ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:キリスト信仰

 
  当てにならない3
 
 
私たちは実に当てにならない世界に住んでいます。実際は、当てにならないのは私たち人間の心であり内部なのです。神様は当てにならないかということなら、心の支えとして信じている人はいます。
 
望んだ奇跡が常に叶うという信仰?なら、当てにならないだろうということです。キリスト信仰はご利益信仰ではないからです。
 
入力は総て感覚器を通しています。内部処理は総て脳が行っています。いずれも寿命が尽きればなくなるものであり、これらは、寿命がある間は維持されるけれど、本当に変わらないで維持されているかどうか、厳密な検証は不可能である。老化もするのでしょう。
 
当てにならない世界を、当てにならない知情意をもって、断定できる何があるでしょう。しかしながら、私たちは、当てにならない世界において、当てにならない知情意をもって、判断し実行し、生きてゆくしかないのです。それが人間の不完全性そして相対性、つまり、神とは違う非絶対性なのです。
 
神が絶対でも、あるいは、たとえ絶対がどこかにあっても、私たちには絶対はない。それを知ることが信仰の始めです。自分の言動の影響を末端まで追える人はいません。風を追うようなものです。風を捕えるようなものです。
 
 (伝道の書、口語訳)
1:16
わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。 
1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
 (伝道の書1:16-17、旧約聖書)
 
絶対とは不変に正しいこと。非絶対即ち相対とは可変で、ときに当てにならないこと、そして変わりうること。人間は、不完全、ゆえに、罪深いのです。神の、全知・全能、完全・絶対、永遠・不変、これらは、人の手には負えせん。この6つの熟語を否定した不完全な在り方が、人間です。
 
神の属性である不変は、変わることなく成り立つということであり、神義すなわち神の正しさを表します。人間が、絶対を目指したり思い込んだりすることは、当てにならない感覚・知性・感性をもって生きてゆくのに全く向いていません。
 
しかし、人間の正しさは、あ不変ではなく、より正しいことによって、また状況によって、否定されないとは限らないことである。つまり、正しさを追求する努力は、完全にはならなくても、好ましく望ましいとは言えるでしょう。
 
これを人間の相対性と呼びます。信仰をもっても、この相対性は変わりません。すなわち、私たち信仰者は、神ではなく、神の民であります。むしろ人間の相対性・非絶対性・不完全性を自覚することが信仰であります。
 
人間に成り立つ絶対性は、絶対は絶対に無いという循環論法にしかなりません。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるでしょう。
 
 
しかし、しばしば人は絶対を求めやすいのです。絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。そこで、絶対の存在を確定しようとするか、あるいは確定したつもりの言動を、神の御心だと言って神聖化しやすいのです。そこに、人間の最も忌むべき罪と偽善があります。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して、感じることと考えることを疑いだと退けてしまいやすい傾向が、私たち信仰者が、最も注意し警戒するべき背教であります。絶対は神のもので、人は決して絶対を確定できないのに、気安く正邪を神の立場で決めつけやすいことが原罪の源です。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが信仰の始めであるのに、味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は、戒める神と懲らしめる神を、そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすいです。これこそが相対的で不完全な人間の罪性である。
 
 
あらゆる理不尽な悲劇は、信仰者にも起こりうることで、その説明が地上で与えられるとは限らないのです。また、あの世のことを、人間は、天国と呼んでも詳細は知り得ません。天国を捏造する者たちを警戒してください。その理由は神の秘密ということがあります。ゆえに神秘と呼ばれます。
 
神は、いつも分かりやすく恵むわけではありません。神の御心を、人がいつも理解できるわけではありません。決めつけやすい人の罪深さゆえに、キリストは十字架の道を歩まれます。今も、これからも・・ずっとです。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、私たちの狭い見識と視野と能力では、神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力、すなわち、全能を理解できないことを考えるべきなのです。ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とします。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っています。神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておらるでしょう。それが不可知であっても、人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではありません。
 
理解できたら、信じる必要はないのです。
 
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み、
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは、いつも、人の絶対を確信し保証するカルトの類であります。人の相対性は、信仰とカルトを見分ける決め手ともなるでしょう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。人の善悪の判断は絶対ではありません。また、偽善と偽悪の問題もあります。刑罰を伴う法制度は、不完全な人間のための、必要悪であります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性について、優れた洞察と共感を、聖書を通して、誰にでも示しておられると思います。まさに、キリストこそが、人の相対性、即ち、罪深さを語り、共感を表しているのです。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実であり、そう言える人が、信仰者だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限りません。
 
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのです。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、自分は神が分かっているという信仰自慢になり、信仰からは、離れる方向だと思って注意したほうがよいでしょう。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人をだますのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのかなどと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすいです。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのです。
 
私たち信仰者は、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じています。そこには、愛に通じる共感が、キリストによって、聖書を通じて、もたらされているということです。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが、人には絶対の正しさはありません。絶対の義を判断する能力もありません。人は出来ることをするだけです。実際には、信仰と言い、神の義を振りまわす偽善者もいます。聖書ではパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。
 
相対で不完全な人間には、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。神に正直な祈りが出来る人は、悪意に満ちた悪と偽善を働くことは出来なくなるということはあるでしょうが、行為義認ではなく、あくまで、信仰義認によって、神の救いは与えられます。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は、人によって汚され過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式の有無によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも求道者でも異教徒でも無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動と心を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
さらに、神が、宗教や信仰を通さずに、人を選んで何からの使命や役割を与える可能性は否定できません。また、そのことを、いちいち、人に説明することは、為さらないでしょう。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直のみをもって備える"ことが大切なのです。
 
 
信仰の相対性 私たちは風

信仰の相対性 私たちは風
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月02日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山の経歴も怪しいと思います。楽山は自己中促進のアドラー心理学の宣伝をしていました。また、ネトウヨだと思われますし、右翼のA級戦犯を褒めていました。読書は、都合のよい文言だけを漁って、箔をつけるために引用するだけで、勘違いや嘘が多いです。有名人や学者の名前に惑わされないでください。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ろば
@robamimi0314
#幸福の科学
根拠も証拠もなく、他人を
誹謗中傷、侮辱、罵倒、脅迫する言動が多い。それを「教え」としている。
〈例〉
・自殺は罪、永遠に苦しむ。
・ガンになるのは感謝が足りないから
・鬱になる人は周りへの感謝が足りない
・教祖を神と崇めないと地獄に落ちる
午前9:36 · 2021年4月29日·Twitter for Android
https://twitter.com/robamimi0314/status/1387566470033334272
 
楽山は、根拠も証拠もなく、他人を誹謗中傷、侮辱、罵倒、強迫する言動が多いです。それを、一人前の "批評家気取り" で書いてきます。最悪なのは、まともに見せかけるために、丁寧語で、婉曲的に書くことです。また、わざとらしい芝居によって、反省、卑下、などを書いてきます。楽山は、よく読まないと楽山の悪意に気づかないような書き方をするペテン師です。
 
楽山を、批判の仲間だと思っていたら、とんでもない間違いであり、徒労と疲労と人間不信をもたらされるでしょう。楽山との交流を継続すると、楽山の体質であるところの、自己中、無反省、無視、無責任に染まって、楽山と似たような攻撃性だけの鈍い人格になる危険があります。
 
楽山は、リツイートや、ブログ記事によって、やさしそうに、一人前気取りで、誘ってきますが、決して相手にしないでください。楽山は、いかなる人の味方にもなれない自己愛性人格障害です。決して、頼りにしてはいけない人で、誰の仲間にもなれない人です。
 
楽山には、執念深い恨みの感情と、小学校レベルの理屈はあっても、悔いる、悲しむ、反省する、自分の欠点を自覚する、訂正して学習する、人の意見を受け取って考えるなど、深くて高等な思慮と感受性が欠けているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
信仰の相対性などと言ったら、楽山は、信仰は絶対ではないのだから、信じ過ぎてはいけないなどと、自らの、救いにも助けにもならないボンヤリ信仰?を勧めてくるかもしれません。楽山は、嘘と詭弁に生きている人です。楽山は、信仰など、真面目に考えたこともない人です。関わらないでください。
 
 
 
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  線形理解
 
 
(ネットより)
線形(せんけい)
線型性 - 変化の度合いが一定で、グラフにすると直線になること。
線形 (路線) - 道路・鉄道などの路線の形状。
葉#葉身の形の分類。
 
"線形" は、一方向に固定した曲解~妄想という意味で使っています。単純、単方向、短絡、訂正不能、などの意味を含みます。楽山は、学識もなく、思考力もなく、共感力もなく、評論家気取りで、偉そうに語りますが、宗教・信仰などの重要なことについて、辺縁をかすったこともありません。
 
 
聖書には、数々の奇跡物語が書いてあります。そういう、キリストが手で触れて病気が治るとか、水の上を歩くとか、僅かの食糧が千人分になるとか、そういう魔法のような超常奇跡を信じ込むことが信仰だと思っている人もいるようですが、間違いだと思います。
 
そういう信じ方をしている人がいるために、キリスト教とキリスト仰は、夢物語として、キリスト教?、アーメンソーメンねとか、奇跡を信じることだとか、視野の狭い人間になるとか・・で、キリスト者(クリスチャン)を定義されるのは、甚だ迷惑です。
 
何故なら、超常奇跡は人間には出来ない神の業(わざ)であり、ゆえに、超常奇跡を信じることによっては、人格は成長しないからです。そこで、思考がストップしてしまった人は、一生、それがキリスト教と思い込んで短絡した偏見のまま生きるのでしょう。それは、信仰とは関係ありません。
 
そういう安っぽいことをキリスト教だと思い込んでいる安直な短絡が、反キリストの立場で暴言を吐いている楽山のような無神教カルト信者であり、また、平安芝居を専らとする嘘っぱちの偽牧師シャロームshalom であり、そういう低劣思想を訂正不能に決めつけている思想は、信仰の迷惑物質であります。
 
そういう安直な短絡した曲解を否定して、キリスト教と信仰と神を否定する輩は、既に、人間として、人間らしい心が欠損し、良心が成長せず、野次馬の罵声のような、幼稚な雑言を吐いて、寒い寒い恥をさらし、かつ、その恥を自覚しないという人格崩壊の地獄を体現しています。
 
 
キリストの奇跡は、とりわけ、物や肉体への奇跡については、あったかもしれない、なかったかもしれない、という解釈にとどめて、保留するべきです。現代において少なくとも滅多に起こっていない物や肉体の奇跡を信じ込むのは、恐るべき神を決めつけることであり、背教と言うべきです。
 
そればかりか、奇跡頼みになって、感受性や思考力や忍耐力などの人間力を損なう可能性もあります。人間を超えることをいくら念じても空しいだけです。信仰者は、超人ではありません。信仰は、人間性の成長を希望して、限られた命を、祈りとともに生きるためにあります。
 
つまり、物や肉体への奇跡については、終末まで保留するということです。決めつけないということです。決めつけや根拠のない確信は、思考と感性を鈍らせ視野を損ないます。信仰は、視野が成長可能である、つまり、心に未知の領域があるという自覚からの敬虔がないと成長できません。
 
楽山やシャロームのように、信仰を軽く見ることで、人間性と人格が崩壊して、訂正不能となり、何を言っても、考えることと感じることが出来なくなり、同じことを返すしかなくなるような妄想だけの反復エラー再生マシンになっている者もいます。こうはなりたくないという最悪の事例です。
 
信仰の敵は、つまり、楽山やシャロームのような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の者です。サイコパスと近縁です。症状として、楽山の返してくることは、全部と言っていいほど、こちらを悪という前提で書いていますが、その根拠を示したことがないのです。
 
 
キリストの奇跡、とりわけ、キリストの肉体の復活については、あったかもしれない、あるいは、キリストの不滅を象徴しているのかもしれない、という「かもしれない」くらいしか、人間の能力では語れないので、終末まで、保留するべきことです。
 
それを、あったとも、なかったとも、決めつけることは、超常現象が分かり知っているという超人意識であり、信仰ではありません。神は、人間に共感するところの超常の御方です。そのような超常の御方を恐れるゆえに、人間は、超常について断定してはいけないのです。
 
一方、キリストの共感力、キリストの不滅と臨在については、キリスト者は、信仰の中心として、祈りに至るほどに実感しています。幽霊のような存在ではなく、愛されたゆえに愛すべき、共感を受けたゆえに共感を持つようになるところの、救い主として仰ぎたいという実感です。
 
 
この共感が、感性の無い楽山には皆無であります。だから、楽山は、口を開けば、信じてもいないのに信仰について余計なことばかり言います。恵みがないのではなく、恵みに振り向きもしないのです。その身の程を弁えもせず、人格を自ら壊して、信仰の代わりに人格崩壊を広めようとするのが楽山です。
 
知らないことについては黙っておればよいものを、楽山の口は、共感もなく、遠慮がなく、思慮がなく、奇跡が起こらないから神はいない・・というような短絡した幼稚さと獣性によって、疲労物質~病原となっています。楽山の反キリスト性は、理路も、情感も、損なってゆく症例となっています。
 
楽山が最近見せた多量の決めつけ投稿は、楽山の衝動と焦燥と羸痩(るいそう)を表しています。症例として、かなり明瞭です。人間として闇です。信仰については真っ黒です。言論においては、ケダモノです。決して近づいてはいけません。楽山の婉曲言説は、いつも、いつまでも、汚い唾液の病原噴出です。
 
(ネットより)
羸痩(るいそう):
るいそう(羸痩、英: emaciation, 独: Abmagerung)とは、脂肪組織が病的に減少した症候をいう[1]。いわゆるやせ(痩せ、leanness, thinness)の程度が著しい状態であり[2]、症候であることを強調するためにるいそう症[3]、あるいは症候性やせ[4]などと称することもある。
 
 
強がりだけはしたくない

強がりだけはしたくない
 
 
(2022年04月14日)
 
 
 
  別れにⅡ
 
別れが永遠でないのなら
楽しい送別会がふさわしい
にぎやかな船出に
再会の期待と祝福
にこやかな顔が
すがすがしい風の港に並ぶ
けれど包み込むような
緩やかな風の中で
少しでも
ふっと落ちて
戻らないもの
すくいあげたくなったら
果てしない方向へ一歩でも
踏み出したくなったら
別れに
別れを告げている
とうに岸を離れて
見えなくなった船の
去っていった海の
波の彼方に向かって
まだ手を振り続けている
人がいる
 
 
  気づくⅡ
 
あるのか
と問われれば
ないのか
と問い返すしかなく
 
縛られねばならぬのか
と問われれば
それは縛るものなのか
解き放つものではないのか
それまで知らなかった方向を
教えてくれるものではないのか
 
しかし苦痛の種になることもあるし
自問自答を繰り返すうちに
結局気づかなかったことについて
どんな習性をもって
生まれてくるのか
石灰質の殻の中で生まれぬまま
黄色くやがて黒ずんで腐ってゆく
私にとってだけ
ある種の美味の
ほったらかしで申し訳ない
という気づき
 
 
 
(ネットより)
「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(夏目漱石〔草枕〕)
 
このように、人間は、不完全です。
要するに、住みにくい世を、真実を求めているか、あるいは、だましおおせることを求めているか、という分かれ道で、私は、かろうじて前者を、努力目標にしています。楽山は、ニヤニヤしながら、後者を選んでいるということです。
 
悪意を選んだ者は、悪意によって選ばれた道を進むことになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
大事なことを、全く分かっていないことが表れている楽山の言です。反省せず、謝罪せず、平気でいられることが、人格を鈍く、面の皮を厚くして、罪悪感や羞恥心という良心の高等感情を滅ぼしてしまったのでしょうか。良心を滅ぼした後に残るのは、滅びの形骸だけなのです。
 
 
 
 
ロシャのキリスト教は、ひどいことになっているようですが、キレ総主教(?)は、政治ベッタリのようで、大量殺人犯、裏地見る風珍を、ニヤニヤ讃えていました。サイコパスに味方すると、サイコパスになってゆくのでしょう。同教団の他の聖職者が、戦争反対を言っていて少し安心しました。
 
人類の敵は国家でも民族でもありません。人類の敵はサイコパスです。大量殺人が起こるところでは、必ず人間性を失ったサイコパスが暗躍していると思います。日本にも、ネットにも、サイコパスはいるので、権力を持つことがあれば、同じようなことが起こりうると思います。
 
 
 
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  試練と不幸2
 
 
確率的には高くはなくても、ヨブが受けたような試練に、この世的には不幸に、信仰者だけが遭わないで済むなんてことはないでしょう。むしろ、信仰者だから遭う、試される、ということも言えるかもしれません。
 
すべてを失うような不幸でなくても、なんでも守られる、生活困窮からも病気からも守られて、健康で文化的に長生きする、という、身勝手な妄想信じ込み信仰?のまま、何も考えない人にはならないでほしいです。
 
試練は不幸の形を取って、すべての人に起こるという地上の定めに対しても、安穏としているのが人間だから、信仰は試されるのです。ゆえに試練と言う・・ということを忘れてはいけないでしょう。
 
その時、悪魔のような病的ナルシストが、熱心に信仰を捨てることを勧めるかもしれません。まさに、現在進行形であります。
 
 
 
「おかしいと感じるなら、
速やかに、その宗教とは距離をとるのがいい。
信仰を続けようとして疑問を抑圧しても、
苦しみを長引かせるばかりだ。」
 
「苦しみを長引かせるばかりだ」・・まるで安楽死を勧めているような楽山です。やさしそうな言い方に惑わされないようにしてください。当たり前のような言い方で、宗教は苦しみを与えるから「苦しみを長引かせ」ないようにと、信仰を捨てよ、・・とでも言っているような、乱暴な筆致なのです。
 
自己愛者は、気遣いが出来ないので、こういう場違いのピント外れの表現が多くなります。宗教に一時的には疑問をいだく人は少なくないということを悪用した誘惑であります。楽山は、何の役にも立たないのに、説得力も根拠もなく、宗教と信仰を目の仇にしている反キリストです。
 
このような悪しき誘惑をする者こそカルトに多い自己愛性人格障害者であります。こういう者からは、直ちに逃げてください。話せば分かるなどという人ではありません。詭弁で疲れさせて、思いやりに見せかけて、疲れたんじゃないですか・・などと言ってくる白々しさです。
 
 
耐え忍ぶ者は救われる。しかし、救いが地上で起こると思い込むのは、神の意志を決めつける罪であります。人間が逃れられない死という定めに対して、命を捧げたキリストの共感を得て、信仰者は、できることをして、できないことを神に任せる弁えと恵みのうちに過ごします。
 
神の前に、へりくだり、神に対してだけは、正直に祈る、という自由を忘れないでください。そういう時と場所を持つことが、ある種の解放につながるでしょう。人間に必要な信仰は、超常ではありません。
 
 
試練の向こうに

試練の向こうに
 
 
(2022年04月07日、再録+加筆)
 
 
 
※ 
 
楽山のような自己愛性人格障害者は、人の言うことに対して、弁明も反論も反省もできないのに、できないまま、何事もなかったかのように、また、自己満悦記事やツイートを書けるし、同じ目的でリツイートも出来る異常者です。詭弁の卑怯な陰気臭さが、うわべだけ、ヒト型になっているような楽山です。
 
こういう平静を装う冷酷な者の存在は、社会にとって、真面目に生きている人にとって、恐怖以外の何ものでもないと思います。楽山にとっては、理路も共感もないのに、文字と言葉を並べることだけは出来るということが、最も不幸なことなのかもしれません。
 
楽山は、都合が悪くなると、スルーするとか言って、無視して平気そうですが、無視は何も起こらないのではなく、弁明できないことを意味します。それさえも、楽山は、分からないから、話を変えればいいと思って、別のことを書いて、気にしないようにする悪癖が身についています。
 
楽山は、無風地帯&安全地帯に住んでいるつもりでしょうか。そのような場所は、どこにもありません。孤独であっても、人は関わりの中で生きています。関わりを無視しては生きられません。むしろ、楽山のいるところは、無法地帯の崖っぷちなのです。
 
自己愛性人格障害者そして病的ナルシストは、学習意欲も真摯さも向上心も反省力も理解力もないから、繰り返し読まされるほどに、毎度、うんざりするか、がっかりするかして、おえっ・・と顔を背けたくなるような見苦しい文章を書いてきます。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
悲観的な人は、何も起きてなくても悲観的になる。
楽観的な人は、何が起きても楽観的でいる。
後者のほうがずっと楽しいわ。
とりあえず
「なんとかなるさ」
ってつぶやきましょ。
午後2:23 · 2021年4月2日·Twitter for Android
 
自らの置かれている状況を弁えず、平気でツイートを引用して、平気で、なおも教えたがる楽山です。今までの不都合や失敗や失言を完全に無視して人のせいにする自己愛性人格障害者は、何が起きても楽観的でいられるでしょう。この無神経によって、徒労と疲労がもたらされ、人格を破壊されてゆきます。
 
だまされた人は、「何とかなるさ」と呟いても、離れて自主性を取り戻さない限り、自分の心と言葉を取り戻さない限り、どうにもなりません。だます人は、無反省で無責任の訂正不能ですから、最初から、どうにもなりません。
 
性格についての一般的に励ますようなツイートを、楽山は、自己正当化にすり替えて満悦するほど、どんな迷惑をかけても気にしないでいられる病的な楽観主義なのです。罪悪感、思いやり、悔いる心、共感などの、高等感情がないからです。
 
エサを漁る野良犬のように、楽山は、他者から、本から、漁って、都合のよい言葉を引用しては、自分に都合のいいことを暗示し刷り込むために、曲解し、悪用してきたのです。人の迷惑など、一切、考えることがありません。
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
隆法チャンとヒトラーが重なるなら
学園とヒトラー・ユーゲントの比較検証も必要かもしれん
>>
山内ビン@葬式を在家に
@vincent20200110
 · 19時間
返信先: @Null259216さん, @hamayokomegumiさん, @asasfjggさん
ゲッシュタポみたいですね。これでは隆法チャンはヒトラーと同じですね。
午前8:44 · 2021年4月3日·Twitter Web App
<<
 
「かもしれん」という荒い言い方で、ヒトラーの独裁と大虐殺の歴史へのたとえを、ヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団体)という話に広げて、乗ったつもりで、説明もなく、それだけで、冗談として、面白がっている楽山です。他者の不幸を面白がる体質が表れています。
 
このように、冗談っぽく反応するけれど、自らの立場や責任などは全く考えないところに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が表れています。宗教を考えるのではなく、揶揄したいだけなのです。自分も独自の独裁のユーゲントのつもりでしょうか。
 
そういう自己中と、弁えの無さが、書く文章にも、引用にも、さまざま表れてきたにもかかわらず、当事者意識がなく、揶揄が大好きで、つまり、何事につけ、真剣味がないのに、図々しく関わってきて、結果、無反省、無責任と言われても、平気なのです。
 
楽山は、前に、宗教について、否定を書いて、あとで、肯定を書いて、断定していないから責任はない、という、無責任の正当化?でしょうか、詭弁というより、奇便とでも言うべき、言い逃れを書いていました。理路も心も、まるで育っておらず、学習しておらず、何も整っていないのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
広報チャンネルが、「大人の教養TV」を批判してる。
タイトルには「あきれた無教養」とあるし、動画内では「デタラメ」「嘘」などともいってる。
広報チャンネルは、宏洋氏以外にも、こんな乱暴な言葉を投げつけるんだね。
 
「あきれた無教養」「デタラメ」「嘘」・・楽山についてならば、実感をもって、本当です。
「乱暴な言葉を投げつける」・・楽山は、丁寧語に、詭弁と嘘を込めて、投げつけてきます。
 
楽山は、教養もなく、思考力もなく、デタラメで、温かい感受性もありません。反省しません。責任を負いません。ゆえに、関わると、詭弁の罠によって、言い知れぬ疲労を与えてきます。
 
訂正不能の自己中心で、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断します。誰も近づいてはいけません。まともな人間と思ってはいけない人です。間違っても、やさしい人柄などと思わないでください。前に、楽山ブログに、そういうコメントが付いたことがあるので申し上げています。
 
今までの発言の嘘と詭弁を思い返してみるたびに気持ちを新たにするのですが、腹は、下血のタール便のように黒いのです。楽山が平気で上のようなツイッターで書いてくることが証拠になっています。楽山は、「乱暴な言葉」の代わりに、汚い屁理屈の迷路を用意してきます。
 
 
 
  動かない死
 
肉体は座ったまま
動かなかったので
次第に乾いていった
頭皮から離れたフケが髪の間に点々として
かつて食したであろう食物の残渣が口角でひび割れ
鼻から頬にかけての皮脂が乾いて
こわばったうろこのように落ちかけていた
 
そのまま消えていくと思っていた
座ったまま便通は圧迫され
腸の動きは眼のように不明だった
眼脂に覆われていたのである
 
やがて形なく
透き通り
消えてゆくはずのもくろみは
思いに反して
よりかたくなで
固い肉体を作り出していた
 
心は座ることができなかったので
乾いてはいても
絶えず何かを思わずにはいられなかった
とうに周囲とは無縁であったが
いつしか清潔な裸体を想像していた
 
明日はなく
昨日は捨て
今日の消滅を願っていた
来る日も来る日も
死は肉体よりも心に近く
そのくせ清潔な裸体ばかりを描いていた
 
 
  バラバラになって
 
奇妙なやつだ
死んでいるはずなのに
 
バラバラになって
半分焼け焦げた肉片が
あちこちに転がっている
 
黒焦げになったのや
まだくすぶっているのもある
 
口と鼻の一部が
瓦礫の上に斜めに傾いたまま
少し離れて片方は飛び出した眼球から
原形をとどめない髪の頭部までが
逆さになって
 
言い残したことでもあったのか
唇はしきりに動かしているし
目はキョロキョロとあたりを見回したり
時々こちらを見ている
 
声にならないので何を言っているのかわからないが
むごたらしさ以外の何かを
伝えようとしているように思えてくる
 
ひょっとしたら彼も
隣に転がっている私を何か言いたげな
妙なやつだと不思議がっているのかもしれぬ
誰かが私を持ち上げた
天と地が大きく回った
 
反応がない
周りの人たち
口を動かし声を出そうとするのだが
出てないらしい
 
ドーンと
音と衝撃のようなものがあって・・・
そこまでしか覚えていない
 
ライトはやけに明るいが
もともと暗い部屋だなここは
 
胴体と手足を並べている人
その足首は違うよ
私のじゃない
気づいたらしくどこかへ持っていった
別の人はしげしげと眺めては何か書いている
 
皮膚や肉を切り取ってガラスの皿やビンに入れながら
話しあっている別の人たち
メスを入れるのか痛くはないが
 
幾人かは書類を持ってすでに去った
やがてライトが消され
カバーをかける一人を残して皆去って行く
 
とても暗いよ
ちょっと待ってもらえないかな
まだあるんだ言いたいこと
たくさん持って私ここに
まだ・・・ある・・・のに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「難しいんだよなあ」・・みんなそうでしょ、ですよね、というニュアンスを載せた危険な誘導の言い回しです。それで「自分もそんな風です」という同意は、一般化の詭弁です。つまるところ、「反省」なんかしない、という詭弁なのです。・・とんでもない、無反省は非人間です。
 
 
 
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  受け取るべきこと2
 
 
Q.
 
キリストは
いわれなき罪のために十字架につかれました。
パリサイ人たちは悪い奴です。
彼らが憎いです。
 
A.
 
何を言っている。
キリストを殺したのは私たちだ。
そうあってはならないから
キリスト者は祈っている。
 
そのことを、神は既にご存知であるのに、どうして、信じることを、分かっていることにしてしまうのか。信仰者は罪深くて不完全であるのだから、神の前で、知っている、分かっている、見えている、守っている、・・これらは、信仰自慢である。分からないという正直さを、神の前で持つべきである。
 
 
キリストの言行録で、私たち人間が感動できるのは、キリストの愛に溢れた洞察力と共感力だと思います。何度も言ってきたことですが、物や肉体の奇跡の話は、驚きこそすれ、今の時代、物や肉体の奇跡は滅多に起こらないという現実があるのだから、信仰の中心にはなりません。
 
数々の奇跡のみに注目して、いつか起こる、いつか起こると、物や肉体の奇跡ばかりを祈り願い待ち望んで、それで人生が終わるのがキリスト者ではありません。魔法を願って思考停止することを、神は人に求めるでしょうか。神は人を考える存在として造られました。
 
奇跡頼みは、私たちの日常において、考えるべき様々の課題から目を逸らすことになりはしないか。奇跡の話ばかりして讃美しまくり、信仰者の弁えとしての神への恐れを全く無視している者を見ると、人格を自ら破壊して、まるでケダモノのような卑しさを感じます。
 
物や肉体の奇跡は、人間にとって、わけのわからないことです。即ち、真似のできないことであり、心掛けようのないことであり、誰でも与えられる恵みとして期待するほうが無理ということです。努めようもないことなのです。
 
また、情欲の聖句や、敵を愛せよ、など、守れもせぬ教えを、できるだけで守っている気分になっていると、旧約が伝える神と人の絶対的な違いや、新約が伝える神格が人格に与えるものを、疎かにしかねないと危惧しています。
 
冒頭に書いたように
私たちが受け取って感動し共感できるのは
魂あるいは心の奇跡と呼んでいるもの
即ち、救われた人々との交流において表されたところの
キリストの洞察と共感(=愛)である。
私たちが受け取れるもので
私たちに分かるのは
それ以外にはないと言ってよい。
 
キリストの愛と洞察と共感を受け取れば
私たちの中で確かに生きてくる賜物となり力となるだろう。
 
このことは人間という存在を考えるとき
必ず、思い考え、さらに憧れてよいことである。
どうしてそのことに心を砕かないのだろう。
 
物や肉体の奇跡のことは
御心のままにしかならないものとして
私たちも御心のままにと祈るほかはない。
 
私たちは自由意志を与えられているのだから
教えや聖句について
今の自分の受け取ったと思うものを
固定するべきではない。
 
私たちは成長することで
堕落に対抗することが必要であり
それが可能になるためには
聖書についても、読んだとき聞いたとき
分かったつもりになることを避けて
正直な心で疑問は疑問として保留にしておくべきだ。
いつか本当に分かって感動するまでは
というより地上に生きている間は
理解が腐敗することのないように
訂正不能にせず、保留にしておくべきだ。
 
私たちは
神の言葉を即座に理解するほど優秀ではない。
さらに私たちは
理解したつもりのことを不変に保持することは出来ない。
心は、揺らぎ、移り変わり、場合によっては腐敗する。
 
神には起こらない不安定が起こるのが人間であり
風を追うようなものとは、私たちすべての人のことである。
その証拠は、私たちの、死すべき定めにおいて明らかである。
 
私たちの成長は、
成就しても限りあるけれども
それさえも
神の前に、飾ったり、偽ったりする者には
決して達成されることがない。
 
日々、精いっぱい正直に神に告白し祈ることで
はじめて、ようやく、達成に方向付けされるだろう。
 
 
私の言うことを取るも取らぬも読む人の自由です。
しかし、取る、あるいは、取らない、ということを、
今、決めてしまうことも
不完全で罪深い私たち信仰者の成長のあり方ではないと思います。
もし心に残るなら、時に、考えてほしいと思います。
 
悪口に、悪口だけを返すことのないように
侮辱されて、侮辱だけを返すことのないように
憎まれて、憎しみだけに固まることのないように
自分の快楽原則のみで他者を無視するようにならないために
迫害されて、お返しに、害することのないように
自分を守るために、神の名によって、硬く自閉することのないように
悪しき刺激を受けても、心がいつまでも乱れていることのないように
攻撃されても、神の復讐だけを願う生き方にならないように
被害的念慮と他罰的念慮に凝り固まることのないように
神の裁きを求めることが、人の人への復讐祈願にならないように
神を信じることが、他者を呪うことではなく、解放であるように
 
主の御名によって祈っています。拝。
 
 
(私個人の祈り)
 
どうか母をお守りください。
どうか兄をお守りください。
今は亡き父とおばちゃんたちが安らかでありますように。
私が愛する人々と私が思っている人々をどうか守り導いてください。
 
年を重ねるごとに心身の衰えが目立ってきました。
御心ならば、私の痛みと苦しみを取り去ってください。
わが罪をお赦しください。
この罪人をお赦しください。
どうか離れないでください。
 
この祈り、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げいたします。アーメン。
 
(※ 御心、御名、御前の、御は「み」と読んでいます。)
 
 
祈り 音信

祈り 音信
 
 
(2020年03月10日)
(2022年03月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの胸
 
風通しのよい胸だ
ほとんど風化している
どんな風が吹き抜けたのか
吹き抜けた風は
今どこに
見知らぬ野原で
草を揺らしているのか
昔懐かしい人の前を
一瞬でも通り過ぎたか
答えようもない問いが
ぽっかりあいた胸の中で
ときに胸をひらひらと揺さぶっている
 
風通しのよいことが
気持ちよいとは限らない
空っぽの胸はウソの胸
吹き抜ける風はウソの風
通いなれた道を通り
なじみの街を過ぎ
風化した穴に
今も聖なる心と
聖なる血を求めて
ため息で祈る
 
からっぽになりたいです
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
嘘と詭弁で妄想を刷り込んできて、人を偽りでだましてきた罪を、「反省。とほほ」と言い、ここでは「一種の、人間の性」で済まそうとする楽山を、許してはならず、赦してはならず、放置してはならず、同じことを続けさせてはならないと思います。
 
楽山は、悔い改める日は来ないかもしれません。しかし、私たちが、悔い改めない楽山に、操られる日が来てはなりません。楽山が、何らかのカルトを始めたり、嘘で人をだましたり、嘘を吐いて何らかの偉そうな地位についたりしてはなりません。その時の被害は、今より遥かに大きいからです。
 
 
 
(ツイッターに書いたこと:)
 
私は、数か月、楽山と直接の遣り取りをしました。人格が壊れそうなほど、異常な疲労と徒労を味わいました。人生で初めてです。よって、以後今まで3年余りは、直接の遣り取りを禁忌として、こんな異常者がいると知らせるためにブログとツイッターを利用しています。その間、判断が覆ったことはありません。
 
st氏が自分はブログやツイッターに楽山批判を書くが、楽山は出入り禁止(書き込み禁止)とした事実は変えることはできない
 
楽山は、遣り取りするだけで害を及ぼすからです。犯罪者や害虫や猛獣や危険物と同じ扱いになります。家には決して入れずに、警戒情報を発しています。
 
 
どうか、楽山に、関わること、近づくこと、応答すること、一切、しないでください。ご自身の精神衛生のためです。楽山は、嘘と詭弁で、人を振り回し、疲労させ、壊してゆくサイコパスです。3年間、変わることのなかった判断ですから、人間レベルでは、結論といっていいと思います。
 
私は、努めて、できることをして、それ以上は神にお任せします。人間は、できることを精いっぱいすることが使命、そして、そこまでが能力なのです。楽山は、病質者であり、公共の害毒~病原です。
 
 
 
 幸福の科学は、宏洋氏に勝訴したそうだ。
 2022年03月20日 幸福の科学とは何だろう?
 
物事は一方の言い分だけで判断してはいけないというのは本当だと改めて思う。
 
HSについての記事のようですが、楽山は、自分の言い分だけを、ちょいと書いて、他者の意見を無視し続けています。そういう人が、上のように書くことは、実に、白々しい。楽山の言うことは、いたるところに自己正当化の詭弁が含まれてくるということです。印象操作による刷り込みと言います。
 
当たり前の道徳を書いて作為を隠すのが、楽山の気持ち悪い筆致です。今までも「人それぞれ」「人は人、自分は自分」「意見を言ってはいけないのでしょうか」などと書いて、自分の身勝手を正当化するなど、はっきりした主張をせず、ほのめかしてきました。一般的なことを、個別に印象付ける詭弁です。
 
正面から物が言えない半端者は、このようにして、憂さを晴らすのでしょうか。それとも、暗示によって、人を操る教祖願望の表れでしょうか。いずれにしても、個人でも、組織の一員であっても、まともに付き合ってはいけない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山です。
 
今まで見てきたことから、楽山は、理論家を気取りますが、まともな思考の理路が拙劣です。かつ、深い共感を持ちません。思索できず、感受できず、分かっていると思わせて、インテリを気取り、詭弁と嘘で信頼を得ようとします。遣り取りを続けると、結局は、一種異様な疲労を味わうことになります。
 
 
 
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  細い道2
 
 
信仰は、この巷では、細い管、細い道です。聖書を読んでも読まなくても、キリストの共感に共感できる人は少ないのです。信仰を信じ込むことだと思っている人は、一つの宗教を信じると、視野が狭くなると思っているのかもしれません。
 
信仰を曲解して視野が狭くなるのは、恐らく、信仰を勘違いして、豪語したり、戒律的だったり、夢想~妄想的なことばかり言って、それが信仰だと思っている人たちかもしれませんが、それは、宗教の間違ったあり方です。
 
キリスト信仰は、人間の良心、すなわち、悲しみと共感に、たとえれば潤いと温もりに、人間を惹きつけ、働きかけるものなのです。
 
良心を持っていない人には、宗教が、ご利益の都合のよい超常現象か、念じて頷く自尊か、神と人の取引関係の仕組みに見えるのでしょう。そういう人は、人格障害の病質者として、現に存在しています。
 
信仰は、信じ込むことではありません。共感することです。その共感が忘れられないことになって、心も思考も、人間らしさを失うことはなく、むしろ求めて、人間として真実を追求する道を進むでしょう。
 
一部の、言葉だけの絶対化に走る教条主義が、わざわざ人間の器を狭くしている、というカルト的な事情は、二千年前と、まるで変わっていないのです。真の信仰は、信じ込むこととは全然違います。洗脳とは全然違います。
 
信仰に、そのような偏見を生み出したのは、一部の曲解している人たちです。それは、カルトの道であります。人が決めた道から外れると、とたんに、呪いのような言葉をかけてくるでしょう。そして、そのような、呪いのような決めつけは、宗教を自認している人だけではありません。
 
反宗教にも、そのような、偏見を与える者たちがいます。彼らは、自分の傷当てに、宗教をけなします。では、彼らが宗教の代わりになる救いを与えられるかといえば、何も提示できはしないのです。無神論は、見たところ、全く論ではなく、むしろ、無神教カルトと言ったほうがよいでしょう。
 
宗教をけなして、けなしっぱなしの者には、責任など負えません。まわりまわって、彼らが、ついには、けなされるのを、待っているだけの存在です。反宗教の煽動者は、せいぜい、宗教は、信じ足りなくてもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などという、いい加減で中途半端なことを言ってきます。
 
実際、悩み苦しむ人に何の助けにもならないようなことを言って自慢してくる者がいます。その中に、自己愛性人格障害者・病的ナルシスト・サイコパスも含まれていることを知ってください。彼らは、自慢~自慰をしているだけなのです。
 
真の宗教は、悩みがないという自覚の人に信仰を勧めたりはしません。不安を煽ったりもしません。宗教と信仰を知るのは、何らかの悩み苦しみが生まれた時からでいいのです。何故なら、悩みのない人に、悩みから救われる道を伝えるのは意味がないからです。
 
 
細い道 道なき道

細い道 道なき道
 
 
(2021年03月15日、再録+)
(2022年03月21日、再録+加筆)
 
 
 
  細い管
 
 
まことに そこはかとなく
細い管の先で 出会うもの
泣いたり笑ったりの
デリケートなところを
もらっている
または
覗いている
 
求める主体も
求める対象も
人間
または
温もり
 
それを追うためだけに
彷徨う
または
遊ぶ
 
響き合うメロディやリズム
ふらちな首や手足が
貧乏ゆすりのように
合わせようとして
外れる
または
踊る
 
喜 怒 哀 楽
 歌 音 楽 快 不快 悲
顔を向け 背け 振る
受け取って
我流に
流す
または
楽しむ
 
自己中の自己満の自覚から
流してしまいたい欲求に
答えてくれよと
欲望
または
共感
 
導かれてリンク先
ヘビメタ 重金属
顔が分からぬ
メロディが分からぬ
歌詞が分からぬ
ノイズ
または
サウンド
 
ダンシン、ダンシン、20代
ディスコなんか行ったことないのに
飲み会、二次会、空いたスペースで
酔っぱらって踊っているタコのオレ
向かいの女の子が
きれいな笑顔で近づいてきて
怖じけて引いた
今も後悔
または
今も思い出
 
まぶしいライトの
デコレーション
ミュージック
点滅
または
煌めき
 
数分が重なって
一時間二時間
過ぎる
または
過ごす
 
まことに 
そこはかとなく
費やす時間の
傷当て
または
娯楽
 
 
(2020年)
 
彷徨う(さまよう)
煌めき(きらめき)
怖じける(おじける、怖ける)
 
 
  憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に倒れるのを
足をつっかい棒にして進んだことになる
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
目を閉じる
 
 
※ 
憂い(うれい)
慌てる(あわてる)
 
 
 
 
  楽山のリツイートですが
 
楽山は、また、他者の発言を借りて、言い逃れをしてきます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
山本芳久
@201yos1
「ヨブ記」の講座の準備の為に内村鑑三『ヨブ記講演』(岩波文庫)を読んでいるが、めちゃくちゃ面白い。ヨブの苦しみに肉薄していく内村自身が人生の中で味わった様々な苦難が、迫力のある文体を呼ぶ寄せ、稀有な作品となっている。人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。
https://iwanami.co.jp/book/b270884.html
>>>引用ツイート
山本芳久
@201yos1
 · 2月28日
【4月期オンライン講座のお知らせ】
新設講座「旧約聖書入門:「ヨブ記」を読む」を開講します。この世界に生きる誰もが避けて通ることのできない「悪」や「苦しみ」にはどのような意味があるのか。この根本問題に正面から取り組んだ「ヨブ記」を冒頭から丁寧に読解します。
https://nhk-cul.co.jp/programs/program_1225650.html
>>>
午後1:01 · 2021年3月14日·Twitter Web App
https://twitter.com/201yos1/status/1370948219975331841
>>
 
「人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。」・・そうです。私の主張でもあります。この発言において、引用元は、正当だと思います。楽山は、人間を、考えることすら出来ません。だから、超常のことばかりで宗教を語ります。楽山は、人間も、神も、まるで知りません。
 
神を努めて知る、ということは、人間を努めて知ることと同値であります。人について考えることなくして、神を知ることはありません。神を知ることは、聖書を読んで考えること、そこから、人間について考えることと同値であります。
 
神を知ることは、決して、人間を超えて、神聖や心霊になることではありません。ここを間違えている例が、超常信仰であり、楽山その人であります。
 
人は、この地上で生きる限り、神聖には成れません。人は、人と世界を見て、神聖にあこがれ、神聖に究極的な希望を託す身であります。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
楽山は、人間を知りません。その表れが、無反省・無責任・無理解・無神経となって表れています。人間を知らないから、楽山は、そのままでいられるのです。そして、性懲りもなく、また、人の口を借りて、言い逃れをしてきます。当然、楽山は、神も信仰も知りません。
 
楽山は、神聖も分かるんだ!・・と、妄想を叫んでいるようなものです。リツイートにしても、本からの引用にしても、利用~悪用されたほうは、たまったものではないです。冷静を装う文章は、狼狽に過ぎません。
 
(ネットより)
ろう‐ばい〔ラウ‐〕【×狼×狽】 の解説
[名](スル)《「狼」も「狽」もオオカミの一種。「狼」は前足が長くて後ろ足が短く、「狽」はその逆。「狼」と「狽」は常にともに行き、離れると倒れるのであわてるというところから》不意の出来事などにあわててうろたえること。「株価の急落に―する」「周章―」
 
楽山は、神を知りません。なのに「神をよく知る」者のように尊大な口を利きます。楽山は、屁理屈で、神?を、オモチャのように、もてあそんでいるつもりのようです。実際には、楽山が、救いからも聖書からも、はてしなく遠いオモチャの世界に戯れているだけなのです。
 
楽山には、真面目さ、真摯さが、どこにもありません。この2年間で、楽山が表したのは、そのような偽善と作為と悪意と訂正不能の自尊過大の凝固性だけの偽物でした。善人、学者、評論家ぶっている丁寧語に、だまされないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の本性が荒らしであることが明らかになっても、控えることのない厚顔で文句を言ってきます。仲間を頼むか、またしても成りすましによって、「素直に詫び」ることなく「嘘ばかり重ねる保身だけ」で「卑怯者」で「開いた出店を畳む」こともしない立枯(たちがれ)病となっています。
 
(ネットより)
立ち枯れ病はカビが原因で、植物が感染する病気です。初期であれば生育不良を起こしますが、そのまま進行していくと根が腐りますので、徐々に下から枯れていきます。
 
 
 
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