ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:キリスト教

 
  当てにならない2
 
 
私たちは
実に当てにならない世界に住んでいる。
実際は
当てにならないのは私たち人間の心であり内部である。
 
入力は総て感覚器を通している。
内部処理は総て脳が行っている。
いずれも寿命が尽きればなくなるものであり
これらは
寿命がある間は維持されるけれど
本当に変わらないで維持されているかどうか
厳密な検証は不可能である。
 
当てにならない世界を
当てにならない知情意をもって
断定できる何があろうか。
 
しかしながら私たちは
当てにならない世界において
当てにならない知情意をもって
判断し実行するしかないのである。
 
それが人間の不完全性そして相対性である。
 
神が絶対でも
あるいは
たとえ絶対がどこかにあっても
私たちには絶対はない。
それを知ることが信仰の始めである。
 
絶対とは不変に正しいこと。
非絶対即ち相対とは可変で
ときに当てにならないこと
そして変わりうること。
 
当てにならない知情意をもって
絶対を目指したり思い込んだりすることは
当てにならない感覚・知性・感性をもって生きてゆくのに
全く向いていない。
 
神の属性である不変は
変わることなく成り立つということであり
神義すなわち神の正しさとして真理の働きを持つ。
 
しかし
人間の正しさは不変ではなく
より正しいことによって
また状況によって
否定されないとは限らないことである。
 
これを人間の相対性と呼ぶ。
信仰をもっても
この相対性は変わらない。
 
むしろ人間の
相対性・非絶対性・不完全性を自覚することが信仰である。
 
人間に成り立つ絶対性は
絶対は絶対にないという循環論法にしかならない。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるだろう。
 
 
しかし
人は絶対を求めやすい。
絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。
 
だから絶対の存在を確定しようとするか
あるいは確定したつもりの言動を
神の御心だと言って神聖化しやすい。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して
感じることと考えることを疑いだと
退けてしまいやすい。
 
絶対は神のもので
人は決して絶対を確定できないのに。
気安く正邪を神の立場で決めつけやすい。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが
信仰の始めであるのに
味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は
戒める神と懲らしめる神を
そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすい。
 
これらもまた相対的で不完全な人間の罪性である。
 
 
この人の罪性ゆえ
キリストは十字架の道を歩まれる。
今も、これからも・・である。
 
 
あらゆる悲劇は信仰者にも起こりうる。
その理由は神の秘密ということがある。
神は、いつも分かりやすく恵むわけではない。
神の考えることを人がいつも理解できるわけではない。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、
私たちの狭い見識と視野と能力では
神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力
すなわち全能を理解できないことを考えるべきである。
ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とする。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っている。
神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、
地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておられる。
 
人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではない。
理解できたら、信じる必要はないからだ。
 
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは
いつも
人の絶対を確信し保証するカルトである。
 
人の相対性は
信仰とカルトを見分ける決め手ともなるだろう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。また、偽善と偽悪の問題もあります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
イエス・キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性では語れないところの、優れた洞察と共感を誰にでも示しておられる、というだけで、神聖と信じています。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限らない。
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのである。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、信仰からは、離れる方向だと思っておいたほうがよい。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人をだますのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのか・・などと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすい。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのである。
 
私たち信仰者は、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じている。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが絶対の正しさではありません。また、実際には、口で信仰といっているだけの偽善者もいます。聖書のパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。相対で不完全な人間は、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は、人によって汚され過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式の有無によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも、求道者でも、異教徒でも、無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動の実を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
さらに、神が、宗教や信仰を通さずに、人を選んで何からの使命や役割を与える可能性は否定できません。また、そのことを、いちいち、人に説明することは、為さらないでしょう。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直のみをもって備える"ことが大切なのです。
 
 
人の相対性

人の相対性
 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山の経歴も怪しいと思います。楽山は自己中促進のアドラー心理学の宣伝をしていました。また、ネトウヨだと思われますし、右翼のA級戦犯を褒めていました。読書は、都合のよい文言だけを漁って、箔をつけるために引用するだけで、勘違いや嘘が多いです。有名人や学者の名前に惑わされないでください。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ろば
@robamimi0314
#幸福の科学
根拠も証拠もなく、他人を
誹謗中傷、侮辱、罵倒、脅迫する言動が多い。それを「教え」としている。
〈例〉
・自殺は罪、永遠に苦しむ。
・ガンになるのは感謝が足りないから
・鬱になる人は周りへの感謝が足りない
・教祖を神と崇めないと地獄に落ちる
午前9:36 · 2021年4月29日·Twitter for Android
 
楽山は、根拠も証拠もなく、他人を誹謗中傷、侮辱、罵倒、強迫する言動が多いです。それを、一人前の "批評家気取り" で書いてきます。最悪なのは、まともに見せかけるために、丁寧語で、婉曲的に書くことです。また、わざとらしい芝居によって、反省、卑下、などを書いてきます。楽山は、よく読まないと楽山の悪意に気づかないような書き方をするペテン師です。
 
楽山を、批判の仲間だと思っていたら、とんでもない間違いであり、徒労と疲労と人間不信をもたらされるでしょう。楽山との交流を継続すると、楽山の体質であるところの、自己中、無反省、無視、無責任に染まって、楽山と似たような攻撃性だけの鈍い人格になる危険があります。
 
楽山は、リツイートや、ブログ記事によって、やさしそうに、一人前気取りで、誘ってきますが、決して相手にしないでください。楽山は、いかなる人の味方にもなれない自己愛性人格障害です。決して、頼りにしてはいけない人で、誰の仲間にもなれない人です。
 
楽山には、執念深い恨みの感情と、小学校レベルの理屈はあっても、悔いる、悲しむ、反省する、自分の欠点を自覚する、訂正して学習する、人の意見を受け取って考えるなど、深くて高等な思慮と感受性が欠けているのです。
 
 
(2020年04月02日)
(2021年05月01日、再録+)
 
 
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一休み。批判と、詩のようなもの、昔々の春の詩4つ。宗教1つ+
あり合わせで申し訳ない。
 
 いつも不真面目な反キリスト楽山のツイッターです。
 楽山の、まとも芝居にだまされてはいけません。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
なんとなしに、『ジョーズ』で、人喰いザメ対策より、経済優先を主張する人がいたことを思い出しました 顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
引用ツイート
釈 量子
@shakuryoko
 · 4月23日
“戒厳令”で支持率が上がるとでも思っているのでしょうか。経済を回さなければ、生きていけません。“独裁者ごっこ”はやめていただきたい。
#灯火管制
 」
午後5:11 · 2021年4月24日·Twitter Web App
 
コロナ禍の問題を、「なんとなしに」『ジョーズ』で語ったつもりの楽山です。万事このような考え方であることが、この2年間で明らかになっています。真剣味が、まるで無いのです。
 
宗教を、趣味の、ファンタジー、ホラーアニメ、パニック映画、お伽噺、フィクションといったレベルで語って、批判し、否定したつもりになっている楽山であります。
 
コロナ禍については、そろそろ、医療崩壊、経済崩壊、パニックに備えて、生存権を直接強力に守る政策を考えておかないといけないような気もします。
 
人口3億2千万アメリカ:感染数3200万人(人口の10分の1)、死亡57万人。
人口1億2千万の日本:感染数56万人、死亡1万人弱。
(人の死を「万」単位で見ているとは・・。オレも、そのうち、行くんか・・の世界。)
アメリカの死亡数と日本の感染数が同じくらいというのは、まだまだ、日本では、終わらないという意味でしょうか。
 
 
 楽山に筆致の似ているツイートですが
 
raku
@rakusyo34
偽情報に惑わされない方法って、
そもそも、偽物ほど
友達、ママ友アピールしたり、
急に会ってこられたり、
永遠に食べられない人参をぶら下げて、多幸感アピールしてくる界隈は要注意ですね。
午後11:15 · 2021年4月24日·Twitter for iPhone
 
気取りだけの評論家である楽山は、まわりくどい丁寧語のボンヤリ言語と、わざとらしい卑下芝居のトホホ言語をもって、てれてれと、しつこくアピールしてきます。
 
文章を読んで、楽山には反省も訂正もする気がなく、理路は破綻し、感性は鈍麻して、およそ、楽山が引用する学者や有名人とは比べ物にならないほど、低劣な欲望の動機と、途方もない高望みから、愚にもつかぬ文章を書いているのが分かります。
 
しかし、それを、楽山に指摘しても、無視して、平気で、続けているのは、やはり、何らかの病質のせいであろうと思っています。いずれ、楽山の言葉は飛び散って、解体されるであろう宿命の、刺すような孤独感に駆り立てられての本能的衝動行為に至るのでしょう。
 
楽山こそ、「永遠に食べられない人参をぶら下げて、多幸感アピールしてくる」身の程知らずの、不感不応の、変質的で衝動的な煽動屋に過ぎないのです。
 
 
 
  陽気2
 
朝は冷ややかなプチうつをもてあそび
ほころびをつくろう部屋の始まり
 
昼は歩みを木の廊下にしつらえて
やさしい足裏の弾力に厭世を返す
 
夜はふくらんだ嫉妬をしずかに灯し
こだわりのない時を温める
 
幾度ひっくり返ったら
虫のあやまちを悔いるだろう
 
乾いた悲劇が陽気を嗅ぎつけて
恥ずかしい vivo が失われそうだ
 
 
(2020年03月11日)
 
vivo(ヴィーヴォ):生体(内)
 
 
 
以下、旧作「失せた心」「陽気」「三寒四温」
 
 
  失せた心
 
いつしか春を楽しむ心も失せて
失せた心が芳春を舞っている
 
いつしか花を愛でる心も失せて
失せた心が落花を浴びている
 
いつしか新芽を喜ぶ心も失せて
失せた心が新芽を噛んでいる
 
いつしか己を慈しむ心も失せて
失せた心が短い弦を震わせる
 
過ぎ去った春の巻き尺は切れ
また来る春までの時計は狂い
無数の季節の余事に絡まれ
乏しい接線を切れ切れに解いて
かじかむ手から汗ばむ手へと
見渡す春に渡されてゆく
 
 
(1999年03月30日)
 
 
  陽気
 
突然言うんだ
生活者なんかじゃない
変態のガリガリ亡者だ
そうじゃない
まともな生活はしてないが
そうじゃない
すると車の中にいる
乗せた覚えのないやつが
隣で言うんだ
この春は
何か欠けているな
そうかな
この一年いろいろあったけど
そうかな
脳ミソの神経か血管でも欠けたか
ふーっとため息ついて
また部屋に戻っている
春は そうだ いつも
わけのわからぬ問いが
ちらほら降ってくる
腕を組み
首をかしげ
この部屋の中に
同じように首をかしげてるやつが
少なくとも二、三人はいる
 
 
(1997年3月31日)
 
 
  三寒四温
 
ふるえながら部屋で
PCのキーボードを叩いていた
ディスプレイにやられたらしい
目汁
鼻汁を笑えぬ
寒さかな
で翌朝は
水の冷たさが憎たらしくない
昼は車の中で汗ばんで
暖かいのやら寒いのやら
温かいのやら冷たいのやら
夕方 宙ぶらりん
俺みたい どっちつかずの
ぼんやりしている瞼よ開け
澱(おり)のような顔の
孤独から
早く飛びだせ芽の光
 
 
(1997年3月6日)
(2011年2月28日、若干修正)
(2020年03月12日、旧作一部修正再録)
 
 
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
※ 繰り返し書きますが
 
心貧しさは、先入観のないこと。
精神の貧困は、先入観しかないこと。
 
 
春・陽気

春・陽気
 
 
(90年代?)
(2021年04月27日、再録+)
 
 
※ 
 
 苦言
 
一部のキリスト者の信仰は、
教理など教えられたことばかりになって、
反芻しているみたいに信仰を語る語彙が常同的で
大方、讃美ばかりで、自分の言葉が少なくなって
"頭がカチンカチン教" になっていることがあります。
 
キリスト教において
悪い言葉を口にしない
という聖句の教えから
批判しないこと美徳とし批判を禁忌のように思うのは
大罪であります。
 
言論において
理路と感性が鈍くなり
口にすれば讃美と豪語だけになるのは
カルトの特徴だからです。
 
そこには
悪意を懐に隠して
丁寧語ですり寄る偽善者が訪れるでしょう。
キリストを殺した者たちと同じ体質なのです。
 
求道者とキリスト者の集まりで
神っているんですか
と言う人がいたとき
顔が硬くなり語気を強める人はカチンカチンです。
 
余裕を持つべきというのではありません。
神様はどこにいらっしゃるんだろう
という問いは
キリスト者にとっても
一生の問いとして共感できるはずだからです。
 
そのとき
キリスト者は
神を証明するのではありません。
弁護するのでもありません。
私たちにそんな能力はありません。
 
神を、そして、キリストを
信じるようになった経験を語るのです。
 
そうすれば分かることがあります。
キリスト者が
神などいないかのような世界に生きていること。
 
そこで、自分が、
なぜキリストを必要としているかを語ること
それこそが、信仰を語ることであり、福音伝道だと思います。
 
 
(2021年04月27日)
 
 
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  楽山の有為と煩悩
 
 『万人に語りかけるブッダ 「スッタニパータ」をよむ』雲井昭善著
 2021年04月24日 楽山日記(LD)
 
 
また、楽山の、理解力、感受性、共感力の欠如を、偽りの机上の屁理屈を、真実に向き合うことのない怠惰を、いつものように都合のよい言葉漁りで、人の口を無断で借りて、筋の通った、などと言う身の程を知らない賛同などして、楽山は、せっせと、ごまかそうとしてきます。
 
しかも、楽山は、無常を語りながら、この記事の後に、本文たった4行の記事を書いて、この批判されるべき記事を目立たないようにしています。何が宗教でしょう。楽山の言は、世俗のヤニのような存在です。
 
本書は著者の「あとがき」によるとNHKラジオ番組のガイドブックを「再録」したものとのことであり、序盤は「スッタニパータ」の成立過程と仏教全体における位置付けなどについて説明し、その後は各章ごとに一定のテーマを設定し、それに関連した「スッタニパータ」等の原始仏典のことばを紹介するという体裁となっている。
では本書では具体的には仏教についてどのように語っているかといえば、まず仏教で思考される範囲は次のようなものだとしている。「仏教では今、現にここにある存在、目に見えるもの、現に見られるもの、万人が納得しうることが問われていて、目に見えない世界、経験されない世界を問うことはしなかった」(2003年 p.274)。
 
楽山が賛同する要素はないと言うことです。楽山が好むのは、フィクションと魔法と超常の空想の世界であり、そこから、宗教と信仰を語ったりするので、とても迷惑です。
 
楽山は、現にある自らの偽善に対する指摘を受け取らず、まるで気づかない自己愛性人格障害者です。いつどこで何を言っても、煩わしさと混乱以外、もたらさないと思います。
 
>したがって、人はどこから来てどこに行くのかという問いは取り扱わないし、
 
楽山は、神を机上の空論で否定し、その次元の低さに、呆れるばかりの文章をずっと書いてきて、反省もしないのです。つまり、「どこからきてどこに行くのか」を、知りもしないのに、何の救いにもならない、いちゃもんとして、法螺を吹いているだけです。
 
「人間存在としての「生」は本来、「因縁和合」(五蘊仮和合)によってなり立っているのであるから、その因縁が壊れれば消滅するのは当然」(p.232)ということとなる。人間以外についても、「因縁によって仮に和合したものはすべて滅びゆく存在である」となる(p.231)。 
 
どう理解したのでしょう。「こととなる」「となる」では、引用しているだけで、楽山が引用したということが、知性と感性の障害を通しているのだから、引き締まった理路も、理解を促す説明もなく、いかに楽山の自己顕示が無意味であるかを示しているだけなのです。
 
悪魔については、苦行の放棄をすすめるなど仏典にある「悪魔のささやきは、いずれも当時の修行法と人間の心に内在する内なる悪しき者のささやきであった」(p.205)としており、人から独立して存在するものではないとする。
 
そういう見方は、人間として、共感できることですし、楽山についても、外からの悪魔ではなく、楽山自身の内在する悪意の酷いものを悪魔性と呼んでいます。
 
それにしても、楽山のホラー好みが滲み出ています。楽山が、悪魔と言えば、人を誘惑する恐ろしい外部の魔物しか想定してこなかったことが、楽山の書くものに表れているからです。
 
それは、結局、神聖についても、楽山にとっては、神も、聖霊も、超常の魔物なのでしょう。そして、楽山に、自滅の刃でも与えているのでしょうか。論外です。
 
では仏典に繰り返し書かれてある輪廻転生はどう解釈するかといえば、当時の仏教教団では「在家者は生天を、出家者は涅槃をゴールとすべきことを教えています」(p.95)とのことである。他の書籍で、仏教教団では生まれ変わりについては在家者には説いても、出家者には説かなかったという話を読んだことがあるが、それと同じ考え方であろうか。
このような仏教解釈にはさまざまな意見があるかもしれないが、仏教の基本は諸行無常、一切皆苦、諸法無我にあるとするならば、これらは一応は筋の通った解釈ではあろうと思う。
 
えらく粗く、仏教の基本を、諸行無常などと、熟語だけ書いてまとめたものです。このように、短絡で、思考のプロセスを説明できないまま、「筋の通った」などと言えるのが、楽山です。
 
幾千年の歴史の重みを、一息で文章にして、それで、満悦するなんて、ふつうはないし、書かないです。何かを受け取ったのではなく、楽山の言の総てが、理解を装う芝居と言っていいでしょう。どうか関わらないでください。
 
たとえば、「諸行無常、一切皆苦、諸法無我はあくまで原則にすぎず、人に限ってはこの例外であり、人には人を人たらしめている本質が存し、これは永遠不変である」とするよりは、「諸行無常、一切皆苦、諸法無我は真理である。人もこの例外ではない」とする方が理にかなっているだろうことはいうまでもない。
 
だから、楽山が、それで分かっているのなら、楽山の諸行は我欲だけなのだから、わざわざ矛盾することを書くべきではない、ということになるのが、楽山には、分からないわけです。
 
我執しかない楽山が、無我を真理とは、呆れてしまいます。いかなる宗教の悟りも、我欲だけで心の無い楽山には、空疎なオモチャでしかないのでしょう。暇つぶしのオシャブリでも銜えている精神状態だと思います。
 
またこの仏教解釈は、釈尊が悟りを得たときに、他者の理解を期待せず、その内容を他に語ろうとしなかったという言い伝えともよく符合する。
 
ここで、楽山は、喜ぶのでしょう。「他者の理解を期待せず」を、自己中を正当化してくれていると、また、勘違いして、曲解して、悦に入るのです。言葉を、小学生ほどにも、勉強しなかったゆえ、節操のない楽山です。
 
釈尊とは別の事情ですから、理解されない自己満足など求めず、「他に語ろうとしな」いでほしいと思います。
 
それゆえに、難しい宗教用語を多用するのですが、読んでも、何も「符合」しないですし、何も響いて来ないのです。言葉の表面的な類似を漁っては、ひたすら、自己満足につなげて、考える人を演じて滅びてゆく大根役者であります。
 
当時は一般に輪廻が信じられている社会であったという。それなら輪廻を悟り、これは一般に理解されないだろうと考えたというのは理屈に合わない。けれどもたとえば五蘊仮和合を悟り、これは一般には理解されないだろうと考えたのであればそれはごく当然の思考ではあろう。
 
またまた、ごまかしの、用語の羅列です。「五蘊仮和合」の人間における意味を説明しないで、書ける根性は、ただただ、面の皮の厚さを示しています。
 
(ネットより)
個々の事物は因縁によって五蘊が仮に集まってできたものであるということを五蘊仮和合(ごうんけわごう)という[3]。五蘊仮和合は、特に有情の個体については、我として執着するような実体がないことを表す[3][注釈 2]。
 
有為の奥山、越えられず、己を飾る独り芝居、・・何の無常も理解せず、有為の我執にしがみつく楽山であります。欲望の刹那にいて永遠を自慢するような愚かさです。
 
釈尊は何を悟り、何を説いたかということは度々議論になることではあり、浅学非才の自分には容易には結論は出せず、断定的なことは何も言えないのではあるが、以上のような理由から本書で述べられていることは筋は通っているように思えた次第である。
 
浅学菲才なら、仰々しく分かったかのように「筋は通っている」などと書いてはいけないと思います。恐らく、楽山は、リアル・バーチャルを問わず、いかなる宗教についても、いちゃもんは言っても、実践的な交流をしていないと思います。、
 
楽山は、思想・宗教に、元々疎い人々を、詭弁で堂々巡りから袋小路に誘導しているだけなのです。決して、相手にしてはいけません。近づいてもいけないと思います。楽山という存在こそが、恥も罪も捨てて、人を害するだけの醜悪な伝染性の煩悩なのです。
 
今までの言動から思えば、楽山は、何かを言った後、直ちに、何を言ったかを忘れてしまう病気の人のようなものです。だから、責任など負えるわけがありません。と同時に、誰も相手にしてはいけない人ということになります。
 
無責任が常習になると、そういうことになるのです。良識ある人は、決して、楽山の真似をしてはいけません。楽山は、独りだけ架空の異常な世界に生きている不治の障害~病気なのです。
 
 
 いつも不真面目な楽山のツイッターです。
 楽山の、まとも芝居にだまされてはいけません。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
なんとなしに、『ジョーズ』で、人喰いザメ対策より、経済優先を主張する人がいたことを思い出しました 顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
引用ツイート
釈 量子
@shakuryoko
 · 4月23日
“戒厳令”で支持率が上がるとでも思っているのでしょうか。経済を回さなければ、生きていけません。“独裁者ごっこ”はやめていただきたい。
#灯火管制
 」
午後5:11 · 2021年4月24日·Twitter Web App
 
コロナ禍の問題を、「なんとなしに」『ジョーズ』で語ったつもりの楽山です。万事このような考え方であることが、この2年間で明らかになっています。真剣味が、まるで無いのです。
 
宗教を、趣味の、ファンタジー、ホラーアニメ、パニック映画、お伽噺、といったレベルで語って、批判し、否定したつもりになっている笑う邪魔者、それが楽山であります。
 
※ 
 
コロナ禍については、そろそろ、医療崩壊、経済崩壊、パニックに備えて、法律や命令だけではなく、生存権を直接強力に守る政策を考えるべきではないのか。
 
人口3億2千万アメリカ:感染数3200万人(人口の10分の1)、死亡57万人。
人口1億2千万の日本:感染数56万人、死亡1万人弱。
(人の死を「万」単位で見ているとは・・。オレも、そのうち、行くんか・・の世界。)
アメリカの死亡数と日本の感染数が同じくらいというのは、まだまだ、日本では、終わらないという意味でしょうか。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福の科学では、公式でもこんな言葉遣いをするんですね 絵文字(にやにやした顔)
引用ツイート
幸福実現党政務調査会
@hr_party_prc
 · 4月22日
緊急事態宣言の発出とCO2の大幅削減を同時間帯に発表するとは恐れ入った感覚です。これはサービス業、製造業はじめ日本経済が何によって支えられているかを政治やマスコミが理解していないかの証しではないでしょうか。依らしむべしってか?「うっせぇわ」。
 」
午前7:13 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 
開き直りの楽山の、笑いの顔文字付きの悪趣味です。「うっせぇわ」を「こんな言葉遣い」と言うのなら、楽山は、まともな言葉を使っているでしょうか、否です。またしても、自分を省みない楽山が、書けば失禁するという醜態です。笑うモンスターです。
 
つまり、「うっせぇわ」より、悪質なのは、反省や丁寧を装って、同情を引こうとするような、本音ではなく嘘と偽善の、楽山の、だまし言葉です。全部、嘘さ♪・・という歌がありますが、そんな感じです。
 
例えば、心にもない「反省。トホホ」とかで茶化して、同情をひこうとしたり、「言えなくもない」「かなあ」「ていうか」などの曖昧ボンヤリ言葉を、悪い印象を吹き込むときに、楽山は、やわらげたつもりで、よく使います。悪を隠して、だまそうという意図があり、最悪です。
 
しかも、それで、断定していないから責任はない、などと言うに至っては、常識の欠如であり、良心の欠如としか思えません。楽山の、有為ではなく故意の、有情ではなく無情の、無反省、無責任の、温もりも潤いもない自己中の慢心が止まりません。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
幸福の科学は部外者から見るととても笑える宗教ですが、彼ら的にはガチなので、自分たちが運営する中学・高校では学習指導要領はおろか教育基本法すらも無視して「笑える」内容を本気で子供たちに刷り込んでいます。ぼくが常々「笑えるカルトほどヤバい」と言ってるのは、こういうことです。
午後3:56 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 」
 
楽山は、あざ笑う自己中です。恐らく、他者すべてに対して、そういうスタンスしか持っていない自己愛性人格障害の病質者だと判断しています。よく読めば、楽山の言は、極めて浅薄で、何の助けにもヒントにもなりません。笑える自己中ほどヤバい・・と思います。
 
楽山は、道徳も倫理も宗教も教訓も学問も批判も無視して、まともを装う筆致で、関わる人を、嘘と詭弁で、邪悪な自己満悦のために、誘導して、刷り込んで、だまして、悪用してゆきます。それだけが、趣味で、生き甲斐なのでしょう。まともには誰とも交流できないのです。
 
楽山は、感性も知性も鈍麻して、もうかなり人格の崩壊が進んできたようです。自分で書いても、他者を引用して他者の口を利用しても、言葉や文章の選択において、人格破壊が、だらだら漏れてくるようです。
 
私は、楽山について、常々、「楽山の丁寧語にだまされないように」と言っています。
 
正常な人は、自身への批判に対して、いつまでも無視し続けることは出来ないものです。書くのをやめるか、理由を知ろうとするか、悲しむかするわけですが、楽山は、良心と良識が鈍麻~麻痺しているので、反省することなく、性懲りもなく、同じようなことを書いてくるのです。
 
つまり、楽山が書けば書くほど、楽山の病質が証明されてゆく成り行きになっています。楽山は、我欲と詭弁の発泡酒になっています。悪臭を醸造しているかのようです。
 
 
発泡する我欲

発泡する我欲
 
 
{2021年04月26日)
 
 
ストレスフルの私の遠吠え:
 
そうです。わたしは、もはや、おいぼれて、
ぶよんぶよんの、だらんだらんの、かっさかさの、ぎっとぎとの、ぶっつぶつです。
 
 
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  神について語るには3
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが
神という御方を考えるとき
全知全能の神については
私たちの概念の箱には到底納まらない
ということを先ず言いたいのです。
 
神と聖書について人間が持つべき箱は
修正可能な分かった "つもり" の箱と
分からない保留の箱だけです。
 
したがって
「神」を概念や観念として
言葉で考えることは
無理すれば
人が全能者を扱うことになり
教条主義という罠に堕ちるでありましょう。
 
 最悪の例を、一人は10年、もう一人は2年、批判しています。
 
全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ
全能ではない人が
神の概念を語ることは困難であり
語るにあたって
少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのか
ということになりますが、
恐れを持つということは
語るなということではなく、
語る内容を言葉で決めつけてはいけない
ということです。
 
どういう姿勢で
神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく
導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど
神が人に及ぼした作用の
人における経過と結果から
推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、
導きを受けた人のことを語ってもよいし
そういう人の様子や経緯から
推測できることを語ってもいいでしょう。
 
神そのものは
人によって捉えられるものではありませんが
神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については
人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから
人が聖三位について語るとき
最も多く語れる対象はキリストであります。
人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については
なお人間の理解の届かないところにあります。
キリストについて
物や肉体の奇跡を追いかけて
魔法使いの言行みたいに語ってはいけないと思います。
そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと
キリストが救った人々との交流から
救いとは何か
 
キリストが批判した人々との遣り取りから
救われないとは何か
 
こららのことを学ぶことは
決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで
自分に、そして人間関係に、
さらに思考や感情に、
そして人生に
どのような変化があったのかを
語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの
信仰がどうあるべきか
信仰者がどう生きるべきか
などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として
心が揺さぶられることは
キリストからの愛に
そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて
総じて
導きは祈りに帰してゆきます。
祈りは
その日までの経過であり
その日からの出発点なのです。
 
 
(2019年04月アップ)
(2020年04月18日、一部修正)
(2021年04月23日、再録+)
 
 
神様のことは
ちょいと徳の高いお爺さんがいるから
話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから
会えば分かるわけでもないのだから
会って直接話を聞ける相手でもないのだから
おとぎ話に出てくる仙人みたいな人でもないのだから
 
少なくとも信仰者は
善の代名詞みたいに
気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように
自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして
形容だけ大袈裟にして
大真面目を装って嘘を吐く輩が
キリスト教内外にいますから
彼らのように気負って
神の意志と行為を決めつけてよいものでもありません。
 
神聖について
人が持つべきなのは
確信ではなく
恐れであります。
 
人に起こることというのは
聖書からだとしても
よく語られる超常話が人を救うのではなく
つまり物や肉体の奇跡ではなく
 
人間であれば理解できるような
人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか
人間に理解できることが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが
聖書にはたくさんあります。
そこに価値を見出した人は
理解できないことや疑問や矛盾は
人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は
自らの経験と思考の届きうるもの
すなわち、人間であれば
理解できること、共感できること
それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは
こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ
・・すごぉい!・・と
奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく
 
信仰の学びとは
主イエス・キリストが思いを共にして下さる
という孤独からの解放を
人間らしい心の深みにおいて聖書から学び、
また、生きているあいだ考えて
伝えてゆくことなのです。
 
 
同伴と共感

同伴と共感
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの主への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知り得ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
(2020年04月21日)
(2021年04月23日、加筆して再録)
 
 
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飲兵衛さんの思い出。再録+
学生時代の思い出です。
 
 
  飲兵衛さんの思い出3
 
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の飲兵衛さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが鬱積しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我をさせるか
喧嘩になって
こちらが怪我するかも知れない
 
しかたないと諦めて
エンジンを止めて紙切れを見た
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
顔が和んできたのに気づいた
 
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかった
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
 
しかしこの飲兵衛さんにだって
プライドがある
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人から
聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になったのか
 
あのとき思った
案外、精神科医に向いている
かもしれないという見込み
は見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
(1999年06月26日)
-------------------------------------------------
思いがけず、自分が和ませた、癒したかのような気持ちになっていましたが、飲兵衛さんもいろいろです。乱暴な人もいるかもしれません。
たまたま、そういう飲兵衛さんに出会ったひとときの間、そういう出会いによって私が、ある意味、
思いがけず、和んだ、癒された、つまり、そういう飲兵衛さんがいて、よかった、ほっとした、
という思い出かもしれないと今は思っています。
 
飲兵衛(のんべえ)
怪我(けが)
塞がる(ふさがる)
鬱積(うっせき)
喧嘩(けんか)
和む(なごむ)
 
 
 
  武装
 
 
正直は
単なる道徳ではない。
 
正直と正直は
解決を見出すかもしれない。
 
飾りと飾りは
どこまで行っても飾りだ。
 
偽りと偽りは
どこまで行っても偽りだ。
 
偽りと正直は
加害者と被害者を生む。
 
怒りと怒りは
衝突して何も見出さない。
 
怒りは一時的だが
根に持つと怨念になる。
 
大切なのは基本的に
神に対しても人に対しても
できるかぎりの
正直で武装しておくことだろう。
 
 
(2020年04月)
 
(2021年04月21日、再録+)
 
 
正直で武装

正直で武装
 
ここで、武装とは、暴力の用意ではなく、向かい合う用意ということです。それが生き方を決めてゆくのです。
 
それが全くできないし、する気もないような人がいて、表面的な優しさ芝居で、怨念を隠し、付き合えば、気色の悪い疲労をもたらし、迷惑だけを掛けてきます。
 
復習みたいなものですが、楽山は、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、という信条に賛同しました。どう見てもキリスト教の信条ではなく、むしろ、反キリストの信条です。そこから、今まで、約2年余りの楽山批判が続いています。
 
楽山の正当化に、"人それぞれ" だから自由だ、という言い分がありますが、これが詭弁で、キリスト教の信仰が、"罪を認める" でも、"罪を気にしない" でもいい、自由だ、なんてことは、ありえないわけで、前者しかありません。極めて、初歩的な人間の理路が、楽山には成立していません。
 
(2021年04月21日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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