ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:キリスト教

 
  猛者への堕落4
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には、ある種の猛々しさが残る。せっせとお味方になる意見を集めている。それは猛々しい文章である。その威勢のよさの分だけ、また人間としての共感を失ってゆくのは、字面だけを追って、お味方になる意見というだけで悦び、褒めまくるからである。
 
一般的にヒューマニズム云々を、社会通念に過ぎないものとして批判して、そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが、そういう福音の変質を語る前に、他者を語る前に、人が考えるべきもっと重大な自らの問題を考えていない。
 
人間性を欠いた信仰?は、神性と神聖と真正の確信?に満ちて、正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる。自らに目を向けず、反対意見に耳を貸さず、お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく。
 
そして実際に賛同者以外とは、つまり反対者とは話さなくなる。そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである。しかし、いったい、神への恐れを知る信仰ではなく、むしろ神を恐れず誇大化した自我からの尊大な妄想的確信に、担保されうる何があろうか。
 
しかし、それでも保険のように、神の側に担保されるという神の意志を自らのものにして、さらに確信を強めてゆくので、恥ずかしげもなく、信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく。
 
信仰に対して羞恥心を持つ必要はないのだが、信仰によって恥知らずになっていいはずはない。人が持つべき羞恥心は、実際には、信仰?によるつもりであろうがなかろうが、自己の不完全性の無知と無恥からの異なる意見の軽視~無視に対してである。
 
さらに最悪な恥知らずとして、信仰?によるという間違った確信において、異なる意見を封殺するような非人間性による自己正当化である。そういう者は聖句さえ悪用する
 
しかも嘆くべきは、確信に満ちた非人間性の思想は、自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想であり、詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら、何事も無かったかのように慢心していられるほどの厚顔で、罪悪感を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
以上は、偽牧師シャロームについて書いたことです。カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースから崩れてゆく定めです。
 
このように、キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きています。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間離れした超常を説く必要はなく、人間の心において理解と共感が可能な中心を持っていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力があります。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るでしょう。
 
 
 
 楽山について考察
 
楽山の文章というのは、月並みで、社会通念とか先入観や固定観念からの発想に過ぎず、独自の、直観や経験からの切実さがありません。ごまかすために、楽山は、読書の履歴を書いて引用してきますが、引用の基準は、自分の固定観念に都合がよいかどうかでしかありません。
 
さらに、有名人や学者の名前と、学術用語や宗教用語で飾って、自分も同列であるかのように気取ってくる楽山の態度は、その引用の恣意性や、聖書についての誤解と曲解とともに、楽山独特の詭弁と婉曲性と曖昧さをもって、まわりくどい図々しさを表してきます。
 
肯定するときには、「せつなくなる」「一言一言に力があり」「心に迫ってくる」「期待して読みすすめたいと思う」などという、深い中身のない世辞の賞賛の言葉を付けるだけです。そういうことしか書けないのだろうと思います。内実に一歩も踏み込めないのが楽山です。
 
一方、反対の時は、「好悪は分かれそうだ」「カルト信者にありがちなこと」「強まる傾向はあるように思う」「という話もある」「慎重に吟味すべき」「よく聞く話ではある」「現時点での正直な感想ではある」「一理ある」などと語る婉曲性と相まって気色の悪い刺激臭となります。
 
楽山は客観的に書いたつもりのようです。でも引用して批判しなければ賛同ですから、人の口を利用しても自分の主張であることに変わりはありません。楽山の引用は、徹底して責任を負いたくないという意図なのです。自分の意見ではないから責任は負わないでいいと思っているなら、大間違いです。
 
それら、責任逃れの、通念的発言で、無責任であるなら、アドバイスにもヒントにも示唆にも参考にもならないということです。本気で書いていない、受け狙いだけ、これならちょうどいいだろうというバランスを思いつきで捏造して書いてきます。
 
そして、何よりも、重要な是非の問題について、賛否入り混じって、どちらともつかない、真剣味がないのです。結局、実のあることは何も言っておらず、暇つぶしの、邪魔なだけのセリフになるわけです。つまり、意見交換になっていないのです。
 
楽山は、生まれ育つ過程で、こう言えばよく思われる、受ける、学があると思われる、というような学習と条件付けしか身に着けておらず、実体験から、受け取って、感じて、何が正しいかを考えて、誠実に意見を組み立ててゆくという学習と成長が出来ない人です。
 
しかも、自身の無責任な発言を、止めようともせず、他者の意見を無視して、先入観のまま、繰り返し書いて、やり返したつもりでいるわけだから、無責任に加えて、無反省かつ訂正不能という人格の偏奇としか判断できないという経過です。
 
そして、指摘しても、批判にもかかわらず、それが長く続けば、人格の異常、人格障害としか考えられないのです。それで、もう3年余り続いているから、今後も変わらないだろうという結論が出来上がってしまいます。
 
そういう執着性と反復性と継続性から見ても、楽山については、一時的に感情的になって意地を張っているのではなく、不可逆の性質を持つところの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質を考えざるを得なくなっているということです。
 
そういう人物は、リアルな世界では、殆ど発言をしないか、しても認められたことのない人でしょう。だから、ネットの世界では、無反省、無責任に、好きなように書いて、一切、他者の言うことは聞かないし訂正しないでいいと思っているのでしょう。
 
前に、楽山が、私が実名を出しているのは自己顕示欲だと、けなしてきたことがあります。私は、人それぞれではありますが、できれば知ってほしいと実名を出すことは正常な範囲内だと思っています。さらに、実名を載せることは、自らの発言に責任を付与することでもあります。
 
一方、楽山は、実名を出せないのです。責任ある発言が出来ず、責任を負う気もないからです。しかも、ツイートを非公開にしたり公開に戻したりと不安定で、もはや、裏で何をやっているのかが、恐ろしい楽山なのです。
 
楽山の自己顕示欲は、匿名が通用するネットにおいてだけ、生産的な目的もなく、ひょっとしてバーチャル教祖にでもなりたいのかと思うほど、カルトと同じ単方向の、訂正不能、つまり、学習不能な自己愛の誇大妄想性として表れています。それで、無神教カルトと呼ぶこともあります。
 
以前、楽山は言いました。神がいるなら、なぜ、悪がはびこるのか、なぜ、神は悪を放置するのか・・などという、いちゃもん。確かに、なぜでしょう。それに答えられる人はいません。しかし、そういう考えは、神がいるなら、みんな、ハッピーのはず、という身勝手な前提がある証拠です。
 
神は、人に理解できるような、天国のバーゲンセールはしないでしょう。どうしようもない悲劇が起こるから神はいない、などという言い分は、神の恵みに触れたことのない楽山のような利己的な人格が言っていることです。そのような安っぽいところに信仰の根拠はありません。
 
だから、今となって、私は、つくづく思います。なぜ、神は、楽山のような偽善者を放っておくのでしょう。なぜ、さっさと片付けて、みんなをハッピーにしないのでしょう。ゆえに、私は思います。救いは、この世の出来事の表層に、はっきり見えてくるものとは限らないのだろうと。
 
本当の救いは、もっと深いところ、あるいは、この世の人生以外のところ、人が気づかないところにあるのだろうか。それに気づく時は来るのだろうかと思います。神は、人間が、逐一納得できるような、ご利益の救いではなく、あくまで、神の計画に沿って、救いと裁きは成就するからです。
 
だから、神は、いつまでも、黙って見ているだけではない。導きの不思議ということは、人づてにも聞いているし、経験上も、感じてはいるわけです。楽山などが、いちゃもんなど言って、しゃしゃり出てくるスペースは、どこにもありません。
 
ずっと神を呪い続けているような楽山が、何もかも、うまくいって、継続して、不幸などなく、いつまでも、満ち足りて過ごす、などということは、想像も出来ないし、あってはならないことなのです。歴史の出来事も、いずれ、裁かれる時が来たし、これからも、来るのでしょう。
 
神と、条件交渉みたいな、取引でもする気でいる者には、無償の救いが与えられることはありません。その恨みで、楽山は、神を呪っているのかもしれません。
 
しかし、いつ、神の救いの業(わざ)が起こるとか、どのように起こるとかは、人には分からないのです。神は、人に、いちいち説明はしない。正直な祈りだけで、人が、無条件に救われるために、人の信仰にも、無条件であることが要求されるのではないかと思っているところです。
 
 
現在は所在不明の偽牧師シャローム shalom と、荒らしの易坊、そして、楽山は、ネットの発言と交流において、つながりがあります。易坊とシャロームは一緒に私のヤフーブログを荒らしてきました。楽山はシャロームに無条件賛同しました。3つのHNが同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 
猛者、凍結

猛者(もさ)凍結
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月17日、再録+加筆)
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
 
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
 
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
 
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
 
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
 
許せるだろうか
許されるだろうか
 
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
 
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
(歯科へ行け!)
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
 
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
うまくいっていると思う間、悦び、慢心しても、欺きであることに変わりはないのです。悔いないことが病気であり、改めないことは罪悪であります。自らの罪悪を、「人間の性」と一般化して、みんなそうでしょ・・みたいに煙幕を張っても、詭弁の汚らしさを表すだけなのです。
 
 
 
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  時と風2
 
 
時は風のようなものだ
 
あの日の時と
今の時と
それほど変わりはない
 
同じような時が日々の必要を告げる
 
あの日の風と
今の風と
それほど変わりはない
 
同じような風を頬に受けている
 
私たちの変わりようといったらどうだろう
 
時は風のようなものだ
 
流れてゆくようで
流していて
 
流れてゆくのは私たちのほうだ
 
 
私たちは時ではない
私たちは風ではない
 
時も風も空しさを感じない
感じるのは私たちだ
 
私たちは
時に乗じて風のように進むのではない
 
時にも風にも限りはないが
私たちには限りがあって
 
時にも風にも変わりはないが
私たちは変わりがあって
 
必要に応じて
受けて考えて返してゆく
 
感じるならば返してゆく
 
 
※ 
 
あの日の時と風も知らないのに
まるで比べるかのように
未知の終わりに向かって変わり続ける自分
 
その悲哀を共感できる人は信仰に向いている。
 
一方で、そういう共感を全く持ち得ない者がいて、反信仰しか語れなくなっているが、そういう者が、なぜ、生まれて、存在しているのか、という疑問は、神がいるのに、なぜ、悪があるのか、という疑問とともに、神の大きな懐に秘められているのです。
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)1:14
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
 (伝道1:14、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
2:25
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 
2:26
神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道2:25-26、旧約聖書)
 
 
 (伝道の書、口語訳)
4:15
わたしは日の下に歩むすべての民が、かのわらべのように王に代って立つのを見た。 
4:16
すべての民は果てしがない。彼はそのすべての民を導いた。しかし後に来る者は彼を喜ばない。たしかに、これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道4:15-16、旧約聖書)
 
 
「風を捕えるようである」というのは、以前は「風を追うようなものだ」という訳でした。前者は、言葉から、出来ないと直ぐ分かる。後者は、追おうとすれば追えるけど、切りがなく、人生を費やすには、空しい、という感じになり、私は、後者の方を好みます。
 
信仰を持ち、日々、何かを努めるとしても、私たちは、時が経てば、寿命が尽きていなくなる存在。「風を捕えるようである」≒「風を追うようなものだ」、つまり、私たちは空しい存在だ。この地上の世界は、限りある私たち人間にとって、空しく思えてならない。
 
そのことを強調しながら、伝道者が伝えるのは、2:25~26にあるところの、神を離れては楽しめない、 ≒ 神がおられるからこそ楽しめる、という教訓的な讃美になっている。
 
地上の人の生き様が、いかに空しいかを説きながら、神のもとで楽しむことを説いている。いわゆる神への、逆説の讃美歌となっている伝道の書。私は、そういう伝道の書が好きです。
 
 
風 山

風・・山
 
 
(2020年05月02日)
(2022年05月12日、再録+加筆)
 
 
 
  影のうすい男
 
生きているのか
死んでいるのか
よくわからないほど
影のうすい男が歩いていた
まわりを歩いている人に関心を持たず
また彼が関心を持たれることもなかった
生きるとは何か
という前に死とは何か
という前に生きるとは何か
彼は今生きているのか
それとも死につつあるのか
人が「この人は死んだ」と言うとき
彼は生を終えるのか
それとも死ぬのがやっと終わるのか
彼は歩いていた
たとえ泣いていても顔に出ていない彼のまわりで
人々が通り過ぎていった
紙くずが舞っていた
いつのまにか自分がうすもやに思えるほど
何の抵抗もなく
風は通り過ぎ
紙くずのように
時間が通り過ぎていった
 
時間の前で
次から次へと
彼は通り過ぎ
目の前で果てていった
 
紙くずは遠く去って
どこかで拾われ捨てられるであろうか
彼は拾われることがなかったので
捨てられることさえできなかった
 
 
  抑圧
 
何も報告してはくれない
どうしろとも書いていない
 
誰かから誰かに
日常的に伝達される
レジメのような情報があふれている
覚えきれなくてイライラする
苦笑いとおとぼけでわたっていくうちに
足を踏み外していることや
腰が折れていること
頭が割れて欠けていることさえ
気づかないでいるのかもしれない
鏡にだって写らないのだから
 
ほとほと終わってしまいそうだよ
胸は風の吹くまま
観念も気安く通してしまうだけの
穴があいていて
時々かわいそうだよと悲しい笑顔を見せるときに
 
何も伝達してくれないものが
揺り動かして時々
何か伝えられていると
もっと大切にしたくなって
そっと手を伸ばす一冊
目に見えるピリオドから
違った恐さを夢に見て
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のようになると、間違え続けたら、詫びることも、正すことも、反省することも、学習することも、できなくなるのだろうか。同じ辻褄を、繰り言のように、言い続けるのだろうか。しかも、頭は、空っぽの世界に、ふくらんでゆくのだろうか。破裂するとき、邪悪な液でも引っ掛けるのだろうか。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法総裁は、アーレントに習って、多数の犠牲者を出すような革命はよくないとしてます。
この考え方からすると、今、HSがプーチンを支持、応援してるのは、筋が通らないように思えました。
HSではこの矛盾をどう解決してるのでしょうか。
 
楽山は、また、身の程も弁えず、他者を批判しています。無反省、無責任で、全く「筋が通らない」のに、評論家気取りで高所から見下ろして書いています。どうして、こういう気分になるのか、それは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからとしか言いようがないのです。
 
 
 
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  信仰は3
 
 
信仰は史実に依拠しません。史実であってもなくても、聖書によって信仰は生まれるからです。
また信仰は出来事に依拠しません。
 
さらに信仰は人にも組織にも依拠しません。
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠します。
 
与えられるためには人間らしい温もりと潤いが必要です。
与えられるのは人間らしい温もりと潤いに相応しい道です。
 
決して安穏の保険ではありません。
奇跡と神秘の沙汰は神に任せられ、人が云々できることではありません。
 
人は、未来という未知へ導かれ、守られる身であるのに、史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど、依拠するところの概念だけをご本尊のように守ろうとするでしょう。そこには、温もりと潤いが欠けてゆきます。
 
奇跡に反するものから目を背けるような、
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
戒律とタブーと侮辱を人に当ててしまうでしょう。
 
これが信者から猛者へと変質して、信仰という名をかぶった思い込みの確信であり、信仰者という名をかぶった無資格超人気取りであります。
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず、計りがたい神の意思に委ねるほかはない一人の人間の在り方であります。
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思が分かるという思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び、またそのために選ばれた者であります。
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠します。
 
 
 
信仰者である人は、へりくだる姿勢を持ちながら、ときに神に訴え叫ぶことがあります。ときに疑問を言ったりもします。叫びは、嘘の世辞の讃美言葉と違って、祈りとして真実性があると思います。
 
祈りにおいて正直であることだけが条件となるからです。
 
神に対してだけは、正直な心をもって、甘えるように、叫ばないと生きていけないことがあります。だからこそ、甘えであることを自覚していなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、神に対する正直な自覚を失った人の姿です。それは、神が自分にとって都合よく働いてくれる、という、神を恐れず、神の都合を自分の都合に合わせる的外れの自覚と感謝に陶酔して、甘えの中に、むしろ溺れている人の姿なのです。
 
神に甘えるとは、都合の悪い本音を隠さないことであります。本音ではない遊びの甘えは冒涜です。本気でなく、自分の都合に合わせて神を恐れない者ほど、神を讃えます。これは、一部ではなく、私たちの中にある稀ではない罪性であります。
 
ゆえに、折に触れて、信仰者にも悔い改めが必要になります。悔い改めは、改めて正直に祈ることであり、信仰者の不可欠な務めであります。
 
キリスト信仰者を、間違っても超常に生きている人などとは思わないでください。超常ばかり語ることは信仰から外れてゆく方向です。超常は分からないという分別こそが信仰の姿勢であり、神に任せるべきものを弁えている態度であり、神を恐れる信仰に、必須の、そして、相応しい弁えであります。
 
私たちは信仰によって、信仰者として、死ぬまで成長し続けて、「神を恐れよ」を自覚し直すことになるでしょう。そのたびに、祈り、主の慈愛と神の寛容を頼みとする道に帰るのです。
 
キリスト信仰は
神の全能への恐れを知り
キリストの
人への共感と愛に依拠する信仰です
 
 
恐れと共感の道

恐れと共感の道
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月07日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
会員だった頃、伝道の取っ掛かりにしようと思って、荷物を幸福の科学の袋に入れて、友人宅を訪ねたことを思い出した。
袋に印刷された「幸福の科学」の文字を見て、
友人の妻「幸福の科学ってなあに?」
友人「バカ、そこに触れるな!」
伝道は始める前に中止となりました(笑)
午前11:21 · 2021年5月3日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389042455228542976
 
HSを揶揄しています。そして、キリスト信仰をも、ろくに知りもしないで、同じように無根拠に批判して、悪名と不幸を広めています。楽山の批判は、多く「(笑)」付きです。宗教もカルトも、恐らく、有名人も学者も、楽山にとっては、「(笑)」に過ぎないからでしょう。
 
キリスト信仰について、何も分かっておらず、アニメと同じように、無反省に無責任に話のネタにしてくる楽山には、人が傷つく、人を傷つける、ということも、何も分かっていないと思います。
 
楽山は、不幸の我執の伝道者というより宣伝者です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のネトウヨが「バカ」を連呼しながら、今日も、ネットという街宣車に乗って来るようです。しかも笑いながら。
 
楽山の、こういうツイートこそ、そして、楽山ブログも、始める前に中止してほしいのです。楽山には、あらゆる正義について、あるいは、あらゆる悪に対する批判について、語る資格はありません。
 
 
 
 2021年05月03日
 大川隆法とバッハ
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
  を批判
 
楽山は、 YouTube から、ORと、バッハを、並べています。その意図が明らかなのに、書いていません。責任を負う気のない卑怯者のやり方です。楽山が記事を書くという行為は、このように、いつも卑怯で、作為的です。厚顔の武装面でしょうか。
 
自分の言動がボロクソになっている状況で、人のことばかり書いてくるというのは、どういう神経でしょう。それこそ、カルト教祖の妄想状態でもなければ出来ないことだと思います。鉱物的体質の鉄仮面なんでしょうか。それとも、皮がむけてヒリヒリするような赤裸の時空を持っているのでしょうか。
 
 
*大川隆法の音楽
 大川隆法の作詞作曲した歌を聴いてみた。独特の個性があるので、人によって好悪は分かれそうだ。
・「ウィズ・セイビア 」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:大川咲也加〉
・【デジタル先行配信中!】「水の革命」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:恍多-kouta-〉
 
「人によって好悪は分かれそうだ」・・責任を負いたくないために、楽山は、曖昧に言います。責任逃れでないならば、なぜ、曲をブログに載せ、かつ、バッハと比較するような構成になっているのでしょう。
 
 
*バッハ
宗教音楽というつながりで、なんとなく、バッハを思い出したので聴いてみる。やはり、いつ聴いても切なくなる。
・バッハ《マタイ受難曲》「神よ憐れみたまえ」 アーフェ・ヘイニス
・J.S.バッハ: マタイ受難曲:我ら涙流しつつひざまづき[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない?]
 
私は、音楽は苦手ですが、楽山は「いつ聴いても切なくなる」と書いています。つまり、比較の意図は明らかなのですが、上2曲と比較させながら、比較については避けているのです。主張の責任を負う気などないからでしょう。
 
こういうやり方は、今までの楽山の言論を象徴するかのようです。断定していなければ責任はないというのが楽山の思い込みですが、ブログでも引用でも発言し公開した時点で、言論の責任は発生します。
 
責任を意識することで、反省と学習が可能になります。それをしたくない、また、できないのが楽山です。自己中と自己愛によって、いつも、偏向した主張をしてきますが、責任を負わないというのは、楽山が、いい加減な、趣味程度にしか、マンガ程度にしか、宗教を考えていないということです。
 
楽山が、そういう無責任であるならば一人前の人間ではないということであり、一人前の人間がすることである他者への評価について書くという資格はないのです。
 
つまり、楽山は、自分は言いたいように言うけど、質問するな、批判するな、ただ褒めろ、と言っているようなものです。こういうことが通ると思うのは、楽山が、自己愛性人格障害という病気だからです。いつでもどこでも通用しないことなのに、楽山には、それが分からないのです。
 
ゆえに、楽山においては、不祥事や失敗の時に、楽山に向かって、"あんた、あの時ああ言ったじゃない"、と言っても無駄だということです。つまり、批判者失格です。
 
こういう人を相手にしますか、こういう人が何かを良い方向に変えるでしょうか、ないと思います。何故なら、大事なときに、まるで当然のように、平気で、真っ先に逃げる人だからです。実のない人生を送ってきた楽山の、下種ぶりが続きます。今日は、節操もなく失禁するのは大人ではないのです。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じないですね。
なにをされても、正しく導いて頂いている、救いを頂いているとし、もしそう思えず、感謝できなければ自責の念を抱いてしまう。
カルト信者にありがちなこと。
引用ツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 2時間
相手が少しでも「責任」を感じるなら、攻撃者としては攻撃しやすくなる。(例えば、攻撃者がケガ人や病人である場合、そしてあなたが「責任」を感じている場合、あなたはその人の「要求」を、攻撃とは感じにくいかもしれない)
 」
午前8:03 · 2021年5月5日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389717452410408961
 
「教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じない」・・楽山も、教祖になって、そうありたいのでしょうか。批判されなくて済むから。
 
しかし、言うまでもなく、無反省、無責任では、教祖どころか、まともな知性と感性を持った人間ですらないのです。楽山は、結局、良心を裏切った報いを受けるだけです。
 
楽山が「少しでも「責任」を感じるなら」批判は別のものになったかもしれないが、現実には、真逆ですから、楽山の望むことが少しでも叶うようであってはいけないのです。
 
別のことを言っているつもりでも、楽山の潜在的な欲望は、書き癖や言い回しに表れてきます。本気で考えて必要だと判断して言うことと、趣味的に考えるだけで言うこととは、違ってくるのです。
 
楽山は、自己中と自己愛が育てたところの、うっとうしいカビサビの世界に棲んで、そこから発信しているので、これからも、自分の言葉に、そして、引用した言葉に、斬られる結果になります。(カビ=黴、サビ=錆)
 
楽山をアンチと思わないでください。楽山の考える宗教は、超常とか霊とかの話ですから、これは、基本的にカルトの発想と同じであります。ゆえに、楽山は、実際にはカルトと区別できない本質を持っていて、今は、アンチのように見せかけているだけです。
 
楽山が、現実問題でカルトを批判しても、宗教はこうあるべきという考え方では、カルトと同じ種類の、空想的な立場しか持っていません。この3年間、楽山の、反省せず、批判を無視する単方向性に、如実に表れてきたことです。
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された

誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘を吐き、それをごまかすために、また、嘘を吐く。理路の代わりに、詭弁の迷路を用意して、異常な疲労をもたらしてくる。そして、すっとぼけた顔で、謙虚芝居をする。そして、ツイッターを非公開にして、秘密結社でも作るつもりでしょうか。恐ろしい楽山の、”へのへのもへじ”が始まるようです。
 
(ネットより)
へのへのもへじとは、日本の古くからある顔文字であり、かなり古いアスキーアートである。簡単に覚えられ、文字を変えるだけで様々な表情を生み出し、フリーハンドでも楽に描けるため、子供たちからの人気は計り知れない。
主に学校の落書に用いられる他、漫画やアニメでは、表現してはいけない顔(別作品のキャラ等)や、どうでもいい端役キャラにこの顔が用いられることがある。ライバルに、つるさんはまるまるむし、小さなコックさんなどがいる。
へのへのもへじ
 
私は、ネットを、96年ごろから利用していますが、楽山ほど、程度の低さにもかかわらずインテリを気取り、かつ、そこに、生き甲斐でも見い出したのか、しがみついてくる愚か者を、他に見たことはありません。言ってること全てがペテンです。本性は、ネズミかゴキブリのような害毒なのです。
 
 
 
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  当てにならない3
 
 
私たちは実に当てにならない世界に住んでいます。実際は、当てにならないのは私たち人間の心であり内部なのです。神様は当てにならないかということなら、心の支えとして信じている人はいます。
 
望んだ奇跡が常に叶うという信仰?なら、当てにならないだろうということです。キリスト信仰はご利益信仰ではないからです。
 
入力は総て感覚器を通しています。内部処理は総て脳が行っています。いずれも寿命が尽きればなくなるものであり、これらは、寿命がある間は維持されるけれど、本当に変わらないで維持されているかどうか、厳密な検証は不可能である。老化もするのでしょう。
 
当てにならない世界を、当てにならない知情意をもって、断定できる何があるでしょう。しかしながら、私たちは、当てにならない世界において、当てにならない知情意をもって、判断し実行し、生きてゆくしかないのです。それが人間の不完全性そして相対性、つまり、神とは違う非絶対性なのです。
 
神が絶対でも、あるいは、たとえ絶対がどこかにあっても、私たちには絶対はない。それを知ることが信仰の始めです。自分の言動の影響を末端まで追える人はいません。風を追うようなものです。風を捕えるようなものです。
 
 (伝道の書、口語訳)
1:16
わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。 
1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
 (伝道の書1:16-17、旧約聖書)
 
絶対とは不変に正しいこと。非絶対即ち相対とは可変で、ときに当てにならないこと、そして変わりうること。人間は、不完全、ゆえに、罪深いのです。神の、全知・全能、完全・絶対、永遠・不変、これらは、人の手には負えせん。この6つの熟語を否定した不完全な在り方が、人間です。
 
神の属性である不変は、変わることなく成り立つということであり、神義すなわち神の正しさを表します。人間が、絶対を目指したり思い込んだりすることは、当てにならない感覚・知性・感性をもって生きてゆくのに全く向いていません。
 
しかし、人間の正しさは、あ不変ではなく、より正しいことによって、また状況によって、否定されないとは限らないことである。つまり、正しさを追求する努力は、完全にはならなくても、好ましく望ましいとは言えるでしょう。
 
これを人間の相対性と呼びます。信仰をもっても、この相対性は変わりません。すなわち、私たち信仰者は、神ではなく、神の民であります。むしろ人間の相対性・非絶対性・不完全性を自覚することが信仰であります。
 
人間に成り立つ絶対性は、絶対は絶対に無いという循環論法にしかなりません。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるでしょう。
 
 
しかし、しばしば人は絶対を求めやすいのです。絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。そこで、絶対の存在を確定しようとするか、あるいは確定したつもりの言動を、神の御心だと言って神聖化しやすいのです。そこに、人間の最も忌むべき罪と偽善があります。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して、感じることと考えることを疑いだと退けてしまいやすい傾向が、私たち信仰者が、最も注意し警戒するべき背教であります。絶対は神のもので、人は決して絶対を確定できないのに、気安く正邪を神の立場で決めつけやすいことが原罪の源です。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが信仰の始めであるのに、味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は、戒める神と懲らしめる神を、そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすいです。これこそが相対的で不完全な人間の罪性である。
 
 
あらゆる理不尽な悲劇は、信仰者にも起こりうることで、その説明が地上で与えられるとは限らないのです。また、あの世のことを、人間は、天国と呼んでも詳細は知り得ません。天国を捏造する者たちを警戒してください。その理由は神の秘密ということがあります。ゆえに神秘と呼ばれます。
 
神は、いつも分かりやすく恵むわけではありません。神の御心を、人がいつも理解できるわけではありません。決めつけやすい人の罪深さゆえに、キリストは十字架の道を歩まれます。今も、これからも・・ずっとです。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、私たちの狭い見識と視野と能力では、神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力、すなわち、全能を理解できないことを考えるべきなのです。ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とします。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っています。神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておらるでしょう。それが不可知であっても、人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではありません。
 
理解できたら、信じる必要はないのです。
 
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み、
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは、いつも、人の絶対を確信し保証するカルトの類であります。人の相対性は、信仰とカルトを見分ける決め手ともなるでしょう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。人の善悪の判断は絶対ではありません。また、偽善と偽悪の問題もあります。刑罰を伴う法制度は、不完全な人間のための、必要悪であります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性について、優れた洞察と共感を、聖書を通して、誰にでも示しておられると思います。まさに、キリストこそが、人の相対性、即ち、罪深さを語り、共感を表しているのです。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実であり、そう言える人が、信仰者だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限りません。
 
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのです。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、自分は神が分かっているという信仰自慢になり、信仰からは、離れる方向だと思って注意したほうがよいでしょう。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人をだますのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのかなどと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすいです。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのです。
 
私たち信仰者は、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じています。そこには、愛に通じる共感が、キリストによって、聖書を通じて、もたらされているということです。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが、人には絶対の正しさはありません。絶対の義を判断する能力もありません。人は出来ることをするだけです。実際には、信仰と言い、神の義を振りまわす偽善者もいます。聖書ではパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。
 
相対で不完全な人間には、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。神に正直な祈りが出来る人は、悪意に満ちた悪と偽善を働くことは出来なくなるということはあるでしょうが、行為義認ではなく、あくまで、信仰義認によって、神の救いは与えられます。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は、人によって汚され過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式の有無によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも求道者でも異教徒でも無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動と心を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
さらに、神が、宗教や信仰を通さずに、人を選んで何からの使命や役割を与える可能性は否定できません。また、そのことを、いちいち、人に説明することは、為さらないでしょう。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直のみをもって備える"ことが大切なのです。
 
 
信仰の相対性 私たちは風

信仰の相対性 私たちは風
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月02日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山の経歴も怪しいと思います。楽山は自己中促進のアドラー心理学の宣伝をしていました。また、ネトウヨだと思われますし、右翼のA級戦犯を褒めていました。読書は、都合のよい文言だけを漁って、箔をつけるために引用するだけで、勘違いや嘘が多いです。有名人や学者の名前に惑わされないでください。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ろば
@robamimi0314
#幸福の科学
根拠も証拠もなく、他人を
誹謗中傷、侮辱、罵倒、脅迫する言動が多い。それを「教え」としている。
〈例〉
・自殺は罪、永遠に苦しむ。
・ガンになるのは感謝が足りないから
・鬱になる人は周りへの感謝が足りない
・教祖を神と崇めないと地獄に落ちる
午前9:36 · 2021年4月29日·Twitter for Android
https://twitter.com/robamimi0314/status/1387566470033334272
 
楽山は、根拠も証拠もなく、他人を誹謗中傷、侮辱、罵倒、強迫する言動が多いです。それを、一人前の "批評家気取り" で書いてきます。最悪なのは、まともに見せかけるために、丁寧語で、婉曲的に書くことです。また、わざとらしい芝居によって、反省、卑下、などを書いてきます。楽山は、よく読まないと楽山の悪意に気づかないような書き方をするペテン師です。
 
楽山を、批判の仲間だと思っていたら、とんでもない間違いであり、徒労と疲労と人間不信をもたらされるでしょう。楽山との交流を継続すると、楽山の体質であるところの、自己中、無反省、無視、無責任に染まって、楽山と似たような攻撃性だけの鈍い人格になる危険があります。
 
楽山は、リツイートや、ブログ記事によって、やさしそうに、一人前気取りで、誘ってきますが、決して相手にしないでください。楽山は、いかなる人の味方にもなれない自己愛性人格障害です。決して、頼りにしてはいけない人で、誰の仲間にもなれない人です。
 
楽山には、執念深い恨みの感情と、小学校レベルの理屈はあっても、悔いる、悲しむ、反省する、自分の欠点を自覚する、訂正して学習する、人の意見を受け取って考えるなど、深くて高等な思慮と感受性が欠けているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
信仰の相対性などと言ったら、楽山は、信仰は絶対ではないのだから、信じ過ぎてはいけないなどと、自らの、救いにも助けにもならないボンヤリ信仰?を勧めてくるかもしれません。楽山は、嘘と詭弁に生きている人です。楽山は、信仰など、真面目に考えたこともない人です。関わらないでください。
 
 
 
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  いちばん大切なもの2
 
 
この世において、キリストの心が伝わるのを妨げようとする者の話には、聖書とキリストの話を、奇跡や超常の話ばかりにして、史実か事実かどうかで追いつめるてゆく、というやり方です。それは、いちばん大切なキリストの心から遠ざけようとする誘惑なのです。
 
反キリストや無神教カルトは、キリスト教について、人間離れした呪(まじな)いか魔法のような超常現象だけを伝えて、人間の、共感できる心から離してしまう誘惑をしてきます。
 
キリスト教について、聖書を実際の史実として、神がいるなら、奇跡が起こるなら、復活したのなら、などの仮定から、無節操な自分信仰から、おかしい、という仮定法をもって、神はいない、聖書は虚偽だと主張し、キリスト教を否定する誘惑です。
 
超常に信仰は要らない。そして、信仰に超常は要らない。
 
神は、人と、取引はしない。信仰は真実であり、史実に依拠しない。
 
疑問は、自分信仰を否定しても、疑問であり、そんなことはない、そんなことはないと、無理に疑問はないかのように、疑問を否定して凌ごうとするならば、既に、反キリストの術中にはまっていることになります。疑問は、祈りにおいて、そう感じている自分を正直に告白するしかありません。
 
聖書や教理の、現実における疑問には、私たちは、共感を持てるはずです。それが、人間らしさであります。何ごとも動じないのは、神だけです。私たちは、疑問は疑問として、解決するのではなく、無視するのでもなく、"分からない箱" に入れて保留するべきです。
 
その上で、福音伝道者すなわちキリスト者は、超越性ではなく、成長し得る知性と感性を持ち、良心を持つ人間性から、信仰を考えて伝えることが使命であります。
 
否定するだけのお気楽な者たちが語れないこと、それが、キリストの心なのです。
 
人間に共感するキリストの心に、私たちが共感することによって、信仰は生まれます。
 
超常現象に驚たり信じ込んだりすることからは、真のキリスト信仰は生まれません。
 
肉体や物への奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないが、
魂の奇跡は、キリスト以後、二千年にわたって起こっており、多くのキリスト者が生まれているということです。
 
魂の奇跡、と言うのが、超常的だと思うなら、心の奇跡、でもいいのです。
 
信仰の誕生は、趣味的なものではなく、超常現象でもないところの、人間が生まれ変わる、というのが超常的であるなら、人間を目覚めさせるところの、心の価値観がどんでん返しになるような、その後の人生において決定的な変化ということです。
 
それは、絶対孤独からの解放に表れ、共感に表れ、感動に表れ、愛に表れ、新しい価値観に表れ、温もりとして表れ、潤いとして表れ、祈りとして表れてくるものです。
 
何よりも、そこには、聖書に表されたような、キリストの同伴、すなわち、キリストの洞察と共感と慈愛の同伴が、人を絆(ほだ)すしるしとして顕れるからです。
 
反キリストや、好事家の、聖書の話には、それらが、スコ~ンと抜けているのです。
 
 
前に書いたことですが・・
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41-42
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
 
先ず、この個所を読んで、キリストはマルタよりマリヤを好んだとか、マルタの信仰よりマリヤの信仰のほうが上だ、という解釈をしないようにしてください。このような読み方は、反キリストや好事家が、キリストの心をけがすためにする読み方です。
 
キリストの、マルタへの愛を見逃してはいけないと思います。ここでのキリストの言葉は、マルタのために語られています。そして、私たちのために語られているのです。
 
「マリヤはその良い方を選んだ」というキリストの言葉は、マリヤの信仰の優越を表しているのではなく、マリヤは、マリヤの出来ることの中で、間違ってはいないということ。マルタは、マルタの出来ることをしていたが、マリヤと比べることで心を煩わしていました。
 
キリストの言葉は、マルタのために語られている。そして、私たちのために。
 
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
 
キリストは、マルタがマリヤと同じようにしていたら、もてなす人がいなくなることは承知の上で、マルタに対して、マリヤと同じようにせよということではなく、マリヤは、これでよいと、信仰の義を与えます。
 
そして、マルタには、慈しみと親しみを込めて、名前を二回呼んで、山上の垂訓と同じように、思いわずらう必要のないことを語っているのです。信仰の優劣ではないのです。
 
 
信仰の義

信仰の義
 
 
(2020年
(2022年04月29日、再録+加筆)
 
 
 
旧約と新約聖書に書かれている数々の超常奇跡を読んだときに、話にならんとあきらめる人と、そのまま奇跡が起こると信じこんでしまう人、・・この2つの場合は、キリスト信仰には至らない例となるでしょう。
 
物や肉体の奇跡という超常のことは、神に任されるべきことです。人がどうかできることではありません。つまり神の行為であり、人の信仰の信条とは成りえないのです。奇跡が起こるという希望を抱くことはあっても、奇跡が起こると信じ込むことは、神の行為を決めつける冒涜です。
 
私たちが受け取れる、そして、受け取るべきことは、キリスト・イエスの、人々に対する共感性にあります。人々の置かれている状況と事情を洞察し共感するキリストからの教えは、人間がいかに不完全であるか、そして、キリストがいかに共感しているかが分かります。
 
ゆえに、人生におけるキリストの同伴を受け入れることが信仰です。言い換えれば、イエス・キリストの御名によって、神に祈ることが、信仰であります。正義や善は、信仰に伴うことがありますが、信仰そのものではありません。ゆえに、罪人にも信仰が生まれ得るのです。
 
そういう目で聖書、特に、新約聖書を読むと、いかに、不完全の自覚を持っている人ばかりが救われているか、ということに気づくのです。不幸の分、自分を空しくしているような人々なのです。取税人、娼婦、姦淫を犯した人、病人、犯罪人・・などです。絶対孤独から絶望していた人々です。
 
一方、キリストの敵となったのは、自分は高いと思っている人々でした。高慢はくじかれ、傲慢は裁かれるというのが、キリストの教えです。聖書では、例外はあるようですが、パリサイ人や祭司、そして、言葉だけに詳しいと思われていた律法学者たちでした。
 
こういうキリストに憎まれた偽善者になってしまう恐れは、今の時代でも反キリストとして、キリスト教の内外に、たくさんいるわけです。絶対孤独から解放された人が、裸の王様になってはいけないということです。また、安っぽい教条主義だけで、自己満足してはいけないということでもあります。
 
キリストの共感を受けて、キリストに共感する人は、キリストの民となり、キリストの同伴をもって、絆(ほだ)され、そして、生き直し、比喩的には、生まれ変わるゆえに、正直な祈りを、人から神への唯一の音信として、信仰生活を送ることになります。正義と善は、ここでも、結果に過ぎません。
 
キリスト信仰の福音は、正義や善を勧める教えではありません。もちろん悪を勧める教えでもありません。一途に救いを伝える教えです。一途に、孤独ではないことを知らせる教えです。正直な祈りだけで、信仰の義を与えられて生き直す日々を伝えています。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  無の真実
 
独り思いは掌中に風化し
砂のように行方も知れず
毀(こぼ)れ落ちる
 
後には何も残らないか
と尋ねられれば独り思いは答える
毀れ落ちたという真実が残ると
 
それは意義や意味
といったものには縁のない
売れない虚無の踊り子だ
 
しかし売り出し中の
毳毳(けばけば)しいダンサーよりも
しばしば長く残る
 
拍手喝采のない舞台で踊り続け
舞台を選ばず外でも内でも
ホーホーラララ・・・♪
 
けれど耳に聞こえず目に見えず
掌中から去って久しく
ときに手のひらよりも胸に
遠い浜からの潮風を通す
 
 
  相対性情緒
 
討論会というものにおいて
喧々囂々(けんけんごうごう)の論争を経ても
一定の結論に達することが殆どないのは
それぞれが異なった譲れない一線を
結界のように引き直し引き直し
自らのベクトルに乗っていながら
しかも語ろうとしているのは
絶対的な速度の源についてであるから
そこで起こり語られる
あらゆる現象も事物も時間も空間も
知識や論理さえ
多様に歪み変形し展開するために
絶対的な真理を見出すよりは
相対的な誤りを見逃すほうが
はるかに容易(たやす)く
すれ違う脈絡の渦の中で
感情の起伏は激しく波打つのに
論者は知性と理性をもって語るように
義務付けられているから
討論会は結論を出すことが
目的でもなければ期待でもなく
論争があるということを示す
統一されない場にならざるを得ず
よって周りで見ている人々は自らの
自転する思考に乗って公転するように
目を回しながら注目し
サラウンドしながらラウンドする
ノイズのような声に聞き耳を立てている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のボンヤリ言語というのが「大事なことだと分かって」「実践するのは難しい」に表れています。反省できなければ人間ではないということを、難しいことのように言うのは、反省する気がないということで、「んだよなあ」という語尾で「人間の性」と一般化するという気色の悪さです。
 
楽山の文章を見るとき、体質として性癖として身についてきたボンヤリ言語と、三文芝居のトホホ言語に、安っぽく同情するか、気持ち悪い作為だと気づくかで、楽山の罠にはまるかどうかが決めってくるようです。嘘と詭弁だけの楽山は、善きものをことごとく捨ててきたのです。
 
 
 
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