ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ナルシスト

 
  楽山の実現したいこと
 
 2021年05月15日
 幸福実現党の移民政策(2)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、秘密モードにすると言っていましたが、今度は、ツイッターの画像を引用して、幸福実現党を批判しているつもりです。もっともらしい文言が、詭弁屋の楽山の、唯一の武器なのです。
 
そして、自身を省みずに、人を責める楽山です。幸福の科学を批判しながら、人を惑わせ、不幸に陥れるような詭弁と嘘を発信してきたのは、楽山です。
 
自身が、カルト的霊能者気取りでありながら、アンチというカルト批判者を装い、上から見下ろして、他者を云々してきたのです。いったい、どういう立場で、自身の罪悪・無反省・無責任を棚に上げて、批判者を気取っていられるのでしょう。
 
*移民一億人と打ち上げたのは事実
及川幸久氏が、移民一億人についてツイートしていた。
幸福実現党は立党時には、移民一億人を目標としていたが、その後は取り下げたとのことである。
20210515 今移民1億人も入れたら日本でなくなる
 
空想的で荒唐無稽な移民政策だと思いますが、取り下げたのだそうです。楽山は、好きなように自己中心・自己愛から、得々として、反キリスト、神否定、右翼礼賛、霊能の自覚などを、思想家気取りで、語ってきました。取り下げることもしていません。言ったら、言いっぱなしです。
 
*素朴な疑問
移民一億人というのは、政治の素人がみても暴論、放言でしかないことは分かるだろうに、どうして党の数値目標とされたのだろうか。
言い出しっぺは誰? どうして誰も反対しなかったのか? もしかしたら党内の最高権威者が言い出したことなので誰も反対できなかった? どうなんだろう?
 
楽山は、問題視し詮索し追及したいようです。しかし、楽山自身の発言についてだけは、何の問題意識も持っておらず、訂正してもいないのです。それで、また言ってくる病質の厚顔無恥であります。
 
>*対照的 
ところで、幸福実現党が移民一億人を政策として掲げていたことについて、及川幸久氏は立党時にはそのようなこともあったとしているが、西野あきら氏はそのようなことはなかったとしていた。アンチの印象操作、嘘、捏造だとでもいいたげである。ここは正反対になっているのは面白い。
20210515 「移民で一億人」という印象づけをしたいのでしょう
 
他者の意見が「正反対になっているのは面白い」・・真実に関することで揶揄して面白がるのは、ナルシストそしてサディスト、楽山の特徴です。一人前の正常人のつもりで書いていますが、病質に満たされて訂正不能になっているのが自己愛性人格障害者なのです。
 
ていうか、西野あきら氏は及川幸久氏のツイートをリツイートしているではないか。
20210515 (3)西野あきら氏、一億人移民リツイート
(*赤線は引用者による)
 
前に、若者気取りのボンヤリ言語として挙げた「ていうか」が出てきました。一切の言論の責任を取らない楽山の言い方、"ていうか"、ゴシップネタの言い方、議論なのか駄弁なのかをぼかす言い方で、自身の嘘と詭弁の事実以外、何もない楽山流です。
 
テーマは宗教、つまり、真実の追求という重要な問題なのです。宗教について、何かを語れば、それは、その宗教を信じている人々のことになり、人間の生き方の問題になり、冗談半分で書いてはいけないことなのです。
 
「ていうか」だけでなく、今まで目立ってきた、ボンヤリ言語の婉曲、トホホ言語の同情芝居、当てつけ、いちゃもん、根拠のない決めつけ、等々、無責任に書いてくる楽山の軽い姿勢は、既に、門前において、アウトなのです。
 
自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふりってよく分からん。
 
「自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふり」しているのは、楽山です。今までも、自己愛性パーソナリティ障害の証拠を、自ら、みすぼらしさとともに、並べてきたのです。それだけをしながら、楽山は、余生を送り、そして、人生を終わるのでしょう。
 
楽山は、両手で自分の嘘と詭弁を後ろに隠しながら、他者を批評・批判する病気で、病識のない精神障害で、かつ、体質によるものだから治療法も治療薬もなく、白々しさと、執拗さだけで、人をだまして、ネットに、リアルに?、生きてきて、実際は、真実が、どこにもない嘘吐きなのです。
 
嘘吐きとは、嘘を吐く人ですが、実際は、本当と嘘を混ぜこぜにして、人を、惑わし、だまし、あらぬ方向へ誘導する人、そして、その罪悪を隠す人です。部分的に、もっともだと思っても、決して、相手にしてはいけません。真実と言えるような、まとまりが、どこにもないのです。
 
 
  楽山と詩
 
 2021年05月16日
 『詩集 私のパンセ』をチラ見してみた
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
詩を理解できるとは思えない楽山が、ORの詩を笑うという記事です。似たようなカルト精神を持っていて、つまり、楽山は、アンチではなく、人をバカにして、あざ笑うことで、批判したつもりになるだけの安っぽい身の程知らずなのです。
 
書店で、大川隆法の詩集『私のパンセ』をチラ見してみたのだが、人を厳しく裁く父なる神を退けて、限りなく優しい母なる神を賛美していて、あっ!と驚いてしまった。最近、自分も似たような事を考えていたので…。面白い偶然もあったものだ(笑)。
 
楽山の思想は、ORに似ているのでしょう。楽山は、批判精神より、はるかに教祖願望のほうが強いということです。だから、批判を書いても、「(笑)」となり、バカにして笑うほうに書いてしまうのです。オレのほうが上だ・・という気持ちが勝ってしまうのです。
 
詩集全体をざっと見た感じでは、素朴で、短い詩が多いようだった。その雰囲気を真似て書くと、こんな感じかな。
 
詩のようなもの3つは省略します。本当に、真似て書いたのでしょうか。写したのではないのでしょうか。詩の出来は、私には分かりませんが、私の好みではありません。かなり、痒いです。
 
自分でいうのもなんだけど、こういうスピリチュアルっぽいノリの文章であれば、いくらでも書けそう(笑)。
 
ここに、楽山の体質が、十分に表れています。「スピリチュアルっぽいノリの文章」・・って、詩でしょうか。楽山は、「いくらでも書けそう(笑)」なのだそうです。楽山が「(笑)」なら、私としては、笑止です。
 
批判のつもりで、他者の高慢をあざ笑うことで、自らの高慢を表してしまっています。あきれた自惚れ屋、それが、楽山です。
 
今回「(笑)」が2つですが、恐らく、楽山は、自分が詩を読めないし書けないものだから、詩をバカにしていると思います。自分が出来ないことはバカにする・・恐らく、自己愛性人格障害の特徴だろうと思います。
 
 
何処(どこ)

何処(どこ)
 
 
(2021年05月17日)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福実現党の提案する大統領制を、幸福の科学にあてはめれば、
幸福の科学のトップは信者らの選挙で選び、その権限、責任を拡大し、
大川隆法とその一族は違う次元の存在なので、教団運営とは全く関係ないものとする、これが大川家を守ることにもなる、ということか。
信者には噴飯ものだな、これは。
午前7:01 · 2021年5月16日·Twitter Web App
 
「大統領制」を「噴飯もの」と言って、また笑っている楽山です。人を笑うことが、楽山の生き甲斐なのでしょう。唯我独尊の楽山に「あてはめれば」、ずっと人間としても、また、最近は、ブログに秘密モードを宣言するほど、不遇と孤立が続いています。
 
霊能者気取りの楽山の望むことは、自分の「権限、責任を拡大し」さらに自分が「違う次元の存在」となり、高く高く舞い上がったつもりの陶酔気分に浸りたいのでしょう。人を笑えば自分が笑われますが、楽山の言は、噴飯ものどころではなく、糞飯もの、いわゆる、クソ食らえのレベルなのです。
 
(ネットより)
ふんぱん‐もの【噴飯物】 の解説
食べかけの飯をこらえきれずに噴き出してしまうほどに、おかしくてたまらない出来事。もの笑いのたねになるような、みっともない事柄。「政治屋が政界浄化を語るなど噴飯物だ」
[補説]文化庁が発表した平成24年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味とされる「おかしくてたまらないこと」で使う人が19.7パーセント、本来の意味ではない「腹立たしくて仕方ないこと」で使う人が49.0パーセントという逆転した結果が出ている。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
信仰継承についての天照大神の霊言では、
天皇は、天照大神の子孫という建前だが、宗教儀式をすることで存続を許されており、それを怠るなら危機的状況に陥ると語られていたかと。
これは万世一系も、天皇の神聖も認めないという意味だと思いますが、及川氏の考えはこれとは違うみたいですね。
午後3:36 · 2021年5月16日·Twitter Web App
 
「天照大神の霊言」というのがあるのでしょうか。一般に認められているのでしょうか。HSの主張ではないのでしょうか。本の名前なら、著者の善川三郎は、ORの父親のようです。このように、あちこちに、HS由来のことを当たり前のように引用している楽山です。
 
楽山は、アンチHSでしょうか、違うと思います。楽山の、いつも気持ち悪い「ですね」口調と「みたい」の婉曲は、恐らく、批判に見せかけた刷り込みです。
 
 
 
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  悪い例だけ刷り込む2
 
 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD) 2020年04月25日
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。
 
一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 
この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。
幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」
 
まず、自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、学者気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要です。楽山は、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の反キリストです。
 
宗教を否定し、おとしめる発言を続けながら、楽山自身は、宗教に変わる救いを、何も用意できません。楽山は、自己中なので、人のことなど気にしていないからです。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変形する宗教ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 
これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。
 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように、「これは確かにその通りだ」と言うしかないのです。そして、その上でサーフィンでもしているかのように、宗教=空想、という妄想を、吹き込んできます。
 
信仰の真実は、何一つ分かっていない楽山が言うような物事の解釈の空想的な意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのが楽山ですが、楽山が、代わりの生きるよすがなど何も提示することはなかったし、これからもないのです。
 
楽山は、自らの不遇と不幸に、人を巻き添えにしたいだけなのです。その結果として、とても冷たい自らの人格を、世辞や、オトボケや、丁寧語で、ごまかすしかないのです。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 
この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。
 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。
 
しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。実際は、楽山は、楽山の言う超常についても、キリスト教と信仰についても、何も知りません。知らないのに、知ったかぶりをするのが、自己愛性人格障害の症状であります。ゆえに、書くたびに、幼稚な無理解を露呈してきました。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛によって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいという自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようになっています。本業は詐欺師ではないかと思うほど、嘘と詭弁だけが、楽山ブログの大半を占めています。
 
ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。
 
宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。
 
しかし、宗教が悲劇をもたらすのは、楽山の訂正不能の偏見もそうですが、信仰者の場合、信仰が、神への勝手な思いこみの固定観念みたいな持ち物になった場合であり、間違った信仰の場合であります。
 
したがって、楽山が「宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ」と言うのは、無知と無恥のなせるところの、路地裏の濁った水溜まりで跳ねているだけの、仲間外れの瀕死の虫の泣き声に過ぎません。
 
聖三位は、決して、人の持つ観念で扱われる御方ではありません。神を観念として扱う者は、その報いを受けているだけなのです。
 
宗教って人に奉仕するものでしょうか。楽山の的外れです。何らかの生きる力を与えられたから、人は、神を救いと信じるようになるのです。それゆえに奉仕もするでしょう。楽山のような怠け者の人生観には、そういう要素がないのでしょう。だったら黙っておれ、ということです。
 
自分に奉仕する宗教と神なら信じてやろう、という楽山のトンデモ欲望があらわになっています。自己愛性病質の症状ばかりが目立ちます。宗教は、楽山に対してだけは、奉仕どころか、安らぎも癒しも救いも、もたらすことはないでしょう。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵について、また、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい宗教荒らしになってしまったのが楽山であります。
 
こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。
 
「熱心信者からは嫌悪されるだろう」と書いている楽山の言う熱心な信仰は、楽山の視野で捏造したものです。このような、程度の低い思い込みで、宗教批判を書けると思っている楽山の重症度が表れているだけなのです。
 
キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
楽山の言こそ、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたいのは、すべて、楽山の病的な自惚れが書かせているに過ぎないからです。この楽山の自惚れは、皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっている楽山の病気なのです。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって、批判にならない悪口だけを書いて、刹那の自己満悦を得たいだけの自慰行為になっています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習拒否によって知らないままの楽山の、物知り顔の丁寧語を、実際は、無知と無恥からの暗示と刷り込みの言葉を、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 
腐ってゆく攻撃性

腐ってゆく攻撃性
 
 
(2020年04月26日、同日一部修正)
 
(2021年05月02日、再録+、同日一部修正)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
言葉による表現や主張が成り立たない者は、曖昧な暗示による印象操作に走ります。その意図が見抜かれれば、成り立たないのはいっしょなのですが、病的な自己満足の楽山は、学習と成長がないので、卑怯な書き方をしても、正常で正当だと思い込み続けるのでしょう。自覚も病識もあったものではない精神病理の中に、どっぷり浸かっているのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
wikiによると、幸福実現党の党首は2013年から8年近く変わってないですね。党首選挙をした話も聞かぬ。党総裁にいたっては一時的に空席の時期はあれども、2009年から大川隆法氏が独占している。
幸福実現党が専制、独裁に反対してたとは意外です。
午後8:18 · 2021年4月30日·Twitter Web App
 
人の言うことは聞かない、進歩も成長もないことを繰り返し言ってくる、など、自己中の専制と独裁の妄想的執念で、病的に自分勝手なのは、楽山です。恐らく、体質的で人格的なものだから、生まれ育ってから、変わっていないのでしょう。
 
カルトはいろいろあれど、楽山は、幸福の欠片も、もたらすことのない詭弁屋です。どうか、だまされないように、関わらないように、近づかないように、注意してください。
 
楽山は、反省せず責任を負わない人ですから、人のことをとやかく言う資格はないのです。病気のせいで、それが分からず、今も、自らを省みないまま、書いてきます。
 
楽山の言は、殆ど、独りの部屋で、ぼやいているだけのようなものなのに、それを公開してくるのは、病識がないことに加え、異常に過剰に執拗な自己顕示欲の我執がそうさせるのでしょう。一途に我執だけを信じ込んで、正当化してきた楽山です。
 
楽山の書く文章には、欺瞞の臭みはあっても、個性につながる味がないのです。楽山が、前に言った台詞、"・・ていうか・・"、という無味の曖昧さが繰り返されているだけの文章です。これが、だますために、または、自慢するために、拵え、設えてゆく筆致なのでしょう。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
百田尚樹氏は、かの団体について、宗教ではあっても、カルトではないと考えてるんだな 絵文字(考えている顔)
引用ツイート
百田尚樹
@hyakutanaoki
 · 16時間
「日本第一党」と「幸福実現党」が一議席ずつでも取れば、国会も少しは面白くなるのになあ…
「幸福実現党」は宗教やからと言う人がいるが、公明党よりは100倍いい!
 」
午前6:38 · 2021年5月1日·Twitter Web App
 
A級戦犯を支持しているネトウヨの楽山は、改憲派で右翼の作家の言を引用しています。批判しているのか、賛同しているのか、はっきり書いていないツイートです。
 
自分の主張が、偽物ばかりになってゆくと、引用に付けるツイートも偽物になってゆきますが、考えるということが、病質のために、自省を含めた中立な思考にならないので、いっそう曖昧な筆致に逃げることになるようです。
 
いわゆる暗示という筆致で、これも誘導の詭弁なのでしょう。こんなこと言ってる・・と書いて、あとは、分かるでしょ・・という感じになります。
 
楽山の言にあっては、宗教の定義も、カルトの定義も、楽山の恣意によって決まるので、当てになりません。自己愛性人格障害の楽山には、自分の主張以外は、邪悪なカルト扱いになるのではないかと思います。
 
根拠無き高みに自分を置いて、人の悪口を言うのが生き甲斐になる自己愛性人格障害は、こういう不幸と罪悪をもたらすのです。
 
自己愛と、自己の人間としての尊厳とは、全く違います。自己愛に、人それぞれが成り立たない根拠でもあります。つまり、自己愛は、宗教にも信仰にも思想にもなりません。強いて言うなら、自分信仰という最悪の偶像崇拝になるだけです。楽山を信用しないでください。
 
 
(2021年05月02日)
 
拵える(こしらえる)
設える(しつらえる)
 
 
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  現代の偽善者2
 
 
二千年前の
キリストの時代には
偽善者は分かりやすかったかもしれない。
 
聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて
多くの人は、かなり、はっきりと分かるだろう。
尊大で傲慢なパリサイ人と
赦しを乞う以外になかった取税人は
明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは
そのような分かりやすさを持たない。
 
現代の偽善者は
柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まる。
 
現代の偽善者は
誰でも賛同するような話題を用意している。
そして褒め言葉や讃美言葉で熱心で敬虔な信仰者だと思わせる。
 
現代の偽善者が
尊大で傲慢になるのは
何らかの知的な話においてか
追いつめられたときでしょう。
 
宗教、政治、思想、などについて
彼らは、自分が知的に上だということを示します。
実はないのに、評論家のような立場で物を言うでしょう。
 
こちらの話は受け取らず、弁明せず、
自分の言い分だけを繰り返します。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら
従うことがベストだということを刷り込んでゆきます。
うっかり関わり続けていると
気づかないうちに刷り込まれてゆくのです。
 
彼らの言うことが、
すべての人に広まったら
いつのまにか、
気づいたら、とんでもないことになっている。
 
彼らの言うことが
何よりも自己中心を土台としていること。
けっして自らの罪や過ちを認めず
悔いることがないということ。
 
真実として、良かった、悪かった、ではなく
策略として、うまくいくか、まずいか、という判断です。
 
 
大事なことは、彼らの言うことが
聞き手に対して常に
上から教える態度に終始していることに気づくこと。
 
彼らの言うこととが
世辞の感謝やお詫び以上には
けっして微塵の反省も含まないこと。
 
これらに気づいたら一目散に逃げてください。
コメントにレスしないで無視して下さい。
けっして彼らの話に乗らないでください。
質問も確認もしないでください。
 
話し合おうと思ったりしないでください。
説明を求めないでください。
詭弁と無理解だけが返ってきます。
 
 
現代の偽善者は
覚悟の批判者だけが疑い
消耗を覚悟しながら批判する対象です。
 
彼らは
病的ナルシスト
サイコパス
病質者
異常者
偽善者
聖書のパリサイ人の
現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは
相手の本性を確かめることなく
穏やかな話には乗りやすい傾向があります。
 
教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。
批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。
 
現代の偽善者は
そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
現代の典型的なクリスチャンは
そのままでは
だまし言葉と詭弁だけを仕込んできたような
現代の偽善者には敵いません。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でした。
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を
本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。
 
今の偽善者は、良心がなく
代わりに、丁寧と柔和を装い、意図して騙すことを企みます。
 
批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 
潜在

潜在
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
(2021年03月21日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13分
この場面は、
カルト呼ばわりされたことに対して、
いかにもカルトっぽい言葉使いで反論してて、
思わず吹き出してしまったところです(笑)
これはようするに、
「わたしたち幸福の科学は、愛と悟りとユートピア建設を説く正しい宗教です」ということだし、
ぬけぬけとよく言えるなあ。
午前9:38 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、自らの招いてきた事態を全く気にしないで無視する、という、楽山個人の「いかにもカルトっぽい言葉使いで」、反論も出来ないのに、「思わず吹き出してしまったところです(笑)」と書いています。自身の無反省と無責任が招いた不都合を何も気にしていないことが表れています。
 
楽山が、高等感情を持たない病質者らしく鈍麻を表して、揶揄して「(笑)」などと書くのは、自分は正しいから余裕があるとでも思っているのでしょうか。「ぬけぬけとよく言える」ものです。
 
楽山は、「愛と悟り」も知らず、他者の意見に不応で、自らの惨状に不感の、人格破壊的な偽「ユートピア建設」の妄想をいだいている自己愛執着の、気取りだけで他者を揶揄して遊ぶ原始的な自己虫病質者です。自覚が何もないということを、一生、繰り返し表して続けてゆくのでしょうか。
 
楽山は、決して、誰の味方にもなれない人です。
 
今日も、楽山の言葉が、楽山に返って、楽山を斬ってゆくだけの、楽山の人生になっています。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
申し訳ないが、「HSの悪口を書いていながら、HSで取材できると思うな。取材したいなら、HSに対して相応の礼を尽くしてからにせよ」と聞こえてしまう(笑)
それから人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います。
午前11:28 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、「申し訳ないが」という政治家の慇懃無礼の口調で言っています。
 
「人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います」・・違います。犯罪者は、明らかに人権を制限されています。現状、最高刑は、死刑であります。つまり、公共の福祉に反しない限りでの人権です。
 
したがって、嘘吐きと偽善の悪行を働き続けている楽山には、人権を云々する資格はないのです。礼を尽くさず、礼の芝居でごまかす丁寧語で、宗教を子供じみた霊と超常の話と未熟な机上の理路の破綻で語って揶揄し、人を欺き続けている楽山は、首を洗って待つしかない立場でしかありません。
 
言い換えれば、楽山は、天然自然のあり方に、真っ向から反しているということです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
「歴史的資料となるだろう。」とは誰の言葉なんだろう。
ふつうは、本の帯にある推薦文は、他者によるものだと思うのだが、
まさか、まえがきにある著者本人の言葉ではあるまいな? 絵文字(口を開けて笑っている顔)
午後4:18 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
このように、楽山という人は、他者のみっともないことや、自分より劣っていると思う人を見つけて笑いたいだけだろうと思います。そういうことが見つかると、このツイートのようなことを書かないではいられないのでしょう。
 
結局、日常でないところ、つまり、一つは超常の現実離れ、もう一つは、恥ずかしいゴシップが、楽山の唯一の楽しみなのでしょう。自分で、別の笑い、例えば、おかしいのではなく、心が温まって笑顔になるようなことを何も見出すことが出来ないようです。
 
楽山については、次のようなことを感じてきました。高笑いはあるが、微笑みはない。共感という言葉は知っているが、共感することがない。辻褄が合ったり、面白おかしかったりすると、感動したと言う。反省という言葉は知っているが、反省していないし、悔いてもいない。反省という言葉の前と後で、何も変わっていない。
 
恐らく、しんみりした深い情緒を感じとるセンスがないからだろうと思います。
 
楽山は、真摯、真剣、真面目、丁寧、ということを装いながら、その実質が全く見られません。腹の底では、他者を見下げていて、あらゆる不幸を、笑いの種と、芝居の種にするだけで、本気では何も気にしていないのでしょう。
 
 
(2021年03月21日)
 
 
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  楽山の詭弁物語
 
 「私の聖書物語」椎名麟三著
 2021年03月13日 楽山日記(LD)
 
 
何も知らないし分からないのに、知ったかぶりをする楽山は、学習が成り立たないために、魔法のような宗教の思い込みに走っているのでしょう。共感がないために、理路も情緒も、意味も直観も、そして、真実も、言葉でごまかしてきたのです。
 
*私の聖書物語
先日、椎名麟三の本を読んでみようと思い立ち、「私の聖書物語」を読んでみた。自分には難しい本だったが、共感できるところも多かったので以下にメモしておきたい。
 
楽山は、「メモ」と書くことが多いです。謙虚だからでしょうか、否です。メモだから、責任負わなくていいと思っているのでしょう。
 
*愛すること
愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものであるからだ。 
(『椎名麟三全集15』「私の聖書物語」、椎名麟三著、冬樹社、昭和49年、p.344)
 」
愛がどうしたこうしたと言うのは気恥しいものであるが、このくだりを読んで、随分前に大恋愛中の友人がこんなことを言っていたのを思い出した。
「相手に、自分のどこを愛しているかと聞いたとき、ここが好きとか何とかいったら、それは本当には愛してないってことなんだぞ。本当に愛してたら、ここが好きとか、こういうところを愛してるとか、そんなことはいえないもんなんだ」
こんな彼が上の文章を読んだら、「その通り!」と喜びそうである。
 
エロス・性愛、フィリア・人間愛、アガペー・神の愛、のいずれのことを言っているのか、書いていません。「愛している」という台詞からは、エロス、性愛、恋愛のことを言っているのでしょうか。また、楽山の不備の言が始まっています。
 
楽山が、どう思うかを書いていません。分からないからでしょう。愛と性欲の区別がつかないのでしょうか。性欲も分からないのでしょうか。どこを愛しているかということではないと、わざわざ言っているのは、どこはチャームポイント・好み・魅力であって、愛という関係とは質が違うことを、楽山は知らなかったのでしょうか。
 
*自由と愛
また著者は、自由についても次のように書いている。
愛というものは、究極には理由のないものであるならば、自由というものも究極には、理由のないものなのである。
(同上、p.344)
 」
自由も、愛と同じく、ああだこうだ言っても仕方のないことなのだろう。ただ、ああだこうだ言っても仕方ないと分かってはいても、ああだこうだ言わないではいられないのだから仕方がない(笑)。
 
引用の理路も、愛=自由ではないのだから乱暴で不十分ですが、楽山は、引用しておきながら、またしても、説明を書きません。なのに、ああだこうだという文句だけは言ってくるのです。「仕方がない」は、何の説明にもなりません。これで勝手な書き方の弁解にはなりません。
 
散々、詭弁と嘘で、人を侮辱し、だまし、おとしめておきながら、何が「(笑)」なのでしょう。楽山には、何も言わないでほしいのです。偽善で腐った楽山の言論は、ノートにでも書いて、一人で笑っておればよいのです。無反省、無責任、無神経、無理解の病的ナルシストの言など、迷惑なだけで、誰のためにもならないからです。
 
訂正不能で、学習する気がなく、都合のよさそうな言葉だけを使い捨てで悪用してきて、結果、嘘と詭弁しか出してこないような、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。そういう者は、批判の対象にしかなりません。
 
*人間はすべて許されている?
キリーロフは、小さいとき見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである。スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。
(同上、p.361)
 」
これは、ドストエフスキーの「悪霊」についての文章である。
「悪霊」は、ウン十年前の夏に汗をかきながら読んだ覚えはあるものの、その内容はきれいさっぱり忘れてしまっているので、上の文章については自分は何も言えない。
でも、「人間はすべて許されているのだ」という言葉には、はっとさせられた。これは前々から考えているテーマなので。
 
今までの経過から、楽山語の「人間はすべて許されているのだ」は、何をしてもええじゃろ・・ということです。なお、キリスト教においては、許される、ではなく、赦される、であります。許可ではなく、赦免であります。それを、楽山は、何でも許可、何をしてもいい、ということに、すり替えています。
 
何もまともに考えることの出来ない自己愛性病質者の楽山の解説は、すべて恣意的です。自己正当化と自慢だけをしたいだけの詭弁なのです。
 
*信仰と許し
許しについて、本書では次のような文章もある。
キリストを信じない人にははなはだ申し訳なくて申し上げかねるのだが、その人さえも実はキリストにおいて救われてあるのである。また私に叱責の手紙を下さった熱心派の方々にはまことにお気の毒であるが、イエスをキリストとして信じられなかった私も、驚いたことにキリストにおいて救われていたのである。その事実が私をいつも震撼させるのだ。
(同上、p.401)
 」
宗教では、信じれば救われる、悔い改めれば許されるという具合に、許され、救われるには一定の条件があると説くことが多いのだが、著者はそれとはちがう考えらしい。
 
楽山は、「信じれば救われる、悔い改めれば許される」という言葉の意味を全く理解していないことが、今までに明らかになっています。自己顕示欲の知ったかぶりだけで書いています。どうか、真に受けないでください。
 
疑いがあっても、信仰が全くないわけではない、という意味かもしれませんが、楽山は、それを、反キリストでも、何をやっても許される、という恣意によって、ねじ曲げています。このような話の進め方をすること自体が、既に、反キリストの宣伝者以外ではないということです。
 
ちなみに自分も、信仰や悔い改めなど、何らかの条件を満たしてはじめて許され、救われるというのではないように感じられる。それらによって許され、救われるというよりも、それらによってこそ許され、救われていることに気づくことができるというのが本当ではないかと思うのである。
 
今度は、条件という言葉だけで、楽山は、信仰を、教条主義にすり替えています。ベースが理解が皆無の楽山からは、嘘と詭弁しか生まれてこないのです。
 
自分の罪に気づかず、自分の罪を認めない者は、救いに気づくこともないのです。信仰は、罪が赦されて生きる、という救いだからです。
 
楽山は、悔い改めもせず、反省もしないで、救われているつもりなのでしょうか。それこそ、宗教と信仰を悪用する自己顕示欲の悪夢であります。ますます、ふてぶてしくなり、ひどくなっています。
 
*神義論
神が、キリスト教のいうように全能だとするならば、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのも神のせいである。何故なら人間の一切やこの世の一切を決定しているのが神であるなら、禁断の木の実を食べることも神において決定されていたことにちがいないからだ。だがもし禁断の木の実を食べるということだけは、神の決定から逃れ出ていて、神の知らないことであったとするならば、そんなぼんくらは、神でも全能でもあるわけはないではないか。
(同上、pp.370-371)
 」
これは上と同じく、自分には興味深いテーマだ。
神は全能であるとすれば、どうしても考えないではいられないことなので。
 
このように、同じような、いちゃもんを言っているように見える小説家の言を、楽山は、フルに利用し悪用してきます。楽山の言い分は、神が、楽山にも分かるような都合のよい辻褄の合う言動をしないなら信じない、ということです。既に否定されたのに、また、平気で書いてくるのが、楽山の病質であります。
 
(ネットより)
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。
・・・
1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。
 
楽山の引用と解釈は、神の辻褄が分かるなら信じる、という、楽山の自我の完全欲の言であります。
 
信仰は、自らの完全を否定することから出発します。人間は、決して完全にはなれず、神に希望を託さなければ、愛も癒しも希望もなく、楽山のような謀略者に食い殺されてゆくだけです。
 
ゆえに、価値観を、この世に置くのではなく、最終的結果を、神に任せる道が、信仰です。辻褄が合わない世界だからこそ、不完全を自覚する人は、神を必要とするのです。
 
神が分かるなら、信じる必要はないのです。楽山のような完全欲の病質的ナルシストは、自己満足が得られないと気が済まず、いくら批判しても、同じようなことを書いて、疲れさせてきます。
 
信じないのは楽山の勝手ですが、誰かに影響を与えようとする意図は、これもまた、悪夢のようなものなのです。早く過ぎ去ってほしいと思います。楽山は、人間性を破壊する悪夢です。
 
どうか、楽山にだけは、関わらないでください。関わることが、楽山の他害性であり、徒労であり、疲労であり、地獄であり、人間としての思考も情緒も失ってゆく兆候なのです。
 
*信じないけれども信じている
「それが実に全くほんとうに困ってしまうんですよ。お前は信じているんだとおっしゃるなら信じているんですし、信じていないんだとおっしゃるなら信じていないんだからです」
「どちらがほんとうなんだ!」
「ところが全く困ったことにどちらもほんとうなんです。つまりその二つは、実に平和に共存しているわけなんですよ」
(同上、p.374)
 」
これは奇跡を信じるか、信じないかという話であるが、著者のなかではこの二つが「平和に共存している」そうである。
 
「これは奇跡を信じるか、信じないかという話」ではありません。キリストに共感するか、キリストを好きになるか、という話なのです。楽山の勘違いは、人間にとって、どこまでも世迷言です。
 
楽山は、おびただしい嘘と詭弁で、他害と破壊を及ぼしている自覚、即ち、病識がないのです。楽山には、平和もありませんし、共存もありません。自我の満悦と訂正不能の悪夢があるだけです。
 
これは自分も同じだ。奇跡なんかないだろうと思いつつ、奇跡が起きたら起きたで、そういうこともあるだろうとさほど抵抗なく受け入れることはできる。
 
楽山は、奇跡が起きても、起きなくても、平気でいられるそうです。楽山には、霊が分かるっぽいという妄想的発想症候群は起こっても、本当の奇跡は起こらないでしょう。
 
楽山の言から明らかなのは、楽山のように偏向し腐敗した心には、心の奇跡など起きようがないということです。起きないのは仕方ないが、他者の心の奇跡と目覚めを、邪魔するのはやめるべきです。誰も、楽山のようになってしまっては、ささやかな幸福さえも失ってしまいます。
 
あれこれ見て、あれこれ考えた上で、どうやら神は存在しないようだと結論づけたとしても、神を信じて祈ることにさして抵抗はない。
 
白々しい嘘です。逆説の哲学者シモーヌ・ヴェイユじゃあるまいし、存在しない神に祈る楽山の正体は、信仰を欠片も持たないで、だますために、祈り芝居の記事を書く詐欺師です。
 
祈ることに抵抗がないそうです。それは、楽山が嘘を平気で吐く異常者だからです。祈りを何と思っているのでしょう。祈りは、神への唯一の音信です。神は、人の総てを見抜きます。楽山は、神を何とも思っていないから平気なのです。
 
楽山は、おのれの自我が神を、物か人のように、机上の対象にする怨念のような異常な確信から、この軽さで、神も、上から眺めて、かわいがってやろうとでも言うのでしょうか。黙っておればよいものを・・、何も知らない、ということの、怖さです。
 
我ながらおかしなことだけれども、こういう矛盾は平気である。何かの本で野蛮人かどうかは矛盾に無頓着であるかどうかによるという話を読んだ記憶があるが、この基準からすればどうやら自分は野蛮人であるらしい(笑)。
 
楽山が、こういう矛盾に平気なのは、自己愛性パーソナリティ障害だからです。逆説的真実も何もなく、自慢したい、ひとかどの人物と見られたい、特殊の霊的境地がある、分かっている、という妄想に、酔い痴れて生きているのが、楽山であります。
 
*人であり、神であるということ
荒本さんの反逆は、イエスを神として、人間であることを捨象したキリスト教に対する反逆だったのだと思う。私は、イエスをキリストとして信ずる者であるが、キリスト教界のことはあまりよく知らない。だがおそらく荒本さんの反逆したくなるようなものが、少なくとも荒本さんの所属していた教会にあったのではないかと推測されるだけだ。ただ荒本さんは、そのイエスの人間を強調しすぎたのである。
(同上、p.439)
 」
著者によれば、荒本さんは「熱心なクリスチャン」でありつつ、「イエスが、人間であってなぜわるい、とか、マグダラのマリアに恋愛していてなぜわるいとかいって、キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」と主張して教会から離れ、マルクシストになり、「アンチ・クリスト」という論文を発表するようになった人であるが、やがて病に倒れ、最期のときには「おれは、神を信じていたのに…」と言い残していったという。
 
「キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」
・・楽山とは全然違って、椎名麟三という人が思考するキリスト者であることが表れています。私も教会からは離れていますが、おかげでか皮肉にか、悪夢のような楽山という偽善者を、人間として批判することが出来ます。
 
キリストを、人間かどうか、決めつける必要が、断定する根拠が、能力が、人間の、いったい、どこにあるというのでしょう。
 
また、キリストの、人間性をもっているからこそ人間に共感するという恵みを否定したら、信仰は、おしまいです。楽山のような、超常だけのカルトになってしまうからです。
 
キリストの人間性を無視することは、超常奇跡信仰であり、人間が受け取れるものを見失ってゆく袋小路への堕落であります。なお、経験上、私が通っていた教会をはじめ、まともな教会は、キリストの人間性を無視したりはしません。教会もいろいろであります。
 
恐らく、キリストの人間性を無視する教会には、楽山に似た外道の訂正不能の者がいるのでしょう。そういう者は、どこにいても、真実を、人々から遠ざける定めなのでしょう。
 
キリスト者でもなく、必要な知識も理路もなく、信仰など持ったことがなく、教会外にいて、減らず口だけをたたいているのが、楽山その人であります。どれだけ、信仰を語る圏外にいても、自己愛性の病質者は、身の程を知ることがなく、弁えることがないのです。
 
著者は、イエスは人であり、神であるので、どちらか一方の見方に偏することに注意喚起しているようであるが、近頃の自分の関心は、信仰上のイエスより、歴史上のイエスに大きく傾いているので耳に痛い話ではある。
 
先ず、楽山は、信仰上のイエスを知りません。むしろ、憎んでいると思います。そういう人だから、知りもしないのに、無神論関連の本から、信仰をけなし、信仰関連の本から、信仰を揶揄してくるのです。
 
歴史上のイエスに傾くなどと平気で言っているのが、思慮が浅いのに思い上がっている証拠です。歴史上のイエスは、二千年前ですから、いつになっても、詳細は不明であります。過去は、いかなる資料によっても、その資料の信憑性が問われ続けます。
 
大切なのは、聖書が、超常ではなく、人間に何を伝えようとしているか、ということです。
 
それに、信仰もないのに、キリストの史実だけを追い求めることは、世界で一番の徒労であり、無駄であります。楽山が、いかに問題外であるかを、楽山が表しています。
 
*これから
椎名麟三の本は、以前、とあるクリスチャンから勧められて一冊読んだきりだったのだが、今回改めて読んでみると難しくて分からないところもあるが、著者独特の思考と語り口によって様々なことを教えてくれ、読みごたえがある。つづけて他の著作も読んでみるつもり。
 
楽山は「難しくて分からないところもあるが」「読みごたえがある」のだそうです。この軽さと浅さが、楽山の特徴であり、厚かましさであり、本気の無さであり、自己顕示欲の権化であることを表しているのです。
 
楽山が、どれだけ、本を読んだといっても、信用しないでください。自分に都合のよい言葉を漁っているだけの楽山が、真の読書をすることはないのです。
 
本に学ばないで、自分の言い分を、肯定してくれそうな言葉面を探して検索しているだけです。そうして、楽山は、勘違いの妄想を、詭弁によって、ごまかして書いてくるのです。
 
楽山の言は、丁寧語で書いてくる分、少しばかり、人を誘いますが、注意してください。楽山は、理路を学び、信仰を知っている者からは、石にも砂にも値しない、嘘との偽善の有害物です。
 
キリストが、なぜ、手加減せずに、パリサイ人という偽善者を、あそこまで厳しく否定したかが、楽山という偽善者を通して、表されています。現代にも通じる警告であり、教えであります。
 
私は死んで何も言わなくなっても、神は、いつまでも偽善を黙って見ておられる御方ではないのです。このことが、一見、空しいことをしているように見えても、臨死において、キリストが、父なる神が、与えるところの、最終的な平安であり、救いであります。
 
 
ウソの首は赤い

ウソの首は赤い
 
 
(2021年03月14日)
 
 
  楽山のツイッターですが
 
なんだか、こんな話を聞くと、もーれつに読みたくなってくる。
トンデモ本は好きなので(笑)。
引用ツイート
>>
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 2時間
実は、ずっとやりたいと思ってたけど、まだできてないことがある。それは、この本を論評すること。
以前ざっと読んだのだが、あまりに言っていることが無茶苦茶で、かえって霊言の胡散臭さが際立つ名作だったww 
<<
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
引用することで、どんどん、他の批判者を、自らの偽善の正当化に巻き込んでゆく、トンデモ的外れの楽山です。いつも、楽山は「(笑)」なのでしょう。楽山は詭弁を弄して、発言の責任を負わず、人を、疲労させるだけの人です。
 
自分の落ち度についての問題も、その指摘も、これだけ無視して、ふつうの人を気取ることの無理を感じないで笑って、明るい言葉を発していられるというのは、ふつう考えられないことです。
 
楽山の、嘘と詭弁と、反キリストの言と、無反省・無責任を批判しています。あまりに言ってることが無茶苦茶で、霊が分かるっぽいと言っていた楽山が、ブログ記事とツイッターで、馬脚をあらわしてゆく成り行きです。
 
楽山に、他者の言を引用する資格はないと思います。理由は、真実を追求する資格のない病質的偽善者であり、楽山自身が、真実を裏切り続けているからです。
 
いちばんおかしいのは楽山であり、おかしいことをしてきたのであり、その楽山が、他者に向かって、おかしいなどと意見を言う資格はないということです。今までの2年間の楽山批判が根拠です。
 
 
(2021年03月14日)
 
 
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  楽山の不感と作為
 
 『晩年の父内村鑑三』内村美代子著
 2020年12月24日 楽山日記(LD)
 
 
前にも書いたことですが、楽山は、自分の考えを整理することが出来ないので、他者の発言を引用した記事を書いています。殆ど引用で出来ている記事であるのは、楽山に、答える資質がないからです。恐らく、感想文というレベルにも達していないと思います。
 
あとは、楽山の、いつも気安い思いつきで、書いてゆく姿勢が続いていますが、気安さ、安易、不注意、などということを、まるで気にせず、気取った書き方になっています。
 
*著者
著者は内村鑑三の長男祐之の妻であり、本書では自身の立場から見聞きした鑑三の言行について綴っているのだが、記憶に頼って書くだけでなく、鑑三の日記と照合し事実関係を確認してあるところがすばらしい。
「あとがき」によると、戦後は鑑三について「虚実とりまぜた一身上のことまでが」取りざたされるようになったので、真実を書き残しておきたいと考えて筆を執ったとのことであるし、もともと書物の編集、翻訳に携わっている方なので、そのような念入りなものになったのだろう。
このことから本書の信頼性は高いと思うのだが、その中で自分にとって最も印象的だった点について、いくつかメモしておきたいと思う。
 
楽山にとって印象的だった点、というのは、要警戒です。楽山は、今まで、都合の良いところだけを引用して、自分の幼稚な宗教観に、実際は、反宗教に、結び付けてきたのです。そうやって、楽山は、有名人の著作を、自分だけの狭い視野の中で、恣意的に、自分に都合よく語ることで、おとしめるのが、楽山の上から目線として、有害性を増してきました。
 
楽山は、本を読んで、勉強し学習するのではなく、利用し悪用してきた履歴が、本の感想文さえも、詭弁の醜悪さに変えてきたことを忘れてはいけません。キリスト教、無神論など、どちらも、楽山は利用します。そして、楽山は、一貫して、いちゃもん屋の、思い上がった無反省・無責任・無理解の反キリストです。楽山の感想文を信用してはいけません。
 
*情熱家
まず一つ目は、内村鑑三は非常に情熱的な人だったということである。
対人関係では、あまり熱情が大きすぎるため、相手の態度に絶えず物足りなさを感じておられたのではなかろうか。総じて愛憎の烈しいのが内村家の性格だそうで、父もよほど、それを自制しておられたように思う。
(『晩年の父内村鑑三』内村美代子著、教文館、1985年、p.104)
いったい大きな子供のように感情の強い人でしたから、気に入ったものを頂くと、その喜びは大変なものでした。
(同上、p.114)
「実家と絶交して、いったいどうしていたのか」と、不審に思われる方もあるかもしれないが、絶交は父のよくやることなので、私は大して驚きもしなかった。
(同上、p.44)
父は直情径行、悩みごとを家族に隠しておけるような人ではありません。
(同上、p.134)
 」
著者の夫(鑑三の長男)は、「いたずらっぽい目」をして、こんなことを言っていたともいう。
「おまえはすぐプンとするが、それはおまえの将来に決してよいことではないから気をつけるんだよと、お父さんが言ったものだよ。あのお父さんがね」
(同上、p.75)
 」
こうしてみると、内村鑑三はその長所はもちろん、そうでないところも含めて家族から愛されていたようだ。
 
引用が、長所よりも、短所寄りであることに気づいてほしいと思います。「愛憎の烈しい」「感情の強い」「絶交」「直情径行」「あのお父さんがね」・・こういう引用で、感情的で短慮、という印象を吹き込みたいようです。
 
「それをそうでないところも含めて」「家族から愛されていた」・・というのは、後者で前者を受け入れやすくしているのでしょう。
 
*バランス
二つ目は、情熱家ではあっても極端にははしらなかったという話である。
自身も催眠薬などには苦心されたと見えて、薬のことにはなかなか詳しく、ある人が毎晩ジアールを服用されると聞いて、
「そんな乱暴なことをして!」
と、眉をひそめておられたこともある。
 なるたけ強い薬を避けて、自然の食事療法に近いものを採られ、米は三分づきぐらいの黒いものと決まっており、餅は栗餅であった。
 しかし何にもまして精神力を尊重しておられたことは明らかである。それかといって、クリスチャン・サイエンスなどにははしらず、どこまでも常識の則を超えぬやり方であった。
(同上、p.94)
 」
不眠症で悩んでも無謀なことはしない、信仰心は強く、感情も豊かでありつつも、理性的で常識をわきまえているというのは大人だなと思う。
 
薬、食事療法、精神力、など、ことさら、引用しなくてもいいようなことを、わざわざ引用しています。「不眠症で悩んでも無謀なことはしない」「信仰心は強く、感情も豊か」「理性的で常識をわきまえている」・・こういう理性も情性も単純に褒める言葉から、楽山の、気安さ、安易さ、めんどくさがっているところ、を感じてほしいところです。
 
キリスト教について、ほとんど触れておらず、世辞と誘導以外、書く必要のない感想文だからです。
 
読んだつもりだから、記事にして、満悦したいのでしょうか。だから、結局、「大人だな」という褒め言葉しかなくなります。確かに、評論家気取り?の小学生?みたいな楽山よりは、大人なのでしょう。
 
*天罰
三つ目は、内村鑑三は天罰を信じていたらしいことである。
ある日の食後の雑談の折りに、父は容をあらためて申しました――
「この年になって、いよいよはっきりわかってきたことは、この世には天罰があるということ。人の子をわなにおとし入れれば、自分の子が同じ穴に落ちてしまう。私はそういう実例をたくさんに見た。すべての人がこの事をよく知って、神様を畏れなければならない」
(同上、p.175)
 」
「悪には必ず報いがあるが、災いはすべて悪の報いとは限らない、義人の苦難のように」とするなら、天罰を信じることと因果応報を信じないことは両立し得るのだろうが、ヨブ記講演において因果応報を説くヨブの友人たちをあれほど強く批判していながら、悪には天罰という報いがあると強く信じているところは興味深い。
 人の脳は、目的論的、因果応報的に考えるようにできているというが、内村鑑三もその例外ではないということだろうか。
 
楽山に、天罰ということから、目的論、因果応報、という結論しか出てこないのは、今まで、そういうことしか、考えず、書いて来なかったからです。しかも、その説明をしていません。楽山は自分を、内村鑑三を分かっている評論家気取りで、偉く見せようとしているとしか思えない記事なのです。
 
内村鑑三も、楽山にとっては、楽山の視野と思考の例外ではない、と言いたいのでしょう。楽山のような自己愛性人格では決して届かない人物を、例外視したくない楽山の自己愛性の高慢な欲望からの見なしだと思います。
 
*生物学と信仰
最後に、本書によると、「一生を通じて最も感化を受けしは如何なる書なるや」との問いに、内村鑑三は次のように答えたという。
基督教の聖書、ダーウィン氏原種論、ブレース氏の人類思想発達史
(同上、p.152)
 」
また学生時代は、生物学が得意だったらしく、志賀重昴による内村鑑三の紹介文にはこうある。
特に生物学に到りては全百点を得。
(『内村鑑三選集 別巻』「〔内村鑑三氏〕」志賀重昴著、岩波書店、1990年、p.3)
 」
内村鑑三は農学校の卒業後には、水産生物学の研究で種々の業績を上げたというし、信仰を持ちながらも、それとは相反するだろう生物学の分野でも優れていたというのは驚かされる。
マクグラスもそうだが、こういう風に自己の信仰とは相容れぬだろうものさえ受け入れ可能な人物は、やはりそれだけ器が大きいということなのだろう。
 
本の名前を挙げ、生物学百点、ということから、楽山は、なぜ、信仰と相容れぬものを受け入れ可能、さらには、器が大きい、などと言えるのでしょう。理路が、全く整理されていないので、根拠になりません。いつものように、子供レベルの思い付きで書いています。だとすれば、全体的に、評論家気取りの筆致が、嘘だということになるのです。
 
自己愛の強い楽山には、内村鑑三も、神学者のマクグラスも、理解できるはずはないのです。しかし、評論家気取りで、「マクグラスもそうだが」と、器の大きさが分かる立場を、さらに気取って、同列のように、書いてしまうのです。自分も、肩を並べている・・?、とでも言いたいのでしょうか。
 
反キリストで、キリスト教もキリスト信仰も全く理解していない楽山が、正当な批判も、正当な賛同も出来ないのに、キリスト教について、的を外しながら書いてくる雑言の文章を信用してはいけません。何を書いても同じことで、信用度は、ゼロ~マイナスでしかありません。
 
今回は、キリスト教の人がテーマだから、真っ向から否定してはまずい、とでも考えたのでしょう。しかし、このような、書いた文章のあちこちに、ナルシストが顔を出してくる楽山であります。ここで明らかになってくるのは、恐らく、楽山は、誰も尊敬してはいないだろうということです。
 
 
花と見せかけ

花と見せかけ
 
 
(2019年12月12日、同日一部修正)
(2020年12月25日、加筆して再録、さらに修正)
 
 
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