ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:できることを

 
  できることを2
    過去記事を加筆して再録
 
 
正しいことをしたから救われる・・のではない、ということが分かる聖句です。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
14:3
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 
14:4-5
すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。 
14:6
するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
14:7
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
 (マルコ14:3-7、新約聖書)
 
女性は、高価なナルドの香油をキリストの頭にかけました。周りからは、無駄なことであり、高く売れば、もっと施しができたと女性をとがめます。なんて無駄なことするの、という感じでしょう。
 
キリストは、女性をかばいます。キリストに良いことをしたからです。つまり、女性は、キリストのためにしたのだから、責めてはいけないということです。キリストが宣べ伝えるところの救いの基準は、普通の効率の話の次元ではありません。キリストは、女性の心を見抜いていたということです。
 
ゆえに、救いというのは、人の行為の善悪や効率によるものではない、ということです。つまり、人に、深い信仰の真偽が、いつも明確に分かるとは限りません。偽は分かることもありますが、だまされることもあり、真の信仰も明確に分かるとは限らないということです。
 
信仰について、正邪はありますが、それは、神が裁くような正邪ではなく、人にとっては精いっぱい正直に祈るかどうかということです。人の信仰の正しさは、そこにしかありません。神の正しさと人の正しさは、次元の違うものです。それぞれ、神の義、信仰の義、と呼ばれています。
 
信仰によって、できることというのは、必ずしも、効率が良いとは限らず、ためになることとも限りません。さらに、つきつめて言えば、必ずしも、正しいとさえ限らないのです。それが、人間の不完全性であり罪性であります。
 
私たち信仰者は、判断し、実行し、不完全な自分からの、神への正直な祈りの時を迎えるのです。それが正直であれば、神は、信仰の義を与えるという話なのでしょう。人の善悪や効率の基準ではなく、キリストのために言動する心が正直であれば、信仰としては義とされるということです。
 
ここには、キリストの、赦しと救いの考え方が表れています。勘違いや、誤解によって、正しいとは言えなくとも、本心から、できることをしようとしてしたことなら、キリストのためにしたことを、受け入れて、責めることはなさらないということが信仰の義であり希望となり救いとなるのです。
 
さらには、女性にとって、キリストはどういう存在だったのでしょう。今を逃しては、もう二度と会えない御方、そう思うから、何かしなければ、と思ったのでしょう。捧げものの効率とか考えている余裕はなかったのかもしれません。
 
そのことを、キリストは、深い洞察と共感によって、見逃さず、ゆえに、良いことをしたと、女性を認めたのでしょう。
 
信仰は、驚くべきことを、人にさせますが、それが、いつも、正しいとは限らず、人間は、つまり、神の御心に従いました、ではなく、できることしましたとしか言えないのです。キリストは、そこに至る心を察して、女性に慈愛を向けているのです。
 
キリストの、それこそ、直観的な行動分析とでも言っていいような、鋭く、慈愛に満ちた、洞察力と直感力です。ここを見逃して信仰は成り立たないと言ってもよいのです。
 
このように、聖書には、キリストについて、人々との関わりにおいて、人間が受け取れる、瑞々しく磨き上げられた宝物のようなエピソードがあります。
 
キリストの言葉が、救われるに相応しい人に対して、信仰ゆえに、さらなる戒律的道徳的負担をかけることや、さらなる悲しみや重荷を負わせることや、責めることや、人を善悪で裁くこと、などはないということです。犯罪人の救いの聖句を読めば明らかであります。
 
どうか、求道において、信仰において、物や肉体に起こる奇跡に驚くだけでは決して得られないところの、魂の奇跡を見逃さないでください。
 
(※ 信仰と、物や肉体に起こる魔法のような超常現象の奇跡を、同一のように見なしているところの偽善者、楽山や、シャロームに、近づかないでください。)
 
私たち人間は、時に、安易な気持ちや、激情や、勘違いや、思い込みによって、罪を犯します。それは、キリスト者も同じです。キリスト者は、正直な祈りによって赦される道を選んでいるという違いだけだろうと思います。
 
神に正直に祈る、人間に出来るのはそれだけです。それだけが信仰の条件です。それ以外の、善悪や正邪などについては、人は判断して行うけれど、裁きは神に委ねられることです。
 
知り尽くし正しくなることが信仰ではありません。私たちは、できることをして、神に、精いっぱい正直に祈ります。それだけで、信仰の義が与えられ、神に認められるのです。というより、私たちには、それしかないということです。
 
私は、ある時から、それこそ、救われる条件として、正直な祈りを強調してきました。なぜかと言えば、神の前に本気で正直であろうと努める人は、人の前でも、あからさまに騙すような言動は出来なくなるからなのです。それが信仰が導く良心の道なのです。
 
 
楽山とシャロームshalomは、真実とも、信仰とも、真逆の生き方をしている反キリストであります。同一人物の成りすましの可能性も疑っています。
 
 
神の義 信仰の義

神の義 信仰の義
 
 
(2020年02月23日)
(2021年03月03日)
(2022年03月09日、再録+加筆)
 
 
 
 幸福の科学の矛盾点
 (信者自身が教団の矛盾を指摘していた)
 2021年03月01日 
 楽山の「幸福の科学とは何だろう?ブログ」
 抜粋して批判。
 
 
ここに、キリスト教について、幼稚なイチャモンをつける者がいます。よく読めば、真剣味が全然ないということが分かりますが、丁寧語で、暗示的に、だまそうとする者がいます。
 
楽山は、醜いものを背負っていても、カルト批判なら書いていいと思っているようです。しかしながら、批判者に相応しい正直さも潔さもなく書けば、楽山の今までの因業によって、偽善となってゆくしかないのです。
 
醜い楽山の正体を知っている人は、キリストほどの洞察力はないとしても、その悪と偽善の正体から、目を逸らすことは出来ないし、してはならないという立場に立つからです。
 
リバティ、HS、幸福実現党などの公式では、その内容を紹介している。内容紹介は職員はよいが、信者は禁ずるということなのか。これはダブルスタンダードではないか。
 
楽山は、自分の善意芝居を、ブログに書いていますが、そこにある敵意と悪意と恨みについては、文章に表れているのに、隠せたつもりでいるのです。これこそ、楽山の偽善のダボ・スタンダードです。
 
職員だったころに、この件について意見を述べたことがある。その意見はある程度受け入れられ、状況も少し改善された。しかしそれ以降、教団内において自分に対する風当たりがきつくなったようにも感じた。気のせいかもしれないが…。
 
楽山は、HSの職員だったそうで、不遇を恨むかのように、一連の記事で、身の程も知らずに、上からHSを批判しています。しかし、あからさまにHSを批判しておいて、「気のせいかもしれないが…」というのは、ありえないと思います。
 
「気のせいかもしれない」と思いながら、批判はしておこう、などと言う根性で批判は成り立たない、ということを知らない楽山です。
 
つまり、こういう「気のせいかもしれないが…」を付け加える書き方は、楽山が、不確定で不明瞭な語句を入れることで、違うかもね・・的な、いい加減な筆致となり、責任を負う気のないことを意味しているのです。ペロッと舌を出しているイメージになります。
 
楽山が、元信者か元職員かは知らないが、本質的に、興味本位の煩わしい野次馬だというのは、こういう無責任な言い方にあり、そこから、卑怯な性根がバレてきたからです。何事も、本気ではなく、自己顕示欲による趣味に流れてゆくのが楽山です。
 
*自由な団体というけれど
遠江氏は信念をもって、教団に対して公開で異を唱えたようだったが、結局、動画は非公開にすることになったのは残念だ。教団批判は、和合僧破壊の罪に問われかねないことであろうし、タブーになるのも致し方ないが、伝道の際には法話霊言の内容について話してもいいかどうかについてさえ議論できないというのはどうかしている。
 
楽山は、よく似た体質で、都合の悪いことは、なかったかのように、無視してきました。そういう体質だから、平気で批判とか出来るのです。"自由" というHNを使っていたことがありますが、全く、自由とは矛盾する不感不応の不都合無視&隠蔽体質です。出来た人と言われたいだけの欲望なのです。
 
こういうところをみると、HSは自由を尊ぶ団体だというのは、まったく事実に反するといえそうだ。
遠江氏が動画で話しているようなことは、伝道者なら誰しも考えることであろうに、それでさえ非公開になるというのは、ほんとおかしい。
 
楽山は、自分だけの自由を尊ぶ体質です。言論者なら誰しも弁えることを、平気で無視してくる楽山というのは、全く公共の自由と真実に反しており、本当に、ぶざまで、おかしいです。どうか、相手にしないでください。
 
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
  勇敢な兵士
 
勇敢なる兵士諸君
あるいはすべての戦う者たち
あなたがたは義によって立ち
あるいは仕事と割り切って
戦いの場へ向かい
祖国のため正義のため
殺された仲間のため家族のため自分のため
うまくいけば生き残って凱旋し
多くの人々にたたえられ
胸に輝く勲章を与えられるかもしれない、しかし
あなたがたは喝采を浴びせる人々から受けるようには
神から祝福を受けることはないだろう
いかに平和を勝ち取るという目的を持っていても
極悪人を殺すときも
人殺しを殺すときも
殺さなければ殺されるようなときも
人を傷つけ殺したならば神の前に
あなたがたは裁かれる身であり
決してたたえられる身ではない
 
天国に勲章も名誉も持ってはいけない
ただ裁きの日に裁きの場に立たされるであろう
そして情状酌量の余地を問われるであろう、それほどに
人を傷つけ殺すことは正義ではない
しかし心の底まで
裏の裏まで
すべてを見抜かれる神が斟酌されるとき
その計らいは限りない哀れみであり
永遠の生命へ至る道である
神の前に明らかにならないものはなく、もし
あなたがたが天国へ招かれるとすれば、それは
あなたがたが正義であるからではなく
あなたがたが、ただ
父なる神によって哀れまれた
という理由のみによるのである
何故なら御国に至る道はそれ以外になく
あなたがたを見送った私たちも
それ以下ではない罪によって裁かれるからである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
罪を隠して善人のように見せかけることを偽善と言います。偽善者の言は、ときに、実に、白々しい発言になります。人間ならば、当たり前に、しなくてはならない反省を、楽山が「実践するのは難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと、他人事のように言うのが、典型的な偽善の発言です。
 
善悪の基準を並べてみると、人においては、偽悪、善、悪、偽善、・・という順序になるでしょうか。その両極端に、神と悪魔がいるでしょう。神に救われるのは、偽悪、善、悪の、前3者です。偽悪というのは、善人なのに、ちょいと乱暴で悪びれることです。偽善者は救われません。
 
人は、神の基準を身につけることは出来ません。ここに書いていることも、その時その時の、判断に過ぎません。しかし、判断は空しくはなく、同じ判断が、長く続けば、それは真実に近くなるだろうと思います。シャロームについて10年以上、楽山については、3年以上、偽善という判断が続いています。
 
最も憎むべき偽善者は、楽山やシャロームのように、悪を隠し、善人芝居をしたり、インテリを気取ったりの、ペテンの人生を過ごす者たちです。私はと言えば、厳しい言葉も使って批判しているわけですから、恐らく、悪でしょう。折に触れて、キリストの御名によって、神の憐れみを乞うています。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
それにしても、大事なのは、信者かアンチかという立場じゃなくて、真理に則るかどうかだと、なぜ分からんのだろう。
 
「真理に則る」を怖いと書いたら、また、同じこと書いてきた。楽山は怖いんだぞ・・とでも言いたいのか。怖い自慢なのか。楽山は、自分が、真理に則(のっと)っている、とでも思っているのか。ふつうの人でも、そこまでは言わない。ふつうに謙譲を弁えるからだ。偽善の悪意が壊れ出している。
 
楽山は、悪の将軍にでもなって、自分で自分を言葉で特別視したいのでしょうか。自分で自分に真理の勲章を付けて自慢している楽山です。真理という完全言葉を自分に当てはめる楽山は、真理の下で働くより、真理の下に、口を大きく開けたまま、潰されてゆくほうを選んでいます。
 
 
 
  モンスター楽山
 
 st問題資料集(編集方針、目次、後記)2022年03月08日
 
 
楽山は柔和な人間性を持ちません。楽山は凶暴な本能性のモンスターです。楽山に都合のよいものを集めただけで、主張でも思想でもなく、誤解させるための印象操作なのです。気をつけてください。楽山のペースに乗ることは精神の死を意味します。私は、できることをします。
 
楽山は、また、st問題資料集というのを大量に書いてきました。やはり、楽山は、量だけで勝負したいのでしょう。こちらは、楽山の体質が表れている記事とコメントを、集中的に書いてきたつもりです。表れているのは、批判返しではなく、パニック症状に近いものです。楽山問題資料集です。
 
楽山の、いちゃもんは、全て、楽山の自己愛性パーソナリティ障害の症状としての印象操作であり、刷り込みであり、プロパガンダに過ぎません。ネットの街宣車とでも言うべき煽りでしょう。こういう楽山を、決して相手にしてはいけない、これが鉄則です。楽山は、何とかに刃物状態です。
 
批判は、理由があって始まり、根拠を示して書いています。私としては、完全ではなくても、楽山が言論者として、無反省、無責任であるゆえに失格だという記事を書いてきました。それに比べて、楽山は、理由は、批判されたから、批判者をストーカーと呼び、根拠はなく、弁明にもなっていません。
 
楽山などの自己愛性人格障害者というのは、自分正義の無条件命題から書いてくるので、汲むべき内容が無く、かつ、結論だけを並べ、かつ、3年余りの文章の中で、楽山に都合のよさそうなことだけを書いてくるので、信頼度はゼロだと思います。事実の選択、文字面で誘導する手法を取っています。
 
私が、楽山に対して、好意的だったコメントも載せているようですが、初期の関わりにおいて、私は、まんまと、だまされていたということです。偽牧師シャロームshalomに同意したことがきっかけで、楽山の凶悪性が、次々に、応答に、記事に、バレてきました。楽山は、自分に溺れているのです。
 
楽山は、昔は好意的だったから首尾一貫していないとでも言いたいのでしょうか。私としては、訂正不能ではなく、楽山は、柔和ではなく、真逆の、凶悪だと気づいたから批判に転じたのです。楽山は、凶悪な性質を改めることをせずに、刷り込みの断末魔になっています。悲しむ心が無いからです。
 
批判に転じた私が、楽山に好意的になるのはないだろうと思います。楽山こそが、失望させたことを何とも思わず、昔は好意的だったとばかり、都合のよいコメントを出してくるのは、殆ど断末魔であり、実に見苦しいことであります。楽山の、もっともらしさを装う言い方に、だまされないでください。
 
楽山は、殆どコピペだけの数えきれない記事群を、しかもコピペで、だらだらと無意味に書き続けています。だから弁明にならず、自己中のままです。楽山は柔和な人間性を持たず、凶暴な本能性のモンスターです。楽山のペースに乗ることは精神の死を意味します。私は、できることをしています。
 
今回の楽山の一連の投稿は、まさに、悪意のパニック発作のようなものです。いつまでも、いつまでも、誰も見ない記事を書いておればいいのです。自分で新しいことが書けないために、過去のコメントを洪水のように流しています。どの方向にも考えることの出来ない人格の末路的恐慌発作です。
 
楽山は、ひょっとして、過去のコメントを並べれば並べるほど、楽山が被害者だと分かると思っているのでしょうか。楽山の発言は、的外れのボンヤリ曖昧言語と、わざとらしく同情を得ようとするトホホ言語しか表れていません。改竄でもしていない限り、楽山の思うようにはならないと思います。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)12:2-3
12:2
おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 
12:3
だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。
 (ルカ12:2-3、新約聖書)
 
 
 
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  善悪と判断3
 
 私の前の記事「できることを」
 の続きのようなものですが
 
 
アメリカのドラマで、よく聞く台詞です。
 " Do the right thing. "
 
正しいことをしなさい、やるべきことをしなさい、という意味でしょう。とてもシンプルな言葉だなと思いますが、この台詞に文句を言うつもりはありません。日本でも、日本語で似たようなことは言われるでしょう。
 
私たちは、個人の利益や幸福を妨げることを、悪いことだとを判断しているようです。そこには、加害者がいて、犯人または悪人と呼んでいます。そして、陰性の感情をいだきます。しかし、私たちは、自分のこと以外では、被害者と加害者について、詳しい経過を知っているわけではありません。
 
つまり、その時その場で、善悪の判断をしているのであって、その判断は相対的だが、それで、行動が必要ならば、行動の基準としています。そうしちゃいけないという理由はありません。というより、そうするしかないわけです。
 
ただ、本当に、どこも間違いのない善悪の判断になっているか、その判断には誤りが全くないか、ということについては、私たちは、完璧な根拠を持ち得ません。総ての状況と、総ての影響を、知っているわけではないからです。
 
人間が、行動するときの、事前の判断は自分でするしかなく、その判断について、誤りの可能性を自覚しているでしょうか。だから、正しい信仰を、ということではありません。信仰者においても、人間としての善悪の判断能力は、同じです。信仰は、誤りのない正義を与えるわけではありません。
 
むしろ、信仰者であるなら、神の絶対に対しての、人間の非絶対性つまり相対性を、罪深さとして自覚しているはずですから、非信仰者よりも、よりいっそう、自分の判断に、神に対する恐れをいだいて、決めつけようとする傾向を抑制するのでなければ、信仰に生きているとは言えないはずです。
 
人間は、絶対正しいから実行するのではなく、その時、判断しているに過ぎません。人間の判断には、絶対はありません。例えば、批判が続くのは、批判対象に、改める様子が全く見られない場合です。批判を続けるかどうかについても、同様に判断をすることになります。
 
 
ですから、信仰について、信仰者のキリスト教的通念的道徳を押し付けてはいけない、ということは言えるでしょう。信仰は、神と人の関係、キリストと人の関係であり、道徳的行動はそれに伴うものであって、副次的なものです。他者に勝るものでも匹敵するものでもありません。人の義は不完全です。
 
神が人に与える義は、正直な祈りに対する信仰義認であって、正しいことをしたという行為義認ではないのです。
 
さらには、丁寧で控えめで、人を責めたりしない、という、これもキリスト教的な通念的道徳となると、殆ど、意味を持たなくなるでしょう。これらのうわべの態度は、むしろ、信仰とは無関係に、人が、単純なイメージで、生み出した先入観に過ぎません。
 
前から言っているように、聖句から、悪口を言ってはいけない、という道徳を語るには注意が必要です。批判のことを悪口というのは、カルト的な言論者が、批判に対して発してくることだからです。そして、信仰者自身が批判されたときに、信仰者も、思いやすく、言いやすいことだからです。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
批判には根拠があることを何度も言ってきました。しかし、批判は絶対ではありません。批判だけでなく、人間の言動は、絶対の正しさではありません。批判する必要があって、批判する気があって、批判できる人がすることに過ぎません。
 
人は、自らの言動の影響を、影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って、逆に、傷つけるということが起こり得るわけです。
 
つまり、あらゆる言論は、それを否定し改めさせるほどの優れた意見によって、修正される余地を残しているという弁え、それが、敬虔であります。最終的には、神に任されるべきことであり、人は、そのことを自覚していなくてはいけません。そういう、動きうる心が大事だということです。
 
 
動かなくなった心は、停滞してゆきます。人間の不完全性すなわち罪の性質によって、そういう心は、停滞にとどまらず歪曲したり固着したりする恐れがあります。無条件に、さらには、実際は快楽原則の不快という原始反応のみによって、他者を否定したり、退けたりするようになる恐れさえあります。
 
揺るがない信仰、というものを、勘違いしないでください。救いのありがたさに満たされ、そこに満たされた信仰は、信仰の確信のつもりで、ときに、動く心を失ってしまって、観念のように固定されて、逆に、感謝や讃美のお芝居をさせるようになるからです。
 
揺るがない信仰というのは、忍耐強い信仰のことです。動くゆえに、喜怒哀楽が起きて、悲哀や苦難に忍耐が必要だからです。
 
 
判断し行動することには、人間として、疑問の余地がありません。そうするしかないことです。ゆえにこそ、神を恐れるならば、自分で、善悪の"絶対"基準を作らないことが大事です。
 
絶対でなくても、判断することは出来ますし、行動することも出来ます。その思いや行為や、経過と結果は、祈りにおいて、神に捧げられるべきものなのです。それによって、信仰についても、行為についても、内省力が保たれるでしょう。
 
信仰は、神と人との双方向です。しかし、前から言っていますが、人は、神に語ったつもりでも、直接、その時、神から返事を聞くことは出来ません。祈りは、人から神への唯一の音信であり、神に対する発言であり、人と神の双方向を保つ唯一の行為なのです。
 
その信仰の正直であろうとする姿勢こそが、立派に完全になりたい、という、人間の思いこみの欲望から、また、悪意や憎しみから、人間を解放し救うのであって、それゆえに、私たちは敬虔でありうることを求め、感謝するのです。
 
双方向と言っても、神様やキリストや聖霊が、人と同じように、直接、言葉で教えてくれるわけではありません。神聖の臨在の体験を声高に豪語する向きには注意が必要です。自分が神聖な特別の者になりたがる欲望が働いている恐れがあります。
 
天国に行き、神聖になって、永遠になって、神のように聖なる者になる、などということは、人間には分からないことであります。神に任されることです。ましてや、生きている地上では、神聖に近づくよりも、神聖との違いを弁えるべきです。
 
しかしながら、人間として、信仰者として、正直な祈りによって、心が洗われるような、神妙な気持ちになるような、気が済むような、重荷が取れるような、安らかになるような、そういう体験を持ったことのある人は、少なくないと思います。
 
それが、少なくとも、人生の終わる時まで、同伴者がおられることによる癒しであり、人間の側から分かる祈りの効用です。神秘は神の秘密として知りえなくても、癒しの体験は、信仰を通して、人にも分かることです。
 
それが、ただの気休めでないことは、祈りの信仰によって生きてゆく人が、数えきれないほど、いる、そして、いたことが、証しとなっているからであります。
 
いかなる人間の判断も、絶対ではありません。神の前に、自分が絶対ではないことを表すために、精いっぱい正直に告白する祈りこそが、信仰において最も大切な、悔い改めなのです。悔い改めとは、世俗ではなく、神のほうを向く、すなわち、祈ることです。
 
 
信じ仰ぐ

信じ 仰ぐ
 
 
(2020年02月27日)
(2022年03月04日、再録+加筆)
 
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
 
 
楽山の、意地悪な自己中リツイートについては、前にも批判しましたが、いくつか、さかのぼって見てみると、もっとありました。ちょこちょこと、人の口を借りて、・・楽山の姑息です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·2月22日
自分を見失いそうになるほど忙しいとき、苦しいときは、ちょっと無理をしてでも、自分が好きなことをするための時間をつくりましょう。自分が本当にしたいこと、心の底から望んでいることさえ忘れなければ、自分を見失うことはありません。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:56 · 2021年2月22日·Twitter Web App
 
忙しくなくても、自分を見失っている楽山です。だから、深く考えもせずに、他者の口を利用します。考えて新しく記事を書くのではなく、コピペして、見境もなく、多量の、多数の記事を書いていることを既に報告しました。まるで発作か衝動のようです。
 
「本当にしたいこと」「心の底から望んでいること」というのには、自分を律すること、考えることが、必須であります。楽山は、欲望しているに過ぎません。空恐ろしい敵意と悪意であります。楽山のような嘘吐きは、神の祝福から、最も遠い人です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
·2月23日
コメディアンに宗教をジョークにするのをやめさせたいって?だったら宗教がこんなに素晴らしいネタの宝庫でいるのをやめたらいいんじゃないかな。トム・バラード(オーストラリアのコメディアン)
午後5:53 · 2021年2月23日·twittbot.net
 
このツイートを選んで引用して、楽山が言いたいことは明らかです。宗教なんてお笑いのネタだと揶揄したいわけです。底意地の悪さが、引用にも出てくる例でしょう。楽山こそ、地獄の火の車なのです。巻き添えを求めて、だまそうとしてきます。
 
宗教の勘違いがもたらす、おかしな話というのは、恐らく、いっぱいあるでしょう。しかし、それは、勘違いによって起こるものであり、楽山のように、本来の宗教の根本を好きなように揶揄していい、悪口を言って否定していい、ということの根拠には決してなりません。
 
楽山は、悲劇が起こるから神はいない、霊が分かるっぽい自分が偉くなれないから神はいない、と言っているに等しいことを、今まで書いてきたのです。言い換えれば、神はいない、自分は偉い、と言っているようなものです。
 
そう思わせたくて、楽山は、自己顕示欲から、丁寧語の詭弁を、数え切れないほど発してきました。楽山は、実に、自分の家には柱も床も塀も焼け焦げているのに、隣りの家が、汚いと言い、貧乏だと言って、笑っているような人です。放っておくと町が焼けてしまいます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
陣内 侘助
@muAscLTeYb2WlXo
·2月23日
画像:
君らの神の正気は
一体どこの誰が
保証してくれるのだね?
 
神の正気は、楽山とは何の関係もないわけです。
つまり、楽山などに全能者の心配は無用です。
 
楽山は自らの正気を疑うべきです。
神も、人も、誰も、保証しないからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」では決して説明できないような、罪と悪と偽善を重ねて、一片の正直も表したことのない楽山です。つまり、人間であり続けることを、ずっと拒み続けています。代わりに、霊が分かるっぽい?という教祖願望に至り、ますます、空想パニックに堕ち続けているのです。
 
楽山は、自分の不出来を棚に上げたまま、他者を批判してきました。それこそ、遅くとも9年前から、実際は、もっと前からでしょう。「反省。とほほ」と書いた後も、変わりはありません。そして、最近、さらに醜い悪口を発作的に並べています。楽山の悪は、偽善を伴って、不治と判断するしかないのです。
 
「st氏からつきまとわれる」「前々から、st氏には、誤読、歪曲、投影、決めつけ、邪推、妄想…などが多すぎることは指摘していますが、残念ながら今回も同じ感想を持ちました。」・・こういう書き方ですが、何も根拠を示せない楽山です。しぶとく、しぶとく、批判を重ねるしかありません。
 
 
 
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