ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:サディスト

 
  楽山のサディズム2
 
 『プロテスタンティズム』深井智朗著
 2021年11月05日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
サディストの楽山が、また、キリスト教をおとしめにきました。こういうことがあって、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、また、反社会性の精神病質、つまり、サイコパスでもあるだろうと判断しています。おとしめて、いじめて、鬱憤を晴らす楽山です。
 
 
プロテスタントにはさまざまあると聞いてはいても、それぞれの特徴、区別はよく分からなかったので本書を読んでみた。
 
いくら本を読んでも、読んだことにならないような記事を書いているだけの、婉曲の悪口です。楽山は、悪口を言って、ひととき、優位に立った気分になるために記事を書くのでしょうか。何か言ったことにしたいのでしょうか。悪意の偏見では、何も言ったことにはならないのです。
 
 
主に前半はルターの宗教改革について説明されており、後半はプロテスタントを古プロテスタントと新プロテスタントに分けつつ、前者と後者の特色、政治との関わり方について語られている。おおまかに言えば、前者は権力との結び付きが強く「支配者の教会」であり、後者は「自発的結社としての教会」ということになるらしい。
 
信じてもおらず、常識的な取っ掛かり程度の理解さえも出来ていない楽山が、キリスト教を時代で分けて何の意味があるでしょう。ただ、勉強して知ってるつもりだけの、インテリを気取りたいだけの、これもまた、自己顕示欲と、さらに、執拗な分、凶暴性を表しているのです。
 
 
それにしても、この種の本を読むたびに思うことだけども、宗教とは結局のところ神の働きによるというよりも、人々の願望、社会的要請などによって生じ、広まってゆくもののようだ。
 
宗教は人が作った、つまり神はいない・・と言いたいのでしょう。理解力のない自己愛性人格障害の楽山は、「というよりも」「のようだ」という婉曲的な言い方で、宗教は捏造じゃろ・・と、自己の無理解を否定したいのでしょうが、執拗に書いてくることが、悪魔性の人格を表すのです。
 
 
でもよく考えてみれば、この種の本は宗教を内側からでなく、外側から説明するものであるし、宗教の教義、歴史的事件、社会的影響などについて書かれてはいても、信者個々の宗教的体験、霊的な諸事情、心理的影響などについてはあまり掘り下げて書かれてはいないことが多いのだから、そういう感想を持つのも当たり前か…。
 
今までの記事もですが、こういう楽山の記事は、婉曲的な悪意に満ちていて、決して「当たり前」ではなく、知性も感性も途方もなく外れたままの、鬱憤晴らしの五里霧中遊泳でしかありません。どんどんどんどん自己破壊の瓦礫を積み上げる楽山の言は、大人になれなかった児戯の産物です。
 
 
私は、歴史のことは、高校の世界史で勉強したくらいしか知りません。歴史が正しいからでもなく、教理が正しいからでもなく、聖書を読んで心に残って、いつまでも消えないほどには、キリストを好きになり、洗礼を受け、教会から離れた後も、考え続けているのです。
 
信仰は、聖書とキリストに縁があれば、起こり得ることですが、御縁を自覚しなくても、神が、キリスト教を通さずに何らかの使命を与えて、生きる糧を与える可能性は否定できません。しかし、楽山は、そういうことも当てはまらないほど、無反省・無責任の、心ない反キリストなのです。
 
宗教と信仰は、リアルでもネットでも、テーマとしては地味で、目新しいカルト的な話題で煽ったりしない限り、アクセスも少ないと思います。さらに、病質的に無知で無反省の楽山は、ブロガーとしても、面白い文章も深い文章も書いたことはありません。
 
むしろ、そういう地味なテーマで、楽山は、価値を最初から認めていないからこそ、考えもせずに、飾り言葉や、好きなように壊れた理路を、平気で押し出せるのでしょう。検証も分析もできない楽山は、霊能者気取りと学者気取りで、おとしめるためだけに、嘘と詭弁を弄して楽しむサディストなのです。
 
 
サディストの歪み

サディストの歪み
 
 
(2021年)
(2022年11月20日、再録+加筆)
 
 
 
  浮腫が示すもの
 
眼瞼の浮腫はいずれ破裂して
一番薄い皮膚を引き裂くであろう
不可逆であれ一時的であれ
原因がフェナセチンであれピリンであれ
腎障害や肝障害であれ
心機能の限界であれ
一度起これば次第に頻発し
前より重くはなっても
軽くはならないものがあるのだ
 
浮腫は破裂して皮膚を引き裂くだろう
裂け目から流れ出るのが
涙であろうと水であろうと血であろうと
裂け目に蔓延(はびこ)り残るのが
いかなる黴菌(ばいきん)であろうと
いかなる有機物や無機物であろうと
そのとき既に視力は奪われ
意識は喪失し
命は旅立つのだ
 
生命は精霊のように大切だから
意思は遺志のように儚く尊い
しかし浮腫(むく)んだ皮膚が
常に示してくるのは
再会も音沙汰もない生別と
死別の違いにも似て
 
滅びないであろうこの世に生きながら
自らが滅びるとき自らにとって
この世の滅びを問い続ける細い管から
漏れて戻り損なう循環だ
そう ゆえに
皮膚はいずれ破裂して
浮腫を緩やかに引き裂くであろう
 
 
  何故か
 
何故か知らぬ
ひどい目に会わせた人がいて
因果の繋がりの一段一段は知る由もなく
今こういう目に会っている
それはいい
それでいい
何故か知らぬ
眠りに就(つ)くとき
目覚めを望まなかった
目覚めないことを祈りさえした
何という不遜の祈り
しかも数知れず
それはよくない
それではよくない
しかし今さら善い悪いの問題ではないのだ
そうであった
そうである
ということだ
しかし何故か知らぬ
目覚めを厭わずに眠ることがあった
それはよい
それでよい
と素直に喜べないのは何故か
知っているようで
やはり何故か
 
 
  ある病苦
 
独りきり
価値がない意味がない
楽なのか苦なのか
虚無だ空虚だ
生ける屍だ廃人だ
と思いながらも
病気は本人には分からない
 
病は気から
原因があるのだ無いのだ
拒否しているだけだ
腹癒せだ引き籠もりだ
仮病だ詐病だ
と思われながらも
苦痛は本人にしか分からない
 
 
 
楽山の害毒メモ:(抜粋)
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
※ 楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
厳しく批判して、2~3日投稿がなくても、不感不応の自己中の虫がうごめき出して、楽山は、また書いてくるのでした。罪悪感もなく、反省もしないので、何も変わっていないし、また、新しく批判の対象になるだけです。読者が関わることのないように、批判を続けています。
 
 
 
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  楽山のサディズム
 
 『プロテスタンティズム』深井智朗著
 2021年11月05日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
サディストの楽山が、また、キリスト教をおとしめにきました。こういうことがあって、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、また、反社会性の精神病質、つまり、サイコパスでもあるだろうと判断しています。おとしめて、いじめて、鬱憤を晴らす楽山です。
 
プロテスタントにはさまざまあると聞いてはいても、それぞれの特徴、区別はよく分からなかったので本書を読んでみた。
 
いくら本を読んでも、読んだことにならないような記事を書いているだけの、婉曲の悪口です。楽山は、悪口を言って、ひととき、優位に立った気分になるために記事を書くのでしょうか。何か言ったことにしたいのでしょうか。悪意の偏見では、何も言ったことにはならないのです。
 
主に前半はルターの宗教改革について説明されており、後半はプロテスタントを古プロテスタントと新プロテスタントに分けつつ、前者と後者の特色、政治との関わり方について語られている。おおまかに言えば、前者は権力との結び付きが強く「支配者の教会」であり、後者は「自発的結社としての教会」ということになるらしい。
 
信じてもおらず、常識的な取っ掛かり程度の理解さえも出来ていない哀れな楽山が、キリスト教を時代で分けて何の意味があるでしょう。ただ、勉強して知ってるつもりだけのインテリを気取りたいだけの、これもまた、自己顕示欲と、さらに、執拗な分、凶暴性を表しているのです。
 
それにしても、この種の本を読むたびに思うことだけども、宗教とは結局のところ神の働きによるというよりも、人々の願望、社会的要請などによって生じ、広まってゆくもののようだ。
 
宗教は人が作った、つまり神はいない・・と言いたいのでしょう。理解力のない自己愛性人格障害の楽山は、「というよりも」「のようだ」という婉曲的な言い方で、宗教は捏造じゃろ・・と、自己の欠格を否定したいのでしょうが、執拗に書いてくることが、悪魔性の人格を表すのです。
 
でもよく考えてみれば、この種の本は宗教を内側からでなく、外側から説明するものであるし、宗教の教義、歴史的事件、社会的影響などについて書かれてはいても、信者個々の宗教的体験、霊的な諸事情、心理的影響などについてはあまり掘り下げて書かれてはいないことが多いのだから、そういう感想を持つのも当たり前か…。
 
今までの記事もですが、こういう楽山の記事は、婉曲的な悪意に満ちていて、決して「当たり前」ではなく、知性も感性も途方もなく外れたままの、鬱憤晴らしの五里霧中遊泳でしかありません。どんどんどんどん自己破壊の瓦礫を積み上げる楽山は、大人になれなかった子供です。
 
 
私は、歴史のことは、高校の世界史で勉強したくらいしか知りません。歴史が正しいからでもなく、教理が正しいからでもなく、聖書を読んで心に残って、いつまでも消えないほどには、キリストを好きになり、洗礼を受け、教会から離れた後も、考え続けているのです。
 
こういうことは、誰にでも、御縁があれば起こり得ることですが、御縁を自覚しなくても、神が、キリスト教を通さずに何らかの使命を与えて、生きる糧を与える可能性は否定できません。しかし、楽山は、そういうことも当てはまらないほど、無反省・無責任の、心ない反キリストなのです。
 
宗教と信仰は、リアルでもネットでも、テーマとしては地味で、目新しいカルト的な話題で煽ったりしない限り、アクセスも少ないと思います。楽山は、ブロガーとしても、面白い文章も深い文章も書いたことはありません。
 
むしろ、そういう地味なテーマで、楽山は、価値を最初から認めていないからこそ、考えもせずに、好きなように壊れた理路を押し出せるのでしょう。検証も分析も考察もできない楽山は、霊能者気取りと学者気取りで、おとしめるためだけに、嘘と詭弁を弄して楽しむサディストなのです。
 
 
サディストの因業(いんごう)

サディストの因業(いんごう)
 
 
(2021年11月06日)
 
 
 
  浮腫が示すもの
 
眼瞼の浮腫はいずれ破裂して
一番薄い皮膚を引き裂くであろう
不可逆であれ一時的であれ
原因がフェナセチンであれピリンであれ
腎障害や肝障害であれ
心機能の限界であれ
一度起これば次第に頻発し
前より重くはなっても
軽くはならないものがあるのだ
 
浮腫は破裂して皮膚を引き裂くだろう
裂け目から流れ出るのが
涙であろうと水であろうと血であろうと
裂け目に蔓延(はびこ)り残るのが
いかなる黴菌(ばいきん)であろうと
いかなる有機物や無機物であろうと
そのとき既に視力は奪われ
意識は喪失し
命は旅立つのだ
 
生命は性霊のように大切だから
意思は遺志のように儚く尊い
しかし浮腫(むく)んだ皮膚が
常に示してくるのは
再会も音沙汰もない生別と
死別の違いにも似て
 
滅びないであろうこの世に生きながら
自らが滅びるとき自らにとって
この世の滅びを問い続ける細い管から
漏れて戻り損なう循環だ
そう ゆえに
皮膚はいずれ破裂して
浮腫を緩やかに引き裂くであろう
 
 
  何故か
 
何故か知らぬ
ひどい目に会わせた人がいて
因果の繋がりの一段一段は知る由もなく
今こういう目に会っている
それはいい
それでいい
何故か知らぬ
眠りに就(つ)くとき
目覚めを望まなかった
目覚めないことを祈りさえした
何という不遜の祈り
しかも数知れず
それはよくない
それではよくない
しかし今さら善い悪いの問題ではないのだ
そうであった
そうである
ということだ
しかし何故か知らぬ
目覚めを厭わずに眠ることがあった
それはよい
それでよい
と素直に喜べないのは何故か
知っているようで
やはり何故か
 
 
  ある病苦
 
独りきり
価値がない意味がない
楽なのか苦なのか
虚無だ空虚だ
生ける屍だ廃人だ
と思いながらも
病気は本人にだけ分からない
病は気から
原因があるのだ無いのだ
拒否しているだけだ
腹癒せだ引き籠もりだ
仮病だ詐病だ
と思われながらも
苦痛だけは本人にしか分からない
 
 
 
 
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  楽山のお祭り騒ぎ
 
 『宇宙の法―エローヒム編―』を見た。
 2021年10月12日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
 (ネットより)
「エロヒム」は、ヘブライ語聖書で「神」または「神々」を表す。ヘブライ語の文法的には、末尾の -im は通常、男性の複数形を指す。しかし神としての「エロヒム」は、通常文法的に単数であり、単数動詞や単数形容詞と共に使用される。現代ヘブライ語では、ヘブライ語の複数の男性名詞を示す -im が語尾にあるにも関わらず、しばしば単数形で用いられる。[1][2]
一般にエロヒムは、北西セム語系で神を表すエロア eloah から派生したと考えられている。[3] ヘブライ語以外の同系語には、カナン人のパンテオンの創造神であり主神であるエール El、ウガリット語のイル ilhm、聖書アラム語のエラーハ Ĕlāhā 、シリア語のアラハ 'Alaha「神」、およびアラビア語のイラー ilāh「神」、またはアッラー Allah「(単一の)神」がある。
El は通常、「強くなる」または「前に立つ」というアラム語の lh が語源と考えられている。[3]
 
超常についての楽山のお祭り騒ぎのようです。箇条書きですから、まとまりはありません。何かを主張するのではなく、面白がって、興奮しているようです。神(エル、エロヒム、ヤハウェ)を相手に、楽山は、こう言う態度しか持っていないのです。信仰を語れるわけがありません。
 
『宇宙の法―エローヒム編―』を見ながら心に浮かんだ感想をメモしておいたので、ここで整理してみる。
HS映画はいつも映像はきれいだ。これは今回も変わらない。
いきなり舞台背景の説明がはじまった。これはファンタジーあるある。
地球における善悪を知れって…普遍でなく、あくまで地球限定の善悪か。
白色彗星ならぬ、赤色彗星か? しかも艦隊の攻撃でも撃破できないとは…まるで、『さらば宇宙戦艦ヤマト』のようだ。
 
「映像はきれい」「ファンタジー」「宇宙戦艦ヤマト」「艦隊」「攻撃」「撃破できない」・・アニメを見るように、宗教と信仰を見ている楽山です。楽山は、ずっと、同一性(アイデンティティー)が発育不全か、壊れているのでしょう。
 
人物の絵は、みんな止まっている。人物と背景が分離している。なんだか無味乾燥だ。人物は生きてない。蝋人形だらけ。これでは感情移入し難い。
♪~きた、きた、わたしはきた~♪♫ 歌ありの音楽と、歌なしの音楽とでは落差が激しい。もちろん歌なし音楽↑、歌あり音楽↓。
ヤイザエル、強すぎ。ドラゴンボールみたい。強い女戦士を設定するとはHSらしからぬフェミ系への配慮もあるのだろうか。
ベガの女王、一瞬、きょうこ夫人に見えた。
彗星でなく、隕石爆弾? 流星爆弾みたいだな。
 
SFかホラーの映画で、子供が燥いでいるような感想です。
 
あまりに漫画すぎる。普段アニメは全然見ない人は、退屈するのではあるまいか。
 
「漫画」「退屈」と言いながら↓
 
会話がいちいち教義紹介になってる。教義紹介をしたいのは分かるが、その方面に興味がない立場からするとうざったい。
 
教義は、"うざったい" のだそうです。何を求めているのか不明です。
 
ヤイザエルが泥酔している兵士たちを叱ってる。千眼美子(清水富美加)が泥酔者を叱るというのはおかしい。
もののけ姫のタタリ神みたいのが湧いてる。
ひとりの英雄、いやヒロインが戦況を一変させてる。漫画すぎる。
 
魔界のような超常の話です。この次元で、楽山は、宗教と信仰を考え、キリスト教と信仰に、いちゃもんをつけてきたのです。常識的にも、未熟~異常です。何の救いにも、さらに、救いのヒントにも、全くなりません。薄気味悪い話です。
 
アモール(イエス・キリストのエネルギー体)が、悪魔よ立ち去れの一言で戦いを終わらせている。
ヤイザエルが反省している。悪を倒すのにためらわなかったが、もしかしたら自分には愛が足りないのではないかと…。
 
(ネットより)
アモル・アモール
ラテン語:Amor
スペイン語で愛のこと。es:Amor
クピードーの別名。
アモール (小惑星) (Amor) - 第1221番小惑星。
アモール群
アモール - 『ドラゴンクエストVI 幻の大地』における架空の町。回復アイテム「アモールのみず」の産地。
 
キリストの愛ということから、エネルギー体と呼んでいるのでしょうか。ヤイザエルは、架空の存在のようです。「愛が足りない」と言って、説明がありません。楽山には、著しく、愛は、足りないか、欠損しています。
 
ミカエルとルシフェルが双子というのは、レムリアで言ってたのと同じだ。
 
ミカエルは天使、ルシフェルは悪魔の名前ですが、好きなように扱って、超常の神話~ホラーとして扱っています。それを面白がる楽山はピエロにでもなるのでしょうか。
 
話のテンポが遅すぎる。あらすじも簡単すぎる。地球を侵略しようとする宇宙人を撃退するというだけ。ヤイザエルにしても、その他の人物にしても、さほどの悩み、葛藤はない。物語を通じて、大きく成長していない。したがってストーリーに起伏がない。だから退屈。
 
宇宙人の地球侵略の話になっています。「大きく」も小さくも、「成長していない」楽山の、まとまりもなく、説明にもなっていない感想文です。このように、宗教と信仰を、遊びとしてしか捉えていない楽山です。宗教・信仰・なくてはならない真実について、語る資格などないと思います。
 
私は、人間が受け取れる信仰について考えてきました。それを、否定し、著しく妨害して、混乱を招く方向しか持っておらず、到底、受け取れないホラーに化けさせているのが、楽山です。茶化しであり、ふざけており、真実に対する悪意以外の何ものでもないと思います。
 
正しいと思うことを自由に述べてよろしいと、エロヒムは言論の自由を認めてる。
ヤイザエルのヘルメットの額のところ、シャアと同じ形に変わってる。
アモールが山を動かしている。この山動きて海に入れか…。
 
楽山が、言論の自由と言うとき、それは、好き勝手に無反省に発言して、責任を負わないことを意味します。認められるはずがありません。超常話で、神エロヒムに認められているかのような楽山の主張は、鼻クソです。
 
楽山は、霊が分かるっぽい?という自覚を語っていましたが、楽山が動かせるのは、山ではなく、嘘と詭弁、悪口、・・やはり、鼻クソだけです。真実を求める方向性のない楽山には、かさぶたを剥がすことも出来ません。
 
戦争が肯定的に描かれている。正義の戦争は善であるということらしい。自分は考え方としては右ではあるが、こういう戦争の描き方は受け入れがたい。戦争というものは聖戦だろうが、自衛だろうが、どのような名目があったとしても、多くの人々が悲惨に殺されてゆくものだ。大勢の血で大地を染めることを正義だとか、善だとかいうのはどうかしている。
 
楽山は、平和主義みたいなことを語っていますが、嘘です。楽山は、殺人を含む事変に関与したらしいA級戦犯を讃えていました。このことから、正義を理解しない者が、平和を語り、戦争反対を語り、つまり、騙(かた)って、受けをよくしようと、空しく、あがいているだけだと思います。
 
ヤイザエル、二度も油断して敵に背後をとられている。歴戦の勇士がこういう不覚をとるわけはあるまい。
パングルって、らんま1/2…、いや呪術廻戦か? 本作は特に先行作品との類似性が見受けられるけれども、これはオマージュというやつなのだろうか。
 
そして、楽山は、格闘~戦闘シーンに興奮しています。ホラーアニメ・漫画の、空想の世界にしか、生きられない楽山の象徴的~特徴的な表れです。
 
(ネットより)
オマージュ(英語: hommage)は、芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受け、似た作品を創作すること、またその創作物を指す語である。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。
 
さまざまな個性を持つ者たちが集い、お互いの短所を補い合い、発展してゆくという考え方はよいと思う。
 
誰が、楽山に、善悪・良否の判断を仰いだと言うのでしょう。求められてもいないのに、考えることも出来ないのに、妄想的な楽山は、高みから評価し裁いている風情でしょうか。正義にも良識にも反しながら、なお、良し悪しを語る不治の病質が表れているようです。
 
地球神は時間を戻せると…。取り返しのつかない大きな過ちを犯しても、地球神が時間を戻してなかったことにするって…。いや、もしかしたら、幻魔大戦のように地球は滅びたものの、一瞬間のうちに滅びていない世界を想像したのだったりして。
 
呪術廻戦に加えて、今度は幻魔大戦が出てきました。漫画の世界に、どっぷり浸かって、そこからだけ、正義を語る楽山に、近づかないでください。「滅びていない世界を想像したのだったりして」・・こういう軽口をたたくために、宗教・信仰・真実をけがしてきた楽山です。
 
ダハールを追って行ったまま戻ってこないヤイザエル。これは軍規違反にならないのだろうか。
エローヒムの演説でシメ。
最近のHS映画は、HS色が薄まってきていたようだが、今回は原点回帰したのか、HS色が非常に濃厚になっている。HSの世界観だけで物語がつくられている。そのせいか、HSを信じていない自分はあまり感情移入できず、退屈したというのが正直な感想である。
 
「感情移入できず、退屈」とは、裏腹に、興奮が表れている楽山です。恐らく、楽山は、超常カルトというレベルでしか、宗教を考えていない、ましてや、信仰など、何とも思っていないし、持ったこともないと思います。
 
本作はHSとその信者にとっては尊い映画ではあろうが、HSも、エローヒムも信じていない一般に理解されるのは難しいだろうと思う。
 
楽山は、神エロヒムも信じていませんし、その尊さも信仰も分かっていません。なのに、「一般」を、自分より下に見ている筆致です。楽山は、「一般」にも達していないのです。破壊の、煩わしいチンケな主体であり、破壊に抗えない対象であり、かつ、どちらも見せかけだけなのです。
 
◇◆ 追記 2021.10.13 ◆◇
*ツイッター
ツイッターの方でも、映画について呟いたので、ここに貼っておきます。
心機一転★こも楽山
@komo266
·2021年10月13日
返信先: @hidenoeさん
映画の良い面をまとめれば、そのようになると思いますが、個人的には戦後育ちのせいもあってか、身分制、聖戦を肯定してるところは気になりました。
 
良い面をまとめたつもりのようです。この記事と、今までの記事を踏まえると、「身分制、聖戦を肯定してるところは気になり」・・楽山が言うと、恐ろしく軽くなります。
 
最も尊い存在が、最も嫌われる下層階級の仕事をすすんでするとか、戦争回避、和平への努力がもっと描かれていれば、さらに良かったと思います。
 
「さらに良かった」と肯定的にアドバイスしていることに楽山は気づかないのでしょうか。楽山も、超常アニメのレベルでしか宗教を語れないし、教祖願望があるために、つまり、教祖に憧れているために、さらに、既に教祖気取りであるために、全否定が出来ないのです。
 
「戦争回避、和平への努力」・・それより前に、楽山には、はしゃぐことはあっても罪悪感や後悔や反省力を持たない自分を改善するべきです。しかし、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)には無理なのでしょう。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
あとは…敵味方が入り乱れて戦った戦場では、敵味方の死体の山ができるだろうし、生き残った者は自身の血と汗はもちろん、返り血を全身に浴びることになるでしょう。戦傷者はさらに酷い有り様になるでしょう。
戦争を描くなら、その悲惨さもきちんと描写すべきだったと思います。
午前7:09 · 2021年10月13日
 
死体の山と、血と汗と、返り血と、血まみれの傷病兵を、もっとリアルに見たいという楽山のリクエストです。今まで、興味本位だけで、勝手な感想を書いてきて、なお、戦争のリアルな悲惨さ見たさに飢えている楽山です。味わうことになるかもしれません。
 
楽山には、高等感情がない、とりわけ、悲しみへの共感がないのです。いわゆる、モンスターです。いくら、気取っても、言動に表れてくるでしょう。今までも、無味乾燥の筆致として、また、不祥事を他者のせいにする自己中として、訂正不能の妄想として、表れてきました。
 
実際には、迷惑~犯罪~惨劇を、他者に企んで望んでいるのは、楽山かもしれません。何度か書きましたが、いわゆる、サディストです。人が困る、あるいは、疲れる様子を見て、同情のように見せかけながら、文脈として、筆致として、満足げに、笑っているのが楽山です。
 
 
サディスト、モンスター

サディスト・モンスター
 
 
(2021年10月14日)
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)
伝道の書/ 07章 15節
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。
 (伝道7:15、旧約聖書)
 
楽山が、いちゃもんとして言うような、神がいたら人の不幸・惨劇は起こらないはずじゃろ・・という話は、既に、昔の人が、万感の想いを込めて語っているわけです。つまり、信仰者は、地上にいるあいだ、信仰があれば現世的な良い報いを得る、というわけではないということです。
 
信仰者は、神への希望とキリストの同伴に、祈りを通して支えられながら、苦難の地上を生きるのです。安物の文具の性能をもてあそぶように、楽山が書いてくる宗教と信仰への雑言などは、また言いますが、鼻クソです。その汚れた指で、楽山は、繰り言をなすりつけてくるの傍迷惑な偏屈です。
 
 
 
キーワード: 血
 
  散る
 
紅く色づいていく木々の
にぎわいに、にぎわうだけで
例えば薄い木の葉の
もうすぐ散ります
という最後の音信さえ
数知れず見過ごして
この目に見られないまま
どこからどこまで見過ごされて
散ってゆく
 
破り捨てた手紙
最後の便り
破りかけた手紙
風の便箋
破れかけた手紙
歪んだ字を
書いているペンを
握っている手
見ている眼
赤く充血していく治癒の
道行きに拙い言葉の
いつか最後の音信
どこからどこまで過ぎて
散ってゆく
 
 
  季節の約束
(これは、かなり自由連想してます)
 
針に置ける軌跡を知らないかな
脈管のさまよえる路地で待ってる
そこから先はとんがっていれば大丈夫だ
ケラケラ笑うかけらばかり
握って角度がゆっくり南に傾いて
光る曲線がいちばん長くなる所だ
行き止まりなんてあるものか刺さなくていい
血は嫌いだ綺麗な喪主を
街の眼で汚したくない
もう寒くないだろう標的の入り口付近
宝石を数珠(じゅず)に巻かないように
切り貼りして過ごせばいい
飽きたら呼び鈴を忍ばせて
カジュアルでいいから日暮れを待ちなさい
思い込みは駄目だよ紅茶色だ、いいね
たぶん木馬が飛ぶ頃になると思うよ
ただ屋根のないタクシーが
黒い額で潰しに来るから気をつけて
そろそろ芽も味方してくれる
鋭角に切り落としたら一休みして
グラスに注げる口癖もあるさ
好きな水晶玉でも探して
菜の花の夜を見つけよう
帰りは直線で別れる前に
ちらっと月夜を弾いておくれ
じゃ葬列に出会ったらよろしくね
切るよ
 
 
 
 
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  楽山の危険思想2-1
 
 『安楽の門』大川周明著
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 
 
長い長い、引用も長い、楽山の記事で、批判も長くなるので、2回に分けて、載せています。去年の記事を、ところどころ、手直しして、改めて、もう一度、批判をアップしです。楽山の書く記事は、煩わしい耳鳴りのようです。
 
楽山の記事は、うんざりするだけの長いのやら、要点が抜けている短い記事やら、いろいろありますが、感動の要素は、まるで無いのが特徴です。キリスト教と信仰を、おとしめること甚だしいので、黙っているわけにはいきません。今回は、再録ですが、改めて危険だと思います。
 
大川周明は、A級戦犯で、梅毒による精神障害のために、死刑を免れた人です。またしても、戦前戦中の過激な右翼思想の人物を讃えています。楽山の思想傾向が表れています。
私の記事「楽山の右翼思想」
 
他者に何を言われても無視すれば、一時的には安楽に過ごせるでしょう。しかし、無視は、重ねられることにより、鈍感を膨張させます。無視による安楽は、他者との交流を無意味にし、学習と成長を不可能にして、楽山のような、感じることも考えることも出来ない化け物を作るのです。
 
*概要
著者は本書の中で、獄中でも、精神病院でも、どのような環境においても安楽に過ごしてきたとし、なぜそれができたかといえば元々楽天的な性格であることはもちろん、恩師、友人知人のおかげとともに、安楽の門(宗教)によるとして、自らの宗教について語っている。
 
楽山は、またしても、自分に都合の良い文言を漁ってきたようですが、楽山も、「獄中でも、精神病院でも」「安楽に過ご」すと言いたいのでしょうか。「なぜそれができたかといえば元々」鈍感な性格で、「恩師、友人知人の」いない「おかげ」だと言いたいのでしょうか。えらい違いです。
 
自己中で無反省で無責任な人には、苦言を呈することが無意味になるので、真の友人は出来ないと思います。楽山は、楽天的なのではありません。悔いや悲しみを感じないのです。だから、じっくり悔いて考えて反省するということがないのです。
 
以下に、その要点と思われる箇所を引用し、自分なりの感想を書いてみたい。
*宗教の目的
まず著者は宗教の目的について、こう書いている。
宗教とは無限の生命に連なることである。
(『安楽の門』大川周明著、出雲書房、昭和26年、p.237)
*註 旧字は新字にした
 」
これは梵我一如だとか、神人合一ということであろうか。無限の生命と人とは、別個の存在だというのではなく、連続しているという考え方をしているようだ。
 
無限の命につながる、ということは、解釈が幅広いので、カルトに利用されやすいと思います。どうやって、無限の命とつながったと分かるのでしょう。そこを、楽山は、無思考で気安く短絡して、神人合一などと言って済ませます。
 
理解可能なのは、瞑想などによって、心身の安定を得ることがある、ということでしょうが、それ以上に、楽山は、この曖昧な引用をもって何が言いたいのでしょう。怪しさ満点の楽山です。
 
(ネットより)
梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
 
そのような同一は地上にはないと思います。一部の人がそのようだったとして、その人は、人間世界において、乖離した者でしかないでしょう。ゆえに、そういう人になることを教えることは、カルトでしかないと思います。
 
キリスト教周辺では、神が人を自らに似せて造った、という聖句を悪用するような者が、そういうことを言うことがあります。間違いの例として、神と人、聖霊と人の、合一感を言う人もいるようです。合一したと、どうして分かるのでしょう。
 
人間は、自己暗示と超越願望の固まりゆえ、超常体験を求める欲望があるのです。それは、結局、神になりたい、という、神に対する明確な反逆であります。信仰は、全能の神と、不完全な罪人である自分を、明確に区別するところから始まります。
 
宗教には、神秘を想わせる雰囲気があります。神のもとで安らぐ場ではあっても、そこは、地上の、人間としての、祈る場であり、それ以上ではありません。唯一の、人から神への告白の時と場を、人の超常欲求で、けがすことのないように、注意が必要です。
 
*既成宗教
著者は既成宗教については次のような感想をもらしている。
併し八代大将と同じく私にも仏教や基督教には何分『馬鹿らしき事』が多く思はれた。そして其の『馬鹿らしき事』が信仰の礎だと教へられては尚更納得出来なかった。
(同上、pp.204-205)
 」
これについては、某有名作家が仏陀を信じないかのような発言をしていたのを思い出す、人が解脱して仏陀になるなどということが実際にありえようかと。
確かにそう言われてみれば、人が修養して人格を磨くことは可能としても、煩悩から離れ、仏陀になるというのは若干真実味に欠ける。さらには仏陀になれば、千里眼やら何やらの神通力を発揮するとか、過去現在未来の三世を見通せるとか、眉間から光を出して遠い世界を照らし出せるというなら、それはもうファンタジーの世界だろう。仏典にしろ、聖書にしろ、その記述をそのまま事実として信じなければならぬとしたら、大方の現代人にとっては到底無理な話だ。
 
こうやって、楽山は、宗教を引用しながら、人の口を借りて、宗教と信仰をけがしてきました。持ち上げて落とす、その先には何が待っているのでしょう。アドラー教かもしれません。楽山教かもしれません。いずれにせよ、恐ろしい自己中の妄想カルトの世界です。
 
私には八代大将に対する小笠原中将のやうな導師はなかつたが、書物を読んで勉強し、心から尊敬する先輩に親炙して直接その宗教的一面に触れ、且つ自分自身の経験を深く反省して行くうちに、いつとはなく既成宗教の信者になりたいといふ意図がなくなつた。
(同上、p.205)
 」
 これは自分にも分かる。ただ自分の場合、「既成宗教の信者になりたいといふ意図がなくなつた」というより、既成宗教の信者になることができないことがわかったといった方がよさそうだ。既成宗教の教えはどんなに立派でも、どんなに体系化されていても、一定の枠があるし、自分にはどうもその枠内に留まり続けることはできないのだ。
 
楽山は、何も分かっていません。都合がよいから引用しているだけです。既成宗教が、皆、同じで、新しくないという主張は、楽山のような目新しい外面だけを求める輩に見られます。その証拠は、楽山の主張こそ、何の発展性もないまま、同じ主張を繰り返すことに表れています。
 
楽山は、キリスト教について言えば、その枠も、皮も、肉も、骨も、髄も、知ってなどいません。分からないのに、自己中に都合の良いところを取って来ては、楽山の中でだけ固定して、おとしめ、さらに、自分教が一番中立だという主張に持っていこうする下卑た盗人に過ぎません。
 
そういう態度は、他の書籍の引用においても、同様であろうと思われます。つまり信頼度ゼロであり、書物を読んでも、理解が偏って自分寄りの偏向となり、つまり、楽山は、理解できておらず、感じ取ることもないために、自分で軽薄な理屈遊びをしているだけなのです。
 
先日、内村鑑三の『宗教座談』を読んでいたら、神は聖書より大きいということが書いてあったが、おそらくこれは他の宗教についても言えることだ。神はどの宗教よりも大きく、その宗教の枠を超えている。だから特定の宗教の枠からはみ出したからといって、必ずしも神の御心に反するとは限らない。神はすべてを超越しているとすればそうなる。
 
つまり、楽山の主張とは、こういうことなのです。神を讃えているような文言で、結局、宗教は何でもいい、いい加減でいい、枠を超え、つまり、はみ出し者の自分でも、何を言っても正しい、という方向に持ってゆく詭弁です。
 
実際には、楽山は、神の机上の概念として扱い、信じるということの心を台無しにしています。しかも、自分だけでなく、人にも吹聴しているのです。楽山の言ってることは、正反対であり、逆であり、反キリスト性しかないものです。とても悪質です。
 
でも宗教ではこういう考え方はあまり歓迎されないし、その宗教の枠から出たら、神の御心に反する異端とみなされてしまう。これでは枠をあまり気にしない自分のような者は、どこの宗教にも入れてもらえるわけもない。
 
"枠から出る" ということの意味を混乱させる詭弁です。楽山は、自分で宗教の枠を決めつけ、枠を気にしない自分を、超越しているからこそ異端と見なされているところの悲劇のヒーローみたいに言っています。実際には、楽山が、悪意しかなく、非を認めない偽善者だから、アウトなのです。
 
楽山は、自尊過大の自己愛のために、考えること、感じることが、どちらも、偏るばかりで、できなくなっています。その証拠は、楽山の書く文章に、共感性も説得力もないことであります。オモチャのように好きなように書物をもてあそび、徒に、悪用するだけになります。
 
虚心に考へて見れば、人は基督教徒や仏教徒にならずとも、能く人性の宗教的一面を長養することが出来る。その実例を私は八代大将、頭山翁に於て見たのであるが、同様の例は日本及び中国の偉人に於て枚挙に遑ない。
(同上、p.151)
 」
ここは山本七平の語る日本教的な雰囲気が濃厚だ。自身の心を磨く修養が第一であって、そのために役立つなら仏教でも、基督教でも、儒教でも何でも用いるのであって、「絶対に〇〇教でなければならない」と固執するようなことはしないという行き方だ。だから仮に仏教→基督教→儒教と宗旨が変わっても、自己研鑽が第一という根本は変わっていないので本人的には自分の行動に矛盾はなく、平気だということになる。
 
キリスト教と信仰は、自力本願ではないので、修養や自己研鑽が第一ではありません。必要なのは、神の前の正直さだけだということが、聖書を読めば分かります。楽山には、その正直さが皆無であり、嘘と詭弁だらけなので、アウトなのです。
 
楽山は、キリスト教を、自身の心を磨く修養、自己研磨、と言っています。では、自分を磨けない人は救われないのでしょうか。楽山が何も分かっていない証拠です。共感という要素を、楽山自身が持っていないために、こういうことを平気で言うようになります。
 
さらに、楽山こそは、自分を磨いたことが、一度もない人だと思います。楽山の文章に、磨いた跡が、何も見られないからです。楽山は、いつも、安易に、学者気取りで、評論家気取りで、上から見下ろす視線しか持っていないことが表れてきました。ここでも、そうです。
 
ここでも、楽山の都合のよいように、平板で深みのない、固定概念的で、通念的な決めつけが、楽山の文章全体に行き渡っているのです。ここからは、神との個別の関係も、信仰についての個性も生まれようがないのです。
 
実を言えば、自分もこういうタイプだ。だからいろいろな宗教、思想を学ぶことにさして矛盾は感じない。こういう行き方は、特定の宗教や思想を信じ、その枠内に留まることにこだわり、そのために命を懸け、殉教も厭わないタイプからは嫌われるだろうが、自分は宗教や思想の奴隷になるつもりはないのだからこういう立ち位置になるしかない。
 
「宗教、思想を学ぶことにさして矛盾は感じない」・・自己愛者は、いつも、充実しているつもりなので、矛盾を自分に感じることはないのです。だから、宗教は枠のようなものだと決めつけて、枠から自由になったつもりで、実際は、我執という檻の中で暴言を吐いています。
 
楽山は、ただ、いい加減で、自己中で、怠慢で、無反省で、非を認めない人で、にもかかわらず、何でも理解できるつもりで、我こそは客観的とばかり、無理解を自己正当化して、偏見を当てはめ、宗教と信仰一般を、おとしめ、けがす者であります。
 
*奴隷
著者はここにおいて、宗教に対しても自由を放棄しないとしている。
私は書物に対する過度の尊敬から解放された。書物は心の案内者たるべきもので、決して私の心の専制者であつてはならない。私はいかなる学者の奴隷にもならず、自分の自由なる心で宗教を学び且求めねばならぬと思ひ定めた。この道理だけは早くから知つているつもりで居たが、身に沁みて左様でなければならぬと感じたのは遥かに後年のことである。
(同上、p.143)
 」
著者によると、横井小楠は朱子を学ぶといっても朱子の奴隷になってはならぬとしていたらしい。でも著者はこれを知りつつも、カントやヘーゲルの書を読むうちに自らの思考の自由を失いつつあることに気づき、上のように考え直したのだそうだ。
 
楽山は、自分も、この有名人たちと同じだ、という、楽山の、自己愛による、自己の高め方が表れています。そのようなことのために、楽山は、本や名前を利用するのです。楽山の読書は、楽山の高慢に利用されるだけであって、よこしまな動機によって進められてきたのでしょう。
 
だから、楽山の恣意的引用は、全く信用できないのです。書物という心の案内者を、好きなように、我執に合うように、偏向した精神で解釈し、固定し、ゆえに、当然、批判され、何も実のあることを返せない、という醜態に至っています。
 
この話は、江戸時代の儒者が、孔子や孟子が総大将になってシナの軍隊が日本を攻めてきたらどうするかと問われて、日本防衛のために武器をとって戦うと答えたというエピソードを思い出させるものがある。
恥ずかしながら、自分はとある新興宗教の教祖の奴隷になってしまっていたことがあるので、この言葉は身に沁みる。
 
楽山は、自己中、自分信仰の奴隷です。そして、「反省、とほほ」と、言葉だけ言っても、自己顕示欲から、思いつきと嘘と詭弁によって、他者を誘導し、自らに従う奴隷にしようと企む者です。非を認めず、他者のせいにするのが、書いたものに表れ、その証拠となっています。
 
*信仰
信仰については、何を信じるかではなく、どのように信じるかが大切であり、赤子のごとくあるのが理想であるという。
宗教の主眼は何を信心するかではなく、如何に信心するかである。宗教の価値を定めるのは信心の純不純でつり、信心の対象が宗教の高下を測る物尺とはならない。
(同上、p.231)
 」
総ての流れが、末は遂に大海に注ぐやうに、何を信心の対象とするにせよ、若し其の信心が無垢純一でありさへすれば、人は之によつて無限の生命に連なることが出来る。
(同上、p.232)
 」
これは「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」という道歌に通じるものがある。
どんな宗教であれ、まともな人もいれば、おかしな人もいるものだ。
 
おかしな人の代表が、楽山その人であります。自己中に信仰は語れません。
 
カルト信者だからといって必ずしも皆がおかしいとは限らない。同様に社会的に認められている伝統宗教の信者だからといって必ずしも皆がまともとも限らない。思想でも同じようなものであって、右でも左でも、まともな人もいれば、そうでない人もいる。結局のところ、何を信じるかではなく、各人の心の状態こそが大切だということなのだろう。
 
人間は、いつも、不完全ですから、皆が・・とは限らない、と言えるでしょう。しかし、このことは、何でもいい・・ということにはなりません。心の状態として、楽山は、悪であり、闇であり、偽善であり、信仰から最も遠い性質だけを表してきたのです。
 
つまり、楽山は、信じるかではなく、何でもいい、いい加減でいい、それが正しい、自分は正しい、と言っているのですが、本人だけは気づかないのです。おかしいかどうか、許容可能かどうか、信じるに足るか、これは、心に受けたことから、個人が判断することです。
 
"心の状態が大切" というだけでは語れるものではない、ということさえ、何も受けていない楽山には、分からないのです。きれいごとを、いくら、並べても、変わりはしません。自己正当化だけで、反省もせず、責任も負わないところには、正常な心は育ちません。
 
信仰は、目に見えません。必要なら、言動から判断するしかありません。楽山は、キリスト信仰を知りません。書いてあることが、幼稚で、デタラメということから判断しています。その根底に、このような、危険な政治思想というものがあるわけです。
 
イデオロギーは心の面倒を見ない。
 
何を信じるかにこだわる人は、ようするに自分の宗教を宣伝したい、押し付けたいからなのだろうと思う。
 
何でもいい、という、いい加減さに、こだわる楽山は、要するに自分が一番!バランスが取れているから!正しいんだ!と、宣伝したいだけなのだろうと思います。ちなみに、宗教は、自分のものではありません。信仰のために与えられるものです。楽山に、それが無いだけです。
 
 
無思考はこだわらない

無思考はこだわらない
 
 
(2021年07月24日、再録+加筆)
 
 
 
  私の耳は
 
貝殻を耳に当ててごらん
音が聞こえるだろう
貝殻を離してごらん
やっぱり聞こえるだろう
それが耳鳴りです
 
その音に
傷つくか傷つけるか
あまり良いことのない意味が
加わると幻聴ということになる
夜独り横たわっていると
静寂は
果てしなく広がり
大きくなる耳鳴りを与えてくれる
 
でも意味はない
まだ意味がないから
慌てることもなく
暴れもせずにいられる
かというと
そうでもなくて寝返りを打ったり
独り言を呟いたり内語(ないご)したり
眠れずに叫びたくなることもある
 
そんなときだ
叫びになりたい
その一方で
果てしなく広がる
樹海の土に憧れたりする
今度生まれてくるときは
・・・・・・
生まれてこないほうがいいのか
やっぱり人間に生まれたいのか
あまり良いことのなかった年月だけど
何故か無意味に拘(こだわ)って
貝殻の日々を送りながら
耳を澄ましているうちに
耳鳴りは体の一部のように
気にならなくなるんだ
 
(2000年代か)
 
 
 
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  だだもれ楽山
 
 『吉田松陰の留魂録』紀平正美著
 2021年07月07日 楽山日記(LD)
 
 
聖書もろくに読まないし、曲解しか出来ないのに、やはりいつものように、有名人の書いたことを、またいつものように、都合のよいところだけ引用して、こんな本も読んだんだぞ・・と自慢してくる読書家気取りしかなれず、ついに、大事なことだけは学ばずに、凝り固まってゆくのでしょう。
 
*積読本発掘
本書はいつどこで購入したのかは覚えてないのだが、我家の積読コーナーで見つけたので引っ張り出してみた。大きさは文庫サイズで、本文と巻末の付録を合わせても143頁の小さな本である。前半は松陰の生涯とその時代についての説明、後半は留魂録とその註釈という構成となっている。奥付によると、昭和18年第7刷(初版昭和15年)とある。
全体を通読してみたところ、自分は次の三点に強く興味をひかれた。
 
楽山の「興味をひかれた」というのは、都合がよかったということです。公平に中立に読み取っていないことは、本の記事の漁り方、その感想の書き方に、哀れなほど、滲み出てきたのです。それで、文章を書くことが面倒になっているのでしょうか。
 
そして、写真を出すということは、読んで自分で感想文を書くのが面倒くさいからでしょう。ほれ、証拠の写真じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。見たという写真と、読んだという文章が、まるで、一致してこなかった楽山の怠慢と欠陥が、同時に表れています。
 
*松陰とイエス
まず一つ目は松陰とイエスとを並べて論じているくだりである。これは意外な組み合わせにも思えるが、一読してみるとたしかにこういう見方も可能かもしれぬ。
DSCN2974 松陰とイエス
 
「たしかにこういう見方も可能かもしれぬ」・・楽山の、いい加減な心性がむき出しになります。「たしかに」で、どうして、「かもしれぬ」なのでしょう。写真を出して、証拠あるから嘘じゃないと言うつもりなら、写真だけ出して済ませるという無理解と作文嫌いが出てしまいます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 
 (マタイ27:46、新約聖書)
 
神と人の関係において、人は、神に見捨てられたかのように死んでゆく、という預言かもしれず、また、それ以上に、苦難と悲しみの、これ以上ない共感を、キリストが、自らの心と体で、示している聖句であります。
 
*天皇
二つ目は天皇に随順することについての記述である。自分にはよく分からぬ論理ではあるが、考え方の筋道はどうにかして理解したいとは思う。
DSCN2975 天皇
 
「よく分からぬ論理」と書きながら「どうにかして理解したいとは思う」と書いて、どう理解したのでしょう。また、再度、熟読するつもりでしょうか、積読処理だから、違うと思います。できない・しないことを、まともに見せかける体質が、ガス漏れしているのです。だから、臭い。
 
*至誠と言葉
三つ目は「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり)」という言葉である。松陰はこの言葉に突き動かされてあのような生涯を送ったのだとすると、言葉というものはやはり非常に大きな力を持っているということだろう。
 
「言葉というものはやはり非常に大きな力を持っている」ということが要旨でしょうか?・・違うと思います。言うだけではなく、行動することの大切さを述べているのではないでしょうか。なのに、言葉のほうを取るのでしょうか。ズレまくってはいないでしょうか。
 
残念なことに、自分の言葉はどうしようもないほど軽いのではあるが、今後はもっと言葉を大切にしたいと思う。また前に読書を中断したままになっている『講孟箚記』ももう一度はじめから読み返してみたい。
 
「自分の言葉はどうしようもないほど軽い」「もっと言葉を大切にしたい」・・おかしなところを、きれいごとでごまかす、という楽山の、いい加減な筆致と体質と人生が、だだ漏れしています。楽山の自己愛性・自己中体質では、何度読んでも一緒だろうと思います。
 
このように、本から、都合のよい文言を引っ張り出して、自分に都合のよいように、利用~悪用する体質であることは今までに明らかになっていますから、今後も、嘘八百の詭弁と自分飾りが続くだろうと思います。
 
書いて、批判されて、また書いて、また滑る楽山です。こういう生業を、恐らく、一生続けることになるのでしょう。しかも、それを、丁寧語で、言いふらして、ある程度、受け入れられてきたようですから、体質的な災いの恐ろしさを思います。
 
自分で書いて自分で矛盾を深める、言い訳しようとして失言を重ねる、こういうことは、ある程度、経験している人もいるだろうとは思います。私もそうです。問題なのは、楽山において、それが常態で、矛盾や失言を気にする心が無いのです。どうか、楽山に近づかないでください。
 
 
だだ漏れ

だだ漏れ
 
 
(2021年07月08日)
 
 
 本当のことは言われたくない?(信者が逆ギレする理由)
 2021年07月07日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
楽山はこの記事をツイッターで宣伝していますが・・
https://twitter.com/komo266/status/1412525692760125443
どこまで嘘が通用すると思っているのでしょう。
批判されることを、相手の逆切れだと罵りたいのでしょうか。
 
 
楽山は、都合のいいこと以外、何も思い出さない人です。楽山は、例えば信仰など、本当のこと、即ち、真実を、何一つ理解できず、ごまかすために、嘘を吐き、詭弁で通そうとする人です。世辞と空想が大好きで、本当のことを、いちばん、言われたくないのが、楽山です。
 
*思い出した
前記事を書きながら、思い出したことがあるのでメモしとく。
*一つ目
もう大分前のことになるが、宏洋氏が「HSでは何でも大川隆法と同じに考えなければならない」という主旨の批判をしたときに、HSはそんなことはないと猛反論していたのだった。「HSは自由な団体だから、そういう全体主義のようなことはしない」云々と。
HSは常日頃から、大川隆法の考えに自らを合わせるべきことを繰り返し説いているのに、それをそのまま言われたら激しい拒否反応を起こしたわけである。
 
楽山とは、決して自由な議論は成り立ちません。徹底した利己主義・自己中心です。人のことを言えば、同じことを、自分が言われることを、全く理解しない体質的欠陥者です。霊能者気取りの、のぼせ感覚で、独裁を夢想~妄想しているのかもしれません。丁寧語にだまされないでください。
 
*二つ目
また先日はツイッター上にて、アンチ側が「信者は大川隆法を絶対視している」と指摘した際に、信者側からそんなことはないという猛抗議があり、プチ炎上したのだった。
いつもいつも、「大川隆法は正しい、異論は認めない」という類の発言を繰り返しているにもかかわらず、大川隆法を絶対視していると言われたら感情的になる信者が続出したのだ。
 
いつもいつも、物わかりのよさそうな言い方をしながら、疑問・批判を向けたら、途端に、被害者面をして、さらに無視してくるのが楽山です。批判者に対しては、悪口を返すか、無視してきます。どちらにしても、対話が全く成り立ちません。わがままと怨念だけで出来ているような人です。
 
反対を言い、賛成を言って、断定していないから責任はない、という言い分でした。反対したら反対した責任が、賛成したら賛成した責任が付いてくることさえ分かっていないのです。駄々をこねる小学生レベルですから、話し合おうなどとは思わないでください。精神衛生を害されます。
 
*逆ギレの理由
このあたりをみると、HSとその信者は鏡を見ないのかなと疑問に思うし、もしかしたら内心では自分たちの信仰のあり方はどこかおかしいと薄々気づきつつもそれを認められず抑圧しようとしているから、そのことを明確な言葉で指摘されるのが嫌なのかもしれないとも思えてくる。的外れな批判には失笑するだけで腹を立てることはなくとも、的確な批判で図星を指されたときは大きく動揺させられ激怒するのはよくあることなので…。
 
楽山が、いかなる批判にも反応しないのは、高等感情がないのだろうと思います。つまり、罪悪感や羞恥心などがないのでしょう。だから、何か言っても、聞かなかったことに出来るのです。自己愛性人格障害だと思います。真面目に言ったこと、楽山は笑ってると思ったほうがよいです。
 
賛同意見は、中身ではなく、賛同だから歓迎します。人間としての深みがなく、自己顕示欲に忠実で、そこからの、無反省・無責任が、密着・固着しています。この男、何を言っても無駄、何を聞いても無駄、ということを少しでも周知するために批判を続けています。
 
お節介で申し訳ないが、上の批判にキーッとなる信者さんは、この点についてよく考えてみても損はあるまいと思う。
 
このように、アドバイスをしたがります。自分は、心配ない人で、分かっている人で、君らの上にいるのですアピールをしてきます。同じ地平に立つことのできない、思い上がりがとても醜い、哀れな、病的ナルシストなのです。よく読めば、文章は拙劣で、言い放って終わりとなります。
 
上から忠告することが、楽山にとって唯一の快感なので、「お節介で申し訳ない」などとは、全く思っていません。中身の伴わない世辞を、真に受けないでください。学者気取り、評論家気取り、インテリ気取り、霊能者気取り、など、すべて、気取りだけで出来ている人です。
 
こういう楽山に対しては、楽山が人の言うことを無視するように、こちらも、批判者以外は、楽山を徹底して否定し無視するしかないのです。中身のあることは、いっさい言えない人ですから、一人前以上だと独り思い込んでいる孤独で哀れな人が、また言ってる・・と思ってください。
 
楽山は、迷惑極まりない、一つの、口と悪意周辺の、現象に過ぎません。双方向で成長可能な人格として成り立っていません。楽山は、他者の言を平気で捨てますから、こちらも、楽山の言を捨てる以外ないと思います。
 
楽山にとっては、ヒューマニズムによって同情されることが、何よりの好物なのです。婉曲ボンヤリ言語と、嘘の謙虚芝居トホホ言語に、だまされないでください。いかなる知性と情性をもって生まれてきたとしても、生まれ育って、責任と反省力を捨てた人は、人間を捨てた人なのです。
 
 
(2021年07月08日)
 
 
 
  挫折
 
捻(ねじ)れた火の玉である
守ろうとすればするほど
疼(うず)いて返される炎である
誰からとも知れず無作為に
ばらまかれる如何(いかが)わしいメールを
送られてくるたびに削除する程度の
勇気があればよいのだ
 
飛ぶこともできず枝の上で
跳ねているだけの手負いか病の小鳥の
指で抓(つま)んでも折れてしまいそうな
脚(あし)よりも細く
垂れて弛(たる)んでいる脂肪の中に
隠れている細い筋に
頼るほどに倒れそうな歩みのうちに
まるで罪滅ぼしでもするかのように
罪を滅ぼすことなどできない
と分かっているのに
今は自らの踝(くるぶし)を
挫(くじ)けるだけ挫いている
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。
 
 
 
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