ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:キリスト教

 
  失敗と悲しみ2
 
 
後半は、昔書いた詩のようなものですが、数々の失敗を抱えて、歩いてきた悲しみの道の、さらに先に、ようやく成長の意志と足跡があり、小動物に喩えたくなるくらいの不完全で罪深い人間がいて、召される日までを過ごしているのです。
 
「フットプリント(足跡)」という詩があって、キリストが自分を背負ってくれて、足跡が一人分になったという感謝と讃美の詩ですが、それが、自分の小ささや弱さ ≒ 罪深く不完全な自分という自覚がない者によって、自己正当化の根拠として悪用されるということを知るべきでしょう。
 
実際に、この「フットプリント」を載せて、悦に入っていた最悪の偽牧師の偽善者がいます。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」と言って、馬脚をあらわしました。全く悔いることがなく反省しない自己中でした。
 
私は、フットプリントのような気持ちよくなる詩よりも、罪深さの自覚を促すような悲しみの詩のほうが好きです。感謝と讃美につながる詩よりも、人間の罪を何かに喩える詩のほうが好きです。人間が成長するのは、悲しみのうちに、思いを深め、考えるときだからです。
 
 
 
  二人の背教者(創作、一部加筆)
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々は戸惑った。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。
 
他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が狼狽しつまずいた。あるとき、裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
「あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。
 
それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。しかしあなたは誰もが知るところで公然と「神はいない」と言った。ゆえに、誰もが知るところで公然と批判されるのは当然のことなのだ。
 
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。
 
あなたが、彼らに会い説得し、彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い、信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。」
 
 
 
  悲しみの大切さ
 
良心の表れとしての悲しみを感じないのがサイコパスです。その代わりに、悪意の感情として、怒ったり、笑ったりします。
 
悲しみなんて笑い飛ばそうなどということが言われることもありますが、悲しみは、ないほうがよいものではなく、人間が成長するために、いちばん大切な感情です。自分を見つめる最大の機会なのです。
 
悲しい時にこそ、人間は、悔いたり、反省したり、過去も現在も未来も、もっとも純粋な気持ちで、考えることができるのです。キリスト信仰者にとっては、必然的に、考え、祈る時なのです。
 
悲しいとき、涙も出ない呆然とした時が過ぎて、涙が止まらないほど泣く時を過ぎて、涙がじんわり浮かぶ時が訪れたら、しんみり、悲しみ、じっくり、考えてください。悲しい時は、成長の機会なのです。
 
 
かなしみは成長の機会 悲しみを学習する

かなしみは成長の機会 悲しみを学習する
 
 
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月29日、再録+加筆)
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
 
  航海のあと
 
どだい長い航海など
できそうにないような
今にも沈みそうな船に乗り
ちっぽけな癒しの心を懐に
小さな港から船出する前に
わかっていたはずでした
 
よく聞こえない聴診器に文句をつける前に
よく聞き取れない耳を
聞いたまま口をあけっぱなしの頭を
打ち砕くべきだった
 
船が傾いているのを
人が引き止めるのも聞かずに
海が傾いている
と言ったときには遅かったのです
 
船の残骸といっしょに
小さい島にいます
小さいものにばかり縁があるらしい
小さい懐には濡れて乾いた
小さく縮んで恐らく
他の人にはわからない微かな匂い
まだ残っています
 
悪いことばかりじゃなかったよな
と次から次に
波が笑顔に見えることがあります
 
島には地平がなくて
毎日消えてしまう足跡の
浜を除けば島の輪郭は
どこから見ても海に落ちているのでした
 
最初船出したときから
いつ海の深い水底へ
引き込まれてもいいつもりでした
覚悟が観念に変わっただけです
 
でもどうしてでしょう
波の穏やかな日にときどき
急に真顔になって
水平線を睨みつけているのは
 
 
 
  黒く細い道
 
昔どこまで続いているのか分からない
黒く細い道があった
どこか人里離れたところへ
向かっているようだった
幾度か足を踏み入れそうになった
 
しかし早々とその道へ
行ってしまった人を見送りながら
その余りの正直さを
脳ミソが沸騰するほど憎んだので
狡くなってやろうと無謀にも
抗うことに決めた
 
明るく広い道を選んだつもりだった
でも本当は人里離れた所で
絵でも描いていたい暗く細い体は
場違いな明るさに
外側から腐ってゆく脳ミソを抱えて
漸く手に入れた紙切れに乗って
随分と長い間
違う感じの人々の場を奪っていた
 
今になって
あの黒く細い道を行くと体は
内側から腐ってゆく脳ミソを
抱えることになるのだろうか
 
でも黒い道から這い上がって
元の道に戻る人もいるし
光差す土色の丘へ
登ろうとする人々もいるし
 
あの沸騰もなくて最初から
細い道を辿れば
いずれ落ち着ける場所があって
今頃は何ものにも縛られることなく
誰も見ない絵を描いて
のんびり過ごしていただろうか
などといろいろ
首を引っ張ってみたり
髪を引っ張り上げてみたりするのだが
似たようなものだ
今は人々の場を離れて
明るくもないが黒くもない
道とも呼べそうにない
広さも長さも測れない所を
白髪が増えてゆくから多分
進行しているのだろう
 
いつかあの道とまた交わるだろうか
今度は正直に歩けるだろうか
腐る腐らないは道によるのではない
道は踏まれる所に出来るものだ
 
 
 
  祈り・実感を
 
もうしばらく傍(そば)に
いて下さいませんか
 
さびしい
と声に出してしまいそうですから
しかも調子外れの怒号のように
すでに出しているのです
 
でも声帯は震えているものの
咽喉(のど)の吸い殻の
泡沫を振動させて
歯間を開閉しているだけなのです
 
いつも傍にいて下さる
と教えられるだけでなく
すべての体液が覚えるほどに
染(し)み込ませることが出来たなら
 
ずぶ濡れになった厚紙の五感のために
五臓六腑に満々と
湛(たた)えられた廃液のために
動きの取れなくなった五体も
眠りすぎた疲労も
声なき吠(ほ)え面も
澄んだ自虐のうちに
然(しか)りは然り
否(いな)は否
と捌(さば)き捨てて
液体へ気体へ
 
霧散・昇天お許しを
流れるままに乞いゆきましたものを
 
 
 
  歌えない傷
 
モチーフモチーフと
擦り合わせる空白だけは持っている
 
涸れた乾いた干割れたと
よく効く軟膏を欲しがって
塗られたがる傷だけは持っている
 
すこぶる順調です
歌えないことをモチーフに
空白を合わせて塗り固めて
設(しつら)えた線路は
白い海に向かっていて
レールは汽車を乗せ
汽車には傷が乗り
傷は何も乗せていませんから
 
 
 
  土竜の太陽
 
土竜(モグラ)は穴を掘る
何の必要か穴を掘る
土竜は平気で土をかぶる
日常たいてい土の中
だから目なんか目じゃない
目なんかなくても夢を見る
 
曇天の下の下から
太陽の夢を見る
土竜の太陽は眩しくない
眩しさは疾うに捨てたのだ
直向きに只管に
土竜は土竜の太陽を探す
土を盛り上げ掘り進む
潜り込んで掘り進む
 
人間は眩しさを求めて穴を掘る
土竜は眩しさを捨てて穴を掘る
 
わざわざ重労働なんてこともない
土竜は穴を掘る必要がない
死んだところが墓穴だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。しかし、心を持たず無反省と無理解のまま言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
 
 
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  神と信仰メモ3
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。神の存在の証拠があるからでもなく、超常奇跡の成就を信じるのでもありません。個人にとって、生きるために必要だからなのです。この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲しいことがあるからです。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理を含む存在がいるのだろう。その御方は、人間に共感する御方であることが、聖書に書かれています。
 
そして、その御方、即ち、神は、今は隠れているけれども、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられるのだろう。私たち人間を無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至るのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者として、その御方を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのであります。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではないということです。
 
その存在を知ることは、超常奇跡の不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残る、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ばれるようになったのでしょう。
 
 
神を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈と知識だけで、超常のホラーのような物語におとしめて、机上の辻褄合わせで、神を良いとか悪いとか、存在とか不在とか、決めつける無神教カルトが、いかに、的外れであるかを分かってほしいと思います。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が全能者のあり方で神の前に正直な人を救うために、つまり、人を愛するために、摂理の存在を信じ、キリストに共感することが救いなのです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて人に与えるのは、人間には届かない完全な真善美ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、そのまま善しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 
無明(むみょう)に注ぐ光

無明(むみょう)に注ぐ光
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
信仰者は、神からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らない地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって告白し祈ることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年)
(2022年)
(2023年01月23日、再録+加筆)
 
 
 
 『易(えき)入門』黄小娥著
 2022年01月19日 楽山日記(LD)
 
 
やはり、楽山は、努力より、占いが当たることを望むのでしょう。短い記事ですが、さらに、褒めるだけの文章ですから、空疎としか言えない干からびた感想で、何のアドバイスにもなっていません。こういう文章を書いてくる厚顔が楽山の持ち味としか言いようがなく、ネットの屑となっています。
 
 
何年か前に易経に興味を持ち、いくつかの関連書籍を集めてはみたものの、どれも難しくてずっと積読状態になっていたのであるが、先日思い立って、それらの中でもっとも初心者向きらしい本書を開いてみた。
 
初心者に向けて、こういう本を読むとよい・・みたいな書き方をするのは、読解力のあるする専門家のすることです。楽山に、読書の勧めを書く資格はありません。あらゆる本を曲解して、キリスト教と信仰について、度外れた偏見を持つに至った楽山です。
 
 
一読して、本書が易の入門書として高く評価されている理由がわかった気がする。まず文章は平易で分かりやすいし、六十四卦の説明では冒頭に卦の意味を一言で提示してあって有り難い。実占のエピソードは、初版は昭和36年なのでいささか時代を感じさせるところはあるが、どれも印象的で記憶に残るものばかりである。おかげ様で未済まで興味を失うことなく読み進めることができた。
 
「易の入門書として高く評価されている理由がわかった」といって、専門用語の説明もせず、難しい書に見せかけても、「平易」「説明」「有り難い」と、「印象的」「記憶に残る」「興味を失うことなく」など、具体性のない陳腐な褒め言葉だらけです。いい加減な読書感想文の典型でしょう。
 
 
恥ずかしながら自分は、易経を読もうとして乾の途中で挫折したくちである。こんな自分でも最後まで通読できる入門書を執筆してくださった著者にはただただ感謝である。
『易(えき)入門』黄小娥著、裏
ちなみに、こちらは裏カバーである↑
著者紹介を読むと、著者は本当にすごい人のようだ。
 
らくざんは「すごい」ことを讃えます。楽山は、全く平均未満の知性と感性ですが、自分では学者に相当する助言者のつもりだからでしょう。そうして気取り、大仰に本を褒めて、評論家を気取り、その実質の欠乏を、ブログで日常的に漏らすことで露呈している結果と経過です。
 
楽山の記事に付き合うのは、時間の浪費です。それこそ、人生の貴重な時間を、どぶに捨てるようなものだと思います。批判以上では、楽山に関わらないでください。「ただただ感謝」「すごい人」・・読書感想文になっていません。感想を問われて「よかった」と言って、先生に怒られる小学生みたいです。
 
楽山は、故意なのです。一生懸命書いても、足らざれば、見せるのを控えるか、発表しないで置くか、むしろ、足らざる自分について考えるべきですが、楽山は、自己顕示欲から、人のためになるかのような、教えるような筆致で書いて、拙く短い文章では書けないテーマということに、気づかないのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省と学習は、人間に必須です。それが出来ないならば、人間ではないと言ってもいいことなのです。なのに、楽山は、「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという、まるで実感のない、ふざけたことを言って、読者を巻き込もうとします。何も出来ないのに、教えたがります。
 
 
 
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  信仰の節操
 
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 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、卑怯な罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マグダラマリヤ型)
  嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。
  キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない。
  キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない。
  キリスト信仰は呪術ではない。
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけませんね・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまうのは、神に対する大罪であります。
● 神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
 
  《キリスト者も注意・警戒するべき言動》
 
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
 
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、陶酔感から罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者やその傾向のある人は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
信仰についての発言を、大きく勘違いした的外れは、背教の暴言に等しいのです。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それが敬虔であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があり、それが、人を生かす赦しと救いなのです。聖書の教条ではなく、聖書の心を学ぶことが大切です。
 
不完全で罪深い自分を、神が憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への、人間が出来る唯一の捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直な祈りだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、共感であり、それが忍耐強い信仰を生み出してゆくのです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には言えないことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。願いの成就は、神に任されており、そこに、信仰者の使命と忍耐があります。その上で出来ることをするのが信仰者の人生です。
 
 
信仰の節操と偽善

信仰の節操と偽善
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2023年01月06日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう意見が出るほどに、自分が手を合わせてる神様に無頓着な宗教観は実に面白い。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」とはよく言ったものだ。
引用ツイート
島田裕巳@2版出来『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』晶文社
伊勢神宮のアマテラスは弟スサノオの前に軍装で現れたし、八幡神は武士が崇めた戦の神。神道と戦というのは深く結びついているので、どの神社に行っても、境内に神明社や八幡社があれば、軍神に参拝したことになる。
 」
午後8:10 · 2023年1月5日
 
「面白い」は嘲笑いでしょう。「神様に無頓着な宗教観」とはよく言ったものです。楽山は、神について知っているつもりなのでしょうか。楽山のように、幼稚な辻褄で神を否定し、人を傷つけてゆく慢心は、知識不足だけでなく、訂正不能の自己愛性からの病的な悪意の偏執です。
 
楽山は、笑うことと怒り憎むことはあっても、「涙こぼるる」ように悲しむ情感を持ちません。だから共感性もなく、神について物を扱うような安易な辻褄で知ったかぶりをします。楽山は、思い上がりの醜態から崩れてゆく人格を表し、慢心して良心のないインテリ気取りの末路にいるのです。
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見て、薄っぺらな感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、無視して反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、「ストーキングというより、因果応報」となってゆく自己中の必然です。
 
楽山は、他者を批判しますが、その批判が、不思議なくらい、楽山に当てはまってしまいます。それに、書いてくることも、大方、雑言の類で、何か生きるヒントになるようなことなど、一度も書いたことはないのです。書けば書くほど、楽山の言が、楽山を責めることになるブーメランです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山関連の罪と偽善: 無反省で謝罪しない。世辞か、嘘と詭弁。自己中。非を認めない。無責任で、弁明できない。理路も情感も未発達。笑いと怒りと憎しみだけで、しんみり悲しむ情がない。不祥事を人のせいにする。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)。
 
楽山の因業は、改まることがありません。いつも、楽山の通念的な言葉が表すのは、そういうことしか書けない楽山の体質的異常の証拠になってゆきます。反省せず、責任を負わないでいると、結局、同じようなことしか書けない無学習のもたらす貧相な悲喜劇だけを表すことになってゆきます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  的外れの批判2
     by 佐倉哲
 
 
佐倉哲という人のサイトですが、楽山の師であろうかと思いましたが、決めつけて説得力のない自己満の筆致が楽山に実によく似ています。既に、聖書のキリストから人間として生存することについて癒しと慰めを得ている信仰者としては、コピペした記事について批判してゆくことにします。
 
もし佐倉哲が楽山の成りすましだとしたら、どういう魂胆で引用したのでしょう。佐倉哲という学者が楽山と同じくキリスト教の神を否定している・・ということで、楽山自身の正当性に箔を付けたいのでしょうか。その佐倉哲の文章が、呆れるほど無理解な先入観に過ぎないのですが。
 
楽山には、高等感情に属する深い情緒からの共感性がありません。さらに洞察力も皆無です。そして、佐倉哲も同様に、事実と理屈の辻褄合わせだけで神を否定したつもりの高慢が表れています。どんなに飾っても、人を生かす言葉として、幼稚は幼稚、無理解は無理解、無知は無知なのです。
 
聖書の神を、深みのない理屈で否定してくる学者モドキの佐倉哲は、楽山の成りすましである可能性が高いと思われます。楽山の無理解を、佐倉哲が繰り返しているように見えるだけです。心の深みを、全くと言っていいほど洞察も共感も出来ないこの二人に、どうか関わらないでください。
 
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。
 
おかしいです。神と聖書の正しさを、人間が完全に理解することは不可能です。そこを弁えないのはカルトや偽善者ということになります。神聖については、人の側に不完全性定理が成り立つようです。神について、人によって、いるとかいないとか、正しいか否か、などは分からないのです。
 
むしろ、そこから、聖書は、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、体験との間を何度も往復する動機となります。「神の霊に導かれて書かれたもの」かどうか、神でない人に、評価できるものではありません。
 
 
聖書の記述が間違いだらけであるということは、もし神が正しいことしか語らない<真理の神>であるとすると、聖書は<神の言葉>ではありえないという事を意味します。
 
「だらけ」と意味を強めてきました。生かす言葉のヒントも見つけられないでいて「<神の言葉>ではありえない」というような結論に到達することも「ありえない」わけです。聖書から、心、命、人生を、生かす言葉を見つけられない人は、見つけられない自らの身の程を弁えるべきです。
 
 
それでも、もしあくまでも聖書は<神の言葉>であると言い張れば、神は<真理の神>ではないということなり、結局、神の言葉そのものが信用できないという、より受け入れ難い事態が帰結することになります。神が<真理の神>であるとすると、どうしても、聖書は<神の言葉>ではない、ということになります。
 
神と神の言葉を否定して決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。理路が悲惨です。
 
自分にないものを人が持っていることへのジェラシーでしょうか。自分は分かっているから、分からない人へ教えようとする態度だけで書くと、こう言う屁理屈を振り回すようになるという例になるでしょう。この屁理屈も、実に、楽山に似ています。情感と感性が悲惨です。
 
 
聖書が神の言葉ではないことの証明
前提:神の言葉は正しい。(神の定義より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、聖書は神の言葉ではない。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという傲慢が明らかです。また、神を判定するのは、自分は神と同等かそれ以上だと言うのと同じです。神聖を自分の屁理屈で否定する・・楽山に似ています。佐倉哲が楽山の成りすましだとしたら、実に有害で狡猾な陰謀と因業であります。
 
キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それを救いとして生きる縁(よすが)にして生きるのです。学者も、思想家も、もちろんペテン師も、口をさしはさむ余地はありません。上の判断は、神の言葉でないのはもちろん、人の言葉でもありません。不潔な培地に、ぶわぶわと湧いているカビの類です。
 
 
しかし、もしあくまでも「聖書は神の言葉である」と言い張れば、
前提:聖書は神の言葉である。(キリスト教の教理より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、神は真理の神ではない。
 
歴史の定説と思われたことが、のちに、疑われ、否定されることがあります。過去の事実は証明できませんし、神を証明する事実も否定する事実も証明できません。神を事実によって否定する人の理屈、とても、幼稚だと思います。こういう醜いことばかり書いてくるのも、楽山に酷似しています。
 
人間の辻褄で、貧相な思想家気取りが、神を否定したつもりでも、そこには、神についての事実を人が決めつけるという欺瞞が働いています。これは、信仰を語る思想の是非以前に既に成り立たないことです。恥ずかしげもなく根拠みたいに言う貧弱さは学者気取りの惨めな偏見を表すだけなのです。
 
 
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する結論は、「聖書は神の言葉ではない」か、あるいは(聖書は神の言葉であると言い張るなら)「聖書の神の言うことは信用できない」ということです。
 
激しい短絡と傲慢が働いています。この発言者は、人間の理路で、あら捜しはしても、救いとなる言葉の実感に到達していないようです。つまり、聖書について、理屈や事実をいじくるだけで、人生の言葉として何も考えていないのです。自己満だけの、誰も救えない人だと思います。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、共感であり、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。人間として、生きるために必要な、心に響く言葉が見つからないなら、貧弱な思想家気取りで浅ましい文句など言わず、ただ黙っているべきです。
 
 
さて、聖書が間違いだらけであるとしても、それで聖書のすべてがでたらめであるということにはなりませんから、たとえば、神が世界を創造し、イエスを救い主として世に送り、彼の犠牲の死によって、彼を信じるものは救われるなどといったキリスト教の中心的教理が間違っていることが、この「聖書の間違い」シリーズから帰結するわけでは、もちろん、ありません。
 
卑怯ですね。否定しまくっておきながら、間違っていること・・帰結するわけではない、などと言っても、それは安い言論者の責任回避であり、このように、神とキリスト教を否定する人が、自らの貧相な理屈を振り回すだけで信仰も真実も知らない証拠なのです。とても、卑怯で、醜いです。
 
 
しかしながら、「聖書に書かれていることは全て正しい」という主張が覆されてしまった以上、「聖書に書いてあるから」という理由では、それらキリスト教の教理が真理であることは、もう主張できなくなります。
 
聖書が神の言葉と信じても、全ての正しさを、人間は理解できるわけではないという敬虔を、このブロガーは分かっていないのです。人間のインテリジェンスは、信仰と聖書を理解するうえで、超常がどうこう・・といったことについては、全く無力です。私たちは超常に住んでいないからです。
 
 
聖書が真理の根拠ではありえないことの証明
事実: 聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論1:ゆえに、「聖書に書かれていることはすべて正しい」という主張は間違っている。
結論2:ゆえに、「聖書に書かれているから」という理由は、ある主張が正しいことの根拠にならない。
 
神は絶対であっても、人は絶対ではない、という基本が、信仰の弁えです。同格に見て論ずるなら、それに使う時間はことごとく無意味です。つまり、神と聖書が無意味であると否定することは、そう言った者を、とことん無意味にするでしょう。論理に見せかけた詭弁・・無駄なことは止めるべきです。
 
 
(結論1より)
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する二つ目の結論は、「イエスは人類の罪のあがないのために犠牲の死をささげた」とか「イエスをキリストと信じるものは救われる」などといったキリスト教のすべての教理は、それらが「聖書に書かれているから」という理由では、真理であることを主張することはできない、ということになります。言い換えれば、聖書は真理の根拠あるいは権威ではあり得ないということです。
 
論理的に見せかけていますが、現に、キリストを好きになり、生きる縁としている人々への悪質な侮辱になります。その原因は「聖書に書かれているから」が、正しさの理由になっているという先入観的な見方が批判者側にあるからです。共感と愛が人間をとらえること何も理解していない人の言です。
 
聖書は神の言葉であっても、ゆえに、人の言葉しか持っていない私たちには、完全に理解できるものではないということです。人の理論体系に、神は、納まる御方ではない、という恐れをいだくべきなのです。それを自覚せずに、神と聖書を理屈で否定したつもりでいることは、呆れるほど傲慢です。
 
教理は、聖書に書かれているのではなく、聖書に書かれていることから生まれています。この佐倉哲という楽山類は、楽山と同様、理論家ではなく詭弁屋です。楽山の成りすましの可能性が高いです。誰も褒めてくれないから、学者か何かに成りすまして満悦しているのでしょうか。哀れです。
 
 
聖書の記述における数字の不一致のような、一見「些細な」矛盾も、したがって、キリスト教の中心的教理の主張とまったく無関係というわけではなく、むしろ、それらの教理を真理であると主張するための重要な、おそらく唯一の、土台そのもの(真理の権威としての聖書)が、その「些細な」誤謬のために崩壊してしまったといえるでしょう。
 
呆れます。既に生きるとに必要だから信じている信仰者を屁理屈で否定したつもりです。今まで書いてきたように深みも洞察もない決めつけの屁理屈で否定したつもりになっている自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の見せかけだけで実質が皆無の自慢話につきあってはいけません。
 
信仰は、数字や理屈の一致に支えられてはいません。矛盾がないから信じているのでもありません。また、教理と、信仰は、違います。教理は、直観に結びつきにくいものですから、心の癒しにも直接は結び付きにくいものです。教理は、信仰のヒントとなる言葉の集まりに過ぎません。
 
信仰は、キリストの一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、幼稚で拙劣なものになるのです。
 
この佐倉哲という人が、批判しているのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。それを、既に救われ癒されている人の信仰に向けることは、即、侮辱となります。佐倉哲は、直観力も理解力もないと思います。
 
今回、批判対象の作者である佐倉哲は、教会で、教理ばかり信じるように言い聞かされて、傲慢のために反省もしないで、根こそぎ否定の方向に変えたのでしょうか。深いところを受け取れないために、屁理屈だけの筆致は、楽山に、実に、よく似ています。つまり、思い込みだけの空想屋に過ぎません。
 
 
聖書は、長い歴史の中で育まれてきた先人の知恵と、神を表す言葉であり、未熟な理屈遊びで論文の適否を論ずるような思い上がった決めつけの対象には決してなりません。楽山と似たような、勉強しない天才気取りが何を書いても、刺激性の悪臭をもたらすだけです。的外れもいいとこです。
 
 
的外れ 発泡性 根無し

的外れ 発泡性 根無し
 
 
(2021年12月28日)
(2023年01月05日、再録+加筆)
 
 
 
  選ばれた民
 
キリスト者(クリスチャン)は神によって選ばれた民である
それを否定するつもりはないが
選ばれた、とはどういうことなのか
恵まれた、とも言えるかもしれない
しかしこういう言い方は誤解を招きやすい
選ばれた、とは優劣を意味しない
また特別に善いことをしたから選ばれたわけでもない
キリスト者でなくても優れた人はいるし
また尊敬に値する人格者であり
キリスト教についても知識を持ちながら結局
信仰には無縁なまま一生を終える人もいる
強いて言うなら助けが必要なほど愚かだから
神の憐れみによって選ばれたのかもしれないが
ことさら卑下する必要もないだろう
無理な謙譲は陰湿な思い上がりの住みかである
 
主イエスが弟子として選んだのは
人格や知識の優れたものではなく
多くは無学で愚直でありながら
人間的な感情の豊かな人々のようであるが
詳細は明らかではないはずだ
 
少なくとも選ばれるということは
選ばれる人々の都合によってではなく
秘められた神の都合によって選ばれるのである
 
だから選ばれたことは縁のようなものであって
選ばれた民は異教徒や無宗教の人々を
軽んじてはならず憐れむべきでもない
人の憐れみはしばしば陰湿な軽蔑の住みかである
 
キリスト者はただ神の都合により選ばれた民である
そして父なる神から甘くなさそうな盃を与えられた者である
人間としての喜怒哀楽を経て、離れようとしても
盃の縁のゆえに、たとえ苦くとも
盃の宴に立ち返るほかにない人間をキリスト者という
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書くことはあっても、本当に反省することはないのでしょう。しかし無反省で無理解のまま言葉だけ書いて、それで済む世界は存在しません。
 
楽山は、利用できるものを、無断で好きなだけ利用してきました。しかも、言葉の表面だけだから悪用というべきです。しかし、この記事の屁理屈は、楽山の筆致に、実に、よく似ています。上のS氏も、楽山の成りすましなのでしょうか。罪は、犯したとき心地よく、後から、責めをもって、追いかけてきます。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、
アンチが相手でも、冷静に対話ができる人もいる一方で、
アンチはこういう者だと決めつけて、即、拒絶する人もいる。
こういう違いは、一体何が原因なんだろうな。
午後0:06 · 2021年12月26日
 
楽山が原因です。人を生かす言葉を、安い世辞と勘違いして、他には何も用意できず、人のせいにする悪口だけ積み重ねてきた雑言屋の宿命です。楽山は、芝居が得意なのではなく、自己中と怠慢のために、いつのまにか、三文にも値しないペテンの芝居しかできない大根役者になっているのです。
 
楽山は、先入観と偏見と妄想で、いつも、「決めつけて」きます。そして、他者の言葉を、都合のよい言葉だけ、都合の良い方向に、引用して、味方が多いように見せかけてきます。一般常識がありません。良心がありません。たくさんのHNに成りすましていると思います。
 
楽山には、冷血はあっても「冷静」はありません。楽山は、正当な対話が出来ません。不快なことや都合の悪いことは無視します。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、自己中の単方向しか持っていません。それを、丁寧語で、ごまかしているのです。
 
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @PdoctorTomy: 自分で決めていいことは、
自分で決めるのが一番いい答えなのよ。
 」
自分で決めていいはずのことに、あれこれ口を挟む人はいっぱいいるのだけれど。 
 
「自分で決めていい」のは「自分で決めていいこと」です。それを、楽山は、何でも自分で決めていいという詭弁にして、宗教や思想というような大きなものをも、自分で決めつけてきたのです。どこまでも、くだらない詭弁で誘導してきます。無反省、無神経、無責任の、訂正不能の自己中です。
 
 
 
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  悲しみと信仰3
 
お詫び:体調が良ければ、毎日、過去作+加筆修正を中心に書いてゆきます。現在、体調は、あまり思わしくないので、不定期発信になるかもしれません。その場合、日付間違いが増えると思います。
 
 
偽善者は、相変わらず、弁明が出来なくても何も感じないで、繰り返し言い張るだけのようです。
聖書でも現実でもネットでも、偽善者が悲しむのを見たことがないです。偽善者は悲しみの感情を持っていないのではないかと思うことがあります。
 
聖書でも現実でも、偽善者の感情は、得意げに笑うことと、怒りと憎しみだけのような気がします。深い悲しみは、抑制がかかって鬱になることもありますが、心が沈んで、激しさが涙になるなら正常で、出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど、心を潤し、心を濡らして、悲しみを洗い流す作用があります。泣けない時には人からも受容が必要です。出口がないと思ってしまう鬱の時には、時に任せて、耐えるだけでも意義があります。何よりも生きていることが大切です。
 
しんみりと悲しむことができるときには、悲しみは、その沈んだ思いのうちに、猛る思いを静めて、内へと向かう思考によって、やがて内省することもできるようになるでしょう。
それができないのは、人格障害の人で、人のせいにしてきます。
 
悲しみを知る人は、悲しく辛くても、やがて、悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。悲しみの克服というのは、悲しみは過ぎ去ることを知っています。人間は成長するからです。そうして意味のある未来が徐々に気づかれてゆきます。
 
悲しみを知らない人は、出口のない感情と思考のために、憤怒だけを、どこかにぶつけることになるのでしょう。悲しみの感情を知らない人がいて、悲しめない不都合に際して、怒り、憎み、恨んで、他者のせいにして鬱憤を晴らす場合があります。人格障害、サイコパスの場合です。
 
悲しみを知らない人は、不快な感情を処理するにあたって、焦燥感が強いあまり、他者を貶めるか、他者をあざ笑うことになるでしょう。そのような処理の方法は、他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。特殊な人格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間、静かな思考に向かうか、それとも、停止と遮断に向かうか、衝動と攻撃性につながるか、という違いがあります。自分の感情をモニターできるか、正直に相談する相手がいるかどうかにかかっています。また、正直は祈りに通じます。自分を見ない人になってはいけません。
 
つまり信仰において、悲しみは、悔い改めにつながる大切な感情のように思います。人生において、悲しみは必ず訪れるものです。その時に、成長するか、成長をやめてしまうかが、決まるような気さえするのです。イエスキリストは、悲しむ人に、近づきました。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
 
悲しむ人は、おごらないゆえに、心貧しく、うなだれるゆえに、慰められ、求める心があるゆえに、義に渇き、むさぼらないゆえに、憐れみを受け、余計なものがないゆえに、心が清く、一途であり、安らぎたいゆえに、平和を求め、悲しんだゆえに慰めを感受し、癒しが与えられるのでしょう。
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける、と言ってもよいほどに、悲しみは大切な感情なのかもしれません。悲しみを知らないのが、人格障害者、特にサイコパスです。
 
 
救いは悲しみから生まれる

救いは悲しみから生まれる
 
 
(2019年)
(2021年)
(2023年01月04日、再録+加筆)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
元日のコメントの遣り取りです。
 
1.
とある場所に書き込みした後、大晦日からsossiotron.comとセブンイレブン
でてきました。
画面右下の吹きだしをクリックして右上の「通知の管理」を
クリックしたら「通知とアクション」のウインドウが表示されますので
下のほうの「送信元ごとの通知の受信設定」のsossiotron.comの
ボタンをオンからオフにしてみてください。
謹賀新年2023-01-01 12:53:27
 
 
謹賀新年さんへ。なぜ、HNを隠すのでしょう。
記事をアップしてから、何を押したのか覚えていませんが、消すことが出来ました。恐らく、コメントにあるようなことをしたのでしょう。
あなたは sossiotron.comさんですが。楽山ですか。それ以外の人ですが。楽山を知っていますか。
このようないたずらは違法です。あなたがなさったのなら、二度としないでください。
st5402jp2023-01-01 14:11:25返信する
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  祈り・最後の誘惑
 
最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
イエスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエスが
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ
 
未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束(つか)の間(ま)に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰(つぶ)さないために
死を視(み)ること帰するが如(ごと)し
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
イエス様になら騙されても構わない
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
悲しみだけではない時を
知るでありましょう
 
 
  祈りを知る
 
祈ったからといって直ちに
悲しみが喜びに変るとは限らない
苦しみが消えうせるとも限らない
でも奇跡的に変わるかもしれない
でももっと魂の奇跡として
悲しみや苦しみが
それだけではないものに変わる
祈る相手がいるという幸い・・・!
 
この世の人はそれを気休めと言い
心理的効果と言い捨てるかもしれない
聖なる働きと解釈するのも
否定し無視するのも
人の自由だ勝手だ
どちらも証明は出来ない
でも祈りは
生きた働きをもって返されるなら
証(あかし)としては
それだけで十分である
だから信じる
祈りが聞かれていることを
だから信仰する
すべては御心のままに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
しんみりと悲しむことを知らない人は、しんみりと深く考えることも出来ません。そして、罪悪感を感じないようです。ゆえに、自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言って、ペロッと舌を出すような軽さの悪ふざけをするのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @PdoctorTomy: 他人が上手く行っているように見えるだけで、気に食わない人間っていっぱいいるのよね。
 」
おめでたい報告は、心から祝ってくれる人だけにしたほうが無難よ。 
 
心を傷つけることで快感を得る楽山が言っています。霊性の悪霊、現実的には、人に教え、人をバカにして生きている楽山です。罪悪感も責任感もなく、理路の周辺に雑言をばらまいて、インテリを気取っている身の程知らずです。悪意の共感、つまり、誘導です。関わらなければ無難ということ。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@houndmen@tadamitsu824
犬ジジィ氏と忠光氏の議論を見た。犬ジジィ氏は批判リプを10以上もしながら、忠光氏が反論リプをつけるのをブロックしたのかな? もしそうなら、ズルすぎる。
ブロックするなら、忠光氏が犬ジジィ氏の批判に反論リプをつけ終わるのを待ってからにすべきだったと思う。
 
他者に「すべきだった」などと意見する資格は、楽山にはありません。双方向など、一度も成り立ったことのない楽山です。「ズルすぎる」などと非難する資格もありません。無反省、無責任、無視で、罪悪感欠如、羞恥心欠如の楽山です。厚顔無恥も甚だしい。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、アンチ批判をしていながら、アンチが反論しようとすると即ブロックする人がいる。
まるで、「自分が言いたいことを言えればいい。異論、反論は聞く必要なし。その機会を与える必要もなし」と考えてるみたいだ。
HSではこういう考え方を容認してるんだろうかと疑問に思うよ。 
 
キリスト教を侮辱しながら、批判されると、スルー・無視を決め込んだのが、楽山です。あらゆる言論の資格も能力もないのです。「異論、反論」を聞かず、批判すれば、悪口だけを返して、しまいに無視するしかない楽山です。楽山は、「疑問に思う」よりも、全否定するべき対象です。
 
楽山の反論は、相手を負かすことしか考えない嘘と詭弁です。分かったようなことを書きますが、楽山には真剣味がないのです。思いついた理屈遊びで反論しても、そこに、体験者としての実感はないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの特徴であります。
 
 
 
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