ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:キリスト

 
  楽山の独り芝居(2)3
 
 神についての対話 2 
 楽山日記(LD) 2020年06月21日
  を改めて批判。
 
 
楽山が悪意の人であることが表れています。信仰が分からないから、信仰について、文句が言いたいのでしょう。そして、終わりに、小説から、ふざけたことを言って、楽山の大好きな三文芝居で、自分で自分を褒めて、神を笑う気持ち悪さなのです。
 
努力している信仰者も非信仰者も、たくさんいるでしょうに、楽山は、反キリストとして、自覚もなく、努力もせず、教祖願望的な、霊が分かるっぽい特別の地位を欲して主張しているのだろうと思います。
 
神を、いないだの、そして、人を、決めつけだのと、崩れた理屈に納めたつもりの楽山が、いちばん決めつけと自己満悦の権化でありながら、決めつけはよくないと書いても、何の説得力もないのです。楽山の、自己愛こそ、自己中こそ、無反省こそ、楽山が決めつけた自分信仰です。
 
楽山は、対話形式にして、工夫をしたつもりで、ますます、演技的になって、芝居がかってる、わざとらしい、などと思われることを予想しなかったのでしょうか。
 
自分に酔う者は、芝居の度合いを増すことで、ますます、いい気になり、観客つまり読者がどう思うかが分からなくなるようです。まさに、自己顕示欲が、自らを滅ぼしてゆく楽山の独り芝居です。
 
 
*神のイメージの幅
若者 「えぇっと、ちょっと待ってください。いま、お話を聞きながら、妙なことを考えてしまったのですが…」
老人 「妙なこと? どんなことだい?」
若者 「い、いえ、やっぱりいいです。すごくバカバカしいことなんです」
 
とても気持ちの悪い謙虚芝居です。このような対話形式でなくても、「とほほ」など、楽山は、同情を誘いたいのか、この手の作為の白々しい芝居をしてきます。舌打ちをして耐えるしかありません。
 
 
老人 「ひらめきや思い付きには、あまり自己検閲をかけすぎない方がいいと思うよ」
若者 「そうですか。では言いますけど、あなたの意見は、人には神のことは分からないのだから、『神は~である』とは断言できないし、『神が××であるなら~だろう』と仮定として話すか、『私には神は~と思える』と感想を話すくらいしかできず、誰かが抱く神のイメージについて確信をもって正しいとも、間違っているとも言えないということですよね」
 
楽山が、神を、自分の理屈で云々している時点で、否定し揶揄するためだと分かりますし、人と違う神の存在について安易な思い込みの中の神?をいじくっているだけということが明らかであり、人が神の正邪を云々するという見当外れもいいとこです。
 
楽山は、自らの不良品の倉庫で、自らの出来損ないの堂々巡りをしているだけで、直観的な洞察が皆無のために、自分の小理屈で神を語るという、むしろ、いちばん的外れなことをしており、楽山だけが、無益な精神作業だと分からない亡者となっています。
 
神を、表現だけ「だろう」の推測で語っても、楽山には、神などいるもんかという否定を刷り込むための、誘い水であるに過ぎず、そのことが、楽山の我執の唯我独尊の有頂天世界には、いかなる共感もないことを表して、人間の崩れ方を見せる結果になります。
 
 
老人 「そうだ。他人が抱いている神のイメージについては、共感したりしなかったりはできるが、どういうイメージが正解であるかは分からないのだから、正しいとか、間違っているとかは言えない」
若者 「そこで僕は思ったのです。それでは、もし『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人がいても、それを否定できないのではありませんか? これはおかしくありませんか?」
老人 「神は残酷だということについては、私の記憶では、たしか、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』にそういう表現があったね。主人公の少年は、親友が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、牧師の下に通い、信仰に目覚め、その後は多大な犠牲を払いながらも、邪悪な存在と闘い、その活動を阻止するという物語なんだ。少年は自分には邪悪な存在の活動を防ぐ使命があり、その使命を果たすために自分が霊的なことに目覚める必要があり、そのきっかけとして友人が事故に遭うことが計画されていたことに気づき、神は残酷だと呟いていた。運命論的な考え方、すべては神の摂理によって支配されているという考え方からゆけば、悲劇は神によって予定されていたことになるわけだし、そういう感想を持つのは致し方ない面はあるだろうし、そこに真理は少しも含まれていないということはないだろうな」
 
「『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人」・・これこそ、楽山なのです。自分で若者に疑問を言わせ、自分で老人に説明をさせています。条件法で、神を語る楽山は、同じやり方の詭弁でしか答えることが出来ません。神は、条件の対象にはなりません。神は、信じ仰ぐ対象です。
 
本当に、楽山は、神が嫌いで信じないのなら、何も書かなければよいのに、・・ならば・・、という言い方の対象に、神をおとしめて、摂理の使命・・的な話のネタにしています。何処にも、糧になるものがないのが、楽山の、捏造フィクションの、それこそ、運命なのです。
 
楽山のように、神を、登場人物として、自身の貧弱な辻褄合わせで語れると思う者は、神について、キリストについて、人についても、何か良きものを、感じることも、受け取ることもないでしょう。
 
「真理は少しも含まれていないということはないだろうな」・・楽山の、二重否定です。大事なところで、確証がないのか、ごまかしたいのか、曖昧な表現が表れます。とても気色の悪い婉曲表現、まるで祟りのように楽山の内部を巡る因業のボンヤリ言語です。
 
こういう人と遣り取りすると、絶望的な疲労を受け取ることになると知ったので、私は、批判記事だけにして、コメントの遣り取りをやめました。長々と、愚にもつかぬ表面的な理屈、即ち、屁理屈を並べて、疲労させてゆくのが、実感というものを持ち得ない楽山の手口なのです。
 
楽山の書く思い付きの文章の邪悪さは、神を否定しながら、他に、救いも、救いにつながるヒントも書けないことにあります。自己愛が強いからでしょう。文句だけ言って、責任を負わない楽山は、他者も、自分の言ったことさえも、不感不応で気にしない体質なのです。
 
 
信仰者は、いかなる悲劇があっても、キリストの愛を忘れることの出来ない人間です。臆病や疑いのために、キリストのもとを離れる人もいるでしょう。また戻ってくる人もいるでしょう。信仰は、一度で決定することではなく、正直でありうるなら、神の愛の寛容によって、いつでも、やり直せるのです。
 
信仰は洗礼を受ければ後は心配ないという信仰ではなく、様々な疑惑という経緯があって離れても、主のもとに帰る道があります。ゆえに、少なくとも、楽山のような者の意見を真に受けるよりは、はるかにマシだと言えます。楽山は、無益な言葉によって他者の人格を破壊する方向だけなのです。
 
キリスト信仰は、境地の固定ではなく、成長するための道です。楽山は、常同的で非生産的なことを繰り返して、言い得たと思うわけですから、成長できない、そして、成長しないでいいと思っているようです。これは、人間を生かす思想ではなく、徒労の反復妄想です。
 
そういう腐敗に腐敗を重ねるような人生は、楽山やシャロームなどの限られた厚顔無恥の異常者にとどめるために、私は書いています。彼らに、誰も、近づかないでください。
 
 
若者 「神は邪悪であるというイメージについてはどうですか」
老人 「『神は善であろう』と仮定すれば、神のイメージは善から外れるものは認められないことになるけれども、『神はすべてであろう』としたらそのイメージは必ずしも善に限定さなければならないというわけではなくなるだろうね。『神は善悪を超越しているだろう』としても、そのイメージは善に限定されるものではなくなる」
 
学者みたいな書き方をしていますが、邪悪なことも起こして、放置しているから、神は邪悪だぁ・・という妄想の刷り込みです。元々、人が、神の善悪を云々することが傲慢であります。信仰者は、既に、生きるための幸いを受け取っているからです。
 
楽山の言い分は、自分が正しく視野が広い、という妄想の土台から言っているだけです。限定されない神のイメージを、楽山の、字面の善と悪と善悪、という言葉で書いて満悦しているのです。"善悪を超越" という言葉を安易に使う楽山は、何も分からないまま、反キリストの策略の泡を吹いています。
 
人は、神の正しさが分かるから信仰者になるのではありません。それも、私のブログに書いてきました。信仰は、神の義と善に従うためにあるのではありません。それは、人間には出来ないのです。そんなことも分からないで、いちゃもんで誘導する楽山は、呆れた幼稚としか言いようがありません。
 
不完全で罪深い人間が、神に対して出来るのは、祈りにおいて、精いっぱい正直であることだけです。それが、信仰なのです。神は、人間に完全な義のないことを承知の上で、正直だけで、信仰の義を与える御方です。人間の側からは、そうとしか、神について考えようがないのです。
 
楽山は、都合の悪いことは無視して、自己顕示欲を小細工で論理的に見せかけて、自身をインテリっぽく見せかけるために、中庸みたいなことを、前から書いていますが、実際は、通念的字面に終始して、何も言えなくなる虚無へ誘っているだけの悪魔性です。
 
楽山は、信仰の救いについて、体験がないために、何も理解していません。さらに、分からないのだからという謙虚さもないために、書くことを控えることもせず、反キリストらしく、無秩序に、いちゃもんをつけてきます。
 
楽山は、自らの混乱を伝染しようとしているだけです。恐らく、よほど、お仲間以外の、誰からも相手にされなかったのだろうと思います。実際、混乱を招いて、共感も責任感もない楽山は、けっして相手にしてはいけない相手なのです。
 
 
若者 「神は善であると言い切れないのだとすると、なんだか辛いですね。僕はやっぱり神は善だと信じたいです」
老人 「宗教のなかには、神のことを善神と悪神に分けているものもある。住民に虐殺命令を下したり、さほどの落ち度もない人物を不幸のどん底に突き落としてその反応を見てみようという悪魔の提案を受け入れる神もいる。また世界の神話には、現代的視点から見たら、とても善なる存在とは思えぬ神々が描かれている。神は善であるとは限らないという考え方は、そう珍しいものではないよ」
若者 「うーん、確かにそうですね」
 
今度は、神を虐殺魔に仕立て上げたいようです。仕立てあげる文章を書いた時点で、虐殺魔の心を持っているのは、書いた人、つまり、楽山だと自分で言っているようなものです。楽山の、敬虔とは逆の、破壊的放言は、楽山自身の何らかの不遇に対する復讐なのでしょうか。
 
「神は善であると言い切れない」・・ひどい虚言~妄想です。人は神の絶対の善を知りえないということです。楽山は、自分の善悪の判断に、どれほど舞い上がっているのでしょう。むしろ、楽山こそが、神に対する善悪の判断はもちろん、人の善悪の判断も出来ない厚顔無恥なのです。
 
「神のことを善神と悪神に分けている」・・それは、キリスト信仰とは何の関係もありません。悪魔のことなら、それを、神とは呼びません。
 
神の与える救いは、地上と御国を含んでいるので、楽山のように、現世が不服で、神に文句を言って、神を否定するのは、自己中の極みでしょう。キリスト信仰は、分からないことをも、神にお任せする信仰です。だらだらと、愚にもつかず、疲労しか与えない楽山の独り芝居とは違うのです。
 
楽山は、まるで、聖書の話を、これをやったから神はおかしい、という、けなし方ですが、神を机上の対象にしている時点で、分からない楽山の不感と、それに見合わない高慢が明らかになるのです。神を仰ぐのではなく、神?を頭の中に概念として捏造して、幼稚な云々遊びをしているのが楽山です。
 
楽山が言ったことに、「うーん、確かにそうですね」と、楽山が答える。笑止のインチキ芝居の自己顕示であります。時と場合を弁えない楽山、"自分が何をしているか分からずにいるのです" という聖句を思い出します。
 
私は、楽山のボンヤリ言語で、楽山のようなボンヤリ人間が増えるのを、できる範囲で防ぎたいと、切に願っています。それこそ、悪魔のように、訂正不能に何度も屁理屈をこねてくる楽山に、決して、近づかないでください。
 
楽山は、人間らしい活性と生産性がないために、同じことを言ってくるのです。問答形式にしたところで無駄なのです。中身は、知らない世界まで知ったことにしないと気の済まない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病的ナルシストの常習的な醜い生業です。
 
 
老人 「善悪の基準は、時代、地域などによって変化するものだ。だから古代人が善なる神をイメージしたとしても、それは現代人からみればとても善とは思えず、理解不能なものになることもありえる。今きみが精一杯に善なる神をイメージしたとしても、それは未来の人々と共有できる善なる神とは限らないし、どちらかといえば理解されない可能性の方が高いのではないだろうか」
若者 「そうかもしれません」
 
楽山の捏造神?概念は、世界中を網羅して、様々な神の像を空想で書いてきます。そのことが、既に、楽山には信じるに値する神がいない、そして、自らを、神と同等に書いてくる傲慢だということを表しているのです。
 
人は、精いっぱい善なる神をイメージして信じるのではありません。神の正しさは、不可知の神の、不可知の善として、人は、祈りにおいて、反省し、黙想し、正直に告白するのが信仰です。それ以上は、人には出来ません。それが絶対孤独から逃れる信仰の道なのです。
 
楽山の、信仰についての勘違いは、殆ど妄想化しているので、交流や議論は無意味であり、批判をせざるを得ないのです。この妄想的確信ゆえに、楽山は、人間らしい良心の感受と気づきをもって信仰を理解する、ということができないのです。
 
また、それゆえに、楽山は、自身が信仰を理解できないものだから、手段を選ばず自分を高めたくて、手段を選ばず敵意を表して、神も人も貶めてきます。対話形式だから、分かりやすくなるような要素は、楽山の主張にはありません。姑息な楽山の独り芝居です。
 
 
老人 「そうであれば、きみが神は善であると考え、イメージしたとしても、それはあくまで個人的なイメージにすぎず、それに賛同しない人が現れて、『この若者は、到底、善とは思えぬ邪悪な存在を神だとしている。これは神に対する冒涜だ!』と噛みついてくることもあるかもしれない」
若者 「世の中には、いろいろな人がいますからね。まさかとは思いますが、ひょっとすると、そんなことも起こり得るかもしれません。少なくとも絶対ないとは言い切れないですね」
老人 「人には、絶対なんてことは言えないからね」
 
楽山にも絶対はないのです。老人も若者も楽山です。ともに、邪悪な神を刷り込んでいます。楽山の語る神は、楽山の神であり、邪悪な存在であり、楽山自身なのです。
 
楽山は、結局、楽山の言うような、幼稚で、無反省で、無責任で、乱暴で、訂正不能の、反キリスト思想を、自己正当化し、自画自賛して、馬脚をあらわしているだけなのです。人間の原罪による不完全性も理解できず、赦されて救われることもなく、どこまでも自己満悦妄想を語っているだけです。
 
神の善は、地上では、人のものとはならないことを、人は判断しているに過ぎないことを弁えるべきことも、私は書いてきました。しかし、楽山の言は、おとしめるためだけに、キリスト教を信じるとこうなりますよ的なことを捏造しながら書いてくる裏の闇の印象操作です。
 
「絶対ないとは言い切れない」、これは、だから注意するべきだ、という意味ですが、楽山は、自身の文章と思想に溢れている偽りに、全く、意を注がず、こちらに向けてきます。そういう人が、言っている、ということを忘れないでください。
 
楽山は、キリスト信仰への、いちゃもんを否定されることを、迫害であるかのように言って、真実の殉教者であるかのような書き方をしています。安い詭弁です。むしろ、楽山は、生まれて今まで嘘吐きの悪魔性だと、絶対ないとは言い切れない、楽山に近づかないように・・ということになるでしょう。
 
 
*宗教批判について 
若者 「これまでお話をうかがって、前よりずっと、あなたの考えを理解できてきたように思います」
老人 「それはよかった」
若者 「でも、あの……」
老人 「どうしたんだい?」
若者 「すいません。また疑問がわいてきてしまったんです」
老人 「どんな疑問かな?」
若者 「ええっと、ですね…あなたの考え方は、神は不可知であって、人には分からないものだということでしたね」
老人 「そうだ」
若者 「だから、人には『神は~である』と断定的には言えないと」
老人 「そうだ」
若者 「神について語るときは、『神は××とすると、~であろう』と限定的に言うか、『私には神は~と感じられる』というように感想を言うくらいしかできないと」
老人 「そうだ」
若者 「神については確かなことは知り得ないのだから、他の人が語る神について、それがどういうものであっても、それについて正しいとも、間違っているとも断言できないとも」
老人 「そうだ」
 
楽山が、楽山に、良かった、良かった、と言う独り芝居です。人の言うことを無視するだけの楽山が、感想を言うくらいに重みがないなら、書かないことです。空しい惑わしであり、悪質な刷り込みであり、かつ、実際に、楽山は、発言の責任をいっさい負わない人です。
 
楽山の卑怯さが全開です。神について、楽山が好きなように言うのを、正しいとも間違っているとも言うな!・・と言いたいようです。ですから、言います。楽山は、邪悪で、間違っています。否定される宗教思想は、このまま、多くの人が信じたら、社会悪に結ぶ付くものです。
 
楽山の、自己中、無反省、無視、訂正不能、虚言、無理解、などの体質は、社会悪やサイコパスに、そのまま当てはまるでしょう。宗教を、自己愛や自己中で語れないことは明らかであり、反省しなければ、いつか、犯罪に結びつく恐れが大であるからです。野放しにして、宣伝させてはいけません。
 
楽山は、明らかに間違っているのです。しかも、故意なのです。ゆえに、反キリストなのです。違法行為がないと逮捕は出来ませんが、批判は、言論の自由だから、いつでも出来るのです。その批判に対して、見苦しい愚痴と嘘と詭弁と三文芝居を返してくるのが楽山なのです。
 
 
若者 「そこで一つ疑問があるのです。あなたの考え方からゆくと、間違った宗教を批判することはできなくなるのではありませんか。世界には、反社会的なカルト宗教というものがあります。神を自称する教祖もいます。人には神のことは分からなず、他の人が語る神について断固否定することはできないのだとすると、そのようなカルト宗教や教祖を批判することはできなくなってしまうのではありませんか。これはおかしいです」
 
楽山の宗教批判が、あまりに低劣な嫌がらせだから、批判しています。知識もなく、思考も詭弁だらけで、かつ、共感性が皆無の楽山は、正当な議論など出来ない人です。キリスト教とカルトをごっちゃにして、批判にもならない、いちゃもんだけの楽山です。芝居を書いても無駄なのです。
 
 
老人 「たしかに、きみの言う通りだ。でもそれは宗教的な見地からは有効な批判はできないというだけのことで、他の面からはいくらでも批判はできるんだよ」
若者 「はあ…、それはどういうことですか」
老人 「人には神について確かなことは分からないのだから、カルト教団が語る神について、それは正しいとも、間違っているとも断言できないし、その教祖が神であるかどうかも確実なことは言えないけれども、その教団および教祖が、違法行為や人権侵害行為をしているならばそれを指摘することは可能だ。教祖の言行不一致や奇行についても指摘できる。教義に論理的矛盾があればそれも指摘できる」
 
楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無だと言いました。今も言っています。既に、私は、それに対して、カルトは、犯罪に及ぶ前日はカルトではないのか、と書きました。
 
上のことは、カルトの定義ではなく、逮捕できるかどうかの基準に過ぎません。特にネットの時代においては、カルトを早期に発見して、何よりも批判をすることが必要だとも書きました。
 
まさに、カルトに対しても、キリスト教に対しても、訂正不能と無反省と無視を貫いて自己中と不整な自説を広めようとしている楽山は、カルトと同質の批判対象なのです。矛盾がどうこう以前に、楽山の言は、何も整っていないのです。
 
しかも、結果としてではなく、故意なのです。都合の悪いことを総て無視して、同じことを、手を変え品を変えて、今回は、独り言で恐ろしく長い対話を捏造して、また、言ってくるのです。
 
 
若者 「つまり宗教的な見地からは確実なことは言えないとしても、人権、法律、道徳、倫理、論理などの見地からは意見が言えるということですか」
老人 「そうだ。しかしその宗教において、神は、人権、法律、道徳、倫理、論理などは超越し、何らの束縛もうけないとしており、信者たちがそれを信じているならば、それらに基づく批判はさほど有効なものではなくなるだろう」
若者 「うーん。そういう宗教や教祖が間違っていることを証明するのは無理なんでしょうか。それができないなんて納得できないし、すごく悔しいです」
老人 「それをするためには、神とは何かという問題を解決しなければならないし、それができない以上は、どうにも仕方ないことだね」
若者 「そうですか…」
 
神とは何かという問題を解決しなければと言っています。神とは何か、分かるなら、その神?は、人知を超えた神ではなく、信仰にもなりえないと思います。宗教の基本的な見方が、楽山には出来ていないようで、とても、幼稚です。
 
楽山の扱い方で、神とは何か、分かると言うなら、それは、楽山の、真っ赤な嘘です。いちばん信仰に大切なことが、自己愛・自己中ゆえに、楽山は分からないまま、いちゃもんだけを言っています。あたかも、議論しているかのような小細工を弄して。
 
独り芝居の楽山は、問うたつもりで、主張しており、不可知と言いながら、ならば、解決しなければと言い、かつ、「どうにも仕方ない」 と言う始末です。信頼度ゼロのペテン師です。
 
 
*到底、神とは思えない神
老人 「タイトルは失念したが、ずいぶん前に、酒場に入りびたる天使が出てくる小説を読んだことがあるよ」
若者 「天使が酒場に入りびたってるんですか?」
老人 「そうだよ。小説の主人公のところに、ある人物が訪ねてきて、自分は天使だというんだ。でもその人物は酒場に出入りしていて、とても天使には見えない。だから主人公は、『酒場に入りびたる天使なんかいるわけがない。あいつが天使であるはずがない。でももし本当に天使であったとしたら、それを信じなかった自分はいったいどうなるんだ? 不信仰の罪を犯すことになるのか?』と悩むんだ」
若者 「結末はどうなるんですか」
老人 「主人公は、信じることを選択するんだよ。そして実際、その者は本当に天使だったんだ」
若者 「酒場の天使ですか…どうにもイメージできません」
老人 「私もきみと同じだよ。でも神は全能であり、なんにでもなることができるとしたら、酒場で泥酔している姿で現れないとも限らないだろう。それだったら神が何らかの目的をもって、カルト教祖として現れないとも限らないだろう。場合によっては、空飛ぶスパゲッティモンスターとして現れることもあるかもしれない」
若者 「ははは。それは冗談でしょう。もし冗談でなければ、いくら何でも極論過ぎてついていけません(苦笑)」
老人 「まあ、なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいいだろうね。せいぜい自分には神はこうであると思われるという程度にしておいた方がいい」
 
楽山の「神はこうであると思われる」は、暴言と言ってよいほどの悪性です。命題ではなく、印象操作だからです。邪悪で半端な知能犯は、このように、一見理屈であるなのような詭弁を弄してくるということです。語尾を曖昧にしても、悪意の決めつけは、その執拗さによって、表れてくるのです。
 
フィクションである小説に出てきた神?を、真顔で、神の前提として話を進めている楽山の詭弁に気づいてほしいと思います。「(苦笑)」は、その軽さを表しているのです。楽山は、卑怯で汚い男です。
 
酒場で泥酔、カルト教祖、空飛ぶスパゲッティモンスター、という神、・・これは、明らかに、楽山の悪意による侮辱です。酒びたりの天使の、宗教的発言・行為を書かず、酒びたりというイメージだけで、あざ笑いの対象としています。これも詭弁でしょう。
 
そして、「なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいい」と言っています。印象操作や刷り込みは、婉曲の分、いっそう、悪質な決めつけです。議論のあり方を自己中で破壊する楽山に近づかないでください。
 
聖書に表された神は、全知全能・絶対完全・永遠不変という人間の手に負えない御方です。キリストは、人に共感する救い主です。ゆえに、キリスト・イエスを、神と人の間の仲保者という言い方もあります。楽山のような矮小な病質者に語れることは何もありません。
 
聖書についても信仰についても短絡した意見しか持ちえない楽山は、その一方的な思想から、神を、雲か霞のような、薄ぼんやりとした存在感のないものという印象を吹き込みたいようです。楽山は、固定観念で云々しますが、神とキリストは、人が固定できる存在ではないのです。
 
楽山にとって、神という存在は、ボンヤリした存在に過ぎないのでしょう。そこが、字面だけで考える楽山の宗教観の限界であり、即ち、神について語る心の資質を、楽山は持っていないということが、楽山によって、示されているのです。
 
にもかかわらず、神を、机上で決めつけて、神がいるならなぜ悪があるのか、などと、けなしてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、神を、楽山の字面だけの理屈の中で決めつけてきたのです。楽山のような偽善者がいるから、むしろ信仰は必要であり、批判しないと社会悪になるでしょう。
 
私は、何度も、神とその意志と行為を決めつけてはいけない、と書いてきました。決めつけないことが、私の信仰観の中心の一つだからです。決めつけてはいけないと言いながら悪い印象を吹き込んでゆくのが、楽山という狡猾な偽善者なのです。
 
こちらの言い分を、無視するのが、楽山という先入観の形骸のような人です。それは、読書にも表れてきました。学者や評論家と肩を並べるかのように、都合の良いところだけ引用して、自身の軽率で拙劣な理路の中に置いて利用し満悦するのが楽山です。
 
今回も、ふざけて、満悦し、神を、高みから見下ろして、神を冗談のネタにして笑う楽山です。まさに、楽山が、今、野放しになっていることが、神様どうしてですか、という祈りにつながると言えるでしょう。書くたびに、書いた文章に斬られてゆく楽山を、暴露してゆきます。
 
楽山の独り芝居の詭弁と悪意に対しては、私が書けるあいだ、改めて批判を書いて、何度でも投稿また再投稿してゆくしかありません。楽山は、反キリストの偽善者の典型です。
 
 
詭弁が招くのは末路

詭弁が招くのは末路
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月26日、再録+加筆)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
 
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
青年の初めて着た背広姿が
 
いつも歩く散歩道の一歩一歩
死を弄(もてあそ)べる老人が
 
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
 
  徒
 
徒な出会いであったかもしれぬ
片隅に腰掛けて
俯(うつむ)いていた小さな影
あるいは老婆か
生きるための祈りであったか
死にゆくための祈りであったか
別のことであったかもしれぬ
 
ああ誠に徒なる
かの人が出会い
私が出会ったのは
 
私が無駄な時も位置も捨て去りたいとき
この世で最も無為な徒労へと引き戻す
墓穴が欲しければ
それを指で掘り
それを再び指で埋めよと
 
そして小さな影の
かの人を思い出す
大きな雲の
空を見上げるように
 
「徒」は、信徒の徒と、徒(いたずら)のつもりです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、小中学校の頃から自己中であったろうと思われます。自慢をするが、実体のない人なのでしょう。それで、受けのよい体裁だけを身につけてきたのだろうと思います。ふつう、足らざるを思えば努力するものですが、怠慢のため、嘘に走り、気取りだけを覚えたのだろうと思います。
 
そういう気取りで、その場を凌げることもあり、褒められることもあったのでしょう。大人になってからも、続けている人だと思います。しかし、その総決算は、気が付けばだれもいないという末路において顕著となるでしょう。まだ、ずっと、同じことを続けている楽山です。
 
 
 
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人が人を脅すのではなく
神が人を脅すのでもなく
 
人は神を恐れるべきである
というのは
全知全能の御方と信じた神への
キリスト信仰の主軸であります。
 
 
信仰者は人間であり
明らかに全知全能ではなく
神に比べて
はるかに劣った存在であるから
神と人の関係を語る上で
神が上で、人が下
という節操を持たなければいけません。
 
神は、やさしい仙人みたいなお爺さんではありません。
 
悪口と同じ扱いで
キリスト教的な?批判禁忌をもって
批判されると
人が人を脅してはいけない
などと言ってくるのが偽善者です。
 
同じように
神についての疑いを
それは言ってはいけないと
威すのも同様です。
 
脅しは、悲しみではなく、邪悪な牙でしかありません。
悲しみに、脅しを当てる宗教は、カルトです。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)
4:25
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 
4:26
怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
4:27
また、悪魔に機会を与えてはいけない。 
4:28
盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。
4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
4:30
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 
4:31
すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
 (エペソ4:25-32、新約聖書)
 
 
真実を語りなさい、ということから、真実を求めることの大切さを伝えています。
怒ることがあっても罪を犯してはならない・・ということから、復讐という恨みに基づく行為を戒めています。
 
悪い言葉を口から出してはいけない、というのは、悪意だけによる言葉、悪口だけを語ることを戒めています。批判は、相手の悪を指摘することです。怒りはコントロールすることが大事なのであって、悪を見ても怒らないようになってしまうのは、心の鈍麻と破壊であり、同時に、これこそ、偽善なのです。
 
悪口だけを言うこと、嫌がらせを言うこと、当てつけること、ケチを付けること、これらは、批判とは全く別物で、悪意だけの産物です。これを同質であるかのように言って、偽善者は、逆に、自分が批判されているにもかかわらず、批判禁忌をもって、おとしめてくるのです。
 
聖霊の証印は、人が、その凡庸なる善意によって、いちいち確かめることはできません。即ち、人は、その凡庸なる善意によって、批判禁忌を定めることは出来ません。つまり、結果を神に任せる信仰があれば、批判は禁忌ではないのです。批判禁忌は、むしろ、信仰を偽善化する悪口です。
 
パウロが言っているのは、一切の悪意を捨て去ることは、恒常的には、不可能と、痛いほど知っているからでしょう。背教の裏切りは、一度だけではない、ゆえに、悪意に支配されてはいけないと言っています。いけない、という説教であって、これを、戒律と受け取ってはいけません。
 
情け深く、あわれみ深いものとなり、互いにゆるし合う、これは、理想です。パウロの愛の賛歌と同じであって、それを否定形にしたものが、現実の有り様であることを忘れてはいけません。
 
聖書には、愛の賛歌をはじめとして、理想を述べられているところが多々あります。
理想は求めるべきですが、
当為(「べき」の付くこと)と事実を、区別してください。
すなわち、理想と現実を区別してください。
 
キリスト信仰は、善に、特に、自らの善に、のぼせ上がることではありません。キリスト信仰は、陶酔気分を与える信仰ではありません。のぼせ上がって高みから物を言う偽善者の口車に乗ってはなりませんし、自らが口車になってもいけません。
 
 
まず批判が脅しと違うのは
根拠と理由があって否定するということであり
 
批判対象が
神を恐れない言動であるという根拠を示して
指摘するにあたって
遠慮してはいけないということです。
 
人が人を批判してはいけないなら
このことは
人を批判する人を批判してもいけなくなり、矛盾します。
 
人が人に間違いを指摘しなくなったら悪がはびこります。
批判禁忌は、不完全な人から学習と成長を奪い、停滞と無関心へ誘う偽善です。
同時に、悪をはびこらせ、悪を放置して、実際には許容する罪でもあります。
 
今のキリスト教内外には、批判されないカルトとカルト思想が蔓延っています。
批判禁忌という偽善は、カルトが喜んで批判者に向ける常套手段です。
 
人が人を批判しなくなって
神への恐れを言わなくなっても
神は人を叱って脅してくださるか
というと
言うまでもないが
神はひょいひょい顕れて
いちいち手取り足取り
人を脅したり怒鳴ったり戒めたりはして下さらないのです。
 
 
現象としては
私たちは沈黙の神しか知りませんし
それで神を知ったと思ってはいけないでしょう。
 
神は恐るべき御方であり
悪魔が優しそうに誘惑してくるなら
一見、悪魔のほうが付き合いやすく見えることもあるでしょう。
私たちには神と悪魔の区別もなかなか出来はしないのです。
 
起こった現象の
どれが神の意志で
どれが神に逆らう意志であるか
神は、いちいち正解を教えて説明してはくださらない。
これが地上に表れる基本的な現象です。
 
神と人の関係において
神は、人が恐れるべき存在
ということが信仰の主軸であるから
人が信仰を伝えるときには
この関係も伝えなければならない。
 
批判を禁忌とすることは学習と成長を拒むことです。
誰もが批判せよということではなく
意欲があって批判する人を
批判ゆえに罪に定めるのは間違っているということです。
それこそ、逆に、人が人を裁く行為なのです。
 
やさしい神を慕うだけでは信仰になりません。
自分が負うべき使命を考える時を持ちましょう。
 
戒め懲らしめる神を恐れるならば
神を恐れないで嘘を吐く者たちを受容してはいけないのです。
 
これを私は
信仰の節操あるいは弁えと呼んでいます。
 
神よりも劣っていて
不完全で罪深い私たち人間は
直接、神に談判することなど出来ない存在です。
 
神を
どこかにいる徳の高い優しいオジサン
と同じように思ってはいけない。
 
全知全能の神に対して
ご機嫌取りの讃美や
世辞の誉め言葉や丁寧さは通用しない。
 
正直さ以外は何も通用しないのが神であります。
 
これが神への恐れであり
恐れると書いていたものを
「畏れる」などと書き替えてはいけない理由です。
 
 
その恐るべき神に祈るときには
愛のために命を惜しまない救い主
イエス・キリストの御名を通して祈ります。
 
キリストにおいて成就された救いとは
人への愛と共感と同伴であり
神への執り成しであります。
 
したがって
神の前に不正直や
ましてや故意に嘘を吐くことは赦されないが
 
神の前に
あるとき隠したり嘘を吐いたりしても
別のときに罪を認め、悔い改める者を
神は見捨てたままにはしないし
その機会は一生を通して与えられています。
 
そこに神の
人の正直さに対する限りない寛容さが表れています。
 
神は人に対して
真善美の高みに立つことを求めるのではなく
つまり善悪の善を条件とはせず戒律ともせず
 
神の前に努めて正直であることのみをもって
神が人を救うということが
キリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛であり
キリスト信仰の芯となっています。
 
 
聖書を読んで
神に祈るとき
努めて正直であろうとする誠実な信仰があるならば
人の前でも
だますような白々しい悪意の嘘は吐けなくなる
ということをもって
神への正直な告白の祈りが前提であれば
神のほうを向く生き方は
悪ではなく、もちろん偽善でもなく、
真善美の方向に
完成はしないものの
導かれるだろうということです。
 
信仰は、キリストからの共感に、キリストへの共感を返すことです。
 
つまり、真善美は目標ではなく経過~結果に過ぎず、
 
つまり、信仰は、キリストを通して、神の前での、祈りの、正直さであります。
 
 
悲しみは、克服を通して、痛みから記録になってゆきます。
 
悲しみは成長のためにあります。
 
脅しは束縛のために利用されます。
 
 
悲しみは成長の機会

悲しみは成長の機会
 
 
(2019年)(2020年)
(2022年06月20日、再録+加筆))
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
  落ち込み
 
先の目処がない
見通しがない、見込みがない
人生の先に
何も見ることができない者が
見ているものは何なのでしょう
 
本当に落ち込んでいるときに
楽しい歌を聴くとよけい落ち込んでしまうもの
むしろまず悲しい歌でも聴いて
涙が湧いてくるような気持ちになって
気持ちが少し落ち着いてから
充分に休んだのち
少しずつ体を動かしたり楽しい歌を聞いた方がよいのです
 
軽い落ち込みなら元気づけでもよくなるでしょうが
本当の落ち込みは緊張と不安を伴っていて
こころゆくまで泣くことさえできないもの
だから涙の有無にかかわらず
十分な「泣き」を通して初めて
安らぎに似たものが生まれるのです
 
悲しい人
どうか ゆるされて
こころゆくまで
力が全部抜けてしまうまで
泣けますように
 
横たわる
この身の中にせせらぎの
川の流れを聞かしめたまえ
 
うなだれて
見つめる先とて無けれども
目には潤う微かな温み
 
諦めも青き炎か
見つめては
心の底の残り火にさす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、しんみり悲しむという情がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)やサイコパスの特徴です。だから、言葉だけ、トホホ、などと書いてきます。言葉のうわべだけを追っても、そこに真実が得られないので、嘘と詭弁の細工に走るのでしょう。
 
ヤフーブログでの数か月の楽山との遣り取りの経験から申し上げますが、楽山は、こちらの言い分を全く理解せず受け取らず、反省もしません。そして、テーマと似て非なる迷路に誘導して混乱させてきます。何の糧(かて)にもならず異常な疲労だけを与えるのが、楽山の議論の処世術です。
 
楽山の言は、放射性の灰のようなものです。遣り取りを続ければ、放射能のように残留し、心は、灰をかぶって思考も感性も鈍くなり、気づかないうちに、反応性が低下して、似たような嘘と詭弁に逃げるようになったり、人格が壊れてゆく恐れがあります。楽山との遣り取りは精神衛生上、禁忌です。
 
どんなに、もっともらしく思えても、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由を認めてはいけません。言論の義務を弁えず、嘘と詭弁で飾り、迷路で混乱させる楽山に、言論の権利を認めてはいけません。柔和と中立に見せかける楽山の欺瞞に満ちた言論は、いかなる場合も信頼度はゼロです。
 
 
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
正直に反省と学習

正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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  神について語るには4
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが、神という御方を考えるとき、全知全能の神については、私たちの概念の箱には到底納まらないということを先ず言いたいのです。神と聖書について人間が持つべき箱は、修正可能な分かった "つもり" と、分からない保留の箱だけです。
 
したがって、「神」を概念や観念として言葉で考えることは、無理すれば、人が全能者を扱うことになり、教条主義という罠に堕ちるでありましょう。最悪の例を、一人は10年、もう一人は3年、批判しています。全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ、全能ではない人が、神の概念を語ることは困難であり、語るにあたって、少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのかということになりますが、恐れを持つということは、語るなということではなく、語る内容を言葉で決めつけてはいけないということです。どういう姿勢で神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく、導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど、神が人に及ぼした作用の、人における経過と結果から、推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、導きを受けた人のことを語ってもよいし、そういう人の様子や経緯から推測できることを語ってもいいでしょう。神そのものは、人によって捉えられるものではありませんが、神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については、人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから、人が聖三位について語るとき、最も多く語れる対象はキリストであります。人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については、なお人間の理解の届かないところにあります。キリストについて、物や肉体の奇跡を追いかけて、魔法使いの言行録みたいに語ってはいけないと思います。そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと、キリストが救った人々との交流から、救いとは何か、キリストが批判した人々との遣り取りから、救われないとは何か、こららのことを学ぶことは、決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで、自分に、そして人間関係に、さらに思考や感情に、そして人生に、どのような変化があったのかを語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの、信仰がどうあるべきか、信仰者がどう生きるべきか、などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として心が揺さぶられることは、キリストからの愛に、そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて、総じて、導きは祈りに帰してゆきます。祈りは、その日までの経過であり、その日からの出発点なのです。
 
 
神様のことは、徳の高いお爺さんか先生がいるから話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから、会えば分かるわけでもないのだから、会って直接話を聞ける相手でもないのだから、信仰者は、善の代名詞みたいに気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように、自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして、形容だけ大袈裟にして、大真面目を装って嘘を吐いて、神の意志と行為を決めつけてよいわけもありません。
 
神聖について、人が持つべきなのは、確信ではなく、恐れであります。
 
人に起こることというのは、聖書からだとしても、よく語られる超常話が人を救うのではなく、つまり物や肉体の奇跡ではなく、人間であれば理解できるような、人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか、人間に共感できることだけが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが、聖書にはたくさんあります。そこに価値を見出した人は、理解できないことや疑問や矛盾は、人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は、自らの経験と思考の届きうるもの、すなわち、人間であれば理解できること、共感できること、それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは、こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ・・すごぉい!・・というような、奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく、主イエス・キリストが思いを共にして下さるという孤独からの解放を、人間らしい温もりと潤いの心で、聖書から学び、考えて、伝えてゆくことなのです。
 
ここでいう学習とは、聖書を読み、心に響いたことを、体験において考えてゆく作業であります。それは、その人の生き方の問題であり、人間関係の問題であり、人間とは何かという問題になります。キリスト信仰は、それらを、道徳としてではなく、良心の生き方と在り方して学ぶことなのです。
 
 
共感と学習の道

共感と学習の道
 
 
(2019年、2020年、2021年)
(2022年04月28日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの
神への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が大事なことだと分かっているなら、いつでも、反省は出来ることなのです。それをせずに「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと言っているのは、反省する気のない者か、反省ということを知らない者でしょう。育たなかったのでしょうか、反省と学習の精神が。
 
 
 
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  当てにならない2
 
 
私たちは実に当てにならない世界に住んでいます。実際は、当てにならないのは私たちの心であり内部なのです。
 
入力は総て感覚器を通している。内部処理は総て脳が行っています。いずれも寿命が尽きればなくなるものであり、これらは、寿命がある間は維持されるけれど、本当に変わらないで維持されているかどうか、検証は不可能です。
 
当てにならない世界を、当てにならない知情意をもって、断定できる何があろうか。
 
しかしながら私たちは、当てにならない世界において、当てにならない知情意をもって、判断し実行するしかないのである。それが人間の不完全性である。
 
神が絶対でも、あるいは、たとえ絶対がどこかにあっても、私たちには絶対はない。それを知ることが信仰の始めです。絶対とは不変に正しいこと。非絶対即ち相対とは可変で、ときに、当てにならないこと、そして変わりうること。即ち、学習と成長を旨とするべき存在、それが人間です。
 
当てにならない知情意をもって、当てにならない感覚・知性・感性をもって、生きてゆくのに絶対は全く向いていない。にもかかわらず、絶対の訂正不能で、ワナを仕掛けてくるのが、楽山です。
 
神の属性である不変は、変わることなく成り立つということであり、神義すなわち神の正しさも、真理の働きを持ちます。人は、神を、つまり、絶対を、理解することなど出来ません。ゆえに、人と運命を共にする仲保者が、キリストであります。
 
人間の正しさは不変ではなく、より正しいことによって、また状況によって、否定され超克されてゆくのが、人生です。これを人間の相対性と呼びます。信仰をもっても、この相対性は変わりません。これを、一般的には、罪深さと呼んでいます。
 
人間に成り立つ絶対性は、絶対は絶対にないという循環論法にしかなりません。
 
自覚の弊害として、人の絶対は慢心し訂正不能を好みますが、自覚の必要として、人の相対は努力して成長することを求めるでしょう。
 
しかし、人は絶対を求めやすい。絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。だから絶対の存在を確定しようとするか、あるいは確定したつもりの言動を、神の御心だと言って神聖化しやすい。それを信仰と呼び使命と呼び確定して、感じることと考えることを疑いだと、退けてしまいやすい。
 
絶対は神のもので、人は決して絶対を確定できないのに、気安く正邪を神の立場で決めつけやすい。神とは違う人としての身の程を弁えることが信仰の始めであるのに、味方としての神しか欲しがらない信仰は、戒める神と懲らしめる神をそっくり除外して、揺るがない信仰だと思いやすい。
 
これらもまた相対的で不完全な人間の罪性である。
この人の罪性ゆえ、キリストは十字架の道を歩まれる。今も。・・である。
 
 
あらゆる悲劇は信仰者にも起こりうる。その理由は神の秘密ということがある。神は、いつも分かりやすく恵むわけではない。神の考えることを人がいつも理解できるわけではないのです。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、私たちの狭い見識と視野と能力では、神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力、即ち、全能を理解できないことを考えるべきでしょう。真の信仰者は、既に、知っていることです。ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とする。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っている。神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、地上のみならず、総ての世界での計画を持っておられるのでしょう。その詳細は、神の秘密、神秘である。神を恐れるべきとは、このことであります。
 
人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではない。
理解できたら、信じる必要はないからです。
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは
いつも
人の絶対を確信し保証するカルトである。
 
人の相対性は、その自覚は、
信仰とカルトを見分ける決め手ともなるだろう。
 
 
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。また、偽善と偽悪の問題もあります。
 
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
イエス・キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性では語れないところの、優れた洞察と共感を誰にでも示しておられる、というだけで、神聖と信じています。
 
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実だと思います。そこから信仰の敬虔が生まれます。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限らない。
 
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのです。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、信仰からは、離れる方向だと思っていたほうがよいでしょう。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人を騙すのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのか・・などと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすい。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのである。
 
私たちは、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じている。
 
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが、いかなる正しさも、人が敬虔を忘れるとき、絶対の正しさではありません。また、実際には、口で信仰といっているだけの偽善者もいます。聖書のパリサイ人がそうでしょう。私たち信仰者は、罪を認め、悔い改めることが、信仰生活として必要です。
 
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。心を決めつけることは、経験による学習を怠けることになる可能性があります。決心は、暫定的な結論であり、言動の原動力ですが、絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。
 
相対で不完全な人間は、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。
 
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は汚れ過ぎています。洗礼は、神に対する人の信仰告白の儀式です。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも、求道者でも、異教徒でも、無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、否であります。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の心を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであります
 
そして、人に対しては
その"神の前の正直をもって武装"しておくことが大切なのです。
 
 
神に対して、偽り、あるいは、飾る人は、人に対しては、さらに嘘を吐き、自分を立派に見せかけるでしょう。神の前での正直を努めない人は、いかなる讃美の美辞麗句を弄しても、キリスト信仰者ではないのです。パリサイ人は誇り、取税人は自らの胸を打つ喩え話に表されています。
 
 
真理は神に 人には人の真実

真理は神に 人には人の真実
 
 
(2020年04月02日)
(2022年04月03日、再録+加筆)
 
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
  真実
 
宗教人のあわれみは
ときどき気色が悪かったりするので
やめておいたつもりの男が
自分を憐れんだり憎んだりするので
きっと地球は丸いのだなと
あくびをして考えてみるに
 
子供を戦場に送って死なせたり
科学者を殺したりした中世の教会を経て
まだ教会というのがあるのは
昔のことを悪者にして
あれらは間違っていて
あれらは悪かったと
言えるおかげさまだったりしている
 
地球が太陽のまわりを回っていることは
今は誰でも知っているけれど
相変らず日が昇ると言い日が沈むと言っている
感覚というものから
科学はどんどん遠くなっていく
 
宗教人の求める真実が
遠くなりませんように
軽々しく人を憐れんだり
憎んだりするときに
お前が間違っていて
お前が悪いと言ってもらえる
お叱りと憐れみがそばにいて下さいますように
 
面倒は嫌いなので
青信号を
緑信号と呼ばなくてすみますように
急に地平線や水平線がまるくなったり
地球が昇ったり沈んだりしませんように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘と詭弁で言葉をいじって、自分を高める?ことだけしてきて、罪を認めることも、悔い改めることも、鼻で笑って、気にしない楽山です。いくらインテリや学者を気取っても、教える姿勢だけでは、ズルズルな自我の低格が表れるだけです。柔和を装う楽山に、決して関わらないでください。
 
楽山は、何を興奮したのか、最近、二度にわたって、大量の記事を書いてきました。そこに私の発言が引用されていますが、前後関係を無視して、"stは、こういうことを言う奴です" と決めつける乱暴が表れて、結局、楽山は、自らの正体である荒らし体質を、自分で、さらす結果になっています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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