ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ペテン師

 
  信仰の反例
 
  より
 
キリスト信仰の、曲解のパターンをあげてみます。
 
1.悟りを得たかのような平安の薄笑み
 
イメージと雰囲気に陶酔する信仰です。信仰の初期に見られやすいものですが、そこで固定してしまうと、うわべだけ安らかな気分で、中身の罪深さを隠すようになり、偽善の方向へ向かいます。
 
2.いかにも敬虔?という控えめな態度、世辞、褒め言葉、批判禁忌
 
信仰は、控えめになることだという短絡です。丁寧語や世辞を言うようになり、偽善に偽善を返すことになるなら、自らが偽善者になってしまう可能性があります。信仰は、社交ではありません。信仰に基づく人間としての優しさや柔和は、社交ではありません。
 
3.この世を敵とするような剣幕の豪語
 
自分は信仰者だから救われ、あいつらは信仰がないから滅ぼされる、という、復讐心の信じ込みです。ルサンチマン(負け犬根性)とも言います。ざまあみろ信仰、いまにみていろ信仰です。
 
4.信仰の弱者に怒り、弱者を笑う偽善
 
弱気な人を信仰が薄いと思い、上から責めたり、軽蔑したりする心性です。それぞれ個人は、できることをして正直に祈り、結果を神に任せるのです。できることの質も量も異なると自覚するべきです。批判することはあっても、最終的に裁くのは神だけです。
 
5.何でもうまくいく、御心が導くから、という決めつけ
 
御心の深淵を、人は知り得ません。自分のしていることが正しいかどうかの結果は、神に委ねるのです。人が勝手に、神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
6.どんな不幸も、喜んで受けろというのか、という疑問
 
神の計画を、人は、詳細には知り得ません。不幸も試練ですが、外見的に、ハッピーエンドとなるかどうかは分かりません。殉教を思えば、最終的な裁きは、神に任せられています。全部が、この地上で、自分に分かるわけではなく、神に任せるという自覚が、神の民としての信仰であります。
 
7.信仰の戒めを守って完全になれる
 
このような信条は、神の完全を自分のものにしたいという傲慢であり、殆どパリサイ人です。信仰は、神のごとく完全になるためではありません。信仰を支えるのは、欲望や野望の成就ではなく、キリストの共感によって結ばれた絆(きずな)であります。地上で完全になる人はいません。
 
 
共感に導かれ運ばれる

共感に導かれ運ばれる
 
 
(2022年01月25日)
 
 
 
  漕いでみます
 
広さを狭さを
高さを低さを
長さを幅を奥行きを
空気を漕いでいます
少しも進みません
わかっているのです
当たり前のことだと
 
時間を漕いでいます
加速も減速もしません
進んでいる感触もありません
 
いや実は感じることがあるのです
ときに呆然とするほどに
でも大方それらは意に反していて
わかっているのです当たり前のことだと
何を為すところもなく
何を為すときもないまま
無為に過ごせば
経過においては
永遠のように長く苦しく
結果においては
まるで無かったかのように空しい
 
だから横になったり
坐ったり立ったりしながら
空しく且つ無いものを
もうしばらく漕いでみます
 
自分を漕ぐことが
当たり前のように進ませることが
できないから
 
 
  浴びる光
 
弱々しい光を浴びながら
待宵(まつよい)の影が
命の帰趨(きすう)へ落とす
一滴(ひとしずく)の収斂(しゅうれん)でもよく
 
弱々しい光を浴びながら
夜明けの朝靄(あさもや)が
次第の熱に命を捨てるように
霧散し発散するのでもよい
 
いつの日か時空と呼べる光の場が
いかに虚妄であっても構いはしない
 
真っ直ぐに進もうとしても
強い力には引かれて曲がり
手に取られ守られることはなく
逆に手を囲み
その脆(もろ)さを教え
水に取られても
吸収する何ものもなく
逆に吸収され減衰しながら
 
幾たびも屈折し
幾たびも反射して
しばしば陰り隠されそうになりながら
衰える光は
衰える光を浴びている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小理屈を振り回して、相手が弱ってゆくのが快感だったのでしょう。それで自分を確認して、一生うまくいくとでも思ったのでしょうか。実際は、嘘と詭弁で、だましてきたのですから、告発され、どこに出ても恥ずかしいペテン師になってきたわけです。反省せずに正しい人は、いません。
 
 
 
 「幸福の科学」の勝訴(宏洋敗訴)
 幸福の科学とは何だろう?2022年01月22日
 
争点となった発言について、HS側の動画では説明されているが、こちらの動画では、3年前の動画のことだから忘れた、どーでもいいとして具体的に話す気はないようだ。ここはすごく対照的である。
 
「忘れた、どーでもいい」精神も、他者の意見を、ことごとく無視できる心性というより病質も、具体的に、あるいは、真剣に、話す気がないことも、楽山に、特徴的に見られることです。他者のことを悪く言えば、その悪さが、楽山自身に、最もよく当てはまる、つまり、ブーメランです。
 
しかも
宏洋氏は、訴訟を起こしたそうだ
では、
「ちなみに、自分はこの動画を見て、宏洋氏は愛と正義の人だなと思ってしまった。」と言っていた楽山が、上では、あら捜しをしているのです。いかに、楽山が、人を見る目も、さらに自分を見る目も、いい加減であるかということが分かる文章です。書けば、みすぼらしい自分を表してしまうブーメランです。
 
 
 
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  楽山の空想神概念
 
  神と神概念
  2022年01月08日 楽山日記(LD)
 
 
神を、概念として論理的に不在を証明しようとするのは、オモチャ箱を探るようなものです。神の必要性をまるで感じることのない空想には、神が不在なのは当然なのです。神は、希望の必要性も感受性もない者には、恐らく死ぬまで不在です。楽山の無神論はサイコパス的人格の怒鳴り声に過ぎません。
 
概念で神を扱えると思い込んでいる者たちは、信仰の敵、そして、人類の敵となるしかない血の池の住人であります。楽山など空想無神論者たちは、一生を神の不在証明に当てて、空しく世界の良心を吸いつくそうとするバンパイアと言ってよいでしょう。真実の追求において、最悪の妨害者であります。
 
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23:34)・・楽山は、共感がなく、理路が分からないために、実感のない論理の空しさを理解できないのです。いつまでも、ヘラヘラ笑いながら、他者をあざ笑って生きてゆくのでしょう。
 
*幸運
中村圭志氏のツイッターを見たら、最近、自分が考えていたテーマに関連したことがツイートされていた。感想を書いてみたい。
何かについて考えていると、よそからその考えを補完・前進させるヒントが得られるものだが、どうやら今回もそうなったようだ。感謝。
 
名もない自己顕示欲の楽山という悪は、分からなくなると、他の名のある悪を頼みとして、スピーカーと化して働きます。そのことが、楽山の無知蒙昧と、成長不全を表すことになります。「よそからその考えを補完・前進させるヒント」ではなく、全くの人頼みです。楽山には理路が成り立たないからです。
 
楽山の人格が、谷底へ滑り落ちています。こちらの批判に何も答えられない非人間が、神を信じないのは勝手ですが、神聖を感じない楽山が、神聖を否定するなど、入り口で成り立つはずはないのです。何度も言いますが、神の存在証明も不在証明も、人知では不可能です。だから信仰なのです。
 
*超越者
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock【神のパズル④】いわゆる「神の存在証明」がうまく機能しないのは、《時空の外にいて宇宙の原因や設計者として働くとされる神もまた、時空の中の存在者のようにしか語れない》からです。あるいは《概念を超えて実在するとされる神もまた、概念として語られたものとしか言いようがない》からです。
 」
「概念を超えて実在するとされる神もまた、概念として語られたものとしか言いようがない」というのは、まさにその通りだ。
 
いいえ、詭弁です。「概念を超えて実在するとされる神」は、人の概念を超えて、存在も不在も証明されないということです。ここが分かっていない人が無神論者ならば、とても幼稚な集団ということになります。恐らく悪意による何らかの企みがあるのでしょう。楽山は、そのパシリなのでしょう。
 
神は、概念としては語れません。概念として "神" と呼称しますが、概念ではなく、聖書を通して、心に救いとして癒しとして作用した御方を、神と呼ぶのです。それは個人の体験によるものなので、信仰は個人と神との関係です。だから信じない自由があります。しかし不在を主張しても無意味です。
 
執拗に最も無意味な主張をしている楽山は、学習と成長を放棄した病的人格です。誰も関わってはいけません。楽山に関わることは人生の貴重な時間をゴミ箱に捨てるようなものです。楽山は、人間性を捨てて、代わりに、嘘と詭弁という凶器と狂気に快楽を見い出す世捨て人です。だから罪悪感がありません。
 
楽山は、これからも、無駄口を言い、無駄な毎日を過ごすのでしょう。考えることと感じることを放棄したサイコパスの宿命です。神がいないと思うと気持ちがいい楽山の執着は理解不能であるばかりでなく、だまして根拠のない無神論を刷り込んでゆく悪魔性です。
 
漠然とながら、神は人知を超えているなら、人には神のことは分からないだろうし、人には神のことは分からないなら、「人には神のことは分からない」ということさえ分からないだろうと考えてはいたのだが、これよりよほど端的で分かりやすい。
 
また、楽山の屁理屈遊びです。分からないから、証明できないから、信じてはいけないなどということはありません。分かって信じるのではなく、人生の成り行きで心に響いたことを信じているのです。何も心に響くことのない楽山は、何も信じることがないのです。また、自らを証明している楽山です。
 
*滑稽
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
【神のパズル⑤】同様のジレンマは他にもあります。たとえば《信者は自分を超えた絶対者を語る。しかし語っている当人は絶対じゃないので傍目には滑稽だ》。あるいは《信者は神を持ち出すことで自分が謙虚であるとアピールする。しかしそんな神を知っていると吹聴するのは傲慢以外の何ものでもない》
午前9:39 · 2022年1月7日·Twitter Web App
 」
 
聖書によって、生きるために信じている御方に敬虔を学ぶわけですが、その学びの必要性を何も感じないで傲慢になり、笑い、貪って、悦に入っている楽山などが、ただ、人を指して笑いたいがために、無神論を吹聴しているのです。ゆえに、その悪魔性は、まさに、人類の敵なのです。
 
先日、人には神のことは分からないと言いながら、さも自分は神のことを分かっているかのように振る舞い、他者の神認識は間違いだと断じることのおかしさについて考えたばかりなので、こういうツイートを読めたのは愉快である。こういう滑稽と傲慢はそれほど珍しいことではなく、よくあることなのだろう。
 
楽山は、何かを正しく受け取る、ということが、全く出来ない人だと分かります。書けば書くほど、自らを証明する結果が続いても、まだ、愉快なのだそうです。暴言者、そして、反キリストの非人間としての正体が、次々に表れるのは、宿命でしょうか、いや、自業自得であります。
 
あらゆる真実の追求において、楽山のようなものは、真実を「滑稽と傲慢」に変えてゆきます。独り笑い、独り曲解し、自己満悦して有頂天となり、机上の評論家として、オオカミ少年として、ペテン師として、いずれ捨て去られるであろうことにも気づかないのです。
 
でもどうしてこんな滑稽や傲慢が生じるのだろう? 神そのものと、自己の心に描いた神概念との違いに無自覚で、その境界が曖昧だから、神のことは分からないと言いつつ、神について他者に説教することに矛盾を感じず平気でいられるのだろうか。よく分からぬ。
 
「滑稽や傲慢」を生じているのは楽山のほうです。だから、信じてもいないで、神概念などと語れるのでしょう。机上で、いくら神を考えても、空しい理屈にしかなりません。楽山の言論は、神を信じる人々への悪質な嫌がらせなのです。楽山は、百害あって一利ない悪意の、無責任な口です。
 
神は、認識できる対象ではありません。いちばん、神について、おかしなことを言っているのは、楽山です。だから、楽山の言は、既に、終わっているのです。亡霊のように、同じことを繰り返せば、相手は黙るだろうという狙いが見え見えです。楽山は、いつも、疲労だけを与えてきます。
 
「神そのものと、自己の心に描いた神概念との違い」を、人が詳細に知りえないのは、神が人知を超えているためです。しかし、全知全能絶対完全永遠不変という属性は否定しようもなく、ゆえに、人が、全知でも全能でも絶対でも完全でも永遠でも不変でもないことは、弁えることが出来ます。
 
楽山は、その理路が分からないために、反キリストに徹することが出来るのです。楽山は、人間性が分からないために、神に対する人間の態度が分かりません。いつまでも、神の概念遊びを続けている楽山は、ゆえに、理路と感性を持たない、やっかい者としての時間を経過するだけなのでしょう。
 
私が楽山を批判するのは、楽山を変えるためではありません。楽山に、誰も近づかないように、その非人間性、高等感情鈍麻、罪悪感と羞恥心の欠如、嘘と詭弁と三文芝居、無反省と無責任・・などを書いています。楽山は、実に、毎度毎度、その証拠を表すようになりました。
 
楽山が、なぜ、書いたものも、書かれたものも、全く、理解できないのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、自己の矛盾を感じないためだろうと思います。俗な言葉で言えば、恥知らずということです。本当に、楽山のような生き方は、恥知らずにしか出来ません。
 
毎度毎度、似たようなことしか書いて来ない楽山です。否定されたまま、弁明もできず、繰り返すだけの楽山に、決して関わらないでください、近づかないでください。自覚も病識もない男です。インテリ気取りで、人真似で、いつも臭い文章しか書けないのは、不都合忘却の権化だからでしょう。
 
楽山は、相手の理路を、すり替えによって乱すことで、相手を混乱させてゆきます。そして、いかにも理屈に強そうな作文をしてきますが、大方、煙に巻くような、どうでもいいことしか言いません。惑わされ疲れ果てることのないようにするには、相手にしないことしかないと思います。
 
人間は、場違いなことについては遠慮するものです。そういう弁えが、楽山には、一切ありません。分かっている妄想だけで生きています。宗教を、楽山は、くみやすしと思っているようです。宗教に必要な、謙虚、敬虔、心の貧しさ、罪の自覚を、全く持っていない楽山は、宗教に巣食う害虫です。
 
楽山は、恐らく、いろんなところで病質がバレて、否定されてきたと思います。そのたびに、悪意と嘘と芝居を強化してきたのでしょう。それは、病質を強化するになり、あらゆる真実を無視できるようになってきたのだと思います。同情の余地のないピュアな悪意によって、獲物を求めているのです。
 
楽山には、説諭は効かないと思います。強制的に捕らえられ拘束され、解放され、復讐されるでしょう。そのあとは、神の裁きが待っている、そういう、斟酌の余地のない異常人格だと思います。この三年間、見れば見るほど、いいことは、何も書けない愚劣な批判対象です。
 
楽山は、自分が言われそうなことを、また言われたことを、そのまま、こちらに向けてきます。いかにも楽山がやりそうな返しです。冷静に見せかける楽山の丁寧語にだまされないでください。私は高齢なので、楽山より先に死にます。生きて書けるあいだは批判を続けます。
 
 
邪悪の執念

邪悪の執念
 
 
(2022年01月09日)
 
 
 
  句読点
 
このようにだけはなりたくない
という人間に
なってしまった今でも
このようにだけはなりたくない
というものがあるのは
まだ人間だから
 
欲とか業とか罪とか
希望とかへの執着が
夢見る頃をとっくに過ぎても
まだ夢も現実も見ている読点
 
このようにだけはなるな
と誰にも言わず
このようにだけはなりたくないもの
に向かっているのに
まだ夢も現実も
いつかどこかで醒めて
自分の声でひとこと言って
それで終わっても
そこから始める気でいる句点
 
 
  迷える信徒
 
隙間のない信仰を
我が魂をして
誠の愛を知らしめたまえ
 
手紙を書きながら
信徒は不意に顔を上げて
はたと筆を止めた
主よ、私が泣いたときから
主は復活の主になられたのです
私は残された生涯を信仰に捧げ
焼かれるためにこの身を渡したとしても
 それが私にできるでしょうか・・・
主よ、あなたは幾度十字架につかれるのでしょう
 
つまずきそうな頭を振って
湧いてくる涙を振って
彼は再び筆を執った
迷える仲間たちのために
 
隙間のない信仰を
育てるためには
隙間だらけの信仰を
何で満たせばよいのか
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間としての弁えが大嫌いな楽山は、自分は優秀なインテリだという根拠のない妄想によって、反省もせず、好きなように書いて責任を負わない無反省と無責任の体質となり、他者を低く見なすことが、楽山の快感の笑いと満悦をもたらすのでしょう。楽山は、精神障害の中で、最も同情できない病気です。
 
 
 
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  楽山の心霊主義2
 
 組織の奴隷になってはいけないということ
 2020年08月01日 楽山日記(LD) 今回は抜粋です。
  を改めて批判。
 
 
楽山の、人間を超えたい欲望である心霊主義が、明らかになっています。証拠といってよいでしょう。楽山には、聖書など、キリストなど、どうでもよいのです。もう、ごまかせないです。聖書と、心霊主義の超常カルトとに、同時に従うことは出来ません。
 
楽山は、人間が嫌で嫌で、超常の心霊に、ワープでもして、一気に、霊的?超人?にでもなりたいのでしょう。考えること、感じることが、苦手で、嫌になった者が、陥りやすいカルトへの誘惑、そして、教祖願望です。楽山が気取って書いて、楽山が自己満の悪意と不備をさらすことになります。
 
心霊現象というものが、全然ないのかどうか、私は知りません。しかし、そこだけに拘泥して、人間性を失うのであれば、それは、カルトの非人間としか言いようがないのです。楽山に、思慮と高等感情が見られないのは、そのせいかもしれません。
 
*組織の奴隷になってはいけないこと
ツイッターで、次のツイートを見た。
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、今度はその組織がその人間をがんじがらめに束縛し始めます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説を繰り返すことによって理性をマヒさせようとしはじめるものです。
午前6:00 · 2020年8月1日
 」
恥ずかしながら自分は、とある新興宗教の信者だったことがあるので、これは耳に痛くもあるし、心に深く染み入る言葉だ。
 
「新興宗教の信者だったことがあるので、これは耳に痛くもあるし、心に深く染み入る」ならば、霊界からのメッセージなるものを、自身のブログの記事にするでしょうか。楽山は、今も、超常カルトの信奉者だということです。
 
組織に縛られる、古いお決まりの教説、これは、人間の限界を表しています。それが、かえって、罪になることもあります。しかし、その問題を、一気に、目新しい言説をもって、飛び越えようとするところに、カルトは生まれてくるのです。
 
そして、自分がそのようなカルト教祖になりたいと、霊が分かるっぽい楽山は、欲望しているからこそ、前の、キリスト教の聖書のヨブ記についての記事から、軽々と、霊界の話に移れるのです。
 
幽霊の正体見たり枯れ尾花、楽山の正体見たり自己顕示。楽山は、霊能者気取り、現実より霊の世界に親和する者。空想非科学、空想非宗教、空想非人間が、楽山の正体でしょう。
 
(ネットより)
幽霊(ゆうれい)の正体見たり枯(か)れ尾花(おばな):恐ろしいと思っていると、何でもないものまで恐ろしく見えてくるという意味
 
「組織の歯車とはなるな!」「組織の奴隷になってはいけない!」などというのは、誰しも承知していることであり、分かりきったことだろうし、自分もこれは分かっているつもりだった。
でもそれでいながら自分は、とある新興宗教の物語…ノストラダムスが予言した世紀末の天変地異が迫っている、このままでは人類は滅亡しかねない、この危機を乗り越えるために仏陀が地上に降りた、志ある者たちは仏陀の下に集い、救世のために力を合わせるのだ、みなが協力して、この危機を乗り越えるのだ…という物語に飲み込まれてしまったのだった。はじめは救世活動に励んでいる会員たちを、冷ややかに見ていたのだが、そういう人たちと付き合ううちに、朱に染まれば紅くなるように自分もだんだんのめり込んでいってしまった。
 
「みなが協力して、この危機を乗り越えるのだ…という物語」という話に賛同して、どうして、他者を無視できると言うのでしょう。飲み込まれてしまったというのは、楽山の特徴としての、不都合を人のせいにする卑怯な他罰的被害者意識に他ならないのです。
 
楽山が組織の歯車になるのではなく、楽山が、人を、歯車のような道具として使い捨てているということです。楽山は、のめり込んだのではなく、楽山は、なんとなく、人を、のめりこませて、疲れさせ、抵抗力を失わせる、というカルトの手法を使っています。
 
楽山は、他者を、自分のための歯車にしたいのでしょう。だから、宗教など、あちこちにすり寄り、半端な知識をもって、分かったことにして、それらを、凌駕したと思いたいのでしょう。地道な努力をしたくない者が走る短絡であり、これこそが、他者を落とし入れて腐らせる罠であります。
 
そして最終的には、仏陀を自称する教祖と教団の都合がよいように動くロボットになってしまった。仮に教祖や教団に疑問を感じることがあっても、「自分の小さな頭で考えたって何が分かるものか。教祖と教団は、自分には分からない先の先を考えた上で判断なさっているのだ、自分はただ信じてついて行くだけだ」という風に自分の頭で考えることを放棄するようになってしまっていた。
 
楽山は、今もロボットです。質が悪く、整わず、単調な丁寧語をもって、人を、だましています。楽山は、小さな頭という自覚がなく、いつも利用する側にいるつもりで、大きな、そしてガラクタに満たされた頭を、ガタガタと揺らして、部品が跳ぶのもお構いなしに、自己顕示してきます。
 
楽山は、自分の頭と心で、自立して感じたり考えたりすることが出来ません。にもかかわらず、キリスト教を浅薄な屁理屈で批判し否定しようとしてきたのは、恐らく、血の通った人間的な物の見方を放棄してきたからなのでしょう。その結果が、霊能者気取りになっているのです。
 
いやはや、「組織の奴隷になるな」という教訓を学ぶためとしては、いささか高い授業料を払ってしまったものである。でもこのおかげで、権威主義だとか、太いものには巻かれろという発想からは、うんと距離を取ることが出来るようになったのはよかった。
 
楽山は、自分の権威主義にだけは気づきもせず、太いものになりたいと今も思い続けて、人を支配して巻き添えにするためにブログを書いているわけです。その偏った自己中人格が、刷り込みのボンヤリ言語と、同情をひくトホホ言語の悪習によって、人を巻き添えにしようとしてきました。
 
楽山は、それこそ、自分が太いものになって、他者を巻き込みたいだけだと思います。被害から解放されたのではなく、被害者から、加害者に変わってきたのでしょう。最後には、双方から、いちばん酷い目に遭わされることを考えないのが、自己愛性パーソナリティ障害なのでしょうか。
 
*霊界からのメッセージ
この他にも、「霊界からのメッセージ」さんのツイートをいろいろ読んでいて、なぜか懐かしい感じがして不思議だったのだが、プロフィールを読んで納得である。スピリチュアリズムは、自分のルーツであるし、その名言がツイートされているのであれば、郷愁を感じるのも道理である。
 
楽山のルーツは、スピリチュアルではなく、霊が分かるっぽい世界、即ち、超常カルトだと思います。楽山にルーツなどはなく、根無し草で、生まれ育ちからの人格障害の瓦礫を背負って生きている人だと思います。
 
「スピリチュアリズムは、自分のルーツであるし、その名言がツイートされているのであれば、郷愁を感じる」・・証拠といってよいでしょう。楽山は、人間性の深い情緒にではなく、超常の霊の世界に郷愁を感じるそうです。
 
以下は、霊に囚われた楽山という霊媒志向の超常カルトが、尊敬?するお仲間?の霊的?心理?を宣伝しています。ずいぶん、「?」が付く話です。
 
「霊界からのメッセージ」さんは、固定ツイートで、シルバー・バーチの関連書籍へのリンクを貼っておられる。
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
😃お知らせ😃
シルバーバーチは宗教ではありません。霊的真理を説いています。
シルバーバーチの関連本が、「シルバーバーチ読書会・かつしか」さんのホームページ上で無料で公開されています。
⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️
https://kokorodou.p-kit.com/page199127.html
皆さんも霊言をリツイートして霊的真理の普及にご協力を🙇‍♂
午前11:20 · 2019年11月19日
 」
ふと思い出したのだが、随分前に、幸福の科学(HS)に愛想を尽かして退会したあと、シルバー・バーチに回帰し、その思想の普及活動をしたいといっていた方がおられたのだった。その後は宣言通りにHPを作っているのを拝見したが、今も元気でおられるといいな。
・シルバーバーチの霊訓 全十二巻
それにしても全十二巻を公開というのはすごい。これはちょこっとずつ読みたいと思う。スピリチュアルな方面については、しばらく前から遠退いていたのだが、そろそろまた読んでみるべき時期かもしれぬ。
 
楽山が、いくら、読みたい、読んでみる、などと、読むことを書いて、読書家アピールをしても、読解が、自己愛性パーソナリティ障害と、理路の不整と、共感性の欠如によって、自己中に偏っているなら、読めば読むほど、さらに、偏るだけなのです。
 
霊のメッセージ、霊訓を、霊的真理と呼ぶ人の言を、すごいと言っている楽山です。こういうのを、いわゆる、心霊主義というのでしょう。人間の大切な共感性を無視して、心霊主義の世界から、キリスト教・キリスト信仰・聖書について書かれたのでは、質朴な信徒はたまりません。
 
楽山を聞き入れたら、求道者も、道を誤るでしょう。楽山の非人間的なカルト性が、いかんなく表れています。霊という言葉は、聖霊など、キリスト教でも使われますが、霊的○○といえば、宗教的な特別な何か、というような見方は、間違っていると思います。
 
シルバーバーチについて:
(ネットより)
モーリス・バーバネル(Maurice Barbanell、1902年5月3日 - 1981年7月17日)は、イギリスの心霊主義専門新聞『サイキック・ニュース』の編集者。1932年の創刊時から同紙の編集の中心となり、途中で編集権を手放した時期もあったものの、後にこれを回復し、終生同紙の編集に携わった[1][2]。バーバネル自身も霊媒であり、「シルバーバーチ」という霊のメッセージ(霊訓、霊言、霊界通信)を伝えたとされている[3]。交霊は1920年から60年近く続き、広い影響を与えた。
ウィキペディア
 
私の立場から言えば、心霊主義の、霊的メッセージに脅かされて、人間性よりも超常に従って、それを聞けば救われ、聞かなければ滅びるかのような恐怖から、誘惑に乗るくらいなら、人間のまま、地上で死にたいと思います。
 
楽山のような人間性を捨てた者が救われるわけですから、そのような世界に生存することを、私は、激しく嫌悪し、存在する意味がないと判断するからです。楽山は、以上のような人です。そうでない楽山を、楽山は表したことがないというのが根拠です。
 
だから、批判を続けています。自分を人格崩壊から守り、誰も悪影響を受けないためであり、ことの是非を考える人間でありたいからであります。同時に、楽山のような人が、増殖して幅を利かせるようになってほしくないからでもあります。
 
欲望の悪しき誘惑を、根拠のない妄想を、そして、遊び半分の思い付きを、心霊主義と呼んでいる楽山のような者が、世の中には、いるということです。間違っても、真実の追求や、人間の救済や、キリスト教などの宗教について、楽山が語ることを、真に受けてはいけません。
 
 
霊を信じる化け物

霊を信じる化け物
 
 
(2020年08月03日)
(2021年09月日02日、再録+)
 
 
 
  徒
 
徒な出会いであったかもしれぬ
片隅に腰掛けて
俯(うつむ)いていた小さな影
あるいは老婆か
生きるための祈りであったか
死にゆくための祈りであったか
別のことであったかもしれぬ
 
ああ誠に徒なる
かの人が出会い
私が出会ったのは
 
私が無駄な時も位置も捨て去りたいとき
この世で最も無為な徒労へと引き戻す
 
墓穴が欲しければ
それを指で掘り
それを再び指で埋めよと
 
そして小さな影の
かの人を思い出す
大きな雲の
空を見上げるように
 
(はっきりしたイメージではないのですが、
 教会で、小さく丸く俯いて座って
 祈っていた高齢女性の姿が今も忘れられません。
 楽山とは、真逆の姿勢です。)
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
 
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
 
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う時が
短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
(昔の、今の・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ここは「僕なりの正義」という風に、限定的に書いてるから、そこまで否定しなくてもいいんじゃないかと思います。
信者のなかには、自分は「神の正義」に則って行動してると思い込んで、他を裁きまくる人がいるし、これよりは余程いいです。
午前7:02 · 2021年9月1日
 
楽山の「僕なりの正義」は、限定どころではなく、人を人とも思わない自己中のことです。どこまでも否定し続けなければいけません。それにしても、自己正当化のためには、誰の意見だろうが、好きなように言葉尻を利用してくるから、本当に、恐ろしい男です。
 
楽山は、手段を選ばず、人のものでも、都合のよいことは何でも勝手に盗んで利用するので、決して信用してはいけません。「神の正義」ではなく、楽山は、人間の常識と良心に反しています。楽山の思想ほど、悪質なペテンを、今まで見たことがありません。人間とは思えません。
 
 
 
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