ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:カルト

 
  神と人知3
 
 
超常への憧れから信仰者になった人は現実問題に向き合うことが苦手になるかもしれません。
現実問題に疲れた人が、何らかの機会を得て、信仰者になる場合には、信仰は、超常ではなく、キリストの愛と共感によって、心で受け取っていると思います。
 
超常信仰は、信仰を驚くべき神のわざとしてしか受け取っていないために、元々の関心が向いていないところの人間性を磨くということを怠りやすく、あるいは、キリストと救われた人々との共感ということに思い至らず、信仰に、超常のしるしを当てはめがちになるでしょう。
 
そういう人は、キリスト教系カルトにつながりやすいので、その人の身近にいるキリスト者が、説明~説得してゆく必要があります。一時の誤解にとどまらず、継続的な曲解になり固定されてゆくのは、カルトの方向です。
 
最も悪質なカルトは、元々、人間性が欠落しているので、超常を決めつけるしかない者たちです。例えば、キリストの奇跡や復活から信仰に入ってくる人は、キリストの人間への洞察や共感という言葉を聞いても、神の恵みを人知で扱おうとするのは不当だ、などと、考えやすくなります。
 
しかし、私たちには、人間性と人間の能力しかないのです。物や肉体の奇跡だけから信仰に入ることは、ありえないと知るべきです。つまり、人間は、人知しか持っていないわけですから、神の与えたものの中で、人知で理解可能なものだけしか、受け取れないはずなのです。
 
聖書には、これまで書いてきたように、人知で、人間性で、人間のふつうの知性と感性で、理解と共感が可能なことが、いっぱい書いてあります。
 
また、神学や哲学など学問的知識から信仰者になった人は、共感と言った情緒や感性的な側面について、苦手だったり、表現に不自由したりするかもしれません。
 
聖書から受け取ることはいちばん大切なことですが、聖書の解釈について、知識についても、思い込んではいけないことがあります。何より、聖書の教えこそが、聖書についての、人間の思い込みを戒めているのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
 
人によって解釈が違うところで正邪を語るなら、自己解釈正当化の言い張り合戦にしかなりません。解釈が違うということこそ、人の避けられない原罪であります。
 
大事なことは、神の前に、私たちは、神に比べれば、皆一人一人、厄介な罪人であり、何も、絶対に正しいなどとは言えないということです。
 
その根拠は、人は自らの言動の影響を、その影響がなくなる時と所まで、追うことなど出来ないということ。それは、風を追うような(捕らえるような)ものだからです。ゆえに、良かれと思って、傷つけるということが起きるのです。
 
ただ、その自覚をもって、神に、正直に祈ることだけが、神から、"信仰の義" を恵まれる条件であります。つまり、信仰と救いの条件は、正邪ではないのです。神の前の、精いっぱいの正直であります。そこまでしか、私たちは、神に捧げることは出来ないのです。
 
偽キリスト者や、カルトは、必ず、神の前に、嘘と飾りを捧げます。
 
私たちは、神の前で生きているということです。そして、神に向かって祈るということです。そこで、神とは違う人としての身の程を弁えないならば、信仰は成り立ちません。
 
言葉だけ丁寧な尊敬語を使っても、頻りに讃美の言葉を弄しても、人に、思い込んでいることがあれば、神は、それを、総て、見抜いておられます。信仰について、神聖について、人の思い込みは、偶像と成りえます。
 
パリサイ人は、そういう決めつけの思い込みで満たされていたので、キリストの言葉を聞き入れませんでした。同じようなことは、今の、特にキリスト教や、キリスト教系のカルトで起こっています。
 
しかし、カルトではない伝統的なキリスト教の教派なら心配ないかと言えば、決して、例外ではないと申し上げます。何故なら、それは、人の性質、特に、罪の性質が、そうさせるように出来ているからです。罪の性質を警戒しないで、安心の境地にいるつもりの人は、要注意なのです。
 
人は、安心したがります。そのために受け取った良いことを固定したがります。それを、揺るがない信仰などと言いたがります。実際は、思い込みを固定するようになります。思いこみは、心の中の偶像になります。
 
むしろ、そういう偶像については、人間は、持っているもんだという自覚を持つことが、罪の性質を自覚することにつながるでしょう。心の中の偶像は、目に見える偶像のようには、排除したことを確認することが難しいものだからです。目に見えないものは、いつも、確認しにくく出来ています。
 
何かを、信仰について、判断し、実行はしても、御心を思い込んではいけません。神の御心は測りがたいものです。そして、神聖に対する思いこみを防ぐためのヒントがないわけではありません。
 
思い込みはいけないと言われても、ときには、強く思うことが必要です。しかし、強く思うことと、思い込みは違います。強く思うことには、強く思う動機があります。しかし、思い込みには、圧力はあっても、大方、心を動かす動機のない教条的なものが含まれています。
 
「神は、こう思っているに違いない」とか「神はこうなさるに違いない」とかを、人に言いたくなるような場合、同じことを、神の前に、キリスト・イエスの御名によって、神に向かって、そのまま言えるかどうかを、まず、考えてください。そうすれば、大方、恐れ多いことに気づくでしょう。
 
正常な祈りは、私はこう思っているのですが云々、とか、私はこうしようと思っています、という言い方にしかならないのです。それを、神を恐れるところの、敬虔といいます。
 
また、神聖に関わることで、自分が思うことの正しさについて、自分が感動という心の動きを自覚しているかどうか、というを考えてみてもよいでしょう。
 
思いこみは、誇大的であったり、陶酔気分であったりはしますが、大方、本当の心の感動を伴っていません。思いこみは、大方、退屈で、ときには、教条的な強迫観念となっていることもあります。ちなみに、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、固定しているのではありません。
 
それに、前から言っているように、信仰は、神と人の双方向であります。そのために、祈りがあります。信仰のもたらす平安は、人の活性のある心において起こる現象であって、不変の悟りの境地ではありません。
 
ゆえに、平安は、安らぎとともに、情熱を与えます。それが忍耐強さにつながります。それらは、多く、祈りに答えて与えられます。
 
神は、人知を超えたことをなさるかもしれません。しかし、神は、人間に対しては、人知、言い換えれば、人間の心に働きかけ、人間の心を導きます。
 
ここで、人知は、知識と思考だけではありません。人知といえば、思考とか知性とかいうと論理を思うかもしれませんが、知・情・意は、人間において一体であり、独立してはいません。
 
 
キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)は、神のもとにあって、神よりも劣る不完全な存在つまり罪人であること、ゆえに、神からの、赦し、癒し、救い、導きを必要としていることを、神の前に、認めた人であります。したがって、神と人の決定的な違いを弁えているはずです。
 
そのキリスト者が、神聖について、思い込んでいたら、信仰が成り立たないのは当然のことです。思いこみは、あらゆる正しいと思われることに及びます。教理や信条という、一般に正しいと認められたことも、その言葉だけによって心を固定することは思い込みの一種であります。
 
心と言葉は、いつも一体であるとは限りません。聖書を読んだからといって、人の持つ言葉は、神の言葉と、いつも同一とは限りません。その原因は、ひとえに、人間が不完全だからです。
 
一つの言葉が、いつも、一つの心と同一とは限らないということです。変質したり、尾ひれがつくことがあるということです。一つの言葉が、心を動かしても、別の時には、動かさないか、違う作用になっていることもあります。
 
聖句は、同じ言葉だととしても、受け取り側の人の器は、安定しているわけではないのです。心は絶えず動いているものです。ゆえに、理解を新たにする、という成長もありうるわけです。心は固定できません。無理して固定しようとすると壊れてゆくかもしれません。
 
心が活発に動くことで、人間は、生きているのであり、成長もするのです。成長に必要なことは、反省すること、そして、修正可能であることです。新たな感動が待っている可能性があるわけですから訂正不能にしないこと、学習と成長を、積極的に望み、かつ、努めることです。
 
これらの信仰の弁えは、人間の、欲望、特に、完全欲とは対立することが多いので、自発的に積極的に意識することが必要です。キリスト信仰の学習や修養は、ここにあるのでしょう。ゆえに、信仰は、不変の境地ではなく、努力と再生の、生きている間ずっと続く道です。道ゆえに成長が可能なのです。
 
 
学習と成長 道

学習と成長 道
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月24日、再録+加筆)
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  新しく古く
 
新しいことが鮮やかだとは限らない
陰で傷むこと
人知れず壊れること
死ぬことであるかもしれない
しかし新しいことに変わりはない
古さに戻ることはないのだ
古いことが温められているとは限らない
並んで咲く花壇もなく
捨て去るための焼き場もなくて
行方知れずだったり
行方をたずねるすべもないまま
たとえどんなに変わり果てても
虚名と無名の湖の底に
しかし時折今の水面に唐突に波を立て
驚くときすでに沈みゆく
もはや手の届かない
深い深い澱(おり)の中に
せめて驚く前に目を留められたら
次々に古くなってゆく
新しさに沈められる前に
 
 
  人知の支配
 
そこに立てば
すべてを見渡せるという
高い高い山の頂に
太陽に向かって
王はしっかりと立っていた
自らの統(す)べる国を見るために
眼下の町から遠い山と海
澄み切った絶景である
しかし王は不安だ
これがすべてか
振り返ると陽光に照らされ
鮮明に写し出された自らの影に
大地を踏んでいる足の底の影がない
すべてを望む強者は満足しない
後ろを向き足を上げてみる
最後には思い切り両足で跳び上がった
全身の影が鮮やかに浮かび上がった
そして崖から落ちていった
どんなに強くても高くても
人知の及ばぬものがある
すぐ足下(あしもと)にさえ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
思い出したけど、棒氏は、とある信者さんから注意されたときに、その人のことを信者じゃないと決め付けてたのだった。
そのときのことから思うと、棒氏の発言はこのように修正すべきかも。
×「アンチは否定と反対しかしない」
○「私のことを否定、反対するのは、アンチだ」
2022年6月22日
 
内容も根拠も書かずに決めつけているのは楽山のほうです。楽山は、信者でも、アンチでもありません。賛成反対を述べるだけの理路も感性も持っていないからです。人のことばかり好きなように批評しますが、自らを振り返ることが出来ません。楽山の発言は、結局、何の糧にもなりません。
 
楽山は、他者への否定も肯定も、決めつけるか、婉曲的に言って、責任だけは一切負わない人です。今になっても何か評論めいた意見を述べようとするのは人格障害だからです。楽山は、自らへの批判者をストーカーと決めつけてくるだけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
楽山は、自らの欠点と病気と病理を自覚できない人です。都合の悪いことは、全部、人のせいにします。議論など全然成り立たないこと、こちらは経験済みです。楽山は、実際には、否定も肯定も出来ないくらい思考が不全の人です。だから、人のことばかり言うのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「アンチには正論が通じない」と相手を責めるのではなく、まず自らの中を省みて、誠を尽くせているか反省することが大事だと思います。
2022年6月22日
 
「誠を尽くせているか反省することが大事」・・このことに、いちばん背いているのが、楽山です。まことに、楽山は、言論の自由を勝手に楽しみながら責任を負わず、言論の権利を行使しながら義務を果たしていないことが明らかです。またしても、自分の言葉に斬られている楽山です。不治のようです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「そもそもアンチ氏達は「否定と反対」しかしません。」に対して
これは間違いです。
私は、まともなことを言う信者さんには、普通に賛成しますので。
他のアンチ氏も同じでしょう。
2022年6月22日
 
楽山は、まともなことを言ったことがありません。まともなように見えても、持続しているのは自己満悦のベースだけです。さらに、自分が言ったことについて責任を負わず、覚えてもいないようです。根底にあるのが自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質だからでしょう。
 
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mm
@masakimuro
《KKことHSがカルト宗教だと言える理由》最初は、愛、知、反省、発展、それから正しき心の探求というのをキーワードとして入信させ、いざ学んでいったら『霊』のことばかり言ってくる。人生は霊によって支配されていると思い込ませる。人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体
午後2:24 · 2021年5月30日·Twitter for Android
https://twitter.com/masakimuro/status/1398872979937775618
 
リツイートの引用元を批判する気はありません。批判対象は、楽山です。
 
楽山は、いつまで、善人に成りすます嘘で恥をさらせば気が済むのだろう。何も考えないのだろうか。何も感じないのだろうか。
 
楽山が自己愛性人格障害(NPD)だと言えるのは、思いやり、深い思慮、反省力、責任感、学習と成長、こう言ったものが、全く見られない自己中からです。そして、楽山ブログの記事は、多く「『霊』のこと」を、宗教や信仰と混同して、刷り込んでくる無知、そして、無恥です。
 
楽山は、言葉の概念の表層だけを並べて、一見、論理的に見せかけて、人を、だましています。本当の理路を求めている人は、反省力があり、修正能力も高く、かつ、実質において、柔和で、決めつけることのない視野を持っているので、よく成長して知識が豊富なのです。楽山は、逆です。
 
「人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体」・・そして、嘘と詭弁しか身に着けていない楽山の正体であり、反宗教と、楽山の自己中ボンヤリ鈍麻思想を、刷り込んできます。楽山は、HSアンチではなく、自家製カルト思想で自己満悦を得るために、人を、だまします。
 
楽山は、リツイートや引用で、人の口を利用して、柔和な味方であることをアピールしてきますが、実際は、とんでもない自己中であり煽動屋であり詭弁屋であり、平気で嘘を吐く人です。楽山の言を真に受けないでください、丁寧語に、だまされないでください。約2年間、批判しています。
 
楽山には、深い情緒的な共感性がありません。だから、罪悪感を持ちえず平気で、嘘を吐けるのです。こちらも、楽山の気持ちを知ろうなどと思ってはいけません。批判する人には、楽山に対して、けっして感情移入せず、乾燥遺物を見るようなスタンスが必要です。楽山は紙屑の資料です。
 
楽山は、つぶやくだけならいいだろう、と軽く考えているかもしれないが、性根や魂胆というものは、自分の書いた文章のみならず、どういう本を読み、どういうツイートを読み、どういうことを引用するか、どういうツイートをリツイートするか、ということにも、良し悪しが表れてくるものです。
 
都合がよいと思ったら、あとさき考えずに、引用・リツイートするというのは、楽山の場合、以前から、やってきたことですし、表面的に善を表す都合のよいこと、でなければ、相手に都合が悪いこととを、引用して、弁明できない腹いせにしたり、悪口の代用にするということです。
 
引用だから、リツイートだから、責任はない、ということでは決してないのです。無反省・無責任の楽山は、そういうことも、分かっていないことが明らかになっています。これからも、病識も罪悪感もない楽山は、自らの程度の低劣さと邪悪さを、平気で、見せてくるのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
無神教カルトの思い込みには、書き方が丁寧であるかに関わらず、上から目線が働いています。関わっているうちに、訂正不能の高慢が明らかになってきます。特に、言い訳がましい筆致や、同じ前提の繰り返しや、拡大解釈や、無理な関連付けなどがあり、彼らの自己正当化には根拠がありません。
 
最も邪悪な者たちは、邪悪だと分かるような乱暴な口を利かず、大方、丁寧語を使って、ときには弱さを気取った芝居で同情を引き寄せて受け入れさせようとするのです。実際には、反省という言葉を言われても、実際に全く反省をしないままだということをもって、彼らを否定するしかありません。
 
 
 
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 悲しみについて
 
 
悲しみを
楽しいことで打ち消すと
悲しみは消えるのではなく
心に潜伏するかもしれません。
 
悲しみを
心の履歴書の一頁としてください。
それが出来れば悲しみは
人生の履歴の記録になるでしょう。
 
悲しみは
隠したり抑え込んでしまうと
見えない傷として残ります。
 
悲しみは
無視するのではなく
無かったことにするのではなく
克服の記録として残すことで
思い出しても記録ならば
距離を置けるかもしれません。
 
脅しや恐怖と違って
 
悲しみは、成長の機会です。
 
 
 
  脅し?(再)2
 
 
宗教が
あるいは宗教を利用して人が
人を脅すというのは
例えば
このままでは大変なことになりますよ
といった恐怖と脅迫と強迫の文言で
カルトにおいて
おこなわれることだろう。
 
信仰において
人が人を脅すのではなく
神が人を脅すのでもなく
 
人は神を恐れるべきである
というのは
全知全能の御方と信じた神への
キリスト信仰の主軸であります。
 
 
信仰者は人間であり
明らかに全知全能ではなく
神に比べて
はるかに劣った存在であるから
神と人の関係を語る上で
神が上で、人が下
という節操を持たなければいけません。
 
神は、やさしい仙人みたいなお爺さんではありません。
 
悪口と同じ扱いで
キリスト教的な?批判禁忌をもって
批判されると
人が人を脅してはいけない
などと言ってくるのが偽善者です。
 
同じように
神についての疑いを
それは言ってはいけないと
威すのも同様です。
 
脅しは、悲しみではなく、邪悪な牙でしかありません。
悲しみに、脅しを当てる宗教は、カルトです。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)
4:25
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 
4:26
怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
4:27
また、悪魔に機会を与えてはいけない。 
4:28
盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。
4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
4:30
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 
4:31
すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
 (エペソ4:25-32、新約聖書)
 
 
真実を語りなさい、ということから、真実を求めることの大切さを伝えています。
怒ることがあっても罪を犯してはならない・・ということから、復讐という恨みに基づく行為を戒めています。
 
悪い言葉を口から出してはいけない、というのは、悪意だけによる言葉、悪口だけを語ることを戒めています。批判は、相手の悪を指摘することです。怒りはコントロールすることが大事なのであって、悪を見ても怒らないようになってしまうのは、心の鈍麻と破壊であり、同時に、これこそ、偽善なのです。
 
悪口だけを言うこと、嫌がらせを言うこと、当てつけること、ケチを付けること、これらは、批判とは全く別物で、悪意だけの産物です。これを同質であるかのように言って、偽善者は、逆に、自分が批判されているにもかかわらず、批判禁忌をもって、おとしめてくるのです。
 
聖霊の証印は、人が、その凡庸なる善意によって、いちいち確かめることはできません。即ち、人は、その凡庸なる善意によって、批判禁忌を定めることは出来ません。つまり、結果を神に任せる信仰があれば、批判は禁忌ではないのです。批判禁忌は、むしろ、信仰を偽善化する悪口です。
 
パウロが言っているのは、一切の悪意を捨て去ることは、恒常的には、不可能と、痛いほど知っているからでしょう。背教の裏切りは、一度だけではない、ゆえに、悪意に支配されてはいけないと言っています。いけない、という説教であって、これを、戒律と受け取ってはいけません。
 
情け深く、あわれみ深いものとなり、互いにゆるし合う、これは、理想です。パウロの愛の賛歌と同じであって、それを否定形にしたものが、現実の有り様であることを忘れてはいけません。
 
聖書には、愛の賛歌をはじめとして、理想を述べられているところが多々あります。
理想は求めるべきですが、
当為(「べき」の付くこと)と事実を、区別してください。
すなわち、理想と現実を区別してください。
 
キリスト信仰は、善に、特に、自らの善に、のぼせ上がることではありません。キリスト信仰は、陶酔気分を与える信仰ではありません。のぼせ上がって高みから物を言う偽善者の口車に乗ってはなりませんし、自らが口車になってもいけません。
 
 
まず批判が脅しと違うのは
根拠と理由があって否定するということであり
 
批判対象が
神を恐れない言動であるという根拠を示して
指摘するにあたって
遠慮してはいけないということです。
 
人が人を批判してはいけないなら
このことは
人を批判する人を批判してもいけなくなり、矛盾します。
 
人が人に間違いを指摘しなくなったら悪がはびこります。
批判禁忌は、不完全な人から学習と成長を奪い、停滞と無関心へ誘う偽善です。
同時に、悪をはびこらせ、悪を放置して、実際には許容する罪でもあります。
 
今のキリスト教内外には、批判されないカルトとカルト思想が蔓延っています。
批判禁忌という偽善は、カルトが喜んで批判者に向ける常套手段です。
 
人が人を批判しなくなって
神への恐れを言わなくなっても
神は人を叱って脅してくださるか
というと
言うまでもないが
神はひょいひょい顕れて
いちいち手取り足取り
人を脅したり怒鳴ったり戒めたりはして下さらないのです。
 
 
現象としては
私たちは沈黙の神しか知りませんし
それで神を知ったと思ってはいけないでしょう。
 
神は恐るべき御方であり
悪魔が優しそうに誘惑してくるなら
一見、悪魔のほうが付き合いやすく見えることもあるでしょう。
私たちには神と悪魔の区別もなかなか出来はしないのです。
 
起こった現象の
どれが神の意志で
どれが神に逆らう意志であるか
神は、いちいち正解を教えて説明してはくださらない。
これが地上に表れる基本的な現象です。
 
神と人の関係において
神は、人が恐れるべき存在
ということが信仰の主軸であるから
人が信仰を伝えるときには
この関係も伝えなければならない。
 
批判を禁忌とすることは学習と成長を拒むことです。
誰もが批判せよということではなく
意欲があって批判する人を
批判ゆえに罪に定めるのは間違っているということです。
それこそ、逆に、人が人を裁く行為なのです。
 
やさしい神を慕うだけでは信仰になりません。
自分が負うべき使命を考える時を持ちましょう。
 
戒め懲らしめる神を恐れるならば
神を恐れないで嘘を吐く者たちを受容してはいけないのです。
 
これを私は
信仰の節操あるいは弁えと呼んでいます。
 
神よりも劣っていて
不完全で罪深い私たち人間は
直接、神に談判することなど出来ない存在です。
 
神を
どこかにいる徳の高い優しいオジサン
と同じように思ってはいけない。
 
全知全能の神に対して
ご機嫌取りの讃美や
世辞の誉め言葉や丁寧さは通用しない。
 
正直さ以外は何も通用しないのが神であります。
 
これが神への恐れであり
恐れると書いていたものを
「畏れる」などと書き替えてはいけない理由です。
 
 
その恐るべき神に祈るときには
愛のために命を惜しまない救い主
イエス・キリストの御名を通して祈ります。
 
キリストにおいて成就された救いとは
人への愛と共感と同伴であり
神への執り成しであります。
 
したがって
神の前に不正直や
ましてや故意に嘘を吐くことは赦されないが
 
神の前に
あるとき隠したり嘘を吐いたりしても
別のときに罪を認め、悔い改める者を
神は見捨てたままにはしないし
その機会は一生を通して与えられています。
 
そこに神の
人の正直さに対する限りない寛容さが表れています。
 
神は人に対して
真善美の高みに立つことを求めるのではなく
つまり善悪の善を条件とはせず戒律ともせず
 
神の前に努めて正直であることのみをもって
神が人を救うということが
キリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛であり
キリスト信仰の芯となっています。
 
 
聖書を読んで
神に祈るとき
努めて正直であろうとする誠実な信仰があるならば
人の前でも
だますような白々しい悪意の嘘は吐けなくなる
ということをもって
神への正直な告白の祈りが前提であれば
神のほうを向く生き方は
悪ではなく、もちろん偽善でもなく、
真善美の方向に
完成はしないものの
導かれるだろうということです。
 
信仰は、キリストからの共感に、キリストへの共感を返すことです。
 
つまり、真善美は目標ではなく経過~結果に過ぎず、
 
つまり、信仰は、キリストを通して、神の前での、祈りの、正直さであります。
 
 
悲しみは、克服を通して、痛みから記録になってゆきます。
 
悲しみは成長のためにあります。
 
脅しは束縛のために利用されます。
 
 
悲しみは成長の機会

悲しみは成長の機会
 
 
(2019年)(2020年)
(2022年06月20日、再録+加筆))
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
  落ち込み
 
先の目処がない
見通しがない、見込みがない
人生の先に
何も見ることができない者が
見ているものは何なのでしょう
 
本当に落ち込んでいるときに
楽しい歌を聴くとよけい落ち込んでしまうもの
むしろまず悲しい歌でも聴いて
涙が湧いてくるような気持ちになって
気持ちが少し落ち着いてから
充分に休んだのち
少しずつ体を動かしたり楽しい歌を聞いた方がよいのです
 
軽い落ち込みなら元気づけでもよくなるでしょうが
本当の落ち込みは緊張と不安を伴っていて
こころゆくまで泣くことさえできないもの
だから涙の有無にかかわらず
十分な「泣き」を通して初めて
安らぎに似たものが生まれるのです
 
悲しい人
どうか ゆるされて
こころゆくまで
力が全部抜けてしまうまで
泣けますように
 
横たわる
この身の中にせせらぎの
川の流れを聞かしめたまえ
 
うなだれて
見つめる先とて無けれども
目には潤う微かな温み
 
諦めも青き炎か
見つめては
心の底の残り火にさす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、しんみり悲しむという情がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)やサイコパスの特徴です。だから、言葉だけ、トホホ、などと書いてきます。言葉のうわべだけを追っても、そこに真実が得られないので、嘘と詭弁の細工に走るのでしょう。
 
ヤフーブログでの数か月の楽山との遣り取りの経験から申し上げますが、楽山は、こちらの言い分を全く理解せず受け取らず、反省もしません。そして、テーマと似て非なる迷路に誘導して混乱させてきます。何の糧(かて)にもならず異常な疲労だけを与えるのが、楽山の議論の処世術です。
 
楽山の言は、放射性の灰のようなものです。遣り取りを続ければ、放射能のように残留し、心は、灰をかぶって思考も感性も鈍くなり、気づかないうちに、反応性が低下して、似たような嘘と詭弁に逃げるようになったり、人格が壊れてゆく恐れがあります。楽山との遣り取りは精神衛生上、禁忌です。
 
どんなに、もっともらしく思えても、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由を認めてはいけません。言論の義務を弁えず、嘘と詭弁で飾り、迷路で混乱させる楽山に、言論の権利を認めてはいけません。柔和と中立に見せかける楽山の欺瞞に満ちた言論は、いかなる場合も信頼度はゼロです。
 
 
 
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  祈る心3
 
   「祈り、でもでも」修正、加筆。
 
 
祈りたい気持ちがあって
祈りたいことがあるから
まだ信じているのだろう
実際には
毎日のように祈っているが
殆ど、そのときの心境の吐露
 
でも祈ったからといって
何か変わるのかどうか
変わるとして
それは目に見えるのかどうか
人に分かるのかどうかといえば
どちらも人には
はっきりとは分からない
 
信仰が全知全能の神に従うことなら
不完全な人の信仰は
完全ではありえない
 
つまり分かっていると思うことは
御心か人間の勝手かどうかさえ分からないのに
分かったことにしやすいという自覚
 
神が云々・・ではなく
自分がどうなのかが信仰の祈りである
 
つまるところ
反省もせず分かったつもりになり
かつ分からないと言わなくなったら
もはや信仰ではない
 
祈りたくなるのは何故だろう
委ねたくなるのはなぜだろう
そうさせているのが信仰だ
そして神だ
 
どうしても人には分からないことがあるからだ
 
神のなさることは分からない
 
人によっては
完全を気取った祈りが
実は自慢だったり呪いだったりする
 
いくつもの祈りの結果が総て益でしたなんて
あらかじめ感謝と讃美が前提として
固定した教条の鉄則になっている人の
正直を押し殺した多幸の強迫観念だ
 
祈るとき鰯の頭を仰いではいないが
弱いから何かに頼りたい気持ちはいつもある
 
叶う叶わないにかかわらず
打ち明けて任せる相手を求める立場から出発しているからだ
 
でも本当の神を想いで信じ込むのは背教であり
何も整ってはいなくて
むしろ整うことも壊れることも不完全なのである
 
正しく信じていない自分
信仰の薄い自分
 
いつも
そこから始まっている
 
不完全、欠点だらけ
いたたまれなくて
祈り
 
 
 
人の言葉の不完全さ・不十分さを
書いたり読んだりするたびに思います。
そのたびに修正するとしても、
修正が必要であると感じること自体が既に不完全を示しています。
人の信仰は完全にはなりません。
 
前にも書いたけど、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、
信仰の固定と訂正不能は、もはや信仰ではありません。
 
自分の信仰を固定するのは自分信仰です。
それはまた唯一の絶対・永遠・不変の神
という飼い主である神を無視する行為です。
神以外に完全はありません。
 
神を仰ぐのであって
神を理解したから信じるのではありません。
 
神のもとに
そして誰よりも
キリストの元にあるのは
理解ではなく
むしろ共感に近いものです。
ゆえに愛に近いものです。
 
神の導きは、どのようにあるか、事前に人は分かりません。
事後にも、完全には分かりません。
次に連なるのが、恵みか、試練か、人は確定できません。
 
信仰によって生きてゆく意志を与えられることはありますが、
信仰によって生活が便利や有利になるわけではありません。
 
恵みと試練は同一なのかもしれないと前に書いたことがあります。
自分の思いは様々あっても
自分の気持ちだけから、恵みだ、試練だ、と確定してはいけないのです。
 
修正ばかりしていると、なんだか、不安定で、
いい加減のような気もするけれど、
その時その時は、一所懸命に書いてきたつもりなので、
自分の判断はその程度なんだ、という自覚は、結局、必要になります。
 
それは不完全である自覚
  =罪の自覚でもあります。
 
人の言葉は、伝達のための暗号です。
 
神の言葉が完全でも
聖書を読む人の言葉は不完全です。
 
人間の表現の、目に見える手立て、
すなわち、言葉、態度、行為、サイン、筆致、
全て伝達手段として
広い意味で、言葉と言ってよいでしょう。
そういう人間の言葉は、当てになりませんが、
その時その時は、当てにしているのです。
他に、人間は、表す言葉を持ちませんから。
 
神の言葉であるという聖書も、
私たちは、人間の言葉によって、
自分の言葉の世界において受け取っています。
 
神の言葉だから正しいと
持論の聖書の解釈を主張するのは甚だしい間違いです。
受け取って伝えているのは不完全な人間です。
 
聖句の一つ一つに魔法を期待してはいけません。
聖書の言葉は、誤解によって、人によっては、
躓(つまず)きの石ともなり得ます。
聖句をいつも正確に受け取っているわけではない人間が使うからです。
 
自分の心に起こる動きを、正確に対象とすることは難しく、
心を動かされたことも、恐らく、自分で言葉化してゆくのでしょうから、
信仰には、一時的には、不可避に、自分信仰の部分があります。
 
しかし、それを信仰だからと確信する方向には、
神と同一そして一体感という恐ろしいカルト信仰が待っています。
 
ゆえに、反省による学習によって成長できる信仰であることが必要です。
難しいことではなく、その最も大切な時と所が、祈りであると思っています。
 
祈りだけは、信仰の心が全くなければ、することはないでしょう。
祈るのは、信仰の心が、ちょっぴり以上あるからなのです。
 
正直に祈りたいという気持ちが、まず、第一に、信仰の、最も確かな恵みなのです。
 
 
祈る心 信仰

祈る心 信仰
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月14日、再録+加筆)
 
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
   人間離れ
 
宗教がそして信仰が人間離れしていくとき、それは宗教が最も危険な状態に陥ろうとするときです。そしてそれは宗教が宗教であるがゆえに最も日常的に直面しやすい問題でもあります。
 
偶然のように突然起こった不幸を無理やり神の意志・計画として辻褄を合わせようとする心の働き、飲めないものを無理に飲み込もうとして力んで平静を装おうとする姿は、何らかの信仰を持つ者にしか起こりえないでしょう。
 
それは耐える姿ではない。人間離れした力をわが身に強制するカルトの姿に近いのです。人間離れしたものを立派なものとして求めようとする恐怖に駆り立てられた行動なのです。
 
悲しみを悲しみとして受けとめれば、嘆き、怒り、時には背教の念さえ抱くことがあります。そういう裸のありのままの姿の自分を見て、神の前にさらけ出し認め自覚することによって、隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることで、初めて耐えるという忍耐の行為が生まれるのであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
祈る心も、悔いる心も、癒され癒す心も、反省する心も、持っていない楽山です。我欲を貪るために、マルチに成りすまして人を誘導します。アンチカルトなどと思わないでください。人を自分より低く見て、人を傷つけて、優越感を貪るのが楽山です。柔和の装いに騙されないでください。
 
 
 
 楽山の過去のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
パスタファリアン
@FShinnja
普段、幸福の科学の盲信者を見ていると、ああこれなんだなと思うことがあくつも。
ただ、我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけないとも思う。
午前0:32 · 2021年6月9日·Twitter for Android
https://twitter.com/FShinnja/status/1402287337535459331
 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。
 
楽山は、いつも、卑怯で、狡猾で、企みますが、大人の人格に成りえていないので、心は、ネズミ花火のようなものです。人を盲目にして、自らの盲目に気づかないのが、楽山です。恐ろしく知性も感性も劣化して、責任ある言動が出来ないのです。
 
「ああこれなんだな」と、いつも、他者を嘲笑っているのが楽山です。さらに、楽山は、「我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけない」などとは思っていません。楽山は、だまされる側ではなく、自家製の詭弁によって、いつも、だます側の自覚だからです。
 
したがって、賛同したつもりでも、共感のつもりでも、自己愛性人格障害の楽山には、正常人の真似はできません。楽山には、共感も、誰かを真に尊敬することもありません。よって「我が身もふりかえ」ることなど出来ませんし「気を付け」ることもしません。だまされないでください。
 
楽山は、自分カルトですから、我が身を振り返ることもなく、慢心して、充実しているつもりで、人に意見が言えると思っており、かつ、その意見は客観的な卓見だという自覚があるのでしょう。自分のみすぼらしさを感知する能力がないので、自分の言ってることの下劣さに気づきません。
 
 
 楽山かもしれない筆致の過去のツイッターですが
 
raku
@rakusyo34
自分のやったことはブーメランで自分に返ってきますね(・_・;
午前9:03 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/rakusyo34/status/1402416024557813760
 
最初、こちらにブーメランと言ったのは楽山のほうです。しかし、今までに、こちらが、楽山について、ブーメランという指摘をすることが、つまり自爆のようなことが、どれほどあったでしょう。書けば、おかしなことにしかならない、因果の、因が楽山で、果が楽山、という繰り返しです。
 
楽山は、こちら、または、キリスト信仰を、批判・否定・攻撃して自己正当化をしたつもりで、ひっぱたかれるのは、いつも、楽山のほうなのです。こちらは、楽山が書くたびに、楽山の文章から、楽山批判の題材を受け取っているという成り行きです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
断定口調で話す奴や偉そうな奴は信じるな。賢くなればなるほど自分がいかに何も知らないか気付いて断定口調で話さなくなるし、偉くなればなるほど偉そうに振る舞う必要がなくなり腰が低くなる。断定口調で話す奴は100%ただのバカだし、偉そうな奴は120%実際は偉くない小物。お前ら、これメモっとけよ?
午後6:34 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1402559816610967554
 
引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
断定口調でなければ大丈夫と言うことはありません。その最悪の例が、楽山ブログとツイッターであります。断定口調を避けることは、断定できるほどの責任を負えない楽山であったり、柔和を装う楽山であったり、刷り込むための楽山の丁寧語であったりします。
 
断定しているから受け取るのではなく、断定していないから安心するのでもなく、冷静に理路と心の共感を追う姿勢が大切です。楽山は、冷静に、冷酷に、邪悪な詭弁の理路を捏造し、理解と共感のなさを、とっつきやすそうな言葉の体裁で繕う婉曲表現が手口なのです。
 
 
 
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  批判と悪口2
 
 
私は、カルト的な思想を、訂正不能に自己中に一方的に、批判を無視して、妄想的に書いてくる者たちを、以前はコメントで、その後は記事で、批判してきました。
 
彼らは、こちらの言うことを無視して、一方的に、自慢したり、おとしめたりしてくるだけです。はっきり言って、攻撃だけを目的とする記事やコメントには、罵り言葉だけで、汲み取るべき内容も根拠も全くないという特徴があります。
 
私などは、だいたい、結論だけのコメントには、記事で、結論だけだと指摘しますし、それに対して、正当な反論が来たためしがないのが、彼らの、カルト的、自己満足的、妄想的な、一方的主張であります。しかし、大方、訂正不能です。彼らは、真似だけで、本当の議論が出来ないのです。
 
誹謗中傷してくるだけの悪意と自己中の者の根っこには、自己愛性人格障害、などの、人格の病気の可能性があります。生まれて大人になるまでの、遺伝と成長の過程で、出来上がった人格が原因であるならば、医療によって治る可能性も、なかなか、期待できないのでしょう。
 
なお、私の批判記事一つだけを見れば、言い過ぎと思われるところがあるかもしれません。批判対象について、最初から批判だったわけではありません。
 
批判対象シャロームとの付き合いは、だまされて聖書の先生だと思っていた数年と、批判してきた約10年の経過があります。罪は悔い改めなくとも許されるから気にしなくていい、という、とんでもないことを言い出したことで、偽牧師だと判明しました。
 
批判対象の楽山については、数か月のつ遣り取りの後、批判対象となり、約3年以上の批判の経過があります。その流れで批判を書いているので、一つの記事だけで云々されるのは、的外れであります。
 
楽山は、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、という発言から、全く議論を理解していない幼稚な病的ナルシストぶりが明らかになっています。
 
いずれも、あるときから、とんでもない理不尽なことを書いていることに気づいて、批判が始まっています。元々知らない人であり、理解も、そして結局、批判も、気づきから始まります。最初から批判で始まるということはないのです。
 
彼ら自己中の者たち、楽山やシャロームは、自分は被害者です、酷い攻撃にさらされました、とか言って、記事を書いてきます。彼らは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そして精神病質サイコパスであるために、罪悪感がないのです。
 
さらに、あくどいのは、一度に、たくさんの記事を書いて、相手が批判して疲れるのを期待する場合もなります。このような企みから、病質者の、根深い病的な性根を見ることもあります。他者のことなど、何とも思っていないのです。その分、彼らの文章も、何の役にも立ちません。
 
 
私のスタンスとして、今では、基本的に、記事は、批判対象が病質者の場合には、反省や罪悪感に期待するのは不可能と思われるので、よりも、むしろ一般読者に向けて、彼らカルト的な宣伝サイトについて、警戒を呼びかけて、近づかないようにしてほしいという目的になっています。
 
彼らの文章は、うわべの言葉や見かけで、受け入れを誘ってくる丁寧語であり、そこに、嘘と詭弁を刷り込んで誘導してきます。関わるだけでも、無駄に疲労し、結局は、人格を破壊される恐れがあるので、こちらは、決して近づかないでください、というアピールをするのが目的になっています。
 
ただ、そういう主旨はもちろん、私の記事の理路についても、自己中で理解力のない批判対象によって無視されるでしょう。いつも、被害者面して、ときに、多量の嫌がらせの記事を書いてきます。しかし、批判と悪口を混同している彼らには、根拠が何もないのです。
 
批判も、罵詈雑言を使うことがあります。その理由は、相手が、全く批判を理解できず、受け取ってもいないからです。私の批判記事は、大方、読者が読むことを意識して書いていますが、加えて、厳しい言い方を批判対象に向けて書いています。辛辣な比喩表現などです。
 
もし批判対象が見ることがあれば、批判対象はお前だ、ということを明確にするために、罵詈雑言≒全否定を書いておく必要があります。このように、罵詈雑言は、根拠を十分に示したのち、コントロールしながら、使うことがあります。
 
相手が、一般的な議論など、全く成り立たない者である場合です。上の二人は、理路を、理解できず、組み立てられず、詭弁と嘘で引っ掛けて、印象を吹き込んできます。さらに、感性的享受ができないので共感が成り立ちません。月並みで平板な文章を書いてきます。正常人とは、全然、違うと思います。
 
 
繰り返しになりますが、私がこの記事を書く理由は、そのように、批判を受け取らず、無視して、好き勝手に書いてくるような者たちが、反論も弁明も出来ないのに、いろいろな事件をネタに、被害者面して、読者に安易に同情を誘うために、何か書いてくる可能性が危惧されるからです。
 
もっともらしい批評家気取りの筆致には、十分、注意してください。結論として、私が思うのは、悪口だけの言と、批判とは全く別だということです。私が批判してきた対象は、記事やコメントで、結論だけを繰り返して書いてくるような、不感不応のカルト的思想の異常人格なのです。
 
彼らの記事自体が、既に、回りくどい雑言と言ってよいような、無益で無意味で、こちらを疲労させるだけの、とても迷惑で、反社会につながるものだから、引き続き、批判対象になっています。
 
 
一般に、罵詈雑言だけの発言というのは、否定の結論だけを繰り返し言い張るだけのような、価値の無いものですから、そんなことのために、めげたり、最悪の場合、死を思ったりなんて、しないでほしいということです。
 
批判というのは、相手を否定する言葉だけでなく、相手の不正について根拠を示してゆくことです。場合によっては、和解が可能です。
悪口というのは、根拠もなく、相手をおとしめる言葉だけを書くことです。和解は不可能であることが殆どでしょう。
 
実質のある批判の中身があれば受け取り、必要があれば反論や弁明も出来るでしょうが、
実質のない悪口だけのコメントに対しては、気にしないでいられる気持ちの強さが必要です。
前者の批判に対して、後者の悪口だけを言ってくる者、サイコパスを疑います。
 
 
批判と悪口

批判と悪口
 
 
(2020年)
(2022年05月29日、再録+加筆)
 
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
 
 サイコパスについて
 
人間は、やってはいけないこと、言ってはいけないこと、などについて、分別を持っているものです。人間に、そうさせているのは、良心です。良心によって、他者と共感することで、悪の道を避けるようになるのです。しかし、中には、良心を持たない者がいます。
 
生まれ育ったときに既にそうなっているのがサイコパスです。他にも、洗脳や、刷り込みや、偏った教育によって、マインドコントロールされて、後転的に良心を失うことがあります。後者は、良心を回復することが可能であるかもしれませんが、難治であることに変わりありません。
 
前から、何度も言っていることですが、人類の敵は、国家でも民族でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
サイコパスは、人口の1~2%いると言われています。それが正しければ、日本には、100万~200万人のサイコパスがいることになります。1クラスに一人となると、少なくはないです。
 
サイコパスには、良心がなく、情緒面では、しんみりとした悲しみの情がありません。サイコパスには、笑いと怒りしかありません。そこからの嘲笑と憎しみ~怨念があります。議論中に、しばしば、笑う人や、あざ笑う人や、怒鳴って返してくる人には、注意が必要です。
 
サイコパスは、理屈を言うことがありますが、整った論理性を持ちません。自分を客観的に見ることが出来ないからです。偏向した屁理屈を言い張ることがあります。感受性については、理性的にも情緒的にも劣っています。自己の発想が、優位性の絶対となっているからです。
 
サイコパスは、反社会性人格障害と呼ばれますが、反社会性は、犯罪傾向が明らかになってから分かることです。サイコパスは、元々は、精神病質の訳で、人格的そして体質的な病態です。自己中心が特徴なので、広く自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害、NPD)と呼ぶべきだろうと思います。
 
サイコパス、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、人を相手にする職業についてはいけない人です。表面的には丁寧でも、付き合ってゆくうちに、疲労と破壊をもたらすでしょう。その段階で気づいても、なかなか手遅れなのです。体質ですから完全治癒は困難だと思います。
 
サイコパスは、思いやりがあるような言い方や態度を見せることがあります。それで要職についている場合もあるようです。しかし、それらは、見せかけの言葉や態度であって、付き合い続ければ、結局は、破壊的、自滅的な、経過と結果をもたらすでしょう。関わらないことが大事です。
 
前にも書きましたが、サイコパスは、単に、自慢好きや、怒りっぽい人、押しの強い人とは、違います。そういう見かけサイコパスの人は、のっぴきならない事態では、途端に、慌てるように、真面目になって、自省し、考えることが出来るからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の書いてくる文章は、なんとなく正しいような気のしやすい文章ですが、よく読むと、根拠がないことや、嘘や、曖昧な言葉を個別のことに当てはめるとか、特殊な言葉を全体に当てはめるとかの、詭弁が含まれています。個人の安全のためには、相手にしないことだけが対策となります。
 
 
 
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  敬虔5
  (過去記事「謙遜」を修正アップ)
 
 
例えば元気で熱心な信仰者に、ありがちな発言として、
「「神のうちに生き、動き、存在している」という視点に立つとき、私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
というのを聞いたか読んだかしたことがあります。
 
折に触れて、自分について、神の意志は?と考えるのは、信仰者としては当然ですが、「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ、最終的な真偽や正邪を、神の運びに任せる敬虔がありうるのであります。私たち信仰者は、不完全です。
 
「見極めることが出来る」ならば、神の意思を確信することになるから、それは敬虔とは違います。そこに敬虔はないです。ゆえに、この場合「謙遜」は、取って付けたような虚飾に過ぎません。私たち信仰者は、不完全なのです。
 
また「神の導き」「キリストによる罪の贖い」「聖霊の注ぎ」などという言葉、即ち、聖書語を、まるで公式のように、常套句のように繰り返し使い、それで信仰を伝えたつもりになるのは、信仰ではなく、ただの思い上がりです。
 
そういう間違いの起こる理由は「聖書の真理だから」という信念であり、その信念については、説明できる経験からの実感と実体がないままなのは慢心であり、そう覚えているだけであるなら、信仰の言葉にはならないということです。
 
その時その場で、与えられている人間としての経験と知性や感性などを働かせることなく、聖書的な言葉を並べて伝えた気持ちになってしまう。いずれの場合も謙虚・謙遜・へりくだる姿勢・敬虔とは無縁であり、カルトなどに、よく見られる高慢であります。
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても、それを受け取り、伝えようとする人は、人の言葉しか持ち合わせておらず、神と違って不完全なのだから、人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては、伝える努力が及ばないこともあることを知っておくべきでしょう。
 
伝わらないときに、彼には恵みがなかった、などと相手のせいにするのは、もはや、偽善者の言であります。聖書は真理でも、言葉だけ実感のないまま語って、神の導きにお任せしますと、反省も努力もせずにいたら、責任放棄であり自己満足なのです。
 
人と人が互いに、表す言葉の拙さを共感し共有する意識が必要であります。いかなる言葉も、いつも実感を持てるとは限りません。祈りとともに、努力を続けることが信仰生活なのです。敬虔はそこにあるのであって、実感のないまま繰り返される聖句や信仰の言葉の数にあるのではないからです。
 
 
 
よくある信仰についての勘違いですが、罪は赦されたから罪なき者となったのではなく、罪人だったけど悔い改めたので罪が無くなったのでもありません。
 
信仰者は、罪を犯しても正直に祈ることで赦されて生きる道を与えられたのです。
 
この地上の世に生きてきて、信仰を与えられている我が身を振り返って、自らの来し方を思い、行く末を考えるならば、自分がそんなに立派になったとは考えられないのが正常であり、見違えるような聖となって罪が無いなどと信じることは、直観的にあり得ないと分かるはずなのです。
 
私たちキリスト信仰者は、信仰によって思い上がるのではなく、信仰によって敬虔を学ばなければいけません。信仰者は感動をもって成長する道を与えられたのであって、何もかもが良くなって完全になるなんていうのはカルトか多幸症の高揚気分に過ぎません。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変であり、私たち人間は、それらの神の性質を持ち得ないことを知ることで、救い主イエス・キリストとの、同伴と共感の絆(きずな)を持ち得るのであります。
 
神を恐れるとは、完全なる全能の神の存在によって、不完全で小さい人が自らの尊大と傲慢を砕かれ、それゆえに柔和になることです。言い換えれば、神のもとで生きる砕かれた魂という新たな尊厳を与えられることであります。
 
 
敬虔 砕かれた魂

敬虔 砕かれた魂
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月18日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
(90年代か)
 
 
  去り際の願い
 
いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう
 
願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを
 
(90年代か)
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先
たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(かなり昔の作)
※ ♪は、讃美歌の歌詞です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
謙譲、謙遜、謙虚、ということから、最も遠いのが楽山です。しかし、そう見せる芝居をしてきます。それで安心して受け入れると、罠にはまることになります。曖昧で語尾の否定肯定を濁すボンヤリ言語、謙譲芝居のセリフであるトホホ言語と呼んでいます。責任逃れと隠し事で出来ている楽山です。
 
 
 
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