ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:シャローム

 
  猛者への堕落4
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には、ある種の猛々しさが残る。せっせとお味方になる意見を集めている。それは猛々しい文章である。その威勢のよさの分だけ、また人間としての共感を失ってゆくのは、字面だけを追って、お味方になる意見というだけで悦び、褒めまくるからである。
 
一般的にヒューマニズム云々を、社会通念に過ぎないものとして批判して、そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが、そういう福音の変質を語る前に、他者を語る前に、人が考えるべきもっと重大な自らの問題を考えていない。
 
人間性を欠いた信仰?は、神性と神聖と真正の確信?に満ちて、正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる。自らに目を向けず、反対意見に耳を貸さず、お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく。
 
そして実際に賛同者以外とは、つまり反対者とは話さなくなる。そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである。しかし、いったい、神への恐れを知る信仰ではなく、むしろ神を恐れず誇大化した自我からの尊大な妄想的確信に、担保されうる何があろうか。
 
しかし、それでも保険のように、神の側に担保されるという神の意志を自らのものにして、さらに確信を強めてゆくので、恥ずかしげもなく、信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく。
 
信仰に対して羞恥心を持つ必要はないのだが、信仰によって恥知らずになっていいはずはない。人が持つべき羞恥心は、実際には、信仰?によるつもりであろうがなかろうが、自己の不完全性の無知と無恥からの異なる意見の軽視~無視に対してである。
 
さらに最悪な恥知らずとして、信仰?によるという間違った確信において、異なる意見を封殺するような非人間性による自己正当化である。そういう者は聖句さえ悪用する
 
しかも嘆くべきは、確信に満ちた非人間性の思想は、自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想であり、詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら、何事も無かったかのように慢心していられるほどの厚顔で、罪悪感を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
以上は、偽牧師シャロームについて書いたことです。カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースから崩れてゆく定めです。
 
このように、キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きています。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間離れした超常を説く必要はなく、人間の心において理解と共感が可能な中心を持っていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力があります。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るでしょう。
 
 
 
 楽山について考察
 
楽山の文章というのは、月並みで、社会通念とか先入観や固定観念からの発想に過ぎず、独自の、直観や経験からの切実さがありません。ごまかすために、楽山は、読書の履歴を書いて引用してきますが、引用の基準は、自分の固定観念に都合がよいかどうかでしかありません。
 
さらに、有名人や学者の名前と、学術用語や宗教用語で飾って、自分も同列であるかのように気取ってくる楽山の態度は、その引用の恣意性や、聖書についての誤解と曲解とともに、楽山独特の詭弁と婉曲性と曖昧さをもって、まわりくどい図々しさを表してきます。
 
肯定するときには、「せつなくなる」「一言一言に力があり」「心に迫ってくる」「期待して読みすすめたいと思う」などという、深い中身のない世辞の賞賛の言葉を付けるだけです。そういうことしか書けないのだろうと思います。内実に一歩も踏み込めないのが楽山です。
 
一方、反対の時は、「好悪は分かれそうだ」「カルト信者にありがちなこと」「強まる傾向はあるように思う」「という話もある」「慎重に吟味すべき」「よく聞く話ではある」「現時点での正直な感想ではある」「一理ある」などと語る婉曲性と相まって気色の悪い刺激臭となります。
 
楽山は客観的に書いたつもりのようです。でも引用して批判しなければ賛同ですから、人の口を利用しても自分の主張であることに変わりはありません。楽山の引用は、徹底して責任を負いたくないという意図なのです。自分の意見ではないから責任は負わないでいいと思っているなら、大間違いです。
 
それら、責任逃れの、通念的発言で、無責任であるなら、アドバイスにもヒントにも示唆にも参考にもならないということです。本気で書いていない、受け狙いだけ、これならちょうどいいだろうというバランスを思いつきで捏造して書いてきます。
 
そして、何よりも、重要な是非の問題について、賛否入り混じって、どちらともつかない、真剣味がないのです。結局、実のあることは何も言っておらず、暇つぶしの、邪魔なだけのセリフになるわけです。つまり、意見交換になっていないのです。
 
楽山は、生まれ育つ過程で、こう言えばよく思われる、受ける、学があると思われる、というような学習と条件付けしか身に着けておらず、実体験から、受け取って、感じて、何が正しいかを考えて、誠実に意見を組み立ててゆくという学習と成長が出来ない人です。
 
しかも、自身の無責任な発言を、止めようともせず、他者の意見を無視して、先入観のまま、繰り返し書いて、やり返したつもりでいるわけだから、無責任に加えて、無反省かつ訂正不能という人格の偏奇としか判断できないという経過です。
 
そして、指摘しても、批判にもかかわらず、それが長く続けば、人格の異常、人格障害としか考えられないのです。それで、もう3年余り続いているから、今後も変わらないだろうという結論が出来上がってしまいます。
 
そういう執着性と反復性と継続性から見ても、楽山については、一時的に感情的になって意地を張っているのではなく、不可逆の性質を持つところの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質を考えざるを得なくなっているということです。
 
そういう人物は、リアルな世界では、殆ど発言をしないか、しても認められたことのない人でしょう。だから、ネットの世界では、無反省、無責任に、好きなように書いて、一切、他者の言うことは聞かないし訂正しないでいいと思っているのでしょう。
 
前に、楽山が、私が実名を出しているのは自己顕示欲だと、けなしてきたことがあります。私は、人それぞれではありますが、できれば知ってほしいと実名を出すことは正常な範囲内だと思っています。さらに、実名を載せることは、自らの発言に責任を付与することでもあります。
 
一方、楽山は、実名を出せないのです。責任ある発言が出来ず、責任を負う気もないからです。しかも、ツイートを非公開にしたり公開に戻したりと不安定で、もはや、裏で何をやっているのかが、恐ろしい楽山なのです。
 
楽山の自己顕示欲は、匿名が通用するネットにおいてだけ、生産的な目的もなく、ひょっとしてバーチャル教祖にでもなりたいのかと思うほど、カルトと同じ単方向の、訂正不能、つまり、学習不能な自己愛の誇大妄想性として表れています。それで、無神教カルトと呼ぶこともあります。
 
以前、楽山は言いました。神がいるなら、なぜ、悪がはびこるのか、なぜ、神は悪を放置するのか・・などという、いちゃもん。確かに、なぜでしょう。それに答えられる人はいません。しかし、そういう考えは、神がいるなら、みんな、ハッピーのはず、という身勝手な前提がある証拠です。
 
神は、人に理解できるような、天国のバーゲンセールはしないでしょう。どうしようもない悲劇が起こるから神はいない、などという言い分は、神の恵みに触れたことのない楽山のような利己的な人格が言っていることです。そのような安っぽいところに信仰の根拠はありません。
 
だから、今となって、私は、つくづく思います。なぜ、神は、楽山のような偽善者を放っておくのでしょう。なぜ、さっさと片付けて、みんなをハッピーにしないのでしょう。ゆえに、私は思います。救いは、この世の出来事の表層に、はっきり見えてくるものとは限らないのだろうと。
 
本当の救いは、もっと深いところ、あるいは、この世の人生以外のところ、人が気づかないところにあるのだろうか。それに気づく時は来るのだろうかと思います。神は、人間が、逐一納得できるような、ご利益の救いではなく、あくまで、神の計画に沿って、救いと裁きは成就するからです。
 
だから、神は、いつまでも、黙って見ているだけではない。導きの不思議ということは、人づてにも聞いているし、経験上も、感じてはいるわけです。楽山などが、いちゃもんなど言って、しゃしゃり出てくるスペースは、どこにもありません。
 
ずっと神を呪い続けているような楽山が、何もかも、うまくいって、継続して、不幸などなく、いつまでも、満ち足りて過ごす、などということは、想像も出来ないし、あってはならないことなのです。歴史の出来事も、いずれ、裁かれる時が来たし、これからも、来るのでしょう。
 
神と、条件交渉みたいな、取引でもする気でいる者には、無償の救いが与えられることはありません。その恨みで、楽山は、神を呪っているのかもしれません。
 
しかし、いつ、神の救いの業(わざ)が起こるとか、どのように起こるとかは、人には分からないのです。神は、人に、いちいち説明はしない。正直な祈りだけで、人が、無条件に救われるために、人の信仰にも、無条件であることが要求されるのではないかと思っているところです。
 
 
現在は所在不明の偽牧師シャローム shalom と、荒らしの易坊、そして、楽山は、ネットの発言と交流において、つながりがあります。易坊とシャロームは一緒に私のヤフーブログを荒らしてきました。楽山はシャロームに無条件賛同しました。3つのHNが同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 
猛者、凍結

猛者(もさ)凍結
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月17日、再録+加筆)
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
 
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
 
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
 
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
 
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
 
許せるだろうか
許されるだろうか
 
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
 
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
(歯科へ行け!)
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
 
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
うまくいっていると思う間、悦び、慢心しても、欺きであることに変わりはないのです。悔いないことが病気であり、改めないことは罪悪であります。自らの罪悪を、「人間の性」と一般化して、みんなそうでしょ・・みたいに煙幕を張っても、詭弁の汚らしさを表すだけなのです。
 
 
 
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   過去作再録
 
  御旨
 
誰かが間違っているから気に入らない、という思いだけから殺したり潰そうとしたりはしないだろう。しかし、誰かが神に背く者だ、という確信が信仰になってしまうと、敵と見なして殺し潰すことが神の御旨になる。これが思い込み信じ込む宗教の怖さである。それは信仰とは言えないものです。
 
神の御旨を知る根拠は、人の側にはない。そこから、いかに強い思いであっても、神を恐れる人は、恐れのために慎みを持ち、神の御名と御旨を自らの思いに掲げることをしない。そして自らの思いについて、罪の赦しを祈ることになる。これが人としての信仰の敬虔であり謙虚である
 
人は神の道を歩めない
人は神の御旨を知り得ない
人は神を知らない
人はキリストに仕える希望の水の泡であり
ゆえに人は湧いては消える思いに悩み
祈りのうちに裸である
 
 
  絵
 
画集の中の絵画
山の中の林の小道のようだが
 
風と草木が
区別も出来ないほど
乱れ震えて
吹き出すように
動きを伝えてくる
 
外から内から
激しく震え動くのは
こちらの眼と心だ
 
留まることを許さない風景が
心を問う
 
吹かれているか
吹いているか
揺さぶられているか
揺れているか
震わせているか
震えているか
 
動いているか
 
心は
ここにはないのだと
 
 
  偽の関係
 
相手について信じていることに「偽」の称号を与えてください。自分が思っていることは、実際、仮のもの~偽物だからです・・と言うことの語弊を承知の上です。誰でも相手について、知り尽くすことはありません。知っていると思っても、無知と誤解と曲解で関係はできているのです。
 
だから相手は、自分の期待通りに答えることも行うこともありません。もし期待通りだったとしても、その見方が既に偽物なのです。自分の前にいるのは相手ではなく、自分が相手だと思いこんでいる何かなのです。
 
そして相手の意外な言動に、ある日、驚き、がっかりしたり、怒ったり、幻滅したりします。でも幻は滅びたほうがよいでしょう。ときには相手の意外な側面に、喜びを見出すこともあるでしょうが、それもまた本物の相手ではありません。それが、人間関係なのです。
 
私たちは、相手という偽者に出会い、付き合い、そして裏切られ揺さぶられ、ときに気づかされ、決して留まることのない関係という希望の動態に生かされているのです。一人の、仮~偽のものとして。
 
 
  重いテーマ
 
信仰について、理解できない学説のようなものや、根拠のない結論だけのコメントを書かれてもレスしようがないですが、その理由も含めて「レスしようがない」というレスは可能です。それも気が向かないならスルーすればよいのです。しかし、いつも気が向かないでスルーするのは、自己中の人です。
 
相手が一応真面目に書いているらしいコメントなら、削除してはいけないと思います。テキストだけとはいえ、相手は人の書いたコメントですから、削除は、人格の否定につながります。
 
話を合わせて、その場しのぎのレスを返してもいけません。記事にもコメントにも流れがあり、バーチャルとはいえ、ひとつのブログの中で、別人になることは出来ません。いずれ誰かに変だと気づかれるからです。変だと気づくのは、自分自身であるかもしれません。
 
客観的な根拠のある意見の遣り取りが正しい議論ではありますが、テーマが信仰となると、根拠も前提も、根拠、の根拠、の根拠、・・、となれば、つまるところ論理的ではありません。この場合、前提を共有できるかどうかの問題になります。
 
コメントを書く人が皆、生産的で正しい議論を始めるために来ているでしょうか。実際にはコメントの大方は、少し詳しい感想という程度だし、人対人として付き合い方を判断することはあっても、相手が一応真面目に書いているなら、たとい苦言であっても本気で対応するべきでしょう。
 
だから恐らく、それを不毛というなら、私は不毛な遣り取りで時間を無駄にしてゆくだろうと思います。不毛も無駄も非生産的も、私には日常です。それをも諦めるのは、相手が人間だと思えなくなったときだけです。
 
コメントした人は、論客とは限らず、議論するためとも限らないコメント、人が書いたものです。リニアでバイナリの心性が、「根拠がない」→「正しい議論にならない」→不毛(→面倒?)→削除。つまり、一途だが直線的で、1か0か(全か無か)という対応をするとき、自己完結だけになります。
 
即ち、セキュリティのようなプログラムが、プログラムされたかのようにファイル(コメント)を選別し排除するようなものになり、その果てには、結果とは程遠い、茫漠たるウソの国・・そして自己満足か体裁のために白々しい看板を掲げるのです。「反論大歓迎」と。
 
 
重いテーマ

重いテーマ
 
 
(2022年02月24日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間であることの条件は、人間関係の成り立つ条件でもあります。ごまかしと嘘と詭弁のないエリアを、自分の中に、特定の外に向けて、構築できるかどうかであります。それが出来ない者は、生涯を、嘘の国で過ごすことになります。そういう部分はあってもよいが、全体がそうなると破滅です。
 
 
 
 st問題資料集(2_5)悔い改め
 2022年02月23日 楽山日記(LD)
 
 
実際は、(1)、(2,1)、(2,2)、(2,3)、(2,4)、(2,5) まであります。
 
楽山は、長い長い記事を6つ書いています。ここに、読む人のことを、まるで考えない自己中が表れています。こんな長い記事、読む人いるのかね・・と思われる記事です。そういうことを、まるで気にしないのが楽山の特徴です。量で圧倒したいのでしょうか。言論は、そういうものではありません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、説得力など、どうでもよく、長く書いたぞと優越感を感じるのでしょう。楽山が、病質になってしまった経緯は知りませんが、現時点で、すさまじい迷惑男が楽山なのです。人を助ける代わりに、煩わす言動しかしないのです。
 
今回、いちいち、長い文章に逐一批判を加えるつもりはありません。こうなるのは、病質の症状だということを、楽山だけが気づかないということです。こちらは臨機応変に対処します。私が、楽山、シャロームshalom を批判した、その返しに、まるで、なっていない楽山の悪あがきには乗りません。
 
このように、病質者と見なしている楽山が、病質らしい執着で、書いてきた長すぎる文章を、こちらは、疲れるだけだと判断するわけだから、楽山は、強迫的に、届かないものを投げてきたに過ぎません。文章の中身を見なくても、これが、楽山の、大人に成らず、ならず者になった症状なのです。
 
つまり、自分のためだけに他者と関わる楽山の、気遣いのなさと、真実の追求ではなく、勝ち負けの勝ちを得たい短絡した欲望の自己顕示欲だけが、何も生まない、醜いブログ記事となっています。楽山に関わると、こういう地獄を当てられるわけです。つくづく付き合えない人格だということです。
 
楽山に、だまされていた数か月と、こちらの話をまるで受け取っていないことに呆れて批判に転じた3年余りのコメントの文章が、だらだらとコピペしてあり、経過をまとめるとか、批判を正当に返すために必要なことは一切していないのだから、こちらも、気色悪いので、反応する気になりません。
 
こういう書き方は、楽山は、能力を誇示したいのでしょうが、気が付かず、気が回らず、簡潔にも書けない楽山の、言論する人間としての欠陥を示すだけで、今まで、他者と、まともに付き合ってこなかった悲惨な末路だけが表れていて、哀れなだけです。楽山とは、決して関わってはいけません。
 
人は人、自分は自分、というのを、また出しているようです。他にも、人それぞれ、意見を書いてはいけないのですか、などの、だまし文句の詭弁があります。これらが成り立つのは、人間として受け取って考えて、責任を負うところの、正常人だけです。楽山が欠格なのは、何度も書いてきました。
 
以上より、楽山は、書いたものを公開する資格はないと思います。言論者ではないのです。刷り込み屋、詭弁屋、印象操作係、嘘吐き、偽インテリ、気取りだけのピエロ、そして、いつでも、どこまでも、真実から、かけ離れたところに向かって、悪意の笑いと怒りだけを向けるサイコパスです。
 
伝わってくるのは、どうだ、書いたぞ、批判してみろ・・という楽山の、体質からの脅迫だけです。文章の量で勝負できると思っている不全の者、こういうのに、付き合いたいでしょうか。否、決して相手にしてはいけないのです。節操なく、なりふり構わず怒鳴っているのと同じです。
 
 
 
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  偽善者の語り口2
 
 
特徴的な詭弁をあげておきます。偽善者との遣り取りで見られた攻撃の言葉
 
 
"ですね攻撃"
 
シャロームにおいて顕著です。
 (シャロームの言)
1「少しも実践していないようですね。」
2「アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!」
3「まだまだ私に比べてお若いのに・・・」
 
1,2が、それにあたります。3は、2の後に続けられた文言で、皮肉、当てつけの部類。シャロームの傲慢だけが表れています。わざとらしい丁寧語が、鼻に突きます。
 
自分が上で、批判者が下だ、という蔑みを向けており、信仰者は、このような嫌らしいことは言いません。信仰者が批判するときには、できることをする、言えることを言う、否は否である、という姿勢を貫くことが必要です。
 
シャロームにおいては、あと、大仰な讃美、また、讃美の聖句を、だらだらと長く引用してきます。讃美しておけばクリスチャンじゃろ、という安易さが、しばしば見られることです。過ぎた讃美は、信仰自慢であり、同時に、カルトに特徴的な自画自賛でもあるということです。
 
 
"ボンヤリ言語"
 
楽山において顕著です。
 
「ていうか」「かなあ」「っぽい」などという大人の言論に相応しくない、くだけた表現のつもりの、わざとらしい言い方で、かつ、断定を避けています。いわゆる、言葉を濁して、責任を回避したい表れです。「と言えなくもない」という言い方もあります。
 
「本当に決めつけないなら、「一度もないということだ」と断定できず、「一度もないように私には思われる」という」・・断定しないのならば、「一度もない」、という強い表現を用いながら、「私は思われる」という曖昧な言い方をつけるほうが、むしろ、変です。
 
楽山は、語尾だけ、いい加減に、曖昧に、細工して、断定していないと言い逃れているのです。日本語のバランスや調和や整合性が理解できていないと思います。
 
総ての言論に『と思う』は暗に付いてくることを知らず、「思われる」等々の、濁す語尾を、いちいち付けないと気の済まないのが楽山の強迫症状です。これで、断定していないから責任を逃れられると思うのでしょうか、成り立ちません。言葉の勢いとか情緒といったものを理解できない楽山にありがちなことです。
 
そういうことを気にして、ロボットのように機械的にこだわって、ボンヤリした表現を進んで使いながら、そのボンヤリ言語に、断定していないから責任はないといい、作為の印象操作や刷り込みの誘導を含ませてくるのが、楽山であります。
 
 
楽山は、神がいるなら、どうして災いが起こり悪がはびこるのだ!とクレームをつけてきます。災いや悪は、他動的に起こる、即ち、神が起こすか、神が止めないから起こる、という言い分のようです。
 
これこそ、自らを省みることのないサイコパスが、自分に起こった災いも、人類に起こった災いも、神のせいにして、楽山の、自己に慢心の醜態から、神さえも上から見下ろしているつもりで裁こうとするのです。宗教も信仰も知らない楽山の見当違いもいいとこです。
 
このようなことは、考えるだけ虚しくなるだけだから、小学生にも笑われそうな、幼稚な短絡です。それを、楽山は、あたかも真理を語るかのように、恥ずかしげもなく書いてくるのです。
 
いかに楽山の言語理解のレベルが低く、同じことを言い続けているほど、学習も進歩も成長もないということを表しているのです。こういうのに付き合わされたほうは、たまったものではありません。このように、恥とか醜態とか嘘とか誤謬とか罪悪とかに、自覚も反省も学習もないのが、楽山であります。
 
 
"トホホ言語"
 
私が、楽山のことを、無反省、共感性がない、と言った後あたりから、楽山が盛んに書いてきたことがあり、「反省。トホホ」などとも書いています。謙虚芝居でもあります。「共感」という言葉も使うようになりましたが、その前と後で全く変わらないことで、反省も共感も嘘だとバレています。
 
楽山は、実感というものを持っていないので、言葉を書けばいいと思っているだけなのです。中身がないから、たとえるなら、言葉の、深い意味を考えもせず、文字列を真似て繰り返し、ハンセー、ハンセー、キョーカン、キョーカンと、オウムが鳴いているだけのようなものになっています。
 
楽山が、あざとく、いくら卑下して見せても、その前と後で、変化が見られないならば、だまし目的の受けねらいで同情をひくためだけの、柔和芝居、謙虚芝居だと分かるのです。同情を求めて、というより、同情をひくことを狙って、いくら大仰に書いても、無駄です。
 
 
人の日常感覚で、神を語ることは出来ません。大事なのは、確定的には何も語れない超常ではなく、絶対に対する私たち人間の相対性、即ち、私たちの不完全性=罪の性質について考えることです。そのための絶対の存在であります。
 
勘違いしないでほしいのは、絶対の神は人に対して救われる生き方を与える御方であり、決して、話を合わせる仲間同士の世辞の頷きを求めているのではないということです。
 
人は日常感覚しか持っていないのに、その感覚で、超常の神の意志と行為を、先入観と偏見に満ちた固定観念の決めつけで語っているのが、楽山であり、自分のお粗末な日常の理屈で、自ら反省することなく、神を、楽山の頭の中の、机上の、貧弱な空想の、材料にして、おとしめているのです。
 
人の日常感覚で、根拠もないのに、超常の意志が分かったつもりになり、あげくの果ては、神が自分に、不変の好意だけを向けてくるという信じ方をしているのが、シャロームであります。自身のお粗末な日常の理屈で、反省せず、悔いることなく、やたら、神を賛美して、結局、自分を褒め讃えているのです。
 
信仰は、人間が良心のある成長可能な人間になることを促すのであって、決して、人間が、超常の感覚や境地を持つことではありません。何故なら、超常の感覚を求めるようになると、だんだん、日常の感覚に注意を向けなくなったり、良心の人間的な感性と働きを疎かにする罪の性質が人間にはあるからです。
 
キリスト者にも、先入観にとらわれている人はいると思います。しかし、そういう人に、批判で斬りこむことは、事態を悪化させることもありそうなので控えています。楽山は既に悪化して、他者の悪影響を与え続けているので批判しています。訂正不能に固まった思想は、人を生かすことはありません。
 
シャロームと楽山については、恐らく、"キリスト教、くみやすし"、と思っているような、反キリストの偽善者であろうという推測からの判断ですから、事態を悪化させることを恐れて和んだり調子合わせをすること自体が、最悪の事態ですから、偽善者と見なして、全否定で批判しています。
 
特に、楽山は、批判して、あとで、賛同みたいなこと書いたら、プラマイゼロで断定していないから責任問題は発生しないみたいなことを言っていました。無反省のまま、間違っていたと訂正しないで、ころころ主張の方向を変えることは、しっかりした思想を持っていない証拠です。
 
楽山は、いかなる話し合いにも議論にも相手にしてはいけない人です。楽山は、正常な一人前の大人になっていないと思います。そういうことだから、トラブルが発生しても、嘘と詭弁でごまかす習性だけが身についたのだろうと思います。ごまかせない事態は、いずれ訪れるのです。
 
私も経験済みですが、楽山は、付き合えば付き合うほど、異常な精神疲労をもたらします。正常人ではないと思って、相手にしない、関わらない、付き合わない、近づかないことが必要です。
 
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(2)〈KENTO氏の主張〉
 2021年01月31日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判します。
 
 
楽山は、好きなだけ、様々な、多くは故人の、言葉を、自分に都合のよいように、偏って引用して、偉人もこう言っている、という書き方で、楽山の快感と都合を通そうとするのです。つまり、楽山の倫理性は、客観性も安定もなく、メチャクチャになっているということです。
 
偽善というのは、悪が善人のふりをすることです。楽山は、さらに、批評家のふりをします。そして、他者を責めるのです。他人のゴシップは大好きだが、自分の反省はしない楽山です。これからも、そういうことは、多々あるでしょう。
 
法的に問題となる盗用よりも、深刻な問題が、楽山の精神性にはあります。他者を責めて、はしゃいでいる異常者特有の快感が表れているからです。
 
 
「無断引用」とは、当該卒論は、一定の条件を満たし容認される無断引用ではなく、一定の条件を満たさず決して容認されない無断引用がされていたという意味であり、盗用というのを最大限に婉曲に表現したということなのだろう。
 
こういう法的な意味とは別になる問題があります。人をあざける者の悪意の反倫理性という問題です。楽山としては、一部を指して、ひどいこと、やってる、自分は引用だから、まだマシ・・という逃げ道を、あらかじめ用意して、キリスト教を否定するために、有名人や学者の引用を利用してきたのです。
 
不正は不正として、裁判にもなるのでしょう。それよりも、法に触れないことをよいことに、責任を負わないまま、悪意の羽をバサバサと好きなように振り回して、誤解~曲解を、悪用して、煽動してきた反倫理性が、言論において、そのまま放置されることはないのです。
 
完全自己中の笑いが見え透いてくる楽山の、他人のことだけは責めて、自分を責める批判には、耳を貸さず、スルーというが、実際は、不都合を無視することでしか凌げないのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の偽言論なのです。
 
 
*裁判
私見ながら、裁判の可能性についても一言述べておくと、この件は当人にとってはもちろん、HSにとっても大学にとっても不名誉なことであり、大事にはしたくないだろうし、研究者は若い人を訴える気にはなれないだろうし、当事者および関係者には誰も裁判にしたい人はいなかろうと思う。
 
このように、楽山は、裁判の可能性を書いていますが、自分の、勝手な引用は、どんなに引用元をおとしめても、引用元の多くは故人でもあり、関係ないという担保の上で、あぐらを掻いている姿勢です。
 
まさに高みの見物のように、楽山が、恐らく倫理や人間としてのあり方を責められて、そのストレス解消のために、やじっている風情となっています。一方的な思い込みの言論と、作為の丁寧語の書き方です。
 
楽山に、他者を責める資格はありません。隠し事と、嘘と詭弁で、だましておいて、平気でいる異常な心性の気晴らしに、法的問題をあげて、裁判、裁判、大変だ、という、筆致とは裏腹な扇情的内容です。よく書けるものだ、やはり異常者だからだろう、などと思わせる記事であります。
 
自分が責められているときに、自分は何事もなかったように、別件をあげて、他者を責めるのが、楽山のストレス解消法のようですが、いずれ、総てが瓦解するときには、そういう行動パターンも、姿勢も、併せて、責められる対象となるでしょう。
 
 
特にHSは、週刊誌記事に対しては何度も訴訟を繰り返しているにもかかわらず、この件についてそういう話は聞かないことからすると、大事にしたくないという思いは特に強いのではあるまいか。
 
不正を大きな事件にしたくないHSを、暗に責めていますが、楽山は、一時ではなく、私が関知する、少なくとも3年にわたる自らの不正を、大きな事件にしたくなくて、無視して、隠蔽している人です。そこに、継続して批判する必要が生まれています。
 
 
将来的に咲也加氏が存在感を増し、目立った動きをするようになれば、マスコミは再びこの件を喧伝するだろうし、そうなった場合、HSの対応も変わってくるかもしれないが、現状では当事者の中でこの件を蒸し返したい人はおらず、訴訟になることはあるまいと思う。
 
このように、楽山は、敵対する者を、いずれ、大騒ぎになるぞ、とばかり、面白がっているようです。楽山が法的制裁を受けるかどうかは、今後の問題ですが、大騒ぎというより、多くの人を無視した分、多くの人に無視されてゆくでしょう。
 
ネズミのように逃げ回った者は、早く巣に戻って口を閉ざし、じっとしているべきですが、何せ異常で過剰な自己顕示欲のために、信頼を失っても、何か言って、自己満足したい楽山の、飽くことのない自己顕示欲の執拗な衝動であります。
 
楽山の記事には、ツイッターからの引用コピーが豊富に載せられています。本当に、自分の問題を、全く自覚しないで、他者が責められるのを、話題にして面白がる、という楽山の悪趣味の厚顔無恥と傍若無人ぶりが、鮮やかに表れている楽山の記事です。
 
楽山は、次は、ウイルスのように潜在して、蔓延して、また、誰かの欠点を、あざ笑うのでしょうか。「人の振り見て我が振り直せ」と言いますが、楽山は、人の振り見て責めるだけ、人の振り見て我が振りを直すことが出来ません。
 
言うまでもなく、批判を無視して、楽山が隠蔽している楽山固有の不祥事について、楽山が気晴らしに他者の不祥事でストレス解消している実態を、逆に、あばくことで、また、無視して別の他者のことだけを言う楽山という気楽なお山を、批判されるというストレスで埋め尽くすことが目的ともなるのです。
 
 
人を責めてストレス解消?

人を責めてストレス解消?
 
 
祈り
「主よ、他にする人がいないようなので、できると思ったことをしております。相当、悪者になりました。疲れています。御心でしたら、しばしの安息へ、お導き下さい」
 
 
(2021年02月01日、同日一部修正)
(2022年02月02日、再録+加筆修正)
 
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  もう無能
 
丸い種はもう蒔かない
四角い種ももう蒔かない
 
実のなる木はもう見ない
金のなる木はすでに知らない
 
いっせいに飛び立つ海鳥
砂浜に一人
波が上手にさらっていく
足元の砂の足元
光る波の一滴
乾いた
風に砂の一粒
去り際に払って
砂浜にはもう別の人々
 
砂をまく
水滴を
風を
気を
 
悪い種はもう蒔かない
木のなる実はざっくり笑って
果肉は誰の腹の中
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は「反省、謝罪は大事なことだと分かって」いません。特に、反省は、しなけれ人格低格化が進むことを理解していません。「難しいんだよな」ではなく、反省しなければ、成長しないのです。「恥ずかしながら、自分もそんな風」「人間の性」ではなく、楽山だけが、際立って反省しないと言っています。
 
 
 
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  厚顔無恥3
 
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。"名無し"からの荒らしコメントです。シャロームの開き直りです。
 
私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白するから、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。嘘吐き、偽善者、ペテン師の、シャロームです。
 
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
 
「血潮に罪贖われ」などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。どんな罪でも、甘々の自己中心に受容して気にしないシャロームです。信仰者が求めるのは、神に、罪を赦され、生きることを諦めないことであります。
 
自分信仰者の偽牧師シャロームの、汚い詭弁は、その罪を隠そうとして、隠せず、かつ、自己満悦に至って、人間とは思えないほどの、醜いイメージとともに、脂汗の不潔であり、もはや永遠に、神に受け入れられることはないのです。
 
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていない、という、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。言い換えれば、シャロームは、導かれていないか、導きを拒んでいるかであることを、自ら、表しています。
 
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
 
"すべてはよかった" を、自己正当化して、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。つまり、シャロームは、「すべてよかった」・・には含まれていないということです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。すごい詭弁です。
 
"すべてはよかった" は、天地創造の話です。被造物は、よかったと言っても、すぐ堕落の話になるわけです。その典型であるシャロームが、よかったことは、ないと思います。さらに、"人は指一本もなしうることはありませんでした" で、自分は何もしなくていい・・にはならないのです。すごい詭弁です。
 
この聖句にしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの悪意と反キリスト全開。
 
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。
 
誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。楽山と、同一か、同じ体質だからです。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが自己愛性人格障害の悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らない楽山とシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。シャロームは、何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。あなたは、あなた自身の言論失禁の惨状に、もはや気づかなくなっています。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
楽山は詭弁が、シャロームは偽信条がバレています。書いてくるのは、罪を感じないからなのです。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、発言しても、他者を引用しても、楽山とシャロームの穴だらけのパンツが臭く濡れてゆくだけなのです。
 
 
私たち人間は、人格的な知性と感性から交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のみのものです。したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。
 
その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけが表れています。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。あなたシャロームは、福音に聞かない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているだけです。
 
パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、見抜かれて、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。楽山とシャロームは、彼らの憎む神から、最も憎まれている者たちです。
 
ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁などを、好きなように言って、傍若無人を通してきた楽山とシャロームです。履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善と批判の集積という莫大な負の財産=記録=資料を残すことになります。楽山は3年、シャロームは10年分です。
 
 
憎しみへの絶対

憎しみへの絶対
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
(2022年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違いを自覚しません。素直さを持っていません。ゆえに、自らを正すことが出来ません。嘘と詭弁を重ねて、一人前に、出来た!と思う楽山の心性は、何の魅力もなく、卑怯で、既に失敗しているのに気づきません。自覚や反省という人間の当たり前の分別を、まるで持っていない楽山です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは悲惨すぎる(絵文字:口を開けて冷や汗をかいた顔)
引用リツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
自己愛性のモラハラ者は、自分こそが良識人であるという顔をし、気づくと、こちらが≪悪者≫にされていることさえある。
午前8:14 · 2022年1月23日·twittbot.net
 」
 
モラルと人格へのハラスメントを生業(なりわい)とする楽山の本性を実感すれば「口を開けて冷や汗をかいた顔」になるでしょう。むしろ、「良識人であるという顔」をして、人を「≪悪者≫」にしてしまうのが、楽山です。ゆえに、楽山からの批判は、ことごとく楽山に向かうことになります。
 
こういうブーメラン現象が起こるのは、楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるため、自分を省みることが出来ず、人のことばかり評論家気取りで言う、という楽山の負の学習の結果なのです。それを知ってしまうと、楽山の文章は、とても恐ろしく感じます。
 
 
 
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  丁寧語の災い3
 
   「知と恥を捨てる者」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
かつて、約10年間、批判し続けて、今は、所在不明の、楽山の成りすましも疑っている、自称牧師、実は偽牧師シャローム(HN: shalom)反キリストについての話です。シャロームは、バカ丁寧語で、まるで今でも先生であるかのように書いてきます。
 
もう、既に何度も馬脚をあらわして、偽牧師だとバレて、偽善者で、反キリストで、良心の欠片もないことが明らかになっており、弁明の余地はないのに、まだ、何かを教えようとする、びくともしない説教根性というより因業があり、楽山の成りすましも疑っています。
 
シャロームが、何かを書けば、嘘か妄想か背教が、そのたびに明らかになるという繰り返しの成り行きであります。シャロームは、もはや、常識的な判断力がないのでしょう。完全に拒否しているのに、相変わらず、お愛想で訪問すればよい、と思っているのです。
 
総てが崩れているのに、シャロームは、既に瓦礫と化した中を、何の自覚もなく、あたかも正常人であるかのごとく、和みを表しているつもりの世辞とともに、説得力の欠片もなく、うろついている亡者なのです。そこが、現実検討力がなく、状況を弁えない楽山に似ているので、成りすましを疑っています。
 
 
1. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:49
引用した言葉はST5402さんが書かかれたものです。
精神科の医師として患者さんと面会し、あなたは大切なことを学んでいながら、実践しておられることは前半だけで、後半は少しも実践していないようですね。
(私)
精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。
これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。
 」
いいですね!
 
私が、個人的なこととして書いたことを持ち出して、あたかも一人前が半人前を評価するかのように、いいですね!と、丁寧語でごまかしていますが、世辞に過ぎません。シャロームの丁寧語=慇懃無礼の害毒であること知ってほしいと思います。偽善者シャロームに評価される必要はないのです。
 
「後半は少しも実践していないようですね」と、シャロームは、こちらが出来ることをしていない、と言いたいようです。これが、慇懃無礼の、無礼です。シャロームを認めることは、一生ないと思います。約10年の批判を踏まえて、シャロームの言は嘘ばかりだと分かっているからです。
 
こちらは、反キリスト丸出しのシャロームに対してが書いてくる嫌がらせを、根拠を上げて否定するのみであり、好意的に出来ることなど何もありません。もはや、シャロームは、背教と反キリストと偽善者の実例としての資料に過ぎません。
 
シャロームは、見せかけの丁寧語という害毒で、偽善的に、思いやりを示したことにするのでしょう。しかし、シャロームの丁寧語は、底意地の悪さを隠すための、言うだけはタダという、これも気持ちとは裏腹な作り事、つまり嘘だと分かっています。この点も、楽山に、よく似ています。
 
シャロームの言を10年も受けておれば、むしろ、いっそう、質(たち)の悪い嫌らしさが伝わってきます。これが、学習機能の、有りと無しの違いなのです。学習しない者は、成長がないので、嘘で飾り続けることしかなくなり、同じような嘘を、繰り返し重ねてゆくということにしかならない宿命です。
 
 
2. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:52
精神的な距離という言葉もいいのですが、私は境界線という言葉をよく使います。アドラー心理学もとても大切にしている考え方のようです。
 
アドラー心理学は、自己中製造カルトのようですからアドラー教と呼んでいます。自己中心に生きて、周囲からの刺激は、都合が悪ければ無視してよいという教えのようですが、人間は、都合の悪いことに対処して成長してゆくものです。精神衛生の問題を、狭窄した視野で断定してしまった産物だと思います。
 
日本社会は母性社会であり、自他未分化、共依存社会ですから、この人と人との精神的な距離、境界線が不明瞭な社会であると「母性社会日本の病理」において河合隼雄氏は書いておられるようです。
 
「母性社会」「自他未分化」「共依存社会」・・人から借りてきた用語を並べて、インテリを気取っています。自分の言葉は、恐らく、何も持っていないと思います。シャロームも楽山も、自分の自他未分化には気づいていないようです。
 
シャロームも楽山も、他者が自分と同じようでないと気が済まず、違ってくると、さらに、反対だと、理路も放り出して、けなし、揶揄し、否定してきます。それが、この記事、そして、楽山の記事なのです。そういう変化は、人間とは思えないほど、宿業的な作為です。
 
自分が自分であることができないため、他者を他者として認め、人を個人として受け容れることができない、つまり、自分と他者を区別できず、あるがままで受け容れることができない、愛することが執着化してしまい、心の病の主因ということもできるかなと思います。もちろんその他の多くの要因はあると思われますが・・・
 
シャロームの見解など、何も聞く必要はありません。皆、どこかで拾ってきた言葉を組み合わせているだけです。シャロームは、以前から、理路もなく共感も感じられないものでした。心が無いのに、何かを伝えた気になりたいのでしょう。芝居だけの偽牧師には、何も語れないと思います。
 
境界線、母性社会、自他未文化、共依存社会、・・シャロームの言っていることは、既に、大方、私に当てつけたボロクソ節なのです。そういう話を何度も聞かされているこちらとしては、おえっと吐き気を覚えるほど、うんざりします。皆、根拠のないシャロームの独り善がりなのです。
 
既に、私を、散々貶めてきたという今までの状況で、今ここで、その話をして、教えようとすることが、状況からありえないし、独りで浮いている格好だし、奇妙で不適切であるということを弁えることも出来なくなっているシャロームです。ゆえに、人格異常~崩壊としか思えません。
 
仏の顔真似をして、次には、否定し説教してくる嘘吐きで、丁寧語は詐欺師だからこそできる劣悪な原始反応です。また、ふだんは、過剰なほどの丁寧語を使いますが、中身がなく、はっとさせられる何ものもなく、薄っぺらな道徳しか語れないのが、特徴です。ゆえに、自らの状況の把握ができないのです。
 
※人を個人として受け容れることができない・・・
自民党の憲法改正案には現在の憲法に規定してある「人は個人として尊重される」ではなく、「人として尊重される」という文に書き換えられていることは注目しなければなりません。基本的人権を否定する道に通じています。
 
ここで、脈絡もなく、政治の話になっています。嘘吐きの話を、誰かの正論の引用であっても、受け入れてはいけません。これも騙しのテクニックです。体のいい返事などすると、大喜びの振りをして、うんざりするような続きを聞かされるでしょう。すでに経験・実証済みです。正義を装っているだけです。
 
グローバル化し、異なる国、民族が、異なる価値観、文化が激しく衝突を深め、国も民族も、個人もアイデンティティー危機によって、ますます混乱と閉塞感を深めていくことでしょう。
分断を深めていくか、統合の道を見出すことができるか?
わたしたちは、死ぬか、生きるかの分かれ道に立たされているようです。迷走と模索は続きますが、人の手の内に、その道があるのか疑問です。 
 
流れを考えない自己満足の話は、シャロームの得意なボロクソ節です。独り有頂天の誇大妄想です。言論が統合を失調して、文脈が、個人の人間関係から、国政の話へと、脈絡もなく飛んでいます。つまり、その間にあることを、スコ~ンと無視して、話の筋がつながらないまま平気で自慢するシャロームです。
 
グローバル化、民族、価値観、文化、衝突、国、アイデンティティー危機、混乱、閉塞感、いずれも、シャロームが、既に、他者の言葉を拾い集めた言葉で、深い理解も考察もなく、自分は政治をも語れるのじゃという自覚から、興奮して並べ立てるボロクソ節であります。だまされてはいけません。
 
あなたシャロームには、悔い改めないのであれば、キリスト者として生きる道はありません。また、政治思想は、あまりにも貧弱でお粗末な、受け売りと、人真似と、誇大妄想ですから、これも、生きる道にはなりません。鼻息の荒い牛を、牛舎へ誘導するような状況です。
 
みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。このシャロームに対して、かわいそうなどと思ったら、逆に、あざ笑う用意だけはいつもしているシャロームに、調子に乗られて、食われてしまうわけです。既に経験済みのことです。
 
 
3. shalomです。おはようございます
2019年12月16日 08:53
統合の道は人の道か?
 新約・マルコによる福音書1章1~3節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてある。
 
先ず、おのれから、まっすぐにせよ、ということです。嘘を吐くな、これは、聖句というより、信仰に適うところの、人間の道徳です。しかし、いちばん大事な、正直さを、シャロームは、全く持っていません。
 
「統合の道は主の道か?」・・先ほどの政治の話の「統合の道を見出すことができるか」の流れなら、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)22:21
彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
 (マタイ22:21、新約聖書)
 
と書いてあります。信仰の話に、政治をぶっこむな。
 
新約・マタイによる福音書7章13~14節
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 
あなたシャロームは、安易な、ぱっくりと大きな口を開けた罪と偽善の門、広き道、嘘吐きの道、讃美しておけばいいという大袈裟な豪語の道、他者を気にせず失禁する流涎の言葉とともに、陰気な暗闇の洞窟を、ずっと、選んで、実際は独りで、堕ちてきました。
 
 
ST5402さん 永い間ほんとうにお疲れ様でした。
随分悪態をつき、有終の美とは程遠い終幕となりましたが、
ありがとうございました!
人生の終幕はイエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ、
拓かれていますので、希望をもって、
イエスさまが開いてくださった新しい道を歩みたいと思っています。
Shalom!
 
こうやって、言葉面だけ、整えようとするのが、あなたシャロームの、忌まわしい丁寧語なのです。昔、ずいぶん騙されたものです。丁寧語の中の、獣性を見逃さないことが大事です。「随分悪態をつき」・・反省のつもりですか。心にもないことを。もう何を言っても信頼されないところに来ているのに。
 
「イエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ」ているなら、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしない」信条も、誰が悔い改めるかも「悔い改めは神が与える」と言ってごまかした今までの嘘っぱちも、無かったはずなのです。白々しい。
 
「希望をもって」「イエスさまが開いてくださった新しい道」・・悔い改めない者には開かれていませんし、希望もありません。白々しい聖句引用はやめてください。全部、嘘でした。そして、今も、全部、嘘です。今となっては、もう、はっきり言えることです。
 
 
14. shalomです。 おはようございます
2019年12月16日 13:17
>>9
「せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」
アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!まだまだ私に比べてお若いのに・・・
かつては、私が死ぬまでつきまとって批判し続けるんだとおっしゃっていましたね。
 
「妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症」などの決めつけが、シャロームの正体です。
 
私の「みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」に対するコメントですが、私が、人間として生きたいからです。シャロームの超常信仰とは違うのです。
 
あなたシャロームが書いてくるなら、前と同じです。ずっと、そうしています。しかし、今は、あなたシャロームが、愚かな、おとしめ言葉しか書いて来ないほどに、堕ちていますから、そのような言葉に付き合いたくないです。
 
あなたシャロームは、サイコパス、人の滅びも死も、平気な人格です。人間らしい感受性がなくなった人だと思うようになっているから、さらに低く、邪悪だ、という判断になってきたということです。ゆえに、愚かに付き合って体力を消耗して死ぬのは嫌だなと、ふつうに思うわけです。
 
聖書には神様は試練も与えられますが、逃れる道も備えてくださるという言葉もあります。
yahooブログの閉鎖という思いもかけない道を備えてくださったのですね!
また新しい道はst5402さん自身が開いてくださったようです。
人には神の御業は初めから終わりまで見極めることが出来ないという言葉もありますが、本当にそうだなと、心からの讃美と感謝をささげています!
 
いちばん邪悪なことは、神の意志と行為である導きを、決めつけることです。神を恐れない者だけがすることです。自分の意見を、神の啓示と聖霊の導きによって、正当化し、絶対化しているあなたシャロームは、神が具体的に道を備えて下さったと決めつけながら、見極めることができない、と書いています。
 
何も整っていないから何も実がないのです。つまり、自分に都合の良いようにだけ決めつけていることが明らかなのです。今まで、ずっとそうです。あなたは、嘘っぱちを書いて、しかも、嘘っぱちであることを、自ら表すようになったのです。「心から」の心の無いシャロームの讃美は酸味の腐敗臭です。
 
 
それなのに、退いて、二度と来るななんてつれないお言葉ですね!
yahooブログが閉鎖され、寂しい思いをしていたのですが、
st5402さんが私の言葉を伝達するために、たくさんブログを開設してくださったので、
私は新しいブログを開設する手間が省けて喜んでいるのです・・・が・・・
ハレルヤ!
Shalom!
 
また、嘘を吐いている。いつも、嘘を吐いている。どこでも、付き合えば、結局、嫌がられる存在として、放浪してきたシャローム。弁明の余地がなくなっても、殺意に匹敵する無視の力で、人を人とも思わず、「手間が省けて喜んでいる」というような、余裕を見せようとする。
 
これは、サスペンスドラマなどによくある極悪人の、相手を呑みこんだつもりの醜く陳腐な台詞、つまり、根っからの悪にしかできない悪意の強がりです。わけもわからず余裕に見せかけても、あなたは、既に、丸裸なのです。この悪意は、楽山と易坊にも通じる偽善の筆致です。
 
いつも感じていたのは、シャロームの、この獰猛(どうもう)な極悪人の気質、人が死んでも、そのそばで、ニヤニヤ笑っていられるような、人間らしい感情を殺してしまった者だけが持つところの、人ではなく、ケダモノの、文章さえ、醜悪な気質として、よだれを垂らしているような臭いです。
 
喉を鳴らすのが、聞こえてきそうな、冷や汗と蒸気と粘液と、蒸し暑い息の臭さが漂ってくるようです。しみついた常習の詐欺師の臭い。あなたシャロームの、わざとらしい文章に深く深く染み込んでいる、この臭いを、私は、あなたの文章を見るときに、いつも感じています。
 
 
人類の敵は、宇宙人でも、国家でも、民族でも、集団でもないです。イデオロギーでもないです。人類の敵は、一見、人間に見えるところの、サイコパス(自己愛性~反社会性人格障害)です。サイコパスには、温もりと潤いがありません。つまり、温かい心と悲しみに共感する心が無いのです。
 
サイコパスは、不都合に際して、罪悪感を感じることがなく、反省することがありません。その基本に、悲しみという感情がないのです。全てを、他者のせいにして、笑うか怒るかの感情でしか反応できない人です。楽山と同様、巡りあうことが不運であり、受け入れることは不幸となる災いの人です。
 
シャロームの発言を確認:
「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」・・そんなキリスト教は存在しない。
「悔い改めは神が与える」・・誰が悔い改めるのでしょう。シャロームはキリスト者ではない。
 
 
偽牧師 偽善者

偽牧師 偽善者
 
 
(2020年01月、同日一部修正)
(2022年01月13日、再録+修正)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
鏡を震わせ抜く しきりに
白髪を流す あるいは
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
しばしば礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみにしがみついて
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山に出会うことは不幸であり、楽山と関わることは悲劇であり、楽山に頷くことは感染であり、楽山に従うことは人格破壊であります。シャロームや易坊にも言えると思います。3人の一人による成りすましを疑っています。この者たちは、無反省、無責任で、共感性の欠如した、言葉だけの偽善者です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
とにかく都合の悪いものは排除したり無かったことにしたりする幸福の科学。
これが宗教団体のやることか?
中国が高速鉄道の事故車両を現場で埋めた事件があったけど、私から見たら、この教団はそういうお粗末なレベルのことを平気でやると思う。
こんなこともあったよね。
バレないとでも?
 
楽山は、都合の悪いものは完全に無視して、無かったことにして、悪口や当てつけなど自分の言いたいことだけを書いてきます。この約3年間ずっとそうです。嘘と詭弁と隠蔽偽装が、楽山のブログとツイッターの特徴です。楽山には、アンチとして批判する、宗教を語る、などという資格はないのです。
 
楽山は、正当な批判者を気取っていますが、とても卑怯で、狡猾です。楽山の精神には、おびただしい悪事が、隠され、埋められているのです。楽山は、人間として一人前になれなかった人です。誰も、攻撃的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に関わらないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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