ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:スピリチュアル

 
  さかのぼる矛盾3+
 
 さかのぼる矛盾
 再録+
 
 
いたはずの先祖から
幾千年の恨みの坂を
今をさかのぼり
いずれ上らねばならぬ
 
経験は否定できない
個人にとっては真実になりうる
経験から与えられ考えたことは否定できない
しかしあまりに
出る杭は打たれて
マイナスの経験が繰り返されると
あらゆるものから身を引くことが真実になってくる
信じて待ち望むことが罪に思われてくる
御国に至ることも辞退すべきではないのか
 
母は恵方巻きを買ってきた
母と私で2本ずつ
恵方ってどこにあるんだろう
恵方に辿り着く確信があるわけでもなく
母は縁起を担ぐ
担いでおかないと不安な気分になるのだろう
母は南のほうを向いて弱った顎で
ぉんぐぉんぐと食らいつく
のどに詰まらせはせぬかと母を気にかけながら
私はむしゃむしゃと食卓でむさぼる
 
恵方というか
御国に辿り着かせてくださいと
祈ることも傲慢に思えてきて
この世の生が苦痛とともに
早く終わりますようにと
祈る先に神はいないかもしれないが
神は的外れの罪の祈りを聞いておられることを
神ゆえに人がいて
人ゆえに神がいることを
諦めきれずに
大いに矛盾して
否定できない経験と
大いに矛盾して
呂律(ろれつ)の回らぬ祈り
 
とても運が悪く階段のように
道を逸れてゆく阿弥陀クジなのかもしれない
 
主よ
私はそんなに良い人間ではありません
 
先祖を裏切り
父を裏切り
母を裏切り
人を裏切り
自らの矛盾をさらに裏切り
 
唇を切れるほど噛みしめながら
一歩一歩
絡みつく情の杭と
曲がった知の釘を
怒気の足裏に踏みひしぎ
幾千年の坂を上る
 
(2011年02月04日)
(2020年03月21日、一部修正)
 
※ 母は、今、介護付き老人ホームにいます。
 
 
  宿命と使命
 
 
幾千年の坂など
上れるわけもないのに
 
上る宿命を感じている
 
その坂以外に道はないかのように
 
引かれるような
引き裂かれるような
 
私は母に似ているがコピーではない
私は父に似ているがコピーではない
という当たり前のことなのだが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みであるかのような
血の筋の末端に居て
 
否定できないものが
私を縛るだけでなく
私を導いているのかもしれない
 
神はご存知であるが
私は何も知らない
 
罪の系譜
病の系譜
 
私がどうやって
福音の系譜にいるかと言えば
 
もし信仰がなくて
福音の系譜にいなければ
今、生きてはいないだろう
という否定の否定でしかないが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みの
それこそ父よりも母よりも
神に信頼しようとするのは
 
父と母の性格の中で
良くないものを私は既に持っていて
良いものを持っているかは不明であり
そこから逃れたい気持ちでもあったのか
 
神への全面的な信頼は
父への母への
他者へのそして自分への
全面的な信頼を否定し
依存を否定したいのか
 
しかし
そういう既知と不明からの自由や
コピーではない自由よりも
否定よりも否定の否定よりも大切なことは
 
他者よりも自分よりも大きな存在の命のもとで
地上における自我の必死と必滅の理(ことわり)よりも
神の存在ゆえに
人のわざの絶対を否定したのちには
人のわざの相対を生かすことだろう
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを好むからだ
 
 
さかのぼる矛盾

さかのぼる矛盾
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
渡辺みき四つ葉のクローバー@統一教会二世
@poo88888888
信仰の強制は虐待です。
【スピリチュアルアビュース】を広めたい。
小さい頃からこれが当たり前だと思ってた。
私たち、なんも悪くないよね。
親は間違ってたの?私は神の子なの?私は誰?
「異質」な私達を放置してきた日本社会が憎い。でもそれもきっと、この国ではしょうがないことなんだ。
 」
午後9:57 · 2021年4月26日·Twitter for iPhone
 
信仰はいやだが、スピリチュアルはいい、楽山の好みそうなツイートです。真面目に信仰を学ぶ気がなく、勝手にスピリチュアルを気取りたいからでしょう。こういうツイートを、字面だけ利用~悪用するのが、楽山の体質的な特徴のようです。
 
楽山は神の子?であるわけがないのは、ブログでもツイッターでも、底の浅いゴシップや、いちゃもんしか言えないような、つまらない人だということだけが表れてきたからです。
 
楽山の異質性は、高等感情の感受性がない、思慮が小学生のように拙劣である、反省し学習し成長することがない、などといった経過に表れてきました。
 
楽山は、罪悪感がなく、全く非を認めることがないので、いつまでもいつまでも、同じことをして、同じケチをつけて、同じスピリチュアル気取りでいられるのです。正常な人なら、目から火が出そうなほど、恥ずかしくなるところでも、笑っていられる異常性です。
 
一つには、文章の読解が殆どできないからかもしれません。あるいは、鈍麻した感受性と感情によって、批判されても、何も感じず、馬耳東風でいられるのかもしれません。ひょっとしてこの楽山の自己中は、スーパー・エクストラ・アドラー心理学的カルトなのでしょうか。
 
 
(2020年03月)
(2021年04月29日、再録)
 
 
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  楽山のトンデモとインチキ
 
 『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著
 2021年04月18日
 
 
(ネットより)
鹿嶋 春平太(かしま しゅんぺいた、1941年 - )は、日本の経済学者、宗教社会学者。明治学院大学名誉教授。本名・肥田日出生。 1965年慶應義塾大学経済学部卒業。71年同大学院商学研究科博士課程単位取得退学、明治学院大学経済学部専任講師。74年助教授。80年教授。日本広告学会賞を二度受賞。聖書研究家として鹿嶋の名を用いる。2011年定年退任。
 
楽山は、キリスト教と信仰をおとしめるために、インチキ本を勧めています。トンデモ本は、なぜ、インチキなのかと言えば、聖書を面白おかしい話に落として、信仰による救いを損なうからです。
 
批判に答えられず、いかなる弁明も詭弁で、自己愛性人格障害の病質が明らかになってきて、もはや、ケダモノの荒い鼻息のように、開き直って手段を選ばず、侮辱の悪魔性に没頭する楽山です。
 
タイトルから聖書入門だと思って本書を読んでみたのだが、スピリチュアリズム的な考え方が多く紹介されていて意表を突かれた思いである。その例を上げるとするならば、まず著者はイエスの教えについて次のように記している。
イエスの教えようとするのは、徹頭徹尾「霊界の真理」です。
(『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著、新潮社、1996年、p.81)
 」
 
霊界に心を奪われると、楽山のように、現実が見えなくなり、言動は狂い出し、言うことが変になり、あげくに、詭弁と嘘ばかりになって、さらに、開き直って、人に化けた幽霊が、本当の顔を表すように、みすぼらしく醜い素顔をさらすことになります。
 
イエスの教える真理は、霊界の真理です。そして霊界は人間には見えないから、見える物質界にたとえて話しているにすぎないことになっています。
(同上、p.230)
 」
宗教教義は霊界理論であり、宗教的に考えるのは霊界的に考えることであるともいう。
 
キリストの教えが霊界の真理だけならば、信仰に生かされる人はいないはずです。実際は、霊界に溺れた楽山のような人が、救われない者の醜態を、悲惨な例として晒しています。
 
宗教形而上学理論の中心は霊界理論です。だから、宗教思考に導かれるというのは、霊界思考に入ることをも意味しています。
(同上、p.301)
 」
信仰とは神と波動を合わせることであり、それができれば神のエネルギーに満たされるという。
 
霊界思考に生きている楽山を見てください。これほど醜い人はいません。"神と波動を合わせる" などと言い出したら、おしまいなのです。
 
宗教と信仰について考えることは、人間について考えることです。それを、止めてしまった楽山は、もはや、人間らしい思考が何も出来なくなり、ただ、過大な自尊のために、歯をむき出して、臭い息を吐いて、よだれを垂らして、復讐を企んでいるのです。つまり、人間ではなくなるのです。
 
バイブルにおける「信仰」とは、物理的イメージで言えば想像霊の意識波動に自己の意識波動を協和させることです。そして、それが一定以上に実現されると、神の力(栄光)は、その信仰を通して発揮される、というのが基本思想です。
(同上、p.251)
(*注 「想像霊」は「創造霊」の誤植と思われるが、ここでは引用元そのママにしておく)
 」
 
心の欠片もない言い分が続いています。信仰の物理的イメージだそうです。信仰に、人に分かる物理はありません。比喩としては拙劣すぎます。神の基本思想?などと言われて、それを悦ぶ楽山は、あらゆる人間の道から、人間の理解から、遠くなった報いを、今、受けています。
 
神もまた霊ですから、相応の意識をもっています。そして同時にそこからは「いのち」エネルギーが放射されています。それを自らの霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要、という図式なのです。不協和なら、浸透しないことになっています。
(同上、p.75)
 」
 
神を対象にして、相応の意識を持っている、などと言える人間はいません。命は、エネルギーと同等に物理で論じることは出来ません。神は、人の論理の対象にはなりません。
 
「霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要」「不協和なら、浸透しないことになっています」・・どういう捏造の霊界物語なのでしょう。学ぶことに怠慢な者が、でっち上げで、自分は分かるんだ、自分は特別なんだ、などと吹聴してくる特徴は、楽山に顕著であります。
 
宗教から、お伽噺に、空疎な造語と豪語に、そして、果ては、インチキ占い師に堕して、最後は、路地裏の屍になるか、刑務所で一生を終えるのではないかと思います。
 
聖書の記述…「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」(コリント二 12.2)については、次のように説明している。 
これは今日の心霊科学でいうと「幽体離脱」ですね。
(同上、p.74)
 」
本書は、日本的なキリスト教理解の問題点を指摘し、その一例として遠藤周作、曽野綾子、三浦綾子の作品の難点を指摘するなど興味深い箇所もあり、学ぶべきところは多々ある。
 
楽山は、自分は特別だと言いたいだけで、何も学んでいません。楽山が、ここに引用したかぎりでは、何も学ぶところのないインチキだと思います。その傲慢ぶりは、楽山に見られる訂正不能の霊の引き寄せ妄想と、それこそ、同じ波長を持っているのでしょう。
 
こういうことでしたか。楽山が、名のある小説家を、軒並み侮辱してきたのは、こういうベースがあったからでしょう。知が足りず情が曲がった者の意は、単純に、人間らしい知情意への復讐だということが分かります。もはや、既に、滅びているのです。誰も関わってはいけません。
 
けれども上のことからすると、これは一般的な意味での「聖書入門」というよりは、「スピリチュアリズム的解釈による聖書入門」とすべきではなかろうか。アマゾンのレビューでもこういう特殊さを指摘しているものがあった。スピリチュアリズムに馴染みのある人であれば本書の聖書読解に共感し信じる人も多いかもしれないが、一般の人は本書を読む際にはこの点について注意が必要ではある。
 
人間が、神の霊、即ち、聖霊を、いくら考えても、そのスピリチュアルは、如来の掌から逃れられない孫悟空のようなものです。
 
霊能者気取りが、魔人気取りと、肩を並べて、首を並べて、断頭台に座っているようなものです。決して、影響を受けてはいけません。神に対して人間としての身の程を弁えない者は、ここまで来るという例なのです。
 
楽山の霊性は、腐った料理にたかる蝿のようなものです。楽山の息は、できるだけ多くの人々を、伝染性の、人でなしウイルスに感染させることでしょう。
 
霊と超常は、神に任されるべきものです。それを、人が云々するのは、神のごとき自らを自慢したいからに他なりません。言論と真実への冒涜です。
 
(ネットより)
アマゾンカスタマーレビュー
偏っているからダメと断ずるつもりはありません。こういう本は、特定宗教団体や特定出版社から数多く出ています。これが好きな人もいるかも知れません。ただ、一般読者向けの「聖書入門」としてはあまりにも独断的で水準も低いというだけです。星二つは、その「トンデモ本」度に敬意を表したものです。
 
とても勝手な「トンデモ本」に敬意を表すのでしょうか。それとも皮肉でしょうか。楽山は、同じように敬意を欲しがっていますが、楽山という自己愛性人格障害には、いかなる癒しも、つける薬も、讃える名前もないのです。
 
 
獣性・叫喚

獣性の叫喚
 
 
(2021年04月19日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の心無い芝居
 
 「鬼滅の刃」と「スピリチュアリズム」
 2021年02月28日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の精神年齢の低さが表れています。
 
「鬼滅の刃」を通読してみた。その基本設定は予想以上にスピリチュアリズムと重なるところが多かった。
 
「鬼滅の刃」 → スピリチュアリズム の流れで、宗教・信仰を語って現実離れしてきた楽山を信用しないでください。人生を趣味で片づけようとする者です。
 
たとえば、この辺り。
人は生まれ変わる。
人は単身で生まれ変わるのでなく、ソウルメイトがいる。
 
生まれ変わりとは、既に、話が超常のことになっています。一方、楽山は、心・精神の生まれ変わりであるところの、魂の奇跡を、何も考えることが出来ません。そういう記事を書けない楽山です。
 
利他的な生き方の推奨。
感謝の大切さ。
 
どこでも聞かれる当たり前の倫理・道徳です。これで、楽山は何を確認するのでしょうか。総て、楽山が裏切って、悪用してきたことです。楽山の白々しさに、背筋が寒くなります。
 
>非難、難詰では、人は変わらない。怒り、自己正当化を生むばかり。
 
批判を非難していますが、反省しない者は、何を言われても変わらず悪と偽善に走る、ということが、まさに、楽山を通して実証されてきたのです。
 
楽山のような偽善者は、「自己正当化」のように、自分が言われたこと、言われそうなことを、わざと書いてきます。何度も書いてきます。
 
この記事も、今までの記事も、楽山の自己正当化→誇大化が動機であります。それだけを言ってきたようなものです。楽山は、人のことなどには、何の関心もない男だと判断しています。きれいごとを並べれば、人は騙されてくれると思って、舐めきっているのでしょう。
 
良心を持たない者は、やさしい言葉でも、批判でも、変わらないでしょう。だから、誰も近づかないようにと、私は批判を書いて、資料としてゆくしかありません。
 
人は、やさしさ(愛)によってこそ変わる。
圧倒的な善意(愛)には誰も抗うことはできない。
 
優しさ芝居で、人の優しさを利用して、悪意と偽善を企んできたのが、楽山です。圧倒的な愛について、楽山が語るのは、犯罪人がニヤニヤ笑いながら説教をするようなものです。
 
(ネットより)
難詰(読み)ナンキツ
[名](スル)手きびしく非難すること。きびしく問いつめること。「不注意を難詰する」
 
自らの罪を悔い、反省をはじめると、守護する霊の姿を見、その声を聞くようになる。
 
自らの罪を悔いず、反省もせず、霊が分かるっぽい気でいるのが、楽山であります。とうとう幻聴も始まったのでしょうか。善には善の種が、信仰には信仰の種が必要です。切っ掛けとなる体験のことですが、楽山には、自らを偉く見せるような、でっち上げの体験と、だまし言葉があるだけなのです。
 
>悪いことをすれば天国には行けず、地獄に行くことになる。
 
よく言われる通念的な話です。単に悪といえば浅い話になってしまうことを、楽山は弁えていないのです。何も学んでいないことが表れています。
 
>地獄は強要されるのでなく、自ら納得して行く。
 
説明もなく何を言っているのでしょう。楽山には、何も学ぶ気もないことが、楽山の気安い高慢な妄想的言語に表れています。このような言葉だけで、何かを表したような気分になる楽山です。この思い上がりには、逆に言葉自体がけがされてゆくでしょう。あらゆる努力を怠って、人も言葉も、鼻先で笑っている者の言だと思います。
 
主人公は決して自分を見失わない。権威、権力、恐怖…などには屈せず、自らの内なる声に従う。
個性尊重。自分らしさを保ち、かつ他人の個性も認める。
愛に飢え、貪欲な鬼は、口が強調された姿となる。その姿はその心によって決まる。
その他いろいろ。
 
楽山は、プラスを言いマイナスを言い、断定していないから責任はないなどと言う、元々、自分を持っていない人です。自分の代わりに、欲望の自我の企みで書いています。
 
楽山の自分らしさは、今までのところ、無反省・無責任・無理解・無神経・偽善者・嘘吐き・詭弁屋・無視・不感不応、など、・・でしかなかったのです。このような自我は、人を傷つけるだけです。保たれてはたまりません。悔いないなら、一刻も早く、何も言えないほど縮んでください。
 
スピリチュアリズム的な世界観は極めて特殊でもなく、多方面に広まってもいるので、「鬼滅の刃」のなかにスピリチュアリズム的なところがあっても別段不思議はないのではあるが、なにはともあれ、スピリチュアリズムに共感する人であれば、血飛沫が飛ぶようなアクションは大の苦手というのでもない限りは、本作に感動できるにちがいないと思う。
 
アニメとスピリチュアリズムを同一視する楽山は、結局、そのレベルでしか宗教と信仰を語れないのです。楽山は、哲学・思想・宗教・信仰を全く理解できないからです。それで、楽山は、執拗に、同一視したいのでしょうが、既に、ボロボロの理路・妄想・自己中・自己愛が表れてきたのであり、一切の弁解はボロ布のようなものであり、今さら、何も成り立ちません。
 
主人公のやさしさに触れて、鬼が自らの罪を自覚し、見失っていた自己を取り戻し、改心していく場面はもちろん、このやさしさは鬼のみならず、仲間たちをも良い方に変えてゆくところは本当に素晴らしく、
 
こういうところにしか褒め言葉を当てられない楽山です。触れて、自覚し、取り戻し、改心していく、これらは、すべて、楽山にはできないために、楽山が嘘と詭弁で裏切ってきたことなのです。
 
まさに、今、この記事も、そういう嘘であります。真実を追求しているつもりの、楽山という、いい大人が褒めまくって書いていますが、楽山は、ホラーアニメに依存しているのでしょうか。
 
真実を追求している本当の大人なら、趣味以上に書くことではないのです。
 
「愛こそはすべて」ということがよく分かるようになっているし、スピリチュアリズム的な考え方はあちこちに散りばめられているし、スピリチュアルなことに関心のある人にはお勧めの作品である。
 
「愛こそすべて」が分かるなら、今までの楽山は、なかったはずです。大袈裟な豪語をすれば、信用されるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山が自分で言って、逆に、楽山の行状がそれを否定し、楽山の言葉が、まさに、楽山自身を責めている記事であります。楽山に、何かを「お勧め」などする資格はないです。
 
楽山の見当違いの妄想世界から、お勧めされては、実に迷惑です。ほんとうに、台詞の白々しさが、ひどい。楽山のようにだけは、ならないでください。
 
 
どんづまり、地獄

どんづまりの地獄
 
 
(2021年03月01日、同日一部修正)
 
 
  楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·35分
おススメ書籍、ちょこっと読みました。 
悪魔が嫌うことは、
・正直(嘘はつかない)
・勤勉(コツコツ努力する)
・明朗活発(明るく積極的)
 」
とのことですね。
書籍後半では、謙虚、無執着、恨まないなども挙げられてた。
これらは総裁も出来てないし、言うは易し行うは難しだと思いました。😊
午後4:40 · 2021年2月28日·Twitter Web App
 
楽山は、平気で、数えきれない嘘を吐いてきました。
人間関係のベースとなる普通に正直であることを、まず、楽山は守る気がないのです。
楽山には、傲慢で、霊が分かるっぽい自我への異常な執着、そして、その体質ゆえに誰からも信頼されないことに対する人間と社会に対する根深い怨念があるのだろうと推測しています。
 
楽山は、努力が大嫌いです。霊が分かるっぽい?霊能者気取りだから、人の言うことを聞いて考えることを全くしないのです。すなわち、無反省・無理解・無責任・無神経です。
 
楽山が嘘を吐いて平気なのは、陰険であり、決して明るくはないです。
楽山は性悪で、陰気に悪と偽善を企み実行してきました。
楽山は、鈍麻・鈍感・不感不応だから、不都合を無視するのです。
 
楽山は、嘘を言うは易し、正直も、最小限の善も、行うは難し~しないよ・・なのです。
 
前に、楽山は、親族に、仏様が喜んでいると言ったら笑われたことがあり、親族が仏様の気持ちが分からないっぽすぎるのには驚いた、というようなことを書いていました。
 
楽山が、仏様と言っているのは、仏像、仏壇のことでしょうか、仏陀のことでしょうか、ご先祖様のことでしょうか、いずれにしても、こういう小児期の異常感覚に、今も支配されて、霊能者気取りになっているのでしょうか。
 
もし、楽山が、超常の存在の気持ちが分かる本物の霊能者なら、嘘と詭弁にまみれた今までの有り様は、むしろ、ありえないわけです。即ち、嘘で出来ている楽山は、霊能者どころか人間として成り立っていません。
 
楽山を、信用しないでください。相手にしないでください。楽山に関わらないでください。近づかないでください。お願いします。約2年間、私は、そう言い続けています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
集団リンチの様相を呈していたのも酷いけど、
政治家なら、自分の発言の一部を切り取られ、非難されることがあるのは承知しているはずなのに、この罠にはまる政治家があとを絶たないのも酷いですね。
こういう無防備さ、不用心さの原因を探る論考も掲載されてるのだろうか。
午後5:31 · 2021年2月28日·Twitter Web App
 
楽山は、自分の発言が批判されているのは承知のはずなのに、無視し続けているのは酷い話です。
 
こういう楽山の、無視による防備と、影響を考えず、反省することもなく、責任を負うこともないという原因は、楽山の自己愛性の体質にあるのでしょう。
 
楽山は、嘘で飾れば、白々しさが表れ、苦言を呈すれば、自分が当てはまる、という無間地獄の様相です。それでも、自覚がなく、平気を装うのが、体質的異常者なのです。
 
 
 面白いドラマ、アニメ
 (『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』、『ゆるキャン△』など)
 2021-02-28 楽山日記(a)
 
『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』は、第一回では学芸会的過ぎると思ったのだが、つい第二回も見てしまい、それ以降すっかりハマってしまった(笑)。毎回、泣かされ、笑わされている。
『ゆるキャン△』はタイトルだけは知っていたが、第一回を見てすぐハマった。アニメもおもしろい。こういう雰囲気はすきだ。
『進撃の巨人』も盛り上がっているし、面白いドラマ、アニメがたくさんあってうれしいぞ。
 
批判されている最中に、批判されていることに無頓着でいられる。無視して、ドラマやアニメの趣味の記事を平気で書いていられる。しかも、びくともしないぞとでも言っているような余裕ありげの「(笑)」「うれしいぞ」という文言を付けてくる。これが、楽山という人です。問題を何も感じないのです。
 
 
(2021年03月01日、同日追加)
 
  
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