想うところに2
 
 
人について
想い描く人物像は
人格も含めて
想い描いた像であるから
その人ではない
常にその人の偶像を相手にしている
想うところに人はいない
 
ここで人は
神と違って
想い描かれた人の偶像の間違いを
完全ではないが
ある程度
態度や言動で知り
また示すことが出来る
 
人間関係は誤解で成り立っているが
お互いの偶像を修正しながら
不安定ながら
未知に立ち向かって
良かれ悪しかれ活性化してゆく
正面衝突が可能だからである
 
人の像と違って
想い描く神の像の間違いを
導きによって啓示するのが
神だという証拠を人は持ち得ない
 
聖典と祈りを通して学んで
深く知ったと思えば思うほど
神と人との関係は
人にとって
人の誤解の中にしか存在しない
 
想うところに神はいない
想うところに人はいない
さて想うところに
自分はいるであろうか
 
この問いを尋ねる相手だけを
見上げたつもりでいるが
この地上に
確定的な答えはないと知っている
 
 
想うところに

想うところに
 
祈り「神様は、いつまでも黙ってはいない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます」
 
 
(2011年04月29日)
(2021年01月30日、一部加筆)
 
 
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象がある。それは神である。
神を信じているから、神に祈る。神はいると信じている。
 
しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、
イメージであり、極端な言い方をすれば偶像である。
 
偶像は存在しない、人が想い描くイメージの神も存在しない。
神は偶像でもイメージでもない。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉がある。
「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、
 神は存在しない、と思いつつ祈る。」
どう受け取ったらよいのか。
 
つまり、このヴェイユのように祈るときにも、
祈る相手として想い描いた神のイメージがある。
 
つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、
それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」
・・・を繰り返すしかない、繰り返すしかない・・・!
現実に祈っている相手の神がいない。
存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。
 
しかし、キリスト者は祈る。
キリスト者にとって、そこにしか希望はないからである。
 
人は神を想い描けない。
神は人が想い描けるような御方ではない。
想い描くところに神はいない。
 
しかし、想い描いている神ではなくても、想いの始末を任せる神は希望である。
 
その神が存在しないとか、
人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できない。
 
祈りは確信に支えられてはいない。
 
祈りは、唯一の希望のみに支えられている。
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
 
 
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