ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:その他国際情勢

 
  ともに
 
 
どこか遠くの国に
自衛隊が派遣されて
 
偶発的だろうが
お味方の戦略だろうが
お味方の護衛だろうが
戦闘に巻き込まれて
敵を傷つけ
また殺し
自衛隊員も殺され
自分も味方も傷を負い
それでも
役目を果たして帰ってきて
それなりに国のために仕事をしたと
充実感に浸るつもりだったら
 
遠くの国から
聞けば憎き敵として恨まれ
日本が復讐の対象になっているような
 
そんな責任を負わされるような立場に
自衛隊員を立たせるような
日本にならないように祈っています
 
 
どこか遠くの国ではなく
 
「ともに」守る
ということが実感できるような
それゆえに兵士も民も覚悟を決められるような
国と自衛隊であってほしいです
 
机上の当たり前や愛国に
戦争に行かない人たちに
外へ出て戦うことなど
決めてほしくはないのです
 
どうして
「万全・・」や
「決して・・ない」といったような
決定的な約束事を
いったい誰が
自分が死んだ後までも
保証できるというのでしょう
 
 
(2015年05月20日、同日一部修正、さらに加筆)
(2015年05月21日、さらに一部修正)
 
 
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  まだ見ぬもの
 
最も効率のよい政治体制は・・・
効率だけを考えれば、それは独裁体制であろう。
しかし
人間の限界と罪悪というものを考えても分かるように、
個人または特定の集団に全権を任せる独裁は、
歴史的にも、長期間、うまくいったことはなく、
うまくいくはずもないと分かるから否定されている。
 
社会主義の計画経済という実験は崩壊という結果で失敗に終わった。
しかし
資本主義、民主主義、自由主義もまた壮大な歴史的実験の途上にある。
これらによって豊かになり平等になり自由になり、
すべてよしという結果は全く出ていない。
 
民主主義を唱え民主主義の骨格を持つ国は多いが、
「民主主義の国」と言える国は未だ世界の何処にも誕生していない。
 
(※ 独裁は、近代以降においては、一定の支持を受けて、
  民主主義から生まれ、民主主義を侵食するもの・・・!)
 
結局「生存権」というものを国家の機軸として
考え直さざるを得ないのではないだろうか。
 


  「20世紀の宿題」
 
仮定の話になるが、
明治の近代化を国内で成し遂げた時点で、
道を誤らず、外に出ようとしなければ、
日本は、
アジアのすべての国から尊敬される国になっていたであろう。
 
モンゴル帝国による元寇を例外とすれば、
中国も韓国も日本を侵略・支配したことはない。
そこが侵略したりされたりの
ヨーロッパの隣国関係との大きな違いであろう。
 
日本を侵略・支配したことのない隣国を
逆に日本が侵略・支配したことが
いかに大きな禍根を残すか、
今に至るまで、日本は学習したはずであり、
学習していなければならないはずである。
 
「20世紀の宿題」には、戦前、戦中、戦後も含まれる。
反省を促す明確な問題意識を持ち続けるべき所以である。
その意識を「持つ」と「持たない」とでは、
国の先行きを考える上で天と地ほどの違いがある。
 
「20世紀の宿題」を上のような意識で持たないことは、
戦争の正当化→「今度は負けない国づくりをしよう」にしかならず、
その勢いで進めば、結局のところ核武装に向かう危惧を抱かざるを得ない。
 
明治の急速な近代化と戦後の急速な復興には
大きな歴史的意義がある。
しかし、一方で、戦前・戦中・戦後を含めて、
大きな流血と犠牲という
「二度と繰り返してはならない悲劇」
という側面を忘れてはならない。
それが今も続く、あまりにも大きな
「20世紀の宿題」である。
 
 
(後に書いた記事
参照)
 
(2013年09月08日、上記ブログ内リンク追加)
  


  「核の抑止力?」
 
根源的な疑問:
核という桁外れの巨大なエネルギーが、はたして、
過ちを常とする人類の手に負えるのか。
 
核というものがもたらす被害は
空間的にも時間的にも限定できない。
また核を作るのも管理するのも人間である。
「被害の限定困難」と「人の問題」を考えると、
核の被害を確率または確率の期待値として
数値化することは不可能に思えてならない。
 
広島と長崎に原爆が投下された時というのは、
「それが戦争だ。仕方ない。」
という言い訳が通用しない時代に
人類が突入した時であったと思う。
 
広島と長崎に原爆が投下されたとき、唯一、
不幸中の幸いと言えることがあったと思う。
それは、そのとき
日本が原爆を持っていなかったということである。
もし持っていたら迷うことなく使っただろう。
そうすればアメリカは、さらに大量の原爆を生産し
日本全土に投下しただろう。そうなると、はたして、
日本という国が現在、存在しているであろうか。
 
「核の抑止力」というのは、
核保持の正当化のために後付けされた理屈である。
核のなかった時代の武力ならば
「抑止力」は必要だったかもしれない。
しかし「核の抑止力」の本態を考えると
「もし核兵器で攻撃してきたら、
こちらもこんなにすごい核兵器でやり返すぞ」
という、核攻撃される恐怖に基づく
「脅し」だと思う。
「脅し」が永遠に脅しのままでありうるか。
否定的にならざるを得ない。
もし
脅しが脅しでなくなった場合、核ではなく
「核戦争の連鎖反応」というものを考えてしまう。
核戦争において先ず狙われるのは
相手国の核基地と政府である。
それは分かっているから、相手国も
敵のミサイルが着弾する前に
敵の核基地と政府を狙ってミサイルを発射する。
そのミサイルが着弾する前に敵もまた発射する。
その応酬によって
いったん核戦争が始まると
極めて速やかに壊滅的事態が進行してしまう。
 
核についての警戒すべき思想:
先ず原発の安全性を広める。
「事故の確率は数学的に計算すると、
こんなに低いから、原発は安全だよ」などと刷り込む。
それが成功したら
   ↓
「核兵器も管理すれば心配ないよ。
それに抑止力だし・・・」と核武装を推進する。そして
何らかの天災や人災や戦争による混乱が生じたとき
   ↓
「核兵器も小さいものなら、
必要なときには使うべきだよ。」
(小さいものなら、自衛において、
通常兵器で充分なはずである。詭弁といってよいだろう。
大きい威力が欲しいから核兵器に頼ろうとするのである。)
こういう思想の流れを作為的に
作ろうとする人々がいないことを切に祈り願う。
とともに、絶えず注意し警戒し監視すべきだと思う。
恐らく
昔、大久保利通がビスマルクに言われたとも聞いているが
「対等な武力を背景にして初めて対等な外交関係が可能になる」
という核以前の時代の古い理念を踏襲したいのかもしれないが、
終末的に近い核の時代にあっては上述の
「脅しが脅しのまま永続するか(否)」「核戦争の連鎖反応」
によって壊滅と滅亡への道を進むだけになることを危惧する。
 
仮に
日本が核武装した場合、悪意ある相手国から
核ミサイルが、迎撃も虚しく、日本に打ち込まれ
大半が民間人の100万人が死んだとする。
そのときに日本は相手国への報復・復讐として
相手国の、これまた、民間人が大半の100万人を
核兵器によって殺すべきかという問題に直面する。
もし100万人を殺せば、さらに核兵器の応酬は、
他国も巻き込んで、両国~世界の滅亡を招く
ように思えてならない。
 
わが国は、核の時代にあって、
核戦争を防ぐ方向を持つ唯一の手段としては、
いかなる他国にとっても脅威にならない国を目指す
以外にないとしか考えようがないのが今の私である。
 
たとい極端な場合の結果として
日本と日本民族が、結果として、核兵器によって滅びたとしても
日本は、けっして核兵器によって
他国や他民族を滅ぼす国になってはいけないということを、
誇りを持って、わきまえる国であって欲しいと思っている。
 

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