ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:アンチ気取り

 
  楽山の不幸宣伝2
 
 共感できるところ 1 
 2014年12月02日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
かなり前の楽山の記事ですが、訂正してはいないようだし、今も、良いほうには変わっていないようです。楽山は、アンチHSではありません。言ってきたことが、全部、嘘である可能性もあります。成長がなく、退化・変質・退行してゆくのも必然なのでしょう。
 
楽山には、思想や宗教の軸がありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、刹那的な快楽を求めて、それ以外の高次の動機がないために、刹那的で、場当たり的な、快楽、肯定、正当性の見かけに慢心する本能があるだけでしょう。
 
 
*共感できるところ
幸福の科学の本を読んで、共感できたところをまとめてみた。
 
楽山は、アンチHSを気取っていますが、退会後も、HSに共感できるところがあるということでしょうか。あるいは、教祖願望から言っているのでしょうか。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、何かに本気で「共感」するとか感動するということはないと思います。
 
 
*怒りに我を忘れると
人格を失ってしまって、天上も抜けるかというような怒りを発する人もいますが、ここまでやってしまうと、これはあと取り返しがつきません。人間関係が完全にくずれてしまって、以後その人も異常な人間、変人として扱われますし、言われた本人は、もう恐くて近寄れません。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.79)
 」
これはその通り。周囲の人々がギョッとするほど、突然、怒りを爆発させるタイプの人は、異常とされて敬遠されると思う。
 
楽山のように、無反省で無責任で、不都合なことを全部無視して、自分の言い分を書き続けるというのは、ただの誤解ではなく、故意に曲解しているわけですから、発言のたびに嘘と詭弁が表れてくる害毒として、批判対象としては、最も厳しい批判が向けられても仕方ないのです。
 
不感不応の楽山は、精神の鈍麻によって、よほど追いつめられないと、興奮するとかはないと思います。だからといって温もりもないので、ネチネチした鈍い否定が訂正不能に続いてく、じわじわと理性も感情も鈍くなり、深いダメージから、他者を婉曲的に痛めつける害毒となっています。
 
 
*自分の持ち場・役割 
神理の運動に値打ちがあると思われる方なら、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外のところで足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.97-98)
今の立場、今自分が置かれている立場、この世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは自分は水を得た魚のように活動できると思ったら、これは甘いのであります。
(同上p.99)
 」
これには共感できた。宗教活動をするならば、それ以外の、家庭、職場、学校、地域などにおける自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たしてからにすべきではある。
今現在の自分の持ち場での責務を果たさずして、宗教活動ばかりに夢中になったとしても、それは底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らないだろう。
 
「自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たして」・・なんという白々しい嘘でしょう。楽山は、正反対で、自分の発言の責任を負うたことが全くありません。ここから、何らかの病質を疑うことになるわけです。楽山こそが、人並みに責務を果たしたことがない人です。
 
すなわち、楽山が、宗教について何を言っても、「底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らない」ということです。楽山は、自分で言って、自分で裏切って、自分が斬られていることに気づかないのです。
 
 
*言うは易し行うは難し 
学んだ神理を、学んだ知識を実生活で示せ。その悟りが本物であるならば実践せよ。実践されているかどうかは、まわりを見ればわかるはずだ。他の人の自分への接し方を見ればわかるはずだ。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.173)
 」
全くその通りだ。ただ言うは易し行うは難しというように、実践は難しいのも事実。
 
「全くその通りだ」と同意しておきながら「実践は難しい」と言っています。しかも、全然、出来ていないことを「言うは易し行うは難し」と、不可抗力みたいな言い訳を書いています。言葉をいじくって、何も出来ていない自分を良く見せようとする原始的な欲望からの嘘です。
 
楽山には、根底において、批判意識が薄弱であり、思想のベースというものが出来ていません。だから、体のよい言葉で、自分が与える害についても、ごまかそうとしてきました。それは、結局、成り立たないということが、楽山の発言を通して、明らかになっています。
 
 
*常識人と奇人変人 
どうしても私が言っておきたいことは、いくら神理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは私は許さないということです。私たちがめざしているものは、どこでも通用する人材の育成です。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.171)
 」
これは正論に思える。だからこれとは正反対に、へそ曲がりを目指そう、奇人変人は大歓迎というのは妙に感じる。
 
奇人変人の意味するところは、正常人の意味するところと同様に、微妙です。楽山の言葉についての認識の甘さ雑さが表れています。言葉の意味を100%か0%で気安く判断しているようなところが、しばしば見られてきたのです。それは、言論の未熟を自覚していないことを表しています。
 
 
*与えているという意識のない愛
「これだけのことを自分はした。」というふうに思ってはなりません。それを他の人に認められようと思ってもなりません。自分が愛の行為をしたときには、それを忘れてしまうことです。
[省略]
ごく自然に、そうしたいからする、自分はそういう行為をさせてもらうことがうれしいからしている、という気持ちが大事です。
(大川隆法『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』土屋書店、1990年、p.45)
 」
こういう「与える」という意識を持たない、ごく自然な親切はいいものだと思う。
 
「いいものだ」と言って、無償の愛を、それが自然だと言っているようですが、そういう自然なあり方を、全て裏切っているのが、楽山です。多幸症なのでしょうか、芝居なのでしょうか。楽山は、良きものを得たことも与えたこともないのです。自己正当化の詭弁だと思います。
 
 
*自然体の人生 
人には、それぞれ自然なる生き方というのがある。
自然体の人生というものがある。
(大川隆法『永遠の仏陀』幸福の科学出版、平成3年、p.57)
 」
他の人の人生に取って代わることはできないのだ。
自分は自分の人生を生きなければならないのだ。
(同上、p.65)
 」
人にはそれぞれ個性がある。自分の個性を知り、愛し、大切にできたら、それはきっと幸福な人生だろう。
 
そして、楽山は、結局、きれいごとに終始してゆくのです。多幸気分の浮かれ方で、言葉が、幼稚になっています。「個性を知り」「愛し」「幸福」・・などと言って、深みがあるでしょうか。宗教も信仰も思想も、そのような単純なものではないから、掘り下げる言論が必要なのです。
 
そういう楽山だから、愛も、善も、何も実践するどころか、企みの、作為の、騙し文句だけで、他者を、自分より低いものとして、世辞と軽口で、あしらってきたのでしょう。しかも、病質によって、無反省に続けているのは、偽善であり、悪よりも悪質です。
 
 
もうちょっと踏み込んでいうならば、自分の個性に合わない思想、宗教を無理に信じなくてもいいなら、それは幸福なことだと思う。
 
思想と宗教は、個性で判断するものでしょうか。善悪とか正邪とかは、どうなのでしょう。楽山は、自分の異常な人格を正当化しているだけです。自らの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの、無反省、無責任、高等感情鈍麻、・・考えなくていいのでしょうか、否です。
 
驚き呆れます。楽山は、実に白々しいことを平気で言っています。理想の実現でなくても、誰にとっても努力目標はあるというのに、それらに、ことごとく背いて平気でいられる病的ナルシストの姿であります。誰の「幸福」も考えていない態度だと思います。
 
責任や反省という当たり前のことが、楽山の「個性に合わない」のでしょうか。全く実践していません。最低限の反省も責任も、楽山の「個性には合わない」ようです。これが示しているのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDから、いろんなところで安易で病的に異常な書き方になっていることです。
 
 
災難を伝道

災難を伝道
 
 
(2021年)
(2022年11月22日、再録+加筆)
 
 
 
  虫と区別
 
いかなる好意にも
応えることができなかった
いかなる悪意にも
打ち勝つことができなかった
鈍く変質してゆく
寄生とはそういうものかもしれない
 
虫になったのに
這う虫ほどにも動こうとしない
這う虫ほどの目的もない
命をもてあそぶ
命をもてあます
 
気づかないことは災いであり
さらに深く悪を宿し孕(はら)み育むが
気づかれない間は隠されているので
しばしば仕合わせのまま過ぎてゆく
 
気づくことも災いであり
さらに深く罪を教えるが
まれには幸せのように
まるで唯一の幸いのように
独り苦悶のうちに過ぎてゆく
 
好意や悪意の結末にかかわりなく
虫は汚泥に塗(まみ)れ
ときに傾いた日差しを受けている
 
それが昇る日なのか沈む日なのか
区別できないまま
さらにどうしたら受けることが
浴びることになれるのかさえ
区別できないまま
区別
というものから
根こそぎ別れる時を待っている
 
 
  耐える
 
もちろん
聖書、キリスト教の聖典は
手を置いたり抱いたりして
お呪(まじな)いをするための
分厚い直方体ではない
生きている間に読むべき書物である
しかし
聖書の一行に縋(すが)って生きている人と
聖書の総てを諳(そら)んじている人の
信仰に優劣が付けられるだろうか
 
いかに聖句を用いたとしても
理を蓄え
学ならしめようとして
論を振りかざすことは
とても順調な耳鳴りのようなものだ
信仰は理でも学でも論でもない
 
あるニュース
人災か天災か忘れた
突然わが子を失った母親が
まるで感情をなくしたような顔で言う
「かなしいけれど神の計画だからしょうがない」
恐らくそう教え込まれてきたのだろうが
唖然!?…
それで本当に納得しているのか
 
ある映画
フランス映画だったと思うが題名は忘れた
妻子を殺された主人公が
礼拝堂のキリスト像を
壁に叩きつけて割ってしまう
そして復讐を果たし終えた主人公は呟く
「もう…何も…」
それは喪失感か
あるいは復讐の空しさか
 
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
 
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
 
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
自己愛人間は「優しそうな人」・「利用価値の高そうな人」との距離を急速につめていきます。
共感・べた褒め・贈り物・共通点などの話から「こんなに気が合う人はじめて」「こんなに優しい人はじめて」「大好き」を示しながら一気に親友のような距離感になろうとしてきます。
<<
2022年11月19日
 
「自己愛人間は「優しそうな人」・「利用価値の高そうな人」との距離を急速につめていき」」・・まさに、楽山の優しさ芝居の丁寧語に当てはまるでしょう。つきあえる人と思わせるための柔和芝居でもあります。距離を縮めるどころではなく、関わらないことが大事です。
 
楽山が、このような引用をするのは、こういう引用をする自分は自己愛人間ではない、という印象操作なのです。あらゆる狡賢いやり方を、平気で、使ってきますから、注意・警戒してください。また、多くのHNに成りすましてくることも考えておく必要があります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無反省、無責任、無理解、無神経な、楽山は、動機も根拠もなく、もっともらしいことを書こうとしますが、その浅さのために、失敗し続ける自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)であります。方向もなく、努力もせずに、書き続けて、刹那的な自己満悦以外、何も求めてはいないのです。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を自由に決めても、その責任を負わないならば、どうして人間であり続けられるというのでしょう。
 
 
 
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  楽山の言い張り
 
 大川隆法を信じ、帰依しなければならないのか!?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 2022年07月21日
 抜粋して批判します。
 
 
>(楽山:記事)
*発端
ツイッター上にて、「大川隆法を信じ、帰依しなければならないのか」という議論があったので、ここに保存しておきます。名前の部分をクリックすれば、ツイートを確認できます。(リンク省略)
 
楽山は、無神教カルトの教祖願望だと思います。あらゆる宗教について、また、カルトに対しても、自分のほうが中立で本物だと言いたいのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に特徴的な、自己賛美が根底にあるからでしょう。
 
>(HS)
幸福の科学が独裁だとか全体主義だとか言う人もいるが、アンチがいる時点で、そうではなくなる。
全体主義の世界では、反対する人は抹殺されるからだ。
アンチは幸福の科学に潰れてほしいのだろうが、彼らが存在そのものが、幸福の科学が一党独裁じゃない証明になってしまっている。皮肉だ。
「愛、公正、知恵、力」サタン大川隆法彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗しその上に
大川隆法にとってアンチ、つまり「自分を信仰しない者」は「天罰を下し、滅ぼす」対象なので、真性の「独裁」です。
このように訳の分からないことを言っていますが、教義上、間違いでございます。
なぜなら、幸福の科学を信仰していなくても、天国に還っている方もいるからです。
 
★こも/楽山日記3
これは自分が学んだ教義とは違いますね。
『永遠の仏陀』(旧版)には、
大川隆法総裁を信じれば繁栄するが、信じなければ滅亡すると書いてました。
また、仏陀(大川隆法総裁)への信仰を手放せば、地獄に堕ちるとしてました。
この教義は、改定されたのでしょうか。
 
信仰者でもないくせに、元信者だからと思い上がって、以前の教義と違うと言っています。楽山は、信条(教条)の言葉の辻褄しか覚えず、信仰の心を全く持たないので、変わっただろと文句を言っています。言葉のつながりや文脈を追う場合に必要な心の感受性が、楽山にはありません。
 
この楽山の言は、むしろ、楽山の、宗教への全くの不適と無縁を表しています。この愚かさで、キリスト教と信仰を侮辱してくるのだから、無事に済むと思うほうが、おかしいわけです。例えば、キリスト信仰も、個人においては、体験とともに成長するものです。
 
信仰は、つまるところ、言葉だけで表すことは、不可能です。キリスト信仰においては、人が不完全であっても、神聖が同伴し、信仰者の心を、既に総てご存知であることによって、導きを期待して、成長が可能になるのです。楽山は、楽山らしい皮相な言葉遊びをしているだけなのです。
 
★こも/楽山日記3
ついでに書くと、
『仏陀再誕』(旧版)では、地上の仏陀である大川隆法総裁を信じないなら、たとえ、他にどんな神様を信じていようとも、それは偽物の信仰にすぎないとしてました。
最近の信者さんらは、HSの寛容さ、自由さを強調しますが、実際にはHSは激しく、厳しい宗教でもあるんですよね。
 
キリスト信仰においては、信条は、脅迫状ではありません。そういう、共感と愛の大事なところは、楽山は全く理解できないのだから、いちゃもん屋以上にならないのも不思議ではなく、こういう楽山のような者が、宗教について無理解のまま、発言するのは、傲慢不遜でしかないということです。
 
 
>(HS)
イエスを通じて天なる父を信じることにつながる人もいます。
亡くなった方々も、何かしらの宗教で、仏陀に繋がっています。
だから天国に還れる人もいるのです。
偽物の信仰とは言ってますが、天国に還れないとは書いてませんね。
そしてその偽物の信仰すら亡くなった人、これは唯物論者を指しますが、それは地獄に行くでしょう。当たり前の話です。
そして当会の教義に則ってこちらを批判するのなら、当会は、人間の魂があの世とこの世を転生輪廻しており、魂の不死性を説いています。
従ってこの場合の滅びは地球の文明が一度リセットされることを指します。
太陽の法を読んだことがあるので、分かりますよね。
魂がこの世とあの世を行き来して、この世は魂の修行場というのが前提です。
その魂修行の場が意味をなさなくなるなら、一度地上が天変地異などで滅ぶという意味です。
この世の生命の終わりがあなたたちのいう終わりでしょうが、真実はこの世だけでは終わらないということです。
 
★こも/楽山日記3
『太陽の法』では、滅亡した古代文明の話が書いてあったろうけど、『永遠の仏陀』では、「人類そのものが滅亡し去るか」と書いてるでしょう。
当該書籍の出版当時は、これまでは大陸が沈むくらいで済んだが、今回は早くHSを広めないと地球規模の大天変地異で人類が滅ぶかも…という世界観でしたよ。
 
私は、あまり好みませんが、キリスト信仰において、地獄を語るのは、地上での戒めであり、天国を語るのは、地上を生きるための希望であります。心について全くの無理解である楽山が「人類が滅ぶかも…という世界観でしたよ」などと言っても、その言の心無い有り様がバレてゆくだけです。
 
★こも/楽山日記3
『仏陀再誕』では、上に続いて、地上の仏陀を信じないのは、信仰がないということであり、宇宙の神を否定、冒涜することと同じであり、間違いの淵(地獄?)に投げ込まれるとしてます。
地上のイエスを信じず、転生後にキリスト教を信じるというのは愚かなことだそうです。
 
楽山のように「信じる」ということが、信条通りに思い込んで不変とすることになっている人は、信仰の真実には触ることも出来ないでしょう。この記事のように、言葉だけ理屈だけで超常を表しても、いくら知ったかぶりをしても、コリント13のように、やかましく騒がしいだけです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:1
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。 
13:2
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 
13:3
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
 (1コリント13:1-3、新約聖書)
 
 
>(HS)
それは偽物の信仰だとあなたが見せたでしょう。
ご自分で出したの忘れたんですか。
文明は過去何度も滅んで、その度に人が減っているじゃないですか。
今回もそうだって言ってるだけですよ。
言葉の揚げ足取りの域を出ませんね。
お疲れ様です。
 
>(楽山:記事)
なんだか、最後のところは、話が噛み合わず、意味不明になっているので、こちらからは変に刺激せず、黙っておくことにしました。
 
都合が悪くなると「話が噛み合わず、意味不明」と言って「変に刺激せず、黙って」いるのだそうです。自分の意見が通じないと相手のせいにして、無視してきた楽山らしいことです。こういう宗教と信仰の話で、心ある人は、楽山と噛み合うことはないのです。
 
>(楽山:記事)
*飛び入り
この議論には、棒氏が横から割り込んできてました。
 
 
>(HS)
「①永遠の仏陀、②仏陀、③E.C.、④主、⑤大川総裁、⑥仏、⑦神、⑧信仰、⑨宇宙、⑩大宇宙」 
アンチ氏達は①~⑩の違いが分からない。 
①~⑩をごちゃごちゃに混ぜ、スクショに赤線を引いて熱心に非難。 
「アンチ論法」による可愛らしい議論だ・・・
これに対して田中氏は「>他宗排撃が出来ないんです。 教義上、今の世界宗教も私たちと根っこが同質としているからです。」と言う。
さすがによく理解していると思う。
 
★こも/楽山日記3
これは私のツイートに対する反論だとしたら、いまいち的外れですね。
①~⑩を説明するのは大川隆法なので、それらをどう区分し、どれを信じようが、結局は、大川隆法の言葉を信じるということに集約される。だから、ここでそれらを区分しても反論にはならず、意味ないです。
 
好き勝手に信じるならば、言葉の意味も、いい加減に捻じ曲げられるということを、考えない楽山です。例えば、キリストの言葉を信じるとしても、信じ方は、個人によって違ってくるのは不完全で罪深い人間の必然です。
 
したがって、信仰の正しさについて、結局、人間は厳密には知り得ず、ゆえに、神を恐れる敬虔が重んじられるのです。どこまで楽山は、的を外してゆくのでしょう。何も分かっていません。それで、アンチカルトそしてキリスト教批判者を気取るのだから、迷惑この上なく、邪魔な部外者となっています。
 
>(HS)
某アンチ氏の看板は『元会員』です。「>①~⑩を説明するのは大川隆法なので・・・・・区分しても反論にはならず、意味ない」との主張です。
これに対する私の指摘は「『元会員』が看板なら言葉の使い方くらいは知れ」の一言です。所詮は自称『元会員』です。①~⑩の違いが分からなくて当然です。
午前7:49 ・ 2022年7月21日・Twitter Web App
 
>(楽山:記事)
ここでは、棒氏の意見について、私なりの感想を書いておきます。
 
>(HS)
某アンチ氏の看板は『元会員』です。
 
>(楽山:記事)
私がプロフィールに「元会員」と書いてるのは、過ちの告白と反省の提示です。「私にはカルトにハマってしまったという恥ずかしい過去があります。今は宗教的情熱だけで突っ走るのでなく、客観的事実に基づき、よく考え、同じ過ちを繰り返さないように気をつけてます」と。
客観的事実より、宗教的情熱を優先する性格の強い人には分かり難いことだろうけど、自分と同じような失敗、反省の経験がある人にはよく理解してもらえるでしょう。
 
楽山は、いっそう酷い過ちを、故意に犯し続けています。それは、自己愛に思い上がり、非を認めない体質~病質だからです。病識もなく感性のないところから眺めて、他者の是非を判断している間、楽山が宗教や信仰を知ることはないのです。
 
>(HS)
他宗排撃が出来ないんです。 教義上、今の世界宗教も私たちと根っこが同質としているからです。
 
>(楽山:記事)
いやいや、現実はそうではないです。
たとえば、HSでは、仏教の真髄はこれこれで、HSと同質だとしつつ、それとは異なる解釈をする仏教学者は、地獄に堕ちたとして排斥してます。
また、『フランクリー・スピーキング』において、大川隆法は、自分の悟りは釈迦を超えており、イエスの悟りは掌に見えたとし、仏教、キリスト教を低く見る発言をしていたでしょう。
 
楽山は、キリスト教の神を、どう見ていたでしょう。悲劇が起こるから神はいないと言って、無神教カルトに賛成していたのです。無理解で幼稚で訂正不能となれば、宗教と信仰にとっても、人間世界においても、やっかい者、邪魔者でしかありません。神も人も云々する資格のない楽山です。
 
>(楽山:記事)
自分なりの感想を書いてみます。
 
>(HS)
どこをどう読めば、こんな解釈になるのでしょうか?
 
私の要約に疑問があるなら、上の議論を読み直したらいいです。その概略は、こうでしょう。ツイートの文字制限がないので、ここではやや詳しく書きます。
楽山「HSでは、大川隆法総裁への信仰が説かれてます」(根拠提示あり)
田中「必ずしも、総裁への信仰は必要ありません」(根拠提示なし)
棒「そのような枝葉を並べてもダメです」(根拠提示なし)
私は、総裁の書籍の中でも、もっとも権威のある『仏陀再誕』『永遠の仏陀』のなかの、信仰の真髄について記された箇所を提示したのですが、田中氏はそれに異を唱え、棒氏は「枝葉」として退けたという流れです。
まさしく、アンチが信仰を説き、信者が反対するという逆転現象です。
 
楽山は、キリスト教と信仰を、何も理解していないのに、神は父性か母性かだの、証明できないからいないだのと、ゴタクを並べてきました。証明できたら信じる必要はないのです。楽山には、常識的な理路も感受性も欠けていて、分からない信じないというなら仕方ないが、いないという資格はないのです。
 
>(HS)
某アンチ氏は昨夜田中氏に論破され、私に何度も論破されているので、リベンジに燃えているようです。
 
>(楽山:記事)
私は、自分の見解を示し、その根拠として『仏陀再誕』『永遠の仏陀』の記述を提示しました。
一方、田中・棒氏はこれに反対しますが、その根拠の提示はしてません。よって両氏は、個人的な感想を述べただけで、反論はできておらず、議論の土俵にも上がってないというのが現実です。
余談ながら、田中氏の意見は、一般向きの対機説法としては、必ずしも間違いではないです。たとえば、こんな風に。
>>(楽山引用)
一般向き「総裁への信仰は、絶対に必要だというわけではない。HS信者でなくとも、正しい宗教を信じて、よく生きるなら、天国に還ることができます」
信者向き「イエスと同時代、同地域に生まれながら、イエスに帰依しなかったなら、悔やんでも悔やみきれない後悔を残すことになる。釈迦と同時代、同地域に生まれた場合も同じだ。ましてや大川隆法総裁と同時代、同地域に生まれながら、帰依しないとしたら…」云々
<<
棒氏については、後者を「枝葉」として退け、田中氏を応援して前者を支持しているようなので、本末転倒も甚だしくて話にならん…ということになります。はっきり言って、後者の信仰論に反発している棒氏は、信者未満と言わざるを得ません。
 
楽山にとって自分に同意しない者は「話にならん」ということになります。このことは、いかに楽山が訂正不能で、学習しない怠慢であるかということを示します。さらに、楽山という非信仰者が、信仰者に対して「信者未満」と言っていることに、楽山の自己愛からの思い上がりの酷さが表れています。
 
*論破のためには
最後に、論破について書いておきます。
私の意見は、HSの信仰は『仏陀再誕』『永遠の仏陀』に書いてある通りのものだろうということです。
 
楽山は、私の意見と言っていますが、信条を言っているかのようです。これは訂正不能だという意味のように受け取られます。どうして、HSをやめて、アンチHSになったはずの楽山が、HSの信仰はこうだ・・と言えるのでしょう。論破のためには??・・元々成り立っていないのに。
 
これに有効な反論をするには、『仏陀再誕』『永遠の仏陀』にある信仰論を否定する大川隆法総裁の言葉を提示しなければなりません。しかもそれは低級霊の霊言や、7、8次元霊の霊言ではなく、仏陀および永遠の仏陀以上の立場で語られたものでなければなりません。
私はこれは不可能だろうと思いますが、もしそれができたなら私も意見を改めることにするつもりです。がんばってください。
 
違います。楽山が、勝手に、OR絶対の信仰をHSと見なしているだけです。「でなければなりません」・・楽山は、自分がHSを導きたいのでしょうか。さらに「永遠の仏陀以上の立場で語られたものでなければなりません」・・どれだけ、楽山は、教祖気取りで決めつけるのでしょうか。呆れる。
 
さらに、相手に、自分に反論し自分を論破するための条件まで提示しています。楽山の自己中は、ここに極まっています。これに答える人がいるのでしょうか。無分別な楽山は、誰の手にも負えないくらい、人格が崩壊しつつあります。「がんばってください」は悪質な皮肉です。
 
 
※ 私はHSのために楽山を批判しているのではなく、かつて、根拠もなく幼稚な先入観で、領域を侵犯するように、キリスト教を侮辱してきて修正もしない楽山を、反キリストとして、批判し続けているだけです。楽山は修正不能の病質者です。批判以外では関わらないのがいちばんだと思います。
 
 
不毛を作り出す者

不毛を作り出す者
 
 
(2022年07月23日)
 
 
 
  上手なサービス
 
原稿を読む声が
芸術作品を説明している
骨を上手に覆い隠して
肉の遺伝子を持っていると
イドラになれる
この部屋には誰もいないが
名前が上手に住んでいる箱がある
すり替えられた名前は上手だ
流れ弾が少年の叫びを上手に止めた
刃物が少女の日常を街角に赤く流した
上手に上手に
もっと上手に
坊主が上手に不毛を捏(こ)ねて
誰にも悟られないイコンを作った
リップサービスは上手にフリーで
幸福な未来を捏(でっ)ち上げた
サービスできない未熟なリップは
未だ上手も下手も知らないが
サービスと奉仕に
反比例の臭(にお)いを嗅ぎ始めている
 
 
  これは夢だ
 
目が覚めると何か
夢を見たらしい
誑(たぶら)かされたような気分
夢の中で
これは夢だと知ることは出来ない
かどうか試したことがある
これは夢だと夢の中で言ってやる
と何度も毎日念じてみる
数日後
夢の中で盛んに言っている
これは夢だ
これは夢だ
もうすぐ覚めるぞ
覚めるぞ
ほら覚めた
蒲団(ふとん)の中にいる
仰向けになっている
やっぱり夢だった
と妙に薄明るい部屋で
蒲団の中にいる自分を見ている
まもなく覚めた
しばらくは呆(あき)れた様子で
天井を眺めている
妙に薄明るい部屋の中
 
 
  食欲と孤独と忍耐
 
ブラウン管を見ていた
あれが人間だよ
というふうに眺めていた
この世の寄生虫
まだ食欲と僅(わず)かの信仰があります
信仰は食欲を超えられるだろうか
希望は愛はどうだろうか
試(ため)す機会はあるだろうか
食欲さえなくなれば
森か山の中にでも行って土へ帰る
ことなど出来はしない
食欲がなければ体力もない
虫のように小さく干涸(ひから)びる
ことも出来はしない
ヒトの肉体を持っている以上
ここで腐臭を放ち膨らみ
蛆(うじ)が湧き蠅(はえ)が飛ぶのだ
 
しかしまだ食欲があります
何も感じなくなる前に
最後まで残る問いは
食欲と孤独と忍耐の三つであり
最も長い泡沫の管は食欲であり
最も腫れ上がる虚無の空洞は忍耐であり
耐えて意味なく萎(な)えて耐え難く
しかして最も大いなるものは孤独である
多くの悲劇の預言者において
恐らく一見そうであったように
一人の愚かな凡夫において
恐らく実際そうである
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、どうしても、議論できる自分を誇示したいのでしょう。書けば書くほどボロが出てきます。でも、努力はしないのです。だから、進歩がありません。自尊過大の意識だけが残って・・というより、まるで亡者のように、亡霊のように、何か書こうとしますが、見苦しいだけです。
 
 
 
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