ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ペテロ

 
  情欲の聖句(2)2
 
 
何度か、引用してきた情欲の聖句であります。情欲にとどまらず、キリストの洞察と立場に深くかかわる問題であることを知ってほしいと思います。キリストの教えを、安易な道徳に貶めることのないようにしてください。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
これが、守れ、という教えでないことは明らかであります。性欲は湧いてくるものであって、異性への性欲については、ホルモン系の病気の人や、趣味の違う人以外では、男は、必ず情欲をいだいて女を見るのであります。
 
それがなくなったら、セックスという不潔で面倒臭い行為など、誰もしないでしょう。つまり、この聖句を、文字通り守ったら、人類は滅びるという矛盾律なのです。ですから勘違いしてはいけません。それに、姦淫は、偶像崇拝の意味で使われることもあります。
 
つまり、ここでは、異性愛について言っておられますが、異性・同性を問わず、みだらな思いを戒めながら、その思いが、断ちきれない人間の性についても、キリストは、当然、洞察し、理解し、大きく包み込んで、言っておられるわけです。
 
この教えを、嘘の解釈をして、女というのは人妻のことだから、人妻を色の目で見ないようにしましょう。あるいは、できるだけ、控えるようにしましょうね、などというような、安っぽい道徳に、おとしめることがあってはなりません。
 
福音は、人の道徳で説明できるようなものではありません。キリストは、神を信じて戒律を守っているから正しいと言っている者たちを、敵対者として、強く意識しているということです。それは、パリサイ人や律法学者や祭司、またその信奉者に他なりません。
 
つまり、前にも書きましたが、この教えは、情欲をいだかずにおれないのだから、罪は、まぬかれない。ゆえに、総ての人は、罪人であり、正直な祈りによって、俗のほうから、神のほうへ、方向転換することが必要だと言っているのです。
 
さらに、厳しい、というより、守るのは不可能、と思われる教えが続いています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:29
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 
5:31
また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 
5:32
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
 (マタイ5:29-32、新約聖書)
 
この厳しさも、そのまま、守れという教えではありません。ただの誇張でもありません。キリストは、人が、教えを守って完全になることなど、決してできないことを、既に、ご存知だということです。
 
ここにおいて、キリストが、強く意識しているのは、こういうことをしているから、あるいは、していないから、罪はない、という行為義認への痛烈な批判であります。その批判は、パリサイ人などの戒律主義の偽善者に向けられていることを理解するべきです。
 
人間が、ちょっとばかり、形だけ、善を行い、悪を避けたつもりでいることなど、神の前で、正義などと言えるようなものではない。つまり、人間は、罪を犯さないようになって神のように正しくなることなど決して出来ない、ということを前提に言っておられるのです。
 
 
キリスト教と信仰を、道徳と同じように考えて、正義の神はなぜ悪を放っておくのか、などと、人が神を扱い裁くような理屈で、机上で神?を否定して、宗教を信じ過ぎないほうがいいみたいなことを書いている楽山という反キリストがいるので、書いています。
 
私たちは、筋が通っているから、矛盾がないから、正義だから、神を信じているのではありません。神の正義は、神秘であり、決して、人に理解することは出来ません。私たちは、祈る相手がいるという救いの一片によって生かされて、信仰者となるのです。
 
人が、神を理解することは不可能です。神の筋道も、神の整合性も、神の正義も、私たちは、地上で理解することはありません。完全ではなくても理解できることはあるだろう、という主張は、それ自体が、不完全な理解による正義であり、神の正義に遠く及ばないものだと承知するべきです。
 
人間は、たかだか安い道徳を守ろうとする程度ですが、しばしば、善と悪を間違えて、偽善で納得したり、合理化したり、言い訳したりもするわけです。だから、人の善悪の認識と判断など、殆ど、生きる支えにはならないこと知った人が、信仰を求めるのだろうと思います。
 
私たちは、イエス・キリストという仲保者によって導かれています。信仰は、道徳ではありません。だから、道徳と正義の視点から、神とキリストを否定することは不可能であり、同時に、また、肯定することも不可能です。つまり、私たちは、正義によって、信じるのではないということです。
 
キリスト者は、キリストに絆(ほだ)された者、言い換えると、キリストに絆されることで自由を得た経験がある者であります。大事なことは、理屈ではなく、心に与えられます。
 
キリストの、人間を洞察し、人間に共感する愛を知った人は、それを忘れることが出来ないゆえに、キリストを、人生の同伴者、そして、唯一の希望として、仰ぎ続けているということです。
 
それゆえに、信仰者は、ごまかしや、勘違いや、安い道徳や、安易な理屈に、落ち着いてはいけないのであります。信仰は、正義の人になるためではなく、正義を求める人としての活性を失わないために、その活性が何であるかを知るために、与えられます。ゆえに、福音と呼ばれます。
 
私たちは、常に、途上にあり、望まれているのは、完成することではなく、努力し成長することであります。私たちは、民であって、神ではありません。私たちは、完全になるのではなく、完全ではないこと知って、学び、成長することが望まれているのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
21:16
またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 
21:17
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
 (ヨハネ書21:15、新約聖書)
 
復活の主イエス・キリストは、ペテロに、三度、同じことを問うています。その前に、十字架の時、ペテロは、三度、キリストを知らないと言って、裏切っています。
 
私たちキリスト者は、何度、問われるでしょう。私たちは、何度、裏切っているのでしょう。キリストは、人が裏切るという罪の性質を、既に、ご存知です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:31
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。 
26:32
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。 
26:33
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。 
26:34
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 
26:35
ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
 (マタイ26:31-35、新約聖書)
 
ペテロは、自分の覚悟をキリストに誓いますが、キリストが、既に、裏切りを見抜いておられます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:69
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:70
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。 
26:71
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:72
そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。 
26:73
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。 
26:74
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 
26:75
ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
 (マタイ26:69-75、新約聖書)
 
私たち信仰者は、何度、キリストを裏切ってきたでしょう。
 
この話は、ペテロの裏切りをを責めるための話ではありません。誰もが、裏切りという罪を犯すということを、キリストは承知の上で、生き、死に、滅びることなく、よみがえり、救う御方であるということを、私たちに、伝えているのです。
 
 
洞察の深み、共感の慈愛

洞察の深み、共感の慈愛
 
 
(2021年12月11日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、後悔、反省、自覚、などの高等感情が欠けています。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。超常に遊んで、狼狽して、自己正当化することしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山のように、神の見ているこの地上で、自分を、他者に大きく見せようとするのは、信仰とは全く逆方向の欺瞞です。信仰者は、正直な祈りを心掛けるべきでしょう。返答に窮すると讃美を繰り返す偽牧師シャロームshaom と、楽山は、仲間か、同一の成りすましだと思います。
 
 
 
楽山は、ツイッターでHS批判を続けているつもりのようです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
アンチは表舞台には上がれない陰口の王者だ
 」
ORは、世界宗教者会議というような表舞台には上がれてない。政治の舞台にも上がれなかった。
朝ナマで、オウム教祖と直接対決できたのに出席しなかった。
この批判は、ORも当てはまりますね。
 
楽山は、アンチではなく、インチキだとバレても、批判しているふうを装って、現実の立場を、捏造し続けています。結局、人のことを言って、自分が、陰口の王者に、つまり、またしてもインチキぶりを自ら証明しているのです。陰愚痴のペテン師です。
 
楽山は、批判をしないと、何の立場もアイデンティティーもなくなるので、不細工に、あがいているだけです。既に、今まで、だまし、偽ってきた履歴が残っているのだから、引っ込む以外にないのを、批判し続けることで、ますます、不潔な涎(よだれ)になってゆきます。
 
他者のことを「表舞台には上がれてない」「政治の舞台にも上がれなかった」・・これこそ、今の楽山の、欠格の醜態の口だけであり、いかなる正当な出席の事実も資格もない実情なのです。直接対決できず、まともな反論も出来ず、誰にも相手にされないまま年を取ってゆくのでしょう。
 
今回も、楽山の発言が、楽山を否定してゆきます。人を責めることでは、決して、自分を上げることにはならないという典型例です。言えば言うだけ、みじめさを増して、楽山に当てはまってゆきます。心を学ばず、言葉を学ばないまま、思い上がった偽善者の末路です。
 
カルト教組のようには、持ち上げてくれる人もなく、独りの部屋で、ぶつぶつ呟いて、自己満足するのでしょうか。誰からも愛されず、共感されず、今まで受けた賛同が欺きの犠牲でしかないという現実から目を背けたい逃避の虚数空間が楽山のマイホームなのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
『アンチは相手にするだけ無駄なので、いち早く切り捨てるべき』
アンチ達が「アンチという泥沼」から抜け出る事を望みます
 」
一般論では、合わない人とは距離をとるのが正解。
でも宗教的には、後者のように改心を祈りつつ、待ち続けるのが正解と思います。
 
「切り捨てる」を「距離をとる」という丁寧語で言い換えて「正解」などという楽山の偽善の言い訳です。楽山は、スルーと言って無視する自己中の虫です。今までの泥沼の楽山が、今の楽山を追いかけてくるでしょう。
 
誰も、楽山という底なしの泥沼に堕ちることのないように祈っています。楽山の影響を誰も受けないように祈っています。正直の欠片もなく、改心することなく、祈ることなく、災いを人のせいにしてきた楽山の放言が、楽山を切り捨ててゆくのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
どの時代どの地域にもアンチはいる。
 」
大川隆法は、他の思想や宗教に対してアンチです。
Pさんは、HSや百田尚樹のアンチに対してアンチしてます。
仰る通り、アンチはいつでもどこでもいます。 
 
楽山が、よく使う詭弁です。一般を同じ穴の狢として巻き添えにします。どこにでもいるのだから、自分もいっしょで、悪くないと言いたいのでしょう。汚いです。楽山は、嘘と詭弁にまみれています。こういうのは、真実追求の言論の場に、いてはならないです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
でも私のOR批判は、全体を見た上で、その一例として文言を取り上げるというものです。
たとえば、ORは、自分は仏陀で、創造主で、イエスに我が父と呼ばれた存在だなどと傲慢発言を繰り返してる。
その一例が、イエスの悟りが掌に見えたというものだという風に。
 
我欲の奴隷である楽山は、全体を見れませんし、個別も見れません。何も現実を見ずに、自らの妄想を見て、妄想を通して、現実だと思っているだけです。楽山は、霊が分かるっぽいという自覚で、教祖願望を掻き立てています。そして、自己中となり、人間性を失っています。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
・全体を見ず、一部を切り取り、それに勝手な意味付けをした上でケチをつける
・全体を見た上で、問題点を把握し、その具体例として一部の文言を例示する
 」
この二つは、まったく別のものです。
でもPさんは、一部の文言を取り上げているという表面的なことしか見れてない。これはアカンと思う。
 
楽山には、「全体を見」る視野も、「問題点を把握」する目も、持っていません。楽山は、いつも、理路の言葉の一部をあげつらって、「勝手な意味づけ」をして、「ケチをつけ」てきます。楽山は病識がないので、相手を批判しているつもりで、自分の泥沼を表してしまうのです。
 
楽山は、まさに、「一部の文言を取り上げて」「表面的なこと」しか見れていないのです。いつも、そうであり、それが楽山の体質です。アカンではなく、アウトなのです。楽山は、人間の良心を持たず、全く別のものを持っています。批判者ではなく、批判対象にしかなれない人です。
 
楽山が、人のことを、書けば書くほど、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるところの楽山自身を表します。ずっと、そういう成り行きです。楽山を相手にしてはいけません。関わってはいけません。どうか、楽山に近づかないでください。
 
楽山が、誰かを批判するとき、その批判が楽山を斬る、という、いわば自滅の刃になっています。このように、自己愛性人格障害は、知能は正常のはずですが、自己中のために、考え方が片寄ってくるので、結果として、知性も感性も、狂ってゆくことになるのでしょう。
 
 
 
  まえがき 契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
 
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りてまた一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
 
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
  失恋の歌をかくなら
 
失恋の歌をかくなら
それはたやすいこと
満たされなかった欲望や
裏切られた夢が
今も僕を恨みながら
アルコールづけの胎児の表情で
落ちていく秋を歩ませる
 
ひとりの空 ひとりの道
僕はひとりだ
暗い天井
効き目のない眠剤
かつて幾度も君の夢を見せた
眠りの中に落ちていくのは怖いことだ
 
代わりにペンを走らせてゆく
描かれるのはいつも
光を求めて空を仰ぐ
盲目を拒んだ義眼の洞察
 
書くたびに無力になる
怒りと口付け
死化粧の悲しげな
やさしさだけで
初めて憧れる
遠い旅路の青い海
地の果ての歌
ララ・・・・・
 
 
 
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  信仰の道
 
 
キリスト信仰は、学習の道であります。信じたから総てOKではありません。聖書と人生経験から、祈りと導きから、学んでゆく道であります。洗礼を受けたからOKではありません。
 
神の意志と行為は、神秘、即ち、神の秘密でありますから、儀式は、人にとって、保証ではなく、人からの決意表明であるに過ぎません。
 
キリストを十字架につけて殺したのは誰か。聖書の記事から、それは、パリサイ人、律法学者、祭司、という旧勢力の者たち・・正しいが、不十分であります。
 
キリストを十字架につけて殺したのは、時を超えて、私たちであります。戒律主義・教条主義によるのか、安い道徳、あるいは、勘違いによるのか、さまざまですが、キリストを十字架につけて殺すのは、私たちであります。復活の主でなければ信仰はあり得ないということです。
 
このことから救いがないと言いたいのではなく、キリスト信仰は、決して、悟りの不変の平安の境地ではなく、信じて完全になることでもなく、信じた後も、反省と成長の道であるということです。即ち、教えを守って、正しくなるから救われるのではないということです。
 
信仰は、罪の贖いによる生命保険ではありません。私たちに払える掛け金などありません。ただ正直な祈りだけが、私たちを、神様につないでくれる唯一の音信であります。
 
自分が頼りなくて、自分にうんざりして、自分の欠点や罪を自覚している人に、信仰は救いとなります。宗教や思想にうんざりした人にも、信仰の救いは与えられるということです。
 
自分の欠点や罪を自覚できず認めない者にとっては、信仰は無意味でしょう。そういう者が、あの手この手で、人を惑わしに来ているようです。黙っておれば、結果は、自分のものだけであるのに、人を巻き込もうとするので、要注意、要警戒となっています。
 
 
大仰に、神を讃え、それこそ、命懸け、命を捨てても・・みたいなことを言う者がいますが、そのような信仰のあり方は、既に、ペテロにおいて、失敗しています。神秘の前には、自らの罪と願いを正直に告白し、あとは、恐れて黙する以外にはないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:33
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。 
26:34
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 
26:35
ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
 (マタイ26:33-35、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:69
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:70
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。 
26:71
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:72
そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。 
26:73
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。 
26:74
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 
26:75
ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
 (マタイ26:69-75、新約聖書)
 
私たちには、神の前に誇れるものなど、豪語できることなど、何一つありません。であるのに、人の前に、誇り、勝ちを狙い、豪語するなど、以ての外であります。
 
私たちは、ただ、できることをしているに過ぎないのです。そこには、多くのあやまちや罪もあるでしょう。それでも、できることをする、そして、正直に祈る、これだけしか、信仰によってすることはありません。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
「いちばん大切なもの」
「マリヤとマルタの愛」
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 
26:9
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (ルカ26:7-10、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 
9:21
み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。
 (マタイ9:20-22、新約聖書)
 
神が、人を計るのに、結果の出来ではなく、効率でもなく、善悪の人の基準でもなく、その信仰のみを見ておられることが分かります。
 
キリスト信仰においては、必ずしも、善行を積むこと=救われることとは限らないという、かなり違った意味を持っています。
 
充分に考えたと判断して、効率もよくても、それで、善を施したと思い込んで慢心しては、信仰は台無しになるでしょう。神の完全な善悪の判断と、人の不完全な判断は、大きく異なることを弁えておくべきなのです。
 
神に比べて、不完全な私たちの善行は、高が知れており、ゆえに、信仰においては、できることする、そして正直に祈る、ということを超えるものはないのです。神は、人の信仰のみによって判断されるゆえに、道がハッキリ見えないときでも、できることはあるということです。
 
 
道

 
 
(2021年01月08日、同日一部修正)
 
 
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