ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:その他文化活動

   
  10/10の痛み
 
 
私は、今までの64年の人生で
最大と思える痛みを二度味わっている。
二度とも歯科においてだった。
 
一度目は学生のとき
歯科で抜歯をするのに
私が心臓に欠陥があると告げると
紹介状を書いて検査するように言われ
内科に行って検査して
内科が歯科にどう返事したかは知らないが
自覚症状もなかったし
特に何かの処置がいけないとは言われなかった。
 
そして歯科で局所麻酔を受けたのだが、
口の中、何にも麻痺してない。
プラセボ(偽薬)であるとすぐ分かった。
医学生にプラセボ使うかな・・。
 
どこまで我慢できるだろうと思った。
私の歯は脆くて
ペンチのような器具で挟んで抜こうとしても
すぐ砕けてしまう。
それで歯茎がより広く見えるようにか
メスで歯肉を切った。
もちろん麻酔は偽りなので
ジョリッという感じが直に分かった。
でもそれは最大の痛みではない。
少し痛くて気持ち悪いだけだった。
 
それでも挟んで抜けないので
今度は何か叩く道具があるらしい。
それで歯茎を横から、カーンと叩くと
激痛が走り
呼吸が止まった。
正確に言うと反射的に吸気が強く抑制された。
悪いことに
カーンは繰り返された。
そのたびに吸気が止まる、息が吸えない、
つまり呼吸できないのである。
 
だんだん目の前がチラチラしてきて
吐き気がして
気が遠くなりそうだったので
緑の布の下から手を動かして
しばらく休憩してもらった。
 
そのあと処置を再開して間もなく抜歯できたけど
そのときの痛みは忘れない。
 
呼吸ができなくなる
→ 続けば意識を失う必然
これが10のうち10の痛みだと思っている。
気を失ったほうが楽なのだ。
 
 
それから40年余の後、
二度目も歯科である。
またしても抜歯である。
今回は局麻も効いて無痛のうちに無事に済んだ。
歯肉がいびつな格好だったので一針縫合した。
 
家に帰って夕食
痛い歯は抜いたと安心して噛もうとしたら
ビーン、と激痛が走った。
その瞬間ストップモーションのように体の動きと呼吸が止まる。
片方の目だけから反射的に涙が出る。
あの時と同じ痛みだ。
 
ビーンが治まるまでは息が出来ない。
何か食べると、またビーン、ということで
ろくに物が食えず流動物などを飲んで
二週間ほぼ寝込んでいた。
 
受診予定日は一週間後だが
体力も気力もなく弱っていて
行く気にならない。
電話もない。
縫合の糸を残したまま放置か。
見切りをつけてこちらも放置。
 
二週間後
ついに自棄気味になり
鏡を見ながら
爪楊枝で縫合糸を引っ掛け
裁縫用の糸きり鋏で切ろうとしたら
糸は円い輪のままプツッと取れた。
血が流れ出る。
そのとき痛みが7~8から1に減った。
 
縫合の糸が神経に触っていたのである。
 
 
二度目のときは
早く歯科を受診するべきである。
なんとなく行きたくなかったのは、
愛想もなく説明も乏しくて、
虫歯だらけの年寄りを扱うのが嫌なのだろうか
などと思っていたから。
 
 
一度目の痛みの後は
最大の痛み=呼吸が止まる痛み
と思っているので
注射とか打撲とかなんてことないし、
バイクで朝の防波堤に衝突して
骨折して立てなくて意識も失って
救急車で運ばれて病院で目覚めたときも
これは最大の痛みではないと思った。
 
 
(2018年06月23日、同日一部修正)
 
脆い(もろい)
直に(じかに)
自棄(やけ)
爪楊枝(つまようじ)
鋏(はさみ)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

以前、このブログの始めのほうに書いたことではありますが、
宗教から生まれた思想というわけでもなく、個人として、
夢を見ている甘ちゃんと言われるのは覚悟の上で、また書いておきたいのです。

 
 
  生存の叫び
 
 
国家は
国民の生存権を守るためにある。
 
 福祉が大事なのは分かってますけど・・
 
福祉も生活保護も必要ですが
それをもって
生存権国家と言うのではありません。
 
 他に何があるっていうんです?
 
自衛隊を持つのは何のためですか。
警察があるのは何のためですか。
法制度を整えるのは何のためですか。
 
国民の生存権を守るためです。
 
 治安ということですか
 
さらには
経済の仕組みを整えるのは生存権のためです。
国が治安を必要とするのは生存権のためです。
役所があるのは生存権のためです。
愛国心を学ぶのは生存権のためです。
外交に苦労するのは生存権のためです。
総て国民の生存権のためです。
 
生存権を守ることは
あらゆる政策の正当性の唯一の根拠です。
 
政府が
国を統治し
治安を維持し
国民に法律を守らせるのは
ただ国民の生存権を守るためです。
 
広く生存権には
1.生物学的生存権:生存権
2.尊厳としての生存権:存在権
3.社会生活のための生存権:生活権
があります。2と3は個性に関わります。
 
国民の
あらゆる自由と権利はそこにあります。
あらゆる責任と義務はそこにあります。
政府の
あらゆる責任と義務はそこにあります。
 
結果は出てみなければ分かりません。
経過においては説得力が物を言うでしょう。
 
少なくとも最悪ではなく
機会ごとの最善を目指すことになります。
 
ただ
最も大切な力はコミュニティの人間力です。
それを法制度が支えるべきだと言っています。
 
あらゆる法制度を生かすのは人間力です。
 
あらゆる法制度を殺すのは非人間力です。
 
人間は
かなり貧乏でも
良好な人間関係があれば生きるでしょう。
 
自分に関わってくれる人間と人間性が
あると思えない時
人間は生きていけなくなるでしょう。
 
貧乏人がいなくなる世界ではなく
貧乏人が元気でいられる世界を目指すべきです。
 
ここでは
結果がどうこうと言うことよりも
経過として努力の方向がそこにあり
あらゆる反省の理由がそこにあると言っています。
 
 
国家は
国民の生存権を守るためにあり
そのためのみに存在する。
 
国家は
国民の生存権を守るために統治し
それ以外の最終目標を持ってはならない。
 
そのためにのみ
国民は定められた法制度に従う義務を負う。
 
いかなる場合も
国民の生存権はその経過においても
実行においても思想においても
妨げられてはならない。
 
 
(2018年03月09日、同日一部修正)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  話すこと
 
 
自分の力であろうと
神の力であろうと
「話せば分かる」を前提にしてしまうと
分かってくれない相手に
いっそう自分を繰り返し押し出すことになり
しまいに
「あいつはバカだ」・・になってしまう
 
「こんこんと言って聞かせた」は
相手が「言われて聞いた」を意味しない
 
動物は
脳ミソがヒトより大きい動物もいるけれど
大方本能に従って行動する
(・・ざっくり言った場合の話・・)
 
余談だが
昔動物園で見た猿の交尾は
2~3秒で終わってそっぽ向いて
がっかりするほど素っ気ない
 
犬はしばらくは繋がっていたいようで
(・・見た感じだけ・・)
 
満腹したライオンは
獲物が近くをうろついているそばで
のんびり昼寝・・
平時の悪巧みなどライオンはしない
 
動物は個と個による差が少ない
 
何が言いたいかというと
ヒトは動物より精神世界が大きい
その分だけ悩みも多く
違いも多く
同種に見えても違う部分の余地が大きいのだから
個と個の差が莫大なヒトは
はたして同じ種として人間同士と言っていいのか
 
「話せば分かる」のではなく
話せば分かることも少しはあるという程度だろう
 
その程度が小さくはないと思うのは
「話しても分からない」ことがある
というのが人間だと思えば
自分を曲げてはいけないが
相手が何を持っているかを考え
角度や視点を変えてみる
という選択にもなる期待だからだ
 
何が欲しいかというと
心の奥底において
やはり少しは
やさしい人でありたい・・
 
 
(2015年06月07日)
 
 
 
 

相対的??・・結局、空想に過ぎません・・
 
 
  存在と歪み
 
 
大きな存在について知ることは少ないのに
大きな存在は
陰に隠れたはずの小さな存在を明らかにすることがある
 
大きな存在は世界の一部を引き寄せ
見かけ小さくなって
隠れるための陰をも小さくするので
大きな存在のもとで真っ直ぐなものが
隠れきれずに姿を見せてくることによって
それに乗って小さい存在が見えてくる
 
ゆえに大きな存在は真っ直ぐなものによって
いつもではないが
隠れている小さな存在の姿を現すことがある
 
大きな存在からは
小さく存在するものも世界の一部を歪ませるから
小さな存在は歪んで動く姿として丸見えであり
世界は歪みで出来ている
 
しかし小さな存在は引き寄せられ歪んだ姿を
直接見ることは出来ない
 
人には逆に真っ直ぐなものが曲がって見えるのだ
 
イメージ 1
 
以前テレビで
太陽の陰に隠れている星が見えるということがあって
それが相対性理論の証拠だという放送がありました。
それで
大きな存在(例えば神とか摂理とか)と
小さな存在(例えば人とか物とか)の関係に置き換えて
光を絡めて書いてみようと思ったのですが
・・稚拙な空想、この辺にしておきます。失礼。
 
(2014年09月10日)
 
 
 
 


日記的断片:二つの言葉について
 
「一期一会」
 
生涯に一度だけ会うこと
・・これだけだと何となく分かりにくい感じ?・・
それで
次に再開できるという保証のない人の世において
会っている今ひとときが全て ( なのだから、
相手を大切にもてなさなければいけない )
と受け取ってみる。
・・ひとときが永遠・・という広がりを
感じさせる言葉になるような気がする。
 
 
「国破れて山河あり」
 
人間の無常観と自然の悠久?のようだが、
否定的に読むと、
国が滅びて山河だけしか残っていない。
肯定的に読むと、
国は滅びたが山河は今なお昔のまま残っている
という希望とも受け取れる。
さらに
国が滅びても
山河を「山河」と呼ぶ人々は今なお残っている
という希望とも受け取れる。
 
さて仮に
「人類滅亡して自然あり」となるとどうだろう。
前に
人類が滅亡しても自然は自然であり続ける
と書いたことがあります。
あながち間違っているとも思えないのだが、
見方を変えると、
人間のみが自然を「自然」と認識し呼んでいるのだから
人間がいなくなれば、その認識そのものがなくなり、
つまり
人類が滅亡すれば、もはや自然 ( と呼ばれるもの ) はない。
すなわち
「人類滅亡して自然なし」という見方も出来るかもしれない。
 
(2011年12月11日)
---------------------------------------
当たり前といえば当たり前かもしれませんが・・
 
 
 
 

このページのトップヘ