ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:インテリ気取り

 
  楽山の危険2
 
 信者ブログを見た(アンチ批判)
 2020年08月30日 楽山日記(LD)
 抜粋です。改めて批判します。
 
 
楽山ブログには、HS批判が多いようですが、カルト対策とも言っていますが、嘘だと思います。長いですが、抜粋して批判します。記事内の画像やリンクも省略しているところがあります。2回に分けようとも思いましたが、後半が緊急で重要なので、1回にまとめます。
 
カルト対策は、まず、詭弁家の楽山対策のほうが大事だと思っています。今回、後半で、恐ろしい楽山の本性と危険が語られています。ちょっと常識では考えられません。
 
楽山は、キリスト教をけなし、一方で、クリスチャン芝居をするような、とても、いい加減で、気まぐれな人です。宗教をバカにしている、あるいは、自分には、みんな分かっている、という思い上がった精神で書いているからでしょう。
 
楽山は、私からの批判に、まともに返してきたことはありません。そして、既に否定されて成り立たないことなのに、同じことを書いてきたりしましたが、その後は、こちらを無視しているようです。
 
 
*まえおき
前記事でとりあえげた信者ブログで、アンチ批判がたくさんあったので、ざっと見てみた。以下に感想を書いてみる。
*ノンクリ
まず楽山はHSからキリスト教に改宗したかのように書いてあったのには驚いた。デマを広めるのは止めてほしい。
信者には、天国か地獄か、信者かアンチか、敵か味方かという具合に、ものごとを単純に黒白に分ける人が多いようだから、楽山はキリスト教の本を読んで感想を書いてるからキリスト信者だ、と思い込んでしまったのだろうか。
 
約一年半の楽山批判によって分かったことですが、楽山は、キリスト者ではなく、むしろ、反キリストだと判断しています。キリスト信仰に必要な弱さの自覚がなく、一方で、キリスト信仰にはないはずの自己愛絶対の立場と、それを隠して詭弁と嘘で騙す性質を持っています。
 
楽山は、字面の辻褄合わせで、キリスト教や他の宗教についても語りますが、信仰の心が無いので、子供の小理屈~屁理屈レベルのことしか書けない人です。拙いクレーマーです。
 
 
*ひと目で分かる1
大川隆法が仏陀でないことは、大方の人は、この写真を一枚みただけで、すぐ分かる。
(写真省略)
でも教団内では、大川隆法(エル・カンターレ)の天上界での御姿を再現なさったのです云々と理屈をつけて、これを尊いものとする。
*ひと目で分かる2
霊言についても同様だ。信者以外であれば、大方はひと目で、ただのイタコ芸だとわかる。
・大川隆法がトランプ米大統領の守護霊を呼び出した時のやつちょっとだけ
 」
でも教団内では、霊言の仕組みはああだこうだと理屈を重ね、本物だと結論付ける。
 
HSは、教祖の誇大妄想がベースのようですが、キリスト信仰は、聖書に表されたところの、人間に対するキリストの洞察力と共感が、聖書を読む人を惹きつけています。
 
超常の奇跡によって、一気に、悟ったり、完全になったりするような宗教と信仰は、我欲と我執であり、自己顕示欲であり、人間離れを起こす害毒だと思います。
 
そういう、超常が分かるっぽい、霊が分かるっぽい、という要素を、体質として持っているのが、楽山です。しかも、そのことを、楽山は、芝居によって隠し、嘘と詭弁で騙してくるのです。
 
 
*二種のアンチ
これによって、HS批判の手法は、大きく二つに分かれる。
一つは、ひと目で分かることを、そのまんま口に出すものだ。「大川隆法は神で、霊言は本物だってえ? そんなわけないじゃん(笑)」と。
もう一つは、ひとまず教団の設定した理屈にのっかって、その矛盾点などを指摘するというものだ。「教団はこれこれこうだというが、それはかくかくであってつじつまが合わない」などと。
信者のなかには、後者を屁理屈アンチと揶揄する者もあるが、実際のところは教団の屁理屈にのっかって、ああだこうだ言ってるだけの話なのだ。
 
楽山は、小理屈を捏(こ)ねますが、字面の辻褄合わせに過ぎないので、そこに、洞察も共感も生まれず、何の糧にもならないという特徴があります。楽山と、直接の遣り取りをすると、真剣になればなるほど、病的に疲労します。
 
人の気持ちを汲み取ることも、理解を共有することも、楽山は、出来ないのです。代わりに、世辞や、丁寧語のボンヤリ言語や、謙虚芝居のトホホ言語を使うので、相手を疲労させる毒を持っていると言ってよいでしょう。相手にしないことが一番です。
 
 
*平行線になる理由
これについて、藤倉善郎氏は、教団側の理屈を論破して、霊言はインチキだと証明することは難しいとしている。
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由
 」
宗教の理屈は、信じるものであって、実証されなくてもよいのだから、言ったもん勝ちのようなものだ。「こういう可能性もある」「こっちの可能性もある」「あっちの可能性もある」といった具合に、どんどん新説をつくれるのだから、らくちんだ。
 
宗教は信じるもの、という楽山の言葉を真に受けてはいけません。楽山が、"信じる" という言葉で考えているのは、字面で辻褄を合わせた屁理屈の思い込みに過ぎないからです。
 
一方、キリスト者は、キリストの洞察力と共感力によって惹かれてゆきます。
 
また、楽山は、宗教の理屈は実証されなくてもよいと楽山は言っていますが、実証されたら信じる必要はないわけで、実証できない本質ということです。
 
しかしながら、人間として実感されなければ、信仰には至りません。楽山には、そういう共感による実感がないのです。楽山は、宗教と信仰を云々できる人ではありません。
 
キリスト信仰について言えば、信仰は、人間として共感するものであり、忘れられなくなるものであります。ゆえに、理屈ではなく、愛と祈りの宗教と呼ばれるわけです。教理は、信仰そのものではありません。
 
 
だから、教義論争は、教団側に信仰を正当化する理屈を思いつける人がいれば、決して負けることはない。延々、平行線がつづく。でももし教団の設定した土俵上で議論しない人…たとえば、「これはウソだ」とひと目で分かることを、率直に言う人が出てくれば、どんなに苦心して積み上げた理屈も、あっさり崩されることになる。
 
教義論争というものがあるとしたら、信仰においては、心の共感と実感に基づくものでなければ、議論の説得力も成り立ちません。楽山のような、表面的な小理屈を振り回し、嘘と詭弁を弄する者の言には、説得力は生まれません。騙して、それらしく見せているだけです。
 
 
*信者と退会者の教義理解
信者と退会者の教義理解の差異は、上と関連している。
教祖を信じている者は、その発言がどんなにトンデモであっても、コロコロ変わっても、矛盾していても、整合性ある解釈を見つけ出そうと努力する。
でも教祖の真の姿に気づき、見限るようになると、そのような努力は放擲し、余計な解釈はまじえず、ありのままにその教えを見るようになり、おかしいものはおかしい、矛盾しているものは矛盾していると結論づけるようになる。
 
人間的共感が成り立つかどうかが、宗教の真偽の決め手になるでしょう。決めつけてよいわけではありませんが、人間に実感できることとしての共感の成り立たない教義や言葉は、結局、超常趣味や、超人趣味に陥ります。そこには、人間の良心を育てる要素がないのです。楽山が典型です。
 
 
教祖を信じている者にとっては、こういう教義理解は即物的で浅はかであるようにしか見えないだろうう。ことばの表面ばかりにとらわれ、その真意を理解していないと言いたくなるだろう。
 
このことを、楽山が言う資格はないと思います。楽山の言は、表層的な理屈の辻褄合わせであり、共感性の深みが見られません。自分を高めるために、言葉の字面だけを整える、これが、楽山の生業(なりわい)なのです。
 
 
でも現実には、トンデモはトンデモだし、コロコロはコロコロだし、矛盾は矛盾でしかない。信者の理屈、意味づけは、信者以外には通用しないものだ。
 
このように、楽山は、理屈の矛盾があるかないかということだけに、こだわるので、表層だけの意味となり、共感も実感も持ち得ない人だということが、今までの楽山批判において明らかとなってきたのです。
 
中身のない乾いた概念把握は、乾燥した積み木遊びであり、瑞々しい真実には至りません。それで、信仰を分かったふうに語る楽山こそが、トンデモなのです。
 
 
*自己中
自己中かどうかは、人を責めるかどうかを見れば、おおよその見当はつく。
 
人を責めるかどうかを見れば見当がつくと、楽山は言っていますが、ならば、人を批判し、責め、いちゃもんをつけ、おとしめて、笑う楽山は、自己中だと自分で言っているようなものです。
 
つまり、言い換えれば、批判を含める場合、人を責めるかどうかは、自己中の決め手にも見当にもならないということです。見当違いの楽山の、自分が責められないための詭弁です。
 
 
自己中でない人は、他人が迷惑行為をしたときでさえも、その気持ちをおもんばかって「これこれの理由でこうなのだろうな。それだったら仕方がない。もし自分がその立場なら、きっと同じことをする」などと考え、相手のことを自己中だと責めることができない。
 
まるで、大人がが子供に説教するような慢心した言い方です。楽山は好むようですが、例示に過ぎませんから、決め手にならない甘さがあり、一般的な説明にならないのです。自己中でない人は、悲しみを共有し、共感を促します。楽山には出来ないことです。
 
楽山は、自分は分かっているということを、時々、問答形式で語りますが、この分かったふうの言い回しこそが、大方、幼稚な的外れであり、かつ、自分が厳しく言われないためか、自分は説得上手の優しい人というアピールに過ぎません。
 
 
でも自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、「自己中やめろ(俺が望まない言動は止めろ)」と平気で言える。
ようは、やたらと他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高いということ。
 
楽山のような自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、都合が悪くなると、平気で無視することが出来ますし、それによって、身勝手なだけの人であることが分かるのです。
 
ですから「他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高い」と言う人は、自己中である可能性が高いということです。このように、話を混乱させ、自分が言われそうなことを人に言い、めちゃくちゃにして、混乱させてきます。
 
つまり、自己中は、自己中と言われたくないので、中身のない無理な返しとして、この循環論法のような屁理屈をこねてきます。その都度、揚げ足を取ったつもりが、ブーメランになって、自分で自分を引っ掛けて、貶めてしまう定めです。
 
 
*不可知論
自分は、不可知論的な考え方をしていることを何度も書いてきた。神、真理などは、人には分からんだろうと。
 
不可知論ではなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしい幼稚なクレームを、キリスト教に向けてきたのが、楽山です。さらに、無神論を出して見当外れのことを言って、神を対象物のように扱ったのも、楽山です。神は、完全には不可知というのが人間の節操です。
 
自分の都合に合わないから神はいない、という欲求不満によって、"論" の好きな楽山が、神も、信仰も、無神論も、不可知論も、小学生レベルの理解でしかないことが明らかになってきました。それでも、楽山の慢心と悦楽は続いているのですから、とても、異常~病的だと思います。
 
 
そのせいか、ぽん吉氏にはこんな風に怒られたりする。「楽山くん、きみには結論がないのか! はっきりせよ!」などと。
ぽん吉氏は案外に楽山の立ち位置を理解しているらしい。
でも信者氏による楽山批判を読むと、楽山は神のこと、真理のことなどを分かったと主張しているかのようになっている箇所が散見される。
ぽん吉氏に分かることがどうして分からないのだろう。
 
楽山には、慢心と自己愛と気取りしかなく、結論がないと思います。さらに言えば、結論がないのではなく、判断さえしないのです。それで、生きて活動しているつもりでいるのは、人間として、障害としか言いようがないのです。真実の追求について、何も進まないし何も進めようとしないのが楽山です。
 
つまり、楽山は人間の真実を何も語れず、いちゃもんをつけるだけの人になのです。それで、一人前の言論者を気取り、何も出せるものがないのに、正しいつもりで、楽山の慢心と悦楽は続いているのですから、とても異常~恐怖だと思います。楽山の中身は空っぽなのです。
 
 
*プラトン
プラトンの対話篇を読んでいるときに、「これが結論だ」と思って赤線をひくと、すぐあとでそれは論破され、新しい説が提示されたりする。それで「こっちが本当の結論だったか」と思って赤線をひくと、またそれも論破されて…という具合になり、結局、最後まで結論は出なかったりする。
自分は若い頃はこれを物足りなく思ったものだったが、今はこれが必然と思うし、さして抵抗も感じない。
 
騙されないでください。楽山には、暫定的な結論さえも出せないし、出す気もないということです。人間に可能なのは、その時点での判断であり、最終結論ではありません。人間の行いは、判断に基づいており、最終的な正しさに基づいてなどいません。そこを、楽山は悪用しています。
 
楽山は、そこを悪意で曲解しているので、判断しない曖昧さのボンヤリ言語を、平気で出してきて、それが正しい必然と思って慢心しているようですから、相手をいたずらに疲労させてゆくしかなく、いつか、ぶん殴られるんじゃないかと思います。
 
 
*神の定義
自分は、神のことは分からないと考えているので、「神はこうだ」という風なことは言わない。言葉のあやとして、それっぽい表現はあるかもしれないが、それはあくまで言葉のあやにすぎない。
ただ「××本の定義によれば、神はこれこれこうだという」とはいう。これは自分が、神はこうだといっているのではなく、××本で神はこうだと書いてあるということだ。
楽山批判を読むと、「楽山は神のことを勝手にこうだと決めつけている」という風なものがあるが、大方、この辺りのことをきちんと読み取れていないのだろう。
 
楽山は、神はおかしいと、いちゃもんを言って、神はいないと言ってきたのです。無神教カルトを引用しました。それを、言葉のあや、というドラマなどに、よくある言い訳で済ませています。楽山は、何事も本気では言わず、言葉のあやだけを言っているようなものです。
 
この楽山の文章は、楽山が煙に巻くときの論理遊びです。それを、言葉のあやだと言っています。そうして、こうだと書いてある、などと語りますから、これは賛同している、自分の意見と同じだと言っていることになるのに、責任を他者に押し付けて、楽山自らは責任をいっさい負う気がないのです。
 
そういう者は、侮辱に匹敵するような軽いあしらいをいつも他者に向けて、実は、おとしめて、あざ笑っていることになります。だから、イライラの神経疲労だけを他者に与えます。やっぱり、いつか、ぶん殴られるだろうと思います。
 
 
*共感するかしないか
自分は神のことは分からないと考えているので、〇〇教の神や、△△教の神について、最終的な真偽判定は出来ないと考える。でもそうはいっても感情は動くのであるから、「この神には感動するが、こちらの神には感動しない」ということはあるし、自分の気持ちを偽っても仕方がないのだから、それを率直に語ることにしている。
 
愚かですね、最終的な真偽は、神のみのものです。楽山は、またしても、ボンヤリ捏造の論理遊びで、感動するしないはあるから、などと、鑑賞か見物でもしている立場で正当に物を言った気でいるのです。楽山は、恐らく、一度も本気で感動したことはないだろうと思います。だから芝居がかってきます。
 
つまり、言いたいことは、好き勝手に言うが、結論は言わない、責任は負わないわけです。このような無責任が通る、さらに正しいと思っているのです。何という身勝手なのでしょう。世の中は、そういうふうには出来ていないと言うしかありません。
 
 
ただこの場合でも、「この神の教えには共感する」とはしても、「この神の教えには共感する。だからこの神は本物だ」というところまでは踏み込まない。共感するかしないかは自分の感情のことだから分かるが、神は本物かどうかは客観的判定であろうし、人である自分には分からないことであるから当然だ。
 
感動したら、忘れられなくなるのです。それが本気ということです。それは、全く客観的判定ではないのです。自分の人生に必要かどうかです。楽山は、感動が分からないから、そのことを踏み込まないと言っていますが、実際は、どこにも、踏み込めない人です。
 
言わなくていいと思っているようです。だったら、最初から、惑わせるような詭弁なども、何も、言わないでほしいです。身勝手な言論など邪魔になるだけです。実際には、恐ろしいほど、主観にも客観にも土足で踏み込んで、人の心を玩(もてあそ)び、傷つけている楽山です。
 
人間は、分かっていなくても、その時その時の判断で行動しているのです。その責任さえ負わないのであれば、何もしないで自室か病室かで黙っていることです。もろに人格の発達障害が表れています。理解というか、弁えというか、・・わがままな子供レベルです。
 
 
でもどういうわけか、楽山批判では「楽山は自分の好悪で、神を信じるかどうかを決めている。自分の好き勝手で、神かどうかを決めている」というようなものがある。
たぶん、「この神に共感する」というのを、「この神に共感する。だからこの神は本物だ」という風に、脳内変換してしまっているのだろうけど、もしこういう読解ミスをしてるなら、もうちょっと気をつけてほしいと思う。
 
読解ミスさせるほどに、楽山は自己愛の強さによって傲慢に振る舞っているということです。つまり、楽山は、病識がないということです。それに、共感こそが、信仰の始まりであり、本質であり、必須のことなのです。楽山は共感したことがないから、共感を嫌悪しているだけです。
 
その結果、言葉面だけを整えて、ネットの精神詐欺師をやっているわけです。「もうちょっと気をつけてほしい」などと言って済む話ではありません。楽山は、中学と高校で、そして人生で、ろくに勉強しなかったのだろうと思います。真善美についても、真面目に考えることが出来ないのでしょう。
 
 
*発言責任
信者側からしたら、大川隆法のことを悪く言うのは、阿鼻叫喚地獄に堕ちるほどの大罪となるのだろう。だから大川批判の是非が議論になるときは、その発言責任の話が出る。
でも非信者からしたら、大川批判はタブーではないし、それを罪とする発想もない。だからその是非について議論する際に、責任についてうんぬんする必要性も感じられない。
信者とアンチの間で、言論の自由がテーマになるとき、アンチ側から責任うんぬんの話が出ないのはこのためだろう。
 
言いたい放題でありながら、責任を云々する必要も感じないと自白しています。楽山は、自己中と無反省と、身勝手と無責任が、正しいから通ると思っているようです。云々の話の代わりに、言った分の責任として、別のパワーが楽山に向かうかもしれません。置かれている立場を自覚しない怖さです。
 
 
*おわりに
他にも論点はあったかもしれないが、今は思い出せないので、とりあえずここで筆をおくことにする。
 
永久に筆をおいた方がいい。無反省で無責任の楽山に、言論の力も資格もありません。人の心を、かき乱して、ただで済むと思っているようですが、こびりついて、死ぬまで取れないレッテルを貼られるかもしれません。
 
 
それにしても、信者とのやりとりでは、同じこと、分かりきったことを、何度も繰り返し説明しないとならないのはつらい。
 
説明した気でいるようです。何も説明になっていません。楽山は、ずっとそうです。
 
 
他の人とのやりとりであれば、ネット上でも、リアルでも、そんなことはないのだから、自分の話し方が悪いせいだとばかりは言えぬだろうし、どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬのだが。
まあ信者側でも、アンチは分からず屋だというようなことはよく言っているわけだし、ある意味、お互い様というやつか…。
 
お互い様ではありません。「どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬ」・・これ、かなり激しい結論であり、判断です。こういうことを平気で言っているわけですし、言ってきたわけです。これで、責任負わない・・が通ると思っているのでしょうか。
 
楽山を疲労物質と言ってきたわけが、ボンヤリ言語の正体が、ようやく分かったような気がします。楽山は、自己愛性人格障害で、人の気持ちを思いやることが出来ないのです。どうか、楽山が何を言っても相手にしないでください。楽山は、人間について、何も分かっていない人です。
 
お互い様ではありません。常識人なら絶対しないようなことを、トンデモの楽山だから、自己愛の慢心の上に安穏として、やっているということです。
 
責任を負う気がないのなら、何も言わないことです。
 
他者に向かって言ったり書いたりする一言ごとに、責任は生じます。人間は、他者の人生に関わって生きているということです。だから、特に、信条など、生き方に関わることについては、相当に深く考えようとするのです。間違えたら反省すればよいのです。それが正常人です。楽山は違う。
 
思いこみの強いカルトの人たちを相手に、へらへら軽口をたたいて、けなしたり認めたりで、救われるか否か、捨てるか否か、という境界に立たせておきながら、それで無責任なら、それで平気なら、どうなるでしょう。・・それこそホラーを見る感じです。汗。
 
 
詭弁ですり込んでくる言い逃れ

詭弁で すり込んでくる 言い逃れ
 
 
(2020年)
(2022年09月02日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
 
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】聖書の預言をもとに世界情勢を読み解く行為は、陰謀論との親和性が高く、おすすめできません。そもそも、聖書の預言は世界情勢や未来を読み解くために書かれたものではありません。キリスト教から生まれてしまった多くの破壊的カルトと同じ過ちを犯さないようにしたいです。
午後6:58 · 2022年8月31日·Botbird tweets
 
楽山のような、聖書から何を読み取るべきかを分かっていない者が、聖書に書いてあることを、超常の奇跡がどうとか、事実性がどうとか言って、キリスト教と信仰を否定したつもりで、学者のように気取って書くことで得意になってきたのです。元々陰謀やホラーが大好きだからでしょう。
 
「キリスト教から生まれてしまった多くの破壊的カルト」というのは、元々が、陰謀や、超常を自慢したいとか、人を操りたいとかの、自己顕示欲から聖書を漁っていると思います。例えば、楽山は、学者気取りのために、読書によって、自説の妄想的無神教カルトを自慢したいだけのようです。
 
高慢という高みから眺めて、学問や宗教をオカズにして、貶めてきたのが、楽山のような病的ナルシストであります。その実態は、小学生かと思うような、幼稚で、書いても何の救いにもならないようなことで、宗教を知っているかのように振る舞います。反省せず、共感できない病質者なのです。
 
つまりこのリツイートも、楽山の、自分は分かるんですアピールのために、キリスト教をネタにしているということです。この3年間余り、批判しても、自己顕示欲が治まらない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、またしても、汚い触手を伸ばしています。
 
このように、楽山は、キリスト教を引用リツイートしたり、あるいは、カルトを批判したりしますが、キリスト教については、肯定したり否定したり、いろいろ、いじくって、かつ、責任をいっさい負わないという無責任な、いちゃもん屋であります。決して、関わらないでください。
 
 
 
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  楽山の病質2
 
 「内村鑑三先生の憶ひ出」志賀直哉著
 2020年12月18日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
楽山が、書きたかったのは憶ひ出(思い出)ではなく、悪口だと思います。引用しておきながら、悪口を言う、このような分裂した筆致が、楽山の腐った持ち味です。
 
これは内村鑑三と師弟関係にあった志賀直哉の随筆であるが、内村鑑三にまつわる逸話が多く紹介されていて、頁数は少ないものの、なかなかに読み応えがあるものになっている。
ちなみにここで披露されている逸話のうち、いくつかを抜き書きしてみると、まず内村鑑三は何かの折に「僕は男よりも女の人にはよく好かれる」と笑っていたことがあったそうだ。こんな冗談を言う人だったとは少々意外である。
 
楽山が、どういう「読み応え」を感じていると言うのでしょう。志賀直哉の口を借りて、内村鑑三をネタに、冗談でおとしめる楽山です。こういうことを材料に、キリスト教を、おとしめ、冗談まじりに、侮辱してきた反キリストが、楽山その人です。
 
また、外国人が郷土の言い伝えを披露したときに、「余程馬鹿な先祖だな」といって相手に嫌な顔をさせたとか、日蓮とキリストを同列にして語る人について、「そんな事をいふ奴は博士ぢゃなくてバカセだ」と決めつけたとか、閔妃暗殺に関わった社会主義者が聖書研究会に現れたときは「〇〇さん、貴女はこれから来ないように……」と断っていたともいう。さらには、著者がクリスマス会で罪の意識について疑問を持つような話をした時には、「そんな話より、バラのさし木を作る話でもすればよかつた。その方が聴きたかつた」といったそうだ。これらの逸話は人によっては酷いと感じるかもしれないが、自分には内村鑑三の正直さ、率直さをよく表しているように思えて愉快である。
 
「馬鹿」「バカセ」「来ないように」・・このような悪口は、学者気取りの楽山に向けられるのが相応しいです。自分の立場を弁えないで、自分が言われることを考えもしないで、人の悪口を、別の人の口を借りて、わざわざ記事に書いてくる性根に、何か意義があるでしょうか、否です。
 
そして、内村鑑三の著作から引用してきた手前、後付けで、「正直さ、率直さ」などと、褒め言葉を書いて、それで、帳尻を合わせたつもりでいる愚か者が、この楽山なのです。逆の言葉を書けば、化学実験のように中和されるとでも思っているのか、本当に腐ってる。
 
否定と肯定を、同時に、反省と訂正なしで書けば、それは、矛盾というのです。それが分からないならば、小学生以下です。楽山は、どこで、どうやって、成長し損なったのでしょうか。楽山は、「正直さ、率直さ」を持たないので、これから「来ないように」と言われるべき人です。
 
楽山は、今日、褒めても、明日には、ボロクソにけなす、というような、気分易変に伴って、評価を180°変える人ですから、しかも、「愉快」と言っていますから、元々が、人をけなし、おとしめることに快感を覚えているだけの人なのです。そして、一切、責任を負わない人です。
 
聖書に関連した話としては、内村鑑三は、キリストはピラトから「お前はユダヤの王か」と問われて、「然り」と答えただけで、それ以上何もいわなかったところが大事だといっていたという。キリストは「然り、しかしその王の意味は」と細かく説明すれば命はたすかったかもしれないが、あえてそうはしなかったのだと…。著者の想像によれば、不敬事件の際の先生の態度は、この考えによるものだったのではないかとのことである。
 
けなした後で、「先生」と呼んでいることは、滑稽でさえあります。そして、楽山は、今までも、褒めた後で、けなすことは、しばしばあり、そのような気まぐれから出た言葉が、理路を拡散し霧散させてゆく特徴があります。
 
キリストを、楽山らしく、世間話で語る反キリストらしい筆致です。悪口を集めておいて、敬意の言葉だけ付け加えればバランスが取れて、中立だとでも思っているのでしょうか。それを書いて、評論や感想文になると思っているのでしょうか。
 
人の気持ち、読者の気持ち、常識的なこと、配慮する気配り、など、全く感じることが出来ず、鼻息以外、何も持っていない病質者の特徴です。楽山は、まともな文章が書けない人なのです。書いてくる大方が、真剣味のない、茶化しなのです。
 
自覚がなく、自尊だけ高い病的ナルシスト楽山が、どんな生き方をしているかが分かると思います。嫌がらせのように、書くことだけは止めない楽山に、まともな評価を、受ける資格も、与える資格も、ありません。
 
(ネットより)
内村鑑三不敬事件:
1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式[1]において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
 
この3年で、楽山は、神にも、人にも、不遜・不敬であることが明らかになっています。人のことを言えない立場でありながら、人のことばかり言う楽山は、真実の追求を目指す思慮深い人に、不敬・不快・迷惑・侮辱だけを与える病的人格の持ち主です。
 
よほどの誤った自信か、自尊過大の自己顕示を止めないのです、何度言っても、止めないのです。無反省・無責任・訂正不能の厚顔無恥であり、他者のことを何も考えず、いつ犯罪に走っても、おかしくないような病質者です。決して関わらないでください、近寄らないでください。
 
以上、この随筆で紹介されている逸話の一部を抜き書きし、簡単な感想を添えてみた次第であるが、本編ではこの他にも興味深い話がたくさん披露されているので、関心のある方にはぜひ一読を勧めたいと思う。
 
逸話だけで有名人を語ったつもりになり、安易すぎる感想でキリストをけがす楽山です。つまり、楽山にとって、キリスト教は「簡単な感想を添えてみた次第」で済むことなのです。興味本位というより最初から侮辱するために書いているのでしょう。罪悪感がないと、こうなるという例です。
 
このように、キリスト教をおとしめようとする者は、あれだけ引用してきた内村鑑三を、別の日には、ボロクソに言える性根を持っているということです。恐らく一生涯、冷静を装うだけの、ならず者、醜いピエロという正体が表れてゆくでしょう。
 
言うまでもないことですが、楽山は読書したとしても安定した感想を持てない人なので、楽山の感想文は全く当てになりません。気まぐれで、口から出まかせを書くだけの人なので、くれぐれも、決して参考にしないでください。
 
 
けなすときだけ上機嫌

けなすときだけ上機嫌
 
 
(2020年12月19日、同日一部修正)
(2021年12月22日、再録+)
 
 
※ 付録(2020年12月、2021年12月、再録+))
 
何とかなることを祈っているが、新型コロナは、2年経っても、治まるどころか、ひどくなっている。来年で終わるかどうかも分からないなら、医療が崩壊する可能性がある。そのことも併せて作用して、経済が崩壊する可能性がある。そうなると、貨幣価値も当てにならなくなる。
 
最悪の場合には、自殺、暴動、略奪、他殺、パニックなど、個人または集団による犯罪が多発するだろう。医療・医学がどうの、とか、経済政策がどうの、という議論では済まなくなる可能性がある。国民の生存権を直接守る政策が必要な気がする。
 
国家にとって、いちばん大切なことは、全ての国民が生き続けることだろう。どの都市でも区でも市でも町でも村でも、そこに行けば、食糧と飲料があり、眠る場所もある、という場所を設定し、そこへの連絡と物の輸送のライフラインを保持する具体策が必要な気がする。
 
「生存権」
生存権を具体的に守るために法制度が必要ですが、末端におけるコミュニティの人間関係の役割が重要だと思います。支配や秩序だけではなく、人間力による節度ある助け合いが必要だからです。
 
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  自尊心
 
自尊心(プライド)の高い人は
自分を隠すのが上手です
とはいえ時には溜まったものを
吐き出すことも必要です
 
徹底して聞き手にまわり
貴女の言うことを記録にとどめます
それは合図(サイン)
 
自尊心の高い人は喋(しゃべ)りすぎると
恥をさらしたような
損をしたような気持ちになる
 
だからまもなく貴女が
面談を終わらせたい旨を私に告げたとき
私は目一杯の誠意
を込めて答えたつもりなのです
「はい。貴女がよろしければ」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
恥を知らない人は、恥ずかしいという気持ちが元々備わっていないのでしょうか。自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言えるのは、ペロッと舌を出すような軽さ、悪ふざけの類でしょう。
 
 
 
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  楽山の企み2
 
 講演会について(幸福の科学とキリスト教)
 2020年07月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、白々しくも、キリスト教を褒めています。このような、あざといことを、平気でやってのける楽山には、同情は禁物です。マイナスを言って、プラスを言ったら、ゼロだ、つまり、責任はないという幼稚な姿勢を持っています。実際は、いい加減で当てにならないということです。
 
また、後追いで褒めるのではなく、悔い改めることが必要です。少なくとも、人間なら反省が必要です。それを、ずっと、言葉だけ反省と言って、反省したことになったと思う幼稚さなのです。楽山が何を書いても、そこには、人格と知性と感性の未発達が表れてきます。
 
楽山は、言葉だけ、反省、有り難い、などの褒め言葉を平気で使ってきます。実際には、全体に、他者を、あざ笑っている軽さが見られるので、褒めるのは三文芝居です。反省したり褒めたりする心性はないと思います。ペテン師は、だますために、言うだけならタダとばかり、嘘を吐くのです。
 
楽山は、批判をかわすために、キリスト教なんて最初から分かってる、ということにしたいという詭弁です。言葉だけ、好きなように細工してくる楽山の言を、決して真に受けないでください。嘘を吐くことに、全く罪悪感がないのだろうと思います。
 
以前、三浦光世氏の講演会を聴きに行ったことがあるのだが、その時に印象的だったのが、会場には老若男女、実にさまざまな人々がいたことである。体の不自由な人も多くいて、ここは幸福の科学(HS)とは全然ちがうと思ったのだった。自分はHSの講演会(90年代)で、体の不自由な人が多くいるのを見掛けたことは無かったので、この相違点はすごく印象に残った。
 
(ネットより)
三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - 2014年10月30日)は東京都生まれ、北海道出身の歌人。小説家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長、三浦綾子記念文学館館長を務めた。
正岡子規の影響により歌誌「アララギ」に入り、歌人として出発。1949年、キリスト教(プロテスタント)の洗礼を受ける。1959年に堀田綾子(後の作家になる三浦綾子)と結婚。闘病しながら作家生活を送った綾子を口述筆記などで支え続けた。綾子のデビュー作『氷点』のタイトル発案者であるほか、1926年の十勝岳噴火を題材に『泥流地帯』を執筆することを提案した。1966年に旭川営林署を退職。
1999年、妻綾子とともに日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
趣味は将棋で、アマ六段の腕前。2006年より社団法人北海道将棋連盟理事長を務めた。キリスト教関連の著書もある。日本キリスト教団出版局「信徒の友」歌壇選者。
2014年10月30日、敗血症のため死去[1]。90歳没。
 
自己中というのは、自分は知っている、分かっている、という自意識と自己顕示欲があるので、説明をしないで、説教をしたがり、インテリぶるところがあります。
 
知らない人に、やさしく教えるのではなく、偽インテリの楽山は、心からの慈愛はなく、自分は知っている、あなたは知らないのですか、とでも言いたげに、自慢して得意になる傾向があります。
 
HSとの相違点を、「体の不自由な人も多くいて」「すごく印象に残った」という褒め言葉だけで、言い得たつもりになって、満悦するのでしょう。自己愛性は、言論の、あらゆる点と線と角度で、表れてきます。そうして、やさしく説いたつもりが、ピント外れになるのです。
 
事情が違うだけで、みな、平等であり、弱さという共感する立場から、他者を疎かにしないということであるのに、楽山は、憐れみの話にして傍観しているところに、上から眺める立場しか持っていないことが表れてくるのです。
 
楽山は、未熟とか弱さとか傷とか欠点とかいったものに共感できない人なのです。だから、自分については、成熟、強さ、正しさ、など、芝居するしかないのでしょう。その高慢な精神を糊塗して隠すかのように「すごく印象に残った」という飾りをつけることしかできないのです。
 
楽山は、HSをネタにして、こき下ろし、ここでだけ、キリスト教をネタにして、持ち上げて、結局、自分はちゃんと分かってるんです、と言いたくて、実際は、愚かさを際立たせるだけで、すべっているのです。いくら書いても、何も良くならないところに、楽山はきています。
 
HSの教えには、病気の八割は悪霊憑依が原因になっているというものがある。心の中に悪想念が凝り固まっているから病気になるという考え方もある。白隠禅師の霊言では、何々の病気は前世で人を殺したカルマだとか、こういう性格だと痔になるとか、そんな風な発言が多くあった。大雑把に言えば、HSの教えは、心が正しいと健康で幸福になるが、心が間違っていると悪霊に憑依されて病気になり、不運続きになるということである(最近では、正しい信仰〈HS信仰〉を持っているとコロナにならないとか、信仰免疫とか言っているらしい)。
 
心という言葉から、恐ろしいほど、"霊" という言葉を使いまくった辻褄合わせです。どうしても、霊が分かるっぽい?楽山は、霊に結び付けてきます。このように、楽山個人カルトは、基本から、超常言葉を語ります。楽山が無視しているのは、人間の温もりと潤いです。
 
この "霊" というのが、楽山の子ども時代から、例えば仏様の心が分かると書いていたように、大好きな言葉なのです。宗教を怪談のように超常言葉で表して、温もりも潤いもないものとして、机上の字面の辻褄合わせだけの記事を、宗教を語るかのように書いてきたのです。
 
だから、HSでは病気の人の周囲は微妙な空気になる。信者仲間が病気になったときもそんな風になる。ものをはっきり言う信者であれば、微妙な空気をはねのけて、病気だったり、不運続きの人に向かって、心の間違いを注意することにもなる。したがって、HS教義をある程度知っている人が病気になったり、不運続きになれば、支部内では肩身が狭く、居心地の悪い思いをすることになる。
 
人間性を無視して、霊的な?何ものかばかり考えていると、派生してくるのは、現実無視と、さらなる超常現象解釈の拡張になります。結果から、霊?についての解釈になり、救済とは逆方向にもなるでしょう。その間違いに気づかないのは、霊が分かるっぽい?自覚からの、楽山その人です。
 
楽山の因業は、霊が分かるっぽい自覚から、妖怪やお伽噺のフィクションに興味が偏って、人間性について感じることも考えることも出来ないことが、キリスト教についての、気味の悪い解釈や、誇大妄想的な、いちゃもんだけになってゆく過程と呼応しています。
 
一応教義には例外事項も用意されていて、心が間違っていなくとも、悪霊に憑依されていなくとも、病気になったり不運な目に遭うこともあるとしているが、相当なご都合主義の性格でもないかぎりは、自分は例外であると信じきることは難しく、やっぱり肩身は狭く、いたたまれない気持ちにならずにはいられまい。
 
憑依のことを言っていますが、そうでないのは、例外事項と言い、それを、抵抗もなく、楽山は、使って、ご都合主義と書いて、信じるのが難しいと、信じるということについて、整理できないのか、くどくどと混乱した文章になっています。
 
それは、楽山自身が、自分信仰というカルトだからでしょう。楽山の怪しさは、いたるところに表れてきます。元々が、霊能者気取りで出発している楽山は、霊が分からない人を蔑み、一方で、現実に必要な心の問題を無視してきたのです。
 
自分が「ヨブ記」に興味があるのは、多分このことが遠因になっている。「ヨブ記」を知るきっかけになったのは、三浦綾子のエッセーで、夫婦そろって体調を崩して床についているときに、知り合いから何かの祟りではないかと心配される一方で、他の人からはヨブ記を読むことをすすめられたという話を読んだことであるが、三浦綾子にヨブ記を教えてもらったのは本当によかった。おかげで、実際に「ヨブ記」を読み、次には内村鑑三の「ヨブ記講演」を読み、それによってHSで感じた違和感の正体に気づくことが出来た。
 
体調を崩したときに、ヨブ記が益になるのでしょうか。ヨブが回復したからでしょうか。人は、良いことを神のわざに、災いを悪魔の仕業にしたがりますが、ヨブ記の大きなテーマは、神は、人に、災難や不幸の意味を、いちいち説明しないのだから、恐れをもって神に任せよ、ということです。
 
前に、楽山は、ヨブ記のことを書いていましたが、到底、読んで理解しているとは思えない記事でした。解釈も拙劣で、神と人の関係を考えることが出来ていないと判断されるものでした。だから、「本当によかった」「気づくことが出来た」という単純な言葉しか書けないのでしょう。
 
楽山は、解説、説明、説得する、ということが出来ないのです。これは、才能や能力云々ではなく、自分に満悦していて、深刻に疑問を持って考察できず、考察と情緒を深める意志を持てない自己愛性人格障害NPDだからです。それで、クレームを付けたり、大袈裟に褒めたりするのでしょう。
 
前の記事で、キリスト教の本を読むことで、HSのマインド・コントロールから脱することが出来たことを書いたけれども、これもその一例であると思う。キリスト教はカルト対策に大きく貢献しているという話は聞いているけれども、こういう実体験からそれも納得である。
 
キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたことについて、その無理解によって、反省もしない楽山ですから、「キリスト教はカルト対策に大きく貢献している」「実体験からそれも納得である」は、反省した、よかった、と同様、決して、真に受けてはいけない楽山の嘘です。
 
まるで何かに誰かにゴマを擂っている感じの、世辞の印象です。楽山は、言動がバラバラになって、統合した人格を欠いたブログの流れになっています。結局は、解体に向かい、スクラップに、鉄くずに、実際は、廃人に、なってゆくのでしょうか。
 
楽山は、自分はちゃんとわかってるんだと示したいようですが、実質がまるでなく、自らに溺れて、自らを見失い、あちこちから噴き出してくる矛盾に、あがいている亡者であります。本人が気づかないところで、信仰ではなく、病気は進行しているのです。
 
反キリスト、反宗教の、病的ナルシスト、という評価は、後追いの付け足しの、おべっかや世辞や褒め言葉では覆ることはなく、破綻百出になり、むしろ、強化されてきました。
 
楽山は、反省していると思わせるために、よかった、気づいた、納得である、といった勢いだけの肯定の言葉を並べてきます。いたるところに深みのなさが表れてきます。だまされないでください。
 
楽山が、だいたい、知りもしないキリスト教を、けなし、そして、ちょろっと本を読んで、ほめる、なんてのは、ありえないことです。知識は、いくら積んでも、信仰を保証しません。信仰は、心の温もりと潤いに生まれるものです。
 
信仰は、共感と悲しみを知る心を持たない楽山には生まれないので、楽山は、信仰を語ることもできないと思います。誰も、本をちょろっと読んで、キリスト教とは・・云々、などと得々と語るような楽山のような悲惨な有り様になってほしくないと切に思います。
 
悪名がよそに向くことを期待しているのか、誰かが、同情してくれるだろうと思っているのかもしれませんが、方向がバラバラで偽りに満ちた言は、流れを知っておれば、わざとらしく、白々しくて、書き続ければ、いずれは、誰もが気づくことになります。楽山は、早く、書くのをやめるべきです。
 
楽山は、まだ、何か、解説か評論のようなものが書けると思っているのでしょうか。楽山は、疲労と苛立ちと迷いしか与えてこなかったのに、頷く人に対しては、しめた!とばかり、みな、だましていいとでも思っているのでしょうか。
 
それに、何度も書いたけど、言論の責任をいっさい取ろうとしない態度で、言論は自由じゃろ・・とばかり、書いていいと思っていること自体、反社会的です。無反省で無反応で責任を負わない者に、言論の自由はありません。
 
これは、社会人の当然のルールなのですが、やはり反社会人だから、正常な社会人たる自覚がないのでしょう。楽山は、ブログという囲いから発信すれば、安全に人をだませるとでも思って、高をくくっているとしか思えません。
 
キリスト信仰者は、神の前で、人から神への唯一の音信の手段として、精いっぱい正直に祈る人です。地上の人の世界では、神への音信は祈りだけですが、神の全知全能を思えば、神が、私たちを知らない時と所があるとは思えません。すなわち、私たちは、神の前で生きているということです。
 
その神の前で、キリスト教の信仰について、悔い改めることなく、故意に、悪意で、だますために、平気で、けなしたり、ほめたり、また、嘘を吐く者を、神が赦すでしょうか、否であります。楽山の、ふざけ芝居など、一日も早く止めてほしいです。
 
 
迷惑は、やめて

迷惑は、やめて 
 
 
(2020年07月31日)
(2021年08月11日、再録+)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
 
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
 
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
 
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
 
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
 
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ろうとして
迷うことも飢えることもある不自由
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
 
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
(2000年代か)
 
 
 
楽山が、シリーズもののように、書いているのですが
 
 「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
 2021年08月10日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。逐一批判はしません。
 
楽山は、また、似たような引用の記事を書いています。数年前の騒動とやらを、まとめたいのでしょうか。今問題なのは、楽山が、原因なのですが、その後始末の責任から逃れるために書いているとしか思えません。楽山は、それどころではない状況を無視するために書いているのです。
 
今回は、他者からの引用のようです。例によって、記事の引用はしません。それにしても「>」が多すぎて、どこからどこまでが他者の発言なのか不明瞭になっています。記事の体裁だけ作りたいのでしょうか。あざとく、嫌味な、逃避だと思います。厚顔無恥&無知の策略です。
 
前からの疑問ですが、今さら、楽山に読者がいるのでしょうか。誰かが読むとは思えないような、不躾で、読みづらい引用で、自分の正体隠しが出来ると思っているのでしょうか。見苦しい限りです。自分の問題を無視して、他者のことばかり問題にして書きたがる体質が、剥き出しです。
 
 
 
楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターサイトですが
 
去年の日付になっているのは引用元のツイートのほうで、リツイートは、掲載位置から見ても、最近であろうと思われます。
 
takaさんがリツイート
三浦春馬 & STAFF INFO
@miuraharuma_jp
·2020年1月29日
明るみになる事が清いのか、明るみにならない事が清いのか…どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人達の気力を奪っていく。皆んなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。 国力を高めるために、少しだけ戒める為に憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか
午前1:33 · 2020年1月29日·Twitter for iPhone
 
上記芸能人は関係ありません。楽山も、恐れを知らないようです。自殺した芸能人の、スタッフの言葉を、自己正当化のために、リツイートで悪用しているのです。上にも書きましたが、厚かましさが、恥を忘れているようです。このように恥知らずの楽山が、犯罪行為に走らないことを祈ります。
 
楽山の場合のような、悪については、明るみに出すことが必要であり、隠すことが汚いのです。常識です。「皆んなが間違いを犯さない訳じゃない」・・詭弁です。過ちや間違いと、故意に人を傷つけて快感を得るサイコパス的な罪は、当然、違います。後者は、許してはいけないのです。
 
正義を論じているふうな発言を選んで引用しているのが、楽山の隠れ蓑なのでしょう。楽山のような、罪を認めず、しらばっくれ続ける自己愛者に、立ち直る言葉や、励ましの言葉などは、当然、禁忌であります。故意・作為・悪意による悪だくみに対しては、批判なので、時効もありません。
 
楽山の無責任な自己愛性パーソナリティ障害NPDの体質が、表れていると思われます。殆ど、他者の言葉であること、殆ど、自分の意見を書かないこと、殆ど、放り投げて終わり、という投げ捨て投稿であることなどが、最近続けざまに書いている楽山ブログの投稿と共通します。
 
楽山は、まだ、だませると思っているようです。もはや、楽山が、常識人のような真似をすることなど、通用しないのですが、プロのペテン師なのでしょうか。ピュアな詐欺師のクリミナルマインドなのでしょうか。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山のインテリ気取り
 
 「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
 2021年08月06日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
前記事と主旨は変わらないようです。プロデューサー気取りで、最初に、書く時の注意したことなど、同じパターンの、書き方も同じような前書きがあるのですが、後は、だらだら長い長い引用だけで、結局、自分の見解は、何も書いていません。書けば、批判されるからでしょうか。
 
>この騒動における発言をまとめてみました。
 
何もまとまっていません。引用して並べただけで、まとめようともしていません。
 
だったら、記事自体を書くべきではないでしょう。資料としたつもりでしょうか。だったら、記事に納まるような量ではないはずです。私事を言えば、偽牧師シャロームは10年、楽山は2年半、資料となり、どちらも、とても一つの記事で表せるものではありません。
 
私の記事に書いたと思いますが、楽山の原始反応なのでしょう。書けば批判される、書かなければ満悦気分に浸ることが出来ない、ということで、ずっと前からの習性として、他人の口を持ってきて、書いたという充足感を得たいのでしょう。前記事と同じく、数年前の論争だそうです。
 
読もうという気にさせない記事です。しかし、勘違いした人が、長い記事書きましたね・・と思ってくれることを期待しているのでしょう。そして、苦労しましたが、一助となればと思って・・みたいなインテリ気分を味わいたいのでしょうか。まことに酸味に溢れる楽山です。
 
この異味と異臭は、楽山が、何も考えない、組み立てられない、書けない、責任負う気もないから自分の意見を言うとボロが出る、・・という現実と、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害NPDの内的欲求の間を、他人のコメントを並べればいいじゃろ・・と短絡した結果なのでしょう。
 
前置き以外は、うんざりするほど、引用が長々と続いているだけです。しかも、クリックで、さらに続きが見れるようにしています。楽山は、何をプロデュースしたのでしょう。自分はこのコメントを把握している、という、インテリに見せることでしょうか。
 
昔だまされて食べたことのある、祭りの出店の、タコの入ってないタコ焼きみたいなインチキです。楽山は、コピペだけを並べて、べったら漬けにしています。これも、インテロ楽山の専門分野なのでしょう。しかも失敗して腐臭ばかりを垂れ流すべったら余言者、楽山です。
 
 
 「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
 2021年08月07日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
その後も、楽山は、数年前の騒動について、執拗に、長いだけの、引用だけの記事を、アップし続けているようです。異様な長さです。狂ったのかと思いたくなるほどの、3つの、数年前の騒動の、引用だけ長い記事です。
 
楽山が勝手に無駄な体力を使っているだけで、これを読む人がいるのだろうかと思います。自己満足だけで生きている者は、こうなるのかと、楽山の症状を眺めています。
 
今回は、楽山のコメントもあるようです。楽山以前のHNは「自由」でした。それにしても、分かりやすさからは程遠い編集です。
 
*かわいそう
この記事を読むと、コウさん、ピッポさんが気の毒になってくる。
ガンさんの批判の仕方は、コウさん、ピッポさんの発言趣旨や、言葉のあや、話の流れなどにはあまり配慮せず、一部の問題発言を切り取り、教義的にダメ出しをし、そこからさらに推し進めて、全人格をも否定するというやり方だからね。これでは二人があまりにかわいそうだ。
 
登場人物の人格は知りませんが、楽山について言えば、批判するべきは、まさに、楽山の人格であり、つまり、楽山の自己愛性パーソナリティ障害NPDであり、そこからの、詭弁、嘘、逃避、自己満足、無反省、無責任、などと言う、人間とは思えない異常性であります。
 
恐らく、人格異常は治らないでしょう。しかし、だからこそ、こういう異常者がいます・・ということを、批判記事として、当ててゆくしかないのです。関わると引き込まれ、疲労し、鈍麻し、従属状態となるなどは、カルトと同じなのです。情報を広めて、予防するしかないのです。
 
楽山には、高等感情が欠けており、思いやりや共感が出来ないと思います。その分、言葉だけ、可哀想、と繰り返すしかないのでしょう。今まで、何度も、そういう安いセリフを使ってきた楽山は、三文芝居の大根役者なのに、自分だけ、論者気分の、名優気取りなのでしょう。
 
その中の楽山のコメントを、一部抜粋してみます。
 
こういってはなんだけど、コウ、ピッポさんは自分の心にあることを、正確に、論理的に言葉で表現することはあまり得意そうではないし、議論に不慣れで、理論武装も十分でない。そういう人の発言を、趣旨、あやに配慮せず、問題視して、やっつけるのはどうかしてる。
もう少しだけでも、彼等の発言趣旨、言葉のあやなどを思いやってあげればいいのにと思う。
◇真理が素直に入ってこない人達の特徴|やすらぎのガンブロ
2016/9/26(月) 午後 8:43[ 自由 ]
 
見逃さないでほしいのは、ここに、楽山の、自己愛からの自慢が表れていることです。そして、思いやったつもりの人たちのことを、自分より低い人だという満悦の優越感を表しています。楽山は、そういうのが失礼だということを感じることができないのです。
 
「正確に、論理的に言葉で表現することはあまり得意そうではない」「議論に不慣れで、理論武装も十分でない」「思いやってあげればいいのに」・・楽山の同情は、同情してやるということです。それは、自分は上にいて、劣った者を下に見て、かわいそうにと憐れむ態度なのです。
 
また、引用することになります。
「殴られるより悪いことがある」(三島由紀夫原作映画「午後の曳航」セリフ字幕)
いつも優越意識がある楽山に哀れまれて、勝手に書かれて、ありがたがる人がいるでしょうか。楽山をまともだと思って楽山に関わっている人は、早く目覚めてほしいと思います。
 
ガンさんは、自分は悪口を言われた被害者と考えてるらしい。あれだけのことを書いといて、悪口を言い過ぎたという、やましさがないというのは中々、面白いね。
・・・
2016/7/26(火) 午後 9:59[ 自由 ]
 
楽山が、インテリ気取りの、婉曲ボンヤリ言語の皮肉・当てつけです。相手に「やましさがない」ということを、おかしいじゃないか・・ではなく、「面白いね」と言っています。下種がインテリを気取るときの、実に、白々しい、穏やかさを装った、くさい丁寧語です。
 
楽山は、インテリではありません。知識も、知性の理路も、感性の情感も、整っていません。だから、こういう言い方で書いて満足できるのです。本当の相手の気持ちを察することの出来ない人がやることでしょう。
 
いよいよ、リアルに追いつめられたら、楽山は言うでしょうか、サスペンスドラマなどでよく見るの悪役のセリフ「君は、誰に物を言っているか分かっているのかね」。それとも、パニックでしょうか。支離滅裂になって狼狽するでしょうか。狼狽して引っ込んでほしいです。
 
 
今、私は、楽山という、自己愛性パーソナリティ障害NPDで、反省せず、理解力がないのに、自己満足で他者に意見したがる人のことで、正体を暴いて広く知らせるために、物を言っています。
 
私は、インテリではありません。読書も苦手です。知識も乏しいです。しかし、不完全で罪深いから、人についても、自分についても、考えることは好きなほうです。
 
 
気取るほどに孤独

気取るほどに孤独
 
 
(2021年08月08日)
 
 
 
  欲しいもの
 
車を買った
新車である
しかも増車である
さらに外車である
といっても軽自動車である
 
大きい車体と大排気量で
ステータスを欲しがる人に
それを売ってくれる外車メーカーが
戯れのように試みに作った
無駄なスペースがなく
必要なスペースも足りない玩具?
 
この小さい車でステータスを気取れば
笑われるだけでなく
車を2台も持っているなんてと
顰蹙(ひんしゅく)も買うことになる
 
買わずに残しておけば
半年~一年暮らせる金額
今持っている車が壊れてから
次に国産なら
チャージャー付きのフル装備の
上級グレードの軽自動車が買えるが
というものが五体満足で
運転できる神経を持った状態で
はたして私にあるだろうか
 
欲しい物があり
それが軽よりも小さい軽であり
買うお金が今はあるから
買った
ただそれだけのこと
 
いつ終わるか先のことなど
わからない寿命・余命
については無視した
ただそれだけのことだが
経済的寿命と肉体的寿命
同期してくれたら・・・?
 
本当に欲しいものは他にある
と我慢しているものも
あるにはあるのだ
 
走行距離約千五百キロの
慣らし運転を終えて平均燃費は
リッター二四・五キロメートル
楽しめる贅沢(ぜいたく)な玩具は
剽軽(ひょうきん)なマスクをして
家の前に居座り
私を無視も注視もしない
 
 
※ ずいぶん昔のことです。スマートK、という500ccの軽自動車の外車?に乗っていたことがあります。2人乗りというより2人しか乗れない。価格はシビックより安い車です。リアエンジンで、シフトするたびに、軽いフロントがピョンコピョンコ上下して、風景も上下しました。6速AT/6速クラッチレスマニュアルフロアシフトを楽しんでいました。ターボが付いて、動力性能は、私には十分でした。独りだからできた遊びでした。50代前半で運転は車もバイクも止めています。
 
スマートK

昔の記事「鯛夢トンネル」スマートK(2010年9月)
 
 
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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