ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ネトウヨ

 
  楽山のねっとり右翼2
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張して、危ない方向へ誘導したいようです。楽山は、その時点でアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合うなどということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだだけの楽山の話であり、体験談とは別の話なのです。面談したというのは、また、成りすましと捏造の悪意で出来ているような、楽山の、インテリ気取りの、自慢したいだけの、作り話ではないでしょうか。
 
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。何だか、右翼の誰かに言われて書かされているのではないかという感じもするような、下手くそな文章の運びでもあります。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
「降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか」・・なんてまわりくどい言い方なのでしょう。過酷な運命の二重否定+否定疑問による肯定です。楽山のボンヤリ言語の中でも最も劣悪な長さです。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の腐敗臭がプンプンしてきます。
 
本来、兵士に自決を勧める国は、ろくでもない国だと思います。楽山は、そういう詭弁の群れの中にいるのでしょう。しかし、いちばん臆病で、自己中で、戦争中でなくても、卑怯に言い逃れている楽山こそ、最も人間離れした自己中であり、戦場では最初に仲間を放って逃げる輩だと思います。
 
戦後の人間として、実際はどうであったかについては、詳しく知らないのだから、本を読んだからと、降伏したら皆殺しの恐れもあるみたいな書き方をして、疑問を投げておきながら偏向した結論を、ボンヤリ曖昧な言い回しで刷り込んでくる楽山が、最も邪悪であります。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
人類の恥 架空の演壇に立ってご機嫌のペテン師

人類の恥 架空の演壇に立ってご機嫌のペテン師
 
 
(2021年)
(2022年09月08日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
https://twitter.com/minnano_dougaww/status/1429068465474727941
(このリンクは動作しないようです。)
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らないことがあります。謝ったからいいじゃろという言い訳は成り立ちません。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話であります。決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、楽山のように、何を言われても平気で同じことを言い続け、反省しない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。楽山を相手にしてはいけません。
 
その根底には、病質として、自己中があり、罪悪感や羞恥心の欠如があるのです。楽山は、また、勘違い、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、みんないっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山の印象操作に騙されないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、婉曲表現や暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより、・・ホットットギス、・・と
自分の名を唱えているようにも聞こえる
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
 
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない・・・から
 
 
  忸怩(じくじ)
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
共感性皆無で不感不応の自己愛者、楽山を批判するには、理路の正しさに努めるだけでなく、怨念か幽霊にでもなるような情熱~情念が必要です。楽山は、変性し崩壊してゆくプロセスにあります。企めば企むほどに失敗ばかりの楽山の人生を描くのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山はネトウヨ2
 
 『スピリチュアリティの興隆 新霊性文化とその周辺』島薗進著
 2020年08月16日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、異常な精神背景以外、見るべきものはありません。名称ばかり書くのは、中身を理解できないからなのです。楽山は、一度も納得のいく話をしたことがありません。
 
いつも明らかになるのは、大きなテーマや名前を、いっぱい並べて、それだけで、自分を、偉く見せよう、偉く見せよう、という、欲望への執着だけなのです。
 
新しいのは、今回、楽山が、右翼、つまり、ネトウヨだということが、はっきりしてきたことです。
 
 
タイトルにひかれて本書を読んでみたのだが、読みっぱなしだとすぐ忘れてしまうのでその内容と感想をメモしておきたい。
 
メモならば、整った文章になるまで、人には見せないものです。それを、メモしておきたい、などと言って、出してくるのは、自己顕示欲としか言えないでしょう。傍迷惑です。
 
「スピリチュアリティの興隆 新霊性文化とその周辺」というタイトルに惹かれるのは、霊が分かるっぽい楽山の精神背景を物語っています。自分もスピリチュアルだと言いたいのでしょう。
 
しかしながら、心の理論や、奇跡の話において、何ごとにつけ、楽山の誤読は、妄想的と言えるほどに偏向や恣意的な解釈が著しく、とても、楽山に、霊か何か知らないが、直観力や直感力があるとは思えません。とても幼稚な自己正当化のネタに使っていただけです。
 
「心の理論」
何度、これを引用すれば済むのでしょう。
発達心理学を、霊の話にすり替えています。
 
「奇跡について?」
ここでは、楽山の理路の混乱が見られます。
 
 
まず本書の第Ⅰ部では、戦後日本におけるスピリチュアリティ、精神世界、ニューエイジ、緩和医療、ウーマンリブなど「新霊性運動・文化」について概観し、その先駆者として山尾三省、船井幸雄、柏木哲夫、田中三津らの思想、活動を分析している。
 
分析というものをしたことのない楽山です。また、文責というものを考えない楽山です。楽山にあるのは、スピリチュアリティではなく、原始的な自己顕示欲だけです。学者気取りやインテリ気取りで記事を書いていますが、そこには通念的なことか、妄想しかありません。
 
 
また新霊性運動・文化と伝統宗教とを比較し、後者は人格を持つ超越者とそれによる救いを信じ、権威主義的傾向が強く、枠組みが明確であるのに比べて、前者は法則や大自然を崇拝し、個人主義傾向が強く、伝統宗教のような大系化もされていないとしている。
 
「としている」としか書けない楽山です。こういうのを、記事に書いて、いったい、何を主張できると言うのでしょう。いったい、この記事の内容は、どこにあるのでしょう。カルトの宣伝ビラよりも、軽薄な、実体のない名称だけの行進です。楽山は、何一つ超越も克服も出来ていません。
 
 
さらにはアメリカなどではキリスト教によるニューエイジ批判はあるが、日本では仏教や神道による新霊性運動・文化批判はほとんど見当たらず、その理由は新霊性運動・文化は自然崇拝、アニミズム的な色彩が強く、日本的な宗教感覚に近く、大きな相違が見当たらないためだろうとしている。
 
楽山は、新しい "霊" のカルトでも、作るつもりなのでしょうか。ボロクソなものになると思います。自分は、ニューだとでも言いたいのでしょうか。だるいだけでした。引用元の字面を拾って、相違が見当たらないと書いているのは、宗教感覚が皆無で、ぼんやりと妄想的に勘違いしているだけだからです。
 
楽山は、今まで、はっとさせられるような洞察の効いた文章など、一度も書いたことがありません。むしろ、だまし目的の、詭弁、嘘、謙虚芝居、霊感妄想のようなことばかりが表れてきました。月並みな先入観しか持たず、さらに、それを自分の言葉に消化することも出来ない人です。
 
 
第Ⅱ部では宗教教団に所属しつつも、その枠にとらわれない考えを持ち活動することを欲している聖職者、宗教教団に属していないが何らかの高次の存在を信じ、または求めている人、宗教とも精神世界とも無縁でそれを意識していないが、それでも結果的には新霊性文化と深くかかわった価値観を持って生活している人々のインタビューを分類整理して紹介している。
 
高次の存在と言えば格好がよいということでしょう。「新霊性文化」とは何でしょう。前の記事に書いたところの、霊的××と言えば神妙な気がする類の言葉だと思います。霊的を、霊性に変えて、さらに新を付けています。こう書いた人の、自信~高慢が表れているようです。
 
ここに並べられている言葉は、気取った者たちが書くところの、学術用語で、素人が読んでインテリ風味に受け取らせようという意図で書かれた言い回しです。常識という根拠が無いことを直観的に書く分野では、こうなりやすいのでしょう。
 
危険な要素として、楽山のような自己顕示の我欲が飛びついてくるということなのです。楽山は、それが大好きで、本を読んだことにして、実際は、自分に都合の良い言葉を漁って拾っては、書いてあると書いてきただけで、説得力皆無の世界で、他者が理解できないことに、むしろ満悦しているのです。
 
難しい言葉が、字面だけ大好きな楽山です。楽山は、真実を追求するための、理路も、直観も、直感も、理解の一切をも持ち得ない人ですが、好事家みたいに、もっともらしく、もてあそんで、偉く見せるための手段なのでしょう。
 
もう既に、批判によって証明済みの虚言の材料を、楽山は、今も漁って集めているだけなのです。楽山は、あらゆる実直な人々にとって精神の詐欺師であり、宗教と信仰の敵です。軸とか芯とかいうものがないまま、見繕って並べているだけです。真善美から最も遠い偽善者です。
 
 
私見ながら、ここで語られていること…不可視で高次な存在を信じつつも宗教とは距離をとっている、死別した近親者と心で語り合っている、「自分を持っている」ことが尊い…などというのは自分の周囲でも、しんみりした会話をする場面では、わりとよく聞く話である。
 
こういうことは、死んだ人の思い出を静かに想いながらの心の話なのですが、これによって、楽山のような霊能者気取りは、ここで、一般感情に訴えて、温もりと潤いを、それらが欠損した超常の自慢話に変換するための材料としてゆくつもりでしょうか。
 
楽山は、亡き人をしのぶという、しんみりした共感を感じることが出来ません。「わりとよく聞く話である」という軽さは、そういう話を、超常や霊の話にして、自分は知っている、分かっていると自慢しているだけです。楽山の書くことには、深い実感が、まるでありません。
 
 
第Ⅲ部ではグノーシズ主義と新霊性文化その他との関連が論じられている。具体的には如来教、桜井亜美の「イノセント ワールド」、庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」、コリン・ウィルソン、ヘブンズゲイト、ジェーン・ロバーツとセス本、ニューソート、神智学などを取り上げつつ、グノーシス主義との類似点及び相違点について語っている。この部分を読むとグノーシズ主義の新霊性文化に対する影響力は想像以上に強く大きいことがよく理解できる。
 
「新霊性文化」「影響力は想像以上に強く大きい」しか書けない楽山です。いつも、こうです。まるで、自分を飾るデコレーションであるかのように、楽山は、名称を並べ、中身を書きません。楽山の自慢の蚤の市、本当に蚤(のみ)だらけの罠の言葉ですから、誰も近づかないようにしてください。
 
 
(ネットより)
グノーシス主義(グノーシスしゅぎ、独: Gnostizismus、英: Gnosticism)またはグノーシス(希: Γνῶσις[1])は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。英語の発音は「ノーシス」である。普通名詞としてのグノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味する。グノーシス主義は、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向にあたる。
一般に「グノーシス」ならびに「グノーシス主義」という言葉は同義語として用いられており[6]、キリスト教「異端思想」としてのグノーシス主義を「キリスト教グノーシス派」と呼ぶことが多い。したがってこの記事では広義の「グノーシス」について、「グノーシス主義」という用語で説明する。
物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して、2つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプである。4世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる。
グノーシス主義(ウィキペディア)
 」
 
(ネットより)グノーシス派:
前キリスト教的東方的起源をもつ古典ギリシア後期の宗教運動の一派。グノーシスとはこの場合神の秘儀についての直観的認識 (霊知) であり,これを根本思想としたキリスト教の分派は1世紀に起り2~3世紀に多様な発展をとげたが,正統教会より異端とされた。彼らは宗教的に徹底した霊肉二元論をとり,人間も本来は自己のうちに神の火花を有し,また地上界からの解放の欲求をいだいており,この人間の自我 (精神) に救いとしてのグノーシスをもたらすものが天上界より下ったイエス・キリストで,このグノーシスによって人間は初めて救済されるにいたると説く。
 」
 
はっきり言えば、神霊を決めつけた時点で、カルトと言ってよいのです。神聖に対する恐れを知らず、人が、自分で大発見のように、無根拠の超常の理屈を捏造して、整ったつもりになって吹聴するのは、原罪の自覚がなく、正直な祈りと告白の出来ない人々です。
 
霊と肉体、と言っていますが、心と肉体、と言うのと、どう違うのでしょう。霊と心と魂と精神、どれも見えないものですが、はっきり区別できるというのでしょうか。学問においても、宗教については、恣意的で、結論だけの文章が、信仰者を惑わしている傾向があると申し上げておきます。
 
"直観的認識(霊知)" だそうです。だから、用語が多くても、根拠を示さない分野です。この辺がベースになって、主義が生まれてくるわけですから、かなり眉唾物なのです。それで、知ったつもりになるなら、何も知らないでいることより、自尊や自己主張や自己顕示欲も絡まって、悪質になるでしょう。
 
こういうのが、楽山という反キリストにとっては、垂涎のご馳走となってきたのだと思います。根拠を示せない楽山は、直観の代わりに安い思いつきで、霊能者気取りになり、神秘を語った悟った気になって、宗教に口を出して、自己満悦してきたのでしょう。
 
 
終章は「社会の個人化と個人の宗教化」という章題の通りの内容となっており、新霊性文化は個人主義の方向に向かい、宗教教団とは距離をおこうとする傾向があるとしている。
 
「章題通りの内容」・・説明しないで、解説できないで、「新霊性文化」だそうです。楽山は、自分勝手に、他者を考えないで、全く宗教的でない思いこみと信じ込みに、社会を導きたいのでしょうか。日本国民アホ化計画でしょうか。決して関わらないようにしてください。
 
楽山だけでなく、シャロームや、アドラー教(アドラー心理学)などは、気に入らないことは無視するという教えや、自分の課題ではないと拒否するという教えを広めたいようです。多くの人が楽山やシャロームのようになったら、世辞以外の話が、まるで通じない者ばかりになるでしょう。
 
 
新しい歴史教科書をつくる会にも新霊性文化との関わりを見出しているところは面白い。自分探しの過程で、日本および日本人に興味を持ち、その意識を強め、保守の方向に進むということらしい。
 
(ネットより)
既存の歴史教科書(特に中学校社会科の歴史的分野の教科用図書)は、必要以上に日本を貶める自虐史観に毒されていると批判し、それに代わる「“東京裁判史観”や“社会主義幻想史観”を克服するとし、その双方の呪縛から解放されたという自由主義史観に基づく、子供たちが日本人としての自信と責任を持つことのできるような教科書」の作成と普及を目的として結成され運営されている[要出典]。
 」
新しい歴史教科書をつくる会(ウィキペディア)
 
これで、楽山が、"ネトウヨ" であることは明らかです。前から、右寄り、保守とかは言っていましたが、宗教とか霊とかに、こじつけて、こういう活動をしているわけです。楽山が、思想的に、右寄りの刷り込み屋だということが表れています。道理で、正面からの説得力が皆無なわけです。
 
自由主義史観、というのは、危険です。好きなように歴史を改ざんする恐れがあります。また、個人主義で、自信と責任を持て、というのも危険です。楽山やシャロームのように、自由勝手に恣意的に書いて、他者を無視することを、正当化しやすいと思います。こういうところで、つながってくるのですね。
 
楽山は、前にA級戦犯を尊敬している記事も書いていました。右翼として、曖昧な霊の問題を通じて、根拠なしに、思いこみの結論を刷り込もうと並べてきた危険な意図の一部が表れています。楽山に、一人前の正当な思想はありません。その場その場の思い付きで書いてきます。
 
 
本書を読んで、フェミニズムやジェンダーフリー方面の思想、活動と新霊性運動、文化との関連を見出していることには意外性を感じたが、保守、右派の思想、活動もそれとは無縁でないという指摘も意外である。でもそう指摘されてみれば確かにそのようだ。どうやら新霊性運動・文化の影響力は、グノーシス主義がそうであるように、自分が考えているよりずっと大きく、広大な範囲に及んでいるらしい。
 
新霊性運動、グノーシス主義が、「広大な範囲に及んでいる」とだけ、楽山は書いています。婉曲的な賛同なのでしょう。もっと広めたいのでしょう。やはり、だましやすい日本人アホ化計画のようです。楽山のような煽動屋に、十分警戒してください。関わってはいけない対象です。
 
「指摘されてみれば確かにそのようだ」・・楽山らしい責任逃れの書き方です。ボンヤリ言語と呼んでいます。相変わらず、救いがたいほど出来の悪い文章ですが、メモだと言いながら、よくこんな文章を書けるものです。ボンヤリ婉曲的に刷り込んでくるのです。
 
新コロナの、国内外、どこまで広まるのか分からない、という、国難の最中ですが、このように、宗教を悪用して、霊という言葉を悪用して、危険思想を、謙虚芝居の学者気取りの誘導によって広めようとする者がいるということは、ある意味、コロナより怖いと思います。
 
そういう者たちは、取るに足らないように見えるからこそ、今の日本が、国民一人一人が、身近で、あるいは、ネットで、警戒するしかない危険分子であり、言論の自由で書きまくっておきながら、言論の責任を負わないというクズであります。決して関わらないようにしてください。
 
シャロームshalom は在日(韓国朝鮮人)ではないかと思っています。引用リンクは、大方韓国の教会だったし、聞いたとき、日本人ならはっきり否定するところを、しなかったし、キリストよりも、韓国由来の宗教思想が好きなのだろうと思います。つまり、キリスト者ではないということです。
 
楽山も在日なのか。自称ヨシュアもだろうか。思い出すのは、いつだったか、ネトウヨは在日なんじゃね・・というのがネットに書き込まれていたけど、いったい、どうなっているんだろう。右翼は嫌韓じゃないのか。・・だから在日が右翼にご機嫌取り?・・未だ判然としない。
 
私は嫌韓というわけではないが、楽山を、その卑怯な言論から、嫌悪しています。楽山の志が、グループであるなら、さらに日本人アホ化計画なら、ますます嫌悪することになるでしょう。楽山は、既に、シャロームの仲間であり、かばい合っていることは明らか。同一なりすましの疑いもあります。
 
 
一昔前のことを思い出しました。"神の幕屋" という右翼のキリスト教の教団があるそうで、そこの、ある人は、前は左翼活動家で、のちに、右翼に転じて、その教団に入っていて、右翼思想を語っていました。極端から極端に走る人だなと思ったことでした。大和魂を信条に入れる話があるそうです。
 
私は、キリスト者が政治活動をするのは構わないと思いますが、キリスト信仰は、右や左の政治思想と合体してはいけないと思っています。信仰は、政治思想には結びつかないと思います。ですから、キリスト教を政治に結びつけることは、キリスト信仰上、禁忌だと思っています。
 
信仰が救うのは、魂つまり心であって、政治思想でも政治活動でないのです。しかし、その人は、大和魂を信条に加えるようなことを言っていて、とても違和感を覚えたことがあります。キリスト教と信仰が日本オリジナルでないことは明らかですから。
 
 
何だか、個人のブログの記事では済まないような、のっぴきならないことになってきた感があります。だいたい、このブログは、元々は、ポエム、数学など、そして、ずっと、キリスト信仰のことを中心に書いてきたのです。
 
シャロームと楽山に出会って、とんでもない偽善者だと分かってから、さらに楽山に関わってからは、批判記事が多くなってきて、とうに終わっていても不思議でないような私のブログが、今まで続いてきたということになっています。年寄りの退屈しのぎと言うには、重すぎるテーマになってきました。
 
 
 
私の近況:
 
99歳になる母は、介護施設から、肺炎で入院して、次は、老健施設に入所し、今は、介護付き老人ホームにいます。その間、2度ほど尿路感染症で発熱し、内科に入院しました。
 
私は、記憶力が落ちていて、慣れない手続き関係、つまり、保険証、医療費減額認定証、介護保険証、介護限度額認定証といった書類をどこへやったのか分からず、再発行してもらうことで、施設や市役所などに行って、郵送か否か、など、いろいろ考えているうちに、鬱が悪化しています。
 
母は、腰椎骨折がきっかけとなって、認知症が明らかになっています。新コロナではありませんが、予防のため、ずっと面会できず、転院の際に顔を合わせたとき、私の顔を覚えていなかったようなのが、かなりショックでした。
 
加えて、私が利用してきたネット回線であるADSLが、もうすぐ終わるということで、光に変える手続きが、この年老いた頭には、煩雑で、NTTの工事と、サーバーの間で、分からないまま、不安ですが、できることをして結果を待つしかありません。料金も高くなります。
 
加えて猛暑の中で、街中を1~2㎞くらいの距離を歩いても、汗だくになるし、元々心臓に持病があって、動機・息切れ・倦怠感で、家についたら、しばらくダウンしている始末です。出来ることを、ひとつひとつ、遅れがちですが、こなしてゆくしかありません。
 
 
注意・警戒・棄権

注意・警戒・危険
 
 
(2022年08月24日、再録+加筆)
 
 
 
  危険な衝動
 
高校の頃だったか悪友が
ふざけて橋の欄干の上を歩いていた
私はその横を歩いていた
欄干から降りると彼は言った
「お前が狂わなくてよかった」
「あ、わかった?」
人が崖縁を歩いていると
ぽんと押してみたくなる
 
自分が崖縁を歩いていると
ひょいと飛び降りてみたくなる
 
彼がああ言ったということは
彼も似たような・・・ということか
 
あの頃は随分と危険な衝動を
いっぱい抱えて生きていた気がする
今どこにいるか知らないが悪友よ
私はもはや狂っているから
あれが今なら言ったかも知れない
「やめとけ、あ、危ないぞ・・」
・・手を震わせながら
 
 
  冷たい熱
 
目覚めたのだろうか
眠ることを諦(あきら)めて
起きたのだろうか
 
だるい
頭と首が痛い
じっとり発汗している
顔がべっとり
下着がじっとり
 
咽喉(のど)だけが焼けるように熱を帯びて
咽喉が渇いたということに
発汗を裏付けられながら
大きな湯呑みで水を飲む
薬といっしょに
朝の水道水をごくごく飲む
冷たい水で体を満たして
また寝床に入る気でいる
渇きが水で癒(いや)されたからか
改めて眠りを確かめたいのか
まだ暗い朝
 
まだ焼けるような渇きが
熱の危険信号を発しているのか
だから目覚めたのか
それとも眠る試みを中断させたのか
夢が焼け爛(ただ)れたあとなのか
 
 
  安全な人

もう天災からも人災からも
安全な場所など
どこにもないのでしょうね
 
安全な場所はないですけれど
安全な人はいます
いてもいなくてもいい人
いてもいないのと同じ人
だってその人が死んでも
誰も衝撃を受けないでしょう?
 
でも本人は・・・
 
だから
その「本人」というのが
誰からも認められていないのですよ
つまり
存在しないのと同じなのだから
もともとその人には危険
というものがないのです
 
しかし、
そ、それは安全ということになるのですか?
それは安全というのではなく
危険も安全もないということでしょう
山奥で降る雨の一滴が
岩に当たって砕けるのを
誰も見ていないのと同じで・・・
 
山奥の水は
やがて田畑を潤します
砕けても存在しているのです
 
砕けようが潰れようが
何の影響も与えることができないのだ
 
え?・・・安全な人ってもしかして
あなた?
そう不特定多数か少数のね
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
共感がない、情緒がない、反応しない、自己主張だけ書いてくる、反対を書き賛成を書いたから責任はないと言う、人それぞれを言い訳に使う、「人それぞれ」の人から外れている自分に気づかない、受け取って考える思考がない、何を言われても気にしない、・・人間ではないと思う。
 
自己愛性パーソナリティ障害者が自分の言動を制することが出来ないということが何を意味するかと言えば、関わった人は誰でも被害に遭うということから考えると、結局、関わった誰からも、生存することを望まれなくなるということです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山のネトウヨ刷り込み2
 
 『昭和風雲録』満田巌著
 2021年07月17日 楽山日記(LD)
 
 
過激な右翼思想家のA級戦犯を讃える記事を書いたことのある楽山が、ネトウヨぶりを表しています。楽山のような信頼のおけない人が書いても、誰かを目覚めさせることはないと思います。何故なら、楽山自身が、目覚めてもおらず、まともな活動もしていないからです。
 
著者の満田巌については、検索しても、はっきりと詳しく書かれているサイトがありません。定かではないようです。有名人かどうかも分かりません。昭和史上の右翼の暴発について、参照されることのある本のようです。
 
楽山は、説明や解説の出来ない人なので、著者について書かず、ただ、読んだぞ、聞け・・とでも言うのでしょうか。人間性と情感が乏しく、自己中だけが強いと、このような書き方になる、という見本になるでしょう。
 
しかし、意見のまとまらない楽山は、引用だけといってもいいような記事になっています。自分で、理解しようとしない、理解できない、でも、書いて自己顕示したい、という楽山の特徴が表れています。それにしても、右寄りの一面的なことばかり書いて悦に入る呆れた心境です。
 
 
*概要
戦前戦中の考え方を知りたいと思ったので、昭和20年3月15日第26版(初版昭和15年)の本書を調べてみた。ざっと全体を眺めてみると、前半は第一次大戦後の日本は既得権益の確保を目論む米英から平和軍縮条約を押し付けられ、満州では排日運動が激化し、双方から圧迫されていたこと、
 
「戦前戦中の考え方を知りたい」と思って、右翼の主張を読めば、知り得るのでしょうか。こういう偏った読書を宣伝したいのでしょうか。「目論む米英」「押し付けられ」「圧迫されて」・・当時の日本について、外国を悪者扱いしている楽山の、他罰的な右翼政治思想が表れています。
 
 
後半はそのような状況を転換させようとする者たちが昭和血盟団事件、五一五事件、神兵隊事件、相澤事件、二二六事件などを起こしたこと、最後は満州事変、国際連盟脱退などについて触れており、真珠湾攻撃前夜の様子がよくわかるものになっている。
 
右翼についての本を読んで、楽山は、ネトウヨならでは・・と言うべきか、気安く、昭和の流血事件について、あっさり「よくわかる」と書いています。ネズミのように、こそこそと立ち回り、嘘を吐く活動しか出来ない楽山は、右翼の怖い勢いだけであっても借りたい心境なのでしょうか。
 
 
*繰り返し
本書中、著者の考え方として特に興味深かったものは次の通りである(旧字は新字に変えた)。
 
どう興味深かったのでしょう。書けば、ネトウヨぶりが表れるので、書かず、引用だけで、まともに見せかけようとしているのか、メモだけならば、公開する必要はないのです。引用だけの奇妙な刷り込みで、自尊過大を表す楽山です。
 
 
某代議士の如きは「軍備といふ如きものがあるから、戦争が起るのである。よろしく軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つであろう」とまで極言した。しかし、雨降る故に傘あり、傘ある故に雨が降るのではない。かくの如き非論理的な暴言が堂々として吐かれる程、当時の非戦的気運は圧倒的であった。
(『昭和風雲録』満田巌著、新紀元社、昭和20年、p.50)
 」
 
「軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つ」という考えの愚かさを暗示したいようです。かといって、軍備を増強したら戦争はなくなるということでもありません。陳腐な揶揄を書いて、楽山には、建設的な意見は皆無なのです。
 
 
ワシントン条約、ロンドン条約等は、世界を去勢せんために米英現状維持国が企んだ平和攻撃の一手段であり、国際連盟、不戦条約等と密接に関連するものである。米英現状維持国は、一に平和を鼓舞し、他に軍縮を高唱して、自己の優越的地位の保持に全力を傾倒した。
(同上、p.50)
 」
 
これも、日本が米英に脅威と感じてられていた、また、日本は米英を脅威と感じていた、という歴史状況を書いています。今につながるものがないことを、楽山は書いて、何を伝えたいのでしょうか。俺は右翼だ、宗教だけでなく政治も分かってるんだ・・と言いたいのでしょうか。
 
 
思へば拙劣な外交であった。口に平和を唱へる所謂協調外交が、米英の現状維持を保証する以外の何ものであったか。その間、却って米英の軽侮を招き、更に支那満州の排日を激化したのみではなかったか。
(同上、p.75)
 」
 
協調外交が拙劣だと書いて、楽山は、自分ならば・・戦争、云々、と言いたいのか、またしても、他者の口を借りて、月並みな右翼への傾倒を表しているだけの感想文、しかも、そのやり方は、印象操作に過ぎません。読書して、書くたびに、読書できないことを表してしまう楽山です。
 
 
そのモットーとする所は、徹底的な平和主義といふより屈服主義であり、国際連盟に心酔し切つて軍縮に大童となり、大陸及び太平洋への発言権を自ら捨てて、米英の意を迎へるに汲汲とした。その間、貴族院、枢密院、政友会そのほか国民各層の不満にも拘らず、米英は、日本に於ける唯一の国際外交の権威なりとして幣原外交への賛辞を惜しまなかつた。
(同上、p.76)
 」
 
引用しているということは、楽山も、屈服主義と書いて自己満足ということになります。結局、日本は、屈服せず、アジアを侵略して、アメリカと戦争して、自滅の道を進みましたが、楽山の言は、喧嘩に負けた子供が、相手への悪口で、腹いせをしている有り様にしかならないでしょう。
 
しかも責任を負えないものだから、引用だけというお粗末さは、責任のある言動の出来ないのに、見かけだけ評論家を気取って自己満足するという、今までの楽山を、やはり、そういう人だった・・と復習させる愚痴にしかならないのです。
 
 
こうしてみると平和外交とそれに対する批判は、昔も今もさほど変わらず同じことを繰り返しているようだ。人というものはそう簡単に変わるものではないだろうから、これも当然のことなのだろう。
 
右翼思想を書いて「人というものはそう簡単に変わるものではない」と、今を好ましくないかのように書きながら「当然のこと」と書いています。右翼思想を表しながら、面倒はごめんだと保身をする筆致、楽山の卑怯なボンヤリ言語で、右に行っても左に行っても、頼りにされることはないのです。
 
 
*将来
ところで、本書には連盟脱退についてこのように書いてある。
日本の連盟脱退こそは、連盟の本質が英米の自己擁護機関たる外何物でもないことを身を以て世界に明示したものであり、同時にまた白人旧世界体制に対する致命的な一撃であつた。
 」
 
何処が、英米に対する致命的な一撃だったのでしょう。歴史を見れば明らかです。忍耐もなく致命的一歩を踏み出したのは日本でした。この部分への感想は・・やれやれ・・だけです。
 
 
条約違反或いは経済封鎖を以てする彼等の威嚇に抗して、ここに日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出したのである。
 」
 
これ、戦争のことですよね。世界新秩序の第一歩どころか、結果として、日本を破壊するだけに終わったのです。今になって、自画自賛の豪語が成立することはありません。
 
 
これにつづいて独伊また連盟を脱退し、連盟の旧体制的構成は全く無内容と化し去つた。しかもこの寂寞の連盟にソ連が加入(昭和九年――一九三四年)し、その内実は旧国際連盟から国際人民戦線へと変貌した。一方に於ける日独伊、他方に於ける英米仏ソ――今や世界は瞭然たる二大勢力に分れ新旧闘争の決定的世界史転換の時代を迎えたのである。
(同上、pp.359-360)
 」
 
今さら、負け戦を宣伝する、あるいは、引用することが、とても見苦しく、無意味だということが、楽山には分からないのでしょう。語れば語るほど、現実離れした楽山の、妄想的幻想的右翼ファンタジーが、流れています。
 
「連盟の本質が英米の自己擁護機関」「白人旧世界体制に対する致命的な一撃」「日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出した」・・否定してないから、これは戦争礼賛になります。「世界史転換の時代を迎えた」・・万歳三唱でもしたいのかって感じになっています。楽山は偏狭な右翼だという証拠です。
 
 
最近は国連離れが加速しているようではあるし、もし「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」というのが本当であるならば、近未来において日本およびその他の国々が国連を脱退して世界新秩序建設への第一歩を踏み出すということもあるのだろうか。そんな想像をすると何やら恐ろしい気がする。
 
国連離れが加速しているのでしょうか。国連離れで検索してみると、トランプの名が出てくる程度です。さらに、もはや陳腐とさえ思える「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」という漠然としたことを書いて、新秩序、想像、恐ろしい、などと書いて楽山のファンタジーは終わりなのです。
 
新秩序建設というのは、戦争が起こるかもしれない、ということでしょうか。そうならないために、楽山は、何か政治的言動をしたのでしょうか。不安を煽っているだけでしょう。主張の見えてこない思想の話、何を書いても、いつもと同じ、中身のない評論家気取りしか見えてきません。
 
何を書いても、まともな理路にならない楽山の、右翼的な印象操作と刷り込みです。しかも、はっきりした自分の意見を持たないから、偏った本の選択と引用によって、またしても、無責任ぶりが全開の楽山です。新しいものや独自のものが何もなく、読む価値のない記事だと思います。
 
批判しても何も答えない、なのに、手を変え品を変え、書いてきて、分かってると自己顕示してくる欺瞞は、自己中の世界に陶酔しているだけの自己愛性パーソナリティでなければ、ありえない醜態であり、分かるべき身近なことさえ分かろうとしない楽山の実態であります。
 
 
  青春のない楽山
 
 マイケル・シェンカーの青春論によるマイコン解除(『飛翔伝説』)
 2021年07月17日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山には、恐らく、青春などなかったのではないかと思います。その復讐なのでしょうか。嘘と詭弁の煽動者になり、批判しても、なお、平気で書き続ける自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を表して、救われない者という病的人格のモデルとなっています。その腹いせでしょうか。
 
 
*マイケル・シェンカーの青春論
本の整理をしていたら、マイケル・シェンカーの『飛翔伝説』が出てきた。中身を確かめてみると、こんなことが書いてある。
(画像省略)
「自分自身であれ!」「自分に嘘はつくな!」「自分の意思を貫き通せ!」「人は人、自分は自分だ!」という考え方は、ギタープレイだけに限定されず、人生全般に言えることであろうし、昔も今も変わらず共感する。
 
(ネットより)
マイケル・シェンカー
ミヒャエル・シェンカー
マイケル・シェンカー(ミヒャエル・シェンカー、Michael Schenker、1955年1月10日 - )は、ドイツ出身のハードロックのギタリスト。
マイケル・シェンカー (ウィキペディア)
 
自分を見失って、自分にも嘘を吐き、自分の身勝手な妄想を訂正不能に投げているのが楽山です。また出してきましたが、「人は人、自分は自分」と、自己中とは、全然、違います。楽山は、真逆の勘違い妄想を共感と呼んで、また嘘を吐いているのです。音楽家を持ち出してくるのも驚きです。
 
 
*スピリチュアリズム
思うに、自分はこの流れで、「自分自身を信じよ」「自分の内なる神(良心)を信じよ」というスピリチュアリズム的な考え方にも共感し、これにつらなる幸福の科学にも傾倒したのだった。
 
楽山が信じて振り回しているのは、「内なる神」どころではなく、病質からの我執であります。それだけが、楽山の書いてくるものに表れてきたのです。楽山の言うスピリチュアリズムは、自らの霊能者気取りに過ぎず、それを勘違いした結果、不感不応の自己中に囚われています。
 
訂正不能の我執からの自己主張と詭弁と嘘が、楽山の恐ろしさであり、何度、批判しても、また、同じことを書いてくるのです。もはや、関わらないことと近づかないこと以外には、対処法がなくなっています。楽山から、良きものを受け取ることはありません。
 
 
*退会
でも幸福の科学は、当初は「内なる神を信じよ」と説いていたものの、途中からは次のような教えに変わってしまった。「大川隆法を信じよ。自身の小さな頭で考えたところで何がわかるか。大川隆法にはもっと深いお考えがあるのだ。大川隆法を信じてついてゆけ」云々。
 
誰も信頼していない楽山、信頼できる友のいない楽山、自分だけしか信じない楽山、丁寧語と詭弁で自分に引き寄せては、人をだまして疲れさせるだけの楽山です。楽山自身が、霊が分かるっぽいという自己中心のカルト的妄想に支配されています。そして、疲れさせることで人格を破壊します。
 
 
自分は信者として、この教えに自分を合わせようとしたものの、結局はそれを徹底することはできず、「内なる神を信じよ」「自分自身を信じよ」という思想に戻ることになった。
 
楽山の信条は、自分という神・絶対者を訂正不能に信じて、他者を、いっさい無視することです。無理解・無神経のまま、言ったら、言いっぱなし、無反省・無責任の、詭弁屋で嘘吐きですから、決して関わってはいけません。約3年間のペテン師の資料となっています。
 
 
ある意味、マイケル・シェンカーの青春論が心に染み付いていたおかげで、マインド・コントロールから抜け出すことができたということだろう。
 
楽山は、都合のよい文言を利用しているだけで、楽山に染みついているのは、自己中だけです。自己愛性パーソナリティ障害からの自己絶対の自尊過大の、身勝手ぶりです。質問と疑問を浴びせれば、正体を表しますが、そこで、こちらが、疲労し消耗して、人格を損なう恐れがあります。
 
 
*感謝
マイケル・シェンカー本人からしたら自身の発言が極東の一人の若者をカルトから救うことになるとは想像もしていなかったろうが、実際自分はそのようになったわけでマイケル・シェンカーには心から感謝したいと思う。
 
とても作為的な醜い世辞~勘違い~嘘です。楽山は、誰にも感謝したことはないと思います。「極東の一人の若者」である楽山は、「カルトから救」われたのではなく、恐らく最初から、自分自身がカルト思想だけに染まって、訂正不能に慢心しているだけなのです。決して近づいてはいけません。
 
 
偏向と詭弁に酔い痴れる愚か者

偏向と詭弁に酔い痴れる愚か者
 
 
(2021年)
(2022年07月24日、再録+加筆)
 
 
 
  彷彿
 
ワイパーが水滴と一緒に
視界を拭(ぬぐ)い去る向こうに
道はあるとアクセルを踏むから
車は暗がりを轢(ひ)いてゆく
 
ときに所々の街の灯(ひ)が
一瞬だけ信号に見えたりするから
ブレーキは早めの後ろから
大型トラックがぴったりついて来る
 
進めばよいのか止まればよいのか
後退でもすればよいのか
最初から出かけなければよい
飛ぶこと以外望まないのなら
 
空色の信号が浮かんでいる
そこでもチェックは厳重だ
拭い去れないものを火が乾かす
拒めば落ちてゆくことだけには限りがない
明るい人も大地も星も
水天彷彿(ほうふつ)みな落ち続けている
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  信じ方
 
病人よ
病人よ
汚れた肉体を布団に残して
どこをさまよっている
多くの顔と名前が乱れて去っていった
彼岸のあたりか
そこから命はもう行けない
魂は抜かれるだろう
抜歯のようにこともなく
麻酔でしびれた
歯肉の穴の形を
固まりかけてまだ熱を残している
血の味と臭いとともに
舌が探っている
抜かれた魂の
跡の形を探っている
 
顔のない天使の合唱が近づいて来る
♪どうしても救えない
 どうしても救えない・・・(遠ざかる)
何も知らない少女が
教えられたとおりに歌うような
くりかえしに
思わず顔をしかめる
 
恵まれているのか
試されているのか
許されているのか
裁かれているのか
わからない病人よ
信じ方を忘れた病人よ
忘恩と裏切り
魂の責め苦に寝返った
肉体は痛みを離れてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山はネトウヨです。年齢は分かりません。オジサンかもしれないが、若さを気取っています。楽山の思想は、若者の思想ではありません。情熱の欠片もないからです。おじさんの思想でもありません。思慮深さが全然ないからです。楽山が書けば書くほど、愚にもつかない、という反発が可能でしょう。
 
 
 
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  楽山の我執2
 
 「死について」西尾幹二著
 2021年03月15日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
西尾寛治は、右翼の思想家です。別の右翼の人を介してサイトなどを見ただけですが。この人だけでなく、楽山は、右翼としての記事も書いています。おべっかでしょうか。体質的に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、一貫した思想はありません。
 
楽山は、感情・情緒の鈍麻によって、感じなくなった精神から、死と死後を恐れていないかのようなことを言っています。信仰による平安ではなく、詭弁の妄想的捏造と、老化による鈍麻に縋りつくしかなくなるのではないでしょうか。
 
 
*死後、人の意識は存続するのか?
『西尾幹二の思想と行動③』に収録されている「死について」というエセーを読んでみた。著者はまず冒頭において、死をテーマにした文章は多々あれども、「死は振り返って回顧できない」ものであるから、「死の経験は誰にも書けない」としつつ、次のような自身の考えを表明している。
私は、私の体が亡びると共に個体としての私も消滅し、「自分の意識」もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えをもつことがどうしても出来ない。
(『西尾幹二の思想と行動③ 論争の精神』「死について」西尾幹二著、扶桑社、2000年、p.131)
 」
この後、著者は上田三四二の『この世この生』、岸本英夫の『死を見つめる心』の文章を紹介しているが、どちらも基本的には著者と同じ死生観であり、死んだら無になるのだから、一度だけの人生を悔いのないように生きようと考えているようだ。
 
一度だけの人生を、悔いることなく、改めることなく、反省することなく、責任を負うことなく、言葉の垂れ流しで、生きているのが、楽山であります。そりゃ、楽山に悔いはないでしょう。楽山には罪悪感がないからです。
 
 
*輪廻転生の可能性
著者は上の結論に至る理由の一つとして次のように述べている。
もし来世というものが存在し、今のこの現世というものに生を得ている「自分の意識」が来世にひきつがれるというのであるなら、われわれは現世に生きながら、それに先立つ前世からひきつがれている「自分の意識」を、なにほどか記憶していなくてはならないはずだからである。記憶がなければ意識は存続していないのと同じである。
(同上、p.131)
 」
 
この手の議論には、さほど重要な意味はありません。人生はリアルですが、死後は想像~空想に過ぎないからです。それを信じ込むのが信仰というのは、全くの誤謬であります。信仰はリアルの人生を生きるためにあります。
 
 
スピリチュアリズム方面の書物を読めば、前世の記憶が失われている理由だとか、死後の生が存在する〝証拠〟とされるものはいくつも提示されてはいるのではあるが、現実を先入観なしにみるならば、熟睡しているときは意識がなくなるように死は永遠の眠りであろうとか、前世の記憶がないことをもって生まれ変わりはないだろうとするのは当然の結論ではある。
 
空想的死生観は、簡単な理路で、上に書いたように、真理の理解としては単純に否定されるということです。キリスト者は、神を恐れるので、空想としてではなく、リアルとして、不完全なる自分を、完全なる神の前に、正直に差し出すことを信条とするべきでしょう。
 
それ以上の、特に超常についての断定は、神を恐れるなら、するべきではありません。超常ではない人間としての身の程を弁えるのが信仰であり、神を恐れることであります。人間は、与えられた知性と感性を生かして生きるべきです。それ以上の神秘や超常は、神のみのものです。
 
楽山は、永遠という時間が把握できるのでしょうか。楽山は、やたら、宗教といえば、超常を語りたがりますが、現実の、嘘も詭弁も、何も気にしないで、永遠を分かって、過ごせるのでしょうか。とんでもない曲解です。何が、当然の結論でしょう。この問題に、この地上で、結論などないのです。
 
 
*死んだら無になるという怖ろしさ
このエセーにおいて、著者は死に対する考察とともに恐怖についても書いている。死後、自己の意識は消え失せ、無になることを想像するのは怖ろしくてならないと。
 
当然のことです。無になる自分を、想像だに出来ないのが、人間です。
 
思い返してみれば、自分も同じような怖ろしさを感じていたのだった。理屈としては、死んだら無になるなら、恐怖や苦痛を感じる自分も無くなるわけで、それなら何も心配する必要はないのではあるが、それでもやっぱり怖いと思わないではいられなかったのだ。
 
楽山の感じる恐ろしさは、引用とは違うと思います。そういう実感のある共感が成立しないのが楽山です。何も分からないのが怖いわけですが、楽山は、その怖さを感じることが出来ません。だから、何も分からなくても平気でいるのでしょう。
 
何も心配する必要がないの、というより、心配することが無意味だということです。特に、楽山のように、我執で悪行を重ねている者は、あの世を心配すればするほど、恐怖するしかないでしょう。現在形~未来形~永遠形です。有名人の言葉を引用しても、楽山は、乖離しており、違うのです。
 
 
でもどういうわけが最近はそんな感覚は薄れて、「死んだら無になるのでも、霊になってあの世に行くのでも、どっちでもいい」という気分になってきている。死後の状態について、こうであるはずだ、こうならなければ嫌だという強い願望はなくなってしまったのである。
 
どっちでもいい、と思うことを、分からないから、ではなく、願望がないという言い方をしています。願望があってもなくても、恐怖してもしなくても、謙虚な懐のない楽山には分からないし、今の無駄は、ずっと無駄なのです。死んでからのお苦しみということでしょうか。
 
 
こういう変化は大方は年を取ったせいだろうし、人は毎晩眠りに落ちるたびに無になっていること、自分の意識は過去から連続しているようでも実際には過去の自分は既に消え去っており、現在の自分もやがて消え去ることに合点が行ったことなどもその理由ではある。
 
合点が行くはずのない、自らが無となることに、合点が行くと言っている時点で、作為的で、かつ、嘘であることがバレています。実際には、楽山には、横暴を極めている現実も、嘘吐きの幻想も、実感などというものはないだろうと思います。楽山の人生が幻想だから、酷いことが言えるのです。
 
現在の自分は、明日には、もういません。年を取って、ボケてくると、恐怖が薄れるというものでもないでしょう。楽山が「合点が行った」と思っているのとは、楽山が大好きな、ホラーに登場するようなものかもしれません。楽山自身が、ホラーです。
 
こうであるはずだという願望が薄れるのは、できるだけの真実を追求してきた人でしょう。楽山は、できることをせず、してはいけないことをしてきたのだから、死が迫るほどに、恐怖は増大すると思います。それを、今、感じないのは、意志が強いからではなく、ますます鈍感になったからでしょう。
 
 
このあたりの感覚は人それぞれではあろうが、自分の場合はこのような思考を経て、死後に無になることはさほど気にならなくなった次第である。釈尊は執着を去れば平安が得られると説いたというけれども、上の経験からするとこれは本当にその通りだと思う。
 
面倒臭くなったときの「人それぞれ」がまた出てきました。有名人の言葉にも使っています。執着だらけの楽山が、何かを書く技量などない証拠でしょう。楽山は、今まで書いてきたことからは、自己顕示欲という欲への執着だけしか見せていません。
 
楽山は、死ぬまで、執着を去ることはないでしょう。一生涯、我執だけに生きて、我執だけに、ニヤニヤする快感と、煤のような悪意をもって生きてきたから、我執に追われることになるでしょう。それこそ、認知症になったほうが楽ではないかと思います。
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
草@kusaweod
·19時間
青天を衝けで渋沢栄一が祈祷師のインチキを見破って追い払ったエピソードは実話のようでここで読める。
500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった | 日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
午後9:23 · 2021年3月14日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/kusaweod/status/1371074629582741514
<<
https://twitter.com/komo266
 
楽山と、明治の実業家である渋沢栄一とは、当たり前ですが、何の関係もありません。渋沢栄一は、大河ドラマで、旬であり、一般の人からも注目されているところでしょう。いつもの楽山の宗教への悪口とは何の関係もないのです。
 
しかし、楽山という反宗教が、今まで、いかに、宗教、特にキリスト教を、詭弁で、おとしめる投稿をしてきたかを思うとき、この他者のツイート引用を、見逃すことは出来ません。引用元の様々な有名人を自己顕示欲のために利用~悪用してきたのです。まともに受け取ることは出来ません。
 
キーワードは、"祈祷"師であります。真面目に宗教を考えることのないの楽山は、いつも宗教をおとしめることばかり考えているのでしょう。恐らく合理的な考え方の渋沢栄一が、インチキ祈祷師の嘘を見破った、ということが、楽山には、えも言われぬ痛快事なのでしょう。
 
祈祷と宗教を同一視すると、楽山の詭弁になります。一般とは違って、楽山の真意は、素直ではなく、捻じ曲がったものです。宗教は皆インチキと思っている楽山にとっては、宗教をおとしめる格好の材料に思えたのでしょう。
 
つまり、わざわざ、このエピソードを引用した楽山の意図は、偉い人が、宗教のインチキを見破った話として、受け取っているのだろうと思います。インチキ祈祷師と宗教を一緒に見ている楽山の、いかにも、あざとい宗教攻撃なのです。
 
楽山は、何を言っても理路も共感も成り立たなず、誰にとっても益とならない文章になります。気安いところで、偉人の言動を出してきて、気慰みにするのです。偉人は懐の大きさで図太い肝を持って見抜き、楽山のようなインチキな小者は、ネズミのような小心で動いて、的を外しているのです。
 
 
ちなみに楽山日記に
2017年05月11日
HS関連ブログを読む 18
という気の遠くなりそうな長い記事がありますが、渋沢栄一のことを書いています。
 
一部抜粋。
 
「書痴の楽園」を見てたら、渡部昇一は渋沢栄一を評して、常に道徳的に正しかったと語ってた。道徳と成功を両立させていたと…。
考えてみれば、論語と算盤と、あの世とこの世を貫く幸福は、似たところがあるかもしれない。真理(倫理)にかなった生活をしつつ、本当の幸福(成功)を得ようというところとか。
 
真理を知らず、倫理に全然かなっていない嘘吐きの楽山が言っています。「この世」に適っていないで、「あの世」を貫く幸福が、楽山には分かるのでしょうか。「真理(倫理)」に適うことが、楽山に分かるのでしょうか。真理と倫理は同義語でしょうか。表れるのは、分かるっぽい?自認~妄想だけです。
 
 
とはいえ、後者の方がより宗教的であるという相違点もあるけれど…。
近頃のHS本は、さっぱり読んでないけれど、ひょっとしたらこういうことは既に語られているのかなあ。どうだろう。
 
どの後者なのでしょう。道徳と成功でしょうか、あの世とこの世でしょうか、真理と幸福でしょうか、倫理と成功でしょうか。楽山の考える宗教が、さっぱり不明なのは、何も考えていないからではないでしょうか。楽山は、気が遠くなっているのでしょうか。
 
右翼思想家に、経済人にと、生死にかかわらず、有名人の名前と言葉面だけを、宗教をけなすために、我執と我執で利用~悪用する楽山です。
 
 
引きずる我執の醜い素顔

引きずる我執の醜い素顔
 
 
(2021年03月16日、同日一部修正)
(2022年03月17日、再録+加筆)
 
 
 
  懐かしき訪問者
 
四角い静物の部屋に
タバコ一本の煙
上っていく
 
友と呼んでいいのか
珍客と呼んだらいいのか
どんな縁かもよくわからない人
ともかくも久々に我が家に迎えた
懐かしき訪問者は
二泊三日で忙しそうに帰っていった
 
何てシャバダバな人生なんだ
ぐらいの話はしたかったのだが
 
 
※ (ネットより)
シャバダバとは、意味のない音でメロディーを即興的につないでいくスキャットという歌い方で、おもにジャズで使われ、楽器を弾けなくても表現できる方法のひとつです。
 
 
 
  問いと問い
 
昨日があるから今日がある
そう でも
今日があるから昨日がある
でも どこか
では明日は
明日は?
 
 
  家の階段
 
数えることもないから
数えきれない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
 
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
 
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
 
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
 
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  祝福
 
この あかりの もれいづる
この いえに すまう ものは
つとめを はたして いこう もの
いこいを もとめて つとめる もの
ひとごとながら いのりを こめて
きぼうの くいを うちこめば
やみは またたいて ほしを かくす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山が、自らの嘘と無反省と無責任など、とんでもない偽善の最悪について「これも一種の、人間の性」と言った時点で、「人で在り続ける」ことをやめている証拠です。ブログやツイッターで好きなように、他者を、だまし、誘導してきたわけですから、「開いた出店を畳むしかない」ということです。
 
 
 
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  我欲のエコラリア楽山
 
 『日本国紀』百田尚樹著(2018年)
 2021年12月18日 楽山日記(LD)
 
 
ネトウヨですが人格破壊の進行した楽山は、史実への執着性によって浮かれ、気分高揚を来たしています。ゆえに、現実の問題を、何一つ、理解も自覚もできない有り様で、無駄口を叩き続ける自己愛性パーソナリティ障害NPDの証拠を積み重ねてゆくのです。
 
*日本人はすごい!
『日本国紀』を通読してみた。日本人の優秀さを示すエピソードがいくつも紹介されているので、「日本人はすごい!」と思えた。
とはいえ、万世一系に関する記述については疑問に感ずるところはあった。
 
「日本人の優秀さ」と、楽山は、何の関係もないと思います。「日本人の優秀さ」は、優秀な人々がいたということでしょう。それで、舞い上がる楽山の「日本人はすごい!」は、自分もすごい、という我欲による、楽山の中だけのエコラリア(反響言語)なのでしょう。人格破壊の実相です。
 
*万世一系
まず著者は、万世一系についてこう書いている。
我が国、日本は神話の中の天孫の子孫が万世一系で二十一世紀の現代まで続いているとされている。こんな国は世界のどこにもない。 
(『日本国紀』百田尚樹著、幻冬舎、2018年11月10日第一刷、p.8)
 」
日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった。
(同上、p.486)
 」
日本は「万世一系の天皇を中心に成長した国」だというのは、保守としては当然の主張だと思う。
 
万世一系という神話時代からの伝統であり象徴であるわけです。今さら、その史実性にこだわって、何か良いものが生まれるでしょうか。楽山は、このように、何の役にも立たないことを、学識もなく、云々して、自分を、インテリ評論家に見せかけたいだけなのです。
 
*王朝交代あり?
でも著者は、他の箇所では皇統は断絶しているとしている。
歴史研究家の中には、この時に王朝が入れ替わったのではないかという説を唱える人が少なくない。仲哀天皇は、熊襲との戦いで戦死し、代わって熊襲が大和朝廷を滅ぼして権力を掌握したという説だ。なら、なぜ日本書紀にそれが書かれていないのか。記紀が書かれた八世紀頃は、「皇統は万世一系であらねばならない」という不文律がすでにあったので、記紀編纂者がそのあたりをうまく工夫して書いたというのだ。定説にはなっていないが、私はこの説はかなり説得力があるものと考えている。
(同上、p.26)
 」
現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ。
(同上、pp.31-32)
 」
万世一系に対して異説が存在するという紹介だけなら、さして問題はない。
でもここでは、その説を紹介するだけにはとどまらず、強く支持するところまで踏み込んでいる。
これは、日本は「万世一系の天皇を中心に成長した国」だという先の主張と矛盾するのではなかろうか。
 
このように、楽山は、過去の辻褄にこだわって、それで、現代を語ろうとする半端者だと分かります。私たちは、現代を生きています。皇室の歴史よりも、今皇室の果たしている役割のほうが大事だということが、楽山には分からないのです。
 
楽山は、歴史を、ろくに知らないにもかかわらず、歴史家などの意見を引用して、自分を、学者であるかのように見せかけたいのでしょう。それが、楽山の生業なのでしょう。宗教についても、奇跡と超常にこだわって、神を否定したいのでしょう。心に響くことを全く理解できないからです。
 
*著者の見解
この矛盾について、著者の真意はどういうものなのかと頁を繰ってみると、こんな記述があった。
「万世一系」という考え方がどのようにして生まれたのかはわからない。しかし『日本書紀』編纂時にはすでに、崩してはならない伝統としてあったと見られる。これ以後、千三百年以上にわたって男系は一度も途切れることなく継承されている。
(同上、p.34)
 」
つまり万世一系は途中からだということらしい。
著者はさらりと書いているけれども、これは保守、右派という立場からすれば相当に大胆な発言だろうと思う。
 
「万世」なのに「途中から」だそうです。楽山は、否定しているのでしょうか、擁護しているのでしょうか。どちらも書いて、どちらも断定せずに、責任問題は生じない、ということが、楽山の、以前からのスタンスらしくて、つまり、何の主張もない人です。
 
それで、一方では、信仰を批判したつもりになり、信仰を否定するわけです。まともな意見を、何一つ持ち得ないことを、今まで、ごまかして、善人ぶってきたのが、楽山という偽善者であり、もはや、真実の追求を、かき乱すだけの人でなしであります。
 
*いろいろな歴史観
本書にはさまざまな批判があり、その中には「歴史ファンタジー」という揶揄もあった。
自分はこれらを読んで、本書は相当に右寄りなものなのだろうと想像していたのだけれども、上記の点を見る限りにおいては自分にはとても右寄りとは思えなかった。むしろ左寄りではなかろうか。もっともこの辺りの判断は相対的なものにすぎないかもしれないけれど…。
 
右も左も、一枚岩ではない、という当たり前のことが、楽山には分からないようで、相対的と言ってバランスを取ろうとしています。相対性さえも定位置に置くことが、楽山の安心なのですが、中身が空っぽです。思想ではなく、楽山が納得するための辻褄合わせの合理化規制なのでしょう。
 
ところで、『日本国紀』の評価は人それぞれとしても、一人の作家による通史というアイディア自体は実に面白い試みであると思う。これを機会に、他の著者による通史も読んでみたいものである。
通史ブームが到来し、幾人もの作家たちがそれぞれの視点から綴ったさまざまな通史…皇国史観によるもの、唯物史観によるものなど…を刊行したなら愉快だろうと思う。
 
楽山は、結局、いつものボンヤリ言語で、何も始まらない結論「それぞれの視点から綴ったさまざまな通史」「愉快だろうと思う」と言うわけです。楽山の記事に、時間を使うのが、いかに無益であるかを、楽山自身が明らかにしています。毎度、呆れてしまう楽山の暇つぶしです。
 
楽山は「愉快」になっている場合ではないのです。「愉快だろうと」思っている場合でもないのです。積み重ねてきた罪と偽善が、人を疲労させ傷つけてきた自己中の病質が、楽山自身の人格を虫食み、何も状況を把握できない盲目の常同行為へと運んでいます。
 
 
独りで反響する無駄口

独りで反響する無駄口
 
 
(2021年12月19日)
 
 
 
  ブレーキングボール
 
ひねったつもりのブレーキングボールは
力なく外角へ落ちていく
そのあとに黒い軌跡が残る
 
一日を無駄にしたような気持ちで
メモ帳を一枚破り捨てる
 
部屋から出ていったあの男
別の自分に会いにいったつもりなのだ
 
行きつけの喫茶店などないのに
無駄な空気と
家畜になったような気持ちといっしょに
やがて帰ってくる
 
ぼろぼろの顔になって
また一枚ボールを走らせては
また一日意味のない軌跡を残す
 
あしたどんな軌跡を残すのか
もう一枚
もう一枚
ぼろぼろのメモ帳が笑っている
 
 
  ため息
 
瞬きと一緒に
どれだけの呼気の中に
ため息が去っていったのだろう
 
ゆっくり吸い込まれ
声帯を震わせないで
粘膜を撫でながら漏れるときの
湿気と温もりと過去
 
今ため息が出て行きました
熱を失う体のどこかで
フイルムが瞬く間に早送りされました
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は書き、読まれることで、堕ちてゆくのですが、本人は、上のコメントと同様に、全く、それを自覚しません。空疎に空疎を重ねて、文字が並んでいることで、インテリらしくかけた!・・と満悦するのでしょうか。そういうとき、いかに自分が見苦しいか、分からないのでしょうか。
 
 
 
 
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