ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ネトウヨ

 
  楽山のねっとり右翼
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張し誘導したいようです。楽山は、そこでアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性パーソナリティ障害者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合う・・などということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだ、という、体験者とは別の話なのです。面談したというのは、また、楽山の、インテリ気取りの作り話の自慢話ではないでしょうか。
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の臭いがプンプンしてきます。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性パーソナリティ障害は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
立場など無い者

立場など無い者
 
 
(2021年08月23日)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らない、謝ったからいいじゃろ・・という言い訳は成り立たない、という話です。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話でもあります。
 
決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、謝りもしない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。
 
楽山は、また、勘違いして、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、いっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山は、そういう印象操作をする人です。だまされないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより「ほととぎす・・・ほととぎす」
と自分の名を頻(しき)りに唱えている
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない
・・・
から
 
 
  忸怩
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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  謙虚2
 
 
神を知性で捉えて理解することは出来ない
これは地上の人間にとって真実である。
 
しかしそう言いながら
解釈においては
人にとって常識的な論理つまり知性を用いて
人は神との関係を持つことが出来る。
それが神を知ることだと語る。
 
ここまでは
「信仰の原罪」であろうか
不可避である。
信仰者にとって生きるために必要なこともある。
そして、聖書にて
神は・・こう言われています
という書き方になる。
 
信仰は
神を理解することではなく
キリストの命を賭した愛と共感をもって
神を信じ仰ぐことであり
神に正直に祈ることである。
 
しかし
神との関係を持ち
神を知った者が
やはり常識的な論理の言葉を用いていて
 
つまり死ぬまで人知によらざるを得ないのに
 
様々な個別の出来事や事柄を
人の及ばない秘め事であるのに
神の行為と結びつけて判断し
確信の固定をもって伝え広めようとするなら
 
聖三位と同等の振る舞いになり
神と人に対して
明らかな傲慢不遜である。
 
 
神のしもべであっても
様々の驚くべき出来事について
しもべは主(あるじ)が
人知を超えた御方であることを知るゆえに
 
信仰をもって
それを恐れ
主なる神の行いについて
しもべの浅知恵や
限りある経験によって
断定することをも恐れるのであります。
 
慎ましく受け取り
間違いのない神とは違うのだから
確信を持って声高に語ることをせず
慎ましく語り
何事も包み隠さず正直に祈ります。
 
少なくとも都合の悪いことに
目をつぶったり
耳を塞いだり
口をつぐんだり
他者の口を封じたりはいたしません。
 
さらに自らの瑕疵(かし)を消して
まるで最初から
なかったかのように
見せかけたりもいたしません。
 
さもなければ
起こっている悲劇を聞きながら
我が身の多幸を感謝して
自分を満たすために
信仰に見せかけた心地よいの砦を作って
抵抗しない人だけを招き入れ
自分の解釈に神秘の味付けを加え
自分の花園をこしらえ
造花を植えて愛でて
満悦するような偽善者になってしまうからです。
 
 
分かっていなければならないのが信仰ではなく
分からないならば分からないと正直に言うのが信仰です。
 
 
 
 
「いいね」を入れてくれたから見てみると、その人のブログでは、批判というものを害毒のように言ってるようです。
 
批判を書いている人はいっぱいいると思いますが、まず、この人が書いているのは批判ではないのでしょうか。さらに、批判についての基本的な誤解~曲解があるようです。
 
批判と言われているものには2種類あると思います。
 
1)相手を変えるために批判する・・これは、双方向が成り立つ間柄で、忠告や提案をすることにとどめておいたほうがよいでしょう。それ以上は、大方、うまくいかないと思います。
 
2)として、1)のやり方で相手を変えることは難しいけど、放置しておいたら害が増えるだけと思われる場合は、こんなおかしい人がいますから関わらないようにしてください・・というような、情報を公開してゆくことが必要です。
 
私の批判は、おもに、2)であります。つまり、批判記事は、こんなおかしい人がいますから、だまされないようにしてほしいという願いを込めて書いています。つまり、記事を読んでほしいのは、批判対象ではなく、一般読者であります。
 
批判対象は、記事を読んでも読まなくても、都合の悪いことは無視して、平気でいるような輩です。
 
明確な意志と方法を持って批判しているなら、批判することで不安になるようなことはありません。
 
悪いことをする人の情報を書かなくなったら、悪人は、どんどん蔓延ってしまいます。それと、悪い人の中には、善を気取ってだましてくる、いわゆる偽善者もいます。批判を全然しないのが正しいと思い込んでいる人は、偽善者クラスの悪人の手助けをしていることになるでしょう。
 
自分が批判するしないは個人の自由ですが、一般論として、批判はよくないと決めつけるのは、それこそ、認識不足と自説への慢心による間違い~偽善と言うべきであります。
 
 
いかなる天上を信ずるのか

いかなる天上を信ずるのか
 
 
(2011年05月31日)
(2021年08月19日、再録+)
 
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが(再録)
 
楽山は、記事も、ツイッターも、自らは、はっきり言わず、責任を逃れようとしながら、他者の言から都合のよい文言を引用して、味方にしようとします。それで、引用の責任さえも、負わないでいいと思うような無責任ぶりであります。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 」
 
「キリストの幕屋」は、右翼の教団で、信条に大和魂が入っているという話を聞いたことがあります。純粋なキリスト教とは言えないでしょう。そして、楽山は、右翼のA級戦犯を褒め讃えるネトウヨであります。楽山は、今も、まだ、クラゲのように、蠢(うごめ)いているようです。
 
 
 
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  楽山の右翼思想2
 
 『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』佐藤優著
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、A級戦犯となった大川周明についての記事を載せています。これが、楽山の奥底に隠してきた本音だったのでしょうか。政治思想の記事を出してきた楽山は、軍国青年だったのでしょうか。
 
大川周明については、もう大分前に某リサイクルショップで『米英東亜侵略史』を見つけて読み、「つくる会」の歴史観と同じだと思ったのと、東京裁判での奇行くらいしか知らないので、もう少し知識を仕入れておきたいと思い、本書を読んでみた。
そんな自分が本書の中で特に心に残ったのは以下のことだ。
まず一つ目は、大川周明が語った『米英東亜侵略史』は事実に基づいていたためにアメリカを激怒させたという話。これについて著者は「大川周明という知識人に対してアメリカが激怒したことを筆者は誇りに思う」(p.90 単行本2006年)としている。たしかに対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。
 
楽山のような、理非を弁えず、人間らしい情緒を持たず、未熟なまま大人になったような人物が、政治思想を語るのは、非常に危険であります。極端に走ってゆく傾向があるからです。周囲の誰もブレーキを掛けなかったのでしょうか。
 
楽山は、対立している批判者を、そして、すべての他者を、無視し続ける男です。そして、全く、真実の交流、本音の話し合い、真っ当な議論のできない人です。
 
「対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。」などと、よく言えると思います。実際は、対立している相手を完全に舐めて、無視してよいと思っているのが楽山です。
 
二つ目は大川周明が東京裁判に呼び戻されなかったのは、「大川は腹の底から法廷をバカにして」いるようであり、「いたずら心で法廷を喜劇の場にしてしまうことをアメリカは恐れたのではないか」(p.97)という見方である。
 
大川周明は、知能の高い人のようですが、先勝国であるアメリカが、この人を恐れるのでしょうか。楽山は、恐れられるような言論力はなく、代わりに、煙に巻く詭弁と嘘があり、無反省と無責任と無神経ゆえに鈍麻して、実際は、楽山が誰も恐れていないということでしょう。
 
自分としては大川は裁判から逃げたいがために、人の頭をピシャリと叩き、正気を失ったふりをしたのだろうと推測していたが、氏が優れた論客であり、あの場でふざけてみせる図太さがあるならば、たしかに東京裁判を喜劇に変えることは出来たであろうし、アメリカがそれを警戒した可能性もなきにしもあらず。
 
東京裁判を喜劇に変えるのではなく、独りで喜劇を演じることになったのではないでしょうか。梅毒による精神障害と書いてあるようですが。アメリカは、それを警戒するでしょうか。楽山の持ち上げ方は異常だと思います。高い知能を引き寄せて、自分もだと言いたいのでしょうか。
 
三つ目は大川が『日本二千六百年史』において源頼朝や足利尊氏に一定の評価を与えたところ、蓑田胸喜から天皇機関説の疑いをかけられ、修正を余儀なくされたという話だ。この批判は筋は通ってはいるのだろうが、あまりに窮屈すぎて笑いをこらえるのには苦労する。でもこの批判を受け入れる形で当該書籍が修正されたとすると、当然ながら当時は笑いごとでは済まされなかったということなのだろう。
 
どう笑いごとでなかったのか、説明がありません。「筋は通ってはいる」と言いながら「笑いをこらえるのには苦労する」というところに、楽山の、いい加減さが表れています。ブログ読者への説得力など、楽山には、どうでもいいのでしょう。自己愛で、完成しているつもりだからです。
 
四つ目は上と関連するが、蓑田胸喜は自己を復古主義者と規定していたかもしれないが、実際には「典型的な近代主義者」であり、「自らが生きる時代の視座をもって日本の歴史の諸事実をつなぎあわせ、単一の価値観で貫かれた歴史を提示する手法は、典型的な近代ロマン主義である」(p.272)という指摘だ。
 
楽山も、自分はは学者レベルだから偉い!そして言うことはおのずから皆正しい、という単一の価値観のようです。自説に反することは、すべて、無視してきた2年間でした。楽山は、反論・弁明できなくても、笑っていられる体質です。
 
またこれに対して大川周明の場合は、「前近代的な復古主義(プレモダン)であると同時に、近代の限界を超克したポストモダン思想の両義性をもつ」のだという。
これは何やら難しい話ではあるが、自分は後者の方が好みだ。話は少々変わるが、たとえば宗教について考察する場合、信仰、唯心論、有神論という方向からだけではなく、それとは反対の懐疑論、唯物論、無神論という方向からも考えたい性質なので。
 
楽山の語る○○主義を、まともに受け取ってはいけません。字面の浅い概念しか受け取っていませんから、言葉だけ、専門用語を使って、自分を飾っているだけだと思います。キリスト教について、如実に表れていたことです。既に浅はかさがバレているのに、なおも見栄を張り続ける楽山です。
 
楽山の、論、というのが、どの方向であれ、話にならないことを、私は、今までの批判記事に書いてきたつもりです。今回の記事で、危険が増し加わったと思います。これが、自己愛のために知性にも感性にも縁のない、楽山、という暴力的で節操のないサイコパス的人格の思想~妄想です。
 
楽山は、信仰という方向から考えたことはありません。信仰についての話は、幼稚な詭弁ばかりです。恐らく、総ての思想と論理について、楽山は、まともに組み立てて語ったことはなく、ネジが緩んだガタガタの精神作業のために、何も成り立ってはいないと思います。
 
対立する命題から考えるというのは、思考において当然のことです。しかし、心が無ければ、賛否の論も、いっさいは空しく、危険なだけなのです。そこに、楽山の、思い込みから暴力的思考への傾倒が生まれています。
 
つらつらと、とりとめのないことを書き連ねてしまったが、本書を読んだことで、自分は大川周明について、さほどの知識もないままに、偏見を持ち、不当に低く見ていたということがよく分かった。やはり知識が増えるとそれだけ視野は広がるようだ。読書の大切さが身に染みる。大川周明についてはもうちょっと調べてみたいと思う。
 
楽山は、勉強が嫌いで、かつ、宗教が嫌いな、右翼青年だったのかもしれませんが、そういうこととはかかわりなく、「つらつらと、とりとめのないことを書き連ね」たのなら、正当な論者であれば、公開しないはずです。実際、ゴミ箱だけが似合っている楽山の言であります。
 
知識が増えて視野が広がる、と言っています。失ってゆくものに、失われてゆくものに、全く無関心な楽山です。悲しみに共感できる心がないために、自分について、悲劇を想起できないのでしょう。読書の大切さを、ことごとく、自我の満悦のために棒に振っている楽山です。
 
私は、右も左も詳しくはありません。しかし、国家主義・軍国主義が支配した日本の歴史に、誰も否定はできないのは、日本だけで300万人の犠牲を出した戦争があったという事実でしょう。楽山の視野では、不都合は総て無視するので、特に人名や人生や心や命について、楽山は不感症です。
 
楽山には、決して近づかないでください。思っていたとおり、楽山は、危険です。さらに、右翼思想家に傾倒となれば、今後、どういう転帰を辿るか、恐怖しかありません。しかも、楽山は、今までの批判に書いたように、笑うサディストですから、人の人生も命も、何とも思っていないと思います。
 
 
大川周明:
(ネット百科事典マイペディアの解説より)
 「
右翼国粋主義運動の理論的指導者。山形県生れ。東京帝大でインド哲学を学ぶ。1919年北一輝らと猶存社,1924年行地社を結成。啓蒙活動を行う一方,軍部桜会の将校と接近。三月事件,十月事件に関係し,五・一五事件で検挙。釈放後は法政大学教授を務め,《米英東亜侵略史》などを刊行。第2次大戦後,A級戦犯に指名されたが,東京裁判の公判中精神障害を起こし釈放。著書に《日本文明史》,コーランの翻訳がある。
 」
 
 
虚偽と詭弁と偽善の文章に対する厳しい批判とは、対象の文章を見たとたんに生じる悪臭と不快感と怒りを、コントロールしてクールダウンして、冷徹な理路と比喩に置き換えてゆく作業を理想としています。うまくいってるかどうかは、また、別ですが。
 
 
妄念思想

妄念思想
 
 
(2020年07月02日)
(2021年07月28日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと一致しているとは限りません。
 
 
 
(ネットWikiより抜粋)記事の参考までに:
 「
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の思想家[1]。東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。
 
1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した[2]。
 
東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴されたことで著名となった。しかし梅毒による精神障害と診断され、裁かれなかった。なお、晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究で著名。
 
大学時代は先賢古聖を思索する中で頓挫・懊悩し、救いをキリストに求めた。キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。
やがてキリスト教会の物質を偏軽する道徳の虚偽に憤り、社会制度の根本的改造を必要とし「マルクスを仰いで吾師とした」[4]。さらにプラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」。
 
貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
 
満州国の建国を支持して在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。
 
戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。
 
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。
 
大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。
 
東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。この間、公職追放となる[10]。
 
 
 
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  楽山のネトウヨ刷り込み
 
 『昭和風雲録』満田巌著
 2021年07月17日 楽山日記(LD)
 
 
過激な右翼思想家のA級戦犯を讃える記事を書いたことのある楽山が、ネトウヨぶりを表しています。楽山のような信頼のおけない人が書いても、誰かを目覚めさせることはないと思います。何故なら、楽山自身が、目覚めてもおらず、まともな活動もしていないからです。
 
著者の満田巌については、検索しても、はっきりと詳しく書かれているサイトがありません。定かではないようです。有名人かどうかも分かりません。昭和史上の右翼の暴発について、参照されることのある本のようです。
 
楽山は、説明や解説の出来ない人なので、著者について書かず、ただ、読んだぞ、聞け・・とでも言うのでしょうか。人間性と情感が乏しく、自己中だけが強いと、このような書き方になる、という見本になるでしょう。
 
しかし、自分の意見のまとまらない楽山は、引用だけといってもいいような記事になっています。自分で、理解しようとしない、理解できない、でも、書いて自己顕示したい、という楽山の特徴が表れています。それにしても、右寄りの一面的なことばかり書いて悦に入る呆れた心境です。
 
*概要
戦前戦中の考え方を知りたいと思ったので、昭和20年3月15日第26版(初版昭和15年)の本書を調べてみた。ざっと全体を眺めてみると、前半は第一次大戦後の日本は既得権益の確保を目論む米英から平和軍縮条約を押し付けられ、満州では排日運動が激化し、双方から圧迫されていたこと、
 
「戦前戦中の考え方を知りたい」と思って、読めば、知り得るのでしょうか。こういう偏った読書を宣伝したいのでしょうか。「目論む米英」「押し付けられ」「圧迫されて」・・当時の日本について、外国を悪者扱いしている楽山の、他罰的な右翼政治思想が表れています。
 
後半はそのような状況を転換させようとする者たちが昭和血盟団事件、五一五事件、神兵隊事件、相澤事件、二二六事件などを起こしたこと、最後は満州事変、国際連盟脱退などについて触れており、真珠湾攻撃前夜の様子がよくわかるものになっている。
 
右翼についての本を読んで、楽山は、ネトウヨならでは・・と言うべきか、気安く、昭和の流血事件について、あっさり「よくわかる」と書いています。ネズミのように、こそこそと立ち回り、嘘を吐く活動しか出来ない楽山は、右翼の怖い勢いだけであっても借りたい心境なのでしょうか。
 
*繰り返し
本書中、著者の考え方として特に興味深かったものは次の通りである(旧字は新字に変えた)。
 
どう興味深かったのでしょう。書けば、ネトウヨぶりが表れるので書かず、引用だけで、まともに見せかけようとしているのか、メモだけならば、公開する必要はないのです。引用だけの奇妙な刷り込みで、自尊過大を表す楽山です。
 
某代議士の如きは「軍備といふ如きものがあるから、戦争が起るのである。よろしく軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つであろう」とまで極言した。しかし、雨降る故に傘あり、傘ある故に雨が降るのではない。かくの如き非論理的な暴言が堂々として吐かれる程、当時の非戦的気運は圧倒的であった。
(『昭和風雲録』満田巌著、新紀元社、昭和20年、p.50)
 」
 
「軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つ」という考えの愚かさを暗示したいようです。かといって、軍備を増強したら戦争はなくなるということでもありません。陳腐な揶揄を書いて、楽山には、建設的な意見は皆無なのです。
 
ワシントン条約、ロンドン条約等は、世界を去勢せんために米英現状維持国が企んだ平和攻撃の一手段であり、国際連盟、不戦条約等と密接に関連するものである。米英現状維持国は、一に平和を鼓舞し、他に軍縮を高唱して、自己の優越的地位の保持に全力を傾倒した。
(同上、p.50)
 」
 
これも、日本が米英に脅威と感じてられていた、また、日本は米英を脅威と感じていた、という歴史状況を書いています。今につながるものがないことを、楽山は書いて、何を伝えたいのでしょうか。俺は右翼だ、宗教だけでなく政治も分かってるんだ・・と言いたいのでしょうか。
 
思へば拙劣な外交であった。口に平和を唱へる所謂協調外交が、米英の現状維持を保証する以外の何ものであったか。その間、却って米英の軽侮を招き、更に支那満州の排日を激化したのみではなかったか。
(同上、p.75)
 」
 
協調外交が拙劣だと書いて、楽山は、自分ならば・・戦争、云々、と言いたいのか、またしても、他者の口を借りて、月並みな右翼への傾倒を表しているだけの感想文、しかも、そのやり方は、印象操作に過ぎません。読書して、書くたびに、読書できないことを表してしまう楽山です。
 
そのモットーとする所は、徹底的な平和主義といふより屈服主義であり、国際連盟に心酔し切つて軍縮に大童となり、大陸及び太平洋への発言権を自ら捨てて、米英の意を迎へるに汲汲とした。その間、貴族院、枢密院、政友会そのほか国民各層の不満にも拘らず、米英は、日本に於ける唯一の国際外交の権威なりとして幣原外交への賛辞を惜しまなかつた。
(同上、p.76)
 」
 
引用しているということは、楽山も、屈服主義と書いて自己満足でしょうか。結局、日本は、屈服せず、アジアを侵略して、アメリカと戦争して、自滅の道を進みましたが、楽山の言は、喧嘩に負けた子供が、相手への悪口で、腹いせをしている有り様にしかならないでしょう。
 
しかも責任を負えないものだから、引用だけというお粗末さは、責任のある言動の出来ないのに、見かけだけ評論家を気取って自己満足するという、今までの楽山を、やはり、そういう人だった・・と復習させる愚痴にしかならないのです。
 
こうしてみると平和外交とそれに対する批判は、昔も今もさほど変わらず同じことを繰り返しているようだ。人というものはそう簡単に変わるものではないだろうから、これも当然のことなのだろう。
 
右翼思想を書いて、「人というものはそう簡単に変わるものではない」と書いて、今を好ましくないかのように書きながら、「当然のこと」と書いています。右翼思想への賛同を表しながら、面倒はごめんだと保身をする筆致、楽山の、いつものボンヤリ言語です。
 
*将来
ところで、本書には連盟脱退についてこのように書いてある。
日本の連盟脱退こそは、連盟の本質が英米の自己擁護機関たる外何物でもないことを身を以て世界に明示したものであり、同時にまた白人旧世界体制に対する致命的な一撃であつた。条約違反或いは経済封鎖を以てする彼等の威嚇に抗して、ここに日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出したのである。これにつづいて独伊また連盟を脱退し、連盟の旧体制的構成は全く無内容と化し去つた。しかもこの寂寞の連盟にソ連が加入(昭和九年――一九三四年)し、その内実は旧国際連盟から国際人民戦線へと変貌した。一方に於ける日独伊、他方に於ける英米仏ソ――今や世界は瞭然たる二大勢力に分れ新旧闘争の決定的世界史転換の時代を迎えたのである。
(同上、pp.359-360)
 」
 
「連盟の本質が英米の自己擁護機関」「白人旧世界体制に対する致命的な一撃」「日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出した」・・否定してないから戦争礼賛になります。「世界史転換の時代を迎えた」・・万歳三唱でもしたいのか・・って感じになっています。
 
最近は国連離れが加速しているようではあるし、もし「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」というのが本当であるならば、近未来において日本およびその他の国々が国連を脱退して世界新秩序建設への第一歩を踏み出すということもあるのだろうか。そんな想像をすると何やら恐ろしい気がする。
 
国連離れが加速しているのでしょうか。国連離れで検索してみると、トランプの名が出てくる程度です。さらに、もはや陳腐とさえ思える「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」という漠然としたことを書いて、新秩序、想像、恐ろしい、などと書いて終わりです。
 
新秩序建設というのは、戦争が起こるかもしれない、ということでしょうか。そうならないために、楽山は、何か政治的言動をしたのでしょうか。不安を煽りたいだけでしょうか。主張の見えてこない思想の話、何を書いても、いつもと同じ、中身のない評論家気取りしか見えてきません。
 
何を書いても、まともな理路にならない楽山の、右翼的な印象操作と刷り込みです。しかも、はっきりした自分の意見を持たないから、偏った本の選択と引用によって、またしても、無責任ぶりが全開の楽山です。新しいものや独自のものが何もなく、読む価値のない記事だと思います。
 
批判しても何も答えない、なのに、手を変え品を変え、書いてきて、分かってると自己顕示してくる欺瞞、自己中の世界に陶酔しているだけの自己愛性パーソナリティでなければ、できない醜態であり、分かるべき身近なことさえ分かろうとしない楽山であります。
 
 
  青春のない楽山
 
 マイケル・シェンカーの青春論によるマイコン解除(『飛翔伝説』)
 2021年07月17日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山には、恐らく、青春などなかったのではないかと思います。その復讐なのでしょうか。嘘と詭弁の煽動者になり、批判しても、なお、平気で書き続ける自己愛性人格障害を表して、本当に救われない者という病的人格のモデルとなっています。その腹いせでしょうか。
 
*マイケル・シェンカーの青春論
 本の整理をしていたら、マイケル・シェンカーの『飛翔伝説』が出てきた。中身を確かめてみると、こんなことが書いてある。
(画像省略)
「自分自身であれ!」「自分に嘘はつくな!」「自分の意思を貫き通せ!」「人は人、自分は自分だ!」という考え方は、ギタープレイだけに限定されず、人生全般に言えることであろうし、昔も今も変わらず共感する。
 
(ネットより)
マイケル・シェンカー
ミヒャエル・シェンカー
マイケル・シェンカー(ミヒャエル・シェンカー、Michael Schenker、1955年1月10日 - )は、ドイツ出身のハードロックのギタリスト。
 
自分を見失って、自分にも嘘を吐き、自分の身勝手な妄想を訂正不能に投げているのが楽山です。また出してきましたが、「人は人、自分は自分」と、自己中とは、全然、違います。楽山は、真逆の勘違い妄想を共感と呼んで、また嘘を吐いているのです。
 
*スピリチュアリズム
思うに、自分はこの流れで、「自分自身を信じよ」「自分の内なる神(良心)を信じよ」というスピリチュアリズム的な考え方にも共感し、これにつらなる幸福の科学にも傾倒したのだった。
 
楽山が信じて振り回しているのは、体質からの我執であります。それだけが、楽山の書いてくるものに表れてきたのです。楽山の言うスピリチュアリズムは、自らの霊能者気取りに過ぎず、それを勘違いした結果、病質的自己中に囚われています。
 
訂正不能の我執からの自己主張と詭弁と嘘が、楽山の恐ろしさであり、何度、批判しても、また、同じことを書いてくるのです。もはや、関わらないこと近づかないこと以外には、対処法がなくなっています。楽山から、良きものを受け取ることはありません。
 
*退会
でも幸福の科学は、当初は「内なる神を信じよ」と説いていたものの、途中からは次のような教えに変わってしまった。「大川隆法を信じよ。自身の小さな頭で考えたところで何がわかるか。大川隆法にはもっと深いお考えがあるのだ。大川隆法を信じてついてゆけ」云々。
 
誰も信頼していない楽山、信頼できる友のいない楽山、自分だけしか信じない楽山、丁寧語と詭弁で自分に引き寄せては、人をだまして疲れさせるだけの楽山です。楽山自身が、霊が分かるっぽいという自己中心のカルト的妄想に支配されています。疲れさせることで人格を破壊します。
 
自分は信者として、この教えに自分を合わせようとしたものの、結局はそれを徹底することはできず、「内なる神を信じよ」「自分自身を信じよ」という思想に戻ることになった。
 
楽山の信条は、内なる自分という神・絶対者を訂正不能に信じて、他者を、いっさい無視することです。無理解・無神経のまま、言ったら、言いっぱなし、無反省・無責任の、詭弁屋で嘘吐きですから、決して関わってはいけません。約2年間のペテン師の資料となっています。
 
ある意味、マイケル・シェンカーの青春論が心に染み付いていたおかげで、マインド・コントロールから抜け出すことができたということだろう。
 
楽山に染みついているのは、自己中だけです。自己愛性パーソナリティ障害からの自己絶対の自尊過大の、身勝手ぶりです。質問と疑問を浴びせれば、正体を表しますが、そこで、疲労し消耗して、人格を損なう恐れがあります。
 
*感謝
マイケル・シェンカー本人からしたら自身の発言が極東の一人の若者をカルトから救うことになるとは想像もしていなかったろうが、実際自分はそのようになったわけでマイケル・シェンカーには心から感謝したいと思う。
 
世辞~勘違い~嘘です。楽山は、誰にも感謝したことはないと思います。「極東の一人の若者」である楽山は、「カルトから救」われたのではなく、恐らく最初から、自分自身がカルト思想だけに染まって、訂正不能に慢心しているだけなのです。どうか、近づかないでください。
 
 
道なき道に溺れる

道なき道に溺れる
 
 
(2021年07月18日)
 
 
 
  彷彿
 
ワイパーが水滴と一緒に
視界を拭(ぬぐ)い去る向こうに
道はあるとアクセルを踏むから
車は暗がりを轢(ひ)いてゆく
 
ときに所々の街の灯(ひ)が
一瞬だけ信号に見えたりするから
ブレーキは早めの後ろから
大型トラックがぴったりついて来る
 
進めばよいのか止まればよいのか
後退でもすればよいのか
最初から出かけなければよい
飛ぶこと以外望まないのなら
 
空色の信号が浮かんでいる
そこでもチェックは厳重だ
拭い去れないものを火が乾かす
拒めば落ちてゆくことだけには限りがない
明るい人も大地も星も
水天彷彿(ほうふつ)みな落ち続けている
 
(90年代か)
 
 
 
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  楽山のネトウヨ
 
 『国民の歴史』西尾幹二著
 2021年02月27日 楽山日記(LD)
 
 
ネトウヨ楽山の登場です。著者は、東大文学部卒の、右翼の思想家です。有名人といってよいでしょう。生きている有名人の本の引用、ネトウヨなら無断でしていいのでしょうか。
 
*心に残った箇所
『国民の歴史』は、新しい歴史教科書をつくる会がよく話題にされていた頃に一度通読したきりで、今はもう巻頭の写真をみて円空はすごいと思ったことくらいしか記憶に残っていないので、ひさしぶりに読み返してみた。通史というより、歴史エッセイ集のような体裁なので、どこから読み始めてもよいのはありがたい。宗教絡みでは二点ほど心に残った箇所があったので、ここにメモしておく。
 
読みやすさを強調し、「メモしておく」、というのは、だから、自分は、ちゃんと読んだ、読めた、ということを言いたい楽山のやり方です。実際には、理路と読解の両方に欠陥があります。
 
*聖なるもの
まず一つは、「GODを「神」と訳した間違い」にある「大樹の下にただずむのは私も好きだが、ときに言いしれぬ、ぞっとする恐ろしさを覚えることがある」(平成11年 p.387)という文章だ。この感覚は自分にもある。大樹はもちろん、海山川岩石にも同様の感じを受けることはある。
著者によれば、「この「ぞっとする恐ろしさ」が、他でもない、ルードルフ・オットーの有名な「聖なるもの」の定義に属する。「戦慄すべきもの」あるいは「薄気味わるいもの」あるいは「妖怪的なもの」の感覚から聖なるものの領域の気配がはじまるというのである」(p.387)とのことである。オットーの『聖なるもの』は読もう読もうと思いつつも読んでいなかったのではあるが、こういう話を聞くとますます読みたくなってくる。
 
嘘を吐いている楽山には、神に「ぞっとする恐ろしさ」が強いのだろうと思ったら、楽山の思うつぼです。「戦慄すべきもの」ならば、今までのような、自己中で妄想的な安易さで神を否定することはないでしょう。
 
また、有名人の言葉を借りているだけであり、実際は「薄気味悪いもの」とも感じていないのが楽山です。楽山は、都合の悪い感情は切り捨てて、快感だけを貪ってきたことが、今までの筆致に表れています。
 
*キリスト教の敗北
もう一つは、「キリスト教の敗北」についてである。著者によれば、ザビエルは日本での布教活動においては、民衆にむかってキリスト教を知らずに死んだ祖父母らは救われないと「断固厳しい断定をし」(p.396)たのだったが、近年の「第二回ヴァチカン公会議」では「世界の情勢にあわせて世俗化の傾向を強め、異なる宗教との妥協と調和を図る方向へ教義を改訂した」(p.395)としており、これは「キリスト教の敗北」だというのである。これに対してはドイツ人から「あなたの方が私たちよりもずっとキリスト教徒だ」と評され、大笑いになったそうだ。
 
楽山は、キリスト教の勝利、神の勝利が分かるのでしょうか。何も分からないと思います。であれば、キリスト教の敗北も分からないはずです。信仰について何も知らないくせに、またしても、身の程知らずを露呈する楽山です。
 
異教との調和は、どういう異教かにもよるでしょう。自分が舐める飴ばかり漁っている楽山の手に負えるような問題ではないのです。すべて、ケースバイケースです。それを、一般的に語ろうとして、「キリスト教の敗北」と言っている楽山は、大笑いではなく、最初から、愚昧を自ら表しているようなものです。
 
(ネットより)
愚昧(ぐまい):おろかで道理に暗いこと。
 
著者の宗教観は、「こうした原理主義的な自己への明確な規定は、宗教の本来の性格からしてあたりまえのことであり、すべてを曖昧にする寛容さのほうがむしろ例外である。非寛容は宗教の特性ですらある」(p.395)というものらしいので、上のような結論になるのも当然ではある。
 
どういうキリスト教を見ているのでしょう。個人の心の中の宗教は、信仰としてしか生きていないものです。それは、結局、他者には分からないもので、神との秘密でもあります。
 
宗教の組織的なことを歴史的に見て、それで宗教を語ったつもりの人は、信仰に触れていないのだから、何が当然なのか、分からないはずです。
 
一部の愚昧な楽山のような者だけが、自らの惨憺たる敗北の履歴には気づかずに、「キリスト教の敗北」などと軽軽に言ってしまうのです。
 
*宗教と人情
ちなみに自分はどんな宗教観をもっているかといえば、下のような文章に感動するクチである。
ああ、そん時近藤先生に、
「多喜二は天国にいるべか」
 って聞いたら、
「あのね、お母さん。聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』という言葉があるんですよ。チマさんからも聞いていますが、多喜二さんはずいぶんたくさんの貧しい人に、いろいろ親切にして上げたそうですよね。『小さき者』というのは、貧しい人ということですね。名もない貧しい人に親切にすることは、イエスさまに親切にすることなんですよ。多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」
 うれしかったなあ。多喜二に会える。多喜二に会える。うれしかったなあ。
(『母』三浦綾子著、角川書店〈角川文庫〉、平成21年、p.214)
 」
これは小林多喜二の母が、洗礼を受けておらずキリスト信者ではない多喜二は天国に行けたかを心配したところ、親切な人なら信者でなくても天国にいないわけがないといってもらって慰められるという場面だけども、自分にはこれこそ宗教の役割であるように思われる。ただここでは「多喜二さんは天国にいる」と言い切らず、「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」と若干含みを持たせてるところは、著者の微妙な立ち位置が想像されるのではあるが。
 
「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」は、人間としての明確な肯定だと思います。楽山は、情緒面の欠陥から、含みを持たせていると受け取っています。
 
激励することが大切な場面でしょうから、日頃の楽山のような雑な言い方はせず、自分はどう思うかを、ちゃんと言い表しています。楽山は、何を言っているのでしょう。
 
(ネットより)
含みを持たせる
読み方:ふくみをもたせる
直接には言い表されてはいないが、表現の中に秘められた意味合いを持っている様子。
 
宗教と人としての情緒が完全に重なっていれば上のような問題は生じないのだろうけれども、そういうことはまずないのだから、情緒豊かな人ほど宗教を信じようとする場合は、宗教と人情のどちらをとるかという問題から逃れることはできず、やっかいである。この点、多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだと思う。
 
宗教と人情という2つの言葉による、楽山の、楽山のための、楽山だけの、独り遊びです。いつも楽山がやっていることです。楽山の言葉に、感動の要素が一切ないのは、このような理路の自己中心による破たんがあるからです。
 
その破たんした言葉で、無宗教を賢明だと言っていますが、これは、そのまま、自分は賢明な人だと自慢しているのだから、背筋が寒くなるのです。こういう婉曲に、だまされないでください。
 
「宗教と人情のどちらをとるか」「多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだ」・・頭がおかしいとしか思えません。よほど、戒律的、妄想的な、カルトだけを、宗教だと思っているようです。馬脚をあらわすとは、このこと。
 
キリスト信仰の情は、聖書からの、キリストご自身の深い共感に反応して発達します。
 
宗教と人情が重なっていないと言っています。違うのだそうです。それを最も如実に感じるのは、楽山においてであります。
 
景色と水が違うと言っているような的外れです。必ずしも背反しないものを、重なっているものを、崩壊した理路で分けて、どっちだと聞いているようなものです。
 
なぜなら、楽山においては、宗教は超常の怪奇物語に過ぎず、また、楽山には、人としての情がないからです。宗教も、情も、理路も、まるで知らない楽山だからでしょう。
 
当然、楽山の書くものに、そういう冷血と的外れは表れてくるのです。言葉は、楽山には、喧嘩のときに投げる石以上ではないのでしょう。
 
今日も、鬼畜の所業をやめない楽山です。人としての情のない男が、情を語ろうとして、自ら仕掛けた罠につかまってしまう例でしょう。楽山の言は、質の悪い独り言、楽山だけに返ってゆきます。
 
人生の、いろいろなシーンで、雫のように表れてくる真実の欠片を、ことごとく見逃してきたところの、いつもながらの楽山らしい棘だけで出来ている筆致でした。
 
深い情緒は、神への恐れから敬虔の必然として生まれてきます。
 
神を恐れないところからは豪語と虚偽と悪口が生まれてきます。
 
 
非常の沼

非情の沼
 
 
(2021年02月28日、同日一部修正)
 
 
楽山のリツイートです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·22時間
冷たい言葉は、相手の心だけでなく自分自身の心も冷たくし、温かい言葉は、相手の心だけでなく自分自身の心も温めます。心を冷やさないように、温かな心でぐっすり眠れるように、冷たい言葉を避け、温かい言葉を選んで話しまょう。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:32 · 2021年2月26日·Twitter Web App
 
記事の流れの中では冷血が明らかであるのに、場面場面に、丁寧語で、温もりを捏造する者もいます。
 
そういう者に温かい言葉を使うと、ますます、つけあがり、温もりを装うでしょう。そのような温もり芝居だけの、自分納得だけの世界に住んでいる者がいるのだから、暖かい言葉を使いましょう、という説教は、現実の中で、あまりに単純で、あまりに通念的な説教として記録されることになるのです。
 
今回、まさに、そういう者が、このツイートを引用しています。
 
 
(2021年02月28日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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