ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ホラー

 
  楽山のハラスメントの手法
 
 『闇祓 yami-hara』辻村深月著
 2022年12月07日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
自分の発言に責任を負わず、思いつきで悪口を書いている楽山には、ハラスメントについて語る資格はありません。ましてや、警鐘を鳴らすような文章を書いてくることこそ、楽山の訂正不能の有害性を表しています。あらゆる詭弁を弄して、自己正当化を企んでいる楽山からのハラスメントです。
 
嫌がらせと言わず、ハラスメントという特別の名称で呼ばれるように、人格を破壊することにつながるために、一人の人間の一生を変えてしまうほどの危機を与える嫌がらせなのです。罪悪感のない変態には、自己正当化しか出来ないのでしょう。大事なことは、一刻も早く、黙ること、去ることです。
 
 
*モラハラ
本作は連作短編のような形式になっているが、一つの物語ごとに、自己愛性パーソナリティ障害とおぼしき登場人物が、標的を選び、虐げ、支配しようとする過程が克明に描かれている。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山が、こういう記事を書いてくることこそ、ホラーなのです。嘲笑っているのだと思います。楽山ほど、克明に表れている自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)を知りません。呆れた無罪作話~妄想です。
 
 
物語の背景には若干のホラー風味が加えられているので、そこはいかにもエンタメ作品という感じではあるが、モラハラ加害者の異常さはもちろん、被害者の戸惑いや怖れなどの心情は実にリアルに描写されており、読み応えがある。本作は、モラハラ問題に関心のある人には、とても興味深く読めると思う。
 
この楽山の記事は、それ自体がホラーです。そして、エンタメ作品と評して、大したことないとでも言いたいのでしょうか。楽山の言は、根絶やしにするほどの全否定が必要だという理由がここにあります。「読み応え」「興味深く」という真剣味の無さを覚えてください。興味ではなく恐怖です。
 
 
*ヤミハラ
ちなみに、作中ではモラハラという言葉は使われず、ヤミハラと表現されている。本作の主人公は、不思議な技によって加害者の心に巣食う闇を祓うという設定なので、その意味の闇祓にもかけた命名なのだろう。<
 
大きな特徴として、加害者は、その闇に気づかないということです。相手が傷つくのを楽しんでいるサディストなのです。楽山は、傷つけておいて、疲れたんじゃないですか、などと聞いてきます。疲れさせたのは楽山なのに。そのとき、楽山は、ニヤニヤ笑って満悦気分に浸る鬼畜なのです。
 
 
ヤミハラ。
自分の心にある闇を振りまき、押しつけ、他人をそれに巻き込むのは闇ハラだ。
(『闇祓 yami-hara』辻村深月著、KADOKAWA、2021年、p.93)
 」
また主人公は、ヤミハラの加害者と被害者との関係について、次のように語っている。
「僕が捜してるそいつらは、自分の闇を押しつけることで相手の闇を引き出して、相手を同じ土俵に引きずり込むんだよ。追いつめて、相手から思考力や気力を奪って、何が正しいのかもわからなくさせる。視野を狭くさせることで相手の中の闇を育てて、狙いをつけた相手自身のことも、厭なふうに変えるんだ」
(同上、pp.330-331)
 」
 
楽山によってもたらされる闇は、ふつうの、無駄とか、疲労とかいうものではなく、人間性と人間信頼を根底から覆すような絶望的な闇であります。もちろん楽山には自覚がありません。それが、そのまま、その後の批判につながっています。楽山こそホラーなのです。既に、闇だからです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山には、罪悪感がないのみならず、人間にとって大切な反省する心も共感性も全く見られません。今までの記事と、またしても、傍観しているかのように、教える立場であるかのように、書いて来れることこそが、根拠です。
 
 
このような被害を避ける方法については、こう言う。
「接触しないことしか方法はない。一度でも接触してしまったら、完全に身を守るのはなかなか難しい」
(同上、p.402)
 」
これはどうにも救いがない答えではあるが、ヤミハラにしても、モラハラにしても、その手のことをする相手とは接点を持たないのが一番だし、仮に接点を持ってしまったとしても、できるだけ速やかに距離を置くのが無難だということなのだろう。
 
加害者の楽山が、加害者と距離を置くように忠告しています。この三文芝居の白々しさは、丁寧語の恐怖だと思います。一見冷静に見えて、悪意の計算機だけが楽山の脳で働いており、前から書いているように、楽山から人間を人間たらしめる良心を見ることは、この3年以上、皆無であります。
 
悪意の開き直りです。楽山と接触してしまったら、「完全に身を守るのは」「難しい」。楽山とは「接点を持たないのがいちばん」「接点を持ってしまった」ら、「できるだけ速やかに距離を置くのが無難」というより必須であります。自由な言論は、責任感のある人間のものです。楽山は違います。
 
注意喚起だからええじゃろ・・とでも思っているのでしょうか。加害者が注意喚起するなどは、恐怖でしかありません。寒気がします。加えて、あざ笑いの病的ナルシストが、本格的に、犯罪に向かっているのだろうと危惧します。自由な言論は、責任感のある人間のものです。楽山は人間外です。
 
 
悪意の開き直り

悪意の開き直り
 
 
(2022年12月10日)
 
 
 
  妄想
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  秘密と定め
 
二十年後殺人鬼になる幼児は
やはり幼気(いたいけ)であどけないだろう
鵜飼いの鵜(う)は
呑むことを許されないのに
食うために生きているように
養鶏場には首が並び
忙(せわ)しく騒がしく急(せ)くように
卵と肉
食われるために生きている
知られた秘密が
もはや秘密ではないように
羽ばたくペンギンは
水中を飛ぶ
 
 
  アンビバ…烈
 
嘲(あざ)笑いの顔
侮(あなど)りの口
俯(うつむ)いた身を見下ろして
氷を当てて舐(な)め上げる冷たい視線
あるとき世辞
皮肉
頼みもしない評価
の一蹴
無視
何事もなかったかのように
過ぎ去ったそれら
向けられた者には
癒えない傷を残して
しかし向けたことはなかったか
向けたことは
なかったとは言えないはずだ
と癒えない傷が疼(うず)く
自らの目が赤いと感じる
兎の目か
鬼の目か
 
自らの存続から
人類の存続の是非までを
ときに激しく神に問いかけ
自ら慙愧(ざんき)のうちに切々と祈り
強烈なる厭世をもってなお
烈々とこの世を愛さねばならぬ
 
 
  変調の朝
 
鬼畜の色をした夜が明けて
レースのカーテン越しに
ぎらぎらと射し込む朝日が
網膜を焦がし始める
まもなくあれは役場からだろうか
朝7時を告げる音楽が鳴る
夜は眠れなかったから
今日も運転は無理か
たまってくる新聞紙・パンや菓子の
空き袋・空き缶・カップメンの
軽い器・吸い殻
風もなくて
独りの部屋の中でタバコの煙が
低く筋をなして澱(よど)んでいる
消えろ
と息を吹きかける
吹いても消えない空と雲の下で
鬼畜から畜生へ
新聞の見出しを眺めたり
漢字の辞書をノートに書写している
侏儒よりも低く
ようやく眠気が差してくるころ
鳥の声や車の音
何かの工事の音
明るい音に囲まれ
耳鳴りは小さくなって
寿命だろうか生活だろうか
空っぽの抜け殻だろうか
盛んに破裂している軽い器の
重たさに息が詰まる
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の思考が齟齬を来たし、元々欠落している感受性のために、いい加減で、拙劣な文章しか書けないようです。それだけ自己崩壊してゆきながら、なおも、自慢だけは忘れないという病質は、哀れではありますが、仕出かしてきた悪事を思えば、手加減は出来ません。なぜ、書くのを止めないのでしょう。
 
楽山と接触してしまったら、完全に身を守るのは難しいです。楽山とは「接点を持たないのがいちばん」「接点を持ってしまった」ら、「できるだけ速やかに距離を置くのが無難」というより必須であります。もともと、深みのない丁寧語は、世辞の嘘からペテンに使われやすいので要注意です。
 
 
 
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  悪魔とは?
 
 悪魔とは何か? (『釈尊のさとり』増谷文雄著)
 2018年04月24日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
楽山は、悪魔とは何かを語れるのでしょうか。超常ホラー趣味の楽山は、人間とは全く別の超常の存在として考えているように思われます。ゆえに、楽山は、自らの悪魔性に気づかないのでしょう。
 
 
『釈尊のさとり』を読んだ。講演録とのことで読みやすくてよかった。
多少の補筆修正はあるらしいが、やはり口述したものはわかりやすくてよい。
ところで著者によると、釈尊は、悪魔とは何かと問われた時に、
以下のように答えたと経典 (南伝・相応部経典、23の11、魔。漢訳、雑阿含経、6の14、魔) に書いてあるらしい。孫引きだけど、その部分をここにおいてみる。
「ラーダよ、色(肉体)は悪魔である。受(感覚)は悪魔である。想(表象)は悪魔である。行(意志)は悪魔である。識(意識)は悪魔である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである」  
(『釈尊のさとり』〈講談社学術文庫〉増谷文雄著、講談社、1996年、pp.62-63)
 」
 
この著者の文章で「わかりやすくて」とは、到底、思えません。ホラー映画の悪魔ではなく、その邪悪さは、人間の性質に深く関係している者という捉え方のようです。楽山は、いったい何が分かるというのでしょう。
 
 
この部分について、著者は次のように解釈している。
ここにいうところの色・受・想・行・識というのは、人間を構成する肉体的・精神的なる五つの要素をあげたものであります。それを仏教では、古来から「五蘊」(五つの要素の意)と称して、人間はもともと五蘊の和合して成れるものだとするのであります。といたしますと、いま釈尊が、その五つをあげて、それらが悪魔であると仰せられているのは、とりもなおさず、人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔であるといっておられるのであります。 
(同上、p.63)
 」
 
悪魔について、人間とは別の超常ホラー映画に出てくるような存在ではなく、楽山のような、「人間の肉体と精神のまよい」が悪魔であると言っているようです。超常については、人間の手に負えないものとして、作り話にしないほうがよいでしょう。
 
 
これは五蘊仮和合による解釈なんだろうと思う。
それなら、「人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔である」という解釈になるのも当然ではある。
ちなみに、五蘊仮和合については、この記事が分かりやすり。
・五蘊仮和合|宇宙のこっくり亭
 
リンクだけで、楽山は引用も解説もしないので
 
(ネットより)
我は無い。
それが、お釈迦さまの教え。
ここで言う「我」とは、インド思想でいう「アートマン」。
アートマンとは、「生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する個の実体」 (真我、要するに霊魂)。
つまり、「霊魂は無い」というのが、お釈迦さまの教えです。
もちろん、「自分」はいます。
でなきゃ、今ここでブログを書いたり読んだりしている、私は一体だれ?・・・ということになる(笑)。
自分は有る。 でも、自分の実体は無い。
言ってみれば、ブッダの人間観とは、実体がなく、中身がカラッポな人間。
じゃあ、人間って何なの?・・・という疑問に答えて、ブッダは「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)という人間観を提示しました。
五蘊とは、色・受・想・行・識。
ざっくりと言えば、色は肉体作用。 他の4つは精神作用とでも言おうか。
これらは、人間を構成する5つの要素。 すべて、壊れやすくて、一瞬で壊れるのが特徴。(ただし、壊れるたびに一瞬で再生する)。
人間は、これらの要素の寄せ集めで出来ています。 
ただの寄せ集め。 中身はカラッポ。
永遠に存続するモノなど、何もない。
真実の自己は、たった今、この瞬間(即今)にしか存在しない。
 
壊れやすい、永続するものはない、・・人間の有り様でしょうか。
 
 
また著者は、上の文章に続いて、さらに踏み込んで次のように結論付けている。
さらにいうなれば、その悪魔なるものは、この外界に跳梁する非人間的存在としての悪魔をいうのではなくして、ただ人間の心理を描写するために、神話的文学形式として悪魔なる表現を利用しているにすぎないのであります。 
(同上、p.63)
 」
どうも著者の考えは、悪魔なる存在があるというのではなく、
人のまよいのことを悪魔と表現しているのにすぎないということらしい。
悪意を持って、人をたぶらかし、地獄に引きずり込むという
超自然的な存在としての悪魔について説いているのではないと…。
 
どちらの意味でも、楽山は、自分が当てはまることに、まるで気づいていないのです。そして、「非人間的存在」として、関わる人を「たぶらかし、地獄に引きずり込む」悪意と詭弁と嘘しか持ってはいないのです。超常であろうと人であろうと、良心の敵であります。
 
 
これはどうなんだろう?
上にある部分についていえば、
確かに、「人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔である」と説いているようである。
この部分については、これ以外の解釈はなさそうではある。
 
迷い、というより、悪意、なのです。迷っているなら、自覚することもあるでしょうが、悪意を生き方としてしまうと、もはや、迷いでもなく、笑いになってしまいます。笑いと怒りしか持っていない人格障害を、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)またはサイコパスというのです。
 
 
でも、だからといって、
経典の他の部分についても、すべてこれと同じ解釈が成立しうるだろうか。
経典のなかで、悪魔について語っている部分はすべて、
人間の心理を神話的文学形式で表現したものだと断言できるのだろうか。ここは疑問である。
 
だから、特別に悪性の、楽山のような、悪意しか持たず、だますことで快感を得ているような病質者もいることを、注意・警戒する必要があります。そうなると、もはや、心理ではなく、精神病理ということになるのでしょう。
 
 
ただ著者は、こうも書いている。
初期の仏教経典には、よく梵天説話や悪魔説話がでてまいります。だがそれらは、単なる神話ではございません。それらは、初期の経典の編纂されたころに、よく用いられた一つの心理描写のための文学形式であります。  
(同上、p.61)
 」
これによると、悪魔、または梵天を用いた表現形式は、
初期の経典の成立したころには、かなり一般的なものだったということらしい。
 
少なくともいえることは、超常や神霊についての話は、人に置き換えて教訓とする以外に、人にとって、手に負える話ではないのです。私たちは、地上の日常に生きており、超常に注意を向けてばかりだと、楽山のような妄想性になってしまい、人間性が壊れてゆくでしょう。
 
 
とすれば、
悪魔は現実の存在ではなく、心理描写の一つに過ぎないという解釈は、
上にあげられた部分に限定されるものではなく、初期の経典全般について言えるということになりそうだ。
 
心理描写だけにとどまらず、精神病理、精神異常、精神病質、精神破綻、精神破壊なども考えてよいと思います。それを、発症し、体現し、まるで基盤のように持ち歩き、そこから、自他の人格破壊が進行してゆく例が、まさに、楽山やシャロームとして存在しているのです。
 
 
著者は続けて書いている。
たとえば、釈尊の心中において、すぐれた思想が生れ、すぐれた所信が成立したという場合には、それがしばしば梵天説話をもって描写されているのであります。
それに反して、釈尊やその弟子の心のなかに、なんぞ疑惑やまどいなどが生じたという時には、それを描くにしばしば悪魔説話なる文学形式をもってしているのであります。 
(同上、p.62)
 」
「しばしば」という言葉からすると、
初期の経典に記されている梵天、悪魔の話は、
その多くは心理描写の一形式にすぎず、
そういうことが現実にあったということではないということらしい。
 
聖書にある超常のことは、現実にあったかどうかも併せて、人間が云々する能力はないのですから、そこからは、イメージや教訓として受け取って、分からないところは、恐れをもって、神に任せるしかないことです。一方、そういう超常にこだわって悪霊のようになっているのが楽山です。
 
 
悪魔が現実に存在するかどうかは、確認しようがないことではある。
ただ著者の意見からすると、
悪魔の存在の根拠として、仏教経典にそのことが明記されているとか、
釈尊がそれを説いたなどと主張するのは無理があるようである。
 
悪魔、悪霊は、聖書に書いてありますが、それを、そのまま、超常ホラーのことだと考えるのは早計であり、もしそうだとしても、人間に悪魔を解き明かすのは不可能と知るべきでしょう。卑近には、楽山のように、良心が無い人を、悪魔のような人と比喩~仮称しているに過ぎません。。
 
 
換言すると、悪魔それから梵天などの存在を信じるのは自由であるが、その存在証明として、仏教経典や、釈尊のことばを用いるのは無理だということ。初期の経典を読むと、釈尊はリアリストのようでもあるし、これも当然のことなのかなと思う。〈了〉
 
ここまで見てきても、楽山の書く文章は、因業のように「らしい」「ようである」「かなと思う」という曖昧な語尾が多いボンヤリ言語です。曖昧と、丁寧や柔和は、違います。とんでもないことを言っているのに、断定してないから責任はない、などという言い分は、決して成り立ちません。
 
 
悪魔みたいな?

悪魔みたいな?
 
 
(2022年08月07日、再録+加筆)
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  自棄と慈悲
 
人と人との適正な距離を
維持するだけの平静な
路面さえも失いつつある
復讐の念に燃え狂い
のたうちまわる欲求不満に
無気力・無為が横たわる
そういう自閉の距離を取るだけで
今世界中の人が死んで
自分一人になっても
冷蔵庫があって食べ物があれば
普段と同じように食べるかもしれない
今世界中の人がいても
同じだから
いや少し違う
これ以上近づきませんから
何もしませんから
と昔ハンセン氏病の慈悲深い
心貧しき偉人が言ったのを
真似ようとするかのような
苦し紛れの距離の取り方
 
二十年あまり前に戻って
二十年後を見てきたと
ひとこと言って
胸を突いて果てたいのだが
それができる仕組みではないし
今できないことを
二十年前に戻ってできるはずもないから
神様でも悪魔でも
恥さらしと知って恥をさらす
この生ける屍の肉体の
後始末をお任せするしかないのだが
少し楽になったことがある
肉親の安否を前より気遣わなくなった
自分の安否はもっと気遣わなくなった
 
 
  ある一日の告白
 
神様が一日無事に生かしてくれた
手を組み跪(ひざまず)いて
感謝すればよいのか
悪魔が一日無駄に殺してくれた
拳を握り胸を打ち
悔(くや)しがればいいのか
お前ではないか
一日を生きたのも
一日を殺したのも
充分に生きれなかったのも
充分に死ねなかったのも
お前自身ではないか
 
脅(おび)えさせるものが来る
底なしの闇から現れて
すぐそこまでやって来ている
根こそぎ掴(つか)み取ろうとする
底なしの臓腑へ落とそうとする
首の骨を潰す
脆(もろ)くなった首を吸い込む
首が伸びてゆく気が遠くなる
ぎしぎしと何処かで音がする
遠ざかる
灯がちらつく
最期に呟く
夢のようでした
声にならない
フッと蝋燭(ろうそく)が消える
消すのは作ったものだ
脅えるお前を追いかけて止まない
お前自身が生み出したものだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しないのは、非人間の性です。悪魔の性です。悪霊の性です。他に、どう喩えたらよいでしょう。決して人間の性ではありません。異常な精神または人格を持っている人、および、それに近い状態になった人に表れてくる現象~症状です。
 
現代の悪魔は、サイコパスと呼ばれる者たちでしょう。良心が無い、罪悪感が無い、平気で嘘を吐く、あざ笑いと怒り~憎しみだけで、悲しむことがない、自己中の満悦だけを求める、・・それらは、遺伝と環境から生まれてきます。交わること自体が不幸と言える対象者です。
 
 
 
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  楽山の魔物
 
 『美しき誘惑-現代の「画皮」-』を見た。
 2021年05月24日 
 幸福の科学とは何だろう?(楽山ブログ)
 
 
映画の感想ですが、箇条書きになっていて、解説はなく、断片を並べただけですから、作文になっていません。こういうところにも、楽山の人格が、表れてきます。何かを発表する際の、心構えが、自己愛性人格障害の自己満にしか向かっておらず、読者に対しては用意されてないということです。
 
(ネットより)
解説
宗教家の大川隆法が原作・製作総指揮を務め、「九尾の狐」の伝説をモチーフに描く物語。
九尾の狐に取り憑りつかれた妖魔の女性と、彼女に心を奪われた男の行く末を描く。
大手銀行副頭取の秘書として働き、才色兼備で周囲の誰もが憧れる山本舞子。彼女には、夜に銀座の高級クラブでホステスとして働き、自分の美しさにふさわしい男性を品定めするという、もうひとつの顔があった。
そしてある日、舞子は、将来の総理大臣候補とも呼び声の高い議員の塩村太郎と出会う。太郎は瞬く間に舞子に夢中になり、2人は結婚することに。
全ては舞子の思惑通りに進む中、太郎は、人生の師でもある教団の教祖・橘勝子から、舞子が「九尾の狐」に取り憑りつかれた妖魔であると告げられる。
自分の美しさによって国が滅びることを望む舞子。そんな彼女にも良心があるはずだと信じたい太郎は、葛藤を抱えながら結婚式当日を迎えるが……。
サブタイトルにある「画皮」は、中国古来の伝奇物語で、妖魔が人をたぶらかすために被る「美女の顔や手足を描いた人間の皮」の意味。
 
(ネットより)
妖魔(ようま)は、妖怪[1][2]、化け物[1]、魔物[1][2]、変化(へんげ)[1][2]の類である。
心の複雑さが容姿の美しさとなって表面に出てくるといわれており、深く傷ついた心の持ち主や激しい憎悪の炎に身悶える者たちが、ことに美しい容貌を得るとされている。[3]
 
妖怪の、水商売の、色事の、誘惑か、ホラーか、ということでしょうか。
 
楽山には、HS批判をする気のないことが、明らかになっています。そして、相変わらず、心霊ホラーに興味が集中しています。何のために、この記事を書いて、公開したのでしょう。個人の感想メモを書くにしても、よほど書くことがないのでしょうか。真剣味が見られません。
 
感想として読みづらいメモしか書けない楽山です。断片的な場面場面に、感情表現を、興奮気味に、わざとらしく書いて、・・感動しているのでしょうか。
 
乾燥した表現が多くて、深みのないのは、楽山の特徴です。元々、他者への、悪意はあっても、意欲を持たないために、目の前の対象を、面白がっているだけの楽山です。やはり、楽山がアンチHSというのは嘘だったようです。宗教として観ておらず、娯楽として、はしゃいでいる楽山です。
 
楽山が感想として使った表現は、「きれいだ」「すごい」「慣れた」「じれったい」「なかなか…」「珍しい」「意外」「もっと面白くなりそう」「この女優の次作もみてみたい」・・宗教色ゼロです。感想を書いて公開する目的は何なのでしょう。
 
『美しき誘惑-現代の「画皮」-』を見た。鑑賞中に書いたメモをここに写してみる(メモに補筆修正あり)。
はじまった。風景がきれいだ。徳島は山川がきれいでいいところのようだ。
いきなりお坊さんが現れた。
東京だ。徳島の風景とのコントラスト。
 
「メモをここに写してみる」・・まさに、メモをそのまま写しただけのようです。文章にまとめる、ということが出来ないのです。メモというのは、自分にだけ分かればいいもの、という考えなら、書いて公開しないでください。疲労を与えるだけの楽山の筆致の典型です。
 
感想だから、感じたことを書くとはいえ、それぞれの断片を、文章にせず、箇条書きで、だらだらと書いています。楽山が偉そうに語っていたところの、宗教、カルト、カルト批判、というテーマではないようです。
 
「山川がきれい」など、月並みな感想を書く必要があるでしょうか。1つの記事に感想を要約してまとめるという努力をしない楽山です。情景描写が、唐突な断片になっています。楽山の言う「いきなり」は、本当に、いきなり・・なのでしょうか。といっても、映画を見る気はないです。
 
どちらも神社参拝する服装じゃないな。でもそれだけキャラの性格がわかってよい。
音楽がメロドラマ。いや、火曜サスペンスか。
場面の切り替えが多くて落ち着かない。
主演女優は顔芸、態度豹変がすごい。熱演してる。
 
服装と書いて、服装を表現していません。メロドラマ、サスペンス、・・バカにしたいだけでしょうか。揶揄しているだけで、批判になっていません。
 
おんなだから~、おんなだから~、どうしても~♪ この手の劇中歌は苦手だったが、もう慣れた。HS映画を見るときは、劇中歌が待ち遠しい気分。
話のテンポが遅くてじれったい。どういうこと?
 
楽山が、「苦手」と書いて、何か、伝わるでしょうか。しかも「もう慣れた」わけです。しかも、ん?、HS映画の劇中歌が待ち遠しい気分だそうです。アンチHSではなかったのでしょうか。もう無理だから、アンチHSではないことを告白してるってことでしょうか。
 
表現する気もないということが伝わってきます。こういう楽山の筆致は、前からです。自分の基準だけで書いて、読者に、どうしても伝えたいという気持ちが感じられないのです。ならば、表現できないということだから、書くべきではないでしょう。
 
クラブにショパンか…。
千眼美子(清水富美加)が出てきた。役名は佳代。気取りのない自然体で気さくな人柄らしい。
稲荷神社かと思ったら、九尾の狐か。
一時間経って、ようやく話が動き出した。心霊現象が多くてHS映画らしい展開。
 
「出てきた」そして「九尾の狐か」「心霊現象」・・展開が、つながっていません。接続するための言葉~文章~文脈がありません。読者なんぞには時系列に書けば事足りると思っているようです。
 
お休み処の女性は気さくすぎる。タメ口かよ。
男の悩み、葛藤、迷いがいまいち伝わってこない。感情移入できぬ。
 
「タメ口かよ」と、唐突に喜劇のような楽山のセリフを持ち込まれても、不自然でしょう。登場した女性が、言葉遣いが荒いからと、楽山が、笑って書いていると推測はされても、粋(いき)を気取っているのでしょうか、お漏らしでしょうか、分かりやすくはなりません。
 
場面の感想で「タメ口かよ」・・それこそ、ストーリーと感想の要約が「伝わってこない」楽山の、おっとっと台詞です。こう書いて、何になる?・・というところです。平板な筆致に、わざとらしく挿入された、唐突で、違和感のある、楽山のタメ口です。
 
妖魔は自己中で人のエネルギーを吸い取ると。
佳代が男の婚約相手を知らないってどういうこと? 彼は婚約発表しており、佳代は彼の事務所に出入りするくらいに親しい立場だし、知らないわけがない。事情がありそう。
 
「妖魔」については、楽山は、解説というものを殆どしない自己中なので、ネットから、上のほうに書いたのですが、こういうこともあって、楽山は、他者を疲労させてゆくのでしょう。
 
私は、最初の数か月、正体を知らずに真に受けて交流のつもりで遣り取りしていましたが、今さらのように、つくづく、付き合ってはいけない相手だということを実感します。
 
佳代は霊能者を信じている人。「しっぽが見える」の意味を分かっていて、さらっと言える人。
妖魔は佳代の悪口を言うので嫌だと思ったが、佳代もなかなか…。
大物の妖魔の設定なのに、結界で体調を崩したり、御札に尻込みして玄関をくぐれないって…案外に小物のようだ。
 
「しっぽが見える」の意味を解説しない楽山です。狐のことでしょうか。悪口でけなすのと、また、軽口で褒めるのは、楽山の生業です。大物の妖魔という設定で、・・小物だそうです。リアルでも傍観者でしかない楽山には、フィクションでは、登場人物は、さらに小さい存在になるのでしょうか。
 
もともとは国を守るのが目的で、その手段として総理を目指していたが、いつのまにか総理になることが目的になってしまっていたと…。目的と手段が入れ替わってしまうというのは、たしかにある。真理を学び心を磨き高め人々を幸せにしたいと思って団体に入会したのに、いつのまにかとにかく会員で居続けることが目的となってしまったとか。
 
主語は、妖魔なのでしょうか。いや、総理大臣になりたいのは、太郎のほうですね。冒頭のネット検索から、舞子が妖魔のようです。「たしかにある」とは、誰にあるという意味でしょうか。
 
楽山は、妖魔が舞子で、総理になりたい男の、目的と手段が入れ替わることを、楽山には「たしかにある」と言っているのでしょうか。是認でしょうか。あってよいという考えなのでしょうか。
 
ちょっと考えれば、あってはいけないことだと分かります。そのことに、楽山は言及していませんが、関心を持たなくていいのでしょうか。
 
悲劇を知って救いを求めるのではなく、救いがあるなら悲劇はないはずと、真逆の詭弁をもって、楽山が、神を否定し、信仰を侮辱してきたことと、妙に符合します。
 
それに対して、このブログの、説明なしで、まとまらない箇条書きの記事を読んだ者としては、どう反応したらよいのでしょうか。「((笑))」とでも書き加えておけばよいのでしょうか。
 
「守護指導霊よ、わたしとともに闘ってください」。HS映画は、エル・カンターレに祈るものだと思っていたが、守護指導霊に祈るというのは珍しい。
 
(ネットより)
幸福の科学において「エル・カンターレ」は「うるわしき光の国、地球」もしくは「地球の光」という意味を持つ地球神を表す言葉で、幸福の科学の本尊である[1][2][3]。また、幸福の科学の教義では、エル・カンターレの本体部分が地上に下生したのが、大川隆法とされていることから、幸福の科学総裁の大川隆法のことも示す[4]。
 
いつものように、楽山は、用語・用法に文句をつけています。それで分かっているつもりになって、キリスト教をも、浅薄な用語の辻褄で否定してきたのです。実に迷惑な男です。
 
バトルシーン。女優はアクションがんばってる。
泣き落としかよ。これもHS映画では珍しい。エクソシストものでは、悪魔が哀れを誘うようなことをしてくるのはよくあるが、HS映画の悪魔は威嚇一辺倒が多かったのでこれは意外。
 
ホラー映画で、悪魔が、だます芝居をして誘うことはありますが、哀れを誘うようなことが、よくあるんでしょうか。それにしても、楽山の世界は、ホラーと霊の世界のようで、リアルとの境界が、書いてくる文章においては、不明瞭な気がします。これで宗教を語ってほしくはないです。
 
楽山の興味が、宗教や人生の真実ではなく、ホラーにあることは、今までも書いてきました。これで、読み取ってもいない聖書や学者の言葉を利用して、整わないまま、キリスト教と信仰を否定してきたのです。子供の感想文よりも、迷惑なのは当然であります。
 
特殊効果はZ級映画のそれのようだ。どんなに真面目な話であっても、安っぽい特殊効果が使われた途端に、すべてギャグになってしまう。こんな特殊効果なんか、いっそ使わない方がいいのではないか。
 
こういうことは子供でも分かるでしょう。宗教の映画として真面目に書くのではなく、楽山は、自分の興味から思いついたことを書いています。公開する価値のある感想文にならないはずです。
 
これは老いを醜いものとしている。老いを美しいものとしては描けないものだろうか。
女は自分の醜い姿を見られたくないとし、男は我が身を削って女を助ける。この場面は捨身飼虎っぽく、男はやがて仏陀になることを暗示しているのだろうか。あるいは耽美的にみるならば、「春琴抄」を彷彿とさせるところがなくもない。
 
また説明もなく、「耽美的」「春琴抄」などと、知識人気取りです。恐らく読んでいない。耽美主義も分かっていない。ビッグネームで自分を飾る児戯に過ぎない。楽山は、読んだと言っても、実際、目を通しても、都合のよい文言を漁って拾って悪用するだけだと、既に、知っています。
 
女は首相になる男をものにしようとするけれども、昔ならともかく、いまなら本人が首相を目指した方がよさそう。この女なら自分自身がトップに立ち、国を滅ぼすことはできそう。
 
楽山の読書も鑑賞も名目と言葉面だけであり、こういう皮肉に結び付けるのが、楽山の、見る・読む、という作業の主目的であり、また、趣味であり、さらに、それが人生であるということは、既に、バレています。これで、まともな宗教批判など出来るわけがないのです。
 
本作は、やすっぽいCGは止めて、妖魔の誘惑をはねのけ、かつ妖魔を救おうとする男の過去、葛藤をもっと詳しく描き、かつ妖魔の過去、葛藤ももっと詳しく描き、幼馴染も交えた三角関係も泥沼化させると、もっと面白くなりそう。
 
今度は、映画監督気取りです。総て、気取りだけなのです。何を強く言っているのでしょう。自分の人格と言動さえも整っていない楽山であるのに。このように、独り言を、わざわざ、書いて、人に見せる自己顕示が、楽山ブログの本質なのかもしれません。
 
最後に全体の印象をまとめると、エル・カンターレは登場せず、HSの教義紹介などもさほど開陳されなかったせいか、エンターテイメント作品として見やすくなっている。野暮ったい古臭さを感じさせるところもあるが、それも個性、特色と思えば長所となろうし、なにより妖魔役の女優の熱演はよかった。この女優の次作もみてみたいと思う。
 
結局、娯楽だそうです。実際は、楽山が、娯楽としてしか見れないからです。そして、最後は、褒め言葉です。名監督みたいな?広い心を見せているつもりでしょうか。楽山は、言葉だけで人を傷つける悪意と作為をふるってきました。実際は、包容力の器など、まるで持っていません。
 
自己愛性人格障害の楽山に近づいて、真に受けて、まともだと頼りにし続けると、楽山の煙に巻かれて、いつも自己正当化しかしてこない楽山によって、方向性や整合性が分からなくなり、理路は錯乱し、情感は鈍麻して、極度の精神疲労から、廃人へと向かうでしょう。
 
楽山は、今回のように、宗教と娯楽の区別がつかず、病識もなく、人も自分も破壊してゆく人です。楽山の排泄物に、批判以外の目的で近づかないでください。楽山の犠牲にならないように、楽山に、関わらないでください。相手にしないでください。身を守ってください。
 
 
立入禁止・危険

立入禁止・危険
 
 
(2021年05月27日)
 
 
 
  口から出たもの
 
一度口から出たものは
二度と戻ってこない
聞いた人がいて
聞かれた場面があるかぎり
もう改めることもできない
ただ変わっていくだけだ
そして巡り巡って
口から出た災いだけが戻ってくる
口から出たものが人を汚す
 
同じことを言ったつもりかもしれないが
同じこと、などありえないのだ
 
一度目に放たれたとき
引き裂かれたものや
傷ついたものが黙っていても
二度目に放った矢が同じでも
前ではなく既に後なのだから
同じことを言っても
同じこと、であるはずはないのだ
変わっていたり
死んでいたりすることさえあるはずだ
繰り返された過ちは
前にもまして深い傷
 
底なしの沼に向かって
おろちのように襲ってきては
むさぼり尽くそうとするか
さもなければ
泥のように汚れたまま
奴隷になりさがって
また傷あてに空しい呪文を求めるだろう
「愛している」と
 
(90年代か。)
 
 
 
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  楽山の偏愛
 
 『白銀の墟 玄の月』小野不由美著
 2020年12月01日 楽山日記(LD)
 
 
自らは何の責任も負わないくせに、人の責任だけは責めてくる楽山の、妄想的訂正不能の自己中思想の源泉は、怪奇ホラーにあるのだろうか、と思わせる記事であります。
 
怪奇ホラー小説のようです。それはそれで面白いのかもしれないが、楽山は、いかなるエンタやホラーの題材も、自分の宗教観に持ち込んでくるので、一種の、他者のモチーフを漁って、貪っている鬼か怪物のように過剰な思い込みを生じてしまいます。他者から得た興味を、自分の世界で勝手に広げて満悦しているストーカー的なのめり込みのように思えます。
 
十二国記シリーズは『白銀の墟 玄の月』まで読了。はじめは異世界ファンタジーのラノベだと思って気軽に読み始めたのではあったが、なかなかどうして、政治、歴史、軍事、宗教、倫理…など、さまざまな要素を含んだ濃密な物語で、読み応えのある作品だ。人気作なのも合点が行く。
 
楽山は、怪奇ホラー小説が「政治、歴史、軍事、宗教、倫理…など」を濃密に含んでいるそうです。広げるための題材になっているだけのような気がしますが、楽山は、宗教・思想を、こういうもので学んだつもりなのでしょうか。だから、楽山の理路も文脈も感情もホラーなのでしょう。
 
ちなみにシリーズ全体を通しての自分なりの感想をいえば、主要な登場人物らはみんな、講談本の武将のように命を賭して大義を尊び、筋を通して考え、行動しているのが格好良くてたまらなかった。自分にはそういう生き方はとてもできないので、それを実行する登場人物らにはほれぼれしないではいられない。
 
楽山は、「大義を尊」ぶことがなく、平気で神も義も書類のような理屈で扱い、嘘を吐きます。「筋を通して考え」ずに、好き勝手な放言ばかりしています。それで「ほれぼれ」するというのは、「ほれぼれ」されたほうが、いい迷惑ではないかと思いますが、楽山は好きなように悪用するのです。
 
無反省・無責任に思い込んで、ほれぼれするのは、偏愛~ストーカー的な兆候かもしれません。普通の読者とは違った読み方のような気がします。だから、楽山が書いたものには、いろいろな精神病理が表れてきて不思議はないと思います。
 
『白銀の墟 玄の月(一)~(四)』についていえば、仁義礼智信に徹して惑うことのない李斎には圧倒され泣かされたが、奇跡を起こす力を失い、無力な存在となりながらも、ただひたすらに民のために尽くそうとする泰麒の姿は遠藤周作の描くイエスのようでもあり、
 
「惑うことのない」ということが、楽山の場合、無反省で訂正不能の妄想的確信として結晶し、無責任と、虚言に至っています。体質は、好みと、好み方に表れてくるようです。
 
また一時は民に愛され、熱烈に支持されつつも、その後は一転して、民に誤解され、憎まれ、罪無くして裁かれようとする驍宗もイエス的な側面を持っているようであったのが印象的だった。
 
楽山のような反キリストが、キリストを褒めているのは、楽山が理解だと思い込んでいる訂正不能の低次元の曲解が前提になっているだけに、いつ見ても、吐き気のする思いです。
 
著者とキリスト教の関係についてはよく分からないが、検索してみたところでは、『ナルニア国物語』『小公子』の影響は受けているようだし、この辺りが本作にキリスト教的な要素を付加し、深味を与えているのかもしれない。
 
遠藤周作のような宗教小説ではないのに、ホラー小説に「キリスト教的な要素」などと言うのは、楽山のような無理解の決めつけが前提になっていて、楽山が、宗教を、ホラーやお伽噺としてしか考えてないことを表しているようです。楽山の思い込みこそ、ホラーであります。
 
楽山は、自分の視野を持っているつもりかもしれないが、実際には、無反省と無責任の訂正不能の精神が、楽山の精神活動を束縛し限定して、その狭い虚妄のワールドで、楽山を遊ばせている風景になってゆくのでしょう。
 
そして、例えば私などが、そのワールドを批判すると、批判として受け取らずに、やたら、攻撃だ、攻撃された、自分は被害者、などと言い張るようになるのでしょう。
 
楽山は、精神病理の症例みたいに、正直に真実を言えなくなった者の宿命として、毎回、そういう自己破壊が、表れてくるのでしょう。楽山に、忍び寄るのは、いかなる信仰でもなく、進行?する楽山自身の悪意なのです。
 
私が関わってきた、楽山の約2年の間、そして、シャロームの約十数年の間、彼ら二人は、悪い判断を変える彼ら自身の必要を感じることが一度もなく、言い換えれば、彼らについての良い判断をさせるようなことが一度もなかったということです。読めば読むほど、一度も、まともに受け取れる文章を書いたことがないという印象が深くなります。
 
 
ホラー映画は、なぜ人気があるか、考えてみました。ホラー映画は、悪が明らかであることが多いです。もちろん途中で悪になるというストーリーもあるとは思いますが、悪が悪として表れるとき恐ろしい顔と台詞とアクションになるようです。映像の怖さ、わくわく感、そして、多くは、善が苦労しながら、悪を克服するものが多いようです。
 
あとは、次から次に繰り出される超常現象の映像、つまり、空へ高く飛んだり、新兵器のような技や飛び道具や破壊、そう言ったものも魅力なのでしょうか。
 
霊が分かるっぽい楽山は、人生の支えとして、ホラーを見るのかもしれません。リアルでは、何も、いいことがないから、空想の世界に救いを求め、それによって、ますます、現実を疎かにしてゆくのでしょう。
 
だから、楽山は、ホラーの中で、宗教を語るけれど、本当の宗教の深さを、全く知らないのです。空想と現実は、分けるのが正常人ですが、ホラーで満悦して、知りたくもないのでしょう。
 
大人になっても、空想が、興味としてではなく、生き甲斐として続いているわけです。そして、先入観的なものとして、言葉だけが宗教めいてきているのだろうと思います。
 
非常に悪質なのは、空想に生きているという自覚がないために、平気で、奇跡とかの、ホラー的な内容を、宗教と信仰を語るときの基準にしてしまうことです。人に理解できない物や肉体の奇跡は、信仰の中心にはありません。
 
神がいるなら、なぜ、どうする、どうしない、などという辻褄合わせの考え方も、超常が身近になっている空想の人、楽山ならではのことです。実際は、考えても意味も結論もないことだから、ふつうは、分からないと保留して、卒業しているはずのことなのです。
 
楽山は、そこを短絡して、答えられないなら、いないさ、という感じで神を否定しているのでしょう。楽山の、神と宗教寄り?の言葉は、超常を分かっているという幼稚な気取り~妄想であります。真に受けないでください。
 
楽山は、結局、大人になれず、子供のまま、大人の言葉だけ覚えて、まともに語っているふうの芝居を続けているのでしょう。成長できず、前に進めず、小児~思春期から心の留年を重ねながら、結局、まだ、卒業できずにいる髭の生えた小児なのでしょう。
 
だから、楽山に、こちらが、何を言っても、受け取らず、楽山は、前と同じことばかり繰り返し言ってきます。そして、責任を負わない、という児戯(じぎ)に至って、ますます、現実離れしてゆくのでしょう。
 
神がいるなら、苦しんでいる人を、なぜ、助けてくれないんだ、というようなことを、楽山は言って、極めて、単純な神否定に至っています。この背景には、楽山自身が、救いと癒しの実感をいだけない未熟なままの人格ということがあるのです。
 
信仰に至る道筋も、そして、信仰の恵みも、楽山が言うような、物や肉体の奇跡のようなご利益的なところにはありません。ゆえに奇跡のご利益で救われないことを神のせいにしても全く意味がありません。
 
そこに楽山がこだわって、自己愛が勝っている間、信仰の恵みと導きは、そこにはなく、楽山が理解できずに、恨みを込めて、キリスト教を、何度も何度も、拒否して、けなして、けがして、バカにしているだけということになります。
 
欲求だけがあるような無反省で無責任で、あるべき成長が見られない楽山の症状として、深い理解や洞察や共感が出来ない、ということが書いてくる文章に表れてきます。
 
つまり、神は、そして、人は、なぜ助けてくれないんだ、というのは、楽山の実感なのでしょう。しかしながら、このことについては、無反省・無責任を改めない限り、洞察力も共感力も高等感情も成長しないのだから、何も解決せず、宗教と信仰の真実を知ることもないということです。
 
それを、嘘と詭弁で何とかできると思っていることが楽山の有害性となっているので、批判して、即ち、否定の意見を表してゆくしかないわけです。
 
 
しのびよる者

しのびよる者
 
 
(2020年12月03日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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