楽山のトンデモとインチキ2
 
 『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著
 2021年04月18日
 
 
(ネットより)
鹿嶋 春平太(かしま しゅんぺいた、1941年 - )は、日本の経済学者、宗教社会学者。明治学院大学名誉教授。本名・肥田日出生。 1965年慶應義塾大学経済学部卒業。71年同大学院商学研究科博士課程単位取得退学、明治学院大学経済学部専任講師。74年助教授。80年教授。日本広告学会賞を二度受賞。聖書研究家として鹿嶋の名を用いる。2011年定年退任。
ウィキペディア
 
楽山は、キリスト教と信仰をおとしめるために、インチキ本を勧めています。トンデモ本は、なぜ、インチキなのかと言えば、聖書を面白おかしい話に落として、信仰による救いを損なっているからです。楽山には、ご馳走なのでしょう。
 
批判に答えられず、いかなる弁明も詭弁で成り立たず、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病質が明らかになってきて、もはや、ケダモノの荒い鼻息のように、開き直って手段を選ばず、侮辱の悪魔性に没頭する楽山です。
 
 
タイトルから聖書入門だと思って本書を読んでみたのだが、スピリチュアリズム的な考え方が多く紹介されていて意表を突かれた思いである。その例を上げるとするならば、まず著者はイエスの教えについて次のように記している。
イエスの教えようとするのは、徹頭徹尾「霊界の真理」です。
(『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著、新潮社、1996年、p.81)
 」
 
霊界に心を奪われると、楽山のように、現実が見えなくなり、言動は狂い出し、言うことが変になり、あげくに、詭弁と嘘ばかりになって、さらに、開き直って、人に化けた幽霊が、本当の顔を表すように、みすぼらしく醜い素顔をさらすことになります。
 
 
イエスの教える真理は、霊界の真理です。そして霊界は人間には見えないから、見える物質界にたとえて話しているにすぎないことになっています。
(同上、p.230)
 」
宗教教義は霊界理論であり、宗教的に考えるのは霊界的に考えることであるともいう。
 
キリストの教えが霊界の理論だけならば、信仰に生かされる人はいないはずです。実際は、霊界に溺れた楽山のような人が、救われない者の醜態を、悲惨な例として晒しているだけです。キリストの教えは、人間への共感であり、理解であり、信仰は、キリストへの共感であり、神への正直なのです。
 
 
宗教形而上学理論の中心は霊界理論です。だから、宗教思考に導かれるというのは、霊界思考に入ることをも意味しています。
(同上、p.301)
 」
信仰とは神と波動を合わせることであり、それができれば神のエネルギーに満たされるという。
 
信仰は、霊界理論でも霊界思考でもありません。また、どうして、人間が、「神と波動を合わせ」られると言うのでしょう。生きている間の、あくまで、人間としての共感であります。楽山が、神のエネルギ-などと言うのは、いかにも、ペテン師らしい出まかせの発想です。
 
霊界思考に生きている楽山を見てください。これほど醜い人はいません。「神と波動を合わせる」などと言い出したら、おしまいなのです。宗教についての思考が、甚だしく偏っており、まるで成り立たず、偏見だけで、結論を出して、病識も反省もありません。
 
宗教と信仰について考えることは、人間について考えることです。それを、止めてしまった楽山は、もはや、人間らしい思考が何も出来なくなり、過大な自尊のために、歯をむき出して、臭い息を吐いて嘘っぱちの霊界話を捏造し、人生に復讐を企んでいるのです。つまり、人間ではなくなるのです。
 
 
バイブルにおける「信仰」とは、物理的イメージで言えば想像霊の意識波動に自己の意識波動を協和させることです。そして、それが一定以上に実現されると、神の力(栄光)は、その信仰を通して発揮される、というのが基本思想です。
(同上、p.251)
(*注 「想像霊」は「創造霊」の誤植と思われるが、ここでは引用元そのママにしておく)
 」
 
心の欠片もない言い分が続いています。信仰の物理的イメージだそうです。信仰に、人に分かる物理はありません。比喩としては拙劣すぎます。神の基本思想?などと言われて、それを悦ぶ楽山は、あらゆる人間の道から、人間の理解から、遠くなった報いを、今、受けています。
 
 
神もまた霊ですから、相応の意識をもっています。そして同時にそこからは「いのち」エネルギーが放射されています。それを自らの霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要、という図式なのです。不協和なら、浸透しないことになっています。
(同上、p.75)
 」
 
人間として受け取るべき信仰を、楽山は、低劣な霊の話にしてしまいます。こういう男が、いちばん信仰を駄目にするのです。神を対象にして、相応の意識を持っている、などと言える人間はいません。命は、エネルギーみたいに物理で論じることは出来ません。神は、人の論理の対象にはなりません。
 
「霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要」「不協和なら、浸透しないことになっています」・・どういう捏造の霊界物語なのでしょう。学ぶことに怠慢な者は、でっち上げで、自分は分かるんだ、特別なんだ、などと吹聴してくるのでしょう。
 
宗教から、お伽噺に、空疎な造語と豪語に、そして、果ては、インチキ占い師らしい空想と妄想に堕して、最後は、路地裏の屍になるか、刑務所で一生を終えるのではないかと思います。楽山は、その中でも、気取りの話とは裏腹に、誰よりも危険な人物です。
 
 
聖書の記述…「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」(コリント二 12.2)については、次のように説明している。 
これは今日の心霊科学でいうと「幽体離脱」ですね。
(同上、p.74)
 」
本書は、日本的なキリスト教理解の問題点を指摘し、その一例として遠藤周作、曽野綾子、三浦綾子の作品の難点を指摘するなど興味深い箇所もあり、学ぶべきところは多々ある。
 
楽山は、自分は特別だと言いたいために引用していますが、何も学んでいません。引用元も、何も学ぶところのないインチキだと思います。その傲慢ぶりは、楽山に見られる訂正不能の霊の引き寄せ妄想と、それこそ、同じ波長を持っているのでしょう。
 
つまり、楽山が、名のある小説家を、軒並み侮辱してきたのは、こういうベースがあったからでしょう。知が足りず情が曲がった者の意は、単純に、人間らしい知情意への復讐だということが分かります。もはや、既に、滅びているのです。誰も関わってはいけません。
 
 
けれども上のことからすると、これは一般的な意味での「聖書入門」というよりは、「スピリチュアリズム的解釈による聖書入門」とすべきではなかろうか。アマゾンのレビューでもこういう特殊さを指摘しているものがあった。スピリチュアリズムに馴染みのある人であれば本書の聖書読解に共感し信じる人も多いかもしれないが、一般の人は本書を読む際にはこの点について注意が必要ではある。
 
聖書は、人間として読むべきであり、スピリチュアル的解釈など存在しません。人間が、神の霊、即ち、聖霊を、いくら考えても、そのスピリチュアルは、如来の掌から逃れられない孫悟空のようなものなのです。楽山の低次元が、救いがたい捏造の霊界を語っています。
 
霊能者気取りが、魔人気取りと、肩を並べて、首を並べて、断頭台に座っているようなものです。決して、影響を受けてはいけません。神に対して人間としての身の程を弁えない者は、ここまで来るという例なのです。悪霊から悪例までの現実を、当てもなく、ふらついている楽山です。
 
楽山の霊性は、腐った料理にたかる蝿のようなものです。楽山の息は、できるだけ多くの人々を、伝染性の、人でなしウイルスに感染させることでしょう。楽山の人間性の崩壊は、ここまで堕ちてくるのでしょう。自らに呪いをかけている楽山ですが、自覚だけは、ずっと、ないのです。
 
霊と超常は、神に任されるべきものです。それを、人が云々するのは、神のごとき自らを自慢したいからに他なりません。言論と真実への冒涜です。霊が分かるっぽい楽山が、それこそ、欺瞞によって、捏造した神霊世界を、どうか、信用しないでください。
 
アマゾンカスタマーレビュー
偏っているからダメと断ずるつもりはありません。こういう本は、特定宗教団体や特定出版社から数多く出ています。これが好きな人もいるかも知れません。ただ、一般読者向けの「聖書入門」としてはあまりにも独断的で水準も低いというだけです。星二つは、その「トンデモ本」度に敬意を表したものです。
アマゾンカスタマーレビュー
 
「トンデモ本」に敬意を表すのでしょうか。信仰とは無関係です。楽山は、同じように敬意を欲しがっていますが、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、いかなる癒しも、つける薬も、讃える名前もないのです。私は、著者にも楽山にも、敬意の欠片も感じません。
 
 
インチキはインチキを呼ぶ

インチキはインチキを呼ぶ
 
 
(2021年04月19日、同日一部修正)
(2022年04月23日、再録+加筆)
 
 
 
  どっちを選んでも罪
 
仮に極端な話ですが、既に百人を殺した者が目の前にいて自分を殺そうとしたとき、彼を殺すのが正しいかどうか。殺せば理由がどうあれ人殺しをしたことになるのだから、それは罪です。決して正義ではありません。
 
では殺さず殉教のつもりで殺されたとしたらどうでしょう。彼はさらに千人を殺すかもしれません。その中には愛する家族や隣人・友人も含まれるかもしれないのです。隣人を愛さなかったという、これも罪です。たとえ殉教であってもです。
 
つまり殺す・殺される、どっちを選んでも罪なのです。では実際どうしたらいいのか、語る口を私は持ちません。しかし何(いず)れかの行動を人はすることになります。極端な場合の話ですが、これは、人が罪人であることを示すための思考実験です。
 
しかし今の世に生きる限り、このような極端な場合でなくても何かを選びながら何かを切り捨てながら人は生きていくのですから、どっちを選んでも罪ということがむしろ多いように思います。罪を犯さない生き方などないと思います。
 
義人はいない、一人もいない。キリストは罪については厳しい見方をしておられました。罪を認めない者にはあくまで厳しかった。罪というものが、赦していただくほか救いがないということは、認められていない罪は赦しようがないからです。
 
人という罪にまみれた創造物は、神の前においては裁かれるだけの存在であるということです。ここにおいて私が言いたいのは人が天国というところに行けるとすれば、それは人が正しかったからではない。人間は、創世記が示すように、全(まった)き正義に生きることができる存在として創られてはいない。
 
人は神の裁きの場において、神に憐れまれることのみによって御国・天国へ行くことを許される。それ以外に御国へ至る道はないのです。そして、神に憐れまれる唯一の方法は、正直な祈り以外にはないのです。言い換えれば、それだけでよいのです。
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
 
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性なんでしょうかね」と、嘘吐きが、嘘吐きの言い訳に、嘘を吐いています。嘘吐きは、結局、何を言っても信用されなくなります。信用されず相手にされないことを、嘘と詭弁で慰めることは出来ません。そして、嘘吐きは、嘘に嘘を重ねて、ついには、自らの存在をも嘘にしてゆくのです。
 
 
 
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