ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:インチキ

 
  神と信仰メモ3
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。神の存在の証拠があるからでもなく、超常奇跡の成就を信じるのでもありません。個人にとって、生きるために必要だからなのです。この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲しいことがあるからです。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理を含む存在がいるのだろう。その御方は、人間に共感する御方であることが、聖書に書かれています。
 
そして、その御方、即ち、神は、今は隠れているけれども、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられるのだろう。私たち人間を無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至るのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者として、その御方を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのであります。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではないということです。
 
その存在を知ることは、超常奇跡の不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残る、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ばれるようになったのでしょう。
 
 
神を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈と知識だけで、超常のホラーのような物語におとしめて、机上の辻褄合わせで、神を良いとか悪いとか、存在とか不在とか、決めつける無神教カルトが、いかに、的外れであるかを分かってほしいと思います。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が全能者のあり方で神の前に正直な人を救うために、つまり、人を愛するために、摂理の存在を信じ、キリストに共感することが救いなのです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて人に与えるのは、人間には届かない完全な真善美ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、そのまま善しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 
無明(むみょう)に注ぐ光

無明(むみょう)に注ぐ光
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
信仰者は、神からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らない地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって告白し祈ることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年)
(2022年)
(2023年01月23日、再録+加筆)
 
 
 
 『易(えき)入門』黄小娥著
 2022年01月19日 楽山日記(LD)
 
 
やはり、楽山は、努力より、占いが当たることを望むのでしょう。短い記事ですが、さらに、褒めるだけの文章ですから、空疎としか言えない干からびた感想で、何のアドバイスにもなっていません。こういう文章を書いてくる厚顔が楽山の持ち味としか言いようがなく、ネットの屑となっています。
 
 
何年か前に易経に興味を持ち、いくつかの関連書籍を集めてはみたものの、どれも難しくてずっと積読状態になっていたのであるが、先日思い立って、それらの中でもっとも初心者向きらしい本書を開いてみた。
 
初心者に向けて、こういう本を読むとよい・・みたいな書き方をするのは、読解力のあるする専門家のすることです。楽山に、読書の勧めを書く資格はありません。あらゆる本を曲解して、キリスト教と信仰について、度外れた偏見を持つに至った楽山です。
 
 
一読して、本書が易の入門書として高く評価されている理由がわかった気がする。まず文章は平易で分かりやすいし、六十四卦の説明では冒頭に卦の意味を一言で提示してあって有り難い。実占のエピソードは、初版は昭和36年なのでいささか時代を感じさせるところはあるが、どれも印象的で記憶に残るものばかりである。おかげ様で未済まで興味を失うことなく読み進めることができた。
 
「易の入門書として高く評価されている理由がわかった」といって、専門用語の説明もせず、難しい書に見せかけても、「平易」「説明」「有り難い」と、「印象的」「記憶に残る」「興味を失うことなく」など、具体性のない陳腐な褒め言葉だらけです。いい加減な読書感想文の典型でしょう。
 
 
恥ずかしながら自分は、易経を読もうとして乾の途中で挫折したくちである。こんな自分でも最後まで通読できる入門書を執筆してくださった著者にはただただ感謝である。
『易(えき)入門』黄小娥著、裏
ちなみに、こちらは裏カバーである↑
著者紹介を読むと、著者は本当にすごい人のようだ。
 
らくざんは「すごい」ことを讃えます。楽山は、全く平均未満の知性と感性ですが、自分では学者に相当する助言者のつもりだからでしょう。そうして気取り、大仰に本を褒めて、評論家を気取り、その実質の欠乏を、ブログで日常的に漏らすことで露呈している結果と経過です。
 
楽山の記事に付き合うのは、時間の浪費です。それこそ、人生の貴重な時間を、どぶに捨てるようなものだと思います。批判以上では、楽山に関わらないでください。「ただただ感謝」「すごい人」・・読書感想文になっていません。感想を問われて「よかった」と言って、先生に怒られる小学生みたいです。
 
楽山は、故意なのです。一生懸命書いても、足らざれば、見せるのを控えるか、発表しないで置くか、むしろ、足らざる自分について考えるべきですが、楽山は、自己顕示欲から、人のためになるかのような、教えるような筆致で書いて、拙く短い文章では書けないテーマということに、気づかないのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省と学習は、人間に必須です。それが出来ないならば、人間ではないと言ってもいいことなのです。なのに、楽山は、「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという、まるで実感のない、ふざけたことを言って、読者を巻き込もうとします。何も出来ないのに、教えたがります。
 
 
 
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  インチキがインチキを語る
 
 2022年05月22日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 イカサマ霊能者とインチキ占い師、それから宗教勧誘の手口
   を批判。
 
 
楽山の嘘がイヌのように盛っています。楽山のインチキが膨らんで破裂しそうです。どこにも、生きる縁のない詭弁や人生が、我を忘れているようです。自分を見ないで、人のことばかり言っていると、こうなります。生きることが、全部、芝居になるのです。楽山の正義面は、ひょっとこです。嘘なのです。
 
 
*裏事情
 ツイッターにて、次のブログ記事が話題になっていた。
・イカサマ霊能師やインチキ占い師の手口まとめ - A Successful Failure
 」
 これが、霊視、占いの現実なのだろうな。
 
インチキは、楽山の現実として、批判記事が3年余り続いています。嘘と詭弁を弄して、痛めつけてくるので、決して、楽山に関わらないようにしてください。
 
 
*可能性
当該記事のコメント欄では、可能性の話が出ていた。
半信半疑
世の中の「自称」霊能者の大半がインチキだろうなというのは推測がつきます。
だからといって、霊や死後の世界など存在しない。
そういうものを知覚できる能力がある人間も居るはずがない。
霊能者など漏れなく100%インチキである。
と、そう断定するのも、盲目的に超常現象を信じ込むのと同じぐらい客観的な態度ではないと思うのです。 ~省略~
 」
 
インチキ霊能者は、楽山です。楽山は、仏様が喜んでいると言って親族に笑われました。嘘と詭弁で、心理学を心霊の話に見せかけました。批判したら、オモチャの理屈で混乱させてきます。長く付き合うと、人格を破壊される恐れがあります。そのような、害毒だけの伝染性病原が楽山です。
 
 
LM-7
天と地ほどの違いがあると思いますが。
たとえば、コインを投げて100回連続して表が出る可能性は確かに存在します。
それを「100回連続して表が出ることなどあり得ない」と主張することが
問題を引き起こすことがあるでしょうか。
単に可能性が小さい事象を無視しただけのことで、これは理に適ったやり方です。
 」
 
楽山は、宗教と信仰についても、このような辻褄の話をして、ときには、印象操作という詭弁を弄して、自分の恣意の方向に誘導してきます。「100回連続して表が出ることなどあり得ない」という命題は、厳密には間違っていることによって、問題を引き起こすかどうかは、場合によって違うはずです。
 
「問題を引き起こすことがあるでしょうか」と言い、数学なのか、賭け事なのか、遊びなのかについて、考慮していないので、「単に可能性が小さい事象を無視しただけのこと」と軽く言って、これは「理に適ったやり方」と言っています。楽山は、この引用をペテンの手口にするのでしょうか。
 
厳密性が、どの程度、問われているかを考慮せず、「理にかなった」とは、ぞんざいな判断です。こういう意見に賛同する楽山は、恐らく、小さい可能性を無視しやすいだろうと思います。これが、楽山の短絡しやすい理路なのです。厳密性を飛ばして、概念の玩具遊びで結論を出しています。
 
実際には、楽山は、大きな可能性だけでなく、実際に、起こり続けている自らの短絡理路の欠陥や、嘘と詭弁で人を迷路に誘導した害悪について、反省せず、全てを無視してきました。言い訳に出してきたこの記事によって、逆に、過去から続いている悪意の不祥事が、楽山の尻に貼りついてゆくのです。
 
このコインの場合は、100回続けて表が出る、という極端な事象ですが、こういう極端な例を挙げて、あり得ない・・を理にかなったと判断したとして、この、おおまかに成り立つ命題を個別のことに当てはめるのは、楽山の詭弁で、しばしば見られてきた特徴です。
 
以前「人それぞれ」だからと自己正当化し、「自分を貫く」のだから悪くないとか、詭弁を書いていました。曖昧な一般則を個別に当てはめたり、限られた個別を一般則のように言う詭弁には、良識が欠けています。楽山は、自らの無責任を無視し、反応も成長もない永久凍土にいるのです。
 
 
「たとえば
「さっきやってみたら100回連続して表が出た」と主張する者がいたとして、
-そんなことは確率上ほぼ起こりえないから嘘に違いないと判断することと、
-確率上は確かに存在するから本当かも知れないと判断すること、
-おお、すばらしい超能力者に違いないと盲目的に信じ込むこと、
一つ目と三つ目が同レベルとはとても思えません。  ~省略~ 
 」
これは、LM-7氏に理がある。超能力者がいるかいないかの可能性は半々ではなくて、いない可能性の方が圧倒的に高いので。
 
判断の正確さのレベルを、嘘吐きで詭弁屋の楽山が決めるのは、我が身を振り返ることの出来ない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業でしょう。こういうところから、楽山の詭弁が始まっていると思います。
 
「同レベルとは思えません」・・嘘、本当かも、超能力、という3つの判断、・・楽山の詭弁には、こういう罠が含まれています。「ほぼ起こりえない」と「嘘に違いない」は、人間関係においては微妙になるのですが、嘘吐きの楽山は、間違いない・・という意識から、決めつけてきます。
 
 
*詭弁
ちなみに、こういう間違いは、他の議論でもある。たとえば、こんな風に。
神はいるかいないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
霊界はあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
生まれ変わりはあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
 
神は、確率の問題にはなりません。信仰は、関係の問題であり、有るか無いかなのです。楽山のような、良心の欠片もない者が、神の存在を、可能性が半々という自体が暴論そのものです。楽山のような反キリストには神はいないのです。信仰者には神が必要だから信じているのです。
 
 
冷静に考えてみれば、これらについては歴史上その存在が証明されたことはなく、事実ではない可能性の方が圧倒的に高いのだけれども、
 
「事実ではない可能性の方が圧倒的に高い」・・楽山の悪意の誘導です。何度も、神は信仰の対象であり、神を事実では証明できないことや、神がいないことの何の根拠にもならないことを書いてきましたが、全て無視する楽山のサイコパス性が表れています。良心がないのです。イカサマだけなのです。
 
 
「あるかないか、答えは二つに一つ」と前置きされると、つい「あるかないか、可能性は半々だ」と錯覚してしまいがちである。
宗教勧誘では、こういう詭弁が使われることがあるので注意が必要である。
 
こういう詭弁で、楽山は、神を否定して優位に立ったつもりの反キリストです。出会わないのが何よりの幸いで、出会ってしまったら、できるだけ早く逃げるしかないです。サディストであり、良心の欠片もないのでしょう。楽山には、門口に待っているものがいるようです。
 
 (創世記、口語訳)
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:7、旧約聖書)
 
 
神は、確率で存在の可能性を論じられる対象ではありません。よいものを何も示せないのに、神に恨みでもあるのか、神否定を書き続ける楽山は、確信犯で凶悪犯です。この先、救いとは何の関係もなく凶悪に相応しい経過を辿るのでしょう。信仰者と求道者を、どこまでも傷つける悪魔性です。
 
信仰者にとって信仰は命です。楽山の遊び半分の心霊趣味で語れることは何もありません。楽山の霊能者気取りや評論家気取りや、心霊や超常は、著しい的外れです。楽山は、一生、詭弁臭とペテン臭が取れないのではないかと思います。
 
神とキリスト教のことを、楽山が書くたびに、学習機能のないことが明らかになります。相変わらず、貧相な概念しか持っておらず、楽山の辻褄が合っても合わなくても、信仰とは何の関係もないことだけを確認することになります。楽山の、無知と無理解と、書き続ける無恥とに、うんざりするだけです。
 
楽山の気持ちが、超常~空想に行って、扱う次元が曖昧になり、言葉だけの引用をすることで、思考自体が迷路化して混乱し、前提も根拠もなく、思いついたままに書いています。楽山を読んで、楽山とともに、精神と文脈が弛緩してゆくのは、錯乱に陥る危険があり、非常に危険です。
 
 
悪意のインチキ

悪意のインチキ
 
 
(2022年05月23日)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
生きてゆくと、学んだものが身に着いてきます。学ばなかった者は、ごまかしが身に貼りついて剥がせなくなります。楽山の嘘と詭弁は、一生続くのでしょう。臨終のときに、楽山は何を言うでしょう。「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」でしょうか。人間の性ではなく、楽山の性なのです。
 
 
 
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  楽山のトンデモとインチキ2
 
 『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著
 2021年04月18日
 
 
(ネットより)
鹿嶋 春平太(かしま しゅんぺいた、1941年 - )は、日本の経済学者、宗教社会学者。明治学院大学名誉教授。本名・肥田日出生。 1965年慶應義塾大学経済学部卒業。71年同大学院商学研究科博士課程単位取得退学、明治学院大学経済学部専任講師。74年助教授。80年教授。日本広告学会賞を二度受賞。聖書研究家として鹿嶋の名を用いる。2011年定年退任。
ウィキペディア
 
楽山は、キリスト教と信仰をおとしめるために、インチキ本を勧めています。トンデモ本は、なぜ、インチキなのかと言えば、聖書を面白おかしい話に落として、信仰による救いを損なっているからです。楽山には、ご馳走なのでしょう。
 
批判に答えられず、いかなる弁明も詭弁で成り立たず、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病質が明らかになってきて、もはや、ケダモノの荒い鼻息のように、開き直って手段を選ばず、侮辱の悪魔性に没頭する楽山です。
 
 
タイトルから聖書入門だと思って本書を読んでみたのだが、スピリチュアリズム的な考え方が多く紹介されていて意表を突かれた思いである。その例を上げるとするならば、まず著者はイエスの教えについて次のように記している。
イエスの教えようとするのは、徹頭徹尾「霊界の真理」です。
(『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著、新潮社、1996年、p.81)
 」
 
霊界に心を奪われると、楽山のように、現実が見えなくなり、言動は狂い出し、言うことが変になり、あげくに、詭弁と嘘ばかりになって、さらに、開き直って、人に化けた幽霊が、本当の顔を表すように、みすぼらしく醜い素顔をさらすことになります。
 
 
イエスの教える真理は、霊界の真理です。そして霊界は人間には見えないから、見える物質界にたとえて話しているにすぎないことになっています。
(同上、p.230)
 」
宗教教義は霊界理論であり、宗教的に考えるのは霊界的に考えることであるともいう。
 
キリストの教えが霊界の理論だけならば、信仰に生かされる人はいないはずです。実際は、霊界に溺れた楽山のような人が、救われない者の醜態を、悲惨な例として晒しているだけです。キリストの教えは、人間への共感であり、理解であり、信仰は、キリストへの共感であり、神への正直なのです。
 
 
宗教形而上学理論の中心は霊界理論です。だから、宗教思考に導かれるというのは、霊界思考に入ることをも意味しています。
(同上、p.301)
 」
信仰とは神と波動を合わせることであり、それができれば神のエネルギーに満たされるという。
 
信仰は、霊界理論でも霊界思考でもありません。また、どうして、人間が、「神と波動を合わせ」られると言うのでしょう。生きている間の、あくまで、人間としての共感であります。楽山が、神のエネルギ-などと言うのは、いかにも、ペテン師らしい出まかせの発想です。
 
霊界思考に生きている楽山を見てください。これほど醜い人はいません。「神と波動を合わせる」などと言い出したら、おしまいなのです。宗教についての思考が、甚だしく偏っており、まるで成り立たず、偏見だけで、結論を出して、病識も反省もありません。
 
宗教と信仰について考えることは、人間について考えることです。それを、止めてしまった楽山は、もはや、人間らしい思考が何も出来なくなり、過大な自尊のために、歯をむき出して、臭い息を吐いて嘘っぱちの霊界話を捏造し、人生に復讐を企んでいるのです。つまり、人間ではなくなるのです。
 
 
バイブルにおける「信仰」とは、物理的イメージで言えば想像霊の意識波動に自己の意識波動を協和させることです。そして、それが一定以上に実現されると、神の力(栄光)は、その信仰を通して発揮される、というのが基本思想です。
(同上、p.251)
(*注 「想像霊」は「創造霊」の誤植と思われるが、ここでは引用元そのママにしておく)
 」
 
心の欠片もない言い分が続いています。信仰の物理的イメージだそうです。信仰に、人に分かる物理はありません。比喩としては拙劣すぎます。神の基本思想?などと言われて、それを悦ぶ楽山は、あらゆる人間の道から、人間の理解から、遠くなった報いを、今、受けています。
 
 
神もまた霊ですから、相応の意識をもっています。そして同時にそこからは「いのち」エネルギーが放射されています。それを自らの霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要、という図式なのです。不協和なら、浸透しないことになっています。
(同上、p.75)
 」
 
人間として受け取るべき信仰を、楽山は、低劣な霊の話にしてしまいます。こういう男が、いちばん信仰を駄目にするのです。神を対象にして、相応の意識を持っている、などと言える人間はいません。命は、エネルギーみたいに物理で論じることは出来ません。神は、人の論理の対象にはなりません。
 
「霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要」「不協和なら、浸透しないことになっています」・・どういう捏造の霊界物語なのでしょう。学ぶことに怠慢な者は、でっち上げで、自分は分かるんだ、特別なんだ、などと吹聴してくるのでしょう。
 
宗教から、お伽噺に、空疎な造語と豪語に、そして、果ては、インチキ占い師らしい空想と妄想に堕して、最後は、路地裏の屍になるか、刑務所で一生を終えるのではないかと思います。楽山は、その中でも、気取りの話とは裏腹に、誰よりも危険な人物です。
 
 
聖書の記述…「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」(コリント二 12.2)については、次のように説明している。 
これは今日の心霊科学でいうと「幽体離脱」ですね。
(同上、p.74)
 」
本書は、日本的なキリスト教理解の問題点を指摘し、その一例として遠藤周作、曽野綾子、三浦綾子の作品の難点を指摘するなど興味深い箇所もあり、学ぶべきところは多々ある。
 
楽山は、自分は特別だと言いたいために引用していますが、何も学んでいません。引用元も、何も学ぶところのないインチキだと思います。その傲慢ぶりは、楽山に見られる訂正不能の霊の引き寄せ妄想と、それこそ、同じ波長を持っているのでしょう。
 
つまり、楽山が、名のある小説家を、軒並み侮辱してきたのは、こういうベースがあったからでしょう。知が足りず情が曲がった者の意は、単純に、人間らしい知情意への復讐だということが分かります。もはや、既に、滅びているのです。誰も関わってはいけません。
 
 
けれども上のことからすると、これは一般的な意味での「聖書入門」というよりは、「スピリチュアリズム的解釈による聖書入門」とすべきではなかろうか。アマゾンのレビューでもこういう特殊さを指摘しているものがあった。スピリチュアリズムに馴染みのある人であれば本書の聖書読解に共感し信じる人も多いかもしれないが、一般の人は本書を読む際にはこの点について注意が必要ではある。
 
聖書は、人間として読むべきであり、スピリチュアル的解釈など存在しません。人間が、神の霊、即ち、聖霊を、いくら考えても、そのスピリチュアルは、如来の掌から逃れられない孫悟空のようなものなのです。楽山の低次元が、救いがたい捏造の霊界を語っています。
 
霊能者気取りが、魔人気取りと、肩を並べて、首を並べて、断頭台に座っているようなものです。決して、影響を受けてはいけません。神に対して人間としての身の程を弁えない者は、ここまで来るという例なのです。悪霊から悪例までの現実を、当てもなく、ふらついている楽山です。
 
楽山の霊性は、腐った料理にたかる蝿のようなものです。楽山の息は、できるだけ多くの人々を、伝染性の、人でなしウイルスに感染させることでしょう。楽山の人間性の崩壊は、ここまで堕ちてくるのでしょう。自らに呪いをかけている楽山ですが、自覚だけは、ずっと、ないのです。
 
霊と超常は、神に任されるべきものです。それを、人が云々するのは、神のごとき自らを自慢したいからに他なりません。言論と真実への冒涜です。霊が分かるっぽい楽山が、それこそ、欺瞞によって、捏造した神霊世界を、どうか、信用しないでください。
 
アマゾンカスタマーレビュー
偏っているからダメと断ずるつもりはありません。こういう本は、特定宗教団体や特定出版社から数多く出ています。これが好きな人もいるかも知れません。ただ、一般読者向けの「聖書入門」としてはあまりにも独断的で水準も低いというだけです。星二つは、その「トンデモ本」度に敬意を表したものです。
アマゾンカスタマーレビュー
 
「トンデモ本」に敬意を表すのでしょうか。信仰とは無関係です。楽山は、同じように敬意を欲しがっていますが、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、いかなる癒しも、つける薬も、讃える名前もないのです。私は、著者にも楽山にも、敬意の欠片も感じません。
 
 
インチキはインチキを呼ぶ

インチキはインチキを呼ぶ
 
 
(2021年04月19日、同日一部修正)
(2022年04月23日、再録+加筆)
 
 
 
  どっちを選んでも罪
 
仮に極端な話ですが、既に百人を殺した者が目の前にいて自分を殺そうとしたとき、彼を殺すのが正しいかどうか。殺せば理由がどうあれ人殺しをしたことになるのだから、それは罪です。決して正義ではありません。
 
では殺さず殉教のつもりで殺されたとしたらどうでしょう。彼はさらに千人を殺すかもしれません。その中には愛する家族や隣人・友人も含まれるかもしれないのです。隣人を愛さなかったという、これも罪です。たとえ殉教であってもです。
 
つまり殺す・殺される、どっちを選んでも罪なのです。では実際どうしたらいいのか、語る口を私は持ちません。しかし何(いず)れかの行動を人はすることになります。極端な場合の話ですが、これは、人が罪人であることを示すための思考実験です。
 
しかし今の世に生きる限り、このような極端な場合でなくても何かを選びながら何かを切り捨てながら人は生きていくのですから、どっちを選んでも罪ということがむしろ多いように思います。罪を犯さない生き方などないと思います。
 
義人はいない、一人もいない。キリストは罪については厳しい見方をしておられました。罪を認めない者にはあくまで厳しかった。罪というものが、赦していただくほか救いがないということは、認められていない罪は赦しようがないからです。
 
人という罪にまみれた創造物は、神の前においては裁かれるだけの存在であるということです。ここにおいて私が言いたいのは人が天国というところに行けるとすれば、それは人が正しかったからではない。人間は、創世記が示すように、全(まった)き正義に生きることができる存在として創られてはいない。
 
人は神の裁きの場において、神に憐れまれることのみによって御国・天国へ行くことを許される。それ以外に御国へ至る道はないのです。そして、神に憐れまれる唯一の方法は、正直な祈り以外にはないのです。言い換えれば、それだけでよいのです。
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
 
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性なんでしょうかね」と、嘘吐きが、嘘吐きの言い訳に、嘘を吐いています。嘘吐きは、結局、何を言っても信用されなくなります。信用されず相手にされないことを、嘘と詭弁で慰めることは出来ません。そして、嘘吐きは、嘘に嘘を重ねて、ついには、自らの存在をも嘘にしてゆくのです。
 
 
 
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  神と信仰メモ2
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。
 
この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲惨なことがあるからです。しかも、いつどこで、生まれても生きても同じだろう、と思うに至った者がいる、あるいは、いたからだろうと思います。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理を含む存在がいるのだろう。その御方は、人間に共感する御方であることが、聖書に書かれています。
 
そして、その御方、即ち、神は、今は隠れているけれども、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられるのだろう。私たち人間を無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至るのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者として、その御方を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのでしょう。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではないということです。
 
その存在を知ることは、不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残る、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ぶようになったのでしょう。
 
神という存在を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈と知識だけで、超常のホラーのような物語におとしめて、机上の辻褄合わせで、神?は良いとか悪いとか、存在とか不在とか、決めつけることが、いかに、的外れであるかを分かってほしいと思います。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が、全能者のあり方で、神の前に正直な人を救うために、人を愛するために、存在する摂理を知ることです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて人に与えるのは、人間には届かない完全な真善美ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、そのまま善しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 

無明に注ぐ光
無明(むみょう)に注ぐ光
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
信仰者は、神からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らない地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって努めることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年01月18日、同日一部修正)
(2022年01月20日、加筆修正)
 
 
 
 『易(えき)入門』黄小娥著
 2022年01月19日 楽山日記(LD)
 
 
やはり、楽山は、努力より、占いが当たることを望むのでしょう。短い記事ですが、さらに、褒めるだけの文章ですから、空疎としか言えない干からびた感想で、何のアドバイスにもなっていません。こういう文章を書いてくる厚顔が楽山の持ち味としか言いようがなく、ネットの屑となっています。
 
何年か前に易経に興味を持ち、いくつかの関連書籍を集めてはみたものの、どれも難しくてずっと積読状態になっていたのであるが、先日思い立って、それらの中でもっとも初心者向きらしい本書を開いてみた。
 
初心者に向けて、こういう本を読むとよい・・みたいな書き方をするのは、読解力のあるする専門家のすることです。楽山に、読書の勧めを書く資格はありません。あらゆる本を曲解して、キリスト教と信仰について、度外れた偏見を持つに至った楽山です。
 
一読して、本書が易の入門書として高く評価されている理由がわかった気がする。まず文章は平易で分かりやすいし、六十四卦の説明では冒頭に卦の意味を一言で提示してあって有り難い。実占のエピソードは、初版は昭和36年なのでいささか時代を感じさせるところはあるが、どれも印象的で記憶に残るものばかりである。おかげ様で未済まで興味を失うことなく読み進めることができた。
 
「易の入門書として高く評価されている理由がわかった」といって、専門用語の説明もせず、難しい書に見せかけても、「平易」「説明」「有り難い」と、「印象的」「記憶に残る」「興味を失うことなく」など、具体性のない褒め言葉だらけです。いい加減な読書感想文の典型でしょう。
 
恥ずかしながら自分は、易経を読もうとして乾の途中で挫折したくちである。こんな自分でも最後まで通読できる入門書を執筆してくださった著者にはただただ感謝である。
『易(えき)入門』黄小娥著、裏
ちなみに、こちらは裏カバーである↑
著者紹介を読むと、著者は本当にすごい人のようだ。
 
楽山の記事に付き合うのは、時間の浪費です。それこそ、人生の貴重な時間を、どぶに捨てるようなものだと思います。批判以上では、楽山に関わらないでください。「ただただ感謝」「すごい人」・・読書感想文になっていません。感想を問われて「よかった」と言って、先生に怒られる小学生みたいです。
 
楽山は、故意なのです。一生懸命書いても、足らざれば、見せるのを控えるか、発表しないで置くか、むしろ、足らざる自分について考えるべきですが、楽山は、自己顕示欲から、人のためになるかのような、教えるような筆致で書いて、拙く短い文章では書けないテーマということに、気づかないのです。
 
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省と学習は、人間に必須のことです。それが出来ないならば、人間ではないと言ってもいいようなことなのです。なのに、楽山は、「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという、まるで実感のない、ふざけたことを言っています。できることさえ、しないで、笑う人です。
 
 
 
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  インチキ思想の楽山
 
 『決定版 日本人論』渡部昇一著
 2021年11月23日 楽山日記(LD)
 
 
楽山には、宗教も思想も成り立たないので、政治思想を語れば、とにかく右翼的に書けばいいじゃろ・・という投げやりが見られます。今までも、ずっとそうだったのでしょう。言葉を覚えても、言葉を使うための、心が無いのです。ゆえに、説得力もなくなっています。
 
楽山は、人に分かるように説明することが出来ないのです。人に分かるように工夫することが出来ないのです。自己愛性人格障害だからでしょう。インテリ気取りで発表して、満悦する人です。共感性がないので、読む側の気持ちを察することが出来ないのです。
 
インテリ気取りで、まともに見せかけようとしても、読んで受け取れるものが何もない文章です。例えば、小中学校で、感想を聞かれて、・・ヨカッタ・・と答えて、先生に叱られる部類の文章です。それに類する語尾が多いと思います。
 
例えば、「筋が通っているようだ」「何かしたいと思わせるものでもある」「一読の価値ありと思う」・・こういう褒め言葉だけで、曖昧で婉曲で、無責任な結論だけで、切実さが、何も感じられません。「ようだ」「思わせる」「ありと思う」・・楽山の、ボンヤリ言語と呼んでいます。
 
著者は本書において、日本の歴史を振り返りつつ、日本の長所および日本の独自性について語っている。皇室、神社、大和言葉、本地垂迹説、武士道など。
 
日本の長所と独自性を、右翼思想で語ろうというのでしょうか。言葉を、並べてみても、その説明も説得力もないなら、読者に無駄な時間を費やさせるだけの、短絡、幼稚、字面だけ、妄想的、訂正不能の危険思想にしか出てこないという楽山の精神病理が、より明らかになるだけです。
 
記事を書いても、文章は短く、短いのに中身がなく、理路は散乱~滅裂となり、思想を語るのではなく、思想の偏りだけが鮮明になってゆくようです。根拠のない偏りを、押し出してくる楽山は、無反省と無責任のペテン師ぶりを、書くたびに明らかにしています。
 
とはいえ著者は日本を褒めてばかりいるわけではない。たとえば靖国神社参拝を問題視する人々の浅薄さを批判したり、
 
靖国参拝を問題視しなくていいという根拠を何も書いていません。結論だけで、説得力の無いことが、明らかです。右翼の旗を振って、その旗に、絡まって、転びながら、言葉と結論だけが、浮いて、納まりもつかないことで、楽山が、いかに、いい加減に思想を唱えているかを表すのです。
 
他者が批判したことを書いて、何の意味があるでしょう。いつものように、怠慢な楽山は、面倒だから、自分で批判しないのでしょうか。それだけではなく、理路を正した批判ができないものだから、無駄に、丁寧語でありながら、シュプレヒコールのように、賛同だけを繰り返すのでしょう。
 
日本は東京裁判の判決は受け入れても、その裁判を受け入れたわけではないにもかかわらず、近年は政治家の中にさえ、この区別に無頓着で判決のみならず、裁判をも受け入れたと勘違いしている輩がいるとして憤り、かつ憂えている。
 
判決は受け入れて、裁判を受け入れない、という摩訶不思議な理屈を、「政治家」という言葉だけをあげて、箔をつけたいのでしょうか。何も言えない楽山の、無理、怠慢、偏見、思い込みが、羅列されてゆく文章など、もはや、理路が散乱して、読んでも、空疎でしかありません。
 
受け入れるかどうかではなく、日本人300万人の命を奪った戦争について、何の見解も持ち得ない楽山の、右翼だから右翼の思想の言葉を並べるだけ、という気色の悪い自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の末路が、ここに表れています。
 
そういわれてみれば確かに東京裁判には、事後法だとか、共同謀議を立証できなかったとか、裁判官は中立国でなく戦勝国人ばかりだったなどという批判がある。とすれば、やむなく刑には服したとしても、その裁判は受け入れないというのは筋が通っているようだ。
 
このように「筋が通っているようだ」とボンヤリ言語で書いても、楽山は、根拠と説明が、右翼の意見を書けばいいじゃろ・・という安易さに、帰結しているだけで、知性のまとまりがなくなっています。右でも左でも中立でも、無責任思想の迷惑だけを表している楽山です。
 
本書は「日本人でよかった」という気分にさせてくれる本である。しかしそれと同時に「このままではいけない。日本のために何かしたい」と思わせるものでもある。
 
楽山の言の、どこに「日本人でよかった」「このままではいけない。日本のために何かしたい」という説明が表されているでしょう。このような安い刷り込みをしてくる楽山は、右翼でも思想家でもありません。もはや、右翼的な言葉を、壊れたエンジンのようにブルブルブルと失禁するだけです。
 
右翼に短絡しただけで、右翼を書くだけの素養が何もないのです。さらに、筋の通った思想一般に、楽山の居場所など無いと言えるでしょう。あらゆることに責任を負わない無緊張の生き方は、楽山に、喜びではなく、笑われることだけを与えるでしょう。楽山の思路が、弛緩しています。
 
楽山には、反省も、修正も、学習もしないまま、インテリや学者を真似た気取りだけで、一人前を装う無理が、どんどん表れているようです。全てが、大根役者の、三文芝居だったのでしょう。何事にも、人生をかける気力も勇気も、楽山には感じられないのです。
 
現状を肯定するとともに、現状打破を志すというのはなにやら矛盾しているようではあるが、この矛盾こそが前に進むために原動力となるものなのだろう。月並みな言い方ではあるが、本書は日本人なら一読の価値ありと思う。
 
結びに「日本人なら一読の価値あり」と、理路の過程を何も書かず、結論だけを書いて、ごまかしています。このように、つまるところ、何も分かるような説明など出来ない楽山です。楽山は、自らの現状を打破できないのに、人に、現状打破を向けて、何が成り立つと言うのでしょう。
 
楽山は、何事を主張するにも根拠を示せない、ということが分かる結びです。現状肯定と現状打破、矛盾が原動力、などと、意味のない理路を並べています。こうなってしまうのは、楽山に、心が無いからです。楽山においては、肯定も否定も安っぽくなって、結局、何も主張できないのです。
 
こういう人がいると、その集団の主張は混乱し、詭弁だらけとなり、嘘だらけとなり、丁寧語で、ごまかしても、いずれ、馬脚をあらわして、誰からも信用されなくなります。まともそうだけど、見ているうちに、ただの自信過剰の怠け者だとバレてしまうのです。
 
楽山は、右翼ではなく、我欲しかありません。楽山は、思想ではなく、屎尿のような臭さだけの文章を、恥知らずだから、載せてくるのでしょう。楽山は思想など持ってはいません。楽山の心無い精神においては、何も、まとまらないのです。人格破壊が進んでいます。
 
 
屎尿(しにょう)排泄(はいせつ)

屎尿(しにょう)排泄(はいせつ)
 
 
(2021年11月24日)
 
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
  仲間と責め
 
ねえねえ
・・・だって
・・・だよねえ
ねえ
孤独な仲間たち
寄り添う
似たような視線になる
責めをすり替える
身を守る
捨てられたものがある
ときに加担する
ときに捨てられる
仲間ではない仲間
責めではない責め
 
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
すごい容赦ない言葉だ。
でもこれが残酷な真実というやつか…顔文字(考えている顔)
引用ツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
 · 11月17日
頭の悪い人は自分の無知・愚かさを理解できていない。自分の欠点を認める謙虚さが足りない傲慢な人達です。そんな人に理解させようとしても時間の無駄。本人の意欲が低く、努力ができないのなら、もうどうしようもない人だと諦めることも賢人には必要です。そうしないと、あなたまで狂わされる。
午前8:48 · 2021年11月17日
 」
午後9:09 · 2021年11月17日
 
人のことしか言えず、自分を見ない楽山は「考えて」はいないと思います。相手の理路を受け取って、その上で物を言う、ということが、全然できない人です。挨拶と世辞の遣り取り以外は全く無意味です。正誤ではなく、正常な遣り取りが出来ないので、異常な疲労が残るだけです。
 
楽山は他人事と思って書いているようですが、引用ツイートが、楽山に、ぴったり当てはまっています。実に「残酷な真実」です。精神衛生の問題として、人格を破壊されたくなかったら、楽山と議論しても経過も結論も成り立たないので、関わらないことです。
 
「無知・愚かさを理解できていない。」「欠点を認める謙虚さが足りない傲慢」「理解させようとしても時間の無駄」「意欲が低く、努力ができない」「どうしようもない人だと諦める」「必要」「そうしないと」「狂わされる」・・ほぼ全文ですが、楽山は、そういう人です。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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