葉の相対性は
あらゆる思想や宗教において
人間の精神のたゆまぬ努力を要求します
 
その努力を怠っている者たちは
言葉の相対性を絶対性に見せかけて
これからも利用しようとするだろうし
 
その努力に目覚めた人々は
言葉の相対性ゆえに
真実に帰る自由の発条(バネ)を持ち得るのです
 
 
(2015年08月10日)
 
 
 
 

 
  文責
 
 
前の記事で
 
「それに勘違いしているようだが
 何ごとにつけ文章を書いて広いところで公開すれば
 その言説について責任が伴います。
 言葉は人に対して何らかの影響を及ぼすからです。
 それで批判されるのだけは嫌だというなら
 人に見せないようにするしかないでしょう。」
 
と書きました。
 
ブログでの場合には冗談混じりの記事や遣り取りもあり
それほど厳密な責任を問う必要はないのかもしれませんが、
テーマにもよるだろうと思います。
 
書かれた文章には
書いた人の伝えたい思い、気持ち、感情、態度、などが表れています。
それはもちろん不十分で
文章だけで分かるというものではありません。
 
したがって判断の確からしさは
その文章を受けて書いた文章、
コメントか記事かを問わず
感想、評価、批判、忠告、などによって、
さらにその遣り取りによって
深めていくしかありません。
 
疑問を提示して真意を問い
掘り下げていくという作業です。
 
しかし文章を受けて反応するということが
全く見られない状況では
既に書かれたものを相手にするしかありません。
 
テーマが大きくなればなるほど
一方的な言説の無反応な繰り返しの弊害は大きくなり
批判合戦より醜いと言わざるを得ません。
 
 
(2015年04月13日)
 
 
 
 

詩のようなものを書くということは
一歩死ぬるということ・・
 
 
  当たり前
 
 
例えば「汝殺すなかれ」の類は当たり前だが
言う必要のないことは
ことさら主張されることはないだろう
 
ことさら当たり前を強調する主張は
そのままで分かるだろうから
分からなければ異常だという直観的理解を
ことさら求める思想だ
 
したがって
ことさら主張されるほど
当たり前から遠ざかっている
 
だからこそ「当たり前」を
理屈抜きで根拠なしで引き寄せ
押し付けようとするのだろう
 
根拠を示せないからだ
 
拠って来たる所を示せば
当たり前ではないと分かってしまうから
 
 
 
  我執
 
 
生まれ育った環境 
系譜 係累 語りかけられ
訓育という名で摺り込まれたもの 
その巨大さに比べて
あまりに小さい自らの実感 
抗しがたい畏怖 
 
煽りあげられた思想は
もはや自らのものではない
 
我執は誰にでもあるものだが
我執が我執としてあることを
我執によって認めるか否か
 
それが意志と行為の横暴さと強引さを
決める自他覚の指標になるだろう
 
水はいつも流れる方向が定まっている
 
流れに作為し逆らえば
溺れるように
 
 
(2014年07月07日、同日一部修正)
 
自らのものでない思想に抗しがたくひれ伏し
執着してしまうことを我執と考えています。
多かれ少なかれ、誰もが持っているのかもしれません。
それを我執として認められるかどうか・・認めていれば
修正の可能性くらいは残るのでしょうけれど・・
(2014年07月10日、加筆)
 
 
 
 

このページのトップヘ