ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:シャローム

 
 
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  楽山の本性(3)2
 
 信者ブログを見たけれど 3(st関連)
 2020年09月02日 楽山日記(LD)

  を改めて批判。

 
 
露骨に攻撃に転じている楽山です。楽山が付けたリンク先の記事は、かなり前のものです。恐ろしく長いのがあり、今は、今が問題です。批判したかどうかも忘れていますので、リンクURLは省略します。
 
楽山は、昔はあんなに愛されたのに、とでも言いたいのでしょうか。
 
 
*どっちが本当?
元記事は読んでないのだけれども、これはst氏が言っているということだろうか。
幸福の科学とは無関係のキリスト信者からも、お前はキリスト教を信じてないではないかと批判されています
 」
それなら、過去のst発言を貼っておく。
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
 」
 
楽山を批判するようになって、はっきり調べてはいないけど、約1年半(今は3年余り)くらい経つと思いますが、それより前は、楽山を信頼しようと思って好意的なコメントも書いていたのです。それが、上のコメントになります。
 
そういう気持ちが最初あったから「キリスト者のつもりの私」は、謙譲のつもりに他なりません。つまり、私は、完全に間違えたのです。私は、間違いを認めます。私は、楽山の丁寧語に、すっかりだまされていました。この過ちについては、読者の皆さんに申し訳ないと思っています。
 
ちなみに、もう一人の批判対象である偽キリスト者&偽牧師のシャロームについては、10年ほど批判してきましたが、その前、数年間は、聖書の先生だと思っていて、だまされていたことを告白いたします。
 
私は、容易に、だまされますが、いつまでも、だまされていてはいけないので、批判しています。この私の動機は、言うまでもなく私の信仰によるのです。
 
シャロームは、ヤフー終了後、所在不明であり、時々、名無しの猫などというHNで、ライブドアの私のブログを荒らしに来ました。そのシャロームの荒らしコメントについては、その都度、批判記事を書いてきたつもりです。
 
 
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
 」
 
ここについては、ヤフーブログ時代の、別のキリスト教系カルトである自称ヨシュアと自称マグダラマリアのブログについてのことです。この二人は、聖書の戒めを守って完全になれる、という行為義認という過ちを信条としていたので、批判対象となりました。
 
行為の善悪ではなく、また完全になるからでもなく、罪深い人間として、信仰のみによって救われるというのがキリスト教です。信仰義認と言われます。
 
つまり、アブラハムが息子イサクを殺そうとしたのは、神の命令だから正しいと、無条件にアブラハムを完全な義人として書いていたことを批判したことがあります。信仰は、人間性を失うことを正義とするようなことはありません。
 
聖書では、息子イサクを殺そうとしたアブラハムを、神が止めるという話ですから、アブラハムが完全ではないことは明らかです。神の義と、人の義は、違うということです。
 
楽山は、まだ、2年前に自称ヨシュアの言ったことを信じているようです。学習しないというのは、こういうことに表れてくるのでしょう。固執したままになるのです。
 
 
*自分教
これはおかしなことになっている。
キリスト教を中心にやっている人からも、ニセモノと言われるような態度では、やはり、幸福の科学から逃げても、自己都合のエセ信仰に頼っている、自分教信者でしかないのだな、ということでしょう。
 」
どうやら、LEO氏は、st氏は教会には通わず、聖書も通読していないということを知らないようだ。だから自分教信者を信頼しながら、自分教を批判するという、おかしなことをしている。
何はともあれ、これによって、LEO氏は、自分教を批判するけれども、自分教者かどうかの見分けがつかないことがわかった。
 
教会に通わず、聖書も通読していないと、キリスト者ではない、という楽山の偏見と先入観が表れています。それで、自分教信者だと決めつけています。もはや、楽山は、最低限の判断力の冷静さも捨て去って、いちゃもん攻撃に専念しているようです。相当な悪意が表れています。
 
結局、この短慮からの攻撃性、これが、楽山の正体です。楽山は、とても情けない人なのです。
 
 
*ダブスタ
ここもおかしい。
こちらのブログ主はキリスト信者だそうですが、この方も、ここでわたしが指摘している退転アンチに大迷惑をこうむった方のようで、延々と該当アンチのことを批判し続けているようです。
おかげで、ああ他にも批判している人が、幸福の科学信者以外でもいるんだな、と知ったわけですが、
 」
st氏は、ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった人だ。たしか6年だったか、8年だったか、shalom氏をストーカーしていたという。現在、自分は、氏のブログは全然見なくなったが、それでもその状態はおよそ見当はつく。
 
楽山が、私を、ネットストーカーだと言っているのは、私が偽牧師シャロームを10年批判し続けているからという理由以外にはありません。「ネットストーカーで有名」は、楽山の、でっち上げです。私は、残念ながら今もアクセスの少ない無名のブロガーです。
 
シャロームを長く批判した理由は、シャロームが、批判を受け取らず、嫌がらせだけを返してくるような、楽山に似た人種、すなわち、自己中で無反省の反キリストだからです。シャロームの「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という発言には、身の毛がよだちました。
 
批判者をストーカー呼ばわりする楽山です。批判とストーキングを一緒にするとは、楽山は、実に、次元の低いところで、文句を言っているわけです。つまり、楽山は、根性において、野蛮で下品な荒らし以上ではないということです。丁寧語に騙されないでください。
 
楽山のこの記事も、批判をまともに受け取ることが出来ないために、批判に対して正当に弁明を返せないから、手段を択ばず、悪そうに見える材料を探してきては、文句を言っているだけなのです。楽山とシャロームと荒らしの易坊の、同一人物の成りすましも疑っています。
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という反キリストとしか思えない信条に賛同したということも、楽山批判の、そして、楽山の知性と感性を疑う動機の一つでした。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が人格を捻じ曲げているのです。
 
 
LEO氏は普段は粘着ストーカーは悪としながらも、論敵が延々ストーカーされるのはよしとしているのだからおかしい。
こういうところをみると、LEO氏は真理に忠実であろうとするよりも、論敵を叩けるなら何でも有りの人だとわかる。
 
批判者を、粘着ストーカーと決めつけることしか出来ない楽山です。自己中心のために、低劣で、議論ができないのです。このような幼稚な決めつけをするのが楽山の特徴ですが、それは、楽山が、完全に宗教を舐めているからです。中身がなく、粘着した筆致は、むしろ楽山の特徴です。
 
 
*仲間
ここで、LEO氏は、st氏に賛同している。
この方の該当アンチ批判、いくらかを読んでみましたが、当たっている批判が多いと思えました。
退転した悪質アンチよりも、(別に幸福の科学信者ではないけれども)キリスト教信者であるこのブログ主の方が、遥かに正直で素直、純粋に信仰を述べて、該当アンチを切り捨てています。よほど不愉快なことを過去にされたようです。さもありなん、あのアンチならやりそうなことです。
 」
意見が合うなら、二人は仲良くなれるにちがいない。LEO氏はブログでたくさんキリスト教の記事を書いているし、案外、st氏はこれを読んで感化されて、HSを信じるようになるかもしれない。
 
これは露骨な侮辱です。まともに返せなくなると侮辱してくるのは、楽山もシャロームも同じです。楽山は、そういう野蛮な性質を隠してきましたが、もう隠せなくなったようです。これによって、今までの楽山の、丁寧語も、やさしさ芝居も、嘘だとバレることになります。
 
既にキリスト者である私について、楽山批判という共通点だけをもって、「二人は仲良くなれるにちがいない」「HSを信じるようになるかもしれない」などと言って、楽山は、自分が有利になるとでも思っているのでしょうか。退行し破綻して嫌がらせしか言えなくなった楽山です。
 
 
*経緯
一応、st氏との経緯を書いておこう。
自分はヤフーブログ時代に、st氏のshalom批判を読んで、shalomという人からよほど酷いことをされたのだろうなあと気の毒に思ったのだった。またその宗教観にも一理あると思った。それで交流するようになったのであるが、その後の顛末は、こちらにまとめてある。
 
私は、楽山の「一理ある」等々の肯定を、今は全く信用していません。シャロームは、楽山と同じように、批判に反論も弁明も出来ないので、嫌がらせだけをしてきました。こういう人に、信仰者も求道者も近づいてはいけないというのが批判の動機です。シャロームは偽牧師です。
 
そして、この3年余、楽山についても、ほぼ同様の動機と理由によって批判しています。この楽山とシャロームのような無反省の者に対しては、彼らを変えようなどと思わないほうがいいです。病的な精神疲労が残るだけです。彼らの書いたものを否定してゆくしか方法はないのです。
 
ですから、批判対象自身を変えようとするのではなく、批判対象に誰も近づかないように、一般読者に伝えたいという強い動機を持つことが大事です。そして、出来ることをする、出来ないところは無理をしない、という心構えが大切です。
 
以下は、いちいち批判している暇も気力もないので、リンクは省略します。
 
・st、楽山 問題を振り返る - 楽山日記
・st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ) - 楽山日記
楽山の言うことは信用できないというなら、マグダラのマリア氏の記事を読めばいい。
・追記あり、批判ストーカーされてます。
・ヤフーブログでは、批判して、、、他人を攻撃したりするための、ブログ利用は禁止事項。
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。
ひさしぶりに、マリア氏のブログを見たら、こんなことを書いておられた。
 
(自称マグダラマリアの記事より)
【禁止】いやがらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする目的で利用すること
Yahoo!ブログでは、特定の他人への攻撃や、参加者同士の誹謗中傷を禁止しています。
 」
 
私も、ときに辛辣な比喩を書きますが、批判は、「嫌がらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする」ことを目的としてはいません。また、誹謗中傷が目的でもありません。
 
批判は、不正だという指摘が主体であり、それにもかかわらず不正が続く場合には、きびしくなり、長く継続するということです。それを、自己愛性パーソナリティ障害の楽山は、ストーカーだと決めつけて、とても、幼稚な、原始的な決めつけをしてくる人です。楽山は、批判を理解できないのです。
 
楽山は、批判と中傷の区別が、以前から、付いていません。これも、楽山の無反省からくる訂正不能の未熟さなのでしょう。だから、楽山本人を説得するのではなく、楽山ブログに近づかないように、むしろ読者に、楽山の不正を継続して訴える記事になっています。
 
上のような中傷だという決めつけは、楽山とシャロームに共通してみられる特徴です。つまり、文章の読解力がないか、反論や弁明を返せないかのどちらかです。同一人物による成りすましを疑う根拠でもあります。楽山ブログから、楽山という大根役者は三文芝居ごっこが大好きです。
 
 
・人の意識が変われば
これはなかなか意味深だな。
 
自称マグダラマリアが、やさしい言葉で書いているようです。しかし、批判者に対しては、驚くほど豹変して、荒っぽく「プププ」「ケロッ」などという異様でグロテスクな書き方で、あざ笑い、決めつけてくる人でした。やさしさは、見せかけでした。
 
それにしても、楽山は、よほど、まとめて悪口が言いたいのか、今回の問題とは直接関係ない人を、平気で巻き込んできますね。よほど援軍が欲しいのでしょうか。荒らしの本性丸出しです。
 
 
*おしまい
ふう、やっと、ここまでたどり着いた。
ほんといえば、まだ書き残したこともあるのだが、それはまたいつか機会があればということで…。
とりあえず、今回はここまで。
 
楽山は、悪口漁(あさ)りの果てに、いったい、どこに、辿り着いたつもりでいるのでしょう。荒らしとしての本領を発揮するつもりでしょうか。機会は、この先、いくらでもあるでしょう。しかし、楽山の言い分が成り立つことはないのです。
 
なお、楽山とシャロームの関係は、シャロームと一緒に私を攻撃してきた荒らしの易坊を加えて、一人の成りすましか、親族か、荒らしのグループか、などを疑っています。ネットの性質上、証明できませんが、否定の証明も出来ないのです。少なくとも仲間として振る舞っていることは確かです。
 
ネットが嫌いにならないために、どうか、楽山には、決して関わらないでください。そのためにも、決して近づかないでください。楽山とシャロームと易坊は、ネットという便利な世界の、匿名性という弱みを悪用する無法者です。
 
 
 楽山が追記しています。細長い画像2つ、おかしいです。
 
*st自由同一人物説
今回のことで、ヨシュア氏のst自由同一人物説を思い出した。自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ、その他にも二人の意見には共通項がある、自由の正体はst氏だ!というような主張だ。
 
自由、というのは、楽山の以前のHNです。自称ヨシュアは、キリストを信じているつもりの人です。実際は、ガチガチの教条主義で、聖書の教えを守って完全になれる、という、要するに、完全になりたがる信条だから、キリスト信仰ではありません。
 
読む人のことなど考えない楽山が貼り付けた見苦しく黒く長い画像は、以前の、ヤフーブログのときでしょうか、自称ヨシュアが、あと何日だ、とか、私を呪っていた頃の話でしょうか。2018年の夏から秋にかけてだったか。
 
「自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ」・・とんでもない。イエスキリストを信じる信仰者は、楽山のように下劣な嘘や攻撃や詭弁を書いたりはしません。楽山は、平気で嘘を吐く自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
私と楽山が同一のようなことが書いてあります。私は、もちろん、気色の悪い自由(楽山)ではありません。楽山は、偽善者、背教者、反キリスト、無神教カルトです。私は、楽山には真っ向から対立する批判者です。すなわち、身に覚えのないことだから謝罪はしません。
 
あと、なんだか説教してきているようだが、覚えがないか、忘れているのか、自称ヨシュアに、とやかく言われる筋合いはないのですが、今さらのように、それがどうだと楽山は言っているのでしょう。攪乱したいだけでしょう。
 
 
これは、いま読み返しても、おかしな主張だと思うが、ヨシュア氏側が繰り返していたst氏の粘着批判は迷惑だというのは正当な言い分ではある。でもアブラハム関連の議論については、自分はやつぱりst氏の方に理があるとは思うし、ヨシュア氏が議論と関係ない、st氏のプライベートなことを持ち出して、ああだこうだいってたのはよろしくないと考える。あれはst氏が気の毒だった。
 
私は、粘着ではない。楽山を、はっきり否定している。くどくどと長いだけの記事を書いている粘着気質は、他でもない、楽山であって、それを、ネチネチ書いてくる・・と、私は今までの批判記事に書いてきました。楽山は、とても低劣で、議論に耐えるものではないのです。
 
 
もっとも、ヨシュア氏側の身になって考えてみれば、st氏の粘着ストーカーに切り返すには、そのくらいの強硬手段に訴えるしかなかったのだろうし、実際それはst氏を退散させるのに効果はあったようだし、止むを得ないことだったのかもしれないな。また当時のヨシュア氏は、自分のためというよりも、マリア氏を守ろうとして奮戦していたのだろうし、あの口調の荒々しさも止むを得なかったのかもしれない。こう考えてみると、あの頃の自分は、ヨシュア氏に対してあまりに厳しい見方をし過ぎていたようだ。反省。
 
今度は、こちらを攻撃するために、偽キリスト教カルトのヨシュアの味方をしています。このように、全く軸を持たないのも、楽山という荒らしの特徴でしょう。自らを高め、他者を苦しめることを生き甲斐としているのです。
 
すりおろしたヤマノイモを、首に塗りつけるように、気持ち悪く粘着してくるのは、楽山その人であります。思いついたら、整理もせずに、一つの記事に、なりふり構わず、追加で、だらだら書き込むのも、しつこいし、しまりがない、節操がない、と言うべきでしょう。
 
楽山は、深い情緒が欠けていて、しんみり悲しんで反省する、ということが出来ないために、他者の身になって考えてみることも出来ず、憑りつかれたように、自己の利益を図るための字面の小細工を弄しているだけです。楽山の中身の無さが、どんどん明らかになってゆきます。
 
楽山は、またしても、他者を巻き込んで、混乱させてきます。私について、見た目の悪そうな材料を探して、載せては的を外して、結果、どこまでも卑怯者ぶりを見せ続けているのです。楽山の文章を読むときには、その非人間的な、無味乾燥の、悪意の筆致を見抜くことが必要です。
 
楽山の反省は嘘です。文脈を見抜いてほしいのですが、楽山は、恐らく今は関わりの薄い自称ヨシュアの、恐らく、ずっと前の記事を利用して、同情を装い、私を、おとしめているだけです。
 
楽山は、元々反省する気のない人です。私が、何度も楽山のことを無反省と書いてきたものだから、当てつけて、反省という言葉の字面だけ書いてくる。それにしても・・なんて姑息な・・。
 
嘘と詭弁と嫌がらせの決めつけだけを並べてくる楽山の筆致に、どうか惑わされないようにしてください。
 
楽山は、自身の狭い狭い思考の部屋の中で、広がらない視野と理路を字面だけで無理に広げようとしています。思いつきだけが散乱してゆく定めのようです。誰も巻き込まれることのないように、祈っています。どうか、楽山に近づかないでください。
 
 
本性

本性
 
 
(2020年)
(2022年09月04日、再録+加筆)
 
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  旧約聖書:伝道の書7:14-17
 
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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  個人カルトの惨状3
 
 
聖書の、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活を、声高に主張し、なくてはならないと信じている信仰?は、信仰ではないと思います。。いちばん大事なものに触れていないからです。神の意志と行為を決めつけて奇跡で守られると信じ込んでいるのは、シャロームshalom という偽善者と同じ所業です。
 
例えば、総ての人がシャロームの信条を信じたらどうなるかということを考えれば、自己中の妄想症であるシャロームの言説の矛盾と害毒から、明らかになることがあります。これらは、楽山と共通しています。妄想は、救いの中心にむしろ背くものですから、信仰にはなりません。
 
例えば、信仰は人それぞれ、というのは、聞こえはいいですが、信仰は好き勝手にやっていい、という意味で使って、批判を聞き入れないのが、シャロームです。それを黙認すれば、キリスト教を名乗るカルトが、好きなように蔓延るでしょう。ここも、楽山と共通しています。
 
どうなるかというと、偽牧師シャロームの言説は、自己中心ですから、広まれば広まるほど、自己中の人間が増えてきて、結局、憎み合う経過と結果になるでしょう。閾値を超えれば、暴力的な争いを生む必然があるのです。
 
シャロームは、真実の追求が出来ません。何故なら、既に、固定された真理を得ているつもりだからです。教える立場だけを持っていて、そこから、妄想教理を何度も垂れ流してきます。教える立場しか持ち得なくなって、学習と成長が出来なくなるのです。楽山も同じ性質です。
 
シャロームに、いつのまにか刷り込まれてゆけば、シャロームと同じように、丁寧であれば、いい人、ということを真似するようになるでしょう。シャロームのお仲間は、実に、他者のあしらいが似ています。それで、易坊、楽山が、お仲間ですが、同一人物の3者への成りすましを疑っています。
 
楽山と易坊は、自己中の所業を無視してシャロームの味方をするのです。裁判ではないのだから推定無罪が成立するわけではなく、証拠不十分は、どちらが正しいとも言えないはずなのに、シャロームの言い分を是として選ぶことが、既に、中立ではない偏向の証拠です。
 
ネットでは、どちらが正しいとも、はっきりした物的証拠は、見つからないことが多いのです。そういうわけで、カルト、荒らし、成りすまし、など、偽善者が、法的な犯罪に至らずに、活動しやすい環境だということです。
 
いい言葉、よさそうな言葉、といっても、ここでは、よさそうに見せかける言葉ですから、偽善者の言う言葉であり、中身がありません。非現実的であったり、深みがないと感じたり、言動が合ってないような気がするときや、ネットでの、いい行いが伴っていないときには、警戒するべきです。
 
シャロームや楽山など偽善者は、自尊に凝り固まっているので、反省をしません。失敗や失言などの非を認めません。指摘すると、当てつけや嫌がらせを返してきます。そうして、コメントを受け取らなくなり、批判記事は無視してきます。
 
シャロームや楽山などの偽善者は、神が与えた良心、つまり、良きものであるところの、思慮分別、人間的共感性、温もりと潤いという暖かい感性、悲しみのうちに反省する心など、人間らしいものを、病質と妄想教理のために持っていません。
 
聖書の言葉から神の導きを、人は推測しながら判断して進む信仰の道だということを、つまり、一気に悟りに至って固定する境地ではないことを、シャロームは、理解できません。そして、訂正不能の固定観念によって、新しい言葉を得ても、自分の言説に合うように使うため、少しも変わらないのです。
 
ゆえに、正常な人が感じて考えていることを無視して、自分で無理やり捏造するしかなくなり、自然の良心と、作為の捏造の違いとして、奇怪にズレて外れて芝居がかった和みと世辞と豪語に頼るしかなくなっているのです。そういう説教は、人間離れを勧めているので反信仰です。
 
心のどこを探しても信仰はない、とシャロームは言っていました。恐らく聖書の"土の器"という言葉を、何かすごい超常的で神秘的なものと受け取って、自分にはそれがあると自慢したいのでしょうが、嘘です。信仰は心に与えられます。人間らしい心の温もりと潤いのない人は、信仰を受け取れません。
 
楽山もシャロームも、心にある、地味で、目立たず、壊れやすい "土の器" という、信仰の器を持っていません。代わりに、派手で、目立ちたがり屋で、訂正不能で成長不能な、派手な飾りを、器だと自慢して、慢心して、修復不能になっているのです。
 
良心のある正常な人間は、人生に悲しい出来事が起こると、深刻に受け取らざるを得ないときには、悲しいから死ぬか、悲しいけど生きるか、という選択になります。しかし、心に温もりも潤いもない者は、他者のせいにして怒り恨むでしょう。アベルを殺したカインに、それを見ることが出来ます。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世記4:5-7、旧約聖書)
 
それらの作為の悪と偽善の醜さは、積み重ねられている途中であり、ますます、むごたらしい惨状を呈してくるでしょう。罪が門口に待ち伏せているからです。カインは、自らの不都合を他者のせいにしました。カインは、サイコパスの起源のようなモデルなのかもしれません。
 
 
人間が生きるためには、最低限の衣食住が必要ですが、それが何とかなっても、生きられるとは限りません。人間は、物質でもないし、理屈でもないし、統計の数でもないから、何かを宛がわれて、元気になるわけではありません。人間だからです。
 
人間が生きるために必要なのは、絶対孤独ではないことです。それが残っているあいだは生きるほうを選べるでしょう。人間関係がないと感じて絶対孤独に陥ると、必ず希死念慮は起こってきます。信仰は、人に見離されて、どんなに孤独でも、最後の砦として、キリストがおられることを告げています。
 
私にとって好ましい人間関係は、私の至らなさで、殆どなくなったのですが、私が、生きてみようと思い、今日一日のパンがあれば今日一日生きる、という気持ちで、生きているのは、信仰者である人間として、キリストとの関係という希望からだと思っています。
 
人間にとって、信仰、すなわち、神聖との関係は、人間の側から分かるのは、あくまでも、人間としての受け皿です。だから、人間に生きる力を与えうるのです。シャロームと楽山が典型ですが、超常のことばかり言う人を、信頼しないでください。
 
神聖との関係などと思い始めると、聖書の謎解きに走ったり、何ごとがあっても自分に都合の良いように恵みが与えられるんだとか、気合いで、ありがたがったりするような、信じ込む信仰?になります。それは、信仰ではなく、カルトと同じ思い込みの形式をベースとする間違った偽りです。
 
カルトと同じベースの信仰?は、悟り顔の、わざとらしい薄笑いや、いつのまにか、他人より自分は高いと潜在的に思い込んでしまいます。ゆえに、自尊や有頂天の陶酔になることはあっても、生きる力にならず、いかなる温もりも潤いも、みずみずしい気づきもないのです。
 
何故なら、私たちが、人間だからです。人間としての知性や情感、つまり、弱さや罪深さで反応できることだけが人間を救うのです。偉大な神が味方だからと、豪語ばかりしている人は、いちばん大事なことを、見失っている可能性が高いです。
 
人間の弱さと罪深さに寄り添って同伴してくれるのがキリストであり、正直な罪人を、飾りのない一人の人間として、二千年前に愛してくださった言行録が伝えられているのが聖書であり、キリストの同伴という聖書から得られる信仰の救いのメッセージです。
 
キリスト者(クリスチャン)というのは、キリスト・イエスに、情緒的にも、理性的にも、囚われているがゆえに、その絆(きずな)によって、自らを尊大とは成り得ない罪人として、キリストの同伴と罪の赦しと癒しと導きを願いながら、正直な祈りとともに、生きてゆく人間に他なりません。
 
決して、一気に悟って、揺るがない境地に居るのではなく、折々に反省し悔い改めて告白し、学習し修正し成長して行く生き方がキリスト信仰の生き方であります。揺るがない信仰というのは、固定ではなく、生きてゆくための忍耐力のことです。
 
キリスト者において、キリストの御名によって祈ることこそが、キリストの同伴を信仰することであり、あらゆる現実から見放されても、決して超常魔術のような一方的な理解不能の力頼みに逃げるのではなく、より人間的な温もりと潤いに恵まれて生きるのが、キリスト信仰です。
 
カルト的超常の豪語に惑わされないようにしてください。彼らは、人間でいるのが嫌で嫌でたまらなくて、超常の欲望を自らに当てはめるほうに短絡して、自己満悦しているに過ぎません。彼らは、人間離れと現実離れになりたがって、妄想世界に生きています。
 
だんだん、実際に人間らしさを失って、人を下に見るようになり、能力がないのに、信じ込んでしまったために、自身の過大な確信によって、むしろ、自らの無能と、超常の全能意識の間で、自他を破壊する道を選んでいる者たちであります。どうか近づかないでください。
 
救いのうち、超常現象は、神の偉大さを表す神聖の専権事項です。神に任せるしかないことです。人間が、ああだこうだと辻褄を合わせたり、信じ込んだりできることではありません。このことに、信仰の目覚として気づくことが必要不可欠です。人間らしい信仰者であり続けてください。
 
 
カルトの目指す果て

カルトの目指す果て
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年08月10日、再録+加筆)
 
 
 
 (ヨブ記より抜粋)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 ・・・
40:1
主はまたヨブに答えて言われた、
40:2
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
40:5
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ記より抜粋)
 
 
ヨブが、最終的に、神に救われたのは、この聖句のように、おのれを空しくして、そのままの自分を、正直に、神に捧げる態度を示したからです。それまでの実績も、富も、正しさも、善なる行為も、神の前には、意味をなしません。
 
祈りとは、一途に、神の前に、自分の罪と無力を "正直に" 認めることです。
 
神の前には、善悪でも正邪でもなく、"正直" だけが必要です。
 
神の前に "正直" でしかありえない人は、人の前で、完全な正直は難しくても、だますような作為の悪や偽善などの罪を犯すことは出来なくなります。信仰が、善悪や正邪と接するのは、この一点においてであり、信条・教理・教条によって固定されるものではありません。
 
人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思ってしたことが、相手を傷つける、ということも起こってきます。人間は、真善美の追求において、即ち、善を心掛け、真実と正しさを追求するときに、このことを承知していることが必要です。
 
つまり、このことは、絶対の神の前において、人間が、たとえ讃美であっても、真善美を豪語できないことの根拠であります。善悪と正邪の判断は、人間にとって、絶対ではなく、完全ではなく、不完全なのです。ゆえに、神の前に通用するのは、"正直さ" だけなのです。
 
キリストが敵としたのは、褒められることだけを悦び、批判されると憎しみをもって殺意をいだくような、そして、正直の代わりに、うわべの善と正義に酔い痴れているような、いわゆる偽善者であります。結局、そのような者たちが、救い主キリスト・イエスを、殺すことになるのです。
 
 
 
  (抜粋)
 
悲しみを悲しみとして受けとめれば、泣き怒り時には背教の念さえ抱く。そういう裸のありのままの姿の自分を見て神の前にさらけ出し認め自覚することによって隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることによって初めて耐えるという愛するためのきびしい忍耐の行為が生まれるのである。
 
何よりも神の前に正直であれ。疑いも正直に告白せよ。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白せよ。キリスト者はそのために祈りという情緒的で人間的な手段を与えられている。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を、そして義務を与えられている。
 
 
  祈り
 
父なる神よ
私はあなたに触れることの恐れのために
あなたを恐れます
あなたは火のように強く
私は火にかざした一本の髪の毛のように縮み上がり
それほど無力であるがためにあなたを恐れます
私は罪深く
私の知恵は乏しく
父なる神よ
あなたの御心ははかりがたく
それゆえに私はあなたを恐れます
罪の深さを知るほどにあなたを恐れるばかりです
私はやさしい父を呼ぶようには
あなたを呼べず
「私を見たものは神を見たのである」という主の御言葉にすがり
ただ主イエスキリストの御名にすがるのみです。アーメン。
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
  告白
 
人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを、逆に、福音として受けとめるほかはない。
 
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
  酒を飲む
 
久しぶりに酒を飲む
焼酎のジュース割り
夕食の残りで深夜の空腹を満たす
短い眠気と吐き気
アルコールは正直だ
かつてそれがセレモニーとも知らずに
正気を失って飲んで歌った
べらべらと喋りまくった笑った
アルコールは正直だった
量を越せば正気を失わせた
量を越せば吐き気や眠気を与えた
アルコールが正直だった分
翌日私は何事もなかったかのように
あれも一つの仕事でした
という顔をしなければならなかった
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる
 taka のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
引用マンガ(省略)のセリフ
「人生を変えようとする人を叩くのは
 人生を変えられない人だからな」
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 
批判してきた約3年余り、楽山は、発信はするが、何も受け取らず、人生を、浪費しているだけです。しかも、発信によって、害を及ぼすだけです。そういう無反省・無責任の人に、人生を良い方向に変えることなど出来ません。被害者意識だけで、ますます、悪性に変質してゆくだけの経過です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
宗教の教団に入信していないが、その言説が、カルトと同じ、単方向の訂正不能そして無反省であるのを、個人カルトと呼んでいます。また、無神論の記事を載せ、神を証明したら信じてやるなどという見当違いの雑言に賛同する者を無神教カルトと呼んでいます。楽山は両方に当てはまります。
 
 
 
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  猛者への堕落4
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には、ある種の猛々しさが残る。せっせとお味方になる意見を集めている。それは猛々しい文章である。その威勢のよさの分だけ、また人間としての共感を失ってゆくのは、字面だけを追って、お味方になる意見というだけで悦び、褒めまくるからである。
 
一般的にヒューマニズム云々を、社会通念に過ぎないものとして批判して、そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが、そういう福音の変質を語る前に、他者を語る前に、人が考えるべきもっと重大な自らの問題を考えていない。
 
人間性を欠いた信仰?は、神性と神聖と真正の確信?に満ちて、正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる。自らに目を向けず、反対意見に耳を貸さず、お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく。
 
そして実際に賛同者以外とは、つまり反対者とは話さなくなる。そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである。しかし、いったい、神への恐れを知る信仰ではなく、むしろ神を恐れず誇大化した自我からの尊大な妄想的確信に、担保されうる何があろうか。
 
しかし、それでも保険のように、神の側に担保されるという神の意志を自らのものにして、さらに確信を強めてゆくので、恥ずかしげもなく、信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく。
 
信仰に対して羞恥心を持つ必要はないのだが、信仰によって恥知らずになっていいはずはない。人が持つべき羞恥心は、実際には、信仰?によるつもりであろうがなかろうが、自己の不完全性の無知と無恥からの異なる意見の軽視~無視に対してである。
 
さらに最悪な恥知らずとして、信仰?によるという間違った確信において、異なる意見を封殺するような非人間性による自己正当化である。そういう者は聖句さえ悪用する
 
しかも嘆くべきは、確信に満ちた非人間性の思想は、自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想であり、詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら、何事も無かったかのように慢心していられるほどの厚顔で、罪悪感を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
以上は、偽牧師シャロームについて書いたことです。カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースから崩れてゆく定めです。
 
このように、キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きています。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間離れした超常を説く必要はなく、人間の心において理解と共感が可能な中心を持っていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力があります。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るでしょう。
 
 
 
 楽山について考察
 
楽山の文章というのは、月並みで、社会通念とか先入観や固定観念からの発想に過ぎず、独自の、直観や経験からの切実さがありません。ごまかすために、楽山は、読書の履歴を書いて引用してきますが、引用の基準は、自分の固定観念に都合がよいかどうかでしかありません。
 
さらに、有名人や学者の名前と、学術用語や宗教用語で飾って、自分も同列であるかのように気取ってくる楽山の態度は、その引用の恣意性や、聖書についての誤解と曲解とともに、楽山独特の詭弁と婉曲性と曖昧さをもって、まわりくどい図々しさを表してきます。
 
肯定するときには、「せつなくなる」「一言一言に力があり」「心に迫ってくる」「期待して読みすすめたいと思う」などという、深い中身のない世辞の賞賛の言葉を付けるだけです。そういうことしか書けないのだろうと思います。内実に一歩も踏み込めないのが楽山です。
 
一方、反対の時は、「好悪は分かれそうだ」「カルト信者にありがちなこと」「強まる傾向はあるように思う」「という話もある」「慎重に吟味すべき」「よく聞く話ではある」「現時点での正直な感想ではある」「一理ある」などと語る婉曲性と相まって気色の悪い刺激臭となります。
 
楽山は客観的に書いたつもりのようです。でも引用して批判しなければ賛同ですから、人の口を利用しても自分の主張であることに変わりはありません。楽山の引用は、徹底して責任を負いたくないという意図なのです。自分の意見ではないから責任は負わないでいいと思っているなら、大間違いです。
 
それら、責任逃れの、通念的発言で、無責任であるなら、アドバイスにもヒントにも示唆にも参考にもならないということです。本気で書いていない、受け狙いだけ、これならちょうどいいだろうというバランスを思いつきで捏造して書いてきます。
 
そして、何よりも、重要な是非の問題について、賛否入り混じって、どちらともつかない、真剣味がないのです。結局、実のあることは何も言っておらず、暇つぶしの、邪魔なだけのセリフになるわけです。つまり、意見交換になっていないのです。
 
楽山は、生まれ育つ過程で、こう言えばよく思われる、受ける、学があると思われる、というような学習と条件付けしか身に着けておらず、実体験から、受け取って、感じて、何が正しいかを考えて、誠実に意見を組み立ててゆくという学習と成長が出来ない人です。
 
しかも、自身の無責任な発言を、止めようともせず、他者の意見を無視して、先入観のまま、繰り返し書いて、やり返したつもりでいるわけだから、無責任に加えて、無反省かつ訂正不能という人格の偏奇としか判断できないという経過です。
 
そして、指摘しても、批判にもかかわらず、それが長く続けば、人格の異常、人格障害としか考えられないのです。それで、もう3年余り続いているから、今後も変わらないだろうという結論が出来上がってしまいます。
 
そういう執着性と反復性と継続性から見ても、楽山については、一時的に感情的になって意地を張っているのではなく、不可逆の性質を持つところの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質を考えざるを得なくなっているということです。
 
そういう人物は、リアルな世界では、殆ど発言をしないか、しても認められたことのない人でしょう。だから、ネットの世界では、無反省、無責任に、好きなように書いて、一切、他者の言うことは聞かないし訂正しないでいいと思っているのでしょう。
 
前に、楽山が、私が実名を出しているのは自己顕示欲だと、けなしてきたことがあります。私は、人それぞれではありますが、できれば知ってほしいと実名を出すことは正常な範囲内だと思っています。さらに、実名を載せることは、自らの発言に責任を付与することでもあります。
 
一方、楽山は、実名を出せないのです。責任ある発言が出来ず、責任を負う気もないからです。しかも、ツイートを非公開にしたり公開に戻したりと不安定で、もはや、裏で何をやっているのかが、恐ろしい楽山なのです。
 
楽山の自己顕示欲は、匿名が通用するネットにおいてだけ、生産的な目的もなく、ひょっとしてバーチャル教祖にでもなりたいのかと思うほど、カルトと同じ単方向の、訂正不能、つまり、学習不能な自己愛の誇大妄想性として表れています。それで、無神教カルトと呼ぶこともあります。
 
以前、楽山は言いました。神がいるなら、なぜ、悪がはびこるのか、なぜ、神は悪を放置するのか・・などという、いちゃもん。確かに、なぜでしょう。それに答えられる人はいません。しかし、そういう考えは、神がいるなら、みんな、ハッピーのはず、という身勝手な前提がある証拠です。
 
神は、人に理解できるような、天国のバーゲンセールはしないでしょう。どうしようもない悲劇が起こるから神はいない、などという言い分は、神の恵みに触れたことのない楽山のような利己的な人格が言っていることです。そのような安っぽいところに信仰の根拠はありません。
 
だから、今となって、私は、つくづく思います。なぜ、神は、楽山のような偽善者を放っておくのでしょう。なぜ、さっさと片付けて、みんなをハッピーにしないのでしょう。ゆえに、私は思います。救いは、この世の出来事の表層に、はっきり見えてくるものとは限らないのだろうと。
 
本当の救いは、もっと深いところ、あるいは、この世の人生以外のところ、人が気づかないところにあるのだろうか。それに気づく時は来るのだろうかと思います。神は、人間が、逐一納得できるような、ご利益の救いではなく、あくまで、神の計画に沿って、救いと裁きは成就するからです。
 
だから、神は、いつまでも、黙って見ているだけではない。導きの不思議ということは、人づてにも聞いているし、経験上も、感じてはいるわけです。楽山などが、いちゃもんなど言って、しゃしゃり出てくるスペースは、どこにもありません。
 
ずっと神を呪い続けているような楽山が、何もかも、うまくいって、継続して、不幸などなく、いつまでも、満ち足りて過ごす、などということは、想像も出来ないし、あってはならないことなのです。歴史の出来事も、いずれ、裁かれる時が来たし、これからも、来るのでしょう。
 
神と、条件交渉みたいな、取引でもする気でいる者には、無償の救いが与えられることはありません。その恨みで、楽山は、神を呪っているのかもしれません。
 
しかし、いつ、神の救いの業(わざ)が起こるとか、どのように起こるとかは、人には分からないのです。神は、人に、いちいち説明はしない。正直な祈りだけで、人が、無条件に救われるために、人の信仰にも、無条件であることが要求されるのではないかと思っているところです。
 
 
現在は所在不明の偽牧師シャローム shalom と、荒らしの易坊、そして、楽山は、ネットの発言と交流において、つながりがあります。易坊とシャロームは一緒に私のヤフーブログを荒らしてきました。楽山はシャロームに無条件賛同しました。3つのHNが同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 
猛者、凍結

猛者(もさ)凍結
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月17日、再録+加筆)
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
 
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
 
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
 
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
 
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
 
許せるだろうか
許されるだろうか
 
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
 
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
(歯科へ行け!)
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
 
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
うまくいっていると思う間、悦び、慢心しても、欺きであることに変わりはないのです。悔いないことが病気であり、改めないことは罪悪であります。自らの罪悪を、「人間の性」と一般化して、みんなそうでしょ・・みたいに煙幕を張っても、詭弁の汚らしさを表すだけなのです。
 
 
 
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  御旨
 
誰かが間違っているから気に入らない、という思いだけから殺したり潰そうとしたりはしないだろう。しかし、誰かが神に背く者だ、という確信が信仰になってしまうと、敵と見なして殺し潰すことが神の御旨になる。これが思い込み信じ込む宗教の怖さである。それは信仰とは言えないものです。
 
神の御旨を知る根拠は、人の側にはない。そこから、いかに強い思いであっても、神を恐れる人は、恐れのために慎みを持ち、神の御名と御旨を自らの思いに掲げることをしない。そして自らの思いについて、罪の赦しを祈ることになる。これが人としての信仰の敬虔であり謙虚である
 
人は神の道を歩めない
人は神の御旨を知り得ない
人は神を知らない
人はキリストに仕える希望の水の泡であり
ゆえに人は湧いては消える思いに悩み
祈りのうちに裸である
 
 
  絵
 
画集の中の絵画
山の中の林の小道のようだが
 
風と草木が
区別も出来ないほど
乱れ震えて
吹き出すように
動きを伝えてくる
 
外から内から
激しく震え動くのは
こちらの眼と心だ
 
留まることを許さない風景が
心を問う
 
吹かれているか
吹いているか
揺さぶられているか
揺れているか
震わせているか
震えているか
 
動いているか
 
心は
ここにはないのだと
 
 
  偽の関係
 
相手について信じていることに「偽」の称号を与えてください。自分が思っていることは、実際、仮のもの~偽物だからです・・と言うことの語弊を承知の上です。誰でも相手について、知り尽くすことはありません。知っていると思っても、無知と誤解と曲解で関係はできているのです。
 
だから相手は、自分の期待通りに答えることも行うこともありません。もし期待通りだったとしても、その見方が既に偽物なのです。自分の前にいるのは相手ではなく、自分が相手だと思いこんでいる何かなのです。
 
そして相手の意外な言動に、ある日、驚き、がっかりしたり、怒ったり、幻滅したりします。でも幻は滅びたほうがよいでしょう。ときには相手の意外な側面に、喜びを見出すこともあるでしょうが、それもまた本物の相手ではありません。それが、人間関係なのです。
 
私たちは、相手という偽者に出会い、付き合い、そして裏切られ揺さぶられ、ときに気づかされ、決して留まることのない関係という希望の動態に生かされているのです。一人の、仮~偽のものとして。
 
 
  重いテーマ
 
信仰について、理解できない学説のようなものや、根拠のない結論だけのコメントを書かれてもレスしようがないですが、その理由も含めて「レスしようがない」というレスは可能です。それも気が向かないならスルーすればよいのです。しかし、いつも気が向かないでスルーするのは、自己中の人です。
 
相手が一応真面目に書いているらしいコメントなら、削除してはいけないと思います。テキストだけとはいえ、相手は人の書いたコメントですから、削除は、人格の否定につながります。
 
話を合わせて、その場しのぎのレスを返してもいけません。記事にもコメントにも流れがあり、バーチャルとはいえ、ひとつのブログの中で、別人になることは出来ません。いずれ誰かに変だと気づかれるからです。変だと気づくのは、自分自身であるかもしれません。
 
客観的な根拠のある意見の遣り取りが正しい議論ではありますが、テーマが信仰となると、根拠も前提も、根拠、の根拠、の根拠、・・、となれば、つまるところ論理的ではありません。この場合、前提を共有できるかどうかの問題になります。
 
コメントを書く人が皆、生産的で正しい議論を始めるために来ているでしょうか。実際にはコメントの大方は、少し詳しい感想という程度だし、人対人として付き合い方を判断することはあっても、相手が一応真面目に書いているなら、たとい苦言であっても本気で対応するべきでしょう。
 
だから恐らく、それを不毛というなら、私は不毛な遣り取りで時間を無駄にしてゆくだろうと思います。不毛も無駄も非生産的も、私には日常です。それをも諦めるのは、相手が人間だと思えなくなったときだけです。
 
コメントした人は、論客とは限らず、議論するためとも限らないコメント、人が書いたものです。リニアでバイナリの心性が、「根拠がない」→「正しい議論にならない」→不毛(→面倒?)→削除。つまり、一途だが直線的で、1か0か(全か無か)という対応をするとき、自己完結だけになります。
 
即ち、セキュリティのようなプログラムが、プログラムされたかのようにファイル(コメント)を選別し排除するようなものになり、その果てには、結果とは程遠い、茫漠たるウソの国・・そして自己満足か体裁のために白々しい看板を掲げるのです。「反論大歓迎」と。
 
 
重いテーマ

重いテーマ
 
 
(2022年02月24日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間であることの条件は、人間関係の成り立つ条件でもあります。ごまかしと嘘と詭弁のないエリアを、自分の中に、特定の外に向けて、構築できるかどうかであります。それが出来ない者は、生涯を、嘘の国で過ごすことになります。そういう部分はあってもよいが、全体がそうなると破滅です。
 
 
 
 st問題資料集(2_5)悔い改め
 2022年02月23日 楽山日記(LD)
 
 
実際は、(1)、(2,1)、(2,2)、(2,3)、(2,4)、(2,5) まであります。
 
楽山は、長い長い記事を6つ書いています。ここに、読む人のことを、まるで考えない自己中が表れています。こんな長い記事、読む人いるのかね・・と思われる記事です。そういうことを、まるで気にしないのが楽山の特徴です。量で圧倒したいのでしょうか。言論は、そういうものではありません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、説得力など、どうでもよく、長く書いたぞと優越感を感じるのでしょう。楽山が、病質になってしまった経緯は知りませんが、現時点で、すさまじい迷惑男が楽山なのです。人を助ける代わりに、煩わす言動しかしないのです。
 
今回、いちいち、長い文章に逐一批判を加えるつもりはありません。こうなるのは、病質の症状だということを、楽山だけが気づかないということです。こちらは臨機応変に対処します。私が、楽山、シャロームshalom を批判した、その返しに、まるで、なっていない楽山の悪あがきには乗りません。
 
このように、病質者と見なしている楽山が、病質らしい執着で、書いてきた長すぎる文章を、こちらは、疲れるだけだと判断するわけだから、楽山は、強迫的に、届かないものを投げてきたに過ぎません。文章の中身を見なくても、これが、楽山の、大人に成らず、ならず者になった症状なのです。
 
つまり、自分のためだけに他者と関わる楽山の、気遣いのなさと、真実の追求ではなく、勝ち負けの勝ちを得たい短絡した欲望の自己顕示欲だけが、何も生まない、醜いブログ記事となっています。楽山に関わると、こういう地獄を当てられるわけです。つくづく付き合えない人格だということです。
 
楽山に、だまされていた数か月と、こちらの話をまるで受け取っていないことに呆れて批判に転じた3年余りのコメントの文章が、だらだらとコピペしてあり、経過をまとめるとか、批判を正当に返すために必要なことは一切していないのだから、こちらも、気色悪いので、反応する気になりません。
 
こういう書き方は、楽山は、能力を誇示したいのでしょうが、気が付かず、気が回らず、簡潔にも書けない楽山の、言論する人間としての欠陥を示すだけで、今まで、他者と、まともに付き合ってこなかった悲惨な末路だけが表れていて、哀れなだけです。楽山とは、決して関わってはいけません。
 
人は人、自分は自分、というのを、また出しているようです。他にも、人それぞれ、意見を書いてはいけないのですか、などの、だまし文句の詭弁があります。これらが成り立つのは、人間として受け取って考えて、責任を負うところの、正常人だけです。楽山が欠格なのは、何度も書いてきました。
 
以上より、楽山は、書いたものを公開する資格はないと思います。言論者ではないのです。刷り込み屋、詭弁屋、印象操作係、嘘吐き、偽インテリ、気取りだけのピエロ、そして、いつでも、どこまでも、真実から、かけ離れたところに向かって、悪意の笑いと怒りだけを向けるサイコパスです。
 
伝わってくるのは、どうだ、書いたぞ、批判してみろ・・という楽山の、体質からの脅迫だけです。文章の量で勝負できると思っている不全の者、こういうのに、付き合いたいでしょうか。否、決して相手にしてはいけないのです。節操なく、なりふり構わず怒鳴っているのと同じです。
 
 
 
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  偽善者の語り口2
 
 
特徴的な詭弁をあげておきます。偽善者との遣り取りで見られた攻撃の言葉
 
 
"ですね攻撃"
 
シャロームにおいて顕著です。
 (シャロームの言)
1「少しも実践していないようですね。」
2「アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!」
3「まだまだ私に比べてお若いのに・・・」
 
1,2が、それにあたります。3は、2の後に続けられた文言で、皮肉、当てつけの部類。シャロームの傲慢だけが表れています。わざとらしい丁寧語が、鼻に突きます。
 
自分が上で、批判者が下だ、という蔑みを向けており、信仰者は、このような嫌らしいことは言いません。信仰者が批判するときには、できることをする、言えることを言う、否は否である、という姿勢を貫くことが必要です。
 
シャロームにおいては、あと、大仰な讃美、また、讃美の聖句を、だらだらと長く引用してきます。讃美しておけばクリスチャンじゃろ、という安易さが、しばしば見られることです。過ぎた讃美は、信仰自慢であり、同時に、カルトに特徴的な自画自賛でもあるということです。
 
 
"ボンヤリ言語"
 
楽山において顕著です。
 
「ていうか」「かなあ」「っぽい」などという大人の言論に相応しくない、くだけた表現のつもりの、わざとらしい言い方で、かつ、断定を避けています。いわゆる、言葉を濁して、責任を回避したい表れです。「と言えなくもない」という言い方もあります。
 
「本当に決めつけないなら、「一度もないということだ」と断定できず、「一度もないように私には思われる」という」・・断定しないのならば、「一度もない」、という強い表現を用いながら、「私は思われる」という曖昧な言い方をつけるほうが、むしろ、変です。
 
楽山は、語尾だけ、いい加減に、曖昧に、細工して、断定していないと言い逃れているのです。日本語のバランスや調和や整合性が理解できていないと思います。
 
総ての言論に『と思う』は暗に付いてくることを知らず、「思われる」等々の、濁す語尾を、いちいち付けないと気の済まないのが楽山の強迫症状です。これで、断定していないから責任を逃れられると思うのでしょうか、成り立ちません。言葉の勢いとか情緒といったものを理解できない楽山にありがちなことです。
 
そういうことを気にして、ロボットのように機械的にこだわって、ボンヤリした表現を進んで使いながら、そのボンヤリ言語に、断定していないから責任はないといい、作為の印象操作や刷り込みの誘導を含ませてくるのが、楽山であります。
 
 
楽山は、神がいるなら、どうして災いが起こり悪がはびこるのだ!とクレームをつけてきます。災いや悪は、他動的に起こる、即ち、神が起こすか、神が止めないから起こる、という言い分のようです。
 
これこそ、自らを省みることのないサイコパスが、自分に起こった災いも、人類に起こった災いも、神のせいにして、楽山の、自己に慢心の醜態から、神さえも上から見下ろしているつもりで裁こうとするのです。宗教も信仰も知らない楽山の見当違いもいいとこです。
 
このようなことは、考えるだけ虚しくなるだけだから、小学生にも笑われそうな、幼稚な短絡です。それを、楽山は、あたかも真理を語るかのように、恥ずかしげもなく書いてくるのです。
 
いかに楽山の言語理解のレベルが低く、同じことを言い続けているほど、学習も進歩も成長もないということを表しているのです。こういうのに付き合わされたほうは、たまったものではありません。このように、恥とか醜態とか嘘とか誤謬とか罪悪とかに、自覚も反省も学習もないのが、楽山であります。
 
 
"トホホ言語"
 
私が、楽山のことを、無反省、共感性がない、と言った後あたりから、楽山が盛んに書いてきたことがあり、「反省。トホホ」などとも書いています。謙虚芝居でもあります。「共感」という言葉も使うようになりましたが、その前と後で全く変わらないことで、反省も共感も嘘だとバレています。
 
楽山は、実感というものを持っていないので、言葉を書けばいいと思っているだけなのです。中身がないから、たとえるなら、言葉の、深い意味を考えもせず、文字列を真似て繰り返し、ハンセー、ハンセー、キョーカン、キョーカンと、オウムが鳴いているだけのようなものになっています。
 
楽山が、あざとく、いくら卑下して見せても、その前と後で、変化が見られないならば、だまし目的の受けねらいで同情をひくためだけの、柔和芝居、謙虚芝居だと分かるのです。同情を求めて、というより、同情をひくことを狙って、いくら大仰に書いても、無駄です。
 
 
人の日常感覚で、神を語ることは出来ません。大事なのは、確定的には何も語れない超常ではなく、絶対に対する私たち人間の相対性、即ち、私たちの不完全性=罪の性質について考えることです。そのための絶対の存在であります。
 
勘違いしないでほしいのは、絶対の神は人に対して救われる生き方を与える御方であり、決して、話を合わせる仲間同士の世辞の頷きを求めているのではないということです。
 
人は日常感覚しか持っていないのに、その感覚で、超常の神の意志と行為を、先入観と偏見に満ちた固定観念の決めつけで語っているのが、楽山であり、自分のお粗末な日常の理屈で、自ら反省することなく、神を、楽山の頭の中の、机上の、貧弱な空想の、材料にして、おとしめているのです。
 
人の日常感覚で、根拠もないのに、超常の意志が分かったつもりになり、あげくの果ては、神が自分に、不変の好意だけを向けてくるという信じ方をしているのが、シャロームであります。自身のお粗末な日常の理屈で、反省せず、悔いることなく、やたら、神を賛美して、結局、自分を褒め讃えているのです。
 
信仰は、人間が良心のある成長可能な人間になることを促すのであって、決して、人間が、超常の感覚や境地を持つことではありません。何故なら、超常の感覚を求めるようになると、だんだん、日常の感覚に注意を向けなくなったり、良心の人間的な感性と働きを疎かにする罪の性質が人間にはあるからです。
 
キリスト者にも、先入観にとらわれている人はいると思います。しかし、そういう人に、批判で斬りこむことは、事態を悪化させることもありそうなので控えています。楽山は既に悪化して、他者の悪影響を与え続けているので批判しています。訂正不能に固まった思想は、人を生かすことはありません。
 
シャロームと楽山については、恐らく、"キリスト教、くみやすし"、と思っているような、反キリストの偽善者であろうという推測からの判断ですから、事態を悪化させることを恐れて和んだり調子合わせをすること自体が、最悪の事態ですから、偽善者と見なして、全否定で批判しています。
 
特に、楽山は、批判して、あとで、賛同みたいなこと書いたら、プラマイゼロで断定していないから責任問題は発生しないみたいなことを言っていました。無反省のまま、間違っていたと訂正しないで、ころころ主張の方向を変えることは、しっかりした思想を持っていない証拠です。
 
楽山は、いかなる話し合いにも議論にも相手にしてはいけない人です。楽山は、正常な一人前の大人になっていないと思います。そういうことだから、トラブルが発生しても、嘘と詭弁でごまかす習性だけが身についたのだろうと思います。ごまかせない事態は、いずれ訪れるのです。
 
私も経験済みですが、楽山は、付き合えば付き合うほど、異常な精神疲労をもたらします。正常人ではないと思って、相手にしない、関わらない、付き合わない、近づかないことが必要です。
 
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(2)〈KENTO氏の主張〉
 2021年01月31日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判します。
 
 
楽山は、好きなだけ、様々な、多くは故人の、言葉を、自分に都合のよいように、偏って引用して、偉人もこう言っている、という書き方で、楽山の快感と都合を通そうとするのです。つまり、楽山の倫理性は、客観性も安定もなく、メチャクチャになっているということです。
 
偽善というのは、悪が善人のふりをすることです。楽山は、さらに、批評家のふりをします。そして、他者を責めるのです。他人のゴシップは大好きだが、自分の反省はしない楽山です。これからも、そういうことは、多々あるでしょう。
 
法的に問題となる盗用よりも、深刻な問題が、楽山の精神性にはあります。他者を責めて、はしゃいでいる異常者特有の快感が表れているからです。
 
 
「無断引用」とは、当該卒論は、一定の条件を満たし容認される無断引用ではなく、一定の条件を満たさず決して容認されない無断引用がされていたという意味であり、盗用というのを最大限に婉曲に表現したということなのだろう。
 
こういう法的な意味とは別になる問題があります。人をあざける者の悪意の反倫理性という問題です。楽山としては、一部を指して、ひどいこと、やってる、自分は引用だから、まだマシ・・という逃げ道を、あらかじめ用意して、キリスト教を否定するために、有名人や学者の引用を利用してきたのです。
 
不正は不正として、裁判にもなるのでしょう。それよりも、法に触れないことをよいことに、責任を負わないまま、悪意の羽をバサバサと好きなように振り回して、誤解~曲解を、悪用して、煽動してきた反倫理性が、言論において、そのまま放置されることはないのです。
 
完全自己中の笑いが見え透いてくる楽山の、他人のことだけは責めて、自分を責める批判には、耳を貸さず、スルーというが、実際は、不都合を無視することでしか凌げないのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の偽言論なのです。
 
 
*裁判
私見ながら、裁判の可能性についても一言述べておくと、この件は当人にとってはもちろん、HSにとっても大学にとっても不名誉なことであり、大事にはしたくないだろうし、研究者は若い人を訴える気にはなれないだろうし、当事者および関係者には誰も裁判にしたい人はいなかろうと思う。
 
このように、楽山は、裁判の可能性を書いていますが、自分の、勝手な引用は、どんなに引用元をおとしめても、引用元の多くは故人でもあり、関係ないという担保の上で、あぐらを掻いている姿勢です。
 
まさに高みの見物のように、楽山が、恐らく倫理や人間としてのあり方を責められて、そのストレス解消のために、やじっている風情となっています。一方的な思い込みの言論と、作為の丁寧語の書き方です。
 
楽山に、他者を責める資格はありません。隠し事と、嘘と詭弁で、だましておいて、平気でいる異常な心性の気晴らしに、法的問題をあげて、裁判、裁判、大変だ、という、筆致とは裏腹な扇情的内容です。よく書けるものだ、やはり異常者だからだろう、などと思わせる記事であります。
 
自分が責められているときに、自分は何事もなかったように、別件をあげて、他者を責めるのが、楽山のストレス解消法のようですが、いずれ、総てが瓦解するときには、そういう行動パターンも、姿勢も、併せて、責められる対象となるでしょう。
 
 
特にHSは、週刊誌記事に対しては何度も訴訟を繰り返しているにもかかわらず、この件についてそういう話は聞かないことからすると、大事にしたくないという思いは特に強いのではあるまいか。
 
不正を大きな事件にしたくないHSを、暗に責めていますが、楽山は、一時ではなく、私が関知する、少なくとも3年にわたる自らの不正を、大きな事件にしたくなくて、無視して、隠蔽している人です。そこに、継続して批判する必要が生まれています。
 
 
将来的に咲也加氏が存在感を増し、目立った動きをするようになれば、マスコミは再びこの件を喧伝するだろうし、そうなった場合、HSの対応も変わってくるかもしれないが、現状では当事者の中でこの件を蒸し返したい人はおらず、訴訟になることはあるまいと思う。
 
このように、楽山は、敵対する者を、いずれ、大騒ぎになるぞ、とばかり、面白がっているようです。楽山が法的制裁を受けるかどうかは、今後の問題ですが、大騒ぎというより、多くの人を無視した分、多くの人に無視されてゆくでしょう。
 
ネズミのように逃げ回った者は、早く巣に戻って口を閉ざし、じっとしているべきですが、何せ異常で過剰な自己顕示欲のために、信頼を失っても、何か言って、自己満足したい楽山の、飽くことのない自己顕示欲の執拗な衝動であります。
 
楽山の記事には、ツイッターからの引用コピーが豊富に載せられています。本当に、自分の問題を、全く自覚しないで、他者が責められるのを、話題にして面白がる、という楽山の悪趣味の厚顔無恥と傍若無人ぶりが、鮮やかに表れている楽山の記事です。
 
楽山は、次は、ウイルスのように潜在して、蔓延して、また、誰かの欠点を、あざ笑うのでしょうか。「人の振り見て我が振り直せ」と言いますが、楽山は、人の振り見て責めるだけ、人の振り見て我が振りを直すことが出来ません。
 
言うまでもなく、批判を無視して、楽山が隠蔽している楽山固有の不祥事について、楽山が気晴らしに他者の不祥事でストレス解消している実態を、逆に、あばくことで、また、無視して別の他者のことだけを言う楽山という気楽なお山を、批判されるというストレスで埋め尽くすことが目的ともなるのです。
 
 
人を責めてストレス解消?

人を責めてストレス解消?
 
 
祈り
「主よ、他にする人がいないようなので、できると思ったことをしております。相当、悪者になりました。疲れています。御心でしたら、しばしの安息へ、お導き下さい」
 
 
(2021年02月01日、同日一部修正)
(2022年02月02日、再録+加筆修正)
 
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  もう無能
 
丸い種はもう蒔かない
四角い種ももう蒔かない
 
実のなる木はもう見ない
金のなる木はすでに知らない
 
いっせいに飛び立つ海鳥
砂浜に一人
波が上手にさらっていく
足元の砂の足元
光る波の一滴
乾いた
風に砂の一粒
去り際に払って
砂浜にはもう別の人々
 
砂をまく
水滴を
風を
気を
 
悪い種はもう蒔かない
木のなる実はざっくり笑って
果肉は誰の腹の中
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は「反省、謝罪は大事なことだと分かって」いません。特に、反省は、しなけれ人格低格化が進むことを理解していません。「難しいんだよな」ではなく、反省しなければ、成長しないのです。「恥ずかしながら、自分もそんな風」「人間の性」ではなく、楽山だけが、際立って反省しないと言っています。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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