ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:アドラー心理学

 
  楽山の妖怪フェチ2
 
 
スピ系、幽霊、霊感、そして、妖怪を愛することについて、趣味にとどまるならば、批判する必要はありません。しかしながら、楽山は、リアルの人間関係においては、人の意見を聞かないで自分の言い分だけを図々しくネチネチと、超常の筋書きを並べ続けるという性癖があります。
 
それが、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝となり、スピ系讃美、反キリストとなっていて、さらに、深いテーマについて書いてゆく思慮と弁えを持たないで、雑に、乱暴に、評論家気取りで書いてくるので、一般の読者を毒する誘導として批判対象となり続けています。
 
この記事では、人間よりも、妖怪好きの楽山が、はっきり表れています。楽山が、人間のことを深く考えることをしないのに、妖怪という空想の産物に向かう嗜癖が明らかとなっています。
 
真摯に、かつ、謙虚に、深いテーマを考える、という姿勢を持たず、いかなるテーマも、人をひたすら誘導し、だましてゆく、傍迷惑な人食いのカルト妖怪みたいになっているのが、楽山です。
 
その分、人間性を軽視し捨ててゆく慢心だけで書いてくる人間離れの鈍い記事は、決して一般に語られる面白い妖怪話として読むことは出来ません。
 
 
 『日本現代 怪異事典』朝里樹著
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 
 
先般ひさしぶりに図書館に行った際、タイトルにひかれて手に取り、しばらく前に映画で見て以来ずっと気になっている隙間女を調べてみようと開いてみたら、五十音順だけでなく、類似怪異、出没場所、使用凶器、都道府県別の索引も完備されていて驚かされた。仕事の丁寧さ、細やかさは有り難くもあり、どこかおかしくもある。
 
隙間女という妖怪のことが、ずっと気になっているそうです。楽山は、今まで、宗教について書いてきた、おおよそ、偏見と芝居としか思えないような曲解について、何も訂正しないままであります。
 
せっかくなので隙間女は五十音順ではなく、出没場所索引で探してみることにすると、「隙間」という項目はすぐに見つかった。隙間には隙間女だけでなく、隙間男というオバケもいるらしい。人間社会が男女平等になれば、それに連動してオバケ社会もそうなるということか? 他には、三センチお化け、隙間の目、ヒラノといったオバケもいるようだ。こんなにオバケがいるんじゃ、隙間はうっかり覗いてしまわないようにこれまで以上に注意しなければならん(笑)。
 
うっかり覗いてしまうどころか、人間性を失うほどに、超常と霊に、のめり込んでいる楽山です。霊が分かるっぽい自覚の楽山にとって、趣味ではなく、空想と思いつき以外、語れるものがないのです。そのような在り方で、人間の弁えを持たないで、霊と超常と妖怪について語るのは異常です。
 
「赤毛のアン」には、アンがあそこの森にはオバケがいると想像した結果、それが本当のように思えて怖くてたまらなくなり、森に近付けなくなる話があっておかしかったが、自分はいい年したおっさんであるにもかかわらず、隙間女の映画を見てからは隙間の向こうにある闇のことをあれこれ想像しては怖がるというアンと大して変わらない失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)。
 
「失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)」というのは嘘です。恥ずかしいなら書かないでしょう。楽山に恥ずかしいという悲しみの情があるなら、今までの経緯から、このような記事を書いて「(笑)」でくくることは出来ないはずです。楽山は、違います。
 
「失敗」「恥ずかしい」と書いて、「(笑)」でくくる楽山です。聖書の悪魔が悲しまないのに似ています。そして、退けられても、退けられても、誘惑を仕掛けてくるのにも似ています。
 
 
 『江戸の怪談 絵事典』近藤雅樹監修
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 
前記事で書いた『日本現代 怪異事典』のケセランパサランの項を見たら、ケセランパサランについて「江戸時代にはすでに語られた記録があ」(p.147)るというので、江戸時代の怪異譚に興味がわき、本書を見てみた。
子供向きの本なので怖くはないし、誰でも知っている怪談が紹介されているのではあるが、改めてそれらを読んでみると、主人から虐待された女、夫から毒を盛られた女、男に襲われ殺された女、恋い慕う男に煙たがれ嘘をつかれた女など、かわいそうな女の話がやたらと多いのには驚かされた。
 
楽山は、他者を下に見て、憐れみと和みの独り芝居に興じ、詭弁を盛っては、ボンヤリ言語で人格破壊へ誘導し、平気で嘘を吐くなど、怠惰の毒性が、やたら多いのに驚かされます。楽山の柔らかく見せかけた詭弁と誘導は、だまされて食べると毒饅頭に匹敵するでしょう。
 
なんだかこういう話ばかり読んでいると幽霊は怖いというより、かわいそうになってくる。小さかった頃は、大人が幽霊はかわいそうだというのを聞いても、その意味はさっぱり分からなかったが、今になってようやく分かってきた気がする。
 
楽山は、楽山自身も人間性を失って似たようなものだから、幽霊が怖くはないでしょうが、かわいそうだと言っています。かわいそう、という感情は、楽山にはないと思います。そういう言葉があるから、人間らしさの芝居として使っているだけでしょう。つまり、あざ笑いなのです。
 
「分かってきた」を真に受けないでください。今までのことから、楽山に、悔い、悲しみ、あわれみ、共感、反省、などの深い情はないと思います。そういう言葉があることだけを知っていて、人間味を装う芝居をしているのでしょう。しかも、幽霊に向けているのです。
 
本書の第4章では、「稲生物怪録(いのうもののけろく)」が紹介されているが、主人公の屋敷で家具が空中を飛び回るポルターガイスト現象が起きたり、さまざまな人物が物怪退治に訪ねてくるだとか、現代の視点からみてもエンターテイメント性が抜群の物語となっている。
 
このように、楽山が興味を持つのは、面白おかしいことだけだと思います。ポルターガイストにも、恐らく、幽霊にも、超常現象にも、気楽なエンターテインメント性だけを求めていると思います。そして、それと同じ見方で、宗教と信仰を語ったつもりになるという愚かさです。
 
今まで、偽宗教と反宗教を書き、右翼に賛同し、心霊のことをいっぱい書いておきながら、何ごとについても、製作者や著作者の意図にかかわらず、実感をもって受け取ることがないのだろうと思います。ゆえに、何も理解できないので、でっち上げるしかなくなっています。
 
言ってみれば、楽山は、平面に生きているようなものです。そこが世界だと思って、得々と語りますが、傍から見ると、聞くに堪えないほどの偏狭で、一面的な視野が、表れてくるだけなのです。楽山が鈍麻しているのは、そうでないと、楽山は、恥ずかしさに昏倒してしまうからでしょうか。
 
当時はこういう話がウケていたのだとすると、今も昔もアクションホラーのファンは沢山いるということなのだろうな…。
 
やはり、ウケる、といった安易なことしか書けないのでしょう。今も昔もアクションホラーのファンはたくさんいると思いますが、それを書いて何を言い得たつもりでいるのでしょう。人間らしい心を持たない楽山も妖怪フェチに過ぎないのです。楽山のホラー好きは、人生の誤変換です。
 
楽山は、まともに見せかけて書いて、はっきりした主張をまとめることが出来ません。なぜ、この記事を書いたかも、分かってはいないのでしょう。楽山は、記事を書いて、まともぶることだけが、満悦につながるのでしょうか。
 
丁寧語で、やばいことも強いことも派手に書いているわけではないとしても、その丁寧で抵抗のないような文章の曖昧な感じこそが、楽山の狙いであり、受け入れると、知らず知らず、余計な、煤のようなものがこびりついて残って溜まってゆく、という詭弁なのです。
 
付き合っても、何も得るものがないというのは、こういう、楽山と、楽山の生産物であります。楽山という詭弁屋で嘘吐きのペテン師は、実際には、アクション、ホラー、スピリチュアル、宗教、信仰など・・理解も体験もしていないのです。
 
宗教、特に、キリスト教の信仰について、楽山は何も分かっていません。理路も発想も直観も直感もありません。楽山は、分かってなくても、根拠が無くても書けるのが、超常的な心霊の世界だと思っており、あとは、有名人の著作から言葉だけ貼りつければいいと思っているのでしょう。
 
そういうことだから、どんなテーマも、趣味のエンタから、思想・宗教・政治などという重要なテーマまで、みな、安っぽい駄弁か繰り言レベルで書いてしまうのでしょう。こういう人と付き合うと、結局、一種異様な、侵襲性の高い疲労だけが残り、それによって人格が摩耗してゆきます。
 
宗教を考えることは、人間を考えることです。信仰を持つことは、よりよい人間に成長することです。楽山のように、宗教のつもりで超常ばかりを語ることは、関わる人を、宗教と信仰の真実から遠ざけることです。ゆえに、批判し否定し続けることが必要なのです。
 
 
妖怪フェチ

妖怪フェチ
 
 
(2019年08月22日)
(2021年08月31日、再録+)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
 
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
 
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
(昔の作)
 
 
 
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  知るべきこと(再)2
 
 
旧約から信仰の節操を学び
新約から信仰の愛を学ぶ
 
旧約聖書から
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神のあり方を表す言葉を受け取ることは
それを理解することではなく
(人間に理解できることではない)
神と人の決定的な違いを
創造主と被造物の決定的な違いを
あくまで人の側において学ぶことである。
 
神に対しては
人のいかなる自信も自慢も通用しない。
人のいかなる知性も感性も
そして、いかなる偉業と呼ばれるものも通用しない。
神に対して人が捧げて届くのは
正直な告白のみである。
 
それ以外は通用しないことを学ぶ。
これを信仰の節操と呼ぶ。
 
新約聖書から
救い主イエス・キリストの神性を学ぶことは
それを理解することではなく
(人間に物や肉体の奇跡は理解できない)
またそれが自分に起こると信じることでもなく
(自分に神の行為を結び付けるのは人の傲慢である)
神性が人間性の低みに身をおろした
ということを
あくまで人の側において
人間性に相応しい理解をすることである。
 
すなわち
キリストの洞察力と共感力を知り
またキリストの同伴の恵みを知ることは
信仰の愛を知ることである。
 
信仰の愛を支えとして
信仰の節操を弁えながら
耐え忍んで生きるのがキリスト者の道である。
 
 
 
神の意志と行為を決めつけて
奇跡による救いを信じるのは
神への冒涜であり偶像崇拝である。
 
信仰は、唯一、
神と人の違いを弁える節操において
厳しいと知るべきである。
 
神は友達ではない。
神は
やさしいおじさんでもお爺さんでもない。
偉い御方にとどまる者ではない。
 
絶対の正義に人間は耐えられない。
ということは
神はご自身のような正しさを人に求めてはいない。
 
神を信じるという信仰は
神の前に偽りが通用しない
ということを信じること。
 
それが神を恐れるということ。
 
神は
その初めから終わりまで
在って在る者、
人知を超えた理由とあり方で
創造主であり万物を統べる御方である。
 
 (出エジプト記、口語訳)
3:13
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:13-14、旧約聖書)
 
キリストは権威ある仲保者である。
神と人の間をとりなす御方である。
ゆえに人間に共感し
その苦しみを負われた御方であり
命を惜しまぬ愛を
罪深い人間のために捧げた御方である。
 
贖罪の教理を知っても
キリストの愛を知らなければ信仰ではない。
 
キリストの愛に答えて
キリストを愛するのが信仰である。
 
贖罪の教理によって
いつも赦されるから無罪であるかのように振る舞うのは
神への直接の背きである。
 
信仰は
いつも喜びだけを与えるわけではない。
信仰は
むしろ悲しみを通して成長するために与えられている。
 
いつも喜んでいるように振る舞うのは
迫害が迫る時代と違って
現代においては、大方、嘘であり
神の前に嘘は通用しない。
 
そのようなあり方は
祈りの体裁だけを整えることであり
それによって信仰は少しも整うことはない。
 
信仰は
神の言葉だからと
聖書の文言だけにこだわることではない。
それは教条主義に陥る。
 
信仰は
聖書を興味本位に読むことではない。
黙示されていることを知ろうとするのは
信仰ではなく興味に過ぎない。
 
聖書は暗号の謎解きのために書かれてはいない。
信仰が難しい謎解きを必要とするなら
いったい誰が救われると言うのか。
 
聖書は人間のために
信仰を伝えるためにのみ書かれている。
 
信仰者を信仰にとどめるのは
キリストの愛に答える信仰者の愛であり
それゆえ人が道を外れても
神の全能もキリストの愛も滅びることはないのだから
正直に告白して赦される道は
神の側から断ち切られることはない。
 
偽善者と背教者は
悔いることがないゆえに救われないのであって
 
神が人を見捨てることはないのである。
 
神の愛は節操のみにおいて
この上なく厳しく
キリストのもとに帰る恵みにおいては
この上なく寛容である。
 
 
(2019年07月16日)
 
 
シャローム:
批判している途上で、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、キリスト信仰とは正反対の信条をあらわにした。これ以後、反キリストと見なしている。
世辞と、おとしめ言葉を、同じコメントに書いて、不自然さを覚えない不感不応の、偽善者であり、サイコパスと見なしている。
 
易坊:
シャロームとともに、私の、当時のヤフーブログを荒らして、50~100コメ超の遣り取りを強いてきたカルト的荒らし。サイコパスとしか思えない。
 
楽山:
無宗教を気取りながら、ときに、反キリストの記事を書き、キリスト教をおとしめてくる。また、一方では、キリスト教的な祈りのような文言を書いてきて、理解者を気取っている。主張が一定しないが、唯物論や進化論を用いて、神信仰を否定するのは、やはり、反キリストとしか思えない。
 
その後の、訂正不能、自己愛性の人格障害、学習不能、無反省、などによって、サイコパスと見なしている。楽山は、自己中カルトのアドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた。それは、楽山の自己中カルトとして、今も、様々な詭弁を弄して、続いている。
 
シャローム、楽山、易坊については、一人による成りすましの疑いもある。
 
自称マグダラと自称ヨシュア:
この二人は、最近、ご無沙汰である。
ヨシュアは、戒めを守って完全になれるのです、などと豪語して、私が批判していると、しばしば、私の個人情報を出してきて、発狂するかのように、私のことを、ダメ人間、精神病などと罵り、罵詈雑言を並べた。
自称マグダラも、同様に、批判すると、別人のように、攻撃的になるが、プププ、ケロッ、などと、奇妙な台詞を吐きながら罵る。俗的な意味で、ヒステリックである。
この二人については、一人の成りすましを疑っている。
 
アドラー心理学:
私は、カルトだと思うので、アドラー教と呼んでいる。気に入らないことは無視しましょう、あるいは、私の課題ではありませんと無視することを、誘い文句として勧めているので、"日本人アホ化計画" を企てているカルトとして批判している。楽山は、その宣伝者であろう。
"無視" がもたらすものは、学習がないために、成長しなくなることで、恐らく、人の気持ちの分からない、知性と感性が鈍麻した、ぼうっとした自己中人格に帰結するのだろうと思います。
 
以上の者たちは、私が死んだ後も、生き続ける者たちです、巻き込まれることのないように気を付けてください。
 
個人の人生の最終的な闘いと、人類の歴史の最終的な闘いは、人の世界の現象としては、恐らく、普通の良心と、サイコパスとの闘いになるでしょう。
 
 
私に誤りがあれば指摘してほしいと思いますが、私は、人間としての標準的な理路と、信仰者としての直観的および直感的理解に基づいて書いています。修正し改めるには、自他からの説得力を持つ説明~批判が必要です。なお、楽山のような嘘と詭弁だらけのは、批判とは言いません。
 
 
直観・理路、直感・共感、絆(きずな)

直観・理路、直感・共感、絆(きずな)
 
 
(2020年07月16日、一部修正して再録)
(2021年07月17日、再録+)
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる思考実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
 不信仰告白
   (キリスト以外の
    神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(90年代)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
アンバー
@cult_of_happy
·7月14日
HSに関して言えば信者が対立するのは当たり前なんだよな
言ってる事とやってる事が違う、言ってる事がコロコロ変わる、反社的な事も肯定される場合がある…
こんなの自分の主張をどこに置くかで誰とでも対立する
更に絶対正義を体現してる気でいるから妥協したり折り合い付けたりできない
午後11:52 · 2021年7月14日·Twitter for Android
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
楽山の非常識と病質を批判しています。楽山は、無反省のために学習ができず、ゆえに、成長せず、誰とも意思疎通と共感が成り立ちません。それを何度指摘しても、人の意見を受け取らず、考えることもなく、病魔の因業を繰り返します。
 
ツイートの内容は、楽山の言動パターンに似ています。楽山は、キリスト教と信仰について、否定したり肯定したり、全く一貫していないにもかかわらず、自説を反省して、まとめたり訂正することも出来ません。成長がないので、説得力もなく、同じような非常識で不誠実で表面的な言説を繰り返します。
 
楽山は、自分の主張に満悦してしまって、これなら分かるでしょ、なぜわからないの?、・・みたいに、自己の正当を疑いもしない人です。たぶん本気でしょうから、自己愛性人格障害NPDだろうと思います。自己愛性は、学習しない、成長しない、発展しない性質です。
 
人格と能力に何の根拠もなく、一人前を装う人がいます。関わってはいけない人です。
 
 
※ 
 
夜遊びする子供に、ああせい、こうせい、勉強しろ、とか言ったら、子供にバカにされて、そのあと言ったこと・・「このオレが説教か・・」と自嘲して吐き捨てる、これ、映画「ロッキー」の中のセリフ字幕です。私は、感動しました。
 
偏屈でいいんです。視野が狭いでいいんです。その自覚さえあれば、立派に面白く生きられます。
 
 
 
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  アドラー教と楽山
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン‏
  への、私の批判記事「アドラー教について(14)」
  を加筆して再録。
 
 
楽山は、以前、盛んに、アドラー教の宣伝をしていました。そのことを、過ちだったと訂正したことはないと思います。楽山は、カルト的な完全自己中になっています。その関連で加筆しています。
 
個別の多様性を考えず、後先を考えずに豪語して、そのあと、折り合いをつけるための言い訳めいたことを言う。人間の言葉の不完全を思うならば、先ず、豪語を避けるべきなのですが。
 
【憎い人を忘れる7つの考え方】
1. 自分の為に許してやる
2. 過去は過去に置いてこれる
3. 悪い人だと早く知れて良かった
4. 嫌いなら、無理に関わる必要は無い
5. 憎い人のことを考えたら、相手の思うツボ
6. 他人と過去は変えられない
7. 好きな人を大切にする
 
憎い人と悪い人を、カルトと置き換えたほうがよいかもしれません。決めつけて、現在と未来を固定して、人の迷惑を考えなくなっている楽山と置き換えてもいいでしょう。
 
嫌われることを恐れていれば、あなたは永遠に幸せになれない
幸せになる為には、嫌われる勇気が必要です
嫌われることを恐れずに、ありのままの自分で生きるべきなのだ
嫌われないように、他人の顔色を伺って生きていては何も楽しめない
 
嫌われて平気でいて、仲間だけで褒め合うのもカルトの特徴です。楽山が、シャロームに無条件で同意することに表れています。これで幸せになれるのでしょうか。他者に、とんでもない徒労を与えるだけになっているのですが。
 
嫌われても、否定されても、何も気にしないようになったら、楽山のような、人間とは思えないような、人間の神経も精神も持っていないような存在になるでしょう。
 
自分よりも他人を優先して生きる為に、あなたは生きていない
 
このような発言が、自己中体質を促進するでしょう。楽山に至っては、他人より自分を優先するにとどまらず、他人を無視して自分の満悦と慢心だけを、むくむくと膨張させる人になっています。
 
未完成のままでいい
完璧なんて目指さなくていい
というより、完璧な状態なんて実現されません
もしあなたが完璧な状態を分かっているとすれば、それは空想の産物です
何でも揃って、何不自由しない状態なんてこの世に存在しない
いつだって、幸せは今この時にあり、やりたいことは今やるべきです
 
確かに、人間は、未完成だから成長が必要ですが、
この文脈が、アドラー教から出てくるのでしょうか。
幸福を保証するかのような断定と豪語を繰り返している中で。
 
完璧でなくていいという保証は、
失敗と批判に対する責任逃れの予防線ではないでしょうか。
 
他人は他人、自分は自分
他人が自分をどう思おうと、何を言ってこようと、そんなことはどうでもいい
 
どうでもいいのでしょうか。参考にしなくてもいいのでしょうか。人の言うことは、どうでもいいから聞かないよ、と言っている文脈になります。そうして、楽山は、人間性を失って、他人など、どうでもいい人になっています。その結果、楽山自身も、人間ではなくなっています。
 
そんなことを気にかけて、自分の気持ちに嘘を付いてはいけない
自分に嘘を付いて、やりたくもないことをやらされていると思いながら生きるなんてバカバカしい
自分で自分を制限しているだけです。
 
やりたいようにやれ、と言っているようなものです。楽山みたいに。
 
教えられたとおりに、やりたいようにやって、突き進んで、失敗したときの責任をだれがとるのか、という問題になるでしょう。一喝するだけでおさまらないときは、逃げる用意でもしているのか。
 
それとも、楽山のように、全く責任を感じない無反省・無責任・無神経な人になれと言っているのでしょうか。そして、誰にとっても、疲労だけを与える迷惑因子になっています。
 
人はあなたが思うほどに、あなたのことに興味を持っていません
あなたが勝手に馬鹿にされてるとか、変だと思われていると思い込んでいるだけです
みんな自分のことで精一杯なんです
 
他者の思惑に左右されてはいけない、他者に依存してはいけない、ということは、誰でも言うことです。しかし、今まで言ってきたことは、興味などという範囲ではないですね。
 
楽山は、他者の意見も思惑も忠告も批判も、無視して、人間を、やめているようです。
 
教えるならば、うまくいかないときの対処も教えることが必要です。人が伝えるいかなる教えも、薔薇の花園を約束するわけではありません。だから、謙虚になるわけですが、それが、アドラー教に見られるでしょうか。
 
楽山は、薔薇の花園にいるつもりなのでしょう。実際は、罵声を浴びせられ、糞便を投げつけられても仕方ない状況ですが。
 
人の噂を楽しむ人達は、あなたに興味があるのではなくネタを探しているだけ
そんな人達、相手にしてはいけません。
 
楽山みたいな人のことでしょうか。確かに、反省もせず、責任も負わず、ネタにして茶化して遊ぶだけの楽山のような人は、相手にしてはいけません。
 
あら探しなんかしてないで、良いところ探しをしましょう
どんな物事も、良いところを見ようとするのか、悪いところを見ようとするのかで意味が全く違う
あら探しをしてしまうのは、あなたの心が曇っているだけ
あなたが偏見を持たずに、良いところを見つけようとすれば、世界は幸せな場所に変わる。
 
良いところだけを探して、悪いところを無視するのは、悪を野放しにすることです。そうすれば、楽山のような自己中は、大助かりでしょう。しかし、その分、犠牲者が増えるのです。
 
まるで、ブログ主自身に対して、批判せずに良いところ探しをせよ、と言っているかのようです。
 
それが幸せというのは、文句を言われたくないカルトの特徴です。あら探しをするのではなく、思考を深く掘り下げることは、いかなる場合も、自分を支配されないために必要です。
 
反省もせず、責任も負わず、過ちを認めずに、怠けていると、楽山のような、体質的な、自己満足疾患になってしまうのです。
 
好きでもない人と仲良くしなくていい
人生で出会える人、付き合える人の数は限られている
人との関係を雑にするべきではありませんが、目の前の人達が全てではない
あなたに合う人、あなたを好きになってくれる人はいくらでもいる
どうでもいいような人達と、惰性で付き合い続けることは時間の無駄
 
惰性で付き合い続けることと、好きでもない人と仲良くすることを、同一に考えているようです。惰性で付き合うことは、依存の強迫観念において起こり得ることですが、それは、好きでもない人とは限りません。また、今は苦しいけれど我慢するということもあるでしょう。
 
楽山のように、都合のよい文言だけを求めて、苦言や批判を無視する者は、何の説得力も魅力もない惰性だけの人間になっています。
 
好きでもない人と仲良くする必要はないとして、好きではないと、いつ、判断するのでしょう。最初に好きでないと感じたときに、仲良くしないと決めてよいのでしょうか。
 
好き嫌いと、正邪を、混同して、楽山は、無視を行使します。その結果、楽山を好きでもない私によって、今まで2年、これからもずっと、その邪悪さを批判されることになります。
 
軽々しく、教えだからと、付き合いを断ってしまうことの責任を誰が負うのでしょうか。実際には多様なケースがあるのに、一律に短い言葉で断定することの弊害を恐れないようです。
 
楽山は、全く責任を負わず、反省せず、訂正不能になって、破壊が酷くなっています。付き合いがなくても、行為がなくても、邪悪は、批判されてゆくのです。
 
弊害として、出会って、ちょっと不満を感じるたびに、目の前の人たちが全てではない、好きになってくれる人は他にいる、惰性で付き合い続けない、時間の無駄、などと思っていたら、次から次に、諦めが早すぎて、我慢することがなく、腰を据えることがなく、理想と満足を求めて、どこまでも、いつまでも、放浪の人になってしまうでしょう。
 
楽山には、生きる軸となるものが、全く見られません。
 
人は勘違いをするのが当たり前の、愚かな生き物です
人は自分のフィルターを通して、物事を知り、判断をしています
 
このことは、独りでも起こることですが、アドラー教も、自己中と思われる要素をその教えにも持っています。特に自己愛性人格障害者において勘違いをすると、正当化の根拠を得たかのように完全な他者無視の自己中になっている者がいます。
 
楽山がそうです。色眼鏡でしか物を見ず、しかも、それを、真理のように語って、自己満足して、反省することなく、責任を負わず、訂正不能で、成長せず、その結果、自己正当化の詭弁だけが、症状として、症例のデータとして、山のように積まれてゆくのです。
 
人それぞれ違うのが常識であり、みんな同じであることが異常なのです
孤独を恐れるあまり、多くの人達は常識を正解だと思い込んで苦しむ
自分の頭で考えて、自分の人生を生きよう。
 
続く言葉で、人それぞれと、人によって違うという話にすり替えています。そして、アドラー教は、独りで判断するように言っているのです。上で、勘違いが当たり前と書いているのに。
 
その教えの結論が、自分の頭だけで考えようなら、それは、自分で満悦する楽山のような人間です。都合のよいことだけを拾って来ては書き、都合の悪いことを無視して、楽山は喜びだけで、周りは迷惑だけです。
 
自分が知っていることが全てだと思ってはいけません
自分の知っていること、認知できる範囲はこの世のほんの一部に過ぎない。
だからといって、他人とは分かり合えないと考えて切り捨てるのも早計。
無理に同調する必要はありませんが、お互いに折り合いを付ける努力をすることに意味があるのです。
 
まるで、予防線にもならない、体よくまとめただけであり、同時に、苦しい言い訳のようです。
 
自分の頭で考えて、自分が全てではない、他人とは分かり合えないと考えて切り捨ててはいけない、無理に同調するな、折り合いをつける努力、・・これは、主張の方向が、散乱しています。
 
単方向に豪語してきて、言い逃れをして、自尊と自己の正当性の保証を求めているようです。引っ込みがつかなくなって、折り合いをつけようと八方美人的に苦しい言い訳を貼り付けて、辻褄合わせをしている姿ではないでしょうか。
 
人間の言論の正しさを豪語で伝えようとすると、豪語そのものが乱れて、豪語して言い訳、突出して折り合い、という、収拾が付けられなくなるという縮図を見ているような気がします。
 
いまだに、アドラーという名前を掲げ、アドラーの写真を載せて、心理学という学問の名前を付けているようですが、元々、アドラー心理学という学問の紹介であるなら、豪語して教える態度はないはずです。
 
ずっと、世界を変える幸福の約束のように、強気で言っては、引っ込みがつかないような伝え方であることが、心理学という学問ではなく、アドラー教と呼ぶしかない宗教活動であることを示しています。そして、無責任豪語は、カルトの特徴なのです。
 
 
その無責任は、しっかり、アドラー教宣伝者である楽山に、無反省・自己中とともに受け継がれているようです。人は人・・で、あるいは、それは相手の課題・・で、人に囚われないだけではなく、人を無視できる心性は、人の心情が分かっていない表れとして、いつも呆れます。
 
楽山は、こちらが、無反省だと批判すれば、反省という言葉だけ書いてくる。こちらが、共感がないと書けば、共感という言葉だけ書いてくる。そして、その前と後で、何も変わっていないことが、嘘であることの証拠となってゆくのです。
 
理路の正当性は、論理性だけではありません。特に、宗教や信仰の真実については、いくら理屈をこねても、そこに人間の心の共感性がなければ、言論は成立しません。楽山には、それが、見られたことが全くありません。
 
だから、楽山の言は、人を苦しめることは出来ても、人にとって助けとなるような糧には全くならないのです。そして、糧となるための努力さえも見られないまま、自己弁護・自己正当化の言を、だらだらと虚しくつないでゆくしかないのです。それが、自己中に染まった者の大きな災いです。
 
楽山には、シャロームという仲間がいて正体は偽牧師でしたし、アドラー教の自己中を信奉していたこともあって、また、無反省・無責任・無理解・無神経であるために、自業自得の結果として、病質者とカルトの印象がつきまとうことになります。
 
 
果実は邪悪の共鳴

果実は邪悪の共鳴
 
 
(2020年02月08日、同日一部修正)
(2021年02月09日、再録+、同日さらに修正)
 
 
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  アドラー教について(12)2
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学
 再録+
 
 
おもに「嫌」ということについて語っています。
嫌われる勧め?でしょうか。
相変わらず、短絡と豪語の目立つブログ主です。
 
悪口言って作った仲間は、仲間ではなく負け犬の集まりです。
自分の劣等感に負けて、健全に努力することを放棄して悪口によって優越感に浸って現実逃避してるだけ。
人は悪口を言う人を信頼できません。
次の悪口のターゲットになる危険性が高いからです。
つまり、群れているだけの臆病者なのだ。
 
悪口を言って、いいことは何もないということです。
言えば、言われる、という現象。
悪口を言ったことのない人は、あまりいないと思いますが、
負けたことのない人は、ほとんど、いないでしょう。
 
悪口は、負け犬の始まりなのです。
注意するべきは、負け犬とは、負けた犬、または、負けてしまう犬のことであり、
負けを認めることとは全然違うと申し上げておきます。
 
悪口と批判は全然違います。前者は根拠がなく、自分のためであり、後者は根拠と道理を示し、かつ、自分のためだけではないことが多いからです。
 
「負け犬の集まり」「臆病者なのだ」・・記事のこの部分こそ、説明というより決めつけに近い書き方ですから、紛れもなく悪口でしょう。
 
ちなみに、勝ち負けに拘泥(こうでい)しない生き方もあるということも申し上げておきます。
 
嫌われるよりも、好かれる方がいいとは限りませんよ。
嫌われた方が自分のやりたいことができるじゃないですか!
好かれようとしていたら、自分のことより他人を優先しなくてはいけません。
自分らしく、自分の幸せの為に生きることを選ぶなら、さぁ嫌われよう。
嫌われる勇気は、幸せになる勇気。
 
自己中の臭いがします。乱暴な筆致です。
 
結果としては、好かれるほうがいいわけです。
 
「嫌われた方が自分のやりたいことができる」とは限りません。
ますます、やりにくくなることもあります。
 
他人からの嫉妬の強さは、あなたの魅力の大きさを表します。
それだけ嫉妬されるということは、あなたがそれだけ魅力的ということです。
人は誰でも、魅力的でありたいと本心では思っている。
嫉妬を嫌悪することは、自分の魅力を嫌悪すること。
嫉妬心からの陰口を言われたら、あなたの勝ちです。
 
嫌われることを、何故か、嫉妬に置き換えています。嫌われることは、嫉妬からとは限りませんね。悪いことばかりしても嫌われます。乱暴なだけでも嫌われます。下に見て豪語して教えようとする態度も嫌われるでしょう。嫌われることと嫉妬を同列で考えることは出来ません。
 
嫉妬ではなく、心底、嫌うことがあります。
そこには、相手についての、嘘、偽り、悪、卑怯、という負の評価があります。
 
そういうことの受け身、つまり、そういう嫌われ方は、それこそ、嫌で、避けるべきことです。
 
他人が自分をどう思うのかは他人が決める他人の課題であり、自分で決められる自分の課題ではありません。
他人が自分をどう思うのかを変えようとすることは、他人の課題への介入であり、変えられないことを変えようとしても辛いだけ。
他人の課題には介入せず、自分の課題にも介入させてはいけない。
 
"課題の分離"を出してきました。
 
他人が自分をどう思うのかを気にしなくなると、事態が、さらに悪化することがあります。
 
他人がどう思うのかを考えることは、思いやりであることもありますから、
介入などと言って、全部、無視してよいものでしょうか。自己中の臭いがします。
 
世の中、嫌われた者勝ちですよ!
嫌われることで、人は自分らしくなれるのですから。
嫌われないように生きるということは、他人都合で生きているだけ。
嫌われる勇気を持つことで、多くの人達が嫌われないようにして損ばかりしていますが、あなたは自分らしく生きて幸せになれる。
得ばかりです!
 
嫌われた者勝ちと言っていますが、嫌われたままで、勝ちだというのは、
自分だけ幸福であればいいという考え方につながる自己中です。
人間は、何を目指して生きているのか、ということを考えるべきでしょう。
 
自分らしさは、他者との人間関係の中で、生まれるものです。
他者を全く無視したところに自分らしさは存在しません。
 
得ばかりです!・・これは、カルト的宣伝文句です。
 
自分を嫌っている人がいるあなたは
幸せ者です
嫌ってくる人は自分から
「私は嫌な人だよ」と教えてくれている
嫌な人に好かれたいですか?
むしろ関わりたくもないでしょう?
人生で仲良くなれる人の数と、好きな人といられる時間は限られている
嫌な人は相手にしないで好きな人と関わっていよう
 
気に入らないことは無視しましょう、という教えと同類のようです。
 
嫌う、ということは、その理由・原因を抜きにして考えてはいけないことです。
 
嫌な人が、一生涯、嫌な人とは限りません。
 
ブログ主の、豪語するための短絡が、かなり、きついようです。
 
今がどれだけ辛くても、何も心配することはありません
人間は忘れる生き物だから
人は今まであった辛いことも過ぎ去ったことは忘れていくもの
だから、何が起きても必ずどうにかなります!
忘れられないことがあっても、それ以上に忘れてることはいくらでもある
忘れているから意識していないだけ
 
初期に考えることを怠ると、一生忘れられないこともあります。
 
「必ずどうにかなります!」・・激励が空回りしています。気合いだけ。
 
嫌われようと、どう思われようとそんなの関係ない
嫌う嫌わない、どう思うのかは相手が決める他人の課題です
自分ではどうにもならない他人の課題に踏み込んで、心を悩ませるなんてどうかしてます
そんなことは気にせず、自分がどうしたいのか、何がやりたいのかに周りが見えなくなるほど集中しよう
 
どこかで聞いた「そんなの関係ない」ですが、相手のことを、自分の課題として、思いやる、ということはしないのでしょうか。ブログ主は、喧嘩ばかりしている集団にいたのでしょうか。
 
相手がこちらを嫌うかどうかは相手の課題、しかし、こちらが相手を思いやるかどうかは、こちらの課題です。
 
そして、周りが見えなくなるのは、あるいは、周りを見なくなるのは、また、それでいいと思うのは、自己中の道。
 
人にどう思われるか気になるなら、この3点を意識しよう
1.他人は自分が思うほど、自分に興味・関心は無い
2.他人の意見はどれだけ親しくても、適当である。自分にベストな助言ではなく、1番無難な意見しかくれない
3.他人はあなたの人生の責任を取ることはできず、あなたも他人の人生の責任を取れない
 
1.2.は、例外もあると言うことです。無視していいということにはならない。
3.について、例えば、思いやることは、責任を取ることとは違う良心の働きです。
ブログ主は、人間関係を、実に、雑に捌(さば)いて、語っています。
 
他者のことで自分が思い煩うほど悩まなくていいとは言えますが、
それで、他者を気にしないで生きることを正当化は出来ないと思います。
 
悪口を言う人は、自分のことから目を背けたいだけ。
自分の人生に絶望していて、自分のことに集中できないから他人のことが気になるのだ。
 
相手に、余計な見なしを決めつけています。ここの、目を背けるか、絶望するか、集中できないか、全部、相手の課題です。他人の課題に介入して見なしを決めつけているのは、誰でしょう。
 
このように、自分の課題と、他人の課題は、はっきり区別できない場合が多いのです。それを、勢いで斬ってしまうのは、短絡と言います。
 
他人のあら探しをして、悪口を言うことで自分はまともなのだと自分で自分に言い聞かせている。
そうやって、自分を正当化することを生きがいにしているのだ。
 
弁明や反論と違って、自己正当化は、いつでもどこでも、醜いものです。
自己正当化は、同時に、あら探しを伴うことが多いです。
 
しかし、ブログ主は、また、相手を決めつけているわけです。こういうことは、個別のケースにおいて、根拠を示して言うべきことです。
 
付き合う人は取捨選択しよう
人は誰と関わるのかで、性格も人生も何もかもが変わる
後ろ向きな人達と付き合えば、人生も性格も消極的になり、悪い事ばかり起きる
前向きな人達と付き合えば、人生も性格も積極的になり、良い事ばかり起きる
限られた人生の時間を誰と過ごすべきなのか、よく考えよう
 
それは、付き合わないで決められることではないでしょう。
 
人間として生きるということは、ある程度の傷を負うということです。
 
前向きに見える人が、あるいは、強く勧めてくる人が、また、物わかりのよさそうなことを言う人が、自己中であることもあります。引きまわされて疲労だけしか残らないこともあります。
 
不機嫌になって、八つ当たりしてくる人は相手にしなくていい。
自分の機嫌を良くするのか、悪くするのかを決めるのは本人の課題です。
わざわざ不機嫌になる人は、周りに気を使わせて支配しようとしているだけ。
上機嫌は意志、不機嫌は惰性。
顔色をうかがって気を使ったら、相手の思うツボです。
 
こういうことも、理由・原因を知ることは必要です。
 
おかしいですね。機嫌を良くしよう、悪くしよう、とか、本人が決めるのでしょうか。
 
「上機嫌は意志、不機嫌は惰性」・・でしょうか。短絡した豪語の断定が過ぎて、意味不明になってゆくようです。
 
誰かに嫌われたからって、それが何だっていうのです?
その人の好みに合わせて、あなたは自分を変えてしまうのですか?
あなたは自分の為に生きているのです
その人に認められる為に生きている訳ではありません
嫌われたのなら嫌われたで、ご縁がなかったと割り切って、新しい出会いを探しましょう
 
相手の好みに合わせて自分を変えるのではなく、何ごとにつけ、反省と考察は必要ということです。でないと、新しい出会いで、また同じことが起こる可能性があります。
 
ブログ主は、他者をすごく嫌いになるような、自分の個人的な経験か何かに執着しているのでしょうか、無人島で生きたいのでしょうか。それは、読者の課題ではなく、ブログ主の課題です。
 
嫌いな人とは、距離を取る
こんなに簡単で、誰にでもできる一番の悩み解決の手段を取れない人が多すぎる
人を嫌うこと、誰かに苦手意識を持つこと自体は悪いことではない
嫌いだからって、傷つけたりすることがいけないのです
お互いに相容れないのなら、無理はしないでしっかりと人間距離を取ろう
 
ここで、傷つけることが出てきます。傷つけ、傷つけられることを避けるために、他者を無視する自己中になることが必要でしょうか。違うと思います。
 
総じて、精神衛生の問題を、豪語で解決することは出来ないと思います。誰よりも、ブログ主が、嫌な記憶~トラウマを抱えている傷だらけのように思われます。
 
苦手意識は、誰でも持つことがあるでしょう。自然と遠ざかるのであって、傷つけ合いを避けるために、距離を取ります。アドラー教だから距離を取るわけではありません。
 
誰に対しても、自立した人間同士としては、距離を取るのは当たり前のことです。
距離の取り方が難しいのですが、他者無視と自己中に短絡しないようにしてください。
 
なお、ずっと批判対象の楽山は、最近は書かないようですが、元々、アドラー教の宣伝者です。
 
 
自己中の渡り2

自己中の渡り
 
 
(2020年01月30日、同日一部修正)
(2021年02月04日、さらに加筆)
 
 
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  アドラー教について(7)2
 
  ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
   2018-09-17  完璧主義なんて止めてしまえ!
(前の記事に加筆して再録。)
 
 
楽山は、最近は言わないようだが、アドラー教の宣伝者です。気に入らないことは無視する、というアドラー教の説教を、我欲に沿って実行しているのが、楽山です。
 
アドラー心理学として、アドラーの顔まで出して、言っているのは、学問ではなく、説教に他ならないので、また、説教者の言を読んでみた印象で、アドラー教と呼んでいます。学問というより宗教、というより、カルトと言うべきでしょう。
 
心理学者アドラーの名をサイトに冠することも、また、説教していて宗教なのに心理学という学問の名を冠していることも、戦術的であり、尊大だと思います。
 
実践的に難しいという問題を、説明しようとして、人それぞれ、という言葉が空回りして、霧散してゆくような話になっています。
 
アドラー心理学サロンです。
今回の記事は、物事を判断する際に、白か黒か、100点満点か0点かで極端な結論を出そうとしてしまう真面目な方へ、柔軟な考え方ができるようなアドバイスとなるよう心掛けました。
一例として、「課題の分離」の捉え方が難しいというご相談をアドラー心理学サロンでは頻繁に頂きます。
 
課題の分離は難しいと思います。現実には、主観において、分離することは出来ないと思います。課題の分離という概念にも疑問がありますが、課題の分離という言葉を書いて、読者がどう受け取るかを考えると、やはり、自己中の方向へ向かう必然がありそうです。
 
自分の課題の中に他者が含まれている場合があります。さらに他者への影響と他者からの影響をを無視すれば、自分に不利な結果が返ってくることがあります。それを無視してばかりでは、自己中にしかならず、だんだん大事な仕事を任せられなくなり、無視されるようになるかもしれません。
 
他者にどう接したらいいか、などの場合、他者がどう思うかなどを考えるのは、自分の課題なのです。つまり、それほど変わりはなく、それほど分離することによっても楽にはならないと思います。
 
他者のために働いている場合、他者の気持ちや意見を、それはあなたの課題、人は人、などと言って、無視することはできないでしょう。
 
自分の、他人の、・・などと、課題を決めつけることは安易な決めつけになり、自己中になる必然が生まれます。いくつか例示して、それで、すっきり分けられるほど、人間関係は、単純ではありません。課題というものを、客観的に分けることは、結局は困難な場合が出てくるでしょう。
 
他者の課題の中にも自分が含まれている場合があり、自分次第で、他者の評価が変わる場合、気にしなくていいのでしょうか。他者を知り、他者が自分をどう思っているかを知る、そのための情報を得る、そういう自分の課題に派生してくることが複雑に絡み合ってくるでしょう。
 
必要なのは、理屈で、スパスパッと分離することではなく、何より自分が、思い煩わないことです。つまり、心の健康の問題です。それ以上に汎化して、命題または説教にしてはいけないと思います。
 
自分は、他者の課題と思って分離しても、他者は自分がやってくれると思っていることもあるでしょうし、自分の態度いかんで変わってくる要素が、他者の課題にの中に含まれ得るし、どちらの課題であるかが、変化することもあるでしょう。全部ぶった切ることで、楽にはならないでしょう。
 
つまり、割り切れない要素でいっぱいになってくる人間関係を、自分の、他者のと、自分の側だけで割り切ることは、様々な影響を考えないでいると、その影響によって、あるいは、気づかぬうちに、ずいぶん嫌われて、取り返しがつかなくなっているということもありうるのです。
 
それを嫌われる勇気をもって無視するのでしょうか。そこに生じるのは、自己中心以外のものではありません。相手は、勇気をもって無視されるわけではないからです。下手をすると、怨念を相手に残すことにもなりかねません。
 
少なくとも、歯切れ良さそうな断定で言うような、すっきりしたものではなくなる可能性が大であり、机上の説教とは異なってくるのが、現実です。
 
それを、現実において、課題の分離として、行なおうとするなら、あるいは、行なったつもりになるなら、その分離による言動が、自他が相互に作用しあうのと同様に、相手の課題を変え、それが自分の課題を変えるというような、相互作用があるわけですから、軽々に分離など出来るものではありません。
 
それゆえに、自他の課題の分離を決めつけることが、自己中の自分勝手に、また、対人関係において、無頓着に、鈍麻に、変わってゆく可能性の必然があります。しかも、だんだん、激しくなって、感情的になって、人の言うことを聞かなくなる場合も考えられます。記事は、そういう要素を無視しているのです。
 
つまり、実践的には、自己中になりやすいというのは、アドラー教が、そして、その説教者が、机上の論理で、教えを言葉で割り切ってしまったことで、その必然を内在しているわけです。
 
この「課題の分離」を極端に捉えてしまい、他者の課題は他者でのみ関与する問題であるとして、他者が困っていても知らん顔していて辛くなってしまったというお話もあります。
 
極端というより、問題を単純化して、単純な場合に成り立つことをもって、汎化、つまり一般化して、気軽に、言い切っているせいでもあるでしょう。
 
それにしても、説教者は、反省する気は全くないようです。相談者が失敗するのは、説教が悪いからとかは考えないのでしょうか。自分のせいにせず、アドラー教のせいにもできないから、盛んに、実践者のせいにして、また、さらに教えようとしてきます。それで解決するとは思えません。
 
そもそも、アドラー心理学では、放任主義は決して推奨しておらず、むしろ他者への貢献を推奨しております。
 
言葉選びの、辻褄合わせの、言い逃れの、詭弁があるようです。他者への貢献と書けば解決する問題ではありません。ずっと、人間関係を単純化して大事な部分を切り捨てている感があります。
 
説教して、あと無責任に放任・放置しているのは説教者です。言うと気持ちよいが、きちんと実践するのは難しいというのが、アドラー教だと思います。
 
つまり、他者の為に他者がやろうとしていることが、やりやすい環境をそれとなく整備してあげたり、他者が困っていて助けを求める時には、いつでも援助できる準備や姿勢を持つことが推奨されております。
 
他者のためにすることは推奨にとどめ、分離のほうは豪語するところに、この問題が、一筋縄ではいかないことを露呈しているようです。
 
他者のことも考えていると言いたいようです。実践においては、他者を無視できませんから、実践者は、考え、それゆえに、余裕がなくなり、考えが偏るか、無視した結果に困ってしまうか、どちらかに陥るだろうと思います。推奨されていることは、自分の課題なのでしょうか。
 
そのことを自覚しにくいのが、アドラー教なのです。その見本は、説教者であるかもしれません。苦し紛れに、「それとなく」・・という曖昧なことを教えることになって、話が、ますます複雑になってゆくようです。
 
人間関係を、言葉で割り切って考えることに無理があると思います。言葉は、その示すところが、言い方、表現、聞く側の状況、などにより、相対的なものであり、意味が揺らぎ、その言葉による、言った人の意図だけでなく言外の影響があります。
 
心を言葉で表すのは、努力するべきことであり、表したつもりでも、完全ではなく、大安心や大丈夫になるわけではありません。人間の扱う言葉は、不変の悟りの境地を約束しません。
 
つまり、「課題の分離」とは、ドライで自分と他人を完全に割り切って、あなたの問題なんて知らないよ!というものではありません。
 
さんざん、歯切れよく、ドライに言ってきたのは説教者です。矛盾がないように説明しようとして「あなたの問題なんて知らないよ!というものではありません」と、また、同じようなことを言ってきます。言葉だけ整えても、どうにもなりません。
 
心を病みやすい方は、白黒ハッキリつけようとしたり、100点でないと無意味だと考えたりする真面目な方が非常に多くいらっしゃいます。
たとえば、アドラー心理学の考えを学び、アドラーの教えと少しでも異なることをすれば、「自分は0点でなんてダメ人間なのだろう…」と考えられる方が多いのです。
 
病気のせいにしてはいけません。そういう人が「非常に多い」ということは、一般に教えるうえで、教える人か、教え方か、でなければ、教えそのものに、問題があるということです。
 
そうした考えをしてしまっていると、完璧主義にもなりやすく、何かを始める際に準備ばかりしてなかなか行動に移せない状態にもなりやすいのです。
そうした方は、自分に合わなくて精神的にキツい職場で働いているが、転職をするのに今のスキルのままでは満足の行く会社に入れるはずがない!と考えて資格の勉強を続けてしまいます。
そして、そのまま合わない職場で働き続けた挙句にうつ病を患うといったことも非常に多く散見されます。
こうして白か黒か、100点か0点かをハッキリさせたがる性格では、生きるのがとても息苦しくなってしまいます。
 
そうして、完璧を目指す、出世するために努力、ということを、説教者が反省せず、完璧主義ではないと、森田神経質治療のように、あるいは、言い訳のように、実践者のほうばかりに原因を求めるならば、それこそ、アドラー教が原因で鬱になる人や、気づきについて鈍化する人がが出てくるでしょう。
 
良い教えは、言葉でも、実践でも、窮屈や面倒を感じることはなく、解放感を伴います。
 
ですから、アドラー教は、これだけで幸せになれるかのように教えていますが、鵜呑みにして信じて、しがみつくのは、とても危険です。自覚を伴いにくいので、厄介でもあります。考え方としても、総合的に考えるべきで、決して、これだけで絶対大丈夫などと思わないことが肝心です。
 
どんな人間にも、物事にも、多面性があります。
それは白いところもあれば、黒いところもあります。
その中間である灰色を含めて、様々な配色で出来上がっているのです。
100点のところもあれば、0点のところもあります。
その中間の50点なところもあり、バラバラな点数で出来上がっているのです。
 
それを言うのは、どういう目的でしょうか。人間も物事もいろいろ・・と当たり前のことを言ってるだけでしょう。自分の出来ることを?・・しているはずです。100%を目指さず・・目指しているのでしょうか、そうでもないような気がします。
 
それくらい、アドラー教は、特にその説教は、こみいった要素に対応していない "原則に過ぎない" ものです。それを、総て解決するかのように教えるのは危険なのです。
 
信号無視はしてはいけないと、法律でも世間でも言われておりますが、車が来る気配が無ければ信号無視をしてしまう方もいることでしょう。
 
何を言ってるんでしょう。
 
説教者は、心理についての考え方を消化していないのではないかと思えてきます。
 
その信号無視への捉え方だってその人の主観で配色も点数も異なるのです。
おまけに、白か黒か、何点かなんてあなたの頭で作り出された物差しであり、主観的なものなのです。
 
主観の曖昧さですが、また、当たり前のことを言ってるに過ぎません。それと、自分次第の主観的なものでしょうか。信号は違いますよ。法制度も違うでしょう。
 
白か黒かというのは自己採点の100%を目指すことだと思いますが、そういう強迫性ということならば、強迫性に向かってしまう教えではないことの詳細を説明するか、教えの教え方を疑うべきでしょう。説教者には、反省力がないと思います。これは自己正当化です。
 
一般的に言われる客観的な物差しなんて、法律やテストの点数くらいしか存在しないのです。
法律やテストも、国や学校がそれぞれ作り出したものであり、万人に共通ではないのです。
つまり、白か黒か、100点か0点かにあまりこだわっても、単に疲れるだけなのです。
あなたにとっての「灰色」や、「50点」が相手にとっての「白」であり、「100点」かもしれないのです。
 
相手にとって云々と、他者に囚われているのは、誰でしょう。
 
こういうことを書いて何になるでしょう。主観の判断の話をしていたのに、国や学校が作ったもので、人が動く社会構造がある現実で、指標に、こだわるなと言うのでしょうか。無法者になることを勧めていると誤解されるでしょう。
 
こうした尺度は、相手によってや、状況によっても容易に変動するのです。
ありのまま、その人や物事を受け入れてしまいましょう。
 
とても、あいまいな、ありのまま、という言葉で終わっています。何を言い得たつもりなのでしょうか。人間いろいろ、主観いろいろ、これで解決するとは思えません。総てひっくるめたことを言おうとして、めんどくさくなった末の投げやりな言い方のような気がします。
 
今度は、自分のありのままを知ることに、エネルギーを使えと言いたいのでしょうか。
それとも、欲望の、気持ちの、その時その時の気ままな意志の、ありのままでしょうか。
自分で考えたものなら、自分でどこまで考えたところの?ありのままなのでしょう。
 
ありのままで、分かったような気分になっても、
正体不明の、ありのまま、によって、具体性を離れ、話は、霧散してゆきます。
 
記事タイトルが「完璧主義なんて止めてしまえ!」ということですが、気安く幸福を約束しないでください。また、強い断定で語ることも出来ないはずです。アドラー教というのは、本当に実践可能なのでしょうか。自己中でないことも、不完全でいいことも、説明できていません。
 
 
不明

不明
 
 
(2019年11月22日)
(2020年12月06日、修正加筆して再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
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