ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:シャロームshalom

 
  楽山の詭弁明
 
 通知があったので見てみたけれど…
 (st問題を振り返る)
 2022年01月02日 楽山日記
  を批判。
 
 
楽山は時々やることですが、ブログ記事は、長ければよいということではないという典型です。それと、私に問題があると固定しているので、st問題と言っていますが、楽山問題として、楽山を批判し、楽山の言を嘘と詭弁だと否定し、楽山に近づかないように、読者に、訴えてきているわけです。
 
キリスト信仰は、論理で語れるものではありません。ああだこうだの辻褄合わせは醜いだけです。聖書を読んで、神とキリストを主と仰ぐ気になるかどうかです。しかも、完成するのではなく、信仰者として、人間として、学び、成長する道を知ることなのです。その深みを、楽山は全く知りません。
 
楽山の、ブログとツイッターなどネット活動は、誰にとっても、益はないのに、丁寧語や、謙虚芝居によって、刷り込んでくるので、真面目な人が読んで理解しようとして、楽山と、まともに遣り取りなどすると、トラウマになりそうなくらい、病的な疲労を与えられるものです。関わらないでください。
 
 
*通知
ツイッターを見ていると、時々、st氏から通知が入る。
どうやら、コピペする時に「@komo266」の文字までしてるせいらしい。
 
私からの「通知が入る」と勘違いしているのか。メールやコメントは書いていないし、楽山との双方向など、とうに諦めています。楽山から直接のメールやコメントや、通知?が来ても、私は記事に書いて返すでしょう。
 
私が自分で通知?なるものを送れるかどうかくらい分かりそうなものです。楽山は、だんだん現実検討能力も低下しているようです。実感がなくなって離人症になりつつあるのでしょうか。それにしては、楽山の悪意は、嘘と詭弁とともに、治まることがありません。
 
通知?・・私は書いているだけで、通知?とか、するやり方を知りません。書いて公開しているだけです。ツイート自体を言っているのでしょうか、それは、ブログと同じく、私が気遣うことではありません。私の批判は、ブログが先で、メインです。
 
ブログやツイッターの「@komo266」については、楽山のツイッターからコピペして書くこともあり、ツイートの文字数の関係で省略することもあります。楽山には、サーバーから通知でも来るのでしょうか。こちらからサーバーに要請してはいません。
 
楽山は、理由を知りませんが、3つの中のツイッターを一つ、ブロックされているようです。注意・警告・ブロックなのでしょうか。もし、サーバーからの警告であるならば、私は、「@komo266」を、できるだけ、入れるようにしたいと思います。
 
 
*st問題を振り返る
通知が入ったので、ひさしぶりにこの問題の発端を思い出した。
st氏から楽山日記にコメントがあり、話をするようになった
 
およそ3年前の、数か月の遣り取りがあったという話です。楽山は、相手の意見を考えて反論弁明するのではなく、無視して、嘘と詭弁を弄する人です。しかも、分かっているような上からの雑言なので、とても異常な言い知れぬ疲労を覚えました。病質と直接の遣り取りをすると、そうなるのでしょう。
 
楽山は、双方向の、議論、遣り取り、意見交換の出来ない人です。宗教についても、意見交換するのではなく、いつも神不在の結論から組み立ててくるので、議論は成り立たず、疲労だけが積み重なります。それより悪いのは、信仰を全く知らないのに、神と信仰について知ったかぶりをする自己中であります。
 
st氏のシャローム批判を読んで、シャロームは悪い人だと思った
この後、シャローム氏とも話をするようになり、st氏がいうほど悪い人ではないと分かった
私がシャローム氏と仲良くしていたら、st氏は、シャロームと話をするな、話をするならシャロームの仲間として批判すると言い出した
こうしてみると、つくづくst氏は気の毒な人だと思う。
 
シャロームshalomは、楽山と同じ自己中であり、筆致だけ、牧師の立場に立ち、同じような丁寧語を使って、上から決めつけてきます。ゆえに、今も、楽山の成りすましではないかと疑っているわけです。楽山は、三文芝居好きの大根役者です。
 
相手を、さんざん、おとしめて、「気の毒」と哀れみ言葉を書いてくるのは、傲慢な偽善者の特徴であり、常套手段であろうと思います。まだ、通用すると思ってる・・。学習と成長がない者は、同じことを繰り返して自らの堕落と怠慢を表します。・・バレてるのに、よく書いてくるものです。
 
 
*同一人物?
 通知ついでにツイートを見てみると、どうやら最近は佐倉哲氏と楽山は同一人物だと疑っているらしい。<
 
ブログ記事に書いて、それをツイッターにコピペしています。シャロームについても同様ですが、佐倉哲と楽山は筆致と理路の欠陥が、よく似ているので、同一人物の成りすましをを疑っています。狂ったネットマニアの楽山は、他にも成りすましが多いのではないかと思います。楽山は得意なのです。気持ち悪い。
 
なぜそんなことを考えるのだろうか。佐倉哲氏の知力も人物も、楽山より遥かに上なのは誰の目にも明らかだろうに。
 
佐倉哲を褒めていますが、都合のよい人をベタ褒めするのは楽山の特徴です。成りすましなら自分を褒めていることになります。佐倉氏が言っているのは、楽山とほぼ同じの幼稚な屁理屈です。佐倉氏のプロフィールは、どこにあるのでしょう。あっても、あの文章では、全く信用は出来ませんが。
 
 
*的外れ
st氏は相変わらず的外れなことばかり書いてる。
佐倉哲氏は事実と論理によって意見を述べている。だからこれを批判するには、まず事実誤認や論理破綻を指摘することが肝要である。
これをせずに事実や論理を脇にどけて、自らの信仰観を開陳したところで的外れで、独りよがりなものにしかならない。事実と論理による議論と、好き嫌い、信じる信じないということは別の話なのだ。
 
「事実と論理によって」・・二千年前の宗教的事実は、確定できず、永遠に不明です。それは、話として、人の生ける糧(かて)になるか、その説得力があるか、という判断の理路になります。楽山も佐倉哲も、キリスト教を理解しているとは到底思えず、説得力は皆無です。子供の理屈遊びは通用しないのです。
 
*分からないということ
st氏は、人には神や聖書のことは分からないと言いつつ、佐倉哲氏の神や聖書に関する判断は間違っていると言うことに何の矛盾も感じないようだ。
 
佐倉市と楽山は、よく似ていて、聖書を考える入り口で、既に、大きく間違っているからです。楽山には、心の真実を受け取る器がありません。成長が止まっているために、小学生ののような辻褄合わせしか考えられず、人間ならば持っている共感も罪悪感もないのです。だから、ことごとく、的を外します。
 
普通に考えれば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、st氏にも神や聖書のことは分からないことになり、佐倉哲氏が神や聖書について何を書いたところで、その正誤は判断できないという結論になるだろう。
 
私が、分からないといったのを、何も分からない全否定だと決めつける詭弁です。聖書は、神の関わる書として、人が全てを理解するのではなく、そこから生きる糧を見つけるために読むのです。楽山は、心が無いゆえに何も受け取ることがないので、神と宗教について何も書くべきではありません。
 
こういうところを見ても、楽山は、読書が出来ない人だと思います。だから、これも、あれも、読んだ読んだと、都合のよい字面を漁っては引用して箔をつけたいのでしょう。そして、ますます、学習も成長も出来なくなるのです。
 
またさらに踏み込んで言えば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、「人には神や聖書のことは分からない」ということさえも分かるはずがないことになる。つまり「人には神や聖書のことは分からない」ということは、それ自体が矛盾しているのだ。
 
楽山のような理論家気取りだけの詭弁屋は、命題として表層を取り上げて、得意になります。聖書理解は、人間として、良き訪れ(福音)受け取ることです。したがって、ここで、楽山の辻褄理解と、聖書の命の理解が、全く別物であることがバレているのです。
 
st氏はこういうことをすっ飛ばして、神や聖書のことは分からないものだとしつつ、佐倉哲氏など他人の神や聖書についての判断は間違っていると批判するのだからおかしい。
 
私がすっ飛ばしているのではなく、楽山が大事なことを、楽山の我執に従って、間違った受け取り方で、間違った否定を、間違った妄想として書いているに過ぎません。こういう屁理屈を相手にしていると、病的な人格破壊へ向かう疲労を味わうことになります。どこまで執拗な害毒なのでしょう。
 
 
*心象風景
st氏には、この世には良心のない人がいっぱいいるように見えているらしい。こういう考え方をしているのであれば、被害妄想が強いのも仕方ないのかもしれないなと思う。
 
楽山は、良心未発達の自覚がないことが、表れていますが、要するに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。「この世には良心のない人がいっぱいいる」のではなく、楽山に良心がないと言っています。一般化の詭弁です。的外れも、いいとこです。
 
 
*願望
これは、st氏がどういう願望を持っているかが、よく分かるツイートだ。
st氏は自身のことを「単一の信仰者」としていることからすると、これは願望だけでなく、独りぼっちで孤立している自身の投影もあるのだろう。
 
こういう侮辱で傷つけようとする楽山の悪意です。私は「独りぼっちで孤立してい」ます。しかし、楽山の、この発言は、孤独に生きる人への侮辱です。しかも、私の言論が、その投影だと言っています。投影のような心理学の用語を、気安く使って、人を見下しながら、楽山は、自らの墓穴を掘ってゆくのです。
 
また、st氏は上の文章のように、ちょいちょいおかしな文章を書いている。以前は、意図的に詩的に凝った書き方をしているのだろうと善意に解釈していたけれども、改めてこの手の文章を見てみるとどうもそんな単純なことではないかもしれないな。
 
例示できないのですね。楽山は、お粗末な感傷的な詩を書いていましたが、感性を鍛える学習ができないのでしょう、読めたものではなかったです。なのに、身の程を弁えず、思いやりもないために、他者すなわち私の詩をけなしています。楽山は、書けば、ほぼ全部、おかしな文脈をでっちあげて満悦するのです。
 
 
*現実
st氏はまた的外れなことを書いている。正解はこうだ。
×「長期に渡って批判されても平気なのはおかしい」
○「長期に渡って誹謗中傷され続けたら、その異常性には誰だって気付くし、無視するようになるのは当たり前だ」
 
批判と誹謗中傷を同一視する詭弁です。批判を無視するのが当たり前だと言っています。楽山は、自分の言う通りでないと、誹謗中傷と見なして、無視が当たり前、と思って生きてきたのでしょうか。ならば、従わない人を、ことごとく悪と見なすわけだから、もはや頭がおかしく、人間でさえないと思います。
 
箇条書きと、○×で、理屈を並べて、私からの批判を、誹謗中傷と印象付けたい楽山です。こういう自己愛からの無理解だから、私の批判は、楽山を変えるためではありません。楽山という変質者に、誰も近づかないように、楽山の偽善と詭弁の有り様を、ずっと書いています。
 
ところで、マリア氏はこの間こんなことを書いていた。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。
 
楽山は、対立すると、このように、他者の言を借りてでも、おとしめてきます。楽山に相手にされることなど、とうに諦めています。楽山の独り相撲に、決して付き合わないように、一般に、また特に、クリスチャンに、呼びかけたいのです。けっして、楽山を、相手にしてはいけません。
 
(まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋)
ヤフーブログ時代を振り返れば、とあるクリスチャン氏やmine氏のようにコメントにはすべて返信する人であっても、st氏のことはスルーしていただろう。易坊氏、こうさん氏、ヨシュア氏など、st氏と議論した人たちであっても、みんな去って行っただろう。
st氏はもういい加減、現実に気付いてもいい頃ではなかろうか。
 
自称マグダラマリアと自称ヨシュアは、キリスト教に似せた偽クリスチャンのカルトです。易坊は荒らしです。こうさんも荒らしです。私のヤフーブログを荒らしてきました。神の教えを守って完全になれるという真逆の勘違いがありました。
 
こういう人(たち)も、楽山の成りすましの可能性があるのです。根拠は、みな自己中発言~暴言しか言えないからです。あと何日と呪ったりもします。保身のために、神もキリストも利用して、命懸けみたいな筆致で描くことがあります。
 
いくら、返しても、返す文章に、書くたびに、自己中が表れていること、楽山は、気づかないのでしょう。他者のことを言っても、自分を振り返ることのない病質者の特徴です。こういう筆致、そして、この現実、楽山だけは、気づかないのです。人格障害というのは悲惨です。
 
 
*自己愛
ところでst氏の自己愛の強さは、ツイッターをチラ見しただけですぐ分かる。
ブログ更新のお知らせをツイッターで流すだけならまだしも、st氏は自己のブログ記事をツイッターにコピペして、拡散、保存している。一回だけならまだしも、記事更新のたびにそんなことを繰り返しているようだ。しかも長文記事をそうしてる。よほど自分が大好きなのだろう。
 
邪悪で哀れな自己中である楽山の情報を敷衍(ふえん)したいのだから、ブログからツイッターにコピペしています。拡散したいのです。楽山に何を責める正当性があるというのでしょう。ここにも、全ての規範を自己愛性人格障害の視野からしか判断できない楽山です。
 
そういえば、st氏はシャローム氏からコメント削除されたことを、何年にもわたって怒り続けていたのだった。論争中にコメント削除されたら怒るのも無理はないけれども、何年にもわたって怒り続けるとしたらそれは病的にすぎるだろう。
 
大事な発言について、承認せず、削除するのは、大いに、信頼を失わせることになります。論争中ならよくて、長期にわたるのは悪い、という性質の違いはありません。楽山は、こちらを「病的」だと言っています。自分が言われそうなことを相手に向けるのは、楽山とシャロームの常套手段です。
 
st氏の自己愛はこんな風に屈折したところがあるし、それだからいつものように自己の問題を他に投影して、楽山は自己愛性人格障害だと強弁することになっているのだろう。気の毒な人である。
 
これも同様に、自分が言われている自己愛を、こちらに向けています。違いは何でしょう。楽山は、全く根拠を示せないのです。結論で、悪口だけだから、説得力など、書けるはずもないのです。ゆえに、楽山が、こちらに向ける悪口は、楽山に返ってゆくブーメランとなってゆきます。
 
こう言っては何だけど、st氏は他人のことをとやかく言うより先に、まずは自分の問題と向き合った方がいいと思う。
 
これもそうです。何が「何だけど」なのでしょう。他人の中の、きわめて異常な楽山や所在不明のシャロームだけを、今は、特に楽山を、批判しています。とやかく言われている被害の自覚だけしかない楽山に、病識も罪悪感もないことが分かります。だんだん高慢の地獄が酷くなるようです。あわれです。
 
楽山は、キリスト信仰について、とんでもない詭弁でデマと偏見を宣伝しています。ゆえに、批判対象として、私が生きて書ける間は、批判が止むことはないでしょう。直接コメントなどで遣り取りなどは、病原である楽山に対して、私の精神衛生のために、しないつもりです。
 
 
◇◆ 追記 2022.1.2 ◆◇
*理由
ついでだから、st氏から長きにわたって誹謗中傷されても平気な理由も書いておこう。
まず一つは、何度も書いているようにst氏の書くことは的外れなことばかりだからだ。人は図星を指されると過剰反応してしまいがちだが、的外れな悪口は無視しやすいものだ。はじめは怒ったとしても、それが続けば相手にするのも馬鹿らしい心境になる。
 
楽山は、好意的なお世辞めいたコメント以外は、的外れと感じるのでしょう。批判と悪口の区別もつかない人です。楽山には、反応できる図星はないと思います。楽山には、真実も図星も真摯な見解も、何もないから、無反省、無責任、無視、無理解でいられるのです。
 
もう一つは慣れの問題だ。議論慣れしていない人であれば、st氏の口撃にたじたじになる場合もあるかもしれない。でも自分の場合はそれなりの議論経験があるので、くだらぬ悪口には慣れてるのだ。
 
楽山は、詭弁慣れ、嘘吐き慣れしているだけで、議論の、理路も、経験も、能力も、分別も節操もありません。無視だけを返してきます。楽山本人の欲望だから、インテリ気取りで、独り芝居で、邪悪に慣れて、平気で嘘と詭弁を、今日も、並べているのです。
 
「馬鹿らしい」「的外れ」「くだらぬ悪口」と進めています。中身はないが、楽山は、気持ちよいのでしょうか。楽山の言い分は、品のなさによって、マイナス言葉に置き換えられてゆくようです。楽山は、一切、根拠を示せないまま、感情と結論だけの貧弱な文脈になってゆくようです。
 
「議論経験があるので」・・思い込みだけです。「くだらぬ悪口には慣れてるのだ」とバカボンみたいに言うが、だったらどうして、こんな長くて、根拠のない嘘と詭弁の悪口を書いてくるのでしょう。人格崩壊が近づいているのでしょうか。だとすれば、ますます危険です。決して関わらないようにしてください。
 
あとは信頼というのもある。私はリアルの世界で高い評価を得ているわけではないけれども、幸いにある程度の評価はしてもらっている。
 
いったい、誰が、評価するというのでしょう。関わっている人がいたら、目を覚ましてほしいです。評価などあり得ないと思います。だまされている人が今もいるのでしょうか。仲間褒めか、成りすましのことか。今も、世辞の丁寧語で、だまそうとしているのかもしれません。身の毛がよだちます。
 
だから社会に対して、見る人は見てる、分かる人には分かるという信頼感があり、たとえ誹謗中傷されても、世間の人たちがそれを信じてしまうのではないかと心配することもないのだ。
 
好意的に評価されることを自慢する楽山ですが、だまされている人が今もいるということです。恐らく、誰からも信頼されなくなりつつあり、文章が、中身もなく、誇大で過剰で妄想的です。だまされる対象がいなければ、だますことは出来なくなります。まさに、私は、それを目標として書いているのです。
 
それから…承認欲求が希薄だということもあるかもしれない。自分はぜひとも人から好かれたい、そのために何かをしなければいけないという気持ちはさほど強くない。自分を評価しない人がいても、それは仕方がないと思える。たぶん親から十分に愛情をもって育ててもらったお陰なのだろう。
 
また、嘘を吐いています。何の権力もなく、だますことで満悦してきた楽山は、まるで、悪い政治家の語るリップサービスみたいです。目的もなく、中身もなく、ただ、うわべの承認欲求しかないのです。楽山は、こういう嫌がらせをしてくるほどに、我欲の権化です。
 
もっと考えれば、誹謗中傷されても平気な理由はもっと思いつきそうではあるが、とりあえずはこんなところである。
 
楽山が、批判に対して平気なのは、羞恥心、罪悪感、自責の念、共感、・・などの、受け取るための高等な感性が、欠如しているからだと思います。楽山は平気なのでしょう。何らかの公の強制力か、被害者の暴力的な復讐の対象にならないあいだは。・・今日も、ツイッターにコピペする予定です。
 
 
嘘と詭弁だけを用意する遠吠え

嘘と詭弁だけを用意する遠吠え
 
 
(2022年01月03日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いかに実態が暴かれても、これだけ白々しい嘘が吐ける楽山です。人間で在りたくないもかもしれません。楽山は、超常の預言者か教祖になりたいのでしょうか。私は、楽山の言が、全ての人によって、否定されることを祈り願いながら、日々、キリスト者として、できることをしているだけであります。
 
全能と言われる神は人に対して、できるだけの正直だけを求めておられます。正直ということを、一切持たない楽山の異常な有り様は、反キリストそして偽善者の典型として検証されるべき大事な問題です。楽山の嘘と詭弁と偽善の有り様を知って、決して近づかないようにしてほしいと思っています。
 
嘘を吐いて人をあざむき、詭弁で人をだまし、幼稚な屁理屈で自己正当化の言い逃れをしてくる楽山は、最低の男です。いちいち理路が捏造されています。こういう人は、ある意味、暴力を振るう乱暴者よりも酷いのです。暴力は、大方、その時その場ものですが、詭弁は人生の正道を滅ぼしてゆくからです。
 
恐らく、楽山の周りの人も、そばにいる人も、楽山を、説得も、制止も、出来なかったのでしょう。約3年あまり批判されて、ろくに返せないのに、まだ、平気でいられるわけだから、いったい、どれだけ、良心と神経が、欠如しているのだろうかと思います。
 
 
 
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  ミイラの徘徊(3)2
 
  ★カルト体験 
 (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
 反省できなくなってしまう?)
 https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
 
コメント欄。いんよう( >、< の部分)は、 シャロームshalom のコメントが大部分で、jiyuu のコメントもあります。二人については、一人の成りすましを疑っています。自由( jiyuu) は、楽山の以前のHNです。
 
 
楽山の古い記事に対する批判を修正して再登校します。シャロームshalom の偽善者としての強心臓が、ずっと表れて続けています。どうしたら、不都合なことが起こっても、起こった出来事の事実そのものを記憶から排除できるのでしょうか。jiyuu は、楽山の、前のHNです。
 
そのような無視の能力を、いったい、どういう経緯で覚えたのか、また、できるんだという確信のもとに、記事を書き続け、コメントを書き続け、偽善の罪状を、天にも地にも積み重ねてゆくのでしょうか。楽山に似ているので、一人の成りすましも疑っています。
 
教会でも目的‐機能論的推理による暴走はよくあります。
教会で聖霊の働きである導き、助けを強調されるとよく分裂、混乱が起こることがあります。霊はなにしろ見えないのですから、たしかにそういう危うさには気を付ける必要がありますね。そのために聖書のみ言葉との整合性をつねに求めることが不可欠だとおもいます。
 
聖書に聖霊や霊感のことが書いてあれば整合性があるというものではないのです。聖なる存在には、常に、恐れをいだいていなければいけません。聖書に書いてあるからと、聖霊の名をみだりに使ってはいけません。
 
使徒パウロは弟子であるテモテに次のように書いています。
新約・第二テモテ
3:14あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
 
「とどまっていなさい」とは、シャロームのように固定して訂正不能でよいということでは決してありません。「だれから学んだか知っており」「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて」とあるように、学んで準備をする務めがあるのは言うまでもないことです。
 
「完全にととのえられた者になる」・・目標と考えるべきです。すぐになる、今なってる、という証拠はどこにもなく、今の自分を深く考えられる人は、決して完全に整っていないと実感として分かるのです。不完全な罪びととしては、学習可能、修正可能であることが必須なのです。
 
聖書は信仰によって救われることで、整えられたものになる、と聖句は言っています。ここは、聖書に書いてあると言って悪用する者がいます。シャロームが載せていない直前の聖句を見てみると、
 
 (テモテへの手紙、口語訳)
3:12
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
3:13
悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
 (テモテ3:12-13、新約聖書)
 
つまり、自説を正当化するために、聖書に書いてある、書いてあると、だらだら無駄に長い文章を書いて、「惑わし」悪用をする者がいるということです。まさに、「悪から悪へと落ちて」いるのが、楽山とシャロームであります。
 
ほかにもたくさん聖霊について書かれています。イエスさまも死を前にして弟子たちに聖霊の来臨とその働きについて話しておられます。イエスさまを信じる信仰は人から生まれた思想ではありませんから、神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ないのです。
 
「神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ない」と、その通りに自分には聖霊が降りていると言いたげに、神聖の保証のみを根拠とする人は、人間としての説得の根拠を持たない人ですから、信用してはいけないと思います。人間は人間としての学習と成長への努力が必要です。
 
「人から生まれた思想では」なく、神の言葉なら、楽山とシャロームは、まさに、神の言葉を、曲解して、無条件の自己正当化に悪用しているということです。神の言葉に対して、恐れをいだかないで決めつける者は、このように偽善の迷路に堕ちてゆくのです。
 
(自由さん)
「絶対神がいるなら全ては予定されてるだろうし、絶対神がいなくても何らかの法則があるなら全てはニニが四なんだろうなあと。」
神はとことんまで私たちの主体性と自由を尊重されます。カルトのように決して法則で私たちを縛り、支配される方ではありません。私たちは自由に選択し、行動することができますが、決して結果を選ぶことは出来ません。その結果が私たちにとって苦々しい受け入れられない結果であっても、その結果をとおして神は最善の導きをしてくださる方なのです。私たちの弱さや過ちですら、ご自分の祝福の通り管とすることのできる方です。
 
このように、一見、まともそうな意見を書いても、シャロームは、実際は、自己の無謬性を正当化しているに過ぎません。人間の主体性と自由について、シャロームは、相当に軽視してきたと思いますが、ここでは、手のひらを返したように、神が主体性と自由を尊重すると言っています。
 
しかも、その結果を通して神が最善の導きをしてくれると言っています。さて、シャロームは、悔い改めない罪と偽善に塗れていますが、その偽善が神の祝福の「通り管」だとでも言いたいのでしょうか。シャロームは、神を恐れぬ冒涜者です。
 
確かに私たちが罪を犯せば、その罪が私たちの苦い結果をもたらしますが、神はその苦みをとおして、私たちをご自分のみもとに引き寄せ、み言葉の真実を証しし、私たちの信仰をみことばしっかり結び付けてくださいます。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からという聖書の言葉だと書かれています。
 
神を賛美しているつもりのようだが、実際は、自分を正当化するために、神を利用しているシャロームです。シャロームの罪と偽善は、苦い結果によって、シャロームを、神のもとに「引き寄せ」たでしょうか。いいえ、今も、神の名を、自分のために、悪用し、けがしています。
 
根拠として、神に引き寄せられたのなら、今までの罪と偽善を悔い改める発言があるはずですが、シャロームは、相変わらず、悔い改めた発言も様子も示さないまま、ここに、まともなつもりで、説教を書き続けていることが、そのことを明確に否定しているのです。
 
神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方だとも聖書にかかれています。全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたがたの道をまっすぐにされるとも書かれています。
どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます。
 
シャロームが、神が尊重すると言った人間の主体性と自由において、神はすべてのことを相働かせて益としてくださっているでしょうか。道は真っ直ぐになったでしょうか。いいえ、何も益とはならず、真っ直ぐにもなっていないのに、シャロームは何事も無かったかのように説教しているのです。
 
シャロームの言行も因果も矛盾しています。「どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます」・・弱さと失敗を自覚して祈るのではなく、シャロームは、故意に悪と偽善を働いて慢心しているのだから、全く違います。嘘と詭弁です。
 
弱さも失敗も、正直に告白して赦しを祈る精いっぱい誠実な信仰者にとってだけ、神の恵みは顕れ、祝福となるのです。つまり弱さや失敗が、成長の糧になってゆくのです。シャロームは、罪を認めておらず、ゆえに、赦されておらず、ゆえに、神の恵みを知りません。
 
シャロームは、罪と偽善を悔い改めず、罪悪感も抱かず、まるで気にせずに、白々しい説教言葉と聖書語を言い続けているあいだ、悔い改めない者として、偽善者のままであり、ますます、ペテン師らしく、平気で嘘を吐いて回るようになってゆくのでしょう。
 
 
 シャロームの詭弁を、もう一つ、ここに書いておきます。
 自由さん「アドラー心理学」コメント欄より。
 https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41368232.html
 一部編集。
 
(シャローム)
口語訳ロマ2:1~
2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 【口語訳】二コリ
7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
―――――――
(シャローム)
悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです。
2018/10/4(木) 午前 8:03 [ shalom ] 返信する
 
「悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです」・・悔い改めは誰がするのでしょう。あるいは、人は、魔法のように、ロボットか操り人形のようになって、悔い改めるとでも思っているのでしょうか。恐ろしい詭弁です。
 
正しい裁きというのは、神という絶対者が、多くは強制的に、背く人に対して下すものです。人が、自分を絶対の正義に置き、誰かを悪と決めつけて、何らかの制裁を下すなら、神に背いたゆえに裁かれるということを聖句は教えています。まさに、シャロームに「弁解の余地がない」のです。
 
それに、私は、シャロームに、悔い改めを要求することは、ほとんど諦めていて、それよりも、他の人々が巻き添えを食わないように、シャロームと楽山の、悔い改めない罪と偽善を指摘する方向に変えています。神は、いつまでも黙っておられるわけではないのです。
 
シャロームが、聖句を故意に曲げて、何をやっても救われるという極めて安易な解釈に凝り固まっているのです。シャロームの前提には、自分の絶対正義があり、ゆえに、聖句を引用すれば、逆に、その目的も解釈も、神の御心に背くものとなって、訂正不能になっているのです。
 
私は絶対の正しさなど持っていないので、言論によって、シャロームの誤りや矛盾や詭弁や卑怯さなどを指摘してきました。ゆえに、裁くということとは明らかに違います。私は、その時々に、遠慮なく書いているだけです。私は、年老いても、なお、学習したいからです。
 
シャロームも楽山も、注意して読んでおれば、詭弁だと分かるようなことを言っています。全て正確に見抜けるわけではありませんが、どうみてもおかしい、ということについて、指摘し批判してゆかないと、だまされる人が出てくるでしょう。それが、彼らの世渡りですから。
 
シャロームは、聖句を悪用して、批判者が裁いていると決めつけて、悪い印象を植え付けようとしているだけです。その決めつけこそが、聖書の悪用であり、裁いている思考と志向なのです。絶対ではない自分を知っているなら、悔い改めるはずです。シャロームは、全く、その逆です。
 
「神の慈愛があなたを悔改めに導く」「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き」という聖句は、神の慈愛を受け取った人は、その愛ゆえに悲しみを癒やされ、世俗から、神のほうを向き、正直に、祈り、悔い改めて、罪を赦されるということです。
 
シャロームは、教条的に、言葉の辻褄だけで、神が導く、という言葉を吊り上げて、悔い改めは神が与える恵みだと言っています。上の聖句によると、恐らくずっと前から、悔い改めたことのないシャロームは、神の慈愛を受け取ったことがないということで説明がついてしまいます。
 
シャロームは、聖句を、何でも自己正当化の思い込みの辻褄と教条だけで受け取って、上のような聖句を悔い改めないことの根拠にしたいようですが、実は、せっせと墓穴を掘っているということです。私は、ただ、シャロームの詭弁の影響を誰も受けとらないように、批判記事を書いています。
 
シャロームや楽山の詭弁は、受け取る心、即ち、地上にあって恵み宝を受け取って入れることも可能な土の器に比喩される人間の良心を、欠片も持っていないシャロームの、悲しみを知らず、神の慈愛もキリストの共感もキリストへの共感も知らないことからの必然であります。
 
私は、もはや信仰ももないのに信仰?を語っているつもりの、立場のない泥濘(ぬかるみ)を徘徊するミイラのようなシャロームにも楽山にも、悔い改めを要求するのではなく、批判して、その嘘と詭弁を指摘して、敷衍(ふえん)し、かつ、全否定してゆくだけです。
 
シャロームは、「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」というキリスト信仰とは真逆のことを言って、馬脚をあらわしました。シャロームは、偽牧師です。神を恐れぬ所業を、神は、御目の前に見ておられるのです。
 
楽山とシャロームは、キリスト教はお伽話を信じることだと、アーメンソーメンだと、軽く考えているような、全くの無理解の輩です。ゆえに、シャロームは牧師に成りすまし、楽山は、キリスト教批判をする思想家気取りなのでしょう。まさに、亡者、あるいは、恐怖のミイラなのです。
 
楽山とシャロームは同一の成りすましの可能性もありますが、いずれにしても、そういうペテンが、結局、いつどこにおいても成り立たないことを、結果として知らされる定めなのでしょう。前触れもなく、今の地上なのか、終末なのかも、人には予知できない、恐ろしいことなのです。
 
 
 
※ TVドラマ「クリミナルマインド」の格言から
 
 
庭には、植えたつもりのない物の方が多く育っている。(スペインのことわざ)
 
 
物事は見かけ通りとは限らない。見かけにだまされる人間は多い。ごく少数の知恵のある者が、巧妙に隠された真実を見抜くのだ。 ファイドロス (S4#4)
 
経験は残酷な教師だが、人を大きく成長させてくれる。 C・S・ルイス(S5#13)
 
人は嘆き悲しむからこそ人間なのである。 アントニオ・ボルキア(S6#20)
 
 
ぬかるみ

泥濘(ぬかるみ)
 
 
(2019年01月31日、同日一部修正)
(2021年12月20日、再録+)
 
 
 
キーワード:偽
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
 
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう話ではなく、楽山固有の悪と罪と偽善なのです。
 
 
 
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  被害的・他罰的3 その1
 
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
楽山の詭弁と嘘がどんどん悪質になっているので、今回は、過去記事を加筆して再録です。反省を全くしない人というのは、自分を完全に問題の外に置きます。そして、今回のように、当事者であるにもかかわらず、「 st、shalom 問題 」と、平気で書いてしまうのです。
 
実際は、「st、楽山、 shalom 問題 」ということです。シャロームもですが、もちろん、今、いちばん問題なのは、楽山であります。私のほうは、批判を書いても書いても、まだ、足りないという経過が続いています。
 
*経緯説明
先日、shalomさんからコメントがあったので、何気にその方面について検索してみた。いろいろと見てみたが、どうもこれまでの経緯をまとめておいた方がよさそうに思うので、ざっと書いてみる。
なるだけ時系列に沿って書こうと思うが、はなはだ頼りないことながら、早くも記憶は薄れてきてるので、勘違いがあったり、事柄が前後したりすることもあるかもしれない。ご了承願いたい
というわけで、まずはこの辺りから書いてみる。
 
「はなはだ頼りない」という自覚があるなら、書かないことです。やっていることは図々しいかぎりですから、言っていることの釣り合いが取れていません。そのあとの、前もっての言い訳は、白々しい作為であり、見苦しい限りです。
 
要するに、楽山は、自分の書くことはめちゃくちゃだが、承知で読んで受け容れよ、と書いているようなものです。それは、結局、楽山の謙遜は芝居であり、見苦しい言い訳に過ぎないと、自分で言っているのです。この場合、勘違いの了承は、致しません。
 
・楽山ブログにstさんからコメントが入る。
stさんのブログを見ると、訂正不能はダメとか、教条主義でなく情緒が大切とか、●共感できる●考え方だった。
 
「・・とか」という言い方で語れるほど、楽山の意識の低さと理解の浅さが表れています。楽山から「共感」を得たということは、一度も無いと思います。楽山は、嘘ばっかり言ってます。
 
楽山は「共感できる」といっていますが、この後も、信仰の心を無視して、奇跡や超常の辻褄にこだわり、それが無いからと、神を否定しているのです。しかも、それを、繰り返し、書いてきます。ということは、つまり、「共感できる」は、楽山の大嘘だと言うことです。
 
・stさんがすごく落ち込み、傷付いている様子の記事が出る。
気の毒に思って、事情を調べてみると、ヨシュアという人からボロクソ言われたせいらしい。
 
やはり、嘘は全開のようです。ヨシュアは、個人情報をブログから引っ張り出してはダメ人間とか精神病とか言ったり、罵詈雑言ばかりを言うので、付き合えない人ですが、楽山と違って、ヨシュアは本性丸出しなので、こちらが傷つくことはないのです。落ち込んだことはないと思いますが・・。
 
同情に見せかけた楽山の、あざけり方なのです。こういうことを平気でやってくる人です。つまり、楽山の、白々しい同情芝居なのです。こうやって、人に気遣いを見せているようで、実は、自分の謙虚さをアピールしてきたのでしょう。約3年の履歴からは、全部、嘘ということになります。
 
直接、ボロクソに言うのと、同情めかして、他者の言うことを無視して、ネチネチしつこく同じことを書くのと、どちらが悪性度が高いでしょう。悪口は書いていないというつもりでいるほうが、善のふりをする偽善であり、より悪性度が高いのです。誠意と正直の欠片もない楽山です。
 
stさん側に同情、擁護。
ヨシュアさんは、st自由同一人物説を主張してきた。
・stブログで、shalomさんを偽善者などと糾弾する記事を出る。
偽善はダメとか、訂正不能はダメとか、それはそうだろうと思う。
 
シャローム批判の「記事を出る」(が出る、を出す)ではなく、シャローム批判なら、楽山と出会うずっと前から約8年間書いてきました。「偽善はダメとか、訂正不能はダメ」・・楽山は、訂正不能の偽善者です。三文芝居がすきな楽山と、シャロームの同一成りすましも疑っています。
 
・stブログで、shalom批判記事がつづく。
shalomブログをちらと確認するも、そこまで強く批判する理由はいまいちわからず。
でも偽善はダメ、訂正不能はダメとかは、それはそうだろうと思う。
 
楽山は、シャロームのお仲間だから、分からないと言うわけです。シャロームの味方ですし、こちらを否定してきたのだから、楽山もシャロームの仲間として、カルト的妄想を語る者として、批判の対象になります。
 
「偽善はダメ」「訂正不能はダメ」という言葉に「それはそうだろう」と、実感もなく肯定しています。この軽さが、楽山の特徴の一つです。高等感情が鈍麻しているので、実感をもって書くことが出来ないのです。楽山も、嘘とボンヤリ言語の偽善者だからでしょう。
 
高等感情とは、共感、思いやり、罪悪感、などです。しかし、楽山の目的は、自分は分かっている人アピールです。丁寧語で、中立を装う偽善です。だんだんと本性を表します。この辺の楽山の筆致も、読み返すだけで、うんざりします。「それはそうだろう」と、顎と口を突き出すイメージです。
 
・shalomさんが楽山ブログに来る。
stさんの批判記事を見ていたので、悪い人かと思っていたら、話してみると、わりと普通。
ときどき、stさんに向けて皮肉めいたことをチクリというので、これが問題視されているのだろうなあと思い、注意すると素直に応じる。
いつぞやは、皮肉か何かを言ったことで、stさんに謝罪し、そのあと、負けるが勝ちといって舌を出すようなことをした。案の定、stさんは激怒。
言わんこっちゃない。
 
「謝罪」のち「負けるが勝ち(笑)」とは、シャロームの白々しい嘘の一例です。シャロームの恐ろしさは、反省しない、自己中心、訂正不能の神がかり人間離れの妄想信仰などです。だから、これは、付き合い上、無礼だったという話ではなく、シャロームの体質を表している重大なことです。
 
最近、シャロームは、何度か、私のライブドアブログに、説得力のないコメントを書いてきました。私は、改めて批判を返しましたが、シャロームは、それを受け取って返すことの出来ない人です。妄想信条に染まったものは、こうなるということです。
 
楽山については、人間的な感情の鈍化と、読み書きの理路の拙劣さが、今まで目立っています。子供の作文のような記事をもって、宗教と信仰と真実を扱うので、いつも、的を外しています。この楽山の記事も、タイトルからして、真面目に話す自覚などないことが表れています。
 
霊が分かるっぽい → 超常も分かる、自分は特別な存在、神に文句をつけて否定したつもり、これら総て、超常妄想であり、書くものを読めば、大嘘だとバレています。
 
神の存在については、人は、肯定も否定も証明できません。希望として信じて、生きる縁(よすが)にするかどうかなのです。
 
たしか、この頃、shalomさんは皮肉を言うことについて、あんまり酷い言われようなので、皮肉の一つも言いたくなるというような説明をしていた。
当時はそれでも止めといた方がよかろと思ったけど、今はそりゃそうだろうなと思う。
 
シャロームshalomは、あまりに、ひどい言いようでした。はぐらかし、言い逃れ、言い訳、詭弁と妄想教理、という間違ったことばかり言って、こちらの指摘に全く答えません。8年間、ずっとそうです。なお、シャロームは、罪は悔い改めなくても許されると言い、偽牧師だと判明しています。
 
楽山も、シャロームも、罪悪感がないところが一致しており、仲間だが、むしろ、一人の成りすましではないかという疑いが生じているわけです。
 
>・stさんの執拗なshalom批判はつづく。<
 
8年間、今まで、そして、これからも、シャロームが書いてきたら批判を続けて、広く知らせるほかにないのです。シャロームは、反省も学習もしないからです。
 
私の批判が「つづく」ことを、いちいち書いているようだが、これは、しつこい、という印象を与える刷り込み、すなわち、印象操作に当たります。
 
はじめのうちは、記事を公開したら、それに批判があったとしても、ある意味当然だろうとか、shalomさんの記事に対して、stさんなりの感想を書いてるんだろうと考えていたものの、shalomさんの発表する全記事に噛みついてるようなのは、ちょっとどうかとも思う。
 
感想ではありません。批判ですから、本人が変わらない場合、読者に警鐘を鳴らすために続くことになります。シャロームは、記事を書くたびに、惜しみなく偽善を表してきました。ちょっとどうか・・どころではなく、楽山とシャロームは、ともに、一般にも有害な病質を持っています。
 
この辺りから、楽山の、いやらしい丁寧語による本音が表れています。楽山の言は、丁寧で、もっとも、まとも、という印象を吹き込んでから、こちらを、あんまりでしょう、と否定してゆく印象操作と刷り込みです。
 
stさんに対して、批判のやりすぎをそれとなく注意してみたり、北風と太陽の話を振ってみるが、反応はいまいちなので撤退する。
以後、折を見て、批判のやりすぎはよくないという話をするも、効果なし。それどころか逆ギレの気配あり。おそろし。
 
批判のやり過ぎ、という刷り込みになっています。そして、本性を表し、「おそろし」という、とても幼稚な、無根拠の決めつけが表れています。詭弁屋が、真実追求や批判の話をすると、こうなるという例でしょう。「おそろし」・・は、楽山の詭弁に表れる作為のほうです。
 
このように、丁寧語で、作為的に、話の筋を、変えてゆきます。楽山の、詭弁や、そしてカルト思想の宣伝のやり方なのでしょう。楽山は、北風でも太陽でもなく、忍び寄る暴風雨とでも言うべき存在です。卑怯な裏の細工しかできない者の特徴です。詭弁、おそろし。
 
批判は、相手に反省を促すためと、この人は異常だから誰も関わらないほうがよいということを一般に広めるためと、2つあって、楽山とシャロームへの批判は、明らかに後者です。
 
・易坊さんとstさんの議論のとき、stさんの応答がおかしかったときがあった。当たり前のことが伝わっていない、ありえない勘違いというか、そんな感じ。
易坊さんは、ほらこれだという風に示してたので、こういうことは過去にもちょくちょくあったっぽい。
 
「ほらこれだ」って何なのでしょう。これで荒らしの易坊が正当化されるのでしょうか。いつの話が分からない、遣り取りの例示も出来ないことを上げて、具体的に発言を引用せず、「ちょくちょくあったっぽい」という刷り込んできます。吐き気のするようなボンヤリ言語の誘導です。
 
「応答がおかしかったときがあった。当たり前のことが伝わっていない、ありえない勘違いというか、そんな感じ」・・楽山は、根拠を示すことが出来ません。例示すれば私が反論することが分かっているからでしょう。決めつけ、印象操作、刷り込みだけを熱心に続けています。
 
・shalomさんがサイクリングして楽しかったことをコメントしてきたことがあった。これに対して、stさんは、あなたにはそんなお気楽なことを書いてくる資格はないとか激怒してた。
 
文脈から、全く場と文脈にそぐわないことをシャロームが言ったのだろうと思います。また、シャロームは、確かに、今も、気楽な日常話をする状況ではありません。楽山は、私が批判していることを承知の上で、私が異常だという印象を刷り込んできます。
 
とても気色の悪い筆致と文脈ですが、私を怒らせようとしているのか、それとも、とにかく悪いのだ、という決めつけを読者に貼りつけたいのか、楽山が理路を追わない人であり、とても議論など出来ないような、当てつけ臭い煽動者であることを自ら表しています。
 
ケチな煽動家は、ふつうに、こういうやり方ですから警戒してください。言い方を選ばないので、近づかないのが一番です。これで、楽山は、恥ずかしくないのです。恥も罪悪感もないからでしょう。これも、おそろし。
 
またshalomさんは、ご親族が骨折した話をコメントしてきたことがあった。これに対するstさんの反応は、shalomは同情を引こうとしているという糾弾だった。
私は、いくら意見対立がある相手だとしても、それとは関係なしに、日常の楽しかったこと、不幸などについては、「楽しそうで何よりだ」「気の毒に、大事にしてください」みたいに普通に応答するもんだと思ってるので、stさんの態度は理解不能ではあった。
 
普通の人は、お互いに意見を受け取って反応している場合は、意見が対立しているときでも、普通にやり取りできるでしょう。同じことを言うのは、聞いてないよ・・というに等しいので、ふつうは、わざわざ相手の怒りを増長するようなことだから、避けるでしょう。
 
楽山の、心にもない世辞の言い方が例示されています。楽山は、恐らく、怒り心頭に発している相手にも「気の毒に、大事にしてください」ということが、やさしさだと思っているようです。実際は侮辱に他ならず、ここから、楽山が、良識かの節操が、まるで成り立たない人だと分かるのです。
 
楽山は、そういう状況など、まるで考えることの出来ない人で、状況を弁えず、ふつうの、いたわり言葉が、どこでも通用すると思っているのです。こういう状況での憐れみは、侮辱になる、という交流の弁えのない人だから、前に、楽山は、そのうち、殴られるだろうと書いたことがあります。
 
楽山も、シャロームも、こちらの意見を受け取らずに、自分の言いたいことだけを言います。そういう状況で、普通の応答をするのが正常だと思うことのほうが異常です。この記事の、楽山の文章がそうです。同情言葉が、どんな場面でも通用すると思い込んでいるらしい楽山の未熟です。
 
シャロームは、世辞の挨拶と、けなしを、同じコメントの中に書いてくることがあります。そこからも、シャロームが、人間感情を、まるで理解していないことが分かります。付き合い・交流・対話のセンスがないのです。自分のほうが上だと、根拠ではなく、余裕を見せてきます。
 
実際には、しばしば、楽山とシャロームは、全く状況に合わない世辞を入れてきます。これが異常だと理解できない楽山は、まことに異常であります。葬式で、お愛想の笑顔を向けるようなものです。事故現場で、事故に気をつけましょう、と言うようなものです。
 
私も、けっこうな批判屋ではあるけど、さすがに議論テーマと関係ないことまで激怒したり、批判する気にはなれないので。
これがいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというものかと思ったりもした。
 
楽山は、批判者ではありません。詭弁屋、そして、煽動者です。今までの文章から、楽山に理路を整えた批判は出来ません。整っているかのように見せかけ、被害者に見せかけることだけですが、それらは、ことごとく失敗しています。
 
つまり、私が、憎しみだけから批判している、という印象操作です。「思ったりもした」・・作為が分かれば、この砕けた婉曲表現は、とても汚い悪意の筆致です。
 
このように、全くの自己中心の身勝手で、楽山もシャロームも決めつけてきます。だから、直接の遣り取りより、彼らの言い分には、批判記事を当て続けてゆくことが必要なのです。
 
 
総ての言論には、「と思う」がついてきます。人間の主張ですから当たり前です。それを、省略せず、ちゃんと書くべきだと言って、わざとらしく、語尾を曖昧にしたり、砕けた言い方にしただけで、責任から逃れられると思っている楽山は、未熟な破綻者としか言いようがありません。
 
オウム真理教、HS、統一教会、アドラー教などは、既に大きな組織であり、個人が批判しても抗うことは難しいでしょう。しかし、これらは、名も知られているし、トラブルも起こっていて、公から目も付けられ警戒されていると思います。
 
ですから、楽山の自己愛的超常気取りとか、シャロームの妄想的偽キリスト教などのように、個人ブログで、おかしなことを言っているカルト的偏向者は、個人~小集団レベルの間に、変だと思った別の個人が批判することが可能であり、必要であり、批判する意義もあると思っています。
 
 
詭弁、詭弁

詭弁、詭弁
 
 
(2019年11月23日、同日一部修正)
(2020年11月28日、加筆して再録)
 
(2021年12月09日、再録+)
 
何度でも再録することになるかもしれません。
 
 
 
  持っている
 
君は鷲の目を持っている
君は犬の鼻を持っている
君はコウモリの超音波を持っている
上手に障害物をよけながら
しかし君は
人間の脳を持ってしまったから
君はただの人になった
 
君は翼を失った鷲だ
君は足を失った犬だ
君は安物のコウモリだ
風に折れながら
しかし君は
人の心を持ってしまったから
君はただ人間になった
 
 
  沙汰
 
地獄の沙汰も金次第
かどうかは知らないが
病気の沙汰も金次第
老後の沙汰も金次第
にはなりそうな時代
老人は僕らのために死んで下さい
といった意味にとれそうな
川柳が新聞に載っていた
という記事が新聞に載っていた
その「僕ら」もやがて老いれば
新しい「僕ら」に「死んで下さい」
と言われる日が来るだろうに
 
世論を気にしながら
政(まつりごと)が進められる時代
弱者切り捨ては先ず
社会の同情を引きにくいところから始まる
高齢者の次は精神障害者だろうか
老いたくて老いたわけではない
病気になりたくてなったわけではない
という叫びが聞こえてきそうな
殺伐とした日々
寒々とした毎日
毎日次々に捨てられる新聞
 
 
  以ての外
 
看護婦さんが薬を持ってきてくれた
「外見たですか?雪ですよ」
と頓着のない彼女らしい笑顔で言った
 
「君は郵便受けの新聞の有無も
門柱の横に置いてある雪だるま
とは言えないが二つの雪玉も
見なかったんだね玄関横の庭の足跡も
ガスや浄化槽の点検なら足跡が
三つ四つということはないだろう」
などと言ってはいけない
 
「いつだったか君が来たとき私が眠ってしまって
気づかなかった後で近くに
公衆電話もあったのに薬を持って帰って
わざわざ病院から嬉しそうな声で
電話をかけてきたが
あれは私がその前の時の薬が足りなかったと
言ったことへの腹いせだとは思いたくないよ
今日はどうもありがとう」
などと言ってもいけない
 
私は被害的なところがあるし
彼女はからっとした性格でよく笑う
 
在職中は外来でよく苛ついて
彼女に当たったがビクともしなかった
だから外来というストレスにも耐えられた
 
私はもはや廃業中かつ療養中
薬をわざわざ持ってきてくれたんだ
何も言えやしない
「あ・・・ああ」だけ
それで「お大事に」と
すでに帰る姿勢の彼女はあっさり帰った
 
くくっと笑いながら
(人間の唐揚げ)
などと思うなど以ての外だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
 
 
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  被害的・他罰的2の2の2
 
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
実際は、 「st、shalom 問題」ではなく、 「st、楽山、shalom 問題」であり、最も大きな問題は、楽山の、無反省・無責任・訂正不能・自己愛性病質であります。
 
・shalomさんが、stさんのことを自他未分化と批判してた。
初めて聞く言葉なので、その意味ははっきりとはわからないものの、字面からゆくと、一理あるかもしれぬとは思う。
 
ここで、はっきり、私が自他未分化、ということに、「一理ある」と賛同しています。おとしめる発言の重大性を考えれば、「かもしれぬ」は、付けても付けなくても一緒です。婉曲表現を重ねながら、だんだん、シャローム寄りに導いてゆこうとする作為です。
 
「意味ははっきりとはわからない」のに「字面から」「一理あるかも」という楽山の破綻です。字面しか見ないことだけが、楽山に当てはまります。「かも」・・ボンヤリ言語です。まだ、通用すると思っているらしい。
 
シャロームこそ、人間としてあるべき分化・成長をしていないと思います。何故なら、神と自分の区別もつけていないからです。いつも神の啓示と聖霊の導きだと訂正不能に確信して、どこにも届かない妄想教を捏造し、教えようとします。
 
これは、神と自分の区別をつけず、自分の作為で神を利用して、都合が悪くなったときの、苦し紛れの逃げ口上なのです。信仰の始まりとして、神と人という区別をつけていない未分化は、決して信仰とは呼びません。
 
元牧師を自認するシャロームは、神と人の区別をつけない真っ赤な偽牧師です。聖書を悪用する冒涜者です。常に、徹底的に拒否し、根こそぎ否定しなければいけません。楽山の成りすましの可能性も考えておかないといけません。
 
人間としての身の程を弁えないと、シャロームのように、神の立場から人を裁いて、ふんぞり返るようになります。そういう神と人の区別が、信仰も宗教も知らない楽山には分かるはずもないのです。同一性障害、自己愛性人格障害に、見られることです。
 
stさんは、楽山に対して、shalomさんと口を利くなとか、あれこれ命令してきて、楽山が独立した人格であることに、てんで気づいていないようだったので。
 
そう言ったかどうかは覚えていませんが、少なくとも、今は、楽山とシャロームには関わってはいけないと思います。シャロームも楽山も、独立した人格ではなく、受け入れれば、社会悪につながるような狂った判断に誘導してくる同じ穴のムジナとして同調していると判断しているからです。
 
・もう一つ、shalomさんがstさんのことを、自戒と他戒の区別がついてないとか批判してたことがあった。
そう言われて見れば、stさんが訂正不能はダメとかいうのは、訂正不能にならないようにしようという自戒というより、shalomは訂正不能だからけしからんと裁くことに使われてた。偽善とか、その他のことについても同様だ。
 
訂正不能にしてしまう人格障害だから、成長がなくなり、今に至っているのです。訂正不能を批判するのが、どうして「裁く」ことになるのでしょう。被害的とは、このこと。「けしからん」などと、感情的な言い方はしていないと思いますが。
 
私は学習を意識し努めています。ゆえに訂正可能です。楽山もシャロームも、こちらが訂正するような示唆や意見を言ったことが、一度もないだけです。このことも、何度か書いてきたのに、受け取っていないようです。
 
シャロームは、訂正不能の妄想を豪語し、楽山は訂正不能の偏見から理路にならない決めつけを、曖昧ボンヤリ言語で、一方的に並べるだけなのです。決して近づかないでください。彼らは、常に明らかに異常です。冷静を装いながら、理路ではなく、メチャクチャになる特徴の二人であります。
 
誰よりも、自戒が出来ず、他戒にもならない嫌らしい当てつけや、嫌がらせをしてくるのが、楽山とシャロームであります。今回もそうです。自己愛性パーソナリティ障害は不治の病のようです。読み返してみると、なおさら、楽山の卑怯さと狡さが、身にしみて感じられます。実に嫌らしい。
 
・shalomさんはお話し好きなようで、他のブログのコメント欄を訪問することがよくあった。でもそうすると、そこにstさんが突撃して、shalom批判を連投していた。
そういう場合、そこのブログ主さんは、shalomさんとは対話しても、stさんはスルーしてるようであった。
 
私は警鐘を鳴らしているだけです。シャロームは、他のブログの言い分を理解していないのに、他者の言葉にシャロームのゴタクを混ぜて、褒めあげるという卑しいやり方で悦に入るという常習の性癖があります。だまされないでください。
 
楽山とシャロームは、病的な自己愛からの、だまし好きであって、お話好きではありません。二人は、深い意味では、誰とも話が通じない者たちです。だから口数は多いでしょう。シャロームは、妄想からのベタ褒め讃美、楽山は、曖昧ボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語が特徴です。
 
・易坊さんはいつどや、stさんと楽山はさびしいんだと思うとか、友達を欲しがってるとかそんなふうなことを言ってて、私はいまいちピンとこなかったのであるが、今はstさんはそういうところはあるように思う。
 
実に、余計なお世話であり、同情とは全く別の、楽山の軽蔑のやり方でしょう。シャロームもそのような同情めいたことを言うことがありますが、結局、自分を高みにおいて、相手を哀れで未熟な者として下に見ることが目的です。
 
つまり、さびしいんだ、友達を欲しがっているんだ、という決めつけは、それだけ、相手にされない哀れなやつ、という、おとしめに他なりません。楽山は、今回も、婉曲的に、持ち前の嫌らしさを出してきました。
 
相手を、低く見なすための、一種の常套手段なのです。同情の言葉など通用しない状況でも言ってくることで、バレる嘘なのです。上から見下ろすことばかり考えて、ふつうに思いやることの出来ない、というシャロームと楽山の特徴で、ゆえに、一人による成りすましを疑っています。
 
二人とも、相手を低く見て、シャロームは教師として教えようとし、楽山は注意・忠告のような書き方をしてきますが、そういう上からの話は無礼だから控えるべきなのに、自分を見ることが出来ないために、分からないのです。親切ごかし、そして、偽善です。
 
話し合いをする上で、平等だという大事なことが分からない二人なのです。決して二人と話し合ってはいけないと思います。付き合い続ければ、異常・病気が体質として刷り込まれる可能性が高いです。自分を見ないゆえに反省せず、ゆえに他者の気持ちが全く分からない自己中なのです。
 
shalomさんと私が話をしてると、強引に割り込んできたし、人は人、自分は自分という風に、他に過干渉することもされることも回避する考え方に、猛烈に反発するのはそのせいかなと。
人恋しい人が、スルー推奨という考え方に賛同するわけもなかろと。
 
コメント欄では、そういうことはあるわけだから、それを異常と思うことが、むしろ異常です。答えられないものだから、今、いちゃもんを付けているだけです。私は、人恋しくても、楽山とシャロームに、それを向けることなどあり得ません。
 
スルーということで言えば、二人は、都合の悪いことを、スルーといって無視します。自分の都合の良いことだけを発言し、注意・批判をスルーするなら、交流も議論も成り立ちようがありません。
 
こういうことさえ、理解しないのが、楽山とシャロームなのです。都合の良いことだけ言って、都合の良い世辞しか受け入れないような相手と、いったい誰が交流し議論できるというのでしょう。
 
人は人、自分は自分、というのは、人格として独り立ちしていて、それぞれに、責任感のある人間同士に成り立ちます。楽山とシャロームは、人の気持ちも、人の迷惑も、何も考えてない者たちです。今回も、一方的主張で、私をおとしめています。それが、自己愛性人格障害という病気なのです。
 
・そんなこんなで、私の立ち位置は少しずつshalomさん寄りになって行ったのではあるが、私が、過干渉はよくない、人は人、自分は自分、人それぞれをよしとする記事を出したことが決定的となったようで、以降、私はstさんから、shalomさんと同軸だと判定され、批判対象とされるに至った。
 
楽山の宣伝と詭弁に合うような「そんな」も「こんな」もありません。人それぞれを、自己中正当化に使うのは、シャロームも楽山も、同じです。楽山やシャロームと荒らしの易坊を易坊類と呼んでいますが、一人による成りすましではないかという疑いがあります。
 
自己中心、無反省、無責任、訂正不能、罪悪感と羞恥心の欠如、災いを人のせいにする、人の言うことは聞かない、だけど言いたいことは言う、という点において、楽山とシャロームの二人は共通しており、同軸であります。ゆえに、許容してはいけない言論の妨害者です。
 
それ以降は、私もshalomさんと同じく、やることなすこと全否定されることになった。
ただstさんの楽山批判は、自分の見た範囲でいうと、私の意見を曲解、歪曲したうえで非難したり、私の内面を邪推したうえでボロクソ貶したりで、私怨まる出しで読むに堪えないものばかりだった。
 
全否定に相当することをしてきたのは楽山であります。批判に対して、反論も弁明も成り立ったことがありません。まるで根拠がなく反省が見られません。楽山の災いは、ずっと書いてきました。それでも、ここでも、記事を書き、正常人のように振る舞う楽山の、もはや腐敗臭です。
 
楽山の記事について、私の批判が曲解・歪曲であるという根拠と例示などを上げての説明を、楽山は、一切していません。何を、勝手にまとめて、根拠もなく、言っているのでしょう。それも、言い逃れであり、無根拠の誹謗中傷以外、何も出来ないことの証しです。
 
楽山の文章は、ストレートな批判より、さらに罵詈雑言よりも、はるかに質(たち)の悪い、当てつけと嫌がらせで出来ています。そこが分からない楽山だから、丁寧に書いておけばよいという気安さで、人を侮辱しているのです。
 
ボロクソ節の豪語は、シャロームの得意技です。私怨ではなく、社会悪につながる危険があるから、批判し、二人のことを広く知らせる必要があるのです。極めて偏った人格の二人です。丁寧語に騙されないでください。
 
stさんのshalom批判を見てるときは、stさんの文章をここまで酷いとは思わなかったけど、こういうのは自分が批判対象になると、どこが曲解、歪曲、邪推かよくわかるし、その酷さをはっきり認識できるもののようだ。そういうわけで、今は前以上に、shalomさんに同情しているし、当初はshalomさんに批判的で厳しすぎたようで申し訳なく思う。
 
酷さを認識できるなら、根拠を説明できるはずですが、楽山は、まともな理路を組み立てることが出来ないので、根拠を示せず、このように、決めつけて文句を言うだけになっています。つまり、どこまでも、ストレートではなく、とても汚いということです。
 
そして、「酷さをはっきり認識できるもののようだ」と書いていることに注目してください。「はっきり」と言いながら、「もののようだ」と、やわらげて、あとで、断定していないから責任問題は発生しない、などと言うのが楽山です。楽山のボンヤリ言語と呼んでいます。
 
これが、恐らく体質的な人格の異常からの作為と悪意の誘導であり、結論であり、ずっと訂正不能であり、ときに悪口の機関銃みたいに書いてくる楽山の正体なのです。一切、根拠が示されていません。一見、分析しているふりの丁寧語にだまされないでください。
 
楽山から見て、酷くない文章というのは、楽山の文章なのでしょう。しかし、私から見れば、楽山の文章は、自らの人格破壊を表し、他者に人格破壊をもたらすだけの劣悪な文章です。真摯な中身が何もないような楽山の文章は、気取っているだけのイカサマの粗悪品なのです。
 
批判というものは、自分に向けられたとき、不当に思われ、被害的、他罰的になりやすいものです。そこを自覚し反省し克服できる人が、真実の追求に向いています。楽山の言っていることは、真逆であり、楽山の好む議論?は、空っぽの世辞の世界でしかありません。
 
楽山は、自分が批判対象になって、ますます、その反応に理解力のなさが目立ってきています。今回の記事も、最近の記事も、それを表しています。省みる姿勢が何も感じられません。特徴的な丁寧語によるボロクソ節を言うことに躍起になっている楽山です。
 
・以上、この件についての顛末はこのようなものである。
こんなことを書くと、ますます恨まれて粘着されるだろうことは予想されるけど、このようなことは何回も繰り返されてきたようだし、今後、面倒に巻き込まれる人が出ないように記事にしておいたつもりである。
もちろんこれは私から見た顛末であるし、相手には相手の言い分があるのだろうから、この問題に興味がある人は、相手方のブログも確認してみたらよいと思う。
 
楽山の理路は、相手のせいにし、相手を責める一方向に固定された前提から、駄々を捏ねているだけの子どもだましです。「粘着」するような魅力を、楽山は一切持っていません。楽山には、真実追求のテーマを扱うブログの世界に、いてはならない人です。
 
「相手には相手の言い分があるのだろう」という、相手の言い分を、受け取って、考えて、返すのではなく、上から否定し、悪口だけを並べてゆくのが、楽山・シャロームの議論?なのです。つまり、相手の言い分は勝手にあるだけで、受け取らないという無関心と無視を表すことになります。
 
楽山という面倒は、全く自覚のない粘着性の訂正不能の自己愛性の病質者ですから、誰も関わらないように、相手にしないように、近づかないように、心から願って、批判し続けています。
 
・ついでに、この件での教訓を書いとくと、
ネットストーカーとか、
他人を攻撃せずにはいられない人とか、
サイコパス、人格障害とか、
その手の知識は前もって知っておいた方がよいということ。
これ、ほんと、大事。
 
このように、気に入らない相手には、自分が言われそうな見なし、ネットストーカー、攻撃だけする人、サイコパス、人格障害、などと、逆に、決めつけてきます。自分が言われそうなことを何の根拠も示さないで相手に当てはめて、まともに返したつもりなのです。
 
思慮がないというか、結論だけというか、話にならない人です。こういうことが、ずっと続いてきたのです。楽山とシャロームに対して、善人芝居と詭弁と嘘という偽善の予備知識は「ほんと、大事」です。
 
しかし、この二人は、慣れているようですから、だまされないためには、相手にせず、関わらず、近づかないのが、いちばんでしょう。楽山は、本当に大事なことを全く知らないと思います。自分の決めつけや思い込みが災いだということを認識できないのです。
 
恐らく情緒面にも欠陥があり、冷静な理路を読み取り組み立てる判断も出来ないのだろうと思います。自己愛と自己中は、結局、本人の人格破壊をもたらします。現在進行中です。このことは、哀れではありますが、もともとの体質が、そうなのかもしれません。
 
少なくとも、私が関わってから、私がトホホ言語と呼んでいる反省芝居を時にするようになりましたが、一度も、真実味のある内省的なところを見せたことがないのです。つまり、その前と後で、何も変わらないので、芝居だとバレてしまいます。
 
やさしげで砕けた言い方に惑わされないでください。楽山は、自分が、上から目線という高慢な自己中体質に当てはまることを認めたくないから、逆に、そういう丁寧語で書いて、ごまかすしかないのです。楽山・シャロームの丁寧語は、悪と偽善をカムフラージュする処世術です。
 
よくも知識が必要などと言えたものです。楽山は、子供じみており、一方的で、自画自賛のインテリ気取りで、話の分からない駄々っ子なのです。かといって、やさしく接すれば、それだけ、思い込みを強くするだけでしょう。
 
楽山は、言葉を覚えるだけで、その意味も使い方も理路も分かっておらず、感性的享受もない人です。恐らく何ごとにも本気で感動したことはないと思います。言葉だけで、深みがありません。本を読んでも、都合のよい字面を探しては引用して、著者の見解を、恣意的に悪用してきました。
 
今までは、それで、だまされて受け容れてくれる人が多かったのでしょう。しかし、重大なテーマ、宗教、思想、人生などについて、楽山が語ることは、信頼できるものは何もないのです。決して、関わってはいけないと思います。
 
今回、楽山は、何を、だらだらと書いているのでしょう。あることないこと、ぶちまけて、私のせいにして、何が、よくなると思っているのでしょうか。憂さ晴らしと嫌がらせ以外の何ものでもない、いちゃもんと、ひねくれた一人前気取りの独り相撲に過ぎません。
 
私の批判対象は、今は、楽山とシャロームです。易坊はどうしているか知りません。ただ、3者の、一人による成りすましを疑っています。もっと多いかもしれません。
 
楽山は、今回、まとめて批判したつもりなのかもしれません。しかし、読んでみると、楽山が、いちゃもん、クレーム、文句、不平不満、という悪口だけで、正当な批判を、全然、区別できていないことが分かります。理路がなく、決めつけているだけです。
 
シャロームのような楽山のお仲間や、楽山やシャロームと仲良しで、既に、楽山のボンヤリ言語やシャロームの丁寧語に染まって、すっかり、二人を無条件で贔屓しているような人については、何を言っても無駄でしょう。恐らく、似たような、破壊された人間の様相を表すのでしょう。
 
しかし、楽山やシャロームとの関係を断つなら早いうちがいいです。致命的な影響を受けないうちに、染まることのないように、冷静に、楽山から、離れてください。そして、二度と関わらないようにしてください。二人は、自分が何者か、まるで分かっていないのです。
 
私は、誰でも批判しているわけではない、という事実が、楽山がだらだら書いた長文を、全部、否定しているのですが、この二人だけは、それが分からないのでしょう。特別に悪質な二人であり、ふつうを装っても、結局、バレてゆく宿命を感じます。
 
シャロームの丁寧語や楽山のボンヤリ言語を聞くと、吐き気を催すようになっています。もう殆ど、生理的に、感知している悪意なのです。今回の楽山の記事で、楽山は、何か弁明か、批判返しをしたつもりなのでしょうか。全く理路がなくて、じめじめした陰湿な悪口だけになっています。
 
楽山は、文章の歯切れが悪く、掘り下げることが出来ず、判断することも出来ず、わざとらしい砕けた言い方で、柔和に見せかけて、ごまかしていますが、受けを狙って、わざとらしく、さらに陰気になってゆきます。
 
今回の楽山の文章に賛同する人は、かなり、自我の弱い人で、それこそ、楽山に騙(だま)されている御ひいき筋ということになるでしょう。楽山に影響されて、楽山と同じように、言葉の組み立ては出来ないのに執拗にねちねちと文句だけを言うような人には、ならないでほしいです。
 
そして、今後は、楽山の文章こそが、ブーメランのように、被害的で他罰的な精神が固定されて訂正不能になっている楽山を、逆に否定してゆくのです。そこには、楽山の異常性の証拠が、前にも増して、積まれてゆくでしょう。
 
自己中心が招く人格破壊は進行性です。シャロームにおいては、既に、如実に表れてきました。楽山が、正直であろうとするなら、間違っていたことを認めることから始める以外ないのです。正直とは、そういうことです。いくら、言葉面を、よさそうに、まとめても、無駄なのです。
 
 
問題は、楽山とシャロームなどの小さい二つの異常な個人カルト思想屋も、ひょっとしたら、大きなカルトと関係があるかもしれないということです。その辺は、なかなかネットでは分からないところです。同一人物の成りすましを疑っても、ネットでは証明できません。
 
気味の悪いのは、楽山とシャロームが、示し合わせたかのように、同調していることです。一人による成りすましも疑われますが、今のところ、主張内容の異常さは明らかでも、どういう関係で繋がっているのかまでは分かりません。
 
楽山とシャロームが、個人カルトに留まるのか、ゆくゆく社会問題となるのか、既に、大きな組織のメンバーなのか、そういったところも見てゆかねばなりません。この辺が、個人が批判してゆく限界なのかもしれません。
 
 
破滅の刃

破滅の刃
 
 
(2019年11月23日、同日一部修正)
(2020年11月29日、加筆して再録)
(2021年12月08日、再録+)
 
 
 
  測れない
 
測れない遠くで
破滅しているようなのは
こだまさえしているようなのは
ほんの少しの行き違いで
想い出に成り得なかったシーンが
しずかに自壊してゆくのでしょうか
ちょっとした選択の違いで
あり得なくなった未来の一コマが
消え去ってゆくのでしょうか
今破れるもの
今滅びるもの
今壊れるもの
今消えるものにさえ
気づきもしないでいて
気づくはずのないものが
最後の別れを告げるように
遠くで
でも測れない
ひょっとしたらすぐ近くで
名残を惜しんでいるのかな
もし少しでも手を振ってくれたら
ちぎれるほど手を振って返して
唇をかみしめたまま
そのまま果てても構わないのに
そのまま屍のように生きても構わないのに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。これほど、自らに危機意識のない人は珍しいのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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  復讐?告白?2
 
   「彼に神の救いなどあるものか」 (詩編3)
    楽山のブログ記事を改めて批判。
 
 
シャロームがしてきたことと同じような聖句の悪用です。都合の良いところだけ利用・悪用するのです。
 
ただ、終わりのほうで、楽山は、罪を認めるような発言をしています。罪の告白は、キリスト信仰において、重要な意味を持ちます。一般的にも、罪を認めるのと認めないのとは、判断において軽くはないはずです。どうなのでしょう。
 
また、罪についての重要な発言をしながら、それも嘘であったなら、もはや、神の前にも、人の前にも、誠実さは皆無ということです。だから、私は、より慎重が上にも慎重に、その実質があるかどうかを考えなければなりません。
 
そして、その後、罪の自覚は、皆無であると判断しています。つまり、嘘吐きが、嘘を吐いたということです。楽山は、本気で語る、ということが出来ない人だろうと思います。楽山を動かしているのは、真実への欲求ではなく、超常趣味かインテリ気取りの自己顕示欲だけのようです。
 
主よ、わたしを苦しめる者は
どこまで増えるのでしょうか。
多くの者がわたしに立ち向かい
多くの者がわたしに言います
「彼に神の救いなどあるものか」と。
(詩編3:2-3)
 
楽山は、この聖句で、そのまま、神の救いなど無い、と言いたいのでしょう。
 
詩篇3:2は、以下のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
3:2
「彼には神の助けがない」と、
わたしについて言う者が多いのです。
3:3
しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、
わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
 (詩篇3:2-3、旧約聖書) 
 
楽山は、この聖句で、そのまま、神の救いなど無い、と言いたいのでしょうか。
 
ダビデ王が書いたとも言われる詩篇ですが、楽山はシャロームに酷似しています。批判されると、自分はこんなに苦しめられている、敵を滅ぼしてください、という聖句を並べてきました。
 
同じ体質を持っていることから、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、荒らしの易坊は、一人による成りすましではないかと疑っています。無反省の被害者気取りです。楽山は、芝居が好きのようです。ゆえに、わざとらしい対話形式の記事も書いてきました。
 
楽山が神の救いを信じているはずはないです。神を信じていたら、あるいは、最低限の謙虚さえ持っていたら、今までの私の批判もなかったわけです。真実に背くほうを選んだ人だと思います。高等な知性と感性も、そこからの、反省力や後悔の念や責任感も見られません。
 
キリスト者でもないのに、聖句を当ててきました。批判に対しても、反省はなく、弁明も反論もないのに、聖句を引用することは、キリストとキリスト者への嘲笑いと怒りしかなく、聖書を恐ろしく軽く扱っている自分を表しているようなものです。
 
聖書で、神の復讐を願う聖句として、適当に選んできたようですが、その心を理解しないまま、被害者気取りしか持たない自分によかれと悪用しているだけでしょう。詩篇3章という、はじめのほうというのも、手っ取り早いから選んだだけでしょう。
 
知らない土俵で相撲を取ることを企むと、こうなるのです。前に、根拠もなくシャロームの味方をしたときのように。キリスト教を知りもないのに、興味本位で、関わろうとするのは、宗教も分かっているという高慢な自己愛の証拠なのです。
 
怒らせて感情的になったら、こっちのものとでも、楽山は思っていたのでしょうか。
この聖句は、楽山に当てはまります。偽りを慕い求め、悩みを与える加害者として。
 
 (詩篇、口語訳)
4:1
わたしの義を助け守られる神よ、
わたしが呼ばわる時、お答えください。
あなたはわたしが悩んでいた時、
わたしをくつろがせてくださいました。
わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
4:2
人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。
いつまでむなしい言葉を愛し、
偽りを慕い求めるのか。
 (詩篇4:1-2、旧約聖書)
 
ボンヤリ言語、ほのめかし、刷り込み、など、虚しい偽りの言葉しか言わない楽山に対して、当てはまると思います。妄想讃美の説教者のシャロームにも当てはまります。偽りの快楽だけを追い求めているので、不都合な本音をひたすら隠しているのです。
 
宗教関連の議論をしていると、
「彼は救われないだろう」
「彼は地獄に堕ちるだろう」
などと言う人がいるけど、
この詩を読むと、
そういうことを言う人は、
何千年も前から、いたようだ。
ということは、
こういう人たちは、
何千年経っても、
ずっと居続けるんだろうな。
 
あまりに、偽善性が酷い場合は、このままでは・・という推測から、言ってもいいのです。もちろん、先のことは、神のみぞ知ることで、人には分からないのですが、とても、救われるような人ではないと思っているわけです。
 
故意としか思えないような、偽り、偽善、隠蔽、偽装、改ざん、嘘、妄想、などが、ひどいシャロームと楽山なのです。ボンヤリ言語で書く楽山の記事は、ほぼ全部が芝居だと思っています。今の時点で、そう判断するしかないからです。
 
批判は、不正を指摘することです。だから、高慢、不遜、妄想的確信、訂正不能、など、信仰から、あまりに外れたことを言う人には、外れていると言いますし、キリスト者ではないとも相応しくないとも言います。
 
批判などの指摘によっても、反省しないため、反応する側の批判される態度・姿勢が変わらないで、相手が嫌になるようなことばかり書いてくるのは、偽善者やカルトの、一つの特徴です。いつも、人を下に見ているから、常に尊大で、それを隠すことはあっても、改めることはないのです。
 
でも、
人のことを
とやかく言っても仕方ないかな。
 
今まで、散々、呪いのように、とやかく言った後で、これを書くのは、冷静を装って柔和に見せかけるためです。普通、批判されたら、弁明し反論をするか、わけを聞いてくるか、投稿を控えるはずです。楽山、シャロームは、弁明も反論もできないので、婉曲的な当てつけをしてきます。
 
つまり、楽山の言説には、一貫した理路も情緒もないということです。言い換えれば、発言が、一方的で、かつ、その時その場の自分の都合によって、変わります。こういう人は、信用できませんし、こういう人を相手にしてはいけないのです。
 
まずは自分自身が、
人をむやみに裁いたり、
神の心を分かったつもりになって、
神は誰を救い、誰を救わない
などと言ったりしないように、
気をつけよう。
 
言ったりしないように気をつけるよりも、言われないように気をつけるべきです。宗教には、偽者やカルトが、付きまといます。無条件に、言わないようにしようと言う者は、大方言われている者であり、言われる理由がある者なのです。今まで、ずっとそうでした。
 
どうか、この、楽山という自己愛・自己中のペテン師に近づかないでください。今までのことから、性根から腐っているとしか思えません。だから、どんな善の芝居もするでしょう。そういう者を偽善者と言い、楽山は典型なのです。
 
ていうか、
考えてみれば、
自分も宗教にハマっているときに、
人に対して、「地獄行きだな」と言ったことがあったのだった。
自分はこのことはすっかり忘れていたのだが、
ずいぶん経ってから、当人から、次のようなことを言われて思い出した。
「ずっと前に、おまえから、地獄に堕ちると言われたことがあった。
あの時は、ぶんなぐってやろうと思ったぞ」
 
「ていうか」と若者を装っていますが、そんなに若くはないと思っています。
 
この話・・本当でしょうか。これも、芝居ではないでしょうか。不都合を無視する楽山です。ただ、何かを言って、それを、反省も訂正もしないだろうから、そのために怒りを買うことは、あるかもしれません。
 
シャロームは、最近の記事で、私のコメントを承認しないまま、他の人とは、丁寧語で返していました。その嘘吐きで隠蔽魔で削除魔のシャロームに、理路を弁えないで無条件に味方をしたのは楽山です。それ以降・・発言の信頼度はゼロになっているということです。
 
これは今、思い出しても恥ずかしくてたまらない。
胸がどきどきして苦しくなって、ご飯が食べられなくなるくらいの恥ずかしい。
恐らくは、この他にも、自分で犯していながら忘れてしまっている罪はたくさんあるだろうし、
ひたすら反省である…。
 
「恥ずかしく」「苦しく」「ひたすら反省」「自分で犯していながら忘れてしまっている罪はたくさんあるだろう」「ひたすら反省」、・・総て芝居だと思います。根拠は、芝居がかっている、ということと、言葉だけ言ってみても、今まで、これらに相当する心が表れたことはないからです。
 
今回、楽山が、この記事を書いたのは、前の記事を私が批判しているからでしょう。受けを一足飛びに、よくして、善人ぶる必要があったのでしょう。そういう理由と因果があります。
 
笑いと怒りしか感じない、その体質だけが今までの記事に表れてきた、楽山とシャロームは、書く記事も、上からの嘲りが怒りの裏返しになった大仰なものです。この辺も、シャロームの讃美口調に、よく似ています。
 
それに、「ご飯が食べられなくなるくらい恥ずかしい」そして、罪を認めるような話で、罪を認めているなら、今までにも、そういう話が出てきているはずです。それに、ボンヤリ言語による暗示の刷り込みをする必要など全くないのです。
 
人間にとって、罪や失敗のたぐいは、大小含めると、稀ではありません。今になって、山盛りの形容といっしょに、どどっと書いてくることこそ、怪しいと思わざるを得ません。
 
今さら、言葉だけ、謙虚を装っても、実質がないのです。芝居がかった、わざとらしさ以外、ずっと、私が見る限り、どこにも謙虚さは書かれていなかったのです。その体質から、急ごしらえのフィクションと受け狙いの芝居ではないかと思います。狼と少年に似ています。
 
例えば、シャローム、楽山が、悲しくて泣くシーンを想像できません。悲しくて沈んでいるシーンも想像できません。ずっと、人を食っている態度だったからです。私は、それで、批判を始めて、かつ、続けているのです。
 
つまり、心を痛めて、胸がドキドキ、ご飯が食べられない、などということとは無縁の尊大さを、示してきたのが、シャローム、楽山、易坊なのです。形容・修飾が多ければ、真実味が増すとは限らない例でしょう。
 
さらに、今回批判するために見てみると、末尾に、前は、わざとらしく「とほほ。」と書いてあったのを、「…。」に書き換えたようです。
 
とはいえ、以上は、もう一度言いますが、今までの経過を根拠とした推測です。弁明と反論をするかどうかは、楽山が決めることです。ただ、一時しのぎだと判断されたときには、今まで以上に、より巧妙で悪質な嘘を吐いた、という証拠になります。
 
楽山は、「罪はたくさんあるだろう」という罪を認める発言、これは、信仰の告白とは違って、今までにも、嘘として表れてきたことです。信仰にも良心にもよらずに、赦される必要を、あざ笑っているのです。真に受けないでください。楽山は、嘘を吐き過ぎました。
 
 
さまよう怨念

さまよう怨念
 
 
(2019年06月25日、同日一部修正)
(2021年10月05日、再録+)
 
 
 
  千巌山
 
昨日癒えた傷が
今日はまた開いて血がにじんでいる
 
千巌山へは永遠に行けないと思ってしまう
展望台の壁に書かれた落書きは
どこの老人会だったか
 
血の味は知っている
臭いに近い味だ
血が命の流れなら
今味わっている血は既に死んでいるのか
 
高い山ではない
車を降りてしばらく歩く
頂上付近が吹きさらしの
岩山になっている
来た人は皆吸い込まれていく
目をやられるのだ
 
自転車に撥ねられること数回
鼻血は数知れず
予感がすると必ず出てきた
運動場の隅の日陰で
子供のころ恨めしげに見ていたのは
 
松の木と岩
レストランも何もない
小さい展望台は
こぞって押しかけるには狭すぎる
 
群衆を拒む岩場の狭さから
天草五橋が全部見えるほどの広さに
視界を空や海に入れて
うっかり見渡せば
魂を置き忘れてしまうのだ
誰も景色になれない
 
抜いたはずの歯に
かけらか何か残っていたらしい
歯を磨いて歯肉をこすって
血まみれになった口内から
うがいをして吐き出せば
命を奪われた血の海が
渦を巻いて吸い込まれてゆく
 
この世の果て
 
以来
命を持って流れる血を見たことがない
 
 
  耐えてひるまず
 
虐げられたという怒りの前に
なだめるように墓標は立つでしょう
虐げたことは一度もないと言えますか
 
そして哀しげに見回すでしょう
恨みを晴らしたいのですか
それとも不正をただしたいのですか
恨みを晴らしたいのなら
怒りに身をゆだねるのが早くたやすいこと
 
しかしもし不正をただしたいのなら
いかなる闘いにおいても
人が人を切ることの恐れと罪を知り
できるかぎりの義を足場とするべきでしょう
 
怒りは怒りを生むだけだから
いかなる不幸を前にしても
最後まで耐え忍ぶべきことがあるはずです
あらゆる理不尽と不正と
差別と犯罪に対して闘うことを
勇気と呼ぶために
 
主イエスは言われました
「心の柔和な者は幸いである」
そして命を賭した柔和さを示されました
 
この身はたとえ死の谷を歩もうとも
墓標の石板に
それら勇者の名は刻まれる
人には悲しい戒めのように
 
ディスクリミネーション
クライム
耐えてひるまず
 
 
 
 
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