ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ブーメラン

 
  楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書けば、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、根拠もなく自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労します。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
 
神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、当然ながら、神を信じるというのもいろいろですし、十把一からげに言うのは乱暴なのです。何より、信仰は、霊格などという格の話ではありません。さらに、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格が最低という人もいるわけです。
 
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
まず、宗教や思想は、人を決めつけるためではなく、人を癒し救うためにあります。さらに、人が、宗教や神を決めつけてはいけないことのほうが大事です。何故なら、現に、楽山のように、宗教も、神も、人も、自身の貧相な偏見で決めつける輩(やから)がいるからです。
 
つまり、宗教や思想ではなく、楽山のように、病的人格によって、人を自分より低く見て決めつけて書いてくる者がいるということです。そういう者は理路も感性も無いので、そういう者に過大評価あるいは過小評価されることには何の意味もありません。
 
楽山は、理路が整っておらず、感性は殆ど皆無であり、さらに、人間にとって大切な、高等感情の、思いやり、羞恥心、罪悪感などが、育っていないのです。評価そのものが出来ない人であり、さらに楽山の宗教は、霊格でも何でもなく、ただの無反省な自分信仰でしかないのです。
 
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的立場が保守だから信仰宗教というのは、政治と宗教を混同した見方であります。さらに、楽山には政治的立ち位置などありません。自らを過大評価しているだけの者には、保守どころか、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。楽山は、ナルシズムが自分信仰に没入しているだけです。
 
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
体のいいことを書いたつもりで、実際は、何も書かないより悪い、というのが、楽山の記事です。今まで表れてきたことは、楽山の「公平」は、上から見下ろして悪口を言うことです。それに、楽山は「努力」しない人です。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な別の分野です。字面だけで、理解していないから「など」と軽く扱います。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる楽山の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように並ぶという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしてくる詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき劣悪なナルシストです。
 
楽山には、無反省の自己中の軸しかないので、公平どころではなく、字面だけを振り回します。その手段が、刷り込みと誘導のための丁寧語と、根拠のない婉曲のボンヤリ言語、そして、ときに、実のない反省や努力などの、書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っていて、それが、ああでもないこうでもない、という、婉曲的な言い方の、ボンヤリ言語となっているのでしょう。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。推測ですが、例えば、一般の論理としては、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、何も語っていないし、また、解説も出来ていないということです。
 
楽山は、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間の必然だという視野を持たないのです。要するに、怠慢で、考えるのが嫌で、そこから、柔和で広い視野を捏造し、うわべだけの空っぽ思想になって、しかも、それを自慢しようとするから迷惑なだけになります。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、どっちつかずだったり、成り立たないことを主張したり、知っているふりをして、中庸かつ冷静な言論者気取りの慢心で書いてきます。書いた文章の量だけ、楽山は、読者に対して徒労~堕落を生産し促進しているのです。
 
楽山は、一見よさそうで曖昧な言葉を並べているので、読者が刷り込まれてゆく可能性があり、読者が、楽山自身と同じような鈍化のプロセスを通して、人格の鈍化~破壊の被害者から病因となってゆくでしょう。早く、中身は何もないことに気づいてほしいと思います。
 
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 
これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。
 
ならば、早く、書くのをやめることが、世の中のためです。面倒くさいと言いながら、笑いながら、人を困らせるのは、赦されないことです。
 
「生き神様信仰」や、人間に対する「個人崇拝」は、あり得ません。人間は不完全だからです。「師に学ぶ」というのは、受け取って学習することであり、楽山が、全然、やってこなかったことです。
 
 
ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、いちばん自分を客観視できない楽山が言っています。今まで見てきて、楽山は、信じることと、証明することの区別も出来ず、先入観や偏見から、訂正不能の主観が見解となって固定しています。曖昧な筆致で、狡猾さらに悪質です。
 
信仰は、個人的な体験がベースとなりますから、完全な客観視は出来ないと思います。かといって、主観で決めつけてはいけないのだから、祈りが必要であり、考えることも必要です。どちらも、楽山には全く認められないものです。
 
 
カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。
 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているふうの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。以下の( )内は、補足のつもりでしょうか。
 
 
楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」
 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・楽山の持ち物です。楽山は、結局、否定しているのではなく、つまり、アンチHSではなく、教祖願望から書いているのでしょう。自分の教えが正しいつもりなのでしょう。しかし、楽山の否定でも肯定でもない心無い理屈は、誰も救うことなど出来ません。
 
 
本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。
 
ここが、楽山の無神教カルトの要点であり、不成立の証拠であります。宗教と信仰が人を救うのは、証明されたからではなく、心が動かされ、共感し、忘れられなくなるからです。楽山の言説には皆無のことです。「信仰が真であることをを証明」・・ここで、楽山はアウトです。
 
それに、楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。そういう人に、証明を・・・と要求される人は、気の毒、不運としか言いようがありません。つまり、楽山は、宗教と信仰の性質を考えもせずに、自分の論理=詭弁を自慢して、困らせるだけの存在です。
 
 
この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。
 
楽山は、自分が解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。対話のズレ、と言っている楽山は、誰よりも先入観と偏見によって、ズレが固定しており、殆ど対話が成り立たないレベルであり、偏見と先入観で出来ているような人です。
 
カルト批判は、まず、訂正不能の自分信仰者である楽山自身に向けるべきテーマなのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悍(おぞ)ましさが表れています。楽山の対話は、楽山が話し始めた時点で甚だしくズレているのです。
 
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」
 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。楽山の言うこと、教えてくることは、誰も救えないような、曖昧で、陳腐な、擦り切れた道徳のようなものです。楽山は、宗教を、楽山風味の退屈さに貶めるだけの、退屈で怠慢な男です。
 
 
どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり
 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」
 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。恐らく両方です。必要もなくお節介に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自分勝手は、他ならぬ楽山なのです。
 
今まで、それこそ自分勝手な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。楽山は、理路が整わず、理路を乱してゆくような書き方ですから、結局、ブーメランを、誰よりも食らう人なのです。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解していません。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。病質の症状です。ブーメランの痛みも感じないのでしょう。
 
対話になっていないような気がします。どっちが批判者なのでしょう。全部、楽山の独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、自慰行為として、独り芝居をして代償しているのではないだろうかということも考えています。
 
楽山は誰からも相手にされないのが当然とは前から思っていました。こちらが批判しているからか、楽山ブログは、最近ずっと・・いいね、拍手、コメントは、殆どないようです。もし賛成している人がいたら、楽山の詭弁に嵌っている人でしょう。楽山を受け入れる価値は皆無です。
 
 
 
偽牧師シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同も頷(うなず)ける。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また一方、否定の証明もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の、自己中妄想ペテン師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して近寄らないでください。楽山に関わっても、待っているのは、異常な疲労と、人格の鈍麻と破壊だけです。
 
 
人格がゴースト

人格がゴースト
 
 
(2020年)
(2022年09月12日、再録+加筆)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
見て見ぬふりのあなた
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔

外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、人格はないのかもしれません。嘘と詭弁の悪い作用しか見ることが出来ません。出力だけで、入力がないのです。言われたことは、記憶にも耳にも入っていないと思います。記憶の、記銘+保持+想起が、自己愛性人格障害のために出来なくなっているのでしょう。これは人格として異様です。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
9月3日はドラえもんの誕生日。
「自分の意見をしっかり持つということと、
相手の意見を認めないということは、
まったくちがうんだ。」
(『じょうずに話せ、発表できる』小学館、P127)
午前8:59 · 2022年9月3日·Twitter for iPhone
<<
 
ドラえもんに事寄せて、また、卑怯なことを言っています。楽山は「自分の意見をしっかり持つ」ことが全く出来ない人です。いちゃもんを書いて、実際は、責任を負う気もないのです。能力の問題以上に、人格と良心の問題において、楽山は、言論において失格です。楽山を相手にしないでください。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ただ棒氏は、なんでも知ってると言うわりには、修行者として第一に知っておくべきこと…「謙虚であれ」ということは知らないようで、そのせいで増長慢という陥穽にはまっているようだ。残念🙏
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカ
 
楽山は、「謙虚」さを微塵も持っていません。楽山は、客観を持たず、自分は整っている、反論できる、という、内実のない妄想的確信で書いてきます。楽山が、どんどん醜く卑怯になっていることに気づかないのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は傲慢キャラだとは思ってたが、さすがに、すべてを経験し、すべてを知ってると言い切るほどだとは想像もしてなかったよ(笑
>>※
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
<<
午後10:45 · 2022年9月1日·Twitter Web App
 
「(笑 」と書いてあるのは、相手に対する軽蔑と侮辱のしるしです。楽山は、勉強嫌いと怠慢を隠して、間違いははなく知らないこともないという訂正不能の病的な前提から書いているので、気に障ると、笑いと怒りしか返せないのです。怒りを隠して「笑」を入れてくるほうが多いようです。
 
「すべてを経験し、すべてを知ってる」という慢心は、楽山の書いていることを3年以上見てきて、楽山について、ずっと感じることです。また、いつものように、ブーメランとなって、楽山の雑言が、楽山に返ってきています。楽山がアカウントを制限されている理由に関係しているのでしょうか。
 
 
 
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  楽山のブーメラン2
 
 信者ブログを見てみた(読書、HSの自由論など)
 2020年08月28日 楽山日記(LD)
 抜粋です。
 
 
楽山は、自身の言った言葉によって、自身に返されてゆきます。それをブーメランというのだそうです。また、長い文章なので、抜粋して批判します。私がよく知らないHSのことが多いようですから、引用のリンクを省略しているところもあります。
 
楽山は、HSの信者に批判されて、返しているつもりです。しかし、それは、また、ブーメランのように楽山批判となって返されてゆきます。そして、楽山は、そのブーメランを自覚せずに無視しているのですから呆れます。
 
 
*投影
まずここでは相手の本音、願望を悪く想像した上で、批判を加えてあるが、これはいただけない。
自由という言葉の奥に隠された本音は、自分の好きなようにさせろ、気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手にすぎず、それを自由という美名に置き換えているだけ、という人。
気ままで楽ちんな生活を望んでいるだけなのに、それでいて自由という美名を使いたがる。
 」
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う[1][2]。たとえば「私は彼を憎んでいる」は「彼は私を憎んでいる」に置き換わる[2]。これには責任転嫁(Blame shifting)が含まれ、たとえば習慣的に失礼なふるまいをしている人は、いつも他者を失礼な人だと言って回っているケースがある。一般的には悪い面を強調することが多いが、良い投影も存在する。
投影は日常生活においてよく起こっている。例えば、なんとなく嫌いだった人物が、実は自分の否定的な、認めたくない面を体現していたなどである。
 
「相手の本音、願望を悪く想像した」・・この投影は、いつも、何度も、やってきたことです。今回も。相手を悪者にするためです。楽山自らの不整合や矛盾や能力不足を投影しているのか、あるいは、総て作為で、投影していると決めつけているかでしょう。
 
このような心理学用語を出せば出すほど、楽山は自分の説得力が増すと思うかもしれないが、その心理学を全く理解していない楽山が明らかになるだけなのです。何度も引用しましたが、楽山の「心の理論」において、特に明らかになっています。
 
私が約10年批判してきた偽牧師シャロームも、投影ですね、という言い方を気安くしてきました。恐らく、何も分かっておらず、批判されたら言っておく・・くらいのものでしょう。つまり、相手のせいにするためのインテリ風味の便利な言葉として使っているだけです。
 
「気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手、それを自由という美名に置き換えているだけ」・・楽山の、以前のHNは、"自由" でした。楽山の自由こそは、ワガママ勝手であり、自慢して気持ちよくなるための楽山の習癖だったのです。
 
上の楽山の言葉が当てはまるのは、まさに、楽山なのです。"自由という美名" と言ってよいような丁寧語が、楽山の、だましのテクニックなのです。そういう習癖が、約一年半、慎重に、楽山の書いた文章を見ることで明らかになっています。
 
今回も、楽山は、理路も感性も拙劣でありながら、批判する資格のないまま、誰かを批判して、かえって自身の根性の劣悪さをあらわにしています。まさに、楽山がしてきたことを批判されています。楽山が何か言われて返すときの常套手段が「投影」です。
 
 
お節介かもしれないが、相手の本音を悪く想像して、こき下ろすというのは、自己紹介にしかならないし、止めた方がいいと思う。
 
悪口を自己紹介というのは、ブーメランということでしょうか。しかし、「相手の本音を悪く想像して、」ボンヤリ言語の丁寧さで、ごまかしながら「こき下ろす」・・これは、実に、楽山に、よく当てはまります。しかし、楽山は、このブーメランさえ自覚していないようです。
 
 
HSでは、守護霊霊言と称して、論敵は心の中で悪いことを考えていることにして貶めているけれども、いくら信者でもこういう手法は真似しない方がいい。
 
楽山がやっていることを、弁明もなく、論敵という相手に向けています。今までの私の批判記事から、理論家気取り・評論家気取りの楽山は、霊が分かるっぽい霊能者気取りがベースにあるのです。楽山は、決して理論家ではありません。決めつけて刷り込む詭弁屋です。
 
 
*意外な発言
LEO氏は本好きだと思ってたので、この発言は意外に思えた。
本をたくさん読む、とか、読書の習慣がある、ということであっても、それのみで勤勉である証拠とはならないんですよね。
 」
本を読まない人であれば、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人のことを、「自慢してるんだろう」「勤勉アピールしてるんだろう」と悪く言うこともあるかもしれない。
でも本好きの人にとっては、読書習慣があり、いろいろな本を読んでいるのは当たり前のことであるし、それを勤勉アピール、勤勉ポーズととることはないのではなかろうか。
 
またしても白々しい楽山です。たくさん、本と、著者の名前を出して、読書家ぶっていたのは、楽山です。「勤勉アピール、勤勉ポーズ」は、楽山の生業です。それは、同時に、インテリ気取り、読書家気取りでもあります。楽山の生き方は、まさに、"気取り" だけで出来ているのです。
 
しかし、楽山の読書は、自分の都合の良い字面を漁って、引用するだけであり、楽山自身の書く文章は、理路が成り立っていなかったし、説得力もまるでない、ということだけが、明らかになってきました。気取りは気取り、実質は何もないことが分かっています。関わってはいけない人です。
 
楽山は、文脈を読めない、理路を読めない、理路を組み立てられない、さらに、共感性がないから感動もしないのです。「楽山は、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人」ではありません。楽山は、読書したかのように、引用と誘導で、人を欺く人、すなわち、読書家をおとしめる敵であります。
 
 
少なくとも自分はそうは思わない。本好きの人とか、読書ブログに対して、「どんな本を読んでるの? へえ、そんな本を読んでるんだ。おもしろそうだな。自分も読んでみよう」とは思っても、「読書の習慣があり、本をたくさん読んでいるようだが、それだけで勤勉とは限らないゾ」なんて考えることはない。
 
本を読んでいるから、自分は勤勉だと言いたいのでしょうか。楽山の読書は、読書と呼べるものではないことが感想文の稚拙さに表れてきました。楽山の例示する会話の台詞は、楽山が書いてきた独り芝居と同じように、平板で、月並みで、わざとらしい。このような台詞は、小学生がするものでしょう。
 
 
*知的生活
もう一つ、自分にはこの発言も意外に思えた。
他の人にも役に立つ、生産性のあるアウトプットまで行かない場合の読書は、単なる暇つぶしや趣味と言われても仕方がないもので、自分だけの独りよがりの好みでしかないことも多いわけで、
 」
そうした読書が真に役に立っている、というためには、アウトプットしてみて、他の人にとってもそれが役に立つ考え方であるか、知識であるか、モノの見方であるかを問う必要があるのだと思います。
 」
タイトルは失念したが、渡部昇一のエッセーで、とある人は論文などは書かず、知的生産はしていないが、その蔵書はゆっくりとではあるが着実に良書が増えており、読書を楽しんでいることがわかる、これも立派な知的生活だという話を読んだ記憶がある。
自分はこの考え方を支持するので、「生産性のあるアウトプット」がないとしても、論文なり、文学なりを読んで感動したなら、それだけでも充分に価値があるのであって、これに対して、「単なる暇つぶし」「独りよがりの好みでしかない」などとは思わない。
 
読書して "知的生活"しているからと言って、その人が、知的だとは限らないという例が、楽山です。だます目的で、読書したふりをして、殆ど説明できないのに、良かった、分かった、驚いた、などと、自分は分かるんですアピールをしてきたのが楽山です。これは自慢のための嘘です。
 
褒め言葉だけがわざとらしく並んでいて、読解の結果が感想に表れていないことをもって、楽山の欺瞞が明らかになってきました。そのような文章は、感想文としての意味がないと言われるわけです。さらに、だまそうと、刷り込んでくるならば、真実を追求する言論の敵ということになります。
 
楽山は、学習することなく、自己愛の自己中に好都合な言葉を漁って引用するだけですから、本と著者を侮辱していることになるでしょう。どこまでも、言い返してくるのは、反省することのない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人間らしい真っ当な反応とは真逆の方向にしか返してこないような、自己愛と慢心で動いている楽山は、とても見苦しくて、人間であることさえ疑いたくなります。このような記事を書いてくることが、さらに、訂正不能のインテリ気取りを表すことさえ気づかないのです。
 
 
ついでに書くと、名画、名曲、名演奏によって感動したということはそれ自体が素晴らしいことであって、画が描けなくても、曲を作れなくても、演奏ができなくても、他のことにつながらなかったとしても、その素晴らしさは変わらないとも思う。
 
その素晴らしさと感動を表すのが感想ですが、それが全く見られず、いつも、陳腐な褒め言葉を並べるだけなのが、楽山です。
 
さらに、驚くべき詭弁ですが、「素晴らしさは変わらないとも思う」・・ひどいものです。素晴らしくないのは楽山であって、感想の対象となる作品ではないのです。
 
また、感動するだけでも素晴らしいというのは、少しも楽山を弁護しません。感動したと書くだけでは、その中身は伝わらないのですから、伝わらないものを、ネチネチと執拗に書き続けて、正当化ばかりしてくる楽山の神経は、自己顕示欲の作為か、でなければ精神か性格の異常なのです。
 
楽山の自己顕示欲からの自己正当化の詭弁は、ことごとく、今まで成り立たなかったし、今も成り立たっていないし、今後も成り立たないでしょう。感想文を書くたびに、何を読み取ったのかという疑問が表れてだけだからです。
 
 
*指標
LEO氏は、ブログについて次のように考えているという。
独りよがりでは意味が無い。閑散ブログでは存在する意義がない。
 」
読まれる内容を書けないのなら、まだまだ他の人に感化を与えられる内容を持っていないのであって、そのレベルであってみれば、まだまだ自己研鑽が足りていないということを、自覚しないといけないのでしょうね。
他者が読んでも、そこに参考になるような何かが発信できているかどうか。
これが、自分がブログ記事を書く際に注意している、ポイントの一つですね。
自戒の意味を込めて。 
 」
これはこれで個人的信条としてはよいのだろうとは思う。ただブログの目的は人それぞれであるから、自分の考えをブログで発表し、多くの人に読んでもらい、影響を与えることを目指す人もいれば、アクセス数は気にせず、自分と向き合うためにブログを書くという人もいるだろう。
 
いえ、個人的信条ではなく、中身のない文章を公表されることは、さらに、そこに、恣意的な意図のある場合には、言論において、はなはだ迷惑だということです。楽山は、何も気にしないし、自分と向き合うこともないのです。だから、人に向けるためのネタを探しているだけの読書?です。
 
つまり、気取りだけの主張ですから、書けば、正常な言論に対しては妨害行為に匹敵します。前から言ってきたように、悪質な疲労物質である楽山の記事は、公表せず、誰にも見せず、楽山が独りで読んで、したければ独りで自画自賛し、独りで疲労していてくださいということです。
 
 
このような多様な価値観を認める立場からすれば、自分のブログ観とは異なるブログに対して、「意味が無い」「存在する意義がない」というのは、いささか行きすぎであり、乱暴である。大川隆法は著書の売れ行きや、社会的影響力の大きさを自慢げに話す人なので、信者がそんな風な考え方になるのも仕方ないことではあるが、これが唯一の判断基準であって、それ以外の判断基準は認めないとしたら、おかしなことだ。
 
楽山は、"多様な価値観"、という言葉で、自分勝手な雑言を自己正当化してきます。以前、シャロームが、"人それぞれ"、という言葉を多用していたのと同じようなものであり、曖昧で、意味の広い言葉の中に、批判の中心を紛れさせようというボンヤリ言語の詭弁です。
 
自らの与えている害に全く気づかず、無視して、言い逃ればかりを書いてくる、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、言論のサディスト、またサイコパス、という体質を、自ら証明し続ける楽山なのでしょう。
 
 
*全体の感想
LEO氏の考え方は、自己の向上が大切であって、自分がどれだけ向上できたかどうかは、ブログの影響力によって確認でき、これに益しない読書も、書くことも意味がないというものであるようだが、自分は、読書そのもの、書くことそのものに価値を見出したく思うタイプなので、申し訳ないけれどもLEO氏は、読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさをご存じないように思えた。
 
「書くことそのものに価値を見出したく思う」・・楽山の場合、害だけを生み出しています。この楽山の言い分は、全否定されるべきであります。多様だから、人それぞれだから、何でも書いて公表していいということはないのです。無責任は無責任、迷惑は迷惑と指摘され続けます。
 
言論の責任を負わない者には、しかも多様性という詭弁で言い逃れできると思うような者には、言論の自由はないのです。楽山の読書は、多様性ではなく、恣意の自己顕示です。
 
反省もなく公表され、詭弁で言い逃れても、迷惑は、迷惑と指摘され続けますし、その結果は、楽山の自業自得となるわけです。そのとき、詭弁で何を狙って、その欲望の結果として何を失ったのか、楽山は体現することになるでしょう。
 
「読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさ」を知っているとは、到底、思えないような、読んでも何も得られないような、空疎で、関われば、疲労だけを被(こうむ)るような記事を、何の自覚も病識もなく、自己愛によって偏向し歪曲した恣意によって書いてきたのが、楽山です。
 
 
もし読書および書くことそのものを目的とすることはできず、それらを自己実現の手段としてしか見れないとしたら、自分とはまったくちがった感性、価値観であるし、話が合わないのも致し方ないなと思う。
 
今度は、批判に対して「自己実現の手段としてしか見れない」という言葉を当ててきました。楽山が何を自己実現してきたでしょう。嘘と詭弁で刷り込んできただけなのです。言葉をすり替えて本質を逸(そ)らせる詭弁です。楽山の厚顔無恥の攻撃性が出ています。
 
自己実現するかどうかなど分かりません。必要なのは、良識と良心であり、最低限の責任感です。楽山には、それが無いと言っているのです。楽山には、人間としての最低限の反省力と罪悪感がないと判断しています。楽山が実現したのは、結果としての、悪意の企みによる害だけでした。
 
また、楽山には、しんみり悔いたり悲しんだりできるような共感性がないと思います。だから、いつも、本筋と外れたところで、自己顕示欲に塗れた感情と意志が、的外れに働くだけなのです。反省と学習のない刷り込みだけの楽山の記事の果てには、いつも離人的な自己満悦しかないのです。
 
 
*経緯
最後に、これまでの経緯をご存じない方もおられるかと思うので、その点について書いておきたい。
まずこの信者氏と、楽山とのかかわりは、言論の自由についての意見が対立したことが始まりだった。
・★ 言論の自由について 2
 」
その次は、ブログ村の幸福の科学カテゴリーにおいて、信者と信者が対立した際に、自分はこの信者氏には批判的な立場をとって不興を買ったのだった。
・★「幸福の科学村」騒動のまとめ
 」
傍から見たら、こういうことはどーでもいいことだろうけれども、こういう経緯を知ってもらえれば、信者氏がかなり感情的で、極論的な発言をしている理由についての理解が容易になると思うので、一応、参考までに書いておくことにする。
 
楽山が、極めて作為的で、詭弁家で、自己愛者で、欠陥だらけの字面言葉で、刷り込みによって、間違った印象を刷り込んでくる策略家であることも、理解が容易になってゆくと思います。
 
私は、楽山の、キリスト教への曲解と決めつけによる誹謗中傷をきっかけに、楽山批判をしてきました。私は、出来ることをしてゆくだけです。
 
この先、楽山が、ネットを含めた犯罪行為に及ぶ場合には、私のできることはなくなるでしょう。
 
どうか、楽山に、だまされないように、決して近づかないようにしてください。
 
 
陰湿な欺きの醜さ

陰湿な欺きの醜さ
 
 
(2020年)
(2022年08月30日、再録+加筆)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
 
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
しきりに鏡を震わせ抜いて
白髪を流す あるいは
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
しばしば礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみにしがみついて
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
  失われた箱
 
晴天
箱が焼かれる
古き宝
瑠璃も玻璃も
欺かれて漆
焦げてなお煙る
雲間を走る金色の木馬
シーソーが突き上げる
自慰に過ぎないバランス
段差の遊戯を見やりながら
階段を去っていく聖者
過ぎた儀式に埴輪のテーブル
与えあう食事
好き嫌いの食卓
押入れの中でプロペラが回る
人形の目が閉じる
滑るコップ
流れる皿
傾いた信条
広場から湖へ
手に手に合掌
南へ渡る紙飛行機
黙祷 ああ 誰を慰めている
木馬の頃を過ぎて
賂(まいない)に明け暮れる箱
見知らぬ丘
晴天
設計図が舞い上がる
新しき宝 押さえる手
どこかでプロペラが回っている
 
 
  プロテスタントの偶像
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
私はプロテスタントだから
むかし通った教会には
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
 
罪から罪へ走らせる罪
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
 
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
今のところですが、最近、楽山は、ブログ記事も、ツイッターも、投稿が少なくなりました。このまま、退散してほしいところです。楽山が記事を書いても、精神の疲労と破壊の不幸が生まれるだけです。どこかで、また、HNを変えて、書き始めているなら、見つけるまでは野放しということになります。
 
 
 
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  楽山の短絡宗教3
 
 『宗教座談』内村鑑三著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、弁明も反論もできないまま書き続けます。言論に耐えるだけの知性も感性も説得力もないからです。だから、嘘を吐き、詭弁を弄するしかなくなっています。毎度毎度、寒気がするようなことを、恐れも知らずに書いてくる楽山です。
 
この間の事情を知っている人からは、執拗で、妄想狂で、訂正不能で、病識のない、恐ろしく愚かな、自尊だけが突っ張っている醜い人としか見なされないでしょうに、なおも、書けば、誰か、だまされてくれるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、病膏肓に入って、都合の良い文言を漁っては、なにやら、わめいているだけです。やさしそうな見かけの筆致に、どうか、だまされないでください。
 
恥というものを知らないと、楽山のようになります。どこまで愚かに悪あがきするのだろうと思える楽山の言動を、この記事の終わりのほうに書くことになりました。
 
 
タイトルから宗教全般についての話だろうと見当をつけたのだが、中身を確かめてみるとそれは全然違っていて、冒頭から最終ページまでキリスト教にほぼ限定した話になっている。テーマは、教会、真理、聖書、祈祷、奇跡、霊魂、復活、永生、天国である。語り口は、時に厳しくなるときもあるが、それは著者の信仰心の強さと真面目な人柄のためなのだろう。
 
内村鑑三と言えば、キリスト者、一部には、預言者的な人物と言われているとさえ聞きました。楽山に「信仰心の強さと真面目な人柄」など分からないと思います。信仰について、楽山が的を外してばかりだったことが証拠です。またしても、見当違いのことを、恥知らずに書いてきます。
 
今回も、また、的外れだけが表れています。つまり、キリストが伝えた、敬虔も、罪も、赦しも、癒しも、分からないまま、物知り顔に言っているのが、楽山です。神も、神のわざも、神の意志も、人が軽々しく分かった、理解した、見た、などと言ってはいけないのです。
 
 
本書の中で自分にとってもっとも興味をひかれた箇所を三つ挙げるとしたら、まず一つ目は復活についての話だった。キリスト教における復活とは、肉体をともなうものなのか、そうでないのか、前々から疑問だったのだが、著者は「永生とは肉体の死後に霊魂がその新たに授かりし霊体を以て生命を継続する事」(p.102)としている。どうやら復活するときは霊魂は肉体から新しくつくった霊体に移ると考えているらしい。
 
キリストの復活については、肉体を伴うものだと信じている人も少なくないでしょう。私のスタンスは、他の、物や肉体の奇跡と同様で、人知で理解できないものを、あった、なかった、などと云々することはしません。あえて言うなら、・・分かりません・・ということです。
 
しかし、楽山の言うところの、新たに授かる霊体、ということを、地上で理解できる人はいません。つまり、このことは、死後のことは神に任せよ、という、神を恐れる敬虔に結び付いているのです。楽山は、何を分かることのように言っているのでしょう。空っぽの霊体で。
 
肉体の復活は別として、魂の復活については、言いようがあります。死ぬしかないと思っていた人が、生きるほうを選ぶようになることがそうです。絶望の人が希望をもって動き出すことかもしれません。また、楽山は、分かりもしない超常の辻褄をいじくっていますが、何の意味もありません。
 
楽山は、この記事で分かったような気になるのでしょうか。このことこそ、楽山の言が、字面の概念を組み合わせて辻褄が合うとは "言えなくもない" と前に言ったような、ボンヤリ言語的短絡で慢心している空想~妄想の証拠なのです。
 
聖書の言葉も、他者の言葉も、有名人の言葉も、まるで、理解できず、おのれの皮相ワールドを讃える捏造言語表現に変えてしまう楽山であります。人生、こんな過ごし方だけは御免です。何も生まれない、何も解決しない、深くも高くもならない、楽山の空転する脳の皮です。
 
 
二つ目は動物には霊魂はないとしているところだ。著者は「霊魂は勿論肉体の生命ではありません。もしそうならば、犬にも馬にも鶏にも烏にも霊魂があるはずでございます」(p.77)としている。また「我々が犬や馬や猫や牛などの責任を問わないのは彼らに肉体あるも霊魂のある事を認めないからでございます」(p.80)ともいう。これからすると、著者は動物には肉体生命はあっても霊魂はないと考えているらしく、いわゆる三魂説のような立場に立っているようだ。
 
いったい誰が、霊魂について、見たかのように、物体のように、語れるというのでしょう。三魂説というのはネットには見つけられませんでした。魂の三分説というのがありました。それにしても、霊魂について、楽山は、分かったふうなことを言わないと気が済まないのでしょうか。
 
(ネットより)
魂の三分説とは
魂の三分説(さんぶんせつ)とは、古代ギリシアの哲学者であるプラトンが提唱した、人間の魂を3つの性質に分ける考え方のことです。
プラトンは『国家』の中で、魂を以下の3つの区分に分けました。
①理知(ロゴス)
②欲望(エピテュメーテース)
③気概(テュモス)
 
私は、例えば知情意は、はっきり3つに分かれてなどおらず、この分け方は多分に便宜的なものであり、複雑に連動するものだと思っています。楽山には、理知と、情緒面で、明らかに欠陥があるようです。
 
楽山は、難しそうに見える言葉を、わざわざ使って、説明せず、おのれの知性を誇るために利用する、という、無能で無反省な、身の程を知らない自己愛者の特徴を持っています。何の参考にもなりません。
 
 
三つ目は人は神と同化可能としているところだ。著者は永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」(p.109)としている。自分はキリスト教は神と人とを創造主と被造物とに分けていて両者は別個のものとしているというイメージを持っていたので、上のように両者を同化可能とするかのような考え方には良い意味で驚かされた。
本書にはこの他にも興味深いことが沢山語られているので、また折をみて再読したい本である。
 
「永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」」という言葉は、地上で当たり前に起こることみたいに言っていますが、恐らく、神の側の、人に対する見なしを推測しているに過ぎないと思います。
 
神と人の同化可能という幼稚で乱暴な、神霊物語にしているところが、楽山らしいと思います。意味を、自分の妄想世界に短絡して受け取っています。もう一度言いますが、無能で無反省な自己愛者は、こういうことを平気で言えるほど、厚かましい高慢と気取りがあります。
 
キリスト信仰において、永遠の命とは、地上において、神の永遠性を持つことではなく、神との合一や一体化でもなく、また、地上で永遠に生きることでもありません。地上のこととしては、比喩以上ではないと思います。地上で超常の説明をするような説明を、私は信用しません。
 
永遠は、地上では、現象として表れませんし、表れても、誰も理解はできないでしょう。つまり、神の全能から考えて可能ということであって、信じれば起こる・・などという、楽山がやるような安っぽいカルト的短絡をしてはいけないということです。
 
内村鑑三は、何らかの結論のようなものを書く必要か使命感があったのだろうと思われますが、その意図は、今、わけも道理も弁えぬ楽山という偽善者によって、無遠慮に不細工に悪用され、けがされています。有名人を引用することによって、楽山は妄想し、そして、愚昧の馬脚をあらわしてゆきます。
 
この楽山のような曲解は、一気にスーパーな者になりたいという欲望を持つ者に見られます。楽山は、その典型です。その執拗さは、もはや人間のものとは思えません。興味深いなどと、楽山がいくら書いても、楽山は、言葉一つも理解などしていないのです。
 
 
 『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
キリスト教も仏教も、楽山にとっては、世辞が通用すれば取り入って、いい気分になり、批判されれば、疲労しか与えない小学生レベルの詭弁を、難しい言葉を、執拗に使って、結局、おのれの学者気取りを自慢したがるネタに過ぎません。
 
楽山は、A級戦犯の大川周明を讃える記事を書いたことがありますから、神道には、右翼的アプローチをしてくるかもしれません。鵜呑みは、いちばん危険です。楽山は人を食い物にする輩です。危険物と同様、注意警戒して、決して近寄らないでください。
 
 
神道のことを知りたいと思って本書を読んでみたが、なんだかますます神道が分からなくなってしまった(笑)。
まず著者は、神道は「開祖も、宗祖も、教義も、救済もなく、「ない宗教」というところにその本質がある」(p.69)と規定している。また元来、神道は「神殿はもうけられず、祭祀は屋外の岩のところでおこなわれていた」のであり、「社殿がないのが神道のもとの姿」(p.33)ともいう。さらには神道には「教えについて述べた聖典というものが存在しない」(p.151)、「はっきりとした規制がない」(p.158)という。
 
私は、神道のことは知りません。しかし、楽山が、人に勝りたい自己愛からの自己顕示欲によって自慢する材料にしているだけだということを知ってほしいと思います。その結果は、この二年余りで、楽山の低劣な詭弁と嘘が明らかになってきただけなのです。
 
分からないことを「(笑)」と書くのは、楽山の場合、謙譲というより、宗教をバカにして、とても軽く扱っているからでしょう。楽山は、人間らしい思慮がないために、足りないものに気づけず、読書家気取りで、推敲・考察・反省・学習・成長を全く抜きにして書いてきます。
 
 
これはもう無いない尽くしである。こういう説明を聞くと、神道の特殊性が際立って見えるようで面白いのではあるが、神道がますますつかみどころのないものに思えてきて混乱してしまう。これにはまいった。
 
混乱して、まいったなら、「つかみどころのないもの」なら、評価や考察めいた記事も、書かなければよいのです。しかし、楽山は、書いて自慢したい欲望と、無神教カルト&軟派カルトの因業のみによって、次には、面白い考察だと、説得力がある、などと書いています。
 
バラバラで、軸がありません。そういう人です、決して、コメントの遣り取りをしたり、近づいたりしてはいけません。関われば、吐き気のするような曖昧ボンヤリ言語で、執拗な嘘と短絡と詭弁で、心だけでなく、体も壊しそうなくらい刷り込んで、神経も精神も疲労するだけです。
 
 
とはいえ、著者が述べている神道と仏教とが共存できた理由は興味深いものがあった。神道は開祖も教義もない宗教である一方で、仏教は開祖も教義もある宗教だったので、正面衝突はまぬがれ、住み分けが可能だったのであり、また明治維新後に両者を分離できたのは双方ともに性質が異なり、混じり合うことなく並存してきたからだろうというのだ。これは面白い考察だと思う。
 
キリスト教については、禁教と迫害の長い歴史があり、明治時代になって、ようやく認められ、また、さらに、戦争の時代の言論統制によって、迫害を受けた歴史もあるわけです。
 
遠藤周作は、警察に、神と天皇とどちらが偉いかと聞かれ、どちらも尊敬いたしております、と答えて難を逃れたという話があります。氏の選択を、誰も責められないと思います。
 
楽山は、戦争当時の憲兵隊みたいなカルトに入って、おのれの権威を振りかざしたいのでしょう。敬語で呼ばれ、先生として、もてなされたいのでしょう。堂々巡りとブーメランで、歩いている芝居をしても、一歩も進んでいない、沈澱思考の楽山です。
 
開祖が違うと、正面衝突するものでしょうか。そこに共通するところの、人間らしい真善美というものを、楽山は考えないのでしょうか。恐らく、楽山は、考えられないのでしょう。字面の駆け引きだけで面白がる姿勢には、宗教と信仰への理解はありません。
 
 
両者が共存できた理由について、神道の寛容性のゆえだとか、神道は他宗教を神道に合う形に変容させるからだという意見もあるが、著者の考察も説得力がある。
 
このような、考察も説得力もない記事を、気取りと自己顕示欲だけで、平気で書いてくる人は、むしろ珍しいと思います。楽山には、自分信仰の訂正不能の自己愛を宗教化したいのではないかという軟派カルトの疑いがあります。
 
(ネットより)
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
 
結局、記事タイトルの『神道はなぜ教えがないのか』についての、結論も考察も書けない楽山です。感想も、「混乱」「まいった」「面白い」「説得力がある」などと、これは、作文の苦手な小学生が、何か感想を聞かれて、よかった、とだけ言って先生に叱られるのに似ています。
 
こういう傍迷惑なことを、著名人の名を引用して、自己正当化してくる楽山です。何を書いても、理路は拙劣で情緒は乏しく快楽原則だけで褒められるのを待っている自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の言です。カルト臭満載の、疲労だけを与えてくる二年余りでした。
 
 
短絡して堕ちてゆく

短絡して堕ちてゆく
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月12日、再録+加筆)
 
 
※ 記事の終わりのほうに、楽山についての情報を載せています。自己愛性の害に遭わないために、読んでほしいと思っています。反省しない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)である楽山の、因業、即ち、浅知恵による悪だくみです。
 
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
 
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった貝の殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  自信とは
 
自信とは自分の能力・価値を信じること
キリスト者でも
自信を持つことはあるだろうから
自信と信仰は別だろう
自信とは
努力と実績に裏打ちされた自惚(うぬぼ)れか
努力・実績・自惚れ
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
三つとも無いことがある
怠け者・役立たず・自己嫌悪
飲む打つ買うはしないものの
持たないものは持たないのだから
結果は堕落した暮らしで
せいぜい努力するよう努力して
少しばかり学び遊び
あとは与えられるものを
ありがたく頂いて
頂いたものは頂いたのだから
裏打ちも
裏も表も
あろうとなかろうと
例えば庭が自棄の荒野になり
マイホームが自虐の牢獄になろうとも
心ゆくまで悔いたい
自信喪失者
シアワセのスポンジになるまで
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
悔いれば悔いるほど
心ゆくことなどないのだが・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、嘘を吐きますが、そのために、本音が行方不明です。オオカミ少年のように、いつも狼が来たと言っていると、本当に狼が来たとき誰も信じてくれない、という報いを受けるわけですが、既に信頼度ゼロとなっている楽山は、これから、どうやって、生きるつもりなのでしょう。
 
 
 
 以下は、自己愛性人格障害である楽山の、どぎつい偽装・隠ぺい工作です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは詭弁だね。
いくらか表現はやわらげてるけど、従順さがないと、人の言うことを聞かない天狗になるかのように言うのは、
「全てか無かで途中を認めない」「勝手に極論化する」という詭弁だろう。
私見ながら、自分は従順さより、素直さの方がよほど大事だと思う。
「(引用)
ryuho-okawa.org
従順の美徳
従順の美徳がないと、いわゆる天狗になりやすいということです。天狗になるともう、人の言うことをきかなくて、自分が羽ばたくことしか考えなくなるので、やはり教えが入らなくなってきます。それと、一つの教えに収斂していく傾向がけっこう強いです。
 」
午後7:44 · 2022年8月10日·Twitter Web App
 
人格の偏りのために「従順さがないと、人の言うことを聞かない天狗」になっているのも「全てか無かで途中を認めない」「勝手に極論化する」のも、楽山です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、素直さを装う三文芝居の大根役者が、楽山その人です。
 
従順に代わる良きものとは、ただ、正直さと率直さなのです。しかしながら、正直に最も背き、嘘と詭弁で他者をだまして遊んできたのが、楽山その人です。これほど悪だくみで、他者をもてあそんできた者は、これから、偽善の標本として、ブーメランの地獄を見る定めとなるでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
naru
@kokorodrugstore
自己愛性パーソナリティ障害に価値観の押し付けやジャッジを受けたら、「あなたはそう思うんですね」で終了です。
自己愛性パーソナリティ障害は自他境界が不全なので「お前は私になれ」と主張してきますが、あなたはあなたでしかありません。
同じ考えである必要なんて無いんです。
午前0:29 · 2022年8月11日·Twitter for Android
 
楽山は、隠れ蓑に、自己愛性パーソナリティ障害批判のツイートをリツイート引用してきました。しかし、楽山こそが批判の対象となる自己愛者です。あざとく引用することで、楽山の驚くべき悪意が表れていますが、今に始まったことではないと思っています。楽山は根腐れなのです。
 
「あなたはそう思うんですね」で終わってもいいのですが、楽山の悪意あるブログとツイートなので、私の批判記事は私のツイッターにもコピペしています。罪悪感がなく反省しない楽山には、言論からの追放が必要ですが、それができない分、こちらも、いろいろ考えないといけません。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
naru
@kokorodrugstore
自己愛性PDの執着対象となってしまったら、もうまともな会話はできません。
徹底して「俺が正しい」「お前は間違ってるし価値がない」ことにするための会話です。
会話はねじまがり、記憶は改ざんされ、話が通じることはありません。
相手の障害を実感するでしょう。
午前11:44 · 2022年8月11日·Twitter for Android
 
自己愛性人格障害から受ける被害は、執着対象だけではありません。思考も自己中心になっているために、本人の主観が本人にとってだけ絶対正義となっており、訂正不能です。話せば分かるということがなく、説得不能であり、そのための時間は全て無駄となります。逃げるしかないのです。
 
会うことが不幸、話せば地獄、続ければ精神疲労から鈍麻さらに人格破壊へと進行する可能性があります。一切の交渉は無意味です。一刻も早く離れてください。そして、二度と会わないようにしてください。可哀想などと思ったら自己愛者の思うつぼです。同情に反応する感性はないのです。
 
自己愛性人格障害者には、思いやりや罪悪感がなく、相手の思いやりに反応できる良心がありません。いつも静かに微笑する柔和さなど通用しません。そういう道徳は自己愛者に対しては捨ててください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に対して、寛容の精神は禁忌です。
 
 
 ※※※
 
楽山は「自己愛性パーソナリティ障害とは何だろう?」という記事を書いています。内容は、上記3つのような自己愛性パーソナリティ障害NPDについての批判リツイートを、楽山のツイッターにリツイートしたもので、多数集めて、とても長い記事になっていますが、楽山の意見は殆ど書いていません。
 
楽山が書いているのは
 
最初の
*話が通じない理由
SNS上において、まったく対話が成立しない相手と出くわして途方に暮れたことがあるが、先日、その原因と思われることを指摘しているツイートがあったので、ここに保存しておきたい。
 
最後の
個人的には、「なるほど、よく分かるわぁ…」というツイートばかりです。
同アカウントのブログはこちらです。興味ある方はご覧ください。
だけです。
 
楽山がその人、つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。楽山自身は病識がないものだから何も書けないのだろうと思います。つまりカムフラージュなのです。自分で書けば、当然、自分は除外されるだろうという狙いなのです。楽山の底知れない悪意の企みを感じます。
 
「対話が成立しない相手と出くわして途方に暮れたことがある」「なるほど、よく分かるわぁ…」・・ならば、もっと詳しく書けるはずだし、書かずにはおれないはずです。経験したみたいな話ちょこっと、そして、大袈裟な褒め言葉だけ、被害者なら、これで気が済むはずはないのです。
 
私としては、愚かだな・・と思います。既に、私が、楽山の自己愛性人格障害を3年以上批判しているのに、楽山が自己愛性人格障害批判を引用して記事を書けば、その白々しい意図と企みを知らせているようなものだからです。反省する意志がなく、ごまかすことしか考えない病質の因業なのです。
 
 
 
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  手の付けられない楽山2
 
 神秘体験は経験的方法によって判断すべきこと
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、批判と反対のことを書けばいいと思っているのでしょうか。楽山の体質は、勘違い→妄想と自己中→しばしば狼狽して相手を妄信者と言う生業です。楽山が言う妄信には根拠がなく、私が楽山のことを自己愛性人格障害NPDと言う精神病質については、根拠を示しています。
 
その根拠を、病識のない楽山は、読解できないために、こちらを妄信と呼んでいるのでしょう。妄信は、自分信仰の楽山のことです。そういうことしか書けない楽山だから、ネットの言論を乱すだけなのです。楽山は、混乱に乗じて、読者に自説を刷り込もうとしているのでしょうか。
 
反省と書いて反省しない、共感と書いて共感を表していない、分かったと書いて詭弁を続ける、"とほほ" と書いておいて、今また、反省もせず、引用元の言葉を自己満悦のために引用~悪用する、否定と思えば肯定、どちらも断定していないからと、一切、責任を負わない、それが、楽山です。
 
神秘体験を主張するのは、一部の人たちでしょう。そこには、楽山のような霊が分かるっぽいなどと言う偽者もいるでしょう。一般化できないことなのに、「経験的方法によって判断」など出来るわけがないのです。書けば書くほど、おかしさが増してくる悪魔性の病質者が楽山です。
 
 
*経験的方法による判断
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、神秘体験は「天使と蛇」が住まう潜在意識から生じるものであるから無批判に受け入れてよいものではなく、天使と蛇どちらによるものなのかを慎重に判断すべきとしている。
すなわち、「天使と蛇」とがそこには並んで住んでいる。この領域から出て来ているということは絶対に確実な信任状ではない。そこから出て来ているものも、外の感覚世界から来ているものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、経験全体との対決という試練を経なければならない。私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的方法によって確かめられなければならないのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
神秘はこの世の原理では判断できないとするのではなく、経験的方法(科学的合理的な方法?)によって判断でき、確かめなければならないとしているところは興味深いところである。
 
楽山は、狂ったのでしょうか、・・まあ、前からではありますが。神秘体験は「天使と蛇」というのは、まだ、お伽噺でしょう。楽山には天使の要素がなく、蛇の要素または悪魔性だけがある人です。神秘を、「経験的方法(科学的合理的な方法?)」よって確かめるのだそうです。正気ではない。
 
科学的合理的なら、それこそ、とっくに、どこかで議論され、どこかで紹介され、多くの本やTVなどメディアで取り上げられているはずです。誰からも見向きもされない楽山が、我を張るために、確かめられるんじゃ!・・と、孤独な部屋の中で、布団に顔をうずめて叫んでいるイメージです。
 
 
*霊言の真偽についての判断方法
ここで思い出すのは、佐倉哲氏による「霊言の真偽についての判断方法」である。
霊能者は、だれも知ることのできない「死後の世界」とか「霊界」とか「未来の世界」などについてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにも証明できません。しかし、霊能者も人間であって、ついつい、地上の世界について喋ってしまうことがあるようです。地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます。幸福の科学の教祖大川隆法さんは、その著『内村鑑三霊示集』のなかで、内村鑑三の霊として、霊界のことだけでなく、つい、地上の世界(イエスの生誕や聖書)についても語られています。そのために、キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露し、その霊示のウソがばれてしまっているのです。
・大川隆法の霊示『内村鑑三霊示集』のウソ - 佐倉哲エッセイ集
 」
こうしてみると神秘現象はこの世の原理では分からないとは言い切れず、現実に関連した部分については十分に経験的科学的に判断可能であるといえる。
 
佐倉哲の筆致は楽山によく似ています。楽山の成りすましではないかと疑っています。佐倉哲のプロフィールが、あまりに乏しいのです。そして佐倉哲のサイト以外では、佐倉哲の発言も書かれてさえいないようです。
 
相変わらず、宗教と信仰の問題を、「死後の世界」「霊界」「未来の世界」と同一視しているようです。さらに「キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露」されてきたのは、楽山その人であります。しかも、それで、まだ語ろうとするから、病質が重いと判断します。
 
「地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます」ならば、嘘吐きの楽山は、言論者としても霊能者としても全く成り立たない人ということになります。自分が、本に斬られていることに、やはり楽山は気づかないようです。こういうブーメランが楽山の常です。
 
人が知り得るのは、現実に関連した部分に限られるわけです。神秘が結果として人間に表れる部分だけです。詭弁に惑わされないようにしてください。つまり、神秘体験の中心や理路などは、謎のままです。無条件に自分を霊能者だと認めてほしいがゆえの、楽山の、でっちあげです。
 
神秘が本物か偽者かは、神秘が及ぼした地上の人間の有り様からも、ある程度、判断できるということに過ぎないです。つまり現象からの推測に過ぎません。楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解の凝固した人物であり、ゆえに、楽山の語る神秘は、ペテンであり、偽物であります。
 
 
霊言を信じる側からは、この世のことを間違ったからと言って、その霊言は偽物だとか、下等なものだとは断定できないという反論もありそうだが、この地上の事実関係ですら間違うのであれば、この地上を遥かに超えた高次元のことを間違わずに語ることができる可能性は低いとみるのが穏当な結論ではあろう。
 
事実関係、理路、節操、共感性、いずれも、楽山は詭弁以外、何も持たない楽山こそが、偽物を語る偽者だということです。自分が掘った穴に落ちてゆく楽山が、当たり前に、表してくる発言から、嘘と詭弁を指摘して、批判してきたのです。
 
つまり「この地上の事実関係」において、間違いというより、故意の悪意の悪魔性の、妄想的自己愛の結論を訂正不能に刷り込もうとしているのが楽山であり、ここでも、ブーメランのダメ出しを食らって、全く整わない楽山が「高次元を」語るに値しないことを表しているのです。
 
 
*信仰の義務はない!?
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、重ねてこう断言している。
私はもう一度くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に授与されているものと認めるべき義務はないのである、と。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
熱心な宗教信者、神秘主義者のなかには、誰に対しても神秘の権威を主張し、ひたすら信じよ、信じよといって信仰を強要しようとする者もいるが、非神秘主義者にはそれに従わなければならぬ義務はないのである。
 
何を言っているのでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山ですから、楽山こそ神秘主義者です。この記事は、神秘、あるいは、非神秘、どちらを言っているのでしょう。何よりも、愚劣な楽山に対しては、いかなる神秘も霊能も認めることはないのです。決して従ってはいけない対象が楽山です。
 
神秘の権威を、遠回しに、いつも、言っているのは、楽山です。私は、ひたすら信じよ、とは言っていませんし、言っている人が他にいたとしても、楽山は、答えるすべがないのです。楽山は、自らの霊能から自己正当化という神秘?というより矛盾を、この3年余り、振り回してきたのです。
 
 
これは当たり前のことだが、一部の妄信者はこの当たり前のことを理解しないのだから残念である。著者もこういう事例を承知しているから、この種のことを繰り返し書いているのだろう。
 
このように、自分が言われそうなことを、「理解しないのだから残念」と、相手に当てはめる詭弁です。自分は大丈夫という根拠を、ずっと、欠片も証明していないのです。代わりに、嘘と詭弁の卑怯な粘性のゴミをブログという丼いっぱいにネチネチさせて食わそうとしてきたのが、楽山です。
 
一部の自己への妄信者が楽山だということです。そして「この当たり前のことを理解しない」のも楽山です。病識のない楽山が、反省もせず、無責任に、妄想的に思いつきを並べても、何も整うことはないのです。楽山は、言論をしているのではなく、無意識に、症状を表しているのです。
 
 
 
 高級な神秘体験とそれ以外の神秘体験、およびその見分け方
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
  2021年07月18日 楽山日記(LD)
 
 
2年余りの批判を受け取らずに、考えずに、無視して、書いて来れることが、既に、良心のない証拠であり、人を人とも思わないで、意地の悪いことを平気で言って快感を覚えるというサディストであり、精神病質サイコパスであることの証しなのです。楽山の大量の放屁が臭い。
 
神秘を人が理解することは出来ないのに、分かっているふうを装い、その分別めいたことまで語ろうとする楽山は、演技的な悪魔性のサディストです。理解力も共感もない者が、背伸びして、学者気取りで語ると、実に、みっともないという症例です。
 
 
*高級とはいえない神秘体験の特徴
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験には高級とはいえないものもあるとしてその特徴について書かれていた。ここにメモしておきたい。
妄想的な精神病を教科書ではときどき偏執病と呼んでいるが、これは一種の転倒した宗教的神秘主義で、悪魔的な神秘主義と言えよう。ごく些細な出来事を言いようもないほど重要なことと感じたり、聖句や言葉が突然に新しい意味を帯びてきたり、声なき声を聞くとか、幻を見るとか、指導力や使命を感ずるとかしたり、外部のちからによって支配されたりするとかする点では、さきの神秘主義と少しも変わりがない。ただ今度の場合には、感情が悲観的なのである。すなわり、慰めの代わりに私たちはやるせなさを感ずるのである、啓示の意味するものが恐ろしいものであり、力は生命の敵なのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、pp.254-255)
 」
この基準に従うならば、負の感情を抱かせるような啓示、神秘体験には注意した方がよさそうではある。
 
高級な神秘体験があるなら、低級な神秘体験もあると言うのでしょうか。低級なものを、神秘体験に入れているのでしょうか。詭弁です。中には、楽山の霊が分かるっぽい体験のように、まるっきり嘘吐きの見栄っ張りもあるのだから、偽りの神秘と呼ぶべきでしょう。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、良心と罪悪感のないサイコパスであり、まさに、自己に偏執している病気なのです。だから、大事なことを、何も分からず、考えることも出来ず、責任を負う気もないのです。人の口を引用し悪用しても無駄です。
 
楽山の霊能と神秘の話は、まさに、「注意」が必要というより、決して受け取ってはいけない悪魔性の危険物と言えるでしょう。嘘吐き楽山は、断末魔的に、いっそう凶暴になってきたようです。もっともっと、孤立してゆくように、誰も相手にしないことが大事です。
 
 
*高級な神秘体験
では高級な神秘体験についてはどうかといえば、著者は次のように簡潔に述べている。
高級な神秘的状態は至上の理想を、広大さを、合一を、安全を、そして至上の休息を教えている。
(同上、p.258)
 」
どうやら高級な神秘体験は人の心に安らぎを与え、幸福にするものであるらしい。
 
人の心に安らぎを与える神秘は、安らぎの源として感じられて信仰の可能性があります。決して、楽山のような、孤独な神秘オタクや、無責任に無反省に災いの妄想屋のように、神秘、神秘と吹聴する必要はないのです。
 
神秘は、神秘を理解できない人間には、秘密のうちに働きかけます。ゆえに、神秘、神秘○○、などと吹聴する楽山は、その時点で、真っ赤な偽者であり、書けば書いただけ、インチキ宣伝だということ自ら証明し続けてゆくでしょう。
 
楽山は、自らの人間としての尊厳ある命を、反キリストと無神教カルトの病質的精神で、嘘と詭弁のペテンの技に置き換えてしまった人です。楽山の記事を読むたびに、元には戻れそうにないと感じます。楽山が書いて、それを読むたびに、進歩も成長もない訂正不能で不治の病質の災いを感じます。
 
もはや、バレているのに、苦し紛れに、2つも記事を書いても、いっしょです。楽山は、インチキ神秘気取りでしかないのです。楽山から、安らぎも幸福も生まれません。この3年余りで幸いの予兆さえ全く見られず、代わりに、人格破壊の病原となることが明らかになっています。
 
楽山は、偉そうな様々の気取りを表してきました。それらにおいて、いつも、偽者でした。つまり、偽評論家、偽読書家、偽学者、偽インテリ、偽アンチカルト、偽宗教家、偽言論者、偽政治思想家、偽スピリチュアル、偽霊能者、・・と言ってよいでしょう。
 
 
*応用
 
楽山は、神秘を応用できるのだそうです。神秘、神の秘密に対して、何の恐れも感じていない、心ではなく、毛の生えた心臓の絶対性不整脈となっています。言葉で交わろうとすること自体が無理かつ無意味というものであり、楽山の言葉は、人を安らぎから遠ざけるヌルヌルの汚物です。
 
 
これらは神秘体験の分類法としてはもっとも簡便であろうし、神秘体験のみならず宗教の見分け方にも使えそうではある。高級な宗教は他との一体感と安らぎを与え、そうでない宗教はやるせなさ、恐怖などの負の感情を強く抱かせるなど。
 
楽山の語る神秘も宗教も、破壊的な疲労を与えるだけです。楽山が病質者である証明はそれだけで十分でしょう。いつまでもネットにブログにツイッターにしがみついて離れない執念は、自己愛性パーソナリティ障害の我執から来ていて、安らぎを与えることのない惨劇であります。
 
 
神秘・宗教の正邪について、自分の情感だけで断定してしまうのはいささか安易にすぎるきらいもあろうが、それでもこれは一つの目安としては有効ではないかと思う。
 
情感のない楽山が言っています。楽山は、知情意が一体となっていることも知らないのでしょう。当然、思考も整わず、思いつきを語る以外なくなっている楽山です。今回、多量の放屁です。真実の追求においては、「目安」どころか、邪魔でしかありません。
 
ゆえに、安易な思い付きしかない幼稚な楽山は、自身の愚痴か秘密として、秘密のノートに書いて、死ぬまで独り笑いで満悦してください。今回、多量の放屁です。真摯な信仰者にとっては、極めて悪性の惑わしとなっていて危険であり、少なくとも甚だ迷惑です。
 
 
 
キリストの神性は、処女懐妊とか、数々の物や肉体の奇跡とか、復活とかの、超常物語にあるのではありません。それだけなら、私の心に響くことも、共感できることもなかっただろうし、人の心に神の愛を伝えることも出来なかったでしょう。つまり、新興宗教に過ぎなかったでしょう。
 
キリストは、知る限り、最高の、人を見抜く洞察と、人に対する共感を持ち、そして、神の愛と神への恐れについて最高の理解を持っておられました。そのことを抜きにして、キリストを語ることは、決して出来ないのであります。神聖は、楽山のインスタント屁理屈で表されるような御方ではないのです。
 
 
分別のない放屁

分別のない放屁
 
 
(2021年)
(2022年07月25日、再録+加筆)

 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
 
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
鏡を震わせ抜いて
しきりに白髪を流す
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このような激流の聖域では
手も足も不用だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみに向かって
夥しく浮き沈む白い眼の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道をふわふわ舞っている
そんな空気にのんびり
吸われながら歩いていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
切られたものが見当たらない
 
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
目の上にピッ
何かが撥ねた
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
 
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
 
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
  何やら扉
 
人は扉を開けると
何やら進んだ気分になったり
何やらほっと安心したり
何やら沈んだ気持ちになったり
何やら引き締まった気になったり
何やら元気になったりもするらしい
 
開けなければ始まらないと
人は数限りなく扉を開けてきた
そのたびに人は忘れ物をする
しばしばとても大切なものを忘れる
ときには忘れ物をしたことさえ忘れる
開けた扉は閉じられる
扉は大方オートロックである
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
>>「山や森を見ず、 枝葉を並べても、 大地を論じる事はできない」
先日、他の信者さんが、『仏陀再誕』『永遠の仏陀』を重要書籍とし、HSの信仰のあり方として、現成の仏陀への帰依を説明してました。
これを枝葉扱いする詭弁を吐いても無駄ですよ。
午前9:40 · 2022年7月24日
 
楽山は、山の高さも森の深さも知らないのに、まともなつもりで、枝葉を語ります。楽山は、一度も、宗教と信仰の本質を語ったことはありません。それらしい言葉を並べるだけです。楽山は、深い情緒が欠けており、ごまかすために、言葉だけの知識にこだわって、いつまでも無駄口を叩いているのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
今でも、『仏陀再誕』『永遠の仏陀』は特に大切な書籍なんだ。
当該書籍から信仰についての記述を引用したら、「枝葉を並べてもだめ」というようなことを言う信者がいたんで、今は枝葉扱いされてるのかと驚いたが、この信者が不勉強なだけだったんだろうな。
午後7:22 · 2022年7月23日
 
楽山は、アンチHSを自認していますが、HSの経典を「大切な書籍」と言っています。楽山は、HSを深く知っている自覚から「枝葉扱いされてる」「この信者が不勉強」などと言っています。HSを知っている自分を出して、他者のHS不勉強を蔑んでいるのです。偽者アンチの証拠でしょう。
 
HSにも、アンチHSにも、楽山の居場所はないと思います。自己中心の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、誰とも心が通じ合わず、世辞のつきあいだけなので、結局、最悪の裏切り者として、末路は孤独と離人と崩壊しかないのです。楽山に関わらないでください。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ていうか、『仏陀再誕』で現成の仏陀への帰依が説かれており、これがHS信仰の基本であることは覆しようのない事実だろうに。
これに異を唱えるのは無理だって、なんで分からんのかね。
午後0:16 · 2022年7月24日
 
アンチHSのはずの楽山が「覆しようのない事実」と言って「HS信仰の基本」を語っています。HSは自分のものだ、自分が教祖だとでも言いたいのでしょうか。「異を唱えるのは無理だって、なんで分からんのかね」・・HSの擁護者にでもなったのでしょうか。楽山の立場と理路が崩壊しつつあります。
 
 
>★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏はいろいろ書いてるけど、邪推、妄想、決めつけ、嘘、自分語りばかりで、客観的な事実については全然といっていいほど触れてません。
これじゃあ、話にならんよ😩
午後0:11 · 2022年7月24日
 
根拠と理路で説諭するのではなく、相手の言うことを「邪推、妄想、決めつけ、嘘、自分語りばかり」と決めつけ、否定する文言だけ並べて「これじゃあ、話にならんよ」と、感情的に、けなし、否定しているだけです。結局、こういう言葉で決めつけるしかないのが、楽山です。
 
楽山は、宗教無理解がバレないようにと必死です。そして、終わりに、困惑の顔マーク絵文字です。こうやって、成り立たないことを言って、通したつもりで満悦して、楽山の一日は終わり、その繰り返しで楽山の人生が終わりに向かう。これも嘘と詭弁で騒がせてきた報いと言えば報いなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
この3年余りで明らかになったこととして、楽山には、高等感情による感性がないので、宗教も信仰も理解不能です。だから思いつきだけの嘘と詭弁を弄して書いてきますが、それは極めて迷惑で有害です。異常な疲労をもたらし、人格を鈍麻させ、混乱させ、さらには破壊する恐れがあります。
 
 
 
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  楽山の悪用2
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子著
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、キリスト者(信仰者)でもないのに、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 
 
「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。
 
「人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている」・・これは、人間だから、信仰に疑いはつきものだという意味です。人間としての信仰者には共感できることです。信仰の欠片もない楽山が、これを書いているのは、反キリストの企みであり、余計なお世話なのです。
 
反キリストである楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 
 
次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。
 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。何も明らかにできず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を、信仰者と読者に刷り込む企みの詭弁です。
 
 
そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。
 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・真っ赤な嘘です。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりません。つまり100%の信仰など気色悪いばかりで、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。
 
楽山は、自身のカルト教祖願望の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊だけの我欲のために悪用するような、楽山の言を信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。楽山は、キリスト教を1%も理解していません。
 
 
そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。
 
信仰を字面の小理屈で語り、否定したり、肯定したりして、しかも、嘘を吐き、かつ、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしている楽山は、求道する心がないために、それこそ、信じる心の1%の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
嘘や詭弁をチャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、発言の断片だけの悪用であろうと思います。狙いが、とても、卑しいのです。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山は、その作為のわざとらしさから、3年余り、どこにも見るべきところがなく、ずっと真っ黒だと思います。
 
信仰は有無であります。何%ではありません。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この1年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)を見て、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類で、理路が成立しません。
 
楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。人のことを言う資格の全くない人であり、自分の不能に、全く不覚の病者であります。
 
 
福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。
 
「ミスを認めることができない」「我が強い」「間違ったということが認められず」・・楽山に当てはまることが書いてあると思います。「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」・・楽山の宗教批判を貫く妄想です。
 
楽山という無神教カルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないのです。児戯にも等しい思い込みから書いているので、書いた文章に斬られる結果になっても気づきません。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性があります。ゆえに、体質として未熟で浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきています。
 
まさに、我が強く、いつまでも、いつまでも、楽山自らの過ちを認めることなく、自分が正しいと判断した自分は正しいという循環に陥って、自覚なく、自分には本質を見抜く眼力がある、という自己催眠によって、書き続ける亡者となっているのが、楽山その人です。
 
 
自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、
 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、楽山の嫌らしさと愚かさが増幅されて表れるだけなのです。自己顕示欲のベースから何を書いても、表れてくるのは、人に向けた悪口が自分に返ってくるブーメランだけになり、いかなる救済の余地もなくなってゆくのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習障害だけではなく、感動経験のなく鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機だけで、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 
 
それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。
 
「思い込んでしまったら」「修正することは困難になることはよく分かっているつもり」・・まるで分かっていません。幼稚な先入観と偏見に凝り固まっている訂正不能が、議論不能となって、今の楽山を作っているのです。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型動物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、無反省と無責任で、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある成長可能な人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、という単純なことです。よって、楽山の、言い訳がましく人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ批判を貼りつけてゆく方針です。
 
 
自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。
 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の言辞を平気で続ける、人の間違いを言っても、自分の間違いを真摯に認めたことが一度もない、というような者には、出てくる文章ごとに、批判を当ててゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という判断が、3年余りの間に、減ることはなく、次から次に、積み重なってきました。
 
そういう嘘とともに、楽山が、シャロームの反キリストの信条に賛成したのが、実に、遠い昔のように思われますが、今に至るまで、訂正などは、一度もしたことがないのです。
 
他者に「頑張ってほしい」と言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者が、言論のブログから去るまで、甘く見てはならず、妥協してはならないのです。
 
 
そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。
 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、今は、もう、誰も、だまされてはいけません。楽山は、神ではなく、人として欠格している自分を、インテリ気取りで飾って自己顕示してくるだけの異常者なのです。
 
楽山は、精神的な疲労だけを与える人であり、青空を曇らせる人であり、何の実感もなく字面のきれいごとの無感動を並べ、高慢によって膨れ上がり、経過と結果において情緒障害を来たして、まともに見せかける芝居だけで、口先だけのインチキを、インテリに見せかけようと必死です。
 
楽山は、自分を見つめるという機能を育て損なっているので、他者のことばかり云々していますが、知性と共感性がないために、わがままな幼児が拗言(すねごと)を繰り返すような堂々巡りばかりしています。そして批判というより揶揄になって、ニヤニヤ笑うのが生き甲斐となっているようです。
 
 
破綻者の気取り

破綻者の気取り
 
 
(2020年)
(2022年07月02日、再録+加筆)
 
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
 
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
  ルナティク・顔 (冬)
 
世馴れした顔が気軽に友と呼び
話す語尾の後にハ行とも?行とも
濁音とも清音とも
撥音とも促音ともつかぬ笑いを付けて
きっぱりと冷たい締めを弛ませる
 
世馴れできない洟(はな)垂れ顔は
やりきれなくて夜独りああ~と笑う
二つ目の「あ」に濁点をつけて
ときに強勢を付け語尾を上げてまで
 
それは血迷いの狂(ふ)れ姿か
少なくとも装うのではなく
自己の在るべき領域が崩れゆくとき
隠せなくなった濁りも澱(おり)も灰汁(あく)も
何もかもが締まりなく流れ出しているのだ
 
それで少しでも楽になるなら
目一杯溜められるだけ溜めてきた生ゴミの
袋の破れ目から液汁は流れるだろう
(それで少しでも楽になるなら)
 
人に物に風景にまで
蔑(さげす)まれ責められるかのようなとき
夜ふらりと外に出て空を眺めれば
手に受けようとする白い息を散らせ
顔を刺すような寒気の向こう彼方に
月も星も冷たくきっぱりと無関係
どうしようもなく有り難く無関係
光り輝く無関係
泣くことを忘れた顔に
目汁鼻汁冬の夜
 
 
  主観
 
今が一番幸福なのかもしれない
と考えることがある
過去そして人生は大方
現在によって評価される
今が不幸なら
過去のいかなる幸運も
転落のための落差に過ぎない
今が幸福なら
過去のいかなる不運も
懐かしい思い出になる
未来だけでなく
過去も変わるのだ
 
未来はもちろん変わりうるものだが
どこへ向かおうとしても
門があり玄関があり
守衛か受付が居て
冷淡に丁重に
断られ拒まれそうな現在に在って
ただ自分にとって大切な
一片の希望を捨てない限り
未来も現在も
それゆえ過去も変わる
 
底の薄い小舟
揺れる細い吊り橋
踏めば破れそうな床
進むしかない
希望よりも見通しの利かない
過去の移ろいへ
 
今が一番幸福なのかもしれない
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)される
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山とは数か月コメントの遣り取りをしたことがあります。疑問を指摘しても、的を射た返事はなく、自らの同じ前提でしか応答しません。だらだらと続く応答に異常に疲れました。ゆえに、楽山とは二度と遣り取りはしません。楽山が楽山のサイトに何か書けば、それを批判対象にするだけです。
 
楽山は、否定を書き、肯定を書き、断定していないのだから、責任問題は生じないと言いました。。楽山は、否定すれば否定の、肯定すれば肯定の責任が、その都度、発生することを弁えていません。小学生以下の未熟です。楽山は理路を組み立てられずに詭弁に走る幼児性の嘘吐きに過ぎません。
 
自己中に固まっている楽山は、誰の味方にもなれません。何かを批判するときに楽山に頼ってはいけません。楽山は、図に乗れば乗るほど頼った人を虫食んでゆく寄生虫です。深みにはまる前に離れてください。自分の体験を語り、気持ちを語ることが、誰かを頼るより、はるかに人を動かします。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
またもや棒氏は、ストローマン手法で嘘をばらまいてる。
私の意見は「アンチは悪い事はしてない」というのではなく、「棒氏は、自分がアンチにしたことをやり返されてるだけで自業自得だ。自分の加害行為を隠して、被害者コスプレしている」というものですよ。
 
「自分の加害行為を隠して、被害者コスプレしている」・・楽山のことでしょう。被害の自覚はあっても、自分の、無反省、無責任、詭弁などによる加害を無視していられる体質の病気なのです。これは、自己愛性人格障害から来ているので、人格を批判し続けることになります。
 
もはや、楽山は、人間としての良識と感受性が欠落して、反省も出来ないわけですから、言論者としては成り立たないのです。まだ、ふつうみたいに、物を言ってくることが、症状であり、こういう人には、関わることが、何らかの影響を受けることが、既に、病魔にさらされることになります。
 
楽山自身が、既に、ストローマンあるいは藁人形か案山子(かかし)のように、実体が無いのかもしれません。だから、楽山は、好きなように屁理屈を宛がって、かつ、責任を負わないのでしょう。もはや、人間を相手にしているとは思わないほうがいいと思います。
 
楽山は、ネットというバーチャル世界でのみ存在に見えているゴーストだから、いつでも好きなように物を言って、無反省で無責任でいられるのでしょう。ネットは無責任と言われますが、それを、空っぽの人格で体現し、害だけが働いている状態なのでしょう。だから何も感じない案山子でいられる。
 
ネットだけの存在ということは、実体のないゴーストと同じです。だとすると、楽山の発言は、バーチャルのゲームのようなもので、言ったら言いっぱなしの無責任ということなら、放屁と同じようなものでしょう。そう言えば、楽山の発言には、一度も、感動も感心もしたことはないのでした。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法は、『仏陀再誕』で、仏陀である自分を信じないのは偽物の信仰だとし、
『フランクリースピーキング』では、イエスの悟りが掌の上に見えたと豪語し、
『永遠の仏陀』では自分を信じることを止めれば地獄に堕ちるとしてます。
幸福グループで説く信仰には、こういう一面があります。ご注意を。
 
このように、楽山は、カルトの奇妙な発言を指摘し揶揄していますが、一方で楽山自身が超常と心霊への傾倒があるために、理路や感受性が歪んでいます。そのために、霊が分かるっぽい自覚だったり、思考が、まとまらなかったり、平気で嘘を吐き、詭弁を弄して、印象操作や、刷り込みをしてきます。
 
楽山は、言論の基礎である公共の福祉に合わないような、趣味と真実追求を混同して、宗教を趣味的に扱ったり、調子外れに長い記事や引用を書いたりします。ゆえに、人を批判する資格はないと思うのですが、自己顕示欲がどうしても働いて、執拗に、自身の地獄を表しています。
 
今さらのように「ご注意を」と、HSを批判するのも、正常人そして賢者アピールなのでしょう。しかし、無反省、無責任、無視、無頓着、無神経、無節操な書き方を止めることが出来ず、自分の状況が分からないままです。ご注意を、というより、警戒、にとどまらず、近づかないようにしてください。
 
どうしても、我執から、評論家気取りや、インテリ気取りで、やっていけるという思い込みが、妄想的な前提になっているのでしょう。ここでも、人の悪口や異常を振り撒きたいようですが、楽山の異常のほうが、楽山が隠している分、災いが大きいのです。どうか、楽山の発言を受け取らないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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