ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:パリサイ人

 
 信仰の義2
 
 
義とは、正しさのことです。信仰は義から離れるべきではありませんが、人の信仰に、神のような完全なる義はありません。ゆえに人は罪を犯します。地上に生きる人の信仰が完全になることはありません。それを確かめる完全な能力が人にはないからです。
 
人は、正直に祈り、赦しを乞うしかない立場です。
 
完全な信仰を求めること自体が間違いであります。信仰が完全になる、あるいは、なったと思うなら、その思いは罪であります。人間である限り完全はありません。神の前に、信仰者であってもなくても、人は不完全、即ち、罪人です。神に祈る時の正直さだけが、絶対ではない人の、信仰の義となります。
 
 
神という存在を、いかように見て信じるかという問題です。
 
机上の概念として扱えると見るのか。否であります。
人格者の典型のような御方と見るか。否であります。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変という属性は、地上にいる限り、人知によって、確認することも、把握することも、出来ません。
 
人を見て、その肉体と言動の総てを見ている存在、その心の中も総てを見抜いている存在・・と考えると
誰にとっても恐ろしい御方。それが神であります。やさしい父親のイメージは、聖書によって、砕かれていなければなりません。
 
その御方は、ご自身に向かって人が祈るのを悦ばれるが、祈りの、軽々しい嘘をも、すべて見抜かれる御方であります。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:9-14、新約聖書)
 
 
この話は、単に、敬虔を勧めるとか、清貧を勧める、とかいう話ではありません。キリストは、信仰の本質と救われる条件を語っておられます。パリサイ人は、信仰の行為を他者と比べて、自分のほうが上だと誇って、神に感謝しました。神に感謝したのに、神は、義とされませんでした。
 
取税人は、嘆き、へりくだり、正直であったことだけで、神は義とされた。信仰に必要なものは、神の前に、へりくだり、正直であることだけだということです。
 
信仰者に求められる信仰とは、神よりも、はるかに劣っていて罪深い自分を、正直に告白すること、それだけで、神は信仰者に信仰の義を与えると、キリストは言っておられます。罪を侵したら、間違いに気づいたら、その都度、また正直に祈ることで、信仰は守られます。
 
一方、神の前に、他者より優っていると確信する者、嘘を吐く者、自慢して誇る者を、神は退けます。また、他者に嘘を吐き、他者を、だまし、誘導して、操ろうとする者、それは、即ち、神に対しても、嘘を吐くことであり、嘘によって自らを飾るのだから、神に受け入れられることはありません。
 
それは、人に対して、さらには、神に対して、不誠実であり、偽ることであり、いかなる美辞麗句や、もっともらしい言葉を用いても、そのような者は、神の全能によって見抜かれて、救いを自ら拒む者として、自らの行為の報いを、自ら受けることになるのです。
 
正直な祈りを強調するのは、それが、人が、神のために出来る唯一のことだからです。人は、神の前に、何も隠せません。人は、神の前で生きているのです。それが、神の全知全能に対する人の弁えです。神の怒りを鎮めるのは、ただ、神の前で、祈りにおいて、正直であることだけです。
 
人の、能力、財産、寄付の額、奉仕活動の出来高、それらによって、救いが左右されることはありません。人の献身は、感謝のしるしとして行われるものであり、人の献身が、いかに多くても、神の絶対の前では、高が知れており、決して自慢できることではないからです。
 
神の前に、正直に祈ること、それだけを、神は人に求めておられると思います。
 
キリスト信仰は、祈りの信仰であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
信仰の義とは、このようなことでしょう。人に認められるような立派なことではないのです。できることをすること、それを、主に捧げることが、信仰者の精いっぱいであります。
 
神の前に、善行を自慢したら、どんなに効率がよくても、気づかないことのために、全知の神によって、上の聖句のパリサイ人と同じになります。
 
女性は、目の前のキリストのために、よかれと思って、できることをしました。それができる機会は、またとないと思ったからでしょう。そして、弟子たちに怒られました。弟子たちは、行いの効率を考え、女性の心を思いやらなかったからでしょう。
 
女性の行為は、効率の悪い、的外れのことかもしれません。信仰の行為としては不細工だったでしょう。しかし、主イエス・キリストは、それを、信仰に適うこととして受け取ったのです。主が、いかに、人の行為だけでなく、人の心を見ているか、ということが分かる聖句であります。
 
信仰の義とは、キリスト者だから、神に従う、また、良いことをする、という話ではありません。私たちは、不完全で、しばしば的外れなのです。しかし、それを承知の上で、主は見ておられるということです。
 
上の聖句の続きに、主は「葬りの用意」と言っておられます。十字架において犠牲となる救い主イエス・キリストに、人々と一緒にいられる時は限られていたということです。ご自身の愛と悲しみとして、人の愛と悲しみに共感する、という主イエス・キリストの言行は、福音書全体に貫かれているのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:11
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 
26:12
この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。 
26:13
よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
 (マタイ26:11-13、新約聖書)
 
 
信仰の輝き

信仰の輝き
 
 
(2021年04月03日)
(2022年04月04日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·5時間
これは人間関係だけでなく、宗教に関しても言える。
おかしいと感じるなら、速やかに、その宗教とは距離をとるのがいい。信仰を続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長引かせるばかりだ。それより、さっさと次のステージに進むべし。
午後8:16 · 2021年4月1日·Twitter Web App
 
誰よりも、自己愛性人格障害で霊能者気取り~妄想の個人カルトの、楽山とは、二度と関わらないように、距離を取ってください。楽山には、良心がありません。代わりに、丁寧語の詭弁と嘘があるだけです。ずっと、楽山の言葉が、楽山を斬っていることにも気づかないのです。
 
楽山との関わりを続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長びかせるばかりです。それより、さっさと自分の思考と感性を磨きましょう。思考と感性は、楽山が持っていないものです。それで、楽山は、いちゃもんしか言えなくなっているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」だから、誰でもあることだから、反省しない、謝罪しない、と言っている楽山です。汚い詭弁に惑わされないでください。反省しない人は、人間ではありません。楽山は、このような一般化で、うっかり頷いてしまいそうな詭弁を、数えきれないほど書いて、欺いてきたのです。
 
 
 
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  例外
 
 
パリサイ人と律法学者は、キリストを、殺すほどに憎んだ反キリストの代表ですが、例外がいます。いかなる悪の集団にも、善の種を持つ例外がいます。パリサイ人のニコデモであり、そして、律法学者にもいるようです。一方、いかなる善の集団にも、悪の種を持つ例外がいます。ユダが、その例でしょう。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
3:1-2
パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。 
 (ヨハネ書3:1-2、新約聖書)
 
このように、ニコデモは、キリストを讃えています。この時のキリストとの対話に、何か不思議な魅力を感じたのでしょうか。ニコデモは、恐らく人目を忍んで、キリストの葬儀に訪れています。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
19:39
また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
 (ヨハネ書19:38-39、新約聖書)
 
 
次は、キリストに褒められた律法学者の話です。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
12:32-33
そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 
12:34
イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
 (マルコ12:32-34、新約聖書)
 
「遠くない」という表現が微妙ですが、キリストの敵となり、キリストに激しく批判された律法学者とパリサイ人ですが、キリストは、やたら批判したのではなく、人の話を聞いて受け取る御方であることが表れています。
 
 
これらのパリサイ人や律法学者が、のちに、キリストに従ったかどうか、書かれてはいません。聖書に書かれているのは、今、罪に塗れていても、希望が失せているわけではないということでしょう。
 
 
ユダは、キリストを裏切り、敵に売りましたが、その後、悔いて、自死します。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、政治的な実践家を志していたのかもしれません。キリストが、ユダの考える実益や名誉を実現することとは合わない道を進んだことで、キリストを裏切りましたが、のちに悔いていることから、ユダはサイコパスではないということが表れています。
 
一人の悪人の、悪の精神の中にも、善の精神が全くないとは言えないことを表しています。しかし、ユダは、後悔のあまり、自殺してしまったので、詳細は分かりません。
 
 
 
さて、偽牧師シャロームと、反キリストの楽山についてはどうでしょう。シャロームは、ネットでも現在、所在不明です。楽山は、自分で書いて、または、無神教徒の言を引用して、キリスト教をおとしめ続けています。ゆえに、宗教ペテン師の資料となっています。
 
資料となっているというのは、反キリストの偽善者は、どう言動するかという見本となっているということです。彼らが書かなくなっても、訂正もないのだから、批判を続けることになります。批判しか方法がありません。真の裁きは、神のみの専権事項であります。
 
二人と議論するつもりはありません。既に、二人と遣り取りをすることの、無駄、無意味、徒労、そして、言い知れぬ疲労を与える性質が明らかになっているからです。彼らの記事が出たら、批判記事を当てることになります。さらに、過去記事についても、必要があれば、改めて批判記事を書いてゆくつもりです。
 
 
反キリストたち

反キリストたち
 
 
(2022年01月23日)
 
 
 
  共感の主
 
人の言うことには裏がある
という項目が心理テストに上がるほどに
何て人は疑い深く弱いのでしょう
 
あらゆる時と所に
楽になりそうに見えて乗りやすい
悪魔の天秤を携えているほど
何て人は狡賢く弱いのでしょう
 
目には目を
歯には歯を
死には死を
同害報復が
失われた目も歯も命も
戻してはくれないのに
心情的に理解できるほど
何て人は感情的で弱いのでしょう
 
突然襲いかかる理不尽な不幸に
崩れた戦時の教会の
キリスト像を投げて割ってしまう映画
今も覚えているほど
何て人は背教へ走りやすいのでしょう
 
割ったのは実は作り物の像ではなく
自分の心だと分かる前に
怒りの黒い種を育み
死と復讐を結びつけて
嘆きの赤ブドウ酒に溺れてしまうほど
何て人は弱いのでしょう
 
キリストは
このような人々に
罪から逃れられない人に
その悲しみに共感し
共感する信仰を説いているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が「実践するのは難しい」なら、楽山は、人間ではないということです。ゆえに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと書いてきました。楽山は、また、書いてくるのでしょうか。私は、高齢ですが、書けるあいだは、批判を続けようと思っています。
 
 
 
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  神と人知2
 
 
超常への憧れから信仰者になった人は現実問題に向き合うことが苦手になるかもしれません。
 
現実問題に疲れた人が、何らかの機会を得て、信仰者になる場合には、信仰は、超常ではなく、キリストの愛と共感によって、心で受け取っていると思います。
 
超常信仰は、信仰を驚くべき神のわざとしてしか受け取っていないために、元々の関心が向いていないところの人間性を磨くということを怠りやすく、あるいは、キリストと救われた人々との共感ということに思い至らず、信仰に、超常のしるしを当てはめがちになるでしょう。
 
そういう人は、キリスト教系カルトにつながりやすいので、その人の身近にいるキリスト者が、説明~説得してゆく必要があります。一時の誤解にとどまらず、継続的な曲解になり固定されてゆくのは、カルトの方向です。
 
最も悪質なカルトは、元々、人間性が欠落しているので、超常を決めつけるしかない者たちです。例えば、キリストの奇跡や復活から信仰に入ってくる人は、キリストの人間性や共感という言葉を聞いても、神の恵みを人知で扱おうとするのは不当だ、などと、考えやすくなります。
 
しかし、私たちには、人間性と人間の能力しかないのです。物や肉体の奇跡だけから信仰に入ることは、ありえないと知るべきです。つまり、人間は、人知しか持っていないわけですから、神の与えたものの中で、人知で理解可能なものだけしか、受け取れないはずなのです。
 
聖書には、これまで書いてきたように、人知で、人間性で、人間のふつうの知性と感性で、理解と共感が可能なことが、いっぱい、書いてあります。
 
また、神学や哲学など学問的知識から信仰者になった人は、共感と言った情緒や感性的な側面について、苦手だったり、表現に不自由したりするかもしれません。
 
聖書から受け取ることはいちばん大切なことですが、聖書の解釈について、知識についても、思い込んではいけないことがあります。何より、聖書の教えこそが、聖書についての、人間の思い込みを戒めているのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
 
人によって解釈が違うところで正邪を語るなら、自己解釈正当化の言い張り合戦にしかなりません。解釈が違うということこそ、人の避けられない原罪であります。
 
大事なことは、神の前に、私たちは、神に比べれば、皆一人一人、厄介な罪人であり、何も、絶対に正しいなどとは言えないということです。
 
その根拠は、人は自らの言動の影響を、その影響がなくなる時と所まで、追うことなど出来ない。それは、風を追うような(捕らえるような)ものだからです。ゆえに、良かれと思って、傷つけるということが起きるのです。
 
ただ、その自覚をもって、神に、正直に祈ることだけが、神から、"信仰の義" を恵まれる条件であります。つまり、信仰と救いの条件は、正邪ではないのです。神の前の、精いっぱいの正直であります。そこまでしか、私たちは、神に捧げることは出来ないのです。
 
一方、偽キリスト者や、カルトは、必ず、神の前に、嘘と飾りを捧げます。
 
私たちは、神の前で生きているということです。そして、神に向かって祈るということです。そこで、神とは違う人としての身の程を弁えないならば、信仰は成り立ちません。
 
言葉だけ丁寧な尊敬語を使っても、頻りに讃美の言葉を弄しても、人に思い込んでいることがあれば、神は、それを、総て、見抜いておられます。
 
 
信仰について、神聖について、人の思い込みは、偶像と成りえます。
 
パリサイ人は、そういう決めつけの思い込みで満たされていたので、キリストの言葉を聞き入れませんでした。同じようなことは、今の、特にキリスト教内外のカルトでも起こっています。
 
しかし、カルトではない伝統的なキリスト教の教派なら心配ないかと言えば、決して、例外ではないと申し上げます。何故なら、それは、人の性質、特に、罪の性質が、そうさせるように出来ているからです。罪の性質を警戒しないで、安心の境地にいるつもりの人は、要注意なのです。
 
人は、安心したがります。そのために受け取った良いことを固定したがります。それを、揺るがない信仰などと言いたがります。実際は、思い込みを固定するようになります。思いこみは、心の中の偶像になります。
 
むしろ、そういう偶像については、人間は、持っているもんだという自覚を持つことが、罪の性質を自覚することにつながるでしょう。心の中の偶像は、目に見える偶像のようには、排除したことを確認することが難しいものだからです。目に見えないものは、いつも、確認しにくく出来ています。
 
何かを、信仰について、判断し、実行はしても、御心を思い込んではいけません。神の御心は測りがたいものです。そして、神聖に対する思いこみを防ぐためのヒントがないわけではありません。
 
思い込みはいけないと言われても、ときには、強く思うことが必要です。しかし、強く思うことと、思い込みは違います。強く思うことには、強く思う動機があります。しかし、思い込みには、心を踊らせず快活でない圧力はあっても、大方、心を動かす動機のない教条的なものが含まれています。
 
「神は、こう思っているに違いない」とか「神はこうなさるに違いない」とかを、人に言いたくなるような場合、同じことを、神の前に、キリスト・イエスの御名によって、神に向かって、そのまま言えるかどうかを、まず、考えてください。そうすれば、大方、恐れ多いことに気づくでしょう。
 
正常な祈りは、私はこう思っているのですが云々、とか、私はこうしようと思っています、という言い方にしかならないのです。それを、神を恐れるところの、敬虔といいます。
 
また、神聖に関わることで、自分が思うことの正しさについて、自分が感動という心の動きを自覚しているかどうか、というを考えてみてもよいでしょう。
 
思いこみは、誇大的であったり、陶酔気分であったりはしますが、大方、本当の心の感動を伴っていません。思いこみは、大方、退屈で、ときには、教条的な強迫観念となっていることもあります。
 
 
ちなみに、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、固定しているのではありません。
 
それに、前から言っているように、信仰は、神と人の双方向であります。そのために、祈りがあります。信仰のもたらす平安は、人の、活性のある心において起こる現象であって、不変の悟りの境地ではありません。
 
ゆえに、平安は、安らぎとともに、情熱を与えます。それが忍耐強さにつながります。それらは、多く、祈りに答えて与えられます。
 
神は、人知を超えたことをなさるかもしれません。しかし、神は、人間に対しては、人知、言い換えれば、人間の心に働きかけ、人間の心を導きます。
 
ここで、人知は、知識と思考だけではありません。人知といえば、思考とか知性とかいうと論理を思うかもしれませんが、知・情・意は、人間において一体であり、独立してはいません。
 
 
キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)は、神のもとにあって、神よりも劣る不完全な存在つまり罪人であること、ゆえに、神からの、赦し、癒し、救い、導きを必要としていることを、神の前に、認めた人であります。したがって、神と人の決定的な違いを弁えているはずです。
 
そのキリスト者が、神聖について、思い込んでいたら、信仰が成り立たないのは当然のことです。思いこみは、あらゆる正しいと思われることに及びます。教理や信条という、一般に正しいと認められたことも、その言葉だけによって心を固定することは思い込みの一種であります。
 
心と言葉は、いつも一体であるとは限りません。聖書を読んだからといって、人の持つ言葉は、神の言葉と、いつも同一とは限りません。その原因は、ひとえに、人間が不完全だからです。
 
一つの言葉が、いつも、一つの心と同一とは限らないということです。変質したり、尾ひれがつくことがあるということです。一つの言葉が、心を動かしても、別の時には、動かさないか、違う作用になっていることもあります。
 
聖句は、同じ言葉だととしても、受け取り側の人の器は、安定しているわけではないのです。心は絶えず動いているものです。ゆえに、理解を新たにする、という成長もありうるわけです。心は固定できません。無理して固定しようとすると壊れてゆくかもしれません。
 
心が活発に動くことで、人間は、生きているのであり、成長もするのです。成長に必要なことは、反省すること、そして、修正可能であることです。新たな感動が待っている可能性があるわけですから訂正不能にしないこと、学習と成長を、積極的に望み、かつ、努めることです。
 
これらの信仰の弁えは、人間の、欲望、特に、完全欲とは対立することが多いので、自発的に積極的に意識することが必要です。キリスト信仰の学習や修養は、ここにあるのでしょう。ゆえに、信仰は、不変の境地ではなく、努力と再生の、生きている間ずっと続く道です。道ゆえに成長が可能なのです。
 
 
神と人知

神と人知
 
 
(2020年05月26日)
(2021年06月01日、再録+)
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mm
@masakimuro
《KKことHSがカルト宗教だと言える理由》最初は、愛、知、反省、発展、それから正しき心の探求というのをキーワードとして入信させ、いざ学んでいったら『霊』のことばかり言ってくる。人生は霊によって支配されていると思い込ませる。人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体
午後2:24 · 2021年5月30日·Twitter for Android
 
リツイートの引用元を批判する気はありません。批判対象は、楽山です。
 
楽山が自己愛性人格障害(NPD)だと言えるのは、思いやり、深い思慮、反省力、責任感、学習と成長、こう言ったものが、全く見られない自己中からです。そして、楽山ブログの記事は、多く「『霊』のこと」を、宗教や信仰と混同して、刷り込んでくる無知、そして、無恥です。
 
楽山は、言葉の概念の表層だけを並べて、一見、論理的に見せかけて、人を、だましています。本当の理路を求めている人は、反省力があり、修正能力も高く、かつ、実質において、柔和で、決めつけることのない視野を持っているので、よく成長して知識が豊富なのです。楽山は、逆です。
 
「人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体」・・そして、嘘と詭弁しか身に着けていない楽山の正体であり、反宗教と、楽山の自己中ボンヤリ鈍麻思想を、刷り込んできます。楽山は、HSアンチではなく、自家製カルト思想で自己満悦を得るために、人を、だまします。
 
楽山は、リツイートや引用で、人の口を利用して、柔和な味方であることをアピールしてきますが、実際は、とんでもない自己中であり煽動屋であり詭弁屋であり、平気で嘘を吐く人です。楽山の言を真に受けないでください、丁寧語に、だまされないでください。約2年間、批判しています。
 
楽山には、深い情緒的な共感性がありません。だから、罪悪感を持ちえず平気で、嘘を吐けるのです。こちらも、楽山の気持ちを知ろうなどと思ってはいけません。批判する人には、楽山に対して、けっして感情移入せず、乾燥遺物を見るようなスタンスが必要です。楽山は紙屑の資料です。
 
楽山は、つぶやくだけならいいだろう、と軽く考えているかもしれないが、性根や魂胆というものは、自分の書いた文章のみならず、どういう本を読み、どういうツイートを読み、どういうことを引用するか、どういうツイートをリツイートするか、ということにも表れてくるものです。
 
都合がよいと思ったら、あとさき考えずに、引用・リツイートするというのは、楽山の場合、以前から、やってきたことですし、表面的に善を表す都合のよいこと、でなければ、相手に都合が悪いこととを、引用して、弁明できない腹いせにしたり、悪口の代用にするということです。
 
引用だから、リツイートだから、責任はない、ということでは決してないのです。無反省・無責任の楽山は、そういうことも、分かっていないことが明らかになっています。これからも、病識も罪悪感もない楽山は、自らの程度の低劣さと邪悪さを、平気で、見せてくるのでしょう。
 
 
 
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  教条主義
 
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
教条化したイデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
【教条主義】
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。
▷ dogmatism の訳語。
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表している。
 
偽善の多くが、教条主義の所産である。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪である。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られる。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、人間の心を忘れていた。よって、キリストにとって最悪の敵となったのである。
 
多くの思いは言葉で表される。言葉は伝達のための暗号である。つまり、ダイレクトに思いを伝えているわけではないことを弁えておく必要があるだろう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかである。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになる。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってくる。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってくる。
 
真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、当為と事実が混同している場合もある。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいない。神を信じている、という意志表示に過ぎない場合がある。神の偉大さを知って信じるのではない、しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはある、などというように、言葉による表現は、曖昧であることが多い。
 
しかし、それは、変えてはいけないと思い込み、同じ言葉に基づいているから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてくる。
 
そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいだろう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともある。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのである。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがある。
 
典型は、やはり、パリサイ人である。また、理屈倒れになって、人間として必要なことを汲み取れないで、慢心して言い張るということもある。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己愛性人格障害として、非人間的な言動が目立つようになる。進行すると、論理性が、辻褄合わせになり、さらに、故意に合わせるために、的外れな理路になったり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、無理を押し通す欲動となって、破綻してゆく。実際は、とても不自然な言動となって表れるだろう。
 
思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくだろう。
 
教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆく。いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになる。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたすことが多いだろう。理路も情緒も深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手のせいにする特徴を持つ。
 
心から、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってくる。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人であるが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような人格の変容を来たしやすいだろう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もあるが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきである。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いと思う。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、人によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いである。
 
 
心が壊れてゆく教条主義と自己愛性人格障害、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 
人格破壊
人格破壊
 
 
(2021年04月17日)
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
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 コメントへ返信 (一部修正してます)
 
 
コメントありがとうございます。気づかなくてすみません。FC2よりメールとして届いて、確認しました。
 
私は、聖職者でも学者でもないので、一人のキリスト者として、ブログを書いているに過ぎませんが、読ませていただいて、共感できることが多いです。
 
確信という言葉は、聖書にも多く出てくるようですが、確信=絶対正しい≒教理は絶対正しい≒説教者は絶対正しい・・になってしまいがちです。その際に、疑問を呈する人を黙らせるのに、一番効果的なのは、"聖霊"(?)でしょう。物言わない存在だから利用されやすいと思います。
 
私も、確かに聖書からキリストに出会ったと思っていますし、信仰は持っているわけです。どう信じればよいのかということを、ずっと考えてきました。おっしゃるように、私は、人間の罪の性質を、ほぼ同値として、神とは違う人間の不完全という言葉で表すことが多いです。信仰者も罪を犯します。神とは違って不完全だからです。
 
罪深い人間の性質は、信仰者も変わりません。人の、いかなる思いも行為も、完全ということはないと思います。このことを弁えておかないと、・・人を裁く豪語になりかねません。
 
確信は、罪深いこと、即ち、不完全であることを弁えることだと思います。弁えないと、神聖と自分が一体化したかのように、自説を言い張るようになるでしょう。
 
取税人はその弁えを知っていました。パリサイ人はそれを知りませんでした。不完全という言葉を使うのは、神の完全との対比であります。
 
いつからか、私は、心に響くことしか受け取らなくなったと思います。信条や教理は、人間の言葉で表され、伝えられています。人間の言葉自体は、伝達のための乾燥した暗号に過ぎません。信仰について共感や感動に結びつくのは、聖書の言葉+人の言葉+個人の心に起こる体験でしょう。
 
人間が、何でも神秘と結びつけたがるのも、罪の性質です。それだけになると、思考が停止して、カルトと同じ思い込み信じ込む強迫的な信仰?になると思います。
 
 
私は、高校生の時に、聖書を無料でくれる教会があるらしいということで、また個人的な悩みもあって、教会に行き、通い始めて、卒業を控えた17歳で、洗礼を受けました。日本基督教団の佐世保教会というところです。半世紀も経ってしまいました。
 
説教について言うと、佐世保教会の牧師も、その後の福岡の牧師も、割と好きなタイプでした。頭ごなしというのは、なかったと思います。でも、何だか誤解されやすく、集団が苦手な私は、転居を機に、教会からは離れています。
 
聖書は、新約を通読、旧約は、ソロモン以後の歴史など、読んでいないところもあります。ずいぶん年を取りましたが、ずっと未熟です。最近は、聖書も、拾い読みばかりです。
 
熱心に勉強なさっていることが伝わってきます。私のこのレスは、記事にするだろうと思います。生き方の問題ですから、これからも分かち合っていけたらと願っています。ありがとうございます。拝。
 
2021-04-04-22:41
トダサトシ URL [ 返信 ]
 
 
信仰は心を大切にするところに生まれます

信仰は心を大切にするところに生まれます
 
 
(2021年04月05日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://stdsts.hatenablog.com/
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