ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:サイコパス

 
  ペテンと気取りの人生
 
 「科学からオカルトへ A・R・ウォレスの場合」渡部昇一著
 2022年04月04日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山は、人格障害者です。恐らく精神病質サイコパスだと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、潜在か顕在かは知りませんが、反社会性人格障害であろうと思います。病質者という言葉も使っていますが、人格障害者と、ほぼ同義です。
 
楽山は、一見まともに見える文章を書いてきますが、約3年余りの批判を受けても、無視して、同じことを書いてきます。私は、楽山とは議論しません。以前、議論しても、全く無駄だということを経験しているからです。理路に見せかけても、何の糧(かて)にもならず、感性や共感は皆無です。
 
正常な感性と知性が働かない病質者は、議論しても、決して双方向にならず、相手の意見を受け取って考えることが出来ず、繰り返しになり、徒労と疲労に見舞われるだけならマシで、下手をすると人格が破壊されるでしょう。楽山は、危険人物なのです。柔らかい筆致に見えるのは、作為の芝居です。
 
 
*概要
渡部昇一の講義録を読んだ。タイトルは「科学からオカルトへ A・R・ウォレスの場合」であり、『幸福なる人生 ウォレス伝』に収録されているものである。
その内容は、ウォレスの生涯を概観しつつ、科学的思考によって人間には不滅の魂があることを証明した功績を高く評価するものである。
 
「科学的思考によって人間には不滅の魂があることを証明」できないと思います。不滅は、人間の扱えるテーマではありません。恐らく、勢い任せの論調ではないかと思われます。しかも、楽山は、理解していないので、その根拠を何も書いていません。いつものように無責任な徘徊です。
 
 
ダーウィンは人間と動物との差異は程度のちがいであり連続しているとしたが、ウォレスは両者は質的に異なっており連続しておらず、その相違は魂にあるとしたとのことである。つまりウォレスは「科学からオカルトへ」と進んだわけである。
 
人間と動物の質的な違いを語るのに、なぜ、オカルトに進むことになるのでしょう。動物より人間のほうが、高等で、本能だけでなく、精神があるということではいけないのでしょうか。恐らく、楽山は、話を心霊の方向に持ってゆきたいのでしょう。
 
 
*私見
自分はスピリチュアリズムにはさほど抵抗感はないので、ウォレスの魂は存在するという主張にも強く反対するつもりはないのだが、人間と動物のちがいについては連続していないとするより、連続しているとする方がシンプルであり、筋が通っているとは思う。人間と動物とは、身体は全くの別物とは言えないのはもちろん、精神についても進化心理学によれば連続していないと結論付けるのは難しいだろう。
 
楽山は、霊能者気取りなので、スピリチュアリズムに抵抗感がないだけでなく、自身がスピリチュアルだと思っています。ここも、作為の詭弁です。人間と動物が連続していようといまいと、違いが分かっておればよいわけですが、楽山は、自分を特別だと言いたいがために、連続していると言っています。
 
なお、進化心理学について、楽山は甚だしく曲解して、心霊に結びつけています。
「心の理論3」
 
楽山は「人間と動物とは、身体は全くの別物とは言えない」と言っています。内臓や骨格に、人間と動物には、共通する部分がありますが、この議論自体に意味があるのでしょうか。誰も、本質は分かりません。そういう謙虚さがなく、分かっていることを自慢したい楽山は、気安く書いているのです。
 
 
とはいえ言語については、本講義で語られていることは非常に説得力がある。ただ動物も意思を伝える方法を持っていることからすれば、両者におけるこの点のちがいは大きいけれども完全に断絶しているとまでは言い切れないのではないだろうか。私はこう考えるので、言語については人間と動物とでは連続しているとも、連続していないともそう簡単にはは結論は出せないように思える。
 
「完全」とか「断然」という言い方を嫌っているように見せかける楽山は、訂正不能の偏見だけでキリスト教と信仰を否定してきました。曖昧な言い方であることが、企みの根深さを示してきたのです。つまり、楽山は、言い張りはあっても、いかなる結論にも到達することのない精神の病質なのです。
 
 
*勇者
ところで、本書の解説ではウォレスについて次のように書いてある。
ウォレスは、心霊現象研究が災いして、自然科学の方面から疎まれ、心霊現象の存在がなければキリスト教も成り立たないという論文を書いて、伝統的なキリスト教の宗派からも反感を買った。
(中山理「解説 時間を超えた言霊の世界からのメッセージ」『幸福な人生 ウォレス伝』、育鵬社、2020年、p.381)
 」
どうやら、ウォレスは名誉や権威のために口を閉じたり、自説を曲げたりする人ではなかったらしい。こういう勇気と正直さは心から尊敬したいと思う。
 
楽山は、自説を持たずに曲がっており、曲がっているのに権威を気取り、学者を気取り、誰よりも自分を「心から尊敬したいと思」っている異常者です。楽山が、「勇気」も「正直さ」も持っていないのに、有名人を引用するのは、自分を高みに置きたい・・という自己愛の方向しかないからです。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスに対しては、丁寧語で書いても丁寧語の世辞が返ってくるだけです。楽山は、それで満悦するのでしょう。有害な楽山に対しては全否定で臨むしかないということです。
 
一部、だまされて、楽山を擁護する人がいるようですが、具体的に批判するのでないならば、せめて、楽山の美味しい具材になるのだけは避けてください。あらゆる手練手管で、作文の、いたるところに、芝居や罠(わな)を仕掛けてくる楽山です。罪悪感が皆無だからです。
 
3年余りの経過において、楽山の発言は、故意の作為であり、真実の欠片も持っていないし、求めてもいません。自分が気持ちよくなり、インテリと思われることを、欲望しているだけです。あらゆる言論を曲げてきます。楽山を受け入れる言論者は、感性が鈍くなり、理路が弛緩してゆきます。
 
楽山やシャロームのようなサイコパスには、徹底した不感不応が固定しています。そうでなければ、どこかで戸惑うはずです。楽山には、反省、共感、といった言葉はあっても、その前後関係において、実質が欠損していることで、何事も本気でないことが表れてきました。
 
サイコパスの言には、その根底において、怨念とあざ笑いが隠されています。楽山のようなサイコパスは、自分が優れていることだけをアピールしますが、柔和な筆致の裏側に、悲しみのうちに後悔したり反省したりすることが全くないことを意味します。それがサイコパスです。
 
サイコパスには、罪悪感がありません。サイコパスには、遺伝因子と環境因子が関わっていると言われていますが、成人に達するころまでに、良心、即ち、高等感情としての、静かな悲哀の感情が育っていないので、反省したり後悔したり自分を見つめたりすることが出来ないのです。
 
楽山は、私のツイッターの通知欄に書き込んできました。私は楽山を出禁にしています。楽山とは双方が成り立たず、議論にならないのは、既に、3年以上前にヤフーブログで経験済みだからです。言うには言うが、まるで受け取らないのが、サイコパス楽山の特徴です。
 
 
人類の敵は、国家でも民族でも集団でもありません。人類の敵はサイコパスです。戦争や残虐行為などの人災の陰にはサイコパスという人格障害者が暗躍しています。楽山がそうかどうかは、知能の問題かもしれませんが、少なくとも、対人関係と社会生活において、既に、破綻した人生を送っているのです。
 
 
昔聞いた話ですが、精神科に精神病質サイコパスが入院してくると、まず、取り囲んでボコボコにするそうです。一切の説得は無駄で、逆らうとこうなるという強制的な条件付けで対処するということです。楽山の不感不応には、似たようなものを感じます。作為の柔和芝居に騙(だま)されないでください。
 
精神病と精神病質は違います。前者は効く薬があり、精神療法があります。後者は、基本的に治療薬はありません。精神療法は、大方、無効です。生活の場を、制限してコントロールするしかないのです。楽山が議論の場にいるのは、病識がないために反社会性に気づかないからです。
 
楽山は、キリスト教を否定しました。しかし、別の記事では、半肯定しています。楽山には、宗教など、どうでもよくて、理解もしていません。自分は、バランスが取れていて柔和だと見せかけたいだけなのです。そういう成り立たない詭弁を仕掛けてくるので、どうか、直接の遣り取りはしないでください。
 
 
病質の脅威

病質の脅威
 
 
(2022年04月06日)
 
 
 
  聴診器の幻想
 
悔いながら懐かしみ
死にそうで生きていけそうで
ここまでは大した心臓で
 
逆流の雑音を奏でる聴診器は
既に昔の熱(ほとぼり)のように
胸を叩く幻想を傍らに
後ろ向きの赤子と
笑う喀痰の老人を同時に記帳して
費え去る収支のページをめくり
破れた扇子を広げ
無知なる未知に語り続ける
 
初めて字を書いたときの
初めて言葉を失ったときの
初めて忘れたと言ったときの
肉体と精神の継続が
幻想でも現実でもなくなるまで
内緒話の途切れ間を
管のカルテに送り続ける
 
 
  飲兵衛さんの思い出
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の
飲兵衛(のんべえ)さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞(ふさ)がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが
鬱積(うっせき)しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我(けが)をさせるか
喧嘩(けんか)になって
こちらが怪我するかも知れない
 
しかたないと諦(あきら)めて
エンジンを止めて紙切れを見た
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
飲兵衛さんの顔が
和(なご)んできた
 
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
 
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかったのだ
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
 
しかしこの飲兵衛さん
にだってプライドがあった
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人
から聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になったのだ
 
あのとき思った
案外精神科医に向いている
かもしれないという見込みは
見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
 
 2022年04月04日
 「幸福の科学」の抗議活動
  抜粋して批判。
 
幸福の科学は、政治、経済、教育…など、多方面に向けて意見を述べているので、社会全体のためを考えていないわけではないだろうけれども、批判封じのような抗議が目立つせいか、どうも守りに入っているというか、自己保存欲が強い団体だという印象を受けざるを得ないのであるがいかがだろうか。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、社会全体のことなど何も考えていません。自我の欲求だけを追いかけています。自身に対する批判封じには、悪口記事を書いたり、仲間を利用して荒らしてきますが、根拠を明らかにしたことは一度もありません。
 
楽山は、不感不応の精神を持ち、学習による成長も発展もありません。活性のない石仏というより形の悪い岩石の硬さで、訂正不能です。そのくせ、文句を言われると、当てつけ、嘘、詭弁を弄して、おとしめてきます。時々焼け石~ヤケクソになり、反省という湧き水を持ちません。
 
カルト批判者を気取っています。学者気取り、評論家気取り、インテリ気取りでもありますが、理路は、この3年余り、一度も整ったことがありません。共感、罪悪感、羞恥心などの高等感情がないので、ネットに表れるというより、湧いてくる虫のような存在です。人格の鈍化という毒を持っています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
約3年余り批判記事を書いても、楽山は、憎まれ口ばかりで、それで全く平気でいられることが、サイコパスである証拠となっています。そこまで明らかなのに、楽山は、私が反論させないと言って、まるで民主主義であるかのように言ってきます。楽山は、ロシアにように、民主主義から最も遠いネトウヨです。
 
楽山に議論の理路はありません。感性もありません。楽山は、自己愛だけがあって、そこから決めつけの悪口の類だけを投げてきます。どう、のぼせ上がれば、どういう精神状態ならば、楽山のようになってしまうのかは、理解不能ですが、楽山と議論することは、精神衛生上、禁忌です。
 
詭弁によって相手を混乱させてくる楽山と、直接の遣り取りをすることは、既に、3年以上前に、私の精神を守るために、しないと決めています。楽山は、他者の意見を、何も受け取れない人です。私の記事とツイッターで批判して、一般読者に、不感不応の楽山に近づかないようにお願いしています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  白を切る楽山
 
 『超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか』
 リチャード・ワイズマン著、木村博江訳
 2022年04月03日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
「幽霊が見える」のでしょうか。恐ろしく長い記事や連作や、舌足らずのように短い記事を書いてくる楽山です。要領を得たことは一度もなく、主張がハッキリしない分、何でも手を伸ばして書いてきますが、気取りだけの、当たり前や、逆に、妄想などを、性懲りもなく書いてくるのです。
 
説得力は皆無ですが、誘導の詭弁を交えるので、だまされる人がいて、そこに思い上がって、書き続けるのでしょう。何もないのを、何かありげに見せるインチキだけを学んで、肝心の人間の節操や常識や読書力や文章力、そして思想を、まるで学んでいないことが、三年余りで、バレてきました。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の、無反省、無責任、無思慮が、反復再生されて、自己中からのエラーの証拠となります。不透明な闇の空白から、霊能、カルト、短絡、詭弁、誇大妄想、右翼思想、などを書いて見せては読者を混乱に陥れようとする楽山です。
 
 
*概要
本書でとりあげられているテーマは、幽体離脱、超能力、降霊会、心霊体験、占い、マインドコントロールである。著者はこれらの原因は、トリック、錯覚、心理操作などにあるとしつつ、人の認知能力の誤作動、限界について詳しく説明している。
以下に、本書中で特に興味深く思ったことをメモしておきたい。
 
楽山は、「幽体離脱、超能力、降霊会、心霊体験、占い、マインドコントロール」が大好きで、しばしば超常現象を記事のテーマにしてきました。現実的な思考や共感性がないためです。だから、楽山の書く文章は、誘導、印象操作、すり替え、すり込み、などの詭弁だらけになります。
 
例えば、人それぞれ、などの、一般的で曖昧な真実を、個別のことに当てはめて、自己正当化を図るなどという、分かってしまえば、単純で低劣な詭弁です。だまされやすい人もいて、そこに、つけいってくるのが楽山です。自我の弱めの人は、楽山には決して関わってはいけません。
 
 
*見たくないものは見ない
まず一つは、ウォレスに関連した話である。降霊会における心霊現象を信じ込んでいる人が多いことを問題視したS・J・デイヴィーは自ら降霊会を催し、トリックを用いて多くの客たちを欺いたあとで、人はいかに騙されやすく、その認知能力は頼りないものであるかについてレポートをまとめたが、これに対してウォレスはデイヴィーは本物の霊媒師であり、降霊会における不思議な現象は真実であると強く主張したという。
 
成り立たないことを真実に見せかけるのが詭弁です。楽山の性癖と言ってよいと思います。嘘をもっともらしく書いてくるので、受け取って考える段階で、既に、だまされているのです。楽山は、そのようにしか生きられないのでしょう。3年あまり批判しても、このように、また書いてきます。
 
 
フォックス姉妹がイカサマを告白したあとも、フォックス姉妹の起こした心霊現象は真実だと信じ続けた人もいたということからすれば、ウォレスの行動は驚くべきことではないけれども、これは人は見たいものは見ても、見たくないものは見ないというのは本当だと思わせるエピソードではある。
ウォレスは好人物であったというし、渡部昇一も高評価していたが、こういうところはいかがなものかとは思う。
 
楽山の、だまし文句です。人格として欠けているのは、そういうイカサマが楽山の履歴だということです。過去3年間が証明しているのに、なおも、自分は客観的で、警鐘を鳴らしているから、まともな人間だという印象を吹き込んでくる実に病的な白々しさです。罪悪感と羞恥心がないからでしょう。
 
引用されている人物を「見たいものは見ても、見たくないものは見ない」と言っていますが、そのまま、楽山に当てはまります。実に、他者の言うことを受け取らず、自分の言いたいことだけを繰り返す粘着性の詭弁屋です。詭弁が人格になっているようなもので、どこまでも芝居しかないのです。
 
霊が分かるっぽい?という小児期の体験から、一歩も出ていない楽山です。このように、有名人の名前を、好きなように出して、好きなように利用~悪用して、「いかがなものか」などと言ってきました。「いかがなものか」よりも、イカサマなものというのが、楽山という変質者なのです。
 
本当に、霊が分かっている充実した人格なら、反省や学習も出来るはずですが、楽山の "霊が分かるっぽい" 性質は、反省しなくても学習しなくても努力しなくても、平気で、教える姿勢だけを持ち続けられる異常性です。人間としての常識的な筋道を持っていないのです。
 
 
*マインドコントロール
もう一つは、マインドコントロールについてである。著者によれば、その手法には次のようなものがあるという。
段階的要請法…はじめは簡単なお願いをし、その後、段々と頼み事の難度を上げていく。
 
柔和な言葉遣いで、好意的に接して来て、核心に入ると、相手の言い分を理解せず、弁明できず、自説を繰り返すだけの、訂正不能に凝り固まっている楽山です。受けていると、だんだんと詭弁が身に染みて、気づいたときには、恐ろしく異様な疲労~徒労、さらに鈍麻~人格破壊を味わうことになります。
 
 
異論の排除…自分の意見(異論、疑問)を述べる者は排除する。
奇跡の宣伝…リーダーは特別な力を持っていて、奇跡を起こせるとする。
 
楽山は、スルーすると言って「自分の意見(異論、疑問)を述べる者は排除」して無視します。自分が被害者だいう立場しかなく、嘘の憐れみの言葉を言ったりもする吐き気ものです。徹底して他罰的で、本能のように、批判者を加害者と見なします。批判を、無条件に無根拠に攻撃と見なす厚顔です。
 
 
苦痛をともなう儀式…信者は苦痛を受けることで、その苦痛を無意味、無価値とは思いたくないために、信者を続けないではいられなくなる。
 
こういうやり方で、楽山は、だまして、仲間~味方を、被害者を、増やしてきたのでしょうか。カルトに、よく見られることです。ゆえに、楽山には、教祖願望があると判断しています。誰も、楽山に関わらないこと、・・そうすることだけが、楽山の害を広げないことにつながるでしょう。
 
 
自分は根が単純で、騙されやすい方なので、こういうことはよく覚えておきたい。
 
楽山は、根が腐っていて、だますことでしか生き甲斐を感じない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質者です。「覚えておきたい」ではなく、ここも、刷り込んで来ているのです。「騙されやすい方」は、いかにも、罪悪感のないペテン師らしい100%の嘘です。
 
楽山は、既に、加害者です。だますほうです。なのに、白々しく嘘で自分を高めてくる体質的異常者です。こういうところに、楽山の、底知れない悪意が表れています。百害あって一利なしです。他者の人格を破壊し、自らの人格が崩壊しているサイコパスなのです。
 
サイコパスは、以前の精神病質という直訳よりも、反社会性パーソナリティ障害と言われることが多いようです。人生の早期に、良心が育たないまま、反省や共感や罪悪感につながる高等感情が欠損して、ゆえに、自分を責めることが出来ず、他者を下に見ることでしか生き甲斐を感じられない人格です。
 
協調性や共感性を持たず、代わりに、世辞の褒め言葉と嘘と詭弁を覚えて、楽山の場合、わざとらしい台詞を言うのに、ためらいも、恥ずかしさも感じないのです。平気で嘘を吐きます。だまされないでください。人間の健康と精神衛生を荒らしてくる病魔です。
 
楽山は、高等感情鈍麻と、洞察力の欠如があり、乾燥した社会通念の枠内の、誰もが一応受け容れそうな平板な社会通念を利用してきます。その好印象から、偏見や妄想に誘導してきます。楽山は、心の温もりと潤いがなく、優しさと悲しみを知りません。それらをいつも下手くそに捏造しているのです。
 
最初の数か月で、私が、とんでもない奴だと感じて、その後、批判すればするほど、思った通りの病質であることを表してきた楽山です。こういう良心欠損人格がいるのだと、人格障害なるものを初めて認識するに至って、その厚顔無恥を、3年余り見ながら、現在に至っています。
 
 
人類の敵は国家でも組織でもありません。人類の敵はサイコパスです。独裁者~集団が世界をかき乱すとき、平気で大量殺戮をして、凄んだり、笑ったりするとき、そこには、中心となるサイコパスがいます。今も昔も、遠くでも近くでも、人の生命や人権や尊厳を破壊してきます。
 
 
根こそぎペテン

根こそぎペテン
 
(2022年04月05日)
 
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  独り芝居
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
 
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
出てみれば劇場もない
芝居は成り立ちようがない
主役は誰なのだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘で飾ることと、安い詭弁だけを覚えて、天下でも取ったような殿様気取りが、中立を装う評論家気取りが、今日も、誰のためにもならない文章を書いてきます。それは、そのまま、生きることが「難しい」「嘘ばかり」の楽山を表してゆきます。一生涯、そこから抜け出すことはないのでしょうか。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の詭弁と狙い
 
 論点整理(人の心がわからない)
 2022年03月24日
  を批判。
 
 
罪悪感の無い楽山は、何も言えないときでも、何か言って、反論したことに満悦します。引用も、私は忘れているのをよいことに、自分に都合のよいことばかり引用してきます。荒んだ心の形骸に、身をゆだねると、さわやかさを微塵も含まない陰険な企みに生きることになるのでしょう。
 
今の問題を語れず、反論も出来ない楽山は、4年ほど前の私のライブドアブログのコメント欄を掘り出してきて問題があると言いたいようです。一種の逃避ですが、楽山としては、記憶が薄らいで曖昧なところしか、恣意的な解釈が通らないからでしょう。
 
「>・・<」は楽山、
「>>・・<<」は、シャロームshalomです。
 
 
*自己中
st氏は、楽山は人の心がわからない、共感ができないと繰り返し書いている。
でも、st氏は過去にこんな問答をしている。
>>
私がstさんと話の内容がよく合うのではないかと紹介したブロガーの方とは初めはとても親密な交流がなされていたようですが、相手の方もstさんに困ったことを相談をしていたこともありますが、その後はその方もstさんの激しい批判とその方の個人情報を使っての人格否定、人格攻撃まではじめて、病的な状態に追い込まれてしまわれました。
<<
 
楽山との関わりが続くと、このような疲労、混乱から、人格破壊のような結末になること、以前から書いていますが、楽山は、以前から、自分に向けられることを、こっちに向けてくるという、卑怯な手段を取ってきます。楽山のように底まで汚くならないと、このような悪だくみは出来ないでしょう。
 
 
>>
今その方は自分のブログの過去の記事をよめないようにしておられます。stさん自身の宗教記事の初めにコメントを書いておられます。医師免許を持ちながら、医師を続けることができなかったことも、そうしたことはおそらくくstさんの個人的な背景に起因している考え方、生き方ではないかと私は思います。
<<
 
私は完璧な人間ではありません。偽牧師シャロームは、私の個人情報をバラして、おとしめることで、退かせようとしています。こういうのは、よほど悪意に満ちていないと出来ないことですが、楽山が、よく使う方法でもあります。底意地の腐ったシャロームのコメント、楽山の鬼畜の引用です。
 
 
>>
stさんは本来他の人と面と向かえば話すこともできないと書いておられますが、パソコンの普及によってブログはそんなstさんにとって、言葉や思いのたけを思いっきり吐き出す自由な時間、生き方を与えてくれたのでしょう。
<<
 
シャロームは、私の対人緊張症を、あげつらって、おとしめています。こういう人です。それを、悪意の楽山が、また掘りだして引用してきます。こういう人です。成りすましの可能性が高くなります。人間の情感を持たず、丁寧語で、ごまかしても、こういうところに、獣性は表れてきます。
 
頭も心も整理できない楽山は、人に向かって、思想や宗教について、話す理路を持たない人物です。にもかかわらず、ネットだからと、無責任と無反省で言いたいように言って悦に入り、他者を、どんどん、おとしめて、優越感を感じようとします。とっくに退場処分になってもよい人です。
 
 
>>
そのブログでの自分の自由な生き方、考え方が否定されるような考えには鬱積された怒りと批判がとどまることなく大量に吐き出され、ありとあらゆる批判、否定、攻撃となるようです。
2018/11/4(日) 午前 11:40[ shalom ] 
<<
 
冷静に書いているように見えますが、シャロームは、偽牧師です。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」と書いたことで、バレました。前にも書いたことです。楽山が、今も、シャロームの言を引用するところに、楽山の病質が表れています。楽山による成りすましも疑っています。
 
 
>>
一旦批判が始まると相手が弱み、謝罪を示すまでとどまることはないようです。それをもって悔い改めだと考えておられるようです。
<<
 
論争になると、楽山は、際限なく、理路を混乱させて、雑言を浴びせます。そして、相手が参って疲労を表すと「疲れたんじゃないですか」と、ねぎらいの芝居をします。得意技のようです。楽山は、理路を崩すのが得意で、理路を組み立てることは出来ません。まともな議論など、したことはないのです。
 
だから、否定を言い、次は、肯定を言って、軸がないのに、それをもって、責任問題は生じないなどと言ってのけます。議論を、まるで理解していない証拠です。楽山とは、戯れにも、試験的にも、議論しようなどと思ってはいけません。楽山の議論は、いつも、罠(わな)なのです。
 
なお、謝罪は期待していません。それができる人とは思っていないからです。また、二人が謝罪しても、信頼度ゼロだから、本気として受け取ることは出来ません。もはや、早くネットから、いなくなってほしい二人であります。全否定される前に改めるべきでしたが、それだけはしない楽山です。
 
 
>>
自由さんはstさんの良き理解者になることができるかもしれませんね。わかりませんが。時間がある時、stさん自身で書かれた記事を日記などほかの記事もよく読んでみられるといいですね。
2018/11/4(日) 午前 11:45[ shalom ]
<<
 
楽山の冷静、シャロームの優しさ、いずれも、芝居です。楽山一人の成りすましも疑っています。本性は、罪悪感の無いサイコパスです。ゆえに、何を言われても、自分を責めることなく、反省することなく、何事もなかったかのように平気でいられるのです。高等感情が、無いのです。
 
 
>>
私がstさんと話の内容がよく合うのではないかと紹介したブロガーの方とは初めはとても親密な交流がなされていたようですが、相手の方もstさんに困ったことを相談をしていたこともありますが、その後はその方もstさんの激しい批判とその方の個人情報を使っての人格否定、人格攻撃まではじめて、病的な状態に追い込まれてしまわれました。今その方は自分のブログの過去の記事をよめないようにしておられます。
<<
 
Vさんには、弱気が見られ、誰かの圧力がかかっているようでした。こういう人は、楽山やシャロームと付き合ってはいけません。楽山とシャロームには、いやらしい善人言葉を見せかけにして、言論者からは、ほど遠い卑怯さが、見られます。気づくまで、時間がかかったということです。
 
 
(当時の私のコメント)
誰のことでしょう。Vさんのことでしょうか。彼とは、物別れに終わって、ずいぶん経ちます。Vさんがやったことは、シャロームが間違っているということが、Vさんという人は哲学者なので分かるはずなのに、シャロームに大事なところで調子合わせをして、その間、私のコメントを隠したことです。そういう大事なところで逃げる行為は、3度目だったので、縁を切りました。
2018/11/4(日) 午後 1:27st5402jp
 
Vさんは、哲学者としての実質を持っていたようです。楽山とシャロームは、同一成りすましかもしれないが、共通しているのは、言論の、いろはも知らないということです。まるで理路になっていません。だから話を逸らして、迷路に誘導し、混乱させてくるのです。
 
楽山は、自己正当と他罰性の前提に立って、悪口だけを言い、根拠を示せません。ゆえに、あの人もこうだった、攻撃してくる、などと、平気で言えるのです。負の宣伝、プロパガンダに過ぎません。議論の実質には何も触れていません。
 
私は、いちいち、過去記事やコメントを掘り出すことはしていませんが、楽山は、利用できるものは何でも利用~悪用します。今の、最近の、無反省、無責任、自己中の指摘には、何も答えたことがないのです。この世の悪の卑怯な偽善性を体現しています。
 
 
st氏は、自分のせいで病的状態にまで追い込まれた人がいたと知らされても、一言の詫びもなく、自己弁護をするばかりである。
 
シャロームと楽山は、一方的に私のせいにしています。かつ、真っ当な説明も弁明も出来ません。手段を選ばず自己弁護に終始します。高等感情の無い病質だからできることです。これからも基本的に変わらないでしょう。自分の都合だけで、おとしめに利用しますから、決して相手にしないでください。
 
 
論争中の相手に対して厳しくなるならともかく、すでに交流が絶えて久しい人に対しても、「言い過ぎた」「申し訳なかった」の一言もないというのは、まったくどうかしてる。
こういう事例をみると、「共感がない」「人の心がわからない」というのは、st氏の投影、自己紹介だと判断せざるを得ない。
 
論争中の相手にこそ、間違ったら、訂正して「言い過ぎた」「申し訳なかった」も言うべきです。信頼できない相手と分かった時点で、一切の、謝罪は、してはいけません。そして、そういう判断を裏切ることなく、楽山は、書くたびに、病質の悪性を露わにしてゆくのを、今、見ています。
 
 
*甘え
ところで、st氏は上のコメントで、V氏がシャローム氏を支持し、st氏から離れたことを責めているが、思い返してみれば、私にも同じようなことを言っていたのだった。st氏は、私がst氏ではなく、シャローム氏を支持したことを怒ってた。
 
Vさんの話をしても、Vさんの発言はありません。Vさんには、弱気が見られ、誰かの圧力がかかっているようでした。シャロームと楽山については、シャロームは約10年前に、楽山は3年余り前に、とんでもない人と気づいて、真実の敵だと思っています。
 
 
こうしてみると、st氏がいう「共感がない」「人の心がわからない」というのは、結局、こういう意味なんだろう。
「どうしてシャロームの味方をするんだ。どうして私のことを分かってくれないんだ。あなたには人の心がわからないのか。人に共感するということができないのか」(要約)
これは甘ったれた考え方だが、孤立してる人がこう考えるのは已むを得ないことであり、可哀想なことではあると思う。
 
私が「どうして私のことを分かってくれないんだ」と思っていると?・・とても気持ち悪くて、吐き気がします。共感は、人間性の最も大切な心ですが、楽山には、自己主張に聞こえるとは・・人間性の欠けた病質者らしい感じ方です。楽山には、共感ということを直観的に理解する感性がないのです。
 
共感が直観的に分からず、楽山は、自己中の自己愛によるご贔屓を求めること・・だと思っているのでしょうか。小学校へ行きなさい・・と言ったほうがよさそうです。誰も、楽山のような変質者には、卒業証書は与えないでしょう。学ばなかった報いが、色濃く表れています。
 
楽山のように人の心が分からない者は、表面的な言葉で、人を騙せると思っています。私は、それを批判しています。楽山を変えるためではなく、誰かが間違って交流することのないためです。社交では分かりません。このように文脈もなく悪口の当てつけになる劣悪さから臭気のように暗示されます。
 
楽山が、シャロームのような偽牧師に味方すれば、仲間だろう、同類だろう、くらいのことは考えるわけです。その判断は、今も変わりません。楽山は、さわやかさというものが全くない、とても気持ちの悪い男です。いつまで腐れ続けて、悪臭を放ち続けるのでしょう。
 
ライブドアには、シャロームのいちゃもんコメントがあり、私は、それも批判しています。もうだいぶ前のことです。記事「楽山の三文芝居」HNは、名無しの猫、シャロームであることは、文章の表面だけ丁寧な筆致から、指摘しても、違うと否定しないことから、明らかなのです。
のコメント欄
楽山とシャロームの、憎悪は、増悪するようです。汚物を見るようで、見苦しい限りです。
 
楽山は、いくら批判しても、理路を理解できず、情緒を受け取れないので、不都合に対する敵意だけで、平気で、記憶が薄くなっている過去の文章をネタにして、詭弁を弄し曖昧な迷路に誘導しようとしてきます。良心の節操が皆無の楽山です。一般読者が楽山に近づくことのないように批判しています。
 
 
自己満足に過ぎないと思いますが、また、楽山の粗製乱造の記事が、多量にアップされているようです。断末魔だと思います。量で優っても、ずうっと質が最悪の楽山です。誰も見ないことを願って止みません。常識も、見境も、なくなってきたのでしょう。前と同様、私も、全部を読むことはしません。
 
こんなに書いたぞ、全部見てみろ・・という楽山の自己満悦が、拙劣な理路と、鈍い心を押し切って、書きまくる衝動に打ち込ませています。悪い病人です。誰も信頼しないでください。関わると、とばっちりを食らいます。結局は、誰からも信頼されることはないのです。
 
 
無知なる闇

無知なる闇
 
 
(2022年03月27日)
 
 
 
  ぶらぶら
 
逆さになって
ひっくりかえった
夢を笑う
花を摘み
逆さにして
ぶらぶらと振る
何かを吹き
何かに吹かれて
みんな自分だったと
苦い実を噛む
濁った汁がしみて痛い
 
細かく雑草が揺れるほどの風
受けて少し逆流する
寒けが空っぽの気道を舞う
何を恐れている
それとも憎んでいる
咳き込むほどに渇き
荒れて
濁った痰に癒されるのは
肉体に似て
退いてゆくもの
しかし方角が違う
そちらへ行けば
逆さになって
ぶらぶらになって
 
後ろを向いた眼球を
旅人の姿に隠して
ぶらさがって
空へ落ちかかっている
この世を
そんなものだと
眺めながら
誰にも会わず
去っていったあいつ
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人道から外れ続ける楽山は、人間性を、元々知らないか、なくしたのでしょう。記事に書いたように、共感が分からなければ、愛も分かるはずはありません。楽山に近づく特に女性は要注意です。楽山は、知らない、分からない、理解できない・・ということが、病質者を通して、もたらす災いの資料です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  現代の偽善者3
 
 
二千年前のキリストの時代には、偽善者は分かりやすかったかもしれません。聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて多くの人は、かなり、はっきりと分かるでしょう。尊大で傲慢なパリサイ人と、赦しを乞う以外になかった取税人は、明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは、そのような分かりやすさを持ちません。現代の偽善者は、柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まります。
 
現代の偽善者は、誰でも賛同するような話題を用意しています。そして、褒め言葉や讃美言葉で熱心で敬虔な信仰者だと思わせてきます。現代の偽善者が、尊大で傲慢になるのは、何らかの知的な話においてか、追いつめられたときでしょう。
 
宗教、政治、思想、などについて、彼らは、自分が知的に上だということを誇らしげに示します。中身はないのに、評論家のような立場で物を言うでしょう。こちらの話は受け取らず、弁明せず、自分の言い分だけを繰り返します。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら、従うことがベストだということを刷り込んでゆきます。うっかり関わり続けていると、気づかないうちに刷り込まれてゆくのです。彼ら偽善者の言うことが、すべての人に広まったら、いつのまにか、気づいたら、とんでもないことになっているのです。
 
彼ら偽善者の言うことが、何よりも自己中心を土台としていることを覚えてください。けっして自らの罪や過ちを認めず、悔いることがないということ。
 
偽善者の判断は、真実として、良かった、悪かった、近い、遠い、ではなく、策略として、うまくいくか、まずいか、という判断だけなのです。大事なことは、彼ら偽善者の言うことが、聞き手に対して、常に、上から教える態度に終始していることに気づくことです。
 
彼らの言うこととが、世辞の感謝やお詫び以上には、けっして微塵の反省も含まないこと、これらに気づいたら一目散に逃げてください。コメントにレスしないで無視して下さい。けっして彼らの話に乗らないでください。質問も確認もしないでください。
 
話し合おうと思ったりしないでください。説明を求めないでください。詭弁と無理解だけが返ってきます。現代の偽善者は、覚悟の批判者だけが疑い、消耗を覚悟しながら批判する対象です。
 
彼らは、病的ナルシスト、精神病質(サイコパス)、自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)、病質者、異常者、偽善者、変質者であり、聖書のパリサイ人の、現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは、相手の本性を確かめることなく、穏やかな話には乗りやすい傾向があります。教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。現代の偽善者は、そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でした。現代の典型的なクリスチャンは、そのままでは、だまし言葉と詭弁だけを仕込んできたような現代の偽善者には敵いません。
 
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を、本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。今の偽善者は、良心がなく、代わりに、丁寧と柔和を装い、意図して、だますことを企みます。批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 
現代の偽善者は慇懃(いんぎん)で狡猾(こうかつ)

現代の偽善者は慇懃(いんぎん)で狡猾(こうかつ)
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
(2021年03月21日、再録+)
(2022年03月25日、再録+加筆)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
 
 
  一枚の写真
 
若い頃の私の顔
写真の中の
とりわけピントのぼけた
青年よ
私はその一枚が好きだった
しかしその微笑よ
お前があまりに狡(ずる)かったので
想い出になることも
死ぬことも許されず
この顔になった
老いへの無知が傍らで狂乱している
かつての青年よ
この顔に対して
私は殺したいほど
抱きしめたいほど両価性だ
 
 
  膏肓
 
横隔膜は病気です
胸がつかえて深呼吸したら
声帯が震えました
それを歌だというのです
腹がもたれて運動したら
筋肉がつりました
首と腰がきしみました
それをリズムだというのです
イメージは病気です
眠れない夜が明けるころ
うとうとし始めた頭を振りました
それを意志だというのです
目をこすり顔を洗い
水が目にしみて
手探りでタオルを取りました
それを狡いというのです
 
 
  黒く細い道(抜粋)
 
昔どこまで続いているのか分からない
黒く細い道があった
どこか人里離れたところへ
向かっているようだった
幾度か足を踏み入れそうになった
しかし早々とその道へ
行ってしまった人を見送りながら
 
本当は人里離れた所で
絵でも描いていたい暗く細い体は
場違いな明るさに
外側から腐ってゆく脳ミソを抱えて
漸く手に入れた紙切れに乗って
随分と長い間
違う感じの人々の場を奪っていた
今になって
あの黒く細い道を行くと体は
内側から腐ってゆく脳ミソを
抱えることになるのだろうか
 
腐る腐らないは道によるのではない
道は踏まれる所に出来るものだ
 
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13分
この場面は、
カルト呼ばわりされたことに対して、
いかにもカルトっぽい言葉使いで反論してて、
思わず吹き出してしまったところです(笑)
これはようするに、
「わたしたち幸福の科学は、愛と悟りとユートピア建設を説く正しい宗教です」ということだし、
ぬけぬけとよく言えるなあ。
午前9:38 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、自らの招いてきた事態を全く気にしないで無視する、という、楽山個人の「いかにもカルトっぽい言葉使いで」、反論も出来ないのに、「思わず吹き出してしまったところです(笑)」と書いています。自身の無反省と無責任が招いた不都合を何も気にしていないことが表れています。
 
楽山が、高等感情を持たない病質者らしく鈍麻を表して、揶揄して「(笑)」などと書くのは、自分は正しいから余裕があるとでも思っているのでしょうか。「ぬけぬけとよく言える」ものです。
 
楽山は、「愛と悟り」も知らず、他者の意見に不応で、自らの惨状に不感の、人格破壊的な偽「ユートピア建設」の妄想をいだいている自己愛執着の、気取りだけで他者を揶揄して遊ぶ原始的な自己虫病質者です。自覚が何もないということを、一生、繰り返し表して続けてゆくのでしょうか。
 
楽山は、決して、誰の味方にもなれない人です。
 
今日も、楽山の言葉が、楽山に返って、楽山を斬ってゆくだけの、楽山の人生になっています。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
申し訳ないが、「HSの悪口を書いていながら、HSで取材できると思うな。取材したいなら、HSに対して相応の礼を尽くしてからにせよ」と聞こえてしまう(笑)
それから人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います。
午前11:28 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、「申し訳ないが」という政治家の慇懃無礼の口調で言っています。
 
「人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います」・・違います。犯罪者は、明らかに人権を制限されています。現状、最高刑は、死刑であります。つまり、公共の福祉に反しない限りでの人権です。
 
したがって、嘘吐きと偽善の悪行を働き続けている楽山には、人権を云々する資格はないのです。礼を尽くさず、礼の芝居でごまかす丁寧語で、宗教を子供じみた霊と超常の話と未熟な机上の理路の破綻で語って揶揄し、人を欺き続けている楽山は、首を洗って待つしかない立場でしかありません。
 
言い換えれば、楽山は、天然自然のあり方に、真っ向から反しているということです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
「歴史的資料となるだろう。」とは誰の言葉なんだろう。
ふつうは、本の帯にある推薦文は、他者によるものだと思うのだが、
まさか、まえがきにある著者本人の言葉ではあるまいな? 絵文字(口を開けて笑っている顔)
午後4:18 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
このように、楽山という人は、他者のみっともないことや、自分より劣っていると思う人を見つけて笑いたいだけだろうと思います。そういうことが見つかると、このツイートのようなことを書かないではいられないのでしょう。
 
結局、日常でないところ、つまり、一つは超常の現実離れ、もう一つは、恥ずかしいゴシップが、楽山の唯一の楽しみなのでしょう。楽山は、心からの笑い、例えば、おかしいのではなく、心が温まって笑顔になるようなことが出来ないようになっています。
 
楽山は、あざ笑いや高笑いはあるが、微笑みはない。共感という言葉を使っても、共感の実質がない。辻褄が合ったり、面白おかしかったりすると、感動という言葉を使うが、感動が伝わってこない。反省という言葉は知っているが、反省と言う前と後で、何も変わっていない。
 
楽山は、真摯、真剣、真面目、丁寧、ということを装いながら、その実質が全く見られません。腹の底では、他者を見下げていて、あらゆる不幸を、笑いの種と、芝居の種にするだけで、本気では何も気にしていないのでしょう。しんみりした深い情緒を感じとるセンスがないからだろうと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、「反省、謝罪」が「難しい」のは「人間の性」だからと言っています。「嘘」「卑怯」は、「人間の性」でしょうか、否、良心があればないことです。それを、悔いることなく、常習としてやってきた楽山は、まるで予言されたかのように、人間で在り続けることが出来なくなっています。
 
 
 
仏教系の荒らしがツイッターの通知欄に来たようです。
 
ハリツケにされたユダヤ人の罪人を拝んでも救われません。
因果応報を説かない低級な教えです
 
仏教系に、信じてもいないキリスト教を荒らす人がいるとは思いませんでした。抑制できないなら出禁です。真の仏教徒ではないのかもしれません。
 
キリスト教は実に幼稚で、程度が低い宗教だ。(中略)キリスト教という邪教は、この世から除去、根絶、禁止させねば絶対にならぬ。
 
何様かのつもりで言っているようです。キリスト教信仰の深さを知らないようですが、言っても無駄でしょう。宗教を勘違いした妄想的傲慢が、とても臭いです。
 
成熟した大人なら、罵詈雑言吐いても、何の解決にもならないことは知っているはずなんですけど、未熟なほど、感情的に大口を叩きます。そういう分かりやすさだけが長所でしょうか。
 
キリスト教のかたは日蓮正宗寺院までお越しください
 
以上のコメントで、行く人はいないと思います。
ハリツケ(磔、貼り付け)になっているのは誰でしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の醜態加速2
 
 信仰と経験
 (『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』スティーヴン・キング著)
 2021年02月12日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、いつものことですが、本をネタに、自己中・自己愛からの先入観を訂正不能の前提にして、無反省・無責任・無理解・無神経をあらわにしています。分かってるふうの書き方が笑止であります。
 
 
*信仰と経験
キングの短編を読んでいたら、信仰と経験について書いている箇所があったのでメモしておく。
神のおぼしめしとはとってもすてきな考えだ。自分が無傷でいるかぎり、それは信じられる。
(「ハーマン・ウォークはいまだ健在」『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』〈文春文庫〉ス
ティーヴン・キング著、風間賢二訳、文藝春秋、2020年、p.40)
 」
これはつまり、人の思考や感情は経験の影響を受けるものだけども、信仰もその例外ではないということだろう。一般的にも、仏教徒を両親に持つ子供は仏教徒になり、キリスト教徒を両親に持つ子供はキリスト教徒になることが多いというし、信仰は環境や経験に先立つものではなく、その影響下にあるのだろう。
 
楽山は、信仰を、神のロボットにでもなるかのような観念で捉えているようですが、経験の影響を受けない人生はありません。経験の中で、聖書を知り、神を知り、信仰に至るのです。楽山のように、気づきのない固着した人格になったら、人間ではなくなるのです。
 
人生の総ての経験は、神のおぼしめしという考え方もありますが、神のおぼしめしでも、経験ということです。どこがどのように?・・という詳細は人には分かりません。楽山は、あらゆる経験を無視しまくって、自我満悦の悪夢の生ぬるい汚泥に浸って、人をからかうだけになっているのです。
 
 
またこの文章は、「神のおぼしめし」を、「因果応報」と言い換えるならば、ヨブと三人の友の対立の原因がどの辺りにあったのかを教えてくれるものだ。ヨブは不条理を経験し、深く傷付いたが、三人の友らはそのような経験はなく、ヨブの心情を理解できなかったのだ。
 
「神のおぼしめし」を「因果応報」と言い換えるのだそうです。明らかに意味の違う言葉を、どういう理路で考えたら、そうなるのでしょう。そのように決めつける権威を誰が楽山に与えたのでしょう。いたるところに偏見があるようだが、思い上がりもいい加減にするべきです。
 
楽山は、ヨブの試練を、一般的な言い方でも不幸と言うべきを、「不条理」と言って、神は不条理という反信仰を刷り込んできます。ヨブは神に試され、それに反応しました。友人たちへの「神のおぼしめし」は、はっきり分かるほどには書かれていないようですし、ヨブ記は、神の関係がテーマです。
 
それにしても、この地上で、楽山のように、神を、軽く見て、嘘と詭弁で、おとしめられると思っている者も珍しいと思います。視野狭窄の上に、我欲のために折れた理路、客観の倒壊、悪意と怨念、・・楽山は、学習と成長を怠る人間が、ここまで落ちてしまうという典型例になっています。
 
つまり、楽山は、楽山への「神のおぼしめし」を、全部、無視してきたということでしょう。それで、今の楽山の人格破壊の悲惨と恥を、惜しみなく露呈してボロ雑巾みたいになっているわけです。しかも、そこで反省するどころか、それを、神のせいにして逆恨みしているのです。
 
楽山は、神が、試練など与えず、甘い言葉と、何でも都合のよい成り行きだけを与えて、好きなだけ能力と富を与えて、いいこ、いいこ、と褒めてくれることを、求めているのでしょうか。与えられた境遇で、努力もせずに、偉くなった白昼夢を見ていたのでしょうか。
 
 
人は想像力と理性によって、他者の経験とその感情を思いやることは不可能ではないだろうけれども、それにもおのずと限界はあり、真に理解、共感することはどだい無理な話なのだ。人は人を分かったつもりになって裁いてはいけないのである。
 
楽山の詭弁です。自分の悪意の罪と偽善を悔いることも改めることもせずに、人の理解は限界があるという部分否定から、理解・共感は無理という全否定にして、ゆえに、裁くのはよくない、批判するな、と言いたいようです。道理で、議論も交流も、世辞以上には成り立たないはずです。
 
人の理解には限界がありますが、楽山の続ける発言が、いつも、人間としての最低の恥ずかしさだけを、白々しくボロクソに表しているのに、楽山は、やさしい、正しい人です・・なんて言えるわけないのです。おかしいことは、おかしいと言うしかありません。まさに、この記事もそうです。
 
 
結局のところ、ヨブと三人の友との対立は、三人の友はヨブを知らないにもかかわらず、分かったつもりになって裁いたところに原因があったのだと思う。
 
三人の友は、神への恐れが足りず、カチンカチンの教条主義的なことしか、ヨブに言えなかったので、ヨブを変えることができませんでした。楽山は、知りもしないことを、分かったつもりになって、知ったかぶりで、いちゃもんの記事を書いているだけです。聖書も、ろくに読んでいないと思います。
 
楽山は、神への恐れが全くなくて、ズルンズルンの自己愛的妄想しか言えません。その本性が招くものは、もはや、人間的配慮など、何も感じられないほどに悲惨であります。思いやり、羞恥心、罪悪感、などが欠損してしまった人格、即ち、温もりと潤いのない非人間の有り様なのです。
 
分かったつもりになっているだけではなく、呆れるほど酷い人格を、楽山は、今も、今までも、表し続けています。とても幼稚な嘘っぱちの理路で、泡を吹くように詭弁を吐いて、不都合無視スルーに、責任回避と自己正当化で、他罰に走るさまは、見苦しさを通り越して、吐き気がしてきます。
 
 
無知と無恥の醜態

無知と無恥の醜態
 
 
(2021年02月13日)
(2022年02月17日、再録+加筆)
 
 
 
  かたすみ
 
滅びゆく家の片隅に
うずくまってじっと耐えているか
去りゆく人の残していく
滅びゆく影を追って
北風に唇をふるわせて野辺に立つか
滅びゆく世界の
残された片隅に
あてがう呼び名もなく
呼ばれることもなく
吹きすさぶ嵐に傾いて
ひび割れた古い柱に
さらに寄り掛かる冬の重さに
耐えるときの命の中に
命に似て
少しく潤んで
しのぶもの
滅びゆく希望の
片隅に凍えて
小さく開かれた永遠を信じて
小さく開いた眼だけになって
やがて白く
広く
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
むかし呑んだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「そんな風です」・・楽山は、どんな風だと言っているのでしょう。「人間の性」だから、やむを得ない、自分も人間だから・・とでも言うのでしょうか。人間なら「嘘ばかり重ねる」「保身だけの卑怯者」なのでしょうか。とんでもないことを楽山は書いているのです。底知れない大嘘吐きです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
精神科医Tomy@PdoctorTomy話が通じない人も、
一見話は合わせてくるのよね。
「話が通じない」とわかるまで、それなりに時間をかける必要があるわ。
 」
午後6:05 · 2022年2月16日·Twitter for Android
 
まさに、楽山のことです。一見、丁寧で、話が分かるように見せかけて、続けているうちに、何も受け取っていない、理路がおかしい、センスがおかしい、通じない、遣り取りになっていない、・・と分かってきます。そこまでに、実に気色の悪い疲労と徒労しかないことに驚かされる、という破壊者です。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をコピー・リンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ