人間を舐めている楽山
 
 映画『ハンナ・アーレント』
 2018年06月02日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山は、歴史上の出来事について、「圧巻」「すごい」「急所を突いてる」と書いて、その中身を書けないのです。さらに、注釈的な情報を載せるでもなく、説明するでもなく、独りで満悦して、終わるのです。いったい誰に向けて書いているのでしょう。楽山は自分に向けて書いているだけだと思います。
 
楽山が、前の私の批判記事にあるように、思想家アーレントについてツイートしていたので、関連のブログ記事を批判対象とします。もちろん、批判対象は、アーレントではなく、楽山です。身の程知らずの楽山が、何かを発表すれば、そこに表れる嘘や詭弁が批判対象になるということです。
 
 
本作は、哲学者ハンナ・アーレントの伝記映画である。
ただし伝記映画とはいっても、その生涯を辿るのではなく、ナチ高官のアイヒマンの裁判を傍聴し、そのレポートを発表した後の騒動について集中的に描かれている。
その中でも、アーレントが自らの考えを述べる部分は圧巻である。
 
(ネットより)
ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身の哲学者、思想家である。ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツから、アメリカ合衆国に亡命した。のちに教鞭をふるい、主に政治哲学の分野で活躍し、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる。
ハンナ・アーレント
 
(ネットより)
ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントが雑誌『ニューヨーカー』の特派員としてこの裁判を傍聴して書いた『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)の中で、イスラエルに裁判権があるのか、アルゼンチンの国家主権を無視して連行したのは正しかったのか、そして裁判自体の正当性に疑問を投げ掛け、ユダヤ人の中から激烈な批判を受けるなど、激しい議論を巻き起こしたこともよく知られている。
アイヒマン裁判
 
自分の意見というものを持たない、というより、持てない楽山です。それで「圧巻」という褒め言葉です。つまり、体裁よく書くことだけが目的なのでしょう。楽山にとって、ブログは、自分の中身を高めるのではなく、自分の体裁を高めるためのものなのでしょう。
 
 
たとえば、以下のくだりはすごい。
西洋には伝統的先入観がありました
人間が行う一番の悪は利己心から来るものであると
ところが今世紀に現れた悪は予想以上に根源的なものでした
今なら分かります
根源的な悪とは分かりやすい動機による悪とは違います
利己心による悪ではなく もっと違う現象によるものです
人間を無用の存在にしてしまうことです
強制収容所は被収容者に対して無用の存在であると思い込ませ殺害しました 
 (50:12~)
 」
アーレント(バルバラ・スコヴァ)は、映画の序盤で、収容所にいるときに、はじめは救けが来ると希望を持っていたものの、時間が経つうちに疲れはてて気力がなくなっていったことを告白している。
「無用の存在」うんぬんとはそういうことなのだろうか。
 
楽山は、自分が、「無用の存在」以上に、邪悪な存在であることに気づいていません。だから無反省そして無責任に生きていられるのです。だから「うんぬん」としか書けないのです。「殺害」という言葉は、楽山にとって、どういう意味でしょう。恐ろしく軽く気安く見ている気がします。
 
 
根源的な悪は、利己心とは別にあるという発想は分かるような気はする。
自分は某宗教団体にいたことがあるが、そこでは利己心ではなくて、使命感、正義感などの利他的な思いによって、不道徳な行いを正当化する信者が少なくなかった。
次の台詞も急所を突いてる。
 
楽山の「根源的な悪」は訂正不能の「利己心」です。しばしばカルトにいたことを示して、犠牲者に共感がある立場を強調しますが、楽山自身が、自己愛と他者無視の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に漫然と生きて、他者を巻き込もうとするカルトなのです。
 
 
彼は思考不能だった
これは愚鈍とは違う
彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは思考不能だったからだ 
 (1:07:55~)
 」
彼は検察に反論しました
何度も繰り返しね
“自発的に行ったことは何もない”
“善悪を問わず自分の意思は介在しない”
“命令に従っただけなのだ”と
 (1:37:44~)
 」
組織は、個々の判断よりも、命令に忠実であることを求めるものであろうし、独裁者がトップに立つ組織なら、その傾向はなお一層強まるだろう。
ことに神と同一視される教祖と、その信者によって構成される宗教団体なら、そうならないようにするのは、恐らくラクダを針の穴に通すより難しい。
 
楽山は、カルトにだまされないことを、聖句を引用して「ラクダを針の穴に通すより難しい」と言っています。カルトに盲信するのは、自己責任ではないとでも言うのでしょうか。いいえ、カルトの邪悪さを受け入れてしまう精神の脆弱さはあると思います。そして、楽山は、さらに邪悪になっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
 (マタイ19:24、新約聖書)
 
聖書を、ろくに読んでおらず、理解もしていない楽山は、富と天国についての聖句の比喩を、自分の目的のために悪用します。自分で勝手に一般化して、気安く聖句を利用するのは、おとしめ以外の理由はないでしょう。反キリストの楽山は、情性が欠如しているので、神にも人にも恐れをいだきません。
 
キリストの言葉を、気楽に使い、聖句を知ってるふうを装う、という楽山の表現は、聖書の価値も、キリスト教も、信仰も、まるで分っていないだけでなく、聖書をバカにしたい気持ちの表れです。偽善者の悪意は、このような表れ方をします。楽山は、思考不能だけでなく、一貫して思考が邪悪です。
 
 
アイヒマンの擁護などしてません
私はかれの平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが
理解を試みるのと許しは別です 
 (1:41:04~)
 」
こういう誤解をする人がいることは分かる。
たとえば、A氏が、問題を抱えているB氏の内心を知り、理解するために、その話をよく聞く姿勢を見せただけで
「A氏は、B氏と親しくしている。二人は仲間だ」などと誤解され、中傷されることは、さほど珍しいことではない。
 」
 
なぜ、名前を書かずに、A,Bで、一般化して表すのでしょう。「珍しいことではない」というのは、人間なんて、そんなものと言いたいのでしょうか。結局、俯瞰したつもりで、実際は、偏見だけを表しているのです。重大なテーマから乖離したところに楽山の自己満悦はあるようです。
 
楽山は、楽山の無反省と無責任という自身の罪で、責められるべきです。決して、一般化できません。楽山のように、あってはならないという意識を忘れること、持たないことは、つまり、楽山は、殺す側の人であり、思考不能なのです。
 
 
ソクラテスやプラトン以来 私たちは“思考”をこう考えます
自分自身との静かな対話だと
人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました
それは思考する能力です
その結果 モラルまで判断不能となりました
思考ができなくなると平凡な人間が残虐行為に走るのです
(1:41:32~)
 」
考えることを放棄するならば、モラルを失い、残虐行為に走るというのは、決して過去の話ではなく、現在も変わらないのかもしれない。
独裁者、独裁政権、カルト教祖などの言説を、無批判に受け入れ、その意のままに動く輩は、今も少なくない。
 
過去の話として考えてはいけないというのは当たり前のことです。何かを感受して思考するのが人間です。楽山には、まず、まともな感受が出来ません。いつも悪は他者のものという前提で書くのは、自己愛性人格障害の特徴です。楽山は、よく、論点整理などといいますが、楽山に論点はありません。
 
楽山は、印象操作によって無批判に受け入れられることを悦び、批判されると、批判者を侮辱し、批判を無視してきたのです。つまり、凄まじいことに、悪者が悪をあげつらい、偽善者が偽善をあげつらっているのが、楽山の言論です。というより、楽山において、言は偏向し、論はないのです。
 
 
こういう風に、組織の歯車や、指導者の操り人形になることは、誰もが間違いであると判断することだろうけれども、思考停止に陥っている者は、自分がそのような状態になっていることには、なかなか気づけないのだから悲惨である。
 
楽山の言は、そして、遣り取りは、いつも、読者の思考停止と混乱を狙っています。それで、社交の世辞でも、賞賛の言葉でも返ってきたら、楽山の自己愛は有頂天に満たされるのでしょう。今後、そういうことが決して起こらにようにという願いから、私は、批判記事を書いています。
 
 
本作は、ハンナ・アーレントについてはよく知らない人でも楽しみ、感動できると思うし、特定の政治または宗教団体に属していた者には、さまざまな気付きを与えてくれるにちがいない。
公開時には、平日でも映画館は満員になったというが、それも当然と思える名作である。
ぜひ多くの人々に見てもらいたい作品だと思う。 〈了〉
 
映画評論家を気取っていますが、正体はペテン師です。いつも、刷り込んで、印象操作して、屁理屈と詭弁の迷路に誘って、相手が疲れるのを見て、悦に入る楽山です。そういうとき、いたわりを装って、実は、あざ笑いの向こう側から蔑んで言うでしょう。疲れたんじゃないですかと。楽山は笑っています。
 
無防備で、楽山の裏を見抜けず、なんとなく肯定的に聞き入れてゆく人は、楽山の下で、主体性を失い、受動的に、楽山の言を、実は、だまし文句の詭弁を、間違って受け入れて、委縮して、人格を、鈍化され、壊されるでしょう。そして、だんだん、楽山に似てくるのです。
 
楽山は、神と聖書と信仰についての、恐ろしく単純で幼稚な決めつけを書きながら、まるで軟化剤でも混ぜるように、世辞や丁寧語で飾って、ごまかしているのです。楽山の理解は、偏向した自己のカルト思想をベースとした曲解と妄想であり、楽山は、悪性の自己満足疾患であります。
 
理路の代わりに迷路を、癒しの代わりに心の病を、丁寧語とインテリ気取りで刷り込んでくるのが楽山です。楽山には、大人の知性がなく、高等感情の自責の念や、罪悪感や、自らを見る反省する心が、欠損しています。楽山も、楽山を受け入れる人も、小学生レベルに退行してゆきます。
 
私は、数が月、楽山を柔和だと思っていた初期の感想の過ちから、楽山と遣り取りを通じて、何を言ってる?、違うだろ?、といった感じで、聞き返しては空しく、異様な疲労のうちに、ようやく、楽山のサイコパシーに気づいて、その後、3年余り、批判を続けています。
 
だまされないためには、関わらないことだけです。あの疲労はごめんなので、楽山は出入り禁止にしています。さんざん詭弁で振り回しておいて、今さら、双方向を求めるなど、冗談じゃありません。報いを受ける日が近づいてきています。神は、いつまでも黙って見ているわけではないと思います。
 
精神病の患者さんには、正直な人が多く、愛すべきところが多々あります。楽山には一片の正直も誠実もなく、だますための装いだけです。楽山のような精神病質(自己愛性パーソナリティ障害者、サイコパス)こそ、最大の非難と軽蔑を向けるべきであります。
 
精神病質は、人格障害であり、精神病になりやすい性質という意味ではありません。その辺が、紛らわしいので、人格障害(パーソナリティ障害)という呼び方になったのかもしれません。
 
 
嘘を舐める悪意

嘘を舐める悪意
 
 
(2022年05月13日)
 
 
 
  失われた一人
 
失われた夜の向こうで
一人は首をかしげ
一人は嘘をついた
まだ笑顔で泣けるだろうか
 
真昼の星の下で
一人は別れを告げて立ちすくみ
一人は出会いを祝福して去った
まだ影は立つことを望むだろうか
 
夕焼けが滲む速度の中で
一人は一人に
もう一人はもう一人に
お互いの不在について語った
 
灯もなく誓いもなく
まだ火に焼(く)べる信条があるだろうか
 
夜の向こうで灰と化した紙切れが
見ることのない朝を刻んだ
 
 
  一つの嘘
 
お前(私)は祈りの中で嘘をついたな
御心ならばわが命に代えて、などと
お前は確かに嘘をついた
もしお前が健康で有能で仕事がうまくいっていたら
わが命に代えて、などと祈れたか
仕事がうまくいかずに
やけを起こしていたからだろう
命と引き換えに奇跡が起こって
聖人にでもなるつもりだったか
お前のやけに彼女を引き合いに出すなんて
知らないうちに、一週間も前に
もう死んでしまった人を引き合いに出していたなんて
 
さっきから煙草を吸ったり握ったり
煙草の箱をくるくる回したり
パソコン周りの空き缶や書類やごみ
下の方を見回したり何をやっている
 
馬鹿野郎
 
 
  夢に出てきた
 
初恋の人が夢に出てきた
若い頃はよく出てきた
近年お久しぶり
夢に出てくる彼女
後ろ姿だけのこともある
似ても似つかぬ人だったりする
頭に二~三個、円形脱毛症だったこともある
 
思い出せば全く別の人
夢の中ではしっかり彼女になっている
今日のは割とまともだったな
勝手に批評している
 
若い彼女
年とった彼女
ご丁寧に二人も登場した
年とった彼女など知るはずもない
もう二十年以上経つ
どう形成したのか
若い彼女より硬くて冷たい顔だった
どこか寂しげ
そこまでいくと嘘になる
 
目覚めのとき忘れてしまった
思い出せない彼女
もっとたくさん見たのだろうな
夢見る間だけで消えた人
本物は何処の空の下やら
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘で世渡りをしていたら、いずれ、吐いた嘘が返ってきて、にっちもさっちもいかなくなる、ということが常識人には分かるから、努めて嘘は付かないのだが、それが分からないのは、内省しないからだということも分からないようで、また、嘘吐きの記事が表れる。開き直りが悍(おぞ)ましい。
 
楽山は、かつて、数か月の間、キリスト信仰をおとしめました。その言い分は、実に情ないほど幼稚なものであり、無根拠の嫌がらせと判断したゆえに、楽山批判は、楽山という、とんでもない人がいるから近づかないでくださいということを書くのです。卑怯な人物の例として書き残すのです。
 
書くべきと判断したから書くのであり、楽山が書いても書かなくても、こちらの批判は続くでしょう。ゆえに、批判ブログは、アクセスや、いいねが、多いから、少ないから、という理由で、書いたり書かなかったりを左右されるものではありません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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