ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ヨブ記

 
  楽山の大好物3
 
   『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著
   2021年01月09日 楽山日記(LD)
     を改めて批判。
 
 
(ネットより)
浅野 順一(あさの じゅんいち、1899年12月12日 ‐ 1981年6月10日)は、日本の牧師、神学者(旧約聖書学)。青山学院大学名誉教授、キリスト教功労者。
 
(ネットより)
『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。
 
楽山は、キリスト教の功労者と言われている神学者・伝道者を引用していますが、楽山が書いていることは、キリスト信仰に沿うものではありません。キリスト教も一枚岩ではない、というところを、楽山は、大好物のように、しゃぶりたいのです。そういう侮辱が、良心を持たない楽山の生き甲斐なのです。
 
 
*良書
ヨブ記のことを知りたいと思い本書を読んでみた。文章は分かり易く、時折、余談としてヨブ記に関連した興味深い話が紹介されているところが有り難い。おかげで初学者の自分でも、最後まで退屈することなく楽しく読めた。
 
ヨブ記は、痛々しく信仰と試練と救いを深く考えさせられるのですが、楽山は、趣味のように「楽しく読めた」と書いています。楽しく読めるテーマでしょうか。楽山が、いかに宗教と聖書を軽く見ているか、いかに悲劇に共感できないかが表れている記事です。サディストの感想です。
 
そもそも、分かる・理解するということの深みが、楽山に見られたことはありません。そういう内容の文章を書けたこともないのです。キリスト教については、さらに、幼稚な先入観と偏見と詭弁による攻撃が明らかになっています。
 
したがって、今回も、楽山にとって興味深いのは、ストーリーを表面的になぞって、分かったつもりで自慢し、批判したつもりで、否定のイメージを刷り込むことに他なりません。読書は、楽山にとって、そのためのネタ探し以上ではありません。
 
初学者の姿勢とは全然かけ離れた高慢によって、楽山は、キリスト教と神を、見下してきました。初めてだろうが、熟練だろうが、楽山のように無反省・無責任の態度を改めないでは、荒らしに過ぎず、決して学ぶ者にも教える者にもなれないのです。
 
 
「あとがき」によると、本書はNHKの古典講座という番組のために語ったものに筆を加えたものだそうで、平易で読みやすい文章になっているのはこのためかもしれぬ。
次に本書のなかで、特に印象に残った箇所についてメモしておきたい。
 
楽山は、平易だからではなく、安易に受け取って読みやすいなどと言っているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。聖書の深みに、無反省・無責任のまま、到達することはありません。楽山のような心の無い者に、聖書から与えられる良きものはないのです。
 
 
*サタン
まず一つ目は、三人の友人たちとサタンとの関わりについてである。
サタンはこの敗北以後再びその姿をヨブ記の中に現わさない。三章以下のヨブの友人との論争においても、四二章後半の物語においてもその顔をのぞかせていない。これはサタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.36)
 」
前の記事で、三人の友人たちとサタンとの関わりについて、wikiの記述をひきつつ書いたのだが、本書では「サタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう」とさらに踏み込んだ解釈がされているのには驚いた。
 
引用元著者は、サタンが友人に姿を変えていると言いますが、悪魔と、人と、神の区別が、あっさり、つくものでしょうか。安易な短絡です。サタンの仕業にして、私たち人間に、何が得られるというのでしょう。教理的に語ればよいというものではなく、人間のテーマとして考えるべきです。
 
「サタンが友人にその姿を変えている」・・このことを、ホラーのように捉えている楽山です。状況によってはサタンのようになりうるのが人間です。楽山は何も分からないのです。私たちが学ぶべきは、私たちが陰気な悪意と攻撃性詭弁の偽善者になれるということです。楽山の有り様が典型です。
 
楽山にとっては、ヨブの友人が悪魔だということにしたほうが面白いのでしょう。この友人は、私たちなのです。そして、ヨブも、私たちなのです。そうでなければ、読む意味がありません。楽山は、ヨブを誘惑する悪魔性の典型として、信仰を攻撃する悪魔性の典型として、猿真似の記事を書いています。
 
何でも他人事として眺めて批評家気取りで独り言を公開して、一歩も踏み込むことのできない無反省・無責任の楽山が、ヨブ記を読んでも、無理解が表れるだけです。楽山は、キリスト信仰に対して、初心者を怠惰な反キリストへと誘(いざな)う悪魔性を発揮しているのです。
 
 
ヨブの信仰は度重なる艱難にも揺らぐことはなく、
 
ヨブは、甚だ揺らぎます。ゆえに、自己正当化に走りました。楽山は、いったい、何を読んでいるのでしょう。また、言葉面だけ、都合のよいところを拾っているだけのようです。やさしさや丁寧に見せかけて、ネガティブな印象を吹き込んでゆく企みに乗らないでください。
 
 
サタンは敗北して姿を見せなくなるが、その後はヨブの友人の姿をして再登場し、ヨブを誘惑しているのではないかというのだ。
 
こういう筋書きのほうが、楽山のような超常ホラー好きの半端者には、面白いのでしょう。本も、聖書も、読めば、至るところで、短絡して、決めつけてきたのです。そして、考えもせずに、評価として書いてくる厚顔であります。自分で聖書を読めていないから、他者の言に頼るのです。
 
ヨブの友人たちは、建前を言い本質を語れない、信仰と救いの本質を語れない、という、私たち人間の限界を示しています。悪魔と言えば、私たちも悪魔性を持っているのです。信仰者が、悪魔ではない善人というのは大間違いです。悪魔性があるから罪を犯すことを弁えるべきでしょう。
 
 
サタンともなれば立派な説教をし、真理を語ることができるので、
 
サタンは、悪意しかないので、立派な説教など出来ません。ましてや、真理を語ることなど論外です。ゆえに、サタンは、楽山と同じように、真理や幸福に見せかけて、だますだけです。楽山は、何を言っているのでしょう。楽山は、サタンが、大好きなのでしょうか。よく似ています。
 
 
傍目には正しい人のように見えて、そう簡単にはサタンだと見破れなくなるともいうが、これもその一例であるといえそうだ。
 
その悪質な典型が楽山です。サタンの餌食になるのは、楽山と、楽山にだまされた人たちです。注意してください。楽山も「簡単にはサタンだと見破れなくなる」存在です。そして「立派な説教をし」ているつもり、「真理を語ることができる」つもりなのです。実際は、良いことを何も語れない楽山です。
 
 
また本書では、ヨブに神を呪って死ぬことをすすめた妻についても次の指摘している。
ヨブとその一家が今までたびたび述べてきたような大きな不幸に出会い、そのいわば巻き添えを食った妻の言葉としては至極もっともなことである。このような彼女の言い分は妻の仮面を被ぶったサタンの言葉と称してもよい。そればかりでなく後に登場する三人の友人のいうところもまた突き詰めればヨブに対するサタンの誘いの言葉だと見ることができよう。
(同上、p.34)
 」
こういう見方は、ヨブの妻や三人の友人たちには酷なものではあるが、ヨブ記の設定からすれば一理ある見方ではあるだろう。
 
どうも引用元の学者は、悪いことを、皆、サタンが憑りついたせいにしているようです。無理な護教に思えます。私たちは、悪意を、人間の性質の一部として持っているのです。ゆえに、原罪と言うのです。そこで悔い改めるかどうかで、悪と、信仰が、分かれるということです。
 
人間は、しばしば、夢中になって議論しているとき、真実の追求という姿勢から、勝ちを得ることに没入してしまうことがあります。その時、人間に見られるのは、希望ではなく情熱でもなく、怒気であります。これを常時持っているのが、悪魔なのです。それを楽しんでいるのが楽山です。
 
やはり、楽山が引用するだけあって、引用には、まるで、何でも悪者と見たら悪魔にしてしまうような、楽山と似たような短絡があります。このように、自分で善悪を超常の存在まで決めつける人は、楽山のように、自分を省みることができなくなる恐れがあるので、要注意です。
 
もう一度言いますが、何でも、悪い人をサタンにしてゆくのは不適切です。何故なら、私たちも、当然、著者も、サタンと似たような、悪意の人になりうる罪性を持っているからです。サタンは、悪しき誘惑の源として機能するのでしょう。そこに、どっぷり浸(つ)かっているのが楽山であります。
 
完璧な善悪の裁きは、神の専権であります。信仰者は、判断して行動し、反省して正直に祈ります。その姿勢を失ったら、楽山のような無反省・無責任・無節操・無理解・無知と無恥の者になるだけです。楽山の、その有り様は、もはや、惨劇であります。
 
 
*エレミヤ
二つ目は、エレミヤについてである。
本書では、エレミヤとヨブの共通項を繰り返し指摘しているが、たとえば、エレミヤ書、ヨブ記のうちで、本書で論じられている部分を貼ってみるとこうなる。
正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い
裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え
欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
(エレミヤ12-1)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
私は黙していられない。
(エレミヤ4-19)
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
(ヨブ13-3)
 」
この部分は通して読んでも違和感がないし、両者に共通するものがあるという指摘はもっともである。
それにしても聖書を読むと、人は神に対して頭を垂れて従うだけでなく、強く自己主張をする場面があって驚かされることがあるが、それができるヨブも、エレミヤも、とてつもない勇者であるといえるのではあるまいか。
 
楽山は「勇者」などと言っていますが、信用しないでください。楽山は、キリストも聖書も、否定している男です。小馬鹿にする台詞に過ぎません。信仰者は、神に対して正直であり、正直な祈りを心掛けます。その正直さを、全く持たないのが、楽山です。
 
いつもの、神とキリストをおとしめる楽山の常套手段です。楽山は、以前から、悲劇が起こるのは、神がいない証拠だと言ってきた人です。神に文句を言い、人が神に評価を下してよいという口実を捏造しています。楽山は、自分が幸福いっぱいに過ごせるのでなければ、神を認めない自己中の病者です。
 
エレミアは、神の言葉を伝える預言者です。ヨブは、勇者ではありません。また、ヨブは、楽山のような反キリストの悪意ある偽善者ではなく、結局、神の他には寄る辺のない正直な人間です。ヨブ記の最後に、ヨブは、そのことを知るのです。楽山からは、無知と無恥が表れるだけです。
 
 
*ヨブの強情さ
三つ目は、ヨブは強情であったが、それによって救われたという指摘である。
スイスの著名な神学者カール・バルトは「神に対するヨブの強情さ」ということを語っているということである。彼は友人に対して頑固であるばかりでなく、神に対しても強情である。しかしそのような強情こそ最後に彼を導いて救いに至らしめたものであろう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.101)
 」
 
神に対しても強情であったというより、不当な扱いをされたと思ったら、そのことを正直に、神に言う人なのです。神は応えて、ヨブは叱られました。ヨブを救いに導いたのは、強情ではなく、神であります。楽山は、生まれ育った時点で、人間になり損なった人なので、何も分かっていないのです。
 
楽山の詭弁は、学者の言から、楽山の都合のよいところだけを拾って載せてくるところにあり、楽山が賛同するときには、楽山の欲望の狙いによって選択され、ねじ曲げられ、糊塗されて、反信仰を、刷り込んでゆく手段となります。楽山は、正直でない分、ヨブより悪魔のほうに似ています。
 
 
自分は、ヨブは自己に正直であり、嘘をつくことはできなかったので、納得できないことは納得できないと言うしかなかった、納得できていないのに納得したふりをして黙ることはできなかった、それだからこそ、求めよ、さらば与えられんという如く、神を見ることができ、救われたと考えているので、これを「強情」とするのにはいささか抵抗はあるのだが、まあ三人の友人たちの側から見たら間違いなくヨブは強情に見えたであろうことは了解できるし、この表現にヨブへの親愛の情、ユーモアも含まれているように感じられるところは好ましく感じる。
 
そう言っている楽山は、甚だしい詐欺師的な嘘吐きであり、詭弁屋であります。そのことは、記事の文章に自ずと表れるゆえに、また、自分の言っていることに斬られている楽山です。聖書は、ユーモアではなく信仰の話であります。楽山は、「了解」しているのではなく、曲解しているのです。
 
「ヨブへの親愛の情、ユーモア」ではなく、真剣に言い合っているのです。実に、ピント外れの感想です。何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものを読んでいないと思います。いい加減な軽口で褒めるところにも、楽山の、おふざけで宗教に反応する読み方→生き方が滲み出ているということです。
 
こういう破綻は、出てしまうものなのです。真剣味も、真面目さも、納得も、感動も、嘘の芝居でしか表せない楽山の、穴だらけのバケツです。何度も、不可避的に、楽山は、まともなつもりで、実は、自分で自分を切り刻んで滑ってゆくだけの笑止の存在に過ぎないのです。
 
 
*アダムとエバ
四つ目は、「神の責任」についてである。
アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべきヘビの誘惑に敗れ、そこから彼らの不幸が生れた。ヨブの場合であっても、ヨブを試みることをサタンにゆるしたのは神である。もしこの時神がそれを許さなかったならばヨブはなお幸福な生活を一生続け得たであろう。彼が不幸に陥ったということは彼の責任ではなく、むしろ神の責任である。それにもかかわらず、彼はその不幸のために苦しまねばならなかった。そこにヨブ記が我々に示す大きな問題がある。
(同上、p.167)
 」
 
いつから、この著者は、神の責任を問う立場に立ったのでしょう。神の責任だけを書いて、人の罪と救いにつなげることがないなら、キリスト者の書いたものとは思えません。どうして、幸も不幸も命も死も、神の手の中にある・・というような書き方をしないのでしょう。
 
当然ながら、神は、いちいち、試練について、こうだからね、心配しないで・・みたいな説明はしないのです。人には、苦難の時、不幸の時、死する時が、必ず訪れます。そういう地上を造られたからです。キリスト教は、ご利益宗教ではありません。厳しい現実を生きる支えであります。
 
ゆえに、肉体の生も死も超えたところから、クレームだけではない、正直な祈りを待っておられるのです。楽山のようにはならないでください。人の話も、自分の言っていることも、まるで分らないまま、自己満悦する自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。
 
神が悪いみたいに書いていますが、人間の罪の性質を表すための聖書の話なのです。ヨブに与えられた不幸は、試練であり、むしろ、ヨブ記という地上の話の中で、最後に報われるのは、神に救う意志があり、ヨブが耐えたからであります。
 
ヨブに起こるような不幸も、そして、幸いも、悲しむという感情を持たない楽山のように、あげつらって自己満足の沼に嵌ってゆく反キリストにならないように、この楽山の記事という惨劇があるとも言えるでしょう。楽山を相手にしてはいけません。
 
結局、楽山の狙いは、神の責任、神の責任、自分の不遇も神の責任と、言い張りたいのです。神の責任と言って、何か解決するのでしょうか。神はいないという自分信仰が救われるでしょうか、否です。ゆえに、楽山は、人をおとしめるだけで、何の救いももたらさない反キリストになってきたのです。
 
 
これは神義論に関わる問題なので、ほとんど解決不可能であるように思うけれども、だからこそ考えないではいられないのだからおかしなものである。この問題に興味がない人にとっては、どーでもいいことなのだろうけれども、自分はまだ関心を失ってはいないので、もう少し追いかけてみたいと思う。
 
神義論ではなく、神は与え、また、取りたもう、という神の全能と、人間の弱さと限界についての大きなテーマの、ヨブ記なのです。神義、即ち、神の正しさを、地上で、人が理解することはないでしょう。信仰者は、キリストの共感に捉えられ、共にいたいから、祈り続けています。
 
敵意と悪意ある楽山が、知性も感性もなく、人間としての共感もなく、単純に、神はこんなに残酷だぞ・・という先入観を刷り込もうとしています。実に、良心のない、罪悪感のない、問題の大きさを感じ取れない、ボンヤリ鈍感の楽山らしい引用と記事です。
 
ヨブの悲劇は大きいですが、悲劇というのは誰にでも起こり得るものです。その時、人は、信仰者は、どう考えるかという重要な問題を投げかけています。理解も感受も拙劣な楽山のような者が、いちゃもんの材料にするような軽薄な話ではないのです。楽山は、何の解答もヒントも救いも用意していません。
 
著者は、思い上がった人物なのでしょうか、それとも、楽山の引用の仕方がおかしいのでしょうか、幸福を世俗的基準で決めつけて、さらに、ヨブの不幸が神の責任と言っています。人間の中で、神の責任を問える者などいません。神が試練として与えたとしか言えない話です。
 
人が、神の責任を問う、などということは、神を恐れない者の発言です。人は、不当だと思う成り行きについて、なぜ、どうして・・と、正直に祈る他はないのです。そこに、人の作る辻褄など、全く成り立つ余地はないのです。人が、神と、同格に、責任問題を語れるという傲慢の所業であります。
 
聖職者であろうと、神学者であろうと、功労者であろうと、全面的に信頼して鵜呑みにしてはいけないという例になるでしょう。神の責任を問いながら、併せるべき神の愛を説いていません。楽山が、都合のよい一部だけを引用しているのかもしれません。楽山が、よくやることです。
 
著者は、楽山に飛びつかれ、気に入られて、吸い尽くされそうな人物です。しかし、護教主義でもない私には、この神学者を弁護する義務はありません。悲劇からのサディズムもマゾヒズムも、人間には、いつ起こっても不思議はないだろうが、欠片ほどの信仰が残るかどうかという話です。
 
ヨブ記は、神と人の関係のうち、神の全能の権威が、試練と救いによって、人に及ぶことを表している話です。楽山は、自らの罪悪について考えず反省もせず、いつまでも聖書を理解できない反キリストだから、他者を悪用してでも、けなすだけでしょうが、信仰者は、深く理解するべきところです。
 
記事全体としては、楽山というサタンのような者が近くにいて、追従と誘惑によって、道を外れる犠牲者がいるのではないかということを強く暗示しています。神義論に関わることではなく、どこまでも、楽山という悪意の者の謀(はかりごと)を暗示するだけの記事を、楽山が書いているわけです。。
 
楽山は、学者までも、真実追求ではなく、自我の欲望に従って、都合のよいところだけを漁って拾って、使いまくります。楽山の底知れない闇が、また犠牲者を求めています。信仰について、何一つ理解していないのが、楽山です。決して関わらないでください。近づかないでください。お願いします。
 
 
悲劇と信仰・・

悲劇と信仰
 
 
(2022年)
(2023年01月31日、再録+加筆)
 
 
 
  偶像
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
 
むかし通って
洗礼を受けたのは
プロテスタントの教会だから
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛るイメージの戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
 
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
信仰者に対する無神論者の批判は「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない。単に、「自分の主張が真であると主張したいのなら客観的根拠を提出しなさい。それができないのなら、根拠の無いものを真実であると語るべきでない」と言っているにすぎない。基本的なモラルの問題なのだ
 
真実は、事実と違って、心を、共感をもって揺り動かす原動力であります。神について「客観的根拠」などと言っている時点でアウトなのです。何も分かっていないのに、思い上がりだけで、上から目線で、ケチだけを付けてくる楽山は、恐らく、一生涯、何の幸いも知らずに終わるのでしょう。
 
心の問題に「客観的根拠」などはありません。上の考え方は、楽山と同じように、とても幼稚です。神は、人にとって、論や証明の対象にはなりません。信仰は、神と、神を必要とする個人との関係です。神を客観的に見るには、神以上の次元が必要ですが、それを持っている人間はいないのです。
 
無神論などと言って論になる学問は、正当には存在しません。神を信じるに至る体験もない非信仰者や背教者に、とやかく言えることではありません。神は、人の論では語れません。楽山は、インテリぶりたいがための屁理屈を集めたものを無神論と呼んで、気晴らししたいようです。
 
神の問題は、決して「基本的なモラルの問題」ではありません。そう見せかけて、客観的根拠があるはず、答えるのが当然、答えられないなら、神はいない、と誘導するための詭弁です。こういう成り立たない組み立てで、怖い話にしてゆくのは、勝ちを欲しがる偽善者の手段です。
 
神が存在する客観的根拠は、人の側にはありません。希望に対する感受性のない無神論者は、引っ掛け論法として、この疑問を、いつまでも、ぶつけてくるでしょう。しかし、神がいないという客観的根拠もないということです。無神教カルトには永遠に根拠など無いのです。
 
サイコパスが跋扈(ばっこ)するような地上を生きるために神を必要とする人には、証明も根拠も要らないのです。楽山のような無神教カルトだけが、根拠、根拠と、問うてくるのは、無神論者には、神もなく、正義もなく、生きる根拠も欲望以外にはないので、自らの不幸の憂さ晴らしに過ぎません。
 
思うとおりにならないと怒り出したり、恨みを募らせるのは、サイコパスの特徴です。しんみりと反省するような悲しみの高等感情がないからです。サイコパスに理路はありません。嘘と詭弁と誘導だけです。楽山がその例となっています。楽山に、真っ当な理路はありません。実感がないからです。
 
神の存在は、史実によっても、論理によっても、証明できません。信じた人の心の変化に表れることです。絶望から希望へ、死から命へ、無思考から思考へ、闇から光へ、氷結から温もりと潤いへ・・この変化は、楽山などの無神教カルトには、起こらなかったし、これからも起こることはないでしょう。
 
楽山などの反キリストを無神教カルトと呼んでいます。高ぶりだけがあって、根拠、根拠と、同じことを言ってきます。カルトの豪語に似ています。証明できないから、平気で言って、追いつめたつもりなのでしょう。神は人の論理にはなりません。ということは、無神論も論理にはならないのです。
 
「「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない」「客観的根拠を提出しなさい」に、決して乗ってはいけません。無神教カルトは、根拠と史実の証明しか考えられないのです。それで、信仰を、神の存在を、示せるでしょうか、否です。客観的根拠があれば信じる必要はないのです。
 
論理的に、または、史実において、神は存在する根拠はこれだ、などという説明で、神を信じることはないのです。全くプロセスが違います。無神教徒は、心で受け取ることができないので、信仰を感じずに、決まり文句のように、神はいない、いるなら根拠を示せと、意味もなく問い続けるのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても誤っても何も気にしない楽山です。嘘で欺き詭弁で保身しデタラメを刷り込んできます。訂正も反省もせず、人間性を、ネチネチと否定し続けます。それを誰にでもあることのように「人間の性」で済ませようとするに至っては、もはや、サディストの、人でなしとしか言いようがないのです。
 
サイコパス、自己愛性または反社会性人格障害、精神病質と呼ばれる異常人格は、好都合に笑い、不都合に怒る、という単純な原始反応で生きています。悲哀への共感がなく、反省せず、責任を負わず、人の言うことを無視し、悲しむことがなく、悔いることがなく、ゆえに、犯罪に結びつきやすいのです。
 
 
 
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  楽山の滅び2
 
 「第十一講 エリパズ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年12月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27384659.html
  を改めて批判。
 
 
真理や真実に対しては、何らかの畏敬を感じて、迂闊に口に出来ないものです。その謙譲の姿勢を弁えている人には、誰でも、人間らしい真実の追求が可能になります。そこで得るのは、完全な真実ではなく、理屈でもなく、むしろ、謙虚であることの共感だと思います。
 
楽山にとっては、真実も真理も、言葉だけのオモチャなので、楽山は、平気で、知らないのに知っているかのように見せかけて、宗教と信仰についても、理屈を通した?つもりで書いてきます。共感のないところに真実はありません。楽山のように真実を嘲笑う者は、最終的には、真実によって裏切られます。
 
 
「第十一講 エリパズ再び語る」を読んだので、要点をメモしておきたい。
「第十五章の研究」
ヨブと友人たちとの議論の主題は、「患難はすべて罪悪の結果なるか如何、義しき者に患難の下る理由如何の問題である」
 
メモならば、雑なのだから、考察もなく、思いつきで、人に見せびらかさないでください。既に、私が書いていることには答えられないのに、罪悪の結果について、最も義人から遠く、真実追求の邪魔をしたいだけの楽山は、また世迷言を書かないではおれない病質です。
 
楽山の悪と偽善は、既に約3年分以上の資料となっています。楽山が、良さそうなことを書いて、自己満足しても、資料がそれを否定し、みんな嘘、出まかせ、ということを明らかにしてくれます。正当な言い訳が通用するためには、楽山は、嘘を吐き過ぎたのです。
 
 
「第一回戦においては、彼らはなるべく穏かなる語を以てヨブを責め、彼らに責めらるるヨブはかえって真理の閃光を発しつつ、徐々として光明の域に向って進むのである」
「心霊のことにおいては人は一人一人独立である。神と彼と二者相対の上に心霊問題は生起する。年齢の権威も地位の権威も、この間に圧迫の力を揮うことは許されない」として、宗教問題における平等、公平を徹底している。
 
ここを勘違いしてはいけません。心霊が一人一人独立と書いていますが、神と人の関係は個別であることを意味しています。何故なら、共通の願いや祈りというのはありますが、個人的には、一人一人、祈ることは異なるからです。それらを全て、神は聞いておられます。
 
祈りもしない楽山の独り言は、神の憐れみの御心に真っ向から反しているので、滅亡に向かって虚空をさまよい堕ち続けるだけです。然りは然り、否は否であり、嘘は嘘、詭弁は詭弁、悪は悪、偽善は偽善なのです。「権威も、この間に圧迫の力を揮うことは許されない」を自己正当化に悪用する楽山です。
 
神は絶対ですが、人は頼りない相対の存在なので、神と人の関係は、人にとって、相対的にならざるを得ません。このような相対の関係に生きている信仰者は、否定でも肯定でも、決して、楽山のように、絶対の立場に立ってはいけません。信仰者は、絶対の神に対して、相対、即ち、非絶対の存在として、神を仰ぐのです。
 
人は、絶対ではないから、できることをして、経過と結果を、祈りを通して、神に正直に告白します。楽山のように、経過も結果も、人も神も、無視して執拗に嘘を吐き続けるならば、神からも、真実からも、見捨てられ、反キリストとして、自ら選んだ滅びの道を進んでゆくことになるでしょう。
 
誰も、楽山の巻き添えになってはいけません。楽山は、人間離れして、さらに、だんだん魔物になり、滅されるのを待っているだけのようです。楽山の大好きな「鬼滅の刃」は、宗教の話ではありませんが、鬼の性根の悪さについては、そのまま楽山自身こそが、リアルに伝えているということです。
 
 
因果応報という考え方に対する強い拒否感を露わにして、「要するにこれ悪人必衰必滅という陳腐なる教義の主張に過ぎぬのである」「すなわち悪人は苦悶を以て一生を終え、困窮失敗の中に世を去り、その家族もまた零落すというのである。同時にこの語は苦悶、困窮、失敗、零落はすべて罪悪の結果であるとの意味を含んでおるのである」としている。
 
楽山の、悪の運命を表しているようです。しかし、困窮失敗を、楽山は、自覚しないので、あらゆる排せつ物を垂れ流しながらも、笑い続けるかもしれません。総て罪悪の結果でしょうか。そうではなく、総ての人は罪悪にいます。しかし、自覚し、神に向かって、悔い、祈り、赦される道があります。
 
ただただ、楽山は、罪悪を自覚せず、自覚する道である信仰をおとしめたがゆえに、笑い続ける地獄へ落ちるのであります。楽山の思想は、全て方向音痴の勘違い~妄想~混乱になってゆくでしょう。楽山の文章が崩れているのは、その表れかもしれません。
 
 
悪人と善人の違いは境遇にあるのでなく、その心(罪の意識?)にあるという。「神を嘲る悪人にして成功また成功の一路を昇る者は決して少なくない。神を畏れず人を敬わざる不逞の徒にして、何らの恐怖煩悶なくして一生を終る者はむしろ甚だ多い。罪を犯し悪の莚に坐して平然たるがすなわち悪人の悪人たるゆえんである。悪人の特徴は煩悶恐怖を感ぜざる所に在る」「恐怖苦悶はその人の心霊的に目ざめたるを示すものである。神を知らざる時我らに真の恐怖なく、痛烈なる煩悶はない。怖るる事、悶ゆる事、それは神に捉えられた証拠である。そして救拯と光明へ向ての中道の峠である」
 
罪の意識を全く持っていないのが、楽山です。楽山の学者・評論家気取りは、あらゆる気づきを不能にしています。ゆえに、本を読んでも、自分の言葉にすることが出来ず、そのまま引用して、曲解を語ることになります。楽山の、未熟と腐敗、どちらも、よく表れています。楽山の図々しさが、もはや哀れです。
 
 
ヨブの友人たちについては、「我らはくれぐれもエリパズら三人の心を学んではならない」と注意喚起している。
 
ああだから、こうだからと、因果を捏造したり、作話したり、辻褄合わせをしたりするような、幼稚で、教条主義的で、信仰=奇跡?超常?という短絡や、言葉面だけの詭弁は、結局、実質がなく自己正当化に至るので無効です。そういう有り様は、楽山という反キリストにおいて、救いがたく、醜く、明らかであります。
 
 
私見ながら、こういう文章を読むと、因果応報という考え方は、現実に合わないのはもちろん、非常に不公平、理不尽なものであり、道義的にもよくないものだと改めて思う。
 
因果応報が、意味を持つのは、楽山のように、明らかにおかしい精神の産物を、らちもなく書き続けるような行為の罪悪を、明らかにするときであります。警察が、動機と経過を重視することなどに表れています。正直でなく、嘘吐きの、ペテン師には、それを突き付けることになります。
 
批判も、言論において、捜査と似たようなプロセスと言えるでしょう。楽山の無理路、無根拠、非人間的情性、嘘、詭弁、誘導、印象操作、妄想、・・などを指摘してゆきます。楽山の無理を指摘してアピールする相手は読者であり、私の頭の整理のためでもあります。
 
楽山が、因果応報について「不公平、理不尽なものであり、道義的にもよくない」と言っているのは、楽山の悪と偽善の因果が、恐ろしく明らかになってきたからであります。宗教云々ではなく、楽山の傲慢と貪欲と偽善の罪は、現時点で、どうしようもなく救い難い結果として楽山に向かうのです。
 
 
こう書くと、「因果応報は、この世だけで見るのでなく、過去世、今世、来世を通して見なければ分からないものだ」という反対意見もあるだろうが、それにしたって、因果応報を真としているかぎりは、それに輪廻転生をくわえても、くわえなくとも、逆境にある人に対して「艱難は罪悪の結果だ」として責める構造に変化はないのだから、ヨブ記の議論の繰り返しにしかならないし、
 
楽山の罪と偽善は、嘘吐き、無反省、無責任、無理解、無視、訂正不能、詭弁、という、最悪の手段のオンパレードですから、いくらでも、繰り返し、糾弾されるべきものです。ヨブとは、全然、違うのです。これも書いたのですが、楽山は無視して、内村鑑三を、自己正当化に悪用しています。いや恐ろしい。
 
 
ヨブ記の議論では神の絶対性を信じるときに因果応報はナンセンスなものになるという結論が出ているのだから仕方がない。日が昇れば朝露は消えるように、神の絶対性を信じれば因果応報にしろ何にしろ神以外のものはすべて空しいものにならざるを得ないのである。
 
楽山が、どれだけ自己正当化の言葉面や詭弁を弄しても無駄です。ここでは、聖書のヨブ記を悪用して、因果応報はナンセンスだから、オレは無罪じゃ、とでも言いたいのでしょう。とんでもない。楽山の、神も聖書も悪用して自己弁護する醜さは、随所に表れてきたのであり、まさに、目を覆わんばかりであります。
 
ましてや「仕方ない」「神以外のものはすべて空しい」などと、神と神の大切な被造物を巻き込んで、おのれの空しさの巻き添えにするなど、以ての外であります。楽山の理路は、楽山の良心は、滅びゆく経過です。その証拠が、今回の記事に、集約されています。今後も、同様でしょう。
 
楽山は、なおも、気取って、既に否定され成り立たない発言をすることで、かえって、自らを滅びに定めてゆきます。詭弁を弄して誘導するペテン師の楽山に、やさしい人柄のような気がするなどと思うことのないように、決して、影響されないように、関わらないように、近づかないようにしてください。
 
 
堕ちゆく者の無限

堕ちゆく者の無限
 
 
(2020年)
(2022年12月23日、再録+加筆)
 
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
(歯科へ行け!)
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
  遠出・今日の夕日
 
日の落ちるのが早くなった
半月ぶりにオートバイで遠出
ガソリンスタンドに寄ったあと
帰りを急ぐ視界に
今日は雲の中で珍しいくらい大きく
赫(かがや)く夕日が飛び込んできた
写真に撮っておきたい
と眺めながら
オートバイのサドルに跨ったまま
走り過ぎてしまった
夕日の見えない道の方へ
 
帰り着いてオートバイを止め
ハンドルをロックしてキーを抜き
燃料コックをオフにして
前輪に盗難防止のロックを掛け
家に入ると
もう暗くて
明かりを点けなければならなかった
人工の明かりを灯した部屋からは
外はますます暗い
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、勝ちも負けもありません。さらに、中立もありません。立場のないところにるから、「反省」が「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと詭弁を言って、自己正当化を謀りますが、反省しない人間は、人間ではない、ということが分からないのです。
 
 
 
(ネットより)
自己愛性人格障害の男性の特徴
 
自分の意見に反対意見を言う人を側に置かない
自分の意見が正しいと思い込んでいるため、反対意見を言われると激しく怒りを覚えたり、逆に非常に心を傷付けてしまうため、自分の意見に対して常に賛成をしてくれる人を身近に置きたがります。これは日常生活でも職場でも同様です。
 
対人コントロールが上手く、始めは魅力的な人物ではある
自己愛性人格障害の人は急に「愛している」「好きだ」等の言葉を何度も投げつけてきます。しかしすぐに相手の事を裏切って絶望させます。この様におだてては落とすという事を繰り返し、相手を上手くコントロールしようとします。
 
始めの内はとても相手の事を褒めてくれる為に惹かれる人は多いですが、その分裏切られる人も多いです。これは日常生活でも職場でも同様な事を起こす可能性があります。
 
この様に、自分が常に優位に立てるコミュニティーの形成や恋愛関係の形成を行う点が男性の自己愛性人格障害の特徴と言えます。学歴コンプレックスを抱えている場合が多く、自分よりも低学歴な人を身近に置いたり、自分よりも貧乏である人を身近に置く場合もあります。
 
友人関係でも、自分の我侭に素直に従ってくれる人を友人とする傾向があります。
 
また、男尊女卑や女性嫌悪を心の根底に持っている場合もある為、自分の言う通りになる女性を道具の様に使います。
 
恋人は自分が優位に立てる女性のみを選ぶ
自己愛性人格障害の男性は、恋人にする相手は外見などよりも先に「自分が優位に立てる」という事を重点にして選びます。高学歴な女性や性格がサバサバしている女性、男性に人気がある女性はうまく自分を優位に立たせる事が出来ない為、地味な女性や優しそうな女性を恋人に選びがちです。
 
また、依存体質の女性や自立心が低い女性を特に好みます。これは恋人を対等な関係とは思わずに「奴隷またはペットとして側に置ける人」と捉えている人が多い為です。
 
 
 
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  油膜の視線3
 
 「第三講 ヨブの哀哭」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月30日
   を改めて批判。
 
 
楽山は、信仰という重要なテーマについて、要点をメモしておくと言っているようですが、楽山の言う要点とは何なのでしょう。メモとは何なのでしょう。楽山は、油膜のように、ボンヤリした視野で、ボンヤリした言葉の筆致で、惑わしの無神教カルトを宣伝してきます。
 
個人的なメモならば楽山のノートにでも書いて自分だけ読めばよいのに、メモと言いながら、公開して人に見せようとする自己顕示欲と、さらに、メモと言いながら、易々と"タブー"に触れてしまうところに、今までの例のごとく、楽山の厚かましさが表れているのです。
 
 
内村鑑三の『ヨブ記講演』の第三講を読んだので、例のごとく、その要点をメモしておきたい。
・ヨブ記第三章の研究。
・七は完全を意味する。七つ目の艱難で、艱難はその極に達する。
・友の見舞いを受けて以後、七日七夜、言葉を発せず。
・ヨブは艱難にあっても、神も社会も他者も呪わず、「その生まれし日を詛った」。
・ヨブは死を思うも、自殺は考えなかった。
・聖書にある自殺の場面は四ヵ所。イスカリオテのユダ、サウル(サムエル前31)、アヒトベル(サムエル後17)、ジムリ(列王記略上16-18)。
・「人の苦痛は人の慰謝を以て慰めることは出来ない。ただ主キリストを知りてすべての苦難に耐え得るのである」。
・パウロはキリストを知っており、ヨブは知らなかった(コリント後4-8以降、ヨブ42)。
 
パウロは、新約聖書の人です。ヨブは、旧約聖書の登場人物です。ヨブが、イエス・キリストを知るはずはないのですが、ヨブはキリストを知らなかったと、わざわざ書いているのは、どういう意味でしょう。旧約で預言されたメシアを知らなかったという意味で言っているのでしょうか。
 
この、どこにも広がらない紛らわしいメモは、何なのでしょう。ひょっとして、デタラメなのでしょうか。口から出まかせなのでしょうか。要点にも、ヒントにも、記事の序文にも、まるで、なっていません。楽山は、「読んだ」と言って、読んでいません。理解せずに、悪口を書く人です。
 
 
キリスト教において自殺はタブーになっているという話はよく聞くけれども、キリスト教とホスピスの関係を思うと、自殺はタブーとはいえ、それは何が何でも生きられるだけ生き続けなければならぬというわけではなく、延命を拒否して死を受け入れることは必ずしも否定していないようにも思える。おそらくはこの辺りについては、外部からはうかがい知れない難しい議論はあるのだろうな。
 
楽山の気安さが表れています。「キリスト教において自殺はタブーになっている」ということを平気で言ってますが、実際には、キリスト者も自殺することがあります。そのことは、本人にとってはもちろん、関わった人々にとっても不幸としか言えません。
 
そのことを、恐らく、楽山は、キリスト教に従わなかった人という見なしで済ませてしまうのでしょうか。「難しい議論はある」と思うならば、書かないことです。それと、ホスピスや延命拒否のことは、自殺とは切り離すべきことです。なんでもかんでも、おとしめる材料にする楽山です。
 
タブーは、禁止事項とか禁忌ということですが、自殺というのは禁止されたら、しないものなのか、なぜ、自殺は禁止となっているのか、ということが、ふつうは、考えるべき問題となるのですが、禁止か、禁止でないか、ということしか、楽山は考えることが出来ないようです。
 
自殺してしまうと、この世からは手の伸ばしようがない、ゆえに、自殺だけはしてくれるな、という切実な思いが表れていることなども、楽山は気づかないのでしょう。タブーとか戒律ではなく、最も大きな悲しみとしてとらえている、という視点が、楽山にはないのです。
 
そして、楽山は、代わりに、ホスピスの話をしています。ホスピスの「病からの死を受け入れること」と、自らを殺すという自殺の問題は、決して、同じ問題として考えることは出来ないはずですが、楽山は、"死を受け容れる"という字面だけで、同列に考えてしまうのでしょう。
 
このように、問題意識がズレてゆくのが、楽山の、学習と成長のない、字面の連想だけの思考の特徴であります。そうして「うかがい知れない難しい議論はある」などと、実にお気楽に人任せにしてゆくのです。書く必要など、見せる必要など、考える必要など、どこにもないのが、楽山の文章です。
 
こうして、読む側にとってはメモにも要点にもならない文章を、書いて見せてくるのが、楽山の自己顕示欲の特徴です。こういう自己顕示欲だけで、いちゃもんを書いて、知識人を気取るのが、楽山ですから、楽山の相手をすることは、楽山の肴(さかな)になることに他なりません。
 
こういう楽山の主張を、何気なく読んで、何となく頷いてしまうと、受け取った側の思考も影響を受けてルーズになってゆくのです。かといって、反発すると、今度は、楽山の執拗さに疲労させられてしまうのです。関わらないこと、関わったら直ちに逃げること以外にはありません。
 
こういう意味で、楽山の文章は、キリスト教とキリスト信仰について、さらに宗教一般について、無意味で無益なだけでなく、有害だと判断しています。相手にしないでください。楽山は、ケチを付けているだけの、参考にならない、中身のない、いちゃもん屋に過ぎません。
 
 
ちなみに仏典では、悟りを開いた僧が自死する場面が描かれていたりするが、釈迦はこれについてはキリスト教一般とは異なる見解を語っている。当然のことながら、一つの事柄についての判断は、宗教によって異なるということなのだろう。
 
そして、異なる宗教を巻き込んで、釈迦の見解がキリスト教とが異なるとか、一つの事柄についての判断は宗教によって異なるとか、同じようなことを2回言ってるような書き方で、記事を終わるのです。これが、読者にとって、何の要点に、何のメモになるというのでしょう。
 
自らの汚水の中を、自らの濁った眼では見えないために、歪んだ角膜の表面だけで眺めているような楽山からの、雑で不鮮明で不透明で、かつ、無反省で無責任で、退屈で迷惑な思考・思想・宗教観の駄文に染まらないように、決して近づかないでください。
 
 
油膜の宣伝ビラ

油膜の宣伝ビラ
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月06日、再録+加筆)
 
 
 
  油膜
 
油膜を洗い落とす
別の油は塗らなくてもいい
濁ってしまうから
洗うだけでもいいから
落とせないと知りながら
洗い落とそうとする
顔の油膜
眼の油膜
視界の油膜
記憶の油膜
死んで猶(なお)
汚れて更に
水を含んで
湧いてくるから
 
 
  ぶっつけ問答
 
企みや謀(はかりごと)に対しては
 
人となりを見る そして
 
倶(とも)に天を戴(いただ)かず
血の果てまで続く復讐は
百代祟(たた)りて余り有る可し
 
これほどの憎しみを
そっくり神に委ねようというのだ
 
でも言ってしまった
 
鼬(いたち)の最後っ屁として
負け犬の遠吠えとして
 
今一番つらいことは?
眠りから覚めることだ
 
今一番後悔していることは?
生まれてきたことだ
 
生まれる前に戻りたいと?
戻れはしない既に生まれたのだから
 
ではどうしたいと?
今どうするわけではない しかし
いずれ最大の罪と知りながら
最大の罪を犯すことになるか
あるいは耐えるだけ耐えて
遊べるだけ遊んで学べるだけ学んで
糧食尽き果てて息絶えるか
 
委ねたお方に任せるのでは?
任せたいが肉体が弱すぎる
 
まだ信じてはいると?
信じていると思ってはもらえまい
しかしまだ拘(こだわ)ってはいる
 
では聞くが自らの憎しみに対しては?
ゆえに知る
罪があれば裁きがあり
いずれ罰が下ると
 
自らの悲しみに対しては?
ゆえに知る
一縷(いちる)の憐れみの絆あらば
いずれ覚めることのない眠りを賜(たまわ)るであろうと
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
オネスト井上
@honest_inoue
自分の思想や信条が自分にとってはベストであっても、他の人には必ずしもそうではないということを世の中の人々は認めています。
でもカルトはそうではない。
自分の宗教こそ唯一正しく、それを他の人は知らないといけないと本気で信じている人々です。
そりゃ、相手していると疲れますよね。口を開けて冷や汗をかいた笑顔
午前2:18 · 2021年6月7日·Twitter Web App
https://twitter.com/honest_inoue/status/1401589427130888196
 
引用元を批判する気はありません。引用しているカルト思想の楽山を批判しています。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに、何を言われても、自分の思想と信条、つまり、自分は整っていて、分かっているという我執から逃れられず、都合の悪いことは無視し続けて、キリスト教否定など、同じことを、無反省・無根拠に繰り返してきます。
 
しかも、一切、責任を負う気がなく、学者気取り、知識人気取り、霊能者気取りで、丁寧語で書いてきますが、批判されると、嫌がらせのようなことを返すだけになります。楽山は、一種のカルト思想~妄想症と言ってよいでしょう。正直と誠意から、最も遠い人です。
 
楽山の相手をしていると、疲れるだけでなく、長期に及べば、人格を破壊される恐れがあります。楽山は、罪悪感や羞恥心がないので、成長のための学習能力が欠落していると言ってよいでしょう。ゆえに、粘着して訂正不能の他害性を持っています。丁寧語と婉曲表現にだまされないようにしてください。
 
なお、楽山は、体質的な精神の歪みのために、だましの詭弁は持っていても、能力においても、視野においても、誰かの助けになるようなこと、糧になるようなこと、ためになるようなことを、一切、提示することが出来ません。分かっているように見せかける芝居しか出来ない人です。
 
楽山のような最も悪質な詭弁屋は、まともな理路に見せかける体裁だけの詭弁と、訂正不能の妄想とを、組み合わせてきます。柔和芝居や謙虚芝居として、丁寧語、曖昧表現、若者言葉を使うこともあります。決して、真に受けないでください。楽山に関わらないでください。言論の敵です。
 
 
思いついたので書いておきますが、あるとき正しかったか、光る言葉を語ったか、何か良いことを言ったかということよりも、生きてゆく間、反省と修正と学習が可能であったか、勉強不足を自覚できているか、ということのほうが、はるかに大事だろうと思っています。
 
その見地から見ても、楽山には、受け取り方の幅がないということです。奇跡といえば、実際あったのかどうかだけにこだわり、いちばん大事なこと、人間の心に響くキリストの共感には、全くの無頓着で不感不応なのです。この視野の狭小化は、自己愛性人格障害によるものなのでしょう。
 
二千年前に物や肉体の奇跡があったことを聖書が書いてあるからといって、では今は?・・と考えると、そのような奇跡、先ず、めったに起こっていないわけです。キリスト者が生まれるには別の何かがあるのでは?という問いに、楽山は進めないのです。そこから進歩しない異常が病質なのです。
 
旧約と新約において、様々語られる超常現象としての奇跡が、あったかどうかにかかわらず、キリスト・イエスは、もっと大切な魂の奇跡において、充分に、救い主なのです。それを理解しない楽山は、学習も成長もしないまま、割れて捨てられ汚れた能面のように、醜い表現と表情をさらしています。
 
もっとも大事なこととして、脱落者あるいは被害者として、ひょっとして、ヤケクソから自殺か、犯罪者にでも落ちかねない人が、キリスト者になる、ということは、地上の理不尽によって生じた多くの怒りと憎しみを、キリストに、神に、預け任せるという魂の奇跡なのです。
 
こういう信仰者の決意の重さを、楽山は、まるで考えておらず、彼の多くの怒りと憎しみを狡い復讐だけに当てて、刹那的な悦楽だけを求めて、嘘と詭弁を弄している生業(なりわい)です。そういうことを続けているあいだ、キリストも神も、楽山が人間として理解することはないのです。
 
楽山は、心の傷の癒しも手当ても、何も持ち合わせないまま、ホラー趣味と、キリスト教へのいちゃもんに、現(うつつ)を抜かしているのです。誰も癒やせない、誰も立ち直らせ得ない、そういう人が、自己愛のためだけに書いているのが、楽山のブログとツイッターであります。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
残念ですとかガッカリしたなんてほとんどは「お前が私の思い通りに動いてくれないのがムカつく」の言い換えだからシカトでいいよ。理想押し付けガッカリクソ野郎の操り人形になるために生きてるわけじゃねえだろ?「そうですか。それは大変でしたね。ほなさいなら」で終わりでいいよ。気にしてたら損。
午前8:14 · 2021年6月8日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1402041246193913856
 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。楽山の、わざとらしい丁寧語による悪意を連想します。「ほなさいなら」で終わるならいいけど、楽山は、いつまでも、いつまでも、減らず口で、ネチネチと書いてくるのです。気にしたら損です。誰の役にも立たないのですから。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
濁った眼で見ても、自分は見れない。ゆえに、ますます濁って、何を見ても、その真実に近づくこともなく、先入観と偏見と思いつきと妄想の奴隷となって、こう書いておけばいいじゃろ・・という、ごまかしと飾りで、うまくいっているつもりになってしまうのが、楽山の病気です。
 
楽山は、新しい意見を、受け取ることも、発想することも出来ないようです。だから、受けのよい丁寧語で書いて、既存の意見を、あたかも、広い視野を持っているかのように、しつこく繰り返してきます。そのように繰り返すことこそが、学習不能の病質であることを、さらに表す経過と結果です。
 
 
 
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  とほほ?・・3
 
 「第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月23日
  を改めて批判。
 
 
楽山の言葉は、決して、素直に読んではいけない、というのが、今までの私の学習の経過と結果であり、今回も、その楽山の言葉の災いが表れています。素直に受け入れでもしたら、真実ではなく、人格は無視と怠慢と破壊の方向にしか向きません。
 
いつのまにか、知らず知らず、楽山に盲従してゆくことになり、本来の、知性と感性の学習も、その結果としての成長も、できなくなるでしょう。楽山こそは、反キリストの典型として、こうなってはいけない、こうなったらおしまい、という例として、語り継ぐべき対象であります。
 
 
『ヨブ記講演』の第二講を読了。その内容を自分なりの言葉で要約、メモしておきたい。
 
メモではなく、楽山の観念的で訂正不能の先入観と偏見という思想の悪い要素、および、楽山発の、キリスト教への飽くなき憎悪が、ボンヤリ言語の裏に固定された曲解に表れています。
 
このように、重大なテーマについて、劣悪な発言をしておきながら、気軽な、メモ、などという言い方をして、責任逃れをしてきます。楽山の、"自分なりの言葉"は、総じて悪意ある扱いとなり、誘導の詭弁であります。
 
 
・その名がヨブであったかどうかは別として、ヨブのような人物は実在していたのであろうし、著者もまたヨブのような経験をしたのであろう。ヨブはもちろん著者にも敬意を払うべきである。
 
内村鑑三を聖書の登場人物であるヨブと並べて、同じような経験者と書いているところに、楽山が、いかに、聖書を安く軽く見ているかが表れています。発想が貧弱で乱暴です。したがって、敬意は嘘であり、いつもの受け狙いの世辞なのです。このように、楽山は、非常識の偽善者です。
 
 
・一章一節においてヨブを全き人としているのは、「人より見ての完全であって、神より見ての完全ではな」く、この場合の完全の基準は、人それぞれであり、古のユダヤでは日本より相当に高い基準で判断されていた。
(ちなみに、ヨブ1-8では、神はヨブを表して、「全くかつ直く」(『ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫)としている。新共同訳では「無垢な正しい人」となっている)
 
 (ヨブ記、口語訳)1:1
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 
 (ヨブ記1:1、旧約聖書)
 
 
神の完全と同等の完全を身につけた人間は一人もいません。「完全の基準は、人それぞれ」ではありません。自らを完全と見なすとき、パリサイ人と同じように、信仰の義は、なくなります。
 
人の肉体を持っておられたイエス・キリストの完全は、神聖なる三位の御一方ということを表しています。神聖でない人間には、正直な祈りへの賜物として、信仰の義が与えられます。
 
楽山は、正義というと、ヒーロー物語の完全な正義しか想起できないのでしょう。その小学校レベルの理解では "信仰の義" などということが理解できるわけがないのです。不完全・未熟の自覚がないということの災いという典型例が、楽山なのです。
 
楽山は、人より見ての完全どころか、訂正不能の完全と慢心の自意識から、批評家気取りで、今回も、ヨブと神を語ってゆくのでしょう。その文章が、どれだけ拙劣を極めても、不感不応の楽山は、全く気にしないで無視できるほどの、哀れな無反省の病質しか持っていないのです。
 
 
・サタンは神の許可を得て災厄をおこしている。この世の出来事はすべて神の意思によらないものはなく、またすべては何らかの意味を持ち、益となる。(ロマ8-28)
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
まるで、いつも、サタンは、神の許可を得て、神に勧められて災厄を起こしているかのような書き方です。楽山は、恣意的に、サタンも、神も、字面だけの観念で語って、貶められると思うゆえに、単純な文脈を捏造しています。つまり、災厄は、全部、神のせいじゃ!・・と言いたいわけです。
 
こういう楽山のような、神憎しに固まっている人は、自らの悪と偽善の罪を認めない、ということが表れています。知性と知識と感性と高等感情のない楽山は、いつも、妄想的に短絡します。その発言は、信頼度はゼロであり、好ましさも真実の欠片も含まれてはいません。
 
聖書の記事から、神とサタンの関係を安易に決めつけてはなりません。楽山が軽々しく決めつけるのは、楽山が反キリストだからです。サタン、というのと、楽山、というのが、近くなってゆきます。楽山は、それが、むしろ快感なのでしょうか。サタンは醜さの象徴でもあるのですが。
 
 (ヨブ記、口語訳)2:6
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
 (ヨブ記2:6、旧約聖書)
 
ここでは、サタンが、ヨブに加える災いには、命を奪うことを禁止する条件が付いています。人の命を造り、それを奪うのは、神のみの特権であります。
 
勝手に意味付けをしたうえで、楽山は、神の許可を得ているならば、なぜ、不幸が起こるのか・・みたいな、いちゃもんに結び付けたいのでしょう。ここでも妄想的に訂正不能の悪意の短絡です。
 
こういう幼稚な発想を、前にも書いて、また、今も、書いている楽山は、神を恐れず、神?を、自らの観念の中において、貶めようとしてきたのです。他でもなく、堕ちてゆくのは、いつまでも身の程を弁えない無節操の楽山であります。
 
超常の存在であるところの、神とサタンの関係については、人知を超えた領域ゆえ、人には理解できないことです。神とサタンのストーリーを勝手に決めつけてはならないし、特に、楽山のように安っぽい理路をもって文脈を作ってはならないということです。
 
楽山は、批判に反応せず、平気で同じことを繰り返したり、テーマについてではなく、幼稚な論理遊びの迷路に誘導してきて、相手が疲労するのを狙っています。それ以外に、手段を持っていないのです。とても、みすぼらしい理論家気取りの嘘つきが、楽山です。
 
楽山は、聖書と信仰について、こういうことだけはしてはいけないよ、という、反面教師としての役割を果たしているのです。つまり、ここで、サタンの役割を続けているのは、楽山その人であります。一日も早く、退いてほしいわけです。楽山の言は、誰に役にも、何の役にも、立たないのです。
 
 
・ヨブの妻は自ら棄教し、夫にもそれをすすめたが、夫人の中には財産の一部を失っただけでそのようなことをする者もいる。ヨブの妻は財産も子も失い、夫が不治の病にかかるまで耐えたのだから彼女を責めることはできぬ。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:7-8
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 
2:9
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 
2:10
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
 (ヨブ記2:7-10、旧約聖書)
 
「神をのろって死になさい」と言った妻を、正当化することは出来ません。しかし、神を呪っている楽山は、味方したいようです。
 
さらに、大仰に「責めることは出来ぬ」という楽山には、聖書と信仰の理解がなく、人間として必要な人間らしい共感もないゆえに、ヨブの妻を庇(かば)う資格もないのです。楽山のように、身の程を知らないでいると、こういう醜態になる、ということが表れているだけです。
 
楽山は、裁き主であるかのように、ヨブの妻を無罪としたいようですが、人の罪の裁きは、神に任せられます。こういうところに、上から物を言う楽山の醜悪な恣意は顔を出してきます。楽山という、極めて程度の低い病質的人格は、いったい、どこまで、節操もなく、思い上がるのでしょう。
 
 
・多くの人々がヨブを見捨てたが、三人の友はそうではなかった。真の友はありがたい存在である。ヨブはこの三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかったであろう。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:12
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 
2:13
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
 (ヨブ記2:12-13、旧約聖書)
 
楽山は、ヨブ記の主題を外したいのでしょうか。人の説得が、結局は、ヨブに通じなかったというのが、ヨブ記の大きな主題であります。
 
ストーリーも文脈も読み取れない楽山は、また、読み違いで、「三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかった」ヨブを、勝手に描いて、ヨブ記をメロドラマにしたいようです。浅はかな同情言葉で信仰は語れない、ということを、浅はかな楽山が、明らかにしています。
 
 
ヨブ記を初めて読んだときは、サタンが神の許可を得て災厄をおこすというのは、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎると感じたものだったが、この世に起きることは、よき事はもちろん、そうでない事もすべて神の意思によるということを表現しているのであるならば合点が行く。「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」(ヨブ2-10 関根正雄訳)という言葉もこの流れにあるのだろう。
 
楽山が、神を憎む勘違いのプロセスを、楽山が表しています。いわゆる、勘繰りとか、曲解とかいうものです。被害妄想的とも言えるでしょう。理解と共感のない者は、我欲に走って、我欲という物差しから、不都合を、悪と決めつけますが、自らの悪にだけは気づかない習性を持っています。
 
というのは、本当に読んで理解したのなら、「神をのろって死になさい」と言った妻の味方をするような、今までの高慢な発言も、神否定も、無かったはずです。恐らく、本当にそう思っているのではなく、反キリストの筋書きに利用しているだけなのです。
 
したがって、今までの記事の流れと、今回の記事の文脈から、ここでの、神の意志について、「合点が行く」という、楽山の言は、大嘘だということです。このように、嘘を吐き、詭弁を弄して、人を、だまして誘導するのが、楽山のやり方です。あらゆる良心の敵です。
 
 
すべてに意味があるという考え方については、近頃は目的論的な思考には共感できなくなってきているので抵抗があるのだが、でも自分の身の回りに起きた事、起きるであろう事は受け入れないわけにはいかないだろうし、そのためには結局さいごにはこの思考に頼るしかなかろうとは思う。
 
「すべてに意味がある」ということが、頼れる思考になるでしょうか、そもそも、思考の内容を示していない言葉です。厚かましい楽山だから、気取りだけで言っているのでしょう。意味が、目的が、いちいち、納得できるように、人に、いつも、分かるでしょうか、否です。
 
信仰者においても、起こってくることに対しては、悩み、悲しみ、迷い、ときに疑い、祈りのうちに、できることをしてゆく歩みなのです。楽山は、安楽以外を選択しません。無反省と無責任も、楽山が選んだ、楽な生き方なのです。そして、その選択が、大きな迷惑と害をもたらします。
 
楽山が、ボンヤリ言語で言いたいのは、神と聖書への肯定ではなく、自分の思考への依存と自慢なのです。楽山の読書には、そして、楽山の言葉には、このように、必ず、魂胆があるのです。嫌らしい詭弁の印象操作でもあります。だまされないでください。影響を受けないでください。
 
 
ヨブやその妻の心情について、内村鑑三の理解、同情は心にしみるものがある。氏は人の心が分かる優しい人のようだ。こういう人を見ると、自分はいまだに他人に厳しく、裁き癖が治ってないと反省させられる。とほほ。
 
楽山が、反省しているなら、修正による主張の変化と成長があるはずです。修正しないでいいと言うのなら、反論か弁明があるはずです。それら、正常な理路は、楽山から、一度も見られたことがありません。褒めるも、けなすも、楽山の作為の恣意の芝居だと思っておいたほうがよいでしょう。
 
今までの記事で、好きなように、キリスト教と神への呪いのような悪口を、執拗に書いておきながら、今回の記事で、そのまま、裁き癖が治ってないと反省している言葉、これこそ、嘘っぱちのボンヤリ言語の詭弁なのです。こういう嘘の同情を誘う言葉を、トホホ言語と呼んでいます。
 
この記事だけを見ても、神をのろって死になさいと言ったヨブの妻の味方をしたり、一方で、神の意志に合点が行くと言ったり、理路は、散乱、分解して、支離滅裂になっています。自分を高める以外に、一貫した意見など、楽山は、何も持っていないと思います。そして、最後は、"とほほ"・・?
 
「とほほ」なら、そもそも記事を書くなと言いたいのです。楽山は、人を痛めつけることに快感を感じるサディストなのでしょう。このような滅裂な文章を書いてもニヤニヤ笑っていると思います。寒気がします。ホラーです。とても危険です。決して近づかないようにしてください。
 
 
ホラーなどの超常は、趣味にしかなりません。信仰は、現実を考える人に与えられます。キリスト者は後者を選び、楽山は前者を選びました。
 
したがって、楽山が悔い改めの言葉を言っても、それは嘘だと見なされてゆきます。それを責める資格は、楽山にはなくなるということです。「とほほ」は、その典型ですが、ゆくゆく、楽山にとって、大変なことになるでしょう。書くたびにバレてゆくのです。こうはなりたくないものです。
 
楽山は、自己愛性人格障害の自己中ですから訂正不能だと思います。楽山とは、誰も、対話は成立しません。ふつうに対話している、あるいは、対話が成立していると思っている人は、既に、楽山による破壊が始まっていることを考えるべきです。
 
「狼と少年」のことを時々書いてきましたが、要は、狼が来た!と嘘ばかりついていると、本当に狼が来ても、誰も信じなくなるということです。楽山に対しては、関係を断ち、逃げてください。嘘吐きだけでなく、楽山こそが、狼です。
 
 
嘘しか言えない狼が来た

嘘しか言えない狼が来た
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月10日、再録+加筆)
 
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
ということを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
ということを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
ということを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
いつも成長しうるということであり
超然とすることではないから
決めつけないことである。
 
信仰は人を
決めつけや思い込みから自由にする道である。
神の前で
決めつけを語ることの罪を知るからである。
 
 
聖書を読んで
人間として受け取れることを受け取るのが信仰です。
 
人間として理解も共感もできないゆえに
人間として受け取れないことは
すなわち超常のことは
人間としては保留して
神にお任せするのが信仰です。
 
あったなかった・・を決めつけて、
そこに、こだわるのは、信仰ではありません。
 
信仰は、人間の温かい感性に響くものです。
 
日常しか知らない人間にとって
超常への方向性は、人間の感受性を鈍らせてゆきます。
能力の限られた人間としての領分を弁えるべきです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
幸福探検隊
@KOU529529
·11時間
【二世問題】親は自分の価値観を子どもに押しつけます。そのうえ正しい信仰で教育しているという意識が、いま苦しんでいる人の姿を見えなくしてしまいます。教団の外での人間関係を築くことも困難にしています。二世問題を真剣に考えましょう。救いの手を差し出している人が待っています。
午後8:28 · 2021年5月31日·Twitter Web App
 
引用元ではなく、引用~利用~悪用している楽山を批判しています。正義の味方気取りで、アンチを装う楽山に、決して近づかないでください。楽山は、「正しい信仰」を何も知りません。なのに、正しいことを教えているつもりの悪意~霊能者妄想によって、HSもアンチも、だましています。
 
楽山は、例えば自己中など、人それぞれでないことを、人それぞれと思わせる詭弁によって、楽山自作の反信仰の固定観念を宣伝してきました。楽山の生き方は、その固定した偽善のハナタカによって、人を人とも思わず、人を苦しめ、疲労させてゆくのが快感、という、サディストの汚い欲望です。
 
楽山の汚い欲望は、引用にも表れてきます。引用を止めることは出来ないのでしょうけれど、その都度、楽山の引用の動機が、楽山の欲望の悪意であることを指摘し、批判して、警鐘としています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、批判に対して、決めつけだけを返してきました。それは、返しにはなりません。楽山は、偽りを言う口だけを持ち、聞く耳を持ちません。こういう人を相手にしてはいけません。楽山を真に受けると、疲労し、感性が鈍くなり、人格が破壊されてゆくでしょう。入り口でブロックするべき人です。
 
 
 
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  中立芝居2
 
 「第四講 老友エリバズまず語る」2020年06月06日
 (『ヨブ記講演』内村鑑三)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、キリスト教と神をおとしめ、それを訂正しないまま、今度は、いかにも真面目に努力しているふうを装っています。しかし、今まで書いてきたことを否定せずに、逆方向のことを書いても、結局は、自分は中立で何教でも分かっているのです、という不変の自尊過大のアピールしか表れていないのです。
 
だまされてはいけません。人の言うことを受け取って書く、ということが出来ない楽山は、ひたすら聖書や本の中から、自分に都合の良いところを拾って来て、唾液を飛ばして言い逃れをしている見苦しさと同じです。
 
そして、最近の、反省、反省、と言いながら、人の言うことを受け取らずに、書き続ける執拗さにこそ、自己中が、他者を無視して、趣味に合うことだけを漁ってゆく自己崩壊の経過であります。反省とは真逆の態度であります。字面だけの反省言葉、真に受けてはいけません。
 
 
『ヨブ記講演』の第四講を読んだので、忘れぬうちに内容をメモしておきたい。本講の中身は前より一段と濃くなっている。
 
自尊過大のナルシシストに、信仰について、中身が濃いかどうかなど、分かりはしません。字面(じづら)だけの読書の一本道は、信仰への侮辱と堕落の片道切符を売りつけることでしかありません。
 
 
・エリパズの言葉は「苦難にある友」への言葉としては「冷酷」である。しかしこれは彼の問題ではなく「当時の神学思想の罪」である。
・「ヨブの苦闘は」「すべての真人の経過する苦闘である」。
 
先ず、エリバズの言葉が冷酷だと言っています。それは、本に書いてある、ということが担保だと言いたげです。エリパズだけでなく、神の意志を、人が代弁することは出来ないということです。楽山は、その大罪を犯しているのです。顧みられることはないでしょう。
 
楽山は、その上で、さらに、「神学思想の罪」、「真人の経過する苦闘である」と、引用でしょうか、書いて、ヨブを弁護するように見せかけ、実際には、楽山自身を弁護しようとしています。こういう文脈を、自己中と自己愛で、作ってくるのが、楽山を赦せない根拠になってゆくのです。
 
 
・当時の神学思想は「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」というものであるから、悲惨な状況にあるヨブは、何か罪を犯したからそのようになったのだとみなされ、悔い改めを求められる。
 
ヨブ記全体を通して、人がヨブを説得することが出来ず、すなわち、ヨブは、神が顕れるまで、罪を認めずに、自身を不遇を嘆き、自己正当化して、神と議論したいとまで主張を続けます。ここに、ヨブだけでなく、人間の罪の根源が表されている、という重要なヨブ記であります。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、旧約聖書)
 
ヨブ記の話というのは、人の無力と、神の絶対を、ヨブの苦境での自己正当化という罪を通して伝えているのです。神と、人の、絶対的な違いを弁えるためです。神と論ずる、なんてことは、決して出来ません。私たちは、人間として、受け取れることを受け取るだけです。
 
全部、過不足なく受け取るということもありません。私たちは、決して、神と同等ではない、かつ、絶対でもないからです。だから、生涯にわたって、祈り、告白し、悔い改め、反省し、成長することが必要なのです。
 
信仰者のための聖書の読み方としては、楽山のように、史実や字面にこだわって、自己中の我欲に短絡するのではなく、大小の文脈において、虚心に聖書が何を伝えているかを考えることが大切です。このような記事を楽山が書いていること自体、神への冒涜なのです。
 
しかし、楽山は、人に対して、さらに、神に対しても、一段上に立って批評する、という反信仰の立場から、字面だけの同情心を装い、ヨブを無罪にすることで、聖書をけがし、神をけがし、悔い改めたヨブをけがしています。楽山の反信仰全開です。
 
人格の根腐れというのは、何を言っても書いても、態度と姿勢に、既に、表れてきたし、今回も同じことです。どんなに、謙虚芝居をしても、前にも後にも、無反応の不感不応の自己を執拗に表すことで、自己顕示と誘導のための芝居だと、バレてしまうので、いっさいは、無駄なのです。
 
楽山は、人に無視されるのが嫌で、執拗に書いてきますが、誰よりも、人を無視してきたのは、楽山その人であります。これからも、恐らく、同じでしょう。化け物よりも、ケダモノよりも、はるかに、おぞましいことです。
 
 
・4.12-21は幽霊物語であり、「ヨブを諭さんとするための技巧なるか」「かかる演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは、真率において欠くる所ありといわねばならぬ」。
(4.12-16について、『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、関根正雄訳)の注釈では、「神の言葉を受ける時の心理的状況を述べている。預言書にもこのような具体的叙述は見られない」としている)
 
 (ヨブ記、口語訳)
4:12
さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、
わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13
すなわち人の熟睡するころ、
夜の幻によって思い乱れている時、
4:14
恐れがわたしに臨んだので、おののき、
わたしの骨はことごとく震えた。
4:15
時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、
わたしの身の毛はよだった。
4:16
そのものは立ちどまったが、
わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。
わたしは静かな声を聞いた、
4:17
『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18
見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、
その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19
まして、泥の家に住む者、
ちりをその基とする者、
しみのようにつぶされる者。
4:20
彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、
顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21
もしその天幕の綱が
彼らのうちに取り去られるなら、
ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。
 (ヨブ4:12-21、旧約聖書)
 
夢の啓示でしょうか。人は神の前に正しく清くあり得ないこと、そして、人が、いかに、はかなく、弱いものであるか、という、神と人の決定的な違いが書いてあります。そのことを自覚しない楽山のようなものは、聖句に書いてあるようになるのでしょう。かなり、厳しい戒めです。
 
楽山は、これを幽霊物語と書いています。楽山が、霊能者気取りで、原始反応的に、幽霊物語で済ませるのは、何も読み取っておらず、受け取っていない証拠なのです。ときは、絶えず、忍び寄ってくるものです。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、著しく鈍感です。
 
 
・5.2-7は「災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である」。
・5.17~以下は「人に挑む艱難を以て罪の結果と見、従ってこれを神よりの懲治と」した。
 
よく分かりませんが、艱難を罪の結果と見てしまえば、試練として受け取って祈り悔い改めに結び付けることは出来ないでしょう。楽山は、まさに、そういう一次元の受け取り方しかできない字面のみの思考であろうと思います。
 
 
・ヨブ記の物語を現在の教会にあてはめると、ヨブが模範的信者であり、経済的にも社会的にも成功している間は、それは神から祝福されていると解されていても、やがて度重なる不幸にみまわれ零落すると、何か罪を犯したためであろうと推測され、教会の代表者三人…「老牧師エリパズ」「壮年有能の神学者ビルダデ」「少壮有為の実務家ゾパル」がヨブを見舞い、懺悔を勧めるために訪問したという流れになる。
 
このように、キリストも神も聖書も、理解の端緒にすら達していない楽山は、未熟な短絡人格らしく、無理解を、自分にではなく、教会に当てはめて、教条主義と決めつけてゆく魂胆しか持たないことが表れています。これからも続くのでしょう。楽山という反信仰・反キリストの資料化が進んでいます。
 
 
・「罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない」。キリスト、パウロなどがその例である。
・苦難の種類は三つ。一つは「罪の結果」であり、二つ目は「懲治(こらしめ)」「愛の笞(むち)」、三つ目は「信仰を試むるために下る苦難」。ヨブの苦難はこの三つ目にあたる。第一章の天国での場面でそれが分かる。しかしエルパズらは一つ目、二つ目について語るばかりである。
・「人が艱難に会したるときは、その艱難を以てその人を審判くべからずその人格を以って艱難を審判くべし」(ブレンチウス)。
 
これも、これだけでは、分かりにくいですが、恐らく、奇しくも、楽山のことを言っているかのようです。信仰者の人格つまり人間の信仰をもって、艱難がいかなる艱難であるかを判断するべきだ、ということでしょうか。
 
これは、判断する人間の能力において、とても難しいことではありますが、少なくとも、これはこの罪の報いだというような決めつけをしてはいけない、ということとして受け取っておきます。楽山のような短絡は、厳に戒められるべきです。
 
つまり、今に始まったことではないところの、楽山の、不感不応の自己愛の自己中心からの、見下ろすような決めつけが、この悪い例に当たるということです。楽山は、楽山のどの記事においても、最悪のモデルに相応しい曲解を載せているのです。
 
 
不幸な状況にある人について、因果応報、自業自得と決めつけることはありがちなことである。宗教を信じている人が、その教義によって人を裁くというのもそう珍しくはない。恥ずかしながら自分にもそういうところがあるのだから情けない。しかもこれは間違いだと自覚していても同じ事を繰り返してしまう。ここはひたすら反省…。
 
反省しているなら、書かないはずです。書いて、自己顕示していることから、楽山は、またしても、読者を欺こうとしている、ということだけが表れるてくるのです。どこまでも卑怯な楽山、批判の貼り付けに相応しい偽善の文脈を続けています。
 
 
 2020年06月06日
 『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳
 
楽山の高慢が、いたるところに、表れるようになっています。
 
 
岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』を読んだ。「ヨブ記」は以前、新共同訳で読んだときは文章が難しすぎて大まかな意味を推測するのがやっとで分かったという気持ちには全然ならなかったのだが、本書は巻末の注釈が充実しているので自分のような基本的な知識に欠ける者でも理解しやすくなっていて有り難い。とはいえ自分にとっては、この注釈も程度が高すぎて難しいのではあるが。
 
楽山は、何も分かっていません。シャロームと同様、ヨブ記も、聖書も、キリスト教も、キリスト信仰も、神も、キリストも、理解していません。というより、人間としての受け取り方が、まるで出来ていないのです。楽山の安い脳と心は、我欲に従っているだけです。
 
それでも、書いてくるたびに尊大と言われたものだから、難しい、などと謙虚芝居をして、批判を全然受け取らないまま、また、書いてくるところに、楽山の訂正不能の厚顔無恥が表れています。あらゆる救いと赦しの機会を棒に振って、楽山の人生は存在しているのでしょうか。
 
安楽のお山の大将には、実に、安易に、誰でもなれるのです。他者の意見を無視して、こんなに本を読んだ、難しい、反省、とほほ、と書いて、あざとい芝居をすればよいのですから。ただし、これは、自他の人格の致命的な破壊を伴います。
 
気に入らないことを無視しましょう、という、アドラー教の信条を、楽山は前に書いて、実際、人の言うことを聞かず、都合の良いところを漁って本を出してきて読書家気取りを出すところが、まさに、楽山が何を書いても、けちな企みであることが、楽山の筆致を通して、いつも明らかになってきたのです。
 
 
本文全体の感想については、前に読んだ時とは印象が大分変って、ヨブとその友人たちの激しさに圧倒された。前はみな大人しい性格に思ったのだが、今回はヨブの友人たちへの反論や神に向けての言葉の激烈さ、ヨブの友人たちのヨブ批判の無慈悲さには驚かされた。これは多分前は比喩の意味がよく分かっていなかったのが、今回は注釈のおかげでその意味をよりはっきり受け取ることができたためなのだろう。
 
聖書の登場人物は「大人しい」のではなく、情感が豊かな人が多いです。楽山は、そこを勘違いして、感想を書いていますが、それゆえ、的外れと、理解力不足と、単方向の我欲の醜さだけを表す結果になっています。
 
楽山の「前はみな大人しい性格に思った」という感想は異常です。恐らく、注釈を経ても、楽山が、「その意味をよりはっきり受け取る」ことは出来ないということを表しています。受け取る器を用意することが、自己中と自己愛のために、楽山には出来ていないからです。
 
前には、クリスチャン芝居もしてきたような、楽山という人は、狼と少年の話のように、嘘を言っても、本当を言っても、結局、芝居によって嘘偽りを隠そうとする方向に向かいます。まるで、安いマジックのように、インチキなのです。
 
ですから、そのような経緯を経て、今もまた、言いがかりと言い逃れの詭弁と誘導の企みという似たようなことしか出来ないところに、受ける器である楽山の脆弱な病巣が、ますます明らかになり、みじめな人格の破綻を表すことになるのです。
 
 
自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋なので聖書のことは聖書を読めば分かるのであって解説書なんて必要ないと考えてしまったりもするのであるが、こうしてみるとやはり解説書はぜひとも必要だと痛感させられる。
 
楽山は、「自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋」・・これが弁明になると思っているのでしょうか。自惚れ屋は、自惚れ屋であるあいだ、信仰など語れませんし、語ってはいけないのです。それを、謙虚芝居に使うところにも、楽山の安っぽい企みが見え隠れしています。
 
 
宗教的に読もうとするする場合は、知識的なことに頼らず、霊感によって読むことが大切なのだろうけれども、
 
また、霊が分かるっぽい自分を出したいのでしょうか。楽山には、今まで、霊感も、一般的なインスピレーション的な直観も、一度も、文章に表れたことはありません。汚水のように漏れてくるのは、自慢と気取りと高慢だけなのです。
 
 
歴史的事実に忠実に現実的に読もうとすれば当たり前のことではあるが専門家による研究を無視する事はできないのだと思う。
 
信仰においては、歴史的事実に忠実に現実的に、共感できる心情として読もうとすれば、霊感は必要ありません。信仰においては、人間らしい、冷静な、知性と感性があればよいのです。楽山から発せられる、"当たり前"、"忠実"は、刷り込みとして、嘘っぱちであるだけでなく、邪悪な企みに満ちています。
 
こういうところで「専門家の研究を無視する事はできない」などと、専門家の言うことが分かる自分を出してきて、自身の厚顔を表してしまうような、そして、一般を軽く見るような、楽山は、どんなに選り好みの読書を続けても、恣意しか表れず、宗教と信仰の真実を受け取ることはないでしょう。
 
ゆえに、人間性も、専門知識も、何も理解できない楽山に、真実を伝えることなど出来ないと思います。どうか、だまされないでください。関わらないでください。楽山の言を、受け取らないでください。
 
 
嘘っぱちの芝居

嘘っぱちの芝居
 
 
(2020年06月07日)
(2022年06月08日、再録+加筆)
 
 
 
  失われた一人
 
失われた夜の向こうで
一人は首をかしげ
一人は嘘をついた
まだ笑顔で泣けるだろうか
真昼の星の下で
一人は別れを告げて立ちすくみ
一人は出会いを祝福して去った
まだ影は立つことを望むだろうか
夕焼けが滲む速度の中で
一人は一人に
もう一人はもう一人に
お互いの不在について語った
灯もなく誓いもなく
まだ火に焼(く)べる信条があるだろうか
夜の向こうで灰と化した紙切れが
見ることのない朝を刻んだ
 
 
  午睡
 
椅子の背にじっと凭(もた)れていても
旅をしている気分の日は
過去とも知れず未来とも知れず
あきれるような虚空が広がって
数えきれない矛盾と嘘を受容しながら
行く先もないというのに穏やかでもなく
背凭れから満たす何物もないのに
罪を知り悔いに悔いてなお
知り得なかったものが駆り立ててくる
無謀な戦(いくさ)あるいは怒り
真実を敵とし友とし
死ねばいいと墓穴に似た窪みを探し
一方では死にたくないと必死で這い回り
数えきれない矛盾と嘘を受容してしまって
どちらの可能も不可能も怠けたまま
遺言ひとつ残さず眠り始めている
背凭れに僅かの光を浴びる日
 
 
  老醜へ向かう未来
 
空気の重みで窒息する
水を飲もうとして溺れる
囁(ささや)きの微細な振動で崩れてゆく
呟(つぶや)いて日が落ちる
囀(さえず)りに囲まれて朝に潜む
空気は吸わなければならない
水は飲まなければならない
囁きも呟きも囀りも
絶えることなく繰り返される
そうして老獪に敷き詰められた塵埃の先に
やがて死にゆくこと抜きには
語れない未来がある
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘と詭弁と芝居ばかりで世渡りをしてきた楽山には、リアルの人生観も、心情も、信仰も、分別もないと思います。知的な蓄えのない楽山が言ってくるのは、受けねらいか、整理のつかない理路の幼稚な単純化か、自己愛からの欲望か、悪意と敵意の詭弁でしかなかったのです。つまり、飾りの嘘だけなのです。
 
 
 
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