ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  自己愛の偏向
 
 公平とはどういうことだろう?(批判者の存在価値)
 2023年01月17日 幸福の科学とは何だろう?
   などと言う白々しい凶悪犯、楽山を批判。
 
 
ふてぶてしく厚かましい楽山が、また書いてきました。罪悪感も良心も持っていない証拠です。たとえば、恥ずかしいとか、まずいことをしたとかを、全く考えない、感じない、訂正不能の自己中サイコパスの生存方法なのでしょうか。犯罪者楽山を、このまま許してはいけません。
 
新年になっって早々に、人のPCを妨害・破壊してきたネット犯罪者の楽山に、公平を語る資格はありません。騙されないでください。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、サイコパスです。良心も罪悪感も持たない異常者です。騙されないでください。
 
楽山の詭弁が全開のようです。一言も成立せず、人格未熟の悪あがきだけが見苦しい楽山です。こういうインテリ気取りの虚言癖を真に受けると、共に人格の鈍麻~破壊に向かう可能性もあるので、決して関わらないでください。病識もなく他者の人格を平気で破壊する変態です。
 
 
*まえおき
 先日、公平について考えさせられる出来事があった。
 これは大切なことだと思うので、自分の考えをここにメモしておきたい。頭の中で考えただけでは、すぐ忘れてしまうので…。
 
「忘れてしまう」というのは本当です。楽山は、自分の罪も悪も都合の悪いことは、すべて忘れてしまうか、無視します。そして三文芝居で善人を気取ります。すべて悪意によるもです。実際は、無視して、平気でいられるほどの自己中の病質なのです。無反省で無責任です。成長できない人なのです。
 
 
*えこひいき
 まず自分が、公平について強く意識するようになったのは、小学生時代だった。教室内では「先生は優等生をえこひいきしてる」という声があって、私もそのように考えていたのだった。
 
楽山は自分だけを依怙贔屓(えこひいき)して、自己正当化をしてきますが、嘘だらけの弁明、成り立つことはありません。自分を省みて反省することがなく、全て人のせいにします。恐らく子供の頃から問題を起こしてきたと思われます。楽山の言うことは、全て三文役者の芝居です。
 
 
*偏向マスコミ
 次は青年時代である。政治に興味を持ち始める年頃になると、マスコミの偏向がやたらと気になりだし、テレビ、新聞を見る度に、いつも腹を立てていたのだった。
 
楽山の政治思想は、右翼、ネトウヨです。A級戦犯を讃える男です。民主主義を嫌い、さらに、何主義でもなく、利己に凝り固まって、知性も、感性も、育て損なった病質者です。全ての良心を、危険な思想に陥れることが、楽山の快感となります。真実追求の議論からら追放されるべき人です。
 
 
「マスコミに中立公正な報道を期待しても仕方がないのではないか。そもそも人には中立公正な判断なんてできないのだ。それならマスコミ各社がそれぞれどういう理念によって判断していのか旗幟鮮明にして報道するのならそれでよしとすべきではないか。仮に一社の報道が偏向していても、さまざまなマスコミの報道を確認、比較するなら、その偏りに惑わされる危険は少なくなるだろう。実際多くの人はそれを実践しているだろう」云々。
 
「中立公正な報道を期待しても仕方がない」・・自分の自己中を正当化する詭弁の誘導です。楽山には、旗幟(きし、のぼり、立場)などありません。詭弁、刷り込み、印象操作などによって、人を操って、満悦する変態です。決して真に受けないでください。約4年、批判を続けています。
 
 
*ブログの方針
この考え方は、いまでも有効だと思っていて、当該ブログもその立場で書いている。「一つのテーマについて、自分は自分の意見を書く。自分自身は公平中立な意見を述べているつもりでも、おそらく偏りはあるだろう。けれども仮に意見に偏りがあったとしても、同じテーマについて他の人は異なる意見を書くだろうから、それによって偏りは無効化されるのでさほど問題にはなるまい。むしろ多少の偏りがあった方が、意見の多様性という観点からはプラスになるだろう」と。
 
「自分は自分の意見を書く」「異なる意見」「偏りは無効化される」と言っていますが、楽山の魂胆は、印象操作であります。印象は残るので、無効化は、されません。好き勝手に発言していい理由にはなりません。こういう詭弁の自己正当化を成り立たせてはいけないのです。
 
「多少の偏り」ではありません。洗脳に近いものです。楽山は、そういうやり方で、キリスト教を否定したことから、ペテンがバレてきました。言ったら、言いっぱなしで、反省もせず、責任も負う気ももない、言論失格のサイコパスなのです。決して関わらないでください。
 
 
*批判の必要性
ちなみに上の考え方は、少し視点を変えると、こうも言える。「仮に、Aという宗教団体が存在したとすると、A教団は自分たちの正統性を主張し、信者もそれに同調するだろう。こういう状態は、いわばA教団について肯定的情報だけが流れている偏った状態である。これを是正するにはA教団について否定的情報もあった方がよい。A教団にとって、肯定的、否定的どちらの情報も存在してこそ、中立公正な判断が可能となり、社会全体の利益にもなる。このためには信者ブログとアンチブログは、どちらも必要である」云々。
 
賛否はあったほうがよいが言ったことには責任が伴う、という常識が欠損している、ある種の発達障害であり、人格が自己の思いつきが固定した妄想レベルのままなのです。Aとか書いても無駄なのです。何ごとにつけ、学習と成長が見られないまま、大人のつもりだけの、理路未発達の偏向者が楽山です。
 
 
教団にとっても、信者にとっても、アンチは煙たい存在かもしれないが、教団に興味を持った人が、さまざまな情報を得て、多角的視点から判断できるようになるためには、それは必要なのだと思う。おそらくはアンチの存在価値はここにある。
 
楽山は、アンチではありません。ネットにおける精神の詐欺師です。あらゆる宗教と思想の敵です。自己の妄想的な悦楽を求めるだけの未熟者~破綻者です。笑いと怒りの感情はあるが、しんみり悲しんで反省する心を持たない精神の病質です。
 
 
*両論併記
 次に、両論併記について書いてみたい。
 自分は公平性の担保のためには、両論併記が必要だと考えてきたのだけれども、それとは違う考え方もあるようだ。
マスコミが一つの問題に対し、必ず賛否両論を併記するのは中立性を担保するための免罪符であり、同時に自分たちの本音を隠す手段でもある。社会に多様な声があるのは当たり前だが、一つのニュースに対する市民の賛否両論の分量は、つねに同じではない。これに対し、マスコミが各種の声にほぼ均等なスペースを割く慣習は、かえって不公平だ。
〈省略〉
第一歩として、まずは賛否両論を併記して中立を装う慣習を改めよう。責任を持って堂々と自分たちの考えを主張するジャーナリズムに生まれ変わってこそ、オピニオンリーダーとしての誇りを維持することが出来るのだ。
 
楽山は勝手に物が言いたいだけです。賛否両論の中に、嘘や詭弁が入ってはいけないのです。さらに、楽山と議論してはいけません。楽山は、思想家気取り、宗教家気取りで、自分を立派に見せたいという自己顕示欲しか持っていません。得意なのは、話を逸らして相手を混乱させる悪趣味だけなのです。
 
 
・日本のマスコミの両論併記の慣習はガラパゴス - JICA
ファクトに基づいているのはどちらか、そもそも並列にしていい性質のものなのか。
そう問いかけることは、必ず君の判断の手助けになるはずだ。フェイクニュース時代を生き抜くために、ぜひそんな習慣をつけてほしいと思う。 
 
楽山の意見は、成り立たない嘘と詭弁がメインで、そこを、気取りと丁寧語でごまかして、柔和を装ってきます。批判しても、言い方を変えてごまかします。議論など、出来ない、成立しない人なのです。気取りの筆致に騙されないでください。
 
 
・松原 耕二 - 第13回“両論併記の罠”に気をつけよう
どこかで、「カルトを批判するのに、いちいちカルトの意見なんか紹介する必要はない」という趣旨の発言を読んだ記憶があるのだが、上の文章を読むと、どうもこれにも一理あるように思えてきた。
カルトは違法行為や人権侵害を行うからカルトなのである。それを批判するのに、いちいち違法行為や人権侵害を正当化するカルトの屁理屈を宣伝する義務はあるまい。
 
楽山の意見をまともに読んではいけません。誰かが言いそうなことや、当たり前のことしか言えない人で、そこを、まともそうに、持論であるかのように、ねじ曲げてきます。正体が分かると、いかに徒労だったが分かり、異常な疲労を感じます。経験済みです。楽山は、無視するしかない病質者です。
 
 
とはいえ、根がどこまでも臆病にできている自分は、それでもやはり意見を主張するときには、反対意見も紹介しておかないと何となく気が引けてしまうのではあるが、この問題についてはもう少しゆっくり時間をかけて考えてみたいと思う。
 
また嘘を吐いています。楽山は、臆病どころか、誰よりも厚かましく傲慢な人格で、知情意が発達しておらず、まともに考えることも整えることも出来ない人です。その分、妄想や思いつきで、ごまかして、悪意で騙して、まともに見せかけようとするのです。
 
 
凶悪

凶悪
 
 
(2023年01月18日)
 
 
 
   (抜粋)
 
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
 
ちぎれてゆく紙の音
震え過ぎた紙の声
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が
神の声にも聞こえよう
 
人格の崩れゆくとき
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
 
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
白々しい詭弁で
キレイごとを書いてくる
 
サイコパスは居直る
 
どこまでも悪臭のゲロが
まだ物を言う
 
二目と見られぬ不感の貧相は
自らの腐敗を誇るほどに
心の失せてゆくままに
 
気づかないまま
また顔を出してくる
 
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山の詭弁明2
 
 通知があったので見てみたけれど…
 (st問題を振り返る)
 2022年01月02日 楽山日記
  を改めて批判。
 
犯罪者楽山の被害は継続中です。相変わらずキーボードは打っても何も反応しません。スクリーンキーボ-ドで書いています。画面上の絵のキーをマウスでクリックします。片手操作なので遅くなります。画面の作業エリアは狭くなります。その分、楽山を赦さない気持ちが強くなります。
 
楽山は、人が困るのを見て、ニヤニヤ笑っているような筆致で書いてきます。その印象は、浮いてくる軽さであり、それは実感の無さでもあります。言葉だけ専門用語を好むようです。評論家気取り、丁寧語、世辞とか、論理に見せかけった迷路という罠もあります。得るものは何もありません。
 
それにしても楽山はどうするのでしょう。人のPC壊しておいて、逃げ続けるつもりでしょうか。いつまでも壊したままなら、私は、ことあるごとに犯罪者楽山の名前を出して、恨みを込めて、ことの次第を何度も話すでしょう。そうすると楽山の罪は、未解決の永遠の放屁になります。
 
 
楽山は時々やることですが、ブログ記事は長ければよいということではないという典型です。それと、私に問題があると固定しているので、st問題と言っていますが、私は、犯罪者楽山問題として、楽山を批判し否定し続け、楽山に近づかないように、読者に訴えてゆくわけです。
 
キリスト信仰は、論理で語れるものではありません。ああだこうだの辻褄合わせは醜いだけです。聖書を読んで、神とキリストを主と仰ぐ気になるかどうかです。しかも、完成するのではなく、信仰者として、人間として、学び、成長する道を知ることなのです。その深みを、楽山は全く知りません。
 
ブログとツイッターなど、楽山のネット活動は、誰にとっても、益はないのに、丁寧語や詭弁や謙虚芝居によって刷り込んで誘導してきます。真面目な人が読んで理解しようとして、楽山と遣り取りなどすると、トラウマになりそうなくらい病的な疲労を与えられるでしょう。関わらないでください。
 
 
*通知
ツイッターを見ていると、時々、st氏から通知が入る。
どうやら、コピペする時に「@komo266」の文字までしてるせいらしい。
 
「文字までしてる」・・意味不明。私からの「通知が入る」と勘違いしているのか。メールやコメントは書いていないし、楽山との双方向など、とうに禁忌です。楽山から直接のメールやコメントや、通知?が来ても、私は記事に書いて返すでしょう。悪い風評でも流したいのでしょうか。
 
楽山は、だんだん現実検討能力も低下しているようです。実感がなくなって離人症になりつつあるのでしょうか。それにしては、楽山の悪意は、嘘と詭弁とともに、治まることがありません。成り立たないのに、深みも成長もないことを書いてきます。ハッとすることのない、だらけた文章です。
 
通知?・・私は書いているだけで、通知?とか、するやり方を知りません。書いて公開しているだけです。ツイート自体を言っているのでしょうか、それは、ブログと同じく、私が気遣うことではありません。私の批判は、ブログが先で、メインです。ツイッターは、ほぼブログのコピペです。
 
ブログやツイッターの「@komo266」については、楽山のツイッターからコピペして書くこともあり、ツイートの文字数の関係で省略することもあります。楽山には、サーバーから通知でも来るのでしょうか。こちらからサーバーに何か要請はしていません。
 
理由を知りませんが、楽山は、3つの中のツイッターの一つをブロックされているようです。注意・警告・ブロックなのでしょうか。もし、サーバーからの警告であるならば、私は、「@komo266」を、できるだけ、入れるようにしたいと思います。
 
 
*st問題を振り返る
通知が入ったので、ひさしぶりにこの問題の発端を思い出した。
st氏から楽山日記にコメントがあり、話をするようになった
 
およそ3~4年前の、数か月の遣り取りがあったという話です。楽山は、相手の意見を考えて反論弁明するのではなく、無視して、嘘と詭弁を弄する人です。しかも、理解者を装う書き方をしてくるので騙されないように、関わらないようにしてください。数か月、私は騙されていたのです。
 
楽山の、分かっているような言い方と態度を真に受けないでください。上からの雑言なので、以前、とても異常な言い知れぬ疲労を覚えました。病質と直接の遣り取りをすると、異常な疲労を受け取ることになります。楽山には本気も誠意もありません。
 
楽山は、双方向の、議論、遣り取り、意見交換の出来ない人です。宗教についても、意見交換するのではなく、神不在の結論から組み立ててくるので、議論は成り立たず、疲労だけが積み重なります。それより悪いのは、信仰を全く知らないのに、神と信仰について知ったかぶりをする自己中であります。
 
 
st氏のシャローム批判を読んで、シャロームは悪い人だと思った
この後、シャローム氏とも話をするようになり、st氏がいうほど悪い人ではないと分かった
私がシャローム氏と仲良くしていたら、st氏は、シャロームと話をするな、話をするならシャロームの仲間として批判すると言い出した
こうしてみると、つくづくst氏は気の毒な人だと思う。
 
シャロームshalomは、楽山と同じ自己中であり、偽牧師です。の立場に立ち、同じような丁寧語を使って、上から決めつけてきます。ゆえに、今も、楽山の成りすましではないかと疑っているわけです。楽山は、三文芝居好きの大根役者です。
 
相手を、さんざん、おとしめて、「気の毒」と哀れみ言葉を書いてくるのは、傲慢からの軽蔑の常套手段であろうと思います。まだ通用すると思ってる・・。学習と成長がない者は、同じことを繰り返して自らの堕落と怠慢を表します。・・バレてるのに、よく書いてくるものです。
 
 
*同一人物?
 通知ついでにツイートを見てみると、どうやら最近は佐倉哲氏と楽山は同一人物だと疑っているらしい。<
 
ブログ記事に書いて、それをツイッターにコピペしています。シャロームについても同様ですが、佐倉哲と楽山は筆致と理路の欠陥が、よく似ているので、同一人物の成りすましをを疑っています。狂ったネットマニアの楽山は、他にも成りすましが多いのではないかと思います。
 
 
なぜそんなことを考えるのだろうか。佐倉哲氏の知力も人物も、楽山より遥かに上なのは誰の目にも明らかだろうに。
 
佐倉哲を褒めていますが、都合のよい人をベタ褒めするのは楽山の常套手段です。成りすましなら自分を褒めていることになります。佐倉氏が言っているのは、楽山とほぼ同じの幼稚な屁理屈です。佐倉氏のプロフィールは、どこにあるのでしょう。あっても、あの文章では、全く信用は出来ませんが。
 
 
*的外れ
st氏は相変わらず的外れなことばかり書いてる。
佐倉哲氏は事実と論理によって意見を述べている。だからこれを批判するには、まず事実誤認や論理破綻を指摘することが肝要である。
これをせずに事実や論理を脇にどけて、自らの信仰観を開陳したところで的外れで、独りよがりなものにしかならない。事実と論理による議論と、好き嫌い、信じる信じないということは別の話なのだ。
 
「事実と論理によって」・・二千年前の宗教的事実は、確定できず、永遠に不明です。それは、話として、人の生ける糧(かて)になるか、その説得力があるか、という判断の理路になります。楽山も佐倉哲も、キリスト教を理解しているとは思えず、説得力は皆無です。子供の屁理屈遊びのようです。
 
楽山は何を言っているのでしょう。信仰は、キリストを好きにならないと成り立ちません。事実や論理だけでは決して表せません。「事実誤認や論理破綻を指摘する」だけでは信仰の肯定にも否定にもなりません。そういう主張は、有害無益かつ甚だ迷惑です。何にも分かっていない人の言です。
 
 
*分からないということ
st氏は、人には神や聖書のことは分からないと言いつつ、佐倉哲氏の神や聖書に関する判断は間違っていると言うことに何の矛盾も感じないようだ。
 
佐倉氏と楽山は似ていて、聖書の入り口で、既に大きく間違っているからです。楽山には、心の真実を受け取る器がありません。成長が止まっているために、小学生のような辻褄合わせしか考えられず、人間ならば持っている共感性も罪悪感もないのです。だから人間の言葉として成り立ちません。
 
信仰は、神を希望として、キリストの共感に支えられて生きることです。事実や論理で語れるものではありません。事実や論理を必須とするのは、大方、カルト的な思考しか持たず、感性の鈍い人か妄想家に過ぎません。楽山と佐倉哲は、教条だけ知ってるつもり?の人です。関わってはいけません。
 
普通に考えれば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、st氏にも神や聖書のことは分からないことになり、佐倉哲氏が神や聖書について何を書いたところで、その正誤は判断できないという結論になるだろう。
 
私が、分からないといったのを、何も分からない全否定だと決めつける詭弁です。聖書は、神の関わる書として、人が全てを理解するのではなく、そこから生きる糧を見つけるために読むのです。楽山は、心が無いゆえに何も受け取ることがないので、神と宗教について何も書くべきではありません。
 
こういうところを見ても、楽山は、読書が出来ない人だと思います。だから、これも、あれも、読んだ読んだと、都合のよい字面を漁っては引用して箔をつけたいのでしょう。そして、ますます、学習も成長も出来ない自分を表してゆきます。
 
 
またさらに踏み込んで言えば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、「人には神や聖書のことは分からない」ということさえも分かるはずがないことになる。つまり「人には神や聖書のことは分からない」ということは、それ自体が矛盾しているのだ。
 
楽山のような、全と部分を混同する気取りだけの詭弁屋は、命題として表層を取り上げて得意になりますが、聖書理解は、人間として、良き訪れ(福音)受け取ることです。したがって、ここで、楽山の辻褄理解と、聖書の命の理解が、全く別物だということです。楽山の悲惨な屁理屈です。
 
 
st氏はこういうことをすっ飛ばして、神や聖書のことは分からないものだとしつつ、佐倉哲氏など他人の神や聖書についての判断は間違っていると批判するのだからおかしい。
 
私がすっ飛ばしているのではなく、楽山が大事なことを、楽山の我執に従って、間違った受け取り方で、間違った否定を、間違った妄想として書いているに過ぎません。こういう屁理屈を相手にしていると、病的な人格破壊へ向かう疲労を味わうことになります。どこまで執拗な害毒なのでしょう。
 
 
*心象風景
st氏には、この世には良心のない人がいっぱいいるように見えているらしい。こういう考え方をしているのであれば、被害妄想が強いのも仕方ないのかもしれないなと思う。
 
「良心のない人」は人格障害からの少数の悪です。楽山は、良心未発達の自覚がないことが表れています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。「この世には良心のない人がいっぱいいる」のではなく楽山に良心がないのです。一般化の詭弁で理路が破綻しています。
 
 
*願望
これは、st氏がどういう願望を持っているかが、よく分かるツイートだ。
st氏は自身のことを「単一の信仰者」としていることからすると、これは願望だけでなく、独りぼっちで孤立している自身の投影もあるのだろう。
 
こういう侮辱で傷つけようとする楽山の悪意です。私は「独りぼっちで孤立してい」ます。しかし、楽山の、この発言は、孤独に生きる人への侮辱です。しかも、私の言論が、その投影だと言っています。心理学の用語を、気安く使って、人を見下しながら、楽山は、自らの墓穴を掘ってゆきます。
 
 
また、st氏は上の文章のように、ちょいちょいおかしな文章を書いている。以前は、意図的に詩的に凝った書き方をしているのだろうと善意に解釈していたけれども、改めてこの手の文章を見てみるとどうもそんな単純なことではないかもしれないな。
 
例示できないですね。詩は好きだから書きます。楽山は、感傷的な詩を書いていましたが、感性を鍛える学習をしていないので読めたものではなかったです。なのに、身の程を弁えず、思いやりもないために、他者すなわち私の詩をけなしています。楽山は、書けば、ほぼ全部、おかしな文脈になります。
 
 
*現実
st氏はまた的外れなことを書いている。正解はこうだ。
×「長期に渡って批判されても平気なのはおかしい」
○「長期に渡って誹謗中傷され続けたら、その異常性には誰だって気付くし、無視するようになるのは当たり前だ」
 
批判と誹謗中傷を同一視する詭弁です。批判を無視するのが当たり前だと言っています。楽山は、自分の言う通りでないと、誹謗中傷と見なして、無視が当たり前、と思って生きてきたのでしょう。ならば、従わない人を、ことごとく悪と見なすわけだから、もはや頭がおかしいとしか思えません。
 
箇条書きと、○×で、理屈を並べて、私からの批判を、誹謗中傷と印象付けたい楽山です。こういう自己愛からの無理解だから、私の批判は、楽山を変えるためではありません。
 
楽山という変質者に、誰も近づかないように、楽山の偽善と詭弁の有り様を、ずっと書いています。
 
 
ところで、マリア氏はこの間こんなことを書いていた。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。
 
楽山は、対立すると、他者の言を借りてでも、おとしめてきます。私は、楽山に相手にされることなど、とうに諦めています。楽山の独り相撲に、決して付き合わないように、一般に、また特に、クリスチャンに、呼びかけたいのです。けっして、楽山を、相手にしてはいけないと言うためです。
 
 
(まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋)
ヤフーブログ時代を振り返れば、とあるクリスチャン氏やmine氏のようにコメントにはすべて返信する人であっても、st氏のことはスルーしていただろう。易坊氏、こうさん氏、ヨシュア氏など、st氏と議論した人たちであっても、みんな去って行っただろう。
st氏はもういい加減、現実に気付いてもいい頃ではなかろうか。
 
自称マグダラマリアと自称ヨシュアは、キリスト教に似せた偽クリスチャンのカルトです。神の教えを守って完全になるという真逆の勘違いがありました。呪いをかけたつもりで、あと何日..とか言う人です。易坊は荒らしです。こうさんも荒らしです。私のヤフーブログを荒らしてきました。
 
こういう人たちも、楽山の成りすましの可能性があるのです。根拠は、みな自己中発言~暴言しか言えないからです。保身のために、神もキリストも利用して、命懸けみたいな白々しい筆致で大仰なことを書くこともあります。
 
いくら、返しても、返す文章に、書くたびに、自己中が表れていること、楽山は、気づかないのでしょう。他者のことを言っても、自分を振り返ることのない病質者の特徴です。こういう筆致、そして、この現実、楽山だけは、気づかないのです。人格障害というのは悲惨です。
 
 
*自己愛
ところでst氏の自己愛の強さは、ツイッターをチラ見しただけですぐ分かる。
ブログ更新のお知らせをツイッターで流すだけならまだしも、st氏は自己のブログ記事をツイッターにコピペして、拡散、保存している。一回だけならまだしも、記事更新のたびにそんなことを繰り返しているようだ。しかも長文記事をそうしてる。よほど自分が大好きなのだろう。
 
邪悪で哀れな自己中である楽山の情報を敷衍(ふえん)したいのだから、ブログからツイッターにコピペしています。拡散したいのです。楽山に何を責める正当性があるというのでしょう。ここにも、全ての規範を自己愛性人格障害の視野からしか判断できない楽山が表れています。
 
 
そういえば、st氏はシャローム氏からコメント削除されたことを、何年にもわたって怒り続けていたのだった。論争中にコメント削除されたら怒るのも無理はないけれども、何年にもわたって怒り続けるとしたらそれは病的にすぎるだろう。
 
大事な発言について、応答せず、承認せず、削除するのは、大いに、信頼を失わせることになります。論争中ならよくて、長期にわたるのは悪い、という性質の違いはありません。楽山は、こちらを「病的」だと言っています。自分が言われそうなことを相手に向けるのは、楽山とシャロームの常套手段です。
 
 
st氏の自己愛はこんな風に屈折したところがあるし、それだからいつものように自己の問題を他に投影して、楽山は自己愛性人格障害だと強弁することになっているのだろう。気の毒な人である。
 
これも同様に、自分が言われている自己愛を、こちらに向けています。違いは何でしょう。楽山は、全く根拠を示せないのです。結論で、悪口の言い張りだけだから、説得力など、あるはずもないのです。ゆえに、楽山が、こちらに向ける悪口は、楽山に返ってゆくブーメランとなってゆきます。
 
 
こう言っては何だけど、st氏は他人のことをとやかく言うより先に、まずは自分の問題と向き合った方がいいと思う。
 
これもそうです。何が「何だけど」なのでしょう。他人の中の、特に異常な楽山や所在不明のシャロームを批判しています。被害の自覚だけしかない楽山に、病識も罪悪感もないことが分かります。だんだん高慢の地獄が酷くなるようです。あわれです。
 
楽山は、キリスト信仰について、とんでもない詭弁でデマと偏見を宣伝しています。ゆえに、批判対象として、私が生きて書ける間は、批判が止むことはないでしょう。直接コメントなどで遣り取りなどは、病原である楽山に対して、私の精神衛生のために、しないのです。
 
 
◇◆ 追記 2022.1.2 ◆◇
*理由
ついでだから、st氏から長きにわたって誹謗中傷されても平気な理由も書いておこう。
まず一つは、何度も書いているようにst氏の書くことは的外れなことばかりだからだ。人は図星を指されると過剰反応してしまいがちだが、的外れな悪口は無視しやすいものだ。はじめは怒ったとしても、それが続けば相手にするのも馬鹿らしい心境になる。
 
自慢と高慢だけでの楽山は、お世辞のコメント以外は、的外れと感じるのでしょう。批判と悪口の区別もつかない人です。楽山には、反応できる「図星」はないです。楽山には、真実も図星も真摯な見解も、何もないから、無反省、無責任、無視、無理解でいられるのです。
 
 
もう一つは慣れの問題だ。議論慣れしていない人であれば、st氏の口撃にたじたじになる場合もあるかもしれない。でも自分の場合はそれなりの議論経験があるので、くだらぬ悪口には慣れてるのだ。
 
楽山は議論したつもりだけです。詭弁慣れ、嘘吐き慣れしているだけで、議論の、理路も、経験も、能力も、分別も節操もありません。無視だけを返してきます。楽山本人の欲望から、インテリ気取りで、独り芝居で、嘘と詭弁を今日も並べているのです。その高慢が臭いです。
 
「馬鹿らしい」「的外れ」「くだらぬ悪口」と進めています。中身はないが、楽山は、気持ちよいのでしょうか。楽山の言い分は、品のなさによって、マイナス言葉に置き換えられてゆくようです。楽山は、一切、根拠を示せないまま、偏狭な感情と結論だけの貧弱な文脈になってゆくようです。
 
「議論経験があるので」・・思い込みです。楽山の議論が成り立ったことはないと思います。「くだらぬ悪口には慣れてるのだ」と言うが、だったらどうして、こんな長くて、根拠のない嘘と詭弁の悪口を書いてくるのでしょう。人格崩壊が近づいているのでしょうか。だとすれば、ますます危険です。
 
その危険は、ウイルス攻撃となって、今年、新年早々、表れてきました。
 
 
あとは信頼というのもある。私はリアルの世界で高い評価を得ているわけではないけれども、幸いにある程度の評価はしてもらっている。
 
いったい、誰が、評価するというのでしょう。関わっている人がいたら、目を覚ましてほしいです。あり得ないと思います。だまされている人が今もいるのでしょうか。仲間褒めか、成りすましのことか。今も、世辞の丁寧語で、だまそうとしているのかもしれません。身の毛がよだちます。
 
 
だから社会に対して、見る人は見てる、分かる人には分かるという信頼感があり、たとえ誹謗中傷されても、世間の人たちがそれを信じてしまうのではないかと心配することもないのだ。
 
訂正不能の高慢が表れています。好意的に評価されることを自慢する楽山ですが、騙されている人が今もいるということです。誰からも信頼されなくなりつつあり、文章が、誇大で過剰で妄想的です。騙される対象がいなければ、騙すことは出来なくなります。まさにそれがこちらの目標なのです。
 
 
それから…承認欲求が希薄だということもあるかもしれない。自分はぜひとも人から好かれたい、そのために何かをしなければいけないという気持ちはさほど強くない。自分を評価しない人がいても、それは仕方がないと思える。たぶん親から十分に愛情をもって育ててもらったお陰なのだろう。
 
また、嘘を吐いています。魅力もなく権力もなく、だますことで満悦してきた楽山は、まるで、悪い政治家の語るリップサービスみたいです。目的もなく中身もなく、うわべの刹那的な承認欲求しかないのです。楽山は、こういう嫌がらせをしてくるほどに、我欲の権化です。
 
 
もっと考えれば、誹謗中傷されても平気な理由はもっと思いつきそうではあるが、とりあえずはこんなところである。
 
楽山が、批判に対して平気なのは、羞恥心、罪悪感、自責の念、共感、・・などの、受け取って反省するための高等な感性が欠如しているからだろうと思います。楽山は平気なのでしょう。何らかの公の強制力か、被害者の暴力的な復讐の対象にならないあいだは。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
嘘と詭弁の興奮

嘘と詭弁の興奮
 
 
(2022年)
(2023年01月17日、再録、加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いかに実態が暴かれても、これだけ白々しい嘘が吐ける楽山です。人間で在りたくないもかもしれません。楽山は、超常の預言者か教祖になりたいのでしょうか。私は、楽山の言が、全ての人によって、否定されることを祈り願いながら、日々、キリスト者として、できることをしているだけであります。
 
全能と言われる神は人に対して、できるだけの正直を求めておられます。正直ということを一切持たない楽山の異常な有り様は、反キリストそして偽善者の典型として検証されるべき大事な問題です。楽山の嘘と詭弁と偽善の有り様を知って、決して近づかないようにしてほしいです。
 
嘘を吐いて人をあざむき、詭弁で人をだまし、幼稚な屁理屈で自己正当化の言い逃れをしてくる楽山は、最低の男です。いちいち理路が捏造されています。ある意味、暴力を振るう乱暴者よりも酷いのです。暴力は、大方、その時その場ものですが、詭弁は人生の正道を歪めてゆくからです。
 
恐らく、楽山の周りの人も、そばにいる人も、楽山を、説得も、制止も、出来なかったのでしょう。約4年近く批判されて、ろくに返せないのに、まだ平気でいられるわけだから、いったいどれだけ、羞恥心と罪悪感が欠如しているのだろうと思います。
 
 
 
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  楽山のサディズム2
 
 『プロテスタンティズム』深井智朗著
 2021年11月05日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
サディストの楽山が、また、キリスト教をおとしめにきました。こういうことがあって、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、また、反社会性の精神病質、つまり、サイコパスでもあるだろうと判断しています。おとしめて、いじめて、鬱憤を晴らす楽山です。
 
 
プロテスタントにはさまざまあると聞いてはいても、それぞれの特徴、区別はよく分からなかったので本書を読んでみた。
 
いくら本を読んでも、読んだことにならないような記事を書いているだけの、婉曲の悪口です。楽山は、悪口を言って、ひととき、優位に立った気分になるために記事を書くのでしょうか。何か言ったことにしたいのでしょうか。悪意の偏見では、何も言ったことにはならないのです。
 
 
主に前半はルターの宗教改革について説明されており、後半はプロテスタントを古プロテスタントと新プロテスタントに分けつつ、前者と後者の特色、政治との関わり方について語られている。おおまかに言えば、前者は権力との結び付きが強く「支配者の教会」であり、後者は「自発的結社としての教会」ということになるらしい。
 
信じてもおらず、常識的な取っ掛かり程度の理解さえも出来ていない楽山が、キリスト教を時代で分けて何の意味があるでしょう。ただ、勉強して知ってるつもりだけの、インテリを気取りたいだけの、これもまた、自己顕示欲と、さらに、執拗な分、凶暴性を表しているのです。
 
 
それにしても、この種の本を読むたびに思うことだけども、宗教とは結局のところ神の働きによるというよりも、人々の願望、社会的要請などによって生じ、広まってゆくもののようだ。
 
宗教は人が作った、つまり神はいない・・と言いたいのでしょう。理解力のない自己愛性人格障害の楽山は、「というよりも」「のようだ」という婉曲的な言い方で、宗教は捏造じゃろ・・と、自己の無理解を否定したいのでしょうが、執拗に書いてくることが、悪魔性の人格を表すのです。
 
 
でもよく考えてみれば、この種の本は宗教を内側からでなく、外側から説明するものであるし、宗教の教義、歴史的事件、社会的影響などについて書かれてはいても、信者個々の宗教的体験、霊的な諸事情、心理的影響などについてはあまり掘り下げて書かれてはいないことが多いのだから、そういう感想を持つのも当たり前か…。
 
今までの記事もですが、こういう楽山の記事は、婉曲的な悪意に満ちていて、決して「当たり前」ではなく、知性も感性も途方もなく外れたままの、鬱憤晴らしの五里霧中遊泳でしかありません。どんどんどんどん自己破壊の瓦礫を積み上げる楽山の言は、大人になれなかった児戯の産物です。
 
 
私は、歴史のことは、高校の世界史で勉強したくらいしか知りません。歴史が正しいからでもなく、教理が正しいからでもなく、聖書を読んで心に残って、いつまでも消えないほどには、キリストを好きになり、洗礼を受け、教会から離れた後も、考え続けているのです。
 
信仰は、聖書とキリストに縁があれば、起こり得ることですが、御縁を自覚しなくても、神が、キリスト教を通さずに何らかの使命を与えて、生きる糧を与える可能性は否定できません。しかし、楽山は、そういうことも当てはまらないほど、無反省・無責任の、心ない反キリストなのです。
 
宗教と信仰は、リアルでもネットでも、テーマとしては地味で、目新しいカルト的な話題で煽ったりしない限り、アクセスも少ないと思います。さらに、病質的に無知で無反省の楽山は、ブロガーとしても、面白い文章も深い文章も書いたことはありません。
 
むしろ、そういう地味なテーマで、楽山は、価値を最初から認めていないからこそ、考えもせずに、飾り言葉や、好きなように壊れた理路を、平気で押し出せるのでしょう。検証も分析もできない楽山は、霊能者気取りと学者気取りで、おとしめるためだけに、嘘と詭弁を弄して楽しむサディストなのです。
 
 
サディストの歪み

サディストの歪み
 
 
(2021年)
(2022年11月20日、再録+加筆)
 
 
 
  浮腫が示すもの
 
眼瞼の浮腫はいずれ破裂して
一番薄い皮膚を引き裂くであろう
不可逆であれ一時的であれ
原因がフェナセチンであれピリンであれ
腎障害や肝障害であれ
心機能の限界であれ
一度起これば次第に頻発し
前より重くはなっても
軽くはならないものがあるのだ
 
浮腫は破裂して皮膚を引き裂くだろう
裂け目から流れ出るのが
涙であろうと水であろうと血であろうと
裂け目に蔓延(はびこ)り残るのが
いかなる黴菌(ばいきん)であろうと
いかなる有機物や無機物であろうと
そのとき既に視力は奪われ
意識は喪失し
命は旅立つのだ
 
生命は精霊のように大切だから
意思は遺志のように儚く尊い
しかし浮腫(むく)んだ皮膚が
常に示してくるのは
再会も音沙汰もない生別と
死別の違いにも似て
 
滅びないであろうこの世に生きながら
自らが滅びるとき自らにとって
この世の滅びを問い続ける細い管から
漏れて戻り損なう循環だ
そう ゆえに
皮膚はいずれ破裂して
浮腫を緩やかに引き裂くであろう
 
 
  何故か
 
何故か知らぬ
ひどい目に会わせた人がいて
因果の繋がりの一段一段は知る由もなく
今こういう目に会っている
それはいい
それでいい
何故か知らぬ
眠りに就(つ)くとき
目覚めを望まなかった
目覚めないことを祈りさえした
何という不遜の祈り
しかも数知れず
それはよくない
それではよくない
しかし今さら善い悪いの問題ではないのだ
そうであった
そうである
ということだ
しかし何故か知らぬ
目覚めを厭わずに眠ることがあった
それはよい
それでよい
と素直に喜べないのは何故か
知っているようで
やはり何故か
 
 
  ある病苦
 
独りきり
価値がない意味がない
楽なのか苦なのか
虚無だ空虚だ
生ける屍だ廃人だ
と思いながらも
病気は本人には分からない
 
病は気から
原因があるのだ無いのだ
拒否しているだけだ
腹癒せだ引き籠もりだ
仮病だ詐病だ
と思われながらも
苦痛は本人にしか分からない
 
 
 
楽山の害毒メモ:(抜粋)
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
※ 楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
厳しく批判して、2~3日投稿がなくても、不感不応の自己中の虫がうごめき出して、楽山は、また書いてくるのでした。罪悪感もなく、反省もしないので、何も変わっていないし、また、新しく批判の対象になるだけです。読者が関わることのないように、批判を続けています。
 
 
 
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  楽山のサディズム
 
 『プロテスタンティズム』深井智朗著
 2021年11月05日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
サディストの楽山が、また、キリスト教をおとしめにきました。こういうことがあって、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、また、反社会性の精神病質、つまり、サイコパスでもあるだろうと判断しています。おとしめて、いじめて、鬱憤を晴らす楽山です。
 
プロテスタントにはさまざまあると聞いてはいても、それぞれの特徴、区別はよく分からなかったので本書を読んでみた。
 
いくら本を読んでも、読んだことにならないような記事を書いているだけの、婉曲の悪口です。楽山は、悪口を言って、ひととき、優位に立った気分になるために記事を書くのでしょうか。何か言ったことにしたいのでしょうか。悪意の偏見では、何も言ったことにはならないのです。
 
主に前半はルターの宗教改革について説明されており、後半はプロテスタントを古プロテスタントと新プロテスタントに分けつつ、前者と後者の特色、政治との関わり方について語られている。おおまかに言えば、前者は権力との結び付きが強く「支配者の教会」であり、後者は「自発的結社としての教会」ということになるらしい。
 
信じてもおらず、常識的な取っ掛かり程度の理解さえも出来ていない哀れな楽山が、キリスト教を時代で分けて何の意味があるでしょう。ただ、勉強して知ってるつもりだけのインテリを気取りたいだけの、これもまた、自己顕示欲と、さらに、執拗な分、凶暴性を表しているのです。
 
それにしても、この種の本を読むたびに思うことだけども、宗教とは結局のところ神の働きによるというよりも、人々の願望、社会的要請などによって生じ、広まってゆくもののようだ。
 
宗教は人が作った、つまり神はいない・・と言いたいのでしょう。理解力のない自己愛性人格障害の楽山は、「というよりも」「のようだ」という婉曲的な言い方で、宗教は捏造じゃろ・・と、自己の欠格を否定したいのでしょうが、執拗に書いてくることが、悪魔性の人格を表すのです。
 
でもよく考えてみれば、この種の本は宗教を内側からでなく、外側から説明するものであるし、宗教の教義、歴史的事件、社会的影響などについて書かれてはいても、信者個々の宗教的体験、霊的な諸事情、心理的影響などについてはあまり掘り下げて書かれてはいないことが多いのだから、そういう感想を持つのも当たり前か…。
 
今までの記事もですが、こういう楽山の記事は、婉曲的な悪意に満ちていて、決して「当たり前」ではなく、知性も感性も途方もなく外れたままの、鬱憤晴らしの五里霧中遊泳でしかありません。どんどんどんどん自己破壊の瓦礫を積み上げる楽山は、大人になれなかった子供です。
 
 
私は、歴史のことは、高校の世界史で勉強したくらいしか知りません。歴史が正しいからでもなく、教理が正しいからでもなく、聖書を読んで心に残って、いつまでも消えないほどには、キリストを好きになり、洗礼を受け、教会から離れた後も、考え続けているのです。
 
こういうことは、誰にでも、御縁があれば起こり得ることですが、御縁を自覚しなくても、神が、キリスト教を通さずに何らかの使命を与えて、生きる糧を与える可能性は否定できません。しかし、楽山は、そういうことも当てはまらないほど、無反省・無責任の、心ない反キリストなのです。
 
宗教と信仰は、リアルでもネットでも、テーマとしては地味で、目新しいカルト的な話題で煽ったりしない限り、アクセスも少ないと思います。楽山は、ブロガーとしても、面白い文章も深い文章も書いたことはありません。
 
むしろ、そういう地味なテーマで、楽山は、価値を最初から認めていないからこそ、考えもせずに、好きなように壊れた理路を押し出せるのでしょう。検証も分析も考察もできない楽山は、霊能者気取りと学者気取りで、おとしめるためだけに、嘘と詭弁を弄して楽しむサディストなのです。
 
 
サディストの因業(いんごう)

サディストの因業(いんごう)
 
 
(2021年11月06日)
 
 
 
  浮腫が示すもの
 
眼瞼の浮腫はいずれ破裂して
一番薄い皮膚を引き裂くであろう
不可逆であれ一時的であれ
原因がフェナセチンであれピリンであれ
腎障害や肝障害であれ
心機能の限界であれ
一度起これば次第に頻発し
前より重くはなっても
軽くはならないものがあるのだ
 
浮腫は破裂して皮膚を引き裂くだろう
裂け目から流れ出るのが
涙であろうと水であろうと血であろうと
裂け目に蔓延(はびこ)り残るのが
いかなる黴菌(ばいきん)であろうと
いかなる有機物や無機物であろうと
そのとき既に視力は奪われ
意識は喪失し
命は旅立つのだ
 
生命は性霊のように大切だから
意思は遺志のように儚く尊い
しかし浮腫(むく)んだ皮膚が
常に示してくるのは
再会も音沙汰もない生別と
死別の違いにも似て
 
滅びないであろうこの世に生きながら
自らが滅びるとき自らにとって
この世の滅びを問い続ける細い管から
漏れて戻り損なう循環だ
そう ゆえに
皮膚はいずれ破裂して
浮腫を緩やかに引き裂くであろう
 
 
  何故か
 
何故か知らぬ
ひどい目に会わせた人がいて
因果の繋がりの一段一段は知る由もなく
今こういう目に会っている
それはいい
それでいい
何故か知らぬ
眠りに就(つ)くとき
目覚めを望まなかった
目覚めないことを祈りさえした
何という不遜の祈り
しかも数知れず
それはよくない
それではよくない
しかし今さら善い悪いの問題ではないのだ
そうであった
そうである
ということだ
しかし何故か知らぬ
目覚めを厭わずに眠ることがあった
それはよい
それでよい
と素直に喜べないのは何故か
知っているようで
やはり何故か
 
 
  ある病苦
 
独りきり
価値がない意味がない
楽なのか苦なのか
虚無だ空虚だ
生ける屍だ廃人だ
と思いながらも
病気は本人にだけ分からない
病は気から
原因があるのだ無いのだ
拒否しているだけだ
腹癒せだ引き籠もりだ
仮病だ詐病だ
と思われながらも
苦痛だけは本人にしか分からない
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山のお祭り騒ぎ
 
 『宇宙の法―エローヒム編―』を見た。
 2021年10月12日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
 (ネットより)
「エロヒム」は、ヘブライ語聖書で「神」または「神々」を表す。ヘブライ語の文法的には、末尾の -im は通常、男性の複数形を指す。しかし神としての「エロヒム」は、通常文法的に単数であり、単数動詞や単数形容詞と共に使用される。現代ヘブライ語では、ヘブライ語の複数の男性名詞を示す -im が語尾にあるにも関わらず、しばしば単数形で用いられる。[1][2]
一般にエロヒムは、北西セム語系で神を表すエロア eloah から派生したと考えられている。[3] ヘブライ語以外の同系語には、カナン人のパンテオンの創造神であり主神であるエール El、ウガリット語のイル ilhm、聖書アラム語のエラーハ Ĕlāhā 、シリア語のアラハ 'Alaha「神」、およびアラビア語のイラー ilāh「神」、またはアッラー Allah「(単一の)神」がある。
El は通常、「強くなる」または「前に立つ」というアラム語の lh が語源と考えられている。[3]
 
超常についての楽山のお祭り騒ぎのようです。箇条書きですから、まとまりはありません。何かを主張するのではなく、面白がって、興奮しているようです。神(エル、エロヒム、ヤハウェ)を相手に、楽山は、こう言う態度しか持っていないのです。信仰を語れるわけがありません。
 
『宇宙の法―エローヒム編―』を見ながら心に浮かんだ感想をメモしておいたので、ここで整理してみる。
HS映画はいつも映像はきれいだ。これは今回も変わらない。
いきなり舞台背景の説明がはじまった。これはファンタジーあるある。
地球における善悪を知れって…普遍でなく、あくまで地球限定の善悪か。
白色彗星ならぬ、赤色彗星か? しかも艦隊の攻撃でも撃破できないとは…まるで、『さらば宇宙戦艦ヤマト』のようだ。
 
「映像はきれい」「ファンタジー」「宇宙戦艦ヤマト」「艦隊」「攻撃」「撃破できない」・・アニメを見るように、宗教と信仰を見ている楽山です。楽山は、ずっと、同一性(アイデンティティー)が発育不全か、壊れているのでしょう。
 
人物の絵は、みんな止まっている。人物と背景が分離している。なんだか無味乾燥だ。人物は生きてない。蝋人形だらけ。これでは感情移入し難い。
♪~きた、きた、わたしはきた~♪♫ 歌ありの音楽と、歌なしの音楽とでは落差が激しい。もちろん歌なし音楽↑、歌あり音楽↓。
ヤイザエル、強すぎ。ドラゴンボールみたい。強い女戦士を設定するとはHSらしからぬフェミ系への配慮もあるのだろうか。
ベガの女王、一瞬、きょうこ夫人に見えた。
彗星でなく、隕石爆弾? 流星爆弾みたいだな。
 
SFかホラーの映画で、子供が燥いでいるような感想です。
 
あまりに漫画すぎる。普段アニメは全然見ない人は、退屈するのではあるまいか。
 
「漫画」「退屈」と言いながら↓
 
会話がいちいち教義紹介になってる。教義紹介をしたいのは分かるが、その方面に興味がない立場からするとうざったい。
 
教義は、"うざったい" のだそうです。何を求めているのか不明です。
 
ヤイザエルが泥酔している兵士たちを叱ってる。千眼美子(清水富美加)が泥酔者を叱るというのはおかしい。
もののけ姫のタタリ神みたいのが湧いてる。
ひとりの英雄、いやヒロインが戦況を一変させてる。漫画すぎる。
 
魔界のような超常の話です。この次元で、楽山は、宗教と信仰を考え、キリスト教と信仰に、いちゃもんをつけてきたのです。常識的にも、未熟~異常です。何の救いにも、さらに、救いのヒントにも、全くなりません。薄気味悪い話です。
 
アモール(イエス・キリストのエネルギー体)が、悪魔よ立ち去れの一言で戦いを終わらせている。
ヤイザエルが反省している。悪を倒すのにためらわなかったが、もしかしたら自分には愛が足りないのではないかと…。
 
(ネットより)
アモル・アモール
ラテン語:Amor
スペイン語で愛のこと。es:Amor
クピードーの別名。
アモール (小惑星) (Amor) - 第1221番小惑星。
アモール群
アモール - 『ドラゴンクエストVI 幻の大地』における架空の町。回復アイテム「アモールのみず」の産地。
 
キリストの愛ということから、エネルギー体と呼んでいるのでしょうか。ヤイザエルは、架空の存在のようです。「愛が足りない」と言って、説明がありません。楽山には、著しく、愛は、足りないか、欠損しています。
 
ミカエルとルシフェルが双子というのは、レムリアで言ってたのと同じだ。
 
ミカエルは天使、ルシフェルは悪魔の名前ですが、好きなように扱って、超常の神話~ホラーとして扱っています。それを面白がる楽山はピエロにでもなるのでしょうか。
 
話のテンポが遅すぎる。あらすじも簡単すぎる。地球を侵略しようとする宇宙人を撃退するというだけ。ヤイザエルにしても、その他の人物にしても、さほどの悩み、葛藤はない。物語を通じて、大きく成長していない。したがってストーリーに起伏がない。だから退屈。
 
宇宙人の地球侵略の話になっています。「大きく」も小さくも、「成長していない」楽山の、まとまりもなく、説明にもなっていない感想文です。このように、宗教と信仰を、遊びとしてしか捉えていない楽山です。宗教・信仰・なくてはならない真実について、語る資格などないと思います。
 
私は、人間が受け取れる信仰について考えてきました。それを、否定し、著しく妨害して、混乱を招く方向しか持っておらず、到底、受け取れないホラーに化けさせているのが、楽山です。茶化しであり、ふざけており、真実に対する悪意以外の何ものでもないと思います。
 
正しいと思うことを自由に述べてよろしいと、エロヒムは言論の自由を認めてる。
ヤイザエルのヘルメットの額のところ、シャアと同じ形に変わってる。
アモールが山を動かしている。この山動きて海に入れか…。
 
楽山が、言論の自由と言うとき、それは、好き勝手に無反省に発言して、責任を負わないことを意味します。認められるはずがありません。超常話で、神エロヒムに認められているかのような楽山の主張は、鼻クソです。
 
楽山は、霊が分かるっぽい?という自覚を語っていましたが、楽山が動かせるのは、山ではなく、嘘と詭弁、悪口、・・やはり、鼻クソだけです。真実を求める方向性のない楽山には、かさぶたを剥がすことも出来ません。
 
戦争が肯定的に描かれている。正義の戦争は善であるということらしい。自分は考え方としては右ではあるが、こういう戦争の描き方は受け入れがたい。戦争というものは聖戦だろうが、自衛だろうが、どのような名目があったとしても、多くの人々が悲惨に殺されてゆくものだ。大勢の血で大地を染めることを正義だとか、善だとかいうのはどうかしている。
 
楽山は、平和主義みたいなことを語っていますが、嘘です。楽山は、殺人を含む事変に関与したらしいA級戦犯を讃えていました。このことから、正義を理解しない者が、平和を語り、戦争反対を語り、つまり、騙(かた)って、受けをよくしようと、空しく、あがいているだけだと思います。
 
ヤイザエル、二度も油断して敵に背後をとられている。歴戦の勇士がこういう不覚をとるわけはあるまい。
パングルって、らんま1/2…、いや呪術廻戦か? 本作は特に先行作品との類似性が見受けられるけれども、これはオマージュというやつなのだろうか。
 
そして、楽山は、格闘~戦闘シーンに興奮しています。ホラーアニメ・漫画の、空想の世界にしか、生きられない楽山の象徴的~特徴的な表れです。
 
(ネットより)
オマージュ(英語: hommage)は、芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受け、似た作品を創作すること、またその創作物を指す語である。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。
 
さまざまな個性を持つ者たちが集い、お互いの短所を補い合い、発展してゆくという考え方はよいと思う。
 
誰が、楽山に、善悪・良否の判断を仰いだと言うのでしょう。求められてもいないのに、考えることも出来ないのに、妄想的な楽山は、高みから評価し裁いている風情でしょうか。正義にも良識にも反しながら、なお、良し悪しを語る不治の病質が表れているようです。
 
地球神は時間を戻せると…。取り返しのつかない大きな過ちを犯しても、地球神が時間を戻してなかったことにするって…。いや、もしかしたら、幻魔大戦のように地球は滅びたものの、一瞬間のうちに滅びていない世界を想像したのだったりして。
 
呪術廻戦に加えて、今度は幻魔大戦が出てきました。漫画の世界に、どっぷり浸かって、そこからだけ、正義を語る楽山に、近づかないでください。「滅びていない世界を想像したのだったりして」・・こういう軽口をたたくために、宗教・信仰・真実をけがしてきた楽山です。
 
ダハールを追って行ったまま戻ってこないヤイザエル。これは軍規違反にならないのだろうか。
エローヒムの演説でシメ。
最近のHS映画は、HS色が薄まってきていたようだが、今回は原点回帰したのか、HS色が非常に濃厚になっている。HSの世界観だけで物語がつくられている。そのせいか、HSを信じていない自分はあまり感情移入できず、退屈したというのが正直な感想である。
 
「感情移入できず、退屈」とは、裏腹に、興奮が表れている楽山です。恐らく、楽山は、超常カルトというレベルでしか、宗教を考えていない、ましてや、信仰など、何とも思っていないし、持ったこともないと思います。
 
本作はHSとその信者にとっては尊い映画ではあろうが、HSも、エローヒムも信じていない一般に理解されるのは難しいだろうと思う。
 
楽山は、神エロヒムも信じていませんし、その尊さも信仰も分かっていません。なのに、「一般」を、自分より下に見ている筆致です。楽山は、「一般」にも達していないのです。破壊の、煩わしいチンケな主体であり、破壊に抗えない対象であり、かつ、どちらも見せかけだけなのです。
 
◇◆ 追記 2021.10.13 ◆◇
*ツイッター
ツイッターの方でも、映画について呟いたので、ここに貼っておきます。
心機一転★こも楽山
@komo266
·2021年10月13日
返信先: @hidenoeさん
映画の良い面をまとめれば、そのようになると思いますが、個人的には戦後育ちのせいもあってか、身分制、聖戦を肯定してるところは気になりました。
 
良い面をまとめたつもりのようです。この記事と、今までの記事を踏まえると、「身分制、聖戦を肯定してるところは気になり」・・楽山が言うと、恐ろしく軽くなります。
 
最も尊い存在が、最も嫌われる下層階級の仕事をすすんでするとか、戦争回避、和平への努力がもっと描かれていれば、さらに良かったと思います。
 
「さらに良かった」と肯定的にアドバイスしていることに楽山は気づかないのでしょうか。楽山も、超常アニメのレベルでしか宗教を語れないし、教祖願望があるために、つまり、教祖に憧れているために、さらに、既に教祖気取りであるために、全否定が出来ないのです。
 
「戦争回避、和平への努力」・・それより前に、楽山には、はしゃぐことはあっても罪悪感や後悔や反省力を持たない自分を改善するべきです。しかし、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)には無理なのでしょう。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
あとは…敵味方が入り乱れて戦った戦場では、敵味方の死体の山ができるだろうし、生き残った者は自身の血と汗はもちろん、返り血を全身に浴びることになるでしょう。戦傷者はさらに酷い有り様になるでしょう。
戦争を描くなら、その悲惨さもきちんと描写すべきだったと思います。
午前7:09 · 2021年10月13日
 
死体の山と、血と汗と、返り血と、血まみれの傷病兵を、もっとリアルに見たいという楽山のリクエストです。今まで、興味本位だけで、勝手な感想を書いてきて、なお、戦争のリアルな悲惨さ見たさに飢えている楽山です。味わうことになるかもしれません。
 
楽山には、高等感情がない、とりわけ、悲しみへの共感がないのです。いわゆる、モンスターです。いくら、気取っても、言動に表れてくるでしょう。今までも、無味乾燥の筆致として、また、不祥事を他者のせいにする自己中として、訂正不能の妄想として、表れてきました。
 
実際には、迷惑~犯罪~惨劇を、他者に企んで望んでいるのは、楽山かもしれません。何度か書きましたが、いわゆる、サディストです。人が困る、あるいは、疲れる様子を見て、同情のように見せかけながら、文脈として、筆致として、満足げに、笑っているのが楽山です。
 
 
サディスト、モンスター

サディスト・モンスター
 
 
(2021年10月14日)
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)
伝道の書/ 07章 15節
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。
 (伝道7:15、旧約聖書)
 
楽山が、いちゃもんとして言うような、神がいたら人の不幸・惨劇は起こらないはずじゃろ・・という話は、既に、昔の人が、万感の想いを込めて語っているわけです。つまり、信仰者は、地上にいるあいだ、信仰があれば現世的な良い報いを得る、というわけではないということです。
 
信仰者は、神への希望とキリストの同伴に、祈りを通して支えられながら、苦難の地上を生きるのです。安物の文具の性能をもてあそぶように、楽山が書いてくる宗教と信仰への雑言などは、また言いますが、鼻クソです。その汚れた指で、楽山は、繰り言をなすりつけてくるの傍迷惑な偏屈です。
 
 
 
キーワード: 血
 
  散る
 
紅く色づいていく木々の
にぎわいに、にぎわうだけで
例えば薄い木の葉の
もうすぐ散ります
という最後の音信さえ
数知れず見過ごして
この目に見られないまま
どこからどこまで見過ごされて
散ってゆく
 
破り捨てた手紙
最後の便り
破りかけた手紙
風の便箋
破れかけた手紙
歪んだ字を
書いているペンを
握っている手
見ている眼
赤く充血していく治癒の
道行きに拙い言葉の
いつか最後の音信
どこからどこまで過ぎて
散ってゆく
 
 
  季節の約束
(これは、かなり自由連想してます)
 
針に置ける軌跡を知らないかな
脈管のさまよえる路地で待ってる
そこから先はとんがっていれば大丈夫だ
ケラケラ笑うかけらばかり
握って角度がゆっくり南に傾いて
光る曲線がいちばん長くなる所だ
行き止まりなんてあるものか刺さなくていい
血は嫌いだ綺麗な喪主を
街の眼で汚したくない
もう寒くないだろう標的の入り口付近
宝石を数珠(じゅず)に巻かないように
切り貼りして過ごせばいい
飽きたら呼び鈴を忍ばせて
カジュアルでいいから日暮れを待ちなさい
思い込みは駄目だよ紅茶色だ、いいね
たぶん木馬が飛ぶ頃になると思うよ
ただ屋根のないタクシーが
黒い額で潰しに来るから気をつけて
そろそろ芽も味方してくれる
鋭角に切り落としたら一休みして
グラスに注げる口癖もあるさ
好きな水晶玉でも探して
菜の花の夜を見つけよう
帰りは直線で別れる前に
ちらっと月夜を弾いておくれ
じゃ葬列に出会ったらよろしくね
切るよ
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク、最近コピペ)
 
 
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