楽山の幼稚2
 
 『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著
 2020年07月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
(ネットより)モラルハラスメント
モラル(良識とされる道徳や倫理)によって行われるハラスメント(嫌がらせ)。 俗語としてモラハラと略すこともある。
 
去年の楽山の記事ですが、改めて批判します。楽山は、いかんなく、自覚のないモンスターぶりを見せています。モラルハラスメント・アニマル楽山といっても過言ではない。楽山は、自己中からの判断だけで、都合の悪い人を無視し、理解もできないまま宗教をおとしめる人です。
 
楽山の論理めいた詭弁は、扉を、その外見だけから、開けないままで、先は空しいと言うのに似ています。扉を開けて中に入るのが面倒で、机上で、中の部屋を、決めつけて満足しています。一切の労苦をしないで、真理を得たと思いたいだけの幼稚さです。
 
本書では主に進化心理学の立場から男と女の心理について考察しているが、あっと驚かされる話が沢山披露されていて面白い。たとえば誤解を恐れずに大雑把な言い方をすれば、一夫多妻は女性に有利で、離婚は男性に有利だとか、結婚相手に求めることは男と女とではどのような違いがあるかなどだ。こういう話は実に面白い。
 
楽山は、「あっと驚かされる」のだそうです。しかし、このような楽山の発言に、全く信頼性がないことが2年余りの批判によって明らかになってきたのです。あっと驚く楽山ですが、驚きを表す単純な言葉しか思いつかないようです。「実に面白い」も、表現の乏しさを表すだけです。
 
楽山が、あっと驚くことは、小学生なら、驚くかもしれないが、中学生なら、あまり驚かず、高校生なら、舌打ちをするようなことでした。自己満悦しかない者というのは、本当に困りものです。しかも、訂正不能に繰り返すだけで、学習と成長がないのです。
 
楽山が言っていることを信頼しないでください。男女のことは、単純に割り切ることは出来ない、という当たり前のことが、楽山の頭にも心にも入っておらず、実に、安易に、自己満で、分かったとか、驚いたとか、面白いとかいうのが、楽山の嘘っぱちの特徴なのです。
 
ただ著者の語る人間観については、人によって合う、合わないははっきりわかれることになりそうだ。たとえばまず著者は、人の心について次のように規定している。
 
人によって合う合わないがあるのに、なぜ、上では、男女の話を実に面白いと肯定するのでしょうか。主張の一貫性がなく、ばらばらなのも、楽山の特徴です。つまり、楽山には、一定の主張というものはないのです。その時その場で、適当に言葉の字面を並べているだけなのです。
 
利他主義、同情、共感、良心、公平などの感覚は、すべて遺伝子を基に生じている。
(『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著、竹内久美子監訳、小川敏子訳、講談社、1995年、p.33)
 
遺伝子を基にしていることを知っても、予測など付かない、ということを、楽山は、考えることが出来ない人です。遺伝子がどうなって精神がどうなる・・という具体的なことは、分かってはいないのに、それで、次のようなことを言うのです。
 
おそらくは、人の精神について他の生物とはまったくの別物とし、なんらかの崇高な存在に由来すると考える人にとっては、このような人間観は承服し難いものだろうと思う。
 
崇高な存在に由来するとは、神と信仰のことでしょう。また、反キリストらしく嫌がらせの当てつけをしています。こういうことを言って、自分は真理を知っているんだ、と思い込んで満悦するのが、哀れなほど低レベルのままの楽山であり、崇高とは逆の存在の有り様を見せ続けているのです。
 
ゆえに、承服しがたい対象は楽山であり、小学生レベルの夢物語で現実を語ったつもりになる人なので、くれぐれも、真に受けないでください。楽山は、弁明も反論も出来ない無理な人です。多くの人の中に少数いるところの相手にしてはいけない人が、楽山です。
 
遺伝子の存在と、学校で習った機能を、否定するのが宗教ではありません。そういう科学で表されたものだけで説明できないのが、心です。楽山は、心が無いので、心を抜きにしたところに居たいのでしょう。そこで、何も分かっていないのに、本を読んだからと自慢したいのでしょう。
 
そこで、止まってしまうから、誰とも共感を持ち得ないのですが、無反省で訂正不能の楽山は、そのことを無視して、学習も成長もなしに、自身の鈍い停滞を神?として、自分は、他者と違って、崇高だと思い込んで、他者を軽く見て、自己満足しているのです。
 
間違っても、楽山の、低レベル、停滞、精神の鈍化、自己満足と満悦、他者の軽視、などと、同様になってはいけません。それこそが、人格破壊による、人間の、あらゆる機能の鈍麻から、コントロールが効かなった姿です。だから、いつまでも、これ見よがしに書いてくるのです。
 
また著者は、人の自由意思についてはこう書いている。
遺伝子とは、無意識のうちに私たちを動かすものなのだと頭に入れておいて欲しい。そうすれば、セックスだけに限らずさまざまな領域で、自分たちは操り人形だということがわかってくる。かろうじて手にすることのできるわずかな自由といえば、人形遣いの論理を解読することだ。
(同上、p.65)
 
楽山は、このことで満悦し、賛同しているのでしょうか。だとすれば、呆れます。
 
操り人形だと分かることも、操り人形ではなく自由意志だと思うことも、操られているだけの必然であるならば、結局、操り人形であるかどうかを考えること自体が無意味だという理路が、楽山には、分からないのです。
 
人間は操り人形だから、自分が詭弁と嘘で操ってみせるとでも思っているのでしょうか。またしても、いつものように、自らの辻褄に、短絡して、酔い痴れて、のぼせて、満悦する楽山です。酷いインチキの詭弁です。
 
このような、何も良いものをもたらさない空論は、確かに、楽山の好むところではあります。意味の帰結を考えず、とにかく、結論を出して決めつけることだけが、楽山の快感なのでしょう。それで、悟ったような気持ちになるのでしょう。浅はかです。
 
恐らく、楽山は、生きることに何の望みも見い出せないのでしょう。だから、毎度毎度、気持ちの悪い詭弁の言説をもって、信仰を卑しめるサディストになっています。楽山は、人を、絶望と怠惰と疲労へと誘導する煽動者です。類が激しく類を呼んでいるのです。
 
今回は、操り人形という詭弁を語って、絶望を広め、絶望仲間へと誘いたがっているのです。楽山の言を読んでも、真実と希望の欠片も受け取ることはない、つまり、全くの無意味発言と無責任が楽山だということを知ってほしいと思います。
 
これはドーキンスの『利己的な遺伝子』で語られている人間観と同一のものだろう。
いくら個体レベルでは利他的に見えたとしても、遺伝子は一貫して利己主義を貫いている。
(同上、p.240)
 
遺伝子に、感情はありませんが、利己という主義があるのでしょうか。遺伝子を見ることも測ることも出来ない楽山が言っています。比喩表現であることは分かっているのかな・・とさえ思います。
 
喩えであってもなくても、遺伝子の利己主義が、人間の利己主義につながるわけではないのは、次元が違うのだし、かつ、遺伝子をモニターも出来ないのだから、常識があれば、当然のこととして、分かるはずなのです。
 
しかし、利己主義の自己中の楽山は、利己主義という言葉だけで、自らの自己正当化が成ったかのように、大発見?であるかのように、驚くべき理解?だと思い込んで、酔い痴れて、"残念だが、これが真実だよ" と言わんばかりに、書いてくるのです。
 
真実への、真っ当な追求が出来なくなった楽山は、殆ど、学者からの文字列を運んでいるだけのピエロです。それで見栄を張って、付き合う人をおとしめ、本を理解できず、心を思いやることもできないまま、ガラガラ音やガチャガチャ音を立てる陶器の破片のようです。
 
これも上と同じ人間観だ。
 
操り人形のどこが人間観なのでしょう。見たことも分かったこともない遺伝子なのに、遺伝子に規定されているというだけで、総ての結論を得たかのような気分になるのでしょうか。
 
その結果、虚無に陥り、努力を怠り、何も実のあることを学習できなくなって、都合の良い文言だけを、本の中から漁って投げてくる楽山の惨劇であります。楽山は、殆ど原始的な反応系です。
 
先に述べた通り、こういう考え方には人によって合う合わないはあるだろうが、自分はこれをユニークかつリアルに感じるタイプではある。これが進化心理学というものであるなら、もっと知りたいとも思う。
 
合う合わないではなく、楽山は、理路が全く分かっていません。ユニークかつリアルではなく、未熟かつ幼稚なのです。分かっている自分という慢心があると、こうなります。その後の学習を怠ってきた楽山の、これまでと、これからの、経過は、恐らく、とても悲惨です。
 
人間の心…たとえば「利他主義、同情、共感、良心、公平」、信仰、愛情、希望、うそ、エゴ、怨恨、懐疑など、崇高または下劣なあらゆる心理を、超自然的な何かを持ち出すことなく、進化論で説明できるとしたら、実に面白く、興味はつきない。
 
人間の精神を進化論で説明するという虚妄を語る楽山です。楽山は、「興味は尽きない」と書いていますが、それは、真実の興味ではなく、自己満悦欲求に過ぎません。自己愛性に凝り固まると、このような人格になって、あらゆる間違いが噴き出してきます。
 
人間の心理を、進化論で説明することは出来ません。個別と全体、人間と人体、という、追究のワールドが全く異なります。それに、心の問題は、"論" で尽くすことは出来ません。楽山は、それも分からないのです。楽山の異常性の病理は、増幅して、人格の退化を進めています。
 
楽山が欲しているのは、自分は偉いんだという満悦だけですから、そのうち、今度は、現実の市井(しせい)で、悟り?を語り始めるかもしれません。だまされた人々と、自己中のお仲間も、巻き添えになるのでしょうか。そうなれば、カルトだと、はっきり分かりやすくはなるでしょう。
 
精神病院に収容されるでしょうか、恐らく、否です。人格障害は、医療や薬では治らないので、扱わないでしょう。犯罪行為に及ぶまで、野放しになる可能性が大です。
 
楽山の人格の低格化は、凄まじいものがあると思います。それとともに、羞恥心もなくなり、今後、さらに、誇大妄想を、実際は、絶望への妄想を、むやみに押し出してくることが予想されます。
 
楽山については、関わらないことと、批判することと、情報を敷衍(ふえん)すること以外に、出来ることはないようです。批判は、批判する気になった人がします。楽山は、情緒も理性も、まともではない危険人物です。どうか、近づかないでください。
 
 
※ 
 
楽山の言の、語尾を「と言えなくもない」「否定できない」「かなあ」などは、語尾を濁しているから断定していないつもりのようで、それで、楽山がやってきたのは、多くのことを曖昧なボンヤリ言語でごまかして、責任を負わない態度でした。しかし訂正不能であれば断定なのです。
 
しかし、断定して、訂正不能でありながら、楽山は、責任だけ負わないのです。何だか、とても、イージーな言論を、楽山は、完成しているつもりなのですが、全く成り立ちません。自己愛者が考える論理というのは、大方、そのようなものに堕しています。論理構築過程が、既に詭弁です。
 
何故なら、通常、人間は、何を言っても、何をぼかしても、書いても、総ての語尾には「と思う」が付いているようなものだからです。それが、楽山には分からないのです。いったい、どういう論理を学んできたのでしょう。人間の言葉ではなく、記号の遊びごとしかしていません。
 
神を否定しておきながら、ある教会を褒めたり、祈り芝居の詩のような?ものを書いたり、否定も肯定もしていないから、責任問題は発生しないと、言っていたこと、言論の論理が分かっていない証拠です。否定と肯定、両方とも、それぞれ、その都度、責任は発生します。
 
このように、楽山には、何か発言するたびに、無責任な詭弁の必然があり、元の言論の責任+詭弁の責任が、大きな問題、というより、大きな作為の欺瞞として発生してきます。治らないでしょうから、議論においても、論者の精神衛生上も、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
断定していないと言い張りますが、語尾を曖昧にすれば断定していないことになるなら、楽山には、すべての議論は結論が出ず、楽山の言論は不能という循環になります。責任を負いたくないものだから、曖昧で柔和を装う楽山の企みは、無意味です。
 
 
背伸びして折れる

背伸びして折れる
 
 
(2020年07月13日)
(2021年07月29日、再録+)
 
 
 
 イメージ断片
 
緑の向こうに
濃い緑
その向こうに
また緑
その向こうに
バキッ
耳に残る
急ぐ足の下に枯れ枝が
たまたま折れやすくあっただけなのだが
 
走るオートバイの上から
葉を残した
落葉樹を見つけるのに時間がかかった
寒さはすでに
秋から冬を教えているのに
秋には秋を
なぜ探す
 
枕木の上に横たわる
霧を轢(ひ)き轢き
列車は自らを牽引する
遠く向こうの霧の中へ
後戻りできない水滴を乗せて
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
自覚がないから、神を自称し、人にああしろこうしろと説教できるのかもしれないですね。
自分を棚の上において、人にああだこうだ言うことにかけては、大川さんに勝てる人はいないでしょう(笑)
午後7:44 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
また、他者のことを「(笑)」っています。自分が、いちばん、醜いことに気づかないのです。楽山の言ってることが当てはまる悪は、楽山に他なりません。詭弁と嘘による誘導、乗らない人は無視する。自分を棚に上げて、「人にああだこうだ言う」のは、楽山です。
 
楽山を受け入れると、疲労し、人格が破壊されます。楽山とは、議論してはいけないし、関わってはいけません。世辞を真に受けないでください。楽山を相手にしないでください。ある時期に、霊が分かるっぽいと思い上がり、いつも満悦したいために、人を人とも思わず、詭弁の餌食にします。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
最近は、この手のニュースを見るたびに、大川隆法が表社会の高い地位についたら、過去の言行をさらされ、えらいことになるだろうなあと想像してます(笑)
 (引用省略)
午後7:28 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、性懲りもなく「えらいことになる」ことを「(笑)」っている楽山です。人格に締まりがなくなってきたのでしょうか。無意味に、無理に、他者を嘲笑いながら、低次元の快楽を、笑いを、求めているようです。
 
楽山が「社会の高い地位についたら」ネットで、言ってきたこと、やってきたことなど「過去の言行をさらされ、えらいことになるだろう」と思います。楽山のように、他者を、自分の都合だけで無視して、勝手に発信だけを続けるなんて厚顔は、社会人でも、まともな人間でもありません。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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