ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:オカルト

 
  オカルト楽山2
 
 『反オカルト論』高橋昌一郎著
 2021年04月08日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の、霊が分かるっぽい?とか、心理学の「心の理論」を心霊に結び付けるとか、進化心理学なるものの悪用で、霊能力の根拠として書いたりとか、現実と幻想の境界不明瞭な楽山の言です。嘘と詭弁、人格障害からの症状、さらに、オカルトとでも言いたいものです。
 
(ネットより)
人間行動進化学会は、進化心理学を「社会学と生物学の視点から、現代的な進化理論を用いて、感情、認知、性的適応の進化などを含めた人間の本性を解明する学際的な学問」と位置づけている[1]。
現在から過去を推測すると、ある形質が種内の個体の多くに普遍的にみられる場合、その形質は進化史の中で生存・繁殖の成功に役立つ何らかの機能を果たしてきたと考えられる。特にヒトの場合に広く見られる精神的・行動的形質をヒューマン・ユニバーサルズと呼ぶ。
この適応という観点は、実際に多くの心理メカニズムをそれが正しいかどうかはともかく、合理的に説明できる。
 
進化心理学は、心理学という人文科学であって、どこにも、心霊の要素はありません。楽山が、こういう詭弁を弄するのは、恐らく、勉強もせず、学習もしたくないから、安易に、霊によって特別な立場を得ようとする幼稚な子供だましなのだと思います。
 
 
本書では、スピリチュアリズム、STAP騒動、旧石器発掘捏造事件、未来医療研究会、くじ、占い、江戸しぐさなど、一般にオカルトとされるものだけでなく、研究不正、迷信、歴史認識といったさまざまな事柄が問題視され、批判されている。ただそのなかでもスピリチュアリズムのフォックス姉妹とSTAP騒動の小保方晴子氏については、とりわけ詳しく、大分の紙幅を費やして語られており、本書のなかでは大きな山場になっている。
 
いつもの楽山の、こんなに読書しましたという自慢です。言葉だけ、だらだらと並べています。楽山の考え方を少しでも書いてしまうと、楽山のの不可解な思考と理路の破綻が表れてしまうからでしょう。楽山は、言葉を、学習することなく、自分を飾る材料にしてきただけなのです。
 
だから、実のある言葉を何も書けなくなっています。何を聞いても読んでも自分の言葉の素材に出来ないので、自分を飾るための借り物の材料にしているだけなのです。自己顕示欲からの、借り物の偽物の子供だましで一人前を装う楽山です。
 
 
その内容について簡単にふれるとするならば、まずフォックス姉妹については、彼女らが降霊会におけるイカサマ行為を告白した背景には、恋人による説得があったとのことである。当時、マーガレットは、国民的英雄であった冒険家エリシャ・ケインと深く愛し合っており、彼のために真実を告白し、降霊会で人を騙すのはもう止めるつもりだったというのだ。しかしその後、彼は突然の病で急逝してしまい、彼の実家とは不仲であったマーガレットは精神的にも経済的にも悲惨な状況に追い込まれてゆくことになったという。
 
早速、降霊会、イカサマ行為、告白、恋人、急逝、悲惨な状況に追い込まれ、・・・この話、オカルト論として、さらに学問として、何の意味があるのでしょう。楽山は、こういうオカルト関連が好きで、かつ、ゴシップが大好きなのでしょう。他者の悲劇が、ご馳走なのでしょうか。
 
楽山は、宗教と信仰には何の感受性も興味もなく、読書においても、このように、オカルト方向へと著しいピント外れを呈し続けてきたのです。挙句の果てに、空想~妄想によって、インテリ気取り→無神教カルト→気味の悪いオカルト趣味になってきました。
 
 
オカルトを信じている人にしてみれば、「反オカルト論」には興味は持てぬかもしれないが、そうであってもこのマーガレットの恋愛について書かれた第五章だけは読んで損はなかろうと思う。このロマンスは巷の恋愛小説よりも悲しく切なく感動的な話であるし、これを読んだら大概の人はマーガレットの晩年の暮らしぶりについて同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなるにちがいない。
 
共感性のない楽山が、ごまかしのために、いくら、教える書き方で、「悲しく切なく感動的な話」「同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなる」と書いても、情緒を表す言葉を並べただけであることを示すだけなのは、楽山の今までの記事とコメントのカルト信条的な冷たさに表れてきたのです。
 
 
STAP騒動については、類書では語られていないこととしては、幸福の科学への言及がある(pp.130-139)。大川隆法総裁が小保方晴子氏を擁護し、HSUに勧誘していたこと、小保方晴子守護霊の霊言の内容紹介、霊言を基礎とした教育を目指した幸福の科学大学は不認可とされたこと、過去世認定のおかしさ、大川隆法総裁の長女の卒論盗用報道など、よく調べられている。この部分は信者には承服し難く不快ではあろうが、それ以外の人なら興味深く読めるだろう。
 
楽山も「興味」本位で読んだのでしょう。真実追求ではなく、ゴシップ好きの楽山は、ゴシップ的な話題に夢中になるのでしょう。つまり、他者のことを論(あげつら)うことしかできないのです。それを、学者みたいな言い方で、「興味深く読めるだろう」と言っています。
 
楽山は、真実を求める姿勢を持ちません。人より上に立つ特別な自分を見せるために、分別も理路も共感もなく、整わない文章を、平気で書き続けています。自分が気持ちよくなるために、何を言われても無視して、何事もなかったかのように、中身のない記事を書き続けられるのです。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、病識も自覚もなく、無反省に無責任に、ここまでやってしまうという症状が、楽山日記であり、他にもある楽山ブログであり、楽山のツイッターなのです。
 
楽山の、前のHNは、自由でした。楽山という言葉は中国由来でしょうか、楽な山から、自由に物を言いたいようだが、自由には責任が伴います。責任を負わない者に、自由はないのです。責任を負わない楽山には落山しか待ってはいないのです。
 
楽山の子供じみた自由は、どこにも通ることはないと思います。無責任ゆえに信頼度はゼロ~マイナスという実績から、今は、もはや、楽山に言論の自由を認めてはいけないと思います。楽山は無視する人ですから、楽山の書いてくるものに対しても、批判目的以外では、スルースルー無視してください。
 
 
 
 「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月09日 楽山日記(LD)
 
 
良心のない楽山は、聖書も、神も、ヨブも、遊び道具にしています。したがって、書けば書くほど、何も理解していないことが、明らかになってゆきます。だから、信仰として好ましくない文章と思い込んで、浅はかに引用し、かつ、引用に終始しているのです。
 
 
「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」の要点を抜き出しつつメモ。
「第九章の研究」。
ヨブは「友の無情を怨じ、またその憐みを乞う」。
しかし友らの態度に変化はない。
ヨブは後世の判断を期待して、自らの言葉が書きとめられ、書物となり、岩に刻まれることを願う。
しかし後世の人々も、友と同じ人であるにすぎず、何らの望みも託すことはできぬこと、および「我を贖う者」は神の他にありえないことを知る。
 
ヨブが神を恐れていることが表されている箇所であります。信じるがゆえに、信じる神に、単に神に苦しめられていることを嘆くのではなく、神に訴えているという信仰者らしいところでもあります。神も宗教も、いつも鼻で笑っている楽山には決して起こらないことです。
 
「ヨブは己の義を証するもの地上に一人もなきを悟りて、遂に神においてそれを求めるに至ったのである」。
 
ヨブは、ここでは、まだ、自身が受けた試練の意味を知りません。また自身の罪を知りません。
 
 
さらには「神は遂にある時ヨブの無罪を証明すると共に、ヨブを苦しめし三友を罰し給うであろう」ことを確信する。
「ヨブは友の攻撃に会えば会うほどますます明かに、ますます高く、ますます深く信仰の境地に入るのである」。
 
神は、ヨブを無罪とはしていません。いかに神に従っているように見えても、神の前に無罪の人はいません。楽山は、また、最後に神が顕れ、ヨブがひれ伏すことを無視して、間違った方向へ、印象操作をもって、読む人をだまそうとしています。
 
 
「ヨブは苦難を経て贖い主を知るに至り、その苦難の意味がよく解ったのである」。
「信仰は由来個人的のものである。社交的または国家的または人類的のものではない」。「我らは人類と共にキリストを知るのではない、一人にてキリストを知るのである。今の人はとかく一人にて神を知らんとせず、社会と共に国家と共に世界万国と共に神を知らんとする。これ大なる過誤である」。
 
ヨブにおいて、苦難の意味が分かるのは、神が顕れたときであります。分かったのではなく、神を求めているのです。内村鑑三の「一人にてキリストを知るのである」は、至言であります。神は、例えば、無神教カルトなどで組織的に知ることが出来る存在ではありません。信仰は個別であります。
 
 
この講を読むと、人は自分を知る者のために命をも捨てるとか、信仰は個人的なことで、ただ一人、神と向き合うものだということがよく納得できる。
 
「人は自分を知る者のために命をも捨てる」と言っている楽山は、どうして、ここで、そういう解釈に「納得できる」のでしょう。まだ、九章では、ヨブは、神の前に、ひれ伏してはいないのです。楽山が、理解ではなく、体のいい世辞のセリフとして書いていることが明らかです。
 
楽山は、信仰を持っていないからであり、そのくせ、厚かましく「よく納得できる」と言っています。嘘です。これは、楽山の自己顕示欲からの、分かってるんだという自己顕示の無理な主張です。この九章は、まだ、ヨブも、読者も、納得するところではありません。楽山の、凄まじい詭弁です。
 
 
また西郷隆盛の言葉を思い出させるところもある。 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉だ。
これは人ではなく、天、神と向き合おうとするところはヨブと同じだろう。ただヨブは対立者への報復を考えているのに対して、西郷隆盛にはそういう感情は見られないところは正反対ではある。
 
「ヨブは対立者への報復を考えているの」ではなく、自我の主張をしています。楽山は、何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものをも読んでいないのではないかと思われます。「我が誠の足らざるを尋」ねることの出来ない楽山です。
 
ヨブは、対立しているのではなく、神に訴えているのです。西郷は、人格において、天という広い視野を想っているのでしょう。ヨブは、信仰において、その危機を叫んでいるのです。西郷を引用する個所ではありません。いつも対立者への報復を考えて、企んでいるのは、まさに、楽山であります。
 
 
神による復讐についてはパウロも書いているし(ロマ12.19-21)、この辺りの聖書の考え方にはどうしても馴染めないのではあるが、これが異文化ということなのだろう。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 (ローマ12:19、新約聖書)
 
不完全で罪深い人が復讐をしても義とはされない、復讐は神に任せよ、という意味が、楽山は分からないので「異文化」という言葉で済ませています。まことに楽山は人間も神も知りません。信仰が分からない人の偏狭な言い分です。
 
「馴染めない」のではなく、楽山には、分からないのです。楽山は、分からないことを分からないと言えないので、分からないことは「異文化」という短絡で済ませるのでしょう。このような、言い訳や、正当化が、今までも、楽山の性癖となっていることが表れています。
 
分かろうとする姿勢が、今まで一度も表れていないのだから、理解したと言えば嘘になり、分からないとは言えないものだから「異文化」と言って済ませるとは、無責任なエゴの楽山らしい嘘と詭弁です。恐らく、これからも、自己中の楽山が、聖書に親しむことも馴染むこともないと思います。
 
 
欲望は浅ましく気取る

欲望は浅ましく気取る
 
 
(2021年)
(2022年05月05日、再録+加筆)
 
 
 
  浅ましく呼ぶ
 
ここにいて
あまりに浅ましいから
豚と言ってみた
豚は餌を与えた分だけ
肉を食われて人の役に立つ
石ころと言ってみた
糞(クソ)とさえ言ってみた
石ころは邪魔なら蹴ればいい
糞はいずれ浄化され土に返る
何より消費しない何も
 
限りある施しを受けて
豚のように消費し
石ころのように無価値で
糞のように汚(きたな)いから
とりあえず寄生虫ということになった
もう長く蔓延(はびこ)っていて
そう呼んでみるたび
クソッと思い出したように
低く呟(つぶや)いて
ここにいる
 
 
  やさしさと薄氷
 
何て冷たい
何て美しい
という鋭さに
切られているうちに少しずつ
冷淡になっていくような気がする
淡白ではないのだが
淡々と流れ
冷血ではないのだが
冷たい
しかも未だ不充分だ
外へ出ようとする潜熱を抑えきれない
もし充分に冷たくなったとして
やさしさを本当に持ち得たとすれば
やさしさは
浅い水たまりに
薄く張った氷を
じっと見つめ
じっと見つめ
踏み割らずに去ることであろうか
 
 
  陳腐な骨
 
水底(みなぞこ)にいかなる死が巡っていても
水面(みなも)しか見てはいない
陳腐な骨よ
古く脆(もろ)い骨格に細い筋を絡ませ
弛(たる)んだ脂(あぶら)を巻き付け
皮を被(かぶ)った人の形に佇めば
意識はあまりにも浅い
 
底に深く沈む死は
いずれ意識も肉体も
滅するために顕(あらわ)れるのだが
その顕現に対面することはない
 
死に臨んでいくら肉体が放尿し射精し
脱糞し流涎(りゅうえん)したとしても
意識は夢のようなもの?
 
しかし夢の中でも
明証性を持った意識がある
その意識はしばしば奇妙だが
奇妙と知るのは目覚めて
夢を覚えているときだけ
夢の中でも人は人、体は体で真剣だ
だから夢を見るたびに人は溺れ
死に一歩近づき
覚めればまた一歩近づくというに
今すぐ死ぬとは思っていない
意識の浅はかさとは・・・
 
水面よ
その深みに骨を沈めるとき
死が浮かび顕れ
骨が人々の、また肉体の
一切の柵(しがらみ)を断って沈むとき
水底に巡るものを見るだろうか
死人は夢を見ないのだろうか
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違いを嘘でごまかし、ゆえに、真実を見失い、気づきや悟りを知らず、ますます「魅力の欠片もない」人となり、人間であることより、人間でなくなることを選んで、その結果、呆れるのは、当然のように、真実を語るかのような口調で、平気で嘘を吐く魔性に至っていることです。
 
 
 
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  ペテンと気取りの人生
 
 「科学からオカルトへ A・R・ウォレスの場合」渡部昇一著
 2022年04月04日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山は、人格障害者です。恐らく精神病質サイコパスだと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、潜在か顕在かは知りませんが、反社会性人格障害であろうと思います。病質者という言葉も使っていますが、人格障害者と、ほぼ同義です。
 
楽山は、一見まともに見える文章を書いてきますが、約3年余りの批判を受けても、無視して、同じことを書いてきます。私は、楽山とは議論しません。以前、議論しても、全く無駄だということを経験しているからです。理路に見せかけても、何の糧(かて)にもならず、感性や共感は皆無です。
 
正常な感性と知性が働かない病質者は、議論しても、決して双方向にならず、相手の意見を受け取って考えることが出来ず、繰り返しになり、徒労と疲労に見舞われるだけならマシで、下手をすると人格が破壊されるでしょう。楽山は、危険人物なのです。柔らかい筆致に見えるのは、作為の芝居です。
 
 
*概要
渡部昇一の講義録を読んだ。タイトルは「科学からオカルトへ A・R・ウォレスの場合」であり、『幸福なる人生 ウォレス伝』に収録されているものである。
その内容は、ウォレスの生涯を概観しつつ、科学的思考によって人間には不滅の魂があることを証明した功績を高く評価するものである。
 
「科学的思考によって人間には不滅の魂があることを証明」できないと思います。不滅は、人間の扱えるテーマではありません。恐らく、勢い任せの論調ではないかと思われます。しかも、楽山は、理解していないので、その根拠を何も書いていません。いつものように無責任な徘徊です。
 
 
ダーウィンは人間と動物との差異は程度のちがいであり連続しているとしたが、ウォレスは両者は質的に異なっており連続しておらず、その相違は魂にあるとしたとのことである。つまりウォレスは「科学からオカルトへ」と進んだわけである。
 
人間と動物の質的な違いを語るのに、なぜ、オカルトに進むことになるのでしょう。動物より人間のほうが、高等で、本能だけでなく、精神があるということではいけないのでしょうか。恐らく、楽山は、話を心霊の方向に持ってゆきたいのでしょう。
 
 
*私見
自分はスピリチュアリズムにはさほど抵抗感はないので、ウォレスの魂は存在するという主張にも強く反対するつもりはないのだが、人間と動物のちがいについては連続していないとするより、連続しているとする方がシンプルであり、筋が通っているとは思う。人間と動物とは、身体は全くの別物とは言えないのはもちろん、精神についても進化心理学によれば連続していないと結論付けるのは難しいだろう。
 
楽山は、霊能者気取りなので、スピリチュアリズムに抵抗感がないだけでなく、自身がスピリチュアルだと思っています。ここも、作為の詭弁です。人間と動物が連続していようといまいと、違いが分かっておればよいわけですが、楽山は、自分を特別だと言いたいがために、連続していると言っています。
 
なお、進化心理学について、楽山は甚だしく曲解して、心霊に結びつけています。
「心の理論3」
 
楽山は「人間と動物とは、身体は全くの別物とは言えない」と言っています。内臓や骨格に、人間と動物には、共通する部分がありますが、この議論自体に意味があるのでしょうか。誰も、本質は分かりません。そういう謙虚さがなく、分かっていることを自慢したい楽山は、気安く書いているのです。
 
 
とはいえ言語については、本講義で語られていることは非常に説得力がある。ただ動物も意思を伝える方法を持っていることからすれば、両者におけるこの点のちがいは大きいけれども完全に断絶しているとまでは言い切れないのではないだろうか。私はこう考えるので、言語については人間と動物とでは連続しているとも、連続していないともそう簡単にはは結論は出せないように思える。
 
「完全」とか「断然」という言い方を嫌っているように見せかける楽山は、訂正不能の偏見だけでキリスト教と信仰を否定してきました。曖昧な言い方であることが、企みの根深さを示してきたのです。つまり、楽山は、言い張りはあっても、いかなる結論にも到達することのない精神の病質なのです。
 
 
*勇者
ところで、本書の解説ではウォレスについて次のように書いてある。
ウォレスは、心霊現象研究が災いして、自然科学の方面から疎まれ、心霊現象の存在がなければキリスト教も成り立たないという論文を書いて、伝統的なキリスト教の宗派からも反感を買った。
(中山理「解説 時間を超えた言霊の世界からのメッセージ」『幸福な人生 ウォレス伝』、育鵬社、2020年、p.381)
 」
どうやら、ウォレスは名誉や権威のために口を閉じたり、自説を曲げたりする人ではなかったらしい。こういう勇気と正直さは心から尊敬したいと思う。
 
楽山は、自説を持たずに曲がっており、曲がっているのに権威を気取り、学者を気取り、誰よりも自分を「心から尊敬したいと思」っている異常者です。楽山が、「勇気」も「正直さ」も持っていないのに、有名人を引用するのは、自分を高みに置きたい・・という自己愛の方向しかないからです。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスに対しては、丁寧語で書いても丁寧語の世辞が返ってくるだけです。楽山は、それで満悦するのでしょう。有害な楽山に対しては全否定で臨むしかないということです。
 
一部、だまされて、楽山を擁護する人がいるようですが、具体的に批判するのでないならば、せめて、楽山の美味しい具材になるのだけは避けてください。あらゆる手練手管で、作文の、いたるところに、芝居や罠(わな)を仕掛けてくる楽山です。罪悪感が皆無だからです。
 
3年余りの経過において、楽山の発言は、故意の作為であり、真実の欠片も持っていないし、求めてもいません。自分が気持ちよくなり、インテリと思われることを、欲望しているだけです。あらゆる言論を曲げてきます。楽山を受け入れる言論者は、感性が鈍くなり、理路が弛緩してゆきます。
 
楽山やシャロームのようなサイコパスには、徹底した不感不応が固定しています。そうでなければ、どこかで戸惑うはずです。楽山には、反省、共感、といった言葉はあっても、その前後関係において、実質が欠損していることで、何事も本気でないことが表れてきました。
 
サイコパスの言には、その根底において、怨念とあざ笑いが隠されています。楽山のようなサイコパスは、自分が優れていることだけをアピールしますが、柔和な筆致の裏側に、悲しみのうちに後悔したり反省したりすることが全くないことを意味します。それがサイコパスです。
 
サイコパスには、罪悪感がありません。サイコパスには、遺伝因子と環境因子が関わっていると言われていますが、成人に達するころまでに、良心、即ち、高等感情としての、静かな悲哀の感情が育っていないので、反省したり後悔したり自分を見つめたりすることが出来ないのです。
 
楽山は、私のツイッターの通知欄に書き込んできました。私は楽山を出禁にしています。楽山とは双方が成り立たず、議論にならないのは、既に、3年以上前にヤフーブログで経験済みだからです。言うには言うが、まるで受け取らないのが、サイコパス楽山の特徴です。
 
 
人類の敵は、国家でも民族でも集団でもありません。人類の敵はサイコパスです。戦争や残虐行為などの人災の陰にはサイコパスという人格障害者が暗躍しています。楽山がそうかどうかは、知能の問題かもしれませんが、少なくとも、対人関係と社会生活において、既に、破綻した人生を送っているのです。
 
 
昔聞いた話ですが、精神科に精神病質サイコパスが入院してくると、まず、取り囲んでボコボコにするそうです。一切の説得は無駄で、逆らうとこうなるという強制的な条件付けで対処するということです。楽山の不感不応には、似たようなものを感じます。作為の柔和芝居に騙(だま)されないでください。
 
精神病と精神病質は違います。前者は効く薬があり、精神療法があります。後者は、基本的に治療薬はありません。精神療法は、大方、無効です。生活の場を、制限してコントロールするしかないのです。楽山が議論の場にいるのは、病識がないために反社会性に気づかないからです。
 
楽山は、キリスト教を否定しました。しかし、別の記事では、半肯定しています。楽山には、宗教など、どうでもよくて、理解もしていません。自分は、バランスが取れていて柔和だと見せかけたいだけなのです。そういう成り立たない詭弁を仕掛けてくるので、どうか、直接の遣り取りはしないでください。
 
 
病質の脅威

病質の脅威
 
 
(2022年04月06日)
 
 
 
  聴診器の幻想
 
悔いながら懐かしみ
死にそうで生きていけそうで
ここまでは大した心臓で
 
逆流の雑音を奏でる聴診器は
既に昔の熱(ほとぼり)のように
胸を叩く幻想を傍らに
後ろ向きの赤子と
笑う喀痰の老人を同時に記帳して
費え去る収支のページをめくり
破れた扇子を広げ
無知なる未知に語り続ける
 
初めて字を書いたときの
初めて言葉を失ったときの
初めて忘れたと言ったときの
肉体と精神の継続が
幻想でも現実でもなくなるまで
内緒話の途切れ間を
管のカルテに送り続ける
 
 
  飲兵衛さんの思い出
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の
飲兵衛(のんべえ)さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞(ふさ)がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが
鬱積(うっせき)しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我(けが)をさせるか
喧嘩(けんか)になって
こちらが怪我するかも知れない
 
しかたないと諦(あきら)めて
エンジンを止めて紙切れを見た
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
飲兵衛さんの顔が
和(なご)んできた
 
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
 
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかったのだ
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
 
しかしこの飲兵衛さん
にだってプライドがあった
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人
から聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になったのだ
 
あのとき思った
案外精神科医に向いている
かもしれないという見込みは
見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
 
 2022年04月04日
 「幸福の科学」の抗議活動
  抜粋して批判。
 
幸福の科学は、政治、経済、教育…など、多方面に向けて意見を述べているので、社会全体のためを考えていないわけではないだろうけれども、批判封じのような抗議が目立つせいか、どうも守りに入っているというか、自己保存欲が強い団体だという印象を受けざるを得ないのであるがいかがだろうか。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、社会全体のことなど何も考えていません。自我の欲求だけを追いかけています。自身に対する批判封じには、悪口記事を書いたり、仲間を利用して荒らしてきますが、根拠を明らかにしたことは一度もありません。
 
楽山は、不感不応の精神を持ち、学習による成長も発展もありません。活性のない石仏というより形の悪い岩石の硬さで、訂正不能です。そのくせ、文句を言われると、当てつけ、嘘、詭弁を弄して、おとしめてきます。時々焼け石~ヤケクソになり、反省という湧き水を持ちません。
 
カルト批判者を気取っています。学者気取り、評論家気取り、インテリ気取りでもありますが、理路は、この3年余り、一度も整ったことがありません。共感、罪悪感、羞恥心などの高等感情がないので、ネットに表れるというより、湧いてくる虫のような存在です。人格の鈍化という毒を持っています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
約3年余り批判記事を書いても、楽山は、憎まれ口ばかりで、それで全く平気でいられることが、サイコパスである証拠となっています。そこまで明らかなのに、楽山は、私が反論させないと言って、まるで民主主義であるかのように言ってきます。楽山は、ロシアにように、民主主義から最も遠いネトウヨです。
 
楽山に議論の理路はありません。感性もありません。楽山は、自己愛だけがあって、そこから決めつけの悪口の類だけを投げてきます。どう、のぼせ上がれば、どういう精神状態ならば、楽山のようになってしまうのかは、理解不能ですが、楽山と議論することは、精神衛生上、禁忌です。
 
詭弁によって相手を混乱させてくる楽山と、直接の遣り取りをすることは、既に、3年以上前に、私の精神を守るために、しないと決めています。楽山は、他者の意見を、何も受け取れない人です。私の記事とツイッターで批判して、一般読者に、不感不応の楽山に近づかないようにお願いしています。
 
 
 
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  オカルト楽山
 
 『反オカルト論』高橋昌一郎著
 2021年04月08日 楽山日記(LD)
 
 
オカルトについて書いていますが、楽山の、霊が分かるっぽい自覚とか、心理学の「心の理論」を心霊に結び付けるとか、進化してゆく動物→人の形質についての進化心理学という科学を悪用して霊能力の根拠として書いたりとか、現実と幻想の境界不明瞭な楽山の言こそ、嘘・詭弁のみならず、人格障害からの精神障害、そして、オカルトとでも言いたいものです。
 
(ネットより)
人間行動進化学会は、進化心理学を「社会学と生物学の視点から、現代的な進化理論を用いて、感情、認知、性的適応の進化などを含めた人間の本性を解明する学際的な学問」と位置づけている[1]。
・・・
現在から過去を推測すると、ある形質が種内の個体の多くに普遍的にみられる場合、その形質は進化史の中で生存・繁殖の成功に役立つ何らかの機能を果たしてきたと考えられる。特にヒトの場合に広く見られる精神的・行動的形質をヒューマン・ユニバーサルズと呼ぶ。この適応という観点は、実際に多くの心理メカニズムをそれが正しいかどうかはともかく、合理的に説明できる。
 
進化心理学は、科学であって、どこにも、心霊の要素はありません。楽山が、こう言う詭弁を弄するのは、恐らく、勉強もせず、学習もしたくないから、安易に、霊によって特別な立場を得ようとする幼稚な子供だましなのです。
 
本書では、スピリチュアリズム、STAP騒動、旧石器発掘捏造事件、未来医療研究会、くじ、占い、江戸しぐさなど、一般にオカルトとされるものだけでなく、研究不正、迷信、歴史認識といったさまざまな事柄が問題視され、批判されている。ただそのなかでもスピリチュアリズムのフォックス姉妹とSTAP騒動の小保方晴子氏については、とりわけ詳しく、大分の紙幅を費やして語られており、本書のなかでは大きな山場になっている。
 
いつもの楽山の、こんなに読書しました自慢です。言葉だけ、だらだらと並べています。楽山の考え方を少しでも書いてしまうと、楽山のの不可解な思考と理路の破綻が表れてしまうからでしょう。
 
楽山は、言葉を、学習することなく、自分を飾る素材にしてきただけなのです。だから、実のある言葉を何も書けなくなっています。何を聞いても読んでも自分の言葉の素材に出来ないので、借り物の自分を飾る素材にしているだけなのです。全くの児戯であります。
 
その内容について簡単にふれるとするならば、まずフォックス姉妹については、彼女らが降霊会におけるイカサマ行為を告白した背景には、恋人による説得があったとのことである。当時、マーガレットは、国民的英雄であった冒険家エリシャ・ケインと深く愛し合っており、彼のために真実を告白し、降霊会で人を騙すのはもう止めるつもりだったというのだ。しかしその後、彼は突然の病で急逝してしまい、彼の実家とは不仲であったマーガレットは精神的にも経済的にも悲惨な状況に追い込まれてゆくことになったという。
 
イカサマ行為、告白、恋人、急逝、悲惨な状況に追い込まれ、・・・この話、オカルト論として、何の意味があるのでしょう。オカルト関連のゴシップでしょうか。
 
楽山は、読書においても、このように、著しいピント外れを呈し続けてきたのです。挙句の果てに、空想→妄想によって、カルト→オカルトになってきたのは、楽山その人であります。
 
オカルトを信じている人にしてみれば、「反オカルト論」には興味は持てぬかもしれないが、そうであってもこのマーガレットの恋愛について書かれた第五章だけは読んで損はなかろうと思う。このロマンスは巷の恋愛小説よりも悲しく切なく感動的な話であるし、これを読んだら大概の人はマーガレットの晩年の暮らしぶりについて同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなるにちがいない。
 
共感性のない楽山が、ごまかしのために、いくら、学者のような教える書き方で、「悲しく切なく感動的な話」「同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなる」と書いても、情緒を表す言葉を並べただけであることを示しているのは、まさに、楽山の今までの記事とコメントのカルト信条的な冷たさなのであります。
 
STAP騒動については、類書では語られていないこととしては、幸福の科学への言及がある(pp.130-139)。大川隆法総裁が小保方晴子氏を擁護し、HSUに勧誘していたこと、小保方晴子守護霊の霊言の内容紹介、霊言を基礎とした教育を目指した幸福の科学大学は不認可とされたこと、過去世認定のおかしさ、大川隆法総裁の長女の卒論盗用報道など、よく調べられている。この部分は信者には承服し難く不快ではあろうが、それ以外の人なら興味深く読めるだろう。
 
真実追求ではなく、ゴシップ好きの楽山は、ゴシップ的な話題に夢中になるのでしょう。つまり、他者のことを論(あげつら)うことしかできないのです。それを、学者みたいな言い方で、「興味深く読めるだろう」と言っていますが、そういう読み方が出来ないのは、まさに、楽山自身であります。
 
楽山は、真実を求める姿勢を持ちません。人より上に立つ特別な自分を見せるために、分別も理路も共感もなく、整わない文章を、平気で書き続けています。自分が気持ちよくなるために、何を言われても無視して、不感不応で、何事もなかったかのように、中身のない記事を書いて来れるのです。
 
楽山のような自己愛性人格障害者は、病識も自覚もなく、無反省に無責任に、ここまでやってしまうという症状が、楽山日記であり、他にもある楽山ブログであり、楽山のツイッターなのです。
 
楽山の、前のHNは、自由でした。楽山という言葉は中国由来でしょうか、楽な山から、自由に物を言いたいようだが、自由には責任が伴います。責任を負わない者に、自由はないのです。
 
楽山の子供じみた自由は、どこにも通ることはないと思います。無責任ゆえに信頼度はゼロ~マイナスという実績から、楽山に言論の自由を認めてはいけないと思います。楽山は無視する人ですから、楽山の書いてくるものに対しても、批判目的以外では、無視してください。
 
 
オカルトからの

オカルトからの
 
 
(2021年04月10日)
 
 
 
 「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月09日 楽山日記(LD)
 
 
良心のない楽山は、聖書も、神も、ヨブも、遊び道具にしています。したがって、書けば書くほど、何も理解していないことが、明らかになってゆきます。だから、引用に終始しているのです。
 
「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」の要点を抜き出しつつメモ。
「第九章の研究」。
ヨブは「友の無情を怨じ、またその憐みを乞う」。
しかし友らの態度に変化はない。
ヨブは後世の判断を期待して、自らの言葉が書きとめられ、書物となり、岩に刻まれることを願う。
しかし後世の人々も、友と同じ人であるにすぎず、何らの望みも託すことはできぬこと、および「我を贖う者」は神の他にありえないことを知る。
 
ヨブが神を恐れていることが表されている箇所であります。信じるがゆえに、信じる神に、単に神に苦しめられていることを嘆くのではなく、神に訴えているという信仰者らしいところでもあります。神も宗教も、いつも鼻で笑っている楽山には決して起こらないことです。
 
「ヨブは己の義を証するもの地上に一人もなきを悟りて、遂に神においてそれを求めるに至ったのである」。
 
ヨブは、まだ、自身が受けた試練の意味を知りません。また自身の罪を知りません。
 
さらには「神は遂にある時ヨブの無罪を証明すると共に、ヨブを苦しめし三友を罰し給うであろう」ことを確信する。
「ヨブは友の攻撃に会えば会うほどますます明かに、ますます高く、ますます深く信仰の境地に入るのである」。
 
神は、ヨブを無罪とはしていません。いかに神に従っているように見えても、神の前に無罪の人はいません。楽山は、また、最後に神が顕れ、ヨブがひれ伏すことを無視して、間違った方向へ、印象操作をもって、読む人をだまそうとしています。
 
「ヨブは苦難を経て贖い主を知るに至り、その苦難の意味がよく解ったのである」。
「信仰は由来個人的のものである。社交的または国家的または人類的のものではない」。「我らは人類と共にキリストを知るのではない、一人にてキリストを知るのである。今の人はとかく一人にて神を知らんとせず、社会と共に国家と共に世界万国と共に神を知らんとする。これ大なる過誤である」。
 
ヨブが、苦難の意味が分かるのは、神が顕れたときであります。分かったのではなく、神を求めているのが、この章であります。「一人にてキリストを知るのである」は、至言であります。神は、その存在を政治的に集団的に知る、あるいは、知ることが出来る存在ではありません。
 
この講を読むと、人は自分を知る者のために命をも捨てるとか、信仰は個人的なことで、ただ一人、神と向き合うものだということがよく納得できる。
 
「人は自分を知る者のために命をも捨てる」と言っている楽山は、どうして、ここで、そういう解釈になるのでしょう。まだ、九章では、ヨブは、神の前に、ひれ伏してはいないのです。
 
楽山は、信仰を持っていないからであり、そのくせ、厚かましく、「よく納得できる」と言っています。嘘です。これは、楽山の自己顕示欲からの、分かっているんだという無理な主張です。ここは、ヨブも、読者も、納得するところではありません。
 
また西郷隆盛の言葉を思い出させるところもある。 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉だ。
これは人ではなく、天、神と向き合おうとするところはヨブと同じだろう。ただヨブは対立者への報復を考えているのに対して、西郷隆盛にはそういう感情は見られないところは正反対ではある。
 
「ヨブは対立者への報復を考えているの」ではなく、自我の主張をしています。楽山は、何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものをも読んでいないのではないかと思われます。
 
ヨブは、対立者ではなく、神に訴えているのです。西郷は、人格において、天という広い視野を想っているのでしょう。ヨブは、信仰において、その危機を叫んでいるのです。西郷を引用する個所ではありません。
 
いつも対立者への報復を考えて、企んでいるのは、楽山であります。
 
神による復讐についてはパウロも書いているし(ロマ12.19-21)、この辺りの聖書の考え方にはどうしても馴染めないのではあるが、これが異文化ということなのだろう。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 (ローマ12:19、新約聖書)
 
不完全で罪深い人が復讐をしても義とはされない、復讐は神に任せよ、という意味が、楽山は分からないので、異文化という言葉で済ませています。信仰が分からない人の言い分です。
 
「馴染めない」のではなく、悪魔のような楽山には、分かることはないのです。楽山は、分からないことを分からないと言えないので、分からないことは「異文化」という短絡で済ませるのでしょう。
 
分かろうとする姿勢が、今まで一度も表れていないのだから、理解したと言えば嘘になり、分からないとは言えないものだから「異文化」と言って済ませるとは、無責任なエゴの楽山らしい態度です。恐らく、これからも、自己中の楽山が、聖書に親しむことも馴染むこともないと思います。
 
 
(2021年04月10日)
 
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
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