ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:パリサイ人

 
 コメントへ返信 (一部修正してます)
 
 
コメントありがとうございます。気づかなくてすみません。FC2よりメールとして届いて、確認しました。
 
私は、聖職者でも学者でもないので、一人のキリスト者として、ブログを書いているに過ぎませんが、読ませていただいて、共感できることが多いです。
 
確信という言葉は、聖書にも多く出てくるようですが、確信=絶対正しい≒教理は絶対正しい≒説教者は絶対正しい・・になってしまいがちです。その際に、疑問を呈する人を黙らせるのに、一番効果的なのは、"聖霊"(?)でしょう。物言わない存在だから利用されやすいと思います。
 
私も、確かに聖書からキリストに出会ったと思っていますし、信仰は持っているわけです。どう信じればよいのかということを、ずっと考えてきました。おっしゃるように、私は、人間の罪の性質を、ほぼ同値として、神とは違う人間の不完全という言葉で表すことが多いです。信仰者も罪を犯します。神とは違って不完全だからです。
 
罪深い人間の性質は、信仰者も変わりません。人の、いかなる思いも行為も、完全ということはないと思います。このことを弁えておかないと、・・人を裁く豪語になりかねません。
 
確信は、罪深いこと、即ち、不完全であることを弁えることだと思います。弁えないと、神聖と自分が一体化したかのように、自説を言い張るようになるでしょう。
 
取税人はその弁えを知っていました。パリサイ人はそれを知りませんでした。不完全という言葉を使うのは、神の完全との対比であります。
 
いつからか、私は、心に響くことしか受け取らなくなったと思います。信条や教理は、人間の言葉で表され、伝えられています。人間の言葉自体は、伝達のための乾燥した暗号に過ぎません。信仰について共感や感動に結びつくのは、聖書の言葉+人の言葉+個人の心に起こる体験でしょう。
 
人間が、何でも神秘と結びつけたがるのも、罪の性質です。それだけになると、思考が停止して、カルトと同じ思い込み信じ込む強迫的な信仰?になると思います。
 
 
私は、高校生の時に、聖書を無料でくれる教会があるらしいということで、また個人的な悩みもあって、教会に行き、通い始めて、卒業を控えた17歳で、洗礼を受けました。日本基督教団の佐世保教会というところです。半世紀も経ってしまいました。
 
説教について言うと、佐世保教会の牧師も、その後の福岡の牧師も、割と好きなタイプでした。頭ごなしというのは、なかったと思います。でも、何だか誤解されやすく、集団が苦手な私は、転居を機に、教会からは離れています。
 
聖書は、新約を通読、旧約は、ソロモン以後の歴史など、読んでいないところもあります。ずいぶん年を取りましたが、ずっと未熟です。最近は、聖書も、拾い読みばかりです。
 
熱心に勉強なさっていることが伝わってきます。私のこのレスは、記事にするだろうと思います。生き方の問題ですから、これからも分かち合っていけたらと願っています。ありがとうございます。拝。
 
2021-04-04-22:41
トダサトシ URL [ 返信 ]
 
 
信仰は心を大切にするところに生まれます

信仰は心を大切にするところに生まれます
 
 
(2021年04月05日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://stdsts.hatenablog.com/
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地上に生きる人の信仰が、完全になることはありません。
それを確かめる完全な能力が人にはないからです。
 
完全な信仰を求めること自体が間違いであります。信仰が完全になる、あるいは、なったと思うなら、その思いは罪であります。人間である限り完全はありません。神の前に、信仰者であってもなくても、人は罪人です。
 
 
 信仰の義
 
神という存在を、いかように見て信じるかという問題です。
 
机上の概念として扱えると見るのか。否であります。
人格者の典型のような御方と見るか。否であります。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変という属性は
人知によって把握することは出来ません。
 
人を見て
その肉体と言動の総てを見ている存在
その心の中も総てを見抜いている存在
と考えると
誰にとっても恐ろしい御方。
 
その御方は
ご自身に向かって人が祈るのを悦ばれるが
祈りの嘘をもすべて見抜かれる御方。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:9-14、新約聖書)
 
この話は、単に、敬虔を勧めるとか、清貧を勧める、とかいう話ではありません。
キリストは、信仰の本質と救われる条件を語っておられます。
 
パリサイ人は、信仰の行為を他者と比べて、自分のほうが上だと誇って、神に感謝しました。
神に感謝したのに、神は、義とされませんでした。
 
取税人は、嘆き、へりくだり、正直であったことだけで、神は義とされた。
 
信仰に必要なものは、神の前に、へりくだり、正直であることだけだということです。
 
信仰者に求められる信仰とは、
神よりも、はるかに劣っていて罪深い自分を、正直に告白すること、
それだけで、神は信仰者に信仰の義を与えると、キリストは言っておられます。
罪を侵したら、間違いに気づいたら、その都度、また正直に祈ることで、信仰は守られます。
 
一方、神の前に、他者より優っていると確信する者、嘘を吐く者、自慢して誇る者を、神は退けます。
 
また、他者に嘘を吐き、他者を、だまし、誘導して、操ろうとする者、それは、即ち、神に対しても、嘘を吐くことであり、嘘によって自らを飾るのだから、神に受け入れられることはありません。
 
それは、人に対して、さらには、神に対して、不誠実であり、偽ることであり、いかなる美辞麗句や、もっともらしい言葉を用いても、そのような者は、神の全能によって見抜かれて、救いを自ら拒む者として、自らの行為の報いを、自ら受けることになるのです。
 
正直な祈りを強調するのは、それが、人が、神のために出来る唯一のことだからです。人は、神の前に、何も隠せません。
 
人は、神の前で生きているのです。それが、神の全知全能に対する人の弁えです。
 
人の、能力、財産、寄付の額、奉仕活動の高、それらによって、救いが左右されることはありません。人の献身は、感謝のしるしとして行われるものであり、人の献身が、いかに多くても、神の絶対の前では、決して大きいことではないからです。
 
神の前に、正直に祈ること、それだけを、神は人に求めておられると思います。
 
キリスト信仰は、祈りの信仰であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
26:11
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 
26:12
この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
信仰の義とは、このようなことでしょう。人に認められるような立派なことではないのです。できることをすること、それを、主に捧げることが、信仰者の精いっぱいであります。
 
神の前に、善行を自慢したら、どんなに効率がよくても、気づかないことのために、全知の神によって、上の聖句のパリサイ人と同じになります。
 
女性は、目の前のキリストのために、よかれと思って、できることをしました。それができる機会は、またとないと思ったからでしょう。そして、弟子たちに怒られました。弟子たちは、行いの効率を考え、女性の心を思いやらなかったからでしょう。
 
女性の行為は、効率の悪い、的外れのことかもしれません。信仰の行為としては不細工だったでしょう。しかし、主イエス・キリストは、それを、信仰に適うこととして受け取ったのです。
 
主が、いかに、人の行為だけでなく、人の心を見ているか、ということが分かる聖句であります。
 
信仰の義とは、キリスト者だから、神に従う、また、良いことをする、という話ではありません。私たちは、不完全で、しばしば的外れなのです。しかし、それを承知の上で、主は見ておられるということです。
 
主は「葬りの用意」と言っておられます。十字架において犠牲となる救い主イエス・キリストに、人々と一緒にいられる時は限られていたということです。
 
ご自身の愛と悲しみとして、人の愛と悲しみに共感する、という主イエス・キリストの言行は、福音書全体に貫かれているのです。
 
 
信仰の義

信仰の義
 
 
(2021年04月03日)
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
(90年代、再録)
 
 
※ 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·5時間
これは人間関係だけでなく、宗教に関しても言える。
おかしいと感じるなら、速やかに、その宗教とは距離をとるのがいい。信仰を続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長引かせるばかりだ。それより、さっさと次のステージに進むべし。
午後8:16 · 2021年4月1日·Twitter Web App
 
誰よりも、自己愛性人格障害で霊能者気取り~妄想の個人カルトの、楽山とは、二度と関わらないように、距離を取ってください。楽山には、良心がありません。代わりに、丁寧語の詭弁と嘘があるだけです。ずっと、楽山の言葉が、楽山を斬っていることにも気づかないのです。
 
楽山との関わりを続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長びかせるばかりです。それより、さっさと自分の思考と感性を磨きましょう。思考と感性は、楽山が持っていないものです。それで、楽山は、いちゃもんしか言えなくなっているのです。
 
 
(2021年4月03日)
 
 
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  現代の偽善者2
 
 
二千年前の
キリストの時代には
偽善者は分かりやすかったかもしれない。
 
聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて
多くの人は、かなり、はっきりと分かるだろう。
尊大で傲慢なパリサイ人と
赦しを乞う以外になかった取税人は
明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは
そのような分かりやすさを持たない。
 
現代の偽善者は
柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まる。
 
現代の偽善者は
誰でも賛同するような話題を用意している。
そして褒め言葉や讃美言葉で熱心で敬虔な信仰者だと思わせる。
 
現代の偽善者が
尊大で傲慢になるのは
何らかの知的な話においてか
追いつめられたときでしょう。
 
宗教、政治、思想、などについて
彼らは、自分が知的に上だということを示します。
実はないのに、評論家のような立場で物を言うでしょう。
 
こちらの話は受け取らず、弁明せず、
自分の言い分だけを繰り返します。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら
従うことがベストだということを刷り込んでゆきます。
うっかり関わり続けていると
気づかないうちに刷り込まれてゆくのです。
 
彼らの言うことが、
すべての人に広まったら
いつのまにか、
気づいたら、とんでもないことになっている。
 
彼らの言うことが
何よりも自己中心を土台としていること。
けっして自らの罪や過ちを認めず
悔いることがないということ。
 
真実として、良かった、悪かった、ではなく
策略として、うまくいくか、まずいか、という判断です。
 
 
大事なことは、彼らの言うことが
聞き手に対して常に
上から教える態度に終始していることに気づくこと。
 
彼らの言うこととが
世辞の感謝やお詫び以上には
けっして微塵の反省も含まないこと。
 
これらに気づいたら一目散に逃げてください。
コメントにレスしないで無視して下さい。
けっして彼らの話に乗らないでください。
質問も確認もしないでください。
 
話し合おうと思ったりしないでください。
説明を求めないでください。
詭弁と無理解だけが返ってきます。
 
 
現代の偽善者は
覚悟の批判者だけが疑い
消耗を覚悟しながら批判する対象です。
 
彼らは
病的ナルシスト
サイコパス
病質者
異常者
偽善者
聖書のパリサイ人の
現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは
相手の本性を確かめることなく
穏やかな話には乗りやすい傾向があります。
 
教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。
批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。
 
現代の偽善者は
そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
現代の典型的なクリスチャンは
そのままでは
だまし言葉と詭弁だけを仕込んできたような
現代の偽善者には敵いません。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でした。
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を
本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。
 
今の偽善者は、良心がなく
代わりに、丁寧と柔和を装い、意図して騙すことを企みます。
 
批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 
潜在

潜在
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
(2021年03月21日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13分
この場面は、
カルト呼ばわりされたことに対して、
いかにもカルトっぽい言葉使いで反論してて、
思わず吹き出してしまったところです(笑)
これはようするに、
「わたしたち幸福の科学は、愛と悟りとユートピア建設を説く正しい宗教です」ということだし、
ぬけぬけとよく言えるなあ。
午前9:38 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、自らの招いてきた事態を全く気にしないで無視する、という、楽山個人の「いかにもカルトっぽい言葉使いで」、反論も出来ないのに、「思わず吹き出してしまったところです(笑)」と書いています。自身の無反省と無責任が招いた不都合を何も気にしていないことが表れています。
 
楽山が、高等感情を持たない病質者らしく鈍麻を表して、揶揄して「(笑)」などと書くのは、自分は正しいから余裕があるとでも思っているのでしょうか。「ぬけぬけとよく言える」ものです。
 
楽山は、「愛と悟り」も知らず、他者の意見に不応で、自らの惨状に不感の、人格破壊的な偽「ユートピア建設」の妄想をいだいている自己愛執着の、気取りだけで他者を揶揄して遊ぶ原始的な自己虫病質者です。自覚が何もないということを、一生、繰り返し表して続けてゆくのでしょうか。
 
楽山は、決して、誰の味方にもなれない人です。
 
今日も、楽山の言葉が、楽山に返って、楽山を斬ってゆくだけの、楽山の人生になっています。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
申し訳ないが、「HSの悪口を書いていながら、HSで取材できると思うな。取材したいなら、HSに対して相応の礼を尽くしてからにせよ」と聞こえてしまう(笑)
それから人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います。
午前11:28 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、「申し訳ないが」という政治家の慇懃無礼の口調で言っています。
 
「人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います」・・違います。犯罪者は、明らかに人権を制限されています。現状、最高刑は、死刑であります。つまり、公共の福祉に反しない限りでの人権です。
 
したがって、嘘吐きと偽善の悪行を働き続けている楽山には、人権を云々する資格はないのです。礼を尽くさず、礼の芝居でごまかす丁寧語で、宗教を子供じみた霊と超常の話と未熟な机上の理路の破綻で語って揶揄し、人を欺き続けている楽山は、首を洗って待つしかない立場でしかありません。
 
言い換えれば、楽山は、天然自然のあり方に、真っ向から反しているということです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
「歴史的資料となるだろう。」とは誰の言葉なんだろう。
ふつうは、本の帯にある推薦文は、他者によるものだと思うのだが、
まさか、まえがきにある著者本人の言葉ではあるまいな? 絵文字(口を開けて笑っている顔)
午後4:18 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
このように、楽山という人は、他者のみっともないことや、自分より劣っていると思う人を見つけて笑いたいだけだろうと思います。そういうことが見つかると、このツイートのようなことを書かないではいられないのでしょう。
 
結局、日常でないところ、つまり、一つは超常の現実離れ、もう一つは、恥ずかしいゴシップが、楽山の唯一の楽しみなのでしょう。自分で、別の笑い、例えば、おかしいのではなく、心が温まって笑顔になるようなことを何も見出すことが出来ないようです。
 
楽山については、次のようなことを感じてきました。高笑いはあるが、微笑みはない。共感という言葉は知っているが、共感することがない。辻褄が合ったり、面白おかしかったりすると、感動したと言う。反省という言葉は知っているが、反省していないし、悔いてもいない。反省という言葉の前と後で、何も変わっていない。
 
恐らく、しんみりした深い情緒を感じとるセンスがないからだろうと思います。
 
楽山は、真摯、真剣、真面目、丁寧、ということを装いながら、その実質が全く見られません。腹の底では、他者を見下げていて、あらゆる不幸を、笑いの種と、芝居の種にするだけで、本気では何も気にしていないのでしょう。
 
 
(2021年03月21日)
 
 
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  神の与える益2
 
 神の与える益 2019-11-27 00:03:11
 加筆して再録。
 
 
〇 加筆した部分もありますが、徹底してはいないかもしれませんが、加筆・修正・挿入したところには「〇」印を付けています。
 
〇 約十年の間、批判してきたシャロームを批判する去年の私の記事を、再録+しておきます。偽善者の典型でもありますし、宗教詐欺の見本ともなるでしょう。
 
シャロームという偽善者の最悪の実例を見てきたことから、信仰というものを、よくよく考えてみる必要があります。
 
〇 去年の記事の引用は、かなり省略しています。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ3:28、新約聖書)
 
このことについて、シャロームは、次のように書いています。
「かつてはその弱さにつけ込まれ誘惑されて罪を犯していたのですが、しかし、信仰によってその弱さが神の愛と力があらわされる恵みの水路となるのです。神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方であると聖書に書かれているとおりです。」
 
シャロームは何をしてきたかと言うと、
1.罪と認めず、悔い改めをしない、という、キリスト信仰とは真逆な信条、
2.1を批判し、おかしいと指摘すると、悔い改めは神が与える(だから今はしない)などと言う言い訳。
3.さらには、人間の自由意志を、聖霊による自由意志とは違うという詭弁。聖霊を知っているかのように、自分を神格化しているだけです。
4.おびただしい嘘の解釈と、詭弁だけでなく、平気で嘘を吐く、でっち上げの作り話で、批判者をおとしめる、など、悪意だけが明らかになってきたのです。
いったいどこが、神によって益とされたと言うのでしょう。人にとって害となることだけなのです。
 
つまり、シャロームは、聖句の益ということを、自分に好都合の益だと思い込んでいるのです。だから、何を仕出かしても、神が与えた益だからありがたやと、反省しないのでしょう。
 
神が「万事を益となるようにしてくださる」とは、「ご計画に従って召された者たちと共に働いて」と書いてあるように、人と神の共同作業であり、信仰の恵みを受けて答える双方向であり、導きの願いと、行いと悔い改めの祈りの、信仰生活そのものなのです。
 
〇 それを、曲解して、シャロームは、神が益としてくださったのだからと、何でも正しいと思い込んで、反省もしなくいいかのように、好きなように、自分の身勝手を通す理由にしているのです。
 
信仰には、勘違いしやすいことがありますが、さらに妄想化したのがシャロームです。
 
カルト的な偽の説教というのは、救いは具体的な奇跡が起こること、恵みと益は自分の身勝手の実現、罪に死んだから無罪になった、神の平安と言って自らの無為と怠慢の安穏の正当化、二千年前の肉体の復活を根拠にして信仰の心に根拠を求めなくなる、聖霊、異言、預言などの異常体験、神は絶対だから信仰も絶対とばかり豪語して自らを絶対化する、自己正当化の絶対化、等々。
これは、おぞましき背教であり、シャロームは、このほとんどが当てはまるのです。
 
これらの悪い見本を、否定してゆくことで、望ましい信仰を、浮き彫りにすることが、ある程度、可能です。
 
 
〇 悪があるのは、対極にある善を知らせるため、善を際立たせるため、という、僅かなように見えて、皮肉のように思われて、実は貴重な意義があります。
 
〇 神がいるなら、なぜ、悪があるのか、なぜ、神は悪を退治してくれないのか、という疑問を、神否定の根拠にしている楽山という醜い反キリストもいます。
 
〇 楽山は、何もしなくても、苦しまなくても、ハッピーにしてくれる神でないと信じないわけです。楽山は、そのような成長の実感のない快楽だけを求めているのでしょう。いつも哺乳瓶を加えているような人生が理想なのでしょう。
 
〇 推測ですが、理由としては、人間が、自由意志を持つ存在として造られたから、ということは言えるでしょう。つまり、自由には責任が伴います。
 
〇 自由であるから、いつも、よい結果とは限りません。人間が責任を負うべき生涯でもあるということです。いつも楽なだけでは、自由を、神が、人に、教えることにはならないわけです。
 
〇 つまり、何でも、よいことしか起こらない世界を、楽山は、神が作るべきだと言っているわけですが、そのような世界は、神のロボットが経過する世界であり、つまり、世界に組み込まれた辻褄の合う世界になります。それは、自由意志で選択をする人間がいない世界です。
 
〇 苦難に遭った人が、そのまま、死んでしまうなら、教育も何もあったものではない、という言い分もあるでしょう。そこは、分かりません。死は、総ての人に、一回、起こること、といっても、それが、最悪な死に方なら、納得は行かないでしょう。
 
 
〇 また、分からないけれど、分からないことを共有することは、信仰者と非信仰者の間でも可能であります。神のなさることには、分からないことがある、というのは、真実でしょう。神は全能、人は不完全、ということは、私は経験から実感があります。多くの人は同様であろうと思います。
 
〇 キリスト信仰の世界は、いつも平安のうちに過ごすことが出来て、総てが安心事に変わる世界ではありません。人間の世界が、天国のようになることは、終末までありません。そのほうが面白いと言うことでは済まされないことも多いです。
 
〇 人生が楽しむためだけではなく、悲しみや苦しみがあること、それを乗り越えるために、人間の自由意志によって生きることと併せて、信仰ゆえに、生きてみようと思い直したり、積極的に受け取って人生を生き直す人もいるわけです。私は、せいぜい前者なので申し訳ないです。
 
〇 むしろ、上記のような苦難があるから、それでも生きてゆくために、信仰はあるのです。楽山の主張は、欲望から出ているので、真逆になっているのです。欲望から出ているので、神と信仰の与える恵みにも救いにも感受性がなくなっているのです。
 
〇 つまり、欲望から、思うとおりに成っていないと、言いふらしたり、それがキリスト教だと、神もキリストもキリスト教も、欲望から、けなし続けるような輩のためには、信仰は用意されていない、と言えるでしょう。楽山は、それが気持ちよいのでしょうか、反キリストであり続けています。
 
 
〇 むしろ、シャロームが唱える偽善を取り除くと、また、その対極を考えることで、真実の糸口になってゆくのです。以下、まとめ。
 
1.神の与える恵みや益は、人にとって、いつも分かりやすいわけではなく、人の都合の良いものとも限らないこと。
 
2.物や肉体の奇跡は、少なくとも現代では、めったに起こっていないこと。
 
3.神の与える平安は、癒しであり、信仰という道の途上で、悲しみに対して与えられるものであり、信仰者が何時も味わえるようなお気楽な安穏の境地ではないこと。
 
4.信仰の根拠は、心の癒された体験と、キリストを忘れられない気持ちがあり、キリストの同伴を祈る気持ちであります。人間の良心と心から離れたところに信仰はありません。
 
5.聖霊体験や、異言や預言は、それが神からのものか、人の自己顕示欲など欲望によるものか、見分ける必要がありますが、見分けるのは必ずしも容易くはなく、これはどっち、などと、いつも分かることではありません。即ち、このことから、神の意志と行為を決めつけてはいけないということが言えるのです。
 
6.神は絶対ですが、人は絶対ではない、ゆえに、人の信仰も絶対とは成りえません。人には、絶対という神の属性は分からないこと、即ち、神秘であります。
 
私たちの信仰は、赦し、癒し、慰め、導きを与えられるために、神に憐れまれることを求めることであり、それは、魂の奇跡として、人の心に与えられるものです。
 
祈りも悔い改めも、信仰生活も、そのためにあり、物や肉体の奇跡は、人の手に負えるものではなく、神に任されることであります。即ち、人が、あれは奇跡だったと、声高に言うのは、信仰自慢や、信仰の安っぽい宣伝になりやすいので、控えめにして、口を慎み、神を恐れるべきであります。
 
絶対ではない人間は、絶対である神に対して、祈ることをもって双方向となり、信仰者となった後も、正直な祈りをもって神に仕え、神の民としての人生を送ることを唯一の信仰の目的としています。
 
 
 悪意による破壊:コメント欄
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、性懲りもなく、またコメントを書いてきました。
いつものように、あざといことです。
 
1. st5402さん お久しぶりです。
 2019年11月21日 09:20
「山本太郎は・・、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。」
 「イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです」
(恐らく私)送り込んだ、遣わされた、対応させたとみるのが自然だと思いますよ。書き方の不備だと思います。上の「わからい」も、よくあることですが、じっくり読み直してみてください。
 」
おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です。
10数年前と相も変わらず、ご親切に、
文字や文章を修正、校正することがお上手ですね。
ありがとうございます!
 
わからないですか。本心で「お上手ですね。ありがとうございます!」と言う人は、「おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です」という皮肉は言わないんです。あなたシャロームの、軽蔑の笑いが表れています。
 
つまり、「おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です」という皮肉の後に、褒めて、世辞と礼を言う、ということから、あなたの悪意の笑いがイメージされてしまうわけです。
 
いつまでも、執拗に、意地悪コメント書いてきているのは、あなたシャロームのほうです。
 
「おやおや」「いつまでもお疲れ様です」「お親切に」・・ずっとこんな調子で通ると思っているのが、不感不応・学習不能の経過と結果なのでしょう。私が、あなたシャロームの褒め言葉を真に受けることはないと分かり切っているのに、また書いてくる。
 
〇 あなたシャロームのコメントには中身がないから、考える材料にもならず、こちらは、またか、という気持ちだけで、返しを書くことになります。
 
書くたびに、恥ずかしいことになっていると、あなたシャロームだけが、気づかない。
 
 
あなたシャロームの信仰は、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という発言と訂正不能によって、全否定されています。誰にとっても、益にならず、害にしかならない、自己中の妄想です。
 
私の批判コメントに対して、あなたシャロームは、削除、コメント欄閉鎖、未承認としました。つまり、隠蔽し、無視しました。私はあなたシャロームの嫌がらせコメントに対して、いちいちレスして批判しています。この違いは明らかです。
 
私は、あなたシャロームが、実に白々しく嫌な丁寧語の書き方で、前と同じような嘘っぱちを、独り得々として、だらだら書いてきても、無視するのではなく、コメントの質が悪くても、あなたシャロームが下劣な悪意の表れでしかなくても、どんなに、つまらない、何の糧にもならないコメントでも、受け取ったのち、批判を書いて晒し、かつ、記事にしています。
 
そうする私の意図は、汚い言い方ですが、
シャロームの言を指して、これがクソです、ということを示すことで、クソでないものを大切にしたいからです。
 
私は、最初から捨てることで解決することなどないことくらいは知っており、ゆえに、読んで、考えて、返して、保存して、記事にするのです。
 
〇 そして、正味ではないが、十年分の、大きな、偽善者の資料となっています。
 
あなたシャロームは、捨て去ることによって経過するので、捨て去ったものに気づかず、いつか、捨て去ったものに、忘れたものに、捨て去られてゆきます。
 
〇 こうやって、過去記事とコメントを見てゆくと、シャロームのしてきたことと、楽山のしてきたことが、多く共通しており、この二人をもって、現代のパリサイ人的な、偽善者の典型という暫定的結論になってゆきます。
 
 
偽善の与える害

偽善の与える害
 
 
(2019年11月27日、同日一部修正)
(2020年12月12日、加筆して再録)
 
 
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