ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ペテン師

 
  楽山の放屁・追記3
 
 批判をスルーすることについて
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
 追記分を改めて批判。
 
 
聖書の言葉は、キリストの言葉は、謎解きのように読み解いて自慢するものではなく、私たちの心に、雫(しずく)のように与えられ、折に触れて、生きて活きることを教えています。
 
ゆえに、乾燥した鮫肌に擦られても、ひび割れた地上に倒れても、温もりと潤いに生き続けててくださることを願っています。
 
楽山は、ねちねちと実に言い訳がましい追記をしてきました。自分の言いたいことだけを言って、相手の言い分を受け取らず、自分で勝手に終わったことにしてきました。これは議論ではなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。楽山の優しい言葉は、罠です。
 
 
◇◆ 追記 2020.7.26 ◆◇
*スルーの理由
記事を読み返してみて、ちと不親切と感じたので、スルーの理由について以下に補足説明してみた。
・時間…リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できるだろうが、ネット上の議論であれば、何日も、何週間も続くことがある。人によってはこちらが何も書かなくなっても何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける者もいる。これには付き合いきれない。
 
楽山は、議論など出来ません。賛同者と世辞の遣り取りをするだけです。そして、あたかも、議論したかのように、議論できるかのように、論者であるかのように、見せかけているだけなのです。私の批判記事に、反論も弁明も、一度も成り立ったことはないのです。楽山はペテン師です。
 
「リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できる」・・そんなことはありません。生涯にわたることもあるでしょう。その都度、保留して、整理して、考えてゆく姿勢が必要です。理路を追えない楽山は、嘘と詭弁で、成り立たないことを言って、まともな気でいるだけです。
 
楽山は、あらゆる真実追求の理路において、破綻し、欠落し、妄想的にショートカットして、フリーズして、逃げてゆく人です。その言い訳にもならないことを、また書いてきました。付き合い切れないなら、何も書かないことです。
 
 
・真理…世の中には、真理を多角的に理解できる人もいれば、理解できない人もいる。たとえば、ueyonabaruさんはこのようなコメントをしていた。
1. ueyonabaru2013年05月01日 23:08
さやかさんのお考えは好きです。楽山さんはクリスチャンのような感じを受けます。どちらも、正解。
2. 楽山 (自由)2013年05月22日 19:59
ueyonabaruさん、お返事が遅くなってしまいましたが、コメントありがとうございます。
当方、クリスチャンではありませんが、キリスト教には興味を持っています。とはいっても教会には行かず、自分なりにキリスト教関連の本を読むくらいですけど。
 」
 
だまされた人がいるようです、いや、いたようです。2013年ですか。ずいぶん前ですが、楽山は、そういうところまで持ち出さないといけなくなったようです。気持ち悪さは変わりません。昔は、こんなにも、軽く、だましていた、という思い出話でしょうか。
 
楽山は、反キリストです。楽山が、多角的視野と言っているのは、何も結論が出せず、いい加減に、信じると信じないを、さまようことを意味しています。楽山も、さまよっているように見えますが、実際は、否定して悪用しているだけです。何の助けにもなりません。
 
多角的視野など、楽山は、全く持っていません。折々に多角的に逃避してる人です。批判に何も返せない楽山は、自己満足の自己愛だけで、書いて、だまして、やさしいお人柄ですね・・などと、褒められることが大好きです。くれぐれも、だまされないように、決して、関わらないようにしてください。
 
 
これはつまり、HS教義とは違う考え方であっても、アンチが言ったことであっても、真理は真理だと認識できていることを示している。またその考えが何の影響を受けているのかも分かっている。こういう人とであれば信者とアンチという立場を超えた議論は不可能ではないだろう。
 
意味不明です。「真理は真理だと認識できている」「何の影響を受けているのかも分かっている」・・すごいことを、平気で言っていますが、そういう人はいないので、楽山と議論できる人はいません。何を思い上がっているのでしょう。
 
楽山とは、いかなる議論も、交流さえも、不可能です。しっかりした立場など、楽山にはありません。だから、気持ちよさを維持するために、曖昧なボンヤリ言語で語り、不都合を無視し、反省せず、責任を負わないで済まそうとしていることが、文章に表れてきたのです。
 
 
でもHS教義に合致していないものは真理ではない、アンチがいうのは真理ではない、アンチで退転者の楽山が言うことに真理はないという風に、党派的、護教的な決めつけばかりで、真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論ができるはずもなかろう。
 
すでに、上で、真理は真理だと認識できていると、軽く書いた時点で、真理についてはアウトなのです。楽山の言葉は、病質によって腐っているようです。楽山は、あらゆる人間の真実に背いている卑怯者です。この人に、他者を云々する資格は、全くありません。
 
楽山の、真理は、思いつきのように、あまりにも、軽いのです。かつ、お伽噺かホラー話のように幼稚です。楽山の視野は、おもちゃ箱以上ではありません。病質者に真理も真実もテーマとして扱うことは出来ないということが明らかになってきたのです。
 
「真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論はできるはずもなかろう」などと書いていますが、楽山は、真理の何たるかを語る資格はありません。自己愛の自尊過大に凝り固まって、あらゆる真実に背いているのが、楽山です。
 
有頂天の煽動者、誇大妄想患者、無反省・無責任の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、決して近づかないでください。楽山は、自分の言いたいことだけを言って、後は、雑言だけで逃げ回っている男です。許してはいけません。
 
 
・ケチ…真理を求めての議論なら意味もあるだろうが、無暗な人格批判だとか、否定のための否定だとか、ただ相手にケチをつけたいがための難癖などにはいちいち付き合う気にはなれない。
 
無暗ではありません。根拠を示して、楽山の人格の偏向、自己愛性人格障害と、無益な教え方をしている自己満悦を、指摘し、批判しています。責任を負わず、反論も弁明も出来ないなら出てくるな・・という批判です。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、自らの欠点など非を認めることが全く出来ないのです。そして、いつも、見下ろす視線で、学者気取りで教えたがります。高みから見下ろしている人とは、議論も交流も、出来はしないのです。
 
根拠のない嘘や悪意の詭弁を武器として、無反省で無責任な人格的欠損によって、何事にも、共感できず、感動できないので、共感や感動や反省という言葉だけを多用しています。全部、言葉だけの飾りのオモチャに過ぎません。
 
その嘘を、ごまかすために、専門用語とか、さらに、反省とか、トホホとか、書いてきますが、文脈においても、記事の流れにおいても、何も、良い方向に変わっておらず、芝居に過ぎません。楽山は、自分さえ満足できればよいだけの利己主義の自己中の、嘘吐き、詭弁家、精神の詐欺師です。
 
 
・テーマ…事実関係についての議論であれば、思想、主義、信仰、感性などが異なっていても可能だろう。でも、「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という答えのない問題については、思想、主義、信仰、感性が異なる相手と議論しても平行線に終わるだけであまり意味はない。とくに当事者間に悪感情がある場合は、ただの喧嘩になるだけだ。
 
思想と宗教は、事実関係とは限りません。むしろ、知性と感性の両方を必要とする精神の作業です。しかし、楽山は、理路の調和も情緒の共感も成り立たないために、言葉の字面を細工する詭弁に終始してきたのです。
 
楽山は、自分が出来ないものだから、平行線に終わると言っています。・・平行線は、決して終わることはないのです。放り出して無視するから終わるのです。楽山という基準のない平行線が、ガラス片のように、人を傷つけ、人を滅ぼしかねないから批判を続けています。
 
こういう楽山の言い分こそが、自らの非を認めず、人のせいにする自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状です。思想も主義も信仰も感性も持っていない楽山と、話し合おうなどと思ってはいけません。否定し続けることだけが批判であり、逃げることだけが安全保障であります。
 
楽山は、批判や議論を、喧嘩になるだけと短絡をしています。こういう短絡も、楽山の特徴です。深く感じることと考えることが、楽山は、できないのです。だから、すっ飛んで、他者を無視することに専念し、逃げているのです。一気に楽になりたいカルトの特徴的な習性でもあります。
 
「喧嘩になる」種を、いつも、バラまいているのは、楽山です。そして、無視、無反省、無責任、訂正不能、自己中の誇大妄想なら、議論など、成立するはずもないのです。楽山は、議論の場から、まず最初に追放されるべき男です。
 
少なくとも「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という問題について、「答えのない」「あまり意味はない」と決めつけている楽山こそ、答えもなく、意味もないのです。人間は、人生の様々な問題に直面して、その都度、考えることで成長してゆくのです。
 
 
・公平…人は身内に甘く、敵対者には厳しくなりがちなものだ。だから少々のタブスタはやむを得ないことではある。
 
ダブルスタンダードが止むを得ないのではありません。違う定めに生きている人もいるという共感によって、許容できることがあるということです。それに、楽山は、相手を疲労させることで、既に、とてもいやらしい報復だけをしてきたのです。ダブルスタンダードではなく、楽山には軸がないのです。
 
恐らく、楽山には、本当に身内と呼べる人はいないと思います。共感できない楽山は、規範のほうを、いい加減なものにして、自分かわいさだけで、正当化して、二重規範(ダブルスタンダード)などと言っているだけです。これは、妄想信念による自慰行為です。
 
 
ただそれには程度があるのであって、他人のコピペブログを強くしつこく批判していながら、お友達のコピペブログは殆ど不問に付すとか、自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわりしておきながら、多数からネットストーカー扱いされている問題児が、自分の論敵に喰いついてるのをみて、正当な批判が行われているかのようにいうのは、ダブスタにもほどがある。こういうダブスタ人間とは、意義ある議論は期待できなかろうと思う。
 
「自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわり」・・楽山がやってきたことです。実に、きたない。また、程度などという曖昧な言葉で表されるような問題ではありません。楽山の、自己に慢心している様子が、楽山の発言に表れています。
 
人間の規範は相対的ですが、楽山のように、同時に2つの、特に相反する規範を持っているのは、詭弁であり、人格乖離か精神分裂かもしれません。真実追求とは違う目的があるとしか思えないのです。楽山は、人を傷つけることに快感を感じているとしか思えません。それはサディストと言います。
 
そういうとき、楽山は「疲れたんじゃないですか」などと言うことがあります。気遣いや思いやりなどと思わないでください。サディストが、うまくいったと、独りで満悦しながら、勝利宣言みたいに、上から見下ろして、同情芝居をしているだけです。今までの、楽山の、鈍く冷たく粗野な性格が根拠です。
 
また、批判に答えないまま、反省しないまま、修正しないまま、学習も成長もなく、ネットストーカーのように、自己満足の詭弁の記事を書き続けて、公に垂れ流し続けているのは、楽山のほうであります。つまり、楽山は、ブーメランとなって、精神の崩壊という自分の病理を、自分で語っているのです。
 
 
・地雷…巷には、プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人がいる。こういう人と議論すれば、易怒性を誘発し、面倒なことになるのは目に見えている。触らぬ神に祟りなし。以前はこういう人の存在は知らなかったが、いまはこの手の人物が存在することはわかったし、批判があったからといって、相手がどういう人物か確かめぬうちに、すぐに議論に応じるような迂闊な真似をする気にはなれない。
 
楽山は、高等感情が鈍麻しているのに、自尊が過大で、粘着した雑言を妄想して語ります。ゆえに、怒らない人のように見えることがありますが、感じていないからであり、人の意見を受け取る器がないからなのです。やさしい柔和と、うすぼんやりの鈍麻を、混同しないようにしてください。
 
「プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人」・・怨念が根底にあることを知れば、これが当てはまるのは、楽山だと分かるでしょう。表に出すと、現実的に、見放されるので、ボンヤリ丁寧語の一点だけ保って、客観的に見せかけて、正体を分かりにくくしています。
 
楽山の、スルーは、無視であり、アドラー教(アドラー心理学)の、気に入らないことは無視しましょう、という説教を書いていたのは、他でもない、楽山その人であります。どこまでも、フンドシ担いで逃げまくる楽山のような男は、追放する以外ありません。
 
私は、途方もない病的な疲労を与えるだけの楽山と議論をする気はありません。デタラメな記事を書くのをやめなさいと言っています。楽山の発言は、誰にとっても、全く参考にも糧(かて)にもなりません。かつ、言論の責任を負わない人に言論の自由はないのです。
 
楽山は、迂闊なのではない。楽山は、能力的にも、議論や話し合いのできる人ではなく、人格欠損による無責任であり、都合の悪い他者を平気で無視して、作為的に、賛同者だけを選んで、世辞を言います。いかなる反対意見にも、全く答えることの出来ない人です。
 
 
・関心…人は自分に対する批判には敏感なものだ。だから批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある。でもあんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう。楽山日記には愛読者ならぬ、嫌読者もいるようだけども、自分は嫌読者が何を書いているかいちいち見に行くほどの興味関心はない。
 
「批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある」・・楽山には出来ていません。嘘と詭弁だけを返してきました。批判に興味もなく、反論も出来ないでいて、言説の皮だけを、まともに見せかけようとしても無駄なのです。
 
「あんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう」・・これが、楽山の、怒気であります。「下らぬ批判」は、楽山の判断基準に過ぎません。感情的な表現ですが、楽山は、内心、怒り狂って吠えているのです。発言が何時も無意味な楽山です。
 
これが、楽山の心を満たしています。日頃、隠していることが、批判されることによって、表れてきます。楽山は、言論と交流において失格の、病的ナルシストです。丁寧語が通用しなくなって、楽山がキレるとき、どうなるかを思うと、恐怖です。
 
結論だけで、根拠が全く示されていない、という特徴を見逃さないでください。これが、楽山の、無視の、実体であります。悪口や罵詈雑言を、論者風味の学術用語や、インテリ風味の引用で飾って、見た目、柔和を装う楽山の記事が出来ています。
 
つまり、楽山は、自分以外に「興味関心はない」のです。また、興味や関心で議論が成り立っているという楽山の曲解でもあります。ということは、自己中の楽山と、議論をしている、交流している、などと思うのは、勘違いです。何も進行しておらず、ただ、疲労だけが積み重なります。
 
楽山にとって、他者は、利用して自分を飾るための対象でしかないのです。それが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。ほぼ、不治の病です。関わらないようにすることだけが、自己防衛になります。どうか自衛してください。
 
 
・わけあり…通常の感性を持っていれば、大川隆法は神だとか、霊言は真実だとか信じることはできないだろう。いまだに信者を続けているということは、それ相応の理由があるのだろう。たとえば、「持病があって苦しんでいたが、信者になってから体調がよくなった。信仰に疑問はあるけれども、退会したら体調が悪くなるかもしれないし、止めることはできない」「夫婦で信者になったが、つれ合いは熱心信者のまま亡くなった。自分は疑問を持っているが、さきに亡くなったつれ合いのことを考えると棄教できない」「二世信者で生まれた時からずっと信じて来たので、おかしいとは思いつつも、すべては嘘だったとはどうしても受け入れ難い」など。自分はこういう人たちと議論し、退会を説得したいとは思わない。
 
思いやりのある自分をアピールするための芝居です。ここでは、意見の違う人を、やすやすと無視してきた履歴が、楽山を否定します。楽山に、思いやりの欠片(かけら)もありません。もっともらしいことを書いてきますが、楽山には、共感という高等感情はないと判断しています。
 
楽山は、高等感情の鈍麻によって、共感や感動も得ることはないでしょう。楽山の筆致に、概念的、通念的、そして、無味乾燥の粉みたいな感覚を覚え、生き生きとした活性を感じないのは、そのためだと思います。盲目と混乱と疲労と鈍麻をばらまくだけの、浴びてはいけない有害言質です。
 
 
・弱味…ブログ村騒動のときの信者らを見ていたら、アンチによる大川隆法批判はほぼスルーしていたのに、自分が批判対象にされたときには、わあわあ騒いでいた。自分はこれはみっともないことだと思ったので、不当に貶められている他者を庇うことはしても、自分に対する批判はスルーを基本にした。
 
自分が批判されたら、反論か弁明をするべきであり、スルーを基本にしてはいけません。スルーは無視することであり、楽山のような無反省で無責任な者の特徴です。楽山は、元々、議論する気はなく、自己満足の快感を得たいだけの病質者です。
 
他者の意見を「わあわあ騒いでいた」くらいにしか見ていないことを、楽山自身が証言しています。何を根拠に「わあわあ騒いでいた」のかを書けない楽山こそ、このような記事で、いたずらに、内心わあわあ騒いで、スルーを決めこんできたのです。楽山は、人の意見も気持ちも分からない人です。
 
 
そういうわけで、ずっと前は自分の意見が誤解、誤読されていると思えば、「それはちがう」とすぐに喰いついたりもしたけれども、今は誤解、誤読による批判があったとしても放置することが多くなった。
 
無責任な男です。むしろ、誤読し、曲解しているのは、楽山のほうに頻繁に見られます。聖書がそうです。キリスト教思想がそうです。楽山は、基本的な理解力がないのです。無視・放置・スルーをするなら、それだけ、自己中を自分で証明することになります。
 
楽山には、人間らしい理路と共感性がないのです。だから、人間としての節操や弁えが育たず、平気で書いて、平気で人を無視して、かつ、この記事のように、ネチネチと詭弁を垂れ流すことが出来るし、今のような事態を迎えても、書き続けることが出来るのです。
 
楽山は、自己愛が勝ってしまうので、無反省、無遠慮、訂正不能が、ベースとなり、関わる人は、疲労するだけです。楽山は、無益で粘着性の、この記事のように、執拗な自己正当化の詭弁によって、だまされる賛同者・犠牲者だけでなく、誰にとっても、有害な他罰的人格となっているのです。
 
 
大体、スルーの理由についてはこんな感じだ。
これに対しても、文句を言う人もいるだろうけれども、こちらは上にある漱石の田山花袋に対する対応を見習って、いちいち批判者のブログに出張したり、反論したりするつもりはない。侮辱するつもりはないけれども、一部例外を除いて大概の信者さんの話は総裁の受け売りばかりなので、さほどの興味は持てないのだ。
でもどうしても批判を読め、議論に応じろというのであれば、当ブログのコメ欄にでも書いてくれればよい。その場合は一応全部読むくらいのことはするつもりではある。以上。
 
楽山が、必要性によってではなく、興味本位で書いていることが分かると思います。つまり、自分がリードして面白ければ書き、面白くないと、スルー=無視して、保身するのです。本質的に自己中であり、それは、楽山の病質によるものなのです。
 
こんな感じでスルーしていたのだから、真実の追求など出来るわけもなく、我執の追求だけをしている楽山だと分かるでしょう。でなければ、この記事のように、成り立たないことを、ぐずぐず、ねちねちとクレームにして書くのではなく、黙っておればよいのです。
 
訂正不能の結論と感情を、わめいているだけで、スルー・無視の、理由・根拠になっていません。楽山は、読書も同様で、全部読むと言っても、字面に目を通すだけで、理解してはいないと思います。「心の理論」「奇跡」について、救いがたい曲解をしています。
 
「一応全部読むくらいのことはするつもり」・・「一応」「くらいの」?・・楽山の言の端々に出てくる高慢ですが、真摯に読むこととは、真逆の見方が表れています。このような楽山に、軽く扱われたり、あしらわれる人になってはいけません。
 
楽山は、正常人とは、見えてる世界が全然違うのかもしれません。完全な自己中心世界なのでしょう。霊が分かるっぽい、と言ってたから、妖怪か幽霊かファンタジーでも見ているのでしょうか。ですから、決して、楽山ブログに、コメントなど書いてはいけません。
 
「一応全部読む」ことなど、楽山には出来ません。楽山には、ふつうの読解力もありません。自分にとって好都合か不都合かを見ているだけです。楽山は、好都合なら世辞を言って利用するだけで、不都合ならクレームのような当てつけを繰り返して疲労させ、無視して去るのを待つのです。
 
 
楽山は、目の悪いナルキッソスなのでしょう。とても醜い自分を、水面ではなく、歪んだ鏡を見ながら、うつくしい!と、うっとりして、水仙の咲いている泉に、ではなく、昔のポットン便所から落ちて、糞まみれになって、気づかないでいるようなものだと思います。
 
それで、なおも、自分を、美しくなければならないという強迫観念でもって、様々な嘘と詭弁の気取りだけで飾ってきたのでしょう。その害は、測りしれません。自分の失敗に、他者を巻き込むことに、他者のせいにすることに、何のためらいもなく、遠慮もない、一種のサディストなのです。
 
今まで3年以上見てきて書いた批判記事の数だけ、楽山は、全部、間違っていると、私は主張しているわけです。こういうことが起こるのは、今のところ、楽山とシャロームだけなのです。ふつうは、何かしら、良いところが人間にはあるのですが、二人には皆無なのです。
 
社交ではなく、真剣な議論や交流は、興味を持つとか持てないとかの話ではないのです。不都合を、何でもかんでも、無視できるというのは、尋常ではない、常人ではない、常軌を逸している、体質的病人だということです。
 
正体を知れば、いままでの、楽山の、霊が分かるっぽい、霊能者気取りと、学者・評論家気取りは、目を覆わんばかりの著しい妄想的曲解でした。楽山が、そういう自説を、そして、そこで生まれた自身の高慢と誤った自信を、根底から否定し修正しない限り、楽山に対する批判は、止むことがないのです。
 
楽山は、過剰な自己愛による自分信仰カルトです。本名は分からないし、名前を変えてHN使えば、何でも言えると高を括っているのです。そういえば、楽山は、私が本名を出していることを、自己顕示欲だと言ってきたことがあります。私は、修正可能なので、文責を明確にしているだけです。
 
念のために言っておきますが、楽山にだまされる人はいても、楽山の発言によってこちらが修正するべきところは、未だ、一つも見つかっていません。楽山が何も受け取らないで、考えないで、思い込みだけを言ってくる人だからです。
 
本名を出さず、責任を明確にしないうえに、嘘と詭弁ですから、楽山に、思想を、宗教を、カルトさえをも、批判する資格はありません。楽山に近づくのは、怪しい薬局で、わざわざ副作用だけを買うようなものです。楽山には、薬効のような作用も成分もありません。
 
楽山の言は、楽山だけが、楽になるためです。既に、自己愛性パーソナリティ障害NPDの資料になっています。粉末性の放屁を放つインテリ気取りの楽山が、何を書いても、理路の破綻も、詭弁も、詭弁臭さも、表れてきます。どうか、一言も、吸い込まないようにしてください。
 
もう一度、書いておきます。私は、途方もない病的な疲労を与えるだけの楽山と議論をする気は全くありません。デタラメな記事を書くのをやめなさいと言っています。真実を追求してゆくような大きなテーマについては、言論の責任を負わない者に、言論の自由はないのです。
 
 
叩けば有毒のホコリが出る

叩けば有毒のホコリが出る
 
 
(2020年)
(2021年) 
(2022年08月17日、再録+加筆)
 
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
 
また、楽山は、無責任に、引用だけの記事を書いて、空しい印象操作をしています。
 
 「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
 2021年08月09日 幸福の科学とは何だろう?
 (記事引用省略)
 
 
「悪魔呼ばわり論争」だそうです。映画などに表される超常の悪魔について、私は知りません。しかしながら、悪意だけ、嘘と詭弁だけ、だまそうとする意思、無反省、無責任、という、人間の悪を集めたような精神をもって言動している者は知っています。楽山であります。
 
悪魔性と書いたことはあります。悪魔と書いたかもしれません。これは、明らかに、人間のすることとは思えない場合です。人間なら出来ないようなことを、楽山は、平気で、しかも長期にわたって、してきました。それが体質だから治らないのかもしれません。弁明できない楽山です。
 
楽山は、私の批判記事においても、さんざんに批判されていますが、それを、完全に無視して、総ての罪を、他者、特に批判者のせいにして、平気で書き続けています。そのようなことは、人間ならばできないはずだと判断し、楽山を、悪魔性と呼んでいます。間違ってはいないと思います。
 
したがって、この記事は、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山の、嫌がらせと言ってもいいでしょう。その証拠に、楽山は、自分の意見を、全く説明できないのです。ただ、憑りつかれたように、悪魔呼ばわりされていることを、不当だと、無根拠に、婉曲的に、言い続けているのです。
 
私は、楽山の非道について書いてきました。楽山は、嫌がらせ以外、何も返したことはありません。この記事もそうです。この人にだけは、誰も関わらないようにしてほしいです。楽山が執拗に、引用という、ぼかした手口で書いてくるのに対して、私は批判記事を書き続けています。
 
もはや、だいたいにおいて、同じような返しをすることしかできない質の低い楽山ブログです。思想を考察して磨くことをしない者は、結局、同じような無責任発言を繰り返すことになります。引用だけで、"悪魔呼ばわり" を書くのも、今までと同じ、悪魔性の、糞尿性なのです。
 
 
 
  悪魔の臨終

軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
 (抜粋のいくつか)
 
 
悪魔はイエス様の生誕を知っていて
神様に勝てないことを知っていて
少しずつ居場所が減っていくものだから
残った隙間に上手に入っていこうとするんだ
 
それは子供の靴下よりも
大人の袋や箱よりも恐いもの
悪意や誘惑のプレゼントを配っては
心の中にキーンキーン
キーンキーンと響きを忍ばせて隠しておくんだ
見えない足跡を残しておくんだ
 
 
怒りと災いがふりかかる中
乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる
 
 
真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違う。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりである。さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるであろう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのである。
 
魔術を捨てよ。超常を知ったと思ってはならない。悪魔に住みかを与えてはならない。神秘の力から離れよ。聖なる答えを探してはならない。聖なる答えを口にしてはならない。聖なるものを自らに擬するのをやめよ。それらは神の持ち物である。人間は生きている限りどこまでいってもどれだけ修道しても人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りである。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の言は、今まで、ずっと、他者の言葉か、通念か、偏見か、安い先入観か、芝居、思いつき、嘘、詭弁に過ぎませんでした。体質的な悪意は、悪魔性かもしれません。思いやりと共感の欠如、反省と責任感の欠如は、性格だから・・では、済まないのです。
 
 
 
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  楽山の嘘アピール
 
 2022年02月07日
 また始まった(アマミ氏と遠江氏)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判します。
 
 
私は、HS信者とアンチなど、HS関連の遣り取りには、知識が不足しているので関与しません。楽山は、それを知っていて、批判逃れのために、HS関連を書いて、そこに活路を開こうとしています。引用されているツイッターは省略します。楽山には、退散以外に、活路はありません
 
短い文末の「続きを読む」をクリックすると、別の二人によるツイートが多数並べてあります。楽山は、理路を正して書くことが出来ないので、タイトルの「また始まった」に相応しく、からかい半分で寸評しているつもりですが、何事も他人事で、真摯も本気も持っていない遊びが、楽山の筆致です。
 
楽山は、評論家気取りで、自己の正常と中立をアピールしてきます。楽山は、部分的にも受け容れられると、その信頼を悪用するペテン師です。楽山の評論や批判や読書感想文を決して真に受けてはいけません。その信頼を、とっかかりとして、楽山は、我欲の楽園のお山として巣食ってくるのです。
 
どこにも、いかなるテーマでも、信頼度ゼロの、楽山の無責任と無反省が許容される余地はないのです。楽山には、いかなる立場もありません。欠格者、病質者、詭弁屋、嘘吐きの、楽山には、言論の世界から去ることだけが必要です。
 
人類の敵は、国家でも集団でもカルトでもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
 
*経緯
去年の秋頃、遠江氏は、アマミ氏がHSコミュニティ内にて、信者を相手にして、商行為としての霊指導をしていること、さらにはエル・カンターレ信仰以外の思想、信仰を持ち込んでいることなどを注意したものの、アマミ氏はそれをほとんど無視し、受け入れなかった。
その後、遠江氏が沈黙することで、この議論は一区切りがついた。
 
区切りがつくかどうか、楽山に判定してもらう必要はありません。正常なアンチもいるでしょうし、被害者もいれば、その人たちが、HS批判をするのです。楽山は、結局、余計なことを言って、何の責任も負う気はないのだから、病質的に真剣味がないので、邪魔をして、混乱を招くだけです。
 
 
*また始まった
しかし、遠江氏が沈黙してからまもなく、アマミ氏は、名指しはしないものの遠江批判らしきツイートをするようになった。
そして今回はかなりあからさまな遠江批判を行った。それは以下のようなものである。
(省略)
 
楽山は、今までの嘘と詭弁の加害の人生を反省することもなく、あたかも正常な批判者であるかのように書いてきます。それを部分的にも信頼してしまうと、次に、丁寧語の詭弁によって恣意的にだましてくる人です。楽山に対しては、全否定で臨むことが必要です。責任を負わない者に、自由はないのです。
 
楽山は、あらゆる言論において、真摯さがなく、何も実感することが出来ません。全部、他人事です。だから、いつでも、無責任な、まともそうな、意見を書いてくるでしょう。相手にされると、結局、最後には、関わる人に、言い知れぬ疲労と混乱与えることで、自己満悦したいだけなのです。
 
そういうことを、説明しても、批判しても、平気で無視できるのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の特徴です。どうか関わらないでください。相手にしないでください。人間と思わないほうがいいと思います。
 
 
アマミ氏は、遠江氏からお叱りを受けて、すべて自分の不徳の致すところ云々とツイートしていたと記憶してるけど、本音は「しつこくネチネチ批判されたのはムカついて」たということであろうか。
 
カルトとかアンチとかではなく、本当の敵は、楽山です。決して、議論や論争に関わらせてはいけません。霊が分かるっぽい?霊能者気取りの楽山は、胸中に、恐ろしいほどの教祖願望を温めています。誰に従う気もなく、誰の言うことを聞く気もなく、軸のない自己主張だけをしているのです。
 
 
*反応
これに対して、遠江氏はこんなツイートをしている。
(省略)
 
他人事を、引用して、一つは、煙幕のように、自分の罪過を隠蔽し、もう一つは、隙あらば、関わって、詭弁の理路をもって干渉し、自分が、いちばん偉いんだということを、自己顕示したいのでしょう。その実態は、ハイエナのように卑しく見苦しいのに、楽山は、自覚できないのです。
 
 
*思ったこと
最後に、自分の感想を書いておきたい。
まず遠江氏の意見はとても理解しやすいと思う。客観的な事実認識と、教団ルールなどに基づいて、筋道だった考え方をしているためなのだろう。
 
楽山に客観の視野はありません。全て自己中で、かつ、上から見下ろす視線です。だからこそ、偉そうに、分かっているふうに、インテリ気取り、評論家気取りで書いてきます。楽山には本気がありません。いつも、自分を高めるためにだけ書いて人に見せたがるのです。自己満悦だけが中毒性の目的です。
 
 
一方、アマミ氏の方は、客観的な事実認識や教団ルールに基づいているというよりは、噂話と推測によって相手を批判している。相手方の悪い噂を聞いたとして、道をあやまったその人を憐れみ、教え導くかのように語っている。これはちとマズいのではかろうか。
さて、この騒動はいつになったら収束するのであろうか。できれば最後まで見届けたいものである。
 
楽山は、他者の、くだけた表現の言葉を指摘して、楽山の平面的理屈を当てはめています。これを論理的と思った人が、罠にはまる仕掛けです。審判者になっています。誰が要請したというのでしょう。誰かが、適切な指摘と言ってくれるのを待っているのでしょうか。永遠に待たせておいてください。
 
 
◇◆ 追記 2022.2.7 ◆◇
*削除
 アマミ氏は、遠江氏のことをミニ教祖認定されているかのように書いたツイートを消したようだ。
 でも、事実誤認だったから消したのではなく、ミニ教祖認定されているというのは嘘ではなく、あくまで事実だということらしい。ただ拡大解釈、誤解を生む表現であったと…うーん、なんか、わけわからん。
 
「わけわからん」なら、書いてはいけないはずです。「うーん、なんか、わけわからん」・・受け狙いの道化です。柔和で面白い人・・などと思ったら、楽山の、思うつぼです。実際は、楽山には、他人の話、何も分かっていません。楽山は、孤独な詭弁と嘘の庭で遊んでいるだけです。
 
 
*保存済み
今回の議論の発端となったツイートが消されてしまうと、あとから来た人には、議論の流れが分からなくなってしまう怖れがある。
でも幸いにして、ビン氏がスクショ保存しておいてくれている。関心がある方は、こちらを見ていただければ良いと思う。
 
楽山に、議論の流れなど分かりません。というより、議論の流れなど、楽山は、どうでもよく、真面目な批評を装いながら、思ったことを書き、それを忘れ、責任など持てるはずはなく、また、次のネタを探しているだけの、集積も統合も分析も出来ない、髭の生えた子供の悪戯に過ぎません。
 
 
件のツイートだけを貼るとこうなる。
改めて見ると、これは酷いなあ。議論のテーマに沿った話をするのでなく、相手の悪い噂をまことしやかに拡散して、相手を貶めるというのはよくない。
これでは、信者のtsubasa氏が、厳しく注意するのも当然ではある。
 
議論のテーマに沿った話を、楽山は、したことがありません。他者の言ったことを、スルーすると言って、無視してきたのだから、できるわけもありません。このように、当事者としてではなく、傍観者として、観戦して、茶々を入れて、楽しんでいるスタンスが、腰の抜けた楽山の椅子なのです。
 
 
この他にも、アマミ氏のことを名指しで批判する信者さんが増えてきている。これまで大方の信者さんは、人を名指しで批判することは少なかったのだが、なんか、流れが変わってきている感じがする。
 
ちょいとした兆候を、流れが変わってきたというドラマ仕立てで、面白がる楽山です。楽山の異常な人格には、自分自身を見る目がないので、思いつきで言って、責任ある考察など出来ず、人がどう反応するかを楽しんでいるだけなのです。反応しないでください。楽山を、つけあがらせないためです。
 
 
 ※
 
楽山は、責任を問われると何の弁明も出来ないので、何やら屁のような臭みを残しながら、一目散に逃げる卑怯者です。つまり、言論者の能力は皆無だということです。あとは自己正当化に明け暮れますが、当てつけがましいことしか言えない人です。
 
自己愛性人格障害という精神病質だから、正体がバレても感じないでいられるのでしょう。
 
人類の敵は、国家でも集団でもカルトでもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
人類が、酷いことを為し、酷い目に遭うときには、必ずと言ってよいほど、罪悪感を持たないサイコパスが暗躍しているのです。
 
 
ブーメランの報い

ブーメランの報い
 
 
(2022年02月09日)
 
 
 
  見ている
 
瞳を広げた目に
何も見えない
目をあけた顔は
何も見ていない
体をあけた心は
何も見せてはいない
 
心をあけた体は
何かを見せている
心を閉じた顔は
何かを見せている
何かを見ている
必ず
 
 
  値踏み
 
一人で思い巡らす人
こいつから学ぶべきことは何もない
むしろ邪魔だ
自ら手を下さずともこの辺が弱み
チクチクとついてやれば
そのうち手も足も出なくなるさ
逃げ出してくれれば願ったりかなったり
 
この男は役には立たないが
咬まれることはあるまいゆえ
当分は飼ってやるとするか
この人は一応立てておいて
程々の敬意を見せておけばことはあるまい
 
このお人からは幾らかは頂戴できる
今のところ借りるだけでもよいな
このお方こそ組んで、お味方、お味方
うまくいけばいつかは・・・
ん、ん、・・・フフ
 
私にいくらの値をつけた
人格を値踏みする者よ
 
えっ・・・?
空耳か
 
一人で思いわずらう人
人の気持ちをあれこれと推し量り
自分と比べ
思いあぐねては疲れ果て
寝込んでいる人
見積もれば
自分が誰よりも安くなることだけは知っていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
何を書いても全て芝居で真剣味もなく中身は空っぽだと、既に、バレているのに、なぜ、何の変わりもなく、前と同じように、自分だけ気持ちよさそうに、理路の皮だけの文章を書けるのでしょう。書けば書くほど嘘と詭弁がバレて醜いのに、学習不能の自己愛病質が本能的に書かせているように思われます。
 
 
 
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  楽山の神?の光?
 
 『潜在能力点火法』三木野吉著
 2022年01月26日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31900998.html
 
 
これが、楽山の正体、楽山の生業、楽山の無知と無恥、楽山の嘘と詭弁と誘導、という、鼻曲がりの詐欺へ向かう開き直りなのでしょうか。悪臭、吐き気、厚顔無恥の、ペテン師、詐欺師、偽インテリ、腐ったアドバイザー、・・決して、楽山に関わってはいけません。
 
 
*概要
スピリチュアル関連の書籍を読んでいると、「神の光」という言葉を目にすることは少なくないが、残念ながら、それがどのようなものであるか、どうしたら見ることができるかなどの説明はされないことが殆どである。
 
無神論つまり無神教というカルトの記事を紹介し、自らも神否定の信者である楽山が、「神の光」などと言ってきました。このような記事が通ると思っているのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の人格が崩れ出してきたのかもしれません。
 
 
本書はこの神の光をテーマとしたものであり、その特性、種別、人の心との関係…などを説明している。神の光を見ることについては具体的な実践方法を明らかにしてもいる。
 
楽山の、打って変わって超常神霊心霊肯定、そして「具体的な実践方法」だそうです。平気で「神の光」と書いてくるところが、恐れを知らぬ厚顔無恥であり、既に、狂気へと誘導する精神、つまり、良心のない、高等感情のない、元々思慮など持ち合わせていない、サイコパス(精神病質)の症状なのです。
 
 
これについては「書いてあることを、その儘、鵜呑みにして、実行して見て下さい」(まえがき)という言葉から、著者の自信のほどがうかがえ、頼もしくもある。この点、本書は神の光に興味があり、かつ実践家にとっては一読の価値ありと思う。
 
「その儘、鵜呑みにして、実行して見てください」「著者の自信のほどがうかがえ、頼もしく」「一読の価値あり」・・ペテン臭とカルト臭がプンプンします。楽山は、こういう怪しいところの宣伝をしてきたのでしょうか。楽山は、光を闇に変え、悪を添加し、売買する人です。嘘と詭弁のカルト宣伝虫です。
 
 
*光の体験
(以下には、本書の実践方法を試した結果について書くことにする。ただしこれには個人的なことを多く含むのでプライベートモードとしておきたい。失礼)これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。
 
あなたにだけ、そっと教えますよ・・という、だまし文句のモードに入っています。詐欺の手口、カルトの手口であり、楽山の本性が、尿便失禁のように、悪臭を放っています。つまり、本来、そういう人であり、それで飯を食ってきたのでしょう。人をだまして、エヘヘと失禁して、笑っているのです。
 
以前から、プラスを言い、マイナスを言い、断定していないから、責任問題は生じない、などという詭弁で、スットボケて書いてきたのが、楽山です。精神がバラバラなのです。自分の言ってることに責任が持てない病質です。どうか、相手にしないでください。
 
バレた詐欺師の末路、醜い素顔のあぶら汗、失禁に気づかない神経麻痺の思考破綻、節操を失う人格崩壊、今までのことを、"まるで記憶にございません" 精神~論法~商法、・・・決して近づいてはいけません。楽山の神は闇、光は怒り、点火法は喧嘩法、潜在能力は顕在無能力です。誰の助けにもなりません。
 
「神の光」で検索してみたら「末日聖徒イエス・キリスト教会」と・・モルモン教でしょうか。渡辺泰男(ペンネーム三木野吉)ともあります。いずれにしても、カルトだと思います。楽山は、お構いなしに何でもダシに使います。こういう邪教やカルト狙いは、楽山がアンチでないことを証明しています。
 
 
虚言の末路

虚言の末路
 
 
(2022年01月28日)
 
 
 
  末路に立つ
 
人が生きている
と言えるほどに
私は生きているだろうか
人が死んだ
と言えるほどに
私は日々死につつあることに
気づいているだろうか
 
何という末路に立って
情の絡みをほどこうとしている
 
舌の痺れか
目の回転か
手足の不随意か
肉体は常同の仕草で
ところかまわず真似続けるのだ
人が生きている
と言えるほどに
私に殺すべきものがあったかどうか
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
 
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
 
(歯科へ行け)
 
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
 
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
>(再録?)
★こも/楽山日記3
@komo266
これは悲惨すぎる(口を開けて冷や汗をかいた顔)
引用ツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
自己愛性のモラハラ者は、自分こそが良識人であるという顔をし、気づくと、こちらが≪悪者≫にされていることさえある。
午前9:31 · 2022年1月23日·Twitter Web App
 
楽山からのハラスメントは、常識と情感の欠如がどれほど明らかになっても、獣皮のような面構えで、真っ黒な鼻をほじりながら、良識人の仮面をかぶり、何事も無かったかのように、白々しく、嘘を吐いて人をだまし続けてしまうところの、罪悪感が全く欠如したサイコパスの末路なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
陰を好む害虫が、毒で飼い主を殺して、くちゃくちゃとその肉を、おいしそうに食べるような、一滴の恩情も持ち合わせていない楽山に、またしても、だまし心が生えてきて、今回は、分かりやすく詐欺師の正体を表しています。平気で嘘を吐き、オレオレと言いそうな、楽山の生業なのでしょう。
 
 
 
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  信仰の反例
 
  より
 
キリスト信仰の、曲解のパターンをあげてみます。
 
1.悟りを得たかのような平安の薄笑み
 
イメージと雰囲気に陶酔する信仰です。信仰の初期に見られやすいものですが、そこで固定してしまうと、うわべだけ安らかな気分で、中身の罪深さを隠すようになり、偽善の方向へ向かいます。
 
2.いかにも敬虔?という控えめな態度、世辞、褒め言葉、批判禁忌
 
信仰は、控えめになることだという短絡です。丁寧語や世辞を言うようになり、偽善に偽善を返すことになるなら、自らが偽善者になってしまう可能性があります。信仰は、社交ではありません。信仰に基づく人間としての優しさや柔和は、社交ではありません。
 
3.この世を敵とするような剣幕の豪語
 
自分は信仰者だから救われ、あいつらは信仰がないから滅ぼされる、という、復讐心の信じ込みです。ルサンチマン(負け犬根性)とも言います。ざまあみろ信仰、いまにみていろ信仰です。
 
4.信仰の弱者に怒り、弱者を笑う偽善
 
弱気な人を信仰が薄いと思い、上から責めたり、軽蔑したりする心性です。それぞれ個人は、できることをして正直に祈り、結果を神に任せるのです。できることの質も量も異なると自覚するべきです。批判することはあっても、最終的に裁くのは神だけです。
 
5.何でもうまくいく、御心が導くから、という決めつけ
 
御心の深淵を、人は知り得ません。自分のしていることが正しいかどうかの結果は、神に委ねるのです。人が勝手に、神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
6.どんな不幸も、喜んで受けろというのか、という疑問
 
神の計画を、人は、詳細には知り得ません。不幸も試練ですが、外見的に、ハッピーエンドとなるかどうかは分かりません。殉教を思えば、最終的な裁きは、神に任せられています。全部が、この地上で、自分に分かるわけではなく、神に任せるという自覚が、神の民としての信仰であります。
 
7.信仰の戒めを守って完全になれる
 
このような信条は、神の完全を自分のものにしたいという傲慢であり、殆どパリサイ人です。信仰は、神のごとく完全になるためではありません。信仰を支えるのは、欲望や野望の成就ではなく、キリストの共感によって結ばれた絆(きずな)であります。地上で完全になる人はいません。
 
 
共感に導かれ運ばれる

共感に導かれ運ばれる
 
 
(2022年01月25日)
 
 
 
  漕いでみます
 
広さを狭さを
高さを低さを
長さを幅を奥行きを
空気を漕いでいます
少しも進みません
わかっているのです
当たり前のことだと
 
時間を漕いでいます
加速も減速もしません
進んでいる感触もありません
 
いや実は感じることがあるのです
ときに呆然とするほどに
でも大方それらは意に反していて
わかっているのです当たり前のことだと
何を為すところもなく
何を為すときもないまま
無為に過ごせば
経過においては
永遠のように長く苦しく
結果においては
まるで無かったかのように空しい
 
だから横になったり
坐ったり立ったりしながら
空しく且つ無いものを
もうしばらく漕いでみます
 
自分を漕ぐことが
当たり前のように進ませることが
できないから
 
 
  浴びる光
 
弱々しい光を浴びながら
待宵(まつよい)の影が
命の帰趨(きすう)へ落とす
一滴(ひとしずく)の収斂(しゅうれん)でもよく
 
弱々しい光を浴びながら
夜明けの朝靄(あさもや)が
次第の熱に命を捨てるように
霧散し発散するのでもよい
 
いつの日か時空と呼べる光の場が
いかに虚妄であっても構いはしない
 
真っ直ぐに進もうとしても
強い力には引かれて曲がり
手に取られ守られることはなく
逆に手を囲み
その脆(もろ)さを教え
水に取られても
吸収する何ものもなく
逆に吸収され減衰しながら
 
幾たびも屈折し
幾たびも反射して
しばしば陰り隠されそうになりながら
衰える光は
衰える光を浴びている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小理屈を振り回して、相手が弱ってゆくのが快感だったのでしょう。それで自分を確認して、一生うまくいくとでも思ったのでしょうか。実際は、嘘と詭弁で、だましてきたのですから、告発され、どこに出ても恥ずかしいペテン師になってきたわけです。反省せずに正しい人は、いません。
 
 
 
 「幸福の科学」の勝訴(宏洋敗訴)
 幸福の科学とは何だろう?2022年01月22日
 
争点となった発言について、HS側の動画では説明されているが、こちらの動画では、3年前の動画のことだから忘れた、どーでもいいとして具体的に話す気はないようだ。ここはすごく対照的である。
 
「忘れた、どーでもいい」精神も、他者の意見を、ことごとく無視できる心性というより病質も、具体的に、あるいは、真剣に、話す気がないことも、楽山に、特徴的に見られることです。他者のことを悪く言えば、その悪さが、楽山自身に、最もよく当てはまる、つまり、ブーメランです。
 
しかも
宏洋氏は、訴訟を起こしたそうだ
では、
「ちなみに、自分はこの動画を見て、宏洋氏は愛と正義の人だなと思ってしまった。」と言っていた楽山が、上では、あら捜しをしているのです。いかに、楽山が、人を見る目も、さらに自分を見る目も、いい加減であるかということが分かる文章です。書けば、みすぼらしい自分を表してしまうブーメランです。
 
 
 
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  楽山の空想神概念
 
  神と神概念
  2022年01月08日 楽山日記(LD)
 
 
神を、概念として論理的に不在を証明しようとするのは、オモチャ箱を探るようなものです。神の必要性をまるで感じることのない空想には、神が不在なのは当然なのです。神は、希望の必要性も感受性もない者には、恐らく死ぬまで不在です。楽山の無神論はサイコパス的人格の怒鳴り声に過ぎません。
 
概念で神を扱えると思い込んでいる者たちは、信仰の敵、そして、人類の敵となるしかない血の池の住人であります。楽山など空想無神論者たちは、一生を神の不在証明に当てて、空しく世界の良心を吸いつくそうとするバンパイアと言ってよいでしょう。真実の追求において、最悪の妨害者であります。
 
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23:34)・・楽山は、共感がなく、理路が分からないために、実感のない論理の空しさを理解できないのです。いつまでも、ヘラヘラ笑いながら、他者をあざ笑って生きてゆくのでしょう。
 
*幸運
中村圭志氏のツイッターを見たら、最近、自分が考えていたテーマに関連したことがツイートされていた。感想を書いてみたい。
何かについて考えていると、よそからその考えを補完・前進させるヒントが得られるものだが、どうやら今回もそうなったようだ。感謝。
 
名もない自己顕示欲の楽山という悪は、分からなくなると、他の名のある悪を頼みとして、スピーカーと化して働きます。そのことが、楽山の無知蒙昧と、成長不全を表すことになります。「よそからその考えを補完・前進させるヒント」ではなく、全くの人頼みです。楽山には理路が成り立たないからです。
 
楽山の人格が、谷底へ滑り落ちています。こちらの批判に何も答えられない非人間が、神を信じないのは勝手ですが、神聖を感じない楽山が、神聖を否定するなど、入り口で成り立つはずはないのです。何度も言いますが、神の存在証明も不在証明も、人知では不可能です。だから信仰なのです。
 
*超越者
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock【神のパズル④】いわゆる「神の存在証明」がうまく機能しないのは、《時空の外にいて宇宙の原因や設計者として働くとされる神もまた、時空の中の存在者のようにしか語れない》からです。あるいは《概念を超えて実在するとされる神もまた、概念として語られたものとしか言いようがない》からです。
 」
「概念を超えて実在するとされる神もまた、概念として語られたものとしか言いようがない」というのは、まさにその通りだ。
 
いいえ、詭弁です。「概念を超えて実在するとされる神」は、人の概念を超えて、存在も不在も証明されないということです。ここが分かっていない人が無神論者ならば、とても幼稚な集団ということになります。恐らく悪意による何らかの企みがあるのでしょう。楽山は、そのパシリなのでしょう。
 
神は、概念としては語れません。概念として "神" と呼称しますが、概念ではなく、聖書を通して、心に救いとして癒しとして作用した御方を、神と呼ぶのです。それは個人の体験によるものなので、信仰は個人と神との関係です。だから信じない自由があります。しかし不在を主張しても無意味です。
 
執拗に最も無意味な主張をしている楽山は、学習と成長を放棄した病的人格です。誰も関わってはいけません。楽山に関わることは人生の貴重な時間をゴミ箱に捨てるようなものです。楽山は、人間性を捨てて、代わりに、嘘と詭弁という凶器と狂気に快楽を見い出す世捨て人です。だから罪悪感がありません。
 
楽山は、これからも、無駄口を言い、無駄な毎日を過ごすのでしょう。考えることと感じることを放棄したサイコパスの宿命です。神がいないと思うと気持ちがいい楽山の執着は理解不能であるばかりでなく、だまして根拠のない無神論を刷り込んでゆく悪魔性です。
 
漠然とながら、神は人知を超えているなら、人には神のことは分からないだろうし、人には神のことは分からないなら、「人には神のことは分からない」ということさえ分からないだろうと考えてはいたのだが、これよりよほど端的で分かりやすい。
 
また、楽山の屁理屈遊びです。分からないから、証明できないから、信じてはいけないなどということはありません。分かって信じるのではなく、人生の成り行きで心に響いたことを信じているのです。何も心に響くことのない楽山は、何も信じることがないのです。また、自らを証明している楽山です。
 
*滑稽
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
【神のパズル⑤】同様のジレンマは他にもあります。たとえば《信者は自分を超えた絶対者を語る。しかし語っている当人は絶対じゃないので傍目には滑稽だ》。あるいは《信者は神を持ち出すことで自分が謙虚であるとアピールする。しかしそんな神を知っていると吹聴するのは傲慢以外の何ものでもない》
午前9:39 · 2022年1月7日·Twitter Web App
 」
 
聖書によって、生きるために信じている御方に敬虔を学ぶわけですが、その学びの必要性を何も感じないで傲慢になり、笑い、貪って、悦に入っている楽山などが、ただ、人を指して笑いたいがために、無神論を吹聴しているのです。ゆえに、その悪魔性は、まさに、人類の敵なのです。
 
先日、人には神のことは分からないと言いながら、さも自分は神のことを分かっているかのように振る舞い、他者の神認識は間違いだと断じることのおかしさについて考えたばかりなので、こういうツイートを読めたのは愉快である。こういう滑稽と傲慢はそれほど珍しいことではなく、よくあることなのだろう。
 
楽山は、何かを正しく受け取る、ということが、全く出来ない人だと分かります。書けば書くほど、自らを証明する結果が続いても、まだ、愉快なのだそうです。暴言者、そして、反キリストの非人間としての正体が、次々に表れるのは、宿命でしょうか、いや、自業自得であります。
 
あらゆる真実の追求において、楽山のようなものは、真実を「滑稽と傲慢」に変えてゆきます。独り笑い、独り曲解し、自己満悦して有頂天となり、机上の評論家として、オオカミ少年として、ペテン師として、いずれ捨て去られるであろうことにも気づかないのです。
 
でもどうしてこんな滑稽や傲慢が生じるのだろう? 神そのものと、自己の心に描いた神概念との違いに無自覚で、その境界が曖昧だから、神のことは分からないと言いつつ、神について他者に説教することに矛盾を感じず平気でいられるのだろうか。よく分からぬ。
 
「滑稽や傲慢」を生じているのは楽山のほうです。だから、信じてもいないで、神概念などと語れるのでしょう。机上で、いくら神を考えても、空しい理屈にしかなりません。楽山の言論は、神を信じる人々への悪質な嫌がらせなのです。楽山は、百害あって一利ない悪意の、無責任な口です。
 
神は、認識できる対象ではありません。いちばん、神について、おかしなことを言っているのは、楽山です。だから、楽山の言は、既に、終わっているのです。亡霊のように、同じことを繰り返せば、相手は黙るだろうという狙いが見え見えです。楽山は、いつも、疲労だけを与えてきます。
 
「神そのものと、自己の心に描いた神概念との違い」を、人が詳細に知りえないのは、神が人知を超えているためです。しかし、全知全能絶対完全永遠不変という属性は否定しようもなく、ゆえに、人が、全知でも全能でも絶対でも完全でも永遠でも不変でもないことは、弁えることが出来ます。
 
楽山は、その理路が分からないために、反キリストに徹することが出来るのです。楽山は、人間性が分からないために、神に対する人間の態度が分かりません。いつまでも、神の概念遊びを続けている楽山は、ゆえに、理路と感性を持たない、やっかい者としての時間を経過するだけなのでしょう。
 
私が楽山を批判するのは、楽山を変えるためではありません。楽山に、誰も近づかないように、その非人間性、高等感情鈍麻、罪悪感と羞恥心の欠如、嘘と詭弁と三文芝居、無反省と無責任・・などを書いています。楽山は、実に、毎度毎度、その証拠を表すようになりました。
 
楽山が、なぜ、書いたものも、書かれたものも、全く、理解できないのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、自己の矛盾を感じないためだろうと思います。俗な言葉で言えば、恥知らずということです。本当に、楽山のような生き方は、恥知らずにしか出来ません。
 
毎度毎度、似たようなことしか書いて来ない楽山です。否定されたまま、弁明もできず、繰り返すだけの楽山に、決して関わらないでください、近づかないでください。自覚も病識もない男です。インテリ気取りで、人真似で、いつも臭い文章しか書けないのは、不都合忘却の権化だからでしょう。
 
楽山は、相手の理路を、すり替えによって乱すことで、相手を混乱させてゆきます。そして、いかにも理屈に強そうな作文をしてきますが、大方、煙に巻くような、どうでもいいことしか言いません。惑わされ疲れ果てることのないようにするには、相手にしないことしかないと思います。
 
人間は、場違いなことについては遠慮するものです。そういう弁えが、楽山には、一切ありません。分かっている妄想だけで生きています。宗教を、楽山は、くみやすしと思っているようです。宗教に必要な、謙虚、敬虔、心の貧しさ、罪の自覚を、全く持っていない楽山は、宗教に巣食う害虫です。
 
楽山は、恐らく、いろんなところで病質がバレて、否定されてきたと思います。そのたびに、悪意と嘘と芝居を強化してきたのでしょう。それは、病質を強化するになり、あらゆる真実を無視できるようになってきたのだと思います。同情の余地のないピュアな悪意によって、獲物を求めているのです。
 
楽山には、説諭は効かないと思います。強制的に捕らえられ拘束され、解放され、復讐されるでしょう。そのあとは、神の裁きが待っている、そういう、斟酌の余地のない異常人格だと思います。この三年間、見れば見るほど、いいことは、何も書けない愚劣な批判対象です。
 
楽山は、自分が言われそうなことを、また言われたことを、そのまま、こちらに向けてきます。いかにも楽山がやりそうな返しです。冷静に見せかける楽山の丁寧語にだまされないでください。私は高齢なので、楽山より先に死にます。生きて書けるあいだは批判を続けます。
 
 
邪悪の執念

邪悪の執念
 
 
(2022年01月09日)
 
 
 
  句読点
 
このようにだけはなりたくない
という人間に
なってしまった今でも
このようにだけはなりたくない
というものがあるのは
まだ人間だから
 
欲とか業とか罪とか
希望とかへの執着が
夢見る頃をとっくに過ぎても
まだ夢も現実も見ている読点
 
このようにだけはなるな
と誰にも言わず
このようにだけはなりたくないもの
に向かっているのに
まだ夢も現実も
いつかどこかで醒めて
自分の声でひとこと言って
それで終わっても
そこから始める気でいる句点
 
 
  迷える信徒
 
隙間のない信仰を
我が魂をして
誠の愛を知らしめたまえ
 
手紙を書きながら
信徒は不意に顔を上げて
はたと筆を止めた
主よ、私が泣いたときから
主は復活の主になられたのです
私は残された生涯を信仰に捧げ
焼かれるためにこの身を渡したとしても
 それが私にできるでしょうか・・・
主よ、あなたは幾度十字架につかれるのでしょう
 
つまずきそうな頭を振って
湧いてくる涙を振って
彼は再び筆を執った
迷える仲間たちのために
 
隙間のない信仰を
育てるためには
隙間だらけの信仰を
何で満たせばよいのか
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間としての弁えが大嫌いな楽山は、自分は優秀なインテリだという根拠のない妄想によって、反省もせず、好きなように書いて責任を負わない無反省と無責任の体質となり、他者を低く見なすことが、楽山の快感の笑いと満悦をもたらすのでしょう。楽山は、精神障害の中で、最も同情できない病気です。
 
 
 
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