ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:キリスト

 
  共感の主
 
 
キリストは、共感の主であります。心貧しい、即ち、心に余計な先入観を持たない人々に信仰を宣べ伝えました。キリストの共感の最終的な結果が、十字架であり、人間の罪を背負って、死という人間の定めを身に負うたことです。信仰は、キリストの共感に反応して、キリストに共感することです。
 
宗教的には、キリストの時代の人間模様は、今と似たようなありさまでした。権威主義や、教条主義や、大仰な感謝と讃美が横行するのは、いつの時代も変わりないようです。そういう時代に、見逃されやすいのが、人間の良心による共感性、つまり、愛ということになります。
 
人間は、超常現象の奇跡には共感できません。直面し続ける日常とは違うので、理解も共感も出来ません。日常で、理不尽な目に遭っている人々が、キリストに惹かれるのは、そこに、この上ない共感が表されているからでしょう。それは、今も変わりないと思います。
 
一部に、福音書の、物や肉体の超常的な奇跡に驚き、ひざまずくのが信仰だと思っている人がいるようです。共感できないことを仰ぐのは、力ある御方の業だからでしょう。そこに共感できるものがないために、そういう信仰は、感謝と讃美だけになってゆきます。
 
さらに、超常を仰ぐだけならば、人生において、現代、殆ど起こらない奇跡を、起こるんだと思い込む信仰?になります。そういう信仰においては、大仰な讃美が鳴り響くことになります。一方で、日常の苦難からの悲しみに共感するセンスから遠ざかってゆくのです。その典型はカルトに見られます。
 
 
神は人知に働きかけます。しかし、人知は、心を砕いて、神に祈るだけです。つまり、人が思うところに、神はいません。人知で、神を追いかけることは出来ません。神は、人が祈るところにおられます。
 
祈ることもしないで、神を云々する、つまり、人知で神はいるとか、いないとか、論じたつもりで語っても、それは、神に届きません。人の思い上がりに、神は近づくことはないからです。無神教の信者は、いつも偉そうに語りますが、神について、何も語ってはいないのです。
 
神を知らないし仰ぎもしない者が、神について、多くは、その不在を語るとき、その神は、無神教信者の頭の中で料理されるのを待っている無神教の飼っている概念とイメージの神?の偶像に過ぎません。それは、とても、無駄であります。信じないところに、否定するところに、神がいるわけがないのです。
 
つまり、無神教徒は、神の不在について、証拠がない、根拠が無い、などと言って、笑いながら、神を、酒の肴にでもするのでしょう。しかし、証拠と根拠が人に分かる神?など、どこにも、いつまでも、いないのです。むしろ逆に、無神教徒こそは、空しく、神の偶像を追いかけているのです。
 
 
人間の、最も深い情緒は、共感であります。共感こそが愛であり、人を生かす宝物です。共感がないところでは、辻褄が合っても、人は感動しません。かつ、そこに神の恵みが存在しようがないのです。感動を伴わない神の恵み、賜物、魂の奇跡などは、神の永遠をもって、ありえないからです。
 
 
共感のない者は、理屈だけを並べてきますが、そこには言葉の表面的な意味の争いしかありません。楽山のような悪意のペテン師は、流れを無視して、細かい文脈に他者を誘導し、そこで混乱させ疲労させることで、相手が退却するように仕向けます。そして笑って言うのです「疲れたんじゃないのですか」・・。
 
 
信仰 共感

信仰 共感
 
 
(2022年02月01日)
 
 
 
  計りかねて
 
好意のつもりなら
少々的(まと)が外れております
的をずらしたのは私(わたくし)ですが
 
心配のつもりなら
少々押し売りに似ております
心配させたのは私ですが
 
同情のつもりなら もう
どこかで虫唾(むしず)が走ります
虫唾も固唾(かたず)も
呑(の)んだのは私ですが
 
あなたが悪いわけではありません
できることをしたのだ
という聖句もあります
 
残ってしまった拙(つたな)さ脆(もろ)さが
贈られた文字列のように
何もお返しできないだけなのです
 
 
  冬の仕掛け
 
朝のタイマーが
銀の針の仕掛けを夜明けに渡すころ
私はまだ蛍光灯の下に座っていた
そして私のそば近く
いつも顔を合わせるだけの無神経な
部屋の時計や写真や絵や
物言わぬ同居人たちと
あとどれくらい
坐っていられるかを相談するのだが
私は遂に横になる
 
しばらくは窓辺に身を寄せて
漏れ入る冷気に触れようとしたり
あきらめて仰向けになり
 
この世で最も愛した人が
磨かれたナイフで
冷たい返り血を受けながら
この胸を突くのを
今ならいい今なら
これで最初で最期なら
と足跡のない雪原に横たわり
 
いまさらのように悔いのひとつひとつを
数え始めたりしながら
凍みる冬の一日にも
焼けるようなひとときが
瞼の奥へ冷めてゆくのを待っていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを自覚できないし、詫びても、反省と書いても、冗談のように軽く、その後、まるで変わらない楽山です。訂正不能の自己愛と自己中によって、人を、偉人でさえも、深みのない話のネタにして、趣味的にいじくってきました。楽山は、遊びだけの視野で、信仰も真実も、平気で踏みにじる男です。
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので変わることはないでしょう。批判記事を書くのは、楽山を変えるためではなく、誰も楽山に関わらないように、異常性を広く知らせるためであります。楽山がHNを変えれば、また分からなくなりますが、私は、今できることをしています。
 
楽山が誰かに賛同しても、共感性はありません。楽山には、約3年間見てきても、罪悪感、共感、悔いる心などの高等感情がないと思います。楽山の、賛同も、批判も、冷静な理路と深い情緒から生まれてはおらず、自分に都合のよいように書くのです。つまり、自己顕示欲からの芝居に過ぎません。
 
私は、インパクトのある言葉を求めています。キリストの言葉は、長い文章ではなく、インパクトのある言葉です。本になるような長い文章で、専門用語を並べられても、長いゆえに、心に響くということはないからです。インテリぶって書いてくる楽山の文章は、だるいだけで、何のインパクトもありません。
 
 
 
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  カルト発言2
 
 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マリア型)
  (嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。)
  (キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない)
  (キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない)
  (キリスト信仰は呪術ではない)
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけません・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
●神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
  《キリスト者も注意するべき発言》
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
  
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があるのです。
 
不完全で罪深い自分を憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直であることだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、忍耐強い信仰のことです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には隠しているようなことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。
 
 
否定、決めつけ、神聖、妄想

否定、決めつけ、神聖、妄想
 
 
(2019年12月11日)
(2020年12月27日、加筆して再録)
(2021年01月02日、加筆して再録)
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見ての感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、ストーキングというより、因果応報だと思います。
 
 
 
 
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  悲しみと信仰2
 
 
偽善者は、相変わらず、弁明が出来なくても何も感じないで、繰り返し言い張るだけのようです。
聖書でも現実でもネットでも、偽善者が悲しむのを見たことがないです。偽善者は悲しみの感情を持っていないのではないかと思うことがあります。
 
聖書でも現実でも、偽善者の感情は、得意げに笑うことと、怒りと憎しみだけのような気がします。深い悲しみは、抑制がかかって鬱になることもありますが、心が沈んで、激しさが涙になるなら正常で、出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど、心を潤し、心を濡らして、悲しみを洗い流す作用があります。泣けない時には人からも受容が必要です。出口がないと思ってしまう鬱の時にはは、時に任せて、じっとしていても、流れてゆくのに任せて、生きています。
 
しんみりと悲しむことができるときには、悲しみは、その沈んだ思いのうちに、猛る思いを静めて、内へと向かう思考によって、やがて内省することもできるようになるでしょう。
 
悲しみを知る人は、悲しく辛くても、やがて、悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。悲しみの克服が、悲しみの過ぎ去ることが、喜びとなり、楽しみへ導かれることになるのでしょう。そのときに、人間は、成長するのだろうと思っています。
 
悲しみを知らない人は、出口のない感情と思考のために、憤怒だけを、どこかにぶつけることになるのではないでしょうか。悲しみの感情を知らない人がいて、悲しめない不都合に際して、怒り、憎み、恨んで、他者のせいにして鬱憤を晴らす場合があります。
 
悲しみを知らない人は、不快な感情を処理するにあたって、焦燥感が強いあまり、他者を貶めるか
他者をあざ笑うことになるでしょう。そのような処理の方法は、他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。特殊な人格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間、静かな思考に向かうか、それとも、停止と遮断に向かうか、衝動と攻撃性につながるか、という違いがあります。
 
自分の感情をモニターできるか、正直に相談する相手がいるかどうか、モニターは反省に、正直は祈りに通じます。
 
つまり信仰において、悲しみは、悔い改めにつながる大切な感情のように思います。人生において、悲しみは必ず訪れるものです。その時に、成長するか、成長をやめてしまうかが、決まるような気さえするのです。イエスキリストは、悲しむ人に、近づきました。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
悲しむ人は、おごらないゆえに、心貧しく、うなだれるゆえに、慰められ、求める心があるゆえに、義に渇き、むさぼらないゆえに、憐れみを受け、余計なものがないゆえに、心が清く、一途であり、安らぎたいゆえに、平和を求め、悲しんだゆえに慰めを感受し、癒しが与えられるのでしょう。
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける、と言ってもよいほどに、悲しみは大切な感情なのかもしれません。
 
 
悲しみと癒し

悲しみと癒し
 
 
(2019年01月15日)
(2021年12月25日、再録+)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
しんみりと悲しむことを知らない人は、しんみりと深く考えることも出来ません。そして、罪悪感を感じないようです。ゆえに、自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言って、ペロッと舌を出すような軽さの悪ふざけをするのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@houndmen@tadamitsu824
犬ジジィ氏と忠光氏の議論を見た。犬ジジィ氏は批判リプを10以上もしながら、忠光氏が反論リプをつけるのをブロックしたのかな? もしそうなら、ズルすぎる。
ブロックするなら、忠光氏が犬ジジィ氏の批判に反論リプをつけ終わるのを待ってからにすべきだったと思う。
 
他者に「すべきだった」などと意見する資格は、楽山にはありません。双方向など、一度も成り立ったことのない楽山です。「ズルすぎる」などと非難する資格もありません。無反省、無責任、無視で、罪悪感欠如、羞恥心欠如の楽山です。厚顔無恥も甚だしい。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、アンチ批判をしていながら、アンチが反論しようとすると即ブロックする人がいる。
まるで、「自分が言いたいことを言えればいい。異論、反論は聞く必要なし。その機会を与える必要もなし」と考えてるみたいだ。
HSではこういう考え方を容認してるんだろうかと疑問に思うよ。 
 
キリスト教を侮辱しながら、批判されると、スルー・無視を決め込んだのが、楽山です。あらゆる言論の資格も能力もないのです。「異論、反論」を聞かず、批判すれば、悪口だけを返して、しまいに無視するしかない楽山です。楽山は、「疑問に思う」よりも、全否定するべき対象です。
 
 
 
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  泣けない2 
 
 
悲しい時に泣けるならば、泣けるだけ泣いたほうがいいです。泣くのは、一種の、感情の発散です。鬱(うつ)になると、泣けなくなるときがあります。むしろ、表情は、冷たく、うつろになります。感情のエネルギーが落ちているからです。そのときは、生存していることだけが必要です。
 
キリストは、人の悲しみに共感しました。その結果、楽山やシャロームのような傲慢な偽善者によって十字架につけられたのです。主イエスキリストを思うと、泣けないときにも、極めて、原始的に、時間の経過に身を任せて、生きるほうを選択しているという経験があります。
 
泣けない悲しみのときには、理屈を考えないで、ぼうっとしていてもいいから、時の過ぎゆくに任せて、眠るか、この世を、遠く近く、眺めていましょう。人間の過ごす時間は、悪い時も、良い時も、過ぎてゆく定めを持っています。その先に、生きておれば見えてくるものがあるでしょう。
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
 
疑いながら助かっている
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を赦せるだろうか
許せるだろうか
 
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
 
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
 
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
 
ひとりひとりが「らしさ」という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
許せるだろうか
 
許されるだろうか
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
無価値に存えることをお赦ください。
 
 
  泣けない
 
を見たときから
夕日の逆光の下へ落ちていく
牛の群れのように
低く
うろたえる
うごめき と どよめき
 
を見せたときから
単純に解明されて
売り物にならなくなった
ひきつった笑い
すなわち泣きを
遠巻きにする無関係
 
を知ったときから
言い返す言葉もなく
息さえ圧力をもって
それた視線を押してくる
鈍い黒光りの
ふつうであった
 
ををを
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
 
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
 
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
 
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
 
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
悪いものはたいていそうだ
 
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
無価値に存えることをお赦ください。
 
 
悲しみを知って、人は成る

悲しみを知って、人は成る
 
 
(2021年12月24日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
注意しても、批判しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もせず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、誰にでもあることのように、醜い言い訳をしていますが、コメント1.の主旨を詭弁で言い換えています。楽山固有の罪と偽善です。
 
 
 
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  神様がしないこと2
    2013年02月25日の記事を再録+
 
 
相当に昔の記事の再録+必要なら修正・・ということです。
 
全知全能の神がしないことは何でしょう。最初は、「出来ないこと」という題でした。罪を認めず、悔い改めないで、かつ、傲慢な人は、救いを求めていないので、救われないでしょう。しかし、これは、必然か、裁きであっても、出来ないこととは言えないので、「しないこと」に改めました。
 
 
全知全能の神を創造すること。創造できたとしても、どちらも全知全能ですから、意思も判断も行動も同じになる。それは唯一神と同じことです。神は唯一であると同時に総てであるという言い方も出来るかもしれません。三位一体も、そういう受け取り方をしています。
 
 
全知全能の絶対者である創造主、神は、御自身が造った人間を含めた被造物を壊すのに、これこれこういう訳だからね、云々と、いちいち説明する義務はないのです。
 
これには例えば、
聖句「神は生ける者の神であって死者の神ではない」は、生ける者に対してだけ発せられた言葉であって、神は全知全能の絶対者であるから死者も統べられる。ただ、どう統べられるのかは、地上では、分からないということだろうと思います。
 
ゆえに神は、人知を超えて、死者を含めて、すべての者を救う・・ということが言えそうに思われます。つまり、死は、壊されることではないのかもしれない、とも思います。しかし、このことに、地上での完璧な理解と説明は存在しないと思います。
 
死者の救いについての推測や想像としては自由ですが、それを結論や確信とすることは、これこそ生きている間が全てとしか思えない人間性から乖離して、人に分かりもしない神の意志と行為を、人が人知を超えて結論付ける、という、神の領域への、成り立たない越権行為と言うべきでしょう。
 
神の救いは、完全には、地上の人には理解できないのです。人には、神がすべての人を救っているとは思えないのです。神の幸いならば、キリスト者は、既に、潤い、温もり、共感、愛として受け取っていると思います。それは、絶対孤独からの解放という救いとして、人に起こります。
 
神への想いから離れられない人を、キリスト者(クリスチャン)と呼びます。
 
 
聖書を読むことも、聖書を文献的考察や歴史的背景から、また文脈から考えることも、一言一句を文字通り受け取ることも、神や聖霊について「感じた」「聞いた」「癒された」も、人の直感や霊感も、人の側の信仰の受け取り方、即ち、解釈に過ぎません。
 
私たちは、私たちの心で、言葉も、御言葉も、解釈して受け取っています。そして、生き方を判断し、努力し、生きています。
 
神の業(わざ)を、人が確認する根拠は人の側にはありません。人の確信は、神については不可と考えます。即ち、信仰は、確信ではないということです。
 
原初の信仰から原罪を覚え始めながら、信仰の言葉がどう生きてくるかを考え悩みながら、人である信仰者(キリスト者、クリスチャン)は、決して神の確信ではなく、罪深い心からでも、神への深い想いによって生きるのです。何が救いか分からないところで導きは進行しています。
 
キリストを好きになった原初の信仰から、すでに罪深い思いでした。しかもそれは絆(ほだ)されるように、否応なしに、私の自由意思を左右したように思えることがあります。
 
キリストは、赦される罪と、赦されない偽善を、区別しました。聖書には、神によって全ての人が救われるのではなく、キリストの敵となりキリストを殺した偽善者が赦されないことを伝えています。しかし、罪が赦され救われるためには、正直に祈ることだけが、必要十分条件であります。
 
今の時代にも、反キリストが、あざ笑いと、偽善と、幼稚な詭弁と、虚言をもって、言葉だけ丁寧に丁寧に、神を否定し、信仰者を侮辱してきます。彼らは、不正直で神を侮ることをもって、救いからは外されるでしょう。
 
しかし、信仰者ではなくても、神が、良心のある人を選んで、信仰を通さずに、何からの使命を与えることは、否定できません。救いの可否は、信仰の有無だけではないような気もします。
 
私は、自分の信仰観をブログに書いています。私という人間の意見に過ぎないので、訂正不能ではありません。もっと良い考えがあれば、感動とともに、修正するでしょう。30年以上、何度考えても、他に考えようのないことがあり、そこが変わることは考えられないので、書き続けています。
 
つまり、信仰は、訂正不能ではないけれど、変わることのないところ、変えてはいけないことが、やはり、あるだろうとは思います。そこを、外してしまうと、もはや信仰ではないようなことがあるのです。信仰は "愛" と同じことですから、言葉で完璧に表すことは出来ないのかもしれません。
 
 
絆される、絆

絆(ほだ)される、絆(きずな)
 
 
(2013年)
(2021年12月14日、再録+)
 
 
 
 バカとモンスター
 
いかなる道を選んでも
 
集団や組織の中で
しきたりや規則に染まりながら
(マニュアルは指針であって心ではない)
いずれ競争を強いられ
慣れる人もいるだろうけど
 
たとい孤高を目指しても
孤高は孤独な孤立なのだが
 
いかなる道を選んでも
 
論理に身を投じる人は
論理つまり理屈だけだと
人間離れしたモンスターになるから
論理バカを自覚することが救いになる
 
情緒に身を投じる人は
情緒つまり感情だけだと
感情的なモンスターになるから
情緒バカを自覚することが救いになる
 
「バカ」が
とても人間的ならば
 
専門は
専門バカを自覚することによって
改めて我に返り
人間に戻れるだろう
 
「バカ」を忘れて
専門の権威を自負するようになれば
「権威」というモンスターになる
 
「バカ」を自覚する人
自覚せざるを得ない人は幸いであり
 
自覚しない人と
自覚してるつもりだけの人は
災いであります
 
論理でも情緒でもなく
人間であること(ヒューマニティ)から離れず
人道からの道理を求めて止まない経過と結果が
たとい路上でも小屋でも豪邸でも
呆けた口笛のの自由な散歩だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
 
 
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