ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ポエム

 
  さかのぼる矛盾4+
 
 
 さかのぼる矛盾4+
 再録++
 
 
いたはずの先祖から
幾千年の恨みの坂を
今をさかのぼり
いずれ上らねばならぬ
 
経験は否定できない
個人にとっては真実になりうる
経験から与えられ考えたことは否定できない
しかしあまりに
出る杭は打たれて
マイナスの経験が繰り返されると
あらゆるものから身を引くことが真実になってくる
信じて待ち望むことが罪に思われてくる
御国に至ることも辞退すべきではないのか
 
母は恵方巻きを買ってきた
母と私で2本ずつ
恵方ってどこにあるんだろう
恵方に辿り着く確信があるわけでもなく
母は縁起を担ぐ
担いでおかないと不安な気分になるのだろう
母は南のほうを向いて弱った顎で
ぉんぐぉんぐと食らいつく
のどに詰まらせはせぬかと母を気にかけながら
私はむしゃむしゃと食卓でむさぼる
 
恵方というか
御国に辿り着かせてくださいと
祈ることも傲慢に思えてきて
この世の生が苦痛とともに
早く終わりますようにと
祈る先に神はいないかもしれないが
神は的外れの罪の祈りを聞いておられることを
神ゆえに人がいて
人ゆえに神がいることを
諦めきれずに
大いに矛盾して
否定できない経験と
大いに矛盾して
呂律(ろれつ)の回らぬ祈り
 
とても運が悪く階段のように
道を逸れてゆく阿弥陀クジなのかもしれない
 
主よ
私はそんなに良い人間ではありません
 
先祖を裏切り
父を裏切り
母を裏切り
人を裏切り
自らの矛盾をさらに裏切り
 
唇を切れるほど噛みしめながら
一歩一歩
絡みつく情の杭と
曲がった知の釘を
怒気の足裏に踏みひしぎ
幾千年の坂を上る
 
 
※ 私の母は、現在、介護付き老人ホームにいます。
 
 
 
  宿命と使命
 
 
幾千年の坂など
上れるわけもないのに
 
上る宿命を感じている
 
その坂以外に道はないかのように
 
引かれるような
引き裂かれるような
 
私は母に似ているがコピーではない
私は父に似ているがコピーではない
という当たり前のことなのだが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みであるかのような
血の筋の末端に居て
 
否定できないものが
私を縛るだけでなく
私を導いているのかもしれない
 
神はご存知であるが
私は何も知らない
 
罪の系譜
病の系譜
 
私がどうやって
福音の系譜にいるかと言えば
 
もし信仰がなくて
福音の系譜にいなければ
今、生きてはいないだろう
という否定の否定でしかないが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みの
それこそ父よりも母よりも
神に信頼しようとするのは
 
父と母の性格の中で
良くないものを私は既に持っていて
良いものを持っているかは不明であり
そこから逃れたい気持ちでもあったのか
 
神への全面的な信頼は
父への母への
他者へのそして自分への
全面的な信頼を否定し
依存を否定したいのか
 
しかし
そういう既知と不明からの自由や
コピーではない自由よりも
否定よりも否定の否定よりも大切なことは
 
他者よりも自分よりも大きな存在の命のもとで
地上における自我の必死と必滅の理(ことわり)よりも
 
神の存在ゆえに
人のわざの絶対を否定したのちには
人のわざの相対を生かすことだろう
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを好むからだ
 
 
さかのぼる矛盾

さかのぼる矛盾
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月01日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
渡辺みき四つ葉のクローバー@統一教会二世
@poo88888888
信仰の強制は虐待です。
【スピリチュアルアビュース】を広めたい。
小さい頃からこれが当たり前だと思ってた。
私たち、なんも悪くないよね。
親は間違ってたの?私は神の子なの?私は誰?
「異質」な私達を放置してきた日本社会が憎い。
でもそれもきっと、この国ではしょうがないことなんだ。
 」
午後9:57 · 2021年4月26日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/poo88888888/status/1386665675440021506
 
信仰はいやだが、スピリチュアルはいい、楽山の好みそうなツイートです。真面目に信仰を学ぶ気がなく、勝手にスピリチュアルを気取りたいからでしょう。こういうツイートを、字面だけ利用~悪用するのが、楽山の体質的な特徴のようです。
 
少なくとも楽山が神の子?でも教祖?でもあるわけがないのは、ブログでもツイッターでも、底の浅いゴシップや、いちゃもんしか言えないような、つまらない人だということだけが表れてきたからです。
 
楽山の異質性と異常性は、高等感情の感受性がない、思慮が小学生のように拙劣である、反省し学習し成長することがない、などといった経過に表れてきました。楽山のリツイートが通らないのは、これを引用している楽山は?・・スピ系になりたい大嘘吐・・きということになるからです。
 
楽山は、罪悪感がなく、全く非を認めることがないので、いつまでもいつまでも、同じことをして、同じケチをつけて、同じスピリチュアル気取りでいられるのです。正常な人なら、目から火が出そうなほど、恥ずかしくなるところでも、笑っていられる異常人格です。
 
一つには、文章の読解が殆どできないからかもしれません。あるいは、鈍麻した感受性と感情によって、批判されても、何も感じず、馬耳東風でいられるのかもしれません。ひょっとしてこの楽山の自己中は、スーパー・エクストラ・アドラー心理学的カルトなのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「だよなあ」「なんでしょうかね」というボンヤリ言語で、楽山が言いたいのは、自分の罪を「人間の性」と、人間一般に拡張する詭弁によって自己正当化を得ようとする欺瞞であります。言論の世界に、二度と来てはならない悪魔性の偽善者が楽山です。3年以上、変わることはなかったのです。
 
どうか、中途半端に、楽山も人間だから赦し合いましょう、などと思わないでほしいです。楽山と人間、楽山の精神と良心は、水と油です。一致することはありません。言葉を見繕って並べて、自分を善人に見せかけようとする楽山の偽善芝居には、二度と騙(だま)されてはいけないと思います。
 
 
 
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  細い道2
 
 
信仰は、この巷では、細い管、細い道です。聖書を読んでも読まなくても、キリストの共感に共感できる人は少ないのです。信仰を信じ込むことだと思っている人は、一つの宗教を信じると、視野が狭くなると思っているのかもしれません。
 
信仰を曲解して視野が狭くなるのは、恐らく、信仰を勘違いして、豪語したり、戒律的だったり、夢想~妄想的なことばかり言って、それが信仰だと思っている人たちかもしれませんが、それは、宗教の間違ったあり方です。
 
キリスト信仰は、人間の良心、すなわち、悲しみと共感に、たとえれば潤いと温もりに、人間を惹きつけ、働きかけるものなのです。
 
良心を持っていない人には、宗教が、ご利益の都合のよい超常現象か、念じて頷く自尊か、神と人の取引関係の仕組みに見えるのでしょう。そういう人は、人格障害の病質者として、現に存在しています。
 
信仰は、信じ込むことではありません。共感することです。その共感が忘れられないことになって、心も思考も、人間らしさを失うことはなく、むしろ求めて、人間として真実を追求する道を進むでしょう。
 
一部の、言葉だけの絶対化に走る教条主義が、わざわざ人間の器を狭くしている、というカルト的な事情は、二千年前と、まるで変わっていないのです。真の信仰は、信じ込むこととは全然違います。洗脳とは全然違います。
 
信仰に、そのような偏見を生み出したのは、一部の曲解している人たちです。それは、カルトの道であります。人が決めた道から外れると、とたんに、呪いのような言葉をかけてくるでしょう。そして、そのような、呪いのような決めつけは、宗教を自認している人だけではありません。
 
反宗教にも、そのような、偏見を与える者たちがいます。彼らは、自分の傷当てに、宗教をけなします。では、彼らが宗教の代わりになる救いを与えられるかといえば、何も提示できはしないのです。無神論は、見たところ、全く論ではなく、むしろ、無神教カルトと言ったほうがよいでしょう。
 
宗教をけなして、けなしっぱなしの者には、責任など負えません。まわりまわって、彼らが、ついには、けなされるのを、待っているだけの存在です。反宗教の煽動者は、せいぜい、宗教は、信じ足りなくてもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などという、いい加減で中途半端なことを言ってきます。
 
実際、悩み苦しむ人に何の助けにもならないようなことを言って自慢してくる者がいます。その中に、自己愛性人格障害者・病的ナルシスト・サイコパスも含まれていることを知ってください。彼らは、自慢~自慰をしているだけなのです。
 
真の宗教は、悩みがないという自覚の人に信仰を勧めたりはしません。不安を煽ったりもしません。宗教と信仰を知るのは、何らかの悩み苦しみが生まれた時からでいいのです。何故なら、悩みのない人に、悩みから救われる道を伝えるのは意味がないからです。
 
 
細い道 道なき道

細い道 道なき道
 
 
(2021年03月15日、再録+)
(2022年03月21日、再録+加筆)
 
 
 
  細い管
 
 
まことに そこはかとなく
細い管の先で 出会うもの
泣いたり笑ったりの
デリケートなところを
もらっている
または
覗いている
 
求める主体も
求める対象も
人間
または
温もり
 
それを追うためだけに
彷徨う
または
遊ぶ
 
響き合うメロディやリズム
ふらちな首や手足が
貧乏ゆすりのように
合わせようとして
外れる
または
踊る
 
喜 怒 哀 楽
 歌 音 楽 快 不快 悲
顔を向け 背け 振る
受け取って
我流に
流す
または
楽しむ
 
自己中の自己満の自覚から
流してしまいたい欲求に
答えてくれよと
欲望
または
共感
 
導かれてリンク先
ヘビメタ 重金属
顔が分からぬ
メロディが分からぬ
歌詞が分からぬ
ノイズ
または
サウンド
 
ダンシン、ダンシン、20代
ディスコなんか行ったことないのに
飲み会、二次会、空いたスペースで
酔っぱらって踊っているタコのオレ
向かいの女の子が
きれいな笑顔で近づいてきて
怖じけて引いた
今も後悔
または
今も思い出
 
まぶしいライトの
デコレーション
ミュージック
点滅
または
煌めき
 
数分が重なって
一時間二時間
過ぎる
または
過ごす
 
まことに 
そこはかとなく
費やす時間の
傷当て
または
娯楽
 
 
(2020年)
 
彷徨う(さまよう)
煌めき(きらめき)
怖じける(おじける、怖ける)
 
 
  憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に倒れるのを
足をつっかい棒にして進んだことになる
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
目を閉じる
 
 
※ 
憂い(うれい)
慌てる(あわてる)
 
 
 
 
  楽山のリツイートですが
 
楽山は、また、他者の発言を借りて、言い逃れをしてきます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
山本芳久
@201yos1
「ヨブ記」の講座の準備の為に内村鑑三『ヨブ記講演』(岩波文庫)を読んでいるが、めちゃくちゃ面白い。ヨブの苦しみに肉薄していく内村自身が人生の中で味わった様々な苦難が、迫力のある文体を呼ぶ寄せ、稀有な作品となっている。人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。
https://iwanami.co.jp/book/b270884.html
>>>引用ツイート
山本芳久
@201yos1
 · 2月28日
【4月期オンライン講座のお知らせ】
新設講座「旧約聖書入門:「ヨブ記」を読む」を開講します。この世界に生きる誰もが避けて通ることのできない「悪」や「苦しみ」にはどのような意味があるのか。この根本問題に正面から取り組んだ「ヨブ記」を冒頭から丁寧に読解します。
https://nhk-cul.co.jp/programs/program_1225650.html
>>>
午後1:01 · 2021年3月14日·Twitter Web App
https://twitter.com/201yos1/status/1370948219975331841
>>
 
「人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。」・・そうです。私の主張でもあります。この発言において、引用元は、正当だと思います。楽山は、人間を、考えることすら出来ません。だから、超常のことばかりで宗教を語ります。楽山は、人間も、神も、まるで知りません。
 
神を努めて知る、ということは、人間を努めて知ることと同値であります。人について考えることなくして、神を知ることはありません。神を知ることは、聖書を読んで考えること、そこから、人間について考えることと同値であります。
 
神を知ることは、決して、人間を超えて、神聖や心霊になることではありません。ここを間違えている例が、超常信仰であり、楽山その人であります。
 
人は、この地上で生きる限り、神聖には成れません。人は、人と世界を見て、神聖にあこがれ、神聖に究極的な希望を託す身であります。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
楽山は、人間を知りません。その表れが、無反省・無責任・無理解・無神経となって表れています。人間を知らないから、楽山は、そのままでいられるのです。そして、性懲りもなく、また、人の口を借りて、言い逃れをしてきます。当然、楽山は、神も信仰も知りません。
 
楽山は、神聖も分かるんだ!・・と、妄想を叫んでいるようなものです。リツイートにしても、本からの引用にしても、利用~悪用されたほうは、たまったものではないです。冷静を装う文章は、狼狽に過ぎません。
 
(ネットより)
ろう‐ばい〔ラウ‐〕【×狼×狽】 の解説
[名](スル)《「狼」も「狽」もオオカミの一種。「狼」は前足が長くて後ろ足が短く、「狽」はその逆。「狼」と「狽」は常にともに行き、離れると倒れるのであわてるというところから》不意の出来事などにあわててうろたえること。「株価の急落に―する」「周章―」
 
楽山は、神を知りません。なのに「神をよく知る」者のように尊大な口を利きます。楽山は、屁理屈で、神?を、オモチャのように、もてあそんでいるつもりのようです。実際には、楽山が、救いからも聖書からも、はてしなく遠いオモチャの世界に戯れているだけなのです。
 
楽山には、真面目さ、真摯さが、どこにもありません。この2年間で、楽山が表したのは、そのような偽善と作為と悪意と訂正不能の自尊過大の凝固性だけの偽物でした。善人、学者、評論家ぶっている丁寧語に、だまされないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の本性が荒らしであることが明らかになっても、控えることのない厚顔で文句を言ってきます。仲間を頼むか、またしても成りすましによって、「素直に詫び」ることなく「嘘ばかり重ねる保身だけ」で「卑怯者」で「開いた出店を畳む」こともしない立枯(たちがれ)病となっています。
 
(ネットより)
立ち枯れ病はカビが原因で、植物が感染する病気です。初期であれば生育不良を起こしますが、そのまま進行していくと根が腐りますので、徐々に下から枯れていきます。
 
 
 
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  詩と信仰3
 
詩のようなもの2つ、宗教詩2つ+。
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
悲しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
哀しい歌が今も好きです
 
(2002年07月12日、HPにアップ)
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
(1997年3月19日、HPにアップ)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
信仰告白より
不信仰告白のほうが
嘘が少ないからだ
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
信仰の危うさは、信仰者の成長を進めるためです。危うい時には、強く思い込むことではなく、人間として深く考えることが勧められているのです。
 
 (伝道の書、口語訳)7:14
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 (伝道7:14、旧約聖書)
 
 
 
信仰には、詳しい知識・知性・知能などの特別のインテリジェンスが必要ということはありません。信仰に必要なのは、人間らしい心です。それだけが必要です。人間らしい心というのは、信仰者であってもなくても、成長可能な心ということです。
 
何かを訂正不能にした人間離れした心では、一生かかっても、理解ではなく、誤解しか生じません。訂正不能が続けば、曲解になり、妄想またはカルトに至るでしょう。カルト化したキリスト信仰を見ることは、実に、稀ではないのです。
 
 
今まで、何度も書いてきたように、キリスト信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになった人が、キリストと父なる神に、生きる希望を寄せることであります。
 
したがって、神の完全性の辻褄など、分かりもしないことを、楽山のように、この世の先入観的な辻褄合わせで神を否定する屁理屈の輩などは、最初から、全く信頼するに足りないのであります。
 
 
大事なことなので、繰り返しですが、書いておきます。
 
信仰者になって、先入観だらけになってしまうようではいけません。信仰は、人間として完成するためにではなく、人間として少しでも成長するためにあります。
 
 キリストに愛される心の貧しさとは、先入観がないことです。
 キリストに憎まれる精神の貧困とは、先入観しかないことです。
 
 
大切なことは ひとつ

大切なことは ひとつ
 
 
(2021年)
(2022年03月19日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、先入観と偏見しか持たないことが、この3年数か月、変わることなく表れてきました。反省は、今後のこととしても常に必要ですが、楽山が反省することは期待できません。楽山は、浅い笑いと根深い怨念だけになっています。
 
 
 
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  昔々のポエムなど
 
 
  ルサンチマン
 
弱者につのる恨み
とも
負け犬の遠吠え
とも
負け犬根性
とも
 
それでニーチェという人が
弱者の道徳として
キリスト教を否定したらしい
また
革命の原動力でもあったと聞く
 
「神は死んだ」は
「神はいない」と違って
「かつて神はいた」ことになるのか
哲学書なんて読めやしないけど
ニーチェの真意は
単純ではないな
くらいには思っている
 
では私はというと
「神は死んだ」にも「神はいない」にも
共感とまではいかないが
無視できないものがあって
 
 
それでいて
空しい独りに同伴する共感の
主イエスが好きになり
神様に祈ることをやめられないでいます。
 
(2011年03月31日+)
 
 
  関わり
 
動物との区別だけで
人が存在するわけではない
 
関わりが生まれるとき
人称が生まれる
君・彼または彼女
・・・瓦礫の中にいる遠い人々
 
関わりがなければ
相手だけでなく
一人称「私」も存在しない
 
近くても遠くても
豊かでも乏しくても
不確かでも繋がりを求める
一人から二人へ
 
もし共感というものがあるなら
関わることで人は存在している
 
思いの中には多くの人々
知っている人と知らない人
 
弱く乏しく遠く細く
少しでも知ってみようかと
思いを馳せるとき
ここに在る意識は人間である
 
(2011年03月27日+)
 
 
  満開の山路
 
山路を行けば
琴の音(ね)が響き渡る
琴柱(ことじ)の両側で
血まみれの絃(いと)が
乙張(めりはり)をつける
ときに襟を立てて
満開の散り急ぐ
おなじときに
 
山路を下れば
いっときも留(とど)まってはいない
絃の響きよ
 
葛折りの急坂に
散り敷いて重なる音色に
いずれにせよ向きは変わるのだ
 
舞い曲がり滑り転び落ちる
おなじときに
 
(2000年04月12日+)
 
 
  後ろの正面
 
点はあまりに小さすぎて
線はあまりに細すぎて
面はあまりに薄すぎて
立体は時間に負け続け
後ろの正面
誰も見たことがない
 
点を打てば長さを引いてしまい
線を引けば幅を描いてしまい
面を描けば凹凸が生まれ
立体を造れば時間に流されていて
 
幾たび振り返っても
いないはずの昔と今が繰り返し
お互いに行きずりの手を伸ばし
行き違いに遡り
行き倒れの未来の
後ろの正面
嫌というほど味わっている
 
(2000年04月12日+)
 
 
  季節に
 
すぐにでも
と誰もが思っている
でも
すぐには出来ない
と誰もが知っている
 
さて桜が咲く頃だから
心に浮かべてみようかな
 
話題になりにくいときもある
季節の便り
 
きれいな花を
皮肉に感じるかもしれない
 
でも私は
私の皮肉な人生が散ってゆくとき
きれいなものを見ていたい
 
なりたい
という夢でも幻でも
 
(2011年03月31日)
 
 
  浮かべる
 
心に花を浮かべられる日は
例えば
いやな顔や物がずらっと並んだり
いまわしい出来事がくりかえし浮かんだり
まるで心が
瓦礫や鉄屑に囲まれているような日よりは
マシな日なんだろう
 
(2011年03月31日)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
裏切られた果てに
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
飛沫を受けて 信仰

飛沫を受けて 信仰
 
 
(2022年03月12日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
とぼけて、ごまかして、うまくやったと思っても、失ったものや、得られなかったものが、増えてゆくだけです。さらに嘘を続けていると、もはや、嘘なしでは、何も成り立たなくなり、成り立ったように見せかけることも出来なくなり、嘘吐きが常習の生業(なりわい)になってしまいます。嘘の国です。
 
 
 
 st問題資料集(編集方針、目次、後記)
 2022年03月08日 楽山日記(LD)
  より抜粋して批判。
 
常識人ぶっても無駄だということです。既に、バレているのです。ネトウヨ、無神教カルト、自己中の荒らし、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、まともな応答ができず、代わりに詭弁を返してくる楽山の、インテリ芝居にだまされないでください。
 
*後記
資料集をまとめていて、気がついたことが三つありました。
まず一つは、この議論はすでに終わっているということです。すでに結論は出ているのに、同じことを繰り返し議論して、時間を無駄にしていると…。
 
楽山は、答えられないために、終わったことにしています。実際は、こちらの言うことを無視しているに過ぎません。楽山は、幼稚な文言で、根拠もなく、キリスト信仰とキリスト教と神を否定しました。楽山は結論から始まって、つまり、最初から、気に入らなければ否定と無視で固定してしまう人格です。
 
楽山は、議論など、したことはないと思います。恐らく、多くの言論者や宗教人を、混乱させ、疲労させ、ひょっとしたら病気にしてきたのではないかとも思います。しかも、そういう自分の加害について、自覚も病識もなく、反省も修正も出来ない人なのです。
 
もう一つは、自分の考えに変化はないということです。細かい部分はともかく、大枠は昔も今も変わらないということです。
 
楽山は、自己正当化に加えて、今回は、受け取らず無視してきたことについて、「変わらない」という言葉が通用すると思っているようですが、それは成長不可という症状です。楽山は、まともな言論者ではなく、いちゃもん屋ですから、思想・宗教などの真実追求の場で、応答など出来ない人です。
 
三つ目は分かりきったことですが、世の中にはいろいろな人がいるということです。ネットではリアルでは会わないような人との出会いがあるので、余計に強くそのことを感じます。つくづく、人それぞれというのは本当だと実感した次第です。
 
楽山のような人は、まともな人間にはいません。まともな人間から、外れて、嘘と詭弁で、だまして、人を操ることに快感を覚えた精神病質サイコパスです。前に書いたのですが、「人それぞれ」は、良識を弁える言論者に成り立つことです。楽山のような異常者には成り立ちません。
 
楽山は、丁寧語で誘ってきますが、実際には、他者の言う論理も情緒も全く理解していません。それで、楽山は、理論家を気取って、末節的な言葉から命題いじりみたいな論理ゲームに誘導して、相手が疲労するのを見て、悦に入るサディストなのです。言論の場から、まず最初に追放されるべき人です。
 
私の楽山批判は、楽山を変えるためではありません。楽山を、近づいたり交流したりしてはいけない変質者として、けっして相手にしてはいけない者として、否定して、その情報を広めるために、書いています。したがって、楽山が応答するかどうかは全く関係ありません。
 
前に書いたことがありますが、楽山は、読んでいないか、体質的鈍感か、読んでも理解できない知能の障害か、記憶障害であろうと思われます。恐らく、それらの障害は、自己中心という生き方から来ているのでしょう。いわば、経験から学習できない楽山の自己愛によって、楽山が鈍麻しているのです。
 
 
 
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  喪失の日記
 
 
その前に、昨日アップした記事
楽山は無神教カルト
ですが、
 
『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』ってどういう意味でしょう。書いてある内容からは、「信じない人」が信じられるように・・ではないことは明らかです。
 
むしろ、「信じない人」が信じないでいられるように、ということ、言い換えれば、「信じない」ことを促進するために、という意味としか思えません。楽山という反キリストが、キリスト信仰をおとしめる記事だということでしょう。実に悪意に満ちた詭弁のタイトルです。
 
 
 
昔の、私の詩のようなものと、楽山の記事など、載せてみます。
 
 
  こぴぺ
 
つめたくなでられる
ネガになる
みやすい
やすやすと
きえる
あらわれる
けされる
はられる
もどせる
としをとらない
でんし
おぼえる
わすれる
としをとる
ひと
ネガになる
もどせない
きかない もう・・・
フリーズ
 
 
  黒い土
 
やっと見つけた黒い土を
しばらく見つめたのち
手に掬(すく)って
握りすぎて指の間からこぼれないように
持って帰って鉢(はち)に入れた
何も植えずに毎日水をかけた
ときどきは目を閉じて触ってもみた
 
日光に明るく照らされて土
寒い季節が終わる頃
知らない小さな芽を出してきた
未熟な緑
 
切り取らず
切り取られず
踏み付けず
踏み付けられず今度は
たくましく生きられたらと
語りかけた芽の下に
古い友人が眠っている
 
 
  冷たい風
 
冷たい風
動かぬ山
火の国の 火の山
ときに山肌の色を変えて
煙と雲の向こうに
命を生む太陽
命を奪う太陽
 
冷たい風
動かぬビル
人の国の 人の山
ときに人々の顔色を変えて
雑踏と騒音の向こうに
命を生むシステム
命を奪うシステム
 
冷たい風
ふらつく私
私の国の ウソの山
ときに人々の顔色におびえて
心と体の中に
明日を生む命
明日を奪う命
 
 
 
喪失

喪失
 
 
(2022年02月15日、再録+)
 
 
 
 はじめまして
 2013年02月16日 楽山日記
 
ブログをはじめました!
コメント大歓迎です。
これからどうぞよろしくお願いします!
 
↑楽山日記ブログの最初の記事です。
 
Comment(1)
1. 楽山 (自由)2018年06月02日 05:14
こちらからも、はじめまして!
わざわざ、ご挨拶、ありがとうございます。
また遊びに行きますね。
 
その記事についたコメントです。「楽山(自由)」はタイトルでしょうか。2013年から5年後の2018年に、自分で自分にコメント入れているのでしょうか。
 
 
 
 心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん
 2013年02月16日 楽山日記(LD)
 
楽山日記ブログの最初から2番目の記事です。
 
心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん
(菅原道真)
 」
 
(ネットより)
心さえやましくないならば、ことさら神に祈らなくても、おのずから神の加護があるであろう。菅原道真の作と伝えられる歌。
コトバンク
 
この道歌を知ったときは心から感動したものだった。それ以後、時折、口ずさんでいるけれども、その感動が色あせる気配は少しもない。
 
今までの経緯を思えば、「誠の道」・・笑わせます。実際の楽山は、平気で嘘を吐き、人をだまし、詭弁で誘導し、反省せず、責任を負わない人です。その自覚がないならば、ある種の狂人です。道歌の実質は、影も形もありません。楽山は、「菅原道真」に泥を塗っています。
 
(ネットより)
道歌(どうか)は、道徳的な、または教訓的な短歌をいう。様々な体験から出た世智であり、訓戒である。昔から日本人に親しまれている。
 
「至誠、天に通ず」は勇まし過ぎて気圧されるような感じもあるけれど、こちらの方はたおやかでありつつも秘めた力強さがあるというのがなおいい。大好きな道歌。
 
楽山には、天の加護ではなく、正体がバレて、全否定の報いが来ているわけです。厚顔無恥の楽山が隠そうとしてきたのは、腐った本性であり、数々の罪と悪と偽善の、やましさのフルコースのようなものです。どこまでも、嘘と詭弁以外、何も返してこない楽山であることが証明されています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「嘘ばかり重ねる」楽山は、「保身だけの卑怯者」の楽山は、バレてしまえば「魅力の欠片もない」のだから、引用し推測し理路を整えることに、すべて「失敗した」楽山は、「開いた出店を畳むしかない」のです。楽山の言は、無反省・無責任が加わって、さらに、心の健康に障(さわ)ります。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
言論による被害を無くすと同時に、言論の自由は担保されるべきだと思います!
『ツイートのスクショは著作権侵害の裁判にもの申す!【後編】〜スクショツイートは表現の自由と言論の自由を担保するために認めるべき!〜』
 」
「(引用元)
今回の裁判所の判定は「実際のTwitterの使用実態を無視したもの」と言えます。 重要なことは、「正当な批判は認められるべき」「自衛の手段として対抗言論は必要不可欠」であり、「悪質な誹謗中傷、名誉毀損は内容で判断するべき」であって、言論の自由はよほどのことがない限り認めなければならない、ということです。
 」
 
恐らく、楽山は、上の「言論の自由」に反応し、楽山が今までやってきた言論の勝手放題を暗に主張したいようです。またしても、理路にお構いなしに、自己正当化しているようです。自由と勝手の違いが分からないのです。この無遠慮な勘違いこそが、無恥の人格の怖さなのです。
 
楽山の悪質な文章に対する「正当な批判は認められるべき」「自衛の手段として対抗言論は必要不可欠」であります。楽山の内容は嘘と詭弁、その動機は我欲であり、私の批判の動機は、悪質な誹謗中傷ではなく、楽山が隠そうとする非道に対抗する、という必然があることに他ならないのです。
 
「よほどのこと」を、ずっと続けているのが、楽山の企みの世界です。それで、まともな人物を装い、罪悪感の代わりに、だまし、ごまかし、自己顕示欲の快感に浸るのが楽山です。楽山には、人間の節操というものが、養われていません。自己愛性人格障害で、罪悪感がないのです。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
いいこと教えてあげる。
好きな人のことを沢山考えると、
嫌な人のことを考える時間が減るわよ。
 」
 
「好きな人のことをたくさん考える」?・・楽山にだまされてくれる単純な被害者のことでしょうか。「嫌な人のことを考える時間が減る」・・心の持ち方の教えを、楽山は、悪だと責められたら、責めずに褒められることを考えて、結局、無視しよう、という自己正当化の詭弁に変えてしまう人です。
 
嫌なことを考える時間が減る、という、リツイートを絶対化して、悪用して、楽山には、とっても美味しい教えにしています。嫌なことは、無かったかのように、無視するといいよ・・と言いたいのが、楽山です。言葉の重心をズラして破壊する悪意だから、楽山を許すことは決して出来ないのです。
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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