ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  とほほ?・・3
 
 「第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月23日
  を改めて批判。
 
 
楽山の言葉は、決して、素直に読んではいけない、というのが、今までの私の学習の経過と結果であり、今回も、その楽山の言葉の災いが表れています。素直に受け入れでもしたら、真実ではなく、人格は無視と怠慢と破壊の方向にしか向きません。
 
いつのまにか、知らず知らず、楽山に盲従してゆくことになり、本来の、知性と感性の学習も、その結果としての成長も、できなくなるでしょう。楽山こそは、反キリストの典型として、こうなってはいけない、こうなったらおしまい、という例として、語り継ぐべき対象であります。
 
 
『ヨブ記講演』の第二講を読了。その内容を自分なりの言葉で要約、メモしておきたい。
 
メモではなく、楽山の観念的で訂正不能の先入観と偏見という思想の悪い要素、および、楽山発の、キリスト教への飽くなき憎悪が、ボンヤリ言語の裏に固定された曲解に表れています。
 
このように、重大なテーマについて、劣悪な発言をしておきながら、気軽な、メモ、などという言い方をして、責任逃れをしてきます。楽山の、"自分なりの言葉"は、総じて悪意ある扱いとなり、誘導の詭弁であります。
 
 
・その名がヨブであったかどうかは別として、ヨブのような人物は実在していたのであろうし、著者もまたヨブのような経験をしたのであろう。ヨブはもちろん著者にも敬意を払うべきである。
 
内村鑑三を聖書の登場人物であるヨブと並べて、同じような経験者と書いているところに、楽山が、いかに、聖書を安く軽く見ているかが表れています。発想が貧弱で乱暴です。したがって、敬意は嘘であり、いつもの受け狙いの世辞なのです。このように、楽山は、非常識の偽善者です。
 
 
・一章一節においてヨブを全き人としているのは、「人より見ての完全であって、神より見ての完全ではな」く、この場合の完全の基準は、人それぞれであり、古のユダヤでは日本より相当に高い基準で判断されていた。
(ちなみに、ヨブ1-8では、神はヨブを表して、「全くかつ直く」(『ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫)としている。新共同訳では「無垢な正しい人」となっている)
 
 (ヨブ記、口語訳)1:1
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 
 (ヨブ記1:1、旧約聖書)
 
 
神の完全と同等の完全を身につけた人間は一人もいません。「完全の基準は、人それぞれ」ではありません。自らを完全と見なすとき、パリサイ人と同じように、信仰の義は、なくなります。
 
人の肉体を持っておられたイエス・キリストの完全は、神聖なる三位の御一方ということを表しています。神聖でない人間には、正直な祈りへの賜物として、信仰の義が与えられます。
 
楽山は、正義というと、ヒーロー物語の完全な正義しか想起できないのでしょう。その小学校レベルの理解では "信仰の義" などということが理解できるわけがないのです。不完全・未熟の自覚がないということの災いという典型例が、楽山なのです。
 
楽山は、人より見ての完全どころか、訂正不能の完全と慢心の自意識から、批評家気取りで、今回も、ヨブと神を語ってゆくのでしょう。その文章が、どれだけ拙劣を極めても、不感不応の楽山は、全く気にしないで無視できるほどの、哀れな無反省の病質しか持っていないのです。
 
 
・サタンは神の許可を得て災厄をおこしている。この世の出来事はすべて神の意思によらないものはなく、またすべては何らかの意味を持ち、益となる。(ロマ8-28)
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
まるで、いつも、サタンは、神の許可を得て、神に勧められて災厄を起こしているかのような書き方です。楽山は、恣意的に、サタンも、神も、字面だけの観念で語って、貶められると思うゆえに、単純な文脈を捏造しています。つまり、災厄は、全部、神のせいじゃ!・・と言いたいわけです。
 
こういう楽山のような、神憎しに固まっている人は、自らの悪と偽善の罪を認めない、ということが表れています。知性と知識と感性と高等感情のない楽山は、いつも、妄想的に短絡します。その発言は、信頼度はゼロであり、好ましさも真実の欠片も含まれてはいません。
 
聖書の記事から、神とサタンの関係を安易に決めつけてはなりません。楽山が軽々しく決めつけるのは、楽山が反キリストだからです。サタン、というのと、楽山、というのが、近くなってゆきます。楽山は、それが、むしろ快感なのでしょうか。サタンは醜さの象徴でもあるのですが。
 
 (ヨブ記、口語訳)2:6
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
 (ヨブ記2:6、旧約聖書)
 
ここでは、サタンが、ヨブに加える災いには、命を奪うことを禁止する条件が付いています。人の命を造り、それを奪うのは、神のみの特権であります。
 
勝手に意味付けをしたうえで、楽山は、神の許可を得ているならば、なぜ、不幸が起こるのか・・みたいな、いちゃもんに結び付けたいのでしょう。ここでも妄想的に訂正不能の悪意の短絡です。
 
こういう幼稚な発想を、前にも書いて、また、今も、書いている楽山は、神を恐れず、神?を、自らの観念の中において、貶めようとしてきたのです。他でもなく、堕ちてゆくのは、いつまでも身の程を弁えない無節操の楽山であります。
 
超常の存在であるところの、神とサタンの関係については、人知を超えた領域ゆえ、人には理解できないことです。神とサタンのストーリーを勝手に決めつけてはならないし、特に、楽山のように安っぽい理路をもって文脈を作ってはならないということです。
 
楽山は、批判に反応せず、平気で同じことを繰り返したり、テーマについてではなく、幼稚な論理遊びの迷路に誘導してきて、相手が疲労するのを狙っています。それ以外に、手段を持っていないのです。とても、みすぼらしい理論家気取りの嘘つきが、楽山です。
 
楽山は、聖書と信仰について、こういうことだけはしてはいけないよ、という、反面教師としての役割を果たしているのです。つまり、ここで、サタンの役割を続けているのは、楽山その人であります。一日も早く、退いてほしいわけです。楽山の言は、誰に役にも、何の役にも、立たないのです。
 
 
・ヨブの妻は自ら棄教し、夫にもそれをすすめたが、夫人の中には財産の一部を失っただけでそのようなことをする者もいる。ヨブの妻は財産も子も失い、夫が不治の病にかかるまで耐えたのだから彼女を責めることはできぬ。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:7-8
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 
2:9
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 
2:10
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
 (ヨブ記2:7-10、旧約聖書)
 
「神をのろって死になさい」と言った妻を、正当化することは出来ません。しかし、神を呪っている楽山は、味方したいようです。
 
さらに、大仰に「責めることは出来ぬ」という楽山には、聖書と信仰の理解がなく、人間として必要な人間らしい共感もないゆえに、ヨブの妻を庇(かば)う資格もないのです。楽山のように、身の程を知らないでいると、こういう醜態になる、ということが表れているだけです。
 
楽山は、裁き主であるかのように、ヨブの妻を無罪としたいようですが、人の罪の裁きは、神に任せられます。こういうところに、上から物を言う楽山の醜悪な恣意は顔を出してきます。楽山という、極めて程度の低い病質的人格は、いったい、どこまで、節操もなく、思い上がるのでしょう。
 
 
・多くの人々がヨブを見捨てたが、三人の友はそうではなかった。真の友はありがたい存在である。ヨブはこの三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかったであろう。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:12
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 
2:13
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
 (ヨブ記2:12-13、旧約聖書)
 
楽山は、ヨブ記の主題を外したいのでしょうか。人の説得が、結局は、ヨブに通じなかったというのが、ヨブ記の大きな主題であります。
 
ストーリーも文脈も読み取れない楽山は、また、読み違いで、「三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかった」ヨブを、勝手に描いて、ヨブ記をメロドラマにしたいようです。浅はかな同情言葉で信仰は語れない、ということを、浅はかな楽山が、明らかにしています。
 
 
ヨブ記を初めて読んだときは、サタンが神の許可を得て災厄をおこすというのは、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎると感じたものだったが、この世に起きることは、よき事はもちろん、そうでない事もすべて神の意思によるということを表現しているのであるならば合点が行く。「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」(ヨブ2-10 関根正雄訳)という言葉もこの流れにあるのだろう。
 
楽山が、神を憎む勘違いのプロセスを、楽山が表しています。いわゆる、勘繰りとか、曲解とかいうものです。被害妄想的とも言えるでしょう。理解と共感のない者は、我欲に走って、我欲という物差しから、不都合を、悪と決めつけますが、自らの悪にだけは気づかない習性を持っています。
 
というのは、本当に読んで理解したのなら、「神をのろって死になさい」と言った妻の味方をするような、今までの高慢な発言も、神否定も、無かったはずです。恐らく、本当にそう思っているのではなく、反キリストの筋書きに利用しているだけなのです。
 
したがって、今までの記事の流れと、今回の記事の文脈から、ここでの、神の意志について、「合点が行く」という、楽山の言は、大嘘だということです。このように、嘘を吐き、詭弁を弄して、人を、だまして誘導するのが、楽山のやり方です。あらゆる良心の敵です。
 
 
すべてに意味があるという考え方については、近頃は目的論的な思考には共感できなくなってきているので抵抗があるのだが、でも自分の身の回りに起きた事、起きるであろう事は受け入れないわけにはいかないだろうし、そのためには結局さいごにはこの思考に頼るしかなかろうとは思う。
 
「すべてに意味がある」ということが、頼れる思考になるでしょうか、そもそも、思考の内容を示していない言葉です。厚かましい楽山だから、気取りだけで言っているのでしょう。意味が、目的が、いちいち、納得できるように、人に、いつも、分かるでしょうか、否です。
 
信仰者においても、起こってくることに対しては、悩み、悲しみ、迷い、ときに疑い、祈りのうちに、できることをしてゆく歩みなのです。楽山は、安楽以外を選択しません。無反省と無責任も、楽山が選んだ、楽な生き方なのです。そして、その選択が、大きな迷惑と害をもたらします。
 
楽山が、ボンヤリ言語で言いたいのは、神と聖書への肯定ではなく、自分の思考への依存と自慢なのです。楽山の読書には、そして、楽山の言葉には、このように、必ず、魂胆があるのです。嫌らしい詭弁の印象操作でもあります。だまされないでください。影響を受けないでください。
 
 
ヨブやその妻の心情について、内村鑑三の理解、同情は心にしみるものがある。氏は人の心が分かる優しい人のようだ。こういう人を見ると、自分はいまだに他人に厳しく、裁き癖が治ってないと反省させられる。とほほ。
 
楽山が、反省しているなら、修正による主張の変化と成長があるはずです。修正しないでいいと言うのなら、反論か弁明があるはずです。それら、正常な理路は、楽山から、一度も見られたことがありません。褒めるも、けなすも、楽山の作為の恣意の芝居だと思っておいたほうがよいでしょう。
 
今までの記事で、好きなように、キリスト教と神への呪いのような悪口を、執拗に書いておきながら、今回の記事で、そのまま、裁き癖が治ってないと反省している言葉、これこそ、嘘っぱちのボンヤリ言語の詭弁なのです。こういう嘘の同情を誘う言葉を、トホホ言語と呼んでいます。
 
この記事だけを見ても、神をのろって死になさいと言ったヨブの妻の味方をしたり、一方で、神の意志に合点が行くと言ったり、理路は、散乱、分解して、支離滅裂になっています。自分を高める以外に、一貫した意見など、楽山は、何も持っていないと思います。そして、最後は、"とほほ"・・?
 
「とほほ」なら、そもそも記事を書くなと言いたいのです。楽山は、人を痛めつけることに快感を感じるサディストなのでしょう。このような滅裂な文章を書いてもニヤニヤ笑っていると思います。寒気がします。ホラーです。とても危険です。決して近づかないようにしてください。
 
 
ホラーなどの超常は、趣味にしかなりません。信仰は、現実を考える人に与えられます。キリスト者は後者を選び、楽山は前者を選びました。
 
したがって、楽山が悔い改めの言葉を言っても、それは嘘だと見なされてゆきます。それを責める資格は、楽山にはなくなるということです。「とほほ」は、その典型ですが、ゆくゆく、楽山にとって、大変なことになるでしょう。書くたびにバレてゆくのです。こうはなりたくないものです。
 
楽山は、自己愛性人格障害の自己中ですから訂正不能だと思います。楽山とは、誰も、対話は成立しません。ふつうに対話している、あるいは、対話が成立していると思っている人は、既に、楽山による破壊が始まっていることを考えるべきです。
 
「狼と少年」のことを時々書いてきましたが、要は、狼が来た!と嘘ばかりついていると、本当に狼が来ても、誰も信じなくなるということです。楽山に対しては、関係を断ち、逃げてください。嘘吐きだけでなく、楽山こそが、狼です。
 
 
嘘しか言えない狼が来た

嘘しか言えない狼が来た
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月10日、再録+加筆)
 
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
ということを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
ということを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
ということを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
いつも成長しうるということであり
超然とすることではないから
決めつけないことである。
 
信仰は人を
決めつけや思い込みから自由にする道である。
神の前で
決めつけを語ることの罪を知るからである。
 
 
聖書を読んで
人間として受け取れることを受け取るのが信仰です。
 
人間として理解も共感もできないゆえに
人間として受け取れないことは
すなわち超常のことは
人間としては保留して
神にお任せするのが信仰です。
 
あったなかった・・を決めつけて、
そこに、こだわるのは、信仰ではありません。
 
信仰は、人間の温かい感性に響くものです。
 
日常しか知らない人間にとって
超常への方向性は、人間の感受性を鈍らせてゆきます。
能力の限られた人間としての領分を弁えるべきです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
幸福探検隊
@KOU529529
·11時間
【二世問題】親は自分の価値観を子どもに押しつけます。そのうえ正しい信仰で教育しているという意識が、いま苦しんでいる人の姿を見えなくしてしまいます。教団の外での人間関係を築くことも困難にしています。二世問題を真剣に考えましょう。救いの手を差し出している人が待っています。
午後8:28 · 2021年5月31日·Twitter Web App
 
引用元ではなく、引用~利用~悪用している楽山を批判しています。正義の味方気取りで、アンチを装う楽山に、決して近づかないでください。楽山は、「正しい信仰」を何も知りません。なのに、正しいことを教えているつもりの悪意~霊能者妄想によって、HSもアンチも、だましています。
 
楽山は、例えば自己中など、人それぞれでないことを、人それぞれと思わせる詭弁によって、楽山自作の反信仰の固定観念を宣伝してきました。楽山の生き方は、その固定した偽善のハナタカによって、人を人とも思わず、人を苦しめ、疲労させてゆくのが快感、という、サディストの汚い欲望です。
 
楽山の汚い欲望は、引用にも表れてきます。引用を止めることは出来ないのでしょうけれど、その都度、楽山の引用の動機が、楽山の欲望の悪意であることを指摘し、批判して、警鐘としています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、批判に対して、決めつけだけを返してきました。それは、返しにはなりません。楽山は、偽りを言う口だけを持ち、聞く耳を持ちません。こういう人を相手にしてはいけません。楽山を真に受けると、疲労し、感性が鈍くなり、人格が破壊されてゆくでしょう。入り口でブロックするべき人です。
 
 
 
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  中立芝居2
 
 「第四講 老友エリバズまず語る」2020年06月06日
 (『ヨブ記講演』内村鑑三)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、キリスト教と神をおとしめ、それを訂正しないまま、今度は、いかにも真面目に努力しているふうを装っています。しかし、今まで書いてきたことを否定せずに、逆方向のことを書いても、結局は、自分は中立で何教でも分かっているのです、という不変の自尊過大のアピールしか表れていないのです。
 
だまされてはいけません。人の言うことを受け取って書く、ということが出来ない楽山は、ひたすら聖書や本の中から、自分に都合の良いところを拾って来て、唾液を飛ばして言い逃れをしている見苦しさと同じです。
 
そして、最近の、反省、反省、と言いながら、人の言うことを受け取らずに、書き続ける執拗さにこそ、自己中が、他者を無視して、趣味に合うことだけを漁ってゆく自己崩壊の経過であります。反省とは真逆の態度であります。字面だけの反省言葉、真に受けてはいけません。
 
 
『ヨブ記講演』の第四講を読んだので、忘れぬうちに内容をメモしておきたい。本講の中身は前より一段と濃くなっている。
 
自尊過大のナルシシストに、信仰について、中身が濃いかどうかなど、分かりはしません。字面(じづら)だけの読書の一本道は、信仰への侮辱と堕落の片道切符を売りつけることでしかありません。
 
 
・エリパズの言葉は「苦難にある友」への言葉としては「冷酷」である。しかしこれは彼の問題ではなく「当時の神学思想の罪」である。
・「ヨブの苦闘は」「すべての真人の経過する苦闘である」。
 
先ず、エリバズの言葉が冷酷だと言っています。それは、本に書いてある、ということが担保だと言いたげです。エリパズだけでなく、神の意志を、人が代弁することは出来ないということです。楽山は、その大罪を犯しているのです。顧みられることはないでしょう。
 
楽山は、その上で、さらに、「神学思想の罪」、「真人の経過する苦闘である」と、引用でしょうか、書いて、ヨブを弁護するように見せかけ、実際には、楽山自身を弁護しようとしています。こういう文脈を、自己中と自己愛で、作ってくるのが、楽山を赦せない根拠になってゆくのです。
 
 
・当時の神学思想は「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」というものであるから、悲惨な状況にあるヨブは、何か罪を犯したからそのようになったのだとみなされ、悔い改めを求められる。
 
ヨブ記全体を通して、人がヨブを説得することが出来ず、すなわち、ヨブは、神が顕れるまで、罪を認めずに、自身を不遇を嘆き、自己正当化して、神と議論したいとまで主張を続けます。ここに、ヨブだけでなく、人間の罪の根源が表されている、という重要なヨブ記であります。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、旧約聖書)
 
ヨブ記の話というのは、人の無力と、神の絶対を、ヨブの苦境での自己正当化という罪を通して伝えているのです。神と、人の、絶対的な違いを弁えるためです。神と論ずる、なんてことは、決して出来ません。私たちは、人間として、受け取れることを受け取るだけです。
 
全部、過不足なく受け取るということもありません。私たちは、決して、神と同等ではない、かつ、絶対でもないからです。だから、生涯にわたって、祈り、告白し、悔い改め、反省し、成長することが必要なのです。
 
信仰者のための聖書の読み方としては、楽山のように、史実や字面にこだわって、自己中の我欲に短絡するのではなく、大小の文脈において、虚心に聖書が何を伝えているかを考えることが大切です。このような記事を楽山が書いていること自体、神への冒涜なのです。
 
しかし、楽山は、人に対して、さらに、神に対しても、一段上に立って批評する、という反信仰の立場から、字面だけの同情心を装い、ヨブを無罪にすることで、聖書をけがし、神をけがし、悔い改めたヨブをけがしています。楽山の反信仰全開です。
 
人格の根腐れというのは、何を言っても書いても、態度と姿勢に、既に、表れてきたし、今回も同じことです。どんなに、謙虚芝居をしても、前にも後にも、無反応の不感不応の自己を執拗に表すことで、自己顕示と誘導のための芝居だと、バレてしまうので、いっさいは、無駄なのです。
 
楽山は、人に無視されるのが嫌で、執拗に書いてきますが、誰よりも、人を無視してきたのは、楽山その人であります。これからも、恐らく、同じでしょう。化け物よりも、ケダモノよりも、はるかに、おぞましいことです。
 
 
・4.12-21は幽霊物語であり、「ヨブを諭さんとするための技巧なるか」「かかる演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは、真率において欠くる所ありといわねばならぬ」。
(4.12-16について、『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、関根正雄訳)の注釈では、「神の言葉を受ける時の心理的状況を述べている。預言書にもこのような具体的叙述は見られない」としている)
 
 (ヨブ記、口語訳)
4:12
さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、
わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13
すなわち人の熟睡するころ、
夜の幻によって思い乱れている時、
4:14
恐れがわたしに臨んだので、おののき、
わたしの骨はことごとく震えた。
4:15
時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、
わたしの身の毛はよだった。
4:16
そのものは立ちどまったが、
わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。
わたしは静かな声を聞いた、
4:17
『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18
見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、
その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19
まして、泥の家に住む者、
ちりをその基とする者、
しみのようにつぶされる者。
4:20
彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、
顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21
もしその天幕の綱が
彼らのうちに取り去られるなら、
ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。
 (ヨブ4:12-21、旧約聖書)
 
夢の啓示でしょうか。人は神の前に正しく清くあり得ないこと、そして、人が、いかに、はかなく、弱いものであるか、という、神と人の決定的な違いが書いてあります。そのことを自覚しない楽山のようなものは、聖句に書いてあるようになるのでしょう。かなり、厳しい戒めです。
 
楽山は、これを幽霊物語と書いています。楽山が、霊能者気取りで、原始反応的に、幽霊物語で済ませるのは、何も読み取っておらず、受け取っていない証拠なのです。ときは、絶えず、忍び寄ってくるものです。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、著しく鈍感です。
 
 
・5.2-7は「災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である」。
・5.17~以下は「人に挑む艱難を以て罪の結果と見、従ってこれを神よりの懲治と」した。
 
よく分かりませんが、艱難を罪の結果と見てしまえば、試練として受け取って祈り悔い改めに結び付けることは出来ないでしょう。楽山は、まさに、そういう一次元の受け取り方しかできない字面のみの思考であろうと思います。
 
 
・ヨブ記の物語を現在の教会にあてはめると、ヨブが模範的信者であり、経済的にも社会的にも成功している間は、それは神から祝福されていると解されていても、やがて度重なる不幸にみまわれ零落すると、何か罪を犯したためであろうと推測され、教会の代表者三人…「老牧師エリパズ」「壮年有能の神学者ビルダデ」「少壮有為の実務家ゾパル」がヨブを見舞い、懺悔を勧めるために訪問したという流れになる。
 
このように、キリストも神も聖書も、理解の端緒にすら達していない楽山は、未熟な短絡人格らしく、無理解を、自分にではなく、教会に当てはめて、教条主義と決めつけてゆく魂胆しか持たないことが表れています。これからも続くのでしょう。楽山という反信仰・反キリストの資料化が進んでいます。
 
 
・「罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない」。キリスト、パウロなどがその例である。
・苦難の種類は三つ。一つは「罪の結果」であり、二つ目は「懲治(こらしめ)」「愛の笞(むち)」、三つ目は「信仰を試むるために下る苦難」。ヨブの苦難はこの三つ目にあたる。第一章の天国での場面でそれが分かる。しかしエルパズらは一つ目、二つ目について語るばかりである。
・「人が艱難に会したるときは、その艱難を以てその人を審判くべからずその人格を以って艱難を審判くべし」(ブレンチウス)。
 
これも、これだけでは、分かりにくいですが、恐らく、奇しくも、楽山のことを言っているかのようです。信仰者の人格つまり人間の信仰をもって、艱難がいかなる艱難であるかを判断するべきだ、ということでしょうか。
 
これは、判断する人間の能力において、とても難しいことではありますが、少なくとも、これはこの罪の報いだというような決めつけをしてはいけない、ということとして受け取っておきます。楽山のような短絡は、厳に戒められるべきです。
 
つまり、今に始まったことではないところの、楽山の、不感不応の自己愛の自己中心からの、見下ろすような決めつけが、この悪い例に当たるということです。楽山は、楽山のどの記事においても、最悪のモデルに相応しい曲解を載せているのです。
 
 
不幸な状況にある人について、因果応報、自業自得と決めつけることはありがちなことである。宗教を信じている人が、その教義によって人を裁くというのもそう珍しくはない。恥ずかしながら自分にもそういうところがあるのだから情けない。しかもこれは間違いだと自覚していても同じ事を繰り返してしまう。ここはひたすら反省…。
 
反省しているなら、書かないはずです。書いて、自己顕示していることから、楽山は、またしても、読者を欺こうとしている、ということだけが表れるてくるのです。どこまでも卑怯な楽山、批判の貼り付けに相応しい偽善の文脈を続けています。
 
 
 2020年06月06日
 『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳
 
楽山の高慢が、いたるところに、表れるようになっています。
 
 
岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』を読んだ。「ヨブ記」は以前、新共同訳で読んだときは文章が難しすぎて大まかな意味を推測するのがやっとで分かったという気持ちには全然ならなかったのだが、本書は巻末の注釈が充実しているので自分のような基本的な知識に欠ける者でも理解しやすくなっていて有り難い。とはいえ自分にとっては、この注釈も程度が高すぎて難しいのではあるが。
 
楽山は、何も分かっていません。シャロームと同様、ヨブ記も、聖書も、キリスト教も、キリスト信仰も、神も、キリストも、理解していません。というより、人間としての受け取り方が、まるで出来ていないのです。楽山の安い脳と心は、我欲に従っているだけです。
 
それでも、書いてくるたびに尊大と言われたものだから、難しい、などと謙虚芝居をして、批判を全然受け取らないまま、また、書いてくるところに、楽山の訂正不能の厚顔無恥が表れています。あらゆる救いと赦しの機会を棒に振って、楽山の人生は存在しているのでしょうか。
 
安楽のお山の大将には、実に、安易に、誰でもなれるのです。他者の意見を無視して、こんなに本を読んだ、難しい、反省、とほほ、と書いて、あざとい芝居をすればよいのですから。ただし、これは、自他の人格の致命的な破壊を伴います。
 
気に入らないことを無視しましょう、という、アドラー教の信条を、楽山は前に書いて、実際、人の言うことを聞かず、都合の良いところを漁って本を出してきて読書家気取りを出すところが、まさに、楽山が何を書いても、けちな企みであることが、楽山の筆致を通して、いつも明らかになってきたのです。
 
 
本文全体の感想については、前に読んだ時とは印象が大分変って、ヨブとその友人たちの激しさに圧倒された。前はみな大人しい性格に思ったのだが、今回はヨブの友人たちへの反論や神に向けての言葉の激烈さ、ヨブの友人たちのヨブ批判の無慈悲さには驚かされた。これは多分前は比喩の意味がよく分かっていなかったのが、今回は注釈のおかげでその意味をよりはっきり受け取ることができたためなのだろう。
 
聖書の登場人物は「大人しい」のではなく、情感が豊かな人が多いです。楽山は、そこを勘違いして、感想を書いていますが、それゆえ、的外れと、理解力不足と、単方向の我欲の醜さだけを表す結果になっています。
 
楽山の「前はみな大人しい性格に思った」という感想は異常です。恐らく、注釈を経ても、楽山が、「その意味をよりはっきり受け取る」ことは出来ないということを表しています。受け取る器を用意することが、自己中と自己愛のために、楽山には出来ていないからです。
 
前には、クリスチャン芝居もしてきたような、楽山という人は、狼と少年の話のように、嘘を言っても、本当を言っても、結局、芝居によって嘘偽りを隠そうとする方向に向かいます。まるで、安いマジックのように、インチキなのです。
 
ですから、そのような経緯を経て、今もまた、言いがかりと言い逃れの詭弁と誘導の企みという似たようなことしか出来ないところに、受ける器である楽山の脆弱な病巣が、ますます明らかになり、みじめな人格の破綻を表すことになるのです。
 
 
自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋なので聖書のことは聖書を読めば分かるのであって解説書なんて必要ないと考えてしまったりもするのであるが、こうしてみるとやはり解説書はぜひとも必要だと痛感させられる。
 
楽山は、「自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋」・・これが弁明になると思っているのでしょうか。自惚れ屋は、自惚れ屋であるあいだ、信仰など語れませんし、語ってはいけないのです。それを、謙虚芝居に使うところにも、楽山の安っぽい企みが見え隠れしています。
 
 
宗教的に読もうとするする場合は、知識的なことに頼らず、霊感によって読むことが大切なのだろうけれども、
 
また、霊が分かるっぽい自分を出したいのでしょうか。楽山には、今まで、霊感も、一般的なインスピレーション的な直観も、一度も、文章に表れたことはありません。汚水のように漏れてくるのは、自慢と気取りと高慢だけなのです。
 
 
歴史的事実に忠実に現実的に読もうとすれば当たり前のことではあるが専門家による研究を無視する事はできないのだと思う。
 
信仰においては、歴史的事実に忠実に現実的に、共感できる心情として読もうとすれば、霊感は必要ありません。信仰においては、人間らしい、冷静な、知性と感性があればよいのです。楽山から発せられる、"当たり前"、"忠実"は、刷り込みとして、嘘っぱちであるだけでなく、邪悪な企みに満ちています。
 
こういうところで「専門家の研究を無視する事はできない」などと、専門家の言うことが分かる自分を出してきて、自身の厚顔を表してしまうような、そして、一般を軽く見るような、楽山は、どんなに選り好みの読書を続けても、恣意しか表れず、宗教と信仰の真実を受け取ることはないでしょう。
 
ゆえに、人間性も、専門知識も、何も理解できない楽山に、真実を伝えることなど出来ないと思います。どうか、だまされないでください。関わらないでください。楽山の言を、受け取らないでください。
 
 
嘘っぱちの芝居

嘘っぱちの芝居
 
 
(2020年06月07日)
(2022年06月08日、再録+加筆)
 
 
 
  失われた一人
 
失われた夜の向こうで
一人は首をかしげ
一人は嘘をついた
まだ笑顔で泣けるだろうか
真昼の星の下で
一人は別れを告げて立ちすくみ
一人は出会いを祝福して去った
まだ影は立つことを望むだろうか
夕焼けが滲む速度の中で
一人は一人に
もう一人はもう一人に
お互いの不在について語った
灯もなく誓いもなく
まだ火に焼(く)べる信条があるだろうか
夜の向こうで灰と化した紙切れが
見ることのない朝を刻んだ
 
 
  午睡
 
椅子の背にじっと凭(もた)れていても
旅をしている気分の日は
過去とも知れず未来とも知れず
あきれるような虚空が広がって
数えきれない矛盾と嘘を受容しながら
行く先もないというのに穏やかでもなく
背凭れから満たす何物もないのに
罪を知り悔いに悔いてなお
知り得なかったものが駆り立ててくる
無謀な戦(いくさ)あるいは怒り
真実を敵とし友とし
死ねばいいと墓穴に似た窪みを探し
一方では死にたくないと必死で這い回り
数えきれない矛盾と嘘を受容してしまって
どちらの可能も不可能も怠けたまま
遺言ひとつ残さず眠り始めている
背凭れに僅かの光を浴びる日
 
 
  老醜へ向かう未来
 
空気の重みで窒息する
水を飲もうとして溺れる
囁(ささや)きの微細な振動で崩れてゆく
呟(つぶや)いて日が落ちる
囀(さえず)りに囲まれて朝に潜む
空気は吸わなければならない
水は飲まなければならない
囁きも呟きも囀りも
絶えることなく繰り返される
そうして老獪に敷き詰められた塵埃の先に
やがて死にゆくこと抜きには
語れない未来がある
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘と詭弁と芝居ばかりで世渡りをしてきた楽山には、リアルの人生観も、心情も、信仰も、分別もないと思います。知的な蓄えのない楽山が言ってくるのは、受けねらいか、整理のつかない理路の幼稚な単純化か、自己愛からの欲望か、悪意と敵意の詭弁でしかなかったのです。つまり、飾りの嘘だけなのです。
 
 
 
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  楽山の見栄2
 
 ヨブ記についてのメモ(『聖なるもの』オットー著)
 2021年05月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、何も弁明できないまま、また執拗に書いてきます。神も信仰も、楽山の机上・紙上の勝手な思い込みで、ボンヤリ言語をもって書き続ける楽山を信用しないでください。言論において、無反省・無責任は致命的で、自己愛者(NPD)の単方向の勝手な言い分は、人格を破壊するだけです。
 
批判されて、反論も弁明も出来ないことで、時々、怒りと恨みだけが、半ば発作的に湧きあがり、衝動的に書くことで、憂さを晴らしたいのかもしれませんが、約2年分の、妄想的な単方向の記事、自己正当化のためだけの引用、など、既に、悪と偽善の証拠が山積みです。
 
あがけば、あがくほど、深みにはまる底なし沼に、自ら跳び込んで、泳いでいるつもりが、ブクブクと沈みながら、なお、ゴタクを並べないではおれない、という症状でしょう。楽山には、恥を知らないということの、深く、止むことのない報いが、無限の堕落として続いています。
 
人格の破綻した楽山は、また、いつものように、書き始めに著者の説明をしないという怠慢が表れています。読者のことをまるで考えないで、書くことが出来ること、それが、既に、節操を失った人格障害の、罪悪感と羞恥心の欠如した症状なのです。
 
オットーだけで、数十の候補が出てきます。「オットー」「聖なるもの」で検索しました。
 
(ネットより)
ルドルフ・オットー(Rudolf Otto, 1869年9月25日 - 1937年3月6日)は、ドイツの哲学者、宗教哲学者。マールブルク大学教授。
ウィキペディア:オットー
 
 
*つまみ読み
『聖なるもの』を読みたいと思ったのだが、自分には難しすぎたので通読はあきらめてつまみ読みをしていたら、ヨブ記について書いてあったのでメモしておきたい。
 
楽山は、通読が難しいと言いながら、「つまみ読み」で、公開できるような何かを書けると思うのでしょうか。公開するということに、恥ずかしさを感じないのでしょうか。あるいは、開き直って、読者をバカにしているのでしょうか。野卑が、増しているようです。
 
今までのことから、楽山が、なぜ、つまみ読みでもして記事を書くかといえば、理解も出来ないまま、楽山に都合のよい文言だけをさがして、自分の恣意で引用して、自己正当化に利用したいからです。いつまでも、いつまでも、神と、人と、著者と読者を、舐め続ける楽山です。
 
 
*ヨブの友人ら
まず著者は、ヨブの友人らに対する態度を正当とし、友人らの意見を批判している。これは内村鑑三も同じ見方をしていたのだった(「ヨブ記講演」)。
 
前と同じです。教条的で、説得力のなかったヨブの友人たちです。ヨブが正当だったということではありません。聖書を理解していないことが表れ続けてきた楽山が、またしても、自己正当化のために、言い張っているということです。
 
 
ヨブはエロヒムに反抗して友人らと議論した。友人たちに対するかれの態度はあきらかに正当である。かれらはヨブに対して黙せざるをえない。神を「正当化」しようとするかれらの試みは失敗に帰する。そこでエロヒム自身がおのれの義を弁明しようとして姿を現す。 
(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.169)
 」
これについて自分はどう考えるかといえば、恥ずかしながらヨブ記をはじめて読んだときは、友人らの意見は正論であり、ヨブは間違っていると思ったのだった。でもその後は著者のような読み方に理があると合点が行くようになった次第である。
 
エロヒムは神のことです。ヨブが議論することは、神への反抗ではありません。その議論が、噛み合わなかったのは、双方に責任があるでしょう。ヨブは、悔い改めました。友人たちはどうでしょう。楽山は、理解も反省もしないで、また、「合点が行く」などと軽口の虚言に堕しています。
 
 
*神義論
著者は、ヨブ記の38章を神義論として勝れたものとしている。
この神義論はヨブの友人たちのそれより勝れたものであり、ヨブ自身に非を認めさせうるほどのもの、認めさせうるばかりか、同時に、懐疑に悩まされていたかれの魂を、そのもっとも深い部分から落ち着かせることができるほどのものである。
(同上、p.170)
 」
正直な感想をいえば、自分はこの部分についてはよくわからない。ただ悩み苦しみ、心は荒れ乱れているときであっても、神と向き合えたならその瞬間に平安を得るだろうとは思う。
 
楽山には、神の前での平安はありません。嘘と詭弁に塗れてきたからです。そのヨブ記38章を引用しない楽山です。メモは、自分のためにするもの。そして、楽山は、聖書を理解していない。公開に足る理由は何もない文章が続きます。
 
自己愛性は、ここまで人間を、身の程知らずの愚か者にしてしまうという例です。楽山は、以前からですが、何も、分かち合う気はないということです。
 
38章から、神が、顕れて、ヨブを叱るところです。全部引用はしません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 (ヨブ記38:1-2、旧約聖書)
 
まさに、楽山のことを言っているようにさえ思えます。楽山は、聖書を理解していませんが、聖書を読んでもいないのでしょう。楽山の言は、神にも、人にも、通用しない言葉遊びに過ぎません。
 
「神と向き合えたならその瞬間に平安を得るだろう」・・楽山の無理解が表れています。神と向き合う、ということの恐ろしさを、楽山は知りません。ヨブは知っていました。私たちに人間は、神の前で、一瞬で燃え尽きても不思議はないのです。そういう神を、特に旧約聖書は伝えています。
 
 
いささか話は飛ぶが、臨死体験談では光りに包まれた存在との出会いによって心癒される話があるけれども、おそらく神との出会いはそのようなものだろう。
 
ここで、楽山の、信仰ではなく、超常的な臨死体験を持ってくるところが、楽山の体質を表しているのですが、楽山は、まともなつもりでいます。楽山は、光に包まれたいのでしょうか。実際は、闇を徘徊しているだけの楽山です。いいかげん自己愛からの愚昧を表すのは止めてほしいです。
 
 
*目的論、因果律
著者は、「~のために」という考え方をあまり歓迎してはいないらしい。
エロヒムの行為の目的は、信仰者を試し浄めるためだとか、各人が苦悩を抱えつつ適応していかねばならないことがら一切のためだとかいったことである。合理的な概念から出発すれば、人はこの対話がそんな台詞で締めくくられることを望んでやまない。
(同上、p.171)
 」
自分はいまだに「~のために…」「~だから…」という思考から離れきれてはいないので、上のような対話を望んでしまうクチである。38章に心から感動できないのは多分このためだろう。
 
「対話を望んでしまうクチ」・・正直さを全く持っていない楽山は、神と対話したいというゴタクを並べています。楽山は、聖書を理解していないのだから、その怠慢をもって、裁きの主である神と、早く対話して、その罪悪と偽善を裁かれ、すべての人が、それ知るようになってほしいと思います。
 
楽山の「~のために…」「~だから…」というのは、楽山の超常に逆上(のぼ)せた高慢と、自惚れを表しているに過ぎません。楽山は、恐らく、何事にも、何物にも、感動したことはないと思います。どのためでもなく、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるものです。
 
 
*超越者
これは難しい文章だが、著者の宗教観と38章の読み方がおぼろげながらも分かってくるような気がしないでもない…。
結局のところ、この章は合理的概念で論じ尽くせることがらとは完全に異なるものに依拠している。それはすなわり、あらゆる概念を越え、だから目的概念も越えたところにある不可思議さそのもの、純粋に非合理なかたちをとっている神秘、しかもミルムでありかつ逆説的なものとしての神秘である。
(同上、p.171)
 」
はなから理を放棄するのは論外ではあるが、理があるならば理によらないものも無くもなかろうし、その可能性をも否定するのは理に反するということにもなろうとは思う。
 
「分かってくるような気がしないでもない…。」・・極めて悪質なボンヤリ言語です。楽山は、何も分かっていません。笑いながら書いているのでしょうか。児戯であり、笑止であります。ここに至っても、まともだという見栄だけは張って来るから恐ろしいのです。なんとも女々しいのです。
 
「理があるならば理によらないものも無くもなかろう」・・いい加減で、この文脈の理路として成り立ちません。理があるならば、理によらない何があるか、邪悪か、矛盾か、楽山は正気か。こういう人は、結局、死ぬまで、何を言うか、何を言うか、と繰り返すような宿命なのでしょう。
 
「可能性をも否定するのは理に反するということにもなろうとは思う」・・ボンヤリ言語で、かつ、根拠が無く、思い付きで辻褄合わせをしようとして、議論の要素を、全く見失っている楽山です。今に始まったことではないですが、二度と、キリスト教と信仰の言論に、現れてはいけない人物です。
 
 
焼き切れる 焼きが回る

焼き切れる 焼きが回る
 
 
(2021年05月31日)
(2022年06月03日、再録+加筆)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いわゆる、ただのお調子者ということでは片付かない楽山なのです。実に、評論家気取りの口調で書いてきて、しばしば、語尾が曖昧で、しかも、誘導と刷り込みの意図だけが明らかなのです。何らかの、人をだます企みのもとに書いているとしか思えません。
 
楽山は、集団でしょうか、仲間がいるのでしょうか、単独でしょうか。いずれにしても、楽山が負う気のない責任から逃れることを許してしまうと、また、どこかで、似たような嘘と詭弁を弄して、人をだましてしまうのでしょう。楽山は、今までの害悪によって、完全に退場するしかないのです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
護教論のために不都合な信者のことは、真っ当な信仰者でないと切り捨てるとは不人情すぎる。
自殺、精神崩壊などは、信者アンチの立場に関係なく話すべき大問題だろうに。
午前9:34 · 2021年5月30日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1398799953787461632
 
自己愛のために、人を人とも思わず、無視し、切り捨ててきた楽山には、何も言う資格などありません。無反省に無神経に無責任に、他者の精神を崩壊させるようなことを、ずっとしてきたくせに、正義の味方を気取っても無駄なのです。楽山の被害者が、自殺しないように、楽山は、黙るべきです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
無表情で、どんよりしてますね。
深刻な悩みを抱えてそう。
午前7:08 · 2021年5月30日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1398763196295434242
 
中学時代のORとのことです。「無表情で、どんより」は、楽山自身を連想させます。しかし、平気で、人を振り回し、疲労させ、その精神と人格を破壊してくる楽山は、深刻な悩みなど、全く持っていないのでしょう。そういう高等感情を、自己愛性人格障害者は持ち得ないのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福探検隊氏の提示する論点は、お金の話、霊言の真偽、三帰誓願の意味、教えと実態の乖離、過去世変更など、どれも当然の感想、問いかけなのだけど、これにきちんと回答できる信者はほぼ見当たらないようだ。
HSは伝道のための基本的な問答集さえ作成してないんだな。伝道する気ゼロだね 顔文字(にやにやした顔)
午後8:24 · 2021年5月30日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1398963460340293635
 
楽山の提示する論点はありません。あるのは、宗教の先入観でしかないホラーと霊の話です。他者のことには、いろいろ言いますが、自分の考えが、まともでなく、まとまってもいないのは、ツイッターもブログも同じです。何より、一度も、きちんと回答したことがありません。
 
宗教を語る上での基本的な理路が楽山には通用しません。宗教も批判も、体裁だけのガセに過ぎず、真面目に論ずる気はゼロであります。誰にも通じないツイートを書いて、気持ち悪い笑いの顔文字で、あざ笑って、独りだけで満悦しているのです。精神の貧困を極めている楽山です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
傍からは、HSがそんな風に見えてますよ。
いつも人の悪口
他宗教の神様、教祖の悪口ばかり言ってる
言うことがコロコロ変わって信念がない
自分で自分を汚してる…
みたいに。
最近は、嬉々としてウクライナを悪く言う信者が目立ってるけど、そういうのは止めたほうがいいと思います。
午前6:06 · 2022年6月1日
 
楽山こそ、キリスト教の神を、いないとか、おかしいとか、無理解のまま、執拗に言ってきた人です。まだ、言うつもりのようです。神を、お伽噺とホラーと、小学生レベルのイメージと概念だけで、楽山は言い得たつもりになる人です。楽山には、忠告も、弁護も、批判も、する資格はありません。
 
楽山は「嬉々として」ではなく、インテリ気取りで得意げに語る偽善者です。楽山には、インテリジェンスはありません。理路もありません。感性もありません。共感もありません。とても程度の低い、自己顕示欲だけで、人を批判したつもりになるペテン師です。
 
 
 
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  楽山の万象不明2
 
 「第十九講 ヨブの見神(三)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月04日 楽山日記(LD)
 を批判。
 
矢継ぎ早に更新記事を書いてくる楽山です。これで、前進しているつもりでしょうか。実際は、どんどん自閉に後退して凝固して、新しい知識を受け入れない訂正不能の自己愛からの意地だけで、固陋(ころう)を極めている状態だと思います。
 
内村鑑三は、大仰な書き方をするようですし、文語調の厳めしさを持つ口語体ですから、楽山の誤解~曲解も、文章の勢いの分、甚だしくなってゆくでしょう。楽山は、それが気持ちよいのかもしれませんが、基本的な中心的な理解が、楽山には皆無なので、中身は空疎です。
 
(ネットより)
こ‐ろう【固×陋】 の解説
[名・形動]古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。「旧時代の固陋な人々」「頑迷固陋」
 
 
「第十九講 ヨブの見神(三)」を読了。感想をメモしてみる。
ヨブ記三十八章十六~三十八節について。
「自然界の諸現象を起し得ずまた究め得ざる人間の無力を指摘して神の智慧と力とを高調した」。
三十一、二節の北斗、参宿、昴宿など、「ヨブ記の読者は、天文について少くともこれ位は知っておらねばならぬ」。
参宿はオリオン星座、昴宿はプレイアデス、スバル星、六連星ともいう。
「ヨブは右の如く天の星を見た。彼は人力の及ばざるそこに神の無限の力と智慧とを見た」。「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである。星を見て神を見るの実感が起らざる人にはヨブの心は解らない。神の所作を見て神を知り得ぬはずがない。我らは彼の作物たる万象に上下左右を囲まれて呼吸している。さればそれに依て益々神を知らんと努むべきである」。
 
私も「低劣を自白」したことがあります。内村は、気取りと豪語が過ぎます。預言者気取りでしょうか。また「神の無限の力と智慧」と言っても、人が理解することはありません。それが「低劣を自白する」というなら、私は「低劣」を自覚し、幸いとするでしょう。「星を見て神を見る」は危険な短絡です。
 
楽山にとって、都合のよいところなのでしょう。読者に何を伝えているつもりなのでしょう。独り言をつぶやいて、それを見せないで立っている地蔵様でしょうか。山奥の細い道で石を転がして遊んでいるのでしょうか。信仰は、誰に対しても、それなりの説得力が必要です。楽山には皆無です。
 
自然を見て、神を知ると言うだけなら、飾りの荘厳気分に過ぎません。信仰は、人間関係の中に生かされなければ意味がありません。念のために、楽山は都合のよい文言だけを載せてくるので、内村鑑三を読んだことにはなりません。楽山の読書の信頼度は、言うまでもなくゼロです。
 
 
「神の造り給いし万物に囲繞されて我らは今既に神の懐にある。我らは今神に護られ、養われ、育てられつつある」。「神を見んと欲するか、さらば彼の天然を見よ、海を見よ、地を見よ、曙を見よ、天の諸星を見よ、空の鳥、野の獣を見よ、森羅万象一として神を吾人に示さぬものはない」。「万象の中に神を見る、これヨブの見神の実験にして、また我らの最も確実健全なる見神の実験である」。
本講演では気になるところが二つあった。まず一つは「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである」というところである。
 
内村が、低劣なる人に無慈悲なのは残念の極みです。上に書いたように、万象の中に神を見いだせない人を低劣と言うのは、誇大的な、のぼせ気分です。自然に感動するのは、信仰の副産物に過ぎません。自然の現象を見て、神が云々と言うのは、神に対する人の越権行為です。
 
しかし、「低劣を自白する」というところが意味は深いと思います。自然を作った神の偉大さに比べて、人間の低劣さ、即ち、低さや小ささを実感し、告白することは、実際あるわけですし、必要なことです。感じないで決めつけを語ることが忌むべき低劣さを表すというのは、楽山に当てはまるでしょう。
 
 
以前、とある宗教を信じていたとき、自分もこれと同じ考え方をしていたのだった。「この宗教は本物だ。これを知ってもなお、感動できず、本物だと気づけない人がいたとしたら、霊性が低いか、仏性が曇らされて真理が分からなくなっているのだろう」と…。自分とは異なる感性、価値観を持つ相手を低く見るというのは、よくある悪癖だろうが、これは特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向はあるように思う。
 
楽山は、よほど単純な人であるか、単純芝居をして、引き寄せようとしています。楽山は、内村鑑三の信仰観を、個人の霊的能力の問題におとしめています。信仰についての酷い曲解です。このように、楽山は、直感的な感性と感動のない不感不応の人だから、霊能を自分に結びつけているのでしょう。
 
人間に不可欠なのは、霊性ではなく、人間性です。楽山は、また、宗教をおとしめるために、「霊性が低い」などという言い方を引用しています。強調しますが、人間に不可欠なのは、霊性ではなく、人間性です。そして、楽山には、それがありません。
 
楽山のいちゃもんが「特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向」というのは、恐ろしい捻じ曲げ方です。宗教と信仰は、思想ではありません。楽山は、宗教と信仰について、何も知らないということです。楽山ほど、本当の信仰を知らないで執拗に物だけは言うってのは珍しいと思います。
 
強く信じることというのは、これだけでは語弊のあることですが、楽山は、その語弊に乗って、逆方向に、思い込みの強いことが強く信じることだという前提で、またしても、ねじ曲げて、宗教をおとしめているのです。思い込みと信仰は、全く違います。
 
宗教は、進行形で楽山が今やっているように捻じ曲げると理解不能になるということです。自覚のない楽山は悪意に満ちたホラーであります。またしても、おとしめが、そういった捻じ曲げ犯の楽山に返ってくるというブーメランとなっています。楽山は気づかないのです。
 
 
もう一つ気になったのは「万象の中に神を見る」という考え方である。これは自分にも理解できなくもないが、人は進化の過程で物事に意味を見出す習性を身につけたのであり、無意味さに耐えられない生物であるという話もある。
 
無意味さに耐えられないからと言って、勝手に神秘を見い出す習性は、理解されるようなものではありません。それを、楽山は、霊能者気取りから、人は「意味を見出す習性を身につけた」と言っています。習性として身に着けているつもりだけの高慢は、楽山その人です。
 
人が「物事に意味を見出す」と書いた時点で、何の意味も見いだせない楽山の妄想的曲解が、無意味に耐えられために神聖を捏造することの例となります。楽山にとって、神は、ペーパーなのです。自己愛によって捻じ曲げた意味付けをする楽山の語る "意味" に真実はありません。
 
内村鑑三は、万象に神を感じることを言っています。そして、そこで、楽山は、妄想的読み違いをして、意味を見出すのだそうです。自然の雄大さに、自分の信仰の意味を見出すでしょうか。自然から見い出せるのは、神への畏怖であり、信仰の尊さであります。信仰そのものではありません。
 
 
それならば、たとえ万物の中に神を見、感じたととしても、それは事実に基づくものなのか、それとも人の習性に流されて万象に自己流の意味付けをしているにすぎないのかを慎重に吟味すべきであるし、
 
楽山は、「慎重に吟味」するための、いかなる資質も持ちません。できるのは虚言だけです。したがって、この楽山の言は、突拍子もない勘違いであります。何を、万象の中に、慎重に吟味できるでしょう。直感するしかない大自然~森羅万象であります。
 
思いつきの、格好だけの、嘘八百もいい加減にしてほしいのです。今、楽山が、「万象に自己流の意味付けをしている」ということです。こうやって、全くの無理解であるのに、いかにも、勉強しているかのような見せかけの文言を吐いてくる楽山です。
 
 
この思惟を経てからでなければ、真に「万象の中に神を見)たとは言えぬだろう。けれども本講演ではそこまでは踏み込んで語られてはいない。ここは残念である。次回の講演でこの点についても語られているかどうかは分からないが、期待して読みすすめたいと思う。
 
楽山は、内村鑑三の言葉を、何も読み取っておらず、感性もなく、文字通りに受け取って、理屈をこねているだけです。万象を見れば、何でも、つぶさに理解できるのが宗教だと思っているようです。何が残念でしょう。楽山こそが、ずっと残念な人なのです。
 
しかも、気づかないのです。楽山は、庭園の石を見て、一生、そこで、意味を考えておればよいでしょう。宗教にも信仰にも縁(えん)はないと思います。内村の「低劣を自白」とは正反対の、高慢と傲慢の楽山の、自覚されず告白されない "高慢な低劣" が、鼻を突きます。
 
 
無明の照り

無明の照り
 
 
(2021年)
(2022年05月15日、再録+加筆)
 
 
 
  ブレーキングボール
 
ひねったつもりのブレーキングボールは
力なく外角へ落ちていく
そのあとに黒い軌跡が残る
一日を無駄にしたような気持ちで
メモ帳を一枚破り捨てる
部屋から出ていったあの男
別の自分に会いにいったつもりなのだ
行きつけの喫茶店などないのに
無駄な空気と
家畜になったような気持ちといっしょに
やがて帰ってくる
ぼろぼろの顔になって
そしてまた一枚ボールを走らせては
また一日意味のない軌跡を残す
あしたどんな軌跡を残すのか
もう一枚
もう一枚
ぼろぼろのメモ帳が笑っている
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
  池のある公園

ここに来るのも久しぶりだ
暖かい日曜の午後
池には無人のボートが数そう浮かんで
緩やかな風が
池の面にかすかな波を立てている
ほとりに向かって歩いていくと
俺に似たやつが
セメントのベンチに腰掛けている
片手には詩集のようなものを手にしているが
眺めているのはほとりに戯れる小魚の方だ
向こうからもやってくる
よれよれのブレザーを着て
手には紙屑を握っている
あれも俺だ
よく見れば
あっちにもこっちにも
数人の俺が歩いている
大学に入った頃の俺
野球場からの帰りの俺
バイクに乗り始めた頃の俺
ここにいる俺
見てみろ
俺達はなんてさびしげだ
声をかけあうこともなく
ただ声もなくたたずんでいる
俺が小石を池に投げると
ベンチに座っているやつがそれを眺めている
そいつの後ろから
そっと手を伸ばしてみた
それより早く
誰かが俺の肩に触った
はっとしてあたりを見回せば
暖かい日曜の午後
まわりを歩いているのは
みんな知らない人たちばかりだ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
★こも/楽山日記3 @komo266
大川隆法によれば、神様は、人類の進歩のために、個々人が戦争の犠牲になってもよいと考えてるらしい。
 
楽山は、他者を批判する資格などありません。他者を自己中の犠牲にしてきた人です。そして、何も理解していない楽山が、ためらいもなく、神が「個々人が戦争の犠牲になってもよいと考えてる」などと軽々に神を持ち出すのは、それこそ、反キリストの発想です。人類の進歩に逆行することです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間なら当たり前のことを守れず、それを、「人間の性」と言って、みんなそうでしょ・・という見なしをもって、自己正当化を図る、楽山の詭弁です。当たり前のことが出来ない、反省を難しいことだと言う、これは異常です。このように、楽山が正常から外れていることだけが、ずっと表れてきたのです。
 
 
 
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   楽山の自己讃美2
 
 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 楽山日記(LD) 2021年02月06日
 
 
楽山が、ヨブを引用するのは、ヨブが正しいのに神に試されたという思い込みがあって、自分もそうだ、自分は正しい、苦難に耐えているぅ、自分は偉いぃ、という自己賛美をしたいためだと思います。執拗に、内村鑑三を、餌食にしている楽山です。楽山は、こういうことを、平気でします。
 
ヨブは、神に試されました。そして、悔い改めました。神以外に寄る辺がない信仰者だからです。楽山は、神に試されたのではなく、だまして快感を得るという自業自得の沼から、おめいているのです。最も神にも人にも憎まれる因業の者です。
 
 
「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十七章の研究
ヨブは「今や罪の故ならずして死せんとしている。友はそれを罪の故と断定して彼を責めている。しかし神は彼の無罪を知り給う。しかり神のみが彼の無罪を知り給う」
 
神の前に無罪の者はいません。ヨブは、自己正当化から、神によって試され、最後には気づいて、塵・灰の中で悔いて、信仰を回復します。
 
 (ヨブ記、旧約聖書)42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ記42:6、旧約聖書)
 
楽山が自己正当化をすることと決定的に違うのは、楽山には微塵も悔いる心が無いということです。ずっと、自己正当化だけなのです。楽山は、神に試されたのではなく、自らの悪意と欺瞞の罪性と因業によって壊れているのです。
 
 
「ヨブは神が罪なき彼を苦めつつある事を認めてこれを怨じながら、今また同一の神に無罪の証明を求めている」
 
楽山は、どうしても、ヨブを罪がないのに苦しめられたと決めつけたいようです。ヨブは、豊かな暮らしのために高慢になっていた可能性があります。また、ヨブ記は、試練が悔い改めによって、信仰の実となるという話なのです。
 
無罪の証明を神に求めるのは、背教でありますが、一方で、ヨブが、神以外に訴える相手がいないという寄る辺のない自らを表すところの、信仰告白でもあるでしょう。信仰者は、神に無罪の証明を求めるのではなく、赦しと癒しと救いを求めるのです。
 
楽山は、無反省・無責任の自己中でありながら、無罪であるかのように高慢で、神に対しても、人に対しても、欺きを表し、反キリストであることを自ら証明しているのです。自己正当化のために、ヨブ記を、無罪なのに神が苦しめると言う楽山は、聖書をも誤読し曲解しています。
 
楽山が、悔い改めることがなく、いわゆる汲むべき情状酌量の余地が、まるでなく、悪と罪と偽善の実績を積んでおきながら、神に対して、ヨブを引き合いに出して、自己正当化するなどは、信仰以前に、まず、人間とは思えないことなのです。
 
 
神は人の罪を裁く。「この時人の側よりして、仲保者を要求する心は当然起らざるを得」ないが、人のために神に対して弁ずることができる者は「神自身」以外には存在せず、したがって「同一の神が我を責めかつわがために弁護す」ることになる。
 
楽山が、妄想的自己中の反キリストであるのは、ヨブという聖書の人物を引き合いに出して、無罪だと自己正当化するような、罪人の自覚が全く見られない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
(ネットより)
仲保者
〘名〙 神と人との間の宥和(ゆうわ)媒介をする人。イエス‐キリストをいう。
 
神が、神をなだめるような理屈に、楽山は、賛同しているのでしょうか。実に、神を対象にして、ぬけぬけと保身の正当化を図る冒涜者らしい話です。楽山は、自分が神だから、自ら仲保者となって、自らを救うと言っているのでしょうか。笑止です。
 
だとすれば、楽山の仲保者は、キリストでもなく、神でもないこと、即ち、救われる理由など全くないことを、楽山自身が語っていることになります。楽山の自尊過大が招いているところの、宗教的に重篤な病態が、ここに表れています。自己満悦のための聖書の悪用は、神も最も嫌うところでしょう。
 
 
「まことに人は神と争いて苦むとき、我を苦しむる神の所に往くほかに逃げ場所はないのである」
 
こういうことは、どうしようもなく苦しい時に、なぜ?と神に問いながら、救いと癒しを祈りながら、やはり、神のみに寄って依ってゆく信仰者の態度なのです。信仰者には、他にないからです。信仰の「し」の字も知らない楽山は、詭弁で邪魔をしたいだけです。
 
楽山は、神が苦しめ、神が救うというパラドックスに興味でもあるのでしょうか。神は、人に試練を与えることで成長を促しますが、その試練を完全に無視して、文句だけを言っているのが、楽山です。無反省・無責任で悔いる心の無い楽山が、試練の自覚もなく、救いも拒んでいるだけなのです。
 
 
「イエスを称して最大の無神論者という人がある」。最期に「わが神わが神何ぞ我を棄て給うや」という嘆きを残しているからである。しかしこれによって「多くの患難悲痛にある人々が彼によって救わるるのである」「そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者である」
 
無神論=有神論みたいな逆説的な書き方に、楽山のような、不思議・超常・ホラー大好き人間は、魅力を覚えるのでしょうか。罪ある人が、罪を認めて、信仰の義を与えられるということに気づかず、神に不満だけをぶつけている楽山は、足らざる者らしく、ヨブ記の字面と言葉遊びしているだけです。
 
ここでの無神論は、神はいないと、楽山などが言うのとは、全く違います。楽山が信仰を理解できないことが表れています。神を信じているからこそ、神に、なぜ?と問わずにいられないことを、理解できない災いが楽山です。ヨブではなく、書くことで、楽山が、神の敵、救いの敵となっています。
 
神亡きがごとき地上に救いを求めるヨブの信仰であり、それを悔い改めに導いて生かす神の話なのです。安い辻褄で、神がいるなら悲劇が起こるのはおかしい、などという傲慢で安易な見なしを学者気取りで言ってくる楽山には理解できないことです。
 
反キリストの楽山は、それらしく、自分が何をしているか、まるで分かっていません。ここまで、悪意で、神と信仰を汚して、何が得られるというのでしょう。楽山が手にするのは、誰も近づいてはいけない異常人格の自己満足だけであり、楽山は、自らの鼻をほじって笑っているだけなのです。
 
ヨブ記は、罪のないヨブが試される話ではなく、人間の罪と信仰の話であり、また、ヨブが富を回復するのが救いではなく、ヨブが悔い改めて信仰を新たにすることが救いなのです。楽山は、神と取引でもするような高慢な立ち位置が目立ち、恐れも共感もないことが、ここでも表れているのです。
 
 
「さりながら義しき者はその道を堅く保ち、手の潔浄きものはますます力を得るなり」(第九節)に注意。
「罪のためならずして大災禍に逢える彼が、その大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである。ヨブの偉大よ! またヨブ記著者の偉大よ!」
 
 (ヨブ記、口語訳)17:9
それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、
潔い手をもつ者はますます力を得る。
 (ヨブ17:9、旧約聖書)
 
まだ自己正当化を続けるヨブの発言です。ヨブは、正義を貫いたのではありません。正義は、神のものです。人が自らを正義と思い込むようになるから、神に文句を言おうとするのです。そういう罪は、人間一般の罪であります。ヨブは、最後に、神によって、悔い改めたのです。
 
楽山は、悪と罪と偽善を貫いています。悔い改めることもないのでしょう。楽山は、反省もせず、悔いることもなく、文句ばかり言って、自己正当化だけをしているために、ますます神にも人にも憎まれる途上であります。
 
楽山は、どんどん、人格障害からの悪意が表れ、サイコパスらしくなってきました。引用にも、引用した者の意図は表れてくるのです。楽山は、他者を書いたつもりで、寒くなるような自らの悪意を漏らし続けるのです。無神教と背教の宣伝者、楽山に、誰も関わらないことだけを願ってやみません。
 
 
「神は最後まで義の味方であって悪の敵である。われらの求むべきは義に歩むの生涯である。自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば、我らはすなわち大磐石の上に立って安らかなのである」
 
人が、"義" と言うとき、その義が、その人の判断に過ぎないことを弁えるべきです。「義に歩むの生涯」「自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟」「大磐石の上に立って安らか」などは、楽山は好むのでしょうが、私は、豪語が過ぎて、食傷気味であります。
 
悲劇と艱難の前にある人に、正義に歩め、などと言うのは、乱暴であります。ただ、なぜ?・・と、神に祈ることで、忍耐し、待ち望む信仰者たるを得るのが精いっぱいでしょう。
 
豪語は、偽牧師のシャロームや、ペテン師の楽山のような、利得だけを考えるような、心の深みのない偽善者の好むところです。信仰者は、ただ、正直に祈るべきであります。
 
 
「さわれ失望中に一閃の希望ありて、ヨブ記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである。一閃また一閃、遂に暗黒悉く去って光明全視界を蔽う処まで至るがヨブ記の経過である」
 
「一閃の希望」ではなく、神の絶対と、人の不完全を対照させて、ヨブや友人という信仰者に、また私たちに、ありがちな浅はかな見なしや自己正当化によって、人の偽善と罪を浮き彫りにするところに、ヨブ記の意義があるのです。「光明全視界」は、大袈裟だと思います。それは、神のものです。
 
 
この講演を読むと、夜明け前が一番暗いだとか、闇の底に光があるということがよく分かる。
 
楽山は、何も分かっていないと思います。闇の底に光、などと讃美しても無駄なのです。わざとらしい芝居、吐き気がします。楽山は、嘘を吐き、詭弁を弄して、闇に棲み、光を無視し、楽山の言う丁寧語のごまかし言葉では、スルーして、逃げまくっているだけです。
 
闇の底というのは、闇を経験し悔い改めて神を知るという意味なら分かりますが、闇をずっと行って掘り下げれば光が見えるという意味ではありません。楽山の世界には、いかにも気安い嘘が闇を覆い尽くして、光をさえぎっているだけです。
 
 
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という西郷隆盛の名言も思い出される。人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切であるし、尊い。
 
楽山は、天を相手にしたいのでしょうか、神と向き合うのでしょうか。たちまちのうちに燃え尽きて消滅するでしょう。天、そして、神とは、そのような存在です。安い豪語など通用しないのです。「尊い」などと、愚かな。楽山の嘘っぱちの本性が丸出しになってきました。
 
西郷の言であるなら、それは、大きな視野と立場を持つことを言っているのだろうと思います。それを「人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切である」などと、実にバレバレな嘘の豪語に短絡して、他者無視の楽山自身の正当化を図っています。低級です。
 
楽山の人格の低格化と荒廃が、さらに進んだと見るべきでしょう。まさに、サイコパス全開か、と同時に、楽山の底も見え見えになってきます。楽山は、生まれて育って、今まで、一度も、真実を語ったことがないような気がします。
 
 
ああそうだ。論語には「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり」という言葉もあったのだった。
友に理解されないことを嘆き、苦しむヨブをみていると、ヨブ記にはこういうテーマも含まれていそうだ。
 
「ああそうだ」が、白々しい、大根役者の三文芝居、そして、様々な魂胆を抱えている楽山です。楽山は、人が自分を知らないことを、人に理解されない自分の天才ゆえ、とでも思っているのでしょうか。背筋が寒くなります。
 
他者の言葉を歪曲して「ああそうだ」と悟ったかのように、自らを高めようとするとは見苦しい限りです。楽山は、知られるべき実績ゼロの病質者です。楽山が、罵倒されることはあっても、誰にも理解されることはないと思います。それが、楽山の因業です。
 
また、楽山は、人を見下しているので、人を知らないことを憂えてなどいません。こういうことが、3年にわたって続いているのです。楽山の厚顔無恥は、悪化して、楽山を、ますます見苦しくしてゆくだけなのです。楽山には、しんみりとした悲しみの情がないと思います。
 
楽山の、中立・中庸芝居も、言い方が変わってきて、そろそろ限界のようです。右翼の、しかも、変質者の楽山が、崩壊しながら、牙を剥いてくるでしょう。児戯に等しい詭弁ですが、自己愛による訂正不能の性質を持っているので、とても危険です。
 
今回も、気持ち悪い楽山の文章でした。終わりなき欺きのようです。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。どうか、人格破壊の楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください、近づかないでください。祈っています。
 
 
 ※
 
真善美について、人は、努力することしか出来ません。その結晶が、作品となり、人生となるのです。真善美の完全な結実は、いつも、すべて、神に任されています。人は、できることをして、悲しくてたまらないときは悲しみを、神に、正直に捧げることが信仰であり祈りであります。
 
 
自己賛美の澱(おり)

自己賛美の澱(おり)
 
 
(2021年02月07日)
(2022年02月08日、再録+加筆)
 
 
 
  覚えてしまった
 
空腹を覚える前に
食べることを覚えてしまった
夜の澱粉質の中を
重く泳いでいる
目指す島は
秘密の酵母に託されていて
見つからない
放蕩の鍵
泥酔の臓腑どもは
消化しきれず
騒いでいる細菌どもが
恐れている荒野は
無機質の誕生の前に
渇くことを覚えてしまった
 
 
  新しく古く
 
新しいことが鮮やかだとは限らない
陰で傷むこと
人知れず壊れること
死ぬことであるかもしれない
しかし新しいことに変わりはない
古さに戻ることはないのだ
古いことが温められているとは限らない
並んで咲く花壇もなく
捨て去るための焼き場もなくて
行方知れずだったり
行方をたずねるすべもないまま
たとえどんなに変わり果てても
虚名と無名の湖の底に
しかし時折今の水面に唐突に波を立て
驚くときすでに沈みゆく
もはや手の届かない
深い深い澱(おり)の中に
せめて驚く前に目を留められたら
次々に古くなってゆく
新しさに沈められる前に
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
「私とトラブルになった人のヤバイ個人情報集まるのよねー。」
これは情報収集能力を誇ってるのかもしれんけど、見方によっては、「私たちは、本人の許可無く、個人情報を横流ししてます!」という自爆になってるね。
 
誰と誰のトラブルかはさておき、批判には本人の許可は要りません。自爆ではありません。迷惑で有害で病識のない楽山に対しては、トラブルの情報を限りなくドンドン書き込んでほしいと思います。詭弁屋で嘘吐きの楽山は、言論の世界にいてはならない人です。
 
★こも/楽山日記3
ちなみに、かつてのブログ村騒動で、もっとも驚いたことの一つが、こういうことに罪悪感を感じてないらしい信者たちが散見されたことでした 顔文字(しかめっつら)
 
楽山は、何を驚いているのでしょう。楽山こそは、無反省、無責任、無神経で、高等感情がなく、罪悪感を少しも感じていない人です。こういう人こそ、決して許してはいけないと思います。精神病質、人格障害、精神の詐欺師、異常人格のペテン師なのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の「そんな風」は、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、単方向に気に入らないものを罵倒し、それを丁寧語で、インテリであるかのように、まじめに言っているかのように、見せかけるペテン師の生業(なりわい)に過ぎません。楽山特有の悪と偽善です。だまして悦に入る時が過ぎ去ることを祈ります。
 
 
 
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