ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ヨブ記


   楽山の自己讃美2
 
 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 楽山日記(LD) 2021年02月06日
 
 
楽山が、ヨブを引用するのは、ヨブが正しいのに神に試されたという思い込みがあって、自分もそうだ、自分は正しい、苦難に耐えているぅ、自分は偉いぃ、という自己賛美をしたいためだと思います。執拗に、内村鑑三を、餌食にしている楽山です。楽山は、こういうことを、平気でします。
 
ヨブは、神に試されました。そして、悔い改めました。神以外に寄る辺がない信仰者だからです。楽山は、神に試されたのではなく、だまして快感を得るという自業自得の沼から、おめいているのです。最も神にも人にも憎まれる因業の者です。
 
 
「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十七章の研究
ヨブは「今や罪の故ならずして死せんとしている。友はそれを罪の故と断定して彼を責めている。しかし神は彼の無罪を知り給う。しかり神のみが彼の無罪を知り給う」
 
神の前に無罪の者はいません。ヨブは、自己正当化から、神によって試され、最後には気づいて、塵・灰の中で悔いて、信仰を回復します。
 
 (ヨブ記、旧約聖書)42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ記42:6、旧約聖書)
 
楽山が自己正当化をすることと決定的に違うのは、楽山には微塵も悔いる心が無いということです。ずっと、自己正当化だけなのです。楽山は、神に試されたのではなく、自らの悪意と欺瞞の罪性と因業によって壊れているのです。
 
 
「ヨブは神が罪なき彼を苦めつつある事を認めてこれを怨じながら、今また同一の神に無罪の証明を求めている」
 
楽山は、どうしても、ヨブを罪がないのに苦しめられたと決めつけたいようです。ヨブは、豊かな暮らしのために高慢になっていた可能性があります。また、ヨブ記は、試練が悔い改めによって、信仰の実となるという話なのです。
 
無罪の証明を神に求めるのは、背教でありますが、一方で、ヨブが、神以外に訴える相手がいないという寄る辺のない自らを表すところの、信仰告白でもあるでしょう。信仰者は、神に無罪の証明を求めるのではなく、赦しと癒しと救いを求めるのです。
 
楽山は、無反省・無責任の自己中でありながら、無罪であるかのように高慢で、神に対しても、人に対しても、欺きを表し、反キリストであることを自ら証明しているのです。自己正当化のために、ヨブ記を、無罪なのに神が苦しめると言う楽山は、聖書をも誤読し曲解しています。
 
楽山が、悔い改めることがなく、いわゆる汲むべき情状酌量の余地が、まるでなく、悪と罪と偽善の実績を積んでおきながら、神に対して、ヨブを引き合いに出して、自己正当化するなどは、信仰以前に、まず、人間とは思えないことなのです。
 
 
神は人の罪を裁く。「この時人の側よりして、仲保者を要求する心は当然起らざるを得」ないが、人のために神に対して弁ずることができる者は「神自身」以外には存在せず、したがって「同一の神が我を責めかつわがために弁護す」ることになる。
 
楽山が、妄想的自己中の反キリストであるのは、ヨブという聖書の人物を引き合いに出して、無罪だと自己正当化するような、罪人の自覚が全く見られない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
(ネットより)
仲保者
〘名〙 神と人との間の宥和(ゆうわ)媒介をする人。イエス‐キリストをいう。
 
神が、神をなだめるような理屈に、楽山は、賛同しているのでしょうか。実に、神を対象にして、ぬけぬけと保身の正当化を図る冒涜者らしい話です。楽山は、自分が神だから、自ら仲保者となって、自らを救うと言っているのでしょうか。笑止です。
 
だとすれば、楽山の仲保者は、キリストでもなく、神でもないこと、即ち、救われる理由など全くないことを、楽山自身が語っていることになります。楽山の自尊過大が招いているところの、宗教的に重篤な病態が、ここに表れています。自己満悦のための聖書の悪用は、神も最も嫌うところでしょう。
 
 
「まことに人は神と争いて苦むとき、我を苦しむる神の所に往くほかに逃げ場所はないのである」
 
こういうことは、どうしようもなく苦しい時に、なぜ?と神に問いながら、救いと癒しを祈りながら、やはり、神のみに寄って依ってゆく信仰者の態度なのです。信仰者には、他にないからです。信仰の「し」の字も知らない楽山は、詭弁で邪魔をしたいだけです。
 
楽山は、神が苦しめ、神が救うというパラドックスに興味でもあるのでしょうか。神は、人に試練を与えることで成長を促しますが、その試練を完全に無視して、文句だけを言っているのが、楽山です。無反省・無責任で悔いる心の無い楽山が、試練の自覚もなく、救いも拒んでいるだけなのです。
 
 
「イエスを称して最大の無神論者という人がある」。最期に「わが神わが神何ぞ我を棄て給うや」という嘆きを残しているからである。しかしこれによって「多くの患難悲痛にある人々が彼によって救わるるのである」「そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者である」
 
無神論=有神論みたいな逆説的な書き方に、楽山のような、不思議・超常・ホラー大好き人間は、魅力を覚えるのでしょうか。罪ある人が、罪を認めて、信仰の義を与えられるということに気づかず、神に不満だけをぶつけている楽山は、足らざる者らしく、ヨブ記の字面と言葉遊びしているだけです。
 
ここでの無神論は、神はいないと、楽山などが言うのとは、全く違います。楽山が信仰を理解できないことが表れています。神を信じているからこそ、神に、なぜ?と問わずにいられないことを、理解できない災いが楽山です。ヨブではなく、書くことで、楽山が、神の敵、救いの敵となっています。
 
神亡きがごとき地上に救いを求めるヨブの信仰であり、それを悔い改めに導いて生かす神の話なのです。安い辻褄で、神がいるなら悲劇が起こるのはおかしい、などという傲慢で安易な見なしを学者気取りで言ってくる楽山には理解できないことです。
 
反キリストの楽山は、それらしく、自分が何をしているか、まるで分かっていません。ここまで、悪意で、神と信仰を汚して、何が得られるというのでしょう。楽山が手にするのは、誰も近づいてはいけない異常人格の自己満足だけであり、楽山は、自らの鼻をほじって笑っているだけなのです。
 
ヨブ記は、罪のないヨブが試される話ではなく、人間の罪と信仰の話であり、また、ヨブが富を回復するのが救いではなく、ヨブが悔い改めて信仰を新たにすることが救いなのです。楽山は、神と取引でもするような高慢な立ち位置が目立ち、恐れも共感もないことが、ここでも表れているのです。
 
 
「さりながら義しき者はその道を堅く保ち、手の潔浄きものはますます力を得るなり」(第九節)に注意。
「罪のためならずして大災禍に逢える彼が、その大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである。ヨブの偉大よ! またヨブ記著者の偉大よ!」
 
 (ヨブ記、口語訳)17:9
それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、
潔い手をもつ者はますます力を得る。
 (ヨブ17:9、旧約聖書)
 
まだ自己正当化を続けるヨブの発言です。ヨブは、正義を貫いたのではありません。正義は、神のものです。人が自らを正義と思い込むようになるから、神に文句を言おうとするのです。そういう罪は、人間一般の罪であります。ヨブは、最後に、神によって、悔い改めたのです。
 
楽山は、悪と罪と偽善を貫いています。悔い改めることもないのでしょう。楽山は、反省もせず、悔いることもなく、文句ばかり言って、自己正当化だけをしているために、ますます神にも人にも憎まれる途上であります。
 
楽山は、どんどん、人格障害からの悪意が表れ、サイコパスらしくなってきました。引用にも、引用した者の意図は表れてくるのです。楽山は、他者を書いたつもりで、寒くなるような自らの悪意を漏らし続けるのです。無神教と背教の宣伝者、楽山に、誰も関わらないことだけを願ってやみません。
 
 
「神は最後まで義の味方であって悪の敵である。われらの求むべきは義に歩むの生涯である。自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば、我らはすなわち大磐石の上に立って安らかなのである」
 
人が、"義" と言うとき、その義が、その人の判断に過ぎないことを弁えるべきです。「義に歩むの生涯」「自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟」「大磐石の上に立って安らか」などは、楽山は好むのでしょうが、私は、豪語が過ぎて、食傷気味であります。
 
悲劇と艱難の前にある人に、正義に歩め、などと言うのは、乱暴であります。ただ、なぜ?・・と、神に祈ることで、忍耐し、待ち望む信仰者たるを得るのが精いっぱいでしょう。
 
豪語は、偽牧師のシャロームや、ペテン師の楽山のような、利得だけを考えるような、心の深みのない偽善者の好むところです。信仰者は、ただ、正直に祈るべきであります。
 
 
「さわれ失望中に一閃の希望ありて、ヨブ記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである。一閃また一閃、遂に暗黒悉く去って光明全視界を蔽う処まで至るがヨブ記の経過である」
 
「一閃の希望」ではなく、神の絶対と、人の不完全を対照させて、ヨブや友人という信仰者に、また私たちに、ありがちな浅はかな見なしや自己正当化によって、人の偽善と罪を浮き彫りにするところに、ヨブ記の意義があるのです。「光明全視界」は、大袈裟だと思います。それは、神のものです。
 
 
この講演を読むと、夜明け前が一番暗いだとか、闇の底に光があるということがよく分かる。
 
楽山は、何も分かっていないと思います。闇の底に光、などと讃美しても無駄なのです。わざとらしい芝居、吐き気がします。楽山は、嘘を吐き、詭弁を弄して、闇に棲み、光を無視し、楽山の言う丁寧語のごまかし言葉では、スルーして、逃げまくっているだけです。
 
闇の底というのは、闇を経験し悔い改めて神を知るという意味なら分かりますが、闇をずっと行って掘り下げれば光が見えるという意味ではありません。楽山の世界には、いかにも気安い嘘が闇を覆い尽くして、光をさえぎっているだけです。
 
 
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という西郷隆盛の名言も思い出される。人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切であるし、尊い。
 
楽山は、天を相手にしたいのでしょうか、神と向き合うのでしょうか。たちまちのうちに燃え尽きて消滅するでしょう。天、そして、神とは、そのような存在です。安い豪語など通用しないのです。「尊い」などと、愚かな。楽山の嘘っぱちの本性が丸出しになってきました。
 
西郷の言であるなら、それは、大きな視野と立場を持つことを言っているのだろうと思います。それを「人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切である」などと、実にバレバレな嘘の豪語に短絡して、他者無視の楽山自身の正当化を図っています。低級です。
 
楽山の人格の低格化と荒廃が、さらに進んだと見るべきでしょう。まさに、サイコパス全開か、と同時に、楽山の底も見え見えになってきます。楽山は、生まれて育って、今まで、一度も、真実を語ったことがないような気がします。
 
 
ああそうだ。論語には「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり」という言葉もあったのだった。
友に理解されないことを嘆き、苦しむヨブをみていると、ヨブ記にはこういうテーマも含まれていそうだ。
 
「ああそうだ」が、白々しい、大根役者の三文芝居、そして、様々な魂胆を抱えている楽山です。楽山は、人が自分を知らないことを、人に理解されない自分の天才ゆえ、とでも思っているのでしょうか。背筋が寒くなります。
 
他者の言葉を歪曲して「ああそうだ」と悟ったかのように、自らを高めようとするとは見苦しい限りです。楽山は、知られるべき実績ゼロの病質者です。楽山が、罵倒されることはあっても、誰にも理解されることはないと思います。それが、楽山の因業です。
 
また、楽山は、人を見下しているので、人を知らないことを憂えてなどいません。こういうことが、3年にわたって続いているのです。楽山の厚顔無恥は、悪化して、楽山を、ますます見苦しくしてゆくだけなのです。楽山には、しんみりとした悲しみの情がないと思います。
 
楽山の、中立・中庸芝居も、言い方が変わってきて、そろそろ限界のようです。右翼の、しかも、変質者の楽山が、崩壊しながら、牙を剥いてくるでしょう。児戯に等しい詭弁ですが、自己愛による訂正不能の性質を持っているので、とても危険です。
 
今回も、気持ち悪い楽山の文章でした。終わりなき欺きのようです。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。どうか、人格破壊の楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください、近づかないでください。祈っています。
 
 
 ※
 
真善美について、人は、努力することしか出来ません。その結晶が、作品となり、人生となるのです。真善美の完全な結実は、いつも、すべて、神に任されています。人は、できることをして、悲しくてたまらないときは悲しみを、神に、正直に捧げることが信仰であり祈りであります。
 
 
自己賛美の澱(おり)

自己賛美の澱(おり)
 
 
(2021年02月07日)
(2022年02月08日、再録+加筆)
 
 
 
  覚えてしまった
 
空腹を覚える前に
食べることを覚えてしまった
夜の澱粉質の中を
重く泳いでいる
目指す島は
秘密の酵母に託されていて
見つからない
放蕩の鍵
泥酔の臓腑どもは
消化しきれず
騒いでいる細菌どもが
恐れている荒野は
無機質の誕生の前に
渇くことを覚えてしまった
 
 
  新しく古く
 
新しいことが鮮やかだとは限らない
陰で傷むこと
人知れず壊れること
死ぬことであるかもしれない
しかし新しいことに変わりはない
古さに戻ることはないのだ
古いことが温められているとは限らない
並んで咲く花壇もなく
捨て去るための焼き場もなくて
行方知れずだったり
行方をたずねるすべもないまま
たとえどんなに変わり果てても
虚名と無名の湖の底に
しかし時折今の水面に唐突に波を立て
驚くときすでに沈みゆく
もはや手の届かない
深い深い澱(おり)の中に
せめて驚く前に目を留められたら
次々に古くなってゆく
新しさに沈められる前に
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
「私とトラブルになった人のヤバイ個人情報集まるのよねー。」
これは情報収集能力を誇ってるのかもしれんけど、見方によっては、「私たちは、本人の許可無く、個人情報を横流ししてます!」という自爆になってるね。
 
誰と誰のトラブルかはさておき、批判には本人の許可は要りません。自爆ではありません。迷惑で有害で病識のない楽山に対しては、トラブルの情報を限りなくドンドン書き込んでほしいと思います。詭弁屋で嘘吐きの楽山は、言論の世界にいてはならない人です。
 
★こも/楽山日記3
ちなみに、かつてのブログ村騒動で、もっとも驚いたことの一つが、こういうことに罪悪感を感じてないらしい信者たちが散見されたことでした 顔文字(しかめっつら)
 
楽山は、何を驚いているのでしょう。楽山こそは、無反省、無責任、無神経で、高等感情がなく、罪悪感を少しも感じていない人です。こういう人こそ、決して許してはいけないと思います。精神病質、人格障害、精神の詐欺師、異常人格のペテン師なのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の「そんな風」は、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、単方向に気に入らないものを罵倒し、それを丁寧語で、インテリであるかのように、まじめに言っているかのように、見せかけるペテン師の生業(なりわい)に過ぎません。楽山特有の悪と偽善です。だまして悦に入る時が過ぎ去ることを祈ります。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をコピー・リンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の大好物2
 
   『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著
   2021年01月09日 楽山日記(LD)
       を改めて批判。
 
 
(ネットより)
『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。
 
楽山は、キリスト教の功労者と言われている神学者・伝道者を引用していますが、楽山が書いていることは、キリスト信仰に沿うものではありません。キリスト教も一枚岩ではない、というところを、楽山は、大好物のように、しゃぶりまくっています。そういう侮辱が、良心を持たない楽山の生き甲斐なのです。
 
 
*良書
ヨブ記のことを知りたいと思い本書を読んでみた。文章は分かり易く、時折、余談としてヨブ記に関連した興味深い話が紹介されているところが有り難い。おかげで初学者の自分でも、最後まで退屈することなく楽しく読めた。
 
ヨブ記は、痛々しい内容ですし、信仰と試練と救いを深く考えさせられるのですが、楽山は、趣味であるかのように、「楽しく読めた」と書いています。楽しく読めるテーマでしょうか。楽山が、いかに、宗教と、聖書を、軽く見なしているか、そして、いかに、悲劇に共感できないかが、表れている記事です。
 
そもそも、分かる・理解するということの深みが、楽山に見られたことはありません。そういう内容の文章を書けたことがないのです。キリスト教については、さらに、幼稚な超常の先入観と偏見と詭弁による攻撃が明らかになっています。
 
したがって、今回も、楽山にとって興味深いのは、ストーリーを表面的になぞって、分かったつもりで自慢し、批判したつもりで、否定のイメージを刷り込むことに他なりません。読書は、そのためのネタ探し以上ではありません。
 
初学者の姿勢とは全然かけ離れた高慢によって、楽山は、キリスト教と神を、見下してきました。初めてだろうが、熟練だろうが、楽山のように無反省・無責任の態度を改めないでは、荒らしに過ぎず、決して学ぶ者にはなれないのです。
 
 
「あとがき」によると、本書はNHKの古典講座という番組のために語ったものに筆を加えたものだそうで、平易で読みやすい文章になっているのはこのためかもしれぬ。
次に本書のなかで、特に印象に残った箇所についてメモしておきたい。
 
楽山は、平易だからではなく、安易に受け取って読みやすいなどと言っているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。聖書の深みに、無反省・無責任のまま、到達することはありません。楽山のような心の無い者に、聖書から与えられる良きものはないのです。
 
 
*サタン
まず一つ目は、三人の友人たちとサタンとの関わりについてである。
サタンはこの敗北以後再びその姿をヨブ記の中に現わさない。三章以下のヨブの友人との論争においても、四二章後半の物語においてもその顔をのぞかせていない。これはサタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.36)
 」
前の記事で、三人の友人たちとサタンとの関わりについて、wikiの記述をひきつつ書いたのだが、本書では「サタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう」とさらに踏み込んだ解釈がされているのには驚いた。
 
引用元著者は、サタンが友人に姿を変えていると言いますが、悪魔と、人と、神の区別が、あっさり、つくものでしょうか。安易な短絡です。サタンの仕業にして、私たち人間に、何が得られるというのでしょう。教理的に語ればよいというものではなく、人間のテーマとして考えるべきです。
 
「サタンが友人にその姿を変えている」・・このことを、ホラーのように捉えている楽山です。状況によってはサタンのようになりうるのが人間です。楽山は何も分からないのです。私たちが学ぶべきは、私たちが陰気な悪意と攻撃性詭弁の偽善者になれるということです。楽山の有り様が典型です。
 
楽山にとっては、ヨブの友人が悪魔だということにしたほうが面白いのでしょう。この友人は、私たちなのです。そして、ヨブも、私たちなのです。そうでなければ、読む意味がありません。楽山は、ヨブを誘惑する悪魔性の典型として、信仰を攻撃する悪魔性の典型として、猿真似の記事を書いています。
 
何でも他人事として眺めて批評家気取りで独り言を公開して、一歩も踏み込むことのできない無反省・無責任の楽山が、ヨブ記を読んでも、無理解が表れるだけです。楽山は、キリスト信仰に対して、初心者を怠惰な反キリストへと誘(いざな)う悪意でしかありません。
 
 
ヨブの信仰は度重なる艱難にも揺らぐことはなく、
 
ヨブは、甚だ揺らいでいます。ゆえに、自己正当化に走りました。楽山は、いったい、何を読んでいるのでしょう。また、言葉面だけ、都合のよいところを拾っているだけのようです。やさしさや丁寧に見せかけて、ネガティブな印象を吹き込んでゆく企みに乗らないでください。
 
サタンは敗北して姿を見せなくなるが、その後はヨブの友人の姿をして再登場し、ヨブを誘惑しているのではないかというのだ。
 
こういう筋書きのほうが、楽山のような超常ホラー好きの半端者には、面白いのでしょう。本も、聖書も、読めば、至るところで、短絡して決めつけてきたのです。そして、それを、そのまま、考えもせずに、評価として書いてくる厚顔であります。自分で聖書を読めていないから、他者の言に頼るのです。
 
 
サタンともなれば立派な説教をし、真理を語ることができるので、
 
サタンは、悪意しかないので、立派な説教など出来ません。ましてや、真理を語ることなど論外です。ゆえに、楽山は、サタンと同じように、真理や幸福に見せかけて、だますだけです。楽山は、何を言っているのでしょう。楽山は、サタンが、大好きなのでしょうか。よく似ています。
 
傍目には正しい人のように見えて、そう簡単にはサタンだと見破れなくなるともいうが、これもその一例であるといえそうだ。
 
その悪質な典型が楽山です。サタンの餌食になるのは、楽山と、楽山にだまされた者たちです。注意してください。楽山も「簡単にはサタンだと見破れなくなる」存在です。そして、「立派な説教をし」ているつもりで、「真理を語ることができる」つもりなのです。実際は、良いことを何も語れない楽山です。
 
 
また本書では、ヨブに神を呪って死ぬことをすすめた妻についても次の指摘している。
ヨブとその一家が今までたびたび述べてきたような大きな不幸に出会い、そのいわば巻き添えを食った妻の言葉としては至極もっともなことである。このような彼女の言い分は妻の仮面を被ぶったサタンの言葉と称してもよい。そればかりでなく後に登場する三人の友人のいうところもまた突き詰めればヨブに対するサタンの誘いの言葉だと見ることができよう。
(同上、p.34)
 」
こういう見方は、ヨブの妻や三人の友人たちには酷なものではあるが、ヨブ記の設定からすれば一理ある見方ではあるだろう。
 
どうも引用元の学者は、悪いことを、皆、サタンが憑りついたせいにしているようです。無理な護教に思えます。私たちは、悪意を、人間の性質の一部として持っているのです。ゆえに、原罪と言うのです。そこで、悔い改めるかどうかで、悪と、信仰が、分かれるということです。
 
人間は、しばしば、夢中になって議論しているとき、真実の追求という姿勢から、勝ちを得ることに没入してしまうことがあります。その時、人間に見られるのは、希望ではなく情熱でもなく、怒気であります。これを常時持っているのが、悪魔なのです。
 
やはり、楽山が引用するだけあって、引用には、まるで、何でも悪者と見たら悪魔にしてしまうような、楽山と似たような短絡があります。このように、自分で善悪を超常の存在まで決めつける人は、楽山のように、自分を見ることができなくなる恐れがあるので、要注意です。
 
もう一度言いますが、何でも、悪い人をサタンにしてゆくのは不適切です。何故なら、私たちも、当然、著者も、サタンと似たような、悪意の人になりうる罪性を持っているからです。サタンは、悪しき誘惑の源として機能するのでしょう。そこに、どっぷり浸(つ)かっているのが、楽山であります。
 
完璧な善悪の裁きは、神の専権であります。信仰者は、判断して行動し、反省して正直に祈ります。その姿勢を失ったら、楽山のような無反省・無責任・無節操・無理解・無知と無恥の者になるだけです。楽山の、その有り様は、もはや、惨劇であります。
 
 
*エレミヤ
二つ目は、エレミヤについてである。
本書では、エレミヤとヨブの共通項を繰り返し指摘しているが、たとえば、エレミヤ書、ヨブ記のうちで、本書で論じられている部分を貼ってみるとこうなる。
正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い
裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え
欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
(エレミヤ12-1)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
私は黙していられない。
(エレミヤ4-19)
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
(ヨブ13-3)
 」
この部分は通して読んでも違和感がないし、両者に共通するものがあるという指摘はもっともである。
それにしても聖書を読むと、人は神に対して頭を垂れて従うだけでなく、強く自己主張をする場面があって驚かされることがあるが、それができるヨブも、エレミヤも、とてつもない勇者であるといえるのではあるまいか。
 
楽山は「勇者」などと言っていますが、信用しないでください。楽山は、キリストも聖書も、否定している男です。小馬鹿にする台詞に過ぎません。信仰者は、神に対して正直であり、正直な祈りを心掛けます。その正直さを、全く持たないのが、楽山です。
 
いつもの、神とキリストをおとしめる楽山の常套手段です。楽山は、以前から、悲劇が起こるのは、神がいない証明だと思っている楽山です。神に文句を言い、人が神に評価を下してよいという口実を捏造しています。楽山は、自分が幸福いっぱいに過ごせるのでなければ、神を認めない自己中の病者です。
 
エレミアは、神の言葉を伝える預言者です。ヨブは、勇者ではありません。ヨブは、楽山のような反キリストの悪意ある偽善者ではなく、結局、神の他には寄る辺のない正直な人間です。ヨブ記の最後に、ヨブは、そのことを知るのです。楽山からは、無知と無恥が暴れているだけです。
 
 
*ヨブの強情さ
三つ目は、ヨブは強情であったが、それによって救われたという指摘である。
スイスの著名な神学者カール・バルトは「神に対するヨブの強情さ」ということを語っているということである。彼は友人に対して頑固であるばかりでなく、神に対しても強情である。しかしそのような強情こそ最後に彼を導いて救いに至らしめたものであろう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.101)
 」
 
神に対しても強情であったというより、不当な扱いをされたと思ったら、そのことを正直に、神に言う人なのです。神は応えて、ヨブは叱られました。ヨブを救いに導いたのは、強情ではなく、神であります。楽山は、生まれ育った時点で、人間になり損なった人なので、分からないのです。
 
楽山の詭弁は、学者の言から、楽山の都合のよいところだけを拾って載せてくるところにあり、楽山が賛同するときには、楽山の欲望の狙いによって選択され、ねじ曲げられ、糊塗されて、反信仰を、刷り込んでゆく手段となります。
 
 
自分は、ヨブは自己に正直であり、嘘をつくことはできなかったので、納得できないことは納得できないと言うしかなかった、納得できていないのに納得したふりをして黙ることはできなかった、それだからこそ、求めよ、さらば与えられんという如く、神を見ることができ、救われたと考えているので、これを「強情」とするのにはいささか抵抗はあるのだが、まあ三人の友人たちの側から見たら間違いなくヨブは強情に見えたであろうことは了解できるし、この表現にヨブへの親愛の情、ユーモアも含まれているように感じられるところは好ましく感じる。
 
そう言っている楽山は、稀に見る甚だしい詐欺師的な嘘吐きであり、詭弁屋であります。そのことは、記事の文章に自ずと表れるゆえに、また、自分の言っていることに斬られている楽山です。聖書は、ユーモアではなく信仰の話であります。楽山は、「了解」しているのではなく、曲解しているのです。
 
「ヨブへの親愛の情、ユーモア」ではなく、真剣に言い合っているのです。実に、ピント外れの感想です。何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものを読んでいないと思います。いい加減な軽口で褒めるところにも、楽山の、おふざけで宗教に反応する読み方→生き方が滲み出ているということです。
 
こういう破綻は、出てしまうものなのです。真剣味も、真面目さも、納得も、感動も、芝居でしか表せない楽山の、穴だらけのバケツです。何度も、不可避的に、楽山は、自分で自分を切り刻んで滑ってゆくだけのお笑いになってゆくことでしょう。
 
 
*アダムとエバ
四つ目は、「神の責任」についてである。
アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべきヘビの誘惑に敗れ、そこから彼らの不幸が生れた。ヨブの場合であっても、ヨブを試みることをサタンにゆるしたのは神である。もしこの時神がそれを許さなかったならばヨブはなお幸福な生活を一生続け得たであろう。彼が不幸に陥ったということは彼の責任ではなく、むしろ神の責任である。それにもかかわらず、彼はその不幸のために苦しまねばならなかった。そこにヨブ記が我々に示す大きな問題がある。
(同上、p.167)
 」
 
いつから、この著者は、神の責任を問う立場に立ったのでしょう。神の責任だけを書いて、人の罪と救いにつなげることがないなら、キリスト者の書いたものとは思えません。どうして、幸も不幸も命も死も、神の手の中にある・・というような書き方をしないのでしょう。
 
当然ながら、神は、いちいち、こうだからね、心配しないで・・みたいな不幸の説明はしないのです。人には、苦難の時、不幸の時、死する時が、必ず訪れます。そういう地上に造られたからです。
 
ゆえに、肉体の生も死も超えたところから、クレームだけではない、正直な祈りを待っておられるのです。楽山のようにはならないでください。
 
神が悪いみたいに書いていますが、全て、人間の罪の性質を表すための聖書の話なのです。ヨブに与えられた不幸は、試練であり、むしろ、ヨブ記という地上の話の中で、最後に報われるのは、ヨブが耐え抜いたからであり、ヨブに起こるような不幸が、そして、幸いが、人に対しての警鐘となるのです。
 
結局、楽山の狙いは、神の責任、神の責任、自分の不遇も神の責任と、言い張りたいのです。神の責任と言って、何か解決するのでしょうか。神はいないという自分信仰が救われるでしょうか、否です。ゆえに、楽山は、人をおとしめるだけで、何の救いももたらさない反キリストオンリーになってゆくのです。
 
 
これは神義論に関わる問題なので、ほとんど解決不可能であるように思うけれども、だからこそ考えないではいられないのだからおかしなものである。この問題に興味がない人にとっては、どーでもいいことなのだろうけれども、自分はまだ関心を失ってはいないので、もう少し追いかけてみたいと思う。
 
神義論ではなく、神は与え、また、取りたもう、という神の全能と、人間の弱さと限界についての大きなテーマの、ヨブ記なのです。神義、即ち、神の正しさを、地上で、人が理解することはないでしょう。私たち信仰者は、キリストの共感に捉えられ、共にいたいから、祈り続けています。
 
敵意と悪意ある楽山が、知性も感性もなく、人間としての共感もなく、単純に、神はこんなに残酷だぞ・・という先入観を刷り込もうとしています。実に、良心のない、罪悪感のない、問題の大きさを感じ取れない、ボンヤリ鈍感の楽山らしい引用と記事です。
 
ヨブの悲劇は大きいですが、悲劇というのは誰にでも起こり得るものです。その時、人は、信仰者は、どう考えるかという重要な問題を投げかけています。理解も感受も拙劣な楽山のような者が、いちゃもんの材料にするような軽薄な話ではないのです。楽山は、何の解答もヒントも用意していません。
 
著者は、思い上がった人物なのでしょうか、それとも、楽山の引用の仕方がおかしいのでしょうか、幸福を世俗的基準で決めつけて、さらに、ヨブの不幸が神の責任と言っています。人間の中で、神の責任を問える者などいません。神が試練として与えたということです。
 
人が、神の責任を問う、などということは、神を恐れない者の発言です。人は、不当だと思う成り行きについて、なぜ、どうして・・と祈る他はないのです。そこに、人の作る辻褄など、全く成り立つ余地はないのです。人が、神と、同格に、責任問題を語れるという傲慢の所業であります。
 
聖職者であろうと、神学者であろうと、功労者であろうと、全面的に信頼して鵜呑みにしてはいけないという例になるでしょう。神の責任を問いながら、併せるべき神の愛を説いていません。楽山が、都合のよい一部だけを引用しているのかもしれません。楽山が、よくやることです。
 
著者は、楽山に飛びつかれ、気に入られて、吸い尽くされそうな人物です。しかし、護教主義でもない私には、この神学者を弁護する義務はありません。悲劇からのサディズムもマゾヒズムも、人間には、いつ起こっても不思議はないだろうが、欠片ほどの信仰が残るかどうかという話です。
 
ヨブ記は、神と人の関係のうち、神の全能の権威が、試練と救いによって、人に及ぶことを表している話です。楽山は、自らの罪悪について考えず反省もせず、いつまでも聖書を理解できない反キリストだから、他者を悪用してでも、けなすだけでしょうが、信仰者は、深く理解するべきところです。
 
記事全体としては、楽山というサタンのような者が近くにいて、追従と誘惑によって、道を外れる犠牲者がいるのではないか、ということを強く暗示しています。神義論に関わることではなく、どこまでも、楽山という悪意の者の謀(はかりごと)を暗示するだけの記事を、楽山が書いているわけです。。
 
楽山は、学者までも、真実追求ではなく、自我の欲望に従って、都合のよいところだけを漁って拾って、使いまくります。楽山の底知れない闇が、また犠牲者を求めています。楽山には、決して関わらないでください、近づかないでください。お願いします。
 
 
悲劇と信仰

悲劇と信仰
 
 
(2022年01月14日、再録+)
 
 
 
  偶像
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
 
むかし通って
洗礼を受けたのは
プロテスタントの教会だから
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛るイメージの戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
 
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
信仰者に対する無神論者の批判は「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない。単に、「自分の主張が真であると主張したいのなら客観的根拠を提出しなさい。それができないのなら、根拠の無いものを真実であると語るべきでない」と言っているにすぎない。基本的なモラルの問題なのだ
 
客観的根拠を示す必要はありません。こういう考え方は、まるで楽山のように、とても幼稚です。神は、人にとって、論や証明の対象にはなりません。信仰は、神と、神を必要とする個人との関係です。神を客観的に見るには、神以上の次元が必要ですが、それを持っている人間はいないからです。
 
無神論などと言って論になる学問は、正当には存在しません。神を信じるに至る体験もない非信仰者や背教者に、とやかく言えることではありません。神は、人の論では語れません。インテリぶりたいがための屁理屈を集めたものを無神論と呼んで、気晴らししたいようです。
 
神の問題は、決して、「基本的なモラルの問題」ではありません。そう見せかけて、客観的根拠があるはず、答えるのが当然、答えられないなら、神はいない、と誘導するための詭弁です。そういう、負担を軽くするようなことを言って、後から怖いことにしてゆくのは、勝ちを欲しがる偽善者の手段です。
 
神が存在する客観的根拠は、人の側にはありません。希望に対する感受性のない無神論者は、引っ掛け論法として、この疑問を、いつまでも、ぶつけてくるでしょう。しかし、神がいないという客観的根拠もないということです。
 
サイコパスが跋扈(ばっこ)するような地上を生きるために神を必要とする人には、証明も根拠も要らないのです。にもかかわらず、根拠、根拠と問うてくるのは、無神論者には、神もなく、正義もなく、訪れる自らの不幸の憂さ晴らしをしたいのでしょう。信仰者が、その標的になっているだけです。
 
思うとおりにならないと怒り出したり、恨みを募らせるのは、サイコパスの特徴です。しんみりと反省するような悲しみの高等感情がないからです。サイコパスに理路はありません。嘘と詭弁と誘導だけです。楽山がその例となっています。楽山は、無神論者が同類だと感じるのでしょう。
 
神の存在の証拠は、史実によっても、論理によっても、証明できません。信じた人の心の変化に表れることです。絶望から希望へ、死から命へ、無思考から思考へ、闇から光へ、氷結から温もりへ・・この変化は、楽山などの無神論執着者には、起こらなかったし、これからも起こらないのでしょう。
 
楽山などの無神論者は、無神教徒と呼ぶべきかもしれません。高ぶって、根拠、根拠と、同じことを言ってきます。カルトの豪語に似ています。証明できないから、平気で言って、追いつめたつもりなのでしょう。神は論になりません。ということは、無神論も論理にはならないのです。
 
「「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない」「客観的根拠を提出しなさい」に、決して乗ってはいけません。無神教徒は、根拠と史実の証明しか考えられないのです。それで、神の存在を示せるでしょうか、否です。
 
論理的に、または、史実において、神は存在する根拠はこれだ、などという説明で、神を信じることはないのです。全くプロセスが違います。無神教徒は、心で受け取ることができないので、信仰を感じずに、決まり文句のように、神はいない、いるなら根拠を示せと、意味もなく問い続けるのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても誤っても何も気にしない楽山です。嘘で欺き詭弁で保身しデタラメを刷り込んできます。償いも反省もせず、人間性を、ネチネチと否定し続ける楽山です。それを誰にでもあることのように「人間の性」で済ませようとするに至っては、もはや、サディストの人でなしとしか言いようがないのです。
 
サイコパス、自己愛性または反社会性人格障害、精神病質と呼ばれる異常人格は、好都合に笑い、不都合に怒る、という単純な原始反応で生きています。悲哀への共感がなく、反省せず、責任を負わず、人の言うことを無視し、悲しむことがなく、悔いることがなく、ゆえに、犯罪に結びつきやすいのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の聖書曲解2
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっている、読んでいる自分を誇るためでしかないのです。
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
ヨブは、神に近づいてはいません。背きそうな心情を、神に向かって、訴えているのです。
 
例えば、自分は、神にとって、何なのか、監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ、赦してくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをするしかありません。楽山は、神を知らず、信仰を知らないので、いい加減なことを言って、反信仰を表しているだけです。
 
楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、楽山が部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも知らず、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもないなら、黙っておればよいものを、分かったふうに、キリスト教にちょっかいだけを出してくる楽山という悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。
 
楽山の言は、悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分をも、見ようとしてはいません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
ビルダデは、パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。正しいことをすれば栄える・・これは結果として表れることでありますが、正しい人など、一人もいないのです。
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
誰にとっても、この聖句は、理想であり、あるいは、神の愛を表しているのであって、全部否定形にすれば人の現実となります。ゆえに、相当な戒めの言葉になるでしょう。ここを読んで、いい気持になるだけでは、読んだことにならないと思います。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、自分以外、何も信じていません。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、愛の賛歌と呼ばれるコリント13章を挙げるのは、笑止であり、愛の対極にいる典型が、学習も反省もしない楽山であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパス、凶暴で執拗な反キリストです。上に書いたように、愛の賛歌の言葉を、すべて否定形にしたところに、楽山がいます。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、ここでだけ無視して、聖書について厚かましく書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。楽山は、罠をかける悪魔の性質に酷似してきます。
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、この記事のように、あたかも、神の側にいるかのような記事を書くことで、本心ではなく、嘘を吐いており、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人ですから、キリストからも決して赦されることのない偽善者です。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけの自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、真っ向からのキリストとキリスト者の敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。楽山の今までの履歴が、楽山が反キリストであることを示し、この楽山の言を否定しています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っていると思います。
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語れば、そのような教条の上辺だけになってしまうのです。中身のない評論家気取りに過ぎません。
 
楽山の、神義論(弁神論)の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家がでっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
今回も、反省もなく、自粛もせず、キリスト教と聖書を知っているかのような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していており、偽善者に相当する楽山です。
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
楽山は、人を誘導し巻き込みますから、そこは、蜘蛛の巣のような、罠に満たされます。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。嘘を吐くことへの罪悪感のない証拠です。
 
楽山は、精神の詐欺師であること以外に、何を伝えたつもりでいるのでしょう。ここまで白々しい者に掛ける言葉は、どこからも、あっちに行け!・・以外には、ありません。
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」、ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そして、今も、侮って裁いていることが、このペテンの敬虔芝居に表れています。
 
そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきたのです。そして、また、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。そのようにして、楽山は、自らを、高みへ高みへと上げるつもりで、実は、闇へ闇へと転げ落ちてゆくのです。
 
楽山が、聖書とキリスト教の記事を書けば書くほど、だまされる人は増えるかもしれません。しかし、楽山が、神とキリスト教に対して、無反省に暴言を放っておきながら、あとになって「反省」と書き、ほめ言葉を書いて、まるで、物質のように中和できると思うのは、愚かな企みであります。
 
中和も平和もなく、逆に、偽りに偽りを重ねることで、楽山の性根の腐れ具合が尋常ではないという証拠になってゆくのです。いずれ、ひきつった笑い顔で、鏡を見ることになるでしょう。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、子供だましのレベルです。
 
楽山を批判している理由は、内村鑑三のような有名人の本を引用して、字面だけ読んでも、心の無い者にキリスト教を語ることは出来ないのに、無理解と自己愛と自己顕示欲で語れば、さらに、嘘を吐き、偽りを広めることになるからです。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、勝手すぎて、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰はあるとしか言いようがないでしょう。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に、あっさり賛同しました。何も理解していない証拠です。さらに、何も考えていない証拠でもあります。
 
このことは、楽山が、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となるだけでなく、無反省に反信仰を語り続けるケダモノでもあるということです。反省して、正直な祈りによって、悔い改めるのが、信仰であり、悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得しようなどという意図は既にありません。楽山は、シャロームと、恐らく、同一か、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、元々する気のない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、楽山は、また、理解を装って書いてきます。恐らく、理解を示したうえで、否定したいからでしょう。
 
この自己顕示欲の醜い有り様こそが、楽山の、おぞましい正体であり、実際には、宗教と信仰への根深い怨念による悪意が、逆に、表れている結果となっているのです。
 
楽山は、情感も共感も理路も反省も、人生の学習を怠ってきたゆえに、宗教・信仰・思想が不可能になっている自身について、考えもせずに、悔いもせずに、白々しくあたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いてきます。
 
それで、何か言えることがあると考え、何とかなると思っていることが、何よりも、現実におけるホラーの異常性となって表れているのです。
 
 
不遜な無理解

不遜な無理解
 
 
(2020年08月01日、同日一部修正)
(2021年08月18日、再録+)
 
 
 
悪魔については、自分に当てはめて考える必要があります。超常の化け物としてより、怖い悪魔が、人の心には、棲んでいるのです。それに気づきもせず、笑っているのが、楽山であります。
 
楽山は、今のところ、3つのブログと、3つのHNでツイッターを書いています。これから、また、さらに別のキャラに成りすましてくることが予想されます。誰も近づいてはいけないと思います。
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているもの
と考えてみる必要が常にあるだろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
 
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
 
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
 
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
 
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
(90年代か)
 
 
 
前に載せましたが
2019年07月26日 22:53
楽山に送られたコメント
 
「 
隆くんへ 
・・・
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
・・・
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 」
 
これに対して楽山は、
「これも一種の、人間の性なんでしょうかね。」
と書いて、人間一般の話にすり替えています。
どうしようもない人です。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターですが
 ( 楽山から raku、隆から taka )
 
taka
@taka84156681
·2時間
物申す系YouTuberで誰かを追い込んで自殺させた例はまだいないとされる(シバターにはあるらしいが自殺とは断定されていない)
ただ今の時代は誰かを吊し上げて正義という名の集団リンチをなにかと目にするので将来的にそうなる可能性は十二分にある、そうなるとその物申す系は人を死なせたレッテルが
午前1:47 · 2021年8月17日·Twitter for Android
 
楽山は、悪事を好きなように続けさせないと自殺するぞ・・とでも言いたいのでしょうか。被害者のつもりなのでしょうか。通らないものは、通らないと言い続けるほかはないのです。誰も近づかないようにと批判しています。放置すれば、人生を破壊されてしまう人が出てくるからです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害からの害を、自己愛性パーソナリティ障害者だから自覚できないということでしょうか。それとも、また、正義の味方気取りなのでしょうか。悲劇のヒーロー気取りなのでしょうか。加害者が、被害者面して、何を言っているのでしょう。
 
私は、楽山について、2年半の経過から言っています。罪悪感、後悔の念、羞恥心が、楽山にはありません。宗教・信仰など、真実の追求という大きなテーマを書く上で、楽山は、反省する気がなく、責任も負いません。言論の責任を負わない人に、言論の自由はありません。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
·8月15日
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 
このように、人の意見を拾って他の宗教を笑うのが、楽山の趣味です。こういう人には、宗教心も信仰もありませんし、ありえないと思います。自分を見ることが出来ない人なのです。だから、自分の問題に気づくこともないし、そういう人は、宗教とも信仰とも、真逆の人生になります。
 
つまり、信仰を持つ人を、自分より劣った人と見なしているということです。こぼれ話で、信仰者の失敗や失言を漁り、それを笑うことに生きがいを感じるのでしょう。楽山を批判して、2年半、そういう態度ばかりでした。
 
信仰者は、人生の問題として、信仰を考えます。楽山は、なんで悩んでいるの?、宗教なんて意味ないでしょ・・とばかり、笑っているのです。信じないなら信じなくていいけど、信じることを笑う人は、人間性に欠陥のある人です。楽山の実在は、そういうモデルとなっているのです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  個人カルトの惨状2
     以前の記事とダブっているところがあります。
     改めて考えてみます。
 
 
聖書の、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活がなくてはならない、と信じている信仰?は、信仰ではないと思います。。いちばん大事なものに触れていないからです。神の意志と行為を決めつけて奇跡で守られると信じ込んでいるのは、シャロームshalom という偽善者と同じ所業です。
 
例えば、総ての人がシャロームの信条を信じたらどうなるかということを考えれば、自己中の妄想症であるシャロームの言説の矛盾と害毒から、明らかになることがあります。これらは、楽山と共通しています。
 
例えば、信仰は人それぞれ、というのは、聞こえはいいですが、信仰は好き勝手にやっていい、という意味で使って、批判を聞き入れないのが、シャロームです。それを黙認すれば、キリスト教を名乗るカルトが、好きなように蔓延るでしょう。ここも、楽山と共通しています。
 
どうなるかというと、偽牧師シャロームの言説は、自己中心ですから、広まれば広まるほど、自己中が増えてきて、人間と人間は、なかなか一致しないものですから、結局、憎み合う経過と結果になるでしょう。閾値を超えて、暴力的な争いを生む必然があるのです。
 
シャロームは、真実の追求が出来ません。何故なら、既に、固定された真理を得ているつもりだからです。教える立場だけを持っていて、そこから、妄想教理を何度も垂れ流してきます。教える立場しか持ち得なくなって、学習と成長が出来なくなるのです。楽山も同じ性質です。
 
シャロームに、いつのまにか刷り込まれてゆけば、シャロームと同じように、丁寧であれば、いい人、ということを真似するようになるでしょう。シャロームのお仲間は、実に、他者のあしらいが似ています。それで、易坊、楽山が、お仲間ですが、同一人物の3者への成りすましを疑っています。
 
楽山と易坊は、自己中の所業を無視してシャロームの味方をするのです。裁判ではないのだから推定無罪が成立するわけではなく、証拠不十分は、どちらが正しいとも言えないはずなのに、シャロームの言い分を是として選ぶことが、既に、中立ではない偏向の証拠です。
 
ネットでは、どちらが正しいとも、はっきりした物的証拠は、見つからないことが多いのです。そういうわけで、カルト、荒らし、成りすまし、など、偽善者が、法的な犯罪に至らずに、活動しやすい環境だということです。
 
いい言葉、よさそうな言葉、といっても、ここでは、よさそうに見せかける言葉ですから、偽善者の言う言葉であり、中身がありません。言動が合ってないような気がするとき、ネットでの、いい行いが伴っていないときには、警戒するべきです。
 
シャロームや楽山など偽善者は、自尊に凝り固まっているので、反省をしません。失敗や失言を認めません。指摘すると、当てつけや嫌がらせを返してきます。そうして、コメントを受け取らなくなり、批判記事は無視してきます。
 
シャロームや楽山などの偽善者は、神が与えた良心、つまり、良きものであるところの、思慮分別、人間的共感性、温もりと潤いという暖かい感性、など、人間らしいものを、病質と妄想教理のために持っていません。
 
聖書の言葉から神の導きを、人は推測しながら判断して進む信仰の道だということを、つまり、一気に悟りに至って固定する境地ではないことを、シャロームは、理解できません。そして、訂正不能の固定観念によって、新しい言葉を得ても、自分の言説に合うように使うため、少しも変わらないのです。
 
ゆえに、正常な人が感じて考えていることを無視して、自分で無理やり捏造するしかなくなり、自然の良心と、作為の捏造の違いとして、奇怪にズレて外れて芝居がかった和みと世辞と豪語に頼るしかなくなっているのです。
 
良心のある正常な人間は、人生に悲しい出来事が起こると、深刻に受け取らざるを得ないときには、悲しいから死ぬか、悲しいけど生きるか、という選択になります。しかし、心に温もりも潤いもない者は、怒り恨んで人のせいにするでしょう。アベルを殺したカインに、それを見ることが出来ます。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (漱石4:5-7、旧約聖書)
 
それらの作為の悪と偽善の醜さは、積み重ねられている途中であり、ますます、むごたらしい惨状を呈してくるでしょう。罪が門口に待ち伏せているからです。カインは、不都合で怒り、他者のせいにしました。カインは、サイコパスの起源のようなモデルなのかもしれません。
 
 
人間が生きるためには、最低限の衣食住が必要ですが、それが何とかなっても、生きられるとは限りません。人間は、物質でもないし、理屈でもないし、統計の数でもないから、何かを宛がわれて、元気になるわけではありません。人間だからです。
 
人間が生きるために必要なのは、絶対孤独ではないことです。それが残っているあいだは生きるほうを選べるでしょう。人間関係がないと感じて、絶対孤独に陥ると、必ず希死念慮は起こってきます。信仰は、人に見離されて、どんなに孤独でも、最後の砦として、キリストがおられることを告げています。
 
私にとって、好ましい人間関係は、私の至らなさで、殆どなくなったのですが、私が、生きてみようと思い、今日一日のパンがあれば今日一日生きる、という気持ちで、生きているのは、信仰者である人間として、キリストとの関係という希望からだと思っています。
 
人間にとって、信仰、すなわち、神聖との関係は、人間の側から分かるのは、あくまでも、人間としての関係です。だから、人間に生きる力を与えうるのです。シャロームと楽山が典型ですが、超常のことばかり言う人を、信頼しないでください。
 
神聖との関係などと思い始めると、聖書の謎解きに走ったり、何ごとがあっても自分に都合の良いように、恵みが与えられるんだとか、気合いで、ありがたがったりするような、信じ込む信仰?になります。それは、信仰ではなく、カルトと同じ信じ方の形式をベースとする間違った偽りです。
 
カルトと同じベースの信仰?は、悟り顔の、わざとらしい薄笑いや、いつのまにか、他人より自分は高いと潜在的に思い込んでしまいます。ゆえに、自尊や有頂天の陶酔になることはあっても、生きる力にならず、いかなる温もりも潤いも、みずみずしい気づきもないのです。
 
何故なら、私たちが、人間だからです。人間としての知性や情感、つまり、弱さや罪深さで反応できることだけが人間を救うのです。偉大な神が味方だからと、豪語ばかりしている人は、いちばん大事なことを、見失っている可能性が高いです。
 
人間の弱さと罪深さに寄り添って同伴してくれるのがキリストであり、正直な罪人を、飾りのない一人の人間として、二千年前に愛してくださった言行録が伝えられているのが聖書であり、キリストの同伴という聖書から得られる信仰の救いのメッセージです。
 
キリスト者(クリスチャン)というのは、キリスト・イエスに、情緒的にも、理性的にも、囚われているがゆえに、その絆(きずな)によって、自らを尊大とは成り得ない罪人として、キリストの同伴と罪の赦しと癒しと導きを願いながら、正直な祈りとともに、生きてゆく人間に他なりません。
 
決して、一気に悟って、揺るがない境地に居るのではなく、折々に反省し悔い改めて告白し、学習し修正し成長して行く生き方がキリスト信仰の生き方であります。揺るがない信仰というのは、固定ではなく、生きてゆくための忍耐力のことです。
 
キリスト者において、キリストの御名によって祈ることこそが、キリストの同伴を信仰することであり、あらゆる現実から見放されても、決して超常魔術のような一方的な理解不能の力頼みに逃げるのではなく、より人間的な温もりと潤いに恵まれて生きるのが、キリスト信仰です。
 
カルト的超常の豪語に惑わされないようにしてください。彼らは、人間でいるのが嫌で嫌でたまらなくて、超常の欲望を自らに当てはめるほうに短絡して、自己満悦しているに過ぎません。彼らは、人間離れと現実離れになりたがって、妄想世界に生きています。
 
だんだん、実際に人間らしさを失って、人を下に見るようになり、能力がないのに、信じ込んでしまったために、自身の過大な確信によって、むしろ、自らの無能と、超常の全能意識の間で、自他を破壊する道を選んでいる者たちであります。どうか近づかないでください。
 
救いのうち、超常現象は、神聖の専権事項です。神に任せるしかないことです。人間が、ああだこうだと辻褄を合わせたり、信じ込んだりできることではありません。信仰の目覚めには、このことに気づくことが必ず含まれると思っています。どうか人間らしい信仰者であり続けてください。
 
 
個人カルトの果て2

個人カルトの果て
 
 
(2019年07月17日)
(2021年08月03日、再録+)
 
 
 (ヨブ記より抜粋)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 ・・・
40:1
主はまたヨブに答えて言われた、
40:2
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
40:5
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ記より抜粋)
 
 
ヨブが、最終的に、神に救われたのは、この聖句のように、おのれを空しくして、そのままの自分を、正直に、神に捧げる態度を示したからです。それまでの実績も、富も、正しさも、善なる行為も、神の前に、意味をなしません。
 
祈りとは、一途に、神の前に、自分の罪と無力を "正直に" 認めることです。
 
神の前には、善悪でも正邪でもなく、"正直" だけが必要です。
 
神の前に "正直" でしかありえない人は、人の前でも、だますような作為の悪や偽善などの罪を犯すことは出来なくなります。信仰が、善悪や正邪と接するのは、この一点においてであり、信条・教理・教条によって固定されるものではありません。
 
人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思ってしたことが、相手を傷つける、ということも起こってきます。人間は、真善美の追求において、即ち、善を心掛け、真実と正しさを追求するときに、このことを承知していることが必要です。
 
つまり、このことは、絶対の神の前において、人間が、たとえ讃美であっても、真善美を豪語できないことの根拠であります。善悪と正邪の判断は、人間にとって、絶対ではなく、完全ではなく、不完全なのです。ゆえに、神の前に通用するのは、"正直さ" だけなのです。
 
キリストが敵としたのは、褒められることだけを悦び、批判されると憎しみをもって殺意をいだくような、正直の代わりに、うわべの善と正義に酔い痴れているような、いわゆる偽善者であります。結局、そのような者たちが、救い主キリスト・イエスを、殺すことになるのです。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる
 taka のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
引用マンガ(省略)のセリフ
「人生を変えようとする人を叩くのは
 人生を変えられない人だからな」
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 
批判してきた約2年余り、楽山は、発信はするが、何も受け取らず、人生を、浪費しているだけです。しかも、発信によって、害を及ぼすだけです。そういう無反省・無責任の人に、人生を良い方向に変えることなど出来ません。被害者意識だけで、ますます、悪性に変質してゆくだけなのです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 

 
  中立芝居2
 
 「第四講 老友エリバズまず語る」2020年06月06日
 (『ヨブ記講演』内村鑑三)
 を改めて批判
 
 
楽山は、キリスト教と神をおとしめ、それを訂正しないまま、今度は、いかにも真面目に努力しているふうを装っています。
 
しかし、今まで書いてきたことを否定せずに、逆方向のことを書くのは、どちらも本気では書いていないことを表します。つまり、自分は中立で何教でも分かっているのですという不変の自尊過大の、虚偽のアピールでしかないのです。だまされてはいけないと思います。
 
人の言うことを受け取って書く、ということが出来ない楽山は、ひたすら聖書や本の中から、自分に都合の良いところを拾って来ては書くのです。唾液を飛ばして、自分を飾っているだけですし、言い逃れをしている見苦しさと同じです。
 
そして、最近の、反省、反省、と言いながら、人の言うことを受け取らずに、書き続ける執拗さにこそ、自己中が、他者を無視して、趣味に合うことだけを漁ってゆく自己崩壊の経過が表れています。反省とは真逆の態度であります。字面だけの反省言葉、真に受けてはいけません。
 
『ヨブ記講演』の第四講を読んだので、忘れぬうちに内容をメモしておきたい。本講の中身は前より一段と濃くなっている。
 
自尊過大のナルシシストに、信仰について、中身が濃いかどうかなど、分かりはしません。見せかけだけの字面読書の一本道は、信仰への侮辱と堕落の片道切符を売りつけることでしかありません。関心がなければ書かなければよいのに、憎しみがあるから、皮肉のように書いてくるのでしょう。
 
・エリパズの言葉は「苦難にある友」への言葉としては「冷酷」である。しかしこれは彼の問題ではなく「当時の神学思想の罪」である。
・「ヨブの苦闘は」「すべての真人の経過する苦闘である」。
 
先ず、エリバズの言葉が冷酷だと言っています。それは、本に書いてある、ということが担保だと言いたげです。エリパズだけでなく、神の意志を、人が代弁することは出来ないということです。大きなテーマとして、ヨブの友人、そして、ヨブ自身の言葉も、今の私たちへの教訓となります。
 
楽山は、その上で、さらに、「神学思想の罪」、「真人の経過する苦闘である」と、引用でしょうか、書いて、ヨブを弁護するように見せかけ、気づかれないように、実際には、楽山自身を弁護しようと言葉を潜ませてゆきます。
 
こういう文脈を、自己中と自己愛で、作ってくるのが、楽山を赦せない根拠になってゆくのです。悪魔性の陰謀が全開と見るべきでしょう。ヨブと私たちにとって、ヨブ記は教訓ですが、神を否定するためにヨブを讃えている楽山こそ、反キリスト・反宗教・反真実であります。
 
・当時の神学思想は「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」というものであるから、悲惨な状況にあるヨブは、何か罪を犯したからそのようになったのだとみなされ、悔い改めを求められる。
 
「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」
・・あまりに一面的です。信仰は、繁栄のためではなく、むしろ、どうしようもない苦難を、神のもとで耐え忍んで生きるためにあります。この取引条件のような言葉は嫌悪されるべきでしょう。
 
楽山にとっては、総ての言葉と存在について、取引、駆け引き、条件法の下卑た筋書きにおいてのみ、正誤を判断するようです。これは、真実を求める心から、かけ離れた無様であります。つまり、楽山には、人間を人間たらしめるところの "心" が欠けているのです。
 
ヨブ記全体を通して、友人はヨブを説得することが出来ず、すなわち、ヨブは、神が顕れるまで、罪を認めずに、自身を不遇を嘆き、自己正当化して、神と議論したいとまで主張を続けます。ここに、ヨブだけでなく、人間の罪の根源が表されている、という重要なヨブ記であります。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、旧約聖書)
 
ヨブ記の話というのは、人の無力と、神の絶対を、ヨブの苦境での自己正当化という罪を通して、伝えているのです。神と、人の、絶対的な違いを弁えるためです。
 
神と論ずるなんてことは、決して出来ません。私たちは、人間として、受け取れることを受け取るだけです。全部、過不足なく受け取るということもありません。だから、生涯にわたって、祈り、告白し、悔い改め、反省し、成長することが必要なのです。
 
信仰者のための聖書の読み方としては、楽山のように、史実や字面にこだわって、短絡するのではなく、大小の文脈において、聖書が何を伝えているかを考えることが大切です。楽山は、自己愛性人格障害のために、文字面を負うだけで結論し、詭弁と誘惑しか出来ない人です。
 
楽山は、人に対して、さらに、神に対しても、一段上に立って批評する、という反信仰の立場から、字面だけの同情心を装い、ヨブを無罪にすることで、聖書をけがし、神をけがし、悔い改めたヨブをけがしています。楽山の反信仰全開です。
 
人格の根腐れというのは、何を言っても書いても、態度と姿勢に、既に、表れてきたし、今回も同じことです。どんなに、謙虚芝居をしても、前にも後にも、無反応の不感不応の自己を執拗に表すことで、自己顕示と誘導のための芝居だと、バレてしまうので、いっさいは、無駄なのです。
 
人に無視されるのが嫌で、執拗に書いてきますが、誰よりも、人を無視してきたのは、楽山その人であります。これからも、恐らく、同じでしょう。おぞましいことです。
 
・4.12-21は幽霊物語であり、「ヨブを諭さんとするための技巧なるか」「かかる演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは、真率において欠くる所ありといわねばならぬ」。
(4.12-16について、『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、関根正雄訳)の注釈では、「神の言葉を受ける時の心理的状況を述べている。預言書にもこのような具体的叙述は見られない」としている)
 
 (ヨブ記、口語訳)
4:12
さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、
わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13
すなわち人の熟睡するころ、
夜の幻によって思い乱れている時、
4:14
恐れがわたしに臨んだので、おののき、
わたしの骨はことごとく震えた。
4:15
時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、
わたしの身の毛はよだった。
4:16
そのものは立ちどまったが、
わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。
わたしは静かな声を聞いた、
4:17
『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18
見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、
その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19
まして、泥の家に住む者、
ちりをその基とする者、
しみのようにつぶされる者。
4:20
彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、
顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21
もしその天幕の綱が
彼らのうちに取り去られるなら、
ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。
 (ヨブ4:12-21、旧約聖書)
 
夢の啓示でしょうか。人は神の前に正しく清くあり得ないこと、そして、人が、いかに、はかなく、弱いものであるか、という、神と人の決定的な違いが書いてあります。
 
楽山は、これを幽霊物語と書いています。楽山が、霊能者気取りで、原始反応的に、恐ろしく幼稚で、安っぽい解釈として、幽霊物語で済ませていますが、これは、何も読み取っておらず、受け取っていない証拠なのです。
 
史実かどうかは知る由もないですが、真実を受け取るなら、中心となるのは、17節です。人は不完全で罪深く、神の前に正しくも清くもあり得ない、ということです。ヨブは、神の前に、自己正当化することで、神を不当だと言っている、という、傲慢を表しています。
 
・5.2-7は「災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である」。
・5.17~以下は「人に挑む艱難を以て罪の結果と見、従ってこれを神よりの懲治と」した。
 
よく分かりませんが、艱難を、逐一、罪の結果と見てしまえば、強迫的となり、試練として受け取って祈り悔い改めに結び付けることは出来ないでしょう。楽山は、まさに、そういう一次元の受け取り方しかできない字面のみの思考であろうと思います。
 
神は、その民を、鍛えるために、艱難によって、試すということですが、実際問題としては、艱難がなぜ降って来るのか、人間は知らされないことが多く、知らないまま、人は、いかなる艱難も、信仰によって耐え忍んでゆく道を学ぶことになるのでしょう。
 
・ヨブ記の物語を現在の教会にあてはめると、ヨブが模範的信者であり、経済的にも社会的にも成功している間は、それは神から祝福されていると解されていても、やがて度重なる不幸にみまわれ零落すると、何か罪を犯したためであろうと推測され、教会の代表者三人…「老牧師エリパズ」「壮年有能の神学者ビルダデ」「少壮有為の実務家ゾパル」がヨブを見舞い、懺悔を勧めるために訪問したという流れになる。
 
このように、キリストも神も聖書も、理解の端緒にすら達していない楽山は、無理解を、自分にではなく、教会に当てはめて、教条主義と決めつけてゆこうという魂胆しか持たず、ゆえに、これからも続くのでしょう。こちらは、楽山という反信仰・反キリストの資料化を進めるだけです。
 
・「罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない」。キリスト、パウロなどがその例である。
・苦難の種類は三つ。一つは「罪の結果」であり、二つ目は「懲治(こらしめ)」「愛の笞(むち)」、三つ目は「信仰を試むるために下る苦難」。ヨブの苦難はこの三つ目にあたる。第一章の天国での場面でそれが分かる。しかしエルパズらは一つ目、二つ目について語るばかりである。
・「人が艱難に会したるときは、その艱難を以てその人を審判くべからずその人格を以って艱難を審判くべし」(ブレンチウス)。
 
このような、人為的な、教条的な、言葉だけの分類をされても、これだけでは、なかなか、よく分かるとはいきませんが、人格によって審判されるならば、楽山のことを言っているかのようです。楽山は、いかなる審判にも耐えられないような暴言を、しかも丁寧語で、言ってきました。
 
信仰者の人格、つまり、人間としての信仰をもって、艱難に耐えて乗り越えるべきであって、人は、神の御心を想うことはあっても、審判する立場ではありません。裁く態度は、キリストを殺した偽善者の言動に表れています。
 
判断する人間の能力において、難しいことではありますが、少なくとも、これはこの罪の報いだというような決めつけをしてはいけない、ということとして受け取っておきましょう。
 
つまり、今に始まったことではないところの、楽山の、不感不応の自己愛の自己中心からの、上から見下ろすように神と人を決めつけてることが、いちばん悪い例に当たるでしょう。
 
不幸な状況にある人について、因果応報、自業自得と決めつけることはありがちなことである。宗教を信じている人が、その教義によって人を裁くというのもそう珍しくはない。恥ずかしながら自分にもそういうところがあるのだから情けない。しかもこれは間違いだと自覚していても同じ事を繰り返してしまう。ここはひたすら反省…。
 
「反省…」と言うなら、書かないことです。書いて、自己顕示していることから、楽山は、またしても、上から人を判断し審判し裁いて、読者を欺こうとしている、ということだけが表れるてきます。ちなみに、楽山は、反省という言葉を書きますが、反省の実が一度も表れたことはありません。
 
 
 2020年06月06日
 『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳
 
楽山の高慢が、いたるところに、表れるようになっています。
 
岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』を読んだ。「ヨブ記」は以前、新共同訳で読んだときは文章が難しすぎて大まかな意味を推測するのがやっとで分かったという気持ちには全然ならなかったのだが、本書は巻末の注釈が充実しているので自分のような基本的な知識に欠ける者でも理解しやすくなっていて有り難い。とはいえ自分にとっては、この注釈も程度が高すぎて難しいのではあるが。
 
楽山は、シャロームと同様、ヨブ記も、聖書も、キリスト教も、キリスト信仰も、神も、キリストも、理解していません。というより、人間としての受け取り方が、まるで出来ていないのです。難しいなどと謙虚芝居をしても、批判を受け取らないまま書いてくるところに、楽山の厚顔が表れています。
 
安楽のお山の大将には、実に、安易に、誰でもなれるのです。他者の意見を無視して、こんなに本を読んだ、難しい、反省、とほほ、と書いて、あざとい芝居をすればよいのですから。ただし、これは、自他の人格の致命的な破壊を伴います。
 
今回「反省」と書いて、「とほほ」とは書いてないようですが、私が無反省と批判したときから、楽山がよく書く文言ではあります。反省するときに、わざとらしい、とほほ・・は、ふつう書かないです。楽山は、反省したことがないから、反省するときの言い方が分からないのでしょう。
 
「反省。とほほ」が、批判されたから書かないけど、相変わらず、反省の文章は、楽山にとって、分からないままです。それで「ひたすら反省」などと、単純に意味を強めていますが、前後の文脈と記事の流れには、何も変化がないのです。
 
気に入らないことを無視しましょう、という、アドラー教の信条を、楽山は前に書いて、実際、人の言うことを聞かず、都合の良いところを漁って本を引用して、読書家気取りを出すところが、まさに、楽山が何を書いても、けちな企みであることが、楽山の筆致を通して明らかになってきたのです。
 
本文全体の感想については、前に読んだ時とは印象が大分変って、ヨブとその友人たちの激しさに圧倒された。前はみな大人しい性格に思ったのだが、今回はヨブの友人たちへの反論や神に向けての言葉の激烈さ、ヨブの友人たちのヨブ批判の無慈悲さには驚かされた。これは多分前は比喩の意味がよく分かっていなかったのが、今回は注釈のおかげでその意味をよりはっきり受け取ることができたためなのだろう。
 
ヨブ記の内容から言って、楽山の「前はみな大人しい性格に思った」という感想は異常です。恐らく、注釈を経ても、楽山が、「その意味をよりはっきり受け取る」ことは出来ないと思います。受け取る器を用意する心が、自己中と自己愛のために、楽山には出来ていないからです。
 
前には、クリスチャン芝居もしたことのある楽山という人は、狼と少年の話のように、嘘を言って、結局、芝居によって嘘偽りを隠そうとしてきます。今回もまた、言いがかりと言い逃れの詭弁と誘導の企みしか出来ないところに、受ける器の病巣が、ますます明らかになるのです。
 
自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋なので聖書のことは聖書を読めば分かるのであって解説書なんて必要ないと考えてしまったりもするのであるが、こうしてみるとやはり解説書はぜひとも必要だと痛感させられる。
 
楽山は、「自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋」・・これが弁明になると思っているのでしょうか。自惚れ屋は、自惚れ屋であるあいだ、信仰など語れませんし、語ってはいけないのです。楽山は、自己愛性のために、たとい解説書を読んでも理解に至ることはないだろうと思います。
 
宗教的に読もうとするする場合は、知識的なことに頼らず、霊感によって読むことが大切なのだろうけれども、
 
また、霊が分かるっぽい自分を出したいのでしょうか。楽山には、今まで、霊感も、一般的なインスピレーション的な直観も、一度も、文章に表れたことはありません。汚水のように漏れてくるのは、自慢と気取りと高慢だけなのです。
 
聖書は、ふつうに人間らしい頭の知性と心の感性で読むべきですが、楽山が「霊感によって読む」などという言葉を使うとき、霊が分かるっぽいという霊能者気取りの自覚の楽山には、気色の悪い邪悪な思い込み~妄想しか生まれてはいないでしょう。楽山は、霊どころか、心が分からない人です。
 
歴史的事実に忠実に現実的に読もうとすれば当たり前のことではあるが専門家による研究を無視する事はできないのだと思う。
 
歴史的事実に忠実に現実的に読むのであっても、霊感は必要ありません。特に宗教においては、人間らしい、冷静な、知性と感性があればよいのです。受け取るべきは、史実ではなく、真実であります。楽山は、いちゃもんをつけたいので、専門家の研究を、人を無視して、やたら、ネタにしています。
 
こういうところで、専門家の研究を無視することはできない、などと、専門家の言うことが分かる自分を出してきて、自身の厚顔を表してしまうような、そして、一般を軽く見るような、楽山は、どんなに選り好みの読書を続けても、宗教と信仰の真実を受け取ることはないでしょう。
 
楽山から発せられる、「忠実」「当たり前」は、とても危険です。楽山が、真実を伝えることはないと思います。どうか、だまされないでください。
 
昔こんな奇跡がありました・・で、人は救われません。
また、史実の否定で、救いを否定することは出来ません。
 
信じれば奇跡が起こります・・で、人は救われません。
また、奇跡の否定で、救いを否定することは出来ません。
 
人間にとって、生き方を支える真実として、救いはもたらされます。
 
聖書は、歴史書ではなく、宗教の聖典であります。したがって、楽山のような者が、表面をペロペロ舐めて、あったなかったなどといって、信仰を受け取らないのは、猫に小判、絵に描いた餅、とでも言うべき体質的信仰不感症の雑言に過ぎません。受け取れないのならば、何も言わないことです。
 
 
人を救うのは史実ではなく真実

人を救うのは史実ではなく真実
 
 
(2020年06月07日)
(2021年06月18日、再録+加筆)
 
 
 
  虹色
 
貝殻の内に眠っていた
シャボンに乗って遊んでいた
オイル溜まりに淀んでいた
油膜の表で歪(ゆが)んでいた
テレビの画面にチラついていた
眼の内外で視線を鈍らせた
お空の虹
渡らせてくれと泣いてみるか
 
 
  無表情
 
筋肉という筋肉が
弛緩してしまったのか
硬直してしまったのか
何も語らず
動かない顔は
架空のように
時間と向き合いながら
刻々の侵入も喪失も
隠してしまった
顔の裏側の曲面に
だからきっと血みどろだ
 
 
(90年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ