ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:カルト

 
 NPD・カルト3
 
 
  NPDについて
   自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)のことです。
 
 
私は、人格障害の専門家ではありませんが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)を批判してきました。そこで、気になっていたのですが、会話などで、ナルシストだなあ・・と言う場合のナルシストと、自己愛性人格障害は違うということです。
 
自慢好きは、文字通り、よく自慢をする人のことです。しかし、相手が真剣に悩んでいたり傷ついていることに気づいたら、すぐ、真面目に対応できる人です。自慢好きは、自慢したい気持ちが勝っている人で、これはNPDではなく、性格に過ぎません。修正可能だからです。
 
ですから、自己愛性人格障害については、"病的ナルシスト" と呼ぶことにしています。NPDは、人格障害ですから、基本的に、訂正不能です。真面目な対応をする気持ちがありません。人格の中に、思いやり、羞恥心、後悔、自責、反省、責任感、罪悪感が、欠如しています。
 
NPDは、人格障害の中の、サイコパス(反社会性人格障害、精神病質)と、同根です。不祥事を全て人のせいにします。自慢しますが、人に認められるために努力したりはしません。当然のことだと思っています。だから、否定されると、反省はせずに、怒り、恨むだけです。
 
NPDは、知能は正常と言われますが、実際は、知性と感性の両方に欠陥を生じます。自己愛に慢心して学習をしないからでしょう。思春期を過ぎてからは、精神的に成長しないのかもしれません。だから、難しい用語を好みますが、中身は、小中学生かと思うほど、拙劣です。
 
拙劣だと言うことを、どう見抜いたらよいでしょう。幼稚だとも言えます。もっともらしく書いているけど、独自の発想や洞察が皆無で、読んで、はっとさせられることがありません。学術用語を好んで使いますが、誰でも書けそうな、月並みで、いい加減な書き方をします。
 
NPDは、学習をしないし、その必要性も感じない、さらに、学習の仕方も分からないし、学習と成長という概念を理解していないかもしれません。全体に、概念の把握が、とても未熟です。そのために、思考の視野が狭く、言葉を、深みのない単純な "感じ" でしか受け取っていないようです。
 
それで、知ってるつもりになり、自己顕示欲が強いので、語りたがります。心優しい人は、それを受け入れてしまい、遣り取りを続けます。続ければ続けるほど、精神的な距離が近くなればなるほど、異常に疲労するか、あるいは、従属者になって、元の健全な人格が破壊されてしまいます。
 
 
  カルト2
 
 
ここでは、単に新興宗教という意味ではなく、カルト的で邪悪な信仰観と思想~妄想という意味で書いています。伝統宗教の中からも生まれてきます。邪悪なカルト、あるいはその芽は、人間らしい感情を、ひたすら、捨て去ることを志向し目的としているということです。
 
カルトは、奇想天外な妄想的な主張をもって、いつも目立って豪語している者たち、というだけではなく、しっかり伝統宗教と呼ばれる中に住んでいて、内心では自分に従えと豪語したい欲求を持っている者たちも含みます。
 
例えば、悲しみへの共感、慈愛に満ちた温かい心、そういったものを持たないか無視して、それどころではない、もっと大事な真理を知れ、と豪語する欲求を持っているのです。そして、おおよそ、人間という存在を、情感をもって考えていないような教条の理屈で人を誘おうとします。
 
伝統宗教は、カルトとは無縁だというのは、間違いです。まさに、その伝統宗教に似せて、さらに派手な妄想の衣をまとって宗教の前線に出たがっているのも、邪悪なカルトなのです。ただ、見かけだけ、丁寧や敬虔を装う場合もありますから、要注意です。
 
キリストは、人間を洞察し、人間らしい心に反応し、共感して、働きかけてくださいます。そのことは聖書において明らかです。キリストの語る心の救いを、全く受け取っていないのが、病的ナルシストでもあるカルトであります。
 
カルトと、良心的な宗教を区別には、カルトの人間離れ、そして人としての身の程を知らぬ神がかりを、見つけること以外にはありません。しかし、邪悪なカルトは、区別がつきにくいように曲げてくるのです。その際に使われるのが、讃美の連打と、うわべだけ丁寧な言葉面などです。
 
キリストを熱心に信じている者の中で、キリストを熱心に決めつけている者がいて、最も見分けの付きにくいカルトの根っこになっていることがあります。
 
区別する方法は、一言でいえば、信仰の熱心さではなく、信条の正しさでもなく、ただ "修正可能" であるかどうかの一点になるでしょう。それは、そのまま、"悔い改める心" があるかどうかに、つながってくるからです。
 
神のもとにあっても信仰者は不完全な人間ですから、間違いを犯す可能性を認めて成長したいのであれば、修正可能を重んじるはずです。それを不必要と思って、完全あるいは十分という気持ちでいることは、カルトか、カルトになってゆく可能性が強いのです。
 
丁寧で優しい言葉遣いや態度に安心しないでください。邪悪なカルトも処世術として似たような態度を、うわべだけ身につけています。聖書にある偽善者であることを見抜かなければいけませんが、難しい場合があります。カルトかもしれないと感じたら、注意警戒しておくことが必要です。
 
さらに邪悪なカルトが、こう言っとけば間違いないと思っている処世は、述べたように、ひたすら神を讃美することです。一方で、伝統宗教を、否定したり、凌駕し包含しているように見せかけることもあります。讃美ばかりするのは信仰というより、信仰自慢になります。信仰者は自慢しません。
 
神を誉めまくることの不自然さを知ってほしいです。利害において関係ないと思うから、負担がないから、邪悪なカルトは誉めちぎることが出来るのです。信仰者の敬虔から言えば、讃美よりも、正直な告白の祈りのほうが、はるかに大切です。
 
邪悪なカルトは、本気では神を信じていないので、神はこの世とは関係ないと思っている気安さだから大仰に讃美します。そして、そこが、信仰としては、致命的でもあります。
 
邪悪なカルトの特徴:
1.人間離れ、神がかり、現実離れ、夢物語、超常・霊能志向、などを好む。
2.修正不能、訂正不能。ゆえに、不感不応不変という主張。
3.気安い真理への道、誰でも信じれば分かると言う。
4.人間の温もりとは関係のない辻褄合わせ。啓示や聖霊、など超常を持ち出してくる。
5.信じることの忍耐を、あらゆることについて無条件に無根拠に説く。
6.最後には、ただ信じよ、信じないと滅びる、と脅迫する。
7.死もやむなし、というような、破滅的な末路を預言のごとく語る。
8.サイコパスに似て、罪悪感、深い悲しみの情感が欠如している。
 
 
なお、最近話題になることの多いスピリチュアルと呼ばれるものについて、伝統宗教は何を言えるだろうと考えてみると、人間の中で霊感の強いとされる人がいることを宗教は否定する根拠を持たないということがあります。
 
その場合、キリスト信仰の立場から言えば、人間性というものについて、どれだけ大切にしているかという点だけが関心事となるでしょう。真っ当な信仰は、人間性を深めてくれることがありますが、決して、人間性を捨てたり疎かにはしません。そこに優しさと悔いる心があるからです。
 
超常についてどれだけ語られても、それがキリスト教内部で話題となっても、人間は超常を支配できないのだから、根源的に、超常を人間が扱って、生き方を左右することはできません。超常に左右されるような救いは、神のわざであって、人の手に負えることではないのです。
 
どれだけ理想的で有益そうな超常であっても、人間の現実を超えているのだから、人間が超常を語ることは、お伽噺や、言葉だけで飾ることと変わりはないのです。完全な善も正義も真理も、人間が地上で手にすることはありません。完全絶対・永遠不変は、全知全能の神のものであります。
 
人間にとって、感じることが出来て、考えるテーマとなるのは、人間の存在と尊厳と、その深い情感や思考と思想といった内実であり、人間の問題だけが、感受して、共感できて、それなりに深く考えるべき、また、考えられる、そして、考えるに値する問題なのです。
 
 
知らないことについて見栄を張って、知ったかぶりをして保身に走るのではなく、知らないことについては何を言われても、おふざけではなく、阿呆になれる、即ち、無知を自覚できる人間は、信頼できると思います。自分のプライドつまり自尊心のために来ている人ではないからです。
 
阿呆になれる、という性質は、誰とでも共感関係を作る可能性を持っている、という点で、広い器なのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、阿呆になることが、おふざけ~悪ふざけの芝居以外、出来ません。
 
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)、サイコパス、カルトなどは、あざ笑いや高笑いなどの笑いと、怒りと憎しみは持っていても、しんみり悲しむことが出来ません。したがって、非を認めず、人のせいにします。無反省が特徴です。
 
お祭り騒ぎと楽しみだけなら、サイコパスだって、殺人犯だって、盗人だって、詐欺師だって、捕まっていなければ、笑うでしょう。楽しみだけを語る口には、注意したほうがよいです。
 
本当の友情とは、悲しみを共感できることです。そこから、成長も生まれるでしょう。
 
 
冷笑

冷笑
 
 
(2018年)
(2021年)
(2022年11月17日、再録+加筆)
 
誉める(ほめる、褒める)
阿保(あほ、あほう)
 
 
 
  取返しのつかないこと
 
理屈ではない理屈ではない
と理屈をこねまわした私の非は認めよう
私は争ったのだろうか
ひとりひとり違っていていいはずのことを
私は傷つけたのだろうか
 
ひとりひとりが譲れない一線の上に
危うく温めている薄い卵膜を
私は傷つけてしまったのだろうか
 
そのために君が生み出すことさえ
ここでは止めてしまうというのなら
私は行くよ 今は
逝くのでも去るのでもない
進んでいるか退いているかも
同じ過ちを繰り返したかどうかも
かまわずに行ってしまうのだ
 
君が今フンと鼻で嫌悪して
脱いだ靴を叩いて泥を落としているか
それともこの秋に枯れかけて
さらに駄目押しみたいに
除草剤を撒かれた草のようであるか
私は知る由もない
 
ただ君の卵膜には発条(ばね)があるはずだ
だから私も無事ではない
しかしその弾性のために
私がどこへすっ飛んでいくのであろうと
私は行くよ 冷たい
飛礫(つぶて)を受けながらでも行くのだ
 
ぼろぼろになって ちぎれちぎれになって
どれが手だか足だかも
わからずに行ってしまうのだ
明かりを消した手の影のように
すっと潔く陰に消えたりはできないんだ
 
 
  病人の四季
 
一人の病人が言う
夏は電気代と油汗を秤にかけて
口を開けて顔をしかめる
冬は電気と灯油代
肩をふるわせ布団にもぐりこむ
春と秋は
夏と冬の行方に戸惑っているうちに
あまりにも早く過ぎる
この国の四季は厄介だ
おかげで病気になった
 
別の病人が言う
あなたは病みすぎている
暑さと寒さと
暖かさと涼しさが身にしみる
生きているからだ
窓の外を眺めてごらんなさい
みんな生きている
この国の四季は素晴らしい
おかげでまだ生きている
 
別の病人が小さな声で言う
次の季節を迎えられるだろうか
今の季節に楽しめるものを探すのが精一杯
 
 
  君ではない
 
痺れた手に持てと言う
折れた足に立てと言う
軟化した脳に思い出せと言う
忘却を描けと言う
色を無くした眼に彩れと言う
音を無くした耳に踊れと言う
泡を吹く動かぬ口に語れと命ずる
それは紛れもなく君自身だが
咄嗟(とっさ)
君ではない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰かは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。本人を変えるためではなく、読者に知ってもらうためです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執~妄想。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  キリストと人々
 
 
神の性質として言われていることがあります。全知、全能、絶対、完全、永遠、不変、など。
 
信仰者が知るべき人の性質があります。全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない、ということです。
 
信仰において、人間が知るべきことは、神の性質を求めることではなく、神の性質から、人間が不完全であることを知ることです。それが、罪深さの自覚になり、敬虔の自覚につながります。
 
 
あるカルトは言っていました。信仰によって完全になるのだと。カルトたるゆえんであります。信仰は完全になるためにあるのではなく、完全ではない自分を知ることです。完全になれないゆえに、罪の赦しと救いが必要なのです。それが人間らしさなのです。
 
 
自分はダメだなあ・・と思うとき、ダメでない人格的存在を想っています。聖書を読んで、ダメでない、完全な存在を想います。それが神であります。しかし、神について、あれこれ考えても、ダメでない存在、完全な存在を理解することは出来ず、そういうあり方を得ることはできません。
 
ゆえに、そのような御方がいることを、分からないけれど、導いておられることを、願い、信じ、仰ぐ、それが、神への、祈りの信仰であります。ここにおいて、大事なことは、神の意志と行為と計画を、人が知ることはできないということです。
 
信仰は、物品のように、書物のように、受け取るものではありません。この地上で、与えられる、絶対の神と相対の人の関係性であります。その関係が信仰であり、きっと関係を持ってくださると信じて、希望とします。希望だから、慢心する何ものもなく、祈りに終始します。
 
 
キリストに救われた人たちは、正直であり、正直に言い、正直に答えた人であります。それ以外の、いかなる飾りも持っていない人たちでした。これを、心貧しい、というのです。
 
正直な告白と祈りが大切だということです。嘘や飾りを神に捧げられるでしょうか、否です。嘘や飾りを神に向かって言う人ということになるだけです。社交とは違うのです。福音書でも、欠点や障害や罪を隠さず表した人が救われています。
 
神の前においてだけは、心を裸にするべきです。隠したり、飾ったり、嘘を言うことは、自ら、信仰を軽視する態度です。神に対して、社交と同じように、世辞を言い、嘘を吐くことは、固定すれば、嘘の祈りが常態化すれば、赦されない罪になります。
 
ゆえに、祈りで、嘘を吐いたことに気づいたら、別の機会をもって、その罪を告白し、訂正するべきです。そうすれば、正直な信仰に戻ることになります。神は、寛容であり、いつも、正直な祈りを待っておられるのです。
 
 
信仰とカルトの違い:
 
信仰は、心の共感により、本質的には箇条書きできない感性によって、心に生まれます。
 
カルトは、決めつけの豪語から始まることが多く、その内容は、超常現象に彩られています。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の、唯一の希望の同伴として、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 
教条やイデオロギーは、何度も繰り返されるから、感動を呼ぶことはなく、理解の不細工な仮面となって、人間を、雑句雑句と靴音を立てる行列にしてしまいます。集団を同じ顔にしてしまい、嘆きの声から悲しみを消して、笑いと怒号のプラカードにしてしまいます。
 
 
 
キリストと救われた人々の出会い
 
キリストが出会って救いの宣べ伝えた人々は、キリストが選んだ人々であり、人前に、神の前に、誇るような能力を持っていない自覚のある人々であり、かつ、理解できるかどうかよりも、聞く耳を持ち、余計な先入観を持たない、即ち、心の貧しさを持っている人々であります。
 
パリサイ人や律法学者
 
人の前に尊大であり、神の前に、人よりも優れていることを誇るような人々であり、神を喜ばせるよりも、自尊を誇り、常に、教える立場にいるつもりで、優越感と自己満悦感に満たされて、ゆえに、救い主さえも殺すような者たちです。(一部に例外があります)
 
 
 
新共同訳において
聖書を安い道徳におとしめた罪:
 
マタイ5:28(口語訳)
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 
女 (口語訳)→ 人の妻(新共同訳):
 
 マタイ5:28は、道徳ではなく、
 神レベルの戒律であり、
 人には、誰も守れないゆえに、悔い改めが必要
 という、キリスト教の根幹となる教えです。
 
 神レベルの守れない教えを、
 不倫禁止だけの安い道徳に書き換えて、
 これなら守れるでしょ・・と得意がる罪。悪魔性とさえ感じる。
 
神を恐れる→神を畏れる。
 恐るべき神の前には瞬時に滅びても不思議のない人間の在り方を
 神の前に畏まる社交のエチケットに変質させる
 神と悪魔の区別もしばしば間違える人間の罪です。
 
いずれも
神と人の関係が何も分かっていない者の所業。決して小さくない罪です。
 
 
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、
祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって、独りで祈る心得は、
正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、
やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた、
神の下にある罪人であります。
 
そのような人間が、救いを求めるためには、
豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、
正しさでもなく、
ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすることが大切です。
 
その一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
尽きることのない希望を信じ仰ぐ姿勢

尽きることのない希望を信じ仰ぐ姿勢
 
 
(2022年10月17日)
 
 
 
  夢 Ⅱ
 
狭い道を歩いていた
古びた石の壁、細い溝に沿って
井戸があった
誰もいない家があった
一人か二人出会ったが
知らない人だった
入り組んだ路地を通り抜けると
また同じ道に出てしまう
何度も同じ道に。
誰かに会いたかったのだろう
愛しさに熱く泣きたかった
乾いた石の中で
のどが渇いた
 
水際の岩場で
人が撮ってくれた写真に
友人と私、
私と友人が写っていた
二組も三組も同じ写真に写っていた
さわやかな顔をしていた
どちらかの体が傾いて立っていた
懐かしかった
でも懐かしむほどの友人はいない
 
テーブルの上に
絵本が積み重ねられていた
今できたばかりと
作者が宣伝していた
瞬く間に売れていった
漫画のような絵本
コミカルな線が人を描いていた
曲線の巧みなデフォルメ
折れ線の細い危うさ
それらに囲まれた
白い未来 空白の飢餓
 
質素な食卓で食べた果実は
禁断の果実ではなかったか
苛立つ頭を巻き込んで
胸がやけ
後頭部に響く強い酸が上がってきた
塊が糸を引いて連なり
充血した眼で唾液を引きずり
胃の底まで吐き出してしまった
赤い実は溶けかかっていたが
子供の頃から知っているような気がした
森の中で見つけて眺めていた
今、火の内臓にしみこんでいく
血の流れを黒く染めながら
絶え入るばかりの罪の流れだった
聖なる嘔吐に清められたかった
暗い床の凹凸に伏していた
動物のように邪気もなく
信じられるものを求めていた
 
 
  排泄
 
折れた骨は
変形して固まっている
血も内部で冷えていく
わずかに臓器を残して
排泄する
老いてゆく自画像の裏で
手が動く
綴られなかった一日
読まれなかった行間見られなかった空間
排泄するために
欠けていく勾配
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった

人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省を「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという人間離れの詭弁で正当化しても、罪は罪として、地上でも、神の前でも、履歴が積み重なってゆきます。神の全能において、訂正不能に、神聖を侮り否定して悔いない罪は、救いが永遠であるように、裁きも永遠なのです。
 
 
 
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  個人カルトの惨状3
 
 
聖書の、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活を、声高に主張し、なくてはならないと信じている信仰?は、信仰ではないと思います。。いちばん大事なものに触れていないからです。神の意志と行為を決めつけて奇跡で守られると信じ込んでいるのは、シャロームshalom という偽善者と同じ所業です。
 
例えば、総ての人がシャロームの信条を信じたらどうなるかということを考えれば、自己中の妄想症であるシャロームの言説の矛盾と害毒から、明らかになることがあります。これらは、楽山と共通しています。妄想は、救いの中心にむしろ背くものですから、信仰にはなりません。
 
例えば、信仰は人それぞれ、というのは、聞こえはいいですが、信仰は好き勝手にやっていい、という意味で使って、批判を聞き入れないのが、シャロームです。それを黙認すれば、キリスト教を名乗るカルトが、好きなように蔓延るでしょう。ここも、楽山と共通しています。
 
どうなるかというと、偽牧師シャロームの言説は、自己中心ですから、広まれば広まるほど、自己中の人間が増えてきて、結局、憎み合う経過と結果になるでしょう。閾値を超えれば、暴力的な争いを生む必然があるのです。
 
シャロームは、真実の追求が出来ません。何故なら、既に、固定された真理を得ているつもりだからです。教える立場だけを持っていて、そこから、妄想教理を何度も垂れ流してきます。教える立場しか持ち得なくなって、学習と成長が出来なくなるのです。楽山も同じ性質です。
 
シャロームに、いつのまにか刷り込まれてゆけば、シャロームと同じように、丁寧であれば、いい人、ということを真似するようになるでしょう。シャロームのお仲間は、実に、他者のあしらいが似ています。それで、易坊、楽山が、お仲間ですが、同一人物の3者への成りすましを疑っています。
 
楽山と易坊は、自己中の所業を無視してシャロームの味方をするのです。裁判ではないのだから推定無罪が成立するわけではなく、証拠不十分は、どちらが正しいとも言えないはずなのに、シャロームの言い分を是として選ぶことが、既に、中立ではない偏向の証拠です。
 
ネットでは、どちらが正しいとも、はっきりした物的証拠は、見つからないことが多いのです。そういうわけで、カルト、荒らし、成りすまし、など、偽善者が、法的な犯罪に至らずに、活動しやすい環境だということです。
 
いい言葉、よさそうな言葉、といっても、ここでは、よさそうに見せかける言葉ですから、偽善者の言う言葉であり、中身がありません。非現実的であったり、深みがないと感じたり、言動が合ってないような気がするときや、ネットでの、いい行いが伴っていないときには、警戒するべきです。
 
シャロームや楽山など偽善者は、自尊に凝り固まっているので、反省をしません。失敗や失言などの非を認めません。指摘すると、当てつけや嫌がらせを返してきます。そうして、コメントを受け取らなくなり、批判記事は無視してきます。
 
シャロームや楽山などの偽善者は、神が与えた良心、つまり、良きものであるところの、思慮分別、人間的共感性、温もりと潤いという暖かい感性、悲しみのうちに反省する心など、人間らしいものを、病質と妄想教理のために持っていません。
 
聖書の言葉から神の導きを、人は推測しながら判断して進む信仰の道だということを、つまり、一気に悟りに至って固定する境地ではないことを、シャロームは、理解できません。そして、訂正不能の固定観念によって、新しい言葉を得ても、自分の言説に合うように使うため、少しも変わらないのです。
 
ゆえに、正常な人が感じて考えていることを無視して、自分で無理やり捏造するしかなくなり、自然の良心と、作為の捏造の違いとして、奇怪にズレて外れて芝居がかった和みと世辞と豪語に頼るしかなくなっているのです。そういう説教は、人間離れを勧めているので反信仰です。
 
心のどこを探しても信仰はない、とシャロームは言っていました。恐らく聖書の"土の器"という言葉を、何かすごい超常的で神秘的なものと受け取って、自分にはそれがあると自慢したいのでしょうが、嘘です。信仰は心に与えられます。人間らしい心の温もりと潤いのない人は、信仰を受け取れません。
 
楽山もシャロームも、心にある、地味で、目立たず、壊れやすい "土の器" という、信仰の器を持っていません。代わりに、派手で、目立ちたがり屋で、訂正不能で成長不能な、派手な飾りを、器だと自慢して、慢心して、修復不能になっているのです。
 
良心のある正常な人間は、人生に悲しい出来事が起こると、深刻に受け取らざるを得ないときには、悲しいから死ぬか、悲しいけど生きるか、という選択になります。しかし、心に温もりも潤いもない者は、他者のせいにして怒り恨むでしょう。アベルを殺したカインに、それを見ることが出来ます。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世記4:5-7、旧約聖書)
 
それらの作為の悪と偽善の醜さは、積み重ねられている途中であり、ますます、むごたらしい惨状を呈してくるでしょう。罪が門口に待ち伏せているからです。カインは、自らの不都合を他者のせいにしました。カインは、サイコパスの起源のようなモデルなのかもしれません。
 
 
人間が生きるためには、最低限の衣食住が必要ですが、それが何とかなっても、生きられるとは限りません。人間は、物質でもないし、理屈でもないし、統計の数でもないから、何かを宛がわれて、元気になるわけではありません。人間だからです。
 
人間が生きるために必要なのは、絶対孤独ではないことです。それが残っているあいだは生きるほうを選べるでしょう。人間関係がないと感じて絶対孤独に陥ると、必ず希死念慮は起こってきます。信仰は、人に見離されて、どんなに孤独でも、最後の砦として、キリストがおられることを告げています。
 
私にとって好ましい人間関係は、私の至らなさで、殆どなくなったのですが、私が、生きてみようと思い、今日一日のパンがあれば今日一日生きる、という気持ちで、生きているのは、信仰者である人間として、キリストとの関係という希望からだと思っています。
 
人間にとって、信仰、すなわち、神聖との関係は、人間の側から分かるのは、あくまでも、人間としての受け皿です。だから、人間に生きる力を与えうるのです。シャロームと楽山が典型ですが、超常のことばかり言う人を、信頼しないでください。
 
神聖との関係などと思い始めると、聖書の謎解きに走ったり、何ごとがあっても自分に都合の良いように恵みが与えられるんだとか、気合いで、ありがたがったりするような、信じ込む信仰?になります。それは、信仰ではなく、カルトと同じ思い込みの形式をベースとする間違った偽りです。
 
カルトと同じベースの信仰?は、悟り顔の、わざとらしい薄笑いや、いつのまにか、他人より自分は高いと潜在的に思い込んでしまいます。ゆえに、自尊や有頂天の陶酔になることはあっても、生きる力にならず、いかなる温もりも潤いも、みずみずしい気づきもないのです。
 
何故なら、私たちが、人間だからです。人間としての知性や情感、つまり、弱さや罪深さで反応できることだけが人間を救うのです。偉大な神が味方だからと、豪語ばかりしている人は、いちばん大事なことを、見失っている可能性が高いです。
 
人間の弱さと罪深さに寄り添って同伴してくれるのがキリストであり、正直な罪人を、飾りのない一人の人間として、二千年前に愛してくださった言行録が伝えられているのが聖書であり、キリストの同伴という聖書から得られる信仰の救いのメッセージです。
 
キリスト者(クリスチャン)というのは、キリスト・イエスに、情緒的にも、理性的にも、囚われているがゆえに、その絆(きずな)によって、自らを尊大とは成り得ない罪人として、キリストの同伴と罪の赦しと癒しと導きを願いながら、正直な祈りとともに、生きてゆく人間に他なりません。
 
決して、一気に悟って、揺るがない境地に居るのではなく、折々に反省し悔い改めて告白し、学習し修正し成長して行く生き方がキリスト信仰の生き方であります。揺るがない信仰というのは、固定ではなく、生きてゆくための忍耐力のことです。
 
キリスト者において、キリストの御名によって祈ることこそが、キリストの同伴を信仰することであり、あらゆる現実から見放されても、決して超常魔術のような一方的な理解不能の力頼みに逃げるのではなく、より人間的な温もりと潤いに恵まれて生きるのが、キリスト信仰です。
 
カルト的超常の豪語に惑わされないようにしてください。彼らは、人間でいるのが嫌で嫌でたまらなくて、超常の欲望を自らに当てはめるほうに短絡して、自己満悦しているに過ぎません。彼らは、人間離れと現実離れになりたがって、妄想世界に生きています。
 
だんだん、実際に人間らしさを失って、人を下に見るようになり、能力がないのに、信じ込んでしまったために、自身の過大な確信によって、むしろ、自らの無能と、超常の全能意識の間で、自他を破壊する道を選んでいる者たちであります。どうか近づかないでください。
 
救いのうち、超常現象は、神の偉大さを表す神聖の専権事項です。神に任せるしかないことです。人間が、ああだこうだと辻褄を合わせたり、信じ込んだりできることではありません。このことに、信仰の目覚として気づくことが必要不可欠です。人間らしい信仰者であり続けてください。
 
 
カルトの目指す果て

カルトの目指す果て
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年08月10日、再録+加筆)
 
 
 
 (ヨブ記より抜粋)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 ・・・
40:1
主はまたヨブに答えて言われた、
40:2
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
40:5
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ記より抜粋)
 
 
ヨブが、最終的に、神に救われたのは、この聖句のように、おのれを空しくして、そのままの自分を、正直に、神に捧げる態度を示したからです。それまでの実績も、富も、正しさも、善なる行為も、神の前には、意味をなしません。
 
祈りとは、一途に、神の前に、自分の罪と無力を "正直に" 認めることです。
 
神の前には、善悪でも正邪でもなく、"正直" だけが必要です。
 
神の前に "正直" でしかありえない人は、人の前で、完全な正直は難しくても、だますような作為の悪や偽善などの罪を犯すことは出来なくなります。信仰が、善悪や正邪と接するのは、この一点においてであり、信条・教理・教条によって固定されるものではありません。
 
人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思ってしたことが、相手を傷つける、ということも起こってきます。人間は、真善美の追求において、即ち、善を心掛け、真実と正しさを追求するときに、このことを承知していることが必要です。
 
つまり、このことは、絶対の神の前において、人間が、たとえ讃美であっても、真善美を豪語できないことの根拠であります。善悪と正邪の判断は、人間にとって、絶対ではなく、完全ではなく、不完全なのです。ゆえに、神の前に通用するのは、"正直さ" だけなのです。
 
キリストが敵としたのは、褒められることだけを悦び、批判されると憎しみをもって殺意をいだくような、そして、正直の代わりに、うわべの善と正義に酔い痴れているような、いわゆる偽善者であります。結局、そのような者たちが、救い主キリスト・イエスを、殺すことになるのです。
 
 
 
  (抜粋)
 
悲しみを悲しみとして受けとめれば、泣き怒り時には背教の念さえ抱く。そういう裸のありのままの姿の自分を見て神の前にさらけ出し認め自覚することによって隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることによって初めて耐えるという愛するためのきびしい忍耐の行為が生まれるのである。
 
何よりも神の前に正直であれ。疑いも正直に告白せよ。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白せよ。キリスト者はそのために祈りという情緒的で人間的な手段を与えられている。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を、そして義務を与えられている。
 
 
  祈り
 
父なる神よ
私はあなたに触れることの恐れのために
あなたを恐れます
あなたは火のように強く
私は火にかざした一本の髪の毛のように縮み上がり
それほど無力であるがためにあなたを恐れます
私は罪深く
私の知恵は乏しく
父なる神よ
あなたの御心ははかりがたく
それゆえに私はあなたを恐れます
罪の深さを知るほどにあなたを恐れるばかりです
私はやさしい父を呼ぶようには
あなたを呼べず
「私を見たものは神を見たのである」という主の御言葉にすがり
ただ主イエスキリストの御名にすがるのみです。アーメン。
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
  告白
 
人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを、逆に、福音として受けとめるほかはない。
 
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
  酒を飲む
 
久しぶりに酒を飲む
焼酎のジュース割り
夕食の残りで深夜の空腹を満たす
短い眠気と吐き気
アルコールは正直だ
かつてそれがセレモニーとも知らずに
正気を失って飲んで歌った
べらべらと喋りまくった笑った
アルコールは正直だった
量を越せば正気を失わせた
量を越せば吐き気や眠気を与えた
アルコールが正直だった分
翌日私は何事もなかったかのように
あれも一つの仕事でした
という顔をしなければならなかった
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる
 taka のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
引用マンガ(省略)のセリフ
「人生を変えようとする人を叩くのは
 人生を変えられない人だからな」
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 
批判してきた約3年余り、楽山は、発信はするが、何も受け取らず、人生を、浪費しているだけです。しかも、発信によって、害を及ぼすだけです。そういう無反省・無責任の人に、人生を良い方向に変えることなど出来ません。被害者意識だけで、ますます、悪性に変質してゆくだけの経過です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
宗教の教団に入信していないが、その言説が、カルトと同じ、単方向の訂正不能そして無反省であるのを、個人カルトと呼んでいます。また、無神論の記事を載せ、神を証明したら信じてやるなどという見当違いの雑言に賛同する者を無神教カルトと呼んでいます。楽山は両方に当てはまります。
 
 
 
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  神と人知3
 
 
超常への憧れから信仰者になった人は現実問題に向き合うことが苦手になるかもしれません。
現実問題に疲れた人が、何らかの機会を得て、信仰者になる場合には、信仰は、超常ではなく、キリストの愛と共感によって、心で受け取っていると思います。
 
超常信仰は、信仰を驚くべき神のわざとしてしか受け取っていないために、元々の関心が向いていないところの人間性を磨くということを怠りやすく、あるいは、キリストと救われた人々との共感ということに思い至らず、信仰に、超常のしるしを当てはめがちになるでしょう。
 
そういう人は、キリスト教系カルトにつながりやすいので、その人の身近にいるキリスト者が、説明~説得してゆく必要があります。一時の誤解にとどまらず、継続的な曲解になり固定されてゆくのは、カルトの方向です。
 
最も悪質なカルトは、元々、人間性が欠落しているので、超常を決めつけるしかない者たちです。例えば、キリストの奇跡や復活から信仰に入ってくる人は、キリストの人間への洞察や共感という言葉を聞いても、神の恵みを人知で扱おうとするのは不当だ、などと、考えやすくなります。
 
しかし、私たちには、人間性と人間の能力しかないのです。物や肉体の奇跡だけから信仰に入ることは、ありえないと知るべきです。つまり、人間は、人知しか持っていないわけですから、神の与えたものの中で、人知で理解可能なものだけしか、受け取れないはずなのです。
 
聖書には、これまで書いてきたように、人知で、人間性で、人間のふつうの知性と感性で、理解と共感が可能なことが、いっぱい書いてあります。
 
また、神学や哲学など学問的知識から信仰者になった人は、共感と言った情緒や感性的な側面について、苦手だったり、表現に不自由したりするかもしれません。
 
聖書から受け取ることはいちばん大切なことですが、聖書の解釈について、知識についても、思い込んではいけないことがあります。何より、聖書の教えこそが、聖書についての、人間の思い込みを戒めているのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
 
人によって解釈が違うところで正邪を語るなら、自己解釈正当化の言い張り合戦にしかなりません。解釈が違うということこそ、人の避けられない原罪であります。
 
大事なことは、神の前に、私たちは、神に比べれば、皆一人一人、厄介な罪人であり、何も、絶対に正しいなどとは言えないということです。
 
その根拠は、人は自らの言動の影響を、その影響がなくなる時と所まで、追うことなど出来ないということ。それは、風を追うような(捕らえるような)ものだからです。ゆえに、良かれと思って、傷つけるということが起きるのです。
 
ただ、その自覚をもって、神に、正直に祈ることだけが、神から、"信仰の義" を恵まれる条件であります。つまり、信仰と救いの条件は、正邪ではないのです。神の前の、精いっぱいの正直であります。そこまでしか、私たちは、神に捧げることは出来ないのです。
 
偽キリスト者や、カルトは、必ず、神の前に、嘘と飾りを捧げます。
 
私たちは、神の前で生きているということです。そして、神に向かって祈るということです。そこで、神とは違う人としての身の程を弁えないならば、信仰は成り立ちません。
 
言葉だけ丁寧な尊敬語を使っても、頻りに讃美の言葉を弄しても、人に、思い込んでいることがあれば、神は、それを、総て、見抜いておられます。信仰について、神聖について、人の思い込みは、偶像と成りえます。
 
パリサイ人は、そういう決めつけの思い込みで満たされていたので、キリストの言葉を聞き入れませんでした。同じようなことは、今の、特にキリスト教や、キリスト教系のカルトで起こっています。
 
しかし、カルトではない伝統的なキリスト教の教派なら心配ないかと言えば、決して、例外ではないと申し上げます。何故なら、それは、人の性質、特に、罪の性質が、そうさせるように出来ているからです。罪の性質を警戒しないで、安心の境地にいるつもりの人は、要注意なのです。
 
人は、安心したがります。そのために受け取った良いことを固定したがります。それを、揺るがない信仰などと言いたがります。実際は、思い込みを固定するようになります。思いこみは、心の中の偶像になります。
 
むしろ、そういう偶像については、人間は、持っているもんだという自覚を持つことが、罪の性質を自覚することにつながるでしょう。心の中の偶像は、目に見える偶像のようには、排除したことを確認することが難しいものだからです。目に見えないものは、いつも、確認しにくく出来ています。
 
何かを、信仰について、判断し、実行はしても、御心を思い込んではいけません。神の御心は測りがたいものです。そして、神聖に対する思いこみを防ぐためのヒントがないわけではありません。
 
思い込みはいけないと言われても、ときには、強く思うことが必要です。しかし、強く思うことと、思い込みは違います。強く思うことには、強く思う動機があります。しかし、思い込みには、圧力はあっても、大方、心を動かす動機のない教条的なものが含まれています。
 
「神は、こう思っているに違いない」とか「神はこうなさるに違いない」とかを、人に言いたくなるような場合、同じことを、神の前に、キリスト・イエスの御名によって、神に向かって、そのまま言えるかどうかを、まず、考えてください。そうすれば、大方、恐れ多いことに気づくでしょう。
 
正常な祈りは、私はこう思っているのですが云々、とか、私はこうしようと思っています、という言い方にしかならないのです。それを、神を恐れるところの、敬虔といいます。
 
また、神聖に関わることで、自分が思うことの正しさについて、自分が感動という心の動きを自覚しているかどうか、というを考えてみてもよいでしょう。
 
思いこみは、誇大的であったり、陶酔気分であったりはしますが、大方、本当の心の感動を伴っていません。思いこみは、大方、退屈で、ときには、教条的な強迫観念となっていることもあります。ちなみに、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、固定しているのではありません。
 
それに、前から言っているように、信仰は、神と人の双方向であります。そのために、祈りがあります。信仰のもたらす平安は、人の活性のある心において起こる現象であって、不変の悟りの境地ではありません。
 
ゆえに、平安は、安らぎとともに、情熱を与えます。それが忍耐強さにつながります。それらは、多く、祈りに答えて与えられます。
 
神は、人知を超えたことをなさるかもしれません。しかし、神は、人間に対しては、人知、言い換えれば、人間の心に働きかけ、人間の心を導きます。
 
ここで、人知は、知識と思考だけではありません。人知といえば、思考とか知性とかいうと論理を思うかもしれませんが、知・情・意は、人間において一体であり、独立してはいません。
 
 
キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)は、神のもとにあって、神よりも劣る不完全な存在つまり罪人であること、ゆえに、神からの、赦し、癒し、救い、導きを必要としていることを、神の前に、認めた人であります。したがって、神と人の決定的な違いを弁えているはずです。
 
そのキリスト者が、神聖について、思い込んでいたら、信仰が成り立たないのは当然のことです。思いこみは、あらゆる正しいと思われることに及びます。教理や信条という、一般に正しいと認められたことも、その言葉だけによって心を固定することは思い込みの一種であります。
 
心と言葉は、いつも一体であるとは限りません。聖書を読んだからといって、人の持つ言葉は、神の言葉と、いつも同一とは限りません。その原因は、ひとえに、人間が不完全だからです。
 
一つの言葉が、いつも、一つの心と同一とは限らないということです。変質したり、尾ひれがつくことがあるということです。一つの言葉が、心を動かしても、別の時には、動かさないか、違う作用になっていることもあります。
 
聖句は、同じ言葉だととしても、受け取り側の人の器は、安定しているわけではないのです。心は絶えず動いているものです。ゆえに、理解を新たにする、という成長もありうるわけです。心は固定できません。無理して固定しようとすると壊れてゆくかもしれません。
 
心が活発に動くことで、人間は、生きているのであり、成長もするのです。成長に必要なことは、反省すること、そして、修正可能であることです。新たな感動が待っている可能性があるわけですから訂正不能にしないこと、学習と成長を、積極的に望み、かつ、努めることです。
 
これらの信仰の弁えは、人間の、欲望、特に、完全欲とは対立することが多いので、自発的に積極的に意識することが必要です。キリスト信仰の学習や修養は、ここにあるのでしょう。ゆえに、信仰は、不変の境地ではなく、努力と再生の、生きている間ずっと続く道です。道ゆえに成長が可能なのです。
 
 
学習と成長 道

学習と成長 道
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月24日、再録+加筆)
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  新しく古く
 
新しいことが鮮やかだとは限らない
陰で傷むこと
人知れず壊れること
死ぬことであるかもしれない
しかし新しいことに変わりはない
古さに戻ることはないのだ
古いことが温められているとは限らない
並んで咲く花壇もなく
捨て去るための焼き場もなくて
行方知れずだったり
行方をたずねるすべもないまま
たとえどんなに変わり果てても
虚名と無名の湖の底に
しかし時折今の水面に唐突に波を立て
驚くときすでに沈みゆく
もはや手の届かない
深い深い澱(おり)の中に
せめて驚く前に目を留められたら
次々に古くなってゆく
新しさに沈められる前に
 
 
  人知の支配
 
そこに立てば
すべてを見渡せるという
高い高い山の頂に
太陽に向かって
王はしっかりと立っていた
自らの統(す)べる国を見るために
眼下の町から遠い山と海
澄み切った絶景である
しかし王は不安だ
これがすべてか
振り返ると陽光に照らされ
鮮明に写し出された自らの影に
大地を踏んでいる足の底の影がない
すべてを望む強者は満足しない
後ろを向き足を上げてみる
最後には思い切り両足で跳び上がった
全身の影が鮮やかに浮かび上がった
そして崖から落ちていった
どんなに強くても高くても
人知の及ばぬものがある
すぐ足下(あしもと)にさえ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
思い出したけど、棒氏は、とある信者さんから注意されたときに、その人のことを信者じゃないと決め付けてたのだった。
そのときのことから思うと、棒氏の発言はこのように修正すべきかも。
×「アンチは否定と反対しかしない」
○「私のことを否定、反対するのは、アンチだ」
2022年6月22日
 
内容も根拠も書かずに決めつけているのは楽山のほうです。楽山は、信者でも、アンチでもありません。賛成反対を述べるだけの理路も感性も持っていないからです。人のことばかり好きなように批評しますが、自らを振り返ることが出来ません。楽山の発言は、結局、何の糧にもなりません。
 
楽山は、他者への否定も肯定も、決めつけるか、婉曲的に言って、責任だけは一切負わない人です。今になっても何か評論めいた意見を述べようとするのは人格障害だからです。楽山は、自らへの批判者をストーカーと決めつけてくるだけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
楽山は、自らの欠点と病気と病理を自覚できない人です。都合の悪いことは、全部、人のせいにします。議論など全然成り立たないこと、こちらは経験済みです。楽山は、実際には、否定も肯定も出来ないくらい思考が不全の人です。だから、人のことばかり言うのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「アンチには正論が通じない」と相手を責めるのではなく、まず自らの中を省みて、誠を尽くせているか反省することが大事だと思います。
2022年6月22日
 
「誠を尽くせているか反省することが大事」・・このことに、いちばん背いているのが、楽山です。まことに、楽山は、言論の自由を勝手に楽しみながら責任を負わず、言論の権利を行使しながら義務を果たしていないことが明らかです。またしても、自分の言葉に斬られている楽山です。不治のようです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「そもそもアンチ氏達は「否定と反対」しかしません。」に対して
これは間違いです。
私は、まともなことを言う信者さんには、普通に賛成しますので。
他のアンチ氏も同じでしょう。
2022年6月22日
 
楽山は、まともなことを言ったことがありません。まともなように見えても、持続しているのは自己満悦のベースだけです。さらに、自分が言ったことについて責任を負わず、覚えてもいないようです。根底にあるのが自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質だからでしょう。
 
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mm
@masakimuro
《KKことHSがカルト宗教だと言える理由》最初は、愛、知、反省、発展、それから正しき心の探求というのをキーワードとして入信させ、いざ学んでいったら『霊』のことばかり言ってくる。人生は霊によって支配されていると思い込ませる。人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体
午後2:24 · 2021年5月30日·Twitter for Android
https://twitter.com/masakimuro/status/1398872979937775618
 
リツイートの引用元を批判する気はありません。批判対象は、楽山です。
 
楽山は、いつまで、善人に成りすます嘘で恥をさらせば気が済むのだろう。何も考えないのだろうか。何も感じないのだろうか。
 
楽山が自己愛性人格障害(NPD)だと言えるのは、思いやり、深い思慮、反省力、責任感、学習と成長、こう言ったものが、全く見られない自己中からです。そして、楽山ブログの記事は、多く「『霊』のこと」を、宗教や信仰と混同して、刷り込んでくる無知、そして、無恥です。
 
楽山は、言葉の概念の表層だけを並べて、一見、論理的に見せかけて、人を、だましています。本当の理路を求めている人は、反省力があり、修正能力も高く、かつ、実質において、柔和で、決めつけることのない視野を持っているので、よく成長して知識が豊富なのです。楽山は、逆です。
 
「人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体」・・そして、嘘と詭弁しか身に着けていない楽山の正体であり、反宗教と、楽山の自己中ボンヤリ鈍麻思想を、刷り込んできます。楽山は、HSアンチではなく、自家製カルト思想で自己満悦を得るために、人を、だまします。
 
楽山は、リツイートや引用で、人の口を利用して、柔和な味方であることをアピールしてきますが、実際は、とんでもない自己中であり煽動屋であり詭弁屋であり、平気で嘘を吐く人です。楽山の言を真に受けないでください、丁寧語に、だまされないでください。約2年間、批判しています。
 
楽山には、深い情緒的な共感性がありません。だから、罪悪感を持ちえず平気で、嘘を吐けるのです。こちらも、楽山の気持ちを知ろうなどと思ってはいけません。批判する人には、楽山に対して、けっして感情移入せず、乾燥遺物を見るようなスタンスが必要です。楽山は紙屑の資料です。
 
楽山は、つぶやくだけならいいだろう、と軽く考えているかもしれないが、性根や魂胆というものは、自分の書いた文章のみならず、どういう本を読み、どういうツイートを読み、どういうことを引用するか、どういうツイートをリツイートするか、ということにも、良し悪しが表れてくるものです。
 
都合がよいと思ったら、あとさき考えずに、引用・リツイートするというのは、楽山の場合、以前から、やってきたことですし、表面的に善を表す都合のよいこと、でなければ、相手に都合が悪いこととを、引用して、弁明できない腹いせにしたり、悪口の代用にするということです。
 
引用だから、リツイートだから、責任はない、ということでは決してないのです。無反省・無責任の楽山は、そういうことも、分かっていないことが明らかになっています。これからも、病識も罪悪感もない楽山は、自らの程度の低劣さと邪悪さを、平気で、見せてくるのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
無神教カルトの思い込みには、書き方が丁寧であるかに関わらず、上から目線が働いています。関わっているうちに、訂正不能の高慢が明らかになってきます。特に、言い訳がましい筆致や、同じ前提の繰り返しや、拡大解釈や、無理な関連付けなどがあり、彼らの自己正当化には根拠がありません。
 
最も邪悪な者たちは、邪悪だと分かるような乱暴な口を利かず、大方、丁寧語を使って、ときには弱さを気取った芝居で同情を引き寄せて受け入れさせようとするのです。実際には、反省という言葉を言われても、実際に全く反省をしないままだということをもって、彼らを否定するしかありません。
 
 
 
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 悲しみについて
 
 
悲しみを
楽しいことで打ち消すと
悲しみは消えるのではなく
心に潜伏するかもしれません。
 
悲しみを
心の履歴書の一頁としてください。
それが出来れば悲しみは
人生の履歴の記録になるでしょう。
 
悲しみは
隠したり抑え込んでしまうと
見えない傷として残ります。
 
悲しみは
無視するのではなく
無かったことにするのではなく
克服の記録として残すことで
思い出しても記録ならば
距離を置けるかもしれません。
 
脅しや恐怖と違って
 
悲しみは、成長の機会です。
 
 
 
  脅し?(再)2
 
 
宗教が
あるいは宗教を利用して人が
人を脅すというのは
例えば
このままでは大変なことになりますよ
といった恐怖と脅迫と強迫の文言で
カルトにおいて
おこなわれることだろう。
 
信仰において
人が人を脅すのではなく
神が人を脅すのでもなく
 
人は神を恐れるべきである
というのは
全知全能の御方と信じた神への
キリスト信仰の主軸であります。
 
 
信仰者は人間であり
明らかに全知全能ではなく
神に比べて
はるかに劣った存在であるから
神と人の関係を語る上で
神が上で、人が下
という節操を持たなければいけません。
 
神は、やさしい仙人みたいなお爺さんではありません。
 
悪口と同じ扱いで
キリスト教的な?批判禁忌をもって
批判されると
人が人を脅してはいけない
などと言ってくるのが偽善者です。
 
同じように
神についての疑いを
それは言ってはいけないと
威すのも同様です。
 
脅しは、悲しみではなく、邪悪な牙でしかありません。
悲しみに、脅しを当てる宗教は、カルトです。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)
4:25
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 
4:26
怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
4:27
また、悪魔に機会を与えてはいけない。 
4:28
盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。
4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
4:30
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 
4:31
すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
 (エペソ4:25-32、新約聖書)
 
 
真実を語りなさい、ということから、真実を求めることの大切さを伝えています。
怒ることがあっても罪を犯してはならない・・ということから、復讐という恨みに基づく行為を戒めています。
 
悪い言葉を口から出してはいけない、というのは、悪意だけによる言葉、悪口だけを語ることを戒めています。批判は、相手の悪を指摘することです。怒りはコントロールすることが大事なのであって、悪を見ても怒らないようになってしまうのは、心の鈍麻と破壊であり、同時に、これこそ、偽善なのです。
 
悪口だけを言うこと、嫌がらせを言うこと、当てつけること、ケチを付けること、これらは、批判とは全く別物で、悪意だけの産物です。これを同質であるかのように言って、偽善者は、逆に、自分が批判されているにもかかわらず、批判禁忌をもって、おとしめてくるのです。
 
聖霊の証印は、人が、その凡庸なる善意によって、いちいち確かめることはできません。即ち、人は、その凡庸なる善意によって、批判禁忌を定めることは出来ません。つまり、結果を神に任せる信仰があれば、批判は禁忌ではないのです。批判禁忌は、むしろ、信仰を偽善化する悪口です。
 
パウロが言っているのは、一切の悪意を捨て去ることは、恒常的には、不可能と、痛いほど知っているからでしょう。背教の裏切りは、一度だけではない、ゆえに、悪意に支配されてはいけないと言っています。いけない、という説教であって、これを、戒律と受け取ってはいけません。
 
情け深く、あわれみ深いものとなり、互いにゆるし合う、これは、理想です。パウロの愛の賛歌と同じであって、それを否定形にしたものが、現実の有り様であることを忘れてはいけません。
 
聖書には、愛の賛歌をはじめとして、理想を述べられているところが多々あります。
理想は求めるべきですが、
当為(「べき」の付くこと)と事実を、区別してください。
すなわち、理想と現実を区別してください。
 
キリスト信仰は、善に、特に、自らの善に、のぼせ上がることではありません。キリスト信仰は、陶酔気分を与える信仰ではありません。のぼせ上がって高みから物を言う偽善者の口車に乗ってはなりませんし、自らが口車になってもいけません。
 
 
まず批判が脅しと違うのは
根拠と理由があって否定するということであり
 
批判対象が
神を恐れない言動であるという根拠を示して
指摘するにあたって
遠慮してはいけないということです。
 
人が人を批判してはいけないなら
このことは
人を批判する人を批判してもいけなくなり、矛盾します。
 
人が人に間違いを指摘しなくなったら悪がはびこります。
批判禁忌は、不完全な人から学習と成長を奪い、停滞と無関心へ誘う偽善です。
同時に、悪をはびこらせ、悪を放置して、実際には許容する罪でもあります。
 
今のキリスト教内外には、批判されないカルトとカルト思想が蔓延っています。
批判禁忌という偽善は、カルトが喜んで批判者に向ける常套手段です。
 
人が人を批判しなくなって
神への恐れを言わなくなっても
神は人を叱って脅してくださるか
というと
言うまでもないが
神はひょいひょい顕れて
いちいち手取り足取り
人を脅したり怒鳴ったり戒めたりはして下さらないのです。
 
 
現象としては
私たちは沈黙の神しか知りませんし
それで神を知ったと思ってはいけないでしょう。
 
神は恐るべき御方であり
悪魔が優しそうに誘惑してくるなら
一見、悪魔のほうが付き合いやすく見えることもあるでしょう。
私たちには神と悪魔の区別もなかなか出来はしないのです。
 
起こった現象の
どれが神の意志で
どれが神に逆らう意志であるか
神は、いちいち正解を教えて説明してはくださらない。
これが地上に表れる基本的な現象です。
 
神と人の関係において
神は、人が恐れるべき存在
ということが信仰の主軸であるから
人が信仰を伝えるときには
この関係も伝えなければならない。
 
批判を禁忌とすることは学習と成長を拒むことです。
誰もが批判せよということではなく
意欲があって批判する人を
批判ゆえに罪に定めるのは間違っているということです。
それこそ、逆に、人が人を裁く行為なのです。
 
やさしい神を慕うだけでは信仰になりません。
自分が負うべき使命を考える時を持ちましょう。
 
戒め懲らしめる神を恐れるならば
神を恐れないで嘘を吐く者たちを受容してはいけないのです。
 
これを私は
信仰の節操あるいは弁えと呼んでいます。
 
神よりも劣っていて
不完全で罪深い私たち人間は
直接、神に談判することなど出来ない存在です。
 
神を
どこかにいる徳の高い優しいオジサン
と同じように思ってはいけない。
 
全知全能の神に対して
ご機嫌取りの讃美や
世辞の誉め言葉や丁寧さは通用しない。
 
正直さ以外は何も通用しないのが神であります。
 
これが神への恐れであり
恐れると書いていたものを
「畏れる」などと書き替えてはいけない理由です。
 
 
その恐るべき神に祈るときには
愛のために命を惜しまない救い主
イエス・キリストの御名を通して祈ります。
 
キリストにおいて成就された救いとは
人への愛と共感と同伴であり
神への執り成しであります。
 
したがって
神の前に不正直や
ましてや故意に嘘を吐くことは赦されないが
 
神の前に
あるとき隠したり嘘を吐いたりしても
別のときに罪を認め、悔い改める者を
神は見捨てたままにはしないし
その機会は一生を通して与えられています。
 
そこに神の
人の正直さに対する限りない寛容さが表れています。
 
神は人に対して
真善美の高みに立つことを求めるのではなく
つまり善悪の善を条件とはせず戒律ともせず
 
神の前に努めて正直であることのみをもって
神が人を救うということが
キリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛であり
キリスト信仰の芯となっています。
 
 
聖書を読んで
神に祈るとき
努めて正直であろうとする誠実な信仰があるならば
人の前でも
だますような白々しい悪意の嘘は吐けなくなる
ということをもって
神への正直な告白の祈りが前提であれば
神のほうを向く生き方は
悪ではなく、もちろん偽善でもなく、
真善美の方向に
完成はしないものの
導かれるだろうということです。
 
信仰は、キリストからの共感に、キリストへの共感を返すことです。
 
つまり、真善美は目標ではなく経過~結果に過ぎず、
 
つまり、信仰は、キリストを通して、神の前での、祈りの、正直さであります。
 
 
悲しみは、克服を通して、痛みから記録になってゆきます。
 
悲しみは成長のためにあります。
 
脅しは束縛のために利用されます。
 
 
悲しみは成長の機会

悲しみは成長の機会
 
 
(2019年)(2020年)
(2022年06月20日、再録+加筆))
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
  落ち込み
 
先の目処がない
見通しがない、見込みがない
人生の先に
何も見ることができない者が
見ているものは何なのでしょう
 
本当に落ち込んでいるときに
楽しい歌を聴くとよけい落ち込んでしまうもの
むしろまず悲しい歌でも聴いて
涙が湧いてくるような気持ちになって
気持ちが少し落ち着いてから
充分に休んだのち
少しずつ体を動かしたり楽しい歌を聞いた方がよいのです
 
軽い落ち込みなら元気づけでもよくなるでしょうが
本当の落ち込みは緊張と不安を伴っていて
こころゆくまで泣くことさえできないもの
だから涙の有無にかかわらず
十分な「泣き」を通して初めて
安らぎに似たものが生まれるのです
 
悲しい人
どうか ゆるされて
こころゆくまで
力が全部抜けてしまうまで
泣けますように
 
横たわる
この身の中にせせらぎの
川の流れを聞かしめたまえ
 
うなだれて
見つめる先とて無けれども
目には潤う微かな温み
 
諦めも青き炎か
見つめては
心の底の残り火にさす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、しんみり悲しむという情がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)やサイコパスの特徴です。だから、言葉だけ、トホホ、などと書いてきます。言葉のうわべだけを追っても、そこに真実が得られないので、嘘と詭弁の細工に走るのでしょう。
 
ヤフーブログでの数か月の楽山との遣り取りの経験から申し上げますが、楽山は、こちらの言い分を全く理解せず受け取らず、反省もしません。そして、テーマと似て非なる迷路に誘導して混乱させてきます。何の糧(かて)にもならず異常な疲労だけを与えるのが、楽山の議論の処世術です。
 
楽山の言は、放射性の灰のようなものです。遣り取りを続ければ、放射能のように残留し、心は、灰をかぶって思考も感性も鈍くなり、気づかないうちに、反応性が低下して、似たような嘘と詭弁に逃げるようになったり、人格が壊れてゆく恐れがあります。楽山との遣り取りは精神衛生上、禁忌です。
 
どんなに、もっともらしく思えても、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由を認めてはいけません。言論の義務を弁えず、嘘と詭弁で飾り、迷路で混乱させる楽山に、言論の権利を認めてはいけません。柔和と中立に見せかける楽山の欺瞞に満ちた言論は、いかなる場合も信頼度はゼロです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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