ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ブーメラン

 
  楽山は嘘吐きの権化
 
 『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』片田珠美著
 2021年09月05日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
(ネットより)
片田 珠美(かただ たまみ、1961年 )は、日本の精神科医。
 
最初に、このテーマは、楽山に当てはまることです。結局、自分が斬られている文章なのに、気づかないで、利用しようとしている楽山の悪意と、度重なる醜態を、批判として書いてみます。
 
なぜ、楽山は、批判に何も答えられないのに、平気で書いてくるのでしょう。人格に根差している自己正当の妄想があるからです。どんな不都合もオートマチックに、人のせいにするのです。こういう無反省・無責任は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状です。
 
*きっかけ
タイトルから、とある新興宗教の教祖を連想したので試しに読んでみた。いろいろと参考になるところがあったので、その部分についてメモしておきたい。
*空想虚言癖
まず著者は、空想虚言癖の人は、つじつま合わせが巧みだとしている(下線は楽山による)。
 
楽山は、嘘と詭弁を弄する反キリストですが、辻褄合わせが巧みではありませんので、よく読めば、詭弁だらけです。楽山のデタラメの理路と嘘は、既に、バレているのです。
 
妄想を抱いている人は、現実世界の事実と自分の妄想が矛盾をきたしたときに、周囲を納得させることができないのに対して、空想虚言癖の人は、新たに虚言を弄し、容易に細部を改変して、周囲をうまく言いくるめることができる。要するに、嘘の上塗りが上手なのである。
(『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』片田珠実著、朝日新聞出版、2015年、p.60)
 」
 
楽山に、そっくり、当てはまります。婉曲表現のボンヤリ言語と、お情けちょうだいのオチャラケ三文芝居で、嘘に嘘を重ねて満悦します。そして、矛盾に矛盾を重ねてゆき、自身の実質を、ますます失ってゆくのです。
 
また、このような人が「だまそうという意図なんかみじんもないようにふるまえる」理由についてはこう書いている。
嘘をついていながら、なぜそんなふうにふるまえるのかというと、自分の嘘を本当と思い込んでいるからだ。これは空想虚言癖の特徴で、自分の願望を投影した空想と現実を混同していて、何が本当で何が嘘なのか、自分でも区別がつかなくなっているからこそ、嘘八百をよどみなく話せるのである。
(同上、p.59)
 」
どうもこれは、いかにもカルト教祖にいそうなタイプだ。矛盾だらけのトンデモ話を、さも真実を訴えるかのように熱く語ったり、「これは永遠の真理だ」と断言していたことでも、その時の都合によってコロコロ変えたりなど…。
 
これも、楽山という教祖願望の強い偽善者に一致します。楽山は、よくもまあ、この引用記事を選んだものです。自己愛性人格障害の楽山は、間違いにも嘘にも気づかない人です。トンデモ話を、さも批判しているふうに語りますが、実際は、自己満悦だけの楽山がトンデモなのです。
 
*信じ続ける人
こちらでは、嘘を信じ続ける人の心理が説明されている。
嘘つきの周囲には、嘘をつき続けることを可能にし、ときには嘘に拍車をかけるイネイブラーが存在することが多い。一度イネイブラーになってしまうと、嘘の呪縛からなかなか抜け出せない。誰かを信じるということは、その人を信じている自分を信じることでもあるので、嘘の証拠を目の前に突きつけられても、なかなか受け入れられないからである。
(同上、p.41)
 」
 
(ネットより)
イネイブラー(enabler)とは、嗜癖その他の問題行動を陰で助長している身近な人のことをいいます。「世話焼き人」などと訳されることもあります。
たとえば、表向きには夫のアルコール問題で悩んでいるように見える妻が、じつはその問題がなければ自分の価値がなくなってしまうために、夫のアルコール依存を陰で助けている場合などに用いられます。
日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン
(URLが20行くらい、恐ろしく長い)
 
イネイブラーは、付き合いが、ズルズル続いて、他に行きようのない人のことでしょうか。私が、たびたび、近づかないように関わらないように言っているのは、まさに、このためであります。楽山の書くものは、その丁寧そうな表面とは、かけ離れた危険な誘導に満ちています。
 
恥ずかしながら、これは自分にも心当たりがある。
以前、とあるカルトから退会するときに、上で指摘されているような呪縛から抜け出せずに苦労したので…。
 
楽山は、自分が被害者であるかのように言っていますが、真っ赤な嘘です。楽山は、イネイブラーを作る人です。誰かを信じるなどということはありません。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自尊以外を必要としません。他者は、支持者か奴隷くらいにしか見ていないと思います。
 
少し詳しく説明すれば、
①教祖を信じる(教祖は本物だとした自分の判断力を信じる)
②教祖を信じない(教祖は本物だとした自分の判断の間違いを認める)
という構図になっていたので、②を受け入れるのは、いらぬプライドのせいで難しかったのである。
 
楽山は、自分のほうが上だ、自分が教祖に相応しい、というような構図になっていると思います。だから、ホラー映画も、HSの映画も、右翼の偏りも暴言も、大好きなのです。楽山は、超常世界と現実世界を、ごちゃ混ぜにした世界チャンポンなんでしょう。
 
何も知らない人が楽山と遣り取りをすると、丁寧でバランスのとれた人、と好感をいだきますが、付き合いが続いて、楽山が、人の意見に対して不感不応の、的外れ応答の人だと気づいたときには、精神の疲労から、人によっては、すっかり鈍麻人間になっている、それが楽山症候群なのです。
 
*嘘を見抜く方法
本書には、嘘を見抜く方法についても書いてある。
相手の言うことが何となく妙だなと感じたら、その違和感を封印してしまわず、アンテナを張りめぐらすことが必要だ。じっくり観察し、分析しているうちに、相手の正体が見えてくることが多い。
(同上、p.154)
相手を過大評価してしまうと、どうしても目が曇る。そうならないようにするためには、どんな話でもうのみにせず、なぜこんなことを言うのか、こんなことを言う意図はどこにあるのか、などと常に考える習慣をつけなければならない。
(同上、p.153)
他人を疑ってはいけないと思うあまり、自分自身の感覚を封印してしまうのは危険である。そんなふうに感じるときは、これまでの経験や知識から用心しなければならないと本能が自分自身に警告しているのだから、自らの嗅覚を信じるべきだろう。
(同上、p.161)
 」
 
楽山に対して、分析、意図を考える習慣、自分の感受性を注意深く意識して維持する・・こういうことをしないでいると、人格が、鈍麻し、破壊されてゆきます。うすぼんやりとした楽山の奴隷的コピーが出来上がってしまうのです。イネイブラーと言ってもよいでしょう。
 
楽山は、柔らかい表面を装い、鈍いのに、毒の牙を隠し持っていて、喩えるなら、毒を持つ毛虫のような男です。この毛虫には、刺されたことに気づかないことが多く、気づいたときには、心の大事なところに、少なくないダメージを受けているのです。
 
「なんか、おかしい」という直感は大事にする、個人崇拝や権威主義に陥らないように注意する、相手の話をうのみにせず、自分の頭でよく考える…これらはどれも正論だと思う。
 
私は、ある時点で、楽山が「なんか、おかしい」と感じました。そのうちに、疑問は、楽山の、理路が詭弁であること、感性が乏しくて月並みな褒め言葉や感動言葉を多用すること、無反省・無責任であること・・などを再三にわたって感じて、批判に転じる決心をしました。
 
*過剰反応
著者は、嘘つきの特徴として、他人の嘘に対して過剰反応をしめすことを挙げている。自分自身を相手に投影したり、自分は嘘つきではないことをアピールするためにそのようになるのかもしれない。
こうした否認は、他人がちょっとでも嘘をつくと激しく責めるという形で表れることが多い。
(同上、p.22)
嘘つきほど他人の嘘に敏感なようだ。 
(同上、p.23)
 」
 
この楽山の記事のように、自分を棚に上げて、他者に対して、逆の過剰反応を示します。他者を批判して、自分を見ないのです。そして、正常人でアドバイザーであるかのようなアピール芝居をします。楽山という嘘吐きは、自分の嘘について恐ろしく鈍感~不感です。
 
こういう指摘を読むと、とある新興宗教は、批判者に対して、ちょっとした記憶違いに対しても、悪意ある嘘だと決めつけて非難していたのを思い出す。
他人に対してやたらと差別主義者呼ばわりする人こそが、もっとも質の悪い差別主義者だったということがあるけれども、嘘つきに関してもこれと同じなのだろう。
 
楽山は、記憶力が悪いので、他者の反応が過剰に感じられるのかもしれません。その善後策として、否定し、のちに肯定するなど、責任を負うこととは逆の、自己正当化の策略を用いるわけです。そういう正当化は成り立たないことを知らないからです。このいい加減さは小学生にも劣ります。
 
*これから
著者の本は、『他人を攻撃せずにはいられない人』は読んだことはあるが、他はあまり読んでいない。これを機に他の著作も読んでみたいと思う。
 
楽山が、いくら、読書したつもりでも、受け取って考えることをしないのだから、結局、自己正当化の材料を漁っているだけだと何度も書きました。楽山は、無視して、ずっと読書家気取りで、病害をまき散らし続けています。
 
楽山は、自己愛性人格障害によって、くじけることのない不感不応を貫くことが出来ます。他者を、平気で無視できて、平気で侮辱できるのです。ふつうは出来ません。精神病質ならではのことです。別の言い方をすれば、楽山は、関わる人をイネイブラー化するエナジーバンパイアなのです。
 
自分が言われそうなことを、人に当てはめて言うのは、以前からの、楽山のやり方です。それが分かっているので、驚きもしませんが、よく書けるな・・と、厚かましさと白々しさには、毎度、呆れるので、その都度、批判の決意を新たにしている次第です。
 
私としては、将来、楽山が、間違っても、症例または犯罪以外の、良い意味でウィキペディアに載ることがあってはならないと思っています。実際、自己愛性人格障害らしいポショポショ言語という気障なしゃべり方をする精神科医は、今も、ウィキペディアに載っているという事実があります。
 
 
 
(ネットより)
 
 自己愛性パーソナリティ障害の診断基準
 
1.自分は非常に重要で偉大な人物だという思い込みがある。それを裏付ける業績や才能を大げさにアピールするが、実際には内容がともなっていない。
 
2.自分の成功、権力、才能、美しさ、愛に関して、現実にそぐわない理想的な幻想にとらわれている。
 
3.自分は一般人とは違う特別な選ばれし者だと信じていて、同じように特別な地位にある人や団体としか関わるべきではない、そういう人たちにしか理解できない人物だと思っている。
 
4.常に他者や世間から、大げさにほめたたえられることを求めている。
 
5.特権意識が高い。周囲は自分に対し、特別有利な対応や意のままに従うのが当然だと思っているが、実際にそのようにされる理由を持ち合わせていない。
 
6.自分の目的達成のために他者を利用する。
 
7.他者の気持ちや欲求や都合を理解しようとしない。
 
8.他者に強烈な嫉妬をする。反対に、周囲が自分の能力や美貌に嫉妬していると決めつけることもある。
 
9.尊大でごうまんな行動や態度が目立つ
 
 
 」
 
楽山について、
 
1、2、3については、学者気取り、インテリ気取り、などの、気取りが筆致に表れています。しかし、それに見合う洞察力や整合性は、むしろ欠けていると思われます。
 
4については、成就しないことからルサンチマン(劣った者に募る怨念)に至る、あるいは、至っている可能性があります。
 
5については、自尊過大で、いつも、言い方だけ丁寧だが、自分の断定を、上から目線で、繰り返してきます。しかし、学習経過が見えてきたことはありません。
 
6については、生活習慣のように有名人の著作を引用して、自己が正当だということをアピールしてきます。しかし、理路は拙劣で、名前にしがみついているだけだと思います。
 
7については、前から書いてきましたが、思いやり、共感性、羞恥心、罪悪感などが欠如しており、高等感情の鈍麻が当てはまるでしょう。経験から学ぶことをしないからでしょう。
 
8については、筆致には、何を言われても書き続ける執拗さとして表れていますが、これが8なのかどうかは分かりません。既に負けていないと思っているのかもしれません。
 
9については、意識して隠している狡猾さが伴っています。そして、謙虚芝居など、かなり、作為的な白々しい演技が目立ちます。
 
内容が伴っていない、特権意識の根拠が無い、などは、如実に表れてきました。理路も情緒も、知性も感性も、正常以下のレベルだと判断しています。
 
 
イネイブラー、嘘が嘘を呼ぶ

イネイブラー、嘘が嘘を呼ぶ
 
 
(2021年09月07日)
 
 
 
 
 信仰について
 
人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。
 
人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔も、その中にある嘘と本当を見抜かれる全知全能の神様に対して、偽りを向けてはならないはずです。
 
また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない場合もあるでしょう。
 
信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性を押し殺すようなことをするべきではない。特に神様の前ではどこまでも正直な告白と祈りができるように努めたいものです。
 
 
 
 
 すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
(昔々の・・)
「あなた」は初恋の人か。神・キリストではないようです。
 
 
 
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  楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書けば、根拠もなく、自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労だけを与えられることになります。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
 
ここに、神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、自分がそうだ・・とでも言いたいのでしょうか。しかし、当然ながら、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格も最低という人もいるわけです。
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
宗教や思想以外にも病的人格によって人を自分より低く見て決めつけて書いてくる楽山のような者もいます。そういう者は、理路も感性も無いので、そういう者に過小評価されることには何の意味もありません。評価そのものが、出来ない人なのです。自分の評価だけ、有頂天なのです。
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的な立ち位置を言っているようですが、楽山に立ち位置はありません。自らを過大評価しているだけの者には、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。したがって、楽山に、保守も革新もありません。今も、最低の自惚れが、楽山を動かしているだけです。
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。それで、「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な、別の分野です。
 
楽山は、自分を飾る材料として、字面だけで、意味を理解していないから、なんでもかんでも、いっしょに見えるのでしょう。そして、無知蒙昧の、とてつもなく思い上がった山上の快楽の奇態を晒してゆくのです。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる者の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように、並んでいるという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしている詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき的外れの悪意の人です。
 
無反省の自己中になると、公平などというのは最初に無視されていますから、言葉の字面だけを振り回すようになります。その手段が、刷り込みと誘導のための見かけの丁寧語、すなわち、根拠のない婉曲のボンヤリ言語です。
 
そして、ときに、反省や努力などの、言葉だけ書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、はっきり断定することが出来ないことから、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っているのでしょう。それで、賛否両方なら何を言ってもよいという言い方で責任を負わないのです。
 
推測ですが、例えば、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、結局、何も語っていないのと同じであり、また、何も受け容れていないということでもあります。そんなもので、だましてくる楽山を、信用してはいけません。
 
楽山の視野には、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間らしいし、主張を変えたときには、ちゃんと修正したというメッセージが、ときには、謝罪が、必要だという人間の必然的な視野が欠けているのです。恐らく、真剣には、何も考えていないのだと思います。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、成り立たないことを主張したり、それを知っている?自分が、自分で、中庸かつ冷静な言論者気取りのような自覚になって言い続けることは、それを公表してきます。
 
他者が読んで受け入れてしまうと、その先に刷り込まれる影響が、楽山ん本人に起こっているのと同じような鈍化のプロセスを通して、人格破壊の病因となってゆく危険があります。楽山の無反省と無責任は、受け入れることで伝染します。
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 
これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。
 
他者を、面倒臭くさせ、疲れさせ、傷つけ、壊してゆくのが、楽山です。今さら、改めて書くのではなく、早く書くのをやめることだけが、世の中のためです。
 
ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。
 
いちばん自分を客観視できない自己愛性妄想の楽山が言っています。こういう、病識のない、見え透いた自慢を書いてくることで、自信ありげに見せかける狙いでしょう。
 
楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」
 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・まさに、楽山の持ち物です。
 
本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。
 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているつもりの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。( )内が、楽山の補足のつもりでしょう。
 
楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。嘘と詭弁だからです。そういう人に、証明を・・と言われるのは、気の毒、不運としか言いようがありません。
 
この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。
 
真否と是非という重要な問題を、特殊という自覚に、ズレを解消する問題に、すり替えています。楽山が、解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。楽山は、誰よりも対話のズレがあり、殆ど通じないレベルであり、偏見と先入観だけなのです。
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」
 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。さらに、楽山は、「きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」と言って、自分はきちんとしていることを、暗に宣伝しているところです。やはり、教祖願望があるようです。
 
どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり
 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
 
一例をあげると、↓
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」
 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。楽山は、どちらでもなく、自分が、いちばん、客観的だから、偉い・・と言っているだけなのです。
 
今まで、自分勝手な、妄想的で、先入観的な、小学生レベルの、幼稚な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。つまり、「仏教もキリスト教も正式に学んだことがない」のは、楽山その人です。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解できないのだと思います。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。
 
対話になっていないような気もします。どっちが批判者なのでしょう。ひょっとして、独り芝居だろうか、全部、独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、独り芝居をして代償している自慰行為ではないだろうか、などということも考えています。
 
シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同の事実も頷(うなず)けます。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また、否定もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の詐欺師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して、近寄らないでください。待っているのは疲労と破壊だけです。
 
 
霊が零となる日

霊が零となる日
 
 
(2020年08月26日)
(2021年08月28日、再録+加筆)
 
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
 
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
 
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
 
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
 
見て見ぬふりのあなた
 
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
 
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
 
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
(かなり昔の作)
 
 
 
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