ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:トラウマ

 
  虎馬生産的楽山2
 
 トラウマ反応!?
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 を改めて批判。
 
 
私には、トラウマがあるんだろうと思っています。そのトラウマに楽山は関係ありませんが、ずいぶん昔のことで、一部はブログに書いています。そして、楽山は、不感不応と無反省から、トラウマを与え続ける人だと思います。
 
楽山は説明していませんが、トラウマ反応とは、トラウマの後に起こってくる、むしろ症状のことで、再体験、苦痛、思考や会話などの回避、反応性の麻痺、一方で驚愕反応、意欲減退、睡眠障害、などがあるようです。
 
 
ツイッターを眺めていたら、トラウマ反応うんぬんという話があり、次のページに行き着いた。
自分自身のトラウマ反応にどう対応するか?
どうやら過剰な攻撃の裏には、トラウマがひそんでいることがあるということらしい。
 
楽山は、批判されていることを、過剰な攻撃と言っているようです。批判と攻撃の区別もつかない楽山です。前者には理由と根拠があり、楽山の場合、分かってもいないキリスト教と信仰を、幼稚な屁理屈で侮辱したことです。したがって楽山の反応こそが根拠のない攻撃なのです。
 
楽山については、トラウマを受けて感じる繊細さは無いと思っています。したがって、心に傷を負った人についても共感できないのです。カルトは、抜けた後でも、小さくないトラウマと後遺症を残す原因となりうるでしょう。楽山は、トラウマを受けやすい人ではなく、与えやすい~与える人なのです。
 
 
これを自分に当てはめるなら、認めるのは癪ではあるがHS批判がそれなのだろうな。大概の一般人はHSのことはさして気にせず、スルーしているわけで、自分にそれができないのはそこにトラウマがあるからなのだろう。
 
楽山は、HSを自己顕示に利用しているだけだと思います。そう思うのは、楽山自身の考え方が、カルトに似た訂正不能・無反省・無責任の典型だからです。楽山は、トラウマを受けたのではなく、トラウマを与える人です。
 
楽山の、不感不応の、他者無視の、無反省の訂正不能の、執拗なボンヤリ言語の、あくどい筆致は、誰の心にも消えないトラウマを残し得るものなので、以前から、そして、これからも、決して誰も関わらないように、批判を続ける必要があると感じています。
 
 
一般にはあまり知られていないHSの問題点を明らかにし、社会に知らしめ、注意喚起をするために批判をしているとも言えば言えるわけではあるが、
 
楽山については、全く言えないと思います。楽山の卑怯さは、自身の問題点をぼかし、注意喚起をよそに向ける雑言でしかありません。だまされないでください。楽山は、HSだけでなく、キリスト教も仏教も攻撃してきます。そして、適当に信じるのがいいと、いい加減な宗教を勧めています。
 
そうやって、楽山のような、無反省、無責任な、詭弁屋の、嘘吐きの、サイコパスの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業として、自分の尊大さを誇示して、他者を隷属させるか、最低の人格のまま、保身を図っているのです。
 
 
それにしたってトラウマは皆無であり、それが批判の動機になっている可能性は微塵もないとは断言できないのだから仕方がない。
 
トラウマは、心の傷ですから忘れることなど出来ないものです。トラウマに気づいた人にとって、トラウマが「微塵もないとは断言できない」という曖昧な言い方は出来ないのです。また、白々しい嘘っぱちの楽山の、実感のない思想の捏造です。
 
つまり、ここでも、楽山は、トラウマを受けた人を、高みから見下ろして批評しているわけです。その結果、このような曖昧表現でトラウマを語る文章こそが、楽山に、トラウマに対する共感性が微塵もないことを表しています。
 
どこまで行っても、何を書いても、誰とも共感できない楽山が表れるだけです。自己愛の我執と我欲から、書けば書くほど、関われば関わるほど、他者に心配りが出来ない楽山は、反省だけは出来ないまま、他者の心にトラウマを与える続けるのでしょう。
 
 
考えてみれば、これは信者側でも同じかもしれない。ツイッター上の信者のなかにはアンチに対して過剰反応を示す人は少なくないが、これは過去にアンチと何かあり、それがトラウマになっているためかもしれない。
 
このように、楽山には、アンチという自覚が根無し草であり、釣り合いをとるかのように、信者側のトラウマを語って、バランス・中庸・中立を言ったつもりで得意になっています。このようなことは、元々、トラウマを受けた自覚などない部外者だから書けるのです。
 
 
信者ブログの中には、もう何年も前に終わった話を度々蒸し返し、既にブログは止めて消えてしまった人のことをとやかく言うブログ主もいるが、これもトラウマが関係してるかもしれない。
 
楽山は、批判に反応しないし、反省せず、自分が言ったことの責任も負わない人なので「もう何年も前に終わった話」と言っていますが、終わってなどいないのです。不都合を全て無視する陰険で白々しい奇声虫のような人です。爽やかさを微塵も持っていません。
 
自分が批判されていることを言っているのかもしれません。楽山には、悪意はあっても、トラウマはありません。そんな繊細は感性など持っていないと思います。だから、トラウマについて、他者のことばかり書いているわけです。
 
このように、他者のことばかり云々するというのが、自己愛性人格障害者の特徴です。自分を見る目を持っていないのです。自分のことを書くときに、自分は大丈夫という暗黙の前提で、軽々しい自尊過大から、他人のことばかり云々して、評論家を気取るということに結びついてゆきます。
 
楽山が残した嘘と偽善については、楽山が、反省もせず、修正もせず、無視している分、いつまでも無反省の自己中の厚顔無恥の楽山からの心的外傷(トラウマ)を生み出す病原性の遺残物として、その内容と言動を、資料として、参照できるようにしておかなければなりません。
 
 
ああそうだ。上とは別の信者ブログの中には以前、記事をパクられたとして騒いでいた人がいるが、この人は最近はまた別の人に向かって同じことを言っている。反省と爽快感、顔施(笑顔)、知ることと信じることなどは大川隆法の本に書いてあり、支部でも話題になることであろうし、信者または元信者であれば普通に話題にのぼることであるし、他者の文章を引用しその感想または意見を書き、長文になるときは分割するというのは一般に行われている常識であろうし、パクリ、パクられたという話にはならないと思うのだが、それにもかかわらず、パクられ妄想を持つということは、そこにはやはり何らかのピンがあるのだろう。
そういえば、大川隆法もわりとちょいちょいそういう話を繰り返しているのだった。自分の意見をパクられた、真似されたとか…。でも実際は次のようになってるんだけどね。
 
楽山のような自己中は、不祥事を、必ず、人のせいにする特徴があります。自分は弁明しているつもりですが、自分を斬ることだけは出来ないという成長不全の人格なのです。楽山が語ることは、ひやかし半分の世間話のように、どんなに人を傷つけても、終われば忘れてしまう軽口に過ぎません。
 
記事の引用は、批判するために必要ですが、まだ、ピンという言葉を使って、それを説明しないところに、楽山の高慢も表れているのです。HS関連など検索しても明確な答えが見つからないので分からないが、ping 応答(時間)、ピンハネのピン、・・?・・などを考えておきます。
 
パクられるということが、「パクられ妄想」とまで書いていますが、トラウマと、どう関係があって、楽山は言及しているのでしょう。楽山は、他者の記事をパクったことがあるのでしょうか。トラウマの話からは浮いているように思われます。こうして文脈が乱れて、悪口だけになってゆく楽山です。
 
それで、相手のことを、「パクられ妄想を持つ」などと言っているのでしょうか。真相が分かれば、重大なことのような気がします。いつも、本や発言などから、都合のよい文言だけを引用してくる生業の楽山だからです。それにしても、こういうのを、理路の散逸というのでしょう。
 
 
根本経典からしてこうであれば、あとは推して知るべしというべきか…。(画像など省略)
とりあえず今思いついたのはこれだけだが、詳しい人であればもっと具体例を挙げられるだろう。こうしてみると、激しいパクられ妄想の根っ子には、過去にパクリを批判されたトラウマがある可能性は低くはなさそうにも思えてくる。
なんだかいつのまにか自分のHSに対するトラウマ反応が発動されて、大分話がそれてしまった観がないでもないが、結局のところ、人は誰でも多かれ少なかれトラウマがあり、それに影響されているということなのだろう。
 
トラウマは、しばしば言われているけれど、そんなに「誰でも多かれ少なかれトラウマがあり」というほど一般化は出来ない心的外傷のことです。楽山は、恐らく、トラウマを与えるほうでしょう。それで、一般化して、徒に責任逃れをしていると思います。
 
"トラウマ反応" という題で、楽山が書いていることは、冒頭に書いてリンク付けているトラウマ反応とは言えないことのようです。自己愛者の特徴として、不祥事を他者のせいにする、というのがありますが、そのために、トラウマの話を持ってきて、ますます他者をおとしめているように思えます。
 
楽山の言う「自分のHSに対するトラウマ反応」は、信用できません。楽山は、トラウマを与えるほうであり、トラウマを受け、トラウマ反応を起こすような繊細さはないと思います。筆致にも表れたことはありません。いつも不感不応だから、トラウマを受けるような要素を持ち得ないのです。
 
トラウマというテーマは、体験からのもので症状を伴うものですから「話がそれてしまう」ことではありませんし、話を逸らすことでもありませんし、ありもしないトラウマの嘘を吐くことでもありませんし、他者を無視することでもありません。もちろん、他者を責める道具ではありません。
 
楽山の言っているのは、本当のトラウマではなく、楽山のような、面の皮の厚い、罪悪感も羞恥心もない、人をおとしめてよろぶ病質、いわば、虎と馬みたいな在り方に当てはまる悪意でしょう。自己愛者は、悪意で面白がって、他者のせいにするときに、都合のよい病因の理屈を当てはめてきます。
 
トラウマというのは、病気・病態であり、心的外傷後症候群PTSDとも呼ばれるわけですから、「誰でも多かれ少なかれトラウマがある」・・などという気安い見解で済ましてよいことではありません。楽山はトラウマとトラウマ反応という言葉を利用して遊んでいる虎の尻尾か馬の鼻です。
 
楽山は、何を言われても返せないのに、平気でいられる人です。つまり、病的人格からの故意の自己中なのです。トラウマを与える人であって受ける人ではないのです。根拠は、今までの総ての批判記事です。楽山の狡賢さは、卑しくて、虎、馬、というより、蛇、鼠、・・の類かもしれません。
 
 
もし、トラウマがない人はいない、一人もいないというのであれば、それについて人を責めても仕方がないし、それならまずは人のことをどうこう言うよりも、まずは自分のトラウマを解消することに努めるのがよさそうだ。うん。納得。
 
楽山は、生きてい関われば、必ず、人を傷つけてしまう人格なのでしょう。だから、今、必死に、唾を飛ばして、言い訳をしているのです。「トラウマがない人はいない、一人もいない」・・大嘘です。いつのまにか、この嘘を前提にして言い逃れている楽山の醜さを心に留めておいてください。
 
人を傷つけて平気な人には、トラウマはないのでしょう。情緒が鈍麻して、傷つくという心の状態を知らないのです。そういう人に限って、人を責めても仕方がない、などと言ってきます。自己愛者の書いてくることは、大方、自己正当化に過ぎません。一人前の人間に成り損なっているためです。
 
そして、そういう人は、自分の無反省を棚に上げて、「自分のトラウマをを解消する」などと言って、三文芝居で「うん、納得。」などと平気で言ってきます。この作為は、被害者を残酷に無視できるような、あざ笑う者だけの特徴であり、殺人的に、あくどいです。
 
結果として、楽山には、トラウマとトラウマ反応について書いておきながら、人のせいにして、自分だけの独り納得で解決を装って満悦する、という、とても残酷な不感不応の人格の、継続する醜い性根だけが表れてしまいます。
 
楽山は、こういう人で、関わると、無反省と無責任で、こういう目に遭い、こういう返しが来る、ということは知っておいたほうがよいでしょう。楽山の与えるトラウマは、虎の放屁、馬の小便、いずれも、張り子に過ぎません。無視して、まともに受け取らないことが、さらに、近づかないことが肝要です。
 
 
トラウマを与え続ける輩

トラウマを与え続ける輩(やから)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月17日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
カタコルネ@堕天使にアイム・バッド
@korettedounano
衝撃の真実!キリストは青森に来ていた!絵文字(大爆笑大爆笑嬉し泣き)
#幸福の科学 #イエス・キリストの霊言
午後8:59 · 2021年6月15日·Twitter for Android
 
楽山らしい引用です。キリストの御名によって神に祈り、その臨在を信じ仰ぐ信仰に対して、どこそこに「来ていた」「衝撃の真実!」「キリストの霊言」ということを面白がっています。そういうことにしか関心を持てないのです。楽山は、どこまでも安っぽさだけを引用して、はしゃいでいます。
 
心貧しさは先入観と偏見のないこと、精神の貧困は先入観と偏見しかないこと、という意味を学習するための、後者の悪い典型例に、楽山はなるでしょう。楽山の目には、魔法の空想が映って、真実が全く映らなくなるウロコが、へばりついているようです。
 
 
 
  汚れ
 
降りくる芥
明日の今
捨てられた油
を食む魚
跳ねて弱々しく
一時(いっとき)に泳ぐ
昨日の海
降りくる塵
波が熱く
眩しい距離
受けて呑む
肉体の空
晴れ時々曇り
一時の雨
薬のにおいがする
肉の肉
今の明日
 
 
  中へ
 
赤い水を呑み続ける
未だ見ぬ土地を知識だけで語るように
骨の中へ肉の中へ土の中へ
乾きに濃縮され続ける
未だ見ぬ外界を飢餓だけで知るように
乳飲み子の川の底へ
土の中へ肉の中へ骨の中へ
 
 
  魔・興
 
魔は隠れた所に差してくるものだ
興は見る見る醒(さ)めてゆくのに
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  無償
 
祝福もなく夜に生まれ
墓石もなく野辺に朽ちよ
燃える血を竦(すく)み凍らせ
今は亡き人の影を踏め
臨終の霧を呼吸し
濁りの水泡を食らっては吐き
泡吹く毒の晩餐(ばんさん)を
肝胆に秘めて漏らさず
ただ自らの牙を脆く腐らせ
折ってゆけ最早
立てず座せず臥したまま
やがて唯一の薄い揮発の間として
体内を巡る全ての血が
しずかに止まる音を聞くだろう
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、感受性が壊れているので、自分があたえたトラウマも、迷惑も、害も、全部、相手のせいにして過ごしてきたのでしょう。こういう人は、決して、交流や話し合いに参加させてはいけない人です。自己愛・自己中によって、疲労を与え、他者の人格を破壊しても、平気で、人のせいにします。
 
 
 
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  虎馬生産的楽山  (トラウマ反応??)
 
 トラウマ反応!?
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 を改めて批判。
 
 
私には、トラウマがあるんだろうと思っています。そのトラウマに楽山は関係ありませんが、ずいぶん昔のことで、一部はブログに書いています。
 
楽山は、不感不応と無反省から、トラウマを与え続ける人だと思います。
 
楽山は、彼の特徴として、例によって説明していませんが、
トラウマ反応とは、トラウマの後に起こってくる、むしろ症状のことで、再体験、苦痛、思考や会話などの回避、反応性の麻痺、一方で驚愕反応、意欲減退、睡眠障害、などがあるようです。
 
ツイッターを眺めていたら、トラウマ反応うんぬんという話があり、次のページに行き着いた。
・自分自身のトラウマ反応にどう対応するか?
どうやら過剰な攻撃の裏には、トラウマがひそんでいることがあるということらしい。
 
楽山については、トラウマを受けて感じる繊細さは無いと思っています。したがって、心に傷を負った人についても共感できないのです。
 
カルトは、抜けた後でも、小さくないトラウマと後遺症を残す原因となりうるでしょう。楽山は、トラウマを受けやすい人ではなく、与えやすい~与える人なのです。
 
これを自分に当てはめるなら、認めるのは癪ではあるがHS批判がそれなのだろうな。大概の一般人はHSのことはさして気にせず、スルーしているわけで、自分にそれができないのはそこにトラウマがあるからなのだろう。
 
楽山は、HSを利用しているだけだと思います。楽山自身の考え方が、カルト的な訂正不能・無反省・無責任の典型だからです。
 
楽山の、不感不応の、他者無視の、無反省の訂正不能の、執拗なボンヤリ言語の、あくどい筆致は、誰の心にも消えないトラウマを残し得るものなので、以前から、決して誰も関わらないように、批判を続ける必要があると感じています。
 
一般にはあまり知られていないHSの問題点を明らかにし、社会に知らしめ、注意喚起をするために批判をしているとも言えば言えるわけではあるが、
 
楽山については、言えないと思います。楽山の卑怯さは、自身の問題点をぼかし、注意喚起をよそに向ける雑言でしかありません。だまされないでください。
 
それにしたってトラウマは皆無であり、それが批判の動機になっている可能性は微塵もないとは断言できないのだから仕方がない。
 
トラウマは、心の傷ですから忘れることなど出来ないものです。トラウマに気づいた人にとって、トラウマが「微塵もないとは断言できない」という曖昧な言い方は出来ないのです。また、白々しい嘘っぱちの捏造です。
 
つまり、ここでも、楽山は、トラウマを受けた人を、高みから見下ろして批評しているわけです。その結果、このような曖昧表現でトラウマを語る文章こそが、楽山に、トラウマに対する共感性が微塵もないことを表しています。
 
どこまで行っても、何を書いても、誰とも共感できない楽山が表れるだけです。自己愛の我執と我欲から、どこまで行っても、書けば書くほど、関われば関わるほど、他者に心配りが出来ない楽山は、他者の心にトラウマを与えるだけです。
 
考えてみれば、これは信者側でも同じかもしれない。ツイッター上の信者のなかにはアンチに対して過剰反応を示す人は少なくないが、これは過去にアンチと何かあり、それがトラウマになっているためかもしれない。
 
このように、楽山には、アンチという自覚が根無し草であり、釣り合いをとるかのように、信者側のトラウマを語って、バランス・中庸・中立を言ったつもりで得意になっています。このようなことは、元々、トラウマを受けた自覚などない部外者だから書けるのでしょう。
 
信者ブログの中には、もう何年も前に終わった話を度々蒸し返し、既にブログは止めて消えてしまった人のことをとやかく言うブログ主もいるが、これもトラウマが関係してるかもしれない。
 
自分が批判されていることを言っているのかもしれません。楽山には、悪意はあっても、トラウマはありません。そんな繊細は感性など持っていないと思います。だから、トラウマについて、他者のことばかり書いているわけです。
 
このように、他者のことばかり云々するというのが、自己愛性人格障害者の特徴です。自分を見る目がないのです。自分のことを書くときに、自分は大丈夫だけど・・という軽々しい自尊過大が表れるということに結びついてきます。
 
楽山が残した嘘と偽善については、楽山が、反省もせず、修正もせず、無視している分、いつまでも、無反省の自己中の厚顔の偽善者である楽山の心的外傷(トラウマ)を生み出す原性の遺残物として、その内容と言動を、資料として、参照できるようにしておかなければなりません。
 
ああそうだ。上とは別の信者ブログの中には以前、記事をパクられたとして騒いでいた人がいるが、この人は最近はまた別の人に向かって同じことを言っている。反省と爽快感、顔施(笑顔)、知ることと信じることなどは大川隆法の本に書いてあり、支部でも話題になることであろうし、信者または元信者であれば普通に話題にのぼることであるし、他者の文章を引用しその感想または意見を書き、長文になるときは分割するというのは一般に行われている常識であろうし、パクリ、パクられたという話にはならないと思うのだが、それにもかかわらず、パクられ妄想を持つということは、そこにはやはり何らかのピンがあるのだろう。
そういえば、大川隆法もわりとちょいちょいそういう話を繰り返しているのだった。自分の意見をパクられた、真似されたとか…。でも実際は次のようになってるんだけどね。
 
記事の引用は、批判するために必要ですが、まだ、ピンという言葉を使って、それを説明しないところに、楽山の高慢も表れているのです。HS関連など検索しても明確な答えが見つからないので分からないが、ping 応答(時間)、ピンハネのピン、・・?・・などを考えておきます。
 
パクられるということが、「パクられ妄想」とまで書いていますが、トラウマと、どう関係があって、楽山は言及しているのでしょう。楽山は、他者の記事をパクったことがあるのでしょうか。トラウマの話からは浮いているように思われます。
 
それで、相手のことを、パクられ妄想を持つ・・などと言っているのでしょうか。真相が分かれば、重大なことのような気がします。いつも、本や発言などから、都合のよい文言だけを引用してくる生業の楽山だからです。それにしても、こういうのを、理路の散逸というのでしょう。
 
根本経典からしてこうであれば、あとは推して知るべしというべきか…。(画像など省略)
とりあえず今思いついたのはこれだけだが、詳しい人であればもっと具体例を挙げられるだろう。こうしてみると、激しいパクられ妄想の根っ子には、過去にパクリを批判されたトラウマがある可能性は低くはなさそうにも思えてくる。
なんだかいつのまにか自分のHSに対するトラウマ反応が発動されて、大分話がそれてしまった観がないでもないが、結局のところ、人は誰でも多かれ少なかれトラウマがあり、それに影響されているということなのだろう。
 
"トラウマ反応" という題で、楽山が書いていることは、冒頭に書いてリンク付けているトラウマ反応とは言えないことのようです。自己愛者の特徴として、不祥事を他者のせいにする、というのがありますが、そのために、トラウマの話を持ってきて、他者をおとしめているように思えます。
 
楽山の言う「自分のHSに対するトラウマ反応」は、信用できません。楽山は、トラウマを与えるほうであり、トラウマを受け、トラウマ反応を起こすような繊細さはないと思います。筆致にも表れたことはありません。
 
トラウマというテーマは、体験からのもので症状を伴うものですから、話が逸れることではありませんし、話を逸らすことでもありませんし、ありもしないトラウマの嘘を吐くことでもありませんし、他者を無視することでもありません。もちろん、他者を責める道具ではありません。
 
楽山の言っているのは、本当のトラウマではなく、楽山のような、面の皮の厚い、罪悪感も羞恥心もない、人をおとしめてよろぶ病質、いわば、虎と馬みたいな在り方に当てはまる悪意でしょう。自己愛者は、他者のせいにするときに、都合のよい病因の言葉を探して当てはめてきます。
 
トラウマというのは、病気・病態であり、心的外傷後症候群PTSDとも呼ばれるわけですから、「誰でも多かれ少なかれトラウマがある」・・などという気安い見解で済ましてよいことではありません。楽山はトラウマとトラウマ反応という言葉を利用して遊んでいる虎か馬です。
 
楽山は、何を言われても返せないのに、平気でいられる人です。つまり、人格からの故意の自己中なのです。トラウマを与える人であって受ける人ではないのです。根拠は、今までの総ての批判記事です。楽山の狡賢さは、卑しくて、虎、馬、というより、蛇、鼠、・・の類かもしれません。
 
もし、トラウマがない人はいない、一人もいないというのであれば、それについて人を責めても仕方がないし、それならまずは人のことをどうこう言うよりも、まずは自分のトラウマを解消することに努めるのがよさそうだ。うん。納得。
 
人を傷つけても平気な人には、トラウマはないでしょう。傷つくという心の状態が分からないのです。そういう人に限って、人を責めても仕方がない、などと言ってきます。自己愛者の書いてくることは、大方、自己正当化に過ぎません。人間になり損なっている感じが出ています。
 
そして、そういう人は、自分の無反省なことを棚に上げて、「自分のトラウマをを解消する」などと言って、「うん、納得。」などと平気で言ってきます。この作為は、あくどいです。
 
結果として、トラウマとトラウマ反応について書いておきながら、人のせいにして、自分だけの独り納得で解決を装って満悦することはとても醜い、ということが表れています。
 
楽山は、こういう人で、関わると、無反省と無責任で、こういう目に遭い、こういう返しが来る、ということは知っておいたほうがいいと思います。
 
 
虎、馬、蛇、鼠

虎、馬、蛇、鼠
 
 
(2020年06月14日、修正再録)
(2021年06月16日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
カタコルネ@堕天使にアイム・バッド
@korettedounano
衝撃の真実!キリストは青森に来ていた!絵文字(大爆笑大爆笑嬉し泣き)
#幸福の科学 #イエス・キリストの霊言
午後8:59 · 2021年6月15日·Twitter for Android
 
楽山らしい引用です。キリストの御名によって神に祈り、その臨在を信じ仰ぐ信仰に対して、どこそこに来ていた、衝撃!、キリストの霊言、ということを面白がっています。そういうことにしか関心を持てないのです。楽山は、どこまでも安っぽさだけを引用して、はしゃいでいます。
 
心貧しさは先入観と偏見のないこと、精神の貧困は先入観と偏見しかないこと、という意味を学習するための、後者の悪い典型例になるでしょう。楽山の目には、魔法の空想が映って、真実が全く映らなくなるウロコが、へばりついているようです。
 
 
 
  汚れ
 
降りくる芥
明日の今
捨てられた油
を食む魚
跳ねて弱々しく
一時(いっとき)に泳ぐ
昨日の海
降りくる塵
波が熱く
眩しい距離
受けて呑む
肉体の空
晴れ時々曇り
一時の雨
薬のにおいがする
肉の肉
今の明日
 
 
  中へ
 
赤い水を呑み続ける
未だ見ぬ土地を知識だけで語るように
骨の中へ肉の中へ土の中へ
乾きに濃縮され続ける
未だ見ぬ外界を飢餓だけで知るように
乳飲み子の川の底へ
土の中へ肉の中へ骨の中へ
 
 
  魔・興
 
魔は隠れた所に差してくるものだ
興は見る見る醒(さ)めてゆくのに
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  無償
 
祝福もなく夜に生まれ
墓石もなく野辺に朽ちよ
燃える血を竦(すく)み凍らせ
今は亡き人の影を踏め
臨終の霧を呼吸し
濁りの水泡を食らっては吐き
泡吹く毒の晩餐(ばんさん)を
肝胆に秘めて漏らさず
ただ自らの牙を脆く腐らせ
折ってゆけ最早
立てず座せず臥したまま
やがて唯一の薄い揮発の間として
体内を巡る全ての血が
しずかに止まる音を聞くだろう
 
 
(90年代か)
過去作は、繰り返しアップすることになりそうです。
 
 
 
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