ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:シャローム

 
  丁寧語の災い3
 
   「知と恥を捨てる者」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
かつて、約10年間、批判し続けて、今は、所在不明の、楽山の成りすましも疑っている、自称牧師、実は偽牧師シャローム(HN: shalom)反キリストについての話です。シャロームは、バカ丁寧語で、まるで今でも先生であるかのように書いてきます。
 
もう、既に何度も馬脚をあらわして、偽牧師だとバレて、偽善者で、反キリストで、良心の欠片もないことが明らかになっており、弁明の余地はないのに、まだ、何かを教えようとする、びくともしない説教根性というより因業があり、楽山の成りすましも疑っています。
 
シャロームが、何かを書けば、嘘か妄想か背教が、そのたびに明らかになるという繰り返しの成り行きであります。シャロームは、もはや、常識的な判断力がないのでしょう。完全に拒否しているのに、相変わらず、お愛想で訪問すればよい、と思っているのです。
 
総てが崩れているのに、シャロームは、既に瓦礫と化した中を、何の自覚もなく、あたかも正常人であるかのごとく、和みを表しているつもりの世辞とともに、説得力の欠片もなく、うろついている亡者なのです。そこが、現実検討力がなく、状況を弁えない楽山に似ているので、成りすましを疑っています。
 
 
1. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:49
引用した言葉はST5402さんが書かかれたものです。
精神科の医師として患者さんと面会し、あなたは大切なことを学んでいながら、実践しておられることは前半だけで、後半は少しも実践していないようですね。
(私)
精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。
これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。
 」
いいですね!
 
私が、個人的なこととして書いたことを持ち出して、あたかも一人前が半人前を評価するかのように、いいですね!と、丁寧語でごまかしていますが、世辞に過ぎません。シャロームの丁寧語=慇懃無礼の害毒であること知ってほしいと思います。偽善者シャロームに評価される必要はないのです。
 
「後半は少しも実践していないようですね」と、シャロームは、こちらが出来ることをしていない、と言いたいようです。これが、慇懃無礼の、無礼です。シャロームを認めることは、一生ないと思います。約10年の批判を踏まえて、シャロームの言は嘘ばかりだと分かっているからです。
 
こちらは、反キリスト丸出しのシャロームに対してが書いてくる嫌がらせを、根拠を上げて否定するのみであり、好意的に出来ることなど何もありません。もはや、シャロームは、背教と反キリストと偽善者の実例としての資料に過ぎません。
 
シャロームは、見せかけの丁寧語という害毒で、偽善的に、思いやりを示したことにするのでしょう。しかし、シャロームの丁寧語は、底意地の悪さを隠すための、言うだけはタダという、これも気持ちとは裏腹な作り事、つまり嘘だと分かっています。この点も、楽山に、よく似ています。
 
シャロームの言を10年も受けておれば、むしろ、いっそう、質(たち)の悪い嫌らしさが伝わってきます。これが、学習機能の、有りと無しの違いなのです。学習しない者は、成長がないので、嘘で飾り続けることしかなくなり、同じような嘘を、繰り返し重ねてゆくということにしかならない宿命です。
 
 
2. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:52
精神的な距離という言葉もいいのですが、私は境界線という言葉をよく使います。アドラー心理学もとても大切にしている考え方のようです。
 
アドラー心理学は、自己中製造カルトのようですからアドラー教と呼んでいます。自己中心に生きて、周囲からの刺激は、都合が悪ければ無視してよいという教えのようですが、人間は、都合の悪いことに対処して成長してゆくものです。精神衛生の問題を、狭窄した視野で断定してしまった産物だと思います。
 
日本社会は母性社会であり、自他未分化、共依存社会ですから、この人と人との精神的な距離、境界線が不明瞭な社会であると「母性社会日本の病理」において河合隼雄氏は書いておられるようです。
 
「母性社会」「自他未分化」「共依存社会」・・人から借りてきた用語を並べて、インテリを気取っています。自分の言葉は、恐らく、何も持っていないと思います。シャロームも楽山も、自分の自他未分化には気づいていないようです。
 
シャロームも楽山も、他者が自分と同じようでないと気が済まず、違ってくると、さらに、反対だと、理路も放り出して、けなし、揶揄し、否定してきます。それが、この記事、そして、楽山の記事なのです。そういう変化は、人間とは思えないほど、宿業的な作為です。
 
自分が自分であることができないため、他者を他者として認め、人を個人として受け容れることができない、つまり、自分と他者を区別できず、あるがままで受け容れることができない、愛することが執着化してしまい、心の病の主因ということもできるかなと思います。もちろんその他の多くの要因はあると思われますが・・・
 
シャロームの見解など、何も聞く必要はありません。皆、どこかで拾ってきた言葉を組み合わせているだけです。シャロームは、以前から、理路もなく共感も感じられないものでした。心が無いのに、何かを伝えた気になりたいのでしょう。芝居だけの偽牧師には、何も語れないと思います。
 
境界線、母性社会、自他未文化、共依存社会、・・シャロームの言っていることは、既に、大方、私に当てつけたボロクソ節なのです。そういう話を何度も聞かされているこちらとしては、おえっと吐き気を覚えるほど、うんざりします。皆、根拠のないシャロームの独り善がりなのです。
 
既に、私を、散々貶めてきたという今までの状況で、今ここで、その話をして、教えようとすることが、状況からありえないし、独りで浮いている格好だし、奇妙で不適切であるということを弁えることも出来なくなっているシャロームです。ゆえに、人格異常~崩壊としか思えません。
 
仏の顔真似をして、次には、否定し説教してくる嘘吐きで、丁寧語は詐欺師だからこそできる劣悪な原始反応です。また、ふだんは、過剰なほどの丁寧語を使いますが、中身がなく、はっとさせられる何ものもなく、薄っぺらな道徳しか語れないのが、特徴です。ゆえに、自らの状況の把握ができないのです。
 
※人を個人として受け容れることができない・・・
自民党の憲法改正案には現在の憲法に規定してある「人は個人として尊重される」ではなく、「人として尊重される」という文に書き換えられていることは注目しなければなりません。基本的人権を否定する道に通じています。
 
ここで、脈絡もなく、政治の話になっています。嘘吐きの話を、誰かの正論の引用であっても、受け入れてはいけません。これも騙しのテクニックです。体のいい返事などすると、大喜びの振りをして、うんざりするような続きを聞かされるでしょう。すでに経験・実証済みです。正義を装っているだけです。
 
グローバル化し、異なる国、民族が、異なる価値観、文化が激しく衝突を深め、国も民族も、個人もアイデンティティー危機によって、ますます混乱と閉塞感を深めていくことでしょう。
分断を深めていくか、統合の道を見出すことができるか?
わたしたちは、死ぬか、生きるかの分かれ道に立たされているようです。迷走と模索は続きますが、人の手の内に、その道があるのか疑問です。 
 
流れを考えない自己満足の話は、シャロームの得意なボロクソ節です。独り有頂天の誇大妄想です。言論が統合を失調して、文脈が、個人の人間関係から、国政の話へと、脈絡もなく飛んでいます。つまり、その間にあることを、スコ~ンと無視して、話の筋がつながらないまま平気で自慢するシャロームです。
 
グローバル化、民族、価値観、文化、衝突、国、アイデンティティー危機、混乱、閉塞感、いずれも、シャロームが、既に、他者の言葉を拾い集めた言葉で、深い理解も考察もなく、自分は政治をも語れるのじゃという自覚から、興奮して並べ立てるボロクソ節であります。だまされてはいけません。
 
あなたシャロームには、悔い改めないのであれば、キリスト者として生きる道はありません。また、政治思想は、あまりにも貧弱でお粗末な、受け売りと、人真似と、誇大妄想ですから、これも、生きる道にはなりません。鼻息の荒い牛を、牛舎へ誘導するような状況です。
 
みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。このシャロームに対して、かわいそうなどと思ったら、逆に、あざ笑う用意だけはいつもしているシャロームに、調子に乗られて、食われてしまうわけです。既に経験済みのことです。
 
 
3. shalomです。おはようございます
2019年12月16日 08:53
統合の道は人の道か?
 新約・マルコによる福音書1章1~3節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてある。
 
先ず、おのれから、まっすぐにせよ、ということです。嘘を吐くな、これは、聖句というより、信仰に適うところの、人間の道徳です。しかし、いちばん大事な、正直さを、シャロームは、全く持っていません。
 
「統合の道は主の道か?」・・先ほどの政治の話の「統合の道を見出すことができるか」の流れなら、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)22:21
彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
 (マタイ22:21、新約聖書)
 
と書いてあります。信仰の話に、政治をぶっこむな。
 
新約・マタイによる福音書7章13~14節
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 
あなたシャロームは、安易な、ぱっくりと大きな口を開けた罪と偽善の門、広き道、嘘吐きの道、讃美しておけばいいという大袈裟な豪語の道、他者を気にせず失禁する流涎の言葉とともに、陰気な暗闇の洞窟を、ずっと、選んで、実際は独りで、堕ちてきました。
 
 
ST5402さん 永い間ほんとうにお疲れ様でした。
随分悪態をつき、有終の美とは程遠い終幕となりましたが、
ありがとうございました!
人生の終幕はイエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ、
拓かれていますので、希望をもって、
イエスさまが開いてくださった新しい道を歩みたいと思っています。
Shalom!
 
こうやって、言葉面だけ、整えようとするのが、あなたシャロームの、忌まわしい丁寧語なのです。昔、ずいぶん騙されたものです。丁寧語の中の、獣性を見逃さないことが大事です。「随分悪態をつき」・・反省のつもりですか。心にもないことを。もう何を言っても信頼されないところに来ているのに。
 
「イエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ」ているなら、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしない」信条も、誰が悔い改めるかも「悔い改めは神が与える」と言ってごまかした今までの嘘っぱちも、無かったはずなのです。白々しい。
 
「希望をもって」「イエスさまが開いてくださった新しい道」・・悔い改めない者には開かれていませんし、希望もありません。白々しい聖句引用はやめてください。全部、嘘でした。そして、今も、全部、嘘です。今となっては、もう、はっきり言えることです。
 
 
14. shalomです。 おはようございます
2019年12月16日 13:17
>>9
「せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」
アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!まだまだ私に比べてお若いのに・・・
かつては、私が死ぬまでつきまとって批判し続けるんだとおっしゃっていましたね。
 
「妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症」などの決めつけが、シャロームの正体です。
 
私の「みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」に対するコメントですが、私が、人間として生きたいからです。シャロームの超常信仰とは違うのです。
 
あなたシャロームが書いてくるなら、前と同じです。ずっと、そうしています。しかし、今は、あなたシャロームが、愚かな、おとしめ言葉しか書いて来ないほどに、堕ちていますから、そのような言葉に付き合いたくないです。
 
あなたシャロームは、サイコパス、人の滅びも死も、平気な人格です。人間らしい感受性がなくなった人だと思うようになっているから、さらに低く、邪悪だ、という判断になってきたということです。ゆえに、愚かに付き合って体力を消耗して死ぬのは嫌だなと、ふつうに思うわけです。
 
聖書には神様は試練も与えられますが、逃れる道も備えてくださるという言葉もあります。
yahooブログの閉鎖という思いもかけない道を備えてくださったのですね!
また新しい道はst5402さん自身が開いてくださったようです。
人には神の御業は初めから終わりまで見極めることが出来ないという言葉もありますが、本当にそうだなと、心からの讃美と感謝をささげています!
 
いちばん邪悪なことは、神の意志と行為である導きを、決めつけることです。神を恐れない者だけがすることです。自分の意見を、神の啓示と聖霊の導きによって、正当化し、絶対化しているあなたシャロームは、神が具体的に道を備えて下さったと決めつけながら、見極めることができない、と書いています。
 
何も整っていないから何も実がないのです。つまり、自分に都合の良いようにだけ決めつけていることが明らかなのです。今まで、ずっとそうです。あなたは、嘘っぱちを書いて、しかも、嘘っぱちであることを、自ら表すようになったのです。「心から」の心の無いシャロームの讃美は酸味の腐敗臭です。
 
 
それなのに、退いて、二度と来るななんてつれないお言葉ですね!
yahooブログが閉鎖され、寂しい思いをしていたのですが、
st5402さんが私の言葉を伝達するために、たくさんブログを開設してくださったので、
私は新しいブログを開設する手間が省けて喜んでいるのです・・・が・・・
ハレルヤ!
Shalom!
 
また、嘘を吐いている。いつも、嘘を吐いている。どこでも、付き合えば、結局、嫌がられる存在として、放浪してきたシャローム。弁明の余地がなくなっても、殺意に匹敵する無視の力で、人を人とも思わず、「手間が省けて喜んでいる」というような、余裕を見せようとする。
 
これは、サスペンスドラマなどによくある極悪人の、相手を呑みこんだつもりの醜く陳腐な台詞、つまり、根っからの悪にしかできない悪意の強がりです。わけもわからず余裕に見せかけても、あなたは、既に、丸裸なのです。この悪意は、楽山と易坊にも通じる偽善の筆致です。
 
いつも感じていたのは、シャロームの、この獰猛(どうもう)な極悪人の気質、人が死んでも、そのそばで、ニヤニヤ笑っていられるような、人間らしい感情を殺してしまった者だけが持つところの、人ではなく、ケダモノの、文章さえ、醜悪な気質として、よだれを垂らしているような臭いです。
 
喉を鳴らすのが、聞こえてきそうな、冷や汗と蒸気と粘液と、蒸し暑い息の臭さが漂ってくるようです。しみついた常習の詐欺師の臭い。あなたシャロームの、わざとらしい文章に深く深く染み込んでいる、この臭いを、私は、あなたの文章を見るときに、いつも感じています。
 
 
人類の敵は、宇宙人でも、国家でも、民族でも、集団でもないです。イデオロギーでもないです。人類の敵は、一見、人間に見えるところの、サイコパス(自己愛性~反社会性人格障害)です。サイコパスには、温もりと潤いがありません。つまり、温かい心と悲しみに共感する心が無いのです。
 
サイコパスは、不都合に際して、罪悪感を感じることがなく、反省することがありません。その基本に、悲しみという感情がないのです。全てを、他者のせいにして、笑うか怒るかの感情でしか反応できない人です。楽山と同様、巡りあうことが不運であり、受け入れることは不幸となる災いの人です。
 
シャロームの発言を確認:
「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」・・そんなキリスト教は存在しない。
「悔い改めは神が与える」・・誰が悔い改めるのでしょう。シャロームはキリスト者ではない。
 
 
偽牧師 偽善者

偽牧師 偽善者
 
 
(2020年01月、同日一部修正)
(2022年01月13日、再録+修正)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
鏡を震わせ抜く しきりに
白髪を流す あるいは
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
しばしば礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみにしがみついて
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山に出会うことは不幸であり、楽山と関わることは悲劇であり、楽山に頷くことは感染であり、楽山に従うことは人格破壊であります。シャロームや易坊にも言えると思います。3人の一人による成りすましを疑っています。この者たちは、無反省、無責任で、共感性の欠如した、言葉だけの偽善者です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
とにかく都合の悪いものは排除したり無かったことにしたりする幸福の科学。
これが宗教団体のやることか?
中国が高速鉄道の事故車両を現場で埋めた事件があったけど、私から見たら、この教団はそういうお粗末なレベルのことを平気でやると思う。
こんなこともあったよね。
バレないとでも?
 
楽山は、都合の悪いものは完全に無視して、無かったことにして、悪口や当てつけなど自分の言いたいことだけを書いてきます。この約3年間ずっとそうです。嘘と詭弁と隠蔽偽装が、楽山のブログとツイッターの特徴です。楽山には、アンチとして批判する、宗教を語る、などという資格はないのです。
 
楽山は、正当な批判者を気取っていますが、とても卑怯で、狡猾です。楽山の精神には、おびただしい悪事が、隠され、埋められているのです。楽山は、人間として一人前になれなかった人です。誰も、攻撃的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に関わらないでください。
 
 
 
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  信仰とは3
 
 
前に書いたことも含めて、折に触れて、信仰について、まとめるという作業は、人間の言葉の不完全性によって、遅々として進まず、また、私の凡庸なることもあり、人間の本性として不完全であることを承知の上で、なお、努めなければならない務めとなっています。
 
 
神の存在も不在も証明できない、だから信じるのだ、ゆえに、信仰なのだ、と考えていたことがあります。しかし、その場合、なぜ信じるのか、何をどう信じるのかという問題があり、それは、人が、こういうことだと伝えても、その人の考えであります。
 
信じる内容が、超常のことなら、どうしてそれが正しいか、超常なのだから、人に分かるはずもないことです。思い込み信じ込んで、それを信仰?と呼ぶのなら、その信仰?が、何も癒せず、むしろ、心を狭く鈍くするばかりになるでしょう。
 
このことに、気づかなくなったら、もはや、妄想を固めているカルトに過ぎないと言ってよいのです。繰り返し唱えておれば信仰・・ではないです。
 
聖書を読んでも、聖書の筋書きを、いくら懇切丁寧に言って、こんなこともして下さると、聖書の言葉を繰り返しても、聖書解釈としても、それだけを唱えることは、現実の人生に生かせるものは殆どないと言ってよいのです。
 
そこを補っているつもりで、きっと助けて下さると現実を保証するような言い方をすれば、今度は、その責任を負わされることになります。何が起こっても、これが導きなのだから、喜ばなければいけないなどと言ってしまえば、現実の悲劇を否定して、悲しみから顔を背けて、仮面で讃美することになります。
 
何でもありがたがることはマゾヒスト的な宗教になってしまうし、そういう信じ方は、先ず、受け入れるべきものを受け取っていないか、受け入れたつもりで思い込みを強くするだけでしょう。神の意志と行為について、正確に解釈して責任を負える人はいないのです。
 
説教者であれ、信徒であれ、人に福音を伝えるとき、大事なのは、共感であります。信じれば救われます・・ではなく、共に人間であるのだから、一方が、もう一方に出来ることで大事なことは、教理を繰り返すことではなく、上から教えることではなく、人間としての共感だけなのです。
 
そして、その共感には、明らかに、罪深い、信仰が足りない、という不完全と不信仰の共感も含まれているのです。それが無いままの、上から下への教えは、いかに、優しそうな言葉を並べても、カルトへの広い門に過ぎません。
 
 
信仰とは何か、ということになると、神の全知全能・完全絶対・永遠不変は、人には分かりません。人は、聖書に書かれている御方あるいは存在によって、ようやく生きてゆける希望を見い出し、祈りと告白を捧げることを信仰と呼んでいる身であります。
 
人生の真実について何かが分かるということは感動を伴いますが、人は、いつでも、分かっているわけではありません。少なくとも、神に対して、分からないことを分からないと言えることが、不完全の自覚であり、信仰の要(かなめ)であります。
 
このことが、自己愛、自己中、高ぶり、強がり、慢心、高慢、傲慢からの解放となります。その解放は、理解というより、共感と希望であります。希望することは、人の側のことですから、人にとって、一生続くことがありえます。
 
それが、絶えることのない希望に支えられた信仰となるでしょう。ゆえに、神の側が否定することはないのだから、人の側が否定しない限り、永遠と呼んでいいのです。人が、固く信じようとすることは、しばしば、心に神のイメージや思いを自分で作ってしまいます。
 
むしろ、信じ込みは罪であり、罪として赦しを乞う性質を持ちます。ゆえに、祈りにおいて、正直であることが必須となるのです。項垂れても、仰ぐ姿勢でも、祈りの、最も大切で、不可欠なことは、正しいことでも美しいことでもなく、本音の、正直な祈りであります。
 
つまり、現象としては、神は、人が永遠の神の存在を熱望して、祈ることに他ならないのです。ゆえに、神聖について、既知であるかのように、見える、知っている、分かっている、などと決めつけることは、思い込み信じ込みになるので、信仰ではなくなるでしょう。
 
二千年前の、物や肉体への奇跡の事実性は、神のみぞ知ることであって、二千年前の奇跡が事実だと信じるのがキリスト者ではありません。神のみが知ることを、人があった、あるいは、なかったと、決めつけることこそ、神に対する冒涜であります。
 
肉体の復活を執拗に唱えながら「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」などと平気で言っている偽善者が現にいます。「悔い改めは神が与える」という言い逃れをしますが、悔い改めていないならば、神が与えていないってことだろう・・という自己矛盾に、自ら堕ちているのです。
 
物や肉体の奇跡よりも、遥かに遥かに、大きく、かつ、人間が受け取れる奇跡を、キリストは成就しています。神の前に、祈りにおいて、願いにおいて、遜ることを知っており、かつ、正直でありうる人だけが、キリストに信仰の義を与えられ、慰められ、癒され、救われています。
 
キリストを殺した者たちは、尊大であり、自己あるいは集団の解釈、すなわち、人による解釈を絶対としたがゆえに、戒律主義に陥り、それを守っているという傲慢によって、キリストに退けられ、ゆえに、キリストを殺したのです。今のキリスト者がそうであってはならないという悪の見本となっています。
 
また、キリストは復活したんだから大丈夫などと、死を知りもしないで生きている人間が、キリストの犠牲の死の意味を軽んじて、感謝と讃美だけを唱えるのも、信仰ではありません。
 
悔い改めは、罪人であることを自覚し、神に、告白し、祈ることです。神の前に正直でなければ成立しません。信仰は、それを繰り返すことです。つまり、生きることであります。信仰は、神の前に、成長することであり、決して、一時に完成することではありません。
 
 
私たちが、聖書によって知るべきは、神と人の決定的な違いを基本的な自覚として、自らの、決して絶対ではない人間の立場を弁える節操と、絶えることのない希望を支えるのが、今は目に見えないキリストの共感に満ちた同伴である、という、2つに絞られてきます。
 
語るのが、聖職者であれ、一般の信仰者であれ、いかに、聖書に忠実と言われても、あるいは、面白くて詳しい説教でも伝道でも、この2つを語らなければ、説教とは言えないでしょう。説教や伝道が、人の決めつけの保証や、おまじないや、謎解き話に、堕ちることのないように、祈っています。
 
 
妄想や、真逆の解釈と信条を言いふらして、人々を惑わす者たちがいます。また、遠回しに、聖書とキリスト教およびキリスト信仰を、お伽噺にしてしまう輩もいます。また、小理屈や屁理屈をこねては、人を罠にかけて困らせて、その様子を、面白がる者もいるのです。
 
今のキリスト教とキリスト信仰も、その言説を眺めれば、節操において、情緒において、弱いか、あるいは、カルト的になっている傾向が、無視できない傾向として、一部にあり、信仰のカルトの方向への堕落に陥る可能性を示唆しているのです。
 
しかも、カルトは、何か言われると感情的になりやすく、気の弱い人は、カルトの、格好の、いじめと誘惑の対象になるでしょう。カルトやカルト的な人に、近づくことなく、過ごせたとしても、意地が強くなることは、信仰が強くなることとは逆の変化であります。
 
思いこみや信じ込みから生まれてくる信仰は、決して人を癒やしません。むしろ、悩ませ、病ませるものになります。そういう者に限って、うれしそうに、神を恐れず、"神の平安"、また、"揺るがない信仰" などという讃美言葉を繰り返すでしょう。
 
その検証が、自分で、出来なくなっている人は、既に、カルト信仰への危機と言ってよいでしょう。大方の人は、他者からの、そして、自分発信の、カルト信仰に誘導される危険にさらされていると思います。
 
神は完全、人間は不完全、という弁えと、神の前に、主イエスキリストの御名によって、精いっぱい正直に、祈りを捧げること、それが信仰であり、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、このことさえ、守っているとは思えない場合があります。
 
 
救い、信仰

救い 信仰
 
 
信仰者も、現世において起こってくる様々な悪の有り様と、突然の不幸の有り様を知ることになります、ただ、信仰者は、災いの背後に、今は隠れて見えないけれど、人間に対して至高の存在が、大きな歴史を動かしておられる存在を希望として想うしかなく、キリストを信じ、神を仰ぎ、祈るのであります。
 
昔の人は、考えたのでしょう。今は、こんな有り様だが、きっと、いつも、その御方が背後にはおられ、その御方の計画があって、人を選んで働かせている、そして、いつか、その御方の支配によって、救われる時と所があるに違いないと。そう思う人が出てきて、宗教が生まれることは必然だったのでしょう。
 
それは、まさに、その時代の人が、この世に絶望せずに、生きるためでした。
 
そして、そのことを今考えているのが、私たちなのです。
 
昔の人は、地上の人として、その時代の重荷を負うゆえに、神を、想わなくてはいられませんでした。しかし、その資産によって、現代に至るまで、考え始める切っ掛けとなる聖書が、二千年の間、引き継がれていることを忘れないでほしいのです。
 
聖書は、必ずしも、読みやすいとは言えません。長々と系図で始まったりもしますし、そんなこと分かってると言いたくなることもあるでしょう。大事なのは、人間は不完全ゆえに罪深い、ということです。
 
そして、罪人への伝道が、人の与える名誉や金銭的利益に何のメリットもないのに、憐れみ、共感、愛のみによって、命を捧げた御方が、イエスキリストだということであります。その御方を、救い主として、好き訪れとして、即ち、福音として伝えてゆくのが、キリスト信仰者の務めとなっています。
 
 
旧約聖書では、神と人が直接語り合う場面も出てきます。神という絶対者は、この世の総ての物と生き物と人を造る御方、つまり、全知全能・絶対完全・永遠不変の創造主として書かれています。
 
そして、神は、嵐や雷とともに顕れ、戒める神であり、また、ときには、懲らしめる神であることから考えれば、旧約聖書に徹底して書かれているのは、神と人の違いであります。
 
神は恐るべき全知全能を持つ完全なる存在であること。そして、人は、全知でも全能でもなく、不完全な存在であること。つまり、神の完全を覚えることは、人自身の不完全を知ることであります。それが、人の罪性として理解されることこそが、人類の英知なのです。
 
新約聖書では、実際に生きた人間としての体を持つイエス・キリストが中心であります。ゆえに、キリストは、様々な人々と交流をします。そこで、キリストに救われた人々と、キリストに厳しく批判され否定された人々が分かれます。
 
聖書において救われなかった人については、見える、守っている、知っている、分かっている、という自画自賛や、さらには、人を指して、あのような者でないことを感謝します・・などと神に自慢してしまうような、罪性の自覚のない者だったため、キリストは、彼らを、徹底して批判し、退けました。
 
多くのカルトは、このようにして、退けられます。しかし、思い込みから感性の鈍麻によって固定されたカルト信条は、集団も、個人も、なお、蔓延っているようです。ということは、カルトは、訂正不能のまま、変わらない、という性質を持ちます。
 
ただし、聖書には、パリサイ人にも、律法学者にも、変わる、または、その可能性のありそうだ、という例外も書かれています。そういう例外的な人がいることも、キリストは見逃しませんでした。
 
キリストに救われた人は、キリストの前で、正直に告白し、あるいは、そういう身の上を表しました。世辞のような讃美よりも、率直な物言いを大事にして、ときに、食い下がるように救いを求める人もいました。キリストは、それが、飾らない本心であったため、善しとされました。
 
 
キリストに向かって、へりくだりながらも、飾らず、嘘を吐かず、罪の告白から願いまで、正直に、本気で言いたいと思うことを言う、という祈りの原型が、ここにあります。
 
そして、それは、救われた人々が、孤独ではないことを知る初めの体験でもありました。キリストが人間ひとりひとりの人生に同伴するという福音の原型がここにあるのです。
 
祈りは、唯一、積極的に可能な、人から神への音信であり、導きは、神から人へ心の現象、あるいは、秘められた出来事として与えられます。即ち、信仰は、神と人の、秘められた双方向であります。
 
 
なお、出来事の現象、つまり、成り行きとしての導きは、人には、導きだったかもしれないと推測されることはあっても、神髄については隠されているとしか思えません。それを、決めつけると、自分の推測を信仰?することになるので、注意が必要です。
 
物や肉体に起こる奇跡は、驚くことはあっても、人間は、そういう驚きを、不思議なだけで手に負えないことを、生きる理由とすることは出来ません。大切なことは、起こったとしても一時的で過ぎ去ることではなく、魂つまり心に起こって、心を震わせ動かすことだけが、生きる力になるということです。
 
 
物や肉体に起こることは、人を驚かせますが、それは信仰の神髄ではありません。驚きだけでは、有り難がるだけで、心が成長せず、人は、本当に救われることにはならないからです。また、総てが魔法のように起こると言い張る信仰?も、成長の余地がなくなるので、退けられます。
 
人間は、人間に分かることと、分からないことを、分別するのでなければ、個人においても、集団においても、全体においても、楽山やシャロームなどの易坊類のような陰謀屋によって、容易く騙され、滅びに向かうように出来ているようです。
 
実際、彼ら邪悪な者は、人を、たぶらかし、だまして、存(ながら)えているようです。彼らは、全く、キリスト教を、信仰を、敬虔を、理解していません。なのに、柔和を装い、敬虔芝居をしてきます。自己中で訂正不能のために、学習せず、成長せず、にもかかわらず、自慢し悦に入るのです。
 
 
信仰についての証しとなることは物や肉体の奇跡によるのではありません。人間の心に起こっていることを忘れないでください。超常の言葉と理屈と芝居だけで誘導しようとする心無き者たちの罠に嵌らないように注意してほしいのです。
 
二千年前に、パリサイ人などの偽善をすっぱ抜いて、厳しく批判したのが、イエスキリストです。私はキリスト者なので、キリストを救い主として信じていますが、いつくしみ深きキリストは、鋭い批判者でもあったのです。及ばずながら、キリスト者は、邪教や偽善者に対して、批判者でもあるべきでしょう。
 
少なくとも、悪い言葉の中に批判を含めて、いつも、聞こえのいい言葉だけを使うように教えている教師は、それこそ、ハイソみたいに上品になりたいだけの、神の言葉も、人の言葉も、言葉の本質を何も弁えない偽善の堂々巡りをして、キリストが最も憎んだ偽善を促しています。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
悪い言葉は、何かを善くしようとする意志のない言葉であり、悪意の言葉であります。ゆえに、悪い言葉に批判を含めることは、パリサイ人を批判したキリストを、おとしめる冒涜であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:23
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 
23:24
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 (マタイ23:23-24、新約聖書)
 
人は、キリストようには無理でも、意見を言い、間違っていたら、できる人が、できるだけ、批判をしなくてはなりません。「悪い言葉」だからと、批判を禁じる者は、キリストの福音を禁じる者、キリストを十字架にかける者であります。そのような動きは、現にあるように思われます。
 
聖書の御言葉は、心で読むものです。言葉面だけで読んだつもりになるのは、心の解放感を伴わないことによって見分けられるでしょう。そして、聖書を読んだ人は、恐れと、救いの共感によって、理解を保留することが出来ます。シャロームは悪意で思い込み、楽山は読まずに呪いながら決めつけてきます。
 
 
(2020年01月01日)
(2021年01月02日、再録+加筆)
(2022年01月12日、再録+修正)
 
蔓延る(はびこる)
遜る(へりくだる、謙る)
嵌る(はまる)
 
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間、そんなものでしょ、・・とでも言いたげな「人間の性」という言葉です。この "2."レスコメント自体が、楽山固有の偽善とペテンの罪を表しています。言えばブーメランで自分に返ってくるという成り行きで、なおも、他人のことを、恥も知らずに言い続ける柔和芝居が、一日も早く、終わりますように。、
 
 
 
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  人からの自由2
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうと言うことです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰になりやすいと思います。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は、
「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」と言い、
それは、キリスト信仰ではないと批判すると、
「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、
そのようなキリスト信仰はどこにも存在しない、
まず最初に自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりで、
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと、
「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」などと言い出し
思いつきで聖霊を持ち出して、自己正当化に悪用し振り回し、中身のない理解不能の造語的組み合わせを平気でしてきます。
 
 その場で繕っただけの言葉遊びを
 自動的に聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、決して誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
自由

自由
 
 
(2019年12月10日)
(2021年01月07日、加筆して再録)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま、行進するピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わることが悲劇であります。
 
 
 
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  楽山の本性(3)2
 
 信者ブログを見たけれど 3(st関連)
 2020年09月02日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
(3)から先にアップします。私のことが書いてあるからです。
 
露骨に攻撃に転じている楽山です。楽山が付けたリンク先の記事は、かなり前のものです。恐ろしく長いのがあり、今は、今が問題です。批判したかどうかも忘れていますので、リンクURLは省略します。
 
楽山は、昔はあんなに愛されたのに、とでも言いたいのでしょうか。
 
*どっちが本当?
元記事は読んでないのだけれども、これはst氏が言っているということだろうか。
幸福の科学とは無関係のキリスト信者からも、お前はキリスト教を信じてないではないかと批判されています
 」
それなら、過去のst発言を貼っておく。
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
 」
 
楽山を批判するようになって、はっきり調べてはいないけど、約2年半くらい?経つと思いますが、それより前は、楽山を信頼しようと思って好意的なコメントも書いていたのです。それが、上のコメントなのでしょう。それを、見事に裏切ったのが、楽山であります。
 
そういう気持ちが最初あったから「キリスト者のつもりの私」は、謙譲のつもりに他なりません。つまり、私は、完全に間違えたのです。私は、間違いを認めます。私は、楽山の丁寧語に、すっかりだまされていました。この過ちについては、神様にも、人にも、申し訳ないと思っています。
 
ちなみに、もう一人の批判対象である偽キリスト者&偽牧師のシャロームについては、10年ほど批判してきましたが、その前、数年間は、聖書の先生だと思っていて、だまされていたことを告白いたします。この二人がいるために、私の批判は、やめてはいけないものとなりました。
 
私は、容易に、だまされますが、いつまでも、だまされていてはいけないので、批判しています。この私の動機は、言うまでもなく私の信仰によるのです。シャローム shalom と楽山という、ひどい偽善者に、誰も、私のように、だまされてはいけません。
 
シャロームは、ヤフー終了後、所在不明であり、時々、"名無しの猫" などというHNで、ライブドアの私のブログを荒らしに来ました。そのシャロームの荒らしコメントについては、その都度、批判記事を書いてきたつもりです。
 
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
 」
 
ここについては、ヤフーブログ時代の、キリスト教を名乗るカルトである自称ヨシュアと自称マグダラマリアのブログについてのことです。この二人は、聖書の戒めを守って完全になれる、という冷血の行為義認を信条とする間違いだったので、批判対象となりました。
 
行為の善悪ではなく、また完全になるからでもなく、罪深い人間として、信仰のみによって救われるというのがキリスト教です。信仰義認と言われます。そのことを、楽山は、全く理解できませんし、理解しようともしません。自己愛性パーソナリティ障害NPDだからでしょう。
 
つまり、アブラハムが息子イサクを殺そうとしたのは、神の命令だから正しいと、無条件にアブラハムを完全な義人として書いていたことを批判したことがあります。信仰は、人間性を失うことを正義とするようなことはありません。
 
聖書では、息子イサクを殺そうとしたアブラハムを、神が止めるという話ですから、アブラハムが完全ではないことは明らかです。神の義と、人の義は、違うということです。ふつうに言われる正義と、信仰の義は違うということです。
 
信仰の義は、神の前に正直に祈ることです。人の前ではありません。単なる善でもありません。ゆえに、娼婦も、不倫を犯した女性も、十字架上の犯罪人も、救われました。彼らは、キリストの前に、隠し事をしなかった、できなかったからです。楽山とは真逆なのです。
 
楽山は、まだ、2年前に自称ヨシュアの言ったことを信じているようです。学習しないというのは、こういうことに表れてくるのでしょう。楽山みたいに、過去の罪を忘れて同じことを繰り返し言うだけの廃人にはならないようにという動機で批判を書いています。
 
*自分教
これはおかしなことになっている。
キリスト教を中心にやっている人からも、ニセモノと言われるような態度では、やはり、幸福の科学から逃げても、自己都合のエセ信仰に頼っている、自分教信者でしかないのだな、ということでしょう。
 」
どうやら、LEO氏は、st氏は教会には通わず、聖書も通読していないということを知らないようだ。だから自分教信者を信頼しながら、自分教を批判するという、おかしなことをしている。
何はともあれ、これによって、LEO氏は、自分教を批判するけれども、自分教者かどうかの見分けがつかないことがわかった。
 
教会に入っていません。集団が苦手だと判断したからです。聖書は、折に触れて、ネットで読んでいます。聖書も全部読んではいません。祈りは、折に触れてしています。しかし、このようなこと、信仰者でもない楽山に、とやかく言われる筋合いはありません。
 
それに、教会に通わず、聖書も通読していないと、キリスト者ではない、という楽山の偏見と先入観は、ひどいものです。それで、自分教信者だと決めつけています。もはや、楽山は、最低限の判断力の冷静さも捨て去って、いちゃもん攻撃に専念しているようです。相当な悪意が表れています。
 
結局、この短慮からの攻撃性、これが、楽山の正体です。楽山は、思いやりや配慮など全くできない自己愛性人格障害であり、冷血、かつ、とても情けない人なのです。
 
*ダブスタ
ここもおかしい。
こちらのブログ主はキリスト信者だそうですが、この方も、ここでわたしが指摘している退転アンチに大迷惑をこうむった方のようで、延々と該当アンチのことを批判し続けているようです。
おかげで、ああ他にも批判している人が、幸福の科学信者以外でもいるんだな、と知ったわけですが、
 」
st氏は、ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった人だ。たしか6年だったか、8年だったか、shalom氏をストーカーしていたという。現在、自分は、氏のブログは全然見なくなったが、それでもその状態はおよそ見当はつく。
 
「ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった」・・どういう一部だったのでしょう。そういえば、ヤフーでは、楽山やシャロームshalom以外にも、いろいろなHNの荒らしが攻撃してきました。しつこいのもいました。特徴的に、訂正不能の罵詈雑言でした。
 
その荒らしのHNをあげてみると、shalom、楽山(=自由)、易坊・・以外には、駅坊、tensoba、こうさん、変心忍者荒らし、pci*****、A、α、ルシフェル、アルファ、まほろば、htakabo、rut*****、関西人、・・などです。楽山のハケ口なのでしょうか。
 
罵詈雑言は、自称ヨシュアと自称マグダラマリアも、同様です。
 
小芝居が得意なつもりらしい楽山は、他人に成りすますのが好きそうですから、ひょっとして、これら、荒らしとカルトのHNも、全部、楽山の自作自演ではないかとさえ思えてきます。
 
ヤフー時代の、スクリーンショットからです。今になると、ひょっとして、全部、楽山の成りすましではないかと、今は思っています。楽山が、この記事もそうですが、思っていたよりも、凶暴だと分かったからです。でっち上げの悪口ばかりです。
 
楽山が、私を、ネットストーカーだと言っているのは、私がシャロームを10年批判し続けているからという理由以外にはありません。批判した理由は、シャロームが、批判を受け取らず、嫌がらせだけを返してくるような、楽山に似た人種、すなわち、自己中で無反省の反キリストだからです。
 
批判者をストーカー呼ばわりする楽山です。批判とストーキングを一緒にするとは、楽山は、実に、次元の低いところで、文句を言っているわけです。シャローム、楽山、易坊、という3人も、同一の成りすましではないかと疑っています。
 
楽山のこの記事も、批判をまともに受け取ることが出来ないために、批判に対して正当に弁明を返せないから、手段を択ばず、悪そうに見える材料を探してきて、文句を言っているだけなのです。
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という反キリストとしか思えない信条に賛同したということも、楽山批判の、そして、楽山の知性と感性を疑う動機の一つでした。
 
LEO氏は普段は粘着ストーカーは悪としながらも、論敵が延々ストーカーされるのはよしとしているのだからおかしい。
こういうところをみると、LEO氏は真理に忠実であろうとするよりも、論敵を叩けるなら何でも有りの人だとわかる。
 
批判者を、粘着ストーカーと決めつけることしか出来ない楽山です。このような幼稚な決めつけをするのが楽山の特徴ですが、それは、楽山が、完全に宗教を舐めているからです。ああでもないこうでもない、という感じで、中身がなく、粘着した筆致は、むしろ楽山の特徴です。
 
*仲間
ここで、LEO氏は、st氏に賛同している。
この方の該当アンチ批判、いくらかを読んでみましたが、当たっている批判が多いと思えました。
退転した悪質アンチよりも、(別に幸福の科学信者ではないけれども)キリスト教信者であるこのブログ主の方が、遥かに正直で素直、純粋に信仰を述べて、該当アンチを切り捨てています。よほど不愉快なことを過去にされたようです。さもありなん、あのアンチならやりそうなことです。
 」
意見が合うなら、二人は仲良くなれるにちがいない。LEO氏はブログでたくさんキリスト教の記事を書いているし、案外、st氏はこれを読んで感化されて、HSを信じるようになるかもしれない。
 
これも侮辱と言っていいでしょう。まともに返せなくなると侮辱してくるのは、楽山もシャロームも同じです。楽山は、そういう野蛮な性質を隠してきましたが、もう隠せなくなったようです。これによって、今までの楽山の、丁寧語も、やさしさ芝居も、嘘だとバレることになります。
 
既にキリスト者である私について、楽山批判という共通点だけをもって、「二人は仲良くなれるにちがいない」「HSを信じるようになるかもしれない」などと言って、楽山は、自分が有利になるとでも思っているのでしょうか。退行し破綻して嫌がらせしか言えなくなった低劣な楽山です。
 
*経緯
一応、st氏との経緯を書いておこう。
自分はヤフーブログ時代に、st氏のshalom批判を読んで、shalomという人からよほど酷いことをされたのだろうなあと気の毒に思ったのだった。またその宗教観にも一理あると思った。それで交流するようになったのであるが、その後の顛末は、こちらにまとめてある。
 
私は、楽山の「一理ある」等々の肯定を、今は全く信用していません。シャロームは、楽山と同じように、批判に反論も弁明も出来ないので、嫌がらせだけをしてきました。こういう人に、信仰者も求道者も近づいてはいけないというのが批判の動機です。
 
そして、この1年半、楽山についても、ほぼ同様の動機と理由によって批判しています。この楽山とシャロームのような無反省の者に対しては、彼らを変えようなどと思わないほうがいいです。病的な精神疲労が残るだけです。
 
ですから、批判対象を変えようとするのではなく、批判対象に誰も近づかないように、一般読者に伝えたいという強い動機を持つことが大事です。そして、出来ることをする、出来ないところは無理をしない、という心構えが大切です。
 
以下は、いちいち批判している暇も気力もないので、リンクは省略します。
 
・st、楽山 問題を振り返る - 楽山日記
・st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ) - 楽山日記
楽山の言うことは信用できないというなら、マグダラのマリア氏の記事を読めばいい。
・追記あり、批判ストーカーされてます。
・ヤフーブログでは、批判して、、、他人を攻撃したりするための、ブログ利用は禁止事項。
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。
ひさしぶりに、マリア氏のブログを見たら、こんなことを書いておられた。
 
(自称マグダラマリアの記事より)
【禁止】いやがらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする目的で利用すること
Yahoo!ブログでは、特定の他人への攻撃や、参加者同士の誹謗中傷を禁止しています。
 」
 
私も、ときに辛辣な比喩を書きますが、批判は、「嫌がらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする」ことを目的としてはいません。また、誹謗中傷が目的でもありません。
 
批判は、不正だという指摘が主体であり、それにもかかわらず不正が続く場合には、きびしくなり、長く継続するということです。楽山が答えないし改めないゆえに長く続いている批判を、自己愛性人格障害の楽山は、ストーカーと、とても、幼稚な、原始的な決めつけをしてくる人です。
 
楽山は、批判と中傷の区別が、以前から、付いていません。これも、楽山の無反省からくる訂正不能の未熟さなのでしょう。だから、楽山本人を説得するのではなく、楽山ブログに近づかないように、むしろ訪問者に、楽山の不正を継続して説明する記事になっています。
 
上のような中傷だという決めつけは、楽山とシャロームに共通してみられる特徴です。つまり、文章の読解力がないか、反論や弁明を返せないかのどちらかです。
 
・人の意識が変われば
これはなかなか意味深だな。
 
自称マグダラマリアは、上では、やさしい言葉で書いているようです。しかし、批判者に対しては、驚くほど豹変して、荒っぽく「プププ」「けろっ」などという異様でグロテスクな書き方で、あざ笑い、決めつけてくる人でした。やさしさは、見せかけでした。
 
それにしても、楽山は、よほど、まとめて悪口が言いたいのか、今回の問題とは直接関係ない人を、平気で巻き込んできますね。よほど援軍が欲しいのでしょうか。
 
*おしまい
ふう、やっと、ここまでたどり着いた。
ほんといえば、まだ書き残したこともあるのだが、それはまたいつか機会があればということで…。
とりあえず、今回はここまで。
 
楽山は、悪口漁(あさ)りの果てに、いったい、どこに、「たどり着いた」つもりでいるのでしょう。荒らしとしての本領を発揮するつもりでしょうか。どうか、楽山には、決して関わらないでください。そのためにも、決して近づかないでください。
 
なお、楽山とシャロームの関係は、シャロームと一緒に私を攻撃してきた荒らしの易坊を加えて、一人の成りすましか、親族か、などを疑っています。ネットの性質上、証明できませんが、否定の証明も出来ないのです。少なくとも仲間として振る舞っていることは確かです。
 
 
 楽山が追記しています。細長い画像2つ、おかしいです。
 
*st自由同一人物説
今回のことで、ヨシュア氏のst自由同一人物説を思い出した。自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ、その他にも二人の意見には共通項がある、自由の正体はst氏だ!というような主張だ。
 
自由、というのは、楽山の以前のHNです。自称ヨシュアは、キリストを信じているつもりの人です。実際は、ガチガチの教条主義で、聖書の教えを守って完全になれると言っていました。要するに、完全になりたがる信条だから、キリスト信仰ではありません。
 
読む人のことなど考えない楽山が貼り付けた見苦しく黒く長い画像は、以前の、ヤフーブログのときでしょうか、自称ヨシュアが、あと何日だ、とか、私を呪っていた頃の話でしょうか。2018年の夏から秋にかけてだったか。
 
私と楽山が同一のようなことが書いてあります。私は、もちろん、気色の悪い自由(楽山)ではない。謝罪しろとも言っているが、身に覚えのないことだから謝罪はしない。私は、むしろ、自称ヨシュアも、自称マグダラマリアも、楽山ではないかと思い始めています。
 
あと、なんだか説教してきているようだが、覚えがないか、忘れているのか、自称ヨシュアに、とやかく言われる筋合いはないのですが、今さらのように、それがどうだと楽山は言っているのでしょう。楽山は、こちらを攪乱したいのでしょうか。無駄だと思います。
 
これは、いま読み返しても、おかしな主張だと思うが、ヨシュア氏側が繰り返していたst氏の粘着批判は迷惑だというのは正当な言い分ではある。でもアブラハム関連の議論については、自分はやつぱりst氏の方に理があるとは思うし、ヨシュア氏が議論と関係ない、st氏のプライベートなことを持ち出して、ああだこうだいってたのはよろしくないと考える。あれはst氏が気の毒だった。
 
私は、粘着ではない。楽山をはっきり否定している。くどくど、長いだけの記事を書いている粘着気質は、他でもない、楽山であって、それを、ネチネチ書いてくる・・と、私は今までの批判記事に書いてきました。ここだけ、こちらの肩を持って冷静を装う・・狡猾な楽山です。
 
もっとも、ヨシュア氏側の身になって考えてみれば、st氏の粘着ストーカーに切り返すには、そのくらいの強硬手段に訴えるしかなかったのだろうし、実際それはst氏を退散させるのに効果はあったようだし、止むを得ないことだったのかもしれないな。また当時のヨシュア氏は、自分のためというよりも、マリア氏を守ろうとして奮戦していたのだろうし、あの口調の荒々しさも止むを得なかったのかもしれない。こう考えてみると、あの頃の自分は、ヨシュア氏に対してあまりに厳しい見方をし過ぎていたようだ。反省。
 
すりおろしたヤマノイモを、首に塗りつけるように、気持ち悪く粘着してくるのは、楽山その人であります。思いついたら、整理もせずに、一つの記事に、なりふり構わず、追加で、だらだら書き込むのも、しつこいし、しまりがないと言うべきでしょう。
 
楽山は、深い情緒が欠けていて、思いやる、ということが出来ないので、他者の身になって考えてみることも出来ず、自己の利益を図るための字面の小細工を弄しているだけです。ゆえに、味方したようで、そのあと、逆方向のことを書けるわけです。
 
楽山は、またしても、他者を巻き込んで、混乱させてきます。私について見た目の悪そうな材料を探して、載せては的を外して、結果、どこまでも卑怯者ぶりを見せているだけです。粘着ストーカーではなく、どこまでも無視して逃げる犯人を追いかけています。
 
楽山の反省は嘘です。文脈を見抜いてほしいのですが、楽山は、恐らく今は関わりの薄い自称ヨシュアの、恐らく、ずっと前の記事を利用して、同情を装い、私を、おとしめているだけです。ねちねち粘着して、女々しい当てつけを書いてくるのは、無反省・無責任の楽山であります。
 
楽山は、元々反省する気のない人です。私が、何度も楽山のことを無反省と書いてきたものだから、当てつけて、「反省。」という言葉の字面だけ書いてくる。それにしても、なんて姑息な。楽山の、言葉の字面だけの「反省」で実質がないのは、あざ笑いを向けているのと同じです。
 
楽山は、自身の狭い狭い思考の部屋の中で、広がらない視野と理路を字面だけで無理に広げようとしています。思いつきだけが散乱してゆく定めのようです。誰も巻き込まれることのないように、どうか、楽山に近づかないでください。
 
 
光ではなく暗黒のテカり

光ではなく暗黒のテカり
 
 
(2020年09月04日)
(2021年09月05日、再録+加筆修正)
 
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
写らない夜が行きます
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
(昔々の・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
ぽん吉さんは、またアンチ諸氏に向けて、無闇に大砲をぶっぱなしまくってる。
一匹狼は悪くなかろうが、カルト批判という立ち位置は同じなんだから、もうちょい協調姿勢をとってもいいのではないかと思います。
午後10:15 · 2021年9月3日
 
大砲をぶっぱなすのは分かりやすいわけですが、楽山は、例えば、水道に毒を混ぜるような陰湿さで侮辱を忍ばせてくるから、より悪質であります。また、楽山は、協調姿勢に見せかけて、責任は一切負わないわけですから、結局、何かの役に立とうという気もないのです。
 
だから、自らの虚無を、教えるような忠告するような書き方をして、共同者のふりをしてきます。実際は、自己愛性人格障害なので、仲間でも、協力者でもないということです。結局、それは、いつのまにか、関わる他者を裏切ってゆくことになり、実質、逃げ回っているのが楽山です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
それは申し訳ない!
世の中には、さみしいから他人を猛批判する人もいるという話を聞いたことがあるので、
もしかしたら、ぽん吉さんもそうかも知れないと勘違いしてました。
午後10:37 · 2021年9月3日
 
このように、楽山は、他者同士の争いに、客観的で冷静なふりをして、興味本位に、口を出してきます。そうすることで、楽山は、自分自身の問題から逃げているわけです。楽山は、ずっと、そのような態度ですから、信頼など、決してできないことを知ってほしいと思います。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
 >金太郎飴に非ず!
マジレスすると、ぽん吉さんみたいな強烈な個性をもってる人は、金太郎飴になろう、みなと同じくしようとするくらいが丁度いいんじゃないかな。
これだけ強烈な個性をもちながら、さらに「金太郎飴に非ず」として個性発揮に力を入れたら、周囲は全然ついていけなくなるよ。
午後10:51 · 2021年9月3日
 
同じようになってくれたほうが、楽山には都合がよいのでしょうが、余計なお世話のように思えます。余計なことは言うが、必要なことはしないという楽山の特徴が出ています。個性的な人の心配をするより、差し迫って、恐らく誰も全然ついていくべきでないのは、楽山その人です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·12時間
ぽん吉つながりで、へのへのさんのことが話題になっとる…。
老婆心ながら言っとくけど、彼について迂闊なことを書いて逆鱗に触れてしまうと、ずうっと粘着されることになりかねないから、そこは注意した方がいいよ 顔文字(赤くなった顔)
午後10:05 · 2021年9月3日
 
少なくとも、ネットにおいて、理解もしていないのに言いたい放題に言って、あとは無責任に、平気で無視している楽山は、何の注意も払っておらず、その分、立場も何もあったものではないのです。老婆心か爺心で意見して反省もしない楽山は、赤裸になるまで逆鱗に削られてゆくでしょう。
 
 
 
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  救われる条件(2)2
 
 
キリスト者になると柔和な人間になると
あるいは社会的基準においても善人になると
思われているかもしれません。
 
信仰の結果として善を目指すでしょう。
 
しかし、実際は、
必ず善人になるかどうかは分かりません。
普通の人間と同じように
ときに頑なになることもあります。
 
さらに信仰があるという自覚ゆえに
特に教理や善と悪と罪の意識において
かえって人一倍、頑なになることがあります。
 
それはキリスト者ならでは
という信仰の働きではありません。
人間だから起こることです。
 
信仰を勘違いすることがあり、そのために
本当に付き合いにくい人になることもあるのです。
そうして、相手にされなくなることもあるのです。
 
それは人間として
決して望ましいことではありません。
そういうあり方としての過ちと罪があります。
 
では、信仰を持たなければよいのか
という疑問に対しては、
信仰は
人間が持ちましょうという意志だけで持つものではない
と言うしかありません。
 
キリストに絆(ほだ)されて
忘れられなくなった者は
その共感を忘れられないために
キリスト者・クリスチャンと呼ばれます。
 
そのように
キリスト者は常人と比べて
決して優秀を表すものではありません。
むしろ経緯において
多くの欠点を持っているからこそ
キリスト者になるのです。
 
では、そのようなキリスト者が
どうして救われるのでしょう。
 
それは、誰よりも神が、自らの民として、
決して優秀さや能力によって人間をを召命してはいないからです。
 
なのに、なぜ救われるのでしょう。
そこには、キリスト者になった人たちの
ただ一点を
神が見ておられるからなのです。
 
それは、その人が、
どんな意地っ張りでも
自己中心でも
思い込みが強くても、
そう思われていて、実際そうでも、
あるいは秘密が多くても、
ただ神という絶対者の前においてだけは
頽(くずおれ)れる心を知っているからなのです。
 
ゆえに、神が救われるのは
神の基準によります。
決して善行によるものではありません。
 
つまり、神の前において、すなわち祈りにおいては、
頽れ、憐れみを乞うしかない、砕けた魂を持つ人間であること、
その弁えだけが、救われるためには必要十分な条件なのです。
 
そのことが聖書には書かれています。
 
砕けた魂を持つ人間は
もはや神の前に
正直にそれを告白することしかできません。
他に捧げるものなどないからです。
 
正しさや善行の主張など何も言えないと知っている者が
神に救いを求めます。
 
まさに総ての人間がそうなのだと
主イエス・キリストは
聖書を通して宣べ伝え続けているのです。
 
神の前に正直以外は通用しない
と言ったのはそのことです。
 
 
神の前でだけは

神の前でだけは
 
 
※※
 
祈りにおいて
いつも偽りの讃美言葉を並べるような偽善者については
自ら救いを拒んでいるわけで、
神は、それを余さず見抜かれるのです。
そして、神の国から永久追放されるのでしょう。
そして、そのことは、
この地上において人格破壊の醜さとして表れるでしょう。
 
 
(2019年03月30日アップ、同日一部修正)
(2020年04月05日、加筆修正して再録)
(2021年04月25日、再録+)
 
 
  病質者対策
 
凶悪カルト・サイコパス・病質者とは、具体的には、言うまでもなく、2年批判している楽山と、10年批判してきたシャローム shalom のような自己愛性人格障害者のことです。
 
罪悪感がないために罪の意識がなく、悔いるという高等感情もなく、反省もせず、つまり、他者に勝ろうとする悪意だけを持っていて、いつも自分が正しくて、まともだという捏造の立ち位置から、実際には、ねじ曲がった理屈と、平気で嘘を吐く習性をもって、壊れた理路の迷惑物質を投げてくるのが、楽山です。
 
恐らく、一生治らないのでしょう。そして、一生治らないということは、話し合う余地がないということです。つまり、楽山と話し合おうなどと思ってはいけない。楽山から何も受け取ってはいけない。楽山の言うことを何かの参考にしてもいけない。
 
最初から、楽山は、惑わすために、あるいは、優越感と自己顕示欲のために、言い逃れのために、書いているだけだということを意識して、関わってきたら、追い返すか、逃げるしかないのです。
 
他には、批判する気のある人の場合、楽山の書いていることの、卑怯な言い換えや、作為的な言葉と理路の選択や、常識に見せかけた一面的な視野狭窄の言を、決して真に受けることなく、一つ一つ指摘して、資料として警鐘とすることだけが、楽山という自己愛性人格障害者に対して為すべきことだと思います。
 
楽山は不治の病と言ってもいいような欠損した人格ですから、はっきり言って、人間だと思ってはいけません。和解の余地を残してはいけません。今まで楽山が書いてきたことから、楽山には良心がありません。思いやり、共感、羞恥心がありません。平気で嘘を吐きます。自分に都合のよいように皮相な細工を文章に施して、まともに見せかけます。
 
楽山は、人のために役に立つヒントになることを書こうなどとは、毛ほども思っていません。ただただ、インテリ気取りで、客観を装い、煙に巻くような言い方で言い逃れを向けてくるだけです。楽山の文章に主旨はありません。まともで真面目に見せかけているだけです。ただ、楽山の気分がよくなるように、どこまでも、言い逃れの類だけを書いてきます。
 
ゆえに、楽山の文章を読むときには、症例を見ている、場合によっては、症状を記録するという姿勢が必要で、先ず、楽山の主旨を読み取ろうとすることだけはやめないと、疲労の罠に嵌ります。
 
楽山の文章から、言い逃れの詭弁の細工や意味の違う方向への言い換えでごまかしてくるところを、指摘し警戒し資料とするためだけに拾ってゆくことに専念するべきであります。
 
共感性のない楽山との、分かち合いや交流は、決してありえないことなのです。楽山について書く場合は、そのことを最初に弁えることが、自己愛性人格障害の害毒から身を守る唯一の方法であります。
 
そして、それが、自己愛性人格障害者、病的ナルシスト、精神病質サイコパスに出会ったときの、心構えでもあります。楽山は、人間ではありません。ふつうに付き合ってはいけない、資料にするしかないヒトなのです。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教に、いちゃもんをつけて、神を否定してきましたが、その責任を負わないという卑怯者であることに加えて、宗教を否定しても、それに代わる救いや助けになるものを、何一つ提示する洞察も能力もない人であります。
 
この自己顕示欲と自己愛だけで出来ている楽山のような病質者だけは、信頼しないでほしいと思っています。中身の無さを、丁寧語で体裁を整えて、中庸で中立の人物を装う、これが、楽山の書き方・筆致です。ちょっと注意して読めば、誰でも言いそうなことを書いたから誰でも共感するだろう、という、真実の追求とは、かけ離れた狙いで、ありきたりのことを並べて、好意を装うペテン師だと分かってくる楽山です。
 
 
楽山のキーワードは、
 
楽山・無反省・無理解・無責任・無神経
自己愛性人格障害
嘘吐き・詭弁・偽善者
病的ナルシスト・良心の欠如・自己中心
反キリスト・反宗教、などを使っています。
 
 
(2021年04月25日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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