不安をごまかす楽山
 
 
ウイルスらしいものが、ブログ下書きを書くのに、日本語入力変換を邪魔しています。楽山以外は心当たりがありません。思うようにならないと、嘘、詭弁、自己満妄想、無反省、無責任などの病質は、邪魔をしてくるようです。いったい、どういう世界に生存しているつもりなのでしょう。
 
 
 2023年01月08日
 幸福の科学は、大川隆法ファンクラブなのか? 宗教の本質とは?
  を批判。
 
 
*幸福の科学は、大川隆法ファンクラブなのか?
このツイートをしてから思いついたのだが、信者は教祖のファンであるならば、幸福の科学は大川隆法のファンクラブみたいなものだとも言えるかもしれない。
 
今さら、こういうことを言って何になるのでしょう。楽山に騙されるファンが一人もいなくなるように批判記事を書いています。楽山ファンクラブは、何の実りもなく、騙し文句で、人格が壊されてゆくだけです。教祖願望をいくら抱いても、楽山は、結局、恨みの対象にしかならないのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者自ら、教祖と信者の関係を、歌手とファンの関係にたとえてる!
信者は、こういうたとえは嫌がるもんだと思ってたけど、そういうわけでもないんだね。
 
慕う相手のファンというのが、楽山には不可解なようです。楽山は、慕われたことがないからでしょう。楽山をしたう=楽山に騙されることになるからです。キリストを崇拝することは、多かれ少なかれ、キリストのファンになることかもしれません。慕うということが楽山にはないのでしょう。
 
楽山は、佐倉哲と同様に、信仰を、辻褄でしか表せないようです。心のない人には、慕う・・という心情も分からないのだろうと思います。いつも人を下に見て、上からしか物の言えない楽山です。正当な愛など分からないのでしょう。情緒が感受できず、言葉遊びにしかならない楽山です。
 
 
*本来の宗教
私見ながら、本来、宗教というものは、神と人との関係であって、人と人との関係ではないように思える。 たとえば、こんな風に。
 ○ 神(人を超えた、人ではない存在)を人が信仰する
 × 教祖(人)を人が信仰する
 
当たり前のことを、新発見のように書いてくる楽山です。嘘と詭弁だけの楽山が慕われることはないということです。また、人間は、人間に理解・共感できる範囲でしか本当の信仰は成り立ちません。楽山が超常を、いくら、いじくっても、それは、信仰とは何の関係もないのです。
 
 
上の信者の発言には違和感をおぼえるのだが、その一因はこの辺りにありそうな気がする。スターを神のごとく崇拝する熱烈ファンと、教祖を神のごとく崇拝する熱烈信者とには、たしかに共通項はあるだろうけれども、どちらも本来の宗教や信仰とは異なるものだし、それを宗教の本質であるかのように語るのはおかしいのだ。率直に言って、ここでたとえとして挙げられているのは、まっとうな宗教というより、いわゆるカルト宗教的な形態なのだと思う。
 
似たようなところはありますが、キリスト信仰の場合、キリストは目の前にはいないのです。憧れもあり、愛もあるでしょうが、人間としての限界があります。そこで成り立つ信仰とは何かを、クリスチャンは、一生のテーマとするのです。
 
さらに、楽山には、一般のファンの心理も理解できないほど、体験が未熟なのでしょう。何ごとにも真剣味のないのが楽山です。だから、ことさら、大きなテーマで豪語したいのでしょう。騙されないでください。インテリぶって言ったところで、楽山に実質は欠片もないのです。
 
 
 
 2023年01月08日
 今の時代に、宗教なんて必要なのだろうか?
  を批判。
 
 
*宗教なんて必要?
 ツイッター上で、次の議論が話題になっていた。
・あらゆる困難が科学で解決するこの令和の時代に、『宗教』は必要なのか?
 
あらゆる困難が科学で解決することはないでしょう。人間には心があるからです。こういう簡単なことを、いちいち、大仰に言ってくる楽山です。ゆえに、人間には宗教が必要であり、楽山には宗教理解が不可能になっています。自己愛性パーソナリティ障害NPDには、委ねる姿勢がないからです。
 
 
*私見
自分なりの考えを述べると、結局のところ、この問いには、人それぞれとしか答えようがないように思う。大雑把に言うと、心の慰めだとか、ものごとの意味だとかを欲する人には、宗教は必要だろうけれども、そういった欲求が希薄な人にはさほど必要ではないだろうと。
 
心のない楽山には必要ではない、というより、理解できないのでしょう。潤いと温もりが、楽山の心にはないと思います。乾燥して干からびた灰のような、心ではなく、辻褄合わせだけで生きているのです。そういう欠陥を自覚せずに、まともに言っているつもりの、この4年間が悲惨な資料です。
 
 
ちなみに自分はどうかと言えば、過去に近親者を看取ったときには、その近親者の人生に意味があったこと、天国で幸せにしていることを願わずにいられなかったので、宗教を必要とするタイプなのだと思う。
 
また白々しい嘘を吐いています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の感情に、人のために願うことなどありません。自分に都合よいように、あらゆる文脈を捏造してゆきます。楽山は、まとも芝居をして、成り立たない自分を露呈してゆきます
 
 
ただ、だからといって、宗教にどっぷり浸かるということはできない。人は死んだら無になる、天国も地獄もなく、神もいない、人生に限らず、一切の物事には意味も目的もないという世界観が成立しうることは分かる。
 
楽山らしく、分からないとは言えず、自分が無になる世界を、分かると言ってしまいます。誰も、自分の「無」など理解できません。また、見栄を張って、墓穴を深くする楽山です。安易に今の自分の虚無感が表れてしまいます。ずうっと、楽山は、言葉の苦し紛れの、お漏らしをしてきました。
 
 
この点、自分は宗教を必要としない人の感覚を理解できなくもないので、宗教を必要とするタイプではあっても、前近代的で単純素朴なそれとはいえない。我ながらこういうところは面倒くさい奴だとは思う。
 
楽山は「宗教を必要としない人の感覚」ではなく、自己満と教祖願望から、宗教をけなすタイプです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だと判断しています。4年間批判しても、反省することがありません。
 
昨日からウイルスらしいものによって、一時的に入力変換をフリーズさせることが繰り返されていて、日本語入力を邪魔しています。変なサイトにアクセスした覚えもないので、楽山を疑っています。楽山は、言論で返せないと、そういうことを平気でしてくる人なのでしょうか。
 
おかしなことが起これば、楽山が、真っ先に疑われることになります。そして、サーバーに報告されます。個人特定されるなら、楽山は、アウトです。ネット犯罪者、嫌がらせをする者として、履歴~前科が残るでしょう。注意・警戒して、楽山に関わらないようにください。
 
 
背筋の凍るようなウイルス

背筋の凍るようなウイルス
 
 
(2023年01月10日)
 
 
 
  愛して
 
二十代から数えて
四十年以上のの凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛してもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
前は暗闇
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
  括れない
 
童謡・メルヘン
風刺・断定・メタファ
皮肉・洒落・語呂合わせ
もっと決定的な括(くく)りが
未だ思い浮かばずにいるような・・・
すでに括っておいてだらだら
と宝探し
 
腸を下し
腸も括れず
首も括れず
考え過ぎて
考え過ぎで
いっそ考えない歌
そのまま歌えたら
正気も狂気も喜んで
そんなとき
変質者出没
と町内会のビラ
危ないな
独りだし付き合いないし
こもってばかりだし不潔だし
何かあったら真っ先に
疑われそう・・・
 
食って出して寝ろ!
はい!日夜そうしております
でもいつの間にか
道理で白髪頭
また探し始める玉手箱
昔々もらった気がする
 
 
  死んでいます

私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。言論の義務を守らない者に、言論の権利はありません。それを理解しない者が、「反省」しないことを「人間の性」と言って居直っています。笑いと怒りだけがあり、悲しむ心を持ちません。反省せず罪悪感もないサイコパスなのでしょうか。
 
 
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @vincent20200110: リツイートしただけで地獄に堕ちると言われるかもですが、リツイートします。(ま、いいわ、今さら。さんざん信者から脅されてるけんね)。 
 」
 
なぜ、楽山は、これをリツイートしたのでしょう。脅されているのではなく、ネットで、嘘を吐き、詭弁を弄し、人をだまし、批判を無視して、リーダー気取りを続けている楽山は、罪と偽善の必然の結果そのものを無視して書き続ける悪魔の意志表示でしょうか。やはり犯罪者なのでしょうか。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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