ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:シャローム

 
  偽善者の語り口2
 
 
特徴的な詭弁をあげておきます。偽善者との遣り取りで見られた攻撃の言葉
 
 
"ですね攻撃"
 
シャロームにおいて顕著です。
 (シャロームの言)
1「少しも実践していないようですね。」
2「アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!」
3「まだまだ私に比べてお若いのに・・・」
 
1,2が、それにあたります。3は、2の後に続けられた文言で、皮肉、当てつけの部類。シャロームの傲慢だけが表れています。わざとらしい丁寧語が、鼻に突きます。
 
自分が上で、批判者が下だ、という蔑みを向けており、信仰者は、このような嫌らしいことは言いません。信仰者が批判するときには、できることをする、言えることを言う、否は否である、という姿勢を貫くことが必要です。
 
シャロームにおいては、あと、大仰な讃美、また、讃美の聖句を、だらだらと長く引用してきます。讃美しておけばクリスチャンじゃろ、という安易さが、しばしば見られることです。過ぎた讃美は、信仰自慢であり、同時に、カルトに特徴的な自画自賛でもあるということです。
 
 
"ボンヤリ言語"
 
楽山において顕著です。
 
「ていうか」「かなあ」「っぽい」などという大人の言論に相応しくない、くだけた表現のつもりの、わざとらしい言い方で、かつ、断定を避けています。いわゆる、言葉を濁して、責任を回避したい表れです。「と言えなくもない」という言い方もあります。
 
「本当に決めつけないなら、「一度もないということだ」と断定できず、「一度もないように私には思われる」という」・・断定しないのならば、「一度もない」、という強い表現を用いながら、「私は思われる」という曖昧な言い方をつけるほうが、むしろ、変です。
 
楽山は、語尾だけ、いい加減に、曖昧に、細工して、断定していないと言い逃れているのです。日本語のバランスや調和や整合性が理解できていないと思います。
 
総ての言論に『と思う』は暗に付いてくることを知らず、「思われる」等々の、濁す語尾を、いちいち付けないと気の済まないのが楽山の強迫症状です。これで、断定していないから責任を逃れられると思うのでしょうか、成り立ちません。言葉の勢いとか情緒といったものを理解できない楽山にありがちなことです。
 
そういうことを気にして、ロボットのように機械的にこだわって、ボンヤリした表現を進んで使いながら、そのボンヤリ言語に、断定していないから責任はないといい、作為の印象操作や刷り込みの誘導を含ませてくるのが、楽山であります。
 
 
楽山は、神がいるなら、どうして災いが起こり悪がはびこるのだ!とクレームをつけてきます。災いや悪は、他動的に起こる、即ち、神が起こすか、神が止めないから起こる、という言い分のようです。
 
これこそ、自らを省みることのないサイコパスが、自分に起こった災いも、人類に起こった災いも、神のせいにして、楽山の、自己に慢心の醜態から、神さえも上から見下ろしているつもりで裁こうとするのです。宗教も信仰も知らない楽山の見当違いもいいとこです。
 
このようなことは、考えるだけ虚しくなるだけだから、小学生にも笑われそうな、幼稚な短絡です。それを、楽山は、あたかも真理を語るかのように、恥ずかしげもなく書いてくるのです。
 
いかに楽山の言語理解のレベルが低く、同じことを言い続けているほど、学習も進歩も成長もないということを表しているのです。こういうのに付き合わされたほうは、たまったものではありません。このように、恥とか醜態とか嘘とか誤謬とか罪悪とかに、自覚も反省も学習もないのが、楽山であります。
 
 
"トホホ言語"
 
私が、楽山のことを、無反省、共感性がない、と言った後あたりから、楽山が盛んに書いてきたことがあり、「反省。トホホ」などとも書いています。謙虚芝居でもあります。「共感」という言葉も使うようになりましたが、その前と後で全く変わらないことで、反省も共感も嘘だとバレています。
 
楽山は、実感というものを持っていないので、言葉を書けばいいと思っているだけなのです。中身がないから、たとえるなら、言葉の、深い意味を考えもせず、文字列を真似て繰り返し、ハンセー、ハンセー、キョーカン、キョーカンと、オウムが鳴いているだけのようなものになっています。
 
楽山が、あざとく、いくら卑下して見せても、その前と後で、変化が見られないならば、だまし目的の受けねらいで同情をひくためだけの、柔和芝居、謙虚芝居だと分かるのです。同情を求めて、というより、同情をひくことを狙って、いくら大仰に書いても、無駄です。
 
 
人の日常感覚で、神を語ることは出来ません。大事なのは、確定的には何も語れない超常ではなく、絶対に対する私たち人間の相対性、即ち、私たちの不完全性=罪の性質について考えることです。そのための絶対の存在であります。
 
勘違いしないでほしいのは、絶対の神は人に対して救われる生き方を与える御方であり、決して、話を合わせる仲間同士の世辞の頷きを求めているのではないということです。
 
人は日常感覚しか持っていないのに、その感覚で、超常の神の意志と行為を、先入観と偏見に満ちた固定観念の決めつけで語っているのが、楽山であり、自分のお粗末な日常の理屈で、自ら反省することなく、神を、楽山の頭の中の、机上の、貧弱な空想の、材料にして、おとしめているのです。
 
人の日常感覚で、根拠もないのに、超常の意志が分かったつもりになり、あげくの果ては、神が自分に、不変の好意だけを向けてくるという信じ方をしているのが、シャロームであります。自身のお粗末な日常の理屈で、反省せず、悔いることなく、やたら、神を賛美して、結局、自分を褒め讃えているのです。
 
信仰は、人間が良心のある成長可能な人間になることを促すのであって、決して、人間が、超常の感覚や境地を持つことではありません。何故なら、超常の感覚を求めるようになると、だんだん、日常の感覚に注意を向けなくなったり、良心の人間的な感性と働きを疎かにする罪の性質が人間にはあるからです。
 
キリスト者にも、先入観にとらわれている人はいると思います。しかし、そういう人に、批判で斬りこむことは、事態を悪化させることもありそうなので控えています。楽山は既に悪化して、他者の悪影響を与え続けているので批判しています。訂正不能に固まった思想は、人を生かすことはありません。
 
シャロームと楽山については、恐らく、"キリスト教、くみやすし"、と思っているような、反キリストの偽善者であろうという推測からの判断ですから、事態を悪化させることを恐れて和んだり調子合わせをすること自体が、最悪の事態ですから、偽善者と見なして、全否定で批判しています。
 
特に、楽山は、批判して、あとで、賛同みたいなこと書いたら、プラマイゼロで断定していないから責任問題は発生しないみたいなことを言っていました。無反省のまま、間違っていたと訂正しないで、ころころ主張の方向を変えることは、しっかりした思想を持っていない証拠です。
 
楽山は、いかなる話し合いにも議論にも相手にしてはいけない人です。楽山は、正常な一人前の大人になっていないと思います。そういうことだから、トラブルが発生しても、嘘と詭弁でごまかす習性だけが身についたのだろうと思います。ごまかせない事態は、いずれ訪れるのです。
 
私も経験済みですが、楽山は、付き合えば付き合うほど、異常な精神疲労をもたらします。正常人ではないと思って、相手にしない、関わらない、付き合わない、近づかないことが必要です。
 
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(2)〈KENTO氏の主張〉
 2021年01月31日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判します。
 
 
楽山は、好きなだけ、様々な、多くは故人の、言葉を、自分に都合のよいように、偏って引用して、偉人もこう言っている、という書き方で、楽山の快感と都合を通そうとするのです。つまり、楽山の倫理性は、客観性も安定もなく、メチャクチャになっているということです。
 
偽善というのは、悪が善人のふりをすることです。楽山は、さらに、批評家のふりをします。そして、他者を責めるのです。他人のゴシップは大好きだが、自分の反省はしない楽山です。これからも、そういうことは、多々あるでしょう。
 
法的に問題となる盗用よりも、深刻な問題が、楽山の精神性にはあります。他者を責めて、はしゃいでいる異常者特有の快感が表れているからです。
 
 
「無断引用」とは、当該卒論は、一定の条件を満たし容認される無断引用ではなく、一定の条件を満たさず決して容認されない無断引用がされていたという意味であり、盗用というのを最大限に婉曲に表現したということなのだろう。
 
こういう法的な意味とは別になる問題があります。人をあざける者の悪意の反倫理性という問題です。楽山としては、一部を指して、ひどいこと、やってる、自分は引用だから、まだマシ・・という逃げ道を、あらかじめ用意して、キリスト教を否定するために、有名人や学者の引用を利用してきたのです。
 
不正は不正として、裁判にもなるのでしょう。それよりも、法に触れないことをよいことに、責任を負わないまま、悪意の羽をバサバサと好きなように振り回して、誤解~曲解を、悪用して、煽動してきた反倫理性が、言論において、そのまま放置されることはないのです。
 
完全自己中の笑いが見え透いてくる楽山の、他人のことだけは責めて、自分を責める批判には、耳を貸さず、スルーというが、実際は、不都合を無視することでしか凌げないのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の偽言論なのです。
 
 
*裁判
私見ながら、裁判の可能性についても一言述べておくと、この件は当人にとってはもちろん、HSにとっても大学にとっても不名誉なことであり、大事にはしたくないだろうし、研究者は若い人を訴える気にはなれないだろうし、当事者および関係者には誰も裁判にしたい人はいなかろうと思う。
 
このように、楽山は、裁判の可能性を書いていますが、自分の、勝手な引用は、どんなに引用元をおとしめても、引用元の多くは故人でもあり、関係ないという担保の上で、あぐらを掻いている姿勢です。
 
まさに高みの見物のように、楽山が、恐らく倫理や人間としてのあり方を責められて、そのストレス解消のために、やじっている風情となっています。一方的な思い込みの言論と、作為の丁寧語の書き方です。
 
楽山に、他者を責める資格はありません。隠し事と、嘘と詭弁で、だましておいて、平気でいる異常な心性の気晴らしに、法的問題をあげて、裁判、裁判、大変だ、という、筆致とは裏腹な扇情的内容です。よく書けるものだ、やはり異常者だからだろう、などと思わせる記事であります。
 
自分が責められているときに、自分は何事もなかったように、別件をあげて、他者を責めるのが、楽山のストレス解消法のようですが、いずれ、総てが瓦解するときには、そういう行動パターンも、姿勢も、併せて、責められる対象となるでしょう。
 
 
特にHSは、週刊誌記事に対しては何度も訴訟を繰り返しているにもかかわらず、この件についてそういう話は聞かないことからすると、大事にしたくないという思いは特に強いのではあるまいか。
 
不正を大きな事件にしたくないHSを、暗に責めていますが、楽山は、一時ではなく、私が関知する、少なくとも3年にわたる自らの不正を、大きな事件にしたくなくて、無視して、隠蔽している人です。そこに、継続して批判する必要が生まれています。
 
 
将来的に咲也加氏が存在感を増し、目立った動きをするようになれば、マスコミは再びこの件を喧伝するだろうし、そうなった場合、HSの対応も変わってくるかもしれないが、現状では当事者の中でこの件を蒸し返したい人はおらず、訴訟になることはあるまいと思う。
 
このように、楽山は、敵対する者を、いずれ、大騒ぎになるぞ、とばかり、面白がっているようです。楽山が法的制裁を受けるかどうかは、今後の問題ですが、大騒ぎというより、多くの人を無視した分、多くの人に無視されてゆくでしょう。
 
ネズミのように逃げ回った者は、早く巣に戻って口を閉ざし、じっとしているべきですが、何せ異常で過剰な自己顕示欲のために、信頼を失っても、何か言って、自己満足したい楽山の、飽くことのない自己顕示欲の執拗な衝動であります。
 
楽山の記事には、ツイッターからの引用コピーが豊富に載せられています。本当に、自分の問題を、全く自覚しないで、他者が責められるのを、話題にして面白がる、という楽山の悪趣味の厚顔無恥と傍若無人ぶりが、鮮やかに表れている楽山の記事です。
 
楽山は、次は、ウイルスのように潜在して、蔓延して、また、誰かの欠点を、あざ笑うのでしょうか。「人の振り見て我が振り直せ」と言いますが、楽山は、人の振り見て責めるだけ、人の振り見て我が振りを直すことが出来ません。
 
言うまでもなく、批判を無視して、楽山が隠蔽している楽山固有の不祥事について、楽山が気晴らしに他者の不祥事でストレス解消している実態を、逆に、あばくことで、また、無視して別の他者のことだけを言う楽山という気楽なお山を、批判されるというストレスで埋め尽くすことが目的ともなるのです。
 
 
人を責めてストレス解消?

人を責めてストレス解消?
 
 
祈り
「主よ、他にする人がいないようなので、できると思ったことをしております。相当、悪者になりました。疲れています。御心でしたら、しばしの安息へ、お導き下さい」
 
 
(2021年02月01日、同日一部修正)
(2022年02月02日、再録+加筆修正)
 
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  もう無能
 
丸い種はもう蒔かない
四角い種ももう蒔かない
 
実のなる木はもう見ない
金のなる木はすでに知らない
 
いっせいに飛び立つ海鳥
砂浜に一人
波が上手にさらっていく
足元の砂の足元
光る波の一滴
乾いた
風に砂の一粒
去り際に払って
砂浜にはもう別の人々
 
砂をまく
水滴を
風を
気を
 
悪い種はもう蒔かない
木のなる実はざっくり笑って
果肉は誰の腹の中
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は「反省、謝罪は大事なことだと分かって」いません。特に、反省は、しなけれ人格低格化が進むことを理解していません。「難しいんだよな」ではなく、反省しなければ、成長しないのです。「恥ずかしながら、自分もそんな風」「人間の性」ではなく、楽山だけが、際立って反省しないと言っています。
 
 
 
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  厚顔無恥3
 
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。"名無し"からの荒らしコメントです。シャロームの開き直りです。
 
私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白するから、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。嘘吐き、偽善者、ペテン師の、シャロームです。
 
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
 
「血潮に罪贖われ」などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。どんな罪でも、甘々の自己中心に受容して気にしないシャロームです。信仰者が求めるのは、神に、罪を赦され、生きることを諦めないことであります。
 
自分信仰者の偽牧師シャロームの、汚い詭弁は、その罪を隠そうとして、隠せず、かつ、自己満悦に至って、人間とは思えないほどの、醜いイメージとともに、脂汗の不潔であり、もはや永遠に、神に受け入れられることはないのです。
 
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていない、という、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。言い換えれば、シャロームは、導かれていないか、導きを拒んでいるかであることを、自ら、表しています。
 
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
 
"すべてはよかった" を、自己正当化して、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。つまり、シャロームは、「すべてよかった」・・には含まれていないということです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。すごい詭弁です。
 
"すべてはよかった" は、天地創造の話です。被造物は、よかったと言っても、すぐ堕落の話になるわけです。その典型であるシャロームが、よかったことは、ないと思います。さらに、"人は指一本もなしうることはありませんでした" で、自分は何もしなくていい・・にはならないのです。すごい詭弁です。
 
この聖句にしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの悪意と反キリスト全開。
 
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。
 
誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。楽山と、同一か、同じ体質だからです。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが自己愛性人格障害の悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らない楽山とシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。シャロームは、何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。あなたは、あなた自身の言論失禁の惨状に、もはや気づかなくなっています。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
楽山は詭弁が、シャロームは偽信条がバレています。書いてくるのは、罪を感じないからなのです。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、発言しても、他者を引用しても、楽山とシャロームの穴だらけのパンツが臭く濡れてゆくだけなのです。
 
 
私たち人間は、人格的な知性と感性から交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のみのものです。したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。
 
その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけが表れています。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。あなたシャロームは、福音に聞かない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているだけです。
 
パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、見抜かれて、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。楽山とシャロームは、彼らの憎む神から、最も憎まれている者たちです。
 
ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁などを、好きなように言って、傍若無人を通してきた楽山とシャロームです。履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善と批判の集積という莫大な負の財産=記録=資料を残すことになります。楽山は3年、シャロームは10年分です。
 
 
憎しみへの絶対

憎しみへの絶対
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
(2022年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違いを自覚しません。素直さを持っていません。ゆえに、自らを正すことが出来ません。嘘と詭弁を重ねて、一人前に、出来た!と思う楽山の心性は、何の魅力もなく、卑怯で、既に失敗しているのに気づきません。自覚や反省という人間の当たり前の分別を、まるで持っていない楽山です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは悲惨すぎる(絵文字:口を開けて冷や汗をかいた顔)
引用リツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
自己愛性のモラハラ者は、自分こそが良識人であるという顔をし、気づくと、こちらが≪悪者≫にされていることさえある。
午前8:14 · 2022年1月23日·twittbot.net
 」
 
モラルと人格へのハラスメントを生業(なりわい)とする楽山の本性を実感すれば「口を開けて冷や汗をかいた顔」になるでしょう。むしろ、「良識人であるという顔」をして、人を「≪悪者≫」にしてしまうのが、楽山です。ゆえに、楽山からの批判は、ことごとく楽山に向かうことになります。
 
こういうブーメラン現象が起こるのは、楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるため、自分を省みることが出来ず、人のことばかり評論家気取りで言う、という楽山の負の学習の結果なのです。それを知ってしまうと、楽山の文章は、とても恐ろしく感じます。
 
 
 
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  丁寧語の災い3
 
   「知と恥を捨てる者」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
かつて、約10年間、批判し続けて、今は、所在不明の、楽山の成りすましも疑っている、自称牧師、実は偽牧師シャローム(HN: shalom)反キリストについての話です。シャロームは、バカ丁寧語で、まるで今でも先生であるかのように書いてきます。
 
もう、既に何度も馬脚をあらわして、偽牧師だとバレて、偽善者で、反キリストで、良心の欠片もないことが明らかになっており、弁明の余地はないのに、まだ、何かを教えようとする、びくともしない説教根性というより因業があり、楽山の成りすましも疑っています。
 
シャロームが、何かを書けば、嘘か妄想か背教が、そのたびに明らかになるという繰り返しの成り行きであります。シャロームは、もはや、常識的な判断力がないのでしょう。完全に拒否しているのに、相変わらず、お愛想で訪問すればよい、と思っているのです。
 
総てが崩れているのに、シャロームは、既に瓦礫と化した中を、何の自覚もなく、あたかも正常人であるかのごとく、和みを表しているつもりの世辞とともに、説得力の欠片もなく、うろついている亡者なのです。そこが、現実検討力がなく、状況を弁えない楽山に似ているので、成りすましを疑っています。
 
 
1. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:49
引用した言葉はST5402さんが書かかれたものです。
精神科の医師として患者さんと面会し、あなたは大切なことを学んでいながら、実践しておられることは前半だけで、後半は少しも実践していないようですね。
(私)
精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。
これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。
 」
いいですね!
 
私が、個人的なこととして書いたことを持ち出して、あたかも一人前が半人前を評価するかのように、いいですね!と、丁寧語でごまかしていますが、世辞に過ぎません。シャロームの丁寧語=慇懃無礼の害毒であること知ってほしいと思います。偽善者シャロームに評価される必要はないのです。
 
「後半は少しも実践していないようですね」と、シャロームは、こちらが出来ることをしていない、と言いたいようです。これが、慇懃無礼の、無礼です。シャロームを認めることは、一生ないと思います。約10年の批判を踏まえて、シャロームの言は嘘ばかりだと分かっているからです。
 
こちらは、反キリスト丸出しのシャロームに対してが書いてくる嫌がらせを、根拠を上げて否定するのみであり、好意的に出来ることなど何もありません。もはや、シャロームは、背教と反キリストと偽善者の実例としての資料に過ぎません。
 
シャロームは、見せかけの丁寧語という害毒で、偽善的に、思いやりを示したことにするのでしょう。しかし、シャロームの丁寧語は、底意地の悪さを隠すための、言うだけはタダという、これも気持ちとは裏腹な作り事、つまり嘘だと分かっています。この点も、楽山に、よく似ています。
 
シャロームの言を10年も受けておれば、むしろ、いっそう、質(たち)の悪い嫌らしさが伝わってきます。これが、学習機能の、有りと無しの違いなのです。学習しない者は、成長がないので、嘘で飾り続けることしかなくなり、同じような嘘を、繰り返し重ねてゆくということにしかならない宿命です。
 
 
2. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:52
精神的な距離という言葉もいいのですが、私は境界線という言葉をよく使います。アドラー心理学もとても大切にしている考え方のようです。
 
アドラー心理学は、自己中製造カルトのようですからアドラー教と呼んでいます。自己中心に生きて、周囲からの刺激は、都合が悪ければ無視してよいという教えのようですが、人間は、都合の悪いことに対処して成長してゆくものです。精神衛生の問題を、狭窄した視野で断定してしまった産物だと思います。
 
日本社会は母性社会であり、自他未分化、共依存社会ですから、この人と人との精神的な距離、境界線が不明瞭な社会であると「母性社会日本の病理」において河合隼雄氏は書いておられるようです。
 
「母性社会」「自他未分化」「共依存社会」・・人から借りてきた用語を並べて、インテリを気取っています。自分の言葉は、恐らく、何も持っていないと思います。シャロームも楽山も、自分の自他未分化には気づいていないようです。
 
シャロームも楽山も、他者が自分と同じようでないと気が済まず、違ってくると、さらに、反対だと、理路も放り出して、けなし、揶揄し、否定してきます。それが、この記事、そして、楽山の記事なのです。そういう変化は、人間とは思えないほど、宿業的な作為です。
 
自分が自分であることができないため、他者を他者として認め、人を個人として受け容れることができない、つまり、自分と他者を区別できず、あるがままで受け容れることができない、愛することが執着化してしまい、心の病の主因ということもできるかなと思います。もちろんその他の多くの要因はあると思われますが・・・
 
シャロームの見解など、何も聞く必要はありません。皆、どこかで拾ってきた言葉を組み合わせているだけです。シャロームは、以前から、理路もなく共感も感じられないものでした。心が無いのに、何かを伝えた気になりたいのでしょう。芝居だけの偽牧師には、何も語れないと思います。
 
境界線、母性社会、自他未文化、共依存社会、・・シャロームの言っていることは、既に、大方、私に当てつけたボロクソ節なのです。そういう話を何度も聞かされているこちらとしては、おえっと吐き気を覚えるほど、うんざりします。皆、根拠のないシャロームの独り善がりなのです。
 
既に、私を、散々貶めてきたという今までの状況で、今ここで、その話をして、教えようとすることが、状況からありえないし、独りで浮いている格好だし、奇妙で不適切であるということを弁えることも出来なくなっているシャロームです。ゆえに、人格異常~崩壊としか思えません。
 
仏の顔真似をして、次には、否定し説教してくる嘘吐きで、丁寧語は詐欺師だからこそできる劣悪な原始反応です。また、ふだんは、過剰なほどの丁寧語を使いますが、中身がなく、はっとさせられる何ものもなく、薄っぺらな道徳しか語れないのが、特徴です。ゆえに、自らの状況の把握ができないのです。
 
※人を個人として受け容れることができない・・・
自民党の憲法改正案には現在の憲法に規定してある「人は個人として尊重される」ではなく、「人として尊重される」という文に書き換えられていることは注目しなければなりません。基本的人権を否定する道に通じています。
 
ここで、脈絡もなく、政治の話になっています。嘘吐きの話を、誰かの正論の引用であっても、受け入れてはいけません。これも騙しのテクニックです。体のいい返事などすると、大喜びの振りをして、うんざりするような続きを聞かされるでしょう。すでに経験・実証済みです。正義を装っているだけです。
 
グローバル化し、異なる国、民族が、異なる価値観、文化が激しく衝突を深め、国も民族も、個人もアイデンティティー危機によって、ますます混乱と閉塞感を深めていくことでしょう。
分断を深めていくか、統合の道を見出すことができるか?
わたしたちは、死ぬか、生きるかの分かれ道に立たされているようです。迷走と模索は続きますが、人の手の内に、その道があるのか疑問です。 
 
流れを考えない自己満足の話は、シャロームの得意なボロクソ節です。独り有頂天の誇大妄想です。言論が統合を失調して、文脈が、個人の人間関係から、国政の話へと、脈絡もなく飛んでいます。つまり、その間にあることを、スコ~ンと無視して、話の筋がつながらないまま平気で自慢するシャロームです。
 
グローバル化、民族、価値観、文化、衝突、国、アイデンティティー危機、混乱、閉塞感、いずれも、シャロームが、既に、他者の言葉を拾い集めた言葉で、深い理解も考察もなく、自分は政治をも語れるのじゃという自覚から、興奮して並べ立てるボロクソ節であります。だまされてはいけません。
 
あなたシャロームには、悔い改めないのであれば、キリスト者として生きる道はありません。また、政治思想は、あまりにも貧弱でお粗末な、受け売りと、人真似と、誇大妄想ですから、これも、生きる道にはなりません。鼻息の荒い牛を、牛舎へ誘導するような状況です。
 
みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。このシャロームに対して、かわいそうなどと思ったら、逆に、あざ笑う用意だけはいつもしているシャロームに、調子に乗られて、食われてしまうわけです。既に経験済みのことです。
 
 
3. shalomです。おはようございます
2019年12月16日 08:53
統合の道は人の道か?
 新約・マルコによる福音書1章1~3節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてある。
 
先ず、おのれから、まっすぐにせよ、ということです。嘘を吐くな、これは、聖句というより、信仰に適うところの、人間の道徳です。しかし、いちばん大事な、正直さを、シャロームは、全く持っていません。
 
「統合の道は主の道か?」・・先ほどの政治の話の「統合の道を見出すことができるか」の流れなら、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)22:21
彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
 (マタイ22:21、新約聖書)
 
と書いてあります。信仰の話に、政治をぶっこむな。
 
新約・マタイによる福音書7章13~14節
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 
あなたシャロームは、安易な、ぱっくりと大きな口を開けた罪と偽善の門、広き道、嘘吐きの道、讃美しておけばいいという大袈裟な豪語の道、他者を気にせず失禁する流涎の言葉とともに、陰気な暗闇の洞窟を、ずっと、選んで、実際は独りで、堕ちてきました。
 
 
ST5402さん 永い間ほんとうにお疲れ様でした。
随分悪態をつき、有終の美とは程遠い終幕となりましたが、
ありがとうございました!
人生の終幕はイエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ、
拓かれていますので、希望をもって、
イエスさまが開いてくださった新しい道を歩みたいと思っています。
Shalom!
 
こうやって、言葉面だけ、整えようとするのが、あなたシャロームの、忌まわしい丁寧語なのです。昔、ずいぶん騙されたものです。丁寧語の中の、獣性を見逃さないことが大事です。「随分悪態をつき」・・反省のつもりですか。心にもないことを。もう何を言っても信頼されないところに来ているのに。
 
「イエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ」ているなら、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしない」信条も、誰が悔い改めるかも「悔い改めは神が与える」と言ってごまかした今までの嘘っぱちも、無かったはずなのです。白々しい。
 
「希望をもって」「イエスさまが開いてくださった新しい道」・・悔い改めない者には開かれていませんし、希望もありません。白々しい聖句引用はやめてください。全部、嘘でした。そして、今も、全部、嘘です。今となっては、もう、はっきり言えることです。
 
 
14. shalomです。 おはようございます
2019年12月16日 13:17
>>9
「せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」
アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!まだまだ私に比べてお若いのに・・・
かつては、私が死ぬまでつきまとって批判し続けるんだとおっしゃっていましたね。
 
「妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症」などの決めつけが、シャロームの正体です。
 
私の「みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」に対するコメントですが、私が、人間として生きたいからです。シャロームの超常信仰とは違うのです。
 
あなたシャロームが書いてくるなら、前と同じです。ずっと、そうしています。しかし、今は、あなたシャロームが、愚かな、おとしめ言葉しか書いて来ないほどに、堕ちていますから、そのような言葉に付き合いたくないです。
 
あなたシャロームは、サイコパス、人の滅びも死も、平気な人格です。人間らしい感受性がなくなった人だと思うようになっているから、さらに低く、邪悪だ、という判断になってきたということです。ゆえに、愚かに付き合って体力を消耗して死ぬのは嫌だなと、ふつうに思うわけです。
 
聖書には神様は試練も与えられますが、逃れる道も備えてくださるという言葉もあります。
yahooブログの閉鎖という思いもかけない道を備えてくださったのですね!
また新しい道はst5402さん自身が開いてくださったようです。
人には神の御業は初めから終わりまで見極めることが出来ないという言葉もありますが、本当にそうだなと、心からの讃美と感謝をささげています!
 
いちばん邪悪なことは、神の意志と行為である導きを、決めつけることです。神を恐れない者だけがすることです。自分の意見を、神の啓示と聖霊の導きによって、正当化し、絶対化しているあなたシャロームは、神が具体的に道を備えて下さったと決めつけながら、見極めることができない、と書いています。
 
何も整っていないから何も実がないのです。つまり、自分に都合の良いようにだけ決めつけていることが明らかなのです。今まで、ずっとそうです。あなたは、嘘っぱちを書いて、しかも、嘘っぱちであることを、自ら表すようになったのです。「心から」の心の無いシャロームの讃美は酸味の腐敗臭です。
 
 
それなのに、退いて、二度と来るななんてつれないお言葉ですね!
yahooブログが閉鎖され、寂しい思いをしていたのですが、
st5402さんが私の言葉を伝達するために、たくさんブログを開設してくださったので、
私は新しいブログを開設する手間が省けて喜んでいるのです・・・が・・・
ハレルヤ!
Shalom!
 
また、嘘を吐いている。いつも、嘘を吐いている。どこでも、付き合えば、結局、嫌がられる存在として、放浪してきたシャローム。弁明の余地がなくなっても、殺意に匹敵する無視の力で、人を人とも思わず、「手間が省けて喜んでいる」というような、余裕を見せようとする。
 
これは、サスペンスドラマなどによくある極悪人の、相手を呑みこんだつもりの醜く陳腐な台詞、つまり、根っからの悪にしかできない悪意の強がりです。わけもわからず余裕に見せかけても、あなたは、既に、丸裸なのです。この悪意は、楽山と易坊にも通じる偽善の筆致です。
 
いつも感じていたのは、シャロームの、この獰猛(どうもう)な極悪人の気質、人が死んでも、そのそばで、ニヤニヤ笑っていられるような、人間らしい感情を殺してしまった者だけが持つところの、人ではなく、ケダモノの、文章さえ、醜悪な気質として、よだれを垂らしているような臭いです。
 
喉を鳴らすのが、聞こえてきそうな、冷や汗と蒸気と粘液と、蒸し暑い息の臭さが漂ってくるようです。しみついた常習の詐欺師の臭い。あなたシャロームの、わざとらしい文章に深く深く染み込んでいる、この臭いを、私は、あなたの文章を見るときに、いつも感じています。
 
 
人類の敵は、宇宙人でも、国家でも、民族でも、集団でもないです。イデオロギーでもないです。人類の敵は、一見、人間に見えるところの、サイコパス(自己愛性~反社会性人格障害)です。サイコパスには、温もりと潤いがありません。つまり、温かい心と悲しみに共感する心が無いのです。
 
サイコパスは、不都合に際して、罪悪感を感じることがなく、反省することがありません。その基本に、悲しみという感情がないのです。全てを、他者のせいにして、笑うか怒るかの感情でしか反応できない人です。楽山と同様、巡りあうことが不運であり、受け入れることは不幸となる災いの人です。
 
シャロームの発言を確認:
「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」・・そんなキリスト教は存在しない。
「悔い改めは神が与える」・・誰が悔い改めるのでしょう。シャロームはキリスト者ではない。
 
 
偽牧師 偽善者

偽牧師 偽善者
 
 
(2020年01月、同日一部修正)
(2022年01月13日、再録+修正)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
鏡を震わせ抜く しきりに
白髪を流す あるいは
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
しばしば礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみにしがみついて
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山に出会うことは不幸であり、楽山と関わることは悲劇であり、楽山に頷くことは感染であり、楽山に従うことは人格破壊であります。シャロームや易坊にも言えると思います。3人の一人による成りすましを疑っています。この者たちは、無反省、無責任で、共感性の欠如した、言葉だけの偽善者です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
とにかく都合の悪いものは排除したり無かったことにしたりする幸福の科学。
これが宗教団体のやることか?
中国が高速鉄道の事故車両を現場で埋めた事件があったけど、私から見たら、この教団はそういうお粗末なレベルのことを平気でやると思う。
こんなこともあったよね。
バレないとでも?
 
楽山は、都合の悪いものは完全に無視して、無かったことにして、悪口や当てつけなど自分の言いたいことだけを書いてきます。この約3年間ずっとそうです。嘘と詭弁と隠蔽偽装が、楽山のブログとツイッターの特徴です。楽山には、アンチとして批判する、宗教を語る、などという資格はないのです。
 
楽山は、正当な批判者を気取っていますが、とても卑怯で、狡猾です。楽山の精神には、おびただしい悪事が、隠され、埋められているのです。楽山は、人間として一人前になれなかった人です。誰も、攻撃的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に関わらないでください。
 
 
 
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  信仰とは3
 
 
前に書いたことも含めて、折に触れて、信仰について、まとめるという作業は、人間の言葉の不完全性によって、遅々として進まず、また、私の凡庸なることもあり、人間の本性として不完全であることを承知の上で、なお、努めなければならない務めとなっています。
 
 
神の存在も不在も証明できない、だから信じるのだ、ゆえに、信仰なのだ、と考えていたことがあります。しかし、その場合、なぜ信じるのか、何をどう信じるのかという問題があり、それは、人が、こういうことだと伝えても、その人の考えであります。
 
信じる内容が、超常のことなら、どうしてそれが正しいか、超常なのだから、人に分かるはずもないことです。思い込み信じ込んで、それを信仰?と呼ぶのなら、その信仰?が、何も癒せず、むしろ、心を狭く鈍くするばかりになるでしょう。
 
このことに、気づかなくなったら、もはや、妄想を固めているカルトに過ぎないと言ってよいのです。繰り返し唱えておれば信仰・・ではないです。
 
聖書を読んでも、聖書の筋書きを、いくら懇切丁寧に言って、こんなこともして下さると、聖書の言葉を繰り返しても、聖書解釈としても、それだけを唱えることは、現実の人生に生かせるものは殆どないと言ってよいのです。
 
そこを補っているつもりで、きっと助けて下さると現実を保証するような言い方をすれば、今度は、その責任を負わされることになります。何が起こっても、これが導きなのだから、喜ばなければいけないなどと言ってしまえば、現実の悲劇を否定して、悲しみから顔を背けて、仮面で讃美することになります。
 
何でもありがたがることはマゾヒスト的な宗教になってしまうし、そういう信じ方は、先ず、受け入れるべきものを受け取っていないか、受け入れたつもりで思い込みを強くするだけでしょう。神の意志と行為について、正確に解釈して責任を負える人はいないのです。
 
説教者であれ、信徒であれ、人に福音を伝えるとき、大事なのは、共感であります。信じれば救われます・・ではなく、共に人間であるのだから、一方が、もう一方に出来ることで大事なことは、教理を繰り返すことではなく、上から教えることではなく、人間としての共感だけなのです。
 
そして、その共感には、明らかに、罪深い、信仰が足りない、という不完全と不信仰の共感も含まれているのです。それが無いままの、上から下への教えは、いかに、優しそうな言葉を並べても、カルトへの広い門に過ぎません。
 
 
信仰とは何か、ということになると、神の全知全能・完全絶対・永遠不変は、人には分かりません。人は、聖書に書かれている御方あるいは存在によって、ようやく生きてゆける希望を見い出し、祈りと告白を捧げることを信仰と呼んでいる身であります。
 
人生の真実について何かが分かるということは感動を伴いますが、人は、いつでも、分かっているわけではありません。少なくとも、神に対して、分からないことを分からないと言えることが、不完全の自覚であり、信仰の要(かなめ)であります。
 
このことが、自己愛、自己中、高ぶり、強がり、慢心、高慢、傲慢からの解放となります。その解放は、理解というより、共感と希望であります。希望することは、人の側のことですから、人にとって、一生続くことがありえます。
 
それが、絶えることのない希望に支えられた信仰となるでしょう。ゆえに、神の側が否定することはないのだから、人の側が否定しない限り、永遠と呼んでいいのです。人が、固く信じようとすることは、しばしば、心に神のイメージや思いを自分で作ってしまいます。
 
むしろ、信じ込みは罪であり、罪として赦しを乞う性質を持ちます。ゆえに、祈りにおいて、正直であることが必須となるのです。項垂れても、仰ぐ姿勢でも、祈りの、最も大切で、不可欠なことは、正しいことでも美しいことでもなく、本音の、正直な祈りであります。
 
つまり、現象としては、神は、人が永遠の神の存在を熱望して、祈ることに他ならないのです。ゆえに、神聖について、既知であるかのように、見える、知っている、分かっている、などと決めつけることは、思い込み信じ込みになるので、信仰ではなくなるでしょう。
 
二千年前の、物や肉体への奇跡の事実性は、神のみぞ知ることであって、二千年前の奇跡が事実だと信じるのがキリスト者ではありません。神のみが知ることを、人があった、あるいは、なかったと、決めつけることこそ、神に対する冒涜であります。
 
肉体の復活を執拗に唱えながら「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」などと平気で言っている偽善者が現にいます。「悔い改めは神が与える」という言い逃れをしますが、悔い改めていないならば、神が与えていないってことだろう・・という自己矛盾に、自ら堕ちているのです。
 
物や肉体の奇跡よりも、遥かに遥かに、大きく、かつ、人間が受け取れる奇跡を、キリストは成就しています。神の前に、祈りにおいて、願いにおいて、遜ることを知っており、かつ、正直でありうる人だけが、キリストに信仰の義を与えられ、慰められ、癒され、救われています。
 
キリストを殺した者たちは、尊大であり、自己あるいは集団の解釈、すなわち、人による解釈を絶対としたがゆえに、戒律主義に陥り、それを守っているという傲慢によって、キリストに退けられ、ゆえに、キリストを殺したのです。今のキリスト者がそうであってはならないという悪の見本となっています。
 
また、キリストは復活したんだから大丈夫などと、死を知りもしないで生きている人間が、キリストの犠牲の死の意味を軽んじて、感謝と讃美だけを唱えるのも、信仰ではありません。
 
悔い改めは、罪人であることを自覚し、神に、告白し、祈ることです。神の前に正直でなければ成立しません。信仰は、それを繰り返すことです。つまり、生きることであります。信仰は、神の前に、成長することであり、決して、一時に完成することではありません。
 
 
私たちが、聖書によって知るべきは、神と人の決定的な違いを基本的な自覚として、自らの、決して絶対ではない人間の立場を弁える節操と、絶えることのない希望を支えるのが、今は目に見えないキリストの共感に満ちた同伴である、という、2つに絞られてきます。
 
語るのが、聖職者であれ、一般の信仰者であれ、いかに、聖書に忠実と言われても、あるいは、面白くて詳しい説教でも伝道でも、この2つを語らなければ、説教とは言えないでしょう。説教や伝道が、人の決めつけの保証や、おまじないや、謎解き話に、堕ちることのないように、祈っています。
 
 
妄想や、真逆の解釈と信条を言いふらして、人々を惑わす者たちがいます。また、遠回しに、聖書とキリスト教およびキリスト信仰を、お伽噺にしてしまう輩もいます。また、小理屈や屁理屈をこねては、人を罠にかけて困らせて、その様子を、面白がる者もいるのです。
 
今のキリスト教とキリスト信仰も、その言説を眺めれば、節操において、情緒において、弱いか、あるいは、カルト的になっている傾向が、無視できない傾向として、一部にあり、信仰のカルトの方向への堕落に陥る可能性を示唆しているのです。
 
しかも、カルトは、何か言われると感情的になりやすく、気の弱い人は、カルトの、格好の、いじめと誘惑の対象になるでしょう。カルトやカルト的な人に、近づくことなく、過ごせたとしても、意地が強くなることは、信仰が強くなることとは逆の変化であります。
 
思いこみや信じ込みから生まれてくる信仰は、決して人を癒やしません。むしろ、悩ませ、病ませるものになります。そういう者に限って、うれしそうに、神を恐れず、"神の平安"、また、"揺るがない信仰" などという讃美言葉を繰り返すでしょう。
 
その検証が、自分で、出来なくなっている人は、既に、カルト信仰への危機と言ってよいでしょう。大方の人は、他者からの、そして、自分発信の、カルト信仰に誘導される危険にさらされていると思います。
 
神は完全、人間は不完全、という弁えと、神の前に、主イエスキリストの御名によって、精いっぱい正直に、祈りを捧げること、それが信仰であり、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、このことさえ、守っているとは思えない場合があります。
 
 
救い、信仰

救い 信仰
 
 
信仰者も、現世において起こってくる様々な悪の有り様と、突然の不幸の有り様を知ることになります、ただ、信仰者は、災いの背後に、今は隠れて見えないけれど、人間に対して至高の存在が、大きな歴史を動かしておられる存在を希望として想うしかなく、キリストを信じ、神を仰ぎ、祈るのであります。
 
昔の人は、考えたのでしょう。今は、こんな有り様だが、きっと、いつも、その御方が背後にはおられ、その御方の計画があって、人を選んで働かせている、そして、いつか、その御方の支配によって、救われる時と所があるに違いないと。そう思う人が出てきて、宗教が生まれることは必然だったのでしょう。
 
それは、まさに、その時代の人が、この世に絶望せずに、生きるためでした。
 
そして、そのことを今考えているのが、私たちなのです。
 
昔の人は、地上の人として、その時代の重荷を負うゆえに、神を、想わなくてはいられませんでした。しかし、その資産によって、現代に至るまで、考え始める切っ掛けとなる聖書が、二千年の間、引き継がれていることを忘れないでほしいのです。
 
聖書は、必ずしも、読みやすいとは言えません。長々と系図で始まったりもしますし、そんなこと分かってると言いたくなることもあるでしょう。大事なのは、人間は不完全ゆえに罪深い、ということです。
 
そして、罪人への伝道が、人の与える名誉や金銭的利益に何のメリットもないのに、憐れみ、共感、愛のみによって、命を捧げた御方が、イエスキリストだということであります。その御方を、救い主として、好き訪れとして、即ち、福音として伝えてゆくのが、キリスト信仰者の務めとなっています。
 
 
旧約聖書では、神と人が直接語り合う場面も出てきます。神という絶対者は、この世の総ての物と生き物と人を造る御方、つまり、全知全能・絶対完全・永遠不変の創造主として書かれています。
 
そして、神は、嵐や雷とともに顕れ、戒める神であり、また、ときには、懲らしめる神であることから考えれば、旧約聖書に徹底して書かれているのは、神と人の違いであります。
 
神は恐るべき全知全能を持つ完全なる存在であること。そして、人は、全知でも全能でもなく、不完全な存在であること。つまり、神の完全を覚えることは、人自身の不完全を知ることであります。それが、人の罪性として理解されることこそが、人類の英知なのです。
 
新約聖書では、実際に生きた人間としての体を持つイエス・キリストが中心であります。ゆえに、キリストは、様々な人々と交流をします。そこで、キリストに救われた人々と、キリストに厳しく批判され否定された人々が分かれます。
 
聖書において救われなかった人については、見える、守っている、知っている、分かっている、という自画自賛や、さらには、人を指して、あのような者でないことを感謝します・・などと神に自慢してしまうような、罪性の自覚のない者だったため、キリストは、彼らを、徹底して批判し、退けました。
 
多くのカルトは、このようにして、退けられます。しかし、思い込みから感性の鈍麻によって固定されたカルト信条は、集団も、個人も、なお、蔓延っているようです。ということは、カルトは、訂正不能のまま、変わらない、という性質を持ちます。
 
ただし、聖書には、パリサイ人にも、律法学者にも、変わる、または、その可能性のありそうだ、という例外も書かれています。そういう例外的な人がいることも、キリストは見逃しませんでした。
 
キリストに救われた人は、キリストの前で、正直に告白し、あるいは、そういう身の上を表しました。世辞のような讃美よりも、率直な物言いを大事にして、ときに、食い下がるように救いを求める人もいました。キリストは、それが、飾らない本心であったため、善しとされました。
 
 
キリストに向かって、へりくだりながらも、飾らず、嘘を吐かず、罪の告白から願いまで、正直に、本気で言いたいと思うことを言う、という祈りの原型が、ここにあります。
 
そして、それは、救われた人々が、孤独ではないことを知る初めの体験でもありました。キリストが人間ひとりひとりの人生に同伴するという福音の原型がここにあるのです。
 
祈りは、唯一、積極的に可能な、人から神への音信であり、導きは、神から人へ心の現象、あるいは、秘められた出来事として与えられます。即ち、信仰は、神と人の、秘められた双方向であります。
 
 
なお、出来事の現象、つまり、成り行きとしての導きは、人には、導きだったかもしれないと推測されることはあっても、神髄については隠されているとしか思えません。それを、決めつけると、自分の推測を信仰?することになるので、注意が必要です。
 
物や肉体に起こる奇跡は、驚くことはあっても、人間は、そういう驚きを、不思議なだけで手に負えないことを、生きる理由とすることは出来ません。大切なことは、起こったとしても一時的で過ぎ去ることではなく、魂つまり心に起こって、心を震わせ動かすことだけが、生きる力になるということです。
 
 
物や肉体に起こることは、人を驚かせますが、それは信仰の神髄ではありません。驚きだけでは、有り難がるだけで、心が成長せず、人は、本当に救われることにはならないからです。また、総てが魔法のように起こると言い張る信仰?も、成長の余地がなくなるので、退けられます。
 
人間は、人間に分かることと、分からないことを、分別するのでなければ、個人においても、集団においても、全体においても、楽山やシャロームなどの易坊類のような陰謀屋によって、容易く騙され、滅びに向かうように出来ているようです。
 
実際、彼ら邪悪な者は、人を、たぶらかし、だまして、存(ながら)えているようです。彼らは、全く、キリスト教を、信仰を、敬虔を、理解していません。なのに、柔和を装い、敬虔芝居をしてきます。自己中で訂正不能のために、学習せず、成長せず、にもかかわらず、自慢し悦に入るのです。
 
 
信仰についての証しとなることは物や肉体の奇跡によるのではありません。人間の心に起こっていることを忘れないでください。超常の言葉と理屈と芝居だけで誘導しようとする心無き者たちの罠に嵌らないように注意してほしいのです。
 
二千年前に、パリサイ人などの偽善をすっぱ抜いて、厳しく批判したのが、イエスキリストです。私はキリスト者なので、キリストを救い主として信じていますが、いつくしみ深きキリストは、鋭い批判者でもあったのです。及ばずながら、キリスト者は、邪教や偽善者に対して、批判者でもあるべきでしょう。
 
少なくとも、悪い言葉の中に批判を含めて、いつも、聞こえのいい言葉だけを使うように教えている教師は、それこそ、ハイソみたいに上品になりたいだけの、神の言葉も、人の言葉も、言葉の本質を何も弁えない偽善の堂々巡りをして、キリストが最も憎んだ偽善を促しています。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
悪い言葉は、何かを善くしようとする意志のない言葉であり、悪意の言葉であります。ゆえに、悪い言葉に批判を含めることは、パリサイ人を批判したキリストを、おとしめる冒涜であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:23
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 
23:24
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 (マタイ23:23-24、新約聖書)
 
人は、キリストようには無理でも、意見を言い、間違っていたら、できる人が、できるだけ、批判をしなくてはなりません。「悪い言葉」だからと、批判を禁じる者は、キリストの福音を禁じる者、キリストを十字架にかける者であります。そのような動きは、現にあるように思われます。
 
聖書の御言葉は、心で読むものです。言葉面だけで読んだつもりになるのは、心の解放感を伴わないことによって見分けられるでしょう。そして、聖書を読んだ人は、恐れと、救いの共感によって、理解を保留することが出来ます。シャロームは悪意で思い込み、楽山は読まずに呪いながら決めつけてきます。
 
 
(2020年01月01日)
(2021年01月02日、再録+加筆)
(2022年01月12日、再録+修正)
 
蔓延る(はびこる)
遜る(へりくだる、謙る)
嵌る(はまる)
 
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間、そんなものでしょ、・・とでも言いたげな「人間の性」という言葉です。この "2."レスコメント自体が、楽山固有の偽善とペテンの罪を表しています。言えばブーメランで自分に返ってくるという成り行きで、なおも、他人のことを、恥も知らずに言い続ける柔和芝居が、一日も早く、終わりますように。、
 
 
 
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  人からの自由2
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうと言うことです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰になりやすいと思います。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は、
「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」と言い、
それは、キリスト信仰ではないと批判すると、
「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、
そのようなキリスト信仰はどこにも存在しない、
まず最初に自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりで、
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと、
「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」などと言い出し
思いつきで聖霊を持ち出して、自己正当化に悪用し振り回し、中身のない理解不能の造語的組み合わせを平気でしてきます。
 
 その場で繕っただけの言葉遊びを
 自動的に聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、決して誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
自由

自由
 
 
(2019年12月10日)
(2021年01月07日、加筆して再録)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま、行進するピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わることが悲劇であります。
 
 
 
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